「絶望か。悪くないな。絶望がなにか、知っているか?」
魔術士オーフェン はぐれ旅
ライアン・キルマークド
早苗は目を覚ました。
「……っつ、いたた」
どうにか身を起こす。起こしてからうめいた。
起きたとたんに、体の節々が痛んだ。強烈な痛みだった。
思わず体が引きつる。寝ぼけた意識が、一瞬、氷でも当てられたようになる。
「うう、いった……なに、これ?」
早苗はぶつぶつとうめいた。こらえるように腕をさすって、辺りを見回す。
(うわあ、ひどいな、これ……筋肉痛か? いや、そんな感じじゃないわよね……)
どこかにぶつけたような、というよりは、手足を無理やり引っ張られたような痛みだった。
付け根のあたりが軋むように痛い。体を動かすと、腕や足の筋あたりに痛みが走った。
思わず体を硬直させて、うめく。体をなるべく楽にするように、座り直す。
こういう感じの痛みなら、昔の修行やらなんやらの経験上、慣れてはいたので、早苗はしばらくは立ち上がらなかった。
待っていると、どうにかひと心地ついた。ふと、あらためて辺りを見回す。
「……。あれ……?」
早苗はつぶやいた。
いつのまにか、社の境内にいる。
どうして自分はこんなところにいるのだろうか。まだ少し朦朧とした頭で考える。
自分は、たしか、二柱について、山の中腹あたりに出張っていたはずだ。神奈子と諏訪子もそのそばにいたはずだった。
今はその姿もなく、早苗は一人でいる。
(……あれ?)
なにがあったのか、いまいち頭がはっきりとしていない。早苗はぼんやりした仕草で体を見下ろした。
「……?」
ふと見る。
(?)
早苗は首をかしげた。腹のあたりに、明るい緑色めいた色の帽子がひっかかっている。
諏訪子の帽子か。どうやら早苗の腹の上にでも乗っていたようだ。
なんのけなしにその帽子を手にとって、早苗はまじまじと見つめた。
(……、?)
早苗は、目をぱちくりとさせた。変に思った。
どうしてこれがここにあるのだろう、
聞いてみるが、わからない。神奈子たち二人はどこだ? これも、もちろんわからない。
(……。八坂さまたちは……?)
早苗は、もう一度呟いて、ふと空を見た。
見慣れない奇妙な赤黒い雲が、頭上いっぱいにかかっているのが見えた。
空が赤い。
まるで血に染まってでもいるかのように。
「なによ、アレ……」
妖夢は思わず、口にしていた。
ちょうどここから見える、妖怪の山の方角。
その空に、異様ななにかの顔が出現していた。
なにか信じがたい大きさの、獣の顔が。
(あれは……竜……?)
妖夢は昔、屋敷の蔵で見た獣の姿を思い出した。黄金の体毛に、硬いうろこの体、長いひげ、大きな口、力強い牙。
「竜……?」
隣で、ぽつりと漏らすように藤原が言うのが聞こえた。どうやら、偶然、妖夢と同じ感想を抱いたようだ。
後方にいる白蓮からは、なにも聞こえてこない。だが、空を見上げているような気配は伝わってきた。
彼女がどんな顔をしているのか、妖夢はふとちらりと気にかかった。
(そういえば、この人も長く生きているんだっけ……じゃあ知っていても不思議じゃないのか……)
妖夢は思いながらも、自分に対して奇妙な心地が沸くのを感じた。藤原や白蓮に対して、ふと妙な親近感のようなものが沸くのを感じた。
(ああ、そうか……私は、彼女らが、私と同じものだとは、心のどこかで思っていなかったのだ。違うものだと思っていた。だから、おなじようなことに吃驚しているのが、変に思えたんだな。それでいて、少しだけうれしくも思えたのか……)
妖夢は、自分で自分に答えて返した。こんなときに、暢気だな。
妖夢は、目の前の光景にがく然としながら、自分に対して、あきれのようなものを感じた。
だが、あるいは、とも思う。あるいは。そう。
あるいは、あの白玉楼の件からこっち、あまりに常識はずれなものを見て、頭のねじが緩んでしまっているのかもしれない。当然、と言えば当然かもしれないが。
あんなものは実際に見せ付けられても、信じられるはずがないものだ。
(……けれど、そう、信じなくてはならない)
ちり、と胸を焼く感覚があった。
取り乱す幽々子の顔が、ふと思い浮かぶ。記憶を取り戻して、まるで別人のようになった顔が。
(信じなくてはならない)
妖夢は、知らず拳を握り締めた。いつのまにか、胸に手を当てていた。
獣のあぎとは、徐々に雲間へ帰っていく。その口の中へ、細かい消し粒のようなものが、いくつも吸い込まれていくのも見えた。
ここからではよく確かめがつかないが、妖夢の視力で見たそれは、どれも人の様な形をしてた。背中に羽が生えているのも見えた。
(天狗かな)
人影の背中に生えた翼の形を思い出し、妖夢は思った。あれがみな、天狗だというのか。
知り合いの烏天狗しか、天狗というのを知らない妖夢には、よく基準がわからなかったが、こと集団戦においてなら、天狗にかなうものはめったに無いというのは聞いている。
この先にある光景が思いわずらされた。戦いの結果は、いったいどうなったというのだろう。
ふと、気がつくと、長い間、足を止めていたらしい。
白蓮が、横を通って後ろから歩み出てくるのが見えた。片方だけ残った足を、杖を頼りに、引きずるようにして歩いてくる。
本当なら、とてもまともに歩ける状態ではないはずだが、この女人はわりと平然としていた。毅然としている、ともいうのだろうか。
ただ、その姿はどこか痛いものを見るようにも感じられた。
(……大変そうよね?)
とりあえず、妖夢は見た目で最初は思った。余りに様子が難儀そうなので、歩かずに飛んでいけばいい、と、なにげなく言ったのもそのためだ。
麓のすぐ近くまで来たところで、途中で降りましょう、と言ったのは白蓮だった。そのために、三人は降りて、歩きに切り替えていた。
だが、白蓮は、人の手を借りて段差を越えるのがやっとのようだった。妖夢は、その姿を気の毒に思うと同時に、苛立ちを覚え、軽いわずらわしさを覚えたのだった。
はやる心があったこともある。
とはいえ、それを口に出して言うと、馬鹿ね、と横の藤原に厳しくそしられたのだが。彼女は腰に手を添えて言ってきた。
「向こうまで堂堂と飛んでいくやつがあるか。あなたはこれからなにしに行くつもりなのよ?」
飛んでいっては目立ちすぎるだろう、と。だから、途中で降りて近づかなければならないらしい。
そうなのか、と納得しつつも、妖夢は心の中でこっそりと思った。
(……目立っても、別にかまわないと思うんだけど。それで霊夢がこっちに襲ってくるわけじゃあるまいし)
口には出さずに、こっそりと不満顔をしたが、ふと今ごろになってわかった。
そうだ、自分たち三人は、霊夢を殺すために、あそこに行くのだった。それには、気づかれないように、影から近づいて不意を打つ必要がある。
今の霊夢の力は、尋常ではないのだ。自分たち一人一人では、とてもかなわないのだから、知恵を絞らなければ。
そう殺すためにだ。
(だから……追ってきた、のよ、ね)
妖夢は、自信なさげになりながら、ふとほんの数刻前のことを思い出していた。
妖夢が、里を抜け出したという白蓮の後を追って、ようやく追いついたのが、今からほんの数刻前のことだった。
そのとき、妖夢が白蓮の話を聞いていたのは人里でのことだった。ほんの偶然、妖夢を預かっていた家の者が、そう話していたのを聞いたのだ。
そもそも白蓮が片腕と片足を失うと言う、重症を負った体で、運び込まれてきたという話は、すでに聞いていた。ひどく熱もあり、意識のない間にも、たびたび恐ろしげにうなされていたような様子だったというが、話によると、それが、翌夕、急に意識を取り戻すと、はっきりとした眼差しで起き上がったということらしい。
彼女は、多少ふらつくが、危なげない足取りで寝床から起き上がると、自分を預かってくれた家の者に礼を述べ、杖を借りたい、と言ったらしい。言われたとおりに杖を貸されると、また礼を言い、そのまま、立ち上がった足で、里を抜け出していったという。
その話を聞いてすぐに、妖夢も里を抜け出した。
白蓮がいったいなにをするつもりなのかは、察していた。そのため、向かう方角もだいたい予想通り当てることができた。家の者は、彼女を気遣ってか、霊夢の件に関してはなにも話さなかったが、妖夢自身は、あれからずっと周りの言うことに、よく耳をそばだてていたのだ。
自分には目的がある、と思うと不思議と気分が楽だった。涙は沸いてこなかったし、代わりにふつふつとした感情が胸を満たすのが感じられていた。
追いつけるかどうかはわからなかったが、彼女は手負いである、きっとそれほど足取りも速くはないだろう、とは思いながら、その感情を感じ、妖夢は白蓮を追っていた。
妖夢が追いつくと、白蓮は首をかしげるように見た。なぜか、そのときにはすでに、傍らに、あの藤原とかいう不死人の姿があった。
あとで聞いた話だと、彼女は妖夢よりも先に、白蓮に追いついていたらしい。彼女もまた、妖夢と同じく、同道を申し出ていた。
「どなた? ……」
白蓮は、いぶかしげに聞いてきた。人間くさいが、それにしては妙に悪意の無い澄んだ目でこちらを射抜いてくる。
「……もしかすると、私を連れ戻しに来た方ですか? 申し訳ないのですが、それはできないのですけれど。どうしてもいうなら、力ずくでお帰りいただくしかありませんが……」
白蓮は先に言った。妖夢は、少し慌ててそれを否定した。
「あの、いえ、違います……白蓮様、でしたよね。尼公様のお名前は」
「はい。そうですが」
「突然およびとめしてすみません。あの、申し遅れましたが、私は魂魄妖夢と申します」
妖夢は丁寧に言った。
「はあ。どうも」
「あの、突然で申し訳ありませんが、私を、あなたがたにお供させてください……その、あなたは、妖怪の山に向かうんですよね。何をしに行かれるのですか?」
妖夢は少し口早に言った。白蓮は怪訝な顔をしながらも、答えてきた。
「申し訳ありませんが、それはお答えできる類のものではありません……私は、これから、仏の道にも、人の道にも背くことを為しにいくものですから。堂堂とお話することとは思われません」
「ひょっとすると、霊夢を倒しに行くんじゃないんですか? 尼公様は、あいつにお寺を襲撃されて、寺のかたがたを殺されたと聞きました。そちらの不死人の人も、お友達を殺されているんですよね」
妖夢が言うと、白蓮は少し表情を和らげた。ただ、あまり好意的なものではなかった。
「……言い当てられたのなら、答えますが、そうです。私は、今から彼女をこの世から屠るために行きます-――こちらの方は、私の話を聞き、それなら協力してくださると仰いましたので。同行していただいています。……それではあなたも、彼女を倒したいというのですか?」
「はい。私は、あいつに、私が仕えている人を殺されたのです。その人は、私にとって大切な人であり、お守りすべき主人だったのです。私は、その人がそばにいるあいだ、その人を大切な人だと思ったことはありませんでした。ただ漠然とそばにいて、私は役目だからその人を守らなければならないのだと思っていました。でも違いました。その人が二度と手の届かないところへ消えてしまってから、やっとわかりました。私はその人が大切だからそばにいたかったのです。本当は、思っているよりも、ずっと、簡単にそのそばから離れられないほどの未熟者だったのです。その人は、私にとっての母であったし、姉でした。離れたくなほどのい大切な人でした。その人を奪ったあいつは、どうしても許すことができない」
妖夢は眉をひそめて言った。精一杯の真剣さを出して、白蓮に語った。
白蓮は、やや眉をしかめて聞いていた。何を感じて聞いていたのかはよくわからない。
「……わかりました。そのような事情があるのでしたら、どうぞ――ですが、私もあなたをお手伝いできるかはわかりませんよ。彼女は、容易でない相手なのですから」
白蓮はそう言って、妖夢が同行するのを承知した。
(行かなくては)
気がつくと、白蓮の背は数歩先にいた。妖夢は意識を目の前に向けた。
藤原が白蓮の隣に歩んでいって、難儀なところを歩くのに、手を貸してやっている。
(私が一番後れているのかな)
妖夢はふと呟いた。なにか、胸に冷たい暗雲がわだかまっているような気がした。
空を見上げると、秋風の中に赤黒い雲が見えた。
今度はなにも感じない。奇妙な雲だなと思った。
(行こう)
妖夢は思った。
行かなくては。
この手で霊夢を殺さなくてはならない。
「……っ、あ……?」
鈴仙が目を開いたらしい。
永琳は、ため息をつくと、椅子を引いて、立ち上がった。
机を離れ、鈴仙のベッドのそばへと歩いていく。鈴仙は、ちょうど鈍い動作で身じろぎしているところだ。
永琳はベッドのそばに立って、見下ろした。すると、どうにか目を開いている弟子の顔がある。
ちょうど薬が切れたのだろう。永琳は、内心で安堵しつつ声をかけた。
「優曇華」
「……、師匠……、……」
鈴仙は、うめくように言い、ぼうっとした顔で永琳を見た。永琳は、その額に指を伸ばして、軽く前髪をのけた。顔色は青白い。
「目は覚めたわね。どこか具合の悪いところは無い? 痛みは?」
永琳が聞くと、鈴仙はまだいまいちもうろうとした様子だが、首を横に振った。
「……いえ……」
言おうとして、声がひきつったようにかすれる。永琳は、弟子を制して、背中を支えてやった。
「しゃべらなくていいわ。ほら。飲んで」
永琳は、言ってコップを差し出した。水差しから汲んだ水がコップに満たされてある。
「……ありがとうございます……」
鈴仙は、小さく礼をつぶやくと、口をつけて水を飲んだ。
水を飲む間、永琳は、弟子の背中を支えてやった。
コップの三分の一ほどを飲みほして、鈴仙は、口を離した。永琳は、背中で支えた弟子の体を、ゆっくりと横たえた。
「師匠、あの……今は……?」
「あなたが気を失ってから、丸一日ほどよ」
「……はあ……いちにち。……、あ――!」
鈴仙は言うと、急に身を起こそうとした。が、すぐに顔をしかめて、うめく。
「うっく……あいっ……た……」
目をきつく閉じて、息を漏らす。そうとう痛んだらしい。
当たり前だろう、と永琳は思った。今の鈴仙の体は、命にかかわるほどではないが、間違いなく重傷だ。
本人の意思がどうあろうと、そう起き上がれはしないだろう。
「馬鹿者。いいからおとなしくしていなさい。あなたはもう一歩具合が違ってたら、重体患者だったほおなのよ。寝てなさい」
永琳は言って、寝かせようとした鈴仙は、それに応えずに永琳を見た。
「師匠……どうして……!」
その目が、どこかすがるような色を見せながらも、暗くかげっているのがわかる。永琳は、それを気にしない風で鈴仙を見た。
「しゃべるのは辛いでしょう? いいから今は寝ていなさい」
「師匠……!」
鈴仙はなおも言ってくる。その様子を見て、かるい錯乱状態にある、と永琳は見た。
呼吸が乱れている。人を狂わせる赤い目が、今は落ち着きなくさまよっている。
「今のあなたは動ける体じゃないのよ。今は特別に許すから――」
「師匠!!」
鈴仙が叫ぶ。永琳は眉をしかめた。
「おとなしく寝ていなさいと言ったでしょう? 大声を立てるんじゃないわよ」
「どうしてですか、どうしててゐを見捨てたんです! どうして来てくれなかったんですか!?」
「いいから落ち着きなさい。興奮してはだめよ」
「やめてください!! ごまかさないでくださいよ! どうしてです! どうして来てくれなかったんですか!? てゐが殺されそうになっていたんですよ! それだけじゃないわ、兎の連中だって、みんな殺されていたんですよ! てゐはここにも来たんでしょう!? 助けを求めてきたんでしょう!? 私たちが助けないといけないじゃないですか!」
鈴仙はわめいた。永琳は吐息をついた。
「どうしてね。優曇華、なら逆に訊くけれど、どうして私たちがそうまでしててゐを助けなければいけないの?」
「どうしてってッ……!」
鈴仙は叫んだ。叫んだ拍子に咳をした。
息が告げなくなったらしい。永琳は、弟子の背中をさすった。
鈴仙は、その手を払いのけそうな目をしたが、おとなしくするようにされただけだった。永琳は無表情をたもったまま、落ち着いて答えた。
「そうね。たしかに、あなたの言いたいとおり、わたしたちと彼女たちとは、ずいぶん友好的な関係にあったかもしれないわね。けれど、元はといえば何の利害も無い関係ではあるのよ。ここの所有権というのは、彼女たちとの対等な取引に基づいて得られたものだし、いまさら彼女たちに対して、私たちが不利益なことをこうむってまで義理立てする理由は、何も無いのよ」
「……師匠……本気で、言っているんですか……?」
鈴仙が聞いてきた。声が、蒼白な顔色を含み、かすかに震えている。
興奮しているのに、血の気がうせていた。どうも貧血を起こしかけているようだ。
永琳は、その目を見返してすんなりと答えを返した。
「ええ。本気よ。優曇華。そもそもね、私たちが望んでいるのは、恒久的に中立な立場よ。何度かあなたにも言ったでしょう。それに関係しないところで、この郷がどうなろうとも、私たちは必要以上に干渉するということは無いわ。言ってしまえば、てゐたちがいなくとも、もうここに暮らし続けることには不都合を感じることは少ない。だから、あえて危険をこうむってまで彼女たちを助けようとする理由は、何も無いのよ」
鈴仙は言葉を失ったようだった。こらえがたい怒りと、自分の師への失望の混じった瞳が、永琳の顔をじっと見つめている。
シーツのすそが硬く握り締められていた。指先が白くなるほどに、強く。
(殴りかかってくるだろうか――いきなりベッドから立って?)
永琳は、ふとそんな想像をした。すぐに馬鹿馬鹿しいとも思った。
彼女が、自分に対しておおっぴらに反抗なんかするわけが無い。そう、きっとできないだろう。
彼女の頭にあるのは、もし永琳を怒らせてしまったらどうしよう。本気で気を害してしまったらどうしよう、ということだろう。
どんなに激昂していてもそういう考えは、つねにこの娘の頭の隅にある。失望している今でも。
「まあ、どちらにしろ、もう終わったことよ。あなたはよく休んでいなさい。へんに動くとあなたも死んでしまうわよ」
永琳は言った。立っていって、静かに部屋を出る。
後ろから、物音が聞こえた。閉じた扉の向こう。
彼女の弟子の、泣きわめく声。
永琳は、輝夜の部屋に戻ってきた。襖を開けて、中に入る。
輝夜は、部屋の中に座っていたが、永琳が近づくとちらりと目を向けた。どこかむすっとしている。
永琳は静かに歩んでいって、そばに座した。輝夜はこちらを見ない。
(おやおや。拗ねていらっしゃる)
「鈴仙は?」
「さきほど、目を覚ましましたよ」
「そう」
輝夜は言った。不機嫌そうだが、おおげさに気落ちした様子も無い口調で。
本当のところはどうなのかわからない。だが案外、本当にまったく気落ちなどしていないのかもしれない。
(残念ね)
あるいは、その程度に考えているのかもしれない。どうせわかりはしないが。
(ええ、私も残念)
などと、永琳も呟いた。
おそらく交わされることは無いだろう会話。想像の中の会話。
永琳は無益な想像を止めて、輝夜の声を聞いた。
「鈴仙は、どう?」
「どう、というと?」
「気落ちしていたでしょう」
「していましたよ」
永琳は言った。輝夜は、扇子を引き寄せて、短くため息をついた。
「まあ、それはそうでしょうねえ」
輝夜は言って、ちらりと永琳を見た。非難がましい視線を注いでくる。
「……そりゃあ泣きもするでしょうね。まったく。本当にあなたって人は悪いわね。永琳。言っておくけれど、全部あなたのせいよ。それも。あなたが助けを求めに来たのを見捨てるなんて言ったりするから」
「一応謝っておきましょうか。申し訳ありません」
「まったく、私まで、ここに閉じ込めて身動きできなくしておいて、いったいどういうつもりなのよ? あんな巫女の一人や一匹、あなたなら、軽くひねれるようなものじゃないの」
輝夜はじっと永琳を見て言った。永琳は無言で聞いた。
「もし、万に一つ、あなたの手におえなければ、私が出たってよかったわ。そうすれば、イナバたちをむざむざ殺させる必要は無かったし、鈴仙だって、怪我なんかせずにすんだことでしょうよ。……あなたはどうも、まるで最初から全部あきらめて行動していたように見受けられるわね。まったく、あなたらしくないことだわ。いえ、私にもなにも言わないで決めるところは、とてもあなたらしいのかしら?」
「恐れ入ります。言われることもごもっともかと。ですが、おてんばはほどほどになさってくださいね、姫。第一、あなたでも私でも、あの者には勝てませんでしたよ」
永琳が言うと、輝夜は眉根をよせた。
「なによそれ。本気で言っているの?」
「ええ。本気ですよ。まあ、端的に言ってしまえば、今の彼女を倒すのは、誰にも不可能であることでしょうね。おそらくは、誰にも止められはしません。もっとも、この里の中の何者にも、という意味にかぎってですけれど」
永琳は言った。輝夜は胡散臭げに見た。
「本当嘘つきなのね。こんな狭い里なんかに、あなたにどうこうできないことがあるわけないでしょう……もしかしてだけど、あなた、ただ、面倒だから何もしなかっただけじゃないの? あなたはいつも緻密にものを考えているつもりだけど、けっこういいかげんで適当だからね」
輝夜が言う。永琳は、ちょっと首をかしげた。
「ええ……実を言いますと、半分ほどは嘘です。しかし、だからといって全部が嘘をついているわけではありませんよ」
「なんだか、よくわからないけど」
「できますが、できないのです」
「できるけど、できないの?」
「ええ。言葉にしますと、そんな感じでしょうか」
「実は適当に繰り返して言ってみただけなのよね。意味はわかっていないのよ」
輝夜が言うのに、永琳は少し笑った。
「今のこの郷の状態で、私がもし、本気で彼女を倒そうとするのなら、この郷は、高い確率で、根こそぎ滅びてしまうことになります。それはとても危険の高い賭けなのですよ。だから、私は何もしないのです」
「ふむ……まあ、あなたがそういうんなら、間違いは無いんでしょうね。まあ、間違いはね」
「あら、なんだかひっかかる言い方ですね」
「私は本当のことを言っているだけよ。あなたもどうやら本当のことを言っただけのようだしね」
輝夜は言った。永琳は黙り込んだ。
沈黙。
ふと輝夜がため息をついた。永琳は輝夜を見た。
「……。イナバ達は、みんな死んでしまったのね。てゐも」
「ええ」
永琳は言った。輝夜は首をふった。
「なかなか楽しい日々だったんだけれどね。寂しくなるわ」
「楽しい時なら、またやってくるわよ。私たちには、気が遠くなる永遠の時間があるんだから」
「それでも、その時間には、決して繰り返しは無いんだろうけどね。たとい、もしそれが繰り返しなのだとしてもよ、私たちの脆弱な目は、それを全く々繰り返しとして見ることはできないわ。たとえまったく同じ人、同じ記憶がいつか現れようとも、過ぎた時は、絶対に取り戻せないものなのだから」
「大丈夫よ。どうせそれも、そのうち覚えていないようになるわ。人の脆弱な目とやらは、同様に、薄情で忘れやすいものでもあるのだからね」
永琳は言った。だけども、弟子は自分を許さないだろうかな、と、言いながら、ちらりと思った。
(彼女は脆弱だからな)
永琳は思った。きっと許さないことだろうな。
彼女には、結果的にとてもひどいことをしたことになる。いまさら謝るつもりは毛頭無いが、いささか心苦しくは感じた。
(私も脆弱なのか)
悠久に近い時を生きてきているのであっても、そういう心はどうも消えないようだと永琳は思った。あるいは、心というのは、実はそういうシステムのひとつであるのかも知れない。
肉体に付随して、あらかじめ組み込まれたシステム。たしかにそれを明確につかさどる臓器の類は無いが、それは臓器のように明確なものとして存在している。
それは、経験によって研磨されたり進化したりということが無いのだ。漠然としたものでなく、明確なものだから。
もし仮に、たとえそう感じたとしても、それは、進化できるものである知識、というものによって、ただそう錯覚しているだけに過ぎないのかもしれない……そのようなもの。
(……馬鹿馬鹿しい)
永琳は自分の想像を笑った。
(……だとするなら、心もまた、肉体とともに老いるのだろうか? あるいは、肉体が滅びなければ、心もけっして滅びず、元のまま、変化もしないのだろうか? 人の肉体は変わってきた。進化という歴史の中で、徐々にではあるが。ならば、そのなかでの心の変化とは、微細ではないか? われわれは、歴史とともに蓄えられる、膨大な知識の海の中に、進化する自らの心という、幻想を見ている……)
永琳は思った。馬鹿馬鹿しい想像だ。極論といってもいい。
(……幻想は幻想。けっしてもともとのところからは進んでいったりはしないし、これからも、進むことは無い。自らの心を捉えられない人類という種は、きっと、自らの心という夢の中ではばたき、やがて抜け出せずに滅びていくことでしょうね)
永琳は思った。極論だな。だとしても、だ。
(だとしても、それがなに? そう、どちらでもいいことだわ)
そう、つまりはどちらでもいいことだ。永琳は繰り返した。
どちらでもいいことだ。
(どちらでもいい)
永琳は思った。そのようなことは、どちらでもいい。そのようなことは、いずれ滅び、死にゆく者が考えればいい。
(……死にゆくもの、か)
永琳は、ふと妖怪兎たちの事を思った。それと、てゐといういう兎のことも。
そう。いずれ、そんなことはどちらでもよくなるのだから。
「この郷は、滅びるのかしらね?」
輝夜が言った。
永琳は、考え事に沈んでいたのを、目の動きで誤魔化した。口を開く。
「いいえ。大丈夫でしょう。きっと、八雲紫が何とかするでしょうしね。彼女は、誰よりもこの郷を愛していますからね。つねにこの郷を保存させるために手を打つでしょうし、そのためならば、いつでも最良の手段をとれるようにもできている。今回のことも、彼女は、結局、最良の処置を取ったと言うだけのことなんですよ、実はね」
「これが、最良なの? あんまりそうは見えないけれど」
輝夜は言った。永琳は、なるべく丁寧に答えた。
「ええ。最良ですよ。最良というのは、結局、色々な多くのものを見捨てることで得られるものですから。すなわち、それは、あらゆるものの絶望を知ることでもあります。見捨てられる者の絶望を。選ばれなかった者の絶望を。あるいは、見捨てられなかった者たちの絶望をもです。それらを知り、判断し、彼女はそうして選択した。この郷を救うことを。この郷を、守ることをね」
永琳は言った。輝夜は、あまり分からなそうな顔で扇子を動かした。
「……なんだか、よく分からないわね」
「かも知れません」
永琳は言った。言いながら自分の目に、深い絶望が宿っているのも感じていた。
(腐った海の底のような目か)
それは今に始まったことではない。身に染みついた出来物のような、これは、そんな忌まわしいものだ。輝夜を救うと決めたときにも、これはあった。
月の従者等を、自分の培ってきた、自分の子供たちに等しい者たちを殺したときにも。逃亡を続け、穏やかな日々を過ごす間にも、ずっとこれはあった。
そう、ずっと。
(……それでも、不死の人間はいいのかもね。どんなに深く感じていても、少なくとも諦めはつく)
永琳はまた思った。聞こえないようにため息をつきながら。
(永い年月の間に、身に染みこんでいくから。それは、血肉となって現れるけど、障害になることはない……どうせ、実際に想像するのより早い段階で、感じるものなのだしね。どうせ諦める。そう、これが絶望するということ。では、まっとうに歩み、生きる者たちは? 彼等にはそれはどう映るのか? 輝夜はそれを感じているのか? 彼女の目には、それは映らない。けれどあるのだろうか? この深い絶望が。深い、のめりこむような暗闇の、光のない海の底が……)
永琳は思った。
輝夜はそれを感じていないのだろうか? 永琳は思った。
彼女は、輝夜は、それを感じていないのだろうか?
(彼女は自分とは違うのか。そう、しょせんは違うものなのかも知れないわね。他人なんてものは、多かれ少なかれ、けれど、必ず違うものなのだから。私は……少なくとも、彼女のように、この先をなるべく楽しもうなんて心は、持ちあわせられないわね。そう。持ちあわせられない。)
永琳は思った。ずっと今までも思い続けてきたことを。
(持ちあわせられない。退屈は続く。それはもう分かっている。どんなにしても、どうであっても逃れられないような、それは深い海の底にいるような、退屈。海の上に上がれるのなら死ねるのかしら? いつか死ねるのかしら?)
永琳は、ふと小さく笑いそうになりながら、そんなことを思った。
これからも、これはずっと続く。きっと。
深い絶望が。深い澱のように、血肉に止まって。
(……)
八雲紫も、それを感じているだろうか、と永琳はふと思った。
八雲紫も、それを感じているのだろうか?
(なんだよ、ありゃ)
魔理沙はつぶやいた。空を見上げ、雲間に突き出した獣の顔を見つめる。
まるで吼えるように口を開き、その中にあらゆるものを吸い込んでいく。木を、岩を、柱を、妖怪を、天狗を。
風が荒ぶっていた。地面にいた天狗たちが、次々と巻き上げられていく。
破壊された結界も、まるで壊れた玩具のようになって、くるくると吸い上げられていく。暴虐はまるで見境が無かった。
「……なんなの? あのとんでもないのは。いきなり空から生えてきたけど……魔法?」
「さあね……でも、とりあえず魔法ではないわ」
アリスが答えて言う。幽香ともども、さっきからわりと平然とした様子でいる。
ここは範囲外、ということか、あの異常な上昇気流の影響は及んでこないらしい。まあ、影響があったのなら、自分たちもとっくに無事では済んでいないだろうが。
霊夢の姿は、変わらず片手を上げた体勢のまま、空に浮かんでいた。あの風の中で、霊夢の様子だけが異様で、少しも衣がはためいていない。
あれは、あいつが呼び出したのか? 魔理沙は、なかば呆然とするような心地で思った。
(冗談じゃない)
天狗連中が、まるで消し粒みたいに消えていく。あれが、人間の力だって?
吸い込まれていく天狗の中から、風を縫って飛び出す姿が見えた。
黒い髪に赤い帽子。文だ。
歯を食いしばるようにして飛んでいく烏天狗は、異様に煌く目をしていた。霊夢へと肉薄して、手にした団扇を突き上げるように振るう。
ずん! と、凄まじい風の渦が、上昇気流をものともせずに、貫いた。魔理沙も初めて見るような、巨大な風の塊だった。
それが、巨大な槍のように一直線に伸びた。吹き上がる風の中を貫いて、地面に巨大な爪あとを残すほどに。
だが、風は霊夢の体をたたきつける直前に、なにかの障壁に阻まれたらしい。風の槍が消えた後、霊夢は平然として、風の中に浮かんでいた。
(……無傷かよ)
「――」
最後に、文は口を曲げて何かを呟いた。それは、くそったれ、と言ったようにも見えた。
どっちみちその音は風にかき消された。びりびりと風にたわんでいた翼が、ばきり、とへし折れて、他の天狗同様に舞い上げられる。
文はあっという間に巨大な獣のあぎとへと、吸いこまれていった。
巨大なあぎとは、やがて徐々に閉じられる。それと同時に、雲が濃くなり、沸いてきて、あぎと自体をだんだんと取り囲んでいく。
獣はそれを疎むように目を細めたが、抵抗はできないらしい。雲に飲まれてゆっくりと沈んでいく。
「――泉の円形、台座の正方形、柱屋根の三角形――」
ふと、隣で声が聞こえた。見やると、アリスが手をかざし、意識を集中させている。
長い睫を半ばまで下ろして、別の世界を覗き込むようにしていた。それは、彼女が魔法の詠唱に入っているときの、よくある様子だった。
「――西にやどりぎ、北に蛇、南には二頭の鹿を、屋根の上には二人のみつかいを、いと高きところにおわす方、いと深きところにおわす方、お力を与えませ、水底の銀貨の祈り、わが右手の指輪の誓い。わが額にかかりし、金鎖ののろい、白い柱につながれし、古い鉄錠ののろいを解き放て――」
アリスは呪文をつむぎながら、本に触れた。撫でるように、どこか艶かしいような手つきで、指を這わせる。
「――くぐりしは、いずこの森、ねじくれた大樹のアーチ、頭のおかしな七人の小人、見上げるような懐中時計、錨のような形の猫の微笑み、女王が授けしカードの罠に、兵隊が誘うは、満面の作り笑い。出でよ、出でよ。大樹にうがつは、針の穴ほどの闇の向こう、ゆがんだ本の末尾は揃わない。さだめおかれたし、魔の国の大母、嘲笑と赦しと慈悲とを与えん。誓いには、楔を、約束には拘束を、封印には記憶を。与えん」
じゃり、と踏み出した足に、韻を踏むような音が鳴る。本の封印を解く腕が、すべる様に続く。
本が開かれ、ページが舞った。風もないのに、ひとりでに何かを繰るように。
「――そうして与えん。本よ。本よ応えよ。グリモワール。我が手に。我が手に・力を」
最後の言葉を口にしたとたん、アリスの所作に、巨大な魔法の力がにじみ出た。魔理沙は気おされて、わずかにさがった。
(……凄いな)
と、魔理沙は素直に思った。ひねくれ者の自分が我もなく見ほれるくらいのうねりが、アリスの姿に満ちていた。
それは七つの色だった。まるで虹をまとったような、力あるかがやきだった。
ぱらり、と本が開かれる。七色の光が、さらに吹き上がった。心得のない者の目には映らない色。力強く、かがやかしい魔法の光だ。魔理沙が今まで見たこともない、魔法の根源から吹き上がるような、めまいのするような虹色の光だった。
「……それで、調子はどうなんですか?」
幽香が聞いた。聞きながら、暢気な足取りで、前に進み出ている。
前方では、霊夢が腕を下ろし始めたところだ。浮きあがっていた衣が、静かに落ちていく。
「よくないわね」
アリスは言った。吹き上がる虹色の光を、赤い瞳が反射してよぎる。
ちらりと幽香を見て、眉をひそめる。
「余裕はないから、せいぜい時間を稼いでね。あんたには期待しているわ」
「しょうがないわね。アリスちゃんは本当、たよりなくて駄目ね。しょうがないから、頼りがいのあるわたしが体を張ってあげようかしらね。ああ本当かわいいかわいい」
「はいはいそうですか、お願いしますね幽香ちゃん」
アリスがげんなりして言った。幽香は笑うと、地を蹴って、ふんわりと飛んだ。
霊夢を見ると、すでにこちらを向いていた。明確な殺意の浮いた眼差しが、幽香の姿にそそがれるのがわかる。
「――」
幽香は、笑って見返しながら、なにかを口早に言った。そして、すぐに、次々と分身して、一気に六人ほどの姿になった。
分かたれた六人が散開し、霊夢に向けて、一斉に傘を構える。
「――『向日葵』!」
幽香が言う。その瞬間、ずん! と、轟音がとどろいた。余波が魔理沙のところまで届く。
強烈な衝撃波を持って、六本の巨大な光の帯が放たれていた。魔理沙が放てるものよりも、さらに巨大なものが、しかも六本。
(ばけもんだな……)
魔理沙は場違いにつぶやいた。もちろん、あの妖怪が怪物なことは承知しているが。
だが、魔理沙が道具を使ってやっと出す出力を、幽香は生身で軽く上回っているのだ。実際に見れば、嘘かと思う。
放たれた光の帯は、さらにたがいに干渉しあい、一本の光の渦になり、膨れ上がった。天から振り下ろされた一本の剣のような一撃が、光条となって霊夢を襲った。
しかし、霊夢はこれをあっさりといなし、かわしきった。あそこまで物理的に力押しをされたら、普通かわすという選択肢は封じられるはずなのだが。
天狗らとの戦いと変わらず、霊夢は流れる風のようにつかみ所の無い動きで、強大な出力をいなしてしまっている。
(馬鹿げてるな)
やはり、力や質量ではしとめられないのだ。それどころか腕を上げ、逆に閃光を打ち返す。
放たれた光に飲まれて、一人の幽香が吹き飛んだ。
ほかの幽香は消えずに残っている。どうやら分身だったらしい。
さらに残った幽香がいっせいに腕を振り上げた。
「『パンジー』!」
幽香は勢いよく言った。同時に、残りの幽香が、一斉に腕を振る。
そのっとたん、幽香と霊夢を包む空間いっぱいにいくつもの鏡が現れた。一瞬で、二人のいる宙を、鏡が取り囲む。
鏡は一枚一枚が、魔理沙の身長ほどもあるような大きなものだった。霊夢は、それを見ても怯まずに、さっと掌をかざした。
次の瞬間、一杯のガラスの欠片をぶちまけたような音がした。大量の鏡の破片が舞い踊る。
霊夢の手から放たれたのは閃光ではなく、衝撃波だった。ぶお、と衝撃が舞い、行く手の鏡が一斉に割られた。
鏡の破片は、勢いよく飛び散った。また、一枚が割れると、呼応したようにすべての鏡が割れる。砕けた破片がさらに砕ける。
鏡だったものは、目に見えないほどのきらきらとした光の粒になって宙に舞った。
それらがついで、急に動きを変えた。急に乱気流をつかんだように、四方八方、あらゆる方向から、雪のように吹きすさぶ。
それらが一斉に霊夢へ向かって殺到した。吹雪のように。
(げ)
魔理沙は思わずうめいた。えぐい攻撃だ。
微細な鏡の砕片など目で見てかわせるものではない。見ているほうの背筋が寒くなるような数の、鏡の嵐が、霊夢の体に迫る。
破片は、実際にいくつかは霊夢の体に触れた。霊夢の肌に、いくつもの細かい傷が走っていく。
だが霊夢は怯まない。顔をかばいながら、印を切った。小さく唇で言葉をつむぐ。
すると突風が吹いた。爆風、と言ってもいい。大気が蛇のように渦を巻いて吹き、まるで竜巻のような風が吹き荒れる。
空気が鋭くうねり、烏の羽ばたきのように舞い踊る。せわしなく宙をたたく風切りの音が鳴り、大気が向きを変えた。
飛び散っていた破片が、風に巻かれて勢いよく四散する。それらは、逆に跳ね返って、幽香の身に降り注いだ。
「……っと――!」
容赦の無い破片の渦にさらされ、今度は幽香の体に次々と裂傷が生じる。幽香は腕を盾にしてふせぎ、再び短く詠唱した。
「――『竜胆』!」
幽香の声が鋭く言う。とたん、耳障りな音が響いた。
ばじ! というような、何かが弾け飛んだような音だった。辺りが一瞬、瞬き、景色が明滅したように見えた。
(うわ)
魔理沙は、たまらず、目を閉じた。反射的に顔をかばって、腕を上げていた。
なにか、こちらの皮膚をひどく痛いものでたたきつけるようなが感じがしたのだ。実際にその感覚があったわけではないが。
(なんだ……、?)
ついで、魔理沙は思わず口元を覆っていた。なにか異様な、吐き気のする匂いが、辺りに満ちている。
ひどく金物くさい不快な匂いだ。口の中が苦い。
(なんだよ……毒か?)
魔理沙は思った。なるだけ吸わないように努めながら、眉をひそめる。
辺りには、なにか白い煙のようなものが一面に発生している。だが、見たところ特に毒気のようなものはないように見える。
ふと見ると風はぴたりと止んでいた。凪いだ空気があたりに満ちている。
霊夢のほうを見ると、なぜか腕を上げたまま動きを止めている。腕で顔をかばっているようだった。
なぜか、その皮膚が焼けただれたようになっているのが見えた。皮膚だけではない、灰色がかった巫女服も含めて、全身がうっすらと焼けていた。焦げていた、というべきか。
なにをしたのか。魔理沙が状況を図りかねている間に、幽香が動いた。
動きが鈍っている霊夢に向けて、分身を、それぞれ散開させて飛びながら、傘の先から細い光条を放つ。
霊夢は光条を掠めてよけた。謎の攻撃のせいか、まだ動きがぎこちないが、それでも応戦して、閃光は放っている。
二人目の幽香が、これに直撃を受けて吹き飛んだ。そのまま姿がかき消える。
残りの幽香は消えていない。再び四方から光条を放つ。
光を照射するのを縫って、霊夢の次撃が放たれる。また一人の幽香が、直撃を受けて吹き飛んだ。
これも本体ではないようだ。さらに間を置かずに、三撃目が放たれた。
四人目の幽香が、これに直撃を受ける。これも姿がかき消えた。
すると、残りの幽香が、それに合わせてすべて消える。といっても、二人だが。
次の瞬間、幽香の姿が、霊夢の死角に現れるのが見えた。まるで鏡から現れたように、にゅるりと。
霊夢は、そのときにはすでに次の行動を取っていた。腕を上げ、視線の先に現れた幽香の姿に向ける。
閃光を放つ。
幽香は避けなかった。いや、かわすことはかわしていた。
閃光がはぜ、光は幽香の体をなぜた。幽香の下半身が、丸ごと吹き飛んで消えた。
「――っ、――あっ!」
幽香は、うめくように言った。だが、そのまま構わずに、霊夢に肉薄した。
腕を伸ばすと不意に霊夢の襟首を掴み、絞り上げる。そのまま、食いつくようにして、幽香は霊夢の唇に、自分の唇を重ねた。
「――、」
幽香は唇を押し付けたまま、顎を押し込み、襟を絞った。舌を深く押し込んで、霊夢の口内に、無理やり深く舌先をさし入れる。
強引な挿入に、霊夢ののどが動くのが見えた。
「――」
何かを飲み込んだように、霊夢ののどが、無理やりに嚥下した。幽香はそれを見届けると、手を離しすばやく霊夢から飛びのいた。
霊夢の閃光がそれを追うが、幽香は無理やりに身をひねってかわした。
下半身がないせいで、バランスを崩したらしく、そのまま宙に浮かばずに、地面に落ちる。
それでも顔は笑みを浮かべており、意外と平気そうにも見える。
霊夢が倒れた幽香に向けて、腕を上げる。が、その動きが、急に止まった。
「――」
霊夢の体が、突然大きく痙攣した。のどがのけぞる。
ごぼ、と不快な音が鳴り、口の端から粘り気のある赤色が伝った。血だ。
その様を見て、幽香がせせら笑った。
「あーあ。飲んじゃったわね」
幽香が言う。そして。
まず鳴ったのは、みぎ、と、そんなような音だった。
「――、っ」
同時に、ばぷ、と霊夢の口から、大量の血が噴水のように吐き出された。下腹部のあたりが不自然なほど盛り上がる。
巫女の服を押し上げ、異様に盛りあがった腹からはぶち、と、千切れる音が響き、たちまち、血にまみれた根が突きだした。真っ赤な根は、最初、細いものだったのがみるみるうちに育ち、太さを増していく。
そのまま根が一気に成長して、周囲の肉を食い破り、地上へと伸び出した。同じようにして、首筋や腋から生えていた枝から、蕾が生えだした。
蕾は血の鮮やかな赤を、花びらの白地の色で彩って、血まみれの身体を囲みだした。次々と群れ咲く蕾の中で、がくん、と霊夢の身体が、大きく痙攣した。開いた口から、噴水のように蕾が溢れ出す。
首が大きくのけぞり、感情をともさない目から、光が失せかける。枝葉と根は、さらに伸びて、もはや、一つの大きな木を作りかけていた。
背中からも枝が這いだした時点で、今度は霊夢の身体は、くの字に曲がった。その時点で、ぐらりと傾いて空から落ちて、土くれのように地面に落下した。
霊夢の体が、玩具かなにかのように地面にたたきつけられ、骨が折れる。霊夢は、それでもまだ腕を動かそうとしていたが、その指からはさらに細かい根が張り出して、指に巻きついていった。
霊夢の腕が、完全に硬直する。
地面に到達した根は、さらに成長して、霊夢の体を突き破った。体からはみ出た骨が、枝に絡まって、外にはみだし、内臓の一部のようなものが、盛り上がって露出ている。
木の上の方では、血に照り光ったつぼみが、次々に膨らんで、大きな花を咲かせはじめた。
やがて、ごきり、とひときわ大きな音がした。霊夢は、指先をかすかに振るわせた。
そのまま、痙攣していた霊夢の体が、動きを止める。木の動きも、わさわさとした葉の音を鳴らしながら、やがて止まる。ぱき、と骨を食いつぶす音が響く。
沈黙。
ぽつ、と残った血の雫が、花びらを伝った。木は、動かない悪趣味なオブジェと化して、完全にそこに根付いていた。
幹の間から、木のあいだに絡まるようにして、千切れた霊夢の右手がのぞいている。倒れた頭の首のあたりからは、細い枝が突き出していた。
(……)
魔理沙は呆然と見ていた。
死んだ。そう思われた。
「……あらら。勝っちゃったかな、これは?」
幽香は笑った。陽気な声で。
下半身が吹き飛ばされても、案外けろっとしているようだ。魔理沙はふと幽香を殴りたい心地に駆られた。
(ふざけるな)
だが、次の瞬間、霊夢に変化が生じていた。魔理沙は何気なく目をやって、気がついた。
(?)
よく見ると、霊夢の体から、煙のようなものが立ち上っている。
煙だった。何かを焼くような色をした、漆黒色の煙である。
煙は鎌首を上げた蛇のようにのたくって伸びて、やがて霊夢の体を包みこんだ。ちろ、と霊夢の体に、黒い何かが揺らめく。
それは一瞬、まるで大きな蛇の舌のようにも見えるものだった。そして次の瞬間、その黒い何かが一気に吹き上がり、燃え上がった。
(っ――)
それは炎だった。炎、と言っても、それはまともな色合いをしていなかった。黒い色の炎だった。
異様な、どす黒い色の炎である。それが激しい勢いで巻き起こり、霊夢の体を一気に包んで、燃え上がったのだ。炎は霊夢の体を包み込んだとたん、燃料を得たように、一気に全体に燃え広がる。
炎は、瞬く間に霊夢の体から生えた木にも及んだ。火がついた、と思ったときには、もうあっという間に全体を包み込んで広がっており、なお勢いを増して燃え上がった。
(……、?)
魔理沙は疑問符を浮かべた。なんだ。
見ているうちにも、霊夢の体と、それから生える木は、すっかり黒い炎に包まれ、すでに火の塊と化している。
そのうち、燃え盛る木の花が灰になって、次々に落ちていった。幹も枝も、それに続いて、だんだんと崩れ始めている。
木を一本燃え尽くしても、炎はなおも燃え続けた。むしろ、飲み込んだものを焼き尽くしていくことで、なお勢いを増したようにさえ見える。
すでに巨大な一個の生き物となった炎の中に、やがて、すべての輪郭が飲み込まれた。炎はさらに燃え盛ってたかぶり、飲み込んだものを噛み砕いて、消化しようとする様子にも見えた。
あの中にいたら、絶対に助からないだろう。文字通り骨まで焼き尽くされて、灰も残らないように思われた。少なくとも魔理沙には、そう見えた。
そのうち、唐突に炎は消えた。後に残っていたのは、人型に燃え盛る炎である。
黒い炎の塊。それが、立って、起き上がる。
やがてその残った炎も、徐々に消えていった。炎の消えていく後には、一筋の黒衣がはためく。黒い袖、黒いスカート、黒いリボン。
黒衣である。
黒い巫女の服だ。灰色がかっていたはずの生地は、漆黒の色に変化していた。
いや、重要なのは、そこではなかっただろう。霊夢が無傷でそこに立っていた。
なにごともなかったかのように、傷一つなく、そこに立っている。あれだけ激しく傷ついたはずの体が、傷一つなくだ。
(……再生した?)
ふと魔理沙は思った。
再生した?
「――……蓬莱人?」
アリスが、ぽつりとだが言った。
強烈な魔力の気配を放ちながら、わずかだが、目を見開いて。
(蓬莱人?)
魔理沙は繰り返しながら、思った。蓬莱人。
無限の命。
死の再生、不死鳥の炎。
魔理沙はふと、あの燃え上がる黒い炎のことを思った。そうか。なるほど。
何かに似ている、と思ったら、それはあの妹紅がよく使う炎の様に似ていたのだ。肉体を燃やし尽くす高熱の炎。
絶対に死なない人間。絶対に、死なない人間。
その言葉は、あまりにも致命的なものではなかったか。
(冗談だろ……?)
魔理沙は、内心で呟いた。
だが、それならこれまでのことも納得いく。
たとえば、幽々子と対峙してもその能力が通じていない理由があるとしたら。
あるいは、地底の馬鹿強い鬼連中を本当に一人で皆殺しにできる理由があるとしたら。
(死なないからってか? 絶対に? 死なないから、何度でも再生するから)
ほんの一撃、触れただけで、人間が殺されるような力を相手にするには、たしかにそれくらいは必要かもしれない。
現に霊夢は再生している。今ここにいるのは、絶対に死なない人間だ。
(……)
魔理沙は何も言えずに、ただ見守った。
「……。なによそれ……反則でしょう? まったく……」
向こうで、幽香があきれたように言った。こんなときなのに、まだどこか暢気な口調でいる。
その言葉にはまったく同意だったが、魔理沙は呆然と見守るほか無い。
上半身だけの姿で倒れている様子は、痛々しいはずだった。だが本人が平気そうなおかげで、どこか現実味を欠いている。
霊夢の腕が上がる。指先から光が膨れ上がる。
閃光が放たれ、幽香の上から、閃光が覆い被さるように落ちる。
衝撃で、大気が震えた。幽香の姿が、光の中にかき消えて、消えさる。
「……――」
アリスが横で、かすかに舌打ちした。
それが、なんに対してのものかはよく分からない。そのまま、唱えていた詠唱の続きを呟く。すでに魔力は十分なほど膨れ上がっていたが、なおも増大していく。
「――泉の円形・台座の正方形・柱屋根の三角形――今いまし・此方へいまし、地の深きところにいます強き者よ・来たれ、天の高きところにいます強き者よ・来たれ、私に力をお貸し下さい・祖は天の父ならず・いとたかき者にもあらず・ただここへと降り来たれ・盟約において願い入る・私は、アリス、アリス・マーガトロイドではない、原初のアリス」
そのまま、長い詠唱の続きをつぶやく。魔法の力場は、すでに目に見えるほどになってアリスの周囲を包んでいる。
それは、見かけで言うなら、幾重にも折り重なった魔方陣の姿をしていた。一つ一つが異なる色の光を帯び、どれもが強大で、一つ一つが恐ろしく緻密にできている構成の塊だった。それらが、アリスの瞳に映りこんで、力有る文様を描き出している。
「太陽が星に己の位置を問い、激しい嵐のような凪が真っ暗な昼の海を吹きすさび、岩が白く沸騰して砂糖菓子のようにとろけだし、甘くただれた川の水は激流のまま腐れ淀みだし、蛭と泥にまみれた沼からは清らかな乙女が生まれいで、この世にひとつとしてないたおやかな花のその花弁の蜜からは、雄雄しく脂ぎったしわがれの男が生まれいづる。ねじれた蜘蛛のような指がぬめるように宙をなぜれば、鳥がいななき、魚がわめき、馬は頭を垂れて黙り込み、羊がけたたましく笑い出す。沈黙。静寂。この世のあらゆる理には尽くなしの不を与えかし。我が母なる父らよ、赤きしわがれの老父、黒き麗しの騎士どのよ。我が手に力をおあたえください。我が手に力を。我が手に力を。我が手に・力を」
アリスは言った。呪文の仕上げの部分を口にすると、伸ばした指のはしばしにまで、力があふれだす。
充填された魔力が、紫電となってほとばしった。力が瞳の色にまで現れた。
「お与えください、我が手に力を、胎の外にこそ生を置くわが身に父らの無尽なる泉ぞ宿りかし、エ・ロイム・エッサイム・エ・ロイム・エッサイム今こそ我は求め訴えん、魔力よ来たれ。魔力よきたれ」
最後に、アリスの顔の前に、二色の魔方陣が描き出される。赤と黒と、二重になって。
アリスは最後に、その力が向かうべきほうへと腕を上げていた。
「我求む――」
びしり、とそれをつぶやいた瞬間、アリスの顔に、一筋の亀裂が走った。まるで人形のそれのように。
「渇きの泉よ」
さらに言う。今度は、腕に亀裂が走る。
霊夢が腕を上げた。閃光が放たれる。
「輝きし月の銀影を、――」
巨大な閃光が、アリスの障壁を貫いて、わずかにゆがみ、アリスの片腕を吹き飛ばした。
アリスは顔を歪めたが、微動だにせず続けた。
「――無に帰せ!」
言い放つ。
瞬間、アリスの手のかざされた空間に、黒い穴がうがたれた。穴は、ほんの小さな、親指と人差し指で作った丸ほどのものだった。
それがどのようにして現れたのか、魔理沙にはまるで見えなかった。ただ、突然、空間が、何らかの力によって急激に落ち窪んだ、そんな風にも見えた。穴は、瞬く間に空間にうがたれて、たちまち無数の鉄球でできた、鎖のようになった。
それは、まるで、その空間自体に描かれた落書きであるように、稚拙な連鎖を描いて、霊夢に向かい迫っていく。凄まじい速度で。
「――、」
霊夢が閃光を放った。指先から光が放たれ、それがアリスへと一直線の軌跡を描いた。
だが、光がアリスに接した瞬間、ふと、不意に消失し、どこかへと消える。
どこかへ、といっても、はっきりどこという断定は無い。ただそうとしか表現ができない。
アリスはそのままそこに立ち、歪な黒い連鎖は、変わらぬ速度で霊夢に迫った。霊夢はとっさに身をかわそうとするが、なぜか連鎖はそれを正確に追尾して伸びた。
あれだけどのような攻撃もかわした霊夢が、連鎖をかわすことだけはできなかった。衣の端に、球体の一部が触れた。
瞬間。
瞬間。唐突だった。
唐突に景色がごそりと消失した。
いきなり宙にあいた黒い穴が、霊夢と、霊夢の周りの風景や何か、そういったものまですべて消し去った。光も消える。黒い球体が、膨張してすべてを覆い隠す。
衝撃も何も無かった。穴は、そのまま一瞬で消失した。
続いてやってきたのは、凄まじい、爆風のような風だった。ごう! といきなり耳元を薙ぐ。それが、穴のあったところをめがけて、いきなり吹きつけた。
魔理沙は体重の軽さが災いしてか、あっさりと転ばされ、膝やらをしたたかに打った。とっさに押さえた帽子が飛ばなかったのは、ただの幸運だった。
「ったあ……」
(ええい、くそ!)
魔理沙はののしってこらえた。風はそのまましばしのあいだ、吹いた。
魔理沙は風の吹くほうに目を凝らそうと思ったが、無理だった。顔が上げられない。帽子が飛ばないようにするくらいで精一杯だった。
やがて風が収まった。
(……)
魔理沙は様子を見て顔をあげた。
あたりを見ると、風が止んでいた。魔理沙は霊夢がいたところを見た。
霊夢の姿は無かった。代わりに、そこには穴があいていた。
穴だった。まさしく、そうとしか表現の仕様のない、巨大な空白が出現している。
先ほど見た、黒い穴が広がって消えたところは、まさしくぽっかりと消えていた。静寂。
穴が消失した後には、なにも残っていない。その穴が確かに存在したという証拠として、土や木が丸く抉り取られている以外は。
(……おい、おい)
魔理沙は、冷や汗を流す心地で見た。魔法。
起き上がって、帽子を直す。魔法、だ。
そう呼ぶのがふさわしい光景だった。たぶん、いや、人の手では絶対に、こんな光景は作られない。そういう様子が、現実のものとして目の前にあった。
その空間だけが、冗談のように、ぽっかりと球形に抉れている。中にいたものは、なにもかもがなくなっていた。跡形も、そこにいたという痕跡もなく、ただ消えている。
いったいどこにいったのか、それさえも想像つかない。
もしもあれに巻き込まれたなら。そう考えると、魔理沙は背筋が凍ったようにうす寒くなるのを感じた。目の前の景色は、それほどの光景だった。
(……究極の、魔法、か? ……)
そんな言葉が、ふと頭をよぎる。
魔理沙は、そこでふと我に返った。アリスの姿を探す。
いた。アリスは魔法を放った位置に、そのままいた。
ただ、地面に倒れているようだ。手足を投げ出して、ぐったりとした様が見える。
魔理沙は、もう一度霊夢のいた方向を見た。今度は復活してくる様子が無い。
ちらちらと様子を見て、それからアリスの下へと近寄る。
近寄って、上から覗き込むと、アリスはやはり倒れていた。遠目に見たとおり、目を閉じて、手足を投げ出してぐったりとしている。
眠っているよう、というより、まるで死人のように青白い顔をしていた。顔にはあの不自然なヒビが走っている。腕にもだ。
その様はまるで打ち捨てられた人形のような有様に見えた。
(……、死んだ、のか?)
魔理沙は思った。あたりの様子を気にしながら、アリスのそばにひざまずく。
「……」
見ていると、アリスはぱちりと目を開いた。ちょうど、魔理沙の気配を察したように。
瞳が動いて、魔理沙を見る。赤い目の中に、はっきりした意識の光があった。
生きている。魔理沙は、恐る恐る口を開いた。
「……なんだよ。生きてたのか?」
「ええ。だから、いきなりそばに立たないで頂戴ね。あんたのことだから、またいたずらされるかと思うじゃない」
「いくらなんでも、死人にいたずらなんかするかよ。縁起でもない」
魔理沙は言った。アリスの様子を見て、少し考える。
(なにを?)
何を考えたのだろう、と魔理沙は自分で思った。自分でもよくわからない。
もしかすると、混乱しているのかもしれない。魔理沙は自分で自分の思考を打ち消した。
「……なんだよ、いまの」
魔理沙は無難なことを言った。
アリスは、地にふしたまま、億劫そうに首を動かした。それが、なんとなく体を起こそうとしているらしい、と気づき、魔理沙は無言でそばにかがむと、アリスの背中に手を差し入れてやった。
「ああ、ありがとう……」
「ああ」
魔理沙は答えた。アリスは若干辛そうに体を起こして、ひとつ息をついた。
(なんだ、こいつ……)
魔理沙は眉をひそめた。妙に体が重たかった。
まるで体に力が入っていない。弱った老人でも持ち上げているかのようだ。
「……意味消滅よ。物体の」
アリスはだるそうに言った。
「仕掛けた物体に対して、その存在している意味自体を、強制的に消滅させるのよ。たとえば、ある物体がそこにあるとして、それはこの世に存在する意味を自ずから持っているからこそ存在しているわけね。もしもそれをはぎ取られたとしたら、それはそこに無いのと同じことになる……つまりは、存在自体が、根本から消え失せる。どんな力も、そのものの持つ意味というのを補強はしても、防御するということはできない。また、消滅の法自体は、意味を伝う力だから、それは放たれた瞬間からその物体に仕掛けられることを定められる。だから、完成すれば絶対に防げないしかわせない。理論上ではだけど」
アリスは言った。それこそ、魔理沙には言っている意味の半分も分からないような内容だったが。
ともかく、あれは自分には手も届かない魔法のようだ。魔理沙はそう納得するしかなかった。
(……霊夢は?)
「でも……」
アリスが言った。こちらが聞く前に、こちらの思考を追いかけるように続けてくる。
「私は、術の負荷でこの体まで犠牲にしたって言うのに……五感の遮断をともなう、擬似的な存在消滅か……現界での意味消失を逃れるために、あの一瞬で、まったくあたらしい仮定時空を作り出して逃げ込んだか……まあ、たぶん、知覚の遡行までついでにやっていたんでしょうね。時を止めたとかじゃない、あの攻撃が仕掛けられるのを見てから、視覚だけを過去に飛ばして、攻撃とその対処法を認識していたのよ。尋常じゃないわ。たしかにそうじゃないと、間に合う道理がないけれど……本当の化け物っていうのは、ああいうものかしら。どうしろって言うのかしらね、あんなの……」
アリスは言った。その言葉に答えた、というわけではないだろうが。
突如として、音が鳴った。魔理沙はそちらを見た。
空が白い稲妻を放っていた。そうして、急に空中に、光の線が一筋出現する。
宙が激しく放電して、光の線の走るあたりで、ひっきりなしに音を立てた。まばゆい白光が、宙をすべる様に線を描く。
それは綺麗な円形だった。ちょうど、大きな両開きの扉ほどもある円形が、空に描かれている。
やがて、そこに一枚の絵が生じた。円の中心は、次第にうっすらと色を帯び、輪郭を得た。
めまぐるしく変化する円の中にあらわれたのは、黒と白とに分かれた、陰陽の紋だった。無骨な表面に、壮麗な花文様が描かれた、豪奢極まりない意匠のものだ。太極図。
陰と陽とを分かつ、白と黒の線の中心に、やがて、明確な境界が現れる。それは亀裂の形をしていた。
同時に、黒と白を分かつ線が割れていく。
さなぎが蝶へとかえるときのように、線は割れ綺麗な亀裂となった。そこからさらに左右に分かれていく。
線割れた箇所には、その紋が開くにつれ、なにか大きな腕がかかっているのが見えてきた。それが紋を左右に押し開いている。
腕の姿は二本あり、それぞれ大きさが異なっていた。細いしなやかな女の腕と、筋骨隆々とした太い腕。
おそらく片方のが女の腕。もう片方の太い腕は男の腕だ。それぞれ、人間のそれを模した腕は、片方が赤、片方が白。人間のそれに比べれば、はるかに巨大な腕が、太極の扉を開いていく。
やがて、紋が完全に開かれると、中の暗闇から霊夢が姿を現した。黒い衣をはためかせて、宙に浮かぶ。ゆっくりと地に降り立つ。
霊夢を吐き出した紋は、またたくまにその輪郭を薄くし、やがて消えていった。霊夢が何事も無かったように歩き出す。その足はアリスの方に向けられている。
呆然と見ていると、アリスが身じろぎしたのが伝わった。なぜか妙にその体温が暖かく感じられ、魔理沙は少し動揺した。アリスが口を開く。
「……ほら、何しているの。あんたは早く逃げるのよ。霊夢の狙いは、私なんだから。あいつ、人間は、ぜんぜん眼中にないようだもの」
「……なんだ、気づいてたのか」
「ええ、まあね。さあ。はやく離れてよ。巻添えで死なれちゃ、迷惑だわ。あんたがここで死ぬのはまるで無意味なことなんだし……それに、どうせもう限界なのよね、この身体。さっきので空っぽになっちゃったんだわ」
そう言って、アリスは亀裂の入った指を示して見せた。
魔理沙は、何か言いたいようにしたが、結局、無言のままアリスを横たえてその場を離れた。魔理沙は、なにかが無性にこらえがたくなるのを感じた。それがなにかはよくわからない。
ならどうする? 魔理沙はたずねた。
どうする?
(霊夢を止めるのか? アリスを殺されないために? 誰が? 私が? まさか)
魔理沙は笑った。小さく。
ほどなくして、霊夢が歩いてやってきた。離れていても閃光を放てば終わりだろうが、なぜかアリスのそばまでやってきた。
立ち止まって腕を掲げた霊夢を見て、アリスは少し笑った。
「――あら、霊夢」
アリスは笑って言った。ぐったりと横たわったまま、霊夢を見て。
「嬉しいわね。自分から近寄ってきてくれるなんて。やっぱり、あんたと私は、けっこう気が合うのかしらねえ」
言いつつ、アリスが震える腕を上げる。霊夢が、躊躇なく指先を向ける。その手に閃光が灯った。アリスが指を鳴らした。親指と中指の間で。
霊夢の腕から、閃光が放たれる。その瞬間、放たれたはずの白光が、その場で爆発的に膨らんだ。
二人の立つ空間が弾け飛び、爆砕した。
衝撃波が波打って飛び、帯電した空気が、大気の中を走り抜ける。爆発は、さらに起きた。同じような規模の爆発が、もう一度、たてつづけに。空気を焦がす熱風が、辺りのものをなぎ払う。
どうやら、仕込みは二段仕掛けだったようだ。こんなときまで手の込んでいるのが、アリスらしいといえば、らしかったが。
(霊夢を止める? 誰が? 私が? まさか)
魔理沙は繰り返した。小さく。
爆発の余波が消えると、霊夢の顔が見えた。無表情のままの顔が。
テラナツカシス
遂に出会った霊夢と魔理沙、次回物語の核心へと向かうのでしょうか。
楽しみにしています。
打ち切りでは無い様なのでじっくり待たせていただきますね。
誤字?報告
妖夢は、自身なさげになりながら、ふとほんの数刻前のことを思い出していた。
自身→自信
霊夢は何なのかさっぱりですわ。
底編(下)期待してます。
しかしこの4人が揃ってると何となく怪綺談を思い出すな
一つ気になったのですが、タイトルが全角から半角になってますかね?
…今の霊夢どうなってやがる…
ついに相対した霊夢と魔理沙…さぁ魔理沙。お前はどう動く?
未だに姿を見せない紫も気になる…
可能性としては霊夢のこの状態が紫の差し金とも…。
だけど前半の独白と魔法詠唱だけで満点。
かっこいいアリスを見れてよかったです。
次回を楽しみにしています。
残ったのは人間と半人と元人間たちとゆかりんか。
霊夢が圧倒的過ぎて魔理沙で勝負になるのか、戦うのかも分かりません。
あと誤字いっぱい。
未完なのでフリーレスで失礼します。
視覚と聴覚が揺さぶられて前後不覚です。
今動ける人々、残された人々、残った人々、まだ出てきていない誰かも、この先どーなる。彼女らはうねり唸り何処へ行くんです……?
底(下)が読みたい。
別に、完結編(上)でも底(下(甲))でも良いけど。
でも完結してるっぽいので安心して続き読んでくる
永琳の言う最善の方法がどうしてこうなったのか……