彼女との最初の出会いは『成海』の店内だった。彼女はカウンターに突っ伏して泥酔していた。他に客は誰もいなかった。カウンター席しか存在しない店内は私と彼女、それとこの店の経営者である老年の女性だけだった。
この店は私の隠れ家だった。勇儀にもヤマメにも、さとりにも教えてはいない。旧都の一番大きな宿屋を脇道に逸れて、裏口を横切り、時々聞こえてくる宿泊客の媚声に耳を塞ぎながら更に横道に入る。喧騒を背にしながら、裏手に捨てられている生ごみに鼻を塞ぐ。打ち捨てられたように眠る鬼の姿を何度か認めながら数分歩いて、やっと見つけられる、そんな、街から切り離されたような店だった。
~Gには早すぎる/見知らぬ常連客~
最初にこの店に迷い込んだときのことはよく覚えていないし、理由なんてものは今となってはどうでもいい事だった。なにか面白くないことがあって、一人になりたかった。気がつけばこの場所に居た。表に出されていた灰色の『成海』と書かれたたて看板がなければ、私は此処を誰も住んでいない民家だと勘違いしていただろう。
立て付けの悪い引き戸を開けて、私は吸い込まれるように中に入っていった。
店内は外で見たよりも狭く見えた。最初に目に付いたのは、壁に埋め込こまれた棚に並ぶ洋酒の数々だった。数にして数十本、影になっているものも含めると百に届くかもしれない。旧都では珍しい、私の知らないものばかりだった。それを取り囲むようにしてカウンター席が並んでいる。座敷やテーブルを置くスペースはどこにもなかった。十人ほどしか座れない店内には、アルコールと、煙草の匂いが染み付いていた。
私はマフラーをはずして、床に埋め込まれた丸イスに腰を下ろした。クッションが死んでしまっていて、座り心地は最低だった。高さがありすぎてつま先しか床につかなかった。すぐ後ろに剥き出しになった木の壁があった。木製のカウンターを指でなぞると、爪の痕か何かで傷だらけだった。以前はもう少し客入りがあったかもしれない。壁で大きな音を立てていた時計を見ると、まだ飲み始めるには早い時間だった。もしかしたら、もう数時間もすればここも表と同じように鬼達が雪崩れ込んでくるのかもしれない。いずれにしても、その時店内にいたのは私ひとりだった。
「誰かいないの?」店の中に聞こえる程度の声で私は言った。しばらく待っていると奥のほうで物音がした。物腰の落ち着いた年寄りの鬼がのっそりと、私の座った場所とは逆にあるドアを開けて現れた。
「珍しいね、こんな時間に」喉に病気を患っているような声だった。老婆は私の姿を見ると目を丸くした。「これは可愛らしいお客さんだ」
彼女はカウンターの中に入ると、店の雰囲気とは全く似つかわしくない、真っ白なエプロンを肩に掛けた。ふくよかとはとても呼べない骨みたいな体格、腰は曲がりきっていて、梅干みたいに皺だらけの顔。真っ白な割烹着。人間で言うのならば年は六十に届くかというくらいだろうか。私がやってきて嬉しいらしく、表情が柔らかかった。頭から伸びた五センチほどの角で、私は彼女が鬼だと分かった。表通りで定食屋でも開けば、一日で覚えてもらえるような風貌だった。
「なんにするんだい?」彼女は桶に貯めた水で手を洗いながら言った。
「ここは何の店なの?」と私が聞くと、彼女は頬に、コインを挟めそうなほどの皺を寄せた。
「何がいい?」
「意味がわからないわ」
「なんでも作ってあげるってことさ。もちろん出来る範囲だけどね。久しぶりの可愛らしいお客さんだ、コロッケにするかい? それともオムレツでも作ってやろうか。いやいや子供扱いするのはよくないわね。ここにあるお酒なら、なんでもいいよ。最初くらいはサービスするから」
「酒場なの?」
「まぁそんなところかね。ある程度の食事も用意できる。昔は夫と一緒に居酒屋じゃあない、バー、っていきこんでたけど、あの人が死んでしまってからはどうでもよくなっちまったよ」
口に油でも塗っているようによく喋る人だと思った。私はもう一度店内を見回した。メニューの類は見当たらなかった。蜘蛛の巣の類も。私は目を伏せて、カウンターを中指でなぞりながら言った。
「じゃあ、強いお酒をもらえるかしら? 久しぶりに酔いたい気分なの」
「あいよ」
彼女は洋酒の棚から二本のボトルを持ってくると、慣れた動作で栓を開けた。そして銀色の金属性の容器にそれぞれ違った配分で入れると、氷を数個入れた。私はカウンターから身を乗り出していた。ボトルに書かれた文字は私には読めなかった。
「珍しいかい」と、容器の蓋を閉めながら彼女は言った。
「ええ、本でしか読んだことがないもの。カクテル、とかいうんでしょ?」
「そうだよ」容器を両手で包むと、彼女の背筋が鉄でも通したように真っ直ぐになった。彼女はそのまま全身で腕を振った。カラカラと、中の氷が鳴った。空気がゆっくりと流れるような不思議な光景だった。私はカウンターに肘をついてそれに見惚れていた。
彼女は容器を開けるとグラスに注いだ。透き通った緑色をしていた。目の前にそれが置かれた。私は立ち込める香りに多少の苦々しさを覚えた。
「旦那が好きだったんだよ」と彼女は遠くを見るように手元を見て、言った。
そう、と私は一度頷いてから、グラスを持った。硝子の温度に指が痺れそうだった、。ゆっくりと口元に近づけると、香りが一層強くなった。「ささ、早く飲んでみておくれ、温くなったら美味しくないからね」言われるままに私は舐めるようにして、それを口に含んだ。
「どうだい?」と彼女は目を輝かせる。私はその期待には答えてあげられそうになかった。舌先を針で突付かれたようだった。度数の高い酒を飲まされたことは何度かあったが、これはそれとはまた違った刺激があった。
「美味しいわ」私は無理をした。「何度か刺されるような目にはあったけど、お酒に刺されるとは思って無かったしね」
「まだあんたにはこの味は早かったのかもしれないね。……名前は?」
私はもう一口、カクテルを味わってから答えた。やはり少しばかり顔を歪めて。
「水橋パルスィ。橋と縦穴の番人をやってるわ」
「こんな早くに来るなんて、さぼりかい?」
「仕事が無いだけよ」
私はグラスを置いて、足を組んだ。膝をカウンターに軽くぶつけて、グラスの液面が波打った。
「これ、なんてお酒?」と私は聞いた。彼女は二本を私の前に置いて、人差し指と中指でそれぞれを指差した。
「これがジン、こっちがライムジュース」
「カクテルの名前は?」
彼女はそれに答えた。私はその日からこの人気の無い店の常連になった。通ってみるとこの店にも全く客が来ないというわけでもなかった。私が訪れるたびに一人いるかどうか、という程度だったが、それでもこの場所にはきっと、迷い人を引き寄せる不思議な魔力があったのだ。
旧都という、全てを受け入れる街の外れにある小さな酒場。そしてその場所で変わらず皺だらけの顔を続ける老婆。そんな空気が私は気に入っていたのかもしれない。あるいは最初に訪れたときに子供扱いされたことを根に持って、意地になっていたのかも知れない。
泣きながら酒を浴びる者、老婆と楽しげに会話している者、愚痴愚痴と独り言を呟き続ける者。色んな者たちが訪れるのを見てきたが、この店では客同士の会話というものは無かった。誰しもが一人になりたくて、あるいは彼女の年老いた声が聞きたくて訪れるのだ。そこに交流なんてものは発生するはずも無く、発生してはいけなかった。今、店の隅で泥酔している彼女と出会ったのは、そんな場所だった。
私が店を訪れたときには既に、店の右隅で彼女はかなり出来上がってしまっていた。片付ける暇さえ与えなかったのか、カウンターの上には重ねられた料理皿と、グラスが三つ置かれていた。そのうえ、彼女は片手に四つめのグラスを持って、薄緑色の液体を、垂直に自分の身体に流し込んでいた。その飲みっぷりは星熊勇儀を髣髴とさせるものだったが、そのボサボサな黒髪には角は無かった。しばらく洗っていないような白いシャツは裾と襟の部分だけが緑色で、所々土に汚れていた。清潔にしていれば見栄えのいいだろうその格好は、くたびれてしまって見る影が無かった。カウンターに置かれた帽子だけが、汚れることなく純白を保っていた。赤いジャケットが隣の椅子に掛けられていた。
私は彼女の対角線上に座った。ここからならば自然と目が合うこともなかった。「いつもの」と、私はマフラーを隣の席に置いてから言った。ボトルは二本、グラスは二つ用意された。カクテルの比率だけが違っていた。壁掛け時計を見ると、まだ酔いが回ってしまうには早すぎる時間だった。
「あいつは?」私はグラスを引き寄せながら、向こう側には聞こえないような声で聞いた。「見ない顔だけど」
「ここでは他人に干渉しない。そう言ったのは誰だったかね」
私はグラスのふちを指でなぞって、数回小突いた。
「冗談だよ。正直言うとね、私も知らないんだ。パルちゃんと一緒な頃か、もう少し後か、ふらりと現れたんだ。いつも倒れそうになるまで飲んでいく。私が止めても聞きゃしない。困った子だよ、まったく」
「女が自棄酒をする理由なんてひとつしかないじゃない。それに、困ってるなら酒を出さなければいい。地霊殿の主だってペットの躾にはそれくらいするわよ、きっと」
続けようとしたが、視線を感じたので私はそこで切り上げてグラスを傾けた。長い間飲み続けているのでこの味にも慣れてきていた。最初刺さるように感じた苦味も、今では風味が鼻から突き抜ける感覚を楽しむ余裕が生まれていた。
対角線上の彼女は鉛球が落ちるように頭を下げると、右手を上げて「おかわり」と、それだけ言った。止められるのがわかっているらしく、皺の中の口が開く前に「いいから」と、顔を上げずに手を振った。再びシェイカーが音をたて、薄緑色のカクテルが注がれた。見比べてみると、微かに私のものよりも色が薄かった。
私は足を組み直してカウンターに右肘を乗せ、左手の薬指でグラスをなぞりながら、もう一度向かいに座る少女を見た。何杯を流し込んだかは知らないが、死んでいるように顔は青ざめていた。フラフラと頭が揺れるたび、前髪に隠れている瞳が見えた。虚ろで、光の無い瞳だった。しかし私はそれをどこかで見たことがある気がした。記憶の本を辿ってみると、その正体は意外なほど簡単に見つかった。
「見知らぬ常連さん」
気がつけば、私は自分で作った決まり事を、カウンターに備えてある紙ナプキンよりも軽く破リ捨てていた。最初、対角線の彼女はそれが自分に向けられた言葉だと気付かないようだった。顔を上げて、店内を一瞥して、他に誰もいないことにようやく気付く。そうしてやっと、それだけで人間くらいなら殺せそうな瞳で私を睨んだ。言葉は無かった。話しかけるなといっていた。私はグラスを一気に開けた。彼女も同時にグラスをカウンターに置いた。風情も雰囲気も無く、ただグラスをふたりで開けた。そしてまた視線があった。
「子供かあんたらは」そう言いながらもまた、新しいグラスがそれぞれの前に置かれる。今度は彼女のほうが早く手を伸ばした。私がカクテルの温度を指先で感じるよりも早く、グラスは空になっていた。彼女がカウンターにグラスを置くと、鈍い音と一緒に、振動がこちらにまで伝わってきた。私はこの不毛なやりとりを諦めて、指をクッションにして、中身の半分ほど残ったグラスを置いた。
彼女は席を立った。またカウンターが呻いた。「ごちそうさま」と、口だけが動いていた。「釣りはいいわ」紙幣を何枚か差し出して、また呟く。出来るだけ他人とのやりとりを避けたいらしい。
彼女はそのまま、血のような色のジャケットを羽織って、わき目も振らずに店を出ようとした。初めて見えた全身は私と同じくらいの背格好にやはり土のこびり付いた元々は真っ白なキュロット、くるぶしまでを包むショートブーツも使い込まれてボロボロだった。帽子だけを、大事そうに手に持っていた。
私はグラスをそちらに向けながら立ち上がり、身体を引きずるようにして歩くその背中に、最後の質問をした。
「ギムレットはお好き?」
彼女は一瞬たりともこちらを見なかった。引き戸に手をかけてどこか遠くを見ていた。その瞳はやはり、私の知っているものだった。
愚かものの瞳だった。自分の目指すものだけを見ていて、他には何も映らない。どこまでも独りで突っ走っていって、気がつけば全てを失ってしまう。取り返しのつかないことになってやっとそれに気付く。そんな、大馬鹿野郎の瞳だった。
私は、私達の瞳と同じ色のカクテル越しにその瞳を見た。
彼女は言った。いや、呻いた。水底から這い上がるような声。しかし酔いどれのそれとは違う、どこかで芯の通った声で。
「私に、質問をするな」
壊れそうな音を立てながら戸が閉められる。私は空いていた手をだらりと下げた。「なによ、あいつ」反応は正直なところ、予想通りだった。無視か拒絶、それが私の予測だった。やはり彼女は私と似ていたのだ。
その後には誰も来なかった。結局私は一人でグラスを二杯空け、茶漬けを流し込んでから、財布の紐を緩めることとなった。
「あいつは、また来るかしら」と、私は自分のがま口財布に目線を落しながら聞いた。
「そんなに気になるのかい?」
「まあね……いくら?」
目の前で指が二本立てられた。私は苦虫を噛んだみたいになった。とりあえず。と紙幣を一枚差し出す。それで紙切れは打ち止めだった。財布はなんとか不足分を吐き出そうとするが、その口から聞こえる金属音は寂しいものだった。私は景気よく財布ごとをカウンターに差し出して言った。
「釣りはいいわ」
しばらくの末、地霊殿あてに請求書を切ってもらって、マフラーを肩に掛けながら店を出た。
それが、村紗水蜜と出会った最初だった。
作者様、早く、早く続きが読みたいです……
続きを待ってます
激しく同意
これは是非続きが見たい
他の星地底メンバーはどこなんだろう
地底の荒んだ雰囲気が良かったです。
ですが、だからこそ私はこの作品に出会えたことを嬉しく思います。