今宵も満月の夜を向かえる事が出来た。
月など、私にすればただ不吉で歪みの世界でしかなかったのに。
今はこうして、満月の夜を迎えられる事に全身で喜びを感じる事が出来た。
尤も、外は騒々しくて満月を崇める事は出来ないのだが。
全く、翁の心配性にも困ったものね――。
老婆は苦笑した。
今宵の満月の頃、私は月に帰らなければなりません――。
我ながら都合の良い話だ、と思った。
今日は全てのしがらみから解放される、祝福するべき日になると云うのに。
策謀と欲望に塗れた穢き地上民との決別。月の使者と穢き地上の者とでは立つ世界が違うのだ。
笑いを堪えるのが精一杯で。諦観したような婆に見せるような不謹慎は出来ないけれど。
大丈夫、顔を作るのは月でも地上でも慣らされたものだ。
「……かぐや」
老婆は、しゃがれた声を絞り出すように上げる。
娘のように、と育てた私との、突然の決別。
さぞ居た堪れないであろう、とは想像に難くない。
私も、彼女たちには恩や情は在る。力を失ったなよ竹の姫として地上に遣わされたあの頃から、今までの力を取り戻すのにたっぷり3年を要したのだから。
それ以降はと云うものは、殿方との縁談をしきりに持ち出す翁の再三に渡る説得に辟易していたのだが。
私を身位の高い者へと遣わせる事で、自身の安寧を得たいだけだったのだから。
所詮、彼らは穢き地上の民なのだ――。
いよいよ以て、そう思わざるを得なかった。
嗚呼、永琳。一刻も早く貴女の姿を目に焼き付けたい――。
穢き地上にいう暦で一年ほど時を遡ると、地夷(ちきゅう)の輝夜に目通りが適った時の事を思いだされる。
彼女は、月と変わらぬままの姿だった。
物儚げな瞳と小さくぷくり、とした唇。可愛らしく申し訳程度に通った鼻筋、美しく映える黒髪は全く変わっていない。
彼女は、孤独だった。
彼女は、ただ一人で居続けた。
私の知る輝夜は、ただ一人で在り続けた。
王族の中でも温厚で知られた輝夜が、人間や月兎を区別する事なく、優しく接していた輝夜が、家族の情を知らない私に、娘として親愛の情で接してくれた輝夜が。
私は。
彼女の寂しさに。
彼女の哀しさに。
何度も気付いてあげられた筈なのに。
彼女の見せなかった、声のない悲鳴に。
私の夢だった、禁忌の秘薬の呪いの代償を一身に受けた所為で。
輝夜は、死ぬ事も出来ないままに孤独を背負い続ける事になった。
流刑の日、私の目的の為に利用されたと知った輝夜は、
私を怒るのでもなく、恨むのでもなく、ただ――。
私の頭を抱いて。
ただ、泣いた。
ただ、泣いた――。
私は、償わなければならないのだ。
その日から、私の主君は月夜見様ではなくなった。
この身が滅んでも、貴女とともにあります。
隔絶された世界の果て。
残された禁忌の薬は恩義のある地上の者へと譲り渡し、私たちは歩く。
ただただ悠然と。
全てを棄て、全てから解き放たれた私は、久しく。それでも7年を数える永い時間を於いて。
「永琳」
私の左手を引く、最愛の従者へ贈る、ただ一つの――。
「貴女が居てくれてありがとう――」
今宵、7月15日に見せた、満月の奇跡を――。
「またその話?」
最近の輝夜はこればかり。
聞き飽きたとばかりにてゐはそっぽを向き、鈴仙は苦笑する。
当事者としても苦笑以外にする事が出来ないんだけど、本人が嬉しそうに語る以上、臣下が止めるのも無粋だろう。
とは言え、永遠亭に住む者なら耳タコであると言わざるを得ない上、私が非常に恥ずかしい思いをする事になるので、一個人としてはもう止めて欲しいのだが。
「えぇ。あの時の永琳の格好よさと言ったら……」
嬉々として語り続ける輝夜を目の当たりにして、私は今まで彼女に施してきた教育のどこを間違えたのか、と頭を抱えざるを得なかった。
ただ人情に餓えていたにしては、同じ条件のはずの地上人の名前はおろか、地上での生活すらしない。
呑んだくれでもあるまいし、何度も同じ話を繰り返されると、さすがに私とて反応に困るのだ。
嬉しそうに話し続ける輝夜を見て思う。
“こう言う顔をする輝夜も、可愛らしいのかも知れない……"
私もヤキが回ったのか、可愛いものは目に入れても痛くない、とはよく言ったものだ。
地上人の発想力は月人である私達以上に様々なものが見えているのかも知れない。
輝夜の話は、私が予想にしない角度から独特の切り込みを入れるので、聞いていて飽きないのだが。
「そうね、一句を詠むなら、こうかしら。
―君待つと 毎夜偲ぶる 望月に
変はらぬ想ひ 我忘れめや
」
場を共にした一同は、一様に真っ赤にならざるを得なかった。
月など、私にすればただ不吉で歪みの世界でしかなかったのに。
今はこうして、満月の夜を迎えられる事に全身で喜びを感じる事が出来た。
尤も、外は騒々しくて満月を崇める事は出来ないのだが。
全く、翁の心配性にも困ったものね――。
老婆は苦笑した。
今宵の満月の頃、私は月に帰らなければなりません――。
我ながら都合の良い話だ、と思った。
今日は全てのしがらみから解放される、祝福するべき日になると云うのに。
策謀と欲望に塗れた穢き地上民との決別。月の使者と穢き地上の者とでは立つ世界が違うのだ。
笑いを堪えるのが精一杯で。諦観したような婆に見せるような不謹慎は出来ないけれど。
大丈夫、顔を作るのは月でも地上でも慣らされたものだ。
「……かぐや」
老婆は、しゃがれた声を絞り出すように上げる。
娘のように、と育てた私との、突然の決別。
さぞ居た堪れないであろう、とは想像に難くない。
私も、彼女たちには恩や情は在る。力を失ったなよ竹の姫として地上に遣わされたあの頃から、今までの力を取り戻すのにたっぷり3年を要したのだから。
それ以降はと云うものは、殿方との縁談をしきりに持ち出す翁の再三に渡る説得に辟易していたのだが。
私を身位の高い者へと遣わせる事で、自身の安寧を得たいだけだったのだから。
所詮、彼らは穢き地上の民なのだ――。
いよいよ以て、そう思わざるを得なかった。
嗚呼、永琳。一刻も早く貴女の姿を目に焼き付けたい――。
穢き地上にいう暦で一年ほど時を遡ると、地夷(ちきゅう)の輝夜に目通りが適った時の事を思いだされる。
彼女は、月と変わらぬままの姿だった。
物儚げな瞳と小さくぷくり、とした唇。可愛らしく申し訳程度に通った鼻筋、美しく映える黒髪は全く変わっていない。
彼女は、孤独だった。
彼女は、ただ一人で居続けた。
私の知る輝夜は、ただ一人で在り続けた。
王族の中でも温厚で知られた輝夜が、人間や月兎を区別する事なく、優しく接していた輝夜が、家族の情を知らない私に、娘として親愛の情で接してくれた輝夜が。
私は。
彼女の寂しさに。
彼女の哀しさに。
何度も気付いてあげられた筈なのに。
彼女の見せなかった、声のない悲鳴に。
私の夢だった、禁忌の秘薬の呪いの代償を一身に受けた所為で。
輝夜は、死ぬ事も出来ないままに孤独を背負い続ける事になった。
流刑の日、私の目的の為に利用されたと知った輝夜は、
私を怒るのでもなく、恨むのでもなく、ただ――。
私の頭を抱いて。
ただ、泣いた。
ただ、泣いた――。
私は、償わなければならないのだ。
その日から、私の主君は月夜見様ではなくなった。
この身が滅んでも、貴女とともにあります。
隔絶された世界の果て。
残された禁忌の薬は恩義のある地上の者へと譲り渡し、私たちは歩く。
ただただ悠然と。
全てを棄て、全てから解き放たれた私は、久しく。それでも7年を数える永い時間を於いて。
「永琳」
私の左手を引く、最愛の従者へ贈る、ただ一つの――。
「貴女が居てくれてありがとう――」
今宵、7月15日に見せた、満月の奇跡を――。
「またその話?」
最近の輝夜はこればかり。
聞き飽きたとばかりにてゐはそっぽを向き、鈴仙は苦笑する。
当事者としても苦笑以外にする事が出来ないんだけど、本人が嬉しそうに語る以上、臣下が止めるのも無粋だろう。
とは言え、永遠亭に住む者なら耳タコであると言わざるを得ない上、私が非常に恥ずかしい思いをする事になるので、一個人としてはもう止めて欲しいのだが。
「えぇ。あの時の永琳の格好よさと言ったら……」
嬉々として語り続ける輝夜を目の当たりにして、私は今まで彼女に施してきた教育のどこを間違えたのか、と頭を抱えざるを得なかった。
ただ人情に餓えていたにしては、同じ条件のはずの地上人の名前はおろか、地上での生活すらしない。
呑んだくれでもあるまいし、何度も同じ話を繰り返されると、さすがに私とて反応に困るのだ。
嬉しそうに話し続ける輝夜を見て思う。
“こう言う顔をする輝夜も、可愛らしいのかも知れない……"
私もヤキが回ったのか、可愛いものは目に入れても痛くない、とはよく言ったものだ。
地上人の発想力は月人である私達以上に様々なものが見えているのかも知れない。
輝夜の話は、私が予想にしない角度から独特の切り込みを入れるので、聞いていて飽きないのだが。
「そうね、一句を詠むなら、こうかしら。
―君待つと 毎夜偲ぶる 望月に
変はらぬ想ひ 我忘れめや
」
場を共にした一同は、一様に真っ赤にならざるを得なかった。