八軒目ともなると、流石の古明地こいしにも落胆の感情が芽生えるらしい。
骨みたいに細い、ボディスーツみたいな服装の男の声を背に店をでると、こいしは大きく「伸び」して、そのまま溜息をついた。
「はぁぁあぁぁ、ダメだった……」
「だから言ったでしょう、この街で帽子を探すなんて無理なんだって」
「え〜、なんでさー、帽子かわいいじゃ〜ん」
腕をダラダラ垂らしながらぶうぶうと文句を言うこいしの頭には、彼女お気に入りの黄色いリボンの帽子が居座っている。
新しい帽子が欲しいとなんの前触れも無く言い出したのは、今朝のことだった。 いきなり私の家に飛び込んでくるなり「帽子!帽子!帽子!」と訳の分からないテンションで帽子を探しにいくんだと捲くし立てられ、気がつけば旧都の中で、簡素な衣服に囲まれていた。
もっとも、それもどうせ不意の思いつきなのだろう、昨日は姐さんと一緒、一昨日はヤマメ達と一緒。この子の行動はそこら辺にうずくまっている野良猫よりも気まぐれだ。
「こいし、ちょっと考えて見なさい」
私はこいしの帽子を摘んで、指先でまわした。
「ここに住んでるのは鬼ばっかりよ? 想像してみましょうか、姐さんにこの帽子を被せたらどうなる?」
「うーん……頭に入らない?」
「それは流石に姐さんに失礼でしょ、そうじゃなくて」
「あ、穴開いちゃうね」
「そういうこと」
旧都に帽子は出回らない。それはこの街の住人の殆どが鬼の種族であるからだ。私の指先で規則正しい回転を続ける帽子を彼らの頭に乗せてしまえば、その頭に雄雄しく聳え立つ角に貫かれ、見るも無残な姿を晒すことになるだろう。
「わぁーん! 私の帽子が死んじゃったよー!」
「わ、悪かったよこいし、あー、これ、どうしたらいいんだい……」
きっとこんな感じ。
泣き喚くこいしと、どうしたらいいか分からなくてあたふたする鬼の四天王の姿が容易に想像できた。
「だから諦めなさい、どうしても欲しいっていうんだったら」私はこいしの頭に帽子を押し付けた。「地上でもどこでも行ってらっしゃい。今、上がどうだかなんて分からないけど、此処よりはマシ、でしょ?」
「ん……」こいしは両手で帽子を被り直した。「そうかも」
色素の薄い髪を黒の帽子から覗かせながら、こいしはつばを跳ね上げた。いつも落ち着きが無くて姉から心配されっぱなしの子だけれど、こうして帽子が様になる姿はどこか落ち着きを感じさせる。
……そっか。
さとりの奴は帽子が無いからあんなに幼く見えるのか。
唐突に積年の疑問が解けてしまった。よし、今度シルクハットでも被せてみよう。きっと大樽に飲み込まれるみたいになるに違いない……
ん? それってさとりは顔も小さいって事だろうか?
おっと、またひとつ、新たな妬みポイントが出来てしまったわ。
「小さな顔が妬ましい」今度はこれでいこう、うん。
私は握りこぶしを作った。
「──よしっ」
「きしょい」
スパァンッ
「でも、いいの?」
こいしは帽子の中に何かを隠しながら、こちらを見上げた。
はて、何かを考えていたような気がしていたけれど……思い出せないのならそれほど重要なことでもないのだろう。無意識というやつだ。
「私をいつも地上に行かせちゃってさ。お姉ちゃんに言われてるんじゃないの? 私を引き止めなさいって」
「ああ、そんなこと」
縦穴の番人である私の、ほぼ唯一の仕事。それが古明地こいしのお出かけ阻止だった。とはいってもそんなものはさとりの独断であり、命令の形を模したわがままだ。私の気が乗らなければ従う必要なんて全く無い。
「あんたは気にしなくていいのよこいし、さとりの奴が過保護すぎるだけなんだから……ま、どうせ無意識状態の奴を止めるなんてこと、私には出来ないし、あんたは自分の好きなようにすればいいわ」
「そう? じゃあ、遠慮なく」
えへへ、いつも悪いね旦那ぁ、なんてニタニタとふざけながら、こいしはくるりと身を翻した。
抜き足、差し足、忍び足。両手を添えて、爪先立ちで、辺りを窺いながらその場を去ろうとする姿は、コソ泥のそれだった。
……そのうしろ姿だけで分かる。
古明地こいしは「今」が楽しくて仕方が無いのだろう。
封じられた地である旧都と、光に満ちた地上。ふたつの世界を渡り歩きながら、変化の無い毎日に、変化を求め続ける。ただひたすらに、「今」の楽しさをずっと続けたくて、じっとしていられない。
さとりが心配するのも、少しは理解できるつもりだ。
こうして毎日毎日同じようなことを続けていると、不意にそれが壊れることが恐ろしくなることがある。
日常の変化。
それはいいことばかりじゃないって、私達は知っている。
「ああぁぁーーっ!!」
と、数メートル行った所で、こいしは何もつけていない腕を見ると、唐突に叫んだ。そうしてまた、軸足を基点にくるりと身体を回転させて、
「忘れてたっ、今日は──」言うが早く、帽子を片手で押さえながら、私の方へ走ってくる。
「どうしたの、忘れ物でもした?」
「違うよ! 今日は友達と大事な約束があったの忘れてたっ!……あぁもう、家に帰ってる暇なんかないや、街の方で……」
お願いだから待っててよー!と、土埃を舞い上がらせながら、声はどんどん遠ざかっていく。後にはいつもよりも人通りの少ない、旧都の通りだけがあった。
「友達……ね」
自分でもよく分からない息が漏れる。さとりがこの場にいればその正体を勝手に口走っていただろうけど、最近あいつは地霊殿に引きこもっていた。
「──こいしの無意識の先に何かがあるような気がした、か」
まったく……さとりの心配性が移ってしまったみたいだ。
ま、いいか。偶にはこんな日があっても。
「……やれやれ」
私は一度頭を押さえて、その背中を追った。
〜Iは望む/街と家族とお姉ちゃん〜
1
どうやって建造されたのかも分からないほどの異常な高さを誇る建造物、旧都タワー。以前は旧都塔なんてきちんとした日本語の名前があったが、その余りの呼びにくさに横文字交じりの改名を余儀無くされたのは旧都に住む人々の記憶に新しい。先端に取り付けられた風車は旧都の天辺で年中回り続けている。二百尺だなんてふざけた寸法を聞いたのは初めてだった。
旧都の名を冠するのは伊達ではなく、旧都の中心であるこの場所の周りには、数百人にも及ぶだろう、地底の住人達がひしめきあっていた。皆一様に落ち着かない様子で、病的なまでな興奮状態に近い者もちらほらと見かける。
どうあれ、こんな大衆はどうにも苦手だ。
少し離れた場所からその中心の様子を窺うと、針の山の様になっている光景の先に、小さな茶色の箱が見えた。どうやら皆の視線はそれに向けられているらしい。
「あれ? 追いかけてきたんだ」
跳ね回るような声は、上から降ってきた。
「こいし、これって……ってあれ? 姐さん?」
声のしたほうを見ても、こいしの姿は無い。代わりにあの子よりもずっと大きな体躯が立ちふさがっていた。
「こっちこっち」そしてその上で、つまりは勇儀に肩車される形で、こいしは手を振っていた。身体の大きさの差からだろうか、その光景はまさに子供を肩車して歩く父親のようだった。そんなこと言うと勇儀は怒るから、言わないけど。
「なんの集まりなのよ、これは」
「おや、知らないのかい? ……とは言っても、私も最近知ったんだけどね。こいしが地上から拝借してきたんだってさ。名前は確か……ロデオ?」
「ラ・ジ・オ! 何回も言ったじゃん。大体、盗んだんじゃないもん。落ちてたんだもん」こいしが勇儀の角をペチペチと叩いた。
「あぁそうだったそうだった。ともかくそのらじおってのはこれがまた面白くてね。こうして皆で聴きに集まって来てるって訳さ」
話しによればそのラジオとかいうものは地上で作られたものらしい。仕組みは分からないが、地上と連絡を取ることも可能なんだとか。『からくり』とも違う『機械』のたぐいなんだとか。その違いも意味も私にはよく分からないけれど。
あんな小さな物の中に大きな意味がある。それだけはわかった。
「にしたってそんなもの、よくあのチビ閻魔が許可したわね。上との繋がりができるものなんてマズイんじゃないの?」
「それはもちろん」二人は顔を見合わせると指を立てて、声を揃えた。
「「ひ・み・つ」」
「……そんなことだろうと思ったわ」
どうでもいいけれど、勇儀がウインクまでして「ひみつ」と囁くのは、恐ろしいほど似合わなかった。
そんなこんなで勇儀とこいしと話していて、そろそろ首が疲れてきた頃、ラジオから砂を踏み鳴らすような音がし始めた。同時にあれだけ賑やかだった連中がピタリと静まる。
変な緊張感がある。空気に飲まれそうになる心を、なんとか引きとめる。
唾を喉に通す音すら躊躇われた。
「パルスィ」
勇儀は指先で軽く私の肩を叩いた。
「なに、姐さん」
「アンタ、初めてだろ。なら耳を塞いでおきな」
「それってどういう……」
とりあえず、言われたとおりに耳を両手で塞いでみる。
──でもきっと、言われなくてもそうしていた。
ラジオは遠く離れた場所から音声を伝える物だと、こいしと勇儀は言っていた。
自分もよく理解していない風だったけれど、電波がどうとか。
でも、そんなことは関係なかった。
地震。
最初、本気でそう思った。
「──みんなぁ、おはこんばんちわならー!」
「ウオオォォォォオォォォォ!!」
「……ンドール・スカーレットがみんなに送る」
「フラァァァンン、ちゃぁぁぁぁぁんッ!!」
「……今日も元気120パーセントで──」
「イェヤァァァァァアァァァァァ!」
……うっさい。
やかましい。
ただただ、そう思った。
「……なんだったのかしら」
疲れた。
結局、約三十分の時間を叫びっぱなしのまま、放送は終わってしまった。
ラジオの先でその『フランちゃん』と言う名の子が何を話していたかなんてことは半分も聞き取れなかった。旧都の皆は本当にこのラジオの内容を理解しているのだろうかと考えたが、聞くのもなんだか馬鹿らしい。
単純に騒ぐ理由が欲しい。そう解釈しておくことにする。
「楽しかったね!」
皆がそれぞれ叫び疲れている中、こいしだけは変わらず元気な姿のままだった。途中、雄たけびをあげた勇儀に景気良く投げ飛ばされていた気もするが。更に言えば、うごめく大衆の上を胴上げされて回っていたような気もする。こいしの体力は底なしだ。
「え、ええ……そうね」
叫んでもいないのに、私は人一倍疲れたと言い切れる。
早く帰って、薄いベットで眠りたかった。
「いやぁ〜、今日も楽しかった」
……もう一人、元気な奴がいた。
タオルで汗を拭きながらやってきた勇儀。こいしの姿を見つけると「悪かったねえ」と、悪びれた様子も無く言う。慣れっこらしく、こいしも全く気にせずにその太腕に飛びついた。
「あんたら、いっつもこんなことしてるの?」
「ああそうさ。パルスィ、あんた気付いてなかったのかい?」
「私、基本的にこの時間寝てるか縦穴にいるかだから」
それでももしかしたら、私の耳にもこの地鳴りは届いていたのかもしれない。私が他の事に集中していたか何かの理由で気がつかなかっただけで、それはきっと幸運なことだ。もしそうだとしたら、今度からは時間になったら窓を閉め切ろう。
よし、決心した。
「不思議なもんねぇ」
「ふぇ、なにが?」
しばらくすると集まった奴らはゾロゾロと散っていった。そうして残された、土気色のラジオ。手にとって見ると両手に収まるほどの大きさだ。本当に小さい。こんなものから声がしていたのが、今でも信じられなかった。
「これ、どうなってるの?」
「さぁ」
私に分かるわけ無いじゃんと、こいしは当然のように言う。
「でもさ、これがどうやって動いてるかなんて、どうでもいいじゃない? みんなこれで喜んでくれてるしさ。それに、フランもこうしていっぱいの人に聞いてもらったほうが嬉しいと思うし」
「ほんと、あんたはいっつもお気楽ね」
「楽しいことが嫌いな奴なんかいないよ。無意識むいしき」
「そんなものかしらね」ポツリと言う私から、こいしはラジオを取り上げた。
そうして、くるくるステップを踏んで、
「みんなが楽しけりゃ私も楽しい。私が笑ってたらみんな笑ってくれる。きっとそれだけでいいんだよ。難しいことなんか、なんにも無い……よっ」
『それ』を真上に放り投げた。
「ちょ──」
小石の様に飛び上がったラジオはあっというまに小さくなっていく。
私は反射的に、こいしのところへ駆け寄った。
「っと。壊したりしないよ。大事な物だもん」
「……ったく、あんたは」
危なげも無くそれをキャッチしたこいしは、ラジオを元の位置に戻して、「きひひ」また小動物のように笑う。
まったく、これじゃ焦った私が馬鹿みたいだ。
「そんなことばっかりしてると何時か、手が滑って壊すわよ」
「だいじょーぶだよ」
ラジオから伸びたアンテナ、とかいうものを弄りながら、そんな事を言う。根拠も確信も、きっとないだろうに。
「だって、もし手が滑っても、お姉ちゃん達が受け止めてくれるでしょ?」
「さとりが、ねぇ……無理じゃない? お手玉して落っことすわよ、あいつ」
「ハハ、お姉ちゃんのことになるとほんと、言葉に容赦なくなるよね」
「まぁね、それなりに付き合い長いから」
「そっか……」こいしは足元を蹴った。砂埃が舞って、その身体を薄く覆い隠した。「なら、さ、教えてよ」
こいしの言葉は風船みたいに軽くて、その中に何が込められているのか、読み取ることが難しすぎる。
「お姉ちゃんって、どうやったら笑ってくれるんだろ」
その疑問は、どこまでも単純に思えた。
「私が出かける時も帰ってきたときも、お姉ちゃんったら心配そうにするばっかりで、怒りもしないし、笑ってもくれないんだ。……もちろん、いつも笑ってくれないって訳じゃないけどね」
「なら、いいんじゃないの? 楽しいことばっかりじゃないわよ。生きてたら」
「そうだけど……でも、だからかな」
いつもの笑顔。
でも、どこか無理しているような、そんな色が混ざっていた気がした。
しかしすぐに、トトト、と私の近くに跳ねてきて、そんな表情も帽子に隠されてしまう。
なんだかそんなこいしを見ていられなくて、つい、目線が上を向いた。
「私はみんなにずっと笑ってて欲しいって、そう思うよ」
次に気がついたとき、そこには誰もいなかった。つい数分前まで活気に溢れていた場所が、酷く閑散としている。まるで最初から誰もいなかったみたいに、私はひとりで立ち尽くしていた。
誰の声も伝えなくなったラジオだけが、目の前にあった。
誰も聞いていない、街中の空洞。
耳がおかしなほど熱かった。
無意識に右手で頭を押さえて、前髪をなぞった。
皆が笑っている世界。
こいしの求めている物は理想を行き過ぎて、そんなものは妄想や幻想の領域だ。子供が抱く天国のような世界をこの地獄に求めたところで、そんなものはあるはずが無いし、どんなに求めてももう、届かない。
みんな仲良くなんて甘い考えはきっと、幼さと一緒に捨ててしまうものだから。
こいしの欲しいものは絶対に存在しない。
でも、その考えは多分間違っていない。
誰かを笑顔にして、自分も笑顔になれる。
そんな事を言い切るこいしを、心底妬ましいと思った。
「あんたの妹は、強いわね」
──ラジオが姿を消したのは、翌日のことだった。
2
「旧都の様子を見てきました」
橋姫としての私の管轄である橋の上。
私とは反対の欄干に寄りかかりながら、さとりは右往左往している街を眺めて、そう呟いた。
「大変なことになってますね」
「そうね」吐息のような声しか出なかった。
旧都で行う犯人探しなんてものは、無意味だった。ただ一回だけ、さとりがその場を通り過ぎればいい。それだけで犯人は勝手に自白を始めるから。
こういう時にばかり実感する、反則じみた覚り妖怪の能力。
でもきっと、それでなくとも、鬼である彼らはそんな陰湿な真似はしない。毎日喧騒や喧嘩騒ぎが絶えない場所ではあるけれど、逆を言えばそれは、全てを曝け出せる関係だから。
「……そこまでわかっているのなら、私が此処まで来てしまった意味もわかるのでしょう?」
「そうね」向き合ったさとりは腹が立つくらい、無表情だった。
「旧都にラジオを持ち去った犯人はいません」
「でしょうね。でもさ、言い切らなくてもいいんじゃない?」私は頭を掻いた。
「私から逃げられる人なんていませんから」
「そんなの、分かってる」
「いま貴方が考えてること、言ってあげましょうか?」
「お腹が空いたわ。なんか奢って」
「認めなさい」
「平然としてられるあんたが、一番認めたくないわ」
「私だってそうは思いたくありませんよ。でも、それが現実です」
「ほんと、あんた遠慮ないわね」
「はい、自分の妹ですから」
──みんなに、笑ってて欲しいって思うよ。
「みんなの楽しみを奪ったのは、こいしです」
淡々と、さとりは言う。
それしかないけど。
「……認めたくない、ですか」
「まあね」
「理由は」
「帽子が様になってるから、じゃ駄目?」
「なんですか、それ」
「……適当に言っただけよ」
明確な理由なんてものはない。ただ、笑ってて欲しい。そう言っていたこいしがこんなことをするのを信じたくないだけだ。そして、そんなことはもちろんさとりにもお見通しで、説得力もなにもあったもんじゃない。
「あの子の考えは、間違ってはいませんよ」一瞬柔らかい表情を浮かべて、でも、とさとりは顔を振る。「単純過ぎるんです。それに、こいしの行動は短絡的なんですよ、いつも」
「それを信じてやるのがお姉ちゃんってもんじゃないの?」
「……無条件に信じるのと、必要なときに厳しく当たるのは別です。貴方のそれは優しさなんかじゃない」
さとりは面白く無さそうに靴を鳴らすと、一歩、私に近づいた。
「甘さですよ」
……本当に、さとりは人の弱い部分を突くのが上手い。
「わかってるわ。でも」
「でも?」俯く私の目線の先に、さとりがいた。意地悪な、圧倒的な優勢を自覚した表情だった。
それでも、私は足掻く。根拠も自信も無く。
「きっと、何か理由があるのよ。そう、たとえば、えっと……」
目線が泳いだ。どこを見たらいいのかわからない。
「もしあったとしてもです」
そうこうしていたらさとりの手に頬を挟まれて、無理矢理そちらを向かされた。
喉が鳴る。
じっ、と。
上目遣いの瞳は、怒りすらも孕んでいた。
「悪いことは悪いって言ってあげないと、あの子はずっと同じことを繰り返します。その先にどんなことが待ってるかなんて誰にも分からないんですから。私が、……お姉ちゃんが止めてあげないと」
息が漏れて、さとりの前髪を微かに動かした。
「わかったわよ」
まだ、私の考えは折れてなんかいない。
まだ、こいしを信じてやりたい。
また、私達の意見は交わらない。
それでも、今こうしてさとりと話してたってらちが明かない。
「……こいしを、探しましょう」
背後には欄干しかないので、さとりを引き剥がす格好になる。さとりはまだ不服そうだったが、「そうですね」やがて、小さく頷いた。
「でも、あてはあるんですか? 私だってあの子がどこにいるかなんてまったく把握できないんですよ?」
「それは、ほら、あれよ。あれ」
不思議だった。
地震でも起きていないのに、地底世界は激しく揺れていた。
「……ないんですね」
「……ないわよ。悪いか」
いつも気がつくとそこにいて、気がつくとどこかへ行ってしまうような奴だ。
目的をもって探そうとしたって、そんなことは不可能に近い。
「あー、でも、ほら、意外とどこかその辺にいたりするかもしれないじゃない?」
そう、どこかだ。
ほら、こことか、ちゃっかりと……
ひょい。
ひょい。
手は空しく空を切る。
「あの子のいつものパターンでいくと……」
右。
上!
……後ろ!!
「痛っ」
振り向き様に、マフラーが顔を叩いた。
「──いるわけ無いじゃないのッ!」
「私に切れないでください」
再び欄干に寄りかかり、向かい合う。さとりは目を細めて、地上へと続く道を見た。すぅ、と息を吐きながら、言う。
「もし地上へ行っていたら、お手上げですね」
私は手のひらに顎を乗せた。
「大体なんですか、手を伸ばした先にこいしがいるのなら、こんなに苦労なんてしないんですよ」
「こ〜んなことしちゃって、まぁ」と、さとりは私の真似をしてみせる。
滑稽だった。阿呆らしかった。笑い顔が酷く乾いていた。
ヒラヒラと手を振って、細い指を閉じたり開いたり。
母親を求める赤子のようにも見える。そう考えた途端、さとりは眉をしかめた。
さらり、さらり。
「──お姉ちゃんのエッチッ!」
さとりは高く飛ばされて、水に落ちた。
3
着替えを済ませてさとりが戻ってくるまで、私はこいしと何を話したらいいのか分からなかった。私の家の和室にあるちゃぶ台を挟んで、こいしはつまならそうに帽子を弄っている。こんなにしおらしいこいしを見るのは初めてかもしれない。
喉元まで出かかっている言葉を、私は飲み込み続けていた。
貴方がやったのね。
さとりが水底から這い上がりながら言った言葉を、こいしは否定しなかった。
つまりは、やっぱり、そういうことなのだろうか。
それを確認しなければいけないのに、
「さとりのやつ、遅いわね」
そんなありきたりの言葉しか漏らさない自分が歯痒かった。
「お姉ちゃん、さ」
何かを変えるのは、いつも私ではなかった。
うつろな目で帽子を見ながら、こいしはポツリと言う。
「怒ってるかな」
お姉ちゃんが止めてあげないと。
そう言っていたさとりの表情を思い出す。厳しさと優しさが入り混じった──やっぱり母親のような顔。悪い事をしたこいしを怒っていた、でも、それ以前にやっぱり、たったひとりの妹が心配でしょうがなかったのだろう。
本気で心配する表情というのは、鬼気迫っているものだ。
「怒ってるんじゃない?」
「そっか……難しいね」
「なにが?」
「みんなを笑わせるって事。……私ね、フランのラジオを聞いてくれてた人たちはみんな、うんと楽しんでくれてると思ってたんだ」
でも、違ったんだね。こいしは目を閉じる。
「私の見えてるものなんてずっと小さなもので、私の『みんな』って、全然足りなかったんだ。だってさ、この街も笑わせられなかったんだよ? 駄目じゃん」
「だからラジオを隠した?『みんな』が笑ってくれなかったから」
こいしはしばらくの沈黙の後、頷いた。
「うん、そのまま壊しちゃった」こいしは舌を出した。
「あんたは……ブレーキってもんが効かないの?」
「そんなの、これと一緒に壊しちゃったよ」
こいしは胸の瞳を撫でて、遠くを見ていた。
「覚りなんてものに生まれちゃってさ、こんなのがあったから、私の周りではだぁれも笑ってくれなかったよ。お姉ちゃんだってそう。知ってた? お姉ちゃんの楽しそうにしてるのを見たの、地底にやってきてからが初めてなんだ。……私じゃ駄目だった、たったひとりのお姉ちゃんも笑顔にできなかったんだよ」
帽子は形を変えて、あちこちがへこんでしまっていた。
いつも飛び跳ねていた元気な身体が、ずっと小さく見えた。
仕方が無い子、と息が漏れた。
まったく、らしくない。
「誰かが笑ってたら、その裏では誰かが泣いてるものよ。それが現実。そんなことも分からないなんて、あんたはまだまだ子供ね」
「そう、かなぁ」
「そうよ。……でもね」
どんどん下がっていくこいしの頭。
小さな頭。
つむじまで見え始めたそれに、私は手を伸ばした。
「私はそんなあんたを、妬ましいって思うわよ?」
さとりよりもずっと手入れの行き届いた、薄緑色の髪。
軽いウェーブがかかっていて、やんわりと手が沈んでいく。
草原に手を伸ばしたような感覚。
くすぐったそうに、こいしは身体を揺らした。
「お姉ちゃんは……」
「あいつはきっと、あんたが笑ってたらその内コロっと笑い出すわよ。だって、たった一人の家族、なんでしょ?」
でこぼこの帽子を頭に乗せて、思い切り深被りさせてやる。
ひとりの為に街のみんなを困らせる。そんなことをするのは馬鹿なことだと思っていた。
でもそのひとりがかけがえの無い誰か、なら話は別だ。
それが、誰かを想うって事だから。
いくら否定したって、その感情は消えることなんか無い。
こんなことをさとりのやつが見たらやっぱり「甘やかさないでください」なんて怒るのだろう。
でも、あいつもあいつだ。
こんなに自分を思ってくれている家族がいるのにそれに答えてやらないだなんて。
過去をいつまでも引きずっているのは、自分も同じじゃないか。
……ぁぁそれも、教えてやらないと。
そうしないと、この姉妹はこのままなのかもしれないから。
「こいし、あいつはね……さとりは」
声が震えるのを感じた。怖かった。
「──そうだ! 謝らなくちゃ!」
「わぁったぁぁ!」
のけぞリかえる。
突然立ち上がったこいしに吹き飛ばされた。
くっそ。
またいきなりだ。
「ビックリするじゃないの!」
「お姉ちゃんが言ってたんだよ! 悪いことしたら、ちゃんと謝りなさいって!」
「いきなり何言い出すのよ、もう」
「だから……謝ってくる!」
帽子がスイッチになっていたのだろうか。
元気百倍アクセル全開になってしまったこいしは、靴も履かずに飛び出していってしまった。
取り残されてひとり、ずっこけている私がいた。
なんだったのだろうか、私の言葉はこいしに届いていたのだろうか。
分からない。こいしの行動なんて、理解できるわけが無い。
微かに見せた憂いの表情は夢だったのだろうか。
……あぁ、考えてたら腹が立ってきた。
「なんだってのよ、もう!」
無意識。
そう、無意識だ。
気がつけば無意識に、こいしを追いかけてしまう私がいた。
4
「……と言う訳で、ごめんなさい!」
頭を下げる私達を、街の鬼達が見ていた。
漠然としたイメージ。
笑って済ませてくれる。鬼の種族はそういうものだ。
やがて、先頭に立っていた星熊勇儀は、こいしの頭に手を乗せた。
私は顔を上げる。
包み込むような、そんな表情を浮かべていた。
ほら。
潤んだ瞳で、勇儀は言うのだった。
「ゆ る ざ ん !」
…………ウソん。
5
「──しくしく」
ともかく、こうして事態は一応の区切りを迎えた。
こいしは何故唐突に謝りに行く気になったのか。
彼女の心の中でどういった変化があったのか。
そんなことは誰にも分からない。
「……シクシク」
でも、こいしの『笑ってて欲しい』なんて考えはこれからも変わることは無いのだろう。
たとえそれが子供の我がままであっても、それを否定することは古明地こいしを否定するということだ。
それだけは、個人の存在を否定することだけは、誰にもできない。
「しぃくしく、しく」
こいしはこれからもがむしゃらに、笑顔を求めて歩くのだろう。その行く先がどこであっても、悪い結果にだけはならない。
私はそう信じたい。
「おーいおいおい」
ただ、
「……あのねぇ、さとり」
さっきから聞こえる棒読みの泣き真似が鬱陶しかった。
「泣きたいなら他でやってくれない? こっちまで気が滅入ってくるわ」
「……貴方のせいです」
「は?」
地の底から湧き上がってくるような声。
そんな憎しみを向けられる覚えなど無い。
「貴方のせいで私の大切なものが──」
「いっっやぁー! 疲れたぁ!」
と、こいしが騒々しくドアを蹴飛ばして突入してきた。
肩に担いでいた泥棒のような巾着を落すと、汗を拭う。
一仕事終えた後の汗は輝いていた。
ちなみにこれでこいしに破壊されたドアは三枚目だ。
ハァ。
「あんたはいっつもいっつも……」
「こいし、それは?」
「んと、フランのところから……借りてきた」
ジャジャーン。
どこかで見た土色の箱がこいしの手のひらに乗っていた。
「ラジオだよ。ラ・ジ・オ」
袋の中を覗き込むと、それと同じものがもう十個ほど転がっていた。
なるほど、これが解決策なわけだ。
さすが地上、地底なんかよりも技術的には数段上らしい。
「これでも苦労したんだよ? フランの家にお願いしてぇ、それから妖怪の山にも行って、それから、それからねっ……」
本当に楽しそうに、こいしは冒険談を語る。
そこには陰りは全く感じられなくて、ただ単純に、太陽の下を渡り歩く覚り妖怪の姿があるだけだった。
──ねぇ、さとりと、私は心で話しかける。
あんたの妹はやっぱり、強いわよ。
あんたが思ってるよりも、ずっとね。
ま、そんなこと知ってるんでしょうけど。
でも、もう少しだけ信じてあげてもいいんじゃない?
無意識の行く先はその人に委ねられてて、きっとこいしは、それを間違えない。
きっとこいしは、無意識の末に泣いたりしないから。
……ねぇ? 聞いてる?
「……さとり?」
いくら呼びかけても、さとりは全く反応を示さなかった。
ただ袋の中を覗き込んで、じっと身を固めていた。
……嫌な予感が、した。
「さとr」
「──よくやったわ、こいし!」
バネのように、身体を跳ねさせるさとり。
直上には、私の頭。
衝撃。
主に鼻に。
「ぉぉぅ、すぅぅぁぁぅとぉぉぉぅりぃぃ……」
「ラジオ! レディオ! あぁよくやったわこいし。勝手に私の部屋にあったのを持って行った時はどうしようかと思ったけれど……よくやったわこいし! これでまたフランちゃんのラジオを聞けるのね! ……聞けるのねっ!」
回る、回る。ラジオを掲げて、バターになりそうな勢いで回り続ける。
と同時に、旧都の方から、数日前に始めて聞いてた歓声が沸いた。
「あぁ始まってしまったわ始まってしまうのですねっ。さぁさ聞かせてくださいなその見目麗しいお声を! あぁ、もうっ! ……もうっ!」
ワン、ツー、スリーでさとりはベットイン。
手馴れた動作でダイヤルを弄ると、顎を両手に乗せて、足をバタつかせる。
視聴のポーズの完成らしい。
「こいし、これって」
なに、と視線を送ると、こいしは袋を担ぎ直しているところだった。
「いやぁ〜、お姉ちゃんが笑顔になってくれてよかったぁ」
「え、ちょっと、待ちなさいって」
「街の方にお姉ちゃんの部屋にあったやつを持ってたのは流石にまずかったのかなぁって思ったけど、そうしなきゃみんな許してくれなかったしさ、でも、結果オーライってことで、ここはひとつ……」
「じゃなくてね?」
「ではっ! 古明地こいし。これから街へのラジオ搬送行動に行ってまいりますっ!」
ビシリと敬礼を決めると、こいしは壊れたドアを跨いで出て行ってしまった。
「不思議ですよねぇパルスィ? どうして私はこんなにもこの声に惹かれてしまうんでしょう? これは覚り妖怪にも解くことのできない謎ですよ!? なんて……興味深い!」
ギャンギャン。
ベットが悲鳴を上げていた。
ごめん、私はあんたなんか救ってやれないわ。
「パルスィぃ……ラジオに人気取られて商売あがったりだよぉ……」
ヤマメが入ってきた。
もしかして、こいしの言ってたラジオで泣いてたのってあんたか。
結局、こいしの大切に思っていたものってなんだったのだろうか。
「パルスィ!一緒に聞いて、この謎を解き明かしましょう! さぁ、さぁ!」さとりの右手は叩いたベットを砕いた。
「ぷぅぁるすぃ……嫉妬心弄ってなんとかできないのぉ?」
さとりに私のベットは破壊されてしまった。
なにをしに来たかすら分からないヤマメは、私にすがりついていた。
私は立ち尽くしたまま、肩を震わせることしかできなかった。
同じ部屋の中で、片方は笑って、片方は泣いていた。
誰かが笑ってたら、その裏では誰かが泣いてるもの。
現実の縮図がこの場にあった。
いや、
でもさ。
「これって……なんか違うでしょぉぉぉ!?」
私の叫びはみんなの声に飲まれて、消えた。
骨みたいに細い、ボディスーツみたいな服装の男の声を背に店をでると、こいしは大きく「伸び」して、そのまま溜息をついた。
「はぁぁあぁぁ、ダメだった……」
「だから言ったでしょう、この街で帽子を探すなんて無理なんだって」
「え〜、なんでさー、帽子かわいいじゃ〜ん」
腕をダラダラ垂らしながらぶうぶうと文句を言うこいしの頭には、彼女お気に入りの黄色いリボンの帽子が居座っている。
新しい帽子が欲しいとなんの前触れも無く言い出したのは、今朝のことだった。 いきなり私の家に飛び込んでくるなり「帽子!帽子!帽子!」と訳の分からないテンションで帽子を探しにいくんだと捲くし立てられ、気がつけば旧都の中で、簡素な衣服に囲まれていた。
もっとも、それもどうせ不意の思いつきなのだろう、昨日は姐さんと一緒、一昨日はヤマメ達と一緒。この子の行動はそこら辺にうずくまっている野良猫よりも気まぐれだ。
「こいし、ちょっと考えて見なさい」
私はこいしの帽子を摘んで、指先でまわした。
「ここに住んでるのは鬼ばっかりよ? 想像してみましょうか、姐さんにこの帽子を被せたらどうなる?」
「うーん……頭に入らない?」
「それは流石に姐さんに失礼でしょ、そうじゃなくて」
「あ、穴開いちゃうね」
「そういうこと」
旧都に帽子は出回らない。それはこの街の住人の殆どが鬼の種族であるからだ。私の指先で規則正しい回転を続ける帽子を彼らの頭に乗せてしまえば、その頭に雄雄しく聳え立つ角に貫かれ、見るも無残な姿を晒すことになるだろう。
「わぁーん! 私の帽子が死んじゃったよー!」
「わ、悪かったよこいし、あー、これ、どうしたらいいんだい……」
きっとこんな感じ。
泣き喚くこいしと、どうしたらいいか分からなくてあたふたする鬼の四天王の姿が容易に想像できた。
「だから諦めなさい、どうしても欲しいっていうんだったら」私はこいしの頭に帽子を押し付けた。「地上でもどこでも行ってらっしゃい。今、上がどうだかなんて分からないけど、此処よりはマシ、でしょ?」
「ん……」こいしは両手で帽子を被り直した。「そうかも」
色素の薄い髪を黒の帽子から覗かせながら、こいしはつばを跳ね上げた。いつも落ち着きが無くて姉から心配されっぱなしの子だけれど、こうして帽子が様になる姿はどこか落ち着きを感じさせる。
……そっか。
さとりの奴は帽子が無いからあんなに幼く見えるのか。
唐突に積年の疑問が解けてしまった。よし、今度シルクハットでも被せてみよう。きっと大樽に飲み込まれるみたいになるに違いない……
ん? それってさとりは顔も小さいって事だろうか?
おっと、またひとつ、新たな妬みポイントが出来てしまったわ。
「小さな顔が妬ましい」今度はこれでいこう、うん。
私は握りこぶしを作った。
「──よしっ」
「きしょい」
スパァンッ
「でも、いいの?」
こいしは帽子の中に何かを隠しながら、こちらを見上げた。
はて、何かを考えていたような気がしていたけれど……思い出せないのならそれほど重要なことでもないのだろう。無意識というやつだ。
「私をいつも地上に行かせちゃってさ。お姉ちゃんに言われてるんじゃないの? 私を引き止めなさいって」
「ああ、そんなこと」
縦穴の番人である私の、ほぼ唯一の仕事。それが古明地こいしのお出かけ阻止だった。とはいってもそんなものはさとりの独断であり、命令の形を模したわがままだ。私の気が乗らなければ従う必要なんて全く無い。
「あんたは気にしなくていいのよこいし、さとりの奴が過保護すぎるだけなんだから……ま、どうせ無意識状態の奴を止めるなんてこと、私には出来ないし、あんたは自分の好きなようにすればいいわ」
「そう? じゃあ、遠慮なく」
えへへ、いつも悪いね旦那ぁ、なんてニタニタとふざけながら、こいしはくるりと身を翻した。
抜き足、差し足、忍び足。両手を添えて、爪先立ちで、辺りを窺いながらその場を去ろうとする姿は、コソ泥のそれだった。
……そのうしろ姿だけで分かる。
古明地こいしは「今」が楽しくて仕方が無いのだろう。
封じられた地である旧都と、光に満ちた地上。ふたつの世界を渡り歩きながら、変化の無い毎日に、変化を求め続ける。ただひたすらに、「今」の楽しさをずっと続けたくて、じっとしていられない。
さとりが心配するのも、少しは理解できるつもりだ。
こうして毎日毎日同じようなことを続けていると、不意にそれが壊れることが恐ろしくなることがある。
日常の変化。
それはいいことばかりじゃないって、私達は知っている。
「ああぁぁーーっ!!」
と、数メートル行った所で、こいしは何もつけていない腕を見ると、唐突に叫んだ。そうしてまた、軸足を基点にくるりと身体を回転させて、
「忘れてたっ、今日は──」言うが早く、帽子を片手で押さえながら、私の方へ走ってくる。
「どうしたの、忘れ物でもした?」
「違うよ! 今日は友達と大事な約束があったの忘れてたっ!……あぁもう、家に帰ってる暇なんかないや、街の方で……」
お願いだから待っててよー!と、土埃を舞い上がらせながら、声はどんどん遠ざかっていく。後にはいつもよりも人通りの少ない、旧都の通りだけがあった。
「友達……ね」
自分でもよく分からない息が漏れる。さとりがこの場にいればその正体を勝手に口走っていただろうけど、最近あいつは地霊殿に引きこもっていた。
「──こいしの無意識の先に何かがあるような気がした、か」
まったく……さとりの心配性が移ってしまったみたいだ。
ま、いいか。偶にはこんな日があっても。
「……やれやれ」
私は一度頭を押さえて、その背中を追った。
〜Iは望む/街と家族とお姉ちゃん〜
1
どうやって建造されたのかも分からないほどの異常な高さを誇る建造物、旧都タワー。以前は旧都塔なんてきちんとした日本語の名前があったが、その余りの呼びにくさに横文字交じりの改名を余儀無くされたのは旧都に住む人々の記憶に新しい。先端に取り付けられた風車は旧都の天辺で年中回り続けている。二百尺だなんてふざけた寸法を聞いたのは初めてだった。
旧都の名を冠するのは伊達ではなく、旧都の中心であるこの場所の周りには、数百人にも及ぶだろう、地底の住人達がひしめきあっていた。皆一様に落ち着かない様子で、病的なまでな興奮状態に近い者もちらほらと見かける。
どうあれ、こんな大衆はどうにも苦手だ。
少し離れた場所からその中心の様子を窺うと、針の山の様になっている光景の先に、小さな茶色の箱が見えた。どうやら皆の視線はそれに向けられているらしい。
「あれ? 追いかけてきたんだ」
跳ね回るような声は、上から降ってきた。
「こいし、これって……ってあれ? 姐さん?」
声のしたほうを見ても、こいしの姿は無い。代わりにあの子よりもずっと大きな体躯が立ちふさがっていた。
「こっちこっち」そしてその上で、つまりは勇儀に肩車される形で、こいしは手を振っていた。身体の大きさの差からだろうか、その光景はまさに子供を肩車して歩く父親のようだった。そんなこと言うと勇儀は怒るから、言わないけど。
「なんの集まりなのよ、これは」
「おや、知らないのかい? ……とは言っても、私も最近知ったんだけどね。こいしが地上から拝借してきたんだってさ。名前は確か……ロデオ?」
「ラ・ジ・オ! 何回も言ったじゃん。大体、盗んだんじゃないもん。落ちてたんだもん」こいしが勇儀の角をペチペチと叩いた。
「あぁそうだったそうだった。ともかくそのらじおってのはこれがまた面白くてね。こうして皆で聴きに集まって来てるって訳さ」
話しによればそのラジオとかいうものは地上で作られたものらしい。仕組みは分からないが、地上と連絡を取ることも可能なんだとか。『からくり』とも違う『機械』のたぐいなんだとか。その違いも意味も私にはよく分からないけれど。
あんな小さな物の中に大きな意味がある。それだけはわかった。
「にしたってそんなもの、よくあのチビ閻魔が許可したわね。上との繋がりができるものなんてマズイんじゃないの?」
「それはもちろん」二人は顔を見合わせると指を立てて、声を揃えた。
「「ひ・み・つ」」
「……そんなことだろうと思ったわ」
どうでもいいけれど、勇儀がウインクまでして「ひみつ」と囁くのは、恐ろしいほど似合わなかった。
そんなこんなで勇儀とこいしと話していて、そろそろ首が疲れてきた頃、ラジオから砂を踏み鳴らすような音がし始めた。同時にあれだけ賑やかだった連中がピタリと静まる。
変な緊張感がある。空気に飲まれそうになる心を、なんとか引きとめる。
唾を喉に通す音すら躊躇われた。
「パルスィ」
勇儀は指先で軽く私の肩を叩いた。
「なに、姐さん」
「アンタ、初めてだろ。なら耳を塞いでおきな」
「それってどういう……」
とりあえず、言われたとおりに耳を両手で塞いでみる。
──でもきっと、言われなくてもそうしていた。
ラジオは遠く離れた場所から音声を伝える物だと、こいしと勇儀は言っていた。
自分もよく理解していない風だったけれど、電波がどうとか。
でも、そんなことは関係なかった。
地震。
最初、本気でそう思った。
「──みんなぁ、おはこんばんちわならー!」
「ウオオォォォォオォォォォ!!」
「……ンドール・スカーレットがみんなに送る」
「フラァァァンン、ちゃぁぁぁぁぁんッ!!」
「……今日も元気120パーセントで──」
「イェヤァァァァァアァァァァァ!」
……うっさい。
やかましい。
ただただ、そう思った。
「……なんだったのかしら」
疲れた。
結局、約三十分の時間を叫びっぱなしのまま、放送は終わってしまった。
ラジオの先でその『フランちゃん』と言う名の子が何を話していたかなんてことは半分も聞き取れなかった。旧都の皆は本当にこのラジオの内容を理解しているのだろうかと考えたが、聞くのもなんだか馬鹿らしい。
単純に騒ぐ理由が欲しい。そう解釈しておくことにする。
「楽しかったね!」
皆がそれぞれ叫び疲れている中、こいしだけは変わらず元気な姿のままだった。途中、雄たけびをあげた勇儀に景気良く投げ飛ばされていた気もするが。更に言えば、うごめく大衆の上を胴上げされて回っていたような気もする。こいしの体力は底なしだ。
「え、ええ……そうね」
叫んでもいないのに、私は人一倍疲れたと言い切れる。
早く帰って、薄いベットで眠りたかった。
「いやぁ〜、今日も楽しかった」
……もう一人、元気な奴がいた。
タオルで汗を拭きながらやってきた勇儀。こいしの姿を見つけると「悪かったねえ」と、悪びれた様子も無く言う。慣れっこらしく、こいしも全く気にせずにその太腕に飛びついた。
「あんたら、いっつもこんなことしてるの?」
「ああそうさ。パルスィ、あんた気付いてなかったのかい?」
「私、基本的にこの時間寝てるか縦穴にいるかだから」
それでももしかしたら、私の耳にもこの地鳴りは届いていたのかもしれない。私が他の事に集中していたか何かの理由で気がつかなかっただけで、それはきっと幸運なことだ。もしそうだとしたら、今度からは時間になったら窓を閉め切ろう。
よし、決心した。
「不思議なもんねぇ」
「ふぇ、なにが?」
しばらくすると集まった奴らはゾロゾロと散っていった。そうして残された、土気色のラジオ。手にとって見ると両手に収まるほどの大きさだ。本当に小さい。こんなものから声がしていたのが、今でも信じられなかった。
「これ、どうなってるの?」
「さぁ」
私に分かるわけ無いじゃんと、こいしは当然のように言う。
「でもさ、これがどうやって動いてるかなんて、どうでもいいじゃない? みんなこれで喜んでくれてるしさ。それに、フランもこうしていっぱいの人に聞いてもらったほうが嬉しいと思うし」
「ほんと、あんたはいっつもお気楽ね」
「楽しいことが嫌いな奴なんかいないよ。無意識むいしき」
「そんなものかしらね」ポツリと言う私から、こいしはラジオを取り上げた。
そうして、くるくるステップを踏んで、
「みんなが楽しけりゃ私も楽しい。私が笑ってたらみんな笑ってくれる。きっとそれだけでいいんだよ。難しいことなんか、なんにも無い……よっ」
『それ』を真上に放り投げた。
「ちょ──」
小石の様に飛び上がったラジオはあっというまに小さくなっていく。
私は反射的に、こいしのところへ駆け寄った。
「っと。壊したりしないよ。大事な物だもん」
「……ったく、あんたは」
危なげも無くそれをキャッチしたこいしは、ラジオを元の位置に戻して、「きひひ」また小動物のように笑う。
まったく、これじゃ焦った私が馬鹿みたいだ。
「そんなことばっかりしてると何時か、手が滑って壊すわよ」
「だいじょーぶだよ」
ラジオから伸びたアンテナ、とかいうものを弄りながら、そんな事を言う。根拠も確信も、きっとないだろうに。
「だって、もし手が滑っても、お姉ちゃん達が受け止めてくれるでしょ?」
「さとりが、ねぇ……無理じゃない? お手玉して落っことすわよ、あいつ」
「ハハ、お姉ちゃんのことになるとほんと、言葉に容赦なくなるよね」
「まぁね、それなりに付き合い長いから」
「そっか……」こいしは足元を蹴った。砂埃が舞って、その身体を薄く覆い隠した。「なら、さ、教えてよ」
こいしの言葉は風船みたいに軽くて、その中に何が込められているのか、読み取ることが難しすぎる。
「お姉ちゃんって、どうやったら笑ってくれるんだろ」
その疑問は、どこまでも単純に思えた。
「私が出かける時も帰ってきたときも、お姉ちゃんったら心配そうにするばっかりで、怒りもしないし、笑ってもくれないんだ。……もちろん、いつも笑ってくれないって訳じゃないけどね」
「なら、いいんじゃないの? 楽しいことばっかりじゃないわよ。生きてたら」
「そうだけど……でも、だからかな」
いつもの笑顔。
でも、どこか無理しているような、そんな色が混ざっていた気がした。
しかしすぐに、トトト、と私の近くに跳ねてきて、そんな表情も帽子に隠されてしまう。
なんだかそんなこいしを見ていられなくて、つい、目線が上を向いた。
「私はみんなにずっと笑ってて欲しいって、そう思うよ」
次に気がついたとき、そこには誰もいなかった。つい数分前まで活気に溢れていた場所が、酷く閑散としている。まるで最初から誰もいなかったみたいに、私はひとりで立ち尽くしていた。
誰の声も伝えなくなったラジオだけが、目の前にあった。
誰も聞いていない、街中の空洞。
耳がおかしなほど熱かった。
無意識に右手で頭を押さえて、前髪をなぞった。
皆が笑っている世界。
こいしの求めている物は理想を行き過ぎて、そんなものは妄想や幻想の領域だ。子供が抱く天国のような世界をこの地獄に求めたところで、そんなものはあるはずが無いし、どんなに求めてももう、届かない。
みんな仲良くなんて甘い考えはきっと、幼さと一緒に捨ててしまうものだから。
こいしの欲しいものは絶対に存在しない。
でも、その考えは多分間違っていない。
誰かを笑顔にして、自分も笑顔になれる。
そんな事を言い切るこいしを、心底妬ましいと思った。
「あんたの妹は、強いわね」
──ラジオが姿を消したのは、翌日のことだった。
2
「旧都の様子を見てきました」
橋姫としての私の管轄である橋の上。
私とは反対の欄干に寄りかかりながら、さとりは右往左往している街を眺めて、そう呟いた。
「大変なことになってますね」
「そうね」吐息のような声しか出なかった。
旧都で行う犯人探しなんてものは、無意味だった。ただ一回だけ、さとりがその場を通り過ぎればいい。それだけで犯人は勝手に自白を始めるから。
こういう時にばかり実感する、反則じみた覚り妖怪の能力。
でもきっと、それでなくとも、鬼である彼らはそんな陰湿な真似はしない。毎日喧騒や喧嘩騒ぎが絶えない場所ではあるけれど、逆を言えばそれは、全てを曝け出せる関係だから。
「……そこまでわかっているのなら、私が此処まで来てしまった意味もわかるのでしょう?」
「そうね」向き合ったさとりは腹が立つくらい、無表情だった。
「旧都にラジオを持ち去った犯人はいません」
「でしょうね。でもさ、言い切らなくてもいいんじゃない?」私は頭を掻いた。
「私から逃げられる人なんていませんから」
「そんなの、分かってる」
「いま貴方が考えてること、言ってあげましょうか?」
「お腹が空いたわ。なんか奢って」
「認めなさい」
「平然としてられるあんたが、一番認めたくないわ」
「私だってそうは思いたくありませんよ。でも、それが現実です」
「ほんと、あんた遠慮ないわね」
「はい、自分の妹ですから」
──みんなに、笑ってて欲しいって思うよ。
「みんなの楽しみを奪ったのは、こいしです」
淡々と、さとりは言う。
それしかないけど。
「……認めたくない、ですか」
「まあね」
「理由は」
「帽子が様になってるから、じゃ駄目?」
「なんですか、それ」
「……適当に言っただけよ」
明確な理由なんてものはない。ただ、笑ってて欲しい。そう言っていたこいしがこんなことをするのを信じたくないだけだ。そして、そんなことはもちろんさとりにもお見通しで、説得力もなにもあったもんじゃない。
「あの子の考えは、間違ってはいませんよ」一瞬柔らかい表情を浮かべて、でも、とさとりは顔を振る。「単純過ぎるんです。それに、こいしの行動は短絡的なんですよ、いつも」
「それを信じてやるのがお姉ちゃんってもんじゃないの?」
「……無条件に信じるのと、必要なときに厳しく当たるのは別です。貴方のそれは優しさなんかじゃない」
さとりは面白く無さそうに靴を鳴らすと、一歩、私に近づいた。
「甘さですよ」
……本当に、さとりは人の弱い部分を突くのが上手い。
「わかってるわ。でも」
「でも?」俯く私の目線の先に、さとりがいた。意地悪な、圧倒的な優勢を自覚した表情だった。
それでも、私は足掻く。根拠も自信も無く。
「きっと、何か理由があるのよ。そう、たとえば、えっと……」
目線が泳いだ。どこを見たらいいのかわからない。
「もしあったとしてもです」
そうこうしていたらさとりの手に頬を挟まれて、無理矢理そちらを向かされた。
喉が鳴る。
じっ、と。
上目遣いの瞳は、怒りすらも孕んでいた。
「悪いことは悪いって言ってあげないと、あの子はずっと同じことを繰り返します。その先にどんなことが待ってるかなんて誰にも分からないんですから。私が、……お姉ちゃんが止めてあげないと」
息が漏れて、さとりの前髪を微かに動かした。
「わかったわよ」
まだ、私の考えは折れてなんかいない。
まだ、こいしを信じてやりたい。
また、私達の意見は交わらない。
それでも、今こうしてさとりと話してたってらちが明かない。
「……こいしを、探しましょう」
背後には欄干しかないので、さとりを引き剥がす格好になる。さとりはまだ不服そうだったが、「そうですね」やがて、小さく頷いた。
「でも、あてはあるんですか? 私だってあの子がどこにいるかなんてまったく把握できないんですよ?」
「それは、ほら、あれよ。あれ」
不思議だった。
地震でも起きていないのに、地底世界は激しく揺れていた。
「……ないんですね」
「……ないわよ。悪いか」
いつも気がつくとそこにいて、気がつくとどこかへ行ってしまうような奴だ。
目的をもって探そうとしたって、そんなことは不可能に近い。
「あー、でも、ほら、意外とどこかその辺にいたりするかもしれないじゃない?」
そう、どこかだ。
ほら、こことか、ちゃっかりと……
ひょい。
ひょい。
手は空しく空を切る。
「あの子のいつものパターンでいくと……」
右。
上!
……後ろ!!
「痛っ」
振り向き様に、マフラーが顔を叩いた。
「──いるわけ無いじゃないのッ!」
「私に切れないでください」
再び欄干に寄りかかり、向かい合う。さとりは目を細めて、地上へと続く道を見た。すぅ、と息を吐きながら、言う。
「もし地上へ行っていたら、お手上げですね」
私は手のひらに顎を乗せた。
「大体なんですか、手を伸ばした先にこいしがいるのなら、こんなに苦労なんてしないんですよ」
「こ〜んなことしちゃって、まぁ」と、さとりは私の真似をしてみせる。
滑稽だった。阿呆らしかった。笑い顔が酷く乾いていた。
ヒラヒラと手を振って、細い指を閉じたり開いたり。
母親を求める赤子のようにも見える。そう考えた途端、さとりは眉をしかめた。
さらり、さらり。
「──お姉ちゃんのエッチッ!」
さとりは高く飛ばされて、水に落ちた。
3
着替えを済ませてさとりが戻ってくるまで、私はこいしと何を話したらいいのか分からなかった。私の家の和室にあるちゃぶ台を挟んで、こいしはつまならそうに帽子を弄っている。こんなにしおらしいこいしを見るのは初めてかもしれない。
喉元まで出かかっている言葉を、私は飲み込み続けていた。
貴方がやったのね。
さとりが水底から這い上がりながら言った言葉を、こいしは否定しなかった。
つまりは、やっぱり、そういうことなのだろうか。
それを確認しなければいけないのに、
「さとりのやつ、遅いわね」
そんなありきたりの言葉しか漏らさない自分が歯痒かった。
「お姉ちゃん、さ」
何かを変えるのは、いつも私ではなかった。
うつろな目で帽子を見ながら、こいしはポツリと言う。
「怒ってるかな」
お姉ちゃんが止めてあげないと。
そう言っていたさとりの表情を思い出す。厳しさと優しさが入り混じった──やっぱり母親のような顔。悪い事をしたこいしを怒っていた、でも、それ以前にやっぱり、たったひとりの妹が心配でしょうがなかったのだろう。
本気で心配する表情というのは、鬼気迫っているものだ。
「怒ってるんじゃない?」
「そっか……難しいね」
「なにが?」
「みんなを笑わせるって事。……私ね、フランのラジオを聞いてくれてた人たちはみんな、うんと楽しんでくれてると思ってたんだ」
でも、違ったんだね。こいしは目を閉じる。
「私の見えてるものなんてずっと小さなもので、私の『みんな』って、全然足りなかったんだ。だってさ、この街も笑わせられなかったんだよ? 駄目じゃん」
「だからラジオを隠した?『みんな』が笑ってくれなかったから」
こいしはしばらくの沈黙の後、頷いた。
「うん、そのまま壊しちゃった」こいしは舌を出した。
「あんたは……ブレーキってもんが効かないの?」
「そんなの、これと一緒に壊しちゃったよ」
こいしは胸の瞳を撫でて、遠くを見ていた。
「覚りなんてものに生まれちゃってさ、こんなのがあったから、私の周りではだぁれも笑ってくれなかったよ。お姉ちゃんだってそう。知ってた? お姉ちゃんの楽しそうにしてるのを見たの、地底にやってきてからが初めてなんだ。……私じゃ駄目だった、たったひとりのお姉ちゃんも笑顔にできなかったんだよ」
帽子は形を変えて、あちこちがへこんでしまっていた。
いつも飛び跳ねていた元気な身体が、ずっと小さく見えた。
仕方が無い子、と息が漏れた。
まったく、らしくない。
「誰かが笑ってたら、その裏では誰かが泣いてるものよ。それが現実。そんなことも分からないなんて、あんたはまだまだ子供ね」
「そう、かなぁ」
「そうよ。……でもね」
どんどん下がっていくこいしの頭。
小さな頭。
つむじまで見え始めたそれに、私は手を伸ばした。
「私はそんなあんたを、妬ましいって思うわよ?」
さとりよりもずっと手入れの行き届いた、薄緑色の髪。
軽いウェーブがかかっていて、やんわりと手が沈んでいく。
草原に手を伸ばしたような感覚。
くすぐったそうに、こいしは身体を揺らした。
「お姉ちゃんは……」
「あいつはきっと、あんたが笑ってたらその内コロっと笑い出すわよ。だって、たった一人の家族、なんでしょ?」
でこぼこの帽子を頭に乗せて、思い切り深被りさせてやる。
ひとりの為に街のみんなを困らせる。そんなことをするのは馬鹿なことだと思っていた。
でもそのひとりがかけがえの無い誰か、なら話は別だ。
それが、誰かを想うって事だから。
いくら否定したって、その感情は消えることなんか無い。
こんなことをさとりのやつが見たらやっぱり「甘やかさないでください」なんて怒るのだろう。
でも、あいつもあいつだ。
こんなに自分を思ってくれている家族がいるのにそれに答えてやらないだなんて。
過去をいつまでも引きずっているのは、自分も同じじゃないか。
……ぁぁそれも、教えてやらないと。
そうしないと、この姉妹はこのままなのかもしれないから。
「こいし、あいつはね……さとりは」
声が震えるのを感じた。怖かった。
「──そうだ! 謝らなくちゃ!」
「わぁったぁぁ!」
のけぞリかえる。
突然立ち上がったこいしに吹き飛ばされた。
くっそ。
またいきなりだ。
「ビックリするじゃないの!」
「お姉ちゃんが言ってたんだよ! 悪いことしたら、ちゃんと謝りなさいって!」
「いきなり何言い出すのよ、もう」
「だから……謝ってくる!」
帽子がスイッチになっていたのだろうか。
元気百倍アクセル全開になってしまったこいしは、靴も履かずに飛び出していってしまった。
取り残されてひとり、ずっこけている私がいた。
なんだったのだろうか、私の言葉はこいしに届いていたのだろうか。
分からない。こいしの行動なんて、理解できるわけが無い。
微かに見せた憂いの表情は夢だったのだろうか。
……あぁ、考えてたら腹が立ってきた。
「なんだってのよ、もう!」
無意識。
そう、無意識だ。
気がつけば無意識に、こいしを追いかけてしまう私がいた。
4
「……と言う訳で、ごめんなさい!」
頭を下げる私達を、街の鬼達が見ていた。
漠然としたイメージ。
笑って済ませてくれる。鬼の種族はそういうものだ。
やがて、先頭に立っていた星熊勇儀は、こいしの頭に手を乗せた。
私は顔を上げる。
包み込むような、そんな表情を浮かべていた。
ほら。
潤んだ瞳で、勇儀は言うのだった。
「ゆ る ざ ん !」
…………ウソん。
5
「──しくしく」
ともかく、こうして事態は一応の区切りを迎えた。
こいしは何故唐突に謝りに行く気になったのか。
彼女の心の中でどういった変化があったのか。
そんなことは誰にも分からない。
「……シクシク」
でも、こいしの『笑ってて欲しい』なんて考えはこれからも変わることは無いのだろう。
たとえそれが子供の我がままであっても、それを否定することは古明地こいしを否定するということだ。
それだけは、個人の存在を否定することだけは、誰にもできない。
「しぃくしく、しく」
こいしはこれからもがむしゃらに、笑顔を求めて歩くのだろう。その行く先がどこであっても、悪い結果にだけはならない。
私はそう信じたい。
「おーいおいおい」
ただ、
「……あのねぇ、さとり」
さっきから聞こえる棒読みの泣き真似が鬱陶しかった。
「泣きたいなら他でやってくれない? こっちまで気が滅入ってくるわ」
「……貴方のせいです」
「は?」
地の底から湧き上がってくるような声。
そんな憎しみを向けられる覚えなど無い。
「貴方のせいで私の大切なものが──」
「いっっやぁー! 疲れたぁ!」
と、こいしが騒々しくドアを蹴飛ばして突入してきた。
肩に担いでいた泥棒のような巾着を落すと、汗を拭う。
一仕事終えた後の汗は輝いていた。
ちなみにこれでこいしに破壊されたドアは三枚目だ。
ハァ。
「あんたはいっつもいっつも……」
「こいし、それは?」
「んと、フランのところから……借りてきた」
ジャジャーン。
どこかで見た土色の箱がこいしの手のひらに乗っていた。
「ラジオだよ。ラ・ジ・オ」
袋の中を覗き込むと、それと同じものがもう十個ほど転がっていた。
なるほど、これが解決策なわけだ。
さすが地上、地底なんかよりも技術的には数段上らしい。
「これでも苦労したんだよ? フランの家にお願いしてぇ、それから妖怪の山にも行って、それから、それからねっ……」
本当に楽しそうに、こいしは冒険談を語る。
そこには陰りは全く感じられなくて、ただ単純に、太陽の下を渡り歩く覚り妖怪の姿があるだけだった。
──ねぇ、さとりと、私は心で話しかける。
あんたの妹はやっぱり、強いわよ。
あんたが思ってるよりも、ずっとね。
ま、そんなこと知ってるんでしょうけど。
でも、もう少しだけ信じてあげてもいいんじゃない?
無意識の行く先はその人に委ねられてて、きっとこいしは、それを間違えない。
きっとこいしは、無意識の末に泣いたりしないから。
……ねぇ? 聞いてる?
「……さとり?」
いくら呼びかけても、さとりは全く反応を示さなかった。
ただ袋の中を覗き込んで、じっと身を固めていた。
……嫌な予感が、した。
「さとr」
「──よくやったわ、こいし!」
バネのように、身体を跳ねさせるさとり。
直上には、私の頭。
衝撃。
主に鼻に。
「ぉぉぅ、すぅぅぁぁぅとぉぉぉぅりぃぃ……」
「ラジオ! レディオ! あぁよくやったわこいし。勝手に私の部屋にあったのを持って行った時はどうしようかと思ったけれど……よくやったわこいし! これでまたフランちゃんのラジオを聞けるのね! ……聞けるのねっ!」
回る、回る。ラジオを掲げて、バターになりそうな勢いで回り続ける。
と同時に、旧都の方から、数日前に始めて聞いてた歓声が沸いた。
「あぁ始まってしまったわ始まってしまうのですねっ。さぁさ聞かせてくださいなその見目麗しいお声を! あぁ、もうっ! ……もうっ!」
ワン、ツー、スリーでさとりはベットイン。
手馴れた動作でダイヤルを弄ると、顎を両手に乗せて、足をバタつかせる。
視聴のポーズの完成らしい。
「こいし、これって」
なに、と視線を送ると、こいしは袋を担ぎ直しているところだった。
「いやぁ〜、お姉ちゃんが笑顔になってくれてよかったぁ」
「え、ちょっと、待ちなさいって」
「街の方にお姉ちゃんの部屋にあったやつを持ってたのは流石にまずかったのかなぁって思ったけど、そうしなきゃみんな許してくれなかったしさ、でも、結果オーライってことで、ここはひとつ……」
「じゃなくてね?」
「ではっ! 古明地こいし。これから街へのラジオ搬送行動に行ってまいりますっ!」
ビシリと敬礼を決めると、こいしは壊れたドアを跨いで出て行ってしまった。
「不思議ですよねぇパルスィ? どうして私はこんなにもこの声に惹かれてしまうんでしょう? これは覚り妖怪にも解くことのできない謎ですよ!? なんて……興味深い!」
ギャンギャン。
ベットが悲鳴を上げていた。
ごめん、私はあんたなんか救ってやれないわ。
「パルスィぃ……ラジオに人気取られて商売あがったりだよぉ……」
ヤマメが入ってきた。
もしかして、こいしの言ってたラジオで泣いてたのってあんたか。
結局、こいしの大切に思っていたものってなんだったのだろうか。
「パルスィ!一緒に聞いて、この謎を解き明かしましょう! さぁ、さぁ!」さとりの右手は叩いたベットを砕いた。
「ぷぅぁるすぃ……嫉妬心弄ってなんとかできないのぉ?」
さとりに私のベットは破壊されてしまった。
なにをしに来たかすら分からないヤマメは、私にすがりついていた。
私は立ち尽くしたまま、肩を震わせることしかできなかった。
同じ部屋の中で、片方は笑って、片方は泣いていた。
誰かが笑ってたら、その裏では誰かが泣いてるもの。
現実の縮図がこの場にあった。
いや、
でもさ。
「これって……なんか違うでしょぉぉぉ!?」
私の叫びはみんなの声に飲まれて、消えた。
心の動きをバッチリしっかり描かれているのが実に僕の心の真中を打ってくれます
こいしちゃんが急に「謝ってくる!」と飛び出すのも、理屈でも何でもないんですが何となくわかるなあと感じます
氏のさとりはこいし以上にぶっ飛んでる気がしてとても好きです
そんな彼女を声だけでメロメロにするフランちゃんまじ妬ましい
最後の綺麗なまとまり感は見事でした
にしてもこの3人の組み合わせいいね
でも君みたいな人達が居なけりゃ世界は回っていかないんだ。
負けるな、パルスィ!
あと、作者様も負けるな! 逆に考えるんだ、自分がその魁になれるんだと。
せっかくなんでフランサイドも書いてほすぃです。