~南之一~
十三年前には、おそらくここに死体があったのだろう。
そんな景色の香りが、ふと、したような気がした。
びょう、びょうと、すすき野が啼く。
季節に遅れてやってきた野分の影響か。
行く当てもなく、道なき道の旅をしていた彼が、その少女を見つけた事は本当に偶然だった。
まるで何かから隠れるように、丸裸のまま、ぽつんと膝を抱えて座っていたからだ。
ともすれば彼も、彼女をすすきの中に見落としていたであろう。
憐れな……
そのような感情を抱いた彼は、しかし、自分にはその娘に何もしてやれないことを、風の吹くままな旅をしてきた経験上、嫌と言うほど知っていた。
少女の佇む傍らの地面には、産着と思わしき布が半分以上土に埋もれて、風化し始めている。
おそらく彼女の名前であろう、文字を書いた刺繍が施してあったが、彼には漢字一字分しか読み取ることは出来なかった。
妖怪の仕業か。人身御供にでもされたのだろう。
もし、彼がこの地に行き着いたのが十数年早ければ、物の怪が、彼女のまだ赤ん坊だった肢体を、その内蔵を楽しげにかき回しながらむさぼり食っていた様子を見ることが出来たであろう。
だが、彼女の意識は未だ自分が死んだことを知らず。魂のみがゆっくりとだが成長を続けて、幼女といっても良い位の肉付けを、儚くも朧気な魂に与えていた。
いまの彼女自身に自意識はなく、虚空を見続けているだけのようである。
死んでから年月もたち、おそらくは妖の領域に踏み込みかけている彼女の魂を、彼は只じっと見据えることしかできなかった。
私が人間などであったなら、手を合わせ、経の一つでもあげるのだが……
そう思った彼は同時に、自分の滑稽さにも気がついた。
普通の人間には、この少女の魂を見つけ出すことすら出来ないな……
彼は、青白い肌をした、空虚な目つきをした半透明の少女を見ながら、自分を嗤った。
仏法がこの国にやってきて未だ日が浅く、彼のように帰依に至った妖怪はなおも少ない。
全ての仏門は妖怪の存在そのものを忌避しているからだ。
彼がどんなに信仰深くとも、妖怪である彼自身は無力だった。
胸にむなしさと皮肉を感じながらも、自分の身体で彼女の魂に触れる真似事をした彼は、ふいに、その奇跡を目の当たりにした。
みるみるうちに、彼女の魂が肉体を持ち始め、その血流は脈を打ち始める。
彼は辺りを見回したが、動く物は風と彼以外に、誰もいなかった。
これは一体。
彼はそう思いながらも、自分の不定の肉体で少女を覆った。
秋とは言え、全裸ではせっかく生きている少女も凍え死んでしまうだろう。
彼女の魂が彼の肉体に触れると、心なしか、少女の血色が良くなった気がした。
彼の精気を少女の魂が吸い取ったのだろうか?
どんな偶然か知らぬが。
せっかく拾った命。無駄にはすまい。
彼は未だ肉体を構築している最中の少女を持ち上げ、人の生活している場所を求め、移動を始めた。
~無之一~
彼女の名は、一輪といった。
道なき道をひたすらはしった。
駆けに駆け、そのたびに道を切り開いた。
そのうちに、自然に空を飛ぶことを覚えたのだった。
いつのことだったか、噂を聞いた。
普通は人間だけを救うはずの仏門で、人妖問わず等しく信徒として扱う僧が居るらしいと。
聖白蓮。
そうだ、この尼僧ならば。
私の進むべき道。
衆目を救う力。
そういった、彼女の求めている物を、白蓮が全て持ち合わせているような気が、一輪にはした。
そして。
彼女こそが。
彼女こそが、わたしの。
~三之一~
トン、トントン。トン……
「あいたっ」
小味の良い包丁のリズムが、朝の台所から響いていた。
「ふんふん、ふ~ん」
どこか音程の外れた、だがどこまでもうれしそうな鼻歌を歌いながら、白蓮が大根に刃を入れる。
命蓮寺の台所に入ってきた一輪はうれしい驚きを覚えた。
「あれ、姐さん? おかしいな、さっきまで星が調理してたと思ったのに」
「おはよう、一輪ちゃん。実は、星ちゃんにはナズーリンちゃんを起こしに行ってもらってるのよ。それで私が代わりに調理をね」
白蓮の言葉に、ああそうですか、と頷く。
「それでは、今日は姐さんの朝餉がいただけるわけですね。これは僥倖です」一輪は笑った。
「味噌汁、ちょっと味見してくれない? ずいぶん久しぶりに作ったから自信なくて」
そういって、白蓮は小皿に一口分だけ、合わせ味噌で作った味噌汁をうつし、一輪に差し出した。
「はい。おお、葱の風味が良く出ていますね。塩味も、私はこのくらいが大好きです。ぬえなどは薄いと感じるかもしれませんが」
「そう? 実はこのおネギ、ぬえちゃんが選んだのよ。今朝の、人里の朝市で」
白蓮はうれしそうに笑った。
一輪の知る限り、ぬえはあまり人と馴れ馴れしくする妖怪ではない。だが、近頃はできるだけ白蓮と打ち解けるように彼女なりに努力している風ではあった。それが、白蓮にはたまらなくうれしいらしい。
その必要は無いだろうが、一輪は小皿に息を吹きかけて、味噌汁を舌の上に吸い込んだ。
「むむ、おいしい。この味が、私はなかなか出せないんですよ。せめて料理だけでも弟子入りしておけばよかった」
「そういえば、一輪ちゃん。あなたって、私の所に来たのは、仏弟子になりにきたんでしたっけ」
ふと、白蓮が昔を懐かしむように笑った。
~無之二~
「どうか、どうか。私をあなた様の弟子にしてください」
目の前で跪拝する女性がいる。
彼女の背、はるか上空には、巣に帰らんと夕日の中を雁が飛んでいる。それを見あげながら、白蓮は、ああどうしよう、と心の中でつぶやいた。
目の前の彼女は、
「聖様。あなたが、人妖問わず仏法を説く、ときいて押しかけてまいりました」
見た目はまじめで清楚な尼僧の格好をしているが。
その実、白蓮は、彼女の身体から、普通の人間には出せぬ強さの超常の力を放っているのを感じ取っていた。おそらく、自分と同じく、その見かけの容姿の何倍もの寿命を生きてきたに違いない。
「どうか立ってください。あなた、ええと、お名前は?」
「一輪、と申します」
彼女の言うとおり、たしかに白蓮には、仏門に属する身としてはいささか妖怪に友好的過ぎるという評判が僧侶達の間に立っていた。
だが、白蓮本人に言わせれば、その表現は不十分ですらあった。
正直のところ、妖怪には敬意を払っているつもりである。
実際は、自分に施した不老の術が弱まるのを恐れたからという、ひどく利己的な動機であったのだ。
具体的には、人間の信徒に妖怪退治を頼まれて、いざ闘い、完全に調伏できるような場合でも、わざと妖怪を逃がしたりしてきていた。
その際に、人間への申し訳程度に、妖怪へ仏の慈悲や共生の道を説いたりした。
だが、それ以上には、聖は妖怪達の領域には踏み込まなかった。現実には、彼女は妖怪退治以外で妖怪と触れ合うこともなかった。
そのために、今までは白蓮の寺に妖怪が帰依を望んでくること自体なかった。
「私のような、人にあらざる物でも、なおも仏の道を歩みたいのです」
「ですが、人ではないあなたの身。仏門などに入ってしまって、矛盾は無いのですか?」
仏の道は救済の道。比べて妖怪の道は異なる。
「妖怪は人を襲い、恐れさすものだと? 仮にそれが本質だとしても、いや、果たしてそれが、それのみが真理なのでしょうか?」
それを聞いて、白蓮は考え込んだ。
確かに彼女の長い人生の中でも、仏門に入ったという妖怪などは寡聞にして聞いたことが無い。
というか、よくよく考えてみれば、自分は別に妖怪に詳しいわけではない事に気づく。
「人は人の、妖怪は妖怪の本分を全うするのが本道ではないのでしょうか」
「それでは人の本分とは、いったいなんですか」
そう返されて、ハタと詰まった。
いったいなんであろうか。
僧侶は、魂を安んじることが本分とすれば。
侍は、主君を守り奉ることが本分か。
だが、僧侶は命を大切にしなければならないが、侍は、場合によっては敵の人間を打ち殺すことも本分として求められる。
僧侶も侍も、どちらも同じ人間である。
「正直、よくわかりません。私も未熟ですね」白蓮は言った。
「人には、それぞれ異なる本分を持ちます。職によっては、それぞれ相反する本分を持つ者たちもいるでしょう。それと同様に、妖怪にも、仏道をもって本分とする物がいても良いのではないでしょうか」
「それが、あなたである。と?」
「そこまで驕っている訳ではありませんが、できればそうありたい、と願っています」
「そうですか」
白蓮は目を瞑った。
畿内で大きな変があって後、近頃は、人心も荒れ、人間の信仰が薄くなっている。
加えて、白蓮自身、実力はあるのに妖怪を滅ぼさないため、自然と、門徒の足は白蓮の寺から遠ざかっているのが現状であった。
このようなことになるのは必然か。
白蓮は、そう思った。
「わかりました。あなたは見た目が人間と変わりないですし、この寺に住んでも、檀家さん等も怯えたりしないでしょう。ですが、私もまだまだ未熟者の身。弟子を取ることはできませんが、ともに歩む同志としてであれば、この寺にあなたの籍を用意しましょう」
~南之二~
彼はふと、思い立った。
あの子は今、どうしているだろうか。
夏の新緑が映える山道を、彼は滑るようにのぼった。
あのとき、この前来た時は全てが枯れた色をしていたが。
そう思いながら、そう高くはない山の麓にたつ山寺を目指した。
特に有名な寺ではなかったが、地元の村落と距離があるにもかかわらず、それなりに活気のある寺のように見えた物だった。
彼は上空から、若い弟子が何人か、大きいとは言えない寺の境内を活発に掃除している様子を見て、出会ったばかりのあの少女を、ここに預ける決心をしたのだった。
当初より彼自身が少女を扶育するつもりは全くなかった。
彼は入道。一人の娘を、それもまだ物心すらつかない少女を、彼は養うすべを全く持ち合わせていなかったからだ。
あの時と同じように、上空から、静かに寺の全景を俯瞰する。
前回は枝から葉が落ち、石庭にたまっていたそれを若い男弟子が賢明に清掃する姿を見ることが出来た。
今は、張り出した木々の深い緑が、彼をして中庭を除くことを許さなかった。
彼は、寺の住人を驚かさないように気をつけながら、更に近づいた。
土で出来た、やや崩れかけた塀の上に乗り、そっと中を伺う。
寺の本堂から、経を読む音が聞こえる。
何の経かは分からぬが、男の出す声が、寺の境内を染み渡らせていた。
法要の最中なのだろう。
そう思った彼に、不意に声がかけられた。
「あなたって、あの時ここに私を連れてきた妖怪のひとでしょ!」
今まで気がつかなかったが、彼の塀の根本に、少女が居た。
少し成長した、あの娘である。
彼は驚いた。
あの時、彼女はかなり幼かったはずである。それに十分月日もたち、彼はもう自分のことなど覚えては居まい、と考えていた。
さらに、未だこの無情な世に、妖怪の自分に対して、親しげに話しかける人間が居るとは信じられなかった。
だが、それ以上に彼は目を疑った。
娘はこの寺に住んでいるはずなのに、少女のたたずまいに、まるで仏法の香りが感じられない。
みすぼらしい、鼠色の一張羅を羽織っている辺り、どこかの下女といった雰囲気であった。
お前はここに住んでいるのではないのか? なぜそんな格好をしている?
彼はおもわず言った。普通の人間では絶対に聞き取れないはずの入道の声で。
だが、少女はこともなげに、彼の言葉を返した。
「兄弟子様たちは、私のことを『化け物の子』っていうの。まともな人間じゃないって。前のお坊様はやさしかったけど、去年の暮れに死んじゃったし」
私の言葉がわかるのか。
そんな彼の言葉にかまわず、少女は言った。
「教えて。私は人の子じゃないの? 化け物の子なの?」
いいや、お前は人の子だ。
少しの逡巡の後、彼はそういった。
幽霊としてさまよいかけていた人の魂が、どういうわけか私の目の前で、肉体を持って生まれ変わったのがお前だ。
「そう」
彼の言葉は少女の心を晴らすものではなかったらしい。
「人だけども、やっぱり私はまともな人間じゃないのね」
少女の瞳に、木陰の陰りが映る。
彼はどういうわけか、少女に反駁する勇気を持てなかった。
しばらくした後、少女は三歩、大きく前に蹴り飛んだ。
そして振り返り、
「お願いがあるの」
少女はさわやかに言った。
「私を、ここから連れて行ってくれない?」
~三之二~
朝餉の準備が大方終わった後、白蓮と一輪は連れだって正門前に顔を出した。
白蓮が手をかざして太陽をみる。
「今日は暑くなりそうですね」
ぎらぎらとした初夏の太陽は、その元気を嫌というほど皆に伝えたいようだった。
「姐さん、天狗の天気予報でも、今日は夕方までこのままみたいですよ」
「そうね。今日の法要には人間も妖怪もきますし、体力のないお年寄りの参加もありますから、そのあたり配慮が必要ですね」
昨日に少し雨が降ったせいか、やけに蒸している。
朝方の今の時間帯でも、一輪達は少し汗ばみ始めていた。
と、そこに竹箒をもったムラサがのんびりやってきた。
彼女もかすかに汗ばんでいて、額には少しだけ、玉の汗が浮かんでいた。
心なしかムラサの水兵服が透けているように見えるのは、一輪の錯覚だろうか?
そういえば、今日の寺周りの掃き掃除当番はムラサのはずだった。
「うっす、いっちん。おはようございます、聖」
「おはよう、ムラサちゃん」
「や、みっちゃん」
「こんな湿気だと、打ち水やったらかえって蒸し暑くなりそうだよ。みんながやってくる直前に少しだけ水を撒くくらいがいいかもしれないね」
「そっか、じゃあ結構厳しいねえ」
「ああ、今日の法要は人数が多いから中庭まで席を作るんだっけ?」
「そうなの。上手いこと考えないと。とりあえず、雲山、居る?」一輪はそういって空を見上げた。
青白い空の、霞の隙間から入道が音もなく飛んできた。
「雲山、悪いけど、今日の法要も中庭上空で頑張ってお日様よけになってくれない?」
雲山は、当然、という風に力強く頷く。
「ごめんなさいね雲山ちゃん。ほとんど毎回そんな役目を負わせちゃって」白蓮がすまなそうに頭を下げた。
「いいんですよ。実は雲山って、仏法の教義そのものにはあんまり興味はないんですよ。ただひたすら、姐さんを慕ってるだけで」
「そうなのですか?」
「聖ったらもてるぅ。妬けるねぇ、堅物の雲山にそれほど一途に想われてるなんて」
「ムラサちゃんったら、茶化さないの」そういってたしなむ白蓮の顔も不満ではない様子である。
「でも、いくら入道だからって長い時間空中で漂うだけっていうのも飽きるでしょう」
「いえ、姐さん。雲山曰く、暇を見つけては色々知り合いを作っているようですよ。最近はイクさんという方と仲良くなって、え、ふぃいばあ、とかいうのを一緒に楽しんでいるそうです。ちょっと雲山、ふぃいばあってなに?」
「なかなか楽しげな響きのする言葉ですね。それよりも、雲山ちゃんもお友達が出来てて、安心しました。その、イクさんというのはどんな方なのですか?」
「どうなのよ雲山。え、美人?」
「まあ、雲山ちゃんって結構やり手なのねえ」
「おい、おいおい、綿飴。私の聖に二股かけるなんていい度胸してるじゃないのさ」
そうすごむムサラの目はとても面白そうに笑っていた。
「ところでみっちゃん。丁度良かった。たった今朝餉の支度がすんだ所なんだ」一輪はいった。
「そりゃ奇遇だ。私も、たった今、朝の勤めが終わったとこだね。私のは、ね」ムラサが返す。
「なら、朝餉にしましょう。他の人たちも呼んであげてくださいな」
そう言った、白蓮の隣には、いつの間にかぬえがいた。また、雲山は食事をしないので、彼はいつのように、屋根の上で気ままに浮かんでいる。
なので、ここで言う他の人たちとは、星とナズーリンのことである。
「それがデスね、二人とも未だに船を漕いでいるようでして」
そういう村紗は面白い悪戯を思いついたような悪ガキの顔をしていた。
「その海は大きそう?」
「大きい大きい。その上、呆れるような凪みたいなんだ」
いつもの事ながら、一輪は頭を振った。
「まったく、あの毘沙門天の代理は何を考えてるんだか」
「まあまあ。幻想郷に来るまで緊張の連続だったからね、あの御仁は。だから、少し疲れてるんだろうよ。まぁ、油断しすぎなことは認めるがね」
船長は、肩をすくめた。
~無之三~
「一輪様、起きてください」
春のあけぼの。最も睡眠が心地よい頃であった。
布団の中身を、ゆさゆさと動かすものがいる。
朝から、ようやく冬の刺すような寒さが消えてきた雰囲気に誘われて、そのとき一輪は熟睡しきっていた。
気だるく布団からぬけだし、自分を起こしにきたものと顔を合わせる。
顔つきにまだあどけなさの残る、齢十二歳くらいの人間の少女が、不安げな顔をして一輪の顔を覗き込んでいた。
「なつみさん。どうかなさいましたか?」
たしか、この子は。七年前の秋に人浚いから助けたのがきっかけで寺に住み着いたのだっけ。
そう、一輪は回想した。
あれはやけに暑い日のことだった。
聖の寺の元に、一件の奇妙な供養の依頼があったのは。
とある村の長が直々に、火事で一家全員が焼けた村人の供養をお願いしてきたのだ。奇妙、というのは、その割には、その長は、家のあった場所を口で伝えると、そそくさと逃げるようにその場を去ったことだった。
聖と一輪はとりあえず、その村の村落から緩い坂を一つ越えた、少し離れたところにある一軒だけの家屋に向かったのだが、その農家らしき家屋は大黒柱まで完璧に焼け落ちていた。奇妙なことに、どの柱も、小指くらいの大きさの穴が、無数に空いている。
聖が、居間立ったらしき空間に目を留め、絶句した。
そこには、夫婦らしき、性別も判然と付かない、完全に焼けただれた人間の黒こげがふたつと、その間に、力士二人分はあろうかという大きさの鼬が焼死体となって横たわっていた。
一輪が死体を詳しく調べると、人間の死体の方は、巨大な動物の爪でのどを引き裂かれている様で、鼬の方は、背中と腹に無数の矢が射かけられたらしき跡が見られた。
「一輪さん、これは」聖が震える声で言った。
「鼬は妖怪でしょう。この一家が妖怪におそわれているのを知ったほかの村人が、一斉にこの家に向かって矢を射たのでしょう」
「とすると、まさか、村の方達が、この家ごと妖怪を焼いたのでしょうか?」
「おそらく」
「悲しいことですが、だとすると、あの長の態度も納得がいきますね。この一家がたっている家の立地条件からして、この一家はほかの村人たちとうまくいっていなかったのかもしれませんね」
あるいは、村八分だったのかも。一輪は思った。
聖がその場でひざまづき、一心に祈りを捧げ始めたとき、不意に台所の跡から、静かに人影が飛び出すのを一輪は見のがさなかった。
「待て、何者だ!」
見とがめられたのを悟ったのか、その人影は移動を停止した。薄汚い格好をした男が、灰まみれの無表情な少女を連れていた。おそらく、少女はこの家の生き残りだろう。
「その少女をどうするつもりだ?」
「なにって? 売るのさ」男はふてぶてと言った。
「やめなさい!」聖が言った。髪の毛が総毛立ち、視線だけで男を滅しかねない勢いだった。事実、妖怪を退ける為の術を男に向けて放たんとしている。
一輪はとっさに、
「聖、ここは私が」聖と男の間に割って入り、遠出の際には身につけていた鉄の輪で男の眉間を殴りつけた。
男は瞬時に意識をとばし、崩れ落ちる。
少女の手は握られた男の掌から解放された。
だが、少女は虚ろな目をしたまま、微動だにしない。
まるで、自分が生きていることすら理解していないその瞳を、一輪はどこかで見たようか気がした。
しばらくして、半ば呆然とした聖が言った。
「なぜ、私を止めたのですか?」
「聖の法力は強力です。あなたでは、おそらくあの男は死んでいたでしょう。いくら極悪人でも、命です。僧侶であるあなたが、人を殺めてはいけない」一輪は言った。
一輪は突っ立ったままの少女に歩み寄り、屈んで目線をあわせた。
「あなたは、ここの家の子?」
コクリ。少女は頷いた。
「どこか、親戚とか、頼れる人はいる?」
少女は頭を振る。
「一輪様?」なつみの不安げな声で、一輪は我に返る。
回想の短髪だったなつみとは違い、目の前の少女は腰あたりまで伸ばした黒髪を後ろで一つにまとめている。
なつみはその後、寺で聖に育てられた。そのかいもあってか、彼女はかなり情の深い人間に育ちつつあると一輪は見ている。
また、彼女は、聖の手伝いを行うことに生き甲斐を感じている風であった。
今、寺にはなつみほどではないが、似たような境遇の元で聖に身を助けられたものや、身よりのないものたちが多数住み込んでいた。
いずれも人間である。
「おねがいです一輪様、聖様のもとに来てください」なつみは言った。
「わかりました」
一輪はひとまずそう答え、寝床の傍らに畳んでおいた外套をに身を包んだ。
それにしても、妙だわ。一輪は、ふと不吉な予感を感じた。
なつみは、主に白連の身の回りの世話をしており、寺の門を警護している一輪とはあまり面識がなかった。また、なつみと同じように、聖の周りにいる者は多数いるはずであり、ただの用事ならば、そのもの達に頼めばいいはずである。
「聖様の、身の一大事でございます」
そういうなつみは、小刻みに全身を震わせている。
「賊ですか?」
寺の警備を自称している自分を呼ぶあたり、真っ先に思いつくものがそれだった。
「いいえ、賊では……いや、ひょっとしたら賊かも……」
どうも要領を得ない。
一輪が、なつみに誘われるままに、寝ていた離れから本堂へ向かっていくと、その入り口で、聖白連が困惑した顔つきで二人を出迎えた。
そういった風景をみて、一輪はひとりで納得した。
まだ日の昇りきらぬ青い光に照らされた聖の隣に、不自然な水蒸気らしき塊が浮遊している。
「あの化け物がさっきから聖様にまとわりついているのです」
「なるほど、そうですか」そういいながらも、一輪はかの珍入者の意志が攻撃的なものではないことに気がついていた。
聖もそれは感じ取っているのか、妖怪退治に出かける際に見せるような凛々しさ溢れる表情をしていない。むしろ、あからさまにおろおろしているその姿は、良家の淑女が家族に内緒でこっそりとお出かけした街の市場で、不意に迷子に出会った場面を思わせる雰囲気であった。
「なつみちゃん、一輪さんをつれてきてくれたのね、ありがとう。でも、この妖怪の方は、私たちに害を加えない様に私は思えます。そういった気配がありませんから」
「ですが、野蛮な妖怪のすること。いつ聖様に仇なすかわかりません」なつみが一輪の背に隠れながら言った。
「なつみちゃんは妖怪を怖がりすぎよ。それにしても、この方はいったいどういう心づもりなのかしら。せめて、おしゃべりができたのであれば良かったのだけど」
そのとき、一輪には、その入道が悲しそうな目つきをしていることに気がついた。
ひょっとしたら。
やはり、この目つき。
ここを逃したら、もう行く当てはないと、思い詰めた顔つき。
自分も、この寺に始めてきたときは、こういった表情をしていなかったか?
私は今、全ての真実から目を背けて、知らないふりをすることもできる。いまの、このささやかながらも楽しい生活をずっと続けることもできる。
だが、それが果たして正しい道なのか? それは、私にとって正道か、一輪?
かりに正しくとも、これから胸を張って、この寺の一員として生きていけるか?
そう思ったとき、一輪は思わずため息をついた。
「この入道は、自分を雲山と名乗っています。また、聖のお慈悲に預かりたく、馳せ参じたとも」
「一輪さん、この方の意志がわかるの?」
「はい、私は人にあらず、入道と会話できますから」
そのとき、不意になつみが口を開く。
「一輪様、あなたは妖怪だったのですか?」
一瞬、答えるのをためらった。
「あなたは、私を、私達をだましていたのですね」
なつみの放つ言葉には、体温の暖かみが失われている。
一輪は胸に棘が刺さったような痛みを覚えた。
「まって、なつみちゃん。たぶん一輪さんも悪気があったわけでは……」
そういう聖の言葉を背中に浴びながら、なつみは奥の間へと走り去ってしまった。
「困ったわ、なつみちゃんとは後で話し合うとして。それで一輪さん、その雲山という方は具体的になにを望んでいるのかしら?」
一輪は雲山の顔をのぞき込む。
「聖の進む仏の道を、共に歩みたいと」
「そうなの?」
白連は、入道をまじまじと見つめ、
「ふふっ」にっこりと微笑んだ。
「あなた、体つきに似合わず、なつみちゃんとそっくりなことを言うのね。それによく見たら優しそうな目をしているわ」
言われた方の入道は、どことなく照れくさい顔をしているように一輪は思えた。
「雲山さん。あなたはこれ以後、人間に危害を加えないと誓えますか?」
「誓う、といっています」
「一輪さん、貴方からみて、この方は信用できる妖怪だと思いますか?」
「入道が嘘をついたという話は聞いたことがありません。私は信頼できると思います」
そうですか、と頷いた聖は、改めて雲山に向き合った。
「一輪さんがそう言うのであれば、雲山さん、あなたを信じましょう。この寺はあなたを歓迎します」
あっけらかんとした聖のその言葉に、雲山はともかく一輪も驚いた。
「私は一輪さんと暮らしてきてわかったことがあります。一輪さんは、ほかの人間の方々と同じくらいに、熱心にお勤めを果たしてきました。真の信仰の前には、妖怪も人間も区別はないのですね。そして雲山さんとなつみさんも、私と一輪さんのように、人と妖怪がお互いを尊重して対等に暮らすことができる。私はそう思います」
人と妖怪が平等に暮らす。
白連の言うそれは、確かに理想かもしれない。
だが、現実的ではない。一輪はそう思った。
妖怪にだって、役割をもって生まれた者がいる。
人を脅かすためだけに存在する妖怪もいる。
そういうものは、どうすればいいのだ?
だが、この時ばかりは、一輪はそれを言葉にして発することにためらいを覚えた。
~南之三~
入道である彼は進む。そこが道でなくとも歩む。
ここにはきた事は無いのだが、どこかで見たような気のする景色だ。
彼はそう思いながら、その小さな丘の頂上で周りを眺めていた。
頂上にある、一本の大きな木が、蝉の音をやかましくがなり立てている。
丘のすべてを覆いかぶさらんと、草が自らの緑色を濃くしていた。
その根元では、そのような騒がしさとは無縁とばかりに、ぼんやりと人霊が佇む。
何のことは無い、今の世の、どこにでもある景色なのだ。
全国を、たった独りで、幾度となく縦断してきた彼にとっては、そのような錯覚も覚えるくらいだった。
しかし、今では。
ふと、彼は振り返る。
彼の歩む先には道は無い。だが、歩んだ後は、草が掻き分けられて、わずかに道ができていた。
そこを、少女が彼を追いかけている。
おりん。
彼の呼びかけに、少女は両手を目一杯振って応える。
彼と少女が丘を登りきると、少女は彼にいわれずとも、心得たように盛り土をつくりはじめた。
その目つきはどこまでも真剣で。
作品を創る、一流の芸術家の目つきで、両手を黒土だらけにしていた。
少女がその作業を始めて、四半刻も立ったであろうか。
ようやく手を止めた少女は、やり遂げた顔つきをして、額に出ていた玉のような汗を拭った。
「おとん、こんな物でいいかな?」
振り返った少女は、見上げる目つきで質問する。
ああ、上出来だ。それでこの霊も成仏できよう。
「そう、じゃあ後はお祈りすれば良いんだね」
そういって、少女は手を合わせ、今までに何度唱えたか分からない経の文句を口にする。
たった一人の供養。虚空に向かって供養をする。
少女は、今までに、このようなことを数え切れないほど行ってきていた。
だが、おとんと呼ばれた妖怪は、少女のすぐ傍らに、妙齢の女性の魂を見ていた。
妖怪に襲われ、食われたであろう女性の背中には大きな牙を突き立てたような穴が開いている。
少女が一心に供養を唱えるごとに、苦悶にゆがんでいた女性の顔は安らかな微笑みへと変わっていく。
朝霧が太陽の日にさらされて蒸発するように、彼女の魂はゆっくりと昇華していった。
ああ、ありがとう……
そのありさまを唯一見つめていた入道の聴覚に、今まで聞いた覚えのない声が、そう囁いた気がした。
しばらくすると、経を唱え終えた少女が立ち上がった。
「どうだった、今回も上手くやれた?」
ああ。あの娘さんも無事、成仏出来たようだ。
入道がそう答えると、少女は満面の笑みを浮かべ、得意げに胸を張った。
「そう。じゃ、次の場所にいこっ!」
そういうがはやいか、少女は道なき道を我先にと駆けていった。
「おとん、はやくしないと、おいてっちゃうよ!」
おとんとよばれた彼は苦笑し、少女の後をゆっくりとついて行った。
二人の旅はまだ続く。
~三之三~
結局、その日の朝餉は、星とナズーリン抜きで食べることとなった。
なので、
「頂きます」その白蓮の言葉に唱和したのは、一輪、ムラサ、ぬえだけである。
「おいしいわぁ」ムラサがそういって、ほっこりと、こぼしながらも味噌汁をすすっている。
手間がかかるので一輪はそういったことはしないが、白蓮の味噌汁に入った葱は、一度火であぶって香りを引き立たせている。だから、硬めに炊いた玄米のご飯に良くあうのだ。
「ぬえちゃん。ご飯のおかわりいる?」
「う~ん……じゃあ、うん」
白蓮の言葉に、ほっぺたにご飯粒を付けたぬえが茶碗を差し出す。
隣に座った白蓮はそれを当然の様に受け取り、お櫃から山盛りにご飯を移していく。充実した、満面の笑みを浮かべながら。
それを見つつ、一輪が切り出す。
「本日の法要ですが、傘作りの予吉さん一家が、母君を引き連れて参加したいといってきました。足の悪い母君を予吉さんが背負ってくるので、念のため道中の護衛を頼みたいそうです」
「そうなの。じゃあ、一輪ちゃんかムラサちゃん、どちらかにお願いして良い?」
「もちろんです。ぜひ私にお任せください」ムラサが言った。
「それではムラサちゃん、お願いね。でも、いつもムラサちゃんに任せてしまっているようで悪いわね」
「とんでもない。あの家の五歳になる源太君は、海という、みたことがないものに非常に興味がありましてですねぇ、そのせいか、私と話が合うんですよ。もう盛り上がって盛り上がって」
「精神年齢も近そうだしね」一輪がいった。
「いったな、いっちん。でも源太は明るくておもしろいよ。いっちんも気に入ると思うな」
ムラサは笑った。
「そうね、みっちゃんがそんなに気に入るんだもの。私とも気が合うでしょうね」
一輪も笑った。
「それにしても、今日はあっついわ、本当」ムラサはそういいながら、食後のお茶を嗜んでいた。
海の女はいつだって食事と寝つきが早いのだ。
だが、今日のムラサはいつもの熱い緑茶ではなく、薄い、冷えた香片茶を飲んでいる。
「ムラサちゃん。あなた本当に良くかんでご飯食べてるの? 私不安だわご飯を良く噛まない人は病気になりやすいっていうし」
「わたしゃ妖怪ですぜ、聖。それにしてもこの暑さ、今日の法要では体力の弱い妖怪や人間達は屋内に案内するにしても、他に何か対策が必要だよ」
「そうね。でも、私達は幻想郷に来て日が浅いのでそういった生活の知恵があまりないわ。だれか相談できる方がいればいいのだけれど」
「聖の封印をといた巫女さん達なら何かいい案を持っているかもしれないね」ムラサがいった。
「じゃあ、朝食が終わったらさ、早速いってみようか。私とみっちゃんで手分けしてさ」
「うん。私はその足で予吉さん達を連れてくるから、紅くめでたい方にいってみるよ」
「じゃあ、私は緑のはっちゃけたほうね」
「それなら二人とも、お漬け物を持ってお行きなさいな」聖が言った。
彼女が言ってるのは、封印が解かれてから始めた、聖お手製の沢庵漬けのことである。
こりこりとした食感は素晴らしくよいのだが、相当塩辛いのはご愛敬である。
同時に、いぶりがっこも作っていたのだが、それはできが大変良く、既に皆で食べきってしまっていた。
「あと、前にも言ったと思ったけど。今日は大切なお客様をお呼びしましたからね。他の参拝客の皆様へも、もちろんそうだけど、くれぐれも失礼の無いよう、お願いしますね」
「はい。わかっています」一輪はそう答えながら思った。そういえば、果たしてあの巫女達は、幻想郷でも信仰を集められているのだろうか、と。
~無之四~
その日の正午過ぎ、聖が村紗と名乗る妖怪を連れてきたときは、さすがの一輪も呆れた。
雲山が来て以来、聖の寺では、人間の住人たちと一輪との間にぎくしゃくした空気がはびこり始めている。
皆が集まる法要や、食事の時間なども、表面上は皆以前と同じく一輪に接するのだが、どことなくぎこちなく、まるで下手な小芝居を無理矢理演じている風であった。
一輪はそれをある意味当然のこと、と受け入れた。
が、寺の当主の聖は、その様な雰囲気がとても気になっているようで、たびたび、一輪には内緒で人間の寺の住人たちと話し合いを持っているようである。
だが、その話し合いもうまくいっていないようだった。以前一輪と雲山は、堂の中から飛び出すなつみと、彼女の背中に、諫めるように訴えかける聖の声、というような組み合わせの光景を目にしたことがある。
一輪としては、聖と他の人間との間に、これ以上いらぬ軋轢を生んで欲しくないというのが本音である。
とみに最近は、聖が妖怪を飼っているという噂がながれ、麓の里の人間も、以前より更に参拝に訪れなくなってしまっていた。
そのような現状の中で、歩いて二月以上はかかる、遠方の漁村から妖怪退治の依頼を受けたのが先月のことだ。
その話を受けたとき、なぜか聖はその依頼を受けることを嫌がった。
土下座までしている、依頼者である網元の老人と、何を考えているのか分からぬ顔で側に聖の側に付き従っているなつみの前で、聖に妖怪退治を説いたのは、他でもない、一輪であった。
「正道を貫くのです、聖。里人の信仰を再び取り戻しましょう」
「ですが、その妖怪を完全に否定するようで、私は辛いです。話してみたら、一輪さんや雲山さんのように良い方かもしれないし」
「網元の話だと、今回の妖怪は船幽霊です。人を害するために生まれてきた様な存在ですよ。残念ですが、船幽霊は人間と相容れることができない妖怪なのです」
そのような一輪の言葉をきいて、聖は悲しそうな顔をしながらも、重い腰を上げた形で妖怪退治の依頼を受けたのだった。
だから、一輪も、聖が心から納得して妖怪退治の話を受け入れたとは思っていない。
しかし、まさか退治すべき妖怪を寺に連れてくるとは思わなかった。
西の空に、巨大な空飛ぶ船が現れたと思ったら、みるみるうちに寺の正門前に着陸し、中から、得意そうな顔の聖が降り立ったのだ。
そして、何事かと集まった寺の面子を前にして、
「皆さん、新しい仲間を紹介します。船幽霊の村紗水蜜さんです!」と元気いっぱいに、傍らにいる少女を紹介したのだ。
燦々と照る夏の太陽に照らされたその人型をした少女は、聖の紹介を当然のことだ、とでも言うように鼻を鳴らした。
自らを船長と名乗る妖怪の少女は、聖の寺と住人、最後に一輪と雲山をじろりと眺め回して、
「そうか、君が私みたく、人の姿をした妖怪の一輪君か」と、何故か不機嫌そうに喋った。
その言葉を聞いて、一輪以外の人混みが、さっと後ろに引いた。
「その通り、私が一輪よ」一輪は言った。
「私は船長としてこの地、この寺にやってきた。いわば寺の長だ。大船に乗ったつもりでいてくれよ」
その言葉を聞いて、人間である寺の住人から、戸惑いの声が発せられた。
「どういうことだ?」
「私たちは聖様に仕えるためにこの寺にいるのであって、妖怪なんぞに仕える為じゃないわよ!」
その騒ぎを一喝するかのように、
「ムラサさんには、この空飛ぶ船の船長をしていただきます。そして、私はこの船もお寺にするつもりでいます」
そう、聖は言った。
「村紗とやら。この寺は一応人間の方が人数が多いのだから我々の方が遠慮しないと」
「何故だ? 聖は、この寺は人も妖怪も区別なく、と言ったぞ。それに、聖以外の人間は、別に突出した徳なぞ積んでいない様に見える。徳の差がそれほどないのなら、力ある者が組織の上に立つのは当然のことだよ」
一輪は思わず頭を抱えた。この調子では、この寺の内部ですら人妖の調和など望めなくなるだろう。
だが、一輪はあきれながらも、村紗と名乗るこの高慢な妖怪の目に違和感を感じた。あのような話しを本気でする者に、彼女が今見せている、奇妙に碧くすんだ瞳の色が出せるとはとても思えなかったのだ。
その日の夜、一輪は一人で聖と対面した。
ムラサをつれてきた聖の真意を聞くためであり、また今後の寺の方針を聞くためでもあった。
じりじりと淡く儚い光を放つ一本のろうそくを挟み、二人は正座で向かい合っていた。
「ムラサさんは、長年船幽霊として人々を襲っていました。ですが、もともとは不運にも海に溺れ亡くなった人間です。ですから、私は船幽霊の役割に縛られた彼女を、新たな船を与えることで因縁から解放することにしました。一輪さん、確かに以前貴方が言っていた通り、人とは相入れる事のできない役割を持った妖怪は確かに存在します。ですが、そのような方には、新たな役割を与えてあげればよいのではないでしょうか?」
沈黙のあと、一輪は言った。
「確かにそれは理想です。ですが、新たな役割を与えられたとはいえ、元は人に仇なしていた存在。その様なものを、人間の人々は笑顔で受け入れるでしょうか? あの妖怪の、あの高飛車な態度もそういった物を感じ取った怯えから来るものかもしれません」
「私は人間の心根を信じています。人は、最初は石を投げるかもしれません。しかし、努力してお互いが歩み寄れば、いつの日かわかり会える日が来る。そのように、私は人間を信じたい」
沈黙。
いつの間にか、一匹の蛾が蝋燭の光に誘き出され、誰にも気が付かれないままに、その身を燃やし尽くしていた。
静かに灰が床を舞う。
「わたしは正直こわいのです。聖の理想は大変立派です。立派すぎると言っていい。ですが、その理想が余りにも立派すぎて、現実と解離しすぎた結果、いまのこの寺の危うい共存状態すら幻想となってしまうのではないかと思ってしまうのです」
「そうかもしれません。その危険は、確かにあるでしょう」聖の口調は、あくまで真摯だった。
「ですが、仏の救済の手は人妖の区別なく差し伸べられるべきです。私はそう、考えます」
一輪は言葉に詰まった。
この末世の中、妖怪にすら仏の慈悲を与えようとしている人間は、一輪の知る限り、目の前にいる聖白連だけなのだ。
「世の中には、少数ですが、貴方のような仏門に目覚めた妖怪の方がいます。ですが、かなしいことに仏門の側に、人間の方に、その方達を受け入れる余地がありません、我らの方が妖怪との共生を端から拒んでいるのです。私はそのような方々に手をさしのべ、ムラサさんの飛倉を、そんな心ある妖怪達と人々の楽園にしたい、そう、考えているのです」
一輪は、おどけて笑ってみた。
「あの船は楽園ですか。そうしたら、聖。貴方はさしずめ、その楽園のすてきな住職ですね」
聖も、つられて、舌をだして笑って見せた。
「そうですね。ですが、この船の中でくらい、私の幻想を実現したい。そう言う欲望を私は感じています。その様な欲の感情を覚える私は、全然すてきではないし、下手すると、住職失格かもしれませんよ?」
~南之四~
晩秋の道を二人で歩んでいるときだった。
草原を蛇行しながら進む獣道に、ひょろっと立つ柳のふもと。
そこに、いつの間にかそれはうずくまっていた。
「ほう、これはこれは」
見慣れぬ妖怪だ。
四つん這いの獣のような、それでいてよくわからないすがたかたちをしている。なんともたとえようのない格好だ。
五十年ほど前、人間の百姓に農地の所有が許されてからという物、彼らは精力的に自分の農地を広げ始めた。昨今は怪異をそれほど恐れず、昔は神仙の領域とされていた場所にすら鍬を入れ続けている。
そのためか、彼はここ最近、自分以外の妖怪に出会うことは非常に希になっていた。
ふと娘を見やると、その妖怪を見つめたまま、かなりの後方でしゃがみ込んでしまっている。
どうしたのかと近づくと、全身ががくがくと震えているのが見て取れた。
「やはりそうか。お前はあの時の娘だな。記憶はなくとも、魂の記録まではなかなか消えぬ、ということかな」
どういうことだ? 一体何を言っている?
「そうか、そこのお前。入道がこいつの父親代わりというわけか」
妖怪は彼を上からしたまでなめるように眺め回した後、面白がる様に言った。
「お前の娘の内臓、とっても甘くてうまかったぞ」
瞬間、娘は全身を固まらせた。
こいつは、危険だ。
そう直感した彼は、娘を自分の体で覆いつくした。
まさか、また娘を喰うつもりか?
そういいながら、彼はいつでも戦えるように姿勢を変えた。
「俺が? その娘を? 何でまた?」
その化け物は踊るように言った。
「このモロク、喰うのは人間だけよ。妖怪は妖怪らしく、な」
化け物は、なおも警戒を緩めない彼の周りを、盆踊りを踊るように回る。
「そう睨むない、変わり者よう」
モロクはかぷかぷと笑った。
変わり者だと?
「そうだろ? 妖怪ってのはあれだ、人を恐れさせて、その脳髄に恐怖を刻みつけてナンボのもんさね。それがあんた、そんな娘の父親代わりをするなんざお笑い種もいいところだ。人に恐れを与える。その本分を果たさずして何が妖怪か!」
人を恐れさせる。それだけか?
それだけが本分ではなかろう。
彼のその反駁に、モロクは、
「それだけ人間となれ合ってきたのだ。御前様も気づいていよう。妖怪の数はますます少なく、弱く。人間の数はますます多くなっている。それに、人間どもの、俺たち妖怪を見る目つきすら恐れではなくなりつつある」
なにがいいたい?
「御前様みたいに、妖怪の本分を果たさないやつは、怠け者ってんだ。さて」
モロクは視線の先を彼から娘へと移した。
「俺たち妖怪はな、なにも人間が憎くて人肉を喰らうんじゃねえ。人間を恐れさせ、人間の記憶に自分を刻み付けなくちゃ、俺たちは生きていけねえ。消えちまうんだ」
「だからって、私を食べたの? あんなに、とっても痛いのに?」
娘の声は震えていて、どこまでもか細い。
「ああ、喰うね。なにも俺は人間が憎いわけじゃねえけどな。ああやるのが俺たちの、人との正しいかかわり方だからだ」
モロクのその言葉に、娘は耳を覆った。
去れ!
彼は周りの空気を取り込み、身体を大きくした。
「おおう、怒らしちまったか。ま、いいか。お邪魔虫はそろそろ退散するとすっか。面白い物も見れたことだし」
そういったモロクは、あっという間に姿を消し去ってしまった。
「おとん、怖い」
二人で旅を始めてから、はじめて、娘が怖いといった。
大丈夫だ、おりん。私がお前を守る。
そう、彼は自身に強く言い聞かせた。
だが。
自分は百年前などと比べて、明らかに弱くなっていた。
このままでは、十数年以内に自分も存在することすら出来なくなってしまうことだろう。
せめて、この子が独り立ちするくらいまでは、一緒に居られると良いのだが。
~三之四~
「すみませんね、現人神自ら協力頂けるなんて」
「いえいえ、里人の皆さんのお役に立てるならばこそですよ」
一輪は早苗を連れ天狗の山を下っていた。しかも神社で造られたと言う日本酒のお土産を持った上で。
守矢神社に相談しに言ったところ、神社の二柱は、
「早苗、言っておやり」
「お土産か土産話よろしくー」と、あっさりと神社の風祝を貸し出してくれた。
風祝の吹かす風で、少しは涼しくなるだろう、とのことである。
「ごめんなさいね。あの沢庵、実は姐さんの失敗作なのにこんな一升瓶を頂いちゃって。それにこのお酒、人里で人気なんでしょう?」一輪は言った。そういった一輪も早苗も、空を飛びながら山を下っている。
「気にしないでください。神奈子さまとかは生きてきた年月が長いせいか、しょっぱい物が大好きなんです。ですからあれも喜んで食べてくれますよ。良い酒の肴が来た! とか言って」
しかし、一輪が持たされた日本酒は、毎期、予約だけで売り切れになるくらいの人気の酒だと聞いている。こんな物を本当に頂いていい物だろうか、と一輪は心の中で思った。また、「現人神が作った口噛み酒と見せかけた口噛みでない少し口噛みの酒」というネーミングはさすがにあざとすぎるとも。
「一輪さん、何か言いましたか?」
「いいえ、何も言ってませんよ」
二人が命蓮寺の上空についたとき、ムラサ達の方が寺に一足早く到着していた。
門前では、到着した総勢八名を数える予吉一家のうち、ふくよかな体格をした奥方が白蓮と立ち話に花を咲かせていた。
傍らにはムラサが、小さな子供一人は入るような大きな麻袋を肩に背負っている。
隣には、なぜか、からかさお化けの小傘もいた。
それをみた早苗は急転直下。
「小傘さん、お久しぶりです!」と、目を妖しく輝かせ始めた。
「なんか帰り道でつまんなそうにしてたから、連れてきちゃった」とは地上に降り立った一輪に対するムラサの弁。
「小傘さん、ハグしましょう、ハグ! 最近の外界じゃフリーハグというのが流行っているそうですから!」そういいながら、早苗は小傘の小さな体躯を羽交い締めにし、頬を顔に擦りつけ始めた。
「早苗、わちきを子供扱いしないで。そ、それに、うぷ、苦しいよう」
「何言ってるんですか、小傘さんはとっても可愛いじゃないですか。本当に子供みたいです」風祝はそういって、髪の毛をぐちゃぐちゃとかき回し始めた。
後で恨まれそうなのであえて手を付けなかった一輪だが、一人、その争乱の輪に話しかける人間がいた。
日焼けした、体格の良い中年男性、傘作りの予吉その人だ。
「お久しぶりです早苗様。しかし、ムラサ船長に聞いたけんど、こんな可愛い子が付喪神とは。幻想郷生まれの俺でも結構驚きましたよ」
「ううう、こんな事でも餓えが和らぐって、わちき、ものすごい複雑」
「じゃあ、小傘は唐傘お化けなんて止めて、ギャップ萌えアイドルに転向すれば?」ムラサが言った。
「駄目です船長さん。小傘さんのかわいさは私だけの物です!」
髪の毛をもみくちゃにされた子傘は、上目遣いで早苗を見上げ、言った。
「早苗は優しいけど優しくないから、わちきはちょっとやだ」
「じゃあ、もっとお互いを知り尽くしましょう? それにしても、小傘さんの傘って、そんな変な茄子色してるから、ちょっとは日傘になるかと思いきや、全然日光遮断しませんね。使えませんね。ダメダメです」
「早苗がいじめる~」
「でも小傘さん、あなたって付喪神みたいなものでしょう? それって結構年経ている訳ですよね。でも、見た感じ傘は全然古びた様子は見えないんですけど」
早苗は首を傾げる。
「どれ、ちょっと見せてくれないか」予吉は小傘に言った。
しばらく眺め回した後に、ひとつ、大きなため息をつく。
「う~ん、お前さんの傘、良い紙を使ってるけど染めの処理がみょうだな。なんとなく、『おりじなりてー』を表現しようとして見事に失敗しようとした感じだな」
「わちき、『おりじなりてー』がどんな意味か分からないけど、なんだか悪いこと言われてる気がする!」
「まったく、熱いのに良くやるよ」
そう独りごちた一輪のもとへムラサが近づいてきた。
「守矢神社の暑さ対策は早苗かあ」
「そういう博霊は、その袋?」
「ああ、あの巫女さん、最初は協力することすら渋ってたけどね。聖の沢庵あげたら、いきなり立ち上がって、『ちょっと待ってなさい』って。で、どこからかこの袋を担いで渡してきたってわけ」
そういってムラサは、一輪に背を向いて袋を近づけた。
微かにだが、麻袋全体が冷気をまとっているように一輪は感じた。
「これをどうしろと?」
「体力のないお婆ちゃんの側にでも置いとけば、だって。あと、中は絶対見るなとさ」
そういって、ムラサは麻袋を地面に落とした。
と、
「ぎゃん!」麻袋が声を発した。
そのうえ、麻袋が地面にあがったミミズのようにのたうち回り始めた。
「これって」
「もしかして」
一輪とムラサは一瞬顔を見合わせた後、急いで袋を開けにかかる。
やはりというかなんというか。
袋の中身は、縄でがんじがらめにされ、猿ぐつわまで施された一匹の水色の服を着た妖精であった。
「一体全体あたいをどうしようって言うのよ!」
一輪が猿ぐつわを外した結果、第一声がこれである。
「まったくあの巫女は。自然に対する畏敬の念とか、そういう物は持ち合わせていないのかねえ」
一輪が、全身にぐるぐる巻きにされた縄をほどいても、妖精は警戒を解くことはなかった。
両手を真上に、鶴のように上げ、ついでに片足を上げて威嚇のポーズを披露している。
まぁ、当然か。
苦笑しながら頭を撫でようとすると、両手と片足をますます高く上げて睨み付けてきた。
「どうしたもんかねぇ」
そこに、
「私にまかせてくださいな」と、白蓮が妖精の目の前で屈み、妖精の目をまっすぐ見る。
「こんな事もあろうかと、妖精ちゃん。甘いのいらない? ほらこれ、金平糖さんっていうらしいの」
そういって懐から色とりどりのそれを取り出し、妖精の眼前につきだした。
「金平糖くらい、あたいしってるよ」妖精はそういいながらも、視線は常に、白蓮の手のひらの上で転がっているそれに向けられていた。
「ほら、源太君もはるかちゃんも、それから子傘ちゃんもこっちにいらっしゃいな」
白蓮の呼びかけに答え、予吉の二人の幼い子供が勢いよく集まってきた。
「ほらまたー。白蓮もわちきのこと、子供扱いするー」
「あら? 子傘ちゃんは金平糖さんいらないのかしら?」
「……いる」
「南無三っと」
白蓮はそういいながら、差し出された小さな四つの右手に向かって金平糖を配っていった。皆平等に、三粒ずつ。南無三だけに。
「みんな、仲良くね」白蓮はそういって、よいしょっと腰を上げた。
「姐さん。ひょっとしていつも持ち歩いてるんですか?」
「ええ。実は、あっちにいた頃から珍味を持ち歩いていたのよ。さすがの一輪ちゃんもこればっかりは知らなかったでしょう」
最近は飴とかだったのだけど、今日みたいにあついとね、と白蓮は手で顔に風を送った。
「そうなんですか」
二人の目の前では、早くも子供達は子供達だけの世界を形作っている。
「あ、あんた、黄色いの持ってるじゃない。それちょーだい!」
「えー? でも、妖精さんのもってる緑の奴と交換ならいいよ」
「あたいは緑は二つ持ってるからいいよ。一つあげる!」
「すごい! 妖精さんの持ってた金平糖、冷たくて美味しいよ!」
「ふふん。さすが最強のあたいは格が違うのよ」
「あの冷たい妖精は機嫌を直してくれたみたいだね」一輪が言った。
「ああ、これでこの件は片が付いたね。聖の法要の前に争いごとなんて勘弁してほしいからね」
ほう、と白蓮がため息をついた。
「ここは平和ですね」
「そうですか? 妖精達が毎日のように悪戯を仕掛けてきますけどね」ムラサが言った。
「ええ、まあ。そうね。でも」白蓮はうなずき、微笑む。
「私は姐さんの言いたいこと、分かりますよ」
「ちょ、ちょいといっちん。そんなこと言ったら、ボケた私の立場がないじゃん。あーあ、昨今のボケ殺しは容赦ないねぇ」ムラサはわざとらしく身震いしたあと、肩をすくめて見せた。
「まあ、あっちと比べりゃね。こんな光景は見たくても見られなかったよね。時代のせいかね、こりゃ」
「どうでしょうか。多分それもあると思うけど、ここには」
白蓮はそう言って、大きく息を吸い込んだ。
「何か大きな、とても優しく包み込む物がある。そんな気がします」
~無之五~
寺の、聖の元に男の僧侶がやってきた。と、いうよりも聖が招いたのだが。
「しかし、妖怪に開かれた寺を造ってしまわれるとは、剛毅ですなあ!」
新蓮と名乗る、その招かれた中年の男僧侶は、元々声が大きいらしく、部屋の隣の間にやってきた一輪の耳にも、彼の言葉が一語一句聞き取ることができた。
「客人殿、それに聖様。失礼します」
一輪はそう声をかけてから、部屋のふすまに手をかけた。
目に飛び込んだ短躯の彼の姿は、やや腹のでかかったひょうきんな体つきと言い、なかなか人の良さそうな性格をしているように一輪にはみえた。
彼は盆の上にお茶を持ってきた一輪に、豪快に笑いかけた。
「君が雲居一輪くんか。じつは拙僧、退魔僧をそれなりにやっとるわりには人型をした妖怪をこの目で見るのは初めてでしてな。いや面目ない、ハハハ……」そういって、剃髪した自分の頭をつるり、となでる。
一輪としても、自分を妖怪と知ってなお、態度一つ変えない人間など聖をのぞいて初めてであった。
少なくとも、今日初めて出会った一輪は、彼に悪い印象を受けなかった。
「では、新蓮さん。あなたがこの寺の管理を受けていただけると?」聖は言った。
「ええ、喜んで。何しろ儂が今いる寺は、師匠に変わって真面目一辺倒な弟弟子が継ぎましてな、実のところ少々居心地がわるかったのですわ」
結局、村紗の船は、寺から離れたところに着陸し、今の寺とは別の寺として門を開く事になった。
船体が大きすぎて今の寺の敷地内に収まりきらない、と言うのも一つの理由だったが、それは些細な問題にすぎない。
聖の予想を超えて、人間である寺の住人たちが村紗に拒否の感情を示したのだ。
一輪の見るところ、その問題に関しては、聖は手を尽くしていた。
心を込めて、一人一人にたいし、切々と説得したのだ。
寺に住む人間は、すべて聖を慕っている。だから、聖の言葉に耳を傾けない者などいなかったが、それでもなおも村紗たち妖怪にたいし不安な表情を隠すことができなかった。それは、不親切な態度となって、彼女たちに現れていた。なぜならば、人々の、内なる心の問題であったからである。
理屈では聖の言うことに賛同し、頭の理屈では、敬愛する彼女の説得を受け入れても、皆心のどこかで妖怪に対する恐怖の感情を捨てきれなかったのだ。
聖は一時の策として、寺と船を離すことを選んだ。
寺の近くにある小高い山の中腹に、船が余裕を持って着陸できそうな広場を雲山が発見していたのだ。
「で、聖殿。拙僧が聞いたところによると、あなたは将来としては、あの船とこの寺を習合したいと。いやはや、たいそうな大事業だ」
「習合だなんて、そんな大げさな者ではありませんよ。第一、どちらも仏教の寺です。日本の神さまと大陸の仏さまの信仰をあわせるような大それたものではありませんよ」
「ああ、そうでしたな。これは失敬。ですが、まるで違う門徒同士を一つにする、そういう点では変わらないでしょうな。その、難しさとしては」
「そうかもしれません」
「神や仏の御意志がどうあれ、蘇我と物部という、我が国には自らの信仰のために戦った歴史があります。聖殿、あなたが行おうとしている大事業の過程では、おそらくそういった信徒同士の諍いや争いがあるやもしれません」
「まあ、それはそうなった時に考えましょう。和解が成るか、破れるか。そういったときに争いのことばかり考えるのは滑稽ですわ」
「それもそうかもしれませんな。たしかに、ここの寺の者は、今の感情はどうあれ、皆、聖の思想を歩もうとしているように見受けられる」
「いやだわ。あなたは相変わらずお世辞がうまいですね。里のおきよさんも、あなたはそんなことをいって口説き落としたのかしら?」聖は手を口に当てて愉快そうに笑った。
「聖、まさか、この方は結婚しているのですか?」一輪は純粋に驚いた。
一輪の知る限り、僧侶が結婚することなど許されることではなかったからだ。それはこの伝来からこの時代まで、一貫して続いた日本仏教の当然の常識といってもよかった。
「ええ、そうよ。最近ここらでもはやりだした、じ、じょ……何だったかしら? とにかく、新蓮さんの宗派では、僧侶でも妻帯が許されているのよ」
「大丈夫でしょうか?」一輪は言った。
つまり、寺を預かる人間が聖から新蓮に移ることで、寺の宗派が変わってしまう。そのような重大なことを、このように気軽に決めてしまってよいものだろうか?
だが、聖は一輪の台詞を勘違いしたらしい。
「大丈夫よ一輪さん。新蓮さんの退魔の腕は結構高名ですし、たとえ戒律が異なっていても根は同じ仏教です。信仰心の厚さは私が保証します」
「おや、聖殿は拙僧をずいぶんと買い被られている。わしはただ、好きなおなごと結婚できるからという理由だけで、門徒の門を叩いたただの好色僧ですわい」
「おや? 酒屋の娘のおきよさんを通じて、熱心に里の人々に説法をしている方などいないと? どういうわけかここ最近、里の方々がとても信心深くなっているんですよ。不思議ですねえ」聖はコロコロと笑う。
「ところで、聖殿。あなたはあの船で居住を始めるといっても、もうまったくこの寺には来ないわけではないのでしょう?」
「ええ、暇を見つけては伺いたく思います」
聖はそういったが、一輪の見るところ、最初の数年はその様な暇があるようには思えない。
船の着陸予定地は、近くに、地滑りにて一夜にして滅んだ村があるという言い伝えのある場所がある。
雲山の報告によると、そのためか今でも人の踏みいらぬ未開の地であり、それだけ強力な妖怪も多くすんでいるようであった。
「それで、寺に残るみなさんのこと、よろしくお願いしますね」
「任せてください」
船に住処を変える聖は、寺の住人に対し、このまま寺に住み続けるか、一緒に船に移住するか、選択の機会を与えた。
どの住人も、本来みな聖をしたってやってきた人間達である。だが、名残惜しそうな顔をしこそすれ、だれも船に移住して一輪たち妖怪と寝食をともにする、と答えた者は現れなかった。
そうこうしているうちに、あっと言うまに船の旅立ちの日がやってきた。
梅雨は既にあけたはずであったが、あいにくの雨模様であっった。
「本当に今日出立なされるのですか? 別のよき日に改められては?」
そう、門前から船に向かう聖に言ったのは、藁の合羽を羽織った、新蓮であった。傍らには、人間の女性が同じような合羽姿で一人たたずんでいた。おそらく、この女性が、おきよさんなのだろうと、聖の傍らにいる一輪は思った。
「いえ、やはり本日でます。決心が鈍りそうですから」
聖は、あけ放たれた門越しに離れの方を名残惜しそうに見ている。
結局、人間で船に乗る者は現れなっかった。いまは、おそらく皆、離れの屋根の下でこちらを伺っているのだろう。
一輪は、寺の中で息を潜める生物の気配を感じとっていた。
「皆、あなたと同じく、寂しがっておるようですよ」
聖の表情をみて新蓮が言った。
「ええ。ですが、たとえ住む所は離れても、私たちの志は同じのはずです。寂しがる、というのもおかしな話かもしれませんね」聖は笑って見せた。そして、自分のまつげを拭った。
「そうですよ。それに、この寺に帰ろうと思えばいつでも帰れます。なにも今生の別れというわけではないじゃないですか」一輪が言った。
「そうですね。では、この聖白蓮。いって参ります!」
そういった一輪は、勢いよく寺に背を向け、ためらいなく船に入っていった。
一輪が船に乗り込む同時に、船が音もなく浮かび上がった。
船の腹に作られた引き起こし式の窓から、聖はずっと寺をみている。
寺の姿がどんどん小さくなり、船が針路を変えた事で山裾の地平に隠れてしまった頃、船は目的地に着陸した。
新天地である。
~三之五~
結局、あと少しで法要が始まる頃まで、星達は起き出してこなかった。
「ナズを起こしに行ったら私まで寝てしまうとは……不覚でした!」
「馬鹿じゃないかご主人は! 全くあんなまねを、朝っぱらから!」
そう言いあいながら、慌てた様子で縁の下を駆ける二人。
幻想郷に来てからという物、たいてい、この二人と村紗が順繰りに寝坊するのが通例となっていた。
世の中結構上手く行く物で、三人は当番制のように寝坊するので、誰かしら起こす面子には不足していないはずであった。
二人が控え室へ入っていくと、そこには一輪と村紗、ぬえまでもが既に中にいた。
「ナズーリンを起こしに行っただけの割には、ずいぶんと時間がかかったねえ」
お経の束を持った一輪が、どこまでも優しく冷たい笑顔をしていた。
「いや、これには理由があるんですよ。ナズがなかなか起きてくれなくて」
「私のせいにする気満々の所悪いが。ご主人が私を起こさずに、何故か私の布団に入り込んで熟睡してしまったのが原因なんだよ」
「だって、ナズがあまりにも気持ちよさそうに寝てるんでつい……」
「だからって私を抱き枕にするのは止めてくれたまえ!」
口論を始めた二人を前に、一輪はため息をつく。
「はいはい、分かったから。星も学習しないねえ」
「ううう、ごめんなさい」
「すまない」
「もう半刻も立たないうちに法要が始めるわ。星は寝ぼけてないで、ちゃんと毘沙門天の代理してね。ちゃんと寝間着から着替えてから」
おそろいの柄の寝間着を着た二人は頷いて、連れ添うように手水に向かって歩き去っていった。
彼女達が手をつないでいるのは、おそらくどちら側も意識してのことではないだろう。
一輪達が本堂への廊下に移動すると、本堂内部では多数の人妖であふれかえっていた。
大きく造られた本堂でも人員が入りきらず、一部の屈強そうな妖怪はすぐ隣の中庭にて敷かれた敷物の上で座って、法要の開始される時間を待っているようである。
「一輪ちゃん、星ちゃん達は起きた?」白蓮が小走りに駆けてきた。
「ええ、ただいま準備をさせています」
「そう、良かった」そういった白蓮は、明らかに安堵した表情を見せた。
「ムラサちゃん。私が朝言ったお客様がいらしたわ。今はぬえちゃんが応接しているけど、あなたが変わって、例の席に案内してくれないかしら?」
「任せてください。じゃ、ぬえっちが粗相をしないうちに、急ぐとするかね」と、ムラサは飛び去った。
「あと、一輪ちゃんは、全体を見て回って、何か準備に漏れがないかどうか見てちょうだい」
「分かりました姐さん。ところで、あの氷精はどうなりました?」
「あの子ね。あの子は、早苗さんと一緒に本堂の下座に隣接した小部屋に案内したわ。あそこなら、本堂にも中庭にも全体に冷風を送ることが出来るでしょ?」
そういって、直ぐ近くにある部屋を指さした。
言われてみれば、その方角辺りから、なんだか涼しい風がながれてきている気がする。
だが、
「その割には静かですね」一輪は言った。というか、その部屋からは物音一つしない。
「ああ、それはね。あの子のことを心配して、探しに来てた妖精ちゃん達の中に、音を消す事の出来る子がいたのよ」
「へえ、ってことは、あの巫女は妖精達に囲まれた状態なのですね」
一輪はその様子を想像して、苦笑した。
あいつらって、女性の長くて綺麗な髪をひっぱりたがるからなあ。
~無之六~
「今日は特別暑いねぇ」一輪は坂道を上りながら手ぬぐいを手に、相棒の雲山に話かけた。
彼も頷く。夏とはいえ、ぎらぎらと輝く太陽に一輪は閉口した。雲山の輪郭がいつになくはっきりして、心なしか体格も大きくなっている気がする。
そうこうしているうちに命蓮寺に到着した。
「ただいま戻りました」そういった一輪に、別の妖怪が向き合う。
「お疲れさまです、一輪様」
「聖は?」
「まだ、山頂へ説法に行かれたままです」
この妖怪は、聖の説法に導かれ、仏の道に入門した数少ないと妖怪の一匹であった。
二十年。
聖がこの地へやってきてから、目の前の妖怪が命蓮寺で寝起きするまでに経過した年数である。
いまでは、少数ながら、この妖怪のように仏門に入り、命蓮寺でともに暮らす妖怪がいる。
寺から移動した船の着陸地には、本当に多くの魑魅魍魎がいた。
妖怪だけならまだしも、無縁仏、自縛霊などが多数漂う魔の山であった。その数は余りに多く、ある夜など、船の聖の寝所へそれらがふらふらと、聖の布団の中へ飛び込んだこともあり、キャッと悲鳴を上げた聖のために、村紗とふたりで、はたきやら孫の手やらでその霊を追い回したこともあった。
そのため、聖は命蓮寺と名を変えた船を根拠地に、東西奔走して周囲の土地の慰撫に飛び回る日々が続いてたのだった。
朝は浮かばれぬ霊を慰め、昼は襲いくる妖怪から身を守り。夜は襲撃者へ説法を行う日々が続いた。
一輪たちもできる限り手伝った。
村紗と雲山は妖怪退治を、一輪は説法を手伝った。
そのような活動が実を結び、人も命蓮寺へ参拝できそうだと聖が判断したのが、五年前のことであった。
その日より、一輪は里から命蓮寺へ至る獣道を見回ることにしていた。
寅丸星と名乗る山の有力な妖怪が命蓮寺に帰依して以来、人が妖怪に襲われる危険は皆無になったが、里人に対する危険はそれだけではない。妖怪が比較的おとなしくなったせいか、最近は野盗などがその姿をよく見かけるようになってしまったのだった。
堂にはいると、仏門にはいった妖怪の一人である、寅丸星が座禅を組んでいた。傍らには、彼女の配下のナズーリンがかしずいている。
「ただいま戻りました、星様」一輪の言葉に、星は閉じていた瞳を開け、窮屈そうに微笑んだ。
「一輪さん、お疲れさまです。ですが、この寺ではあなたが先輩なのです。私のことはただ星、と呼んでください」
「いえいえ。あなたは毘沙門天の代理なのです。本来なら、星様、と呼ぶことさえ不敬なのですよ」一輪は言った。
いくら一輪たちが命蓮寺への道を整えたとて、里の人々の間では、命蓮寺は妖怪の寺、という印象が深く染み着いてしまっていた。それは半ば事実なのだが、そのために、人間の参拝客はほぼいない状況が続いている。
さらに、最近は妖怪の入信者も徐々に減っていた。と、いうよりも、命蓮寺を妖怪退治の拠点ではと疑いの目で見ていた妖怪ばかりが残ったのだった。
人間は妖怪に、妖怪は聖の信仰におびえていたのだった。
それらを一挙に解決する策として聖が考えたのが、地上に、聖の信仰する毘沙門天の代理にする、というものだった。
人間には、命蓮寺まで足を運んで貰う途中、毘沙門天の守護があることを強調するため。
妖怪も、目に見える形で、彼らと直接は敵対しない毘沙門天の力を表すことで、命蓮寺への不信感を減殺するためであった。だからこそ、山の妖怪の一員である寅丸星に代理役の白羽の矢が当たったのだった。知り合った中ならば、警戒感もより少なくなるだろうから。
「御主人殿。その件についてはこのナズーリン、一輪殿と全く意見を同一にしています」
ナズーリンが膝立ちで寅丸の前に進み出る。
かしこまって主の前に跪き、畏敬の態度を全面に表した彼女だが、目にはなにかしら冷えた物を含んでいた。少なくとも、この場に居合わせた一輪は、そう見て取った。
「確かに御主人殿は真面目に毘沙門天の代理をこなしておられる。命蓮寺の部外者の私から見ても、最近は寺の周囲から不穏な妖怪の気配が消えたのがわかります。それらは、全くの所、御主人殿の功績として良いでしょう」
「毘沙門天様から遣わされたあなたにそこまでいわれると、なんだか照れますね、ナズーリンさん」
「その態度です、問題は。あなたは妖怪にしては温厚すぎる。凶悪な気質の妖怪になど毘沙門天の代理などつとまりませんが、それにしてもあなたは威厳がなさすぎる」
寅丸は、頭を下げる。
「申し訳ない。それは全く私の不徳の致すところ。ですが、それと一輪殿の呼び方とどういう関わりが?」
「仏格は、一輪殿よりも御主人殿の方が圧倒的に上なのです。それなのに、一輪殿に呼び捨てを許せば、他の者等も真似しましょう。その状況で、果たして毘沙門天の威厳を、格を保つことができましょうや? 私なども、一介の妖怪にしか過ぎません。そういう私に対しても敬語をお使いになられる、というのは感心しませんな」
寅丸は少し考え込むそぶりを見せた後、大いに頷いた。
「ふむ、わかりました。なるほど、私は毘沙門天の代理としてまだまだ未熟のようですね。まだ至らぬところがあるかと思いますが、これからも命蓮寺のため、いろいろ指摘をお願いします」
ナズーリンはため息をひとつ、ついた。
「わかりました、御主人殿。しかし、私は命蓮寺に帰依したわけではなく、あくまで毘沙門天の代理の部下としてあなたに仕えているのを忘れないでいただきたい。ですから、極論いたしますと、命蓮寺が危機に陥ったとしても私には全く関わりのないことです」
一輪は背筋に嫌な感触を覚えた。
寅丸も、嫌な感情を覚えたのか、温厚な顔ながら、その必要もないのに居住まいを正した。
「ふむ。ナズーリンさん。あなたは存外に厳しい方のようだ」
「さらに言っておきますが、御主人殿。もし御主人が毘沙門天の代理に相応しくない、と私が判断した場合、私は毘沙門天に報告します。もしそうなったら、その時点で貴方様は私の御主人ではなくなりますし、何より貴方様は毘沙門天の代理ではなくなります」
「それはなかなかに手厳しいですね」
ナズーリンは少し笑った。
「ですが、そんなことをすれば毘沙門天の仏格が落ちてしまいますから、あくまで最後の手段です。ですが、毘沙門天の代理である御主人殿におかれましては、ゆめゆめそのことをお忘れ無きよう」
「分かりました。ナズーリンさん、ならば、貴方が許容しうる限りにおいて、共に仏道を邁進しましょう」
「御意」
ナズーリンは改めて、自分の主に最も深いお辞儀をおこなう。
その日、聖が命蓮寺に帰還した時刻は、夕日が地平に付くか付かないかの、かなり遅いものとなっていた。
「お帰りなさい、聖。本日もお疲れ様です」
それを迎える特権は、一輪だけの物であるのが、命蓮寺の暗黙の掟となっていた。
二人は連れだって、赤く日に染められた門をくぐる。
聖がふと、思い出したように言った。
「そういえば、近頃全然麓の寺に行ってないわね。最後に新蓮さんと会ってから、十年もたってしまったわ」
「十五年以上ですよ、聖」
「もうそんなになったかしら?」
聖も、引っ越し後、最初の何年かは無い暇を無理矢理作っては麓の寺へと足を運んでいた。一輪も供を行っていたので良く覚えている。
しかし、命蓮寺の多忙さゆえ、聖が最後に麓の寺に訪問してからかなりの月日がたってしまった。
ころころ。からから。
石造りの道に、一輪の履いた下駄がのんびりと音色を奏でる。
「そんなに年数がたったのなら、あの寺も、ずいぶん変わったでしょうねえ。なつみちゃん達は、今頃どうしてるかしら」
ほう。
聖はため息をついた。
それを見た一輪は思わず顔が綻ぶ。
「もう、寺を出て、結婚して。ひょっとしたら子供の見合い相手でも探している位でしょうか」
「あら、まあ。そんなになっちゃう? やだわ、なつみちゃんといったら、あの小さな頃の姿しか覚えてないせいか、どんな女性になってるのか全く想像できないみたい」
一輪も、あの小さな子供がどんなに成長しているのか、まるきり予想が付いていなかった。
「案外、既に命蓮寺に参拝してたりしていたかもしれませんね」
「そうかもしれないわね」
ここ数年のことだが、幸いにも、命蓮寺へ参拝しに来る人間が、ごく僅かであるが出てきていた。
五年前は年に一人。三年前は三人。
今年は、まだ八月だというのに、既に六人以上の人間の参拝客の姿を一輪は確認している。
まあ、どの顔も、一輪は見知らぬ顔で、いずれも遠方からの旅人のような格好をしていたが。
境内の道を半ばまで来たとき、聖は歩くのを止めた。
「長かったわね」聖がぽつりと言った。
「ええ。ですが先はもっと長そうですね」一輪が言った。
「そうね。命蓮寺も、ようやく形になってきたわ。でも、妖怪と人間が普通に仲良く暮らせるまでには至ってないわ。確かに、人間の参拝客は居るけど、お寺に寝泊まりする人間の方は居ない」
「ええ。それが、次の目標ですね。私達と人間が仲良く枕を並べる、というのが」
だが、村紗の寝相の悪さに耐えられる物はそうそう居ないのではないか。一輪は笑った。
「そうよ。信じましょう、命蓮寺をここまでにしてきた私達なら、きっとできるわ」
聖の言葉に、一輪は強く頷いた。
「少しずつ、だけれど確実に、ですね。聖」
頷く代わりににっこりと微笑んだ聖は、今日の夕餉当番はだれかしら、と歌を口ずさみながら再び歩き始めた。
「ええ。幸いにも私達には、人の寿命を越えて、たっぷりと時間が与えられているわ。一輪さん、共に焦らず、じっくりと積み上げていきましょう」聖は言った。
「はい」
しかし、時間は残されていなかった。
~南之五~
最初、それは霞か、あるいは、入道である自分の目の錯覚かと思った。
秋の夕日を背にして、遙か上空では烏の鳴き声が山へ向かって寂しく響いていた。
大層大きな、だが雷にでも打たれたか、半ば炭化した一本杉のたもとで、それはたき火に当てられた熱気のように、蜃気楼のごとくゆらゆらと揺らめいていた。
間違いない。彼は確信した。
あれはモロクだ。
同じような秋の終わり、五年前にであった記憶を、彼は未だはっきりと覚えていた。
(大妖のモロク様も、油断しちまった。修験者とはいえ、たかが普通の人間に遅れをとっちまった)
その妖怪は、彼と少女を見て静かに語りかけた。
音声として言葉を発したのか、意識に直接語りかけたのか、それすら判然としない、酷く弱った言葉だった。
この妖怪。もう、ながくはないな。
彼の目には、出会ったときから、どうしてもモロクの詳しい姿をとらえることは出来なかったものの、それでも今のモロクが死にゆく存在であることは完全に理解することが出来た。
(人は強くなった。いや、俺たち化け物が弱くなったのか)
そういったモロクの声は、どこか悲しげで、同時にそれで居て少し楽しげでもあった。
(だが、俺も仕舞いだ。もういけねえ)
笑っているつもりだろうか。
そういった彼の言葉に、所々老人が咳をしたような雑音が混じる。
死ぬのか。
(ああ、死ぬさ。だが、直前にお前達に出会ったのは、これは運命か? まったく)
モロクの意識が、娘に向けられた様に感じた。
(おめえ。あんたには、俺を殺す権利がある。いや、義務だ。あんたの復讐を、恨みを精算しなくちゃならねえ)
娘は身を震わせた。
(普段ならあっという間に返り討ちにしてやるんだが。今の俺になら、あんたは、俺にちょいと殺意を向けるだけでヤれるはずさ)
娘は話に聞き入っている。
彼に、それを止めるすべはない。
(俺は紛れもない只の妖怪だ。その俺が死ぬって事は、存在そのものが無くなってしまうって事。この時より、俺の歴史は綺麗さっぱり消え去っちまう。退場さ。だから、静かに消えていくとするよ。俺が、この世で生きてきた証拠も一緒に持ってな。だからあんたの恨みも、俺が持って行ってやる)
「さあ、俺を殺せ!」
娘は呆然としている。
「わたしは――」
そう呟いた後、娘が静かに、モロクに近づいていった。
しばらく、陽炎になったそれを見つつ、その懐に、おもむろにかがみ込む。
娘は言った。
「あなたを許します」
だれが?
いったい何を?
そう思ったのはモロクもおなじだったようだ。
「なに言ってんだこの餓鬼は……まったく」
だが、その口ぶりとは裏腹に。
「だが、まあ。何となくだが、礼は言っておくさ。ありがとな、へへっ」
気恥ずかしそうにそういって、モロクはこの世より完全に消滅した。
彼は突如気がついた。
ああ、そういうことか。
娘は今、モロクに何かを与えたのだろう。
モロクは、娘のなにかをもらったのだろう。
そう思ったとき、ふと、彼は娘との別れが迫り来ていることをなぜかはっきりと自覚したのだった。
二週間後も、彼は同じ事を考えていた。
あれからどのくらいの月日がたったのか?
この子と出会ってから。
娘と全国を回った。
成仏させた魂も、千を優に超える。
それでも、この世から苦痛を抱えた霊が消えさることはなかった。
戦、行き倒れ、流行病。
どれもが、何食わぬ顔で人の世と同居していた。
丘の向こうでは、娘が化け物の為に経を唱えている。
その光景自体、彼には見慣れたはずのもののはずであった。
「おとん。もう、行く?」
経を読み終えた娘が振り返り、聞く。
入道の姿をしている彼とは違い。
娘は、見た目は人間そのものであった。
だが、彼は知っている。
人間にしては、娘の寿命がかなり遅いことに。
彼の記憶の限り、娘とは百年以上共に生を歩んできた。
にもかかわらず、娘は未だ、十代半ばの様な容姿を保ち続けている。
やはり、人間として生まれ変わることはできなんだか。
だがな。
人身御供となって死んだ人間の子の魂が、私の目の前で生まれ変わったのがお前だ。
実はな、お輪。
お前は一字、その死んだ赤ん坊の名前から名前をもらっているのだよ。
入道は心の中で、そう、娘にそっと呟いた。
~三之六~
一輪は死んだ。
もとい、暑さで茹だり、へばりきっていた。
「まったく……今日の客人は」
椅子に座って、扇で、ゆであがった頭に風を送る。
となりでは、ムラサが同じ事をしていた。ぬえは近くの縁側にすわり、素足を外の風に当てている。
「『軽いお話を』で二時間突破したもんね。あの暑さの中で」
「聖以外まともに聞いてた人いなかったんじゃない?」
「本当ね。助っ人がいなけりゃ割と本気で死人が出てたかも」
そこに、元気な寅がやってきた。お供をつれてやってきた。
「みなさん、お疲れ様です!」
「巫女も妖精達も含めて、みんな無事に帰ったよ」ナズーリンが言った。
「元気ねえ、星は」
「何言ってるんですか一輪。聖の法要に参加したんですから元気一杯なのは当たり前じゃないですか!」星は両腕に力こぶを出して見せた。ニコニコと太陽みたいな笑顔をしている。
星は今までずっと、毘沙門天の代理として、立ちっぱなしであったはずなのに、これである。
「その元気と責任感が、毎朝、起きる時にも発揮してもらいたいもんだ」ナズーリンがため息をついた。
「私が寝坊助さんなのはあなたもしってるじゃないですか。だから、私を起こしてくれなかった貴方の責任ですよ」笑顔で言う星。
「なんだい、その理論は? いい加減にしないと、そのうち毘沙門天にその旨報告するからね!」
「大丈夫ですよ。ナズーが私と一緒に居てくれてるって事は、あなたが私のことをずっと毘沙門天の代理だと認めてくれてるってことですものね」
星の言葉に、ナズーリンは言葉を詰まらせ、顔を真っ赤にし始めた。
「ほら、夫婦喧嘩はよそでやってよ。暑苦しいったらありゃしない」
ぬえの言葉に、一輪も笑った。
「そういえば、星。今、姐さんは客人の応接してるじゃない? お茶を汲んで行かなきゃいけないのだけど、代わってくれないかしら。なんだか私、とても疲れちゃって」
「そんなことですか。おやすい御用ですよ。それじゃあナズー、そういうわけだからあなたが――ふにゃん!」
星の脳天に、二本のダウジングロッドが命中し、それはそれは小気味よい音を奏でた。
「あれ、おかしいなあ? いまなんとなく、『毘沙門天の代理を騙った怠け者の堕猫』をダウジングしてたんだけど、どういう訳かご主人のところでやたら強い反応が見られるんだよね」
「痛っ、止めて。わかりました、分かりましたから!」
星はそういって、台所の方角へ姿を消した。
ナズーリンも彼女の後に続く。
時折、彼女の声が聞こえる。
「つ、つっつかないで。私がひゃうん、そこ弱いって事ふえっ、知ってるじゃないですかぁっ!」
「まったく」
一輪はため息をつく。
「あんなに寝坊していたんじゃ問題だ。聖の立場のことを考えるべきだよ」村紗が言った。
「あんたもかなりの頻度で寝坊してるじゃない」
「いいんだよ私は。仏道に関しちゃ無任所だし。そういえば、いっちん、私の記憶が正しければ、あんたは一度も寝坊したことがない様な気が」
「そだっけ?」
「うん。どんなに私が早起きしても、その頭巾をかぶった姿にしか出会った記憶がないわ」
「ああ、そうかもね」一輪は微笑んだ。
「いっちん。君の頭巾は何かの由来でもあるのかい? ひょっとして何かの御利益があるとか」
「いいえ、ないけど?」
「実は私、いっちんの頭巾をとった姿って一度も見たことがないのよね」
「あ、私も。きになるな~」縁側で足をぶらぶらさせていたぬえが振り向き、言った。
「何か理由があるの? そうでないなら、ちょっと頭巾をとって見せてよ」
「そんな大層なものじゃないよ。只、くせっ毛が強いから、普段から頭巾でまとめてるだけで」
「じゃ、みせてよ」
「みーせーてー」
ぬえと村紗が声を合わせる。
「改まって言われると照れるわね」
そういいながら、一輪は丁寧にに頭巾を外した。そうすると、青紫色の、少しウェーブのかかった髪の毛が扇状に広がる。
ムラサが、一輪の髪の毛に手櫛を入れながら、驚嘆の声を上げた。
「あら、セミロングなんだ。綺麗じゃない。それに髪質も結構イイみたいだし。フワフワ!」
「案外普通だね」ぬえは拍子抜けしたのか、あぐらをかいている。
「いいえ、ぬえっち。むしろどこにお嫁に出してもおかしくないレベルよ。そんななら、頭巾なんかで隠さずに普段から出しとけばいいのに」
「いや、実は私って結構寝癖が酷くって。頭巾で強制しないと駄目なのよ」
「へー、一輪が寝癖が酷いって意外。どのくらい? 最近たまに見られる朝の聖くらい?」
「う、うん。まあね。あのくらいよ」
「それは酷い」ぬえが言った。
「ならしょうがないわね」ムラサが気の毒そうにうなずく。
幻想郷での白蓮は、気がゆるんだせいかたまに寝癖が酷く、ひょっとしたら、最近の外界の雑誌辺りなどでは、そういう髪型、として特集を組まれそうな程の勢いで天に向かってさかのぼっているのだった。
会話が途切れた。
姐さんと私、髪質が似ているのかもしれない。一輪は思った。
「でもさ一輪、そういう髪型してるとさ」
ぬえはふと呟いた。
「あんた、まるで聖にそっくりね」
~無之七~
その日の夜。
満月が天頂辺りにある子の刻。
一輪は寺の周囲の騒がしさによって目覚めた。
最初、妖怪の仕業かと思った。
が、違う。一輪の感じた気配は、紛れもなく人間の物であった。それも数え切れないほど多くだ。
「誰か居ないの?」一輪は言った。
だが、異変があった時には、すぐに彼女の元に駆けつける事になっているはずの雲山も、見張りに立つ当番の妖怪すら報告に来ない。
嫌な予感が、全身を駆け巡った。
宿舎を出ると、真夜中だというのに辺りの姿が良く見て取れた。
無数の篝火や松明が、寺を取り囲んでいたのだ。
塀の向こう側からは、人間の囁くような話し声が聞こえてくる。
一輪は走り出した。
命蓮寺の一番大きな出入り口、正門では、少数の人間が境内に入り込んでいた。
見張りや警護役の妖怪の気配がない。おそらく封じられたか、退治されたのだろう。
正門の扉は大きく開け放たれていて、外側には何百物もの人間のが遠くからでも確認できた。
だが、その人間達の気配は、いっこうに寺の敷地内にはいってこようとする気配はない。
一輪がよく見ると、境内に入り込んだ人間の中に、ただ一人、こちらを背に、何かを阻むように手を横一杯に広げている者がいた。
聖だった。
聖の隣まで走り込んだとき、一輪は向かいの人間の側に、法力を動かした後の痕跡を感じ取った。
おそらく、雲山や見張りの妖怪は封印されてしまったようである。
思わず構えをとった一輪にも、聖は険しい視線を向ける。
炬火によって髪が真っ赤に染められているように見えるのは、おそらく一輪の錯覚であろう。
だが、聖は怒りとも悲しみともつかぬ激しい表情で、全身を震わせていた。
人間はみな、こちらを伺っている。
恐れ、憎しみ。そういった者を極限に昇華させてしまった、ともすれば無表情と見間違えかねない表情をしていた。
いや、ただ一人、純粋に憎しみの目つきをした人間が聖の目の前に立っていた。
「なつみさん、何故ですか」
聖の正面にたった、群衆の指導者らしき中年の尼僧が口を開く。
「聖様。時代は変わりました。人は成長したのです。もはや妖怪は、恐れる物ではなく、退治し、根絶すべき、ただの汚物、害獣になり果てたのです」
なつみは、汚物、という単語を吐き捨てるように言った。
「そんな。ここにいる妖怪に皆さんは仏の道に帰依した方々です。そのような方を汚物などと……。人であると言うことと妖怪であるということ。そこにどんな差があるのでしょう?」
「人にも罪があるように、妖怪にも生まれ持った業があります。その業がある限り、妖怪は人と共存できません。してはならないのです」
聖の口が開いた。
だが、意味のある言葉としては声を発することが出来なかった。
「それで私達を、聖とこの寺、妖怪達をどうするつもりだ?」一輪は言った。
「私達も見知った中ではありません。退治はせずに、地の奥深くに封印します。特に聖は徹底的に」
「そんなこと、許しません!」聖は言った。
「でも、出来ないでしょう? 今では、法力では私の力が貴方を上回っています。あなた方は既に、どんな術すら使うことができていない」
その通りだった。一輪も、どんなに努力してみても、自身の浮遊すら出来ていない。
「私は貴方に法力を教えた事は無いはずなのに」
「ええ、聖様。あなたが寺をでてから、私は新蓮様の元で厳しい修行を積みましたから」
なつみの視線が、チラリと殺気立つ人間の群衆の一角に向かう。
中に、聖は見知った初老の男を見つけ出し、驚愕した。
「新蓮さん。まさか、貴方もなつみさんと同じ意見なのですか?」
彼は無言で答えた。
「あの寺の住人どころか、麓の里人の総意ですらあります」なつみは言った。
「そんな……」
だが、一輪の見るところ、それ以上のようであった。あそこの寺と、麓の里の村人。全員を動員しても、今取り囲んでいる人間の数に足りないのだ。
「なつみさん。何故そうまでして私を封じようとするのですか?」
なつみは答えない。
「妖怪に手を貸す、私が憎いのですか?」
その言葉に、なつみは聖から顔を背ける。
聖は施しを乞う乞食のようなすがりつく表情でなつみを見た。
「私が憎いのなら、どうか、標的は私だけにしてください。一輪さん達には手を出さないで」
なつみの左右にいる見知らぬ人間がなつみをみて頷いた。
彼らにせかされるようにして、なつみは再び聖の目をはっきりと見据えた。
「そんな願いが通じるとでも思いますか?」
「お願いします。お慈悲を」そういって、聖は土下座した。そこには、いつもの聖の神聖さは全くなかった。
「ふざけるな!」
激高したなつみが勢いよく低音で呪文を唱えると、寺を丸ごと覆うような広大で、複雑な文様のの陣が地面に出現する。
みるみるうちに、命蓮寺の船と聖、それに一輪が地面の暗黒に飲まれていく。
その上、聖にだけ、黄色に光る紐のような物でがんじがらめに身動き一つ出来ないようになっていた。
「あなたは。人は。なぜ妖怪と寛容に接する事ができないのか。なぜですか、どうして!」
絶叫に近い叫びを最後に、聖は一輪や船よりも早く、あっという間に地底の闇に消え去った。
それを見届けて、なつみは叫んだ。
叫んで、泣き崩れるように地面に両の拳をたたきつける。
「二十年前のあの日! 何より、誰よりも貴方の慈悲が必要だった私達を見捨てたのは誰ですか! 裏切ったのは私ではない、貴方だ! 聖様、あなたが私達を捨てたのです! あなたは私達よりそこにいる様な妖怪をとった。私にはそれが絶対に許せない!」
嗚咽にも似た絶叫を聞いて、一輪の心は奇妙に静まっていった。
ふと、言ってみた。
「なつみさん。聖に、私からなにか伝えることはありますか?」
なつみはあっけにとられた。口を呆けたようにあけ、涙を流すままに、一輪をぼうっと見た。
その後、ほんの少し落ち着きを取り戻したように、なつみは震える声で言った。
「貴方たち妖怪と、聖様は封印する位相が違うので、もはや会うこともないでしょう。しかし、万が一があったのならば。言葉を交わす事ができたのなら。お伝えください。その、地底でも、お元気で、と」
「分かりました」
そう返事して辺りを見回した一輪は、封印されるいまわの際に、終始何も言わなかった新蓮の表情を見ることとなった。
ああ、そうか。
私も白蓮あたりに、顔だけで土下座を表現する事になったら、あんな顔つきをするだろうな。
一輪は、そう納得した。
人間だって、必ずしも一枚岩ではないのだ。
~三之七~
「失礼いたします。粗茶をお持ちしました」
星が茶を持って入室したとき、丁度、聖と客人の話が一段落付いたらしかった。
「あなたにはもっと個人的に色々と言いたいこともあるのですが、今日はこれくらいにして止めておきましょう。しっかりとお勤めを果たすように」
そう、聖に向かってちゃぶ台越しに語り終えたのは四季映姫である。
彼女は今日、法要の客人として招かれていたのだった。
「はい、心得ております」
白蓮は閻魔に向かって、あくまで屈託のない笑顔で返事をする。
「どうぞ」
「ああ、これはありがとう。そういう貴方は寅丸星ですね。前から貴方には言いたかったのですが、特にここ最近、貴方は毘沙門天の代理としては覚悟が足りなすぎる。白蓮が封印されてもまじめだったあなたが、一体どうしたというのですか?」
そういって、映姫は星に差し出された緑茶をすすり始めた。
飲んだ後は、まだまだ語りたい事があるようだった。おそらくウン時間コースだろう。
星は慌てて、
「そういえば、聖には高名な僧の弟がいましたよね。どんな方か、閻魔様はご存じですか?」
「私は閻魔ですから、弟君の為したこと全てが分かっています。しかし、私は生者に死者の功績がどうとか、そういうことは決して語りはしません」と、映姫は茶を飲みながら横目で星を見た。
「ええ、星ちゃん。普通でしたら生前中に閻魔様にお会いできるなんて無いことですし。だから私達は位牌を作りますよね。死者をまつり慰めるために、そしてその方を忘れないために」
そういって、白蓮はその部屋の仏壇上に掲げてある黒い位牌を見た。そこには、命連の戒名が金字で彫り込まれている。
「それは弟君のですね。では、その隣の小さな物は?」
映姫は、隣に並んである、ボロボロの白木でできた小さな位牌らしき物を指さした。
「あれですか。妹のですわ」
白蓮は、懐かしそうに微笑む。
「ああ」映姫は、それで全てが分かったかのように相づちを打つ。
二人の間では、この会話はこれで完結した。
だが、星は驚いた。
「白蓮さまに、妹が居たのですか?」
「ええ、私には、弟の命蓮の他に、実はもう一人、妹がいたのです」
白蓮は、映姫をみたまま、星に語りかけた。
「それで、一体どのような方なのですか?」
「死にました。彼女が生まれたばかりの時に」
遙か昔、幻想の外での出来事である。
「私が普通の娘として生まれたときは、まだ妖怪が跋扈していた時代でした。運悪く、私の故郷の近くに大妖が来たことがありまして。その妖怪を鎮めるために、人身御供が必要だったのです」
白蓮は淡々と語る。映姫は大きく頷いた。
「当時は命蓮も白蓮も、法力すら持たぬ只の子供。調伏などとても出来るものではなかった。それに他の僧侶に助けを乞おうにも、彼女の故郷の寒村は貧乏で、報酬すらまともに払うことが出来なかったのです。そういう世界での話ですよ」
「閻魔様の言うとおりです。私も命蓮も、物心すらついていなかっった。後で両親に聞かされるまでそのこのことを覚えていなかったぐらいですもの」
「そうなんですか」
「そこで、生まれたばかりで名前すらまだ付いていなかった、私の妹が白羽の矢に立ったのです」
「それで?」星が言った。
「それで、というと?」
「妹君はどうなったのですか?」
「そのまま、妖怪の贄になりましたよ」
「え、そんな。それではあまりに救いが」
「そうですね。ですが、あの時代はああいったものでした。貴方も知っているでしょう」
「ああ、そうですね」
そうなのだ。例え星自身が人を襲っていなくとも、そのような時代、歴史に、星も生きていた事実があったのだった。
「私の母は、せめて来世が幸せになるように、この犠牲が報われるようにと、生贄に連れて行かれる直前に、妹を『輪音』と名付たそうです。ずいぶん後でその話を知った私と命蓮は、弔いをしようと遺体を探し回ったのですが、なにぶん十数年後だった物で、遺品すら見つけられませんでした。結局、二人でこの位牌を作り、弔いのまねごとをするしか出来ませんでした。でも、私達二人は一心に、それこそ一生懸命祈った」
白蓮が寂しそうに笑う。
「思えばあれが、私達兄妹が仏門に入るきっかけだったのかもしれないと、今ではそう思えてならないのです」
「そうでしたか。差し出がましいことを聞いて申し訳ありません」
白蓮は、百里彼方を仰ぎ見るような目つきをした。
「私は時たま気になるのです。妹はあの世で苦しまなかったのか。また、来世があったのであれば、満足の行く来世を送ることが出来たのかを」
その言葉に、映姫が頷いた。
「そうですね。行く末のほうについては、それを判断するにはまだまだ時間が沢山かかりそうですし、これからどうなって行くのか、私も興味があります」
その後、しばらくして、ハッとしたように、映姫は首を傾けて、舌をチョロッとだして見せた。
「おっと、これは失言でした。忘れてください」
十三年前には、おそらくここに死体があったのだろう。
そんな景色の香りが、ふと、したような気がした。
びょう、びょうと、すすき野が啼く。
季節に遅れてやってきた野分の影響か。
行く当てもなく、道なき道の旅をしていた彼が、その少女を見つけた事は本当に偶然だった。
まるで何かから隠れるように、丸裸のまま、ぽつんと膝を抱えて座っていたからだ。
ともすれば彼も、彼女をすすきの中に見落としていたであろう。
憐れな……
そのような感情を抱いた彼は、しかし、自分にはその娘に何もしてやれないことを、風の吹くままな旅をしてきた経験上、嫌と言うほど知っていた。
少女の佇む傍らの地面には、産着と思わしき布が半分以上土に埋もれて、風化し始めている。
おそらく彼女の名前であろう、文字を書いた刺繍が施してあったが、彼には漢字一字分しか読み取ることは出来なかった。
妖怪の仕業か。人身御供にでもされたのだろう。
もし、彼がこの地に行き着いたのが十数年早ければ、物の怪が、彼女のまだ赤ん坊だった肢体を、その内蔵を楽しげにかき回しながらむさぼり食っていた様子を見ることが出来たであろう。
だが、彼女の意識は未だ自分が死んだことを知らず。魂のみがゆっくりとだが成長を続けて、幼女といっても良い位の肉付けを、儚くも朧気な魂に与えていた。
いまの彼女自身に自意識はなく、虚空を見続けているだけのようである。
死んでから年月もたち、おそらくは妖の領域に踏み込みかけている彼女の魂を、彼は只じっと見据えることしかできなかった。
私が人間などであったなら、手を合わせ、経の一つでもあげるのだが……
そう思った彼は同時に、自分の滑稽さにも気がついた。
普通の人間には、この少女の魂を見つけ出すことすら出来ないな……
彼は、青白い肌をした、空虚な目つきをした半透明の少女を見ながら、自分を嗤った。
仏法がこの国にやってきて未だ日が浅く、彼のように帰依に至った妖怪はなおも少ない。
全ての仏門は妖怪の存在そのものを忌避しているからだ。
彼がどんなに信仰深くとも、妖怪である彼自身は無力だった。
胸にむなしさと皮肉を感じながらも、自分の身体で彼女の魂に触れる真似事をした彼は、ふいに、その奇跡を目の当たりにした。
みるみるうちに、彼女の魂が肉体を持ち始め、その血流は脈を打ち始める。
彼は辺りを見回したが、動く物は風と彼以外に、誰もいなかった。
これは一体。
彼はそう思いながらも、自分の不定の肉体で少女を覆った。
秋とは言え、全裸ではせっかく生きている少女も凍え死んでしまうだろう。
彼女の魂が彼の肉体に触れると、心なしか、少女の血色が良くなった気がした。
彼の精気を少女の魂が吸い取ったのだろうか?
どんな偶然か知らぬが。
せっかく拾った命。無駄にはすまい。
彼は未だ肉体を構築している最中の少女を持ち上げ、人の生活している場所を求め、移動を始めた。
~無之一~
彼女の名は、一輪といった。
道なき道をひたすらはしった。
駆けに駆け、そのたびに道を切り開いた。
そのうちに、自然に空を飛ぶことを覚えたのだった。
いつのことだったか、噂を聞いた。
普通は人間だけを救うはずの仏門で、人妖問わず等しく信徒として扱う僧が居るらしいと。
聖白蓮。
そうだ、この尼僧ならば。
私の進むべき道。
衆目を救う力。
そういった、彼女の求めている物を、白蓮が全て持ち合わせているような気が、一輪にはした。
そして。
彼女こそが。
彼女こそが、わたしの。
~三之一~
トン、トントン。トン……
「あいたっ」
小味の良い包丁のリズムが、朝の台所から響いていた。
「ふんふん、ふ~ん」
どこか音程の外れた、だがどこまでもうれしそうな鼻歌を歌いながら、白蓮が大根に刃を入れる。
命蓮寺の台所に入ってきた一輪はうれしい驚きを覚えた。
「あれ、姐さん? おかしいな、さっきまで星が調理してたと思ったのに」
「おはよう、一輪ちゃん。実は、星ちゃんにはナズーリンちゃんを起こしに行ってもらってるのよ。それで私が代わりに調理をね」
白蓮の言葉に、ああそうですか、と頷く。
「それでは、今日は姐さんの朝餉がいただけるわけですね。これは僥倖です」一輪は笑った。
「味噌汁、ちょっと味見してくれない? ずいぶん久しぶりに作ったから自信なくて」
そういって、白蓮は小皿に一口分だけ、合わせ味噌で作った味噌汁をうつし、一輪に差し出した。
「はい。おお、葱の風味が良く出ていますね。塩味も、私はこのくらいが大好きです。ぬえなどは薄いと感じるかもしれませんが」
「そう? 実はこのおネギ、ぬえちゃんが選んだのよ。今朝の、人里の朝市で」
白蓮はうれしそうに笑った。
一輪の知る限り、ぬえはあまり人と馴れ馴れしくする妖怪ではない。だが、近頃はできるだけ白蓮と打ち解けるように彼女なりに努力している風ではあった。それが、白蓮にはたまらなくうれしいらしい。
その必要は無いだろうが、一輪は小皿に息を吹きかけて、味噌汁を舌の上に吸い込んだ。
「むむ、おいしい。この味が、私はなかなか出せないんですよ。せめて料理だけでも弟子入りしておけばよかった」
「そういえば、一輪ちゃん。あなたって、私の所に来たのは、仏弟子になりにきたんでしたっけ」
ふと、白蓮が昔を懐かしむように笑った。
~無之二~
「どうか、どうか。私をあなた様の弟子にしてください」
目の前で跪拝する女性がいる。
彼女の背、はるか上空には、巣に帰らんと夕日の中を雁が飛んでいる。それを見あげながら、白蓮は、ああどうしよう、と心の中でつぶやいた。
目の前の彼女は、
「聖様。あなたが、人妖問わず仏法を説く、ときいて押しかけてまいりました」
見た目はまじめで清楚な尼僧の格好をしているが。
その実、白蓮は、彼女の身体から、普通の人間には出せぬ強さの超常の力を放っているのを感じ取っていた。おそらく、自分と同じく、その見かけの容姿の何倍もの寿命を生きてきたに違いない。
「どうか立ってください。あなた、ええと、お名前は?」
「一輪、と申します」
彼女の言うとおり、たしかに白蓮には、仏門に属する身としてはいささか妖怪に友好的過ぎるという評判が僧侶達の間に立っていた。
だが、白蓮本人に言わせれば、その表現は不十分ですらあった。
正直のところ、妖怪には敬意を払っているつもりである。
実際は、自分に施した不老の術が弱まるのを恐れたからという、ひどく利己的な動機であったのだ。
具体的には、人間の信徒に妖怪退治を頼まれて、いざ闘い、完全に調伏できるような場合でも、わざと妖怪を逃がしたりしてきていた。
その際に、人間への申し訳程度に、妖怪へ仏の慈悲や共生の道を説いたりした。
だが、それ以上には、聖は妖怪達の領域には踏み込まなかった。現実には、彼女は妖怪退治以外で妖怪と触れ合うこともなかった。
そのために、今までは白蓮の寺に妖怪が帰依を望んでくること自体なかった。
「私のような、人にあらざる物でも、なおも仏の道を歩みたいのです」
「ですが、人ではないあなたの身。仏門などに入ってしまって、矛盾は無いのですか?」
仏の道は救済の道。比べて妖怪の道は異なる。
「妖怪は人を襲い、恐れさすものだと? 仮にそれが本質だとしても、いや、果たしてそれが、それのみが真理なのでしょうか?」
それを聞いて、白蓮は考え込んだ。
確かに彼女の長い人生の中でも、仏門に入ったという妖怪などは寡聞にして聞いたことが無い。
というか、よくよく考えてみれば、自分は別に妖怪に詳しいわけではない事に気づく。
「人は人の、妖怪は妖怪の本分を全うするのが本道ではないのでしょうか」
「それでは人の本分とは、いったいなんですか」
そう返されて、ハタと詰まった。
いったいなんであろうか。
僧侶は、魂を安んじることが本分とすれば。
侍は、主君を守り奉ることが本分か。
だが、僧侶は命を大切にしなければならないが、侍は、場合によっては敵の人間を打ち殺すことも本分として求められる。
僧侶も侍も、どちらも同じ人間である。
「正直、よくわかりません。私も未熟ですね」白蓮は言った。
「人には、それぞれ異なる本分を持ちます。職によっては、それぞれ相反する本分を持つ者たちもいるでしょう。それと同様に、妖怪にも、仏道をもって本分とする物がいても良いのではないでしょうか」
「それが、あなたである。と?」
「そこまで驕っている訳ではありませんが、できればそうありたい、と願っています」
「そうですか」
白蓮は目を瞑った。
畿内で大きな変があって後、近頃は、人心も荒れ、人間の信仰が薄くなっている。
加えて、白蓮自身、実力はあるのに妖怪を滅ぼさないため、自然と、門徒の足は白蓮の寺から遠ざかっているのが現状であった。
このようなことになるのは必然か。
白蓮は、そう思った。
「わかりました。あなたは見た目が人間と変わりないですし、この寺に住んでも、檀家さん等も怯えたりしないでしょう。ですが、私もまだまだ未熟者の身。弟子を取ることはできませんが、ともに歩む同志としてであれば、この寺にあなたの籍を用意しましょう」
~南之二~
彼はふと、思い立った。
あの子は今、どうしているだろうか。
夏の新緑が映える山道を、彼は滑るようにのぼった。
あのとき、この前来た時は全てが枯れた色をしていたが。
そう思いながら、そう高くはない山の麓にたつ山寺を目指した。
特に有名な寺ではなかったが、地元の村落と距離があるにもかかわらず、それなりに活気のある寺のように見えた物だった。
彼は上空から、若い弟子が何人か、大きいとは言えない寺の境内を活発に掃除している様子を見て、出会ったばかりのあの少女を、ここに預ける決心をしたのだった。
当初より彼自身が少女を扶育するつもりは全くなかった。
彼は入道。一人の娘を、それもまだ物心すらつかない少女を、彼は養うすべを全く持ち合わせていなかったからだ。
あの時と同じように、上空から、静かに寺の全景を俯瞰する。
前回は枝から葉が落ち、石庭にたまっていたそれを若い男弟子が賢明に清掃する姿を見ることが出来た。
今は、張り出した木々の深い緑が、彼をして中庭を除くことを許さなかった。
彼は、寺の住人を驚かさないように気をつけながら、更に近づいた。
土で出来た、やや崩れかけた塀の上に乗り、そっと中を伺う。
寺の本堂から、経を読む音が聞こえる。
何の経かは分からぬが、男の出す声が、寺の境内を染み渡らせていた。
法要の最中なのだろう。
そう思った彼に、不意に声がかけられた。
「あなたって、あの時ここに私を連れてきた妖怪のひとでしょ!」
今まで気がつかなかったが、彼の塀の根本に、少女が居た。
少し成長した、あの娘である。
彼は驚いた。
あの時、彼女はかなり幼かったはずである。それに十分月日もたち、彼はもう自分のことなど覚えては居まい、と考えていた。
さらに、未だこの無情な世に、妖怪の自分に対して、親しげに話しかける人間が居るとは信じられなかった。
だが、それ以上に彼は目を疑った。
娘はこの寺に住んでいるはずなのに、少女のたたずまいに、まるで仏法の香りが感じられない。
みすぼらしい、鼠色の一張羅を羽織っている辺り、どこかの下女といった雰囲気であった。
お前はここに住んでいるのではないのか? なぜそんな格好をしている?
彼はおもわず言った。普通の人間では絶対に聞き取れないはずの入道の声で。
だが、少女はこともなげに、彼の言葉を返した。
「兄弟子様たちは、私のことを『化け物の子』っていうの。まともな人間じゃないって。前のお坊様はやさしかったけど、去年の暮れに死んじゃったし」
私の言葉がわかるのか。
そんな彼の言葉にかまわず、少女は言った。
「教えて。私は人の子じゃないの? 化け物の子なの?」
いいや、お前は人の子だ。
少しの逡巡の後、彼はそういった。
幽霊としてさまよいかけていた人の魂が、どういうわけか私の目の前で、肉体を持って生まれ変わったのがお前だ。
「そう」
彼の言葉は少女の心を晴らすものではなかったらしい。
「人だけども、やっぱり私はまともな人間じゃないのね」
少女の瞳に、木陰の陰りが映る。
彼はどういうわけか、少女に反駁する勇気を持てなかった。
しばらくした後、少女は三歩、大きく前に蹴り飛んだ。
そして振り返り、
「お願いがあるの」
少女はさわやかに言った。
「私を、ここから連れて行ってくれない?」
~三之二~
朝餉の準備が大方終わった後、白蓮と一輪は連れだって正門前に顔を出した。
白蓮が手をかざして太陽をみる。
「今日は暑くなりそうですね」
ぎらぎらとした初夏の太陽は、その元気を嫌というほど皆に伝えたいようだった。
「姐さん、天狗の天気予報でも、今日は夕方までこのままみたいですよ」
「そうね。今日の法要には人間も妖怪もきますし、体力のないお年寄りの参加もありますから、そのあたり配慮が必要ですね」
昨日に少し雨が降ったせいか、やけに蒸している。
朝方の今の時間帯でも、一輪達は少し汗ばみ始めていた。
と、そこに竹箒をもったムラサがのんびりやってきた。
彼女もかすかに汗ばんでいて、額には少しだけ、玉の汗が浮かんでいた。
心なしかムラサの水兵服が透けているように見えるのは、一輪の錯覚だろうか?
そういえば、今日の寺周りの掃き掃除当番はムラサのはずだった。
「うっす、いっちん。おはようございます、聖」
「おはよう、ムラサちゃん」
「や、みっちゃん」
「こんな湿気だと、打ち水やったらかえって蒸し暑くなりそうだよ。みんながやってくる直前に少しだけ水を撒くくらいがいいかもしれないね」
「そっか、じゃあ結構厳しいねえ」
「ああ、今日の法要は人数が多いから中庭まで席を作るんだっけ?」
「そうなの。上手いこと考えないと。とりあえず、雲山、居る?」一輪はそういって空を見上げた。
青白い空の、霞の隙間から入道が音もなく飛んできた。
「雲山、悪いけど、今日の法要も中庭上空で頑張ってお日様よけになってくれない?」
雲山は、当然、という風に力強く頷く。
「ごめんなさいね雲山ちゃん。ほとんど毎回そんな役目を負わせちゃって」白蓮がすまなそうに頭を下げた。
「いいんですよ。実は雲山って、仏法の教義そのものにはあんまり興味はないんですよ。ただひたすら、姐さんを慕ってるだけで」
「そうなのですか?」
「聖ったらもてるぅ。妬けるねぇ、堅物の雲山にそれほど一途に想われてるなんて」
「ムラサちゃんったら、茶化さないの」そういってたしなむ白蓮の顔も不満ではない様子である。
「でも、いくら入道だからって長い時間空中で漂うだけっていうのも飽きるでしょう」
「いえ、姐さん。雲山曰く、暇を見つけては色々知り合いを作っているようですよ。最近はイクさんという方と仲良くなって、え、ふぃいばあ、とかいうのを一緒に楽しんでいるそうです。ちょっと雲山、ふぃいばあってなに?」
「なかなか楽しげな響きのする言葉ですね。それよりも、雲山ちゃんもお友達が出来てて、安心しました。その、イクさんというのはどんな方なのですか?」
「どうなのよ雲山。え、美人?」
「まあ、雲山ちゃんって結構やり手なのねえ」
「おい、おいおい、綿飴。私の聖に二股かけるなんていい度胸してるじゃないのさ」
そうすごむムサラの目はとても面白そうに笑っていた。
「ところでみっちゃん。丁度良かった。たった今朝餉の支度がすんだ所なんだ」一輪はいった。
「そりゃ奇遇だ。私も、たった今、朝の勤めが終わったとこだね。私のは、ね」ムラサが返す。
「なら、朝餉にしましょう。他の人たちも呼んであげてくださいな」
そう言った、白蓮の隣には、いつの間にかぬえがいた。また、雲山は食事をしないので、彼はいつのように、屋根の上で気ままに浮かんでいる。
なので、ここで言う他の人たちとは、星とナズーリンのことである。
「それがデスね、二人とも未だに船を漕いでいるようでして」
そういう村紗は面白い悪戯を思いついたような悪ガキの顔をしていた。
「その海は大きそう?」
「大きい大きい。その上、呆れるような凪みたいなんだ」
いつもの事ながら、一輪は頭を振った。
「まったく、あの毘沙門天の代理は何を考えてるんだか」
「まあまあ。幻想郷に来るまで緊張の連続だったからね、あの御仁は。だから、少し疲れてるんだろうよ。まぁ、油断しすぎなことは認めるがね」
船長は、肩をすくめた。
~無之三~
「一輪様、起きてください」
春のあけぼの。最も睡眠が心地よい頃であった。
布団の中身を、ゆさゆさと動かすものがいる。
朝から、ようやく冬の刺すような寒さが消えてきた雰囲気に誘われて、そのとき一輪は熟睡しきっていた。
気だるく布団からぬけだし、自分を起こしにきたものと顔を合わせる。
顔つきにまだあどけなさの残る、齢十二歳くらいの人間の少女が、不安げな顔をして一輪の顔を覗き込んでいた。
「なつみさん。どうかなさいましたか?」
たしか、この子は。七年前の秋に人浚いから助けたのがきっかけで寺に住み着いたのだっけ。
そう、一輪は回想した。
あれはやけに暑い日のことだった。
聖の寺の元に、一件の奇妙な供養の依頼があったのは。
とある村の長が直々に、火事で一家全員が焼けた村人の供養をお願いしてきたのだ。奇妙、というのは、その割には、その長は、家のあった場所を口で伝えると、そそくさと逃げるようにその場を去ったことだった。
聖と一輪はとりあえず、その村の村落から緩い坂を一つ越えた、少し離れたところにある一軒だけの家屋に向かったのだが、その農家らしき家屋は大黒柱まで完璧に焼け落ちていた。奇妙なことに、どの柱も、小指くらいの大きさの穴が、無数に空いている。
聖が、居間立ったらしき空間に目を留め、絶句した。
そこには、夫婦らしき、性別も判然と付かない、完全に焼けただれた人間の黒こげがふたつと、その間に、力士二人分はあろうかという大きさの鼬が焼死体となって横たわっていた。
一輪が死体を詳しく調べると、人間の死体の方は、巨大な動物の爪でのどを引き裂かれている様で、鼬の方は、背中と腹に無数の矢が射かけられたらしき跡が見られた。
「一輪さん、これは」聖が震える声で言った。
「鼬は妖怪でしょう。この一家が妖怪におそわれているのを知ったほかの村人が、一斉にこの家に向かって矢を射たのでしょう」
「とすると、まさか、村の方達が、この家ごと妖怪を焼いたのでしょうか?」
「おそらく」
「悲しいことですが、だとすると、あの長の態度も納得がいきますね。この一家がたっている家の立地条件からして、この一家はほかの村人たちとうまくいっていなかったのかもしれませんね」
あるいは、村八分だったのかも。一輪は思った。
聖がその場でひざまづき、一心に祈りを捧げ始めたとき、不意に台所の跡から、静かに人影が飛び出すのを一輪は見のがさなかった。
「待て、何者だ!」
見とがめられたのを悟ったのか、その人影は移動を停止した。薄汚い格好をした男が、灰まみれの無表情な少女を連れていた。おそらく、少女はこの家の生き残りだろう。
「その少女をどうするつもりだ?」
「なにって? 売るのさ」男はふてぶてと言った。
「やめなさい!」聖が言った。髪の毛が総毛立ち、視線だけで男を滅しかねない勢いだった。事実、妖怪を退ける為の術を男に向けて放たんとしている。
一輪はとっさに、
「聖、ここは私が」聖と男の間に割って入り、遠出の際には身につけていた鉄の輪で男の眉間を殴りつけた。
男は瞬時に意識をとばし、崩れ落ちる。
少女の手は握られた男の掌から解放された。
だが、少女は虚ろな目をしたまま、微動だにしない。
まるで、自分が生きていることすら理解していないその瞳を、一輪はどこかで見たようか気がした。
しばらくして、半ば呆然とした聖が言った。
「なぜ、私を止めたのですか?」
「聖の法力は強力です。あなたでは、おそらくあの男は死んでいたでしょう。いくら極悪人でも、命です。僧侶であるあなたが、人を殺めてはいけない」一輪は言った。
一輪は突っ立ったままの少女に歩み寄り、屈んで目線をあわせた。
「あなたは、ここの家の子?」
コクリ。少女は頷いた。
「どこか、親戚とか、頼れる人はいる?」
少女は頭を振る。
「一輪様?」なつみの不安げな声で、一輪は我に返る。
回想の短髪だったなつみとは違い、目の前の少女は腰あたりまで伸ばした黒髪を後ろで一つにまとめている。
なつみはその後、寺で聖に育てられた。そのかいもあってか、彼女はかなり情の深い人間に育ちつつあると一輪は見ている。
また、彼女は、聖の手伝いを行うことに生き甲斐を感じている風であった。
今、寺にはなつみほどではないが、似たような境遇の元で聖に身を助けられたものや、身よりのないものたちが多数住み込んでいた。
いずれも人間である。
「おねがいです一輪様、聖様のもとに来てください」なつみは言った。
「わかりました」
一輪はひとまずそう答え、寝床の傍らに畳んでおいた外套をに身を包んだ。
それにしても、妙だわ。一輪は、ふと不吉な予感を感じた。
なつみは、主に白連の身の回りの世話をしており、寺の門を警護している一輪とはあまり面識がなかった。また、なつみと同じように、聖の周りにいる者は多数いるはずであり、ただの用事ならば、そのもの達に頼めばいいはずである。
「聖様の、身の一大事でございます」
そういうなつみは、小刻みに全身を震わせている。
「賊ですか?」
寺の警備を自称している自分を呼ぶあたり、真っ先に思いつくものがそれだった。
「いいえ、賊では……いや、ひょっとしたら賊かも……」
どうも要領を得ない。
一輪が、なつみに誘われるままに、寝ていた離れから本堂へ向かっていくと、その入り口で、聖白連が困惑した顔つきで二人を出迎えた。
そういった風景をみて、一輪はひとりで納得した。
まだ日の昇りきらぬ青い光に照らされた聖の隣に、不自然な水蒸気らしき塊が浮遊している。
「あの化け物がさっきから聖様にまとわりついているのです」
「なるほど、そうですか」そういいながらも、一輪はかの珍入者の意志が攻撃的なものではないことに気がついていた。
聖もそれは感じ取っているのか、妖怪退治に出かける際に見せるような凛々しさ溢れる表情をしていない。むしろ、あからさまにおろおろしているその姿は、良家の淑女が家族に内緒でこっそりとお出かけした街の市場で、不意に迷子に出会った場面を思わせる雰囲気であった。
「なつみちゃん、一輪さんをつれてきてくれたのね、ありがとう。でも、この妖怪の方は、私たちに害を加えない様に私は思えます。そういった気配がありませんから」
「ですが、野蛮な妖怪のすること。いつ聖様に仇なすかわかりません」なつみが一輪の背に隠れながら言った。
「なつみちゃんは妖怪を怖がりすぎよ。それにしても、この方はいったいどういう心づもりなのかしら。せめて、おしゃべりができたのであれば良かったのだけど」
そのとき、一輪には、その入道が悲しそうな目つきをしていることに気がついた。
ひょっとしたら。
やはり、この目つき。
ここを逃したら、もう行く当てはないと、思い詰めた顔つき。
自分も、この寺に始めてきたときは、こういった表情をしていなかったか?
私は今、全ての真実から目を背けて、知らないふりをすることもできる。いまの、このささやかながらも楽しい生活をずっと続けることもできる。
だが、それが果たして正しい道なのか? それは、私にとって正道か、一輪?
かりに正しくとも、これから胸を張って、この寺の一員として生きていけるか?
そう思ったとき、一輪は思わずため息をついた。
「この入道は、自分を雲山と名乗っています。また、聖のお慈悲に預かりたく、馳せ参じたとも」
「一輪さん、この方の意志がわかるの?」
「はい、私は人にあらず、入道と会話できますから」
そのとき、不意になつみが口を開く。
「一輪様、あなたは妖怪だったのですか?」
一瞬、答えるのをためらった。
「あなたは、私を、私達をだましていたのですね」
なつみの放つ言葉には、体温の暖かみが失われている。
一輪は胸に棘が刺さったような痛みを覚えた。
「まって、なつみちゃん。たぶん一輪さんも悪気があったわけでは……」
そういう聖の言葉を背中に浴びながら、なつみは奥の間へと走り去ってしまった。
「困ったわ、なつみちゃんとは後で話し合うとして。それで一輪さん、その雲山という方は具体的になにを望んでいるのかしら?」
一輪は雲山の顔をのぞき込む。
「聖の進む仏の道を、共に歩みたいと」
「そうなの?」
白連は、入道をまじまじと見つめ、
「ふふっ」にっこりと微笑んだ。
「あなた、体つきに似合わず、なつみちゃんとそっくりなことを言うのね。それによく見たら優しそうな目をしているわ」
言われた方の入道は、どことなく照れくさい顔をしているように一輪は思えた。
「雲山さん。あなたはこれ以後、人間に危害を加えないと誓えますか?」
「誓う、といっています」
「一輪さん、貴方からみて、この方は信用できる妖怪だと思いますか?」
「入道が嘘をついたという話は聞いたことがありません。私は信頼できると思います」
そうですか、と頷いた聖は、改めて雲山に向き合った。
「一輪さんがそう言うのであれば、雲山さん、あなたを信じましょう。この寺はあなたを歓迎します」
あっけらかんとした聖のその言葉に、雲山はともかく一輪も驚いた。
「私は一輪さんと暮らしてきてわかったことがあります。一輪さんは、ほかの人間の方々と同じくらいに、熱心にお勤めを果たしてきました。真の信仰の前には、妖怪も人間も区別はないのですね。そして雲山さんとなつみさんも、私と一輪さんのように、人と妖怪がお互いを尊重して対等に暮らすことができる。私はそう思います」
人と妖怪が平等に暮らす。
白連の言うそれは、確かに理想かもしれない。
だが、現実的ではない。一輪はそう思った。
妖怪にだって、役割をもって生まれた者がいる。
人を脅かすためだけに存在する妖怪もいる。
そういうものは、どうすればいいのだ?
だが、この時ばかりは、一輪はそれを言葉にして発することにためらいを覚えた。
~南之三~
入道である彼は進む。そこが道でなくとも歩む。
ここにはきた事は無いのだが、どこかで見たような気のする景色だ。
彼はそう思いながら、その小さな丘の頂上で周りを眺めていた。
頂上にある、一本の大きな木が、蝉の音をやかましくがなり立てている。
丘のすべてを覆いかぶさらんと、草が自らの緑色を濃くしていた。
その根元では、そのような騒がしさとは無縁とばかりに、ぼんやりと人霊が佇む。
何のことは無い、今の世の、どこにでもある景色なのだ。
全国を、たった独りで、幾度となく縦断してきた彼にとっては、そのような錯覚も覚えるくらいだった。
しかし、今では。
ふと、彼は振り返る。
彼の歩む先には道は無い。だが、歩んだ後は、草が掻き分けられて、わずかに道ができていた。
そこを、少女が彼を追いかけている。
おりん。
彼の呼びかけに、少女は両手を目一杯振って応える。
彼と少女が丘を登りきると、少女は彼にいわれずとも、心得たように盛り土をつくりはじめた。
その目つきはどこまでも真剣で。
作品を創る、一流の芸術家の目つきで、両手を黒土だらけにしていた。
少女がその作業を始めて、四半刻も立ったであろうか。
ようやく手を止めた少女は、やり遂げた顔つきをして、額に出ていた玉のような汗を拭った。
「おとん、こんな物でいいかな?」
振り返った少女は、見上げる目つきで質問する。
ああ、上出来だ。それでこの霊も成仏できよう。
「そう、じゃあ後はお祈りすれば良いんだね」
そういって、少女は手を合わせ、今までに何度唱えたか分からない経の文句を口にする。
たった一人の供養。虚空に向かって供養をする。
少女は、今までに、このようなことを数え切れないほど行ってきていた。
だが、おとんと呼ばれた妖怪は、少女のすぐ傍らに、妙齢の女性の魂を見ていた。
妖怪に襲われ、食われたであろう女性の背中には大きな牙を突き立てたような穴が開いている。
少女が一心に供養を唱えるごとに、苦悶にゆがんでいた女性の顔は安らかな微笑みへと変わっていく。
朝霧が太陽の日にさらされて蒸発するように、彼女の魂はゆっくりと昇華していった。
ああ、ありがとう……
そのありさまを唯一見つめていた入道の聴覚に、今まで聞いた覚えのない声が、そう囁いた気がした。
しばらくすると、経を唱え終えた少女が立ち上がった。
「どうだった、今回も上手くやれた?」
ああ。あの娘さんも無事、成仏出来たようだ。
入道がそう答えると、少女は満面の笑みを浮かべ、得意げに胸を張った。
「そう。じゃ、次の場所にいこっ!」
そういうがはやいか、少女は道なき道を我先にと駆けていった。
「おとん、はやくしないと、おいてっちゃうよ!」
おとんとよばれた彼は苦笑し、少女の後をゆっくりとついて行った。
二人の旅はまだ続く。
~三之三~
結局、その日の朝餉は、星とナズーリン抜きで食べることとなった。
なので、
「頂きます」その白蓮の言葉に唱和したのは、一輪、ムラサ、ぬえだけである。
「おいしいわぁ」ムラサがそういって、ほっこりと、こぼしながらも味噌汁をすすっている。
手間がかかるので一輪はそういったことはしないが、白蓮の味噌汁に入った葱は、一度火であぶって香りを引き立たせている。だから、硬めに炊いた玄米のご飯に良くあうのだ。
「ぬえちゃん。ご飯のおかわりいる?」
「う~ん……じゃあ、うん」
白蓮の言葉に、ほっぺたにご飯粒を付けたぬえが茶碗を差し出す。
隣に座った白蓮はそれを当然の様に受け取り、お櫃から山盛りにご飯を移していく。充実した、満面の笑みを浮かべながら。
それを見つつ、一輪が切り出す。
「本日の法要ですが、傘作りの予吉さん一家が、母君を引き連れて参加したいといってきました。足の悪い母君を予吉さんが背負ってくるので、念のため道中の護衛を頼みたいそうです」
「そうなの。じゃあ、一輪ちゃんかムラサちゃん、どちらかにお願いして良い?」
「もちろんです。ぜひ私にお任せください」ムラサが言った。
「それではムラサちゃん、お願いね。でも、いつもムラサちゃんに任せてしまっているようで悪いわね」
「とんでもない。あの家の五歳になる源太君は、海という、みたことがないものに非常に興味がありましてですねぇ、そのせいか、私と話が合うんですよ。もう盛り上がって盛り上がって」
「精神年齢も近そうだしね」一輪がいった。
「いったな、いっちん。でも源太は明るくておもしろいよ。いっちんも気に入ると思うな」
ムラサは笑った。
「そうね、みっちゃんがそんなに気に入るんだもの。私とも気が合うでしょうね」
一輪も笑った。
「それにしても、今日はあっついわ、本当」ムラサはそういいながら、食後のお茶を嗜んでいた。
海の女はいつだって食事と寝つきが早いのだ。
だが、今日のムラサはいつもの熱い緑茶ではなく、薄い、冷えた香片茶を飲んでいる。
「ムラサちゃん。あなた本当に良くかんでご飯食べてるの? 私不安だわご飯を良く噛まない人は病気になりやすいっていうし」
「わたしゃ妖怪ですぜ、聖。それにしてもこの暑さ、今日の法要では体力の弱い妖怪や人間達は屋内に案内するにしても、他に何か対策が必要だよ」
「そうね。でも、私達は幻想郷に来て日が浅いのでそういった生活の知恵があまりないわ。だれか相談できる方がいればいいのだけれど」
「聖の封印をといた巫女さん達なら何かいい案を持っているかもしれないね」ムラサがいった。
「じゃあ、朝食が終わったらさ、早速いってみようか。私とみっちゃんで手分けしてさ」
「うん。私はその足で予吉さん達を連れてくるから、紅くめでたい方にいってみるよ」
「じゃあ、私は緑のはっちゃけたほうね」
「それなら二人とも、お漬け物を持ってお行きなさいな」聖が言った。
彼女が言ってるのは、封印が解かれてから始めた、聖お手製の沢庵漬けのことである。
こりこりとした食感は素晴らしくよいのだが、相当塩辛いのはご愛敬である。
同時に、いぶりがっこも作っていたのだが、それはできが大変良く、既に皆で食べきってしまっていた。
「あと、前にも言ったと思ったけど。今日は大切なお客様をお呼びしましたからね。他の参拝客の皆様へも、もちろんそうだけど、くれぐれも失礼の無いよう、お願いしますね」
「はい。わかっています」一輪はそう答えながら思った。そういえば、果たしてあの巫女達は、幻想郷でも信仰を集められているのだろうか、と。
~無之四~
その日の正午過ぎ、聖が村紗と名乗る妖怪を連れてきたときは、さすがの一輪も呆れた。
雲山が来て以来、聖の寺では、人間の住人たちと一輪との間にぎくしゃくした空気がはびこり始めている。
皆が集まる法要や、食事の時間なども、表面上は皆以前と同じく一輪に接するのだが、どことなくぎこちなく、まるで下手な小芝居を無理矢理演じている風であった。
一輪はそれをある意味当然のこと、と受け入れた。
が、寺の当主の聖は、その様な雰囲気がとても気になっているようで、たびたび、一輪には内緒で人間の寺の住人たちと話し合いを持っているようである。
だが、その話し合いもうまくいっていないようだった。以前一輪と雲山は、堂の中から飛び出すなつみと、彼女の背中に、諫めるように訴えかける聖の声、というような組み合わせの光景を目にしたことがある。
一輪としては、聖と他の人間との間に、これ以上いらぬ軋轢を生んで欲しくないというのが本音である。
とみに最近は、聖が妖怪を飼っているという噂がながれ、麓の里の人間も、以前より更に参拝に訪れなくなってしまっていた。
そのような現状の中で、歩いて二月以上はかかる、遠方の漁村から妖怪退治の依頼を受けたのが先月のことだ。
その話を受けたとき、なぜか聖はその依頼を受けることを嫌がった。
土下座までしている、依頼者である網元の老人と、何を考えているのか分からぬ顔で側に聖の側に付き従っているなつみの前で、聖に妖怪退治を説いたのは、他でもない、一輪であった。
「正道を貫くのです、聖。里人の信仰を再び取り戻しましょう」
「ですが、その妖怪を完全に否定するようで、私は辛いです。話してみたら、一輪さんや雲山さんのように良い方かもしれないし」
「網元の話だと、今回の妖怪は船幽霊です。人を害するために生まれてきた様な存在ですよ。残念ですが、船幽霊は人間と相容れることができない妖怪なのです」
そのような一輪の言葉をきいて、聖は悲しそうな顔をしながらも、重い腰を上げた形で妖怪退治の依頼を受けたのだった。
だから、一輪も、聖が心から納得して妖怪退治の話を受け入れたとは思っていない。
しかし、まさか退治すべき妖怪を寺に連れてくるとは思わなかった。
西の空に、巨大な空飛ぶ船が現れたと思ったら、みるみるうちに寺の正門前に着陸し、中から、得意そうな顔の聖が降り立ったのだ。
そして、何事かと集まった寺の面子を前にして、
「皆さん、新しい仲間を紹介します。船幽霊の村紗水蜜さんです!」と元気いっぱいに、傍らにいる少女を紹介したのだ。
燦々と照る夏の太陽に照らされたその人型をした少女は、聖の紹介を当然のことだ、とでも言うように鼻を鳴らした。
自らを船長と名乗る妖怪の少女は、聖の寺と住人、最後に一輪と雲山をじろりと眺め回して、
「そうか、君が私みたく、人の姿をした妖怪の一輪君か」と、何故か不機嫌そうに喋った。
その言葉を聞いて、一輪以外の人混みが、さっと後ろに引いた。
「その通り、私が一輪よ」一輪は言った。
「私は船長としてこの地、この寺にやってきた。いわば寺の長だ。大船に乗ったつもりでいてくれよ」
その言葉を聞いて、人間である寺の住人から、戸惑いの声が発せられた。
「どういうことだ?」
「私たちは聖様に仕えるためにこの寺にいるのであって、妖怪なんぞに仕える為じゃないわよ!」
その騒ぎを一喝するかのように、
「ムラサさんには、この空飛ぶ船の船長をしていただきます。そして、私はこの船もお寺にするつもりでいます」
そう、聖は言った。
「村紗とやら。この寺は一応人間の方が人数が多いのだから我々の方が遠慮しないと」
「何故だ? 聖は、この寺は人も妖怪も区別なく、と言ったぞ。それに、聖以外の人間は、別に突出した徳なぞ積んでいない様に見える。徳の差がそれほどないのなら、力ある者が組織の上に立つのは当然のことだよ」
一輪は思わず頭を抱えた。この調子では、この寺の内部ですら人妖の調和など望めなくなるだろう。
だが、一輪はあきれながらも、村紗と名乗るこの高慢な妖怪の目に違和感を感じた。あのような話しを本気でする者に、彼女が今見せている、奇妙に碧くすんだ瞳の色が出せるとはとても思えなかったのだ。
その日の夜、一輪は一人で聖と対面した。
ムラサをつれてきた聖の真意を聞くためであり、また今後の寺の方針を聞くためでもあった。
じりじりと淡く儚い光を放つ一本のろうそくを挟み、二人は正座で向かい合っていた。
「ムラサさんは、長年船幽霊として人々を襲っていました。ですが、もともとは不運にも海に溺れ亡くなった人間です。ですから、私は船幽霊の役割に縛られた彼女を、新たな船を与えることで因縁から解放することにしました。一輪さん、確かに以前貴方が言っていた通り、人とは相入れる事のできない役割を持った妖怪は確かに存在します。ですが、そのような方には、新たな役割を与えてあげればよいのではないでしょうか?」
沈黙のあと、一輪は言った。
「確かにそれは理想です。ですが、新たな役割を与えられたとはいえ、元は人に仇なしていた存在。その様なものを、人間の人々は笑顔で受け入れるでしょうか? あの妖怪の、あの高飛車な態度もそういった物を感じ取った怯えから来るものかもしれません」
「私は人間の心根を信じています。人は、最初は石を投げるかもしれません。しかし、努力してお互いが歩み寄れば、いつの日かわかり会える日が来る。そのように、私は人間を信じたい」
沈黙。
いつの間にか、一匹の蛾が蝋燭の光に誘き出され、誰にも気が付かれないままに、その身を燃やし尽くしていた。
静かに灰が床を舞う。
「わたしは正直こわいのです。聖の理想は大変立派です。立派すぎると言っていい。ですが、その理想が余りにも立派すぎて、現実と解離しすぎた結果、いまのこの寺の危うい共存状態すら幻想となってしまうのではないかと思ってしまうのです」
「そうかもしれません。その危険は、確かにあるでしょう」聖の口調は、あくまで真摯だった。
「ですが、仏の救済の手は人妖の区別なく差し伸べられるべきです。私はそう、考えます」
一輪は言葉に詰まった。
この末世の中、妖怪にすら仏の慈悲を与えようとしている人間は、一輪の知る限り、目の前にいる聖白連だけなのだ。
「世の中には、少数ですが、貴方のような仏門に目覚めた妖怪の方がいます。ですが、かなしいことに仏門の側に、人間の方に、その方達を受け入れる余地がありません、我らの方が妖怪との共生を端から拒んでいるのです。私はそのような方々に手をさしのべ、ムラサさんの飛倉を、そんな心ある妖怪達と人々の楽園にしたい、そう、考えているのです」
一輪は、おどけて笑ってみた。
「あの船は楽園ですか。そうしたら、聖。貴方はさしずめ、その楽園のすてきな住職ですね」
聖も、つられて、舌をだして笑って見せた。
「そうですね。ですが、この船の中でくらい、私の幻想を実現したい。そう言う欲望を私は感じています。その様な欲の感情を覚える私は、全然すてきではないし、下手すると、住職失格かもしれませんよ?」
~南之四~
晩秋の道を二人で歩んでいるときだった。
草原を蛇行しながら進む獣道に、ひょろっと立つ柳のふもと。
そこに、いつの間にかそれはうずくまっていた。
「ほう、これはこれは」
見慣れぬ妖怪だ。
四つん這いの獣のような、それでいてよくわからないすがたかたちをしている。なんともたとえようのない格好だ。
五十年ほど前、人間の百姓に農地の所有が許されてからという物、彼らは精力的に自分の農地を広げ始めた。昨今は怪異をそれほど恐れず、昔は神仙の領域とされていた場所にすら鍬を入れ続けている。
そのためか、彼はここ最近、自分以外の妖怪に出会うことは非常に希になっていた。
ふと娘を見やると、その妖怪を見つめたまま、かなりの後方でしゃがみ込んでしまっている。
どうしたのかと近づくと、全身ががくがくと震えているのが見て取れた。
「やはりそうか。お前はあの時の娘だな。記憶はなくとも、魂の記録まではなかなか消えぬ、ということかな」
どういうことだ? 一体何を言っている?
「そうか、そこのお前。入道がこいつの父親代わりというわけか」
妖怪は彼を上からしたまでなめるように眺め回した後、面白がる様に言った。
「お前の娘の内臓、とっても甘くてうまかったぞ」
瞬間、娘は全身を固まらせた。
こいつは、危険だ。
そう直感した彼は、娘を自分の体で覆いつくした。
まさか、また娘を喰うつもりか?
そういいながら、彼はいつでも戦えるように姿勢を変えた。
「俺が? その娘を? 何でまた?」
その化け物は踊るように言った。
「このモロク、喰うのは人間だけよ。妖怪は妖怪らしく、な」
化け物は、なおも警戒を緩めない彼の周りを、盆踊りを踊るように回る。
「そう睨むない、変わり者よう」
モロクはかぷかぷと笑った。
変わり者だと?
「そうだろ? 妖怪ってのはあれだ、人を恐れさせて、その脳髄に恐怖を刻みつけてナンボのもんさね。それがあんた、そんな娘の父親代わりをするなんざお笑い種もいいところだ。人に恐れを与える。その本分を果たさずして何が妖怪か!」
人を恐れさせる。それだけか?
それだけが本分ではなかろう。
彼のその反駁に、モロクは、
「それだけ人間となれ合ってきたのだ。御前様も気づいていよう。妖怪の数はますます少なく、弱く。人間の数はますます多くなっている。それに、人間どもの、俺たち妖怪を見る目つきすら恐れではなくなりつつある」
なにがいいたい?
「御前様みたいに、妖怪の本分を果たさないやつは、怠け者ってんだ。さて」
モロクは視線の先を彼から娘へと移した。
「俺たち妖怪はな、なにも人間が憎くて人肉を喰らうんじゃねえ。人間を恐れさせ、人間の記憶に自分を刻み付けなくちゃ、俺たちは生きていけねえ。消えちまうんだ」
「だからって、私を食べたの? あんなに、とっても痛いのに?」
娘の声は震えていて、どこまでもか細い。
「ああ、喰うね。なにも俺は人間が憎いわけじゃねえけどな。ああやるのが俺たちの、人との正しいかかわり方だからだ」
モロクのその言葉に、娘は耳を覆った。
去れ!
彼は周りの空気を取り込み、身体を大きくした。
「おおう、怒らしちまったか。ま、いいか。お邪魔虫はそろそろ退散するとすっか。面白い物も見れたことだし」
そういったモロクは、あっという間に姿を消し去ってしまった。
「おとん、怖い」
二人で旅を始めてから、はじめて、娘が怖いといった。
大丈夫だ、おりん。私がお前を守る。
そう、彼は自身に強く言い聞かせた。
だが。
自分は百年前などと比べて、明らかに弱くなっていた。
このままでは、十数年以内に自分も存在することすら出来なくなってしまうことだろう。
せめて、この子が独り立ちするくらいまでは、一緒に居られると良いのだが。
~三之四~
「すみませんね、現人神自ら協力頂けるなんて」
「いえいえ、里人の皆さんのお役に立てるならばこそですよ」
一輪は早苗を連れ天狗の山を下っていた。しかも神社で造られたと言う日本酒のお土産を持った上で。
守矢神社に相談しに言ったところ、神社の二柱は、
「早苗、言っておやり」
「お土産か土産話よろしくー」と、あっさりと神社の風祝を貸し出してくれた。
風祝の吹かす風で、少しは涼しくなるだろう、とのことである。
「ごめんなさいね。あの沢庵、実は姐さんの失敗作なのにこんな一升瓶を頂いちゃって。それにこのお酒、人里で人気なんでしょう?」一輪は言った。そういった一輪も早苗も、空を飛びながら山を下っている。
「気にしないでください。神奈子さまとかは生きてきた年月が長いせいか、しょっぱい物が大好きなんです。ですからあれも喜んで食べてくれますよ。良い酒の肴が来た! とか言って」
しかし、一輪が持たされた日本酒は、毎期、予約だけで売り切れになるくらいの人気の酒だと聞いている。こんな物を本当に頂いていい物だろうか、と一輪は心の中で思った。また、「現人神が作った口噛み酒と見せかけた口噛みでない少し口噛みの酒」というネーミングはさすがにあざとすぎるとも。
「一輪さん、何か言いましたか?」
「いいえ、何も言ってませんよ」
二人が命蓮寺の上空についたとき、ムラサ達の方が寺に一足早く到着していた。
門前では、到着した総勢八名を数える予吉一家のうち、ふくよかな体格をした奥方が白蓮と立ち話に花を咲かせていた。
傍らにはムラサが、小さな子供一人は入るような大きな麻袋を肩に背負っている。
隣には、なぜか、からかさお化けの小傘もいた。
それをみた早苗は急転直下。
「小傘さん、お久しぶりです!」と、目を妖しく輝かせ始めた。
「なんか帰り道でつまんなそうにしてたから、連れてきちゃった」とは地上に降り立った一輪に対するムラサの弁。
「小傘さん、ハグしましょう、ハグ! 最近の外界じゃフリーハグというのが流行っているそうですから!」そういいながら、早苗は小傘の小さな体躯を羽交い締めにし、頬を顔に擦りつけ始めた。
「早苗、わちきを子供扱いしないで。そ、それに、うぷ、苦しいよう」
「何言ってるんですか、小傘さんはとっても可愛いじゃないですか。本当に子供みたいです」風祝はそういって、髪の毛をぐちゃぐちゃとかき回し始めた。
後で恨まれそうなのであえて手を付けなかった一輪だが、一人、その争乱の輪に話しかける人間がいた。
日焼けした、体格の良い中年男性、傘作りの予吉その人だ。
「お久しぶりです早苗様。しかし、ムラサ船長に聞いたけんど、こんな可愛い子が付喪神とは。幻想郷生まれの俺でも結構驚きましたよ」
「ううう、こんな事でも餓えが和らぐって、わちき、ものすごい複雑」
「じゃあ、小傘は唐傘お化けなんて止めて、ギャップ萌えアイドルに転向すれば?」ムラサが言った。
「駄目です船長さん。小傘さんのかわいさは私だけの物です!」
髪の毛をもみくちゃにされた子傘は、上目遣いで早苗を見上げ、言った。
「早苗は優しいけど優しくないから、わちきはちょっとやだ」
「じゃあ、もっとお互いを知り尽くしましょう? それにしても、小傘さんの傘って、そんな変な茄子色してるから、ちょっとは日傘になるかと思いきや、全然日光遮断しませんね。使えませんね。ダメダメです」
「早苗がいじめる~」
「でも小傘さん、あなたって付喪神みたいなものでしょう? それって結構年経ている訳ですよね。でも、見た感じ傘は全然古びた様子は見えないんですけど」
早苗は首を傾げる。
「どれ、ちょっと見せてくれないか」予吉は小傘に言った。
しばらく眺め回した後に、ひとつ、大きなため息をつく。
「う~ん、お前さんの傘、良い紙を使ってるけど染めの処理がみょうだな。なんとなく、『おりじなりてー』を表現しようとして見事に失敗しようとした感じだな」
「わちき、『おりじなりてー』がどんな意味か分からないけど、なんだか悪いこと言われてる気がする!」
「まったく、熱いのに良くやるよ」
そう独りごちた一輪のもとへムラサが近づいてきた。
「守矢神社の暑さ対策は早苗かあ」
「そういう博霊は、その袋?」
「ああ、あの巫女さん、最初は協力することすら渋ってたけどね。聖の沢庵あげたら、いきなり立ち上がって、『ちょっと待ってなさい』って。で、どこからかこの袋を担いで渡してきたってわけ」
そういってムラサは、一輪に背を向いて袋を近づけた。
微かにだが、麻袋全体が冷気をまとっているように一輪は感じた。
「これをどうしろと?」
「体力のないお婆ちゃんの側にでも置いとけば、だって。あと、中は絶対見るなとさ」
そういって、ムラサは麻袋を地面に落とした。
と、
「ぎゃん!」麻袋が声を発した。
そのうえ、麻袋が地面にあがったミミズのようにのたうち回り始めた。
「これって」
「もしかして」
一輪とムラサは一瞬顔を見合わせた後、急いで袋を開けにかかる。
やはりというかなんというか。
袋の中身は、縄でがんじがらめにされ、猿ぐつわまで施された一匹の水色の服を着た妖精であった。
「一体全体あたいをどうしようって言うのよ!」
一輪が猿ぐつわを外した結果、第一声がこれである。
「まったくあの巫女は。自然に対する畏敬の念とか、そういう物は持ち合わせていないのかねえ」
一輪が、全身にぐるぐる巻きにされた縄をほどいても、妖精は警戒を解くことはなかった。
両手を真上に、鶴のように上げ、ついでに片足を上げて威嚇のポーズを披露している。
まぁ、当然か。
苦笑しながら頭を撫でようとすると、両手と片足をますます高く上げて睨み付けてきた。
「どうしたもんかねぇ」
そこに、
「私にまかせてくださいな」と、白蓮が妖精の目の前で屈み、妖精の目をまっすぐ見る。
「こんな事もあろうかと、妖精ちゃん。甘いのいらない? ほらこれ、金平糖さんっていうらしいの」
そういって懐から色とりどりのそれを取り出し、妖精の眼前につきだした。
「金平糖くらい、あたいしってるよ」妖精はそういいながらも、視線は常に、白蓮の手のひらの上で転がっているそれに向けられていた。
「ほら、源太君もはるかちゃんも、それから子傘ちゃんもこっちにいらっしゃいな」
白蓮の呼びかけに答え、予吉の二人の幼い子供が勢いよく集まってきた。
「ほらまたー。白蓮もわちきのこと、子供扱いするー」
「あら? 子傘ちゃんは金平糖さんいらないのかしら?」
「……いる」
「南無三っと」
白蓮はそういいながら、差し出された小さな四つの右手に向かって金平糖を配っていった。皆平等に、三粒ずつ。南無三だけに。
「みんな、仲良くね」白蓮はそういって、よいしょっと腰を上げた。
「姐さん。ひょっとしていつも持ち歩いてるんですか?」
「ええ。実は、あっちにいた頃から珍味を持ち歩いていたのよ。さすがの一輪ちゃんもこればっかりは知らなかったでしょう」
最近は飴とかだったのだけど、今日みたいにあついとね、と白蓮は手で顔に風を送った。
「そうなんですか」
二人の目の前では、早くも子供達は子供達だけの世界を形作っている。
「あ、あんた、黄色いの持ってるじゃない。それちょーだい!」
「えー? でも、妖精さんのもってる緑の奴と交換ならいいよ」
「あたいは緑は二つ持ってるからいいよ。一つあげる!」
「すごい! 妖精さんの持ってた金平糖、冷たくて美味しいよ!」
「ふふん。さすが最強のあたいは格が違うのよ」
「あの冷たい妖精は機嫌を直してくれたみたいだね」一輪が言った。
「ああ、これでこの件は片が付いたね。聖の法要の前に争いごとなんて勘弁してほしいからね」
ほう、と白蓮がため息をついた。
「ここは平和ですね」
「そうですか? 妖精達が毎日のように悪戯を仕掛けてきますけどね」ムラサが言った。
「ええ、まあ。そうね。でも」白蓮はうなずき、微笑む。
「私は姐さんの言いたいこと、分かりますよ」
「ちょ、ちょいといっちん。そんなこと言ったら、ボケた私の立場がないじゃん。あーあ、昨今のボケ殺しは容赦ないねぇ」ムラサはわざとらしく身震いしたあと、肩をすくめて見せた。
「まあ、あっちと比べりゃね。こんな光景は見たくても見られなかったよね。時代のせいかね、こりゃ」
「どうでしょうか。多分それもあると思うけど、ここには」
白蓮はそう言って、大きく息を吸い込んだ。
「何か大きな、とても優しく包み込む物がある。そんな気がします」
~無之五~
寺の、聖の元に男の僧侶がやってきた。と、いうよりも聖が招いたのだが。
「しかし、妖怪に開かれた寺を造ってしまわれるとは、剛毅ですなあ!」
新蓮と名乗る、その招かれた中年の男僧侶は、元々声が大きいらしく、部屋の隣の間にやってきた一輪の耳にも、彼の言葉が一語一句聞き取ることができた。
「客人殿、それに聖様。失礼します」
一輪はそう声をかけてから、部屋のふすまに手をかけた。
目に飛び込んだ短躯の彼の姿は、やや腹のでかかったひょうきんな体つきと言い、なかなか人の良さそうな性格をしているように一輪にはみえた。
彼は盆の上にお茶を持ってきた一輪に、豪快に笑いかけた。
「君が雲居一輪くんか。じつは拙僧、退魔僧をそれなりにやっとるわりには人型をした妖怪をこの目で見るのは初めてでしてな。いや面目ない、ハハハ……」そういって、剃髪した自分の頭をつるり、となでる。
一輪としても、自分を妖怪と知ってなお、態度一つ変えない人間など聖をのぞいて初めてであった。
少なくとも、今日初めて出会った一輪は、彼に悪い印象を受けなかった。
「では、新蓮さん。あなたがこの寺の管理を受けていただけると?」聖は言った。
「ええ、喜んで。何しろ儂が今いる寺は、師匠に変わって真面目一辺倒な弟弟子が継ぎましてな、実のところ少々居心地がわるかったのですわ」
結局、村紗の船は、寺から離れたところに着陸し、今の寺とは別の寺として門を開く事になった。
船体が大きすぎて今の寺の敷地内に収まりきらない、と言うのも一つの理由だったが、それは些細な問題にすぎない。
聖の予想を超えて、人間である寺の住人たちが村紗に拒否の感情を示したのだ。
一輪の見るところ、その問題に関しては、聖は手を尽くしていた。
心を込めて、一人一人にたいし、切々と説得したのだ。
寺に住む人間は、すべて聖を慕っている。だから、聖の言葉に耳を傾けない者などいなかったが、それでもなおも村紗たち妖怪にたいし不安な表情を隠すことができなかった。それは、不親切な態度となって、彼女たちに現れていた。なぜならば、人々の、内なる心の問題であったからである。
理屈では聖の言うことに賛同し、頭の理屈では、敬愛する彼女の説得を受け入れても、皆心のどこかで妖怪に対する恐怖の感情を捨てきれなかったのだ。
聖は一時の策として、寺と船を離すことを選んだ。
寺の近くにある小高い山の中腹に、船が余裕を持って着陸できそうな広場を雲山が発見していたのだ。
「で、聖殿。拙僧が聞いたところによると、あなたは将来としては、あの船とこの寺を習合したいと。いやはや、たいそうな大事業だ」
「習合だなんて、そんな大げさな者ではありませんよ。第一、どちらも仏教の寺です。日本の神さまと大陸の仏さまの信仰をあわせるような大それたものではありませんよ」
「ああ、そうでしたな。これは失敬。ですが、まるで違う門徒同士を一つにする、そういう点では変わらないでしょうな。その、難しさとしては」
「そうかもしれません」
「神や仏の御意志がどうあれ、蘇我と物部という、我が国には自らの信仰のために戦った歴史があります。聖殿、あなたが行おうとしている大事業の過程では、おそらくそういった信徒同士の諍いや争いがあるやもしれません」
「まあ、それはそうなった時に考えましょう。和解が成るか、破れるか。そういったときに争いのことばかり考えるのは滑稽ですわ」
「それもそうかもしれませんな。たしかに、ここの寺の者は、今の感情はどうあれ、皆、聖の思想を歩もうとしているように見受けられる」
「いやだわ。あなたは相変わらずお世辞がうまいですね。里のおきよさんも、あなたはそんなことをいって口説き落としたのかしら?」聖は手を口に当てて愉快そうに笑った。
「聖、まさか、この方は結婚しているのですか?」一輪は純粋に驚いた。
一輪の知る限り、僧侶が結婚することなど許されることではなかったからだ。それはこの伝来からこの時代まで、一貫して続いた日本仏教の当然の常識といってもよかった。
「ええ、そうよ。最近ここらでもはやりだした、じ、じょ……何だったかしら? とにかく、新蓮さんの宗派では、僧侶でも妻帯が許されているのよ」
「大丈夫でしょうか?」一輪は言った。
つまり、寺を預かる人間が聖から新蓮に移ることで、寺の宗派が変わってしまう。そのような重大なことを、このように気軽に決めてしまってよいものだろうか?
だが、聖は一輪の台詞を勘違いしたらしい。
「大丈夫よ一輪さん。新蓮さんの退魔の腕は結構高名ですし、たとえ戒律が異なっていても根は同じ仏教です。信仰心の厚さは私が保証します」
「おや、聖殿は拙僧をずいぶんと買い被られている。わしはただ、好きなおなごと結婚できるからという理由だけで、門徒の門を叩いたただの好色僧ですわい」
「おや? 酒屋の娘のおきよさんを通じて、熱心に里の人々に説法をしている方などいないと? どういうわけかここ最近、里の方々がとても信心深くなっているんですよ。不思議ですねえ」聖はコロコロと笑う。
「ところで、聖殿。あなたはあの船で居住を始めるといっても、もうまったくこの寺には来ないわけではないのでしょう?」
「ええ、暇を見つけては伺いたく思います」
聖はそういったが、一輪の見るところ、最初の数年はその様な暇があるようには思えない。
船の着陸予定地は、近くに、地滑りにて一夜にして滅んだ村があるという言い伝えのある場所がある。
雲山の報告によると、そのためか今でも人の踏みいらぬ未開の地であり、それだけ強力な妖怪も多くすんでいるようであった。
「それで、寺に残るみなさんのこと、よろしくお願いしますね」
「任せてください」
船に住処を変える聖は、寺の住人に対し、このまま寺に住み続けるか、一緒に船に移住するか、選択の機会を与えた。
どの住人も、本来みな聖をしたってやってきた人間達である。だが、名残惜しそうな顔をしこそすれ、だれも船に移住して一輪たち妖怪と寝食をともにする、と答えた者は現れなかった。
そうこうしているうちに、あっと言うまに船の旅立ちの日がやってきた。
梅雨は既にあけたはずであったが、あいにくの雨模様であっった。
「本当に今日出立なされるのですか? 別のよき日に改められては?」
そう、門前から船に向かう聖に言ったのは、藁の合羽を羽織った、新蓮であった。傍らには、人間の女性が同じような合羽姿で一人たたずんでいた。おそらく、この女性が、おきよさんなのだろうと、聖の傍らにいる一輪は思った。
「いえ、やはり本日でます。決心が鈍りそうですから」
聖は、あけ放たれた門越しに離れの方を名残惜しそうに見ている。
結局、人間で船に乗る者は現れなっかった。いまは、おそらく皆、離れの屋根の下でこちらを伺っているのだろう。
一輪は、寺の中で息を潜める生物の気配を感じとっていた。
「皆、あなたと同じく、寂しがっておるようですよ」
聖の表情をみて新蓮が言った。
「ええ。ですが、たとえ住む所は離れても、私たちの志は同じのはずです。寂しがる、というのもおかしな話かもしれませんね」聖は笑って見せた。そして、自分のまつげを拭った。
「そうですよ。それに、この寺に帰ろうと思えばいつでも帰れます。なにも今生の別れというわけではないじゃないですか」一輪が言った。
「そうですね。では、この聖白蓮。いって参ります!」
そういった一輪は、勢いよく寺に背を向け、ためらいなく船に入っていった。
一輪が船に乗り込む同時に、船が音もなく浮かび上がった。
船の腹に作られた引き起こし式の窓から、聖はずっと寺をみている。
寺の姿がどんどん小さくなり、船が針路を変えた事で山裾の地平に隠れてしまった頃、船は目的地に着陸した。
新天地である。
~三之五~
結局、あと少しで法要が始まる頃まで、星達は起き出してこなかった。
「ナズを起こしに行ったら私まで寝てしまうとは……不覚でした!」
「馬鹿じゃないかご主人は! 全くあんなまねを、朝っぱらから!」
そう言いあいながら、慌てた様子で縁の下を駆ける二人。
幻想郷に来てからという物、たいてい、この二人と村紗が順繰りに寝坊するのが通例となっていた。
世の中結構上手く行く物で、三人は当番制のように寝坊するので、誰かしら起こす面子には不足していないはずであった。
二人が控え室へ入っていくと、そこには一輪と村紗、ぬえまでもが既に中にいた。
「ナズーリンを起こしに行っただけの割には、ずいぶんと時間がかかったねえ」
お経の束を持った一輪が、どこまでも優しく冷たい笑顔をしていた。
「いや、これには理由があるんですよ。ナズがなかなか起きてくれなくて」
「私のせいにする気満々の所悪いが。ご主人が私を起こさずに、何故か私の布団に入り込んで熟睡してしまったのが原因なんだよ」
「だって、ナズがあまりにも気持ちよさそうに寝てるんでつい……」
「だからって私を抱き枕にするのは止めてくれたまえ!」
口論を始めた二人を前に、一輪はため息をつく。
「はいはい、分かったから。星も学習しないねえ」
「ううう、ごめんなさい」
「すまない」
「もう半刻も立たないうちに法要が始めるわ。星は寝ぼけてないで、ちゃんと毘沙門天の代理してね。ちゃんと寝間着から着替えてから」
おそろいの柄の寝間着を着た二人は頷いて、連れ添うように手水に向かって歩き去っていった。
彼女達が手をつないでいるのは、おそらくどちら側も意識してのことではないだろう。
一輪達が本堂への廊下に移動すると、本堂内部では多数の人妖であふれかえっていた。
大きく造られた本堂でも人員が入りきらず、一部の屈強そうな妖怪はすぐ隣の中庭にて敷かれた敷物の上で座って、法要の開始される時間を待っているようである。
「一輪ちゃん、星ちゃん達は起きた?」白蓮が小走りに駆けてきた。
「ええ、ただいま準備をさせています」
「そう、良かった」そういった白蓮は、明らかに安堵した表情を見せた。
「ムラサちゃん。私が朝言ったお客様がいらしたわ。今はぬえちゃんが応接しているけど、あなたが変わって、例の席に案内してくれないかしら?」
「任せてください。じゃ、ぬえっちが粗相をしないうちに、急ぐとするかね」と、ムラサは飛び去った。
「あと、一輪ちゃんは、全体を見て回って、何か準備に漏れがないかどうか見てちょうだい」
「分かりました姐さん。ところで、あの氷精はどうなりました?」
「あの子ね。あの子は、早苗さんと一緒に本堂の下座に隣接した小部屋に案内したわ。あそこなら、本堂にも中庭にも全体に冷風を送ることが出来るでしょ?」
そういって、直ぐ近くにある部屋を指さした。
言われてみれば、その方角辺りから、なんだか涼しい風がながれてきている気がする。
だが、
「その割には静かですね」一輪は言った。というか、その部屋からは物音一つしない。
「ああ、それはね。あの子のことを心配して、探しに来てた妖精ちゃん達の中に、音を消す事の出来る子がいたのよ」
「へえ、ってことは、あの巫女は妖精達に囲まれた状態なのですね」
一輪はその様子を想像して、苦笑した。
あいつらって、女性の長くて綺麗な髪をひっぱりたがるからなあ。
~無之六~
「今日は特別暑いねぇ」一輪は坂道を上りながら手ぬぐいを手に、相棒の雲山に話かけた。
彼も頷く。夏とはいえ、ぎらぎらと輝く太陽に一輪は閉口した。雲山の輪郭がいつになくはっきりして、心なしか体格も大きくなっている気がする。
そうこうしているうちに命蓮寺に到着した。
「ただいま戻りました」そういった一輪に、別の妖怪が向き合う。
「お疲れさまです、一輪様」
「聖は?」
「まだ、山頂へ説法に行かれたままです」
この妖怪は、聖の説法に導かれ、仏の道に入門した数少ないと妖怪の一匹であった。
二十年。
聖がこの地へやってきてから、目の前の妖怪が命蓮寺で寝起きするまでに経過した年数である。
いまでは、少数ながら、この妖怪のように仏門に入り、命蓮寺でともに暮らす妖怪がいる。
寺から移動した船の着陸地には、本当に多くの魑魅魍魎がいた。
妖怪だけならまだしも、無縁仏、自縛霊などが多数漂う魔の山であった。その数は余りに多く、ある夜など、船の聖の寝所へそれらがふらふらと、聖の布団の中へ飛び込んだこともあり、キャッと悲鳴を上げた聖のために、村紗とふたりで、はたきやら孫の手やらでその霊を追い回したこともあった。
そのため、聖は命蓮寺と名を変えた船を根拠地に、東西奔走して周囲の土地の慰撫に飛び回る日々が続いてたのだった。
朝は浮かばれぬ霊を慰め、昼は襲いくる妖怪から身を守り。夜は襲撃者へ説法を行う日々が続いた。
一輪たちもできる限り手伝った。
村紗と雲山は妖怪退治を、一輪は説法を手伝った。
そのような活動が実を結び、人も命蓮寺へ参拝できそうだと聖が判断したのが、五年前のことであった。
その日より、一輪は里から命蓮寺へ至る獣道を見回ることにしていた。
寅丸星と名乗る山の有力な妖怪が命蓮寺に帰依して以来、人が妖怪に襲われる危険は皆無になったが、里人に対する危険はそれだけではない。妖怪が比較的おとなしくなったせいか、最近は野盗などがその姿をよく見かけるようになってしまったのだった。
堂にはいると、仏門にはいった妖怪の一人である、寅丸星が座禅を組んでいた。傍らには、彼女の配下のナズーリンがかしずいている。
「ただいま戻りました、星様」一輪の言葉に、星は閉じていた瞳を開け、窮屈そうに微笑んだ。
「一輪さん、お疲れさまです。ですが、この寺ではあなたが先輩なのです。私のことはただ星、と呼んでください」
「いえいえ。あなたは毘沙門天の代理なのです。本来なら、星様、と呼ぶことさえ不敬なのですよ」一輪は言った。
いくら一輪たちが命蓮寺への道を整えたとて、里の人々の間では、命蓮寺は妖怪の寺、という印象が深く染み着いてしまっていた。それは半ば事実なのだが、そのために、人間の参拝客はほぼいない状況が続いている。
さらに、最近は妖怪の入信者も徐々に減っていた。と、いうよりも、命蓮寺を妖怪退治の拠点ではと疑いの目で見ていた妖怪ばかりが残ったのだった。
人間は妖怪に、妖怪は聖の信仰におびえていたのだった。
それらを一挙に解決する策として聖が考えたのが、地上に、聖の信仰する毘沙門天の代理にする、というものだった。
人間には、命蓮寺まで足を運んで貰う途中、毘沙門天の守護があることを強調するため。
妖怪も、目に見える形で、彼らと直接は敵対しない毘沙門天の力を表すことで、命蓮寺への不信感を減殺するためであった。だからこそ、山の妖怪の一員である寅丸星に代理役の白羽の矢が当たったのだった。知り合った中ならば、警戒感もより少なくなるだろうから。
「御主人殿。その件についてはこのナズーリン、一輪殿と全く意見を同一にしています」
ナズーリンが膝立ちで寅丸の前に進み出る。
かしこまって主の前に跪き、畏敬の態度を全面に表した彼女だが、目にはなにかしら冷えた物を含んでいた。少なくとも、この場に居合わせた一輪は、そう見て取った。
「確かに御主人殿は真面目に毘沙門天の代理をこなしておられる。命蓮寺の部外者の私から見ても、最近は寺の周囲から不穏な妖怪の気配が消えたのがわかります。それらは、全くの所、御主人殿の功績として良いでしょう」
「毘沙門天様から遣わされたあなたにそこまでいわれると、なんだか照れますね、ナズーリンさん」
「その態度です、問題は。あなたは妖怪にしては温厚すぎる。凶悪な気質の妖怪になど毘沙門天の代理などつとまりませんが、それにしてもあなたは威厳がなさすぎる」
寅丸は、頭を下げる。
「申し訳ない。それは全く私の不徳の致すところ。ですが、それと一輪殿の呼び方とどういう関わりが?」
「仏格は、一輪殿よりも御主人殿の方が圧倒的に上なのです。それなのに、一輪殿に呼び捨てを許せば、他の者等も真似しましょう。その状況で、果たして毘沙門天の威厳を、格を保つことができましょうや? 私なども、一介の妖怪にしか過ぎません。そういう私に対しても敬語をお使いになられる、というのは感心しませんな」
寅丸は少し考え込むそぶりを見せた後、大いに頷いた。
「ふむ、わかりました。なるほど、私は毘沙門天の代理としてまだまだ未熟のようですね。まだ至らぬところがあるかと思いますが、これからも命蓮寺のため、いろいろ指摘をお願いします」
ナズーリンはため息をひとつ、ついた。
「わかりました、御主人殿。しかし、私は命蓮寺に帰依したわけではなく、あくまで毘沙門天の代理の部下としてあなたに仕えているのを忘れないでいただきたい。ですから、極論いたしますと、命蓮寺が危機に陥ったとしても私には全く関わりのないことです」
一輪は背筋に嫌な感触を覚えた。
寅丸も、嫌な感情を覚えたのか、温厚な顔ながら、その必要もないのに居住まいを正した。
「ふむ。ナズーリンさん。あなたは存外に厳しい方のようだ」
「さらに言っておきますが、御主人殿。もし御主人が毘沙門天の代理に相応しくない、と私が判断した場合、私は毘沙門天に報告します。もしそうなったら、その時点で貴方様は私の御主人ではなくなりますし、何より貴方様は毘沙門天の代理ではなくなります」
「それはなかなかに手厳しいですね」
ナズーリンは少し笑った。
「ですが、そんなことをすれば毘沙門天の仏格が落ちてしまいますから、あくまで最後の手段です。ですが、毘沙門天の代理である御主人殿におかれましては、ゆめゆめそのことをお忘れ無きよう」
「分かりました。ナズーリンさん、ならば、貴方が許容しうる限りにおいて、共に仏道を邁進しましょう」
「御意」
ナズーリンは改めて、自分の主に最も深いお辞儀をおこなう。
その日、聖が命蓮寺に帰還した時刻は、夕日が地平に付くか付かないかの、かなり遅いものとなっていた。
「お帰りなさい、聖。本日もお疲れ様です」
それを迎える特権は、一輪だけの物であるのが、命蓮寺の暗黙の掟となっていた。
二人は連れだって、赤く日に染められた門をくぐる。
聖がふと、思い出したように言った。
「そういえば、近頃全然麓の寺に行ってないわね。最後に新蓮さんと会ってから、十年もたってしまったわ」
「十五年以上ですよ、聖」
「もうそんなになったかしら?」
聖も、引っ越し後、最初の何年かは無い暇を無理矢理作っては麓の寺へと足を運んでいた。一輪も供を行っていたので良く覚えている。
しかし、命蓮寺の多忙さゆえ、聖が最後に麓の寺に訪問してからかなりの月日がたってしまった。
ころころ。からから。
石造りの道に、一輪の履いた下駄がのんびりと音色を奏でる。
「そんなに年数がたったのなら、あの寺も、ずいぶん変わったでしょうねえ。なつみちゃん達は、今頃どうしてるかしら」
ほう。
聖はため息をついた。
それを見た一輪は思わず顔が綻ぶ。
「もう、寺を出て、結婚して。ひょっとしたら子供の見合い相手でも探している位でしょうか」
「あら、まあ。そんなになっちゃう? やだわ、なつみちゃんといったら、あの小さな頃の姿しか覚えてないせいか、どんな女性になってるのか全く想像できないみたい」
一輪も、あの小さな子供がどんなに成長しているのか、まるきり予想が付いていなかった。
「案外、既に命蓮寺に参拝してたりしていたかもしれませんね」
「そうかもしれないわね」
ここ数年のことだが、幸いにも、命蓮寺へ参拝しに来る人間が、ごく僅かであるが出てきていた。
五年前は年に一人。三年前は三人。
今年は、まだ八月だというのに、既に六人以上の人間の参拝客の姿を一輪は確認している。
まあ、どの顔も、一輪は見知らぬ顔で、いずれも遠方からの旅人のような格好をしていたが。
境内の道を半ばまで来たとき、聖は歩くのを止めた。
「長かったわね」聖がぽつりと言った。
「ええ。ですが先はもっと長そうですね」一輪が言った。
「そうね。命蓮寺も、ようやく形になってきたわ。でも、妖怪と人間が普通に仲良く暮らせるまでには至ってないわ。確かに、人間の参拝客は居るけど、お寺に寝泊まりする人間の方は居ない」
「ええ。それが、次の目標ですね。私達と人間が仲良く枕を並べる、というのが」
だが、村紗の寝相の悪さに耐えられる物はそうそう居ないのではないか。一輪は笑った。
「そうよ。信じましょう、命蓮寺をここまでにしてきた私達なら、きっとできるわ」
聖の言葉に、一輪は強く頷いた。
「少しずつ、だけれど確実に、ですね。聖」
頷く代わりににっこりと微笑んだ聖は、今日の夕餉当番はだれかしら、と歌を口ずさみながら再び歩き始めた。
「ええ。幸いにも私達には、人の寿命を越えて、たっぷりと時間が与えられているわ。一輪さん、共に焦らず、じっくりと積み上げていきましょう」聖は言った。
「はい」
しかし、時間は残されていなかった。
~南之五~
最初、それは霞か、あるいは、入道である自分の目の錯覚かと思った。
秋の夕日を背にして、遙か上空では烏の鳴き声が山へ向かって寂しく響いていた。
大層大きな、だが雷にでも打たれたか、半ば炭化した一本杉のたもとで、それはたき火に当てられた熱気のように、蜃気楼のごとくゆらゆらと揺らめいていた。
間違いない。彼は確信した。
あれはモロクだ。
同じような秋の終わり、五年前にであった記憶を、彼は未だはっきりと覚えていた。
(大妖のモロク様も、油断しちまった。修験者とはいえ、たかが普通の人間に遅れをとっちまった)
その妖怪は、彼と少女を見て静かに語りかけた。
音声として言葉を発したのか、意識に直接語りかけたのか、それすら判然としない、酷く弱った言葉だった。
この妖怪。もう、ながくはないな。
彼の目には、出会ったときから、どうしてもモロクの詳しい姿をとらえることは出来なかったものの、それでも今のモロクが死にゆく存在であることは完全に理解することが出来た。
(人は強くなった。いや、俺たち化け物が弱くなったのか)
そういったモロクの声は、どこか悲しげで、同時にそれで居て少し楽しげでもあった。
(だが、俺も仕舞いだ。もういけねえ)
笑っているつもりだろうか。
そういった彼の言葉に、所々老人が咳をしたような雑音が混じる。
死ぬのか。
(ああ、死ぬさ。だが、直前にお前達に出会ったのは、これは運命か? まったく)
モロクの意識が、娘に向けられた様に感じた。
(おめえ。あんたには、俺を殺す権利がある。いや、義務だ。あんたの復讐を、恨みを精算しなくちゃならねえ)
娘は身を震わせた。
(普段ならあっという間に返り討ちにしてやるんだが。今の俺になら、あんたは、俺にちょいと殺意を向けるだけでヤれるはずさ)
娘は話に聞き入っている。
彼に、それを止めるすべはない。
(俺は紛れもない只の妖怪だ。その俺が死ぬって事は、存在そのものが無くなってしまうって事。この時より、俺の歴史は綺麗さっぱり消え去っちまう。退場さ。だから、静かに消えていくとするよ。俺が、この世で生きてきた証拠も一緒に持ってな。だからあんたの恨みも、俺が持って行ってやる)
「さあ、俺を殺せ!」
娘は呆然としている。
「わたしは――」
そう呟いた後、娘が静かに、モロクに近づいていった。
しばらく、陽炎になったそれを見つつ、その懐に、おもむろにかがみ込む。
娘は言った。
「あなたを許します」
だれが?
いったい何を?
そう思ったのはモロクもおなじだったようだ。
「なに言ってんだこの餓鬼は……まったく」
だが、その口ぶりとは裏腹に。
「だが、まあ。何となくだが、礼は言っておくさ。ありがとな、へへっ」
気恥ずかしそうにそういって、モロクはこの世より完全に消滅した。
彼は突如気がついた。
ああ、そういうことか。
娘は今、モロクに何かを与えたのだろう。
モロクは、娘のなにかをもらったのだろう。
そう思ったとき、ふと、彼は娘との別れが迫り来ていることをなぜかはっきりと自覚したのだった。
二週間後も、彼は同じ事を考えていた。
あれからどのくらいの月日がたったのか?
この子と出会ってから。
娘と全国を回った。
成仏させた魂も、千を優に超える。
それでも、この世から苦痛を抱えた霊が消えさることはなかった。
戦、行き倒れ、流行病。
どれもが、何食わぬ顔で人の世と同居していた。
丘の向こうでは、娘が化け物の為に経を唱えている。
その光景自体、彼には見慣れたはずのもののはずであった。
「おとん。もう、行く?」
経を読み終えた娘が振り返り、聞く。
入道の姿をしている彼とは違い。
娘は、見た目は人間そのものであった。
だが、彼は知っている。
人間にしては、娘の寿命がかなり遅いことに。
彼の記憶の限り、娘とは百年以上共に生を歩んできた。
にもかかわらず、娘は未だ、十代半ばの様な容姿を保ち続けている。
やはり、人間として生まれ変わることはできなんだか。
だがな。
人身御供となって死んだ人間の子の魂が、私の目の前で生まれ変わったのがお前だ。
実はな、お輪。
お前は一字、その死んだ赤ん坊の名前から名前をもらっているのだよ。
入道は心の中で、そう、娘にそっと呟いた。
~三之六~
一輪は死んだ。
もとい、暑さで茹だり、へばりきっていた。
「まったく……今日の客人は」
椅子に座って、扇で、ゆであがった頭に風を送る。
となりでは、ムラサが同じ事をしていた。ぬえは近くの縁側にすわり、素足を外の風に当てている。
「『軽いお話を』で二時間突破したもんね。あの暑さの中で」
「聖以外まともに聞いてた人いなかったんじゃない?」
「本当ね。助っ人がいなけりゃ割と本気で死人が出てたかも」
そこに、元気な寅がやってきた。お供をつれてやってきた。
「みなさん、お疲れ様です!」
「巫女も妖精達も含めて、みんな無事に帰ったよ」ナズーリンが言った。
「元気ねえ、星は」
「何言ってるんですか一輪。聖の法要に参加したんですから元気一杯なのは当たり前じゃないですか!」星は両腕に力こぶを出して見せた。ニコニコと太陽みたいな笑顔をしている。
星は今までずっと、毘沙門天の代理として、立ちっぱなしであったはずなのに、これである。
「その元気と責任感が、毎朝、起きる時にも発揮してもらいたいもんだ」ナズーリンがため息をついた。
「私が寝坊助さんなのはあなたもしってるじゃないですか。だから、私を起こしてくれなかった貴方の責任ですよ」笑顔で言う星。
「なんだい、その理論は? いい加減にしないと、そのうち毘沙門天にその旨報告するからね!」
「大丈夫ですよ。ナズーが私と一緒に居てくれてるって事は、あなたが私のことをずっと毘沙門天の代理だと認めてくれてるってことですものね」
星の言葉に、ナズーリンは言葉を詰まらせ、顔を真っ赤にし始めた。
「ほら、夫婦喧嘩はよそでやってよ。暑苦しいったらありゃしない」
ぬえの言葉に、一輪も笑った。
「そういえば、星。今、姐さんは客人の応接してるじゃない? お茶を汲んで行かなきゃいけないのだけど、代わってくれないかしら。なんだか私、とても疲れちゃって」
「そんなことですか。おやすい御用ですよ。それじゃあナズー、そういうわけだからあなたが――ふにゃん!」
星の脳天に、二本のダウジングロッドが命中し、それはそれは小気味よい音を奏でた。
「あれ、おかしいなあ? いまなんとなく、『毘沙門天の代理を騙った怠け者の堕猫』をダウジングしてたんだけど、どういう訳かご主人のところでやたら強い反応が見られるんだよね」
「痛っ、止めて。わかりました、分かりましたから!」
星はそういって、台所の方角へ姿を消した。
ナズーリンも彼女の後に続く。
時折、彼女の声が聞こえる。
「つ、つっつかないで。私がひゃうん、そこ弱いって事ふえっ、知ってるじゃないですかぁっ!」
「まったく」
一輪はため息をつく。
「あんなに寝坊していたんじゃ問題だ。聖の立場のことを考えるべきだよ」村紗が言った。
「あんたもかなりの頻度で寝坊してるじゃない」
「いいんだよ私は。仏道に関しちゃ無任所だし。そういえば、いっちん、私の記憶が正しければ、あんたは一度も寝坊したことがない様な気が」
「そだっけ?」
「うん。どんなに私が早起きしても、その頭巾をかぶった姿にしか出会った記憶がないわ」
「ああ、そうかもね」一輪は微笑んだ。
「いっちん。君の頭巾は何かの由来でもあるのかい? ひょっとして何かの御利益があるとか」
「いいえ、ないけど?」
「実は私、いっちんの頭巾をとった姿って一度も見たことがないのよね」
「あ、私も。きになるな~」縁側で足をぶらぶらさせていたぬえが振り向き、言った。
「何か理由があるの? そうでないなら、ちょっと頭巾をとって見せてよ」
「そんな大層なものじゃないよ。只、くせっ毛が強いから、普段から頭巾でまとめてるだけで」
「じゃ、みせてよ」
「みーせーてー」
ぬえと村紗が声を合わせる。
「改まって言われると照れるわね」
そういいながら、一輪は丁寧にに頭巾を外した。そうすると、青紫色の、少しウェーブのかかった髪の毛が扇状に広がる。
ムラサが、一輪の髪の毛に手櫛を入れながら、驚嘆の声を上げた。
「あら、セミロングなんだ。綺麗じゃない。それに髪質も結構イイみたいだし。フワフワ!」
「案外普通だね」ぬえは拍子抜けしたのか、あぐらをかいている。
「いいえ、ぬえっち。むしろどこにお嫁に出してもおかしくないレベルよ。そんななら、頭巾なんかで隠さずに普段から出しとけばいいのに」
「いや、実は私って結構寝癖が酷くって。頭巾で強制しないと駄目なのよ」
「へー、一輪が寝癖が酷いって意外。どのくらい? 最近たまに見られる朝の聖くらい?」
「う、うん。まあね。あのくらいよ」
「それは酷い」ぬえが言った。
「ならしょうがないわね」ムラサが気の毒そうにうなずく。
幻想郷での白蓮は、気がゆるんだせいかたまに寝癖が酷く、ひょっとしたら、最近の外界の雑誌辺りなどでは、そういう髪型、として特集を組まれそうな程の勢いで天に向かってさかのぼっているのだった。
会話が途切れた。
姐さんと私、髪質が似ているのかもしれない。一輪は思った。
「でもさ一輪、そういう髪型してるとさ」
ぬえはふと呟いた。
「あんた、まるで聖にそっくりね」
~無之七~
その日の夜。
満月が天頂辺りにある子の刻。
一輪は寺の周囲の騒がしさによって目覚めた。
最初、妖怪の仕業かと思った。
が、違う。一輪の感じた気配は、紛れもなく人間の物であった。それも数え切れないほど多くだ。
「誰か居ないの?」一輪は言った。
だが、異変があった時には、すぐに彼女の元に駆けつける事になっているはずの雲山も、見張りに立つ当番の妖怪すら報告に来ない。
嫌な予感が、全身を駆け巡った。
宿舎を出ると、真夜中だというのに辺りの姿が良く見て取れた。
無数の篝火や松明が、寺を取り囲んでいたのだ。
塀の向こう側からは、人間の囁くような話し声が聞こえてくる。
一輪は走り出した。
命蓮寺の一番大きな出入り口、正門では、少数の人間が境内に入り込んでいた。
見張りや警護役の妖怪の気配がない。おそらく封じられたか、退治されたのだろう。
正門の扉は大きく開け放たれていて、外側には何百物もの人間のが遠くからでも確認できた。
だが、その人間達の気配は、いっこうに寺の敷地内にはいってこようとする気配はない。
一輪がよく見ると、境内に入り込んだ人間の中に、ただ一人、こちらを背に、何かを阻むように手を横一杯に広げている者がいた。
聖だった。
聖の隣まで走り込んだとき、一輪は向かいの人間の側に、法力を動かした後の痕跡を感じ取った。
おそらく、雲山や見張りの妖怪は封印されてしまったようである。
思わず構えをとった一輪にも、聖は険しい視線を向ける。
炬火によって髪が真っ赤に染められているように見えるのは、おそらく一輪の錯覚であろう。
だが、聖は怒りとも悲しみともつかぬ激しい表情で、全身を震わせていた。
人間はみな、こちらを伺っている。
恐れ、憎しみ。そういった者を極限に昇華させてしまった、ともすれば無表情と見間違えかねない表情をしていた。
いや、ただ一人、純粋に憎しみの目つきをした人間が聖の目の前に立っていた。
「なつみさん、何故ですか」
聖の正面にたった、群衆の指導者らしき中年の尼僧が口を開く。
「聖様。時代は変わりました。人は成長したのです。もはや妖怪は、恐れる物ではなく、退治し、根絶すべき、ただの汚物、害獣になり果てたのです」
なつみは、汚物、という単語を吐き捨てるように言った。
「そんな。ここにいる妖怪に皆さんは仏の道に帰依した方々です。そのような方を汚物などと……。人であると言うことと妖怪であるということ。そこにどんな差があるのでしょう?」
「人にも罪があるように、妖怪にも生まれ持った業があります。その業がある限り、妖怪は人と共存できません。してはならないのです」
聖の口が開いた。
だが、意味のある言葉としては声を発することが出来なかった。
「それで私達を、聖とこの寺、妖怪達をどうするつもりだ?」一輪は言った。
「私達も見知った中ではありません。退治はせずに、地の奥深くに封印します。特に聖は徹底的に」
「そんなこと、許しません!」聖は言った。
「でも、出来ないでしょう? 今では、法力では私の力が貴方を上回っています。あなた方は既に、どんな術すら使うことができていない」
その通りだった。一輪も、どんなに努力してみても、自身の浮遊すら出来ていない。
「私は貴方に法力を教えた事は無いはずなのに」
「ええ、聖様。あなたが寺をでてから、私は新蓮様の元で厳しい修行を積みましたから」
なつみの視線が、チラリと殺気立つ人間の群衆の一角に向かう。
中に、聖は見知った初老の男を見つけ出し、驚愕した。
「新蓮さん。まさか、貴方もなつみさんと同じ意見なのですか?」
彼は無言で答えた。
「あの寺の住人どころか、麓の里人の総意ですらあります」なつみは言った。
「そんな……」
だが、一輪の見るところ、それ以上のようであった。あそこの寺と、麓の里の村人。全員を動員しても、今取り囲んでいる人間の数に足りないのだ。
「なつみさん。何故そうまでして私を封じようとするのですか?」
なつみは答えない。
「妖怪に手を貸す、私が憎いのですか?」
その言葉に、なつみは聖から顔を背ける。
聖は施しを乞う乞食のようなすがりつく表情でなつみを見た。
「私が憎いのなら、どうか、標的は私だけにしてください。一輪さん達には手を出さないで」
なつみの左右にいる見知らぬ人間がなつみをみて頷いた。
彼らにせかされるようにして、なつみは再び聖の目をはっきりと見据えた。
「そんな願いが通じるとでも思いますか?」
「お願いします。お慈悲を」そういって、聖は土下座した。そこには、いつもの聖の神聖さは全くなかった。
「ふざけるな!」
激高したなつみが勢いよく低音で呪文を唱えると、寺を丸ごと覆うような広大で、複雑な文様のの陣が地面に出現する。
みるみるうちに、命蓮寺の船と聖、それに一輪が地面の暗黒に飲まれていく。
その上、聖にだけ、黄色に光る紐のような物でがんじがらめに身動き一つ出来ないようになっていた。
「あなたは。人は。なぜ妖怪と寛容に接する事ができないのか。なぜですか、どうして!」
絶叫に近い叫びを最後に、聖は一輪や船よりも早く、あっという間に地底の闇に消え去った。
それを見届けて、なつみは叫んだ。
叫んで、泣き崩れるように地面に両の拳をたたきつける。
「二十年前のあの日! 何より、誰よりも貴方の慈悲が必要だった私達を見捨てたのは誰ですか! 裏切ったのは私ではない、貴方だ! 聖様、あなたが私達を捨てたのです! あなたは私達よりそこにいる様な妖怪をとった。私にはそれが絶対に許せない!」
嗚咽にも似た絶叫を聞いて、一輪の心は奇妙に静まっていった。
ふと、言ってみた。
「なつみさん。聖に、私からなにか伝えることはありますか?」
なつみはあっけにとられた。口を呆けたようにあけ、涙を流すままに、一輪をぼうっと見た。
その後、ほんの少し落ち着きを取り戻したように、なつみは震える声で言った。
「貴方たち妖怪と、聖様は封印する位相が違うので、もはや会うこともないでしょう。しかし、万が一があったのならば。言葉を交わす事ができたのなら。お伝えください。その、地底でも、お元気で、と」
「分かりました」
そう返事して辺りを見回した一輪は、封印されるいまわの際に、終始何も言わなかった新蓮の表情を見ることとなった。
ああ、そうか。
私も白蓮あたりに、顔だけで土下座を表現する事になったら、あんな顔つきをするだろうな。
一輪は、そう納得した。
人間だって、必ずしも一枚岩ではないのだ。
~三之七~
「失礼いたします。粗茶をお持ちしました」
星が茶を持って入室したとき、丁度、聖と客人の話が一段落付いたらしかった。
「あなたにはもっと個人的に色々と言いたいこともあるのですが、今日はこれくらいにして止めておきましょう。しっかりとお勤めを果たすように」
そう、聖に向かってちゃぶ台越しに語り終えたのは四季映姫である。
彼女は今日、法要の客人として招かれていたのだった。
「はい、心得ております」
白蓮は閻魔に向かって、あくまで屈託のない笑顔で返事をする。
「どうぞ」
「ああ、これはありがとう。そういう貴方は寅丸星ですね。前から貴方には言いたかったのですが、特にここ最近、貴方は毘沙門天の代理としては覚悟が足りなすぎる。白蓮が封印されてもまじめだったあなたが、一体どうしたというのですか?」
そういって、映姫は星に差し出された緑茶をすすり始めた。
飲んだ後は、まだまだ語りたい事があるようだった。おそらくウン時間コースだろう。
星は慌てて、
「そういえば、聖には高名な僧の弟がいましたよね。どんな方か、閻魔様はご存じですか?」
「私は閻魔ですから、弟君の為したこと全てが分かっています。しかし、私は生者に死者の功績がどうとか、そういうことは決して語りはしません」と、映姫は茶を飲みながら横目で星を見た。
「ええ、星ちゃん。普通でしたら生前中に閻魔様にお会いできるなんて無いことですし。だから私達は位牌を作りますよね。死者をまつり慰めるために、そしてその方を忘れないために」
そういって、白蓮はその部屋の仏壇上に掲げてある黒い位牌を見た。そこには、命連の戒名が金字で彫り込まれている。
「それは弟君のですね。では、その隣の小さな物は?」
映姫は、隣に並んである、ボロボロの白木でできた小さな位牌らしき物を指さした。
「あれですか。妹のですわ」
白蓮は、懐かしそうに微笑む。
「ああ」映姫は、それで全てが分かったかのように相づちを打つ。
二人の間では、この会話はこれで完結した。
だが、星は驚いた。
「白蓮さまに、妹が居たのですか?」
「ええ、私には、弟の命蓮の他に、実はもう一人、妹がいたのです」
白蓮は、映姫をみたまま、星に語りかけた。
「それで、一体どのような方なのですか?」
「死にました。彼女が生まれたばかりの時に」
遙か昔、幻想の外での出来事である。
「私が普通の娘として生まれたときは、まだ妖怪が跋扈していた時代でした。運悪く、私の故郷の近くに大妖が来たことがありまして。その妖怪を鎮めるために、人身御供が必要だったのです」
白蓮は淡々と語る。映姫は大きく頷いた。
「当時は命蓮も白蓮も、法力すら持たぬ只の子供。調伏などとても出来るものではなかった。それに他の僧侶に助けを乞おうにも、彼女の故郷の寒村は貧乏で、報酬すらまともに払うことが出来なかったのです。そういう世界での話ですよ」
「閻魔様の言うとおりです。私も命蓮も、物心すらついていなかっった。後で両親に聞かされるまでそのこのことを覚えていなかったぐらいですもの」
「そうなんですか」
「そこで、生まれたばかりで名前すらまだ付いていなかった、私の妹が白羽の矢に立ったのです」
「それで?」星が言った。
「それで、というと?」
「妹君はどうなったのですか?」
「そのまま、妖怪の贄になりましたよ」
「え、そんな。それではあまりに救いが」
「そうですね。ですが、あの時代はああいったものでした。貴方も知っているでしょう」
「ああ、そうですね」
そうなのだ。例え星自身が人を襲っていなくとも、そのような時代、歴史に、星も生きていた事実があったのだった。
「私の母は、せめて来世が幸せになるように、この犠牲が報われるようにと、生贄に連れて行かれる直前に、妹を『輪音』と名付たそうです。ずいぶん後でその話を知った私と命蓮は、弔いをしようと遺体を探し回ったのですが、なにぶん十数年後だった物で、遺品すら見つけられませんでした。結局、二人でこの位牌を作り、弔いのまねごとをするしか出来ませんでした。でも、私達二人は一心に、それこそ一生懸命祈った」
白蓮が寂しそうに笑う。
「思えばあれが、私達兄妹が仏門に入るきっかけだったのかもしれないと、今ではそう思えてならないのです」
「そうでしたか。差し出がましいことを聞いて申し訳ありません」
白蓮は、百里彼方を仰ぎ見るような目つきをした。
「私は時たま気になるのです。妹はあの世で苦しまなかったのか。また、来世があったのであれば、満足の行く来世を送ることが出来たのかを」
その言葉に、映姫が頷いた。
「そうですね。行く末のほうについては、それを判断するにはまだまだ時間が沢山かかりそうですし、これからどうなって行くのか、私も興味があります」
その後、しばらくして、ハッとしたように、映姫は首を傾けて、舌をチョロッとだして見せた。
「おっと、これは失言でした。忘れてください」
中間に切られたんですか?
おそらくメモ帳で書かれているのでしょうが、文が途中で切れている部分が何箇所もあり、読み辛かったです。書式の「右端で折り返す」という箇所のチェックを外せば改善されますので、試してみてはいかがでしょうか。
本編ですが、場面転換を色で見せる方法は新しいですね。
確かにこれなら、分かりやすく「今、何処の場面なのか」というのを理解できます。ただ、それでも場面転換が多すぎて、ついていくのが大変でしたが…。
お話としては、笑いもありシリアスもありと、ダレることなく読めました。
そして、ラストには驚かされました。そういう解釈もありますか。なるほど…。
色々な意味で、興味深い話でした。面白かったです。
早く文章の修正を!
結構な長さのお話なのに、単調又は冗長な印象は全く受けなかったので
単純に、この一輪達を語り尽くすには尺が足りなかったのかなと。
作者様が創作にどれほどの労力を割かれているかも分からずに我儘を言います。
もっと読みたい。
命蓮寺の皆が現在の関係に至るまでの経緯が読みたい。
一輪と『おとん』の関係の結末がとても凄く読みたいです。
文章が簡潔だったので、時系列が入り乱れていても、混乱せずすんなり読めました。
その他、色分けなど、分かりやすくしようという配慮が感じられました。
個人的には、村紗の高慢さが落ち着いた経緯や、一輪が成長していく経緯の描写が厚いと良かったかも…
ともあれ、GJでした。
また、三つの時系列が入り交じっているのに南無三&色分けのお陰で混乱せずにすみました。
村紗や星と違って、一輪の過去は原作のテキストで触れられてないんですよね。
だからこそ、創作の余地が大きいと思うのです。
この話の「おとんとおりん」の設定は全然あり。
「おとんとおりん」の旅路をもっと読みたいくらい。
ラストも良かった。すごく綺麗におちた。
ところで、少し駆け足な印象がありました。
他の方もコメントしてますが、もっと読みたかった。
贅沢言って申し訳ないですが……それだけ面白かったって事です。
「おりんとおとん」の話にしぼったほうがよかったのではなかろうか。
過去の聖と命連寺メンバーの話も、もっと端折ってもよかったと思う。
一輪がいかに入道使いとして成長していくかをもっと書いてほしかった。
これはいい星蓮船キャラ過去話。白蓮と一輪がそんな関係だったとか、良いなぁ……
長さを感じないのも良い作品。
それにしてもチルノかわいい。まさか冷房替わりに使われるとはw
ちょい役での出演だけど和むわぁ。
少し意外な命蓮寺の面々の過去や、オリジナルキャラの描き方など、
一つのお話としては、十分楽しませていただきました。
ただ、結構文章量はあるのに「まだ物足りない」という感じを受けたのも確かです。
まだまだ内容的に掘り下げることが可能だと思いますし、
ぜひ続編なりで補完していただけると嬉しいなあ…と思います。
続編に期待して今回はこの点数で。
次回作も期待しております。
そういう関係も素敵じゃないかとか思ってしまう。
そして意外にもさらっとした終わり方だけど、私的には
逆に白蓮と一輪のこれからを想像する余地があっていいかなと。
なにはともあれ、いいお話をありがとうございました。
この話を読んでまず思ったことがそれでした
まずオリキャラ達は基本的に星メンバーに逆境を与える立場になってしまいましたが、皆読んでいて嫌いになれない、それどころかとても魅力的な面々でした
個人的には原作での白蓮の封印の話からは人間に対する絶望しかなかった印象でしたが、この話でまた別の側面が見えました
なつみや新蓮との最後のやりとりから、白蓮や一輪が最終的に人間に絶望せずに済んだ理由というものがわかった気がします
モロクも瀕死の際に一輪さんと再開した後、もし仮になんとか生き延びて「三」の時代のような幻想郷という楽園がある時期まで生きていることができたら、どうなっていたのだろうと想像が膨らみます
案外丸くなって里で人間と一杯やってるかもしれないなぁと思ったり
そして「無」では星ちゃんとナズーリンの関係が中々ドライな面があったのに「三」ではほのぼのとしつつもかけがえの無いものになっていたり、雲山は渋くてカッコいいわと、星組の魅力が光ってて一層キャラを好きになりました
そして一輪さんと白蓮さんの超設定に関してはまたこれもありだなと思いました。互いに知らなくとも、皆とても幸せなところが温かい
凄く面白かったです。ありがとうございました
オリジナルのキャラクターも、ほんの少ししか登場しないものも、
物語に何かしらの存在感を与えているように思う。
きれいにまとまった、情緒的で良い作品でした。
とてもとても素晴らしい作品だったからこそ、
もっと上を目指せるはず、との想いを込めて。
なつみ、新蓮の描写が非常に良かったのと、
時系列をかき混ぜることで長い時間のうねりが感じられたのが良かったです。
ラストの映姫様もいいわあ。
読み手の概ねが横書きのゴシック体で光るモニタで読んでいる事を忘れずにこれからも続けて頂きたいですね。