夜へと伸びる竹林に人影が二つ。
「…………」
「…………」
私達の間に言葉は無く、夜風に鳴くのは笹の音のみ。
場は圧倒的な殺伐さに支配され、月はそれから顔を背けるように雲の後ろへと姿を隠した。
薄暗闇の中、影が揺れる。お互いに少しずつ、それこそ影のように歩み寄る。
手を伸ばし合えば届くくらいの距離まで来て、私達は示し合わせたように立ち止まった。
……視線が交わる。張り詰めていた空気が僅かに緩み、それに安堵したかのように月が雲の間から顔を覗かせた。
月明かりが暗闇を剥ぎ取る。
私の髪は月明かりのように白く、対して向かいの彼女は照らされても尚、影のように黒い髪。
もう一度視線が交わる。
──瞬間、朱が舞った。
※ ※ ※
「いらっしゃい……あっ」
花屋の店員が私に近づいてくる。
何度か訪れている花屋だったが、見かけない顔の女性。歳は二十歳前後といったところだろう。
「お、お客さん大丈夫ですか? お召し物が血で……」
「そいつなら大丈夫だ」
「……店長?」
私の言葉を代弁し、店長と呼ばれた体格のいい初老の男がまるで女を庇うかのように前へ出る。この男とは初対面ではない。
「何度言ったら分かるんだ。そんな血まみれの格好で店先に立たれちゃ他の客が面食らって近寄れねぇだろうが」
「…………」
胸倉を掴まれる。服の血は乾いていたため男の手を汚すことは無かった。
「や、やめてください! この人は怪我をしてるんですよ!?」
「はっ、怪我なんかありゃあしねぇよ。そいつが前に話してた不老不死の女だ」
女の目が変わる。
「あ、あれって冗談じゃなかったんですか?」
「……さぁな」
男ははぐらかし、再び視線を私に戻す。
「花なら売ってやる。だからさっさと消えてくれ」
吐き捨てるような台詞と共に私を一瞥すると、男は背を向けて店の奥へと消えた。
私は黙って二種類の花を指差す。小さな花と大きな花。しばらくして女が私の意図を読み取ったのか、その花を数本取って束にする。
先程までの優しい瞳は既に無い。訝しみ、警戒するような瞳が私を伺っていた。
※ ※ ※
──朱が舞う。
こんなことをいつから続けているのだろうか。
私と同じく不死である少女が目の前で身構える。黒髪が揺れる。暗闇であってもそれは映えた。
──朱が舞う。
肩からの出血は勢いよく飛び散り、私の瞳を塗りつぶした。
視界が閉塞する。何度も味わったはずの痛みは決して慣れることなく、熱を伴って私を苛んだ。
──紅が、舞う。
その熱を誤魔化すかのように私は炎で包む。
何よりも熱いはずのそれは……どこか安心できる熱だった。
※ ※ ※
「…………」
花屋の女はその日も無口だった。
服はいつにも増して血まみれで、当て付けか嫌がらせだと思われているだろう。
私はいつも通り黙って二種類の花を指差す。言葉なんて要らなかった。ただそれだけでやり取りは成立した。
「お花……好きなんですか……?」
──ただその日は違っていた。
何を思ってか彼女は問いかけてくる。意図が読めなかった。女が、目の前の彼女が私の返事を待っている。
「…………」
無理やりボールを投げてきて、しかもそれを投げ返してくれだなんてふざけた話だ──そう思うことで私は黙っている自分を正当化した。
「いつも二種類のお花を買っていかれますよね。毎回種類も違うし、お部屋に飾られてるんですか?」
一方的なキャッチボールは続く。彼女の投げる球はとても緩やかで、誰だって受け取れる優しいものだった。
「…………」
でも、どんなに返しやすいボールでも受け取らなければ返せない。私は黙ったまま視線を逸らす。
「お花って素敵ですよね」
「……っ」
激しく狼狽する。突然向けられた笑顔に、私はどんな顔をすればいいか分からなかった。
黙っていたほうがいい──今までの経験が警鐘を鳴らす。周りの視線だってあるのだ。あまり踏み込みすぎると、彼女に対しての風当たりも強くなるかもしれない。
「私には、花の魅力なんて……分からない」
それでも──もう一度触れ合ってみたかった。
乾いた口の中で舌が踊る。漏れた空気は言葉となって彼女に届いた。
会話なんて所詮形の無いやり取りだ。それでは何故、こんなにも確かに温もりを感じるのだろう。それは見えないところで触れ合っているからだと、私は思った。
「ただ友人が好きで、会うときはいつも持って行くのよ」
「そうですか。まるでデートみたいですね」
「デート……ね。あながち間違ってないかもしれない」
金を渡して花束を受け取る。
花がいつもよりも綺麗に見えたのは気のせいだと思うことにした。
花束を持って歩くは石の森。ここにデートの相手がいるのだ。
そんな灰色の木々の間をしばらく歩くと、枯れかかった二色の花が見えてくる。あそここそが私の目的地、二人の逢瀬の場所だった。
「来たよ」
呟く言葉は拾われない。それも当然か。相手は墓石なのだから。
色彩を欠いた枯れかけの花と、買ってきたばかりの瑞々しい花を取り替える。それだけで灰色の墓石も幾分と華やかになった。
「いつも血まみれでごめんね。でも輝夜とやりあったあとはすぐに来たくなるから」
ここに彼女が眠っているなんて実感はまったく無い。昔は墓の意味さえ理解できなかったが、今こうして親しき友人の墓石を前にするとなんとなく分かる。
心の拠り所とでも言えば格好は良いかもしれない。でも私が感じるのはもっと別のところだ。
近くから汲んで来た水を頭からかけてやる。冬の水は痛いほど冷たいのに、何の反応も無い。そんな当たり前の光景に私は違和感を覚えた。これほどまでに無機質な石の箱に誰かが眠っているなんて信じられない。それでも墓参りをし、墓石に話しかけているのは──私の心が弱いからだろう。
適当に墓石を濡らし終えると私は腰を下ろす。線香は匂いが好きじゃないから持ってきていない。
「あんたが逝ってからどれくらい経ったかな。相変わらず、寺子屋なんてやる物好きいないよ」
あの寺子屋がどうなったかは知らない。何年も訪れていないから。
──髪が揺れる。まるで返事をするかのように風が吹いた。
※ ※ ※
「……はッ」
声が漏れる。それと同時に左足の感覚が無くなった。
対する黒髪の姫は右肩を押さえて私を見据える。足元には尋常じゃない量の血が溜り、強烈な異臭を放っている。
「くッ……」
筆舌に尽くしがたいほどの痛みに思わず顔が歪む。
信じられないほど痛くて、それなら夢だと目を瞑るのに、痛みが強すぎて目が覚める。
「はっ、あ……はぁ……」
彼女も息を荒げ、目は虚ろ。黒く美しい髪は血で乱れて、どこかぼんやりとしている。
……先程の血の生臭さとは違う異臭が鼻腔を突いた。肉の焦げた臭い、それは目の前に佇む彼女のものだった。
今夜はそろそろお互いに限界かもしれない。そう思うと少しだけ痛みが和らぐ気がした。
天を仰ぐ。月はあんなにも綺麗なのに、私の周りはこんなにも醜い。
自分の寝床に辿り着いた時には身体の痛みもほとんどなくなっていた。
畳の上に汚れたままの格好で倒れこむ。イグサの香りが心地よかった。
天井を見る。思いのほかつまらなかったので首を動かして目線を変えた。
壁を見る。汚い壁だった。そんな汚い壁に、一枚の写真が粗暴に画鋲でとめられている。
──そこには二人の女が映っていた。
『はい、撮りますよー』
鴉天狗の彼女がカメラを構える。次の瞬間、小さな光が目を突いた。
『うっ……』
『………………あららら、目を瞑っちゃってますね。撮り直しましょうか?』
『え、本当に?』
自分の無意識下の行動に困惑していると──
『妹紅が面倒なら今のでも構わないよ』
──隣の彼女が先に答えていた。
『駄目だよ慧音。折角なんだからちゃんとしたのを撮ってもらわなきゃ』
椅子に腰掛けた彼女が小さく笑う。歳を重ねたからか、昔よりも彼女の口調は柔らかくなった。
顔には無数の皺。刻まれる──と表現すれば時の残酷さが際立つが、それでも彼女の笑顔は品がある。
寺子屋を背にして、足の悪い慧音には椅子を持ち出しての撮影だった。
再び鴉天狗がカメラを構える。どうせ撮るなら道楽でカメラを振りまわす奴よりも、職として扱う人にと思ったが、そんな金も無ければそんな知り合いもいなかったのだ。
『それじゃあこっちを見てくださいねー。はい、そのままそのまま』
再び光が目を突く。今度は瞑らずにいられた。
『………………はい。結構ですよ。綺麗に撮れました』
写真が手渡される。真ん中に慧音を捉えて、その斜め後ろに私が立っている形だ。
慧音は柔らかく笑っているのに、私は想像以上に無愛想な表情だった。
『あら、本当に綺麗に撮れてますね』
『うーん……』
私的には少々不満が残るけれど、慧音が気に入ったのなら文句を言えるわけがない。
『……すみませんけど、最初の写真も頂けますか?』
『いいですよ』
慧音がもう一枚写真を受け取る。私も後ろから覗き込むようにそれを見る。
『うわぁ、これは駄目ね。撮り直して貰って良かったよ』
『ふふ。でもこういう写真が一枚あるのもいいと思うわ』
そう言えば私が何も言えなくなる事を彼女はよく知っているのだ。
『いやぁそれにしてもお二人はあれですね。あ、もし気を悪くされたら謝りますけど、まるで──』
『──親子みたいですね』
笑いながら彼女は言った。
『それは、まぁ……当たらずも遠からずと言ったところでしょうか』
笑いながら慧音は言った。
『…………』
私は何も言えなかった。
「……………………」
この写真を見ると、いつもこうして思い出してしまう。だから墓参りに行く余裕のある日は、家に帰らずそのまま向かうのだ。
慧音に半ば無理やり撮らされたものだったが、今思えば撮っておいて良かったと思う。絶対に忘れないとか、胸の中に生き続けるとか、綺麗な言葉はたくさんあるけど形に残すことも大切だから。
でも、その写真もだいぶ色あせてきた。
「ごめん……私はもう、いつ撮ったかさえ思い出せない」
色あせているのは写真だけではなかった。
※ ※ ※
月明かりを受けながら竹林を歩く。
夜風は冷たく、身体に隙間があるのではないかと思うほどに心が冷める。
歩き慣れた道。この先に輝夜がいるはずだ。
待ち合わせなんてしてない。いない時だってある。ただ、こんな夜はいつだって──
「…………」
──無口で待ってるんだ。
長い黒髪が夜風に揺れていた。今夜も私達の間に言葉はない。
輝夜が動く──。
いつまでこんなことを続けるんだろう。
いつまで傷つき合わなければならないのだろう。
輝夜が歩み寄る──。
分かっている。これはお互いを埋めるための儀式だ。
苦しみを痛みで埋めるための悲しい儀式。
輝夜が手をかざす──。
言葉も無く、夜風に曝されながらの殺し合い。
こんなことを続ける理由は見当たらない。でも、やめる理由も見当たらなかった。
──白髪が夜風を切る。
「慧音、私はどうしたら……」
※ ※ ※
『嫌だったら答えなくていいけど』
『うん?』
その日は慧音の家に泊まって、一緒の部屋で寝ていた。
『死ぬのって怖い……?』
『…………』
慧音は答えない。
『あぁ、ごめん……』
『……何で謝るの?』
『やっぱり、言葉にするようなことじゃないなと思って』
再び静まり返る和室。背中を向け合って寝ているため、私に彼女の表情は分からなかった。
『死ぬのは……怖くない』
『えっ?』
『怖くないけど、すごく悔しい』
『……そう』
『人よりは長生きできたし、概ね満足はしてる。でも、死ぬってことは可能性がゼロになるってことでしょう? ゼロは……いやだ。なんの望みも無い』
──── 血を流しても ────
『何してるの?』
慧音が庭先でなにやら水をあげていた。
『古い知り合いが桜の苗木をくれたんだ。ここは日当たりもいいし、綺麗な花を咲かせると思って』
彼女の手にはジョウロ。その先には膝の辺りまである苗木が植えられている。
私は言おうかどうか迷った。それでも、汗を拭い懸命に水をやる彼女の後姿を見ると……言わずにはいられなかった。
『慧音、今から水をやったって、あんたは桜を見れないでしょ』
胸が痛む。それでも無理されて体調を崩されるほうが私には嫌だった。
『そうね。たぶん……いや、絶対に見れない』
『……うん』
そう言う慧音だが、水やりをやめようとしない。
『でも、妹紅がいるじゃない』
『えっ……?』
『妹紅なら何度だって見れるじゃない。きっと綺麗な桜だ。その日の為に水をやってると思えば、それほど苦じゃないよ。お前も綺麗だと思ったら少しは笑ってくれ。そうすれば間違いなく私は報われるから』
──── 血を浴びても ────
『雨は嫌い』
『そう?』
私の呟きを慧音が拾う。買い物に付き合った帰り道、雨に降られての相合傘だった。
『夏はじめじめするし、冬は余計に寒くなる。雨なんか無くていいわ』
『そりゃ嫌なところだってあるけど、私は雨って好きだよ』
右手に傘、左手に買い物袋を握った私の足元で水が跳ねる。
『ちょ、ちょっと、服が汚れるよ』
『どこにだってある普通の水溜まり。でも良く見れば沢山の波紋と水しぶきが見えるでしょう? まるで何かが水溜まりの上を走り回っているみたいじゃない。そう考えれば、こんな水溜まりにだって趣を感じるわ』
『そう……?』
『そうよ。それに雨が降ると景色が変わるでしょう? 見慣れた光景も雨に塗り潰されて新しく映る。雨の音も賑やかで楽しいわ』
──── 肉を切られても ────
『……かっ、は』
慧音が血を吐く。
『お、おいっ! 早くなんとかしてよ!』
『静かに』
永琳が慧音の脈を測る。
『……危ないわね。思いのほか進行が早いし、このままじゃ想定していた余命程も持たないかもしれない』
『そんな……』
『とりあえず横向きに寝かせて』
言われたとおりに慧音を寝かせる。
『はっ……あ』
『……っ。こ、このまま死んじゃうなんてことないわよね……?』
『そんな顔しないの。当然じゃない』
永琳は持参した鞄に手を伸ばす。と、唐突に部屋の襖が開いた。
『……もう来ていたのか』
突然、男が現れる。白衣を纏ったその姿は医者のもの、恐らくは里の医者だろう。
『里の者達から話は聞いている。さあ医者が来たんだ、お前達は帰ってくれ』
『何言ってんの? 医者なら間に合ってるわよ』
『その女は薬師だろう。昔でこそ医者と薬師は同義だったが、今では内科外科と様々な分野がある。生薬治療を専門とする薬師にこの患者は任せられん』
『何を勝手な……』
苦しむ彼女を目の前にしてまでする口論じゃない。私は強烈な苛立ちを覚えたが、それは永琳の手によって制された。
『それじゃあ貴方ならこの患者を救えるのね?』
『ちょ、ちょっと……』
『最善を尽くそう』
何か気に障ったのか、永琳は表情をより一層険しくする。睨み合う二人の視線が外れたのは患者が動いたからだった。
『……先生、この方は私の友人です。信頼できる方ですから』
『喋るな、恐らく肺からの出血だ。あまり無茶をすると呼吸困難を併発する』
『先生を信頼していないわけではないんです。でも、彼女とは縁があって、診てもらってて……ごほッ……!』
咳に潰されながらのか細い声。口の端を紅に染めて慧音が言う。
そして男は目を瞑ると、一人静かに頷いた。
『……仕方あるまい。患者の意思尊重も医者の務めだろう、私は帰ることにする。押しかけてすまなかったな』
『…………』
無言で見送る私達を余所に、男は一度も振り返らず出て行った。
『感じの悪い男ね』
『里医者にとって私は商売敵だから。一番身近な医療は薬、薬は重要な収入源であると共に医者にとって命ともいえる信用の獲得にも繋がるわ。それを私が邪魔してるようなものだもの。昔に比べて私の薬は沢山里に出回るし、私を良く思わない医者がいたって不思議じゃないわよ』
そう流暢に語ってはいたが、彼女の手元では着々と治療の準備が進められていた。
『あの男には彼女がただの老衰による喀血だと思ったのでしょうね。ちょうどいいから貴方にも言っておくけど、これは普通の老衰じゃないわ。原因不明の急激な老化、その急激な身体変化についていけない内臓及び各器官の損傷、それが彼女の生命維持を困難にしているの』
『…………』
『獣人の寿命がどれほどか知らないけど、多少は老いを見せてもいいはずの彼女があまりにも長く若い姿を保っていたわ。だからその反動がこの数年で一気に来たとしか考えられない。つまり異常だったのは今までの方だったわけ。それを覆すのは医学じゃ無理ね』
鞄を漁りながら永琳は言う。彼女の話を聞けば聞くほど希望が刈り取られていく。
『それは……あんたでもってこと?』
半ば諦めていた。仕方が無いと、慧音本人が受け入れているのに私が騒ぐのも違うと思っていた。でも、それでも慧音のあんな姿を見たら、どうしようもなくすがりたくなる。
永琳の視線がこちらに向けられる。深みのある瞳からは溢れんばかりの自信を感じとれた。
『治せるかどうかで言ったら────』
『え……』
あっさりと放たれた言葉は私が一番求めていた言葉だった。
『さぁ、ここからはあなたも席を外して頂戴』
『あっ、ちょっと今治せるって……』
部屋を追い出される。追い出される際に慧音を見た。苦しそうな表情、酷く目に沁みる光景だった。
──── 骨を折っても ────
『あんた……』
永琳を問い詰める。
『ちょっと、痛いじゃない』
『なぜ慧音が死んでるのよ……?』
絶対安静。医者としての永琳を信用していた私は言われたとおりに慧音の元を訪れるのを自粛していた。それなのに──
『今朝里に行ったら葬式の用意、わけがわからないわ。あんたの治療はうまくいってたんじゃないの!?』
永琳は困ったように目を伏せる。だがそれも束の間、すぐに力強い瞳で私を射抜いた。
『勘違いしないで。まず第一に彼女は救いようが無い状態だった。できて延命、それも奇跡の力を借りてこそ実現できることよ』
『それでもあの時のあんたは治せるって言ったじゃない……!!』
言葉と同時に感情がせり上がる。言葉は口から抜け、行き場の無い感情は涙となって溢れた。
『そう、治すこと自体は可能だった。自分で言うのも可笑しいけど、私は薬という形で奇跡を具現化できるもの。そしてもちろんあの時も治すつもりでいたわ』
『じゃあ、なんでよ……』
『……気が変わったから、かしらね』
『…………』
絶句。
『あ、あんたはそれでも医者なの……?』
声が震える。怒りではなく、畏怖に近い。
『医者と名乗った覚えはないわ』
『…………』
慧音の死に対して実感が無い。亡骸を見たわけでもないのに、昨日まで生きてると思っていた友人が、もうこの世にいないなんて信じられるわけがない。
だから畏怖、恐怖心が先に来た。理解できないことに対する恐怖、気持ちの悪い吐き気を伴った寒気がする。
『……お葬式、行かないの?』
『…………っ!!』
瞬間、怒りが恐怖を凌駕した。
拳を上げる。永琳は黙って殴られた。
──── 何も感じず ────
『変死だったそうよ』
『えぇ? 私は老衰って聞いたけど』
『それがね……』
話し声が聞こえる。
形式だけの葬式、遺影なぞあるはずもない空虚な儀式。
あまりにも現実味が無くて、私はもう涙も出ない。
『獣人というのは皆ああいう死に方をするものなのかねぇ』
『さぁ、稗田様の話では後天的な獣人だったらしいが……』
出席してる人間達も形式だけ。
慧音の教え子、彼女が最後に世話した子供達だって里には沢山いるだろう。今はもう立派な大人かもしれないが、それらしい姿を見つけることはできなかった。
『私が物心ついたときにはもう体調崩してたみたいで、あんまり里でも見かけなかったわ』
『そうね。もう何年も前に体調が芳しくないって聞いてたけど、外も出歩けないような状態が何年も続くようなものなのかしら?』
『私に聞かれてもわからないわよ。人間とは違うんじゃないの?』
焼香を済ませに前へ出る。
作法なんて知らない。私も形だけの焼香。
目を瞑る。心の中で、彼女に対して語りかける。
──これで良かったの?
教え子なんて誰も来ない。誰もあんたのことを理解してない。
獣人だと一線を引かれ、雑談で満ちる葬式。
人の為に教え、生涯を捧げたあんたの最期がこれじゃあ…………あまりにも救われないじゃない。
──── 全てが虚しい ────
殺し合いの最中、いくつもの回想が頭をよぎった。
思考が曇り、動きが鈍る。そんな隙を輝夜は見逃さない。
いくつもの光弾が私を穿つ。
痛みと熱に支配されながらも、今夜に限って慧音のことが頭から離れなかった。
追い討ちをかけるように光りが弾ける。
私は血飛沫を撒き散らしながら…………………………何故か泣いた。
※ ※ ※
気が付くと空を仰いでいた。
夜は明けて、輝夜はいない。私は仰向けに倒れたまま目を閉じた。
「よく飽きずに続けられるわね。輝夜も貴方も」
目を開ける。見下ろす形で永琳が私を見ていた。
会うのも久しければ声を聞いたのも年単位で久しぶり。あの日を境に竹林の道案内もしなくなった。今まで会う理由もなかったし、会いたくない理由なら十分すぎるほどにあったから。
と、永琳が何かを拾う。
「……汚いわよ?」
「あら、どれだけ汚れていてもうちのお姫様の物ですもの。汚いなんて思わないわ」
血と、焦げで汚れたその櫛は輝夜のものらしいが、どう見たって使い物になるとは思えない。
「それに、拾えるものは拾えるうちに拾う。後悔しないためのコツよ」
「…………」
会話はそれで途切れた。
「…………」
「ちょっと用があるんだけど」
「……なによ」
こうやって言葉を交わしても、もう怒りは湧かない。いつだって時間の力は圧倒的だ。
「大切な用なの」
「だから、なに?」
「まあこれから往診だから今は無理なんだけど」
「はあ?」
意図が読めない。
「貴方、暇でしょう? ちょっと付き合ってちょうだいな」
「なにに」
「往診」
「なんで」
「暇じゃないの?」
「…………」
疲れていた。正直付き合う気なんて微塵も無かった。
でも今独りでいると彼女の事を思い出してしまう。思い出すたびに胸が痛くて、だったらまだ動いていたほうが楽だと思った。
「それじゃあ服だけ取り替えてきて頂戴。患者に会うのに血まみれの格好なんて不謹慎だわ」
部屋には一人の少年が寝かされていた。その脇に母親らしき女性と白衣姿の男が座っている。
「貴方が竹林の薬師ですか。いやぁ、お初にお目にかかります。僕は──」
男が自己紹介をする。若く見えるが医者らしい。
「お会いできて光栄ですねぇ。貴方の薬はどれも素晴らしくて、どうやったらあんな薬が作れるんです?」
「真心を込めていますから」
「え? ……いやぁあっはっは。面白い方だ」
若いからか、男に医者独特の堅苦しさはまったく無く仕草のどれもが歳相応に映る。
「話は親御さんから聞いてますよ。安心してください、あとは僕が引き継ぎますから」
「……どういうことでしょう?」
永琳が首を傾げる。それを見て傍らの母親が申し訳なさそうに頭を垂れた。
「すみません八意さん。先生が自分でなければ危ないと仰って……」
「そうです。そもそも、こんな容態のお子さんを薬師である彼女に任せてたのが間違いなんです」
またか──と、どこか頭の片隅にあった記憶と今が重なり、それは苛立ちとなって沸々と湧きだす。
「彼女の薬は確かに素晴らしい、私には真似できません。しかし言い方は悪いかもしれませんが所詮は薬師なのです。できるかできないかで言ったらできないことの方がはるかに多い」
「ちょっと」
自然と口が動く。
「さっきから聞いてると可笑しなことばかり言って」
胸が熱くなる。何かがざわつく。
「そんなに肩書きって大切なの? 人を救うのは肩書きじゃないでしょ? 何百人と診てきた薬師より、数人程度しか見てない医者のほうが安全だっていうの? 違うでしょ」
「お嬢さん、君は何か勘違いしてるね。僕が言っているのは薬師と医者では分野が違うということだ。そして今、そこの彼に必要なのは医者である僕だと言ってるんだよ」
「私は薬師とか人間じゃないとか、そういう部分で区別されるのが大嫌いなのよ。あんたがさっき言ってたのはそういうことでしょ!?」
「妹紅いいのよ。彼が言っていることは概ね正しいわ」
私を落ち着かせるように、永琳は極めて優しい声色で言う。
肩に手を置かれ、触れられた感覚と僅かな体温が私を引き戻した。
「お母様が納得されているのであれば、私はこれ以上何も言いません」
永琳の視線が母親を射抜く。決して威圧するようなものではなかったのだが、母親はしばらく考えるように顔を伏せてしまう。それからほんの数秒、それで母親は小さく頷いた。裏切りの成立、結ばれていた信頼関係を一方的に断ち切られた瞬間だった。
「それに貴方なら助けられるのでしょう?」
永琳が踵を返す。彼女は、去り際のその言葉に一体どんな返事を期待したのか。
「手は尽くします」
そんな言葉を背に受けて家を出た。
「あれでよかったの?」
「ええ」
どうせすぐに泣きついてくるわ──と一言、彼女は歩き出す。
横に並ぶ。その時の彼女の表情は初めて見るものだった。
※ ※ ※
あの時と同じように少年が寝ている。
腹部には傷跡、散らばる器具達は銀を紅く染めていた。
傍らには里医者の男が座り込んでいる。そして畳を見て……いや俯いているのだろう。
「まさか……膵臓癌だったなんて……」
いつからそうしているのか、よく見れば濡れた血のどれもが固まっている。呆然とするその姿からは以前の自信に満ちた風貌は窺えない。
「体力の弱りきった患者に対する長時間の術式、それでも死なせなかったのは流石といったところね」
「…………」
それは嫌味だったと思う。少なくとも私にはそう聞こえたが、男には言い返すだけの気力すら無いようで何の反応も示さない。
「や、八意さん、息子は……もう駄目なんでしょうか……?」
擦り寄るような甘ったるい声。何を今更──と私は吐き捨てたくなるが、永琳自身は至って普段通りだった。
「お母様、私は道楽や慈善で医療を手がけているのではありません。私には農業よりも医業が向いていたというだけで、里の皆様方が農作物を作るのと同じように、生活を豊かにしたいから行っているんです。ですから以前のように、私では不安だと仰られれば文句無く引き下がりましょう。なぜならこれは仕事だからです。仕事での取り決めは約束ではなく、契約ですので、これが破棄された時点で私には関係がなくなるからです」
「……はい」
「ですが、再びこの少年の管理を私に一任していただけるのなら、再び契約を交わすことは構いません。もちろん、治療代は正規分頂きますが」
「ほ、本当ですか!?」
無機質な単語をわざと選んで並べたような永琳の言葉。そこに嘘は無いだろうが、恐らく核心も無いだろうと私は思う。
「馬鹿な……末期の膵臓癌だぞ? 自慢じゃないが、膵臓癌の完治例なんて聞いたこともない。ましてや末期、しかも薬師の貴方では……」
「私は医者と名乗った覚えもなければ、薬師と名乗った覚えもありません」
「……そうでしたか?」
「ええ。ですから、ただ知識を蓄えて驕っているだけの女かもしれませんね。なので、その傲慢さに見合った言葉を贈ります」
「────この少年を絶対に助けましょう。絶対に、ね」
こちらが気圧されるほどの圧倒的な自信。それは視線を逸らしたくなるほどに、大きく、澄んでいる。
「……綺麗事だ。経験の長い貴方こそ、それをよくご存知でしょうに」
「そうですね。言葉では何とでも言えます…………ですから、何とでも言うのです」
「滅茶苦茶なことを言いますね」
「貴方は、もちろん人を救ったことがおありでしょう? 人を救った医者は、まるで神のように崇められる」
「それは……親族からしたら可笑しからぬ反応じゃないですか」
「患者を救うのが医者なら、患者を殺すのも医者なのです。"最善を尽くす"なんて不透明さ、私にはいりません。人を救って持てはやされるなら、人を死なせてしまったときくらい、医者は悪者になるべきだと私は思います」
白衣が舞う。その慣れた手つきが彼女の自信を後押しする。
「もはや暴言ですね。それに貴方は、医者と名乗ってはないのでしょう?」
「…………。さて、無駄話はこれくらいにしましょう。この拾える少年の命────」
「────拾えるうちに、拾いわなければなりませんから」
それが奇跡を起こす最後の呪文だった。
※ ※ ※
「──まあ、その日は簡単な処置だけだったんだけど」
話し相手は墓石。眠る彼女が返事するわけもなく、結局私の独り言になってしまう。
「んでさ、後日あいつがどんなことをしたか知らないけど、子供は助かったみたいだよ」
「…………」
「……それであんたは──」
隠れるわけでもなく、彼女は私の後ろに立っていた。
「──何しに来たのよ」
件の女、八意永琳。
「この前から言ってるじゃない。大切な用があるって」
「……ああ、そういえばそんなことを。あの日、結局付き添わせただけであんたが何も言い出さなかったんじゃない」
「そうだったわね」
ついこの前会ったばかりなのに……彼女の墓石の前だから、どこか平静ではいられない。
湧き上がるそれは説明のできない情感。憎しみ、恨み、それらとはどこか違う気がする。
「貴方は……いえ、貴方達はいつまで血を流し続けるの?」
「私と輝夜のこと? 別に、今に始まったことじゃないでしょうに」
「いいえ。今に始まったことじゃないからこそ、貴方達は終わりを考えなければなりません」
「……ん」
突き出される彼女の手。その手には質素な封筒が握られていた。
私は受け取り、彼女の目の前で封を切る。中には折りたたまれた数枚の紙、薄っすらと透けて見えるそれは手紙のようだった。
「これは彼女の忘れ形見」
「彼女ってまさか……」
手紙を広げる…………あいつの、字だった……。
──── 今、これを読んでいる妹紅へ
──── きっと私は貴方の側にはいないでしょう。何故ならこの手紙はその日の為に書いたものだからです。
「……なんで、あんたが……」
「最後まで読みなさい」
──── 私は死んでしまいました。ですが不幸ではありません。少しだけ、長生きできましたから。
──── そして八意さんには迷惑を掛けてしまいました。
──── 彼女は懸命に私を助けようとしてくれたのに、私がそれを断ったからです。
「…………」
言葉が出てこない。文句を言いたいのに。都合よく墓石の前だ。何か言ってやりたいのに、胸が熱くなるだけで何も言えない。
──── 彼女は私を助けられると言いました。そして、助かるべきだとも言ってくれました。
──── 私も生きるのが辛かったわけではありません。死ぬことに、悔いを感じていたことも事実です。
──── だけど、死ぬときに死にたかった。しがみつくことだけはしたくなかった。
「……っ」
震える。何故かはわからない。手紙の内容だって、単語を読み取れるだけで、彼女が何を言いたいのか、伝えたいのか、私には何もわからなかった。
──── 寝ていると暇で、私は昔のことを何度も思い返していました。
──── 妹紅とは付き合いも長かった。でも同じくらい、私は寺子屋とも付き合ってきたわけです。
──── 思い出の幅は狭かったけど、どれも色濃く残っていて、思い出すだけで表情が動きます。
──── そして、振り返り終わった私は満足できたのです。自分の生涯に、納得できたのです。
受け止めきれない。何年……耐えたと思ってる。私の中のあんたを、どれだけの時間をかけて小さくしたと思ってるんだ。それをあんたは、手紙の姿を借りて掻き乱す。
──── 納得した上でもう一度考えてみました。しっかりと見つめてみました。
──── そして、納得することができたのです。死ぬことに対しても、私は頷くことができました。
「気が変わったっていうのは……」
息継ぎをするように視線を逸らす。手紙から流れてくるモノが強すぎて、読み続けるだけで息が上がる。
永琳は黙って目を瞑っていた。目を瞑ることで、居ながらにして干渉しないという意図が汲み取れた。それはしかっり向き合えと、厳しいながらに優しさを感じさせる彼女の促しなのかもしれない。
──── 死を受け入れられるということは幸福なことかもしれません。
──── 妹紅は納得してくれますか? きっと難しいことだと思うけど、妹紅にも納得して欲しいです。
──── そして妹紅にも、しがみつくのはやめて欲しい。もう、踊り場で踊るのも飽きたでしょう?
「私には……」
──── 私の階段は人より長めでしたが、しっかり上りきって死んだと、胸を張って言えます。
──── しかし妹紅の階段は終わりが無いものです。上り続けることは無理でしょう。
──── ですから、踊り場で休み、寄り道をすることも大切なことだと思います。ですが、
──── 貴方は少し、甘えすぎました。
──── 自分にも、周りにも、貴方は甘えすぎです。
──── いつまでも甘えていいのは幼い子供だけ。貴方は違うでしょう?
「……わからない」
──── 先の見えない貴方の階段。見上げるたびに不安になると思います。
──── ですが、いつまでもそこに居ないで、上り始めてください。
「理解できない」
──── そこから見える景色は綺麗ですか? 楽しいですか?
──── そこには、私も居なければ、私の見た景色もありません。
──── この手紙は人に託そうと思っています。そして、託した方のタイミングで渡してもらおうとも思っています。
──── これを読んでいる今、もしかしたら側に居るかもしれませんね。
「…………」
──── 貴方は独りですか? 見回してみてください。きっと、思い浮かぶ顔はあるでしょう。
──── それは貴方が歩み寄れば、きっと受け入れてくれる人たちです。
──── 血を流すことでしか疎通できない貴方と彼女は間違いなく不器用です。
──── ですがその血は、無駄に流していいものではありません。
「貴方の血は、貴方自身を生かす為にあるのだから」
永琳が、自分の言葉を重ねる。
──── 傷つけ合えば血は流れるだけです。
──── しかし触れ合えば、それはお互いの温もりを、体温を伝える優しい役割を果たします。
──── だからまず歩み寄って、触れ合うことを覚えてください。
「なんであんたは──」
──── 妹紅は優しい。でもその優しさは不器用さが邪魔して、遠巻きには見えにくい。
──── それ故に、向こうから歩み寄ってくる人は少ないでしょう。これは妹紅の損な部分です。
──── だから歩み寄って、自分をちゃんと知ってもらう必要があるんです。
「──死んでまで私のことを言うのよ……」
──── 心配だから、書いてるんです。
まるで返事をするような手紙の文面。偶然と理解しながらも、私は慧音の面影を目の前に見た。
「私は……優しくなんかない。慧音がいつだって優しかったから、柔らかく返してたんだ。死んでそんなこと言われるより、生きて、隣でどうでもいいことを話してくれてた方がずっと良かった」
──── 優しさを優しさだと気付ける妹紅は間違いなく優しい。
──── そしてそれは一番好かれやすいモノです。自分の長所だと、誇っていいものなんですよ。
「でもっ! 私の手は血で汚れすぎた。こんな紅く汚れた手で、今更触れ合えるわけがないじゃない!!」
──── 確かに貴方の手は紅い。でもそれは私達と同じ血の通った手だからです。
──── 傷つけられれば痛いし、同じように血も溢れる。誰とも違わない暖かな手です。
熱を感じていたのは胸だけだった。なのに、いつのまにか目まで熱を帯びている。零れた何かが頬を伝い、それが涙だと理解すると、それは勢いを増して溢れ出す。
「私には、人の為に桜を咲かそうとか、雨が楽しいとか、そんな風には思えないの!! 慧音とは全然違うんだよ……!!」
目の前に浮かぶ彼女の面影。若き日の、二人が笑ってばかりだった頃の彼女の姿。それに向かって私は叫んだ。
──── 今はわからないかもしれない。でも、手探りでもいいから進んで欲しい。
──── 妹紅にはもっと色んな景色を見てもらいたい。そして私の見た景色も、いつか見て欲しい。
──── 私よりももっと高い場所からの景色だって、妹紅なら見れるでしょう。
──── その時は、お墓の前ででも聞かせてくれたら嬉しい。今はそれを楽しみに筆を置くことにします。
「ま、待……」
面影は消え、目の前には石の箱。
呼び止めようとした言葉を飲み込んだのは……今さっき、彼女にしがみつくなと叱咤されたからだった。
「…………」
手紙はそこで終わりだと思う。何しろ目が滲んでよく見えない。こんなに沁みる手紙は初めてだ。
色々言われた。彼女はどんな顔をしてこの手紙を書いたのか。痛む身体に辛そうな表情を浮かべていたかもしれない。手紙も所々の文字が大きく歪んでいた。
でも、もしどんなに小さくても、笑みを携えていたのなら、私も彼女も多少は救われる。そして不思議なことに、私は後者であると思えた。
「…………」
永琳が、私が何か言い出すのを待っている。
一度天を仰いだ。ただ空が広がっているだけ。だけど、余計なものが無い分少し落ち着きを取り戻すことができた。
「……美人だったわ」
「彼女?」
「そうよ。慧音は美人で、優しくて、教養があって品もあって」
並べた言葉の全部が面と向かって言ってやれなかったことばかり。
「言い寄る男だって居たかもしれない。寿命だってそこいらの妖怪と比べたら全然大したことない。家庭を築くことだってできたでしょうに。そうやって、人並みの幸せってやつを得たって良かったのよ。いや、そうするべきだった。子供だって好きなはずだわ。自分の子供に愛情を注ぐ幸せだってあるはず。なのにずっと…………」
「……そうね」
「そうよ。あいつだって、ずっと一人だったんだわ。独りじゃなかったのかもしれないけど、きっと一人だった。あいつにこそ、幸せは巡るべきだったのよ」
「でも彼女は満足だと、納得できたと言っていたわ。手紙にも書いてあったのでしょう?」
「……うん」
「彼女は貴方が、自分の思い出に拠るだろうということを理解していた。だからどうしても表情を歪めてしまう死の直前、少しでも辛そうな表情を貴方に残したくないからと彼女は貴方を遠ざけた。こらから死ぬ彼女が他人に気を配れるほどの余裕を持っていたのは、彼女自身の人柄もそうだけど、やはり、納得できていたという部分が一番大きいでしょう」
「わかってる。あいつが自分で納得した死だってことは、もう十分に」
決別しなければならない。
甘えていると彼女は言った。自分の境遇と、周りの反応に甘えて、いつまでも繰り返していた。
「……貴方が望めば、いくらだって私達は応えられるのよ?」
慧音は信頼してこの手紙を永琳に託したのだろう。そしてそれは正解だった。私一人が間違っていたのだ。
ずっと手紙を渡さなかったのは、私の足掻く姿を期待したからだろう。慧音が居なくなって、それをきっかけに何か変わってくれるならと。そうすればこの手紙だって笑って読めて、本当に、ただの忘れ形見になったかもしれない。
なのに視野を狭めて、視界の外に追いやっていた。きっと永琳はずっと私を見ていたんだ。自分の患者から、慧音から受け取った、こんな薄くも重い一つの手紙を渡す機会を窺っていた。そして彼女は一番いい形で渡そうとした。だから今まで渡せずにいた。怠惰に流され何もしない私を見て、渡すのを躊躇い続けた。そして今日、いや、往診に誘ったあの日に、長く堪えた彼女の思いやりは、我慢の限界を迎えた…………。
結局永琳にも甘えていたのだ。知らずに、という言い訳はできない。そして私は、慧音の手紙を最後の甘えにしなければならない。
「求めることは甘えじゃないわ」
「……そうね。でも、その優しさは受け取れないよ」
笑って読んでやりたかった。何を言ってるんだ、心配性だ、と笑いながら読んでやりたかった。
────でも、手紙はわけのわからない涙で染みを作っている。
「格好つけさせてよ。ここで甘えたら、駄目でしょう。それに手を取り合うにはまだ早いわ」
「……普段のクールさは欠片もないわね」
彼女はそれを別れの挨拶に背を向ける。
「楽しみにしてるわ」
「期待してくれていいよ」
最後に私は強がった。
別にこれからすべきことなんて見当もつかないけど、すべきでないことなら教わったから。
──風が一度、強く吹いた。
背中を押すような強い追い風。
私はソレを、ただの風だと思うことにした。
※ ※ ※
月の綺麗な夜だった。いつもならこんなことに気付かず、血を流すことを想像して恐恐としていただろう。
「……よぅ」
「…………」
その月の姫であるという彼女に声を掛ける。振り向いた顔は美しくも暗い。月を背にしているからというだけではないはずだ。
いつものようにゆっくりと、彼女が私に向かって歩み始める。久方ぶりに声を掛けたというのに変わった反応は無い。
「止まって、輝夜」
ピタリ──と、輝夜は素直に動きを停止する。
「……今日は随分とお喋りなのね」
「あんたも」
会話を交わしたのはいつ以来か。すぐには思い出せないほどの昔である。
だが違和感は感じない。疎通の形が違うだけで、コイツとは向き合ってきたのだから。
「もう、こんなことはお終いにするわ」
そして今夜、この儀式を終わりにする。それがここに来た目的だった。
「……ふ、」
「なによ」
「冗談でしょう? このやり取りはお互いに必要だから繰り返して来たんじゃないの」
「今まではそうだった。でも、もう私にはいらない。こんな────
────辛いだけの儀式」
「………………はっ!!」
輝夜の姿が弾けて消える。気が付くと私は押し倒されていた。
首に手を掛けられる。殺そうとする渾身の圧力……だがそれは少女のもの。振り解くことは容易いが、それでは何も変わらないだろう。
「……っ」
首に当てられた手を握り、腕の力だけでそれを押し戻す。
「くっ……炎でも出せば手っ取り早いでしょうに……っ」
手を強く握ったまま身体を起こす。輝夜と同じ目線に顔を持っていく。
「なによっ……!! 本当に貴方、やめようだなんて思ってるの!? どうしちゃったのよ……」
私は足を伸ばして座り、その腿に跨る形で輝夜と向き合った。
次第に彼女の手から力が抜けていく。だが離しはしない。目の前に居る自分を強く認識させたくて、私は反比例するように彼女の手を強く握る。この繋がった部分から伝わる体温は、確かに輝夜のものなのだ。それを強く意識して、私は口を開く。
「ねぇ、もういいでしょ?」
「……なんでよ」
髪を大きく揺らして輝夜が睨む。その瞳は、僅かに濡れていた。
「輝夜こそ、なんで泣いてるのよ」
「……今まで散々繰り返してきたじゃない。殺し合いを繰り返して、繰り返せるのは私達だからできるんだって思って、そこに何か意味があるんじゃないかってずっと探してるうちに、探すことが意味になって…………」
「…………」
「貴方だってずっと応えるから、これに拠っていいんだって思って……。なのになによ……っ、急にやめる? 貴方は別の拠り所を見つけたんでしょうけど、私にはこれしかないのよ? これに拠って今まで生きてきたの。それを突然無しにして、私の隙間はどうやって埋めればいいのよ……っ!!」
取り乱す輝夜。やっぱり輝夜も私と同じだった。何の目的も無く生きるのは辛すぎる。だから探して、それでも見つからないから必死で埋めようとしていた。
「それは自分で見つけるしかないよ」
「別に今更新しいものに移らないで、今まで通りでいいじゃない……。不満なんてなかったわ」
「輝夜……」
「貴方だってそうでしょう……? だから気の遠くなるような長い年月、繰り返してきたんでしょう!?」
「違う……!!」
大声で叫ぶ。すぐ目の前に居る輝夜がビクりと肩を震わせた。
「私は痛いのは嫌だ!! 何度も意識が廻って、あんな辛い目に遭うのはもう嫌なのよ!!」
「な、なにを……」
「輝夜だってそうでしょう!? 痛みを良く感じるなんて、それは本当の痛みじゃないわ。でも私達はずっと痛かったはずよ。目を逸らしてただけで、本当は泣きだしたいくらい痛かった。いつだって大声を上げて泣きたかった!!」
「うっ……っ……」
どうしようもなく情けない顔。だがそれを一体誰が笑えるだろうか。何故なら今の彼女が、偽り無い本物の彼女なのだから。
「それにさ、この前永琳の仕事に立ち会ったのよ。そんなすごいことはしなかったけど、でも、すごいと思った。私と同じで死なないのに、あいつ、すごい活き活きしてるんだもの」
「…………」
「ヘンに考え込まないで、いつだって自分に自信を持ってた。どんなことでも覆らない強い芯を感じたわ。それに、あいつがあそこまで懸命に誰かを救おうとしてるのに、私達が殺し合いを繰り返すっていうのも可笑しいじゃない」
輝夜は黙って聞いている。
「確かに私達は死なない。不老不死だよ。本当ならとっくの昔に死んでるはずだった。でも今こうして死なずに、死ぬはずだった後の日々を迎えている。そしていつまでも私達は死なない」
「…………」
「でもね、輝夜。私達は死んでないんじゃない、生きてるのよ」
「……本当に生きてるって言えるの? 死なない私達は、本当に周りと同じように生きていると、言葉にしてもいいの?」
「それは自分次第だわ。私達が歩いていく道の先には、死なんていう一般のゴールは無い。でも、死ぬことがゴールなんて決め付けなくていいのよ。自分で目標を置いて、そこに至ることでゴールだとすればいいんだから。これはきっととても難しいことだけど、私達なら何度でも挑戦できる。そして、色んな方向に歩いていける」
「…………そんな風に、思えるわけないじゃない」
弱気な表情。それはどこかで見た顔だ…………きっと昔の自分。だからこれはきっと何かを期待している、甘えの表情。
「そう、じゃあ置いてくわよ」
「……あ」
「私には見たいものが、景色がある。彼女は雨を楽しいと言った。そんな風に思える景色がどこかにあるらしいから」
「…………」
「輝夜をそこへ連れて行くことはできない。方向は同じでも、道は違うだろうから。だから────」
「────横に並んで追ってきなさい」
パチン──と、彼女の頬を両手で叩く。額を押し付け、目で意志を伝えた。
力の抜け切った輝夜の身体を退けて私は立ち上がる。
輝夜は静かに私を見上げていた。その瞳からは、以前のモノとは違う熱を感じ取れる。
「じゃあね。次会うときは仲の悪い友人として会いましょう。仲が悪くても、友人同士は殺し合いなんてしないわ」
「……ふ」
小さく笑った気がする。
「でもまあ……喧嘩なら、受けてもいいわね」
それを聞いて彼女がどんな顔をしたか、私にはわからない。もう背を向けた後だったから。
自分なりに歩み寄ったつもりだけど、なんか違うような気もする。
歩み寄るというよりは、突進に近かったかもしれない。
でも、最初なんだからこれでいいでしょ? それに私って不器用らしいし。
──ねぇ、慧音?
── 彼の景色、其の景色 ──
「寺子屋……ですか。また懐かしい言葉です」
「い、いやぁ、ただ、あそこを廃屋にしておくのももったいないし、私普段暇だから、子供の面倒を見るくらいできるかなぁって。でもすることもないし、じゃあ勉強でも教えようかなぁと」
「なにを照れてるんですか。いいことですよ。まあ、随分と飛躍した話ではありますが」
美味しそうに紅茶を啜る話し相手の彼女は、何代目か数えるのも面倒くさい稗田家の当主である。
「……ふぅ。色んな茶葉を試しましたが、結局は紅茶葉に落ち着きます。特に今みたいな暖かな春は──」
「いや、だからさ、教養の浅い私でも教えられるような、子供に優しい教科書みたいなモノがないかなーっと思って訪ねたんだけど」
「そんな都合のいいものありませんよ」
バサリ──と一刀両断される。期待してなかったわけではない。いや、むしろ結構期待していただけに軽くショックだった。ショックというか、私の計画が振り出しに戻ってしまう。
「そんな都合のいいものはありませんが、貴方が努力すれば、何か教えられるかもしれない資料ならあります」
「……ください」
「嫌ですよ。貸すだけです。自分で書き写すなりしてください」
努力ってそうことなの? と口にしそうになったが、ここは下手に出て資料を受け取った。
とりあえず当面の目的は達したので、適当に礼を告げてその場を後にする。コイツを、思いのほか面倒くさい奴という認識に改めて。
「藤原さん」
「え、なに……?」
「頑張ってくださいね」
……思いのほかいい人だった。
※ ※ ※
寺子屋へ向かう私。気のせいか、以前ほど里の者達の視線が痛くない。永琳の話では稗田家が裏で暗躍していると言うが、どこまで本気にしていいかわからないので頭の片隅にでも置いておこう。
そして不思議と足取りが軽い。こんな感覚は、博麗が霊夢だった頃以来だ。あの頃はなんだかんだで私も受け入れられていたのだろう。慧音も元気で、誰もが慕っていた。その隣に居るというだけで、私への風当たりもいくらか優しくなっていたのかもしれない。
「……やめよ」
今考えても仕方ない。順調に歩き始めた足を、何も振り返るために止めることはないのだ。振り返ることはいつだってできる。なら今はもう少し、前へ進もう。
「あら……?」
「……あ、えっ?」
一人の女性と出会った。人間の、大人の女性。彼女は私の顔をじぃーと観察すると、
「こんにちは。久しぶりですね?」
なんて声を掛けた。
どこか見覚えがある彼女。まともな人間の知り合いなんて居ないと思い込んでいたが、なんとか間を開けずに思い出すことができた。
「ああ、花屋の」
忘れてたのが丸分かりの返事である。
「寺子屋をやるんですって?」
「え、誰から聞いたんですか?」
「稗田様が仰ってましたけど……嘘っぱちでしたか?」
「あっいえ、そのつもりではいますけど」
珍しく永琳の話は事実だったらしい。
「どの辺りでやるんでしょう? 昔あったという話は知ってますけど、場所までは知らないもので」
「場所はこの先を真っ直ぐ行って──」
なんて説明するが、私自身もずっと訪れていない。ずっと、というのは慧音が亡くなってからだ。小屋自体は残っているらしいが。
「ああ、あそこだったんですね」
「ご存知なんですか?」
「はい。これから行くんですか? でも今仰った行き方ですと遠回りになりますね。あの辺りは何度も建て直しを行ってますから」
「はぁ、そうなんですか」
「……そうだ。もし宜しければ息子を案内に寄越しましょう。生憎、私はこれから花屋の仕事がありますので」
「いえ、私なら大丈……息子なんていたんですか」
「ええ。あの人に似てお花が大好きなんですよ」
「……あ、あの人……? あ、ああそうなんですか。お花素敵ですもんね」
随分と年上好みなんですね──と言いかけたが、余計な詮索はやめよう。
私の身近な奴らは歳をとらない奴ばかり。だから感覚的には薄いのだが、数年というのは子供を産めてしまうほどに長い年月なのだ。それを再認識させられた。
──クイ、クイ。
何かが私の袖を引っ張っている。視線を下げると、三歳前後と思われる男の子が私を見上げていた。
「母ちゃんがつれてけって」
その母ちゃんはすでに姿が無い。息子って、こんなに幼くて大丈夫なのだろうか?
「僕、本当に行き方わかってるの?」
「あそこだろ? なんかいもいってるからへいきだよ」
「へぇ、何回も行ってるの」
「いいからついてこいよ。はぐれたらおれがかあちゃんにおこられるんだからな」
「本当にパパに似てるのね……」
返事をせずに歩き出す。幼いながらも逞しい子だった。
「ほら、ここだろ?」
「…………」
連れてこられたそこは、紛れも無くあの日を過ごした思い出の寺子屋だった。
若干薄汚れてはいるが、裏を返せばそれだけである。問題なく使えるであろう状態だった。
「なか、入るのか?」
「え、ああ、うん」
「じゃあいいもん見せてやるよ」
手を引かれる。
鍵は掛かっていない。廃屋なのだから当然だ。私は引かれるままに足を踏み入れた。
「っ……」
言葉が切れる。せりあがった言葉を感情が追い越したのだ。それほどまでに……懐かしかった。
しかし、その感情は喉元までで押し留める。こんな子供の前で情を露にしたくない。それにいつだって懐かしめるのだ。これからはここで探し続けるのだから……彼女の見たという、その景色を。
子供達が並んで座っていた教室の横を通り過ぎる。そこに彼女の姿を夢想した。我ながら女々しいとも思うが、こんな日くらいは大目に見て欲しい。
やがて縁側へと出る。寺子屋の裏に当たるそこには小さな庭があって────
「ほら、きれいだろ?」
「あっ……」
────薄い紅色の花びらが舞っていた。
「さ、桜…………」
「母ちゃんがいっしょうけんめい世話して、去年はじめて咲いたんだぞ」
──お前も綺麗だと思ったら少しは笑ってくれ
「……綺麗ね」
「だろ?」
可笑しくない。なのに込み上がってくる感情が自然と笑いに変換される。この花を前にして泣くことは、私の深い部分で強く否定された。
──そうすれば間違いなく私は報われるから
「こんなんで、あんたは本当に報われたの……?」
返事を期待しない独りの呟き。だが、今は一人じゃなかった。
「おい、どうしたんだよ?」
「あ、あーうん。なんでもないよ。よし、他の場所も探検しよう」
今度は私が子供の手を引く。
今日、初めてこの桜を見て、私は笑うことができた。笑ってくれ──という約束は果たせたんだ。だから次、もし私が泣いてしまっても文句は言わないで欲しい。
そして一度だけ振り向く。桜が、ただひたすらに美しかった。
※ ※ ※
…………私が寺子屋をやろうと思い立って何年経ったか。
初めの半年。そう、半年もの間、生徒は花屋の息子一人だけだった。
うまくいくとは思っていなかったが、正直こうも集まらないものかと嘆いたものだ。
しかし、授業の進行なんかを模索するには丁度良かった。実際に子供の相手をしてみて、人に教えた経験の無い私がいきなり何人もの子供を相手にするのは無理だと察した。
しかし、しばらくすると別の子供も預かることになった。
あとから知ったのだが、私の預かっている子供が花屋の子供であることは周知のことだったので、花屋の親父はそのことをよく尋ねられたらしい。
あの硬派で堅物な親父が預けているという事実も大きかったが、親父の私に対する評価が一定値を超えていることが、周囲の私に対する不安を少し和らげたらしい。基本的に閉塞的な里なので、新しいモノには目がない人たちである。大事な子供を預ける私への不安感が薄まれば、そこからは少しずつ子供が増えていった。
──先生!!
初めてそう呼ばれた日、私は眉をしかめてしまった。そう呼ばれても実感がないのだ。
教えるのは簡単な計算と歴史、これだって資料を見ながらだ。あとは生きるための知識を教えたり、私自身の経験談を語ったり、天気のいい日は外に連れ出したり、別に先生らしいことなんてしてない。それでも子供達にとって私は先生らしかった。
やがて生徒が十人を超えた。農業の忙しい季節なんかは一気に増える。この頃になると、話しかけてくる里の大人たちも増えた。ただ、愛想よく応対できているかはわからない。
私もやっとリズムを保って子供の相手をできるようになってきたが、十人の子供というのは嵐と同じぐらいパワフルである。大勢を相手にしてた慧音はやはり偉大だったのだ。
そう、慧音はこれを楽しそうにこなしていた。自分に、今楽しいかと問いかけても気持ちのいい返事はできない。
だけど少し、見えるモノが増えた気がする。今まで気付かなかったモノに気付くようになった。そしてどこか充実している。
もしかしたら、このまま進んでいけば見つけられるかもしれない。慧音の見たという景色を、そして私の景色を。
だからもう少し待っててくれ。ゆっくりだけどきっと見つけるから。
慧音の言葉を借りて、今はそれを楽しみに筆を置こうと思う。
「────…………という感じで、作文は書きます。これを全員今度までに……」
自分で例として書いた文章を読み終え、子供達に視線を向ける。案の定、嫌そうな反応しか返ってこない。
「えーめんどくさいよー」
「ぼくもやだー」
「まあ、ほら、書ける範囲でいいから。家に居たってお母さんやお父さんが遊んでくれない時があるでしょ? そういう暇な時に書けば……ああ、手伝えって言われたら手伝わなくちゃだめだけど」
自分で思うのもなんだが威厳というのはまったくない。実感がないのだから当然か。
「それじゃあ宿題の話はこれで終わり。実は今日、先生の知り合いが来てるのよ」
彼氏ですかー?──と最年長の子供が茶化しにかかる。だがそんな色々しいものではない。もっと単純で、言わば単色な関係。
「違うわよ。そいつは悪友で────」
ガラリ──と扉が開き、一人の少女が入って来る。
悪友。薄暗い色で染められたのは今までの繋がり。それをこれから私達は……変えていけるのだろうか。
彼女が隣までやってくる。
────短い、美しい黒髪を揺らしながら。
彼女の象徴だった、長く、艶かな黒い髪。それを彼女はバサリと切り捨て、首元辺りで短く整えた。
私は慧音の後を追っている。言い換えれば、進むべき方向を私は選んだだけだ。しかし輝夜は違う。ただ血を流し続けた彼女は本当に何も見えない状態、森の中で木しか見えないような状態だ。だからまず、彼女は自分で道を見付けなければならない。見つけて初めて、歩いていけるか、先にあるものは? と不安を抱けるのだ。そんな彼女に追って来いだなんて、少し酷だったかもしれない。
ただ、多少の足踏みしてでも追ってきて欲しかった。彼女にも自分の景色を見つけてもらいたかった。それが彼女との儀式を反故にした、私の勝手な罪滅ぼし。
しかし、忘れていたが彼女は負けず嫌いだったのだ。
何もできない自分を他所に、着々と先へ行く私に対して焦りを覚えたのかもしれない。だからまず、何でもいいから変えたかった。一つでもいいから決別したかったのだ。
そしてそう思ったときに、自分の長い髪が目に付いたのだろう。無意識に伸ばしていた黒い髪。確かに艶やかなその髪は黒色なのにどこか鮮やかだ。しかしその髪は……血で汚れた日もある。嫌な言い方をするが、血を吸い続けた髪なのだ。
──なら、いらない。
そう、決別の意を込めて切り捨てた──と、彼女自身から聞かされた。
それを聞かされて、初めて短髪の彼女見た日は…………つい笑ってしまった。
馬鹿にされたと思ったのか輝夜は怒っていたけど、それは少し違う。本当は嬉しかったのだ。そんなことを面と向かって話してくれた事が、くすぐったいくらいに嬉しかった。だから笑ったのは照れ隠し。
でも笑っただけじゃこのくすぐったさは誤魔化せなかった。なので、私は彼女の頭を撫でてみた。さらさらで、僅かにしっとりとした彼女の髪。輝夜はその脈絡の無い行動に驚いたのだろう。力いっぱいに私を殴り、やがて逃走した。残ったのは尾を引く痛みと、彼女の髪の感覚。
そして気付いた。殺し合いをやめてから……今の輝夜くらいの長さ、私の髪は伸びたのだ。つまり────
────彼女の髪はもう、血で汚れていない。人に誇れるただただ美しい髪なのだ。
だから髪を切るのも悪くないと思った。けれど、真似されたと思われたくないから私は我慢しよう。
今は忙しいのだ。とにかくたくさん汗を掻く。だからそんな血はきっと、とっくの昔に汗と一緒に流れただろう。
そう思って私は前を見る。見慣れない顔に、期待と不安を同居させたような子供達の表情。こんな光景だけでも、今私が目の当たりにしているなんて信じられない。だけど────
「初めまして。この先生の悪友、蓬莱山輝夜です。今日は皆さんに昔話をしに来ました。みんな、昔話は好きですか?」
────隣にコイツが居て、今同じ景色を共有してる。
なぁ輝夜、あんたには今何が見えてる? どんな感じだろう? もし、私と同じように感じてくれてるのなら…………これからずっと、手を取り合って行けるような気がするわ。
「おもしろい話じゃなきゃだめだぞー」
「そうよぉ。お母ちゃんがいつも話してくれるんだからね!!」
「うーん、それは困ったなぁ」
思いのほか愛想のいい輝夜を見て、不思議な気分になる。
何故もっと早く"ここ"に至れなかったのか。あの竹林を朱に染めていた夜、あそこに何かを求めていた私達は本当に馬鹿だった。それを気付かせたのは、死んだ彼女の言葉。結局慧音は…………最後まで教育者だったのかもしれない。
「ねぇ、妹紅? 貴方はどんな話がいいと思う?」
柔らかい笑み。人はここまで変われるのか……いや、変わったのではない。きっと元に戻ったのだ。
何も知らずに笑っていた無垢な時代は誰にもあるはず。きっと今の笑顔は、その日となんら変わらぬモノ。
「それはあんた、かぐや姫とかでいいんじゃないの?」
深い意味はなく、その笑顔に柔らかく言葉を返す。表情は平坦、笑って返せるほど器用ではない。私は不器用なのだ。
そして彼女が語りだす。それは誰もが知るあの"かぐや姫"ではない。自身のことだろうか? 確認のしようはないが、子供達は黙って聞いていた。悔しいことに、彼女は人を惹き付けるのが上手いらしい。
やがて、子供達がドッと沸く。毒気の無い笑いが教室を埋め尽くした。
────ああ……こんな未来も、悪くない。
笑いながら語る彼女と、笑いながら聞き入る子供達。
私も笑おうと思って、すでに笑っていることに気が付いた。
これからこんな景色が続いていくと思うと、ヘンにそわそわする。
そして今日……私は記念すべき一つめの景色を、やっと手に入れたのだ。
なのに、何でこんなに感動するんだ?
何故、慧音の桜が咲いていたシーンで息が止まるんだ?
ヘンなところはこれ位しか思いつかない。
妹紅の苦悩は良かっただけに、これが大きく引っ掛かりました
ので、この点数で
ショートカットの姫様、意外と見たことなかったですね。
(作中時間の)今となっては長髪も慧音を偲ぶもののひとつかもしれないと思ってみたり。
永琳が妹紅を諭す役割で、薬師として永遠亭の外で働く描写があるのも珍しくて良いものでした。
これはイイハナシダナー