パチュリーは、図書館のはずれにある休憩室で横になっていた。その日は天気がよかったので、入梅前に少し太陽の光を浴びておくのも良いかもしれないと思い、午前中に庭を散歩したのが良くなかったのかもしれない。思った以上に体が疲れたようだ。
(この程度の運動で体調不良になるとは、我ながら情けない体ね……)
そうパチュリーが思い、軽い溜息をついた時、図書館の方から言い争う声が聞こえてきた。
(今日は、魔理沙が来たのね……しまったなぁ。一週間ぶりに来たって言うのに、顔も見ることが出来ないなんて……)
パチュリーは心底自分を憎らしく思った。だが同時に魔理沙も憎らしく思った。何時も何時も、本を持っていくたびにまた来ると言うくせに、何時来るかなどは告げていかず、用事が済んだならばすぐに帰ってしまうからだ。
(私は『本を持って行くな』なんて、随分長い間言った覚えがないのになぁ)
どうやら魔理沙は用事を済ませたようで、言い争う声が聞こえなくなる。それと同時に、休憩室へ向かってくる足音が聞こえてきた。
「パチュリー様、お加減はどうですか?」
小悪魔が休憩室に入ってくる。その顔は少し申し訳なさそうだった。
「また白黒に本を持っていかれてしまいました……」
「気にしないで頂戴。貴方に魔理沙の相手は荷が重いわ。それより、怪我はない?下手に争うような真似はしないで頂戴ね?私は本なんかよりそっちのほうがよっぽど心配よ」
「はい、大丈夫です!!」
そう言って、小悪魔は笑顔を見せる。いつもどおりの愛嬌がある笑顔だ。パチュリーも自然と笑みを浮かべる。
「そう、よかったわ。あまり無茶はしないで頂戴ね」
こういうやり取りは良いものだ。平凡な毎日が生き生きとしてくる。
「それよりパチュリー様。聞いてくださいよ!!」
そう言って小悪魔は眉間にしわを寄せ、怒りの色を顔に浮かべて言うのだった。
「あの白黒、私が待てって言ったら、『お茶とお菓子の用意でもして待てって言うんだったら待ってやらないでもないぜ?』なんて言うんですよ?本当、『盗人猛々しい』なんて言葉は、あいつのためにあるようなものですよね。ああ、思い出したらいっそう腹立たしい!!」
不満をあらわにする小悪魔の姿を、パチュリーはなんだか可愛くって微笑ましいなぁ……などと思って見ていた。するとそれが分かったのか、小悪魔が不満そうな顔をする。パチュリーが会話に真剣ではないのが気に障るらしい。
「パチュリー様も、そう思いますよね?」
そう言って同意を得ようとする小悪魔がなおさら可愛く思えて、パチュリーはついつい頬を緩めてしまう。
「ええ、貴方の言うとおりね。魔理沙は全く傍若無人な人よ。相手のことなんてお構いなしで自分の都合を突きつけるような、ひどい人だわ」
「そうですよね!!その上、あいつは絶対無計画な奴です。毎日何かを考えているには違いありませんが、一寸先のことは何にも考えてはいないような奴ですよ。要するに、本能だけで生きているような奴なんです。野蛮な奴なんです」
どうやらパチュリーが魔理沙を批判したことがよほど痛快だったらしく、小悪魔はいっそう饒舌になって魔理沙の人物批評を始めた。パチュリーは意外と的を射ているわね……などと暢気なことを考えながら、でもその短所がパチュリーにとっては好ましいものに感じられるのだから、もしかしたらこれってあばたにえくぼというやつなのかしら?などと考え、自分の感情を分析しはじめた。
パチュリーが何故魔理沙を好きになったか……それはパチュリーにとってここ数年における最大の研究対象であったと言っても良い。確かに魔理沙の容姿は好みだ。相手の背は高くないほうが良いし、顔立ちはかわいらしい方が良い。性別はどうでもよい。そもそも妖怪、神、妖精、精霊といった類は有性生殖にのみ頼らない。性格はどうか。魔理沙の性格は、まぁ、良くないだろう。しかし、悪人ではない。魔理沙は魔理沙なりに、実は限度を心得て悪事を働いている。それが小悪人の処世術と異なるのは、彼女が勤勉で人生に対し真面目で、何よりも打算を嫌い保身を省みないことから明らかだ。また、人を喜ばせることに喜びを感じ、人を悲しませることに悲しみを感じる善性もある。目に付く悪癖も、100年生きたものの目から見ると少し微笑ましく感じる。むしろ、傍若無人さや無鉄砲さはパチュリーに欠ける性質であり、伴侶がお互いに欠けるものを補うものであることを考えれば、むしろパチュリーが魔理沙に惹かれるのは自然なことである……と、いつも通りの結論に行き着き、あばたにえくぼ仮説は疑いがあれども証拠不十分となった。
(最も、こうやって理屈で説明してみせたって、結局好きなものは好きなわけで、その感情が全てなんだからあれこれと考えたって馬鹿らしいだけよね)
そうパチュリーは考えたのだが、そのすぐ後に、これがもしかしてあばたにえくぼなのかしらん?などと議論の最初に戻ってしまった。再度考察を開始しようかとしたとき、あまりにもそれが不毛であることに気がついたので彼女は自分に呆れてしまった。そんなことを考えているうちにどうやら小悪魔も魔理沙批判を終えて満足したらしく、そろそろ図書館に戻りますね!! などと言い、また愛嬌のある笑顔を見せて部屋を出ようとしていた。
「少し、ここで休憩していきなさいよ。貴方、ずっとしゃべりっぱなしだったし、喉が渇いたでしょう。ここでお茶でも飲んで、ゆっくりしていなさい」
そういうとパチュリーはベッドから起き上がった。そしてベッドに持ち込んで見ていた本を、安楽椅子の横にある小さなテーブルの上に置いた。休憩室にはベッドとテーブルと安楽椅子が置いてある。この安楽椅子の座り心地はよく、何度か小悪魔がここで本を読みながら休憩している姿をパチュリーは見かけたことがある。パチュリーがテーブルに本を置き、休憩していきなさいと勧めたことが何を意味するかは言わずもがな、小悪魔は公然と安楽椅子の利用を許可され、満面の笑みを浮かべてパチュリーに礼を言うのだった。
鼻歌でも歌い始めそうな調子で、小悪魔は紅茶を淹れに行く。紅茶をお持ちいたしましょうか? と小悪魔は尋ねてきたが、パチュリーは好意だけ受け取ることにした。そして魔理沙が何の本を持っていったのかを確かめはじめた。相変わらずものを見る目は確かなようで、希少性よりも実用性から評価できる本を二冊持って言ったようであった。こういうところは、魔道を志すものとして、またその道の先輩として好感が持てる。あばたにえくぼ仮説はまた少し論拠を失うことになった。
「しかしそれにしても……魔理沙は残酷よね」
パチュリーはポツリと言葉をこぼした。
「お茶にお菓子を用意しておけって……そんなことを言っておいて、何時来るかなんて教えてくれないんだもの。それじゃ、準備のしようがないじゃないの……」
魔理沙の無計画さと傍若無人さに、パチュリーはどうしても溜息をつかざるを得なかった。
「ただいま!!っと言っても、誰もいないけどな。しっかし、相変わらずパチュリーのところは蔵書が豊富で助かるぜ。行けば必ず欲しいと思うような本があるからな」
そういって魔理沙は今日図書館から無理やり借りてきた本を確認する。エミリー・カーメ・ワングワレーの『亜大陸精霊全書』とキャロルローズの『世界の妖精妖怪事典』……前者は外の世界の亜大陸にいる精霊について書かれたもので、幻想郷では見ることのない精霊が多数描かれている。後者もまた、幻想郷では見ることのない妖精や妖怪の伝承が紹介されているものだ。
幻想郷にいたのでは知ることのできない未知の存在を知ることができる……これは本がもたらす恩恵の最たるものだと魔理沙は思っている。特に魔道を志すものにとって未知の存在を知ることは重要である、というのは師の教えだ。
本を読み未知の存在を知ること。それはただ知識を増やすだけの作業ではない。多様な発想と柔軟な思考能力を養う教養の獲得を越えて価値のあるものである。何故なら、そもそも魔道とは自分の世界を外に広げて他を侵食する術だからである。つまり、魔法を用いる者が内包する世界の広さが侵食する世界の規模に重大な影響を及ぼすということであり、それは内包する世界の大きさが魔法使いの力量に反映されるということである。特に魔理沙のように、八卦炉を除けば何かの存在に頼らぬ魔法使いはそうである。
それ故、この二冊の本を得られたことは彼女にとって一大快事であった。特に最近は研究が思うようにうまく進まず、気分の晴れない日が多かったため、喜びは一際である。
時刻は午後三時。おやつになるようなものは生憎と置いてないが、以前アリスの家から拝借してきた紅茶を淹れて、早速本を読むことにした。
本を読み始めてから二時間、5時を少し過ぎたころ、魔理沙は空腹を覚える。一度お腹が空いたと認識してしまうと難儀なもので、気になって読書に集中できなくなる。本当はこのまま夜まで、いや朝まで本を読み続けていたいと思うのだが、そこは生身の人間。パチュリーやアリスのようにはいかない。止むを得ず何か夕食をと思ったが、生憎と空腹を満たすことが出来そうなものは家にはなかった。
(……霊夢のところに行くしかないかなぁ)
魔理沙の足取りは非常に重かった。魔理沙が霊夢と付き合い始めて早数年。ここ最近、魔理沙は霊夢と一緒にいると居心地の悪さを感じるようになっていた。その居心地の悪さは、魔理沙の内から出る猜疑心を打ち消すことが出来ないために発生するもので、勝手に疑い勝手に悩み、勝手に気まずくなっているという馬鹿らしいものである。馬鹿らしいことは本人が一番よく分かっているのだが、その居心地の悪さを解消することが出来ないため、もやもやしたものを常に抱えたまま家路に着くことになり、帰宅しても変わらず悩まされ、研究もろくに手がつかず、最近はなんだか気の晴れない毎日を送っているのであった。
魔理沙は一瞬、アリスの家に行って夕食をご馳走してもらえないだろうかと考えた。しかし、アリスの家には二日前に行ったばかりである。霊夢の家にはもう四日も行っていない癖に、アリスの家には二日とおかずに行ったとなると、なんとも世間体が悪いし霊夢にも気の毒だ。何よりアリスが、そういう誤解を招くようなことを嫌うのは魔理沙も重々承知するところであり、門前払いされてしまう可能性が大きかった。
(なんにしたって、こうも疎遠にしたんじゃ霊夢が可哀想だよな)
そう考えるに至り、結局魔理沙は気が進まなかったものの、霊夢に対する同情心と恋人としての義理に押されるような形で、霊夢の家へと行くことにした。
「霊夢、お邪魔するぜ」
「あら、魔理沙?来てくれたのね」
そう言って、霊夢が玄関まで迎えに来る。どうやら夕飯を作っている最中だったようだ。
「いらっしゃい、魔理沙。さぁ、あがって頂戴。今、お茶を淹れるわね」
「ああ、頼むぜ」
魔理沙は居間へと進み、霊夢がお茶を淹れてくれるのを待つ。二人にとってはお馴染みのやり取りだ。生活能力がなく、住居が『居住』という観点から見ると最悪に近い環境にある魔理沙を霊夢が世話することになるのは必然ではあるが、霊夢がすっかり世話女房になるとは二人とも想像していなかった。魔理沙にしてみればそこまでお淑やかな性格ではないだろうと霊夢を分析していたし、霊夢にしてみればここまで恋人に尽くすことが幸せだとは思っていなかったのである。
恋人が出来てからの霊夢は変わった。それも良いほうに変わった。これは彼女を知る者全てが共有する見解である。
恋人が出来たら女は魅力的になるという話事態はありふれたものだが、まさか霊夢が、それも良妻賢母に成長するとは誰も思わなかった。霊夢からしてみると、確かに彼女自身も想像しなかったことだが、意外と自然にそうなったらしい。彼女曰く
「普通恋人が家に来たら身の回りのことはしてあげるし、恋人にだらしないと思われないような生活をするのは当然でしょう」
ということである。それは確かに当然なのだが、このような献身は普通付き合い始めてしばらくの間しか続かず、次第にだらしない魔理沙に対する不満だとか愚痴なんてものが出てくるものである。それが出てこないあたりが、霊夢が真に女性として魅力的になった証拠であろう。すっかり大人の女性らしい落ち着きと優美さを備えるようになったことが、かつての霊夢を知る者共通の驚きである。
霊夢が理想的な女性へと成長したことは魔理沙にとって幸せなことであった。霊夢と一緒にいると、魔理沙にとってはひたすら楽が出来るのが何よりよかった。外に向かって精力の殆どを傾けるのが魔理沙という人物である。自然と身の回りのことはいい加減になってしまう。これらの問題は、夜霊夢の家に帰り、朝霊夢の家を出て、昼自宅で研究を行うというライフスタイルを送ることにより全て解決されたのであった。そして研究に没頭したいときは精力が尽きるまで自宅にこもり、疲れきったときは心身が充実するまで霊夢の家で休養する……魔理沙にならずとも理想的な生活と言っても良いだろう。
しかしながら、魔理沙は研究に没頭したり霊夢の家に何日も滞在し続けたりという不安定な生活を何のスケジュールも作ることなく気分に任せて実行するのだから、はたから見れば如何な霊夢とてその心労はさぞや重かろうと思うのだが、とうの霊夢本人はいたって平気な様子である。それをいぶかしく思い、一度アリスが本当は不満があるのではないかと尋ねたことがあったが、霊夢の返事はまさに女の鏡とも言うべきもので、『分かっていて付き合ったんだもの』とか、『そういう活発なところが魔理沙の魅力でしょう』とか、『家でくさくさするような人は支え甲斐が無くってつまらないじゃない』だとか、終いには『お世話する甲斐があってうれしいくらいよ』などと答えるのだった。そのときの感想をアリスは、女としての敗北感を覚えたと周りの者にこぼしたくらいであった。
霊夢がこのように献身的で謙虚であるから、いくら魔理沙が放蕩をしたとしても二人の仲が険悪になるようなことはなかった。魔理沙が霊夢に対して不満を抱く理由なんてものはある訳がないのだから、二人が疎遠になるとすれば、それは霊夢が魔理沙に愛想をつかしてしまった時であろう……これもまた、彼女たちを知る者全員の共通した見解である。そして霊夢が愛想をつかすそぶりを見せない以上この二人は仲睦まじくあるだろうし、既に数年の間恋人として良好な関係を維持してきたのだから、もう離れ離れになるようなこともあるまいと思い、周りの者は二人を微笑ましく思い見守っているのであった。
しかし、実際は、今小さな波乱が二人の間に起こっているのである。二人の間にという表現は誤っていないが、正確には魔理沙の側にのみ起こっていると言うべきだろう。それは波乱というよりは不穏の種というべきものかもしれない。魔理沙は何時の間にか、霊夢と一緒にいることで心が癒されなくなっていたのである。
ことの発端は魔理沙が霊夢にした他愛も無い質問であった。
それは満月の美しき夜であった。研究がひと段落し、三日ぶりに霊夢の家を訪れた魔理沙は、霊夢と二人で月見でもしようと提案した。もちろん霊夢が断るわけも無く、手早くお酒とおつまみの準備をし、魔理沙を慰労するため、甲斐甲斐しくお酌をし、話の相手をするのであった。久しぶりに魔理沙が帰ってきて嬉しかったのであろう、いつもは付き合う程度の飲酒に控える霊夢が、その日は二合近く酒を飲んでいた。それが何時もより大胆にさせたのか、霊夢は魔理沙の肩に寄り沿いしなを作るのだった。もとより魔理沙は上機嫌であったが、普段と異なる甘えるような恋人の仕草にいっそう機嫌を良くした。気をよくした魔理沙は、少し霊夢をからかってやろうと思い、昔の話を持ち出したのだった。
昔のことを言われては、霊夢も恥ずかしいところがあるようで、顔を赤らめて曖昧に返事をするばかりであった。終には昔の話は止しましょうなどと言ってくるのであった。それがいじらしくかわいいため、魔理沙はなおも昔の話を続けた。霊夢は諦め、顔を俯かせて魔理沙の話に付き合うことにした。そのとき、魔理沙は二人が思いを伝え合ったときの話を持ち出した。こればかりは魔理沙も少し恥ずかしく思ったので、なかなか切り出すことはしなかったが、酒と場の勢いが彼女を省みさせなかった。
冗談交じりに魔理沙は尋ねた。
(……霊夢は、今でも『魔理沙の顔を見るだけで胸が苦しくなる』のか?)
その言葉を受けた霊夢は、何かおかしいものを見るかのような微笑を浮かべ、魔理沙の顔を見て答えた。
「そんな初心だったんじゃ、私、とてもじゃないけどこんな大胆なこと出来ないわよ?」
そう言って、さもおかしげに霊夢は笑うのだった。
「それもそうだな。はは、つまらないことを聞いちゃったぜ」
魔理沙は昔の話はそれっきりにして、話題を無難なものに変えるのだった。
魔理沙がつまらないことを聞いたと答えたのは、実際にそれが彼女の正直な感想であったからだ。確かに、数年来の付き合いをしている恋人同士が惚れた腫れたで浮かれていたときの気持ちを確認しあうなどというのは滑稽な話である。しかし魔理沙は、何時の間にか魔理沙も霊夢もお互いに顔を見るだけで胸が高鳴るなどという気持ちを忘れていたのだが、どうしてもそれを忘れて良いようなものであるとは断定し切れなかった。魔理沙の理性がどれほどこれを馬鹿げた疑問で、長く付き合っていれば初心な気持ちは忘れてしまうという現象が極めて自然なものであり、世のつがいは皆そうであると主張したとしても、やはり魔理沙は疑問を打ち消しえなかったのである。どこか、今の魔理沙と霊夢の間にある恋愛感情が、人工的で無機質なように感じるのだった。
もう一つ魔理沙をして霊夢に疑問を感じさせしめるのは、霊夢が魔理沙の問いに対して浮かべて微笑であった。聊か子供っぽい問いをする魔理沙に対して、あるいは揶揄を込めて笑うその妖艶さは、常に魔理沙が知る霊夢の姿ではなかったのである。それはかつて知る霊夢の姿でもなかった。およそ魔理沙の知りえない霊夢がそこにあったように思えるのだった。そしてそれがもしかすると本当の霊夢の姿なのかもしれないと魔理沙は思わずにはおれなかった。だとすれば、魔理沙が知る霊夢は本当の霊夢ではないのではないかと思うのだった。霊夢が自然の霊夢から離れた作り物であると仮説すると、魔理沙は霊夢が何故あれほどに良妻賢母となったのかが説明されるように思えるのである。そうやって考えを巡らして行くうちに、魔理沙は霊夢を不自然の産物と疑わざるを得なくなってしまい、霊夢と自分を結び付けている絆そのものが本物と偽りとで繋がった歪なものであるかのように思えてくるのであった。
もちろんこれは、馬鹿げた仮説である。魔理沙自身が何よりもそう思うのである。魔理沙の理性は、これらの仮説を全て却下しているのだ。何故なら、どれほど勘繰ったとしても、霊夢が魔理沙に対して向けている愛情と献身の実績があるし、魔理沙の直感自体も霊夢の愛情を疑い得ないからである。だがそれでも、疑いを持つと疑いを止められなくなるのが人間の性である。魔理沙はそう考えた後、霊夢と会うたびにどうしても違和感を覚えるのであった。次第に違和感は大きくなり、ついに魔理沙は霊夢と時間を共有することで心が安らぐよりは疲れを感じるようになってしまった。
魔理沙は霊夢が淹れてくれたお茶を飲みながら、今、霊夢はどんな気持ちで夕飯の準備をしているのだろうかと考えざるを得なかった。あるいは、どのような気持ちでこのお茶を淹れたのであろうかと考えざるを得なかった。誰に強いられるでもなく、彼女の心が考えることを求めるのだった。
魔理沙は状況を整理し始める。魔理沙は事前の連絡も無く、数日霊夢の家に帰っては来なかった。帰ってきたと思えば、夕食の準備をしている最中という遅い時間の帰宅である。しかも、平生彼女が夕食を作る時間はもっと早いことを考えれば、ぎりぎりまで魔理沙が帰ってくる可能性を考えて時間をずらしていたのであろう。そして魔理沙は、相変わらずの亭主関白で謝罪も無く当然の様子で霊夢の淹れたお茶を飲んでいる。
この状況では、よほど忍耐力のある人間でも、どうしたって腹の中に一物を抱えざるを得ないだろう。とすれば、ああやって素直に喜んで見せている姿は、献身する姿は偽りを含んでいるのではないだろうか?そう疑いを強める一方で、魔理沙の目から見た先ほどの霊夢は心底嬉しがっていたように思えるし、献身そのものを幸福にすら思っているようであったから、到底断定することは出来ず、疑いは疑いのまま悩みとなって蓄積されていくのであった。
こうまで悩むのであれば、いっそ自分が変わってしまえば良いじゃないかと魔理沙が考えなかったわけではない。しかしそれは、魔理沙にとって、魔理沙の自然な状態を強制的に変えることを意味するように思えて仕方が無かった。それはあたかも自分自身が偽りの存在となり、自分を含め全てを騙そうとする試みのようにすら思えるのであった。世の中には自然と自分を変化させることの出来る人間もいるだろうが、少なくとも魔理沙はそれが出来そうにない人間であった。それを自覚するからこそ、今まで魔理沙は、霊夢に負担をかけていることを自覚しながらも生活スタイルを変えてこなかったのである。それは他の人間から見れば怠慢であり、霊夢の献身に応えてやろうとしない無慈悲で横暴な振る舞いかもしれないが、魔理沙にとってはこれが一番の誠実さなのであった。それ故、魔理沙はどうしても自分を変えるという解決策を選択し得なかったのである。
考え事をしているうちに霊夢が食事を作り夕飯が始まった。この日霊夢は食欲がないと言い、ご飯もおかずも少なめであった。魔理沙は遠慮しないでと言い、きっちり一人前分の食事が用意された。だが魔理沙も食欲が無かった。しかし魔理沙は食事を残さなかった。霊夢が晩酌に付き合うと言ってくれた。どうもそういう気分ではないと断ると、霊夢は少し寂しそうな顔をした。体調が優れないから今日は早めに横になりたいと告げると、霊夢は非常に心配そうにした。そして布団を二組別に敷いてくれた。魔理沙が寝ると横で霊夢も就寝についた。床についてしばらくすると、明日の朝はお粥でも作ろうか?と霊夢が尋ねてきた。一晩休めばよくなると思うと答えると、それはよかったと安堵の声をあげた。半刻もしないうちに霊夢の寝息が聞こえ始めてきた。魔理沙は到底眠れそうにもなかった。結局翌朝、無理を言って霊夢に粥を作ってもらうことになった。
(この程度の運動で体調不良になるとは、我ながら情けない体ね……)
そうパチュリーが思い、軽い溜息をついた時、図書館の方から言い争う声が聞こえてきた。
(今日は、魔理沙が来たのね……しまったなぁ。一週間ぶりに来たって言うのに、顔も見ることが出来ないなんて……)
パチュリーは心底自分を憎らしく思った。だが同時に魔理沙も憎らしく思った。何時も何時も、本を持っていくたびにまた来ると言うくせに、何時来るかなどは告げていかず、用事が済んだならばすぐに帰ってしまうからだ。
(私は『本を持って行くな』なんて、随分長い間言った覚えがないのになぁ)
どうやら魔理沙は用事を済ませたようで、言い争う声が聞こえなくなる。それと同時に、休憩室へ向かってくる足音が聞こえてきた。
「パチュリー様、お加減はどうですか?」
小悪魔が休憩室に入ってくる。その顔は少し申し訳なさそうだった。
「また白黒に本を持っていかれてしまいました……」
「気にしないで頂戴。貴方に魔理沙の相手は荷が重いわ。それより、怪我はない?下手に争うような真似はしないで頂戴ね?私は本なんかよりそっちのほうがよっぽど心配よ」
「はい、大丈夫です!!」
そう言って、小悪魔は笑顔を見せる。いつもどおりの愛嬌がある笑顔だ。パチュリーも自然と笑みを浮かべる。
「そう、よかったわ。あまり無茶はしないで頂戴ね」
こういうやり取りは良いものだ。平凡な毎日が生き生きとしてくる。
「それよりパチュリー様。聞いてくださいよ!!」
そう言って小悪魔は眉間にしわを寄せ、怒りの色を顔に浮かべて言うのだった。
「あの白黒、私が待てって言ったら、『お茶とお菓子の用意でもして待てって言うんだったら待ってやらないでもないぜ?』なんて言うんですよ?本当、『盗人猛々しい』なんて言葉は、あいつのためにあるようなものですよね。ああ、思い出したらいっそう腹立たしい!!」
不満をあらわにする小悪魔の姿を、パチュリーはなんだか可愛くって微笑ましいなぁ……などと思って見ていた。するとそれが分かったのか、小悪魔が不満そうな顔をする。パチュリーが会話に真剣ではないのが気に障るらしい。
「パチュリー様も、そう思いますよね?」
そう言って同意を得ようとする小悪魔がなおさら可愛く思えて、パチュリーはついつい頬を緩めてしまう。
「ええ、貴方の言うとおりね。魔理沙は全く傍若無人な人よ。相手のことなんてお構いなしで自分の都合を突きつけるような、ひどい人だわ」
「そうですよね!!その上、あいつは絶対無計画な奴です。毎日何かを考えているには違いありませんが、一寸先のことは何にも考えてはいないような奴ですよ。要するに、本能だけで生きているような奴なんです。野蛮な奴なんです」
どうやらパチュリーが魔理沙を批判したことがよほど痛快だったらしく、小悪魔はいっそう饒舌になって魔理沙の人物批評を始めた。パチュリーは意外と的を射ているわね……などと暢気なことを考えながら、でもその短所がパチュリーにとっては好ましいものに感じられるのだから、もしかしたらこれってあばたにえくぼというやつなのかしら?などと考え、自分の感情を分析しはじめた。
パチュリーが何故魔理沙を好きになったか……それはパチュリーにとってここ数年における最大の研究対象であったと言っても良い。確かに魔理沙の容姿は好みだ。相手の背は高くないほうが良いし、顔立ちはかわいらしい方が良い。性別はどうでもよい。そもそも妖怪、神、妖精、精霊といった類は有性生殖にのみ頼らない。性格はどうか。魔理沙の性格は、まぁ、良くないだろう。しかし、悪人ではない。魔理沙は魔理沙なりに、実は限度を心得て悪事を働いている。それが小悪人の処世術と異なるのは、彼女が勤勉で人生に対し真面目で、何よりも打算を嫌い保身を省みないことから明らかだ。また、人を喜ばせることに喜びを感じ、人を悲しませることに悲しみを感じる善性もある。目に付く悪癖も、100年生きたものの目から見ると少し微笑ましく感じる。むしろ、傍若無人さや無鉄砲さはパチュリーに欠ける性質であり、伴侶がお互いに欠けるものを補うものであることを考えれば、むしろパチュリーが魔理沙に惹かれるのは自然なことである……と、いつも通りの結論に行き着き、あばたにえくぼ仮説は疑いがあれども証拠不十分となった。
(最も、こうやって理屈で説明してみせたって、結局好きなものは好きなわけで、その感情が全てなんだからあれこれと考えたって馬鹿らしいだけよね)
そうパチュリーは考えたのだが、そのすぐ後に、これがもしかしてあばたにえくぼなのかしらん?などと議論の最初に戻ってしまった。再度考察を開始しようかとしたとき、あまりにもそれが不毛であることに気がついたので彼女は自分に呆れてしまった。そんなことを考えているうちにどうやら小悪魔も魔理沙批判を終えて満足したらしく、そろそろ図書館に戻りますね!! などと言い、また愛嬌のある笑顔を見せて部屋を出ようとしていた。
「少し、ここで休憩していきなさいよ。貴方、ずっとしゃべりっぱなしだったし、喉が渇いたでしょう。ここでお茶でも飲んで、ゆっくりしていなさい」
そういうとパチュリーはベッドから起き上がった。そしてベッドに持ち込んで見ていた本を、安楽椅子の横にある小さなテーブルの上に置いた。休憩室にはベッドとテーブルと安楽椅子が置いてある。この安楽椅子の座り心地はよく、何度か小悪魔がここで本を読みながら休憩している姿をパチュリーは見かけたことがある。パチュリーがテーブルに本を置き、休憩していきなさいと勧めたことが何を意味するかは言わずもがな、小悪魔は公然と安楽椅子の利用を許可され、満面の笑みを浮かべてパチュリーに礼を言うのだった。
鼻歌でも歌い始めそうな調子で、小悪魔は紅茶を淹れに行く。紅茶をお持ちいたしましょうか? と小悪魔は尋ねてきたが、パチュリーは好意だけ受け取ることにした。そして魔理沙が何の本を持っていったのかを確かめはじめた。相変わらずものを見る目は確かなようで、希少性よりも実用性から評価できる本を二冊持って言ったようであった。こういうところは、魔道を志すものとして、またその道の先輩として好感が持てる。あばたにえくぼ仮説はまた少し論拠を失うことになった。
「しかしそれにしても……魔理沙は残酷よね」
パチュリーはポツリと言葉をこぼした。
「お茶にお菓子を用意しておけって……そんなことを言っておいて、何時来るかなんて教えてくれないんだもの。それじゃ、準備のしようがないじゃないの……」
魔理沙の無計画さと傍若無人さに、パチュリーはどうしても溜息をつかざるを得なかった。
「ただいま!!っと言っても、誰もいないけどな。しっかし、相変わらずパチュリーのところは蔵書が豊富で助かるぜ。行けば必ず欲しいと思うような本があるからな」
そういって魔理沙は今日図書館から無理やり借りてきた本を確認する。エミリー・カーメ・ワングワレーの『亜大陸精霊全書』とキャロルローズの『世界の妖精妖怪事典』……前者は外の世界の亜大陸にいる精霊について書かれたもので、幻想郷では見ることのない精霊が多数描かれている。後者もまた、幻想郷では見ることのない妖精や妖怪の伝承が紹介されているものだ。
幻想郷にいたのでは知ることのできない未知の存在を知ることができる……これは本がもたらす恩恵の最たるものだと魔理沙は思っている。特に魔道を志すものにとって未知の存在を知ることは重要である、というのは師の教えだ。
本を読み未知の存在を知ること。それはただ知識を増やすだけの作業ではない。多様な発想と柔軟な思考能力を養う教養の獲得を越えて価値のあるものである。何故なら、そもそも魔道とは自分の世界を外に広げて他を侵食する術だからである。つまり、魔法を用いる者が内包する世界の広さが侵食する世界の規模に重大な影響を及ぼすということであり、それは内包する世界の大きさが魔法使いの力量に反映されるということである。特に魔理沙のように、八卦炉を除けば何かの存在に頼らぬ魔法使いはそうである。
それ故、この二冊の本を得られたことは彼女にとって一大快事であった。特に最近は研究が思うようにうまく進まず、気分の晴れない日が多かったため、喜びは一際である。
時刻は午後三時。おやつになるようなものは生憎と置いてないが、以前アリスの家から拝借してきた紅茶を淹れて、早速本を読むことにした。
本を読み始めてから二時間、5時を少し過ぎたころ、魔理沙は空腹を覚える。一度お腹が空いたと認識してしまうと難儀なもので、気になって読書に集中できなくなる。本当はこのまま夜まで、いや朝まで本を読み続けていたいと思うのだが、そこは生身の人間。パチュリーやアリスのようにはいかない。止むを得ず何か夕食をと思ったが、生憎と空腹を満たすことが出来そうなものは家にはなかった。
(……霊夢のところに行くしかないかなぁ)
魔理沙の足取りは非常に重かった。魔理沙が霊夢と付き合い始めて早数年。ここ最近、魔理沙は霊夢と一緒にいると居心地の悪さを感じるようになっていた。その居心地の悪さは、魔理沙の内から出る猜疑心を打ち消すことが出来ないために発生するもので、勝手に疑い勝手に悩み、勝手に気まずくなっているという馬鹿らしいものである。馬鹿らしいことは本人が一番よく分かっているのだが、その居心地の悪さを解消することが出来ないため、もやもやしたものを常に抱えたまま家路に着くことになり、帰宅しても変わらず悩まされ、研究もろくに手がつかず、最近はなんだか気の晴れない毎日を送っているのであった。
魔理沙は一瞬、アリスの家に行って夕食をご馳走してもらえないだろうかと考えた。しかし、アリスの家には二日前に行ったばかりである。霊夢の家にはもう四日も行っていない癖に、アリスの家には二日とおかずに行ったとなると、なんとも世間体が悪いし霊夢にも気の毒だ。何よりアリスが、そういう誤解を招くようなことを嫌うのは魔理沙も重々承知するところであり、門前払いされてしまう可能性が大きかった。
(なんにしたって、こうも疎遠にしたんじゃ霊夢が可哀想だよな)
そう考えるに至り、結局魔理沙は気が進まなかったものの、霊夢に対する同情心と恋人としての義理に押されるような形で、霊夢の家へと行くことにした。
「霊夢、お邪魔するぜ」
「あら、魔理沙?来てくれたのね」
そう言って、霊夢が玄関まで迎えに来る。どうやら夕飯を作っている最中だったようだ。
「いらっしゃい、魔理沙。さぁ、あがって頂戴。今、お茶を淹れるわね」
「ああ、頼むぜ」
魔理沙は居間へと進み、霊夢がお茶を淹れてくれるのを待つ。二人にとってはお馴染みのやり取りだ。生活能力がなく、住居が『居住』という観点から見ると最悪に近い環境にある魔理沙を霊夢が世話することになるのは必然ではあるが、霊夢がすっかり世話女房になるとは二人とも想像していなかった。魔理沙にしてみればそこまでお淑やかな性格ではないだろうと霊夢を分析していたし、霊夢にしてみればここまで恋人に尽くすことが幸せだとは思っていなかったのである。
恋人が出来てからの霊夢は変わった。それも良いほうに変わった。これは彼女を知る者全てが共有する見解である。
恋人が出来たら女は魅力的になるという話事態はありふれたものだが、まさか霊夢が、それも良妻賢母に成長するとは誰も思わなかった。霊夢からしてみると、確かに彼女自身も想像しなかったことだが、意外と自然にそうなったらしい。彼女曰く
「普通恋人が家に来たら身の回りのことはしてあげるし、恋人にだらしないと思われないような生活をするのは当然でしょう」
ということである。それは確かに当然なのだが、このような献身は普通付き合い始めてしばらくの間しか続かず、次第にだらしない魔理沙に対する不満だとか愚痴なんてものが出てくるものである。それが出てこないあたりが、霊夢が真に女性として魅力的になった証拠であろう。すっかり大人の女性らしい落ち着きと優美さを備えるようになったことが、かつての霊夢を知る者共通の驚きである。
霊夢が理想的な女性へと成長したことは魔理沙にとって幸せなことであった。霊夢と一緒にいると、魔理沙にとってはひたすら楽が出来るのが何よりよかった。外に向かって精力の殆どを傾けるのが魔理沙という人物である。自然と身の回りのことはいい加減になってしまう。これらの問題は、夜霊夢の家に帰り、朝霊夢の家を出て、昼自宅で研究を行うというライフスタイルを送ることにより全て解決されたのであった。そして研究に没頭したいときは精力が尽きるまで自宅にこもり、疲れきったときは心身が充実するまで霊夢の家で休養する……魔理沙にならずとも理想的な生活と言っても良いだろう。
しかしながら、魔理沙は研究に没頭したり霊夢の家に何日も滞在し続けたりという不安定な生活を何のスケジュールも作ることなく気分に任せて実行するのだから、はたから見れば如何な霊夢とてその心労はさぞや重かろうと思うのだが、とうの霊夢本人はいたって平気な様子である。それをいぶかしく思い、一度アリスが本当は不満があるのではないかと尋ねたことがあったが、霊夢の返事はまさに女の鏡とも言うべきもので、『分かっていて付き合ったんだもの』とか、『そういう活発なところが魔理沙の魅力でしょう』とか、『家でくさくさするような人は支え甲斐が無くってつまらないじゃない』だとか、終いには『お世話する甲斐があってうれしいくらいよ』などと答えるのだった。そのときの感想をアリスは、女としての敗北感を覚えたと周りの者にこぼしたくらいであった。
霊夢がこのように献身的で謙虚であるから、いくら魔理沙が放蕩をしたとしても二人の仲が険悪になるようなことはなかった。魔理沙が霊夢に対して不満を抱く理由なんてものはある訳がないのだから、二人が疎遠になるとすれば、それは霊夢が魔理沙に愛想をつかしてしまった時であろう……これもまた、彼女たちを知る者全員の共通した見解である。そして霊夢が愛想をつかすそぶりを見せない以上この二人は仲睦まじくあるだろうし、既に数年の間恋人として良好な関係を維持してきたのだから、もう離れ離れになるようなこともあるまいと思い、周りの者は二人を微笑ましく思い見守っているのであった。
しかし、実際は、今小さな波乱が二人の間に起こっているのである。二人の間にという表現は誤っていないが、正確には魔理沙の側にのみ起こっていると言うべきだろう。それは波乱というよりは不穏の種というべきものかもしれない。魔理沙は何時の間にか、霊夢と一緒にいることで心が癒されなくなっていたのである。
ことの発端は魔理沙が霊夢にした他愛も無い質問であった。
それは満月の美しき夜であった。研究がひと段落し、三日ぶりに霊夢の家を訪れた魔理沙は、霊夢と二人で月見でもしようと提案した。もちろん霊夢が断るわけも無く、手早くお酒とおつまみの準備をし、魔理沙を慰労するため、甲斐甲斐しくお酌をし、話の相手をするのであった。久しぶりに魔理沙が帰ってきて嬉しかったのであろう、いつもは付き合う程度の飲酒に控える霊夢が、その日は二合近く酒を飲んでいた。それが何時もより大胆にさせたのか、霊夢は魔理沙の肩に寄り沿いしなを作るのだった。もとより魔理沙は上機嫌であったが、普段と異なる甘えるような恋人の仕草にいっそう機嫌を良くした。気をよくした魔理沙は、少し霊夢をからかってやろうと思い、昔の話を持ち出したのだった。
昔のことを言われては、霊夢も恥ずかしいところがあるようで、顔を赤らめて曖昧に返事をするばかりであった。終には昔の話は止しましょうなどと言ってくるのであった。それがいじらしくかわいいため、魔理沙はなおも昔の話を続けた。霊夢は諦め、顔を俯かせて魔理沙の話に付き合うことにした。そのとき、魔理沙は二人が思いを伝え合ったときの話を持ち出した。こればかりは魔理沙も少し恥ずかしく思ったので、なかなか切り出すことはしなかったが、酒と場の勢いが彼女を省みさせなかった。
冗談交じりに魔理沙は尋ねた。
(……霊夢は、今でも『魔理沙の顔を見るだけで胸が苦しくなる』のか?)
その言葉を受けた霊夢は、何かおかしいものを見るかのような微笑を浮かべ、魔理沙の顔を見て答えた。
「そんな初心だったんじゃ、私、とてもじゃないけどこんな大胆なこと出来ないわよ?」
そう言って、さもおかしげに霊夢は笑うのだった。
「それもそうだな。はは、つまらないことを聞いちゃったぜ」
魔理沙は昔の話はそれっきりにして、話題を無難なものに変えるのだった。
魔理沙がつまらないことを聞いたと答えたのは、実際にそれが彼女の正直な感想であったからだ。確かに、数年来の付き合いをしている恋人同士が惚れた腫れたで浮かれていたときの気持ちを確認しあうなどというのは滑稽な話である。しかし魔理沙は、何時の間にか魔理沙も霊夢もお互いに顔を見るだけで胸が高鳴るなどという気持ちを忘れていたのだが、どうしてもそれを忘れて良いようなものであるとは断定し切れなかった。魔理沙の理性がどれほどこれを馬鹿げた疑問で、長く付き合っていれば初心な気持ちは忘れてしまうという現象が極めて自然なものであり、世のつがいは皆そうであると主張したとしても、やはり魔理沙は疑問を打ち消しえなかったのである。どこか、今の魔理沙と霊夢の間にある恋愛感情が、人工的で無機質なように感じるのだった。
もう一つ魔理沙をして霊夢に疑問を感じさせしめるのは、霊夢が魔理沙の問いに対して浮かべて微笑であった。聊か子供っぽい問いをする魔理沙に対して、あるいは揶揄を込めて笑うその妖艶さは、常に魔理沙が知る霊夢の姿ではなかったのである。それはかつて知る霊夢の姿でもなかった。およそ魔理沙の知りえない霊夢がそこにあったように思えるのだった。そしてそれがもしかすると本当の霊夢の姿なのかもしれないと魔理沙は思わずにはおれなかった。だとすれば、魔理沙が知る霊夢は本当の霊夢ではないのではないかと思うのだった。霊夢が自然の霊夢から離れた作り物であると仮説すると、魔理沙は霊夢が何故あれほどに良妻賢母となったのかが説明されるように思えるのである。そうやって考えを巡らして行くうちに、魔理沙は霊夢を不自然の産物と疑わざるを得なくなってしまい、霊夢と自分を結び付けている絆そのものが本物と偽りとで繋がった歪なものであるかのように思えてくるのであった。
もちろんこれは、馬鹿げた仮説である。魔理沙自身が何よりもそう思うのである。魔理沙の理性は、これらの仮説を全て却下しているのだ。何故なら、どれほど勘繰ったとしても、霊夢が魔理沙に対して向けている愛情と献身の実績があるし、魔理沙の直感自体も霊夢の愛情を疑い得ないからである。だがそれでも、疑いを持つと疑いを止められなくなるのが人間の性である。魔理沙はそう考えた後、霊夢と会うたびにどうしても違和感を覚えるのであった。次第に違和感は大きくなり、ついに魔理沙は霊夢と時間を共有することで心が安らぐよりは疲れを感じるようになってしまった。
魔理沙は霊夢が淹れてくれたお茶を飲みながら、今、霊夢はどんな気持ちで夕飯の準備をしているのだろうかと考えざるを得なかった。あるいは、どのような気持ちでこのお茶を淹れたのであろうかと考えざるを得なかった。誰に強いられるでもなく、彼女の心が考えることを求めるのだった。
魔理沙は状況を整理し始める。魔理沙は事前の連絡も無く、数日霊夢の家に帰っては来なかった。帰ってきたと思えば、夕食の準備をしている最中という遅い時間の帰宅である。しかも、平生彼女が夕食を作る時間はもっと早いことを考えれば、ぎりぎりまで魔理沙が帰ってくる可能性を考えて時間をずらしていたのであろう。そして魔理沙は、相変わらずの亭主関白で謝罪も無く当然の様子で霊夢の淹れたお茶を飲んでいる。
この状況では、よほど忍耐力のある人間でも、どうしたって腹の中に一物を抱えざるを得ないだろう。とすれば、ああやって素直に喜んで見せている姿は、献身する姿は偽りを含んでいるのではないだろうか?そう疑いを強める一方で、魔理沙の目から見た先ほどの霊夢は心底嬉しがっていたように思えるし、献身そのものを幸福にすら思っているようであったから、到底断定することは出来ず、疑いは疑いのまま悩みとなって蓄積されていくのであった。
こうまで悩むのであれば、いっそ自分が変わってしまえば良いじゃないかと魔理沙が考えなかったわけではない。しかしそれは、魔理沙にとって、魔理沙の自然な状態を強制的に変えることを意味するように思えて仕方が無かった。それはあたかも自分自身が偽りの存在となり、自分を含め全てを騙そうとする試みのようにすら思えるのであった。世の中には自然と自分を変化させることの出来る人間もいるだろうが、少なくとも魔理沙はそれが出来そうにない人間であった。それを自覚するからこそ、今まで魔理沙は、霊夢に負担をかけていることを自覚しながらも生活スタイルを変えてこなかったのである。それは他の人間から見れば怠慢であり、霊夢の献身に応えてやろうとしない無慈悲で横暴な振る舞いかもしれないが、魔理沙にとってはこれが一番の誠実さなのであった。それ故、魔理沙はどうしても自分を変えるという解決策を選択し得なかったのである。
考え事をしているうちに霊夢が食事を作り夕飯が始まった。この日霊夢は食欲がないと言い、ご飯もおかずも少なめであった。魔理沙は遠慮しないでと言い、きっちり一人前分の食事が用意された。だが魔理沙も食欲が無かった。しかし魔理沙は食事を残さなかった。霊夢が晩酌に付き合うと言ってくれた。どうもそういう気分ではないと断ると、霊夢は少し寂しそうな顔をした。体調が優れないから今日は早めに横になりたいと告げると、霊夢は非常に心配そうにした。そして布団を二組別に敷いてくれた。魔理沙が寝ると横で霊夢も就寝についた。床についてしばらくすると、明日の朝はお粥でも作ろうか?と霊夢が尋ねてきた。一晩休めばよくなると思うと答えると、それはよかったと安堵の声をあげた。半刻もしないうちに霊夢の寝息が聞こえ始めてきた。魔理沙は到底眠れそうにもなかった。結局翌朝、無理を言って霊夢に粥を作ってもらうことになった。
「変わった」、「変わって」しまったすがた・かたちに不安をおぼえる霧雨魔理沙の姿をとおして、蒸発してしまうしんきろうのようなはかないヒトの姿がちみつにうつし出されており、非常な感銘を受けました。彼女「つまらな」さに強く深く1ヒトとしての実存を考えさせられます。これからどのような受難が待ち受けているのか。はてない砂漠へといままさに足をふみいれ、あてどもなくさまよう彼女がオアシスにたどりつけるのか。たいへん興味をひかれる所でありました。
わたくしとしましては本作品たいへん完成度の高い佳作だと思っておりますゆえ、願わくは、ぜひ、続きをお書き下さい。心よりお待ちしております。では。
たったそれだけのことが中々出来ないのが、人間の面白いところですよね。
不満がある!はっきりとそう言えないいじらしさ。現在の関係を崩したくない保守的な怖れ。
大変よく出来た導入だと思います。続編の投稿を期待しております。
特に恋人関係とかっていうなら、
その意見を伝えたことで関係が壊れてしまうかもしれないっていう恐怖もあるでしょうし。
これは先が気になりますな!
ご感想有難うございます。またご声援有難うございます。全く進歩していないなんていわれたら二度と小説は書くまいと思って気合を入れた甲斐がありました。とりあえず今週はあまり残業がないようなので、なんとか週末には、少なくとも来週中には続きを一度書き上げて投稿したいものです。その際には是非ご一読をたまわりたく存じ上げます。
>コメントNo.8さん
魔理沙の不満が、霊夢の欠点ならば素直にそういうことも出来たでしょうし、こうまで魔理沙は思いつめていかなかったのでしょうが、魔理沙にとって霊夢に感じる不満というものが霊夢の長所であるとか、完璧すぎるところなんですよね。これでは相手に言えるわけが無い。そして魔理沙自身も、相手の長所に対して不満を持っているなんていうことを納得できない。理性が反論するわけです。結局魔理沙は、すばらしい恋人であると認める理性と、それなのに不満を感じているこころの間で悩みを深めてしまい、霊夢も信じられないし自分自身も信じられないのでどつぼにはまっていく……恋人が完璧すぎるというのは、実は辛いことなのかもしれません。
>コメントNo.12さん
本来はハッキリ相談出来る性格の人間だからこそ、相談できないような悩みを持ってしまうと解決できなくて大変なことになると思います。もし魔理沙が霊夢にはっきり自分の気持ちを伝えたとしたら、どういう言葉になるでしょうか。きっと、
「霊夢、君が完璧すぎて一緒にいると辛いんだ……完璧すぎて、君がわからないんだ。ごめんね……」
こんな感じになりそうです。自分なら絶対に言えませんね。そんなことを言われたら、霊夢だってどう解決したらよいか分からないでしょうし、今までの努力はなんだったんだろうと落胆するでしょう。魔理沙も霊夢がそう思うことを予見して言わないでおこうと思うに違いありません。かわいそうなことに誰も悪くないので、仕方なく魔理沙は自分に非があると責め始める。こうなると、魔理沙は霊夢と一緒にいても辛い気持ちが抜けない。そして何時かは、霊夢がそれに気がつき、最近魔理沙が冷たいと思い始めて……どうなるのかというのが起承転結の『承』になります。『承』は結構長くなりそうなので、なかなか投稿できないかもしれませんが、どうか気長にお待ちください。
どうお返事を返すべきか悩みましたが、よく利用規約というか、注意書きを見てみると、レスポンスとその受け答えは次のルールを守ったものにすべきであるということが分かります。
① コメントとレスポンスは投稿されたその作品に対するものが中心になっていなくてはならない
② このサイト外の話は持ち込まない
③ 第三者がコメントに関与しない
③に関しては、今回関係ないのですが、どうも①と②を考慮するとお返事すべからずという気が致します。コメントの削除申請までは致しませんが、これ以降こういったコメントに関しては返事を致しかねますので、その旨ご理解ください。