一段と暗く濁る空から、大粒の雨が降っていた。激しく天井の瓦を叩きつけ、休む暇も無く重く低い音を鳴らしている。
湿って重い感触のする畳に霊夢は座り、正座して本を読んでいた。机に本を置き、雨の音を聞きながら、ページをめくる。この瞬間、世界は、雨と紙の擦れる音で構成されていた。
はらりとページをめくった時に、玄関が開く音がした。
霊夢は黙って本を閉じる。空気が押し出されるように、ぽんと音が鳴った。
「霊夢、居るか?」
甲高い少女の声が聞こえた。それに霊夢は、短く答える。
「そうか。じゃあ、早速出かけるか」
少女は玄関から一歩も動かなかった。どうやらこちらに来い、という事らしい。あまり気配りが出来ない人だな、と霊夢は思う。
タンスから肩かけのショルダーバックを取り、先ほどまで読んでいた本を丁寧に入れた。それ以外は、財布と瓶入りのドリンクだけが入っていた。
霊夢は廊下に出る前に、ちょっと部屋を見回した。畳のシミ、丸くところどころ傷が入ったちゃぶ台。嗅覚に響く腐った木々の匂い。激しい雨の音がそれらに含まれる深い虚無感をいっそう引き立てているように思えた。
「どうした、はやく行こう」
少女がせかす。霊夢は思考を切り替え、少女の方へ歩きつつ、言葉を吐いた。
「今から行くわ、魔理沙」
これから先の事を少し考えて、霊夢は微笑んだ。
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「霊夢、今日も遊びに来たぜ」
青色のペンキを薄く広げたような、青空の下、魔理沙の声が神社にこだました。
「用事は?」
境内で掃除をしていた霊夢はにべもなく返事をする。
「まるで用事が無いと、ここに来ちゃいけない、みたいな言い方だな」
「分からないなら言っておくけど、用事が無いと普通は他人の家に来ちゃいけないと思うわ」
霊夢は、まあ別にいいけど、と言葉をつけたし、箒からさっそうと降りた魔理沙の方を向く。
「どうせ暇なんだろ。あ、用事ね、霊夢の暇をつぶしてあげようと思って」
魔理沙はにこりと笑って霊夢の方を向いた。霊夢はあまり興味がなさそうにふうんと相槌を打ち、また意味も無く竹ぼうきを左右に揺らす。
「お茶を用意してくるぜ」
魔理沙は遠慮せず神社の裏へまわり、霊夢の居住区へと侵入した。霊夢は困ったような、少し迷惑そうな、けどお茶を入れる手間が省けてよかった、など、とにかく道端の小石のような感情をその小さな顔いっぱいに表していた。
魔理沙は分かりやすいやつだ、と心の中で思う。喜怒哀楽がはっきりしている事は、魔理沙にとってうらやましい事の一つだった。
縁側から霊夢の部屋に直接あがった。中は小ざっぱりしており、古く色あせたタンスが部屋の隅に置かれ、真ん中にはこげ茶色のちゃぶ台が置かれている。それ以外は何も無かった。布団は押入れの中にあるのだろうと魔理沙は目を配らせる。
魔理沙は部屋を横切り、廊下に出て台所へ向かう。少し薄暗い台所はひんやりとしており、秋の始まりを感じさせた。台所も部屋と同じように整理整頓されており、大きなテーブルの上にやかんとお茶の葉が置いてある。
魔理沙はやかんに水を入れ、火をたいた。最近になって、魔理沙は指の先からちょろっと出る程度の火が出せるようになった。この前、霊夢にそれを言うと
「良かったわね。これでマッチを買わなくて済むじゃない」
と返された。魔理沙はその興味無い感じが霊夢らしいなあ、と思いだして少し笑った。
ある程度、温度が上がった所で、火を消す。そして急須に網をかけ、お茶の葉を落とす。その上にゆっくりとお湯をかける。白い湯気が鼻の奥を刺激した。
「さあ、出来たぜ」
魔理沙は急須と二つの湯呑を盆に載せ、再び部屋に戻ると、外に背を向け、霊夢が顔を仄かに紅潮させちゃぶ台にもたれかかって座っていた。
「どうしたんだ?」
魔理沙が盆をちゃぶ台に置きながら、霊夢に尋ねた。
「ちょっと妖怪を追い払った」
「だれ?」
「吹香」
「ああ、朝からお酒はきついな」
魔理沙はゆっくりと膝を曲げて畳に座る。湯呑にお茶を注いで、霊夢に手渡した。
「ありがとう」
「いいえ、いいえ」
魔理沙は少し熱くなった湯呑に息を吹きかけつつ、ゆっくりとお茶を飲む。外から涼しい風が入り込み、適当な湿度を保って、この部屋を満たしていった。時間が止まったように、静かに、そして柔らかい雰囲気が魔理沙の身体を覆っていった。
「たまにはこうして、ゆっくりと過ごすのも悪くない」
魔理沙が思った事をそのまま口に出した。霊夢は少し、間をおいて顔をあげる。
「たまには悪くないわ。毎日、こんな事をしているとそのうち身体の内から腐ってしまいそう」
魔理沙は霊夢の口から飛び出た、腐るという単語に、少し違和感を覚えた。この静寂な空気にはあまり似つかわしい言葉じゃないなあ、と感じた。
「腐るって、なにかおどろおどろしい言葉だな」
「あら、でも身の回りには腐る事で出来る物が溢れているのよ。お酒や納豆もそうじゃない。だから、腐ると言うのは悪いことばかりじゃないの」
「人が腐るっていうのは、私には悪く聞こえるな」
「人間にしてみたら、あまり気持ちの良い事じゃないかもしれないけれど、人間以外からすれば、実に有意義な事、かもしれない」
「ほう、なるほど……」
魔理沙は口では同意しつつも、霊夢のやや突飛とも言える思考に、少しだけ苦い感情が湧き上がる。
霊夢は普段から一体何を考えて生きているのだろうか、たまに分からなくなる。それは魔理沙が霊夢と出会った頃から抱いてきた疑問でもある。
「霊夢はいつも、凄い事考えてんだなあ」
「すごい? 別にそうでもないんだけど。ただ、物事の仕組みを考えるとね、そういう不思議な事も考えるようになるのよ。ほら、お酒の事とか」
「そうだ、霊夢はお酒の話も詳しかったな。どうしてそんなに詳しいのか疑問だけど。もしかして、密造してる?」
魔理沙は茶化すようにそう言った。それに対し、霊夢はさあね、と少し含みを持たせたような笑みを浮かべ、また黙ってしまった。魔理沙は何か話題は無いかと、記憶をたどってみる。
「そう言えば、この前とんでもない音が鳴ったけど、霊夢は何か知らない?」
「さあ……」
魔理沙がその音を聞いたのは一昨日の事だった。雷と大砲を同時に鳴らしたような、低く唸るような轟音が響いたのだ。その日はどす黒い曇りで、空気は雨が降り出しそうな湿気を孕んでいた。
魔理沙が家で魔導書片手に実験をしていると、心臓にまで響く音が聞こえた。その後、土砂降りの雨の音。魔理沙は、最初は雷かと思ったがどうも様子がおかしいと思い、外へ出てみると、そこには青空が広がっていた。
魔理沙は自分の目を疑った。なぜなら空気には確かに、重い湿気が漂い、そして肌には痛いほどの雨粒を感じていたからだ。
さらに不自然だったのは、虹が現れなかった事だ。つまり、この青空はまやかしだと言う事だった。
その青空雨という不思議な天気は、十分間ほど続き、雲が自分の居場所を急に思い出したようにまた、戻ってきたのだった。
「一昨日のあれは、異変だろ」
魔理沙はそう思っていたが、霊夢は全く動こうとしなかった。
「一瞬だけだったし、他に不穏な動きも無い。手がかりもないし、意味も分からない。もっと動きが出るまでは、別にいいんじゃない?」
「また紫に怒られるぜ」
「いいのよ。やる事はきっちりやるから」
実に霊夢らしいな、と魔理沙は思った。
「ここ最近、天候も不安定だし、ちょっと気になるぜ」
「秋は天候が崩れやすいんじゃ無かったっけ?」
「まあ、それもそうなんだけどさ」
そして、またしても沈黙が訪れた。だが、魔理沙はこの沈黙があまり気にはならなかった。こうして霊夢と話をする事は、沈黙も含まれるからだ。
しばらくそうしていると、急に不気味なスキマが一直線に現れた。
「あら、久しぶりね。魔理沙」
身体半分だけを出して、八雲紫が魔理沙に声をかける。マスク越しに話しているかのように、何か含みがあるような言い方だな、と魔理沙は思う。
「紫がこんな日に現れるなんて珍しいな」
「そんな事は無いわ」
紫は不敵な笑みを浮かべ、魔理沙を見下した。
魔理沙は、あまり八雲紫の事を信用してはいなかった。それは不快につながる、良くない感情だった。魔理沙自身は、霊夢と結びつきのある紫に対し、努力して理解しようと試みたが、肝心の紫の方が端から魔理沙に期待をしていない、という素振りを見せるので、魔理沙は益々不満を募らせるのだった。
「招かねざる客はごめんよ」
霊夢がやんわりと紫にそう言うと、紫はその笑みを全く変えず、あらそう、と言った。
「紫は胡散臭いからな。私だって、突然出てきたら一言いいたくなるぜ」
魔理沙は少し紫に忠告するような顔をした。
「あら、そんな事、私は別に気にしないわ」
「紫は気にしなくても、他の連中は気にするのよ」
霊夢も少しうんざりしたような顔をして、溜め息をついた。そうしてしばらく、その三人で他愛の無い話をしていたが、魔理沙が突然、帰ると言い出した。
「じゃあ、私はこれで失礼するぜ」
「あら、もう帰っちゃうの? せっかくお茶を煎れたのに」
霊夢が意外そうな顔をした。
だが、魔理沙は何となくここを出た方が良いような気がしたのだ。紫が現れた時の霊夢の表情やしぐさが、何となく落ち着きが無いものになった事を、魔理沙は見逃さなかった。
紫は霊夢に用事があってきたのだ。私がいると、その話が出来ないのだろう。
魔理沙はそう気を利かせたつもりだったのだ。
「また明日な」
魔理沙が外に立てかけてあった箒を手に取り、神社を振り返った。
そこには、珍しく寂しそうな顔をした霊夢の姿があった。
霊夢の後ろには紫が立って、魔理沙に向かって手を振っていた。
魔理沙は少し驚いた。霊夢の表情は、田に残されたカカシのように、物寂しい情景を思い出させるものだったからだ。まるで、もう少しここに居てくれ、と言わんばかりの表情だった。
箒に乗って、空に浮かび上がる。ある程度まで飛んだ所で、再び神社を振り返った。
あの表情は一体何だったんだろうか。
魔理沙の胸には、もやもやとした鼠色の感情が渦巻いていた。
当ても無く空を飛び、用事もないのに紅魔館に寄る。この前の青空雨に関する資料を取り寄せるためだった、というのを口実にして、図書館で暇つぶしをする。
「パチュリーは、一昨日の青空雨をどう思う?」
柔らかめのソファーに腰掛け、魔理沙は目の前のパチュリーと呼ばれた少女に声をかける。パチュリーは魔力の力で空中に座っていた。
「ちょっと不自然よね」
開口一番に、パチュリーは語気を強めた。
「やっぱりそう思うだろ。なのに、霊夢は別にどうともないって言うんだぜ」
「へえ、霊夢が怪しまないなんて珍しいわね。いや、面倒くさいと思って動かないだけかもしれないけど」
パチュリーは紅茶を飲みながら手元の本に目線を落とした。
「天候に関する異変は、あの天人が起こした異変ぐらいね。これもきっと天人が起こした異変じゃないかしら」
「パチュリーにしては随分短絡的な見解だな。なにかあるのか?」
魔理沙は少し意外に思った。見当違いな意見を言う時もあるが、普段、パチュリーはいくつかの要因をひとつ残らずチェックし、そこから様々な可能性を取捨選択する事を得意としている。だからこそ、こんな竹を割ったような、味気ない意見に疑問を抱いたのだ。
「だって、それ以外考えられないからよ」
「なぜ?」
「それはね」
一拍置いて、本を閉じてパチュリーは魔理沙の方を向きなおす。
「結界に関する異変ならば、一昨日みたいな事になるかもしれない。けれど、霊夢が動かない上に、あの八雲紫もその重い腰を地につけたまま動かない。つまり結界の異変ではない、と言う事よ」
魔理沙はふうむ、と唸った。確かに言われてみれば、今朝の霊夢も紫も別段、怪しい所は無かった。
「けれど、事件の当事者が事件の後も普段と変わらず振舞う事も、ミステリーでは常套手段だぜ」
「じゃあ、霊夢に聞いてみれば。どうせはぐらかされて終わりでしょうけど」
それは今朝聞いてみたんだけどなあ、と魔理沙は心の中で溜め息をつく。
「ま、その影響もいつか出てくるわよ。その時になってまた、動き出せばいいじゃない」
パチュリーがその場を締めるようにそう言うと、小悪魔が新しい紅茶を運んできた。パチュリーに勧められ、魔理沙も紅茶を貰う。優雅な香りが図書館にしみわたる。
「そうだな、いつか出てくるよな」
「ええ」
それっきり魔理沙は黙って本を読んでいた。だが、頭の中には今朝の霊夢の表情が、カメラのフラッシュのように現れていた。
何かおかしなことが起きているんじゃないだろうか、という漠然とした不安が魔理沙を覆う。何となくだけど、そんな気がしたのだ。それはデジャヴ、とも良く似ている感覚だった。
「……結界、か」
パチュリーがぽそりと呟いた。
「あ、この本借りていくから」
魔理沙は思いだしたようにそう言った。だが、パチュリーは無言で魔理沙をじっと睨む。だが魔理沙は動じなかった。
パチュリーに睨まれても、あまり威圧感を感じないのはなぜだろう、と魔理沙は考えた。
「だめよ。それは貴重な本だから」
「貴重だから読みたいんじゃないか」
「……もう、あんまり手を煩わせないでちょうだい」
パチュリーがさっとスペルカードをかざす。その姿に魔理沙は慌てた。今日は弾幕戦の気分ではなかったのだ。
「分かったよ。本は返す、それでいいだろ?」
「分かればよろしい」
パチュリーがスペルカードをしまう。それと同時に魔理沙に話し掛けた。
「何か、思う所があるのならいつでも相談には乗るわよ。魔理沙。今は話したくない事があるかもしれないけれど、この世界に関わることかもしれないから、小さな事でも相談して欲しい」
パチュリーは魔理沙をまっすぐに向く。
「……気を遣わせたな。悪い」
魔理沙が苦笑いで答えると、パチュリーは
「ちょっと今日は、張り合いが無いわね」
と笑っていたのだった。
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朝、魔理沙は奇妙な感覚に陥った。
どうも空気が薄い気がする。
空気に濃い薄いがあるかは知らないが、表現出来ない違和感があった。ベッドから身体を起こし、外を見る。いたって普通の青空が広がっている。
霊夢に聞いてみるか、と思い、出かける準備をする。
博麗神社につくと、普段境内を掃除しているはずの霊夢が居なかった。魔理沙は空の上から神社をぐるりと周ってみたものの、霊夢らしい人影は無かった。すとんと境内に降り、今度は歩いて神社を調べる。
庭から霊夢の部屋を見ると、そこには何も無かった。普段なら、霊夢はここで寝ているはずだった。昨日見た茶色のちゃぶ台は、壁に立てかけてある。それ以外は何も変わらなかった。
魔理沙は箒を立てかけ、霊夢の部屋に入る。
「お邪魔するぜ、霊夢」
返事は返ってこなかった。
と、急に身体が動かなくなって、目の前からスキマが現れた。魔理沙は瞬間的に、紫の仕業を考えた。そして、それに対し別段驚きもしなかった。
予想通り紫が現れる。魔理沙が紫の顔を確認すると、そこには不安の色が見えた。最初は笑顔だったが、魔理沙と分かるとさっと表情が暗くなる。
「あら、魔理沙じゃない……」
スキマから身体を出し、紫は残念そうに言った。神社で何かあったな、と魔理沙は紫を睨んだ。
「この身体の縛りを取ってくれないか。どうにも窮屈でたまらないんだが」
「ええ、ごめんなさい」
そう言って紫はさっと手を振る。
身体の自由が戻ってきた事を確認すると、魔理沙は帽子を軽く押さえて紫に尋ねる。
「なあ、紫。霊夢がどこ行ったか知らないか?」
だが紫は魔理沙と目線を全く合わさず、壁の方に視線を置いたまま、顎に手を置いて考える素振りをしていた。
人が質問しているのに、なんだよその態度は。
魔理沙は心の中で少し苛立った。だがここでイライラしてもしょうがない、と自分に言い聞かせ、再び紫に質問しようとした。
「霊夢が、消えてしまったの」
紫が突然発したその言葉に、魔理沙は呆気にとられた。
消えた。霊夢が。そうか。
「何で? え、どうして?」
「私にも分からない」
「だって、霊夢、昨日までここにいたよな?」
「私は昨日、午前中に帰ったわ。それで、結界の管理をしていると、急に博麗大結界が揺らぎ始めたの。おかしいと思って今朝、神社に来てみれば、霊夢が忽然と姿を消した。もぬけの殻だったってわけよ」
紫は心配そうにはあっと息を吐いた。魔理沙は突然の事に、少し頭の整理が追いつかなかった。
「それで、神社をずっと見張っていたのか。私が現れた時も霊夢と勘違いしていたんだな」
「そう。このままだと結界にも影響が出るんだけど」
魔理沙は今朝からの違和感の正体が何となく掴めた気がした。幻想郷から霊夢が居なくなったせいだろう。
「家出の理由は?」
「さっぱりよ」
紫は首を横に振る。だが魔理沙は紫の言葉を鵜呑みにはできなかった。何かしら手掛かりは知っているはずだ、と思ったのだ。
「……とにかく、霊夢はこの神社には居ない。そして、それによって結界が不安定になるから、紫は早く霊夢を見つけたい。それでいいのか?」
「そうね。そう言う事」
魔理沙は少し考える。霊夢がこの神社を抜け出す時は、異変の時しかありえない。どこかで異変が起きているか、或いは異変の本体が霊夢か。いづれにしても、霊夢本人を見つける事は、現在の最優先事項だと結論付ける。
「よし、霊夢を探しに行く」
魔理沙はくるりと神社に背中を向ける。すると、後ろから紫が声をかけた。
「まって、魔理沙。私も行くわ」
「はあ?」
「霊夢が心配なのよ。魔理沙、協力してくれるかしら?」
紫の顔には、言いしれぬ不安の色が濃く付きまとっていた。
「……断る理由は無いな」
まさか紫がパートナーになるなんてな、と魔理沙は苦笑いをした。
魔理沙は薄く青く広がる空の下、空を飛んでいた。眼下に広がる広大な森に注意し、ゆっくりと空を行く。
霊夢を探すと言ったものの、手掛かりは全くない。そうなれば、関係のある者の所にしらみつぶしに話を聞くしかない。
魔理沙は少し帽子を押さえて、紫から貰った通信機に話しかける。
「些細な事でいいから、手掛かりとかないのか?」
「ううん、私には無いように見えたわ」
はあ、と魔理沙は溜め息をつく。
「霊夢に最後に話したのは紫なんだから、しっかりしてくれよ」
「そんな事言われてもねえ」
のらりくらりと返事をする紫に、魔理沙は少しだけ辟易してきた。霊夢がこんな紫と対話出来ている事に、霊夢の懐の深さを感じ、感心してしまう。
「……あ、魔理沙。あなた私の事を使えない奴、とか思った?」
「いや別に。ただ霊夢が居なくて困るのは紫だろ。もう少ししっかりと情報提供して欲しかったなあと思って」
「それって、つまり使えない奴ってことじゃない」
「そう思いたければ、そうしろよ」
魔理沙はそう言うと、くるりと方向を変えて紅魔館の方へと向きを変える。
「なあ、これはあまり大きな問題にするとまずいのか?」
「出来れば、内密にしてほしいけれど、遅かれ早かれ霊夢が居ない事に気付くでしょう。だから、今は口の堅い、信頼できる連中に相談して欲しいわ」
まるで霊夢が消えてしまう事はさして問題ではないような言い方だった。
「じゃあ、とりあえずパチュリーに相談してみるか」
魔理沙はそう言って紅魔館の方へと飛んでいった。
「霊夢が居なくなった?」
パチュリーは驚いて魔理沙を見つめる。
「少なくとも神社には一片の気配もなかった」
「だから、何となく張り合いの無い空の色をしていたのね」
紅魔館の図書館で、パチュリーは紅茶を飲みながら魔理沙の話を聞いていた。
「手掛かりは全くないから、関係のありそうな所にしらみつぶしに聞いて回っているわけだ」
「そうね……私は知らないし、霊夢は紅魔館には訪れていないわね」
パチュリーはそう言って、紅茶を飲みほした。後ろから小悪魔が新しい紅茶が入ったポットを持ってきている。
「そうか。でもまあ、何かあったら連絡してくれ」
「八雲紫はどうしているの?」
「紫は私と一緒に霊夢を探しているよ。ほら」
魔理沙はパチュリーの前に通信機をおく。しばらくして、通信機からもぞもぞとした声が聞こえてきた。
「魔理沙? ちょっと待って、今ご飯食べてる所だから、あ、藍、ちょっとその水をとってちょうだい」
気の抜けるようなその声に、魔理沙は一瞬、言葉が出なかった。
「おい、おい。人が真剣に探しているのに……」
「妖怪の賢者は随分とお気楽なのね」
魔理沙とパチュリーは通信機を冷めた目で見ていた。紫の所為で気が抜けてしまった。
「あら、紅魔館の魔法使いもいるのね。どうかしら、あなたの能力で霊夢を探せないかしら」
紫がそう言った通信の後ろから、藍や橙の賑やかな声が聞こえる。どうやら宴会をしているらしかった。他の妖怪たちの声も聞こえ、そうした雑音が紫の声を聞き取りにくくしている。
「人に物を頼む時、まずは、その賑やかな食卓から離れた方がいいと思うわ」
パチュリーの呆れた声に、魔理沙はほとんど同意した。紫の状況は真剣さが感じられるとは言い難かった。
「そう、ごめんなさい。とにかく、協力して欲しいの」
「考えておくわ」
紫は期待している、と言って通信を切った。どうやら宴会の方が忙しいらしい。
「こんな感じで、紫は真剣なのか良くわからん。だから、当分は私一人が動く事になる」
「……あなたも大変ね」
パチュリーは同情するような目で魔理沙を見る。
「分かってくれて、ありがたい」
「まあ、この変な空気も気持ち悪いから、とっとと霊夢を見つけて元に戻してもらいましょう」
そう言ってパチュリーは小悪魔に何冊かの本をとってくるよう指示した。
「何するんだ?」
魔理沙が尋ねると、パチュリーは微笑を浮かべた。
「追跡魔法よ。霊夢の持ち物から、持ち主の場所や情報を抜き出す魔法。実用性は高いけど、私はあまり得意じゃないからね。どこまで出来るか分からないけれど、やらないよりはましだと思う」
「ほう、そりゃ便利な魔法だ」
「それじゃあ、魔理沙。霊夢の持ち物を盗ってきてちょうだい」
「私? しかも盗むなんて、人聞きの悪い……」
「なに言ってるのよ。いつも通り泥棒家業フル回転で宜しく頼むわよ」
魔理沙は苦笑いを浮かべた。パチュリーのやつ、まだ図書館から無断で借りた本の事を怒っているみたいだな、と思う。
「まあ、持ち物だったら何でもいいんだろ。じゃあ、盗むまでもないな」
魔理沙はそう言って、革のくたびれた鞄から赤い布をとりだした。
「これは?」
パチュリーが珍しそうに尋ねる。
「これは、霊夢の髪留めだ。ほら、顔の右左に髪留めしているだろ?」
「……ああ、あれか。あの赤い髪留め。なんでそんな妙ちくりんな物を持ってるのよ?」
「部屋に落ちてたから、拝借してきた。何かメッセージがあるかと期待したんだけど、何も書かれていなかったし、特殊な魔法やなんかもかけていなかったから、ちょっと拍子抜けしていた所だったんだぜ」
「ふうん……ま、それで十分ね」
それだけをパチュリーは言うと、魔理沙にさっさと背中を向けて本を読み始めた。魔理沙は邪魔をしてはいけないと思い、静かに図書館を出ていく。
扉を閉める直前に、ふとパチュリーの方を振り向くと、パチュリーは静かに本を読んでいた。その背中は小さく、細い。魔理沙はまた、頭でっかちの知識じゃないだろうかと疑ったのだった。
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紫から、あまり事を大きくしたくない、という話を聞いて、魔理沙はできるだけ信頼できる協力者を求めた。或いは、事情を深く聞かず、魔理沙の話を聞いてくれる者たちだ。しかし、そんな都合の良い知り合いなど魔理沙の周りにはほとんどおらず、また事が事だけに、見ず知らずの他人に霊夢の行方を訊くわけにもいかなかった。
そんなわけで、魔理沙は毎日、あちこちに飛びまわって、地道に霊夢を探していた。気のめいる作業だが、ついでにどうでもいい屑を拾い、魔法の研究の足しにして何とか続けていた。
霊夢が居なくなって四日目の朝、魔理沙がベットで目を覚ますと、紫が笑ってベッドの上に顔を出していた。
「……なに?」
魔理沙は不機嫌そうな声を出して紫を威嚇した。しかし紫は気にしていないのか、いつもの抜けた調子で話し掛けてくる。
「おはよう、魔理沙。霊夢の手掛かりは見つかったかしら?」
「パチュリーに頼んだ。それだけだ」
魔理沙は霧がかかったような視界を一生懸命に開けて、頭を働かせる。ベッドから下りて、ぐっと背伸びをした。先ほどよりは幾分か気分が覚めたような気がした。
「魔理沙は朝、低血圧なのね」
「急に起こされて、頭がスグに働く奴なんていないだろう。いたとしても、霊夢ぐらいじゃないのか?」
「それもそうかもしれないわね」
紫は楽しそうにくすくすと笑っている。魔理沙は少し紫を睨んで、言葉を吐く。
「なあ、紫は本気で霊夢の事を探しているのか?」
それはここ最近魔理沙が感じている事だった。紫は唐突に魔理沙の前に現れては、一方的に話をして帰る。いつもの事だと言えばそれまでだが、今はお互いに協力している立場だから、紫の話も聞いて、自分の話も聞いてほしいと思うのだ。
魔理沙はじっと紫の顔を見る。
「どうなんだ?」
その言葉に紫の眉がぴくっと動いた。
「疑っているのね。そうね、じゃあ早速だけど本題に入るわね」
そう言うと、紫の顔から笑顔が消えた。
「まず、私は宴会を開き、有力な妖怪たちに声をかけた。霊夢を探してくれないかとね。当然、見返りと口止め料を渡して、よ」
なるほど、確かに紫からの依頼と言うと、かなりの大事だという感じはするし、足元を見て大金を吹っ掛ける輩もいそうだ、と魔理沙は思った。
「そしてそれにぴったりの妖怪が居た。最近、命蓮寺という寺が出来た事は知っているかしら?」
「ああ、知っている」
ここで魔理沙は何となく、話の筋が読めてきた。なるほど、あの連中に、人探しにぴったりの奴がいる。
「そこの、ナズーリンという妖怪に頼んだのよ。大金を吹っ掛けられたけど、信頼も出来るし、背に腹は代えられない。そこで彼女に霊夢の行方を依頼した」
そこまで言って、紫の表情は一層険しくなった。魔理沙はそれを見て、どうやら事は一筋縄ではいかなかったようだ、と感じ取った。
「そして昨日の夜、彼女に霊夢を探してもらった。けれど、彼女はこう言ったの。霊夢はいない。この幻想郷にはいないと」
「……はあ?」
「いないのよ、霊夢は」
「おいおい……本当か?」
紫が低い声でそうよ、言うと、魔理沙は目まいがしそうになった。まさか、霊夢がこの幻想郷に居ないなんて。
信じられなかった。まさか、もう小町や映姫の所へ行ってしまったのだろうか、と嫌な考えが頭をよぎった。魔理沙の目は紫をしっかりと捉えていたがその情報を混乱した頭は上手に視覚情報を処理できていなかった。まるで蜃気楼を見ているかのように、ただぼうっと目の前の景色を映しているだけだ。
紫は同じ調子で話を続ける。
「そこで私は、ナズーリンにこう頼んだ。霊夢の肉体を探してほしいと。しかし、ナズーリンは、肉体もないと言ったの。つまり、霊夢は能力によって、結界の外に居るか、姿を消しているかのどっちかなのよ」
「……」
魔理沙は言葉が出なかった。頭の中には、なぜ、どうしての二言が代わる代わる点滅している。
少し風が吹いて、カタカタと窓が揺れた。嫌な風だ、と魔理沙は思った。
魔理沙は改めて紫を部屋に招待した。紅魔館から貰った紅茶を紫に出して、キッチンの机に座った。外は相変わらず風が強かったが、よく晴れていた。
「つまり、このままだと霊夢は何者にも見つからない?」
魔理沙がそう言うと、その言葉に紫は目で答える。鋭い目をしている
見つからないのか、と魔理沙は感じた。
「結界の外にいるのならば、私が見つけ出す。あなたには幻想郷以外の場所を周って欲しい。私が思うに、姿を消した霊夢は、そのまま地下や天界、あるいは魔界、いづれにしても、幻想郷とは異なる世界へ移動したと思う。霊夢がどんなに強大な力を持っていても、所詮人間よ。何日間も飲まず食わずで能力を発言できるわけではないわ。そうなると、どこかに潜んでいる可能性は高い。それを見つけ出すのよ」
紫は丁寧に、冷たくそう言い放った。魔理沙は少し違和感を覚えた
霊夢の事を心配している、というよりはそれとは別の事に何かに焦っている、と言った様子だった。
まだ何か隠しているのか、と魔理沙は思う。
「面倒くさい事になりそうだな」
「まったく、よ」
紫が少しだけくたびれたように、顔を傾けた。紫は紫で何か苦労があるらしい。
「そうだな、そう言う事ならしょうがない。しかし、霊夢もどうしてそんなに隠れる必要があるんだ?」
「私が最後に話した時も、まったくそんな素振りを見せなかったけど……」
紫は視線を少しだけ上に向けて呟いた。ようは分からない、と言う事だろう。
「とにかく、私は色々な所に飛べばいいんだな。まるで異変みたいだ」
魔理沙はそう言って、異変を解決する巫女が異変を起こすなんてなあ、と小さな声で言った。
人間が魔界や地下に潜る事は珍しい。つまり、異変があったとその土地の者に教える事になる。それは、霊夢が居なくなった事を公開するということだった。
「魔理沙、この手紙をその土地の責任者に渡してちょうだい」
紫はそう言って何枚かの手紙を魔理沙に渡した。
「ばらすのか? 霊夢の事」
「こうなったら、徹底的にあぶり出してやるんだから」
紫が真面目な顔でそう言った。あぶり出す、という単語に魔理沙は顔をしかめた。紫の奴、幻想郷全土を焼き払うつもりなのか。いや、今の紫ならやりかねない。
「まさか幻想郷を焦土にして霊夢を晒すなんて事……」
「やあねえ、そんな野蛮な事はしないわよ。もっと楽しく、楽な方法よ」
紫はにっこりと顔をほころばせ魔理沙の方を向く。先ほどの真剣な表情から一転、まるで遠足の準備をしている子どものような笑顔をしていた。
紫もこんな顔をするんだな、と魔理沙は意外に思った。これはどこの物ともつかぬ紫の、ほんの一部だろうが、その欠片を自分に向けてくれた事が新鮮なのだろう、と魔理沙は考えた。
或いは、異変解決人として認められている事が嬉しかったのか。だとすれば、自分は単純かもしれないとも思う。
「なあに? そんな顔して」
「……私、変な顔をしていたか?」
「まるで養殖のキノコを見た、みたいな目をしていたわよ」
「いや、なんでも無いよ」
紫に全てを見透かされそうで、魔理沙はくるりと背中を向けた。後ろの方では、紫がにやにやしながら、ふうんとかなるほどねえ、等と話をしている。
「じゃあ、もう動き出した方がいいな。霊夢があまり遠くに行かないうちに」
「宜しく頼んだわ」
紫の声が魔理沙の耳に届くと同時に、紫の気配が消えた事を魔理沙は感じた。相変わらず自分勝手な奴だと魔理沙は思う。
扉に手をかけて、外へ出る。相変わらず風が吹き、太陽は地面の草木に光を浴びせている。こんな日は空を自由に飛びまわりたいところだが、あいにく用事は全て、この日の光が当たらない辛気臭い所ばかりである。
魔理沙は箒にまたがり、動き出す。まずは地底だろうか。紫に貰った手紙の中味も気になるが、なんだか中身は見てはいけない気がした。紫が直々に書いたものだと思うと、何となく見るのを躊躇われた。中身を見ると、戻れなくなるという気がする。まるでパンドラの箱のようだった。
そしてもう一つ思う所が魔理沙にはあった。重要な手紙の配達をわざわざ魔理沙に頼んだその理由。紫は魔理沙が信用に足る人物かどうかを見ているのではないだろうか。
魔理沙は紫の事を普段あまり信用はしていない。しかし、共通の目的があるもの同士ならば、紫はこちらの期待以上の仕事をしてくれるだろう。宴会の席でも、紫は自分の仕事を遂行していた。
それならば、霊夢探しで紫に与えられた仕事を自分もきっちりとこなすべきではないだろうか。
「……これは仕事だからな。きっちりやらないといけないか」
自分に言い聞かせるように、魔理沙は呟いた。
紫の事は、この件だけに関しては頼りにするべきだろう、というのが魔理沙のおおむね理解していた所だった。
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陽の光が当たらぬ暗い地底をいく。外のからりとした天気とは対照的に、地底は陰気臭い湿気が漂っていた。
地霊殿にはすんなりと通してくれた。途中、いくつか妨害があったが魔理沙はさっさと先に進んだ。
「古明地さとりはいるか?」
地霊殿の門前で声をあげる。魔理沙の声は少し建物に反響した後、暗い地面に吸い込まれるように消えていった。
「いったい何の用ですか? 私は眠いのですけど……」
本当に眠そうな声をあげて、さとりが地霊殿の扉を開ける。どうやらペット達も眠っているらしく、主であるさとりが直接出て来たらしい。
「眠っている時ですまん。八雲紫からの手紙を届けに来たんだ」
「八雲紫? 今回はいったい何をしでかしたのやら」
さとりは面倒くさそうに返事をする。魔理沙は鞄から丁寧に手紙を取り出し、さとりに手渡した。さとりは手紙を手にすると、乱暴に手紙の封を切った。
「雑だなあ」
「寝起きに、しかも八雲紫からの手紙をもらったのよ。さすがの私でも動揺しますよ」
さとりはそう言って、手紙に目を落とした。
「……あなたはこの手紙の内容を知っているのかしら?」
「私は知らない。本当だぜ」
「だから、あなたは何も考えずにこの手紙を私に渡したのですね」
さとりは魔理沙に向かって手紙をつきだした。白い紙に、黒字のインキで文字が書かれている。それを魔理沙はゆっくりと読み上げた
「え、ん、か、い、のお知らせ……?」
「忌み嫌われた地下の者たちを誘うなんて、とてもとても怪しいわね。あの紅白の巫女も居なくなったみたいだし」
「心を読んだな?」
「勘違いしないで。読めてしまうのよ」
「それにしても、また宴会を開くのか。何を考えているんだか」
「……」
難しそうな顔をして、さとりはその手紙を読んでいた。どうやら思う所があるようだった。
「霊夢の事、何か知らないか?」
一応、尋ねてみる。
「いいえ何も」
さとりからは素っ気ない答えが返ってきた。
「まあ、また見かけた時は連絡でもしてくれ。私はこの手紙を、幻想郷中に配らないといけないから」
「ええ、頑張って。私は眠たいから、二度寝をする」
さとりはそれだけを言って、魔理沙に背を向けた。
「それじゃあ、また」
魔理沙がそう声をかけると、さとりは背中越しに手を振り、重そうな扉を閉めた。
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「あら、いらっしゃい」
永遠亭の八意永琳は魔理沙を快く迎え入れた。夜だったのに、だ。
「夜分遅くお邪魔するぜ」
「結構ですよ。ここは夜中でも患者を受け付けていますから」
永琳が兎にお茶の用意をするよう指示する。魔理沙はそれを丁寧に断って、さっさと手紙を渡した。
「用事はこれだけなんだ。」
「あら、八雲紫からの手紙だなんて、あの人もまどろっこしい事をするのね」
永琳は意外そうな表情をした。
「どうやら霊夢が居なくなったらしい。何か心当たりはないかい?」
「残念ながら、霊夢に関する情報は何も無いわ。ただ、そうね……もしも霊夢がここに運ばれてくるような事があれば、真っ先にあなたを呼びましょうか?」
「そうしてくれると、ありがたいな。でも霊夢の事だから、必死で止めるだろうけど」
「それでも、連絡しますよ。巫女が一人でふらりと歩いている状況なんて、ごく限られていますから」
「例えば?」
「異変です。その時に声をかけようものなら、こちらが排除されてしまいます」
永琳はそれだけを言って、押し黙った。
「言われてみればそうかもな。ありがとう、こんな時間に尋ねて申し訳なかった」
「いえいえ、御苦労さまです」
魔理沙がくるりと永琳に背中を向ける。その時、魔理沙はついでに薬を頼んでおこうかと思った。ちょうど薬を切らしていたのだ。
「ああ、今思いだしたんだけど、薬を切らしたから……」
くるりと振り返って、魔理沙は言葉を失った。振り向いたときに目に飛び込んできた永林の目が、ひどく悲しそうな色をしていたのだ。永琳は急に魔理沙に声をかけられ、驚いたように身体を震わせた。
今の目は、一体なんだ。
「ええ、お薬ですね。明日とりに来てもらえれば大丈夫です」
永琳は瞬時に表情を切り替えた。先ほどの憂いのある黒い瞳もどこか遠くの方へ逃げてしまった。
「何か隠しているな? 霊夢に関係する事か?」
「だから私は何も知らないと」
逃げようとする永琳の腕をつかもうとした。その時、廊下の向こう側から声がした。
「待ちなさい、魔理沙」
廊下の奥から、美しい黒髪を揺らし、輝夜が歩いてきた。相変わらず、何を考えているのかよくわからない顔をしていた。輝夜の美しい顔は、人間にはミステリアスすぎて、不安をかきたてる。
「なんだよ、輝夜」
「魔理沙、今一度尋ねるわ。あなたは本当に、心の底から、霊夢を心配しているの?」
輝夜の黒く深い瞳が魔理沙を捉えて離さなかった。
ああ、私は試されているんだ、と魔理沙は感じた。
今の輝夜は、まごうことなき、月の姫だった。
「あたりまえだろ。そうでなきゃ、紫の頼みなんて引き受けないし、依頼されない」
吸い込まれるような輝夜の雰囲気に、魔理沙は必死で食らいついた。目をそらさず、じいっと輝夜を見つめる。ここで逃げては、全てが台無しになると、魔理沙は直感的に思った。
重苦しい沈黙の後、輝夜が意を決したように話し始めた。
「いいわ、あなたを信頼して、話してあげるわ。霊夢は、三日前に、ここを訪れたわ」
「……!」
きた、と魔理沙は思った。こうなる事を予想して、紫は自分に永遠亭を訪れる様に仕向けたのだろうか、と魔理沙は考えた。それは、八雲紫ならば十分にあり得る話だと思う。
「霊夢は一年前に、永遠亭にいくつかの薬を注文し、三日前に取りに来たの。その目的は全く分からないし、この事を知っているのも、永琳と私以外にはいない。誰にも言わないように封印の結界まで張られたわ。なぜか今になって、その封印が解かれたのだけど」
「薬って? 何の薬なんだ?」
「怪我によく効く薬。飲めばたちまち、どんな怪我でも治るとても高級な薬よ。霊夢は全財産をはたいて、その薬を買った。その時の霊夢は、少し疲れていて、薬を受け取るとすぐにここを出ていったわ。そして気配を断った」
輝夜はご飯粒を一粒ずつ拾い上げる様に、ゆっくりと話す。魔理沙は輝夜の言葉を一つも聞き逃さないように、集中して話を聞いていた。メモを取りたかったが、こうした大事な話ほど、頭の中だけに留めておくべきだと魔理沙は思った。
「私たちが知っているのは、それぐらいよ。けれど、注意しなさい、魔理沙。霊夢は何かをしようとしている。それはきっと、後ろめたい事に違いないわ。ここから先は、忠告よ。魔理沙、決して、霊夢を見捨てないでちょうだい。霊夢が何をしようと、あなたはそれを一身に受けなくていけない。今の霊夢は、孤独だから」
「なぜ、そう言い切れる?」
「表情がね、そっくりだったのよ。月から逃げていた時の、私たちに」
「どうして、私にそれを話したんだ?」
「魔理沙に、覚悟してもらうためよ。これから先、霊夢を追いかけようとするならば、あなたには様々な困難が待ち受ける。そのどれもが、あなたの身体を引き裂くような痛みを伴うの。だから、魔理沙。あなたには、その痛みを受け入れる覚悟があるのかと聞いている」
輝夜の真剣な口調に、魔理沙は嫌な汗をかいた。どうやら、自分の知らない所で、霊夢という存在は、台風のような存在に変わりつつあるらしいと思った。
魔理沙は数秒躊躇って、自分の考えを口にした。
「……正直な話をするとだな、私は霊夢の抱えている物が一体どれほどの物なのか全く分からない。けれど、私はきっと、私が納得する方法で、この問題を解決すると思う。何の答も出さないまま、行動する事は決してない」
魔理沙はまっすぐに前を向いてそう言った。輝夜は納得したように、少し目を伏せて、笑った。
「そう、ならば期待しているわ。あなたがどんな答えを出すのか、私たちは楽しみにしているから」
輝夜はそれだけを言って、背中を向けた。隣の永琳は無表情のまま、ではこれで、と言って扉を閉めた。
魔理沙は複雑な気持ちのまま、空へと昇る。
この事を紫に話すべきだろうか。
しかし、魔理沙はなぜか、紫に話すことに抵抗を覚えた。それは、自分が紫の事をまだ完全には信頼していない証拠かもしれないな、とも思う。
その判断は、お酒を飲まない事に匹敵するほどに、難しい事に思えた。
輝夜は私が本気で霊夢を心配しているからこそ、話してくれた。
いや違う。
彼女はこの事件の結末を、魔理沙の行く末を見守っているような雰囲気があった。いったい輝夜は何を知っているのだろうか。
たぶん、この事実を紫に打ち明けるかどうかという事から、すでに運命の歯車が回っているのだろう。
「……コインに決めてもらおう」
魔理沙はポケットからコインを取り出す。
それならば、私の行く末を神にゆだねよう。代わりに、何かあった時は、神に助けてもらおう。
表が出れば、紫に相談。裏が出れば、紫には秘密だ。
その時、魔理沙は少しだけ笑っていたような気がした。
指でコインを弾く。
運命のコインが、空高く舞い上がった。
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神社へ戻ると、紫から二人で飲まないか、というお誘いを受けた。断る理由も無かったので、魔理沙はそれを受け入れた。
案内された客間は十畳はあろうかと言う和室だった。部屋の真ん中に美しい彫が刻んである縦長の座卓が置いてあり、それ以外の家具は何も無い。
「魔理沙、お疲れ様。今日はゆっくりしていくといいわ」
紫は客間に魔理沙を案内し、側に立っていた藍にいくつか命令をした。
魔理沙は興味深そうに辺りを見回していた。ここが八雲紫の住居なのだろうか、と考えつつ目を凝らす。自然と高価そうな壺や掛け軸に自分の視線が行くのを感じて、魔理沙は少し目を伏せた。
嫌な癖がついてしまった、と思う。
「さあ、そこに座ってちょうだい。今日は私のおごりだから、遠慮なく飲んでいいわよ」
紫は魔理沙のちょうど反対側に座り、お猪口に日本酒を注いだ。魔理沙も勧められた席に座り、紫からのお酒を手にする。
「こんな待遇は初めてだ。なんか緊張するな」
「私も魔理沙を招待する日が来るなんて、ちっとも思っていなかったわよ」
紫が日本酒を掲げる。魔理沙もそれに合わせて、そっとお猪口を持った。
「珍しい二人組に、乾杯」
「乾杯」
魔理沙はくっと酒を喉に流し込んだ。疲れた身体に染み渡る様に酒が喉を熱くする。そのくせ、さっぱりとした後味が口の中に広がった。
「美味しい。いい日本酒だ。本当にこれ、飲んで良かったのか?」
「いいわよ。お酒は飲むためにあるのだから」
失礼します、とふすまを開けて藍が入ってきた。透明な皿に盛られた、色鮮やかなサラダが運ばれてくる。
「霊夢もここで、こんな食事をした事があるのか?」
魔理沙は気になって、紫に尋ねてみた。
「何回か誘った事はあるわ。でもふられてばかりだった」
「ふうん。こんな美味しいお酒が飲めるのに、もったいないな」
「霊夢は案外、意地っ張りなのよ」
「ああ、分かる気がするぜ」
次々と運ばれてくる食事に舌鼓を打ちつつ、魔理沙は紫と様々な話をした。酒が入って気分が良くなったおかげだろうか、お互いの些細な事をゆっくりと話す事が出来た。
「この前、藍と一緒に買い物に出かけたの。そしたら子どもに、おばさんなんて言われて、危うくスキマに放り込みそうになったわ」
「おいおい、冗談でも、そう言う事を言うのはまずいと思うんだが」
「頭に血が上ったのと同時に、その時の藍の顔が、青ざめていたのをよく覚えているわ」
「藍は大変だな。というか、そう言う事を気にするんだな、紫は」
「これでも一応、女の子ですから」
「女の子、はちょっときつい」
「何よ?」
「何が?」
しばらく二人で睨みあった後、魔理沙はあはは、と笑った。紫もそれにつられて目を細めくすくすと微笑んだ。
「さてと……明後日の宴会の話なんだけど」
魔理沙はひとしきり場が和んだ所で、本題へと移った。紫もどこか、その話をする事を前提にしていたように、魔理沙のその質問に表情が変わる。最近になって、魔理沙には紫のちょっとした表情の変化が分かるようになってきた。今まで、紫は何を考えているか分からないと思っていた魔理沙にとって、その事実は意外に感情の起伏がある妖怪だと言う事を証明している。
もしかしたら、紫は私たち人間にずっと近い妖怪なのかもしれない。少なくともパチュリーよりは近いだろう、と魔理沙は思う。
「霊夢が幻想郷、つまりこの地上に居ない事は話したわね。霊夢が居なくなってから一週間が経ち、霊夢は相変わらず気配を断っている。これはもう、どこかの誰かがかくまっているとしか考えられないわ。その期間は不明だけど、少なくとも、今、この瞬間も霊夢は誰かにかくまわれている。相手が何を考え霊夢をかくまっているかは、今、重要ではないわ。そこで私は明後日の宴会にその土地の支配者を誘う事で、霊夢を孤立させる。彼女たちも馬鹿ではない。私が霊夢を探している事は手紙に書いてあり、もう周知の事実。そこで宴会に出席する事の意義が生まれる」
「つまり、この宴会は踏み絵みたいなものなのか?」
紫は得意げな顔をして、正解、と言った。
「霊夢の居場所を知らない者は、この宴会に出席せよ。私はその意味を込めて、この手紙を魔理沙に頼んだのよ。本来なら藍に任せる仕事だけど、藍は結界の管理に手を焼いているから、使い物にならなくて」
静かに紫の話を聞き、魔理沙は自分の頭の中で紫の言葉を繰り返していた。
なるほど、確かに霊夢が失踪した事を公開することで手紙をもらった者たちにはある程度のプレッシャーがかかっている。
八雲紫からの、霊夢の居場所を吐きだせ、という無言のプレッシャーが。
「ねえ、魔理沙。あなた、何か有力な情報を貰わなかった?」
「ないな。私が行った二つは、霊夢の姿を見ていないと言っていた」
魔理沙は嘘をついた。コインが裏を向いたからだ。
例え紫にばれたとしても、魔理沙が永遠亭での出来事を隠している、という魔理沙の姿勢が大事だと思ったからだ。
幸い、紫は何も気にせず、そう、とがっかりした表情を浮かべただけだった。
「宴会には、私も出席するべきか?」
話題を変える。
「あなたは、宴会に出席しなかった者たちの所へ飛んでもらいたい。ついでに、参加者からの情報も私が送るから、それを元に霊夢を全力で探してほしい」
「もし神経のずぶとい奴が居て、霊夢の件についてさらりと嘘をついたらどうするんだ?」
「なんとかして、尻尾をつかむわよ。これでも、数千年生きてきたの。心理戦は割と得意なのよ」
「そりゃあ頼もしい」
魔理沙は苦笑いを浮かべた。弾幕戦ならまだしも、口での交渉は紫に敵わないだろう。
「しかしあの霊夢が他人の力、まして、妖怪たちの保護下に入るかな?」
魔理沙には分からなかった。あの霊夢が自分のプライドをねじ曲げてまで、誰かの保護下に置かれる状況。そんな状況など、あり得るのだろうか。
「たとえば、弾幕戦や巫女の力でも、どうしようもない事象が自分の身に迫ってきているとしたら、或いはあり得るかもしれない」
紫からの返答に、魔理沙はああ、と納得した。
「死、かな。死は逃げられない」
「そして、それをもたらす者や事象が自分の身の丈につり合ったもので無いとすれば、さすがの霊夢も……」
お猪口を持つ手が止まった。外からは虫が夜の寂しさを紛らわすように引っ切り無し鳴いている。
死をもたらす者とは一体、誰だろうか。
死をもたらす事象とは一体、何だろうか。
「……嫌な話になったわね。でも今は、霊夢を信じて探すしかない。結界が耐えうる時間までには何とかして見つけないと」
紫はバツが悪そうな顔をして酒を口に含んだ。その時の鋭い目つきが、魔理沙の胸をどきりとさせる。
「結界は、そんなに深刻な物なのか?」
「元々博麗の巫女ありきの物だから。霊夢は特に、守り人であると同時に管理者でもあった。あの子は神社に居るだけで、結界に悪影響を及ぼす因子の中和をしてくれていたのよ。人間でいえば、肝臓に当たるかしら。とにかく、そこに居るだけで様々な影響を与えていたの」
「それが無くなって、結界はぜい弱な物になっている」
「そうね。そんなところ」
紫の視線が自然に机に落ちる。その表情からは、本気で霊夢を心配している様子が分かった。
意外と言えば意外だった。今までは全てを知っているかのように、余裕の立振る舞いをしていた紫が、今回の件ではまるでしなびた青菜のように、溜め息をついていたからだ。それに、異変解決について、一つたりとも有益な情報を掴んでいないのも珍しい。
「いつもの余裕たっぷり、不敵な笑みを湛えて登場する紫さんは、今日は風邪でも引いて引きこもっているのかい?」
魔理沙が意地悪そうにそう言うと、紫は顔をあげ、曇った笑顔を浮かべた。
「まあそんなところよ」
「おいおい……」
張り合いが無い、とはこのことだ。
魔理沙はトイレへ行く、と言って席を立つ。外へ出ると、涼しい風が魔理沙の体温を奪う。少しだけ身震いした。
トイレから戻る時に、藍に出会った。藍はいつもの格好をしていた。だがその顔は少し疲れているように見えた。
相変わらず、柔らかそうな尻尾だ、と魔理沙が思っていると、不意に声をかけられた。
「魔理沙、どうか紫様を助けてやってくれ」
「手助けするのはお前の役目じゃないのか?」
「私は紫様の手助けにはならない。私は機械のようなものだから、紫様の指示なしでは何もできない。つまり、ただの道具だ。けれど魔理沙は、この案件の要、紫様の足りない部分を補う存在なんだ」
「そんな大げさな……」
「大げさではないよ。ここ最近の紫様は、だいぶ参っていたんだ。とてもじゃないが、見ていられないご様子だった。それが今日は幾分か気分がいい。それは魔理沙、あなたがいるから。気が付いていないかもしれないけど、紫様は魔理沙の事を相当信頼している。私が言うから間違いない」
「その信頼は、どのくらいなんだ?」
「そうだね、もし今の魔理沙の仕事を私が引き受ける事になると、私は胃に穴があいてしまい、自慢の尻尾には十円玉ほどのはげが出来てしまう」
凄い事なのか、そうでないのかよくわからない例えだったが、ほめたたえる様に話す藍に、魔理沙は少し気恥ずかしくなった。今までは誰かに頼りにされる事など無かったし、誰かを頼りにすることも無かったからだ。
「ほめすぎだよ」
少しだけ強がりを言って、魔理沙は藍の横を通り過ぎる。部屋に入ると、顔を火照らした紫がそこにいた。
「ちょっと、遅かったじゃない。どこに行ってたのよお」
「……もしかして、酔っ払いか」
紫は力なく笑う。いつもの苛立ちを覚える笑みではなく、純粋に笑っていた。
紫でも、こんな表情を見せるのだな、と思う。
「寂しかったわよ、魔理沙」
「だらしない事言うなよ」
魔理沙は目の前の妖怪をじっと見つめる。今まで紫に持っていた妖怪独特の妖しい雰囲気は微塵もなく、代わりに人間らしい小さな不安というものを感じ取れた。
勘違いかもしれないけれど、紫はもともと人間だったのかもしれないな、と魔理沙は思った。
「魔理沙、さあ今日はとことん飲むわよ」
まるで、何年ぶりに帰ってきた友人を迎えるかのような紫の態度が、魔理沙には少し気恥ずかしく、そしてちょっぴり嬉しかった。
************************************
宴会当日。欠席したのはごく少数だった。
地霊殿の主、古明地さとり。彼女は地獄の怨霊の管理を理由に欠席した。同じく永遠亭の主、八意永琳も病院を空ける事は出来ないと言う理由で欠席した。
「この二人は筋が通っている。何も怪しい所は無い気がする」
「けど、怪しい。行って」
意外に紫は頑固だった。
「というわけだ。さあ、霊夢を出してくれ」
再び地霊殿。いい加減、ここの景色も飽きてきた、と魔理沙は感じた。地霊殿の中に案内され、広い部屋に出た。真ん中に大きな縦長の、白い机があり、その周りに椅子が何個か置いてある。
「……」
その椅子の一つに座っていた古明地さとりはとても深いため息を、思い切り吐いた。実にわざとらしかった。
「おいおい、こっちは真剣に話しているんだよ、さとりさん」
「そんなわざとらしい言葉には、わざとらしい言葉と仕草で十分です」
まあそうかもしれないけどさ、と魔理沙は思った。そして、この言葉もさとりに聴かれていると思うと、何だか歯がゆい気持ちがした。
「だめだ、お前とはまともに会話が出来ない」
「何を今さら」
さとりは面倒くさそうに魔理沙の相手をしていた。
「あなたは私を疑ってはいないのですね」
「疑うも何も、霊夢はこんなところに居ないよ」
「なぜ、分かるのですか?」
「これでも長い付き合いなんだ。きっと霊夢は過去にここにいたかもしれない。でも少なくとも、今はいない」
さとりは何となく納得したような表情になった。
「それだけ分かっていながら、なぜあなたはここにきているのですか?」
「それは……」
魔理沙が言いよどむ。さとりはじいっと目を細め、魔理沙を見つめていた。
「あなたは八雲紫を信用している。けれど、完全ではない」
「なんで口に出すんだよ。だから嫌われるんだ」
「貯め込んだ感情は、すぐに吐き出す方がいいので。感情は、貯め込みすぎると自分を殺してしまいますから」
さとりは座って下さいと言って、開いている席を指す。魔理沙はさとりの真正面に座って、本題へと話を移した。
「さっきも言ったように、私の考えでは霊夢はここには居ない。けれど、もし、ここに来ていたのなら、霊夢についての情報が欲しい」
「何もお答えするようなことはありません」
さとりは淡々と、落ち葉をかき集めるような素っ気ない返答をした。
「本当に、無いのか?」
「私は知りません」
さとりは頑なだった。この自信は一体どこからやってくるのだろうか。私にも少し分けてほしいぐらいだ、と魔理沙は思う。
すると、魔理沙の腰につけていた通信機が音を鳴らした。魔理沙は急いで通信機にのスイッチを入れる。
「パチュリーか。久しぶりだな」
相手はパチュリーだった。ここ最近、紫の家に入り浸っていたおかげで、パチュリーと連絡が取れていなかったため、その声が随分懐かしく感じた。
「魔法がようやく完成したわ。随分てこずったけど、出来は相当良いわよ」
「本当か。それで、今、霊夢はどこに居るんだ?」
魔理沙が興奮気味に聞くと、パチュリーは落ち着きなさい、と冷静に応えた。
「まず、霊夢は自分の能力を使って、何物にも干渉できないように動いているわ。だから、そうやって動いている間はこの魔法でも全く読み取れない。けれど、霊夢がその能力を解除した時は、この魔法で感知できる。そしてこの魔法の便利な所は、この持ち主の過去に行った場所を特定できることにある。それは術者の技術と提出された手掛かりで範囲が決まるんだけど、今回は、一日前ぐらいの軌跡をたどる事が出来るわ。私がもっと、この魔法を使いこなせたら一週間ぐらいまでさかのぼれるんだけど」
パチュリーは少し間を空けた。
「さて……今から二十時間前に、霊夢は能力を解いた。そして一時間ばかりでまた姿を消した。さすがよね、一時間ほどの休憩でまた一日以上、能力を使い続けているんだから。そして、その一時間ほどのあいだ、霊夢がいた場所は……」
「どこなんだ、それは?」
魔理沙は手に汗握って、パチュリーの言葉を聞きもらすまいとしていた。
次の瞬間、パチュリーから告げられた場所は魔理沙にとってあまり良くない冗談に聞こえた。
「……」
さとりも何も言わなかった。
「そうか……ありがとう」
静かにスイッチを押した。魔理沙は、気持ちを落ち着けるように、上を向いてほうっと息を吐いた。
さとりが席から立った。
「どうぞ、後はお好きにしてください」
そう言って、さとりは部屋を出ていった。広い部屋には魔理沙だけが残された。
「いやあ……参ったなあ。紫には何て言おうか……」
魔理沙は力なく笑う。景色がぼんやりと滲んだ。
「三途の川なんて、随分遠いところに行っちまったな、霊夢」
ぽろりと独り言を呟く。それは地底の濁った空気に一瞬で溶けてしまった。
湿って重い感触のする畳に霊夢は座り、正座して本を読んでいた。机に本を置き、雨の音を聞きながら、ページをめくる。この瞬間、世界は、雨と紙の擦れる音で構成されていた。
はらりとページをめくった時に、玄関が開く音がした。
霊夢は黙って本を閉じる。空気が押し出されるように、ぽんと音が鳴った。
「霊夢、居るか?」
甲高い少女の声が聞こえた。それに霊夢は、短く答える。
「そうか。じゃあ、早速出かけるか」
少女は玄関から一歩も動かなかった。どうやらこちらに来い、という事らしい。あまり気配りが出来ない人だな、と霊夢は思う。
タンスから肩かけのショルダーバックを取り、先ほどまで読んでいた本を丁寧に入れた。それ以外は、財布と瓶入りのドリンクだけが入っていた。
霊夢は廊下に出る前に、ちょっと部屋を見回した。畳のシミ、丸くところどころ傷が入ったちゃぶ台。嗅覚に響く腐った木々の匂い。激しい雨の音がそれらに含まれる深い虚無感をいっそう引き立てているように思えた。
「どうした、はやく行こう」
少女がせかす。霊夢は思考を切り替え、少女の方へ歩きつつ、言葉を吐いた。
「今から行くわ、魔理沙」
これから先の事を少し考えて、霊夢は微笑んだ。
***********************************
「霊夢、今日も遊びに来たぜ」
青色のペンキを薄く広げたような、青空の下、魔理沙の声が神社にこだました。
「用事は?」
境内で掃除をしていた霊夢はにべもなく返事をする。
「まるで用事が無いと、ここに来ちゃいけない、みたいな言い方だな」
「分からないなら言っておくけど、用事が無いと普通は他人の家に来ちゃいけないと思うわ」
霊夢は、まあ別にいいけど、と言葉をつけたし、箒からさっそうと降りた魔理沙の方を向く。
「どうせ暇なんだろ。あ、用事ね、霊夢の暇をつぶしてあげようと思って」
魔理沙はにこりと笑って霊夢の方を向いた。霊夢はあまり興味がなさそうにふうんと相槌を打ち、また意味も無く竹ぼうきを左右に揺らす。
「お茶を用意してくるぜ」
魔理沙は遠慮せず神社の裏へまわり、霊夢の居住区へと侵入した。霊夢は困ったような、少し迷惑そうな、けどお茶を入れる手間が省けてよかった、など、とにかく道端の小石のような感情をその小さな顔いっぱいに表していた。
魔理沙は分かりやすいやつだ、と心の中で思う。喜怒哀楽がはっきりしている事は、魔理沙にとってうらやましい事の一つだった。
縁側から霊夢の部屋に直接あがった。中は小ざっぱりしており、古く色あせたタンスが部屋の隅に置かれ、真ん中にはこげ茶色のちゃぶ台が置かれている。それ以外は何も無かった。布団は押入れの中にあるのだろうと魔理沙は目を配らせる。
魔理沙は部屋を横切り、廊下に出て台所へ向かう。少し薄暗い台所はひんやりとしており、秋の始まりを感じさせた。台所も部屋と同じように整理整頓されており、大きなテーブルの上にやかんとお茶の葉が置いてある。
魔理沙はやかんに水を入れ、火をたいた。最近になって、魔理沙は指の先からちょろっと出る程度の火が出せるようになった。この前、霊夢にそれを言うと
「良かったわね。これでマッチを買わなくて済むじゃない」
と返された。魔理沙はその興味無い感じが霊夢らしいなあ、と思いだして少し笑った。
ある程度、温度が上がった所で、火を消す。そして急須に網をかけ、お茶の葉を落とす。その上にゆっくりとお湯をかける。白い湯気が鼻の奥を刺激した。
「さあ、出来たぜ」
魔理沙は急須と二つの湯呑を盆に載せ、再び部屋に戻ると、外に背を向け、霊夢が顔を仄かに紅潮させちゃぶ台にもたれかかって座っていた。
「どうしたんだ?」
魔理沙が盆をちゃぶ台に置きながら、霊夢に尋ねた。
「ちょっと妖怪を追い払った」
「だれ?」
「吹香」
「ああ、朝からお酒はきついな」
魔理沙はゆっくりと膝を曲げて畳に座る。湯呑にお茶を注いで、霊夢に手渡した。
「ありがとう」
「いいえ、いいえ」
魔理沙は少し熱くなった湯呑に息を吹きかけつつ、ゆっくりとお茶を飲む。外から涼しい風が入り込み、適当な湿度を保って、この部屋を満たしていった。時間が止まったように、静かに、そして柔らかい雰囲気が魔理沙の身体を覆っていった。
「たまにはこうして、ゆっくりと過ごすのも悪くない」
魔理沙が思った事をそのまま口に出した。霊夢は少し、間をおいて顔をあげる。
「たまには悪くないわ。毎日、こんな事をしているとそのうち身体の内から腐ってしまいそう」
魔理沙は霊夢の口から飛び出た、腐るという単語に、少し違和感を覚えた。この静寂な空気にはあまり似つかわしい言葉じゃないなあ、と感じた。
「腐るって、なにかおどろおどろしい言葉だな」
「あら、でも身の回りには腐る事で出来る物が溢れているのよ。お酒や納豆もそうじゃない。だから、腐ると言うのは悪いことばかりじゃないの」
「人が腐るっていうのは、私には悪く聞こえるな」
「人間にしてみたら、あまり気持ちの良い事じゃないかもしれないけれど、人間以外からすれば、実に有意義な事、かもしれない」
「ほう、なるほど……」
魔理沙は口では同意しつつも、霊夢のやや突飛とも言える思考に、少しだけ苦い感情が湧き上がる。
霊夢は普段から一体何を考えて生きているのだろうか、たまに分からなくなる。それは魔理沙が霊夢と出会った頃から抱いてきた疑問でもある。
「霊夢はいつも、凄い事考えてんだなあ」
「すごい? 別にそうでもないんだけど。ただ、物事の仕組みを考えるとね、そういう不思議な事も考えるようになるのよ。ほら、お酒の事とか」
「そうだ、霊夢はお酒の話も詳しかったな。どうしてそんなに詳しいのか疑問だけど。もしかして、密造してる?」
魔理沙は茶化すようにそう言った。それに対し、霊夢はさあね、と少し含みを持たせたような笑みを浮かべ、また黙ってしまった。魔理沙は何か話題は無いかと、記憶をたどってみる。
「そう言えば、この前とんでもない音が鳴ったけど、霊夢は何か知らない?」
「さあ……」
魔理沙がその音を聞いたのは一昨日の事だった。雷と大砲を同時に鳴らしたような、低く唸るような轟音が響いたのだ。その日はどす黒い曇りで、空気は雨が降り出しそうな湿気を孕んでいた。
魔理沙が家で魔導書片手に実験をしていると、心臓にまで響く音が聞こえた。その後、土砂降りの雨の音。魔理沙は、最初は雷かと思ったがどうも様子がおかしいと思い、外へ出てみると、そこには青空が広がっていた。
魔理沙は自分の目を疑った。なぜなら空気には確かに、重い湿気が漂い、そして肌には痛いほどの雨粒を感じていたからだ。
さらに不自然だったのは、虹が現れなかった事だ。つまり、この青空はまやかしだと言う事だった。
その青空雨という不思議な天気は、十分間ほど続き、雲が自分の居場所を急に思い出したようにまた、戻ってきたのだった。
「一昨日のあれは、異変だろ」
魔理沙はそう思っていたが、霊夢は全く動こうとしなかった。
「一瞬だけだったし、他に不穏な動きも無い。手がかりもないし、意味も分からない。もっと動きが出るまでは、別にいいんじゃない?」
「また紫に怒られるぜ」
「いいのよ。やる事はきっちりやるから」
実に霊夢らしいな、と魔理沙は思った。
「ここ最近、天候も不安定だし、ちょっと気になるぜ」
「秋は天候が崩れやすいんじゃ無かったっけ?」
「まあ、それもそうなんだけどさ」
そして、またしても沈黙が訪れた。だが、魔理沙はこの沈黙があまり気にはならなかった。こうして霊夢と話をする事は、沈黙も含まれるからだ。
しばらくそうしていると、急に不気味なスキマが一直線に現れた。
「あら、久しぶりね。魔理沙」
身体半分だけを出して、八雲紫が魔理沙に声をかける。マスク越しに話しているかのように、何か含みがあるような言い方だな、と魔理沙は思う。
「紫がこんな日に現れるなんて珍しいな」
「そんな事は無いわ」
紫は不敵な笑みを浮かべ、魔理沙を見下した。
魔理沙は、あまり八雲紫の事を信用してはいなかった。それは不快につながる、良くない感情だった。魔理沙自身は、霊夢と結びつきのある紫に対し、努力して理解しようと試みたが、肝心の紫の方が端から魔理沙に期待をしていない、という素振りを見せるので、魔理沙は益々不満を募らせるのだった。
「招かねざる客はごめんよ」
霊夢がやんわりと紫にそう言うと、紫はその笑みを全く変えず、あらそう、と言った。
「紫は胡散臭いからな。私だって、突然出てきたら一言いいたくなるぜ」
魔理沙は少し紫に忠告するような顔をした。
「あら、そんな事、私は別に気にしないわ」
「紫は気にしなくても、他の連中は気にするのよ」
霊夢も少しうんざりしたような顔をして、溜め息をついた。そうしてしばらく、その三人で他愛の無い話をしていたが、魔理沙が突然、帰ると言い出した。
「じゃあ、私はこれで失礼するぜ」
「あら、もう帰っちゃうの? せっかくお茶を煎れたのに」
霊夢が意外そうな顔をした。
だが、魔理沙は何となくここを出た方が良いような気がしたのだ。紫が現れた時の霊夢の表情やしぐさが、何となく落ち着きが無いものになった事を、魔理沙は見逃さなかった。
紫は霊夢に用事があってきたのだ。私がいると、その話が出来ないのだろう。
魔理沙はそう気を利かせたつもりだったのだ。
「また明日な」
魔理沙が外に立てかけてあった箒を手に取り、神社を振り返った。
そこには、珍しく寂しそうな顔をした霊夢の姿があった。
霊夢の後ろには紫が立って、魔理沙に向かって手を振っていた。
魔理沙は少し驚いた。霊夢の表情は、田に残されたカカシのように、物寂しい情景を思い出させるものだったからだ。まるで、もう少しここに居てくれ、と言わんばかりの表情だった。
箒に乗って、空に浮かび上がる。ある程度まで飛んだ所で、再び神社を振り返った。
あの表情は一体何だったんだろうか。
魔理沙の胸には、もやもやとした鼠色の感情が渦巻いていた。
当ても無く空を飛び、用事もないのに紅魔館に寄る。この前の青空雨に関する資料を取り寄せるためだった、というのを口実にして、図書館で暇つぶしをする。
「パチュリーは、一昨日の青空雨をどう思う?」
柔らかめのソファーに腰掛け、魔理沙は目の前のパチュリーと呼ばれた少女に声をかける。パチュリーは魔力の力で空中に座っていた。
「ちょっと不自然よね」
開口一番に、パチュリーは語気を強めた。
「やっぱりそう思うだろ。なのに、霊夢は別にどうともないって言うんだぜ」
「へえ、霊夢が怪しまないなんて珍しいわね。いや、面倒くさいと思って動かないだけかもしれないけど」
パチュリーは紅茶を飲みながら手元の本に目線を落とした。
「天候に関する異変は、あの天人が起こした異変ぐらいね。これもきっと天人が起こした異変じゃないかしら」
「パチュリーにしては随分短絡的な見解だな。なにかあるのか?」
魔理沙は少し意外に思った。見当違いな意見を言う時もあるが、普段、パチュリーはいくつかの要因をひとつ残らずチェックし、そこから様々な可能性を取捨選択する事を得意としている。だからこそ、こんな竹を割ったような、味気ない意見に疑問を抱いたのだ。
「だって、それ以外考えられないからよ」
「なぜ?」
「それはね」
一拍置いて、本を閉じてパチュリーは魔理沙の方を向きなおす。
「結界に関する異変ならば、一昨日みたいな事になるかもしれない。けれど、霊夢が動かない上に、あの八雲紫もその重い腰を地につけたまま動かない。つまり結界の異変ではない、と言う事よ」
魔理沙はふうむ、と唸った。確かに言われてみれば、今朝の霊夢も紫も別段、怪しい所は無かった。
「けれど、事件の当事者が事件の後も普段と変わらず振舞う事も、ミステリーでは常套手段だぜ」
「じゃあ、霊夢に聞いてみれば。どうせはぐらかされて終わりでしょうけど」
それは今朝聞いてみたんだけどなあ、と魔理沙は心の中で溜め息をつく。
「ま、その影響もいつか出てくるわよ。その時になってまた、動き出せばいいじゃない」
パチュリーがその場を締めるようにそう言うと、小悪魔が新しい紅茶を運んできた。パチュリーに勧められ、魔理沙も紅茶を貰う。優雅な香りが図書館にしみわたる。
「そうだな、いつか出てくるよな」
「ええ」
それっきり魔理沙は黙って本を読んでいた。だが、頭の中には今朝の霊夢の表情が、カメラのフラッシュのように現れていた。
何かおかしなことが起きているんじゃないだろうか、という漠然とした不安が魔理沙を覆う。何となくだけど、そんな気がしたのだ。それはデジャヴ、とも良く似ている感覚だった。
「……結界、か」
パチュリーがぽそりと呟いた。
「あ、この本借りていくから」
魔理沙は思いだしたようにそう言った。だが、パチュリーは無言で魔理沙をじっと睨む。だが魔理沙は動じなかった。
パチュリーに睨まれても、あまり威圧感を感じないのはなぜだろう、と魔理沙は考えた。
「だめよ。それは貴重な本だから」
「貴重だから読みたいんじゃないか」
「……もう、あんまり手を煩わせないでちょうだい」
パチュリーがさっとスペルカードをかざす。その姿に魔理沙は慌てた。今日は弾幕戦の気分ではなかったのだ。
「分かったよ。本は返す、それでいいだろ?」
「分かればよろしい」
パチュリーがスペルカードをしまう。それと同時に魔理沙に話し掛けた。
「何か、思う所があるのならいつでも相談には乗るわよ。魔理沙。今は話したくない事があるかもしれないけれど、この世界に関わることかもしれないから、小さな事でも相談して欲しい」
パチュリーは魔理沙をまっすぐに向く。
「……気を遣わせたな。悪い」
魔理沙が苦笑いで答えると、パチュリーは
「ちょっと今日は、張り合いが無いわね」
と笑っていたのだった。
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朝、魔理沙は奇妙な感覚に陥った。
どうも空気が薄い気がする。
空気に濃い薄いがあるかは知らないが、表現出来ない違和感があった。ベッドから身体を起こし、外を見る。いたって普通の青空が広がっている。
霊夢に聞いてみるか、と思い、出かける準備をする。
博麗神社につくと、普段境内を掃除しているはずの霊夢が居なかった。魔理沙は空の上から神社をぐるりと周ってみたものの、霊夢らしい人影は無かった。すとんと境内に降り、今度は歩いて神社を調べる。
庭から霊夢の部屋を見ると、そこには何も無かった。普段なら、霊夢はここで寝ているはずだった。昨日見た茶色のちゃぶ台は、壁に立てかけてある。それ以外は何も変わらなかった。
魔理沙は箒を立てかけ、霊夢の部屋に入る。
「お邪魔するぜ、霊夢」
返事は返ってこなかった。
と、急に身体が動かなくなって、目の前からスキマが現れた。魔理沙は瞬間的に、紫の仕業を考えた。そして、それに対し別段驚きもしなかった。
予想通り紫が現れる。魔理沙が紫の顔を確認すると、そこには不安の色が見えた。最初は笑顔だったが、魔理沙と分かるとさっと表情が暗くなる。
「あら、魔理沙じゃない……」
スキマから身体を出し、紫は残念そうに言った。神社で何かあったな、と魔理沙は紫を睨んだ。
「この身体の縛りを取ってくれないか。どうにも窮屈でたまらないんだが」
「ええ、ごめんなさい」
そう言って紫はさっと手を振る。
身体の自由が戻ってきた事を確認すると、魔理沙は帽子を軽く押さえて紫に尋ねる。
「なあ、紫。霊夢がどこ行ったか知らないか?」
だが紫は魔理沙と目線を全く合わさず、壁の方に視線を置いたまま、顎に手を置いて考える素振りをしていた。
人が質問しているのに、なんだよその態度は。
魔理沙は心の中で少し苛立った。だがここでイライラしてもしょうがない、と自分に言い聞かせ、再び紫に質問しようとした。
「霊夢が、消えてしまったの」
紫が突然発したその言葉に、魔理沙は呆気にとられた。
消えた。霊夢が。そうか。
「何で? え、どうして?」
「私にも分からない」
「だって、霊夢、昨日までここにいたよな?」
「私は昨日、午前中に帰ったわ。それで、結界の管理をしていると、急に博麗大結界が揺らぎ始めたの。おかしいと思って今朝、神社に来てみれば、霊夢が忽然と姿を消した。もぬけの殻だったってわけよ」
紫は心配そうにはあっと息を吐いた。魔理沙は突然の事に、少し頭の整理が追いつかなかった。
「それで、神社をずっと見張っていたのか。私が現れた時も霊夢と勘違いしていたんだな」
「そう。このままだと結界にも影響が出るんだけど」
魔理沙は今朝からの違和感の正体が何となく掴めた気がした。幻想郷から霊夢が居なくなったせいだろう。
「家出の理由は?」
「さっぱりよ」
紫は首を横に振る。だが魔理沙は紫の言葉を鵜呑みにはできなかった。何かしら手掛かりは知っているはずだ、と思ったのだ。
「……とにかく、霊夢はこの神社には居ない。そして、それによって結界が不安定になるから、紫は早く霊夢を見つけたい。それでいいのか?」
「そうね。そう言う事」
魔理沙は少し考える。霊夢がこの神社を抜け出す時は、異変の時しかありえない。どこかで異変が起きているか、或いは異変の本体が霊夢か。いづれにしても、霊夢本人を見つける事は、現在の最優先事項だと結論付ける。
「よし、霊夢を探しに行く」
魔理沙はくるりと神社に背中を向ける。すると、後ろから紫が声をかけた。
「まって、魔理沙。私も行くわ」
「はあ?」
「霊夢が心配なのよ。魔理沙、協力してくれるかしら?」
紫の顔には、言いしれぬ不安の色が濃く付きまとっていた。
「……断る理由は無いな」
まさか紫がパートナーになるなんてな、と魔理沙は苦笑いをした。
魔理沙は薄く青く広がる空の下、空を飛んでいた。眼下に広がる広大な森に注意し、ゆっくりと空を行く。
霊夢を探すと言ったものの、手掛かりは全くない。そうなれば、関係のある者の所にしらみつぶしに話を聞くしかない。
魔理沙は少し帽子を押さえて、紫から貰った通信機に話しかける。
「些細な事でいいから、手掛かりとかないのか?」
「ううん、私には無いように見えたわ」
はあ、と魔理沙は溜め息をつく。
「霊夢に最後に話したのは紫なんだから、しっかりしてくれよ」
「そんな事言われてもねえ」
のらりくらりと返事をする紫に、魔理沙は少しだけ辟易してきた。霊夢がこんな紫と対話出来ている事に、霊夢の懐の深さを感じ、感心してしまう。
「……あ、魔理沙。あなた私の事を使えない奴、とか思った?」
「いや別に。ただ霊夢が居なくて困るのは紫だろ。もう少ししっかりと情報提供して欲しかったなあと思って」
「それって、つまり使えない奴ってことじゃない」
「そう思いたければ、そうしろよ」
魔理沙はそう言うと、くるりと方向を変えて紅魔館の方へと向きを変える。
「なあ、これはあまり大きな問題にするとまずいのか?」
「出来れば、内密にしてほしいけれど、遅かれ早かれ霊夢が居ない事に気付くでしょう。だから、今は口の堅い、信頼できる連中に相談して欲しいわ」
まるで霊夢が消えてしまう事はさして問題ではないような言い方だった。
「じゃあ、とりあえずパチュリーに相談してみるか」
魔理沙はそう言って紅魔館の方へと飛んでいった。
「霊夢が居なくなった?」
パチュリーは驚いて魔理沙を見つめる。
「少なくとも神社には一片の気配もなかった」
「だから、何となく張り合いの無い空の色をしていたのね」
紅魔館の図書館で、パチュリーは紅茶を飲みながら魔理沙の話を聞いていた。
「手掛かりは全くないから、関係のありそうな所にしらみつぶしに聞いて回っているわけだ」
「そうね……私は知らないし、霊夢は紅魔館には訪れていないわね」
パチュリーはそう言って、紅茶を飲みほした。後ろから小悪魔が新しい紅茶が入ったポットを持ってきている。
「そうか。でもまあ、何かあったら連絡してくれ」
「八雲紫はどうしているの?」
「紫は私と一緒に霊夢を探しているよ。ほら」
魔理沙はパチュリーの前に通信機をおく。しばらくして、通信機からもぞもぞとした声が聞こえてきた。
「魔理沙? ちょっと待って、今ご飯食べてる所だから、あ、藍、ちょっとその水をとってちょうだい」
気の抜けるようなその声に、魔理沙は一瞬、言葉が出なかった。
「おい、おい。人が真剣に探しているのに……」
「妖怪の賢者は随分とお気楽なのね」
魔理沙とパチュリーは通信機を冷めた目で見ていた。紫の所為で気が抜けてしまった。
「あら、紅魔館の魔法使いもいるのね。どうかしら、あなたの能力で霊夢を探せないかしら」
紫がそう言った通信の後ろから、藍や橙の賑やかな声が聞こえる。どうやら宴会をしているらしかった。他の妖怪たちの声も聞こえ、そうした雑音が紫の声を聞き取りにくくしている。
「人に物を頼む時、まずは、その賑やかな食卓から離れた方がいいと思うわ」
パチュリーの呆れた声に、魔理沙はほとんど同意した。紫の状況は真剣さが感じられるとは言い難かった。
「そう、ごめんなさい。とにかく、協力して欲しいの」
「考えておくわ」
紫は期待している、と言って通信を切った。どうやら宴会の方が忙しいらしい。
「こんな感じで、紫は真剣なのか良くわからん。だから、当分は私一人が動く事になる」
「……あなたも大変ね」
パチュリーは同情するような目で魔理沙を見る。
「分かってくれて、ありがたい」
「まあ、この変な空気も気持ち悪いから、とっとと霊夢を見つけて元に戻してもらいましょう」
そう言ってパチュリーは小悪魔に何冊かの本をとってくるよう指示した。
「何するんだ?」
魔理沙が尋ねると、パチュリーは微笑を浮かべた。
「追跡魔法よ。霊夢の持ち物から、持ち主の場所や情報を抜き出す魔法。実用性は高いけど、私はあまり得意じゃないからね。どこまで出来るか分からないけれど、やらないよりはましだと思う」
「ほう、そりゃ便利な魔法だ」
「それじゃあ、魔理沙。霊夢の持ち物を盗ってきてちょうだい」
「私? しかも盗むなんて、人聞きの悪い……」
「なに言ってるのよ。いつも通り泥棒家業フル回転で宜しく頼むわよ」
魔理沙は苦笑いを浮かべた。パチュリーのやつ、まだ図書館から無断で借りた本の事を怒っているみたいだな、と思う。
「まあ、持ち物だったら何でもいいんだろ。じゃあ、盗むまでもないな」
魔理沙はそう言って、革のくたびれた鞄から赤い布をとりだした。
「これは?」
パチュリーが珍しそうに尋ねる。
「これは、霊夢の髪留めだ。ほら、顔の右左に髪留めしているだろ?」
「……ああ、あれか。あの赤い髪留め。なんでそんな妙ちくりんな物を持ってるのよ?」
「部屋に落ちてたから、拝借してきた。何かメッセージがあるかと期待したんだけど、何も書かれていなかったし、特殊な魔法やなんかもかけていなかったから、ちょっと拍子抜けしていた所だったんだぜ」
「ふうん……ま、それで十分ね」
それだけをパチュリーは言うと、魔理沙にさっさと背中を向けて本を読み始めた。魔理沙は邪魔をしてはいけないと思い、静かに図書館を出ていく。
扉を閉める直前に、ふとパチュリーの方を振り向くと、パチュリーは静かに本を読んでいた。その背中は小さく、細い。魔理沙はまた、頭でっかちの知識じゃないだろうかと疑ったのだった。
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紫から、あまり事を大きくしたくない、という話を聞いて、魔理沙はできるだけ信頼できる協力者を求めた。或いは、事情を深く聞かず、魔理沙の話を聞いてくれる者たちだ。しかし、そんな都合の良い知り合いなど魔理沙の周りにはほとんどおらず、また事が事だけに、見ず知らずの他人に霊夢の行方を訊くわけにもいかなかった。
そんなわけで、魔理沙は毎日、あちこちに飛びまわって、地道に霊夢を探していた。気のめいる作業だが、ついでにどうでもいい屑を拾い、魔法の研究の足しにして何とか続けていた。
霊夢が居なくなって四日目の朝、魔理沙がベットで目を覚ますと、紫が笑ってベッドの上に顔を出していた。
「……なに?」
魔理沙は不機嫌そうな声を出して紫を威嚇した。しかし紫は気にしていないのか、いつもの抜けた調子で話し掛けてくる。
「おはよう、魔理沙。霊夢の手掛かりは見つかったかしら?」
「パチュリーに頼んだ。それだけだ」
魔理沙は霧がかかったような視界を一生懸命に開けて、頭を働かせる。ベッドから下りて、ぐっと背伸びをした。先ほどよりは幾分か気分が覚めたような気がした。
「魔理沙は朝、低血圧なのね」
「急に起こされて、頭がスグに働く奴なんていないだろう。いたとしても、霊夢ぐらいじゃないのか?」
「それもそうかもしれないわね」
紫は楽しそうにくすくすと笑っている。魔理沙は少し紫を睨んで、言葉を吐く。
「なあ、紫は本気で霊夢の事を探しているのか?」
それはここ最近魔理沙が感じている事だった。紫は唐突に魔理沙の前に現れては、一方的に話をして帰る。いつもの事だと言えばそれまでだが、今はお互いに協力している立場だから、紫の話も聞いて、自分の話も聞いてほしいと思うのだ。
魔理沙はじっと紫の顔を見る。
「どうなんだ?」
その言葉に紫の眉がぴくっと動いた。
「疑っているのね。そうね、じゃあ早速だけど本題に入るわね」
そう言うと、紫の顔から笑顔が消えた。
「まず、私は宴会を開き、有力な妖怪たちに声をかけた。霊夢を探してくれないかとね。当然、見返りと口止め料を渡して、よ」
なるほど、確かに紫からの依頼と言うと、かなりの大事だという感じはするし、足元を見て大金を吹っ掛ける輩もいそうだ、と魔理沙は思った。
「そしてそれにぴったりの妖怪が居た。最近、命蓮寺という寺が出来た事は知っているかしら?」
「ああ、知っている」
ここで魔理沙は何となく、話の筋が読めてきた。なるほど、あの連中に、人探しにぴったりの奴がいる。
「そこの、ナズーリンという妖怪に頼んだのよ。大金を吹っ掛けられたけど、信頼も出来るし、背に腹は代えられない。そこで彼女に霊夢の行方を依頼した」
そこまで言って、紫の表情は一層険しくなった。魔理沙はそれを見て、どうやら事は一筋縄ではいかなかったようだ、と感じ取った。
「そして昨日の夜、彼女に霊夢を探してもらった。けれど、彼女はこう言ったの。霊夢はいない。この幻想郷にはいないと」
「……はあ?」
「いないのよ、霊夢は」
「おいおい……本当か?」
紫が低い声でそうよ、言うと、魔理沙は目まいがしそうになった。まさか、霊夢がこの幻想郷に居ないなんて。
信じられなかった。まさか、もう小町や映姫の所へ行ってしまったのだろうか、と嫌な考えが頭をよぎった。魔理沙の目は紫をしっかりと捉えていたがその情報を混乱した頭は上手に視覚情報を処理できていなかった。まるで蜃気楼を見ているかのように、ただぼうっと目の前の景色を映しているだけだ。
紫は同じ調子で話を続ける。
「そこで私は、ナズーリンにこう頼んだ。霊夢の肉体を探してほしいと。しかし、ナズーリンは、肉体もないと言ったの。つまり、霊夢は能力によって、結界の外に居るか、姿を消しているかのどっちかなのよ」
「……」
魔理沙は言葉が出なかった。頭の中には、なぜ、どうしての二言が代わる代わる点滅している。
少し風が吹いて、カタカタと窓が揺れた。嫌な風だ、と魔理沙は思った。
魔理沙は改めて紫を部屋に招待した。紅魔館から貰った紅茶を紫に出して、キッチンの机に座った。外は相変わらず風が強かったが、よく晴れていた。
「つまり、このままだと霊夢は何者にも見つからない?」
魔理沙がそう言うと、その言葉に紫は目で答える。鋭い目をしている
見つからないのか、と魔理沙は感じた。
「結界の外にいるのならば、私が見つけ出す。あなたには幻想郷以外の場所を周って欲しい。私が思うに、姿を消した霊夢は、そのまま地下や天界、あるいは魔界、いづれにしても、幻想郷とは異なる世界へ移動したと思う。霊夢がどんなに強大な力を持っていても、所詮人間よ。何日間も飲まず食わずで能力を発言できるわけではないわ。そうなると、どこかに潜んでいる可能性は高い。それを見つけ出すのよ」
紫は丁寧に、冷たくそう言い放った。魔理沙は少し違和感を覚えた
霊夢の事を心配している、というよりはそれとは別の事に何かに焦っている、と言った様子だった。
まだ何か隠しているのか、と魔理沙は思う。
「面倒くさい事になりそうだな」
「まったく、よ」
紫が少しだけくたびれたように、顔を傾けた。紫は紫で何か苦労があるらしい。
「そうだな、そう言う事ならしょうがない。しかし、霊夢もどうしてそんなに隠れる必要があるんだ?」
「私が最後に話した時も、まったくそんな素振りを見せなかったけど……」
紫は視線を少しだけ上に向けて呟いた。ようは分からない、と言う事だろう。
「とにかく、私は色々な所に飛べばいいんだな。まるで異変みたいだ」
魔理沙はそう言って、異変を解決する巫女が異変を起こすなんてなあ、と小さな声で言った。
人間が魔界や地下に潜る事は珍しい。つまり、異変があったとその土地の者に教える事になる。それは、霊夢が居なくなった事を公開するということだった。
「魔理沙、この手紙をその土地の責任者に渡してちょうだい」
紫はそう言って何枚かの手紙を魔理沙に渡した。
「ばらすのか? 霊夢の事」
「こうなったら、徹底的にあぶり出してやるんだから」
紫が真面目な顔でそう言った。あぶり出す、という単語に魔理沙は顔をしかめた。紫の奴、幻想郷全土を焼き払うつもりなのか。いや、今の紫ならやりかねない。
「まさか幻想郷を焦土にして霊夢を晒すなんて事……」
「やあねえ、そんな野蛮な事はしないわよ。もっと楽しく、楽な方法よ」
紫はにっこりと顔をほころばせ魔理沙の方を向く。先ほどの真剣な表情から一転、まるで遠足の準備をしている子どものような笑顔をしていた。
紫もこんな顔をするんだな、と魔理沙は意外に思った。これはどこの物ともつかぬ紫の、ほんの一部だろうが、その欠片を自分に向けてくれた事が新鮮なのだろう、と魔理沙は考えた。
或いは、異変解決人として認められている事が嬉しかったのか。だとすれば、自分は単純かもしれないとも思う。
「なあに? そんな顔して」
「……私、変な顔をしていたか?」
「まるで養殖のキノコを見た、みたいな目をしていたわよ」
「いや、なんでも無いよ」
紫に全てを見透かされそうで、魔理沙はくるりと背中を向けた。後ろの方では、紫がにやにやしながら、ふうんとかなるほどねえ、等と話をしている。
「じゃあ、もう動き出した方がいいな。霊夢があまり遠くに行かないうちに」
「宜しく頼んだわ」
紫の声が魔理沙の耳に届くと同時に、紫の気配が消えた事を魔理沙は感じた。相変わらず自分勝手な奴だと魔理沙は思う。
扉に手をかけて、外へ出る。相変わらず風が吹き、太陽は地面の草木に光を浴びせている。こんな日は空を自由に飛びまわりたいところだが、あいにく用事は全て、この日の光が当たらない辛気臭い所ばかりである。
魔理沙は箒にまたがり、動き出す。まずは地底だろうか。紫に貰った手紙の中味も気になるが、なんだか中身は見てはいけない気がした。紫が直々に書いたものだと思うと、何となく見るのを躊躇われた。中身を見ると、戻れなくなるという気がする。まるでパンドラの箱のようだった。
そしてもう一つ思う所が魔理沙にはあった。重要な手紙の配達をわざわざ魔理沙に頼んだその理由。紫は魔理沙が信用に足る人物かどうかを見ているのではないだろうか。
魔理沙は紫の事を普段あまり信用はしていない。しかし、共通の目的があるもの同士ならば、紫はこちらの期待以上の仕事をしてくれるだろう。宴会の席でも、紫は自分の仕事を遂行していた。
それならば、霊夢探しで紫に与えられた仕事を自分もきっちりとこなすべきではないだろうか。
「……これは仕事だからな。きっちりやらないといけないか」
自分に言い聞かせるように、魔理沙は呟いた。
紫の事は、この件だけに関しては頼りにするべきだろう、というのが魔理沙のおおむね理解していた所だった。
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陽の光が当たらぬ暗い地底をいく。外のからりとした天気とは対照的に、地底は陰気臭い湿気が漂っていた。
地霊殿にはすんなりと通してくれた。途中、いくつか妨害があったが魔理沙はさっさと先に進んだ。
「古明地さとりはいるか?」
地霊殿の門前で声をあげる。魔理沙の声は少し建物に反響した後、暗い地面に吸い込まれるように消えていった。
「いったい何の用ですか? 私は眠いのですけど……」
本当に眠そうな声をあげて、さとりが地霊殿の扉を開ける。どうやらペット達も眠っているらしく、主であるさとりが直接出て来たらしい。
「眠っている時ですまん。八雲紫からの手紙を届けに来たんだ」
「八雲紫? 今回はいったい何をしでかしたのやら」
さとりは面倒くさそうに返事をする。魔理沙は鞄から丁寧に手紙を取り出し、さとりに手渡した。さとりは手紙を手にすると、乱暴に手紙の封を切った。
「雑だなあ」
「寝起きに、しかも八雲紫からの手紙をもらったのよ。さすがの私でも動揺しますよ」
さとりはそう言って、手紙に目を落とした。
「……あなたはこの手紙の内容を知っているのかしら?」
「私は知らない。本当だぜ」
「だから、あなたは何も考えずにこの手紙を私に渡したのですね」
さとりは魔理沙に向かって手紙をつきだした。白い紙に、黒字のインキで文字が書かれている。それを魔理沙はゆっくりと読み上げた
「え、ん、か、い、のお知らせ……?」
「忌み嫌われた地下の者たちを誘うなんて、とてもとても怪しいわね。あの紅白の巫女も居なくなったみたいだし」
「心を読んだな?」
「勘違いしないで。読めてしまうのよ」
「それにしても、また宴会を開くのか。何を考えているんだか」
「……」
難しそうな顔をして、さとりはその手紙を読んでいた。どうやら思う所があるようだった。
「霊夢の事、何か知らないか?」
一応、尋ねてみる。
「いいえ何も」
さとりからは素っ気ない答えが返ってきた。
「まあ、また見かけた時は連絡でもしてくれ。私はこの手紙を、幻想郷中に配らないといけないから」
「ええ、頑張って。私は眠たいから、二度寝をする」
さとりはそれだけを言って、魔理沙に背を向けた。
「それじゃあ、また」
魔理沙がそう声をかけると、さとりは背中越しに手を振り、重そうな扉を閉めた。
************************************
「あら、いらっしゃい」
永遠亭の八意永琳は魔理沙を快く迎え入れた。夜だったのに、だ。
「夜分遅くお邪魔するぜ」
「結構ですよ。ここは夜中でも患者を受け付けていますから」
永琳が兎にお茶の用意をするよう指示する。魔理沙はそれを丁寧に断って、さっさと手紙を渡した。
「用事はこれだけなんだ。」
「あら、八雲紫からの手紙だなんて、あの人もまどろっこしい事をするのね」
永琳は意外そうな表情をした。
「どうやら霊夢が居なくなったらしい。何か心当たりはないかい?」
「残念ながら、霊夢に関する情報は何も無いわ。ただ、そうね……もしも霊夢がここに運ばれてくるような事があれば、真っ先にあなたを呼びましょうか?」
「そうしてくれると、ありがたいな。でも霊夢の事だから、必死で止めるだろうけど」
「それでも、連絡しますよ。巫女が一人でふらりと歩いている状況なんて、ごく限られていますから」
「例えば?」
「異変です。その時に声をかけようものなら、こちらが排除されてしまいます」
永琳はそれだけを言って、押し黙った。
「言われてみればそうかもな。ありがとう、こんな時間に尋ねて申し訳なかった」
「いえいえ、御苦労さまです」
魔理沙がくるりと永琳に背中を向ける。その時、魔理沙はついでに薬を頼んでおこうかと思った。ちょうど薬を切らしていたのだ。
「ああ、今思いだしたんだけど、薬を切らしたから……」
くるりと振り返って、魔理沙は言葉を失った。振り向いたときに目に飛び込んできた永林の目が、ひどく悲しそうな色をしていたのだ。永琳は急に魔理沙に声をかけられ、驚いたように身体を震わせた。
今の目は、一体なんだ。
「ええ、お薬ですね。明日とりに来てもらえれば大丈夫です」
永琳は瞬時に表情を切り替えた。先ほどの憂いのある黒い瞳もどこか遠くの方へ逃げてしまった。
「何か隠しているな? 霊夢に関係する事か?」
「だから私は何も知らないと」
逃げようとする永琳の腕をつかもうとした。その時、廊下の向こう側から声がした。
「待ちなさい、魔理沙」
廊下の奥から、美しい黒髪を揺らし、輝夜が歩いてきた。相変わらず、何を考えているのかよくわからない顔をしていた。輝夜の美しい顔は、人間にはミステリアスすぎて、不安をかきたてる。
「なんだよ、輝夜」
「魔理沙、今一度尋ねるわ。あなたは本当に、心の底から、霊夢を心配しているの?」
輝夜の黒く深い瞳が魔理沙を捉えて離さなかった。
ああ、私は試されているんだ、と魔理沙は感じた。
今の輝夜は、まごうことなき、月の姫だった。
「あたりまえだろ。そうでなきゃ、紫の頼みなんて引き受けないし、依頼されない」
吸い込まれるような輝夜の雰囲気に、魔理沙は必死で食らいついた。目をそらさず、じいっと輝夜を見つめる。ここで逃げては、全てが台無しになると、魔理沙は直感的に思った。
重苦しい沈黙の後、輝夜が意を決したように話し始めた。
「いいわ、あなたを信頼して、話してあげるわ。霊夢は、三日前に、ここを訪れたわ」
「……!」
きた、と魔理沙は思った。こうなる事を予想して、紫は自分に永遠亭を訪れる様に仕向けたのだろうか、と魔理沙は考えた。それは、八雲紫ならば十分にあり得る話だと思う。
「霊夢は一年前に、永遠亭にいくつかの薬を注文し、三日前に取りに来たの。その目的は全く分からないし、この事を知っているのも、永琳と私以外にはいない。誰にも言わないように封印の結界まで張られたわ。なぜか今になって、その封印が解かれたのだけど」
「薬って? 何の薬なんだ?」
「怪我によく効く薬。飲めばたちまち、どんな怪我でも治るとても高級な薬よ。霊夢は全財産をはたいて、その薬を買った。その時の霊夢は、少し疲れていて、薬を受け取るとすぐにここを出ていったわ。そして気配を断った」
輝夜はご飯粒を一粒ずつ拾い上げる様に、ゆっくりと話す。魔理沙は輝夜の言葉を一つも聞き逃さないように、集中して話を聞いていた。メモを取りたかったが、こうした大事な話ほど、頭の中だけに留めておくべきだと魔理沙は思った。
「私たちが知っているのは、それぐらいよ。けれど、注意しなさい、魔理沙。霊夢は何かをしようとしている。それはきっと、後ろめたい事に違いないわ。ここから先は、忠告よ。魔理沙、決して、霊夢を見捨てないでちょうだい。霊夢が何をしようと、あなたはそれを一身に受けなくていけない。今の霊夢は、孤独だから」
「なぜ、そう言い切れる?」
「表情がね、そっくりだったのよ。月から逃げていた時の、私たちに」
「どうして、私にそれを話したんだ?」
「魔理沙に、覚悟してもらうためよ。これから先、霊夢を追いかけようとするならば、あなたには様々な困難が待ち受ける。そのどれもが、あなたの身体を引き裂くような痛みを伴うの。だから、魔理沙。あなたには、その痛みを受け入れる覚悟があるのかと聞いている」
輝夜の真剣な口調に、魔理沙は嫌な汗をかいた。どうやら、自分の知らない所で、霊夢という存在は、台風のような存在に変わりつつあるらしいと思った。
魔理沙は数秒躊躇って、自分の考えを口にした。
「……正直な話をするとだな、私は霊夢の抱えている物が一体どれほどの物なのか全く分からない。けれど、私はきっと、私が納得する方法で、この問題を解決すると思う。何の答も出さないまま、行動する事は決してない」
魔理沙はまっすぐに前を向いてそう言った。輝夜は納得したように、少し目を伏せて、笑った。
「そう、ならば期待しているわ。あなたがどんな答えを出すのか、私たちは楽しみにしているから」
輝夜はそれだけを言って、背中を向けた。隣の永琳は無表情のまま、ではこれで、と言って扉を閉めた。
魔理沙は複雑な気持ちのまま、空へと昇る。
この事を紫に話すべきだろうか。
しかし、魔理沙はなぜか、紫に話すことに抵抗を覚えた。それは、自分が紫の事をまだ完全には信頼していない証拠かもしれないな、とも思う。
その判断は、お酒を飲まない事に匹敵するほどに、難しい事に思えた。
輝夜は私が本気で霊夢を心配しているからこそ、話してくれた。
いや違う。
彼女はこの事件の結末を、魔理沙の行く末を見守っているような雰囲気があった。いったい輝夜は何を知っているのだろうか。
たぶん、この事実を紫に打ち明けるかどうかという事から、すでに運命の歯車が回っているのだろう。
「……コインに決めてもらおう」
魔理沙はポケットからコインを取り出す。
それならば、私の行く末を神にゆだねよう。代わりに、何かあった時は、神に助けてもらおう。
表が出れば、紫に相談。裏が出れば、紫には秘密だ。
その時、魔理沙は少しだけ笑っていたような気がした。
指でコインを弾く。
運命のコインが、空高く舞い上がった。
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神社へ戻ると、紫から二人で飲まないか、というお誘いを受けた。断る理由も無かったので、魔理沙はそれを受け入れた。
案内された客間は十畳はあろうかと言う和室だった。部屋の真ん中に美しい彫が刻んである縦長の座卓が置いてあり、それ以外の家具は何も無い。
「魔理沙、お疲れ様。今日はゆっくりしていくといいわ」
紫は客間に魔理沙を案内し、側に立っていた藍にいくつか命令をした。
魔理沙は興味深そうに辺りを見回していた。ここが八雲紫の住居なのだろうか、と考えつつ目を凝らす。自然と高価そうな壺や掛け軸に自分の視線が行くのを感じて、魔理沙は少し目を伏せた。
嫌な癖がついてしまった、と思う。
「さあ、そこに座ってちょうだい。今日は私のおごりだから、遠慮なく飲んでいいわよ」
紫は魔理沙のちょうど反対側に座り、お猪口に日本酒を注いだ。魔理沙も勧められた席に座り、紫からのお酒を手にする。
「こんな待遇は初めてだ。なんか緊張するな」
「私も魔理沙を招待する日が来るなんて、ちっとも思っていなかったわよ」
紫が日本酒を掲げる。魔理沙もそれに合わせて、そっとお猪口を持った。
「珍しい二人組に、乾杯」
「乾杯」
魔理沙はくっと酒を喉に流し込んだ。疲れた身体に染み渡る様に酒が喉を熱くする。そのくせ、さっぱりとした後味が口の中に広がった。
「美味しい。いい日本酒だ。本当にこれ、飲んで良かったのか?」
「いいわよ。お酒は飲むためにあるのだから」
失礼します、とふすまを開けて藍が入ってきた。透明な皿に盛られた、色鮮やかなサラダが運ばれてくる。
「霊夢もここで、こんな食事をした事があるのか?」
魔理沙は気になって、紫に尋ねてみた。
「何回か誘った事はあるわ。でもふられてばかりだった」
「ふうん。こんな美味しいお酒が飲めるのに、もったいないな」
「霊夢は案外、意地っ張りなのよ」
「ああ、分かる気がするぜ」
次々と運ばれてくる食事に舌鼓を打ちつつ、魔理沙は紫と様々な話をした。酒が入って気分が良くなったおかげだろうか、お互いの些細な事をゆっくりと話す事が出来た。
「この前、藍と一緒に買い物に出かけたの。そしたら子どもに、おばさんなんて言われて、危うくスキマに放り込みそうになったわ」
「おいおい、冗談でも、そう言う事を言うのはまずいと思うんだが」
「頭に血が上ったのと同時に、その時の藍の顔が、青ざめていたのをよく覚えているわ」
「藍は大変だな。というか、そう言う事を気にするんだな、紫は」
「これでも一応、女の子ですから」
「女の子、はちょっときつい」
「何よ?」
「何が?」
しばらく二人で睨みあった後、魔理沙はあはは、と笑った。紫もそれにつられて目を細めくすくすと微笑んだ。
「さてと……明後日の宴会の話なんだけど」
魔理沙はひとしきり場が和んだ所で、本題へと移った。紫もどこか、その話をする事を前提にしていたように、魔理沙のその質問に表情が変わる。最近になって、魔理沙には紫のちょっとした表情の変化が分かるようになってきた。今まで、紫は何を考えているか分からないと思っていた魔理沙にとって、その事実は意外に感情の起伏がある妖怪だと言う事を証明している。
もしかしたら、紫は私たち人間にずっと近い妖怪なのかもしれない。少なくともパチュリーよりは近いだろう、と魔理沙は思う。
「霊夢が幻想郷、つまりこの地上に居ない事は話したわね。霊夢が居なくなってから一週間が経ち、霊夢は相変わらず気配を断っている。これはもう、どこかの誰かがかくまっているとしか考えられないわ。その期間は不明だけど、少なくとも、今、この瞬間も霊夢は誰かにかくまわれている。相手が何を考え霊夢をかくまっているかは、今、重要ではないわ。そこで私は明後日の宴会にその土地の支配者を誘う事で、霊夢を孤立させる。彼女たちも馬鹿ではない。私が霊夢を探している事は手紙に書いてあり、もう周知の事実。そこで宴会に出席する事の意義が生まれる」
「つまり、この宴会は踏み絵みたいなものなのか?」
紫は得意げな顔をして、正解、と言った。
「霊夢の居場所を知らない者は、この宴会に出席せよ。私はその意味を込めて、この手紙を魔理沙に頼んだのよ。本来なら藍に任せる仕事だけど、藍は結界の管理に手を焼いているから、使い物にならなくて」
静かに紫の話を聞き、魔理沙は自分の頭の中で紫の言葉を繰り返していた。
なるほど、確かに霊夢が失踪した事を公開することで手紙をもらった者たちにはある程度のプレッシャーがかかっている。
八雲紫からの、霊夢の居場所を吐きだせ、という無言のプレッシャーが。
「ねえ、魔理沙。あなた、何か有力な情報を貰わなかった?」
「ないな。私が行った二つは、霊夢の姿を見ていないと言っていた」
魔理沙は嘘をついた。コインが裏を向いたからだ。
例え紫にばれたとしても、魔理沙が永遠亭での出来事を隠している、という魔理沙の姿勢が大事だと思ったからだ。
幸い、紫は何も気にせず、そう、とがっかりした表情を浮かべただけだった。
「宴会には、私も出席するべきか?」
話題を変える。
「あなたは、宴会に出席しなかった者たちの所へ飛んでもらいたい。ついでに、参加者からの情報も私が送るから、それを元に霊夢を全力で探してほしい」
「もし神経のずぶとい奴が居て、霊夢の件についてさらりと嘘をついたらどうするんだ?」
「なんとかして、尻尾をつかむわよ。これでも、数千年生きてきたの。心理戦は割と得意なのよ」
「そりゃあ頼もしい」
魔理沙は苦笑いを浮かべた。弾幕戦ならまだしも、口での交渉は紫に敵わないだろう。
「しかしあの霊夢が他人の力、まして、妖怪たちの保護下に入るかな?」
魔理沙には分からなかった。あの霊夢が自分のプライドをねじ曲げてまで、誰かの保護下に置かれる状況。そんな状況など、あり得るのだろうか。
「たとえば、弾幕戦や巫女の力でも、どうしようもない事象が自分の身に迫ってきているとしたら、或いはあり得るかもしれない」
紫からの返答に、魔理沙はああ、と納得した。
「死、かな。死は逃げられない」
「そして、それをもたらす者や事象が自分の身の丈につり合ったもので無いとすれば、さすがの霊夢も……」
お猪口を持つ手が止まった。外からは虫が夜の寂しさを紛らわすように引っ切り無し鳴いている。
死をもたらす者とは一体、誰だろうか。
死をもたらす事象とは一体、何だろうか。
「……嫌な話になったわね。でも今は、霊夢を信じて探すしかない。結界が耐えうる時間までには何とかして見つけないと」
紫はバツが悪そうな顔をして酒を口に含んだ。その時の鋭い目つきが、魔理沙の胸をどきりとさせる。
「結界は、そんなに深刻な物なのか?」
「元々博麗の巫女ありきの物だから。霊夢は特に、守り人であると同時に管理者でもあった。あの子は神社に居るだけで、結界に悪影響を及ぼす因子の中和をしてくれていたのよ。人間でいえば、肝臓に当たるかしら。とにかく、そこに居るだけで様々な影響を与えていたの」
「それが無くなって、結界はぜい弱な物になっている」
「そうね。そんなところ」
紫の視線が自然に机に落ちる。その表情からは、本気で霊夢を心配している様子が分かった。
意外と言えば意外だった。今までは全てを知っているかのように、余裕の立振る舞いをしていた紫が、今回の件ではまるでしなびた青菜のように、溜め息をついていたからだ。それに、異変解決について、一つたりとも有益な情報を掴んでいないのも珍しい。
「いつもの余裕たっぷり、不敵な笑みを湛えて登場する紫さんは、今日は風邪でも引いて引きこもっているのかい?」
魔理沙が意地悪そうにそう言うと、紫は顔をあげ、曇った笑顔を浮かべた。
「まあそんなところよ」
「おいおい……」
張り合いが無い、とはこのことだ。
魔理沙はトイレへ行く、と言って席を立つ。外へ出ると、涼しい風が魔理沙の体温を奪う。少しだけ身震いした。
トイレから戻る時に、藍に出会った。藍はいつもの格好をしていた。だがその顔は少し疲れているように見えた。
相変わらず、柔らかそうな尻尾だ、と魔理沙が思っていると、不意に声をかけられた。
「魔理沙、どうか紫様を助けてやってくれ」
「手助けするのはお前の役目じゃないのか?」
「私は紫様の手助けにはならない。私は機械のようなものだから、紫様の指示なしでは何もできない。つまり、ただの道具だ。けれど魔理沙は、この案件の要、紫様の足りない部分を補う存在なんだ」
「そんな大げさな……」
「大げさではないよ。ここ最近の紫様は、だいぶ参っていたんだ。とてもじゃないが、見ていられないご様子だった。それが今日は幾分か気分がいい。それは魔理沙、あなたがいるから。気が付いていないかもしれないけど、紫様は魔理沙の事を相当信頼している。私が言うから間違いない」
「その信頼は、どのくらいなんだ?」
「そうだね、もし今の魔理沙の仕事を私が引き受ける事になると、私は胃に穴があいてしまい、自慢の尻尾には十円玉ほどのはげが出来てしまう」
凄い事なのか、そうでないのかよくわからない例えだったが、ほめたたえる様に話す藍に、魔理沙は少し気恥ずかしくなった。今までは誰かに頼りにされる事など無かったし、誰かを頼りにすることも無かったからだ。
「ほめすぎだよ」
少しだけ強がりを言って、魔理沙は藍の横を通り過ぎる。部屋に入ると、顔を火照らした紫がそこにいた。
「ちょっと、遅かったじゃない。どこに行ってたのよお」
「……もしかして、酔っ払いか」
紫は力なく笑う。いつもの苛立ちを覚える笑みではなく、純粋に笑っていた。
紫でも、こんな表情を見せるのだな、と思う。
「寂しかったわよ、魔理沙」
「だらしない事言うなよ」
魔理沙は目の前の妖怪をじっと見つめる。今まで紫に持っていた妖怪独特の妖しい雰囲気は微塵もなく、代わりに人間らしい小さな不安というものを感じ取れた。
勘違いかもしれないけれど、紫はもともと人間だったのかもしれないな、と魔理沙は思った。
「魔理沙、さあ今日はとことん飲むわよ」
まるで、何年ぶりに帰ってきた友人を迎えるかのような紫の態度が、魔理沙には少し気恥ずかしく、そしてちょっぴり嬉しかった。
************************************
宴会当日。欠席したのはごく少数だった。
地霊殿の主、古明地さとり。彼女は地獄の怨霊の管理を理由に欠席した。同じく永遠亭の主、八意永琳も病院を空ける事は出来ないと言う理由で欠席した。
「この二人は筋が通っている。何も怪しい所は無い気がする」
「けど、怪しい。行って」
意外に紫は頑固だった。
「というわけだ。さあ、霊夢を出してくれ」
再び地霊殿。いい加減、ここの景色も飽きてきた、と魔理沙は感じた。地霊殿の中に案内され、広い部屋に出た。真ん中に大きな縦長の、白い机があり、その周りに椅子が何個か置いてある。
「……」
その椅子の一つに座っていた古明地さとりはとても深いため息を、思い切り吐いた。実にわざとらしかった。
「おいおい、こっちは真剣に話しているんだよ、さとりさん」
「そんなわざとらしい言葉には、わざとらしい言葉と仕草で十分です」
まあそうかもしれないけどさ、と魔理沙は思った。そして、この言葉もさとりに聴かれていると思うと、何だか歯がゆい気持ちがした。
「だめだ、お前とはまともに会話が出来ない」
「何を今さら」
さとりは面倒くさそうに魔理沙の相手をしていた。
「あなたは私を疑ってはいないのですね」
「疑うも何も、霊夢はこんなところに居ないよ」
「なぜ、分かるのですか?」
「これでも長い付き合いなんだ。きっと霊夢は過去にここにいたかもしれない。でも少なくとも、今はいない」
さとりは何となく納得したような表情になった。
「それだけ分かっていながら、なぜあなたはここにきているのですか?」
「それは……」
魔理沙が言いよどむ。さとりはじいっと目を細め、魔理沙を見つめていた。
「あなたは八雲紫を信用している。けれど、完全ではない」
「なんで口に出すんだよ。だから嫌われるんだ」
「貯め込んだ感情は、すぐに吐き出す方がいいので。感情は、貯め込みすぎると自分を殺してしまいますから」
さとりは座って下さいと言って、開いている席を指す。魔理沙はさとりの真正面に座って、本題へと話を移した。
「さっきも言ったように、私の考えでは霊夢はここには居ない。けれど、もし、ここに来ていたのなら、霊夢についての情報が欲しい」
「何もお答えするようなことはありません」
さとりは淡々と、落ち葉をかき集めるような素っ気ない返答をした。
「本当に、無いのか?」
「私は知りません」
さとりは頑なだった。この自信は一体どこからやってくるのだろうか。私にも少し分けてほしいぐらいだ、と魔理沙は思う。
すると、魔理沙の腰につけていた通信機が音を鳴らした。魔理沙は急いで通信機にのスイッチを入れる。
「パチュリーか。久しぶりだな」
相手はパチュリーだった。ここ最近、紫の家に入り浸っていたおかげで、パチュリーと連絡が取れていなかったため、その声が随分懐かしく感じた。
「魔法がようやく完成したわ。随分てこずったけど、出来は相当良いわよ」
「本当か。それで、今、霊夢はどこに居るんだ?」
魔理沙が興奮気味に聞くと、パチュリーは落ち着きなさい、と冷静に応えた。
「まず、霊夢は自分の能力を使って、何物にも干渉できないように動いているわ。だから、そうやって動いている間はこの魔法でも全く読み取れない。けれど、霊夢がその能力を解除した時は、この魔法で感知できる。そしてこの魔法の便利な所は、この持ち主の過去に行った場所を特定できることにある。それは術者の技術と提出された手掛かりで範囲が決まるんだけど、今回は、一日前ぐらいの軌跡をたどる事が出来るわ。私がもっと、この魔法を使いこなせたら一週間ぐらいまでさかのぼれるんだけど」
パチュリーは少し間を空けた。
「さて……今から二十時間前に、霊夢は能力を解いた。そして一時間ばかりでまた姿を消した。さすがよね、一時間ほどの休憩でまた一日以上、能力を使い続けているんだから。そして、その一時間ほどのあいだ、霊夢がいた場所は……」
「どこなんだ、それは?」
魔理沙は手に汗握って、パチュリーの言葉を聞きもらすまいとしていた。
次の瞬間、パチュリーから告げられた場所は魔理沙にとってあまり良くない冗談に聞こえた。
「……」
さとりも何も言わなかった。
「そうか……ありがとう」
静かにスイッチを押した。魔理沙は、気持ちを落ち着けるように、上を向いてほうっと息を吐いた。
さとりが席から立った。
「どうぞ、後はお好きにしてください」
そう言って、さとりは部屋を出ていった。広い部屋には魔理沙だけが残された。
「いやあ……参ったなあ。紫には何て言おうか……」
魔理沙は力なく笑う。景色がぼんやりと滲んだ。
「三途の川なんて、随分遠いところに行っちまったな、霊夢」
ぽろりと独り言を呟く。それは地底の濁った空気に一瞬で溶けてしまった。
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