その日、風見幽香は怒っていた。
太陽の畑から少し離れた猫の額ほどの平地、そこは彼女のプライベートエリアだった。ちょうど小高くなっている太陽の畑とは違い、人の手で均した赤色はいかにも土いじりが達者な様が現れており、平らになりながらもよく空気と混ざってほろほろとした柔らかさが垣間見えた。均した平地には均等に空けられた小さな穴があり、その中に小粒程度の黒いものが入っていた。
未だ底冷え衰えぬ朝方、遠くから鳥の声が聞こえ、振り向いて見ればちょうど頭の上を二羽の小鳥が通り過ぎるところだった。つがいと想われる小鳥たちは、仲睦まじく戯れながら北の方向へと飛んで行く。吹奏楽器に似た鳴き声で時折交互に上下位置を変えて、過剰なほどに愛し合っている様は、見る者に不快感を与えるのではないかと想像出来ないでもない。
いや、それはそいつの心が余程荒んでいるか、せいぜい十cm四方しかない狭っ苦しい心の持ち主なのであろう。きっとつま先立ちがやっとの幅しかないその場所では、自分自身だけが鼻息荒げて睨みを利かせているに違いない。
そんな様子の風見幽香を想像して、少しばかり笑いが込み上げてきたメディスンは、吹きそうになる吐息を我慢してつい鼻が鳴ってしまった。とっさに目の前の幽香を見遣れば、どうやらメディスンの鼻音には気づかなかったようで、先程からの『日傘グルグル』行為はさらに拍車を掛けて回転し続けていた。
幽香は決して心の狭い妖怪ではなく、朗らかで優雅な大人の女性であると、この時ばかりは真剣に、きっとそうであるようにと神にでも祈る面持ちのメディスンであった。あの小鳥達が無事に行き過ぎてくれて、ほっと胸を撫で下ろしたのだって考え過ぎではないと想わせるのが、風見幽香に対するメディスンの素直な感慨だ。
「ねぇゆーかー、もう諦めよーよー。また来年だってあるんだしさー」
苛立ちを表現していると分かる日傘の回転は、今や唸りを上げて空気を裂いている。幽香との付き合いはまだまだ短期間ではあったが、これほどまであの日傘が高速回転をしているのをメディスンは目にしたことがない。唸りはやがて嵐を呼び、天変地異に火山噴火、荒廃する世界の末に救世主でも現れんばかりの大スペクタルをメディスンに感じさせる。
それは恐ろしい事なのか、はたまた喜劇的な戯れ言なのか。判断しかねるメディスンにとって、振り向いた幽香の笑顔に寒気を覚えたのもまた、喜劇であって欲しい理由のひとつだった。
「ダメよ、この子達に次なんて無いの。今年種を付けなければここで世代が途絶えてしまう。それじゃ一年草の名が泣くわ」
幽香が憤りを募らせているのは訳があった。今年は、大事な大事な行為がまだ出来ていない。それは幽香にとって快楽であり、とんでもなく妖艶で心身を陥れるに値する行為。それは魅惑的で蠱惑的で、もし踏み誤れば狂ってしまうやもしれぬ、いや、むしろ狂乱するほどに心踊らせるのが正しいと想える行為。
こんな春の穏やかな日々に、こんな晴れ渡った朝日を浴びて、その行為に殉ずる事が出来るのであれば、もはや命を投げ出すのも厭わないとさえ想えるほど、幽香は真剣に信じていた。
「あぁ……」
恋の相手にしな垂れるような声色を吐き、幽香は朱々とその穢れを知らない頬を染める。どうせまたロクでもない想像で脳内麻薬を分泌させているのだろうと、幽香の背筋とその白い吐息だけで判断したメディスンは、違った意味でこちらも吐息を漏らす。
メディスンの想う通り、幽香の想像は遙か宇宙の果てまで飛び上がり、その脳内麻薬の効果を遺憾無く発揮して快楽の渦に飲み込まれようとしていた。妄想の中で幽香は激しく身悶え高揚し、目まぐるしく突き抜ける快感に溺れようと身体をくねらせていた。それは神々しいまでに美しく、涅槃のように苦楽を超越した域にまで達し、それにつれて幽香の表情は何とも言えない淫らで、しかし上品さを兼ね備えた最高の境地へと辿り着きつつある。
だが、外から見ただけでそれと分かる訳はなく、せいぜい、妄想癖のあるせいでお嫁に行きそびれそうな近所のお姉さんとしか、メディスンの瞳には映らなかった。お嫁の貰い手は居なくとも、優しければそれで良いとする気概をメディスンは備えてはいたが、生憎こうなってしまった幽香にそんな希望的観測は悲しいほどに無意味であった。
「はふぅ……」
また一つ、吐息が漏れる。げんなりするメディスンをよそに、幽香は再び想像する。
自らの指で柔らかいものを押し広げて穴を穿つ様を。選りすぐりや特別なんて無い、内にある全ての粒をその穴に入れてやる瞬間は、自分はさぞやだらしない顔をしているのだろう。周りから両手でゆるゆると包み隠してやれば、きっと盛り上がって伸びてくるそれを、あとは心踊らせて出てくるのを待つだけだ。
にへら、と、妄想と現実の両方で幽香が笑う。
「種蒔きってそんなに楽しいもんだったかなー」
種蒔き。種を植え付ける、花や木々の種を土に植え付ける行為。
そう、風見幽香が毎年楽しみにしている事とは、春の種蒔きの事だ。
「じゅるり……っ」
『小春日和は種蒔き日和』が信条で、冬の終り頃になると一日数回は気温や天気や湿気を確認するほどである。どれだけ幽香が春を恋しがっていたかはメディスンも理解しているが、秋だって種蒔きの時期でその時も散々はしゃいでいたのに、現状はそれを凌駕するほどまでに幽香は輝いているではないか。
さりとて、幽香のこだわりは土作りから始まっており、肥料から与える水まで最高のものを用意している。それを鑑みて許容出来ない事もないと想えた。
土は太陽の畑で幾年も向日葵達を支えてきたものに妖怪の山で培われた腐葉土を混ぜ、肥料は最近よく見かける火車から譲ってもらったもので申し分ない。水は暇そうにしていた死神をシメて運ばせている。出処は知らないがこの世のものとは想えないほど優しい軟水で、植物の細胞によく馴染むからこれも満点だ。
さらに幽香は植物達の世話をたった一人でほとんど行ってしまう。土を耕し水を与え、真夏でも真冬でも、一日たりとて休まず葉の一枚一枚を丁寧に観察して余計な虫や病気に犯されていないか調べるのだ。
とにかく植物の世話が好きで好きでしょうがなく、少ないながらもその身に内包している愛とか優しさをこれでもかと叩き込む姿に、それはそれで幸せなのだろうとメディスンは幽香の小刻みに震える背中を眺めて想わずにはいられなかった。
「はっ いけないヨダレが」
「ゆーかが幸せならそれでいいけどさー、だったらこの異変をどうにかしないとねー」
頭の後ろに両手を投げ、いかにも当て付けがましい物言いを放つメディスン。その視線は変わらず幽香の背中を捉えており、返ってくる言葉を待つかのようにそこで黙る。
幽香がポッケからハンカチを取り出し、おもむろに口元を拭くその姿は優雅ではあった。だがそこに至るまでの経緯はお世辞にも優雅とは言えず、そもそもヨダレを垂らす事自体が上品さとはかけ離れ過ぎている。
メディスンは何度目かの溜め息を吐く。その吐息が白く濁っているのを見遣って気温の低さを再確認した。冬が終わって間もないこの時期、さすがに朝方は未だ寒気を覚える。だがメディスンの言う異変とはこの寒さの事ではない。以前に春が来ない異変があったらしいが、今回のはまた違った異変だ。
「種が蒔いた先から芽を出さないで枯れていくなんて、変な異変だよねー」
その異変とは蒔いた種がことごとく枯れるという妙なものだった。大切に大切に育てようと土から水からなにまで準備していたのに、その楽しみを、その快楽を、あと少しというところで奪われては誰だって怒りを覚えよう。その分も含めて、幽香が怒るのも無理はないようにメディスンは想えた。
しかし、一つだけこの異変がおかしいと感じられる部分がある。枯れるのは今年蒔いた種ばかりなのだ。秋に蒔いた分は今や元気に開花しており、ここから見える一面にその花弁を揺らしていた。
パンジー、デイジー、スイートピー。ルリミゾカクシ、ヒナゲシにカルセオラリア。想い想いに咲き誇る花々はモザイク模様のように群生し、春の息吹を感じさせては自らもその生を謳歌しているようだった。
「今度は誰のせいなのかなー? きっとまた巫女が解決するからー……って」
メディスンは目の前の光景に息を呑んだ。妄想に耽っている時は鳴りを潜めていた日傘の回転が、再度活性化し始めて空気を切り裂いているではないか。甲高い風切り音が耳を虐め、巻き起こる風はメディスンの身体を引き寄せようと渦を巻く。それはさながら台風、花柄のサイクロンだった。
じりじりと吸引力を上げていく回転に、メディスンは日傘の切れ味を想像する。再び寒気を覚えた背中に力を入れてその場に踏ん張り、苦笑を浮かべて幽香に言った。
「ゆーかー、恐いよー。もっと落ち着いてさー、冷静になってさー」
「あら、私は冷静よ。葉の裏に潜むあぶら虫を、お箸で摘まんで掃除出来るくらいにね」
それは冷静ではなくて冷徹、などとは言えずに居るメディスンは、今やこれから始まる幽香の怒りの矛先を憂い、そしてその行方の決定権は自分の双肩に掛かっている事に気付きつつあった。
付き合いは長くなくとも、破天荒な性格は常に幽香という女性を浮き彫りにし、出逢ってから今まではその生き様をメディスンが酌み取るのに充分なほど濃密な時間だった。故に幽香のこの言動は非常に危険なものだと、粟立つ肌でひしひしと感じていたのだ。
そう、メディスンはなにもふらふらと幽香の後くっついて来た訳でも、威を借りようとしているのでもない。ただ単に、妖怪として尊敬する幽香を観察していた。そして幽香の生態について少なからず把握した事実があった。
『サイクロン症候群』と名付けたそれは、怒りによって発露する三つの症状だ。
「そう言うならそのぐるぐる止めてよ、吸い寄せられて粉々になっちゃう」
風見幽香が怒っている時の症状その一。日傘を回転させる。
すでにぐるぐると言えるほどかわいくはないが、いかにも精神の不安定さが現れていると言えよう。したい事が出来ない、あるいは上手くいかない事への我慢・抑制によるストレスを、簡単な動作を行う事で紛らわそうとする自己防衛行動だ。
しかし幽香の場合、有り余る腕力の為に嵐が巻き起こり、危険極まりない。
「あと、その笑顔ねー。天使のような微笑みだけど、なんか恐いよね」
風見幽香が怒っている時の症状その二。笑顔になる。
強い者ほど笑顔になるらしい。もしくは自分が憤慨している事実を表に出さないように笑っているのかもしれない。やはり、怒りという感情は不安定さや見苦しさを覗かせるし、若干の子供っぽさも見受けられるものだ。笑う事で周囲への配慮と自己の保存を両立させているのかもしれない。
また、怒りのボルテージが上がるほど、幽香の微笑は聖母のそれに匹敵する輝かしさを放つ。
最後の症状その三は……。
「メディ、貴女は手伝ってくれるわよね? この子達も私も、もう後が無いの」
メディスンの話しを聞いていたのか聞いてないのか、内面の激しさとは裏腹に呑気そうな声色で話しを遮る。幽香はなおも満面の笑みで日傘を高速回転させ、ゆっくりとその足をメディスンの方向に運ばせる。
基本的に自分勝手な幽香の事だ、メディスンの忠告など右から左に、いや、もしかしたら届いてさえいないのかもしれない。きっともう種蒔きの事で頭がいっぱいなのだろう。妄想だって数十回は巡っているはずだ。
『サイクロン症候群』が抑えられるのであれば、今は良しとしよう。メディスンは諦め、掛けられた声の調子に合わせて自らもえくぼを作った。
「あーうん。いーよー、今までもしてきたし、ゆーかと一緒なら楽しーしー」
「良い子ね。嬉しいわ」
そう言って幽香はメディスンの頭を愛しむように撫でる。この時ばかりはメディスンもその暖かい手のひらについ甘えてしまい、意識のすべてを頭に集中させて余すところ無く温もりを得ようと一所懸命になってしまう。
幽香は、他人に興味が無い。一人で草花の世話をしている姿を見ると、メディスンはいつもそう想う。でもそれを寂しそうと想った事は一度も無い。その時の幽香はとても楽しそうだったからだ。だから花を愛でるように幽香の眼がこちらを捉えれば、メディスンは嬉しかった。
それに、自分を撫でてくれている幽香の笑顔は、とても綺麗だった。
「それじゃあ、まずは土を耕しましょう。種は柔らかいベッドがお好みなの」
「はーい」
様々想うところはあるものの、メディスンは今の生活に満足していた。どこからか持ってきたスコップや如雨露だって幽香とお揃いだし、草花の世話も楽しい。これ以上を望むとしたら怒りっぽい部分を直して欲しい事だったが、それも悪くないと想えるくらい、メディスンは幽香が好きだった。
生まれてこの方、悲しい事をあまり知らない自分は幸せなのだろうと想う。
「メディ、頭巾と長靴を持ってきてちょうだい。鍬は私が持ってくるわ」
「はいはーい」
「今日こそは種蒔きを終わらせるわよ。そしてここ一面を花の芽で一杯にしましょう」
相変わらずだらしない顔はしているが、腕まくりをする幽香はそれなりに頼もしげにメディスンの眼に映った。これから土色に埋もれるだろう細腕は、白く輝いて欲望の奔流を見せる。
また嬉しくなって、メディスンは急ぎ幽香に頼まれたものを取りに行く。
青空に浮かんだ一つの雲を見つけると、<ルドベキア雲>と名付けて、心踊らせた。
※
「釈然としない」
ふわふわと宙に浮く博麗霊夢は、膨れた仏頂面を悪びれる様子も無く眼下の村へと降らせていた。見える村人たちは、すでに日々の生活に戻って忙しなく動いている。ここからだと働き蟻のように小さくなり、従順を装うそれがやけに鼻につくのだ。
異変解決のプロとして、博麗の巫女として、両立するはずのこの二つが、今はお互いが背中を向けている心境の霊夢は、今さっき聞かされた話を想い出した。
畑の作物がみんな枯れてしまう、早くなんとかしてくれ。
手に手に冬の残り物の大根やもち米や干し柿を持ち、あからさまな作り笑顔を浮かべた村人達に、もっと報酬をふんだくってやれば良かったと少しだけ後悔した。
「普段はお賽銭もお参りもお布施もお賽銭もしに来ないくせにぃ」
閑散とする博麗神社で、お茶を啜る事と境内の掃除に耽らざるを得ない毎日の霊夢は、舌を出してより一層の僻み面を浮かべる。
異変解決のプロとして頼りにされているのはなによりだが、博麗の巫女としての方はどうでもいいと言われているようで、心中穏やかになれない『博麗の巫女』は異変を解決するかどうか本気で考えていた。
別に解決しなくても良いのではないか? あの働き蟻達に誰が女王なのか知らしめすにはもってこいの状況ではないか。そんな想いが首をもたげ、濁った瞳をしたのも束の間に、激しく両手を振ってその邪な想いを霧散させる。
こんな事、あのスキマ妖怪に知られたら非道い事になる。ただでさえ広い幻想郷のどこで見ているか分からないのに、幻想郷と相応の心の広さをアイツが持ち合わせているなんて望めるはずがない。それにもし出てくればニタリとする笑顔に憤りを増幅させるのが落ちだ。
実際のところ、ここで辞めたら損をするのは自分自身だ。作物が取れなければ生活が成り立たなくなり、飢え死にするのは目に見えている。
「背に腹は代えられないし、人の厚顔、仏も知らずか。うぎぎ」
項垂れて不満と不平を一度に吐き出す。見た目はただのため息だが、それ以上の内包した意味を持って宙に拡散させた。少しは気が紛れたのか、上げた顔に暗さは無かった。
「いつもそうなら頼まれなくたって自分から動きますっての。仕方がない、さっさと終わらせてお茶飲もう」
最後の愚痴を吐き、腰においた手を新たにして遠く幻想郷の地平を探すように旋回する。
そのような考え方こそが、今日の博麗の巫女たるイメージを養ってきたとは露知らず、霊夢はもうすでにお茶請けをなににするかで悩んでいた。
怠惰や呑気と言う温床は湿り気を帯びて霊夢の心を鷲掴みにし、霊夢自身もそこから抜け出そうとは想いもせずに、ただ日常と非日常をその基準に則って暮らしていくだけだった。必死さから言えば働き蟻と比喩した村人の方がよっぽど緊張感に満ちており、いざ苛まれた時の行動としては今回の件は理に適っている。必要最小限を必要な時に渡せるだけの備えがあれば、霊夢とてこんな事で腹を立てずに済んだのかもしれない。
「ほいっと」
紅白の陰陽玉を天高く放り投げ、これからの行き先を決める。
霊夢はこれを怠けているとは想っていない。直感というものは、ちょっとの努力と多くの偶然で成り立っていると理解しているのだ。
偶然が結果的に必然だったと後追い修正され、霊夢の内と外の歯車がたまたま噛み合っただけの事。そう曲解というかひねくれているというか、自らを過大評価せず、また過小評価もせずに枠に収まる殊勝さを持ち合わせているのが、博麗の巫女としての霊夢という少女だった。
だから、赴くままに、捉えるままに。忌憚なく、導かれるように解決に至ってきた今までが、自らへの自信にも繋がっていると霊夢は想う。
ただ、
「女王は言い過ぎだったかな?」
落ちてきた陰陽玉をその手に受け止める。小気味良い音を手の中で弾けさせた紅色は、『博麗の巫女』の行き先を示していた。
女王じゃなければ、私も働き蟻の一匹だな。
そう想い、霊夢は紅色が指す方向へと宙を駆けた。
※
土の柔らかさを確認する。手の中で握り込んで少々ダマになる程度で丁度良く、湿り気はまだ足りないくらいだがそれは後で水を撒けば問題無いと想われた。
「うふふ」
さっそく我慢出来ずに指先を畝の頂上に埋めた。頬に土を付けた顔がにへらと緩み、糸を引いたように細くなった目がその快感の度合を物語っている。
指の圧力から逃げるでもなく、余分に押し返してくるでもなく。土はしっとりとした優しさで指先を包んでくる。爪の間からその優しさが染み込んでくるようで、身体全部が感覚器官と成り果てるこの瞬間。まるで土と融け合って飲み込まれるような、精気を吸い取られた時の虚脱感を迎えるこの一瞬。これだ。これを待っていたのだ。
背筋を逆昇る快感に心を弛緩させ、震えた指先が宇宙を描く錯覚を覚え、この世界を自分自身で覆い尽くした歓喜にその身を溺れさせる。そんな想わず叫び出したい衝動を抑える背中に、非難の声が掛けられた。
「あー、ずるいよゆーかー。一人で勝手にはじめてー」
新雪の足跡を先取りされ、メディスンが急いで駆け寄って来る。手にはルドベキアの種が入った小袋を抱え、ちょうど鍬とそれを交換してきたところだった。小さな身体に見合った幼い声を幽香に投げ掛け、これまた子供らしい不貞腐れた渋い顔を向ける。
「だってメディがあんまり遅いんだもの、待ちくたびれたわ」
「もー、私だって手伝ったんだよ。誰よー、ルドベキアを一番奥にしまったのはー」
「あ、私だわ。メディの一番好きな花だと想ってつい」
あっけらかんに言われ、一瞬だけ意識が抜けてしまったメディスン。それをよそに、幽香が小首を傾げて合図をする。ごめんね、と伝わる言葉を確認すると、メディスンは唸るような声を出して駆ける足を加速させた。
そのまま無言で幽香の側まで走り寄る。狙って仕掛けた罠をさも悪気が無いように謝られて、怒り出すタイミングさえ奪われてしまえば、メディスンには腰を下ろしている幽香のすぐ隣にうずくまるしか出来なかった。
「……種、芽を出すといいね」
「うんっ」
精一杯の不満を混ぜて放った言葉は、メディスンよりも幼い笑顔で掻き消されてしまった。ついに怒りの感情をも失ってしまい、顔を赤らめたメディスンは必死にそれを隠す。
「ほら、そんなにへそを曲げないで。一番はそのルドベキアって想ってたんだから」
「ほんとっ?」
「本当よ、ルドベキアは力が強いから、きっと芽を出してくれる」
顔を上げたメディスンはきらきらと輝く瞳を幽香に向けた。もうすでに心の中ではルドベキアを咲かせているような面持ちだったが、見遣った幽香の心は蕾もままならなかった。
ルドベキアはキク科の花で強い生命力と繁殖力を持ち、多年草で冬を越せる。その強い生命力はしばしば他の花にも迷惑を掛ける事があるが、今はこの花を信じるしかない。
ここまで多くの種を犠牲にしてしまった。コスモス、サルビア、朝顔に向日葵。全てではないが種の半分以上を駄目にした負い目を、芽を出す事さえ出来ずに枯れていった種達を、幽香は忘れたわけではなかったのだろう。
夏や秋に輝く花弁を拡げたであろうあの子らは、今頃幽香の胸の中で咲いているはずだと、メディスンは想う。
「きっと芽を出すよね」
「当たり前じゃない」
メディスンの祈りの声に、被り気味な勢いで幽香は肯定した。小さく頷いた横顔を見遣り、その唇に熱を帯びたなにかを感じ取ったメディスンは、同じく頷き、空けられた穴を見直した。
ちょうど幽香の人差し指と同じ形に空いた穴は、今か今かと入ってくる種を待ち侘びているようだった。そこに隣で唇を噛む女性の残留思念を見つけ、また問い掛ける言葉を放つ。
「入れるよ?」
幽香は黙ったまま、穴を見つめていた。
その無言はメディスンの耳朶を打ち、形を伴わない意識の強さを焼き付かせ、心の内に在る想いを引き寄せる。横顔は時を止めたように動かず、バツが悪くなったメディスンは穴に向き直った。
お互いが穴に集中し、今や二人の身体は隣り合うどころか鼓動を感じられるまでにくっついていた。相手の強張りや動揺さえも手に取るように分かり、じっとりとした汗も感じて、メディスンはひとつ摘んだ種を、指先からそっと離す。
びくり、と、身体に感情が伝わった。
「ねぇ、ちょっと」
唐突に放たれる後ろからの声に、メディスンは想わず目を丸くして振り返った。震えた視線は声の主を探し、泳ぎながらも真後ろに佇むそいつを捉える。
立ち上がった自分よりも頭ひとつ分高い背丈。腰に宛てがった両腕は気怠げに肩まで緩く線を引いている。変な服、と一番に想いつく特徴的な袖とあらわになった肩。そして大きな赤いリボンを乗せた頭が、メディスンの後ろを窺おうと少し横へ傾いた。
「あんたたち、なにやってるの?」
「うわー、巫女だー! 巫女が出たー! ファーッ!」
博麗霊夢はメディスンの張りあげた声を物ともせず、冷めきった表情で近づいてくる。肩で切る風は無礼な態度を現し、無表情を被ったその顔にも微かな懐疑を隠しながらメディスンのすぐ前で立ち止まった。
メディスンの頭越しに覗き込んで、なにやら勘付いたようにその目を細める。
「まーた土遊びか。飽きないね、あんたたちもさ」
「うーるーさーいー。巫女めー、なにしに来たかー!」
「うっさいわねこの毒ぼんぼり。それに何よファーって。私は打ち仕損じの球か」
霊夢に言われ、真っ赤に膨らませた自分の顔に気付いたメディスンは、息を吐いてぼんぼりのように萎んだ。その様に全く人間味を見出せなかった霊夢は改めて呆れ返り、メディスンを見るふりをして、その隣に腰を下ろしている妖怪を窺う。
顔を覗けず、なにを考えているのかも分からない妖怪は、緑色の髪が眩しい花の権化。側で喚くぼんぼりよりも、遥かに注意せねばならない強力な妖怪だ。
しかし目に入るのは頑なな背中ばかりで、微動だもしないで土の山を一心不乱で見つめている姿に不気味なものを感じた霊夢は、代わりに未だむくれているぼんぼりに訊ねた。
「なにか食べられるものでも育ててるの? 美味しく実ったら私を呼んで欲しいな」
「巫女に食べさせるものなんてなーい! スイカは私とゆーかだけで食べるんだから」
「ほほう、夏にまた来るわ」
しまった、と、口を噤んだ頃にはもう遅く、ニタリとした粘っこい微笑みにメディスンは幽香とは違った寒気を覚える。とても歳相応な可憐さは無く、どちらかと言えば年季の入った小姑のような強かさを感じ、メディスンはこいつから与えられた屈辱を想い出した。以前こいつと弾幕ごっこをした時、完敗を喫したメディスンはこれと同じ笑顔を見た。それからなのだ、巫女を目の敵にするようになったのは。
生ぬるい瞳の笑顔を手土産に、霊夢は身体を翻して歩き出した。
「じゃあね」
ここじゃない。そう胸に落ち着かせた霊夢は、こんな妖怪どもがなにか企んでいる訳ない、と独りごちた。浅はか極まりない妖怪と不気味だがなにを考えているか分からない妖怪。この二人が居たところで、なにが出来るものでもない。せいぜい、かわいらしげな丸文字で、ひまわり成長日誌をつける程度が関の山だろう。それも三日坊主のだ。
「お待ちなさいな」
じわり、と、総毛立つ気配がした。
背後からの殺気は、歩みを止めるとますます濃度を上げて霊夢を包み込んだ。まるで気配に気に入られたように絡みつかれ、霊夢はその狭い眉間に皺を寄せる。素肌を撫で、染み渡り、精神にまで届こうと這いずってくる。気配は、貪欲なまでに霊夢の内を探っていた。
値踏みされているような、煽られているような。舌なめずりする妖艶ささえ帯びてきた気配に、霊夢はいい加減鬱陶しさをあらわにした。
勢い良く振り返り、イラついた瞳で睨み据える。ぽかんとしている毒ぼんぼりの側に、真っ白い笑顔が立っていた。
「ゆーか?」
メディスンはハッとして後ろを振り返り、穴に落とした種を見た。幽香が丹精込めて作った土と、メディスンが一番好きな花の種。
ルドベキアの種は、黒ずんでいた。また、枯れたのだ。
「なに? 風見幽香。私は異変のせいで忙しいの。弾幕ごっこなら後にしてよね」
「誰もそんな事言ってないじゃない。勇んだって強くはなれないわよ?」
「よく言うわ。そんなやる気まんまんの雰囲気で、あんた鏡見てみなさいよ」
「貴女こそ鏡を見なさいな。年端もいかない子供でも、お化粧くらい憶えるでしょうに」
「いい歳して土遊びして泥を顔に付けてるヤツにそんな事言われたくない」
「貴女の涙でお化粧のお勉強、しましょうか?」
「なにかしたいんでしょ? 誘ってるんでしょ? 弾幕ごっこがお好みなの?」
「ごっこじゃなくてもいいのよ?」
二人の間を目には見えない弾幕が飛び交い、焼け焦げた匂いを嗅いだ気がしたメディスンは、おっかなびっくりで後ろへとたじろぐ。今まで垂れ下がっていた緊張の糸が、はち切れんばかりにピンと張る。とても自分の手には負えない状況だが、なにが切っ掛けで戦いが始まるか分からない緊張感に、メディスンは逃げるに逃げ出せず、自分の存在をただ薄くさせるので精一杯だった。
幽香は、明らかに憤りの捌け口をあの巫女に求めている。種蒔きが出来ない。それも幾度となく試しているのにも関わらず、発芽さえしない現状に、幽香の怒りはついに頂点に達したかと想われた。その暴力的で獰猛な感情を、これまで隠してきた凶暴な爪を、遺憾無く発揮出来る相手が目の前に居るのである。ストレスの逃げ道は、暴力に限る。そう感じさせる幽香の顔に、微笑みが満ちていくのがメディスンには分かった。
またあの『サイクロン症候群』が現れているのだ。
「ゆーか、やめよう? 今度はここじゃなくて別の場所に蒔いてみようよ、ねー?」
怯えながらも勇気を振り絞って放った言葉は、しかし宙を漂うようにあてもなくさまよって、ほどなく霞んで消えてしまった。睨み合う妖怪と人間には、メディスンは居ても居なくても差し支えない程度なのだろう、火照った身体と苛立ちを持て余す二人には眼にも映らず耳にも入らない。
だが、メディスンは二人に戦って欲しくなかった。これ以上、幽香の怒りが増す事はどうしても避けたかった。幽香が怒る事で発露する『サイクロン症候群』の三つ目の症状を、ほんの少しだけでも抑えたかった。
「巫女もやめてよ、おまえなにしに来たの、異変の解決じゃないの」
未だ睨み合う――幽香は笑顔だが――二人の間に、決死の覚悟で躍り出る。幽香を背にし、霊夢と向かい合う形になったメディスンは、二つの殺気の板挟みでどうにかなりそうだった。それでもなんとか両手を前に突き出し、荒ぶる二人の緩衝材にならねばと必死の形相をしてその場に留まる。
振り乱した金髪が強烈な視線でじりじりと焼ける。外見もさる事ながら、幼さしか伺えないメディスンには能力的にも歯が立たないと想えた。
しかし、ふと、見据える巫女と目が合った。必死のメディスンを捉えた途端、目を丸くし、口元が緩み、見る見るうちに怒りの表情が溶け出していった。不可思議な想いを抱きながらも、メディスンは霊夢の笑顔は幽香が自分を撫でてくれている時の笑顔に似て、血の通った人間の顔をしていると感じられた。楽しい事からしか生まれない純粋な笑顔だ。
「あはははは、あんた鼻が垂れてるわよ?」
メディスンは、二秒前の感慨を撤回した。この巫女は悪い巫女だ。
「は、鼻がなによ、いいから早く帰れ巫女!」
自らもあまりに興奮してしまったのか、鼻が垂れている事に気付かなかったようだ。メディスンは啜り上げ、手の甲で拭い、どうにか格好をつけようと躍起になる。ここで舐められては巫女を追い払えないと想ったのだ。だが、
「もういいや、変にこじらせる前に止めときましょ」
「え? いいの?」
肩をすくめて息を吐く霊夢は、すっかり毒気を抜かれたのかそれともメディスンの毒にあてられたのか、苛烈な睨み合いから一歩身を引いたようだった。遠からず戦う気が失せた雰囲気に、メディスンはきょとんとしながらもひとまず安心し、霊夢自身もまた一息ついて身体の緊張を緩めた。
これで幽香も落ち着けば、と想い、背後の気配が消えてしまっているのに気付く。メディスンは勢い良く振り返る。
「むぎゅっ」
一瞬で視界を包まれ、鼻を摘まれ、想わず目をつむる。
「メディ、ほら、チーンなさい、チーン」
いつもの幽香らしい声色を聞いて、テッシュに顔を覆われながらもメディスンは良かったと想う。顔をほころばせてはいるが、隠れて幽香に見せられないのが多少残念だった。
大きく口から空気を吸い込み、おもいっきり鼻をかむ。耳にキーンと空気が張れば、鼻の通りが格段にさっぱりする。もごもごと周りを拭われ、やっと解放されるとそこには幽香の笑顔があった。膝を曲げ、メディスンと同じ高さになった幽香の笑顔が。
よかった、『サイクロン症候群』は現れていない。
「今回はおあずけね。お勉強会はまた今度で」
「ええ、そのぼんぼり娘にね。私はご遠慮願うからさ」
幽香とメディスンの姿を見遣り、霊夢は再度確信する。今回の異変について、この妖怪達はなにも知らない。やはりここに赴いたのも偶然。しかし、なにかしらの手掛かりはあるはずだ。
霊夢は二人の横をすり抜け、土の小山に空けられた穴の前にしゃがみ込み、ジッと見つめた。そこには黒く煤けたようになった花の種がひとつ、精気も無く芽を出す気配も無い。訝しげに眉間に皺を寄せると、霊夢は振り向いて言った。
「分かってると想うけど、これ、まだ生きてるわね」
「えっ!?」
巫女の意外な言葉に、メディスンは声を張りあげた。
「ええそうね、この子達はまだ生きている。この春に蒔いた子はみんなそうなってしまったけど、土に蒔いたままにしてあるわ。いつでも芽を出せるように」
「えっ!? 幽香も知ってたの?」
事も無げに言い返す幽香に再度驚く。てっきり種は枯れて死んでしまったものと想っていたメディスンに、さも当たり前のように傾けた表情を向けた幽香は、数回瞬きして反対側にも傾ける。その態度に三度目の驚きを覚えたメディスンは、もはや吐き出す言葉も無くただ口を開け放つばかりだった。
「春に蒔いた……じゃあ今咲いているあれは?」
「あの子達は去年の秋蒔きの分。秋に種を蒔いて冬を越し、春には花を咲かせる強い子達よ」
「ふーん、そうなんだ」
再び穴に目を戻す霊夢は、眉間の皺を一層刻み、さらに口元に手を添える。見遣る穴は薄暗く、小さいながらも底知れぬ不気味さを霊夢に感じさせた。その印象に既視感を覚え、先ほどの幽香の姿に重なるものを見出した霊夢は、背中越しに問い掛ける。
「幽香」
「なにかしら」
「あんた、これからなにが起こるか知ってる?」
「知らないわ」
一息も置かずに飛んできた返事を、霊夢は背中で受け止めた。その声色に疑える余地は無かったが、信じられる要素も無い事を噛み締め、村人達の話しを想い出す。
ここと同じく、種や移植の苗、子株を植えると枯れてしまう。まるで新しく植えられるものを拒むように土が精気を吸い取る。そして見た限りではやはり、生きてはいるが黒くくすんでしまうのだ。
「メディ、そんなに口を開けてると虫が入るわよ」
未だ原因は分からない。誰が犯人でなんの為に異変を起こしているのか。だが霊夢にとって、こんな五里霧中の状態はいつもの事だった。常態をもって非ずを制す。異変を解決出来る者こそが平穏無事の体勢であってはじめて事態に取り掛かれる。
つまりは、いつも通り、という事だ。
「ほら、メディ、別のところへ行くわ。準備して。口閉めて」
ここに赴いたのは偶然だとしても、この二人の妖怪に異変の手掛かりが隠されている。そう勘が告げている霊夢は、静かに立ち上がって当の妖怪達を見遣った。
ショックから醒めやらぬ毒ぼんぼりと、危険な爆弾である怒れる花の権化。ちょっとした手荒い雰囲気がこの異変を象徴しているように捉えられ、霊夢は自らの勘とやらに苦笑を漏らす。それは内にある歯車だとしても、楽に回せる訳ではないという戒めのようにも感じられた。ならば外の歯車を動かす為の労力はその比ではないとも想い、苦笑は苦味だけ残して霊夢の心に居座り続ける。
「要るのは鍬と、鎌と。鋤は大きいから置いていきましょう。メディ、口は閉めた?」
「う、うん。わ、わかった」
せかせかと支度に走ろうとするふたりは、やはり働き蟻なのかそうでないのか。なにかの為に行動し、それが意義を得るまでは働き蟻にさえもなれない、なにかでしかない。しかし、自らを型にはめてしまえば驚くような強さと推進力になるかもしれないという、盲目的で妄信的な原動力を、あの揺れる緑の髪の眩しさに覚えた霊夢は、それがあいつの不気味さにも、力強さにもなるのではないか、と、心の内で呟いた。
「ねえ、あんたたち」
手に手に農具や種の袋を持ち、忙しく動いていたふたりの妖怪は、霊夢のその一言でピタリと身体を固めた。毒ぼんぼりは嫌な予感を覚えて不安げな顔を、花の権化はやはりなにを考えているのか分からない無表情な顔を、こちらに向け、身を強ばらせて次の言葉を待っている。
「私もついて行っていい?」
そう放った言葉が届くと共に、見る見るうちにふたりの表情が変わっていく。浮かんだあからさまに嫌そうなふたつの顔が、霊夢の苦味を和らげた。
※
「……釈然としない」
幽香とメディスンの後方、やや遅れ気味に飛翔している霊夢は、噛み潰すように不満を呟いた。その背中には先ほどふたりの妖怪が準備していた耕作具一式を担ぎ、両脇には花の種が入った袋を抱えていた。
いくら飛べるからと言っても、結構な重さの荷物は霊夢の気力を蝕んでいく。前を飛ぶ妖怪達は涼しい顔なのに対して、額に汗が浮く霊夢は濡れる感触を気にしながらもう一度不満を吐く。
「なんで私が荷物持ちなのよ、なんであんたたちは手ぶらなのよ」
今度は聞こえただろうと二人の様子を窺うが、けんもほろろに振り向きもしない。それどころか耳に入らなかったかのように無反応を示すので、霊夢はいっそ荷物を振り落とそうかとも考え始めた。
ごめ~ん、私ってか弱い少女だからー、などと言い訳を想いつきながらシラけた顔で両腕の力を緩めていく。ついでにペロリと舌でも出せばかわいいかな、とも想っていると、ようやく幽香がこちらを向いてくれた。霊夢がしめしめとほくそ笑む間に、幽香は一度メディスンを見遣り、また霊夢に視線を向ける。
「貴女がついて来るって言い出したのだから、荷物持ちをさせるのが礼儀でしょ?」
「そんな作法聞いた事ないわよ。ねぇ、少しでいいから持ってよ」
「嫌よ」
そう言って幽香は視線を前に戻す。きっぱり切り捨てられた霊夢は、一層腕の力を緩めた。もはや落としても構わないとさえ想い、後の事はあのぼんぼり娘にでも任せようと密かに計画を立てた。
ゆるゆると飛ぶ速度を下げて、落としそうな演技でもしてやろう。
「ね~え~、もう落ちちゃう~」
これでどうだ、と内心で活気付くが、それでもメディスンは相手にせず、ひたすら寡黙に飛び続けていた。あのやかましいぼんぼり娘ならきっと噛み付くだろうと計画の勘定に入れていたのに、これでは霊夢の方が浅はかに想えて恥ずかしくなる。
代わりに幽香がまたこちらを振り返るが、すぐに黙り込んでいるメディスンを窺って視線を外した。そうだ、あのぼんぼりめ、急に静かになってしまって、私の計画がおじゃんじゃないか。霊夢が膨れた面をしていると、四度幽香と目が合った。
「もう少しでつくから。我慢なさい」
いよいよをもってバツの悪るそうな霊夢は、しぶしぶ諦めて腕に力を込めた。軽々と袋を抱え直し、飛ぶスピードを上げて元の高度へと戻る。
それを見遣った幽香は、嘆息を混じえて苦笑する。少女が見せる歳相応の反応は幽香の頬を緩ませ、けれどもその扱いに慣れてしまっている自分はもしかしたらもう年配者なのかもしれない、という想いに耽る。いや、私には面倒を見るべきさらに幼い少女が居るではないかと考え直し、隣を飛ぶ元気の無さそうな姿に心配する瞳を向けた。
幽香の眼に映るメディスンは、いつもいつでも元気で明るい少女である。いつだったかに出逢って以来、常に付き纏うようになって終いには毎日幽香のところまで遊びに来るようになった。それまでひとりで花と向き合っていた幽香にとって、最初は羽虫程度にしか想ってなかったメディスンが、これ程までに幽香の割合を占めるようになったのはいつ頃からだったか。もはや磨りガラスのようにぼやけてしまったが、不思議と直感めいた感慨が幽香の心にはあるのだ。故に、幽香はメディスンを気に掛ける。
「どうしたの、メディ。まだ怒っているの?」
虚ろげな横顔のメディスンからは、幽香への返事がすぐには出て来ないようだった。言葉を選ぶように瞳を泳がせ、逡巡している様は幽香が初めて見るメディスンの姿だった。メランコリーという名の通り、憂いを帯びた表情で考えを巡らせていると、きゅっと口を結んでやっとこちらを向いてくれた。
「そんなんじゃないよ。私は、ゆーかに怒ってほしくないの」
自らを映す揺れる大きな瞳に、幽香は戸惑いを覚える。白々しくも大した事ではないだろうと考えていた一秒前の自分を後悔し、見つめ返す事に少しばかりの覚悟を用意した幽香は、改めてメディスンの瞳を見る。
「ゆーか、怒ると辛いでしょう? 怒れない事も辛いけど、怒る事はもっと辛いでしょ? 怒るとだれかを傷付けるけど一番傷付くのはゆーかだもん」
「……メディは私がなにに対して怒っているか分かるの?」
「ううん、たぶん分かってない」
逃げるように瞳を逸らし、申し訳なさそうに指を遊ばせるメディスンに、幽香は目を見張った。メディスンから生まれる意外な表情が、この子の新たな側面を垣間見せるのだ。
幽香は自分の中の割合がまた変動する音を聞いた。
「でも、ゆーかが花をすごく大切にしているのは分かるから、それで怒るんだったら花だって辛いと想う。きっときれいに咲けないと想う」
手元を強く握り込みながらも、視線は未だ定まらない。危ない橋を渡るような不安感を覚えさせるメディスンの姿に、しかし幽香は表情をほころばせる。
「メディは優しいのね。私とは大違いだわ」
「ゆーかだってやさしいよ、私を撫でてくれる時のゆーかはきれいだもん」
「ふふふ。でも花はね、悲しんだり怒ったりしないの。花には感情は無いの」
メディスンがぱっとこちらを向く。その顔は驚きで満ちていた。
幽香は続ける。
「花は生きる事に純粋なの。純粋過ぎて感情を必要としない。楽しそうとか悲しそうとか、そういうのは私達が勝手に想ってる事なの。それを花に押し付けちゃいけないわ」
「ほんとうに、ほんとうにそうなの?」
「私はずっと花と一緒に過ごしてきた。だけど今まで花に笑い掛けはしても笑い掛けられた事は一度も無いわ、精神的な意味じゃなくてね。あの子達は本当に厳しいのよ」
残念そうな顔でメディスンは言い出しかけた言葉を詰まらせる。握った両手は力を失くしてほどけてしまい、唇は生まれるはずだった言霊の形で固まってしまう。メディスンの緩んだ瞼が光を遮ろうとした時、風になびく金髪に温かみを感じた。
後頭部をふわりと包んでそのまま髪の流れに沿うように幽香はメディスンの金髪を撫でた。伝わる熱はほんのりと広がり、その優しさはメディスンの瞼を動かすには充分だった。
「それでも私が花達を嫌いにならないのはね?」
メディスンの瞳に再び自分の姿が映り込む。真摯な反応に夢中になってしまっている我が身に多少の違和感を覚えながらも、幽香は流れる金髪を梳く左手を止めなかった。くせっ毛が混じる髪質は、土の感触によく似ている。
メディスンは瞳を逸らさずに強く頷いた。
「私の純粋な感情を受け止めてくれるからよ。嬉しい色、悲しい色、楽しい色、怒った色。様々な色の花弁を咲かせてくれる。まるで心を映す鏡のように」
「かがみ?」
「ええ。出自がどうとか、能力がどうとかじゃなくて、だから私は花を愛しているの。もしかしたら、その反応を花達自身の感情だと勘違いしているのかもしれないわね。本当は花を育てた者の心次第なのにね」
そうなのかもしれない、というストレートな賛成の声が内心に響き、メディスンは幽香の声色に聞き入っていた。赤みを帯びた白い微笑みから揺れる緑のウェーブまで、どこをどう切っても反論する気を感じさせないのは、幽香お得意の圧迫感ではなく、ひとえに他人をも巻き込んで醸し出すその雰囲気がそうさせるのではないかと想えた。
普段の笑みよりも人懐っこさと緩やかさを紛れさせた表情に、メディスンの鼓動が高鳴る。頬を冷やす風に負けない温もりを、金髪を梳く幽香の指先と自らの胸に感じ、幽香という花柄のサイクロンに巻き込まれた自分自身はほとほと幸せ者だと、メディスンは嬉しくなった。
「じゃあじゃあ、私が育てた花がきれいなのは私がかわいかったから?」
「も~、メディはそうやってすぐ調子にのる」
「あいたっ」
頭の芯に届くデコピンさえも嬉しさの種になるのであれば甘んじて受けよう、そう身を以て覚えたメディスンは、一点の曇りもなく笑った。
感情は伝播する。幽香の怒りが巫女に伝わったように、幽香の微笑みが自分に移ったように、感情は見えない思惟でどこまでも飛んで行く。それなら、私は笑っていよう、メディスンはそう想った。私が笑って幽香にも嬉しさを伝えよう、幽香がずっと本当に嬉しくて笑っていられるように私が笑っていよう。それが嬉しさの種になるように祈って。
ヒリリと染みるおでこが熱くなるのを感じながら、メディスンは幽香の隣ではにかんだ。
「ちょっとおふたりさん、無名の丘、通り過ぎちゃったんだけど」
「あら、すっかり忘れていたわ。貴女の存在を」
「ホントだ。巫女はかわいそうだなー」
「あんたマジで調子にのってるわね。封印するわよ」
霊夢の上っ面だけな煽りを、鼻先で軽々と避けて見せたメディスンに、幽香はただ目を細めるばかりだった。
※
その者にとって、サボるという行為はすでに生活反応の一部であり、朝起きて厠に行くとか食べた後に胃に溜まったガスを出すとかと同じく、生活の中で身体が自ずと動いてしまう、いわば生理的な発露であった。「仕事」という単語が頭に浮かんだ次の瞬間には「サボタージュ」という単語がそれを押し退け、電気的信号がその者の身体をその通りに動かす。終いにはサボって寝ている夢の中でもサボるという始末で、フロイトもびっくりの精神構造をしていた。
サボマイスタ、怠けの頂点などと誰もが口々にその者を蔑むが、しかしこれらは所詮他人の評価に過ぎないと、当人は至って気にしてはおらず、むしろ賞賛の声だと受け取っていた。何故ならば自らの行動理念は一貫してサボるという行為に準じており、どこまで行ってもそこから外れる事など無いという強靱な精神力を持ち合わせた超人だと己を認識していたのだ。どんなに簡単な仕事でも難しい仕事でも、分け隔て無く平等にサボる。これは並大抵の心臓の持ち主では出来得ない事だ。
例えば、過去の霊魂渡航歴を百年単位で纏め、さらにそれを分析して数字的にこれからの法廷予測と審判傾向をレポートで提出しろとかいう面倒極まりない仕事を、手書きの円グラフや「~だとおもいました」という語句を多用した小学校低学年の夏休みの自由研究並みに幼稚な内容で終わらせたり、お茶を入れろとかいう至極簡単な仕事を、白湯(水道水使用・ぬるい)で済ませてしまうといった徹底ぶりなのである。しかしながら、幸か不幸かそれが今までまかり通ってしまった事実が存在し、その者の増長を促した側面もあるにはあるが、本当に不幸なのはその者の耳が周囲の嘆息を感嘆だと勘違いしてしまった事が理由なのだろう。
さらに言えば、その者は相当な自己愛主義者でこんなサボっている自分が大好きであり、愛してさえいた。出来る事なら上司である閻魔の耳元で「あたいはサボりが大好きだ」などと叫び、その胸の内を閻魔の鼓膜と自尊心を破る事で顕現成し得ればどんなに幸せだろうか、と、日々を欲望の赴くままに過ごしていた。
故に、いま小野塚小町は働いていた。三途の河の水をせっせこと運ぶ仕事に従事していたのである。
先日、いつものように昼寝をしていた所を風見幽香に発見され、そこから寝息が悲鳴に変わるまで三秒と掛からなかったという尊い経験を得た小町は、今や幽香に隷属する身と成り果てていた。それは我が身愛するが故の行為であり、自己愛溢れる小町の最大限の善処だった。
そんな中でもやはりというか当然というか、小町の精神的支柱であるサボタージュが頭をもたげてしまうのは、もはや小町自身にも止めようがない事だったのかもしれない。
「ちわーっす、三途の河の渡し屋、略して三河屋で~っす」
人の気配を感じられない花畑に、のらりとした暢気な声が弾けた。それに応えるのは個々に咲き乱れる花達だけで、少しばかりの風の揺らぎが挨拶に相当していた。しかし小町に花達の声を聞き取れる術がある訳も無く、自らの声だけが響いた花畑に安息を漏らした。
「なんだ、幽香さん居ないじゃないか。急いじゃって損したよ」
当たり前のように寝坊し、本来ならば待ち合わせるはずだった時間に起床した小町は、それでも必死の想いで急いで来たのだった。すべては幽香の怒りから少しでも逃れる為ではあるが、その心配が無くなった今となっては反省や後悔等の折角の経験も頭の片隅で霧散しつつあった。
幽香に頼まれたのは、花達に与える水だった。水を持って来いというシンプルな命令に、小町の頭にすぐよぎったのが三途の河だったのは、別に渡し守という仕事に就いていたからではなかった。花に与えるのであれば、三途の河の水は最適だと想ったからだ。
「今日の水も活きが良いのが採れたってのに。きっと花も元気になるよ、そしてあたいも誉められる、うん」
三途の河の畔に咲く花、朱々と咲き誇る彼岸花は小町が知る限りこの世で一番美しいと想えた。幻想郷にも彼岸花は咲いているが、三途の河のそれとは違ってどこか物足りなさを感じる。どうしてなのかと持て余した暇な――サボる事で生じた――時間を使い調べてみると、どうやら三途の河の水が関係しているらしかった。
三途の河に咲く彼岸花はなんというか、濃いのだ。命や力や色彩といった花の存在を支える要素が尋常じゃない濃度で、あの彼岸花達はそれをむせ返るほどに立ち昇らせていた。生命力そのものが輝きを放つような鮮やかさは、三途の河の水がその理由のようで事実、幻想郷に咲いている草花に与えてみたら同じように自らの存在を漲らせるようになった。どういう原理かは知らないが、幽香が満足してくれるなら我が身の安全も含めて上々であったのだ。
「よっこいしょ」
リアカー一杯の桶にさらになみなみと入っている三途の河の水。小町がリアカーを落ち着かせると水は波紋を広げて湿った音を立てた。円形の波が水面全体に広がると水はぬらっとした煌めきを見せ、やはりこの世のものとは違う輝きを放つ。心なしか周囲の花達も色めき立ったように想えた。風がなびくたびに花弁が揺れ、花達が顔を振る。そしてまるで小町を歓迎しているように騒がしさが周囲に広がった。
さすがに小町もその反応に気付き、些か不安を覚えた。ざわめきがざわめきを呼び、大きな気配に成長していく様はとても想い違いとは感じられず、確固たる悪寒で以て小町に伝えられた。
「うわぁ、なんだこれ……」
見渡す限りの花達が一斉に小波を打つ。自らの肘を抱き、背筋に潜む冷たさに耐える小町は、今や幾万と想える視線に晒されていた。すぐ足元の花が見上げ、遠く丘の上に咲く花が眺め、岩の陰から花が覗く。粟立つ肌を撫でながら、自らが苛まれる現状に小町はひとりで居る事に僅かながらも心細さを覚えた。
だが、所詮は花だ。それだけは間違い無い事だし、視線や気配に寒気を覚えてもそれ以上の実害は無いはずだ。三途の河の水と言ったってこれだけじゃせいぜい花の命が濃くなる程度だろう。もっと要素が集まれば話しは別だが。
小町は周囲に一瞥をやり、もうそれ以上考える事を止めようとした。こんな時は小町のような性格は気楽であった。数秒前の心配も霧散し、腕を放り投げて回れ右をした。
「帰ろ。そして寝よう」
「こにゃにゃちわあー! おねいさん今日も肥料持ってキタヨー!!」
「きゃーん!」
突然の来訪者の叫びに、負けじと悲鳴を高らかに響かせる。小町は死神ながら魂が飛び出るほど驚愕した。
振り向いた先に居たのは赤毛のお下げ髪が弾ける妖怪だった。両腕を高々と挙げ、黒目がちな瞳が小町を捉えると、その妖怪はひと飛びで近づいて来る。
「あんたは誰だ! 花のおねいさんはどこに!?」
「あ、あんたこそなにモンだい、名乗りな!」
「おお、それもそうだ。あたいはお燐。火車の妖怪さ」
すっかり萎縮してしまった小町は、自らを火車と名乗る妖怪に目を白黒させた。緑の混じるワンピースにどら猫がそのまま袖を通したような活発さを見せる少女は、その通り猫耳と二つに分かれた尻尾を振り回して鋭い気配を放つ。しかし間近で見遣れば少し浅黒い肌に既視感と懐かしい匂いを感じ、小町は自ずと姿勢を直してコホンと息を付いた。
「あんた、地底のモンだね。この焦げたような匂いは灼熱地獄か」
「もはや跡地だよ。でもまあ、変な地獄烏が闊歩してるからすこぶる熱いけど」
肩をすくめるお燐に気を許せる部分を感じ、小町は比較的小さくはない胸を撫で下ろす。どうやら全く知らない仲ではないこの少女は地獄跡地の出身らしい。遥か昔に隔離された地獄の成れの果て。今や地底の住人の居住区になり、獄炎もさる妖怪の管理下にあると聞いている。そう言えば、地底と地上では交流は断絶されているのではなかったっけ?
実際目の前に居る妖怪は間違いなく地底の者だし、自分には些細な事というか正直関係無い事と決め付けた小町は、お燐をどうやってやり過ごそうか考え始めた。自分がここに居た事を知る者は出来るだけ少ない方が都合が良いのだが。
その想いを知ってか知らずか、お燐は忙しなく周囲に視線を巡らす。
「それで花のおねいさんはどちら? 肥料を持って来たんだけど」
「あ、ああ、幽香さんの事かい。出掛けてるようでね、あたいも用が……肥料?」
「うん、そう。灼熱地獄の燃えカスがね、調子良さそうなんだよ」
「燃えカス?」
そうさ、とお燐は身を翻す。お燐は幽香に花の肥料を頼まれていた。灼熱地獄で燃やしたその残りカスが、なかなか土を肥やすのに適しているらしい。小町がお燐の影になっていた手押し車を見遣ると、そこにはこんもりと盛られた白っぽい粉があった。風を受ければすぐに飛んでしまうのか、小さい幌で覆ってはあるが、やはりそこからも地獄の匂いがする。
小町は割と鈍感な方ではあるが、こと仕事に関係するものには敏感であった。別に仕事熱心なのではない。それとは逆に、仕事から逃げる為に敏感になるのだ。
「大丈夫だよ。放射能汚染はないから。きっと」
訝る瞳に気づいたのか、お燐がえへんと胸を張った。しかし聞き慣れぬ用語を持ち出され、小町はなおさら目を細めた。不安を覚え、確認しようと手を近づける。だが触れる前に、小町の不安は確信に変わった。
「これ、なにを燃やした?」
「え? ああ、に」
「もういい。皆まで言うな」
当たりも当たり、大当たりの感覚に実際自分はこの仕事に向いているのではないかと想えて、小町はひとり笑みを噛み潰す。この不安予測が現実感を帯びて奥行きを持つ感覚。何度味わっても慣れぬ寒気と心が粟立つ震えに、小町はもはや楽観視する気持ちにはなれなかった。夢であって欲しいと願いはするも、事実、目の前にそれが広がっているからだ。
「まずいまずいマズイ。これはまずいぞ」
見る見るうちに青ざめ身体を萎縮させていく小町に、お燐は首を傾げる。一体なにに怯えているのか、分かりかねるお燐はふと自分が持って来た肥料を見遣った。このノッポな女性はこいつを見た途端に態度が変わった。お燐からしてみれば別になんの変哲もないただの肥料。他と違いがあるとすれば、些か有機的過ぎる事と友人のお空が関わっている事ぐらい。
はて、とお燐は小町の異常さに既視感を覚える。この怯えよう、誰かを恐れているのか? そう言えば、お空のヤツも失敗してさとり様に叱られる時はこんな感じだった。そう、大きな失敗を犯してしまうと、怒られるのを恐れ決まって子供のように身を縮こまらす。
そこまで行き当たってお燐は小町に視線を戻した。依然として青ざめては身をくねらす大柄な女性の姿に、友人の幻影が重なる。
「え? なに? なにか間違った事しちゃった? お、怒られるの?」
不安が伝播したお燐にも寒気が襲った。お燐にしても、主人に叱られる事は身を震わすほどに畏怖する事だった。
しかし、身体の芯から凍えるこの感覚は不安だけとは到底想えず、なにか別の存在がお燐の神経を逆撫でしているように想えた。いや、これは先ほどからすでに感じていた。さっき大声を張りあげた瞬間に、何者かの注目を一身に浴びるゾッとする感覚。そうだ、あれは。
「いや、お、お前さんのせい、じゃない。かといってあたいのせい、でもない、と想う」
途切れ途切れに釈明の言葉を吐く小町は、その背丈が半分にも満たないくらいまで縮まってしまった。もはや目に入るのは肥えに肥えた赤土と、火車の妖怪のおみ足だけ。その視界だって恐怖で揺らいでしまい、二本の足もガクガクと震えていた。しかもその足だけやたらと膝が笑っているので、小町は恐怖でついに眼もおかしくなってしまったのかと想えた。
「こ、これは悲しい事故さね。そう、事故なら仕方ない、致し方ない」
凍える寒さに耐えるような声を出し、小町は逃げる算段を整え始めた。このままここに居てはやがて巫女がやって来る。そうすれば上司の耳にも入り自分はこってり絞られる。こうなれば見つかるにしてもなるべく事が落ち着くまで先伸ばしし、見つかっても知らんぷりをしよう、そうしよう。
考えを巡らす小町は、突然両肩を鷲掴みにされ顔を引き攣らせた。恐る恐る自分の肩を掴み上げる白い腕沿いに見遣って行けば、そこには火車の顔があった。それは非道くやつれた細面で、あの活発そうな表情は見る影もなく、特徴的な黒目がちの瞳も猫の目よろしく縦に長く震えていた。視線がカチ合ったはずなのに、小町の顔に焦点が定まっていない。
「みみっみっみっ見てみみっみみて」
「…………きゃん」
お燐は話す言葉すら危うく、小町は呟くほどの小さな小さな悲鳴を吐く。ふたりの瞳に映ったのは幾万の花。見える限り、足元から丘の上まで連々と続く花畑。ふたりが視線をどんなに巡らせても、その先にある花もこちらを見ている。あそこの花も、こっちの花も、向こうの花も、この花も。みんな笑ってこちらを見ている。
「あわわわわわわわわわ」
ざわめく大波が四方八方から押し寄せ、注目の只中に据えられたふたりに覆い被さる。あれは風による揺らぎでも、ましてや気のせいでもない。確実に意思を持った視線が蜘蛛の糸のように絡みついてこの身体から離れない。額から頬に流れる冷や汗も、鳴り止まない奥歯の震えも、お互いの身体を掴み合う腕の強張りも、笑いが止まらない膝小僧も。すべて視られ、晒されている。
視線で頬を舐められたような幻覚と、嘲笑うかのような小声を幻聴し、小町とお燐は突き付けられた現実にその身を溺れさせた。もがいても手探っても這い上れない濁流へと、目の前に咲き誇る花達は憐れむようにふたりを招き寄せる。
「四季様に」
「さとり様に」
抱き合うふたりには、もはや涙声で叫ぶ事だけしか残されていないように想えた。
「怒られるー!!」
なおも花達はふたりを見つめ、愉快そうにさざめく。
お燐は幾万の視線に当てられた上に、どうやら誰かに怒られる事で頭の中が一杯のようだった。瞼を固く結び自分の殻に閉じ籠もる姿に、猫特有の気まぐれと自分勝手さが垣間見られた。そこに頼みに出来るような要因は一切感じられず、小町はぐっと息を飲む。
逃げ場など無い、腹を括るなら今しかない。小町は意を決して立ち上がり、強く抱き締めてくるお燐を引き剥がした。少なからず心の支えとなっていた体温が離れ、ふたりの間にまた嘲笑の風が流れ込むと、小町は急激に冷めていく両腕に心許なさを覚える。だが、もうさすがに引き返せないと踏んで、どこからともなく大鎌を取り出した。
「お、おねいさん、い、一体なにを?」
「こうなりゃヤケだ。少しでも怒られないようにする!」
小町の長身と相まって高く振り上げられた大鎌は、ぬらりと濡れた輝きを見せた。その大鎌の使い道を、お燐はひとつしか知らない。うっすらと笑みを浮かべている小町に、もはやまともな思考も忠告も必要無いようにお燐には想えた。ただ、この現実を切り払うにはそれしかないと心の内で懺悔を反芻し、大鎌は望み通り、嘲笑を斬り裂いた。
ざわめきは霧散し、笑みを隠していないのは周囲でふたりだけだった。
※
肩越しに見えた顔は憂いを帯び、ほんのり紅いチークもその仕事を為せてはいないようだった。嘆息が漏れる口元のリップは潤っているものの、歯痒い現状と焦燥感を感じさせる空気に、それも乾いてしまうのではないかとメディスンには想えた。
目の前でしゃがみ込んでいる幽香は、先ほどとは打って変わって寂しげな表情だった。目に見えて活気が萎えている姿はまるで背徳感に苛まれているようで、メディスンは掛ける言葉を見つけられずにいた。
「やっぱり駄目だったの?」
雰囲気を読んで零れ落ちた問いを放つ。だがふたつの背中に無言で返答された霊夢は、土と自らの汗に汚れた両手を見遣った。少しだけ掌に出来たマメを気にし、しかしそれに見合った成果を得られなかったこの疲労感と徒労感の逃げ場を見つけ出せず、霊夢は辺りに咲き乱れる鈴蘭を見渡した。
その名の通り、鈴の音を鳴らすように花弁を揺らす姿に、この汗の気持ち悪さが少しばかり引いていく気がした。重労働と言える耕耘作業は力仕事に慣れない身体を激しく虐めたが、その間も鈴蘭達はやはり涼しそうな音色を奏でて、幾らかは清涼剤の代わりになっていたと想えた。そんな畑仕事に付き合った自分を褒めてやりたい霊夢だったが、最後までやり通す精神力を保てたのは意外にもあの花の妖怪のお陰であった。額に緑のウェーブを張り付かせ、陽気過ぎる春の日差しに照りつけられながらも、あいつは始終楽しそうにしていた。見慣れぬその様子に呆れてはいたが、霊夢は自らの両腕に力が入るのを自覚していたのだ。
それなのに。想いは叶わず、種はまたも黒ずんでしまった。
「ここも同じ。幻想郷ぜんぶがこの状態なのかしら」
寂しげな背中を目尻に残しつつ、なおも揺れ靡く鈴蘭を注視する。相変わらずここの鈴蘭達も普段どおり咲いている。幽香達が居た花畑と同じく、すでに土に根を下ろしている植物は被害にはあわないのだ。
ぼんぼり娘と出逢い、危うく毒に犯されそうになったこの場所は、当時と同じ妙に冷えた風が流れる不思議な丘だった。『無名の丘』と名付けるに値する雰囲気は、その成り立ちに相応しいと想えた。なにしろ土を耕せば白いものがそこら中に見え隠れするのだから、霊夢は神妙になるのにも飽き飽きするほどであった。
そのせいか、ここの鈴蘭達からは妖気を感じる。浮かばれぬ屍が重なり合い、混ざり合った思惟が反応を起こせばそれもあり得ると想われた。不穏な思惟を養分に成長した鈴蘭は健康的なまでに妖気を放ち、あのぼんぼり娘すら生み出したのだ。植物は時に感情めいた力を発揮し、予想だにしない事をしでかす。
ふと、そこで霊夢の思考が立ち止まる。
今回の件、被害が植物に限定している事で自然とそれ以外の存在が犯人だと仮想していたが、もしそうでなければ、もしなにかしらの関係があるとすれば。『博麗の巫女』の顔を覗かせ、霊夢は独りごちる。
霊夢は歯車が動き出す音を幻聴していた。
「幻想郷ぜんぶ? いや、違う。少なくとも被害が出ていない場所があるんだから、それが答えじゃないにしても間違いではないはず」
自らの内に在る歯車が回り出せば、あとはそれに噛み合う外輪を見つけるだけだ。少しくらい歯こぼれやボロでも構いやしない。そんなものは博麗の能力がどうにかしてくれる。目に見えぬものが手招きしてくれる。
「そうだ。種や子株から消えた精気はどこへ行くのよ。土に還るわけでも雨に流れるのでもなければどこに溜まるの?」
偶然が霊夢の味方ならば、必然は敵であった。決められた事に力など無く、いつでも問題を起こすのも答えへと導いてくれるのも自らの範疇よりも外の存在だ。必然は決めつける事だけだが、偶然は可能性を呼んでくれる。驕り高ぶる世界の先を、幾つもの枝々に分かれさせたのは必然などではない。
しかし例え道を見つけても歩くのは自らの力でだ。回されるのが歯車の運命だとしても、回されてやるのは博麗霊夢の自由意思だからだ。
「…………そこに犯人が居るのか」
見据えられた一輪の鈴蘭が、びくりと震えた気がした。淡い炎を灯した霊夢の瞳は、冷えた風に晒されながら揺らぎもせずに熱を帯びる。身の内の歯車が加速し、もうすぐ一度目の変速を迎える事を自覚している霊夢は、自らをその熱と躍動に巻き込ませる覚悟をつけた。
引いた汗に喉の渇きを覚え、それを高鳴る心臓のせいにし、浮かれ気味の身体を繋ぎ止める為に拳に力を込めた。小さなマメなど気にしてはいられなかった。
「分かったわよ。まだ色々と分からないけど、この異変の尻尾を掴んだわ」
「さっきからなにを言ってるのか巫女はー。スーさんの毒に当てられたのかしら? 解毒してあげようか?」
鈴蘭から視線をスライドさせると、残念そうなメディスンの顔があった。霊夢をかわいそうな子のように見つめる瞳には、けれど少なからず嘲る色が覗き、その口元が歪んでいるのも見間違いではなさそうだった。この毒ぼんぼりめ。
「異変の中身が分かったって言ってるのよ。感謝しなさい、これで畑仕事から解放だわ」
「え、犯人分かったの? どこに居るの?」
「知らない。それはこれから探すわよ」
メディスンの鼻が鳴った。口元を押さえ、霊夢に背を向けると催したように身体を震えさせた。小さな肩がこくこくと上下し、指の間から漏れた息がふざけた音をたてる。あからさまな態度に身の内の熱も急激に冷めていくのが分かった。
背中を丸めて息も切れ切れに喘ぐメディスンの姿に、霊夢は目を細め、スカートのポッケに手を入れると一枚の紙を取り出した。『大入り』とオモテ面一杯に書かれ、裏には朱色の奇妙な紋様と真ん中に『滅』の文字がひとつ。霊夢がそれを放り投げると一瞬浮遊し、まるで糸が付いているかのようにメディスンへと飛んで行く。その後頭部に張り付けば、悲鳴をあげるのに一秒と掛からない霊夢謹製のお札だ。
「いやー! イタイイタイイタイー!」
「ほーらバチが当たった。博麗の巫女を馬鹿にするから」
「とれないー、とってー! イタイー!」
目から火花を散らせるほどの痛みが全身に駆け巡る。断続的に電流が流れるような鋭さでメディスンの身体をお札の力が苛む。破魔の力が染み付いているお札は、対妖怪用の巫女の攻撃手段だった。スペルカードルールがあるので直截の攻撃力はさほどでもないが、敵を一時的に釘付けにし、その後降参させるなり弾を当てるなり使い勝手の良い飛び道具だ。以前の決闘でもこれにしてやられたのを想い出し、メディスンは苦いものが広がる感覚を覚える。無視出来ぬ悔しさを噛み締め、地面に這いつくばっていると、すっと身体が痛みから解放された。
ふと見上げるメディスンの顔に手の形をした影が差した。影はメディスンの視界に留まると、手の中のお札をいとも簡単に破り捨ててしまった。能力的に上位の妖怪には効きにくいお札を、容易く破るその力にメディスンは素直に尊敬の眼差しを送る。だが、容赦のない凄まじさも垣間見え、胸の内に波紋が広がった。案の定、手の主は笑顔を湛えていた。
「メディになにをするの?」
しまった、と想ったのも束の間、メディスンはその身体を転げさせた。二転三転し、渦を巻く視界に世界が天変地異を起こしたのかとも錯覚する。何度か土の味を知り、ようやく落ち着いてみれば、仰向けに見上げた青い景色の端でサイクロンが唸りを上げていた。
頭だけを持ち上げると顔のすぐ傍を小石がすっ飛んで行った。風を切る音が間近で弾け、喉元に冷えるものだけを残して一瞬で心を掻き乱していく。だが、メディスンの目の前にはさらに恐ろしい光景が渦巻いていて、それから目を離せずにいた。
「サイクロン症候群だ」
やっと絞り出した声を吹き飛ばし、乱気流が土埃と共に踊る。日傘が空気を引き裂き、気圧が一気に引き下げられる。花柄が残像を描けば、ピンと張り詰めた糸が周囲に満ちていく。その一本に触れれば爆発しかねない小さな低気圧の中心で、白い笑顔が佇んでいた。
快楽を求め、その都度奪われてきた花柄のサイクロンが、美しいまでに怒りを露わにしている。
「なによ? お友達いじめられて怒った? あんたらしくもない」
右手で髪の毛を押さえ、巫女が悠然と言い放った。それでも風圧で表情を歪ませるところを見ると、少なからず威圧的な雰囲気を感じ取り、警戒しているようだった。両足に力を入れ、強風を受けながらも背筋を曲げない様子に、やはりメディスンは巫女の強かさを見つける。サイクロンに負けじとその瞳を見開き、片時も動きを逃すまいと目を皿にしていた。
しかし、肝心の幽香はというと、感情を発露させてはいるもののそれ以上のアクションを起こさず、相変わらず笑顔のままで日傘を回転させていた。一旦火が付けば捌け口を求めるように行動する幽香だが、冷静さすら感じさせるその様子は逆に恐怖心を掻き立て、なにもかもを無下に帰す雰囲気は心の奥底に鈍い光を落とす。
「なにか言いなさいよ」
その光に当てられたのか、霊夢が堪らず声を出した。言葉を放つと言うよりも吠えると言った方がしっくりくる声色に、自分でも情け無いと想うが、これだけの妖気とプレッシャーを浴びてはと、霊夢は心の折り合いをつける。自身の中で幽香という存在がどのように扱われているか分かっていたつもりだったが、こうまで動揺する心に屈辱を覚え、霊夢は改めて気を引き締めようと目の前の妖怪を睨み据える。身の内の歯車がブレているようでは、外輪が言うことを聞く訳がないのだから。
「さっきもそうだったけど、誘うだけ誘っといて動かないなんて、らしくないんじゃない? 案山子じゃあるまいし、突っ立ってるだけじゃ……」
にわかに語尾を濁した霊夢の顔色が、見る見るうちに青ざめていく。表情だけじゃなく、指先まで凍りついたように動かせないでいる霊夢を見遣り、メディスンは困惑する。恐ろしくても恐ろしいとは言わず、背筋を伸ばして見つめるのがこの巫女の強かさだ。そう把握していたのに、今の巫女は蛇に睨まれた蛙同然ではないか。その心の内を隠そうともせず、霊夢は出しかけた言葉を飲み込み、乾いた喉を鳴らした。
「なによ、これ」
やっと聞き取れるくらいのかすれた声を皮切りに、霊夢はなにかを探すように身体を巡らした。ただ事ではないそのうろたえようは、メディスンにとって初めて見る霊夢の姿だった。一番の脅威であるはずの幽香を見向きもせず、忙しなく辺りを窺う霊夢に、メディスンも緊張の色を隠せない。ヒヤリとした空気が背中を這い、居ても立ってもいられず身体を起こしたメディスンは、ふと乱気流が収まっているのに気付く。幽香が日傘の回転を止めていたのだ。
あれ、と、メディスンは心を粟立たせる。幽香が笑っていない。あんなに怒りを露にしていたのに、幽香が笑っていない。その表情は何事も浮かんではおらず、それこそ霊夢が言った通り、のっぺりとした案山子のようだった。
「なんなの、この大きな気配。西行妖? 違うわね、あれよりもっと近い」
「大きいわ」
芯の通らない、抜け殻のような声で、幽香が呟く。霊夢に向けて言ったのか独り言なのかはっきりしない声色に、気持ちを引き戻されるように霊夢は振り向いた。幽香もこの気配に気付いたのか、呆けた顔をしながらも敵意を収めてくれている。やり場の無い疑問をぶつけるには少しばかり頼りなさそうな雰囲気だったが、霊夢はなにか知っているならと口を開く。
「あんたなにか知ってるの? 教えて」
「大きくて、大きいけど、まだ足りないみたい」
「おい」
足りない? なにが足りない?
幽香と視線がカチ合ったのも束の間、先にそっぽを向いた幽香がその瞳を輝かせて青い空を見上げた。つられて見遣る霊夢は、その方向に心当たりがあった。陰陽玉の紅色が指し示した場所。ふたりの妖怪と出くわした、あの花畑の方向だった。
ぽとり、と、手で包んでいたパンジーを地面に落として、小町は自分がしてしまった事を後悔した。見遣った両手は震え、土が食い込んだ爪と指が自らの失敗を物語るように赤々としている。指の間から、これが杞憂ではない証拠が見えた。その可憐な姿を根っこごと晒していたパンジーが、一瞬の内に黒ずんで精気を吸われていった。
「いやぁ、三河屋のおねいさんが鎌を振り上げた時にはびっくりしちゃったけど。そうだよねえ、花を刈るなんて事、それこそなにされるか分かったもんじゃないよねえ」
幽香の事を言っているのだろうと分かる言葉を吐きながら、お燐が小町の横を通り過ぎて行く。それを聞いても乾いた笑い声しか出て来ない小町は、いっそあの時に花を刈っていた方が良かったと想えた。幽香には恨まれるだろうが、彼岸まで逃げてしまえば追って来れる訳がないのだから。
「でもこれいいの? 植え替えた花が片っ端から枯れていくんだけど」
小町の提案は、あの畑にあった花を幻想郷中にばら撒くように植え替えるというものだった。それにより花の妖気を拡散させ無力化させるのが狙いだ。
だが、違う。裏目に出た、と言うより自分の迂闊さで招いた現状に、舌打ちすらはばかる面持ちの小町は、もはやどんな事をしても無駄だと断じていた。そうだ、そうなのだ。花達の妖気と気配ばかりに気を取られて、肝心な事を素通りしていた。
妖気の燃料、気配の媒体。意思を持つまでに至る為のエネルギーというものの存在を、小町は思案の外に置き忘れていた。それがこの、他の植物の精気。土を介して種や植物の精気を吸い取り、それを元手に自らの妖気を高める。あの花達はそれをやってのけたのだ。小町が運んだ命を濃くする『三途の河の水』、お燐が持って来た死体を燃やした灰の『肥料』、それに過分な『精気』が混ざれば後は言わずもがな。鬼が出るか蛇が出るか、小町はそれを指を咥えて見ているしかない。
花畑の土の下、あそこに蠢くものを想像する気持ちにはなれない小町は、せっせこやと一所懸命植え替えを手伝うお燐に申し訳ない想いを抱えながら、自分亡き後に秘蔵の『四季様盗撮コレクション』を映姫自身が見つけた光景を軽々と想像し、少し身震いした。
「あーあー、どんどん枯れていっちゃうよ。かわいそうに」
もはやお燐に仕事を止めさせる言葉すら出て来ない。かわいそうなのはこれから非道く叱られるお前さんだよ、と想いはするが、正直、現状を把握していないお燐が幸福そうで仕方なかった。
地鳴りがする。地を揺らし、小石を転がし、腹の底を震わす重低音が足元から突き上げてくる。そう感じた霊夢は、もう異変の犯人もこの大きな気配の位置も探る気は毛頭無かった。目の前に居る妖怪が見つめる方向、爛々と輝かせる大きな瞳、垂れ流しにしている霊夢への敵意が全てを述べており、そんなものは頭の隅から弾かれる寸前であった。
再び加速を終えた身の内の歯車が、今や遅しとその歯をギラつかせていると自覚して、まずは段階を踏もうと言葉を放つ。
「案山子なんて、我ながらよく言ったものだわ。あんたは案山子だ。あの花畑に私みたいなヤツを近づけさせない為の、鳥よけってわけだ」
悔しさが滲み出ている表情で、呻くように語尾を震えさせた。その通り、案山子にまんまと花畑から引き出され、あまつさえこの異変の手伝いまでしてしまった霊夢にとって、未だ乙女の顔を見せている幽香が堪らなく恨めしかった。唇を噛み締め、掌に出来たマメを握り潰しそうほどに拳を固くする。
「ゆーか、そーなの? ゆーか」
ひとり蚊帳の外だったメディスンが、揺れる瞳を幽香に向けていた。立っているのがやっとの様子に、幽香からなにも聞かされていないのだろうと窺えた。地鳴りのせいか、それとも溢れる動揺を抑えようとしているのか、細い足を踏ん張りながら身体を強張らせていた。しかし、か細い四肢をして人形たるように出来上がっている姿は、とてもその事実を受け止めきれるとは霊夢には想えなかった。せいぜいがその容姿同様の幼さで駄々をこね、自らの言い分を一方的に押し付けるだけだろうと。
なれど、ぼんぼり娘は違った。地鳴りによろめきながらも、自らの範疇を超える事実があろうとも、湿気めいた瞳は真っ直ぐに幽香を見つめていた。
「なんでこんなことするの? 花の種を犠牲にしてなにしようとしているの?」
地鳴りに負けないよう、必死に声を張った。視線の先の幽香が、まるで人形のように首だけを動かして目をメディスンに向ける。その瞳に輝きは無く、微かに動いた口元は小さく開かれ、吐息が漏れるようだった。
「花がかわいそうだよ。花が大好きなんじゃなかったの」
「洗いざらい吐きなさい。植物の精気をあの花畑に集めてなにを企んでいたか、これからなにが起こるのかをね」
幽香の表情に隙を見つけ、霊夢がメディスンの言葉と重ねるように問いただした。身動ぎひとつしなかった幽香の身体が後ずさり、少しばかり肩を竦めたかに見えた。霊夢の問いに反応したかのように想えたが、幽香の顔はこちらを向く事はなく、メディスンと視線を交じ合わせたままだった。数秒間置いてから目を背け、それも気のせいだったかのように再び身体を硬くさせる。
歯切れの悪いその態度と今この瞬間も大きくなっていく気配に霊夢は焦りを覚え、もはやふたりに構っていられる気持ちにはなれなかった。頭を振って花畑の方向を仰ぎ、背中で言い放つ。
「私はこの気配の元へ行く。あんたはどうする?」
最後の質問のつもりで静かに、だが確実に届くように言葉にした。これ以上は待てないとばかりに放たれた言葉の矢に促され、緑の髪が揺らぐのを霊夢は自らの肩越しに確認した。
途端に巻き起こる殺気と妖気が混ざり合った乱気流が、紅白の巫女服を弄び、霊夢の肌を粟立たせながら吹き抜けて行く。爪の先から頭の天辺にまで痺れを来たす視線は背中で受け止めるには少々酷で、想わず喉を鳴らした霊夢は懐から出した御幣を握り締めた。
ゆっくりと振り向けば、そこには白く細いとびっきりの笑顔があった。こちらを見据える目は開かれ、緑の髪が踊り狂い、日傘はチャクラムのように研ぎ澄まされ回転する。目の端に見える棒立ちのメディスンが少しだけ邪魔だと想いつつ、霊夢は薄い色を乗せた幽香の口元がやけに生々しく感じた。
「私の邪魔はさせない」
ルージュのように紅いローヒールが一歩踏み出され、小石を蹴飛ばした。
その直後に地鳴りは地震に変貌し、ふたりの間の空気を震わす。
「結局こうなるのね」
苦笑交じりに言い捨て、御幣を真正面に構えると、霊夢の周囲に陰陽玉が浮き上がった。身の内の歯車が外輪を見つけてさらに加速し、二回目の変速の時を迎えようとしていた。
地鳴りとは違う、大気を揺るがす轟音が遠く例の方向から聞こえる。
再び対峙したふたりを見遣り、メディスンはきゅっと口を結ぶ。湿りつつも怯まない瞳は、今や現状を捉えるのに努めてやまない。
無名の丘の向こう、幽香とメディスンが愛情込めて耕した花畑に、大きく立ち昇る土煙が見えた。
小山のように土が盛り上がっては陥没し、またさらに盛り上がる。土の下、それも大して深くないところでなにかが動いていた。脈動するように、自らの存在を膨張させるように捲れ上がり、今か今かと地上に出るのを窺っていた。幾筋の土煙がそこかしこから噴出しては土の隆起を促進し、地殻変動のように地表が蠢く。地鳴りと共にごうごうと地形が変わりつつある中で、相変わらず周囲の花々がさざめいていた。何事かの始まりを予感し、土の下で生まれる大きな存在を祝福しているかのように。
やがて土煙の噴出が収まり、隆起が沈静化してくると、そこには真新しい一対の葉が出ていた。青々とした色に健康的な葉脈が生命力の強さを物語っている。天高く登った陽の光を一身に浴び、気持ち背伸びをするように力強く天を目指す葉は、まだまだ小さいながらも至ってシンプルに命を謳歌していた、かに見えた。
突如として地面が割れる。赤土を縦横に渡って深い溝が入り、地面が巨大な数個の塊に別れるとなにかの一部分が溝の隙間から覗けた。轟音と土塊、それに妖気と共に膨れ上がり、一気に爆発させるとその全貌があらわになる。周囲の花々や幽香達が蒔いた種を土塊と一緒くたに宙へ放り上げながら、天突く勢いでその巨大な姿を顕現させた。
長い長い根を支えにして自らの身体を仰け反らせ、豊満な生命力を誇示するかのように太陽へと見せつける。他の植物の精気を吸ったその葉は肉厚で、今も脈動しながら活発過ぎる光合成を行っている。そして周囲数十メートルはあろうかと想われる茎の先端に垂れ下がっている丸い螺旋が、これがなんなのかと辛うじて教えてくれていた。螺旋は花の蕾。項垂れる巨人のような影を持ったそれは、蕾を抱えた妖怪花だった。
ゆっくりと蕾を持ち上げ、空に遠吠えするような格好で停止した。未だ足りない精気を太い根から吸い上げ、衝撃でばら蒔かれた花達も、落下して地面に触ると同時に黒ずんでいく。それでも花達は歓迎し祝福して各々の花弁を揺らめかせている。貪欲なまでに膨れ上がっていく妖怪花の影が、黒ずんだ花達を包み隠していった。太陽を独り占めにした妖怪花は、幼い子供のような我儘さを垣間見せ、開花の時を静かに迎えつつあった。
地震と地鳴りの後、一際大きい轟音が聞こえたのを合図に霊夢が一足飛びに幽香へと突進した。そのまま小脇に構えた御幣を刀よろしく振り上げ一撃を食らわそうと目論むも、幽香はそれを日傘で軽々と防ぐ。絡み合う視線と殺気を帯びた攻防。柔らかいが弾力性に富んだ日傘の感触に、突き破るのは無理と逡巡しているとすかさず幽香が日傘を閉じる。込めた力が肩透かしを食らい、霊夢がよろめいた時にはすでに幽香は視界の外に居た。瞬間的な殺気の高まりに咄嗟の判断で身を伏せた霊夢の頭上をかすめ、閉じた日傘が宙を斬る。乱れた風を背中で確認した霊夢は伏せたままで足払いを周囲に薙ぐ。手応えの無い感覚に、半ば脊髄反射的にその場から飛び起きた霊夢は片膝をついて御幣を構えた。
「そんな身のこなし、いつの間に? 前は弾遊びだけだったのにね」
「臨機応変にってね。お互い運動不足解消にいいでしょ」
数メートル先で笑顔を浮かべる幽香が、日傘を回転させながらこちらに目配せをする。皮肉めいた言葉を投げかけ合いつつも、霊夢は改めて幽香の身体能力の高さに驚いた。自身も怠けていた訳ではなく、たまに行っていたそれなりの精進をも無下にするような幽香の体術は、今なおひりつく殺気として霊夢の身体が記憶していた。一振りで必殺の剛腕と、多くの戦闘経験に基づいた勘。隙をも生んでしまう大振りなスタイルは、自らの高過ぎる能力の裏付けで、自負にも似た力強さを霊夢に見せつけた。
それでもここで引く訳にはいかない。臨戦態勢の幽香に背を向けるのは自殺行為と知っているからだ。霊夢は自らを奮い立たせる為に声を上げる。
「時間も無いから、めいっぱいで行くわよ」
周りに浮かんでいた陰陽玉が霊夢の正面に収束、弧を描いて回転しなにかが連続で撃ち出された。糸のように細い赤みを帯びた弾丸、『封魔針』が前方の空間に猪突して穴を穿ち、幽香めがけて殺到する。真正面から見れば細すぎて光の点にしか見えない『封魔針』は、眼に映りづらく回避の間合いが読み難い。幽香は日傘での防御を諦め、大きく横っ飛びに回避するが針の数本がスカートの裾を破りさらって行った。
幽香が軽く舌打ちする間に霊夢は次弾を放つ。今度は陰陽玉を左右に振って『封魔針』の掃射。広範囲にばら蒔かれた針が壁のように弾幕を形成し、スカートを翻した幽香へと押し寄せる。幽香は一瞬で掃射角度を読みはしたが、また衣服が汚れるのを嫌い堪らず上方へと身を踊らせ、足の下に針の壁をやり過ごしながら宙を蹴って霊夢へと加速した。一秒とかからず最高速度に達し、殺気を感じさせる間もなく霊夢の懐に飛び込む。背中まで振りかぶった日傘の柄を想い切り握り込み、身体全体で叩きつけるようとした瞬間、視線がカチ合った霊夢の目が吊り上がる。
想いも寄らずに幽香は縦ロールで回転して急速に方向転換。そのすぐ後に幽香をかすめて左右からお札弾が飛び込んだ。幽香が居たであろう空間でお札弾は交差し、そのままベクトルを曲げて個々に幽香を追尾した。
「もう、ちょっとだった」
大入りと書かれた『ホーミングアミュレット』は、先ほどの『封魔針』に紛れさせて射出したものだった。お札弾は名の通りの性能で、飛び石のように地を駆ける幽香へと迫る勢いを見せる。鋭角、直角、鈍角と、じぐざぐに高速で移動するもお札弾は幽香自身が手繰り寄せているかのようにその軌跡をなぞり、じりじりと距離を詰めて行く。
貫通力のある『封魔針』とは違い、お札弾であれば日傘で容易に防御出来るが、それでは面白くない、と幽香は想った。霊夢はこの『ホーミングアミュレット』の中に、時折『妖怪バスター』を忍ばせている事があるからだ。それは先ほどメディスンの後頭部を苛んだ妖怪封じのお札弾。張り付かれれば痺れと共に妖気を封じられてしまう。
「ズルイだなんて想わないでよ」
さらに陰陽玉からお札弾を高速で撃ち出す。口の中で小さく呻いた幽香を、お札弾は束になって容赦無く襲った。前と後ろから挟み撃ちの格好となり、さあどうするかと独りごちた幽香の目の端に、紅白のリボンが躍った。陰陽玉を引き連れて幽香との相対速度を合わせたその姿に少しばかり鼓動が跳ねる。揺らぐリボンに不釣合いな強張った表情をこちらに向け、いつの間にやら並走していた霊夢が針の弾丸、『封魔針』を放った。
見る見るうちに弾幕で包囲され、周りが逃げ場の少ない鳥籠と化す。素早く身を翻すもお札弾と針が形成する弾幕に追い詰められ、苦味を覚えた幽香は霊夢の強張った表情に視線を投げた。度胸と強かさを併せ持ち、たったひとりだけでこの十字砲火を成し得た霊夢に、幽香は感心するように口元をすぼめる。この娘、本当に妖怪には容赦が無い。
ならば、と、幽香は地面を割れんばかりに蹴って宙へと舞った。打ち上げ花火の如く垂直に飛び上がった幽香を、さも当たり前のようにお札弾が追跡する。お札同士がぶつかって消滅するような間抜けさは無く、互いに避け合いながら一層の精密さで同じく直角にベクトルを持ち上げた。またも殺到するお札弾は渦を描いて幽香に切迫する。幽香が両手をそのお札の渦に向けると、掌に妖気が収束し淡い光を放つ。光に集中しつつも、ふと霊夢の姿が見えない事に幽香は気付いた。
周囲に目を配り、気配を窺い姿を探す。だがあの目立つ巫女服を見つけられずにいると、逆に自らの首筋に鋭い視線を感じた。隙を狙いながら一点集中するこの気配はあの強かな霊夢そのものだ。
幽香よりもさらに上方、なにもない空間が裂け目を生み、博麗の巫女が躍り出た。『亜空穴』を通り抜け、その身を翻らせると重力と真下への加速を重ね合わせた最高の膝蹴りでもって幽香の細い首筋へと強襲する。
無防備な幽香の姿に、霊夢は脈動が跳ね上がるのを感じた。想ったよりも幽香の近くに開いた『亜空穴』のお陰で十分な加速距離が得られないと踏み、膝蹴りによる一点粉砕を狙った霊夢の目論見は決して間違ってはいなかったが、一足早く用意の整った幽香の前に、その強かさごと脆くも崩れ去る事となる。淡い光が一気に輝きを増したかと想うと、殺気に反応した身体が霊夢の意思に関係なく回避行動を取ったのだ。
「ぐううっ」
呻き声を上げながら辛うじて避けきったそれは、霊夢のすぐ傍の空間を抉り取って急上昇していった。未だ続く光の乱舞に巻き込まれ、横に縦にと身体が回転する。平衡感覚を見失いながらも鼻孔をくすぐる太陽の匂いを熱波に嗅ぎとり、霊夢は視界の端にその本性を表した花の権化を捉えた。
あれほど射出したお札が、今や紙くずになって幽香の周囲に渦のように舞っていた。数秒前に確信した勝利をも引き裂き、渦の中心に佇む白い笑顔が悠然と日傘を弄んでいた。悔しさを飲み下しながら、霊夢は光に呑まれた瞬間を想い起こす。幽香が放ったのはふたつの弾だ。しかしそれはあまりにも大きく、すぐに弾だとは判別出来ない形状をしていた。『ホーミングアミュレット』を相殺したのがひとつ、さらに霊夢へのカウンターとして放たれたのがひとつ。かすめた時に間近で見たそれは、間違い無く巨大な向日葵弾だった。
「よく避けたわね。当たっていれば綺麗に裂けたのに。好きでしょ? お花」
「弾じゃない花なら」
苦笑いで愛想を返すも、あの恐ろしげな向日葵弾を見せられて心情穏やかでない霊夢は、すぐに表情を曇らせて間合いを取った。これだ、これがあるからこいつは厄介なんだ。舌打ちともとれる呟きを口中にころがし、優雅にスカートの埃を払う花の権化を注視する。
こちらの渾身の技を意図も簡単に小賢しさへと落ちぶらせ、自らはなおも余裕でもってして事も無げに笑顔を垂れる。すべてに平等である力強さが自惚れていない証拠であり、その部分は魔理沙に通じるところではあるが、肝心な時にしか本気を出さない様子は傲慢甚だしく、そこが鼻につくのがこいつを本気で信用出来ない要因だと霊夢は想う。しかして強大な力は本物であり、圧倒されるべくして圧倒されたのだ、という事実を敵に対して押し付ける瞳の光り方がすべてを物語り、すべてを無下に帰していた。
小技など恐るるに足らず、剛腕にて掻き消す姿はまさに恐怖の対象で、どこまでも果て無きパワータイプの戦闘スタイルは身動ぐ時間さえ与えない。敵との相性はあまり考えない霊夢だったが、こうまでして力押しを貫かれては不釣合いを感じずにはいられなかった。
「お急ぎじゃあ、なかったかしら?」
すらっと口端が伸び、日傘を回転させる幽香の背後、ずっと遠くで聳えている大きな気配の正体が霊夢の目に飛び込むと、一時忘れかけていた焦燥感が心臓を叩いた。舞い上がった土煙と大気を陰らす巨体が非日常感を煽り、ぼやけた遠近感が不明瞭な現状を捲くし立てる。呻き声を吐き出す時間さえ惜しく想いながらも、未だひりつく殺気を拭いきれない心情の霊夢は、歯痒さに醜く目を細めた。
ゆっくりと蕾を揺らした巨体がこちらを見据えて、幽香共々笑った気がした。
「は、入り込めるわけないよ」
幽香と霊夢との戦闘を目の当たりにし、正直な感想が口から抜け出てしまったメディスンは、茫然自失といった様相を呈して暗い表情を落とした。首が痛くなるまで見上げていた熾烈極める弾幕戦は、もはやメディスンの太刀打ち出来るような隙は全くと言っていいほど見つけられず、その力無く緩めた掌はじっとりと濡れており、放った言葉同様、なにも出来ない自らの無力さに落胆した。
妖力、気迫、度量、根性。それ以外にも多々あるだろう戦いに必要なセンスというものが、自分はあのふたりの足元にも及んでいない。欠けているんじゃなくて、元から持ち合わせていないんだ、と、我ながらしっくりする感覚を覚える。手の届かない場所と理解し、ならば背伸びをする事になんの意味があるのだろうと、足の裏を土から引き剥がす事さえにも億劫さを抱いた。
目に映る場所に行きたくても行けないもどかしさを、嫌というほど味わってきた。欲しいものが通り過ぎて行く光景を幾度も見てきた。やがて望みが拒絶へと変わると、幽香の傍に立つ事への抵抗感も浮かんでくる。どうせ役に立たないなら行きたくない、という我儘の方が自虐的な考えよりも先に頭をもたげてくると、いよいよメディスンの表情に鬱屈の陰が差してくる。『なにもできない』という言葉が呪いのように心をがんじ絡めにし、その身体同様に硬直していくのをメディスンは感じていた。
ふと、足元へと転じようとした視線に鈴蘭が映り込んだ。のっぺりとした感じを受けるその白い花弁は、それこそなにかしらの欠落をメディスンに抱かせる。風に揺れる姿は世俗から切り離された孤高の美しさを醸し出すが、鬱とした瞳には一転して世間知らずで横柄な美学として映ってしまう。
だが辛うじて覗いた黄色い雄しべが情熱を、中心にある雌しべが冷静さを放ち、生きているんだなと、メディスンの心に浮かび上げた。
「きれい」
内側を読むのではなく、率直に見た目だけで判断した言葉が口から溢れる。そう、きれい。こんなきれいな花の下から生まれた自分は、果たしてそれに見合っているだろうか。毒という手段だけを教えてくれた鈴蘭に、与えるものはもう無いと、捨てられるように吐き出されたのではないだろうか。闇雲に転がる思惟が、角を落として丸くなってくれれば、どんなに気が楽だろうか。誰が答える訳でもない問いは渇きを促す風になり、父とも母ともつかぬ花々が黙して揺れていた。
突然、『花は心を映す鏡』という声が、緑のウェーブの幻像と一緒にメディスンの脳裏に焼き付いた。火花のように散る光を見たのも一瞬、それよりもはっきりとした感覚が胸によみがえって来る。
そうだ、幽香が言っていたではないか。花は感情が無い代わりにそれを映し出す鏡を持っていると。ときに人が誤解してしまうほど正確に、無情と想えるほど厳格に、感情の悲喜こもごもを決して誤魔化さずに明るく照らす。それを捉えた人の心に、良くも悪くも様々なものを残して。
しかし、嘘や偽りが効かない頑固さは優しさの裏返しだとも受け取れるし、鬱屈しない思惟を感じさせる行為は力強さを想い出させた。だから好きになれる、という言葉の持つ意味がメディスンの心に流れ込み、幽香が真に伝えたかった事を浮き彫りにした。
それは自分を好きになる事。花を育て、花を見守り、花を愛する。心血を注いで育て上げた自らを映す鏡は、もしかした自分自身に他ならないのではないだろうか。幽香は花以外に興味を持たないのではない、常に自分自身と向き合い、自分自身に笑い掛け、厳しい目で戒める。苦行にも似た練磨が、自らを高める唯一の事だと知っている。花は、その機会を与えてくれると知っているのだ。メディスンはそんな花から生まれた。ならば、それならば。
メディスンの揺らめく金色の髪に、あの時の温もりが生まれる。撫でてくれた優しさも、熱を帯びた掌も、今この瞬間も幽香が目の前に居るかのように想い出せる。その幽香の心だって、花が美しさを分けたのだと想えば、メディスンはなんでも出来る気がした。
鈴蘭が揺れる。その名の通り、鈴の音が鳴る。凛とした音色が幾重にも連なり、メディスンの拳を震わせた。
「お願い、スーさん、勇気を貸して欲しいの」
それはきっと、鈴蘭からのプレゼントだったのかもしれない。優雅に咲き誇る鈴蘭畑から、なんの前触れも無しにひょこっと小さな陰が現れ、よたよたと歩き出した赤ん坊のような挙動で、しかし真っ直ぐメディスンに向かって近寄って来る。小さな陰がやがて人の形を帯びてくると、鈴蘭の思惟も形を成してくるようだった。すぐ傍で止まり、メディスンを見上げる格好をすると、その小さな人形と目が合った。毒々しいかわいらしさが、自分に似合っている。
打き寄せた小さな人形は、土の匂いがした。自らが生まれた時に初めて感じた匂いを、メディスンは想い出した。やはりそれも土の匂い。霞んだ日向の匂いと、葉っぱの湿気に似た瑞々しさ。生まれた事に感謝した匂いだった。
いつだったか、空を飛ぶ事を楽しんでいたら、あの巫女に出逢い頭で難癖を付けられ惨敗して逃げた。悔しくて悔しくて、生まれて初めて泣いた。涙は苦いと初めて知った。
いつの間にやら向日葵が咲く畑まで飛んで来ていた。鮮やかな黄色に、上にある太陽と区別がつかなかった。眩しく細めた視界の中に、メディスンはあの緑のウェーブを見る。吸い寄せられるように傍まで行くと、その人は、土の匂いがした。
「ありがとう、スーさん。いこう」
土の匂いがする、それだけの理由でメディスンは幽香に付き纏うようになる。その時は不思議と惹かれているだけだと想っていたが、なんて事はない、幽香に対して親への感情に似たものを抱いていたのだ。形の無い感情、それでいて温かく、冷えきった芯に熱を与えてくれる感情。突き動かすのではなく、優しく導いてくれるものが確かに在った事に幸せを覚え、メディスンは鈴蘭に向けた顔を縦に振った。
鈴蘭はなにも語らず、ただ花弁を揺らす。幽香の言った通り、厳しげな印象に少し苦笑し、じゃあこの鈴蘭には誰の感情が映っているのだろうと、ふと考えた。だが傍らの小さい人形もこちらに頷き返し、思考を自ら遮ったメディスンはゆっくりと上昇した。つま先が土から離れる感触が、今までにない清々しさを生み、心身に広がってゆくのが分かる。
向かうは幽香の隣、自分の居場所と定めた場所。花柄のサイクロンを止める為に。
幽香が怒りの感情を発露した時に現れる『サイクロン症候群』は、今やその最後の発症を見せていた。一つ目は日傘の回転、二つ目は満面の微笑み、そして三つ目が嘘を吐く事だった。
幽香の怒りは最終的に誰かへの暴力として昇華されるが、言うよりも単純ではないのがこの症候群の厄介さだった。怒りと言うものは往々にしてとてつもなくエネルギーを消費するものだ。それは向けられた者よりも、怒った本人の方が疲れてしまうような、非道く非効率的で燃費の悪い感情の発露だ。
誰しもが経験のある、その怒った直後の倦怠感や自己嫌悪を、幽香は激しすぎる怒り故に人一倍抱えてしまっていた。暴力によって誰かを傷付け、自分は傷付いていないフリをし、自分自身に嘘を吐く。怒れない事は辛いけど、怒る事はもっと辛い。怒った直後に残るのは快感などではなく、無気力感だった。
一度だけ、メディスンは幽香の大事に育てていた花を枯らし、非道く怒られた事があった。手こそ上げられはしなかったが、丸一日以上口をきいてもらえず、後に自己嫌悪に苛まれていた幽香を見守るしかないメディスンにとって、その時間は原因を作ってしまった事以上に辛かった。以来、どうにか幽香の怒りを抑えようと考えを巡らしてきた。幽香にあんな想いをしてほしくなかったのだ。
今、この瞬間も幽香は傷付いている。それなら怒るのを止めればいいのに、とはメディスンは想わない。怒りを溜め込むのは健康的ではないし、怒るのは生理現象だと考えているからだ。誰だって抱える感情が幽香は少し過激なだけで、あとは至ってごく普通の心優しい女性なのだ。初めて出逢った時の印象そのままに、メディスンはそう受け取っていた。だから、土の匂いのする幽香の為に、自分に出来る事をするしかない。
メディスンは身体を加速させた。幽香と巫女が戦っている空域までもう少しだが、だいぶあの花畑の方向へと移動している。もしや巫女が戦いながらも幽香を誘い込んでいるのだろうか。それとも幽香があの妖怪花に近づいて行っているのか。いや、今は妖怪花は関係無い。幽香を止める事だけが出来ればそれでいい。
抱えた小さな人形がちらりと案ずる瞳をメディスンの顔に向ける。それを笑顔で返すと、芳しい土の匂いがした。自分にも出来る事があるという事実がメディスンの身体を熱くさせ、今はそれだけでいいという想いが、宙を駆ける速度をさらに上げさせた。
霊夢の紅いリボンをかすめ、向日葵弾が咆哮をあげる。自らの『封魔針』が宙を切り裂く音とは違い、空間そのものを喰らい尽くすような重低音が霊夢の身を震わせた。喰われた空間は太陽にも似た熱波となって膨張し、すんでのところで弾を躱しても目に見えないそれを躱せる道理はなく、まともに身体に浴びせられては心身を痛めつけていく。どうどうとこだまする咆哮を背中に当てられ、やっとの想いで前に向けられた霊夢の瞳に、まだまだ押し寄せる向日葵弾が映り込む。熱波による消耗は凄まじく、体力は汗と共に身体から滲み出てしまい、力の入らない乾いた唇をひと舐めして、霊夢は覚悟を決めて太陽の群れへと突っ込んだ。
幽香は霊夢の予想に反して、あれからずっと向日葵弾を放ち続けていた。まるで勝負を急いでいるかのように本気で霊夢を潰しにきている様子に、焦りすらも垣間見える。以前ならここまで間断無く向日葵弾が放たれる事はなかった。それ故に弾幕の隙間を縫いきった霊夢は勝利を得られたというのに、現状は巨大な手で押し返されるように近づく事も適わない。
げに恐ろしきは未だ底知らずのその妖気だ。一発毎が魔理沙の『マスタースパーク』並みの威力で、それを一秒の差も無く続けざまに撃ってくる。衰えを知るどころか勢いを増す弾幕の力強さは以前の幽香には有り得ない事だった。前は本気を出していなかったのか、それともあれから妖力を上げてきたのかは定かではないが、まさに太陽のような無限の力に想える弾幕は、圧倒的威力でもって霊夢を苦しめていた。
「あのお化け花がなにかしでかす前に、滅さないといけないのにっ」
手持ちの弾は三種類ともまだストックはある。だが向日葵弾に相殺されるのがオチなら無駄弾を撃つ余裕は決して無い。すでに一度見せてしまった『亜空穴』が、あの花の権化にまた届くとは到底想えず、迂闊に使えば良くてカウンターか悪くて剛腕に捉えられる可能性さえあった。攻撃で使うにしても防御で使うにしても条件は同じ、そうなってしまえば一巻の終わりだ。絞め落とされて気が付いたら事が終わった後だろう。
しかし、このまま避け続けるだけでは幽香は倒せない。長期戦に持ち込む為の体力も時間も無ければ、残る手段はそう多くない。されどその残された手段とやらも、この弾幕の中では動かしようがなかった。せめてアイツの気が少しだけでも逸れれば、そう胸中に浮かべ、またひとつ向日葵弾を避けきった霊夢は、奥歯を噛み締めて迫り来る次弾の軌道を読む。と、その時、あらぬ姿が霊夢の視界の端に紛れ込んだ。
「なにしてんだアイツ!?」
およそ戦いに向いていない小柄で華奢な身体、自分よりも幼さない表情ばかりが目立つ毒ぼんぼりが、あろうことかこの熱波渦巻く空域にしゃしゃり出て来ているではないか。
幽香との弾幕戦に身を投じてからこっち、完全に失念していたメディスンが、戦域で見るには眩しいほどに鮮やかで、それ以上に滑稽に映る金髪を靡かせながら急速に近づいて来た。まさか、幽香に加勢する気か?
「こっちに来るな、離れていろ」
牽制の声を張り上げ、一時だけ集中の糸が切れた霊夢に向日葵弾が襲う。眼前いっぱいに広がる極大の光弾が迫り、その中心核がこちらへの直撃コースだと直感するや三種類の弾を撃ち放つが、最大限の悪あがきでもってしても軌道が逸れる事はなかった。腹の底に響く重低音が耳を苛み、迫る熱波が容赦なく吹き付ける。
もはやこれまで、と想った時、向日葵弾が身をよじり直撃のコース軸から僅かに逸れるのを見た霊夢は、渾身の力でその反対側へと加速した。極限の隙間へとその身をねじ込み、それでも足りずに横ロールで身体をねじ曲げ、向日葵弾ぎりぎりをかすめ飛ぶ。じりりと黒髪の焼ける匂いと音を聞きながら、その口中が呻き声で満たされると霊夢の身体が途端に弾け飛んだ。惜しくも向日葵弾が左足に当たり、その勢いで向日葵弾から離れる方向へと逃げ出せた。熱波ともつれ合いながらもはっきりしている意識と左足の状態を確認し、なんとか弾幕から距離をとる。どうやら五体無事なようだ。
「メディ?」
戦いの最中に他に意識を飛ばした霊夢を訝り、そちらへと視線を動かした幽香は自らもその光景に気が削がれる想いだった。鈴蘭畑に置いてきたはずのメディスンがすぐそこに居た。幽香を見据え、想い詰めたような顔をして佇んでいる。
自分らしくない、重く鈍い心臓が跳ねる音を感じ、戸惑いが弾幕の乱れになって現れてしまった。逃げおおせた霊夢に注意を配りつつ、幽香は弾幕を放つ手を止めた。
「いけっ 巫女。ゆーかはわたしが止めるから!」
「なに言ってんだ?」
どの口が言ってるんだ。その先の言葉を飲み込み、霊夢はメディスンの姿を注視した。あの毒ぼんぼりめ、なにをやろうと言うのだ。
「ゆーか、もうやめよう? わたし、これ以上ゆーかが辛い想いをするのヤダよ」
凍てつくほどに緊張していた周辺の空気が、なんだかごちゃごちゃになるのが分かる。霊夢は苦笑いを浮かべ、嘆息を漏らしながら腰に手をやる。すっとんきょうな事を言い出したメディスンが少しだけかわいいと想いつつも、それは認められない、と目を細めた。今は勝負の最中である。曲がりなりにも決闘をし、さらに決着さえ着いていないのだから、それを邪魔したメディスンに道理など無い。それにあの花の権化がこんな事で止まりはすまい。
投げかけられた言葉を受け流し、幽香がこちらに殺気を向けるのが分かる。再び戦端が開くのを感じた霊夢は、言わんこっちゃないと身を踊らせて弾幕を張り、先手を打つ。
『封魔針』と『妖怪バスター』が交互に射出され、波状攻撃を仕掛ける。幽香を中心に半円を描いて飛翔し、霊夢は扇の形状を成した弾幕を張った。二種類の弾はその性能差故に、避けるのにもそれぞれ方法が違う。さらにこの広範囲に及ぶ弾幕なら、向日葵弾でも容易には相殺出来まい。その隙にこちらの準備が整えば、花の権化を倒す手立てが出来る。霊夢は速度を緩めずに霊力を錬った。
「おもしろい飛び方するのね?」
ふわりと緑の髪を揺らしたかと想うと、幽香は目だけで霊夢を追う。その視線に絡められた感覚を覚え、霊夢は幽香の口元が吊り上がるのを見た。
幽香が胸の前で両腕を交差させたかと想うと、光がその掌から迸る。目眩ましかと想われた次の瞬間、幽香を囲んで三つの向日葵が同時に現出した。百八十度範囲に巡る弾幕を、余裕でカバー出来るほどの大きさを持つ太陽が三つ、数秒前にはなにも無かった空間を焼き尽くしながら放たれた。
じわりと動き出し、一際大きい咆哮を上げて弾幕を相殺していく黄色い太陽。幽香を中心にゆっくりと広がっていく様は開花に見えなくもなく、ならば霊夢が放った弾幕は花に群がる虫かなにかかと想われたが、ことごとく焼失していく弾幕はまるで喰われているかのようで、あれでは食虫植物の方がお似合いだ。
ひとつ生唾を飲み下し、その光景に見入ってしまった霊夢はしかし、すべての弾が消えるより前に一目散で回避行動を取る事になった。三つの巨大な向日葵弾が速度は遅いものの、確実に身を驀進させ霊夢をも喰わんと追い駆けて来たのだ。
左足の痛みを想い出させる巨体に歯噛みしながら、それこそ羽虫のように霊夢は逃げ出す。しかしまたもあらぬ方向へと逸れる向日葵弾を目にし、なんなんだ、と安全圏へと逃げるうちに幽香の姿を探した。
見つけた視線の先にあったのは黒い塊。幽香が居るであろう空域は黒い霧のようなもので覆われていた。もうもうとした霧の密度はとても自然発生したものとは想えず、だいたいあんな色の霧がある訳がない。あの中だとさぞや息苦しかろう、と想った途端、毒々しいという言葉が霊夢の脳裏を横切る。
「行けってんだ、巫女。お前はあのでっかいのをなんとかするんだろ!」
幼い少女の怒鳴り声が聞こえた。震えた高音域が感情を伝え、高ぶっているのが分かる声質が霊夢の癇に障る。二度も邪魔した。
「さっきは見逃したけど、今度はそうはいかないわよ」
低く、それでいてよく通る、少女特有の涼やかな音を出し、しかしたっぷりの威嚇を混ぜ込んだ声で霊夢はメディスンに向けて言い放った。我ながら非道い目つきをしているだろうと想いながら、それでもそうせずにはいられないこの感情を、忍ばせておく訳にはいかない。
理由がどうであれ、二度も勝負の邪魔をしたのを、霊夢は許せはしなかった。こちらが優位だったなら笑って済ませよう、しかし劣勢の時に、それも自らの被弾によって勝負が付きかけた戦いを、横から割り込んで長引かせるなど言語道断だ。メディスンにその気はなくとも、助けられたという想いが少なからず後を引き、それが霊夢の苦笑を霧散させ、苦い屈辱感を舐めさせるのだ。
安いプライドだと言われようと、勝負の行方をごっこ遊びに委ねたからには、勝敗というのはなによりも優先されなければならない。あいつ、分かっていないのか。
黒い霧越しに浮遊するメディスンを睨み据え、霊夢はより一層の声を張りあげる。
「あんた、なにしたか分かってるの? 恥を知りなさい」
相手を揺さぶる為の、侮辱に汚された腹の底から絞り出した声をメディスンに投げつけた。あんたはあんたが想っている以上の事をした。謝ったって許さない。言いたい事は山ほどあるが、一先ず尖兵の言葉でメディスンの挙動を窺う。いっそ針弾の一本でも放ってやろうか、と想った時、黒い霧を突き抜けて数発の弾が飛んで来た。
弾は霊夢から離れた宙を行き過ぎる。避けるまでもなくそれを目で追った霊夢は何度目かの嘆息を吐く。弾の雰囲気から見てあれは威嚇、幽香の放ったものじゃない。どこまでふざけるつもりなのか。
「なんのつもりよ」
弾を撃ったであろうメディスンに向けて、またもナイフのような声を張りあげる。もはや怒りを誤魔化す必要も無い。お灸を据える、という言葉がそぞろ立ち上がり、あいつの幼い外見にぴったりだと内心でほくそ笑んだ。
黒い霧が気持ち晴れ、真正面から睨み殺すつもりで視線を向ける。毒ぼんぼりなんて視線を交わらせるだけで追い返せるだろうと高を括っていた。しかし、それとは別の勢いを持った視線が霊夢のそれと絡み合い、一瞬の怯みを覚えた。カチ合った先に居たのは間違いなくメディスンで、霊夢はそれを理解するのに数秒のラグが必要だった。
見つめ返す、と言うより弾き返すと言った方が似合っていた。霊夢の睨みを受け止め、後ろに流したり横へ避けたりするような逃げ腰の意識は全く感じられない。されど柔軟とも堅牢とも言う訳ではなく、そう、弾力性に似た感受性を帯びた瞳をしていた。力ある視線を己の中で反芻し、それに勝てずとも負けない光を持つ芯の強い瞳。あれがメディスンの目か。あれは飛び掛ってくる子供の目じゃない。あれはなにかを守ろうとする目だ。
「行ってよ!」
呆気に取られて飛び出していた意識が、やはり甲高い幼い声により霊夢の中に戻ってくる。声から滲み出る感情には、一瞬前の気迫がうっすらとも感じられない。いや、消えたのではない。未だ芯の強い色を持つ瞳がそれを物語り、もう必要が無いとして身を潜めているだけなのだろう。メディスンの目は潤み、唇は震えていたが、その強い光だけは残っているように霊夢には感じられた。
次には、想わず頷いてしまっていた。顎を下げた感触が後を引いて、少しばかりの後悔と苦味を生む。別に圧倒された訳ではなく、真摯な切望に促されたのだと想う。言い分は分かる、でも今は引いてほしい。言葉ではうまく言えないのだろう幼き瞳は、その思惟を霊夢に向かって投げて来たのだ。
「知らないわよ。どうなっても」
抜け切らない苦味が言葉となって口を衝いて出る。それを最後に霊夢は一瞬の逡巡を黒い霧に質し、そのまま背中を向けて飛び去る決心をした。目配せもそこそこに身体を翻した勢いそのままで妖怪花へと加速する。
妖怪ふたりの気配がどんどん遠ざかり、妖怪花の存在だけが浮き彫りになりつつある。ふと、胸の中にあるしこりが気になった。痛みとも成り得ないしこりはしかし、静かに確実に重みを増すのが分かる。まさかあの娘があんな目をするなんて。想い出したメディスンの瞳は、とても切なげで悲しげで。
「あまいのかなぁ」
言葉にした途端にしこりの正体に気付く。自らの怒りも一気に冷めきって、反省すら持ち始めるに至った感慨。罪悪感。実際のところ、その理由も知らないしこちらが認める道理も無い。だがあんな目で見つめられては、誰だって自らに否が在るのかと自問するだろう。なにかを守ろうとする目のメディスンに対して、非道い事をしてしまったのかもしれない、と霊夢は自分をたしなめた。
あの花の権化が霊夢とメディスンのやりとりを黙って聞いていた事に、なにかしらの因縁だって嗅ぎ取れる。ふたりにはふたりにしか分からない事があるのだろうか、と、霊夢は小さく舌打ちした。
意外にもあっさり身を引いてくれた巫女に、少しだけ戸惑いを覚えた。あの強かな巫女が自分の言葉を聞いてくれるなんて想ってもみなかったメディスンは、ほっと息を整えながら小さくなった背中を見遣る。薄く、長く吐き出した息に、自らの緊張感が溶け出していくようだった。
戦いに割り込み、勝負の邪魔をしたのは本当に悪いと想っている。巫女がピンチになるたびに手を出したのだって、些細な自己満足だと理解している。そこまで気づいていたかは分からないが、その甘えた自覚さえ許し、この場を預けてくれた巫女に、メディスンは心の中で誠心誠意に詫びた。
「ごほごほっ ひどいじゃない、メディ」
わざとらしさが浮き出る咳と声色に、しかし険は含まれていないと確認したメディスンは、黒い霧の中でも目立つ緑のウェーブを見据えた。折り重なって映える緑髪は出逢った頃と同じ、日差しに反射してその活力を露にしていた。やはり土の匂いがするであろう緑髪に甘えたい想いが心に滲み出てしまい、メディスンの表情を歪ませる。だが、と軽く頭を振った。幽香にこれ以上傷付いてほしくない。その想いの方がメディスンの心の中で強い芯になり、支えられた視線が幽香の視線とカチ合わせた。
「ゆーかは、なにがしたいの?」
その絡み合う視線の先が、僅かに揺らいだ。瞳の奥に感情というものが隠されていて、それが震えたときにはちょうどこういう風に見えるのだろうかと想えた。
「それだけ教えて。わたし、他はなにもいらないから」
自分の瞳も揺らぐのが分かった。きっと幽香から見た瞳にも、あれと同じ感情の揺らぎが見えているのだろうと自覚する。極端で素直すぎて赤裸々な、それでいて隠す必要も無い感情がメディスンの瞳に波を立たせた。波は思惟と共に言葉となり、幽香へと伝播する。
だが、視線を交わしたのも束の間、幽香は伝播を遮るように俯き、瞼を閉じた。
「私がなにに怒っているのか、まだ言ってなかったわね」
閉じた瞼の裏になにを見たのか、幽香はあの妖怪花に視線を向けて言葉を紡ぐ。普段の力強さに霞がかり、その姿に線の細い女性が顔を覗かせ、メディスンは少しだけ不安になった。
「種が芽を出さない事、じゃないよね。この異変の犯人だったんだから」
「そうね」
「あの巫女が邪魔するから? あのでっかいのはなんなの?」
順番にね、と、幽香が人差し指を立てる。くすぶって湧き上がる疑念がせき止められ、メディスンはやきもきする表情を見せた。それに気付いた幽香が笑顔で、吐息のような言葉を吐く。
「私が怒っているのは、私自身になのかしら」
「ゆーかがゆーかに怒ってるの?」
こくりと頷いた幽香の横顔はもの哀しい色を帯び、憂いを含んだ雰囲気を出していた。傾いた首から上が折れた一輪挿しのようで、何者にも屈しない緑のウェーブも散り残った花弁に見えなくもない。ぽつりぽつりとその口から語られる理由は、笑顔であるが故に痛々しくもあった。
「花のように、素直な鏡を持ち合わせていれば、こんな事もないのでしょうけど。私がやりたい事は私が想っている以上に難しい事だったみたい。なにも出来ない訳じゃないけれど、一番大切な事は私にとって一番難しい事なの」
そう言って日傘がくるりと一回転する。ささやかにも陰る日差しが、幽香の輪郭を強調した。
「たったそれだけの事なのに、たくさんの種があんなになってしまって、それをしょうがないって想っている自分も居て、それでもなかなか上手くいかなくて。昔はこんな事無かった。なんでも想い通りにいってた。でもそれは違うのね」
幽香の白い頬に日傘の影が映える。レース生地で縁どられた影が口元まで差し掛かると、途端に笑顔が消える錯覚をメディスンは見た。白と黒のコントラストはそのまま幽香の心象を現しているようで、ぐっと喉がつまる感覚を覚える。
「あの頃はなにかをやりたいだなんて想いもしなかったわ。だから想い通りになった。当たり前よね、その時と今とでは私の中の割合がぜんぜん違うもの。昔は自分の範疇にある事しかしなかった。それだけの事だわ。今は昔に出来なかった事をやろうとしているから、きっと上手くいかないのだと想う」
「やりたい事……」
幽香の言葉が自らの心の中に入り込み、その一部が口からこぼれ落ちた。慌ててそれを拾い上げようとして、メディスンは幽香の次の言葉を待った。
「なにが出来るか、じゃなくて、なにがしたいか。私はね、やりたい事があるの。それが今の私の願い。メディ、貴女にも分かるかしら」
そう言って幽香は手を差し伸べた。メディスンに温もりを教えてくれた指先は、少しだけ震えていた。土いじりに長け、力強さを感じさせた幽香の指は、震えのせいかやけに細長く見える。白く美しい掌を、力に満ち溢れている掌を、メディスンは初めて小さいと感じた。不安に飲み込まれそうで、助けさえ欲しがりそうな、ひとりのか弱い女性の掌がそこにはあった。
一時の逡巡が答えだと想ったのだろう。あっ、とメディスンが声を発したのは、出された手が引っ込められた後だった。
「ほらね、難しいでしょう?」
宛先不明の手を胸の前にしまい込み、幽香は苦笑を漏らした。
ちがうよ、と言いかけて、メディスンはその言葉を出し切れずに心の中で霧散させる。正直、幽香の言葉のすべてを理解出来ず、はっきりとした否定も肯定も持てなかったのだ。曖昧なままで接するには幽香の微笑が切なすぎて、メディスンは歯痒さを噛み締めた。俯いた先の視界に自らの掌が入り、非道く冷たく感じた。
「メディはきっとそれでいいのよ。貴女はそれでいいの」
「わたしは……」
このままじゃ駄目だと想えた。私はここに来てまだなにもしていない。幽香が傷付くのを防ぐ為に戦いを止める不義理までしたのに、なんの成果も得られていないし、むしろ余計な事をしている気がする。視界の中の掌が、滲んで揺らいだ。
「わたしはゆーかに傷付いてほしくないだけなの」
それなのに、私は幽香になにもしてあげられないのだろうか。それだけの事なのに、私は幽香のなにも分かっていないのだろうか。
滲んだ掌の形がより一層崩れ、もはや指が何本なのかさえ分からない。ただ肌色をした小さくて大きい無力感が見えるだけだった。ぽたり、と、落ちた雫が冷たい指先には非道く熱く感じて、火傷するほどの熱なのに身動ぎひとつしない自分が居る。頬を伝うものがなんなのか、メディスンにはすぐには理解出来なかった。
ふとそれとは別の、温かい太陽のような熱が、メディスンの金髪に触れた。
「ごめんね、メディ」
投げ掛ける言葉は優しげで、なんの形にもならないメディスンのぐずりさえも、包み込むように溶かしていった。それでも涙が止まらない、喉が引きつって声が出ない、わたしの方がごめんなさいって言いたいのに、それすらも溶かしていくようで、メディスンは触れる幽香の掌に堪らなくなった。
ゆっくりと、なでこなでことされるたびに、ほんのり温かくなっていくのが分かる。冷たかった自らの指先だって、だんだんと感覚を取り戻していく。でも、この涙と一緒に流れていくのはなんだろう。身体の内側から当然のように滲み出て、霜焼けのように赤く腫れ上がって。温めすぎた心が、痛いほどに赤くなって。
幽香の掌が温かすぎたのか、それとも自分の心が冷たすぎたのかは、メディスンには分からなかった。ただこの霜焼けの傷跡は、きっと治りづらいのだろうと、メディスンは流れ続ける涙で知る事が出来た。
「でも、大丈夫。メディは大丈夫よ」
涙と鼻水でぐずぐずな顔を上げる。歪んだ視界に、幽香の笑顔が浮かんでいた。
「それを今から証明してあげるから」
さっきまでの憂いじゃない、なにか芯の通った声色で、幽香は優しくメディスンに微笑みかける。歪んだままの視界が煩わしくて、一所懸命に瞼を擦ったメディスンだったが、晴れた視界の幽香はすでに視線を落としていた。スカートのポッケに手を入れ、中からティッシュを取り出すとそれをメディスンに渡した。
「鼻は、自分でチーンなさいね」
花柄のかわいらしいティッシュ。呆けたように見つめていると、いい香りが漂ってきた。泣き止む直前特有のぼんやり感が、香りのせいで一層引き立った。
それと同時に、幽香が離れていくのが目に入り、メディスンは慌てて顔を上げた。待って、と言おうとするも相変わらず引きつった喉と詰まった鼻のせいで上手く声が出せない。それでも幽香の姿は、日傘と共にどんどん離れていく。
自らの身体に喝を入れるように咳をして、必死に声を出そうとする。やっと喉の震えが抑えられ、そのまま小さくなった幽香の姿に声を張りあげた。
「すっぐに、お、追いつくから!」
留める言葉ではなかったが、メディスンはそれでも大きく手を振り続けた。
※
数刻前に見ていた花畑の光景とはほど遠く、そこに広がっていたのは未だ土煙が吹き出す凄惨な現場だった。花々は一様に根っこごと投げ出され、いたるところに可憐な姿を顕にしていた。赤土に紛れているが、周囲の花のほとんどが例に漏れず黒ずんでおり、やはり精気を吸われたのだろう、儚い花弁を妖気に晒す。生きているとも死んでいるとも判別出来ないが、これではまるで墓場、花の塚ではないかと想えた。
それらを素知らぬ顔で見下ろし、巨大な影を花達に落としているのがこの異変の元凶だった。手を広げるように葉を伸ばし、眼前いっぱいに聳える姿が人のそれと似ている気がした霊夢は、先ほどよりも濃くなった気配と妖気にあてられてごくりと息を飲んだ。太く伸びた根がその足で、岩山のような胴体と言える茎と、腕にあたる葉。そして霊夢を見下ろしている頭は、蕾という極上の妖気の塊となって身動ぎしていた。気配や妖気はその蕾に集中しているようで、今にも開花しそうな雰囲気を、微かに覗ける花弁に垣間見せていた。花弁は嘘のように黄色く、蕾にひび割れた隙間から見えると、その全体像は笑いに歪んだ表情そのままだった。
「なかなか生意気な。出てきたばかりだけど、また埋めてあげるわ」
ひとつ身を奮い立たせる言葉で毒づき、霊夢は御幣を構えた腕に力を込める。呼応した陰陽玉が霊夢を中心に周回し、すべての弾丸の射出準備へと入った。『封魔針』は紅い細身を研ぎ澄ませ、『ホーミングアミュレット』は妖気の中心である蕾を的と捕捉し、『妖怪バスター』にはありったけの破魔の力が宿る。およそ出来得る限りの攻撃力を注ぎ、霊夢は妖怪花と対峙した。
回り込む陰陽玉がもはやその色味さえも判別出来ないほどに速くなる。その光景は身の内の歯車とも奇妙に共鳴し、強張る表情をいくらか緩ませる。
偶然と勘を道標に辿り着いた今回の異変。最初に来た花畑が終着地点だったとは、皮肉と言うよりむしろ面白みがあるじゃないか。今次も博麗の能力はすこぶる快調なようで、霊夢は内心でほくそ笑んだ。
今までも、そしてこれから先も役に立つであろうこの能力が、自らの歯車を回している動力源であるのは間違いなく、それによって出来る事の幅が広がっているのも理解しているし感謝もしてやっている。
しかしだ、と霊夢は内心の笑みをその頬へと顕現させる。回されてやっている分、導かれてやる分の料金はしっかりと払ってもらう。この身ひとつ動かす事は出来ても、どこまでも想い通りになってはやらない。歯車は私の好きなタイミングで回すし、どの外輪と噛み合うかだって私自身で決める。誰にも文句は言わせないし、なにを言われたって変えるつもりも毛頭ない。博麗霊夢というこの器が健在な間は、『博麗の巫女』の好きにはさせない。せいぜい、その能力を存分に私へと注ぎ込めばいいのだ、と、霊夢は紅白を纏った身体を翻した。
つまりは、だ。
「決着は付ける。そういう事よ。ねえ、幽香」
振り向いた先に、その姿はあった。放たれる妖気と殺気が混じり合い、周囲の空間を歪ませるほどに圧迫している。宙が突っ張り、震えた振動を受け入れた耳がキンと痛くなる。飲み込まんばかりに威圧した視線は間違いなくこちらに向けられ、肌にひりひりとした感触さえ霊夢は覚えた。
「待っていてくれたの? かわいいらしいところ、あるのね」
ゆったりと舞うスカートが風に踊り、紅いローヒールが宙を踏みしめてこの空域を支配下に置く。日傘を白く細い腕に掛けて、眩しい緑の髪が青空に映えていた。緑色の花というものを見たことがないが、あるとしたらコイツのような力強さを持っているのだろうか。そう想えた霊夢は、燦然と輝く花の権化の姿に目を奪われつつあった。
風見幽香は白い微笑みを顔いっぱいに湛え、しなやかな四肢が霊夢の視界を彩る。殺気にあてられているくせに、この呑気さはなんだろうと想えた。
「まあね、私が気に入らないだけよ。いいの? あの毒ぼんぼりは」
「情けを掛けられるなんて、私も丸くなったものだわ。貴女だって昔はもっと必死だったし、今とは違って青い果実のようだった。お互い歳は取りたくないものね」
「そんなに昔じゃないわよ。それに、誰が丸くなったって?」
霊夢の苦笑につられて、幽香の目が細くなる。
なにかしらの共有とでも言うのだろうか。確かに、決して古くはない記憶を辿れば、昨日の事のように激しい弾幕戦が脳裏に浮かぶ。出逢って間もなかったお互いは、弾丸を投げつけ合うだけの関係でしかなく、こんな風に相手の髪の艶やかさに目を奪われるなんて考えもしなかった。いかにして敵を出し抜き、撃退するか。攻撃の手段だけを思慮していた脳みそは、今と違ってずっしりと重たかった気がする。重心が上にある分、不安定になった心が足元をおぼつかせ、それが余裕の無さとなり、さらに攻撃色を強める。気が滅入るように博麗の力に溺れ、否応無くその身を歯車へと変貌させていく。
世界が必然で満たされている感覚は、それはそれで居心地のいいものだった。二極化する他人との関係は分かりやすく、それでいて一向に飽きる事のない唯一無二の霊夢の世界。すなわち、敵か、敵ではないか。博麗の境内で、お茶を啜りながらも敵意に身を強張らせていた頃を想い出し、霊夢はそっと瞼を閉じた。
「でもお互い、角が取れた気はするよ」
呟いた霊夢の言葉が耳元をくすぐり、幽香は昔は長かった緑の髪をかきあげた。
鋭利な日々の途中、妖怪退治の最中に、霊夢は花を世話している幽香を見かけた。ついでとばかりにそっと近づいて注視した姿は、霊夢に呆気を覚えさせるのに十分だった。チェック柄の洋服を土で汚し、一所懸命に若葉に水をやる幽香が、そこにはあった。幼い子供のような笑顔に、狙っているのではないかと勘ぐりたくなる鼻の下の泥、額に滲んだ汗を拭えば、そこにもまた泥が付く体たらく。
本当にあの風見幽香かと疑い軽蔑する一方で、霊夢は羨望を抱えた自分に気付いた。敵とは想えない姿に毒気を抜かれたのかそれとも毒気に当てられたのか、訳も分からずすっ飛んで帰路についたのを憶えている。
想えば、それからだろうか。霊夢の周りに居た敵が少なくなっていったのは。敵だった者は敵ではないなにかに、敵ではない者は味方とも言えない同郷者に。敵という存在が薄れていく中で、霊夢はある仮説に行き当たる。私が認めなければ、敵なんて元々居ないのではないか?
それは『博麗の巫女』に支えられた身にはそこそこ衝撃的だった。例え敵として現れようと、そいつを敵と認識しなければ別に大したものではなくなる事実。固かった視界が柔らかさを帯びて広がっていく様に、霊夢はいくらかの不安と大きな期待に胸を踊らせたものだ。必然に押し付けられていた世界を、自らの考え方次第でひっくり返す事が出来る。新しい、自分だけの心の歯車が生まれた瞬間だった。
「大したことじゃあない」
そう、大した事じゃない。言葉と胸中に浮かべた想いとで身を新たにした霊夢は、瞼を開けて身の内の歯車の回転数を上げる。眼前の花の権化は相変わらず白い笑顔を湛えている。
風見幽香は敵じゃない。そう想えるくらいには丸くなった自らに、やはり苦笑が出る。じゃあ敵でなければなんなのかと聞かれれば、そこはそれ、めんどくさいヤツで済ませるのが今の博麗霊夢だった。実際面倒なのだ。その力強さは底無しで憧れるし、何者にも負けない意思は羨ましい限りだ。ああ、めんどくさいヤツ。
だから決着をつける、そう胸中に結んだ霊夢は自らの視線と幽香の視線を絡ませた。その存在すべてが畏怖であると同時に羨望である花の権化は、いくらでもこの身を踊らせてくれる、身の内の歯車の回転数に限界が無い事を教えてくれる。わくわくするのだ。
「大したことじゃないけど、大切なことね」
意外な返答に虚を突かれながらも、霊夢は静かに首を縦に振った。分かっているなら話は早い。霊夢は御幣を片手に霊力を練る。周囲の陰陽玉が霊夢の頭上で収束、回転して紅白の光輪を作った。
「私はね、メディにしてあげたい事があるの。邪魔するなら、容赦しないわよ」
「は、今更だわ。望むところよ」
再び両者の間に火花が走る。殺気が飛び散り、圧倒される空気が重く感じる。お互いを縛るものはなにも無い、と想えたその時。
「花のおねいさーん!」
跳ね回るような声が空に響いた。明るく活発な声量が、二人の間の糸を束の間緩ませる。声は下方、幽香と霊夢が視線を転じれば妖怪花の根元近くに、その主がリヤカーを牽いた死神と共にこちらへ手を振っていた。その荷台は活き活きとした生花を山盛りに、花屋さながらに鮮やかを暗い花塚で際立たせている。
「今ねー、花を幻想郷中に植え替えしているんだ!」
「ごめんよう、幽香さん。でも仕方が無い、仕方が無かったんだよ……」
赤毛の三つ編み二つを弾けさせて叫ぶお燐に、諦め萎びた顔でこの世の終わりのようにうなだれている小町。対照的なふたりに何事かと目をぱちくりさせた霊夢は、幽香が発した笑い声に尚更驚いた。
何故ここにふたりが居るのかよりも、ふたりがなにをしていたかに気付いた幽香が、声を出して笑っていた。終いにはお腹を抱えるほどにころころと笑うものだから、霊夢はさらに下に居るふたりを凝視した。
「そうね、そうすればもっと早く精気を集められたのね。まったく、困ったものだわ」
「花の植え替え? あ! あいつら、そうか!」
村人の話しを想い出した霊夢は、得心の声と一緒に非難の視線をふたりに投げつける。種とは別に、植えた植物の子株も黒ずんでしまうのは聞いていたが、それは同じく精気が吸い取られた結果だったのだろう。あの妖怪花は種だけでは飽き足らず、成長したものにまで手を広げていたようだ。もちろん、種よりも成長した子株の方が精気が多いのは当然で、たらふくな量の精気はさぞや妖怪花の良い栄養となったに違いない。
そんな事知りもしない小町とお燐は、幻想郷中に一所懸命ばら蒔いた末に霊夢の睨みに打ち据えられ、その隣で笑い転げる幽香に哀願の上目遣いを差し向けた。
「良いわ、貴女たち、あとで褒めてあげる。どんどんやりなさい!」
「あんた達! 憶えてなさい、封印してやるから」
二種類の声が降り注ぎ、ちらりと目配せをし合った小町とお燐は、せっせこや、せっせこやと花の植え替えを再開した。
「三河屋のおねいさん、よかったねー怒られないで」
「いいからほらほら、やる事はひとつだよ。手を動かしな」
払えきれない不安をしまい込み、小町がお燐に檄を飛ばした。土に触れた先から順に黒くなっていく花々が、一層の精気を妖怪花へと送る。また供給され始めた栄養に、妖怪花は喜びに打ち震えるかのようだった。いや、震えるのは小町の視界で、それは足元の地面から、ひいては妖怪花自体が鳴動し始めていたのだ。
「もうすぐ、もうすぐだわ」
蕾がぎりぎりと開き始めるのを感じ取った幽香は、呆けた顔で妖怪花を見据えていた。鳴り止まない鼓動をその瞳へと顕現させ、抱えきれない胸の騒ぎを微笑みへと昇華させ、風見幽香が美しく笑う。もうすぐ、私のやりたい事が叶う。
その表情に妖しくも狂気めいた雰囲気を覚え、博麗霊夢は奥歯を噛み締める。やはりこいつはこの位の方が調度いい。そう浮かんだ感慨をひた隠して『博麗の巫女』が声を張る。
「ああもう、いつまでも呆けてないで、さっさと始めるわよ!」
「ええそうね。霊夢、始めましょう。私の願いを見せてあげるわ」
「さあ、行くわよ! こちとら準備万全、夢符『二重結界』!」
轟音となりつつある大地の振動に負けないほどの声で、掲げたスペルカードが発動する。幽香を待ち構えていたあいだに張り巡らした二重の結界が、宙で対峙したふたりの周囲に顕現した。白い笑顔から湧き出る妖気が鋭さを増し、放たれた高濃度の殺気が結界をも軋ませる。
もはや勝負を邪魔する者など居やしない。結界に囲まれたふたりに、割って入る道理を持つ者はこの世に存在しない。薄い唇を睨み据え、今日初めてあいつに名前を呼ばれたという感慨を胸中に踊らせた霊夢の回転数は、振り切れるほどに跳ね上がった。
いまや肌で感じられる轟音が耳を苛み、スペル発現の光景が目前で開扉した。拒絶するように空間を断絶した二重の結界が、紅白というおめでたい色味よりも巫女の勝負に対するこだわりだと想えたメディスンは、あの強かそうな笑みを想い出した。勝負を邪魔しようにもその気力と手段に乏しくなった身の上として、もはや脳裏に浮かぶにやけ面の主に事の成り行きを任せるしか出来ず、メディスンは行き場の無い掌を胸の前で握り込んだ。
幽香を見送り、鼻水と涙をなんとか身に仕舞って追いかけること数分、辿り着いてみればすでにふたりの戦いが始まっていた。
あそこで戦っているであろう、メディスンの情け無い顔を見て笑った巫女。内容はともあれその表情は安心し得る顔だったと想う。幽香のやりたい事を理解出来ず、無責任なほど無力な自分よりかは幾らか託すに値すると見做し、メディスンはもう手を出すまいと心に決めていた。それが自らの無気力感に拍車をかける事は自覚していたし、後で後悔するかもしれないとも分かっていた。だが見守る以外になにも出来ないメディスンにとって、今ほど巫女の存在に感謝した時もなく、良い方へと向かえるのであれば少しだけ身が軽くなる想いだった。
それと、メディスンは幽香を信じる事にした。一体なにをしようとしているのかは分からないが、証明してあげる、と言った幽香は嫌な感じひとつしなかったからだ。
「ん、あれは?」
妖怪花の根元、激しい弾幕戦を繰り広げる空間に、なにやら不釣合いなやかましい声が聞こえた。カラスが喚くような騒々しさにメディスンが目を向けると、そこには見知った顔がふたつ、花が山盛りのリアカーの傍で言い争っていた。
「あ、あいつら。こらー!」
勇んで飛翔し、通り抜けざまに口論の元をかすめ取る。メディスンの腕の中でもごもごと動いたそれは、鈴蘭から貰ったあの人形だった。少しだけぐったりした人形が腕に抱きついてくる。
「スーさんになにするのよ、ひどい事したらゆるさないわよ」
「ああ、メディスンのだったのかい。だーからほっとけって言ったのに」
死神の小野塚小町が長身を翻して頬を指でかいた。束の間メディスンと目を合わせていたが、すぐにその隣で獣の眼をギラつかせる火焔猫燐に非難の声をかけた。息を荒らげるお燐の視線はずっとメディスンの人形に注がれており、不気味な光を覗かせている。
「だ、だって、そいつちょこちょこ動いてたから、なんていうか、掻き立てられて」
なにが、とは聞かず、メディスンは後ろ手に人形を隠す。見るからに情緒不安が騒いでいる顔からして、ろくな答えは聞けないだろう。睨んだ顔を寄越すメディスンに、小町は目を伏せがちに、否定を現すポーズをとった。
「いや、そのちっちゃいのがさ、散らばっている花を植え直していたみたいでね」
「スーさんが?」
鈴蘭畑から飛び立って、幽香達が居た空域の直前で別行動をすると身振りで示した人形が、よもやこんな所で花を助けていたとは。不思議、と言うか花から生まれた故にそういうところに敏感なのだろうか。メディスンが腕の中で元気を取り戻した人形を見つめると、こくりこくりと頷いて短い両手を振る。その様子から必死さが伺え、なんらかの想うところがあるように感じられたメディスンは、決めた表情で口をきゅっと結んだ。
「スーさん、わたしも手伝う。あんたたちも手伝ってよ」
「手伝うもなにも、あたい達だってやってる事は同じさね。ほら、お燐」
「はいよ、ぐずぐずしてると花のおねいさんに叱られちゃうからね」
そう言うと、ふたりは腰を曲げて花の植え替えに戻っていく。
幽香が望んでいる? 首を持ち上げたその認識がメディスンの胸を高鳴らせた。突き動かされるように足元に転がっていた黒ずんだ花を植え直し、メディスンはやっと捕まえられた感慨を抱きしめてその花を見つめる。満面の笑みのメディスンの様子に呆気に取られた小町とお燐だったが、顔を突き合わせてにやりとし、負けてられないとばかりに手を動かし始めた。
ようやく見つけた幽香の望み。やはりそれは土の匂いがするささやかさで、でも大きな感慨を残していった。拭ったおでこに泥をつけ、上空で戦っている幽香の存在を感じながら、メディスンは少し近づいた自分のやりたい事に瞳を震えさせた。
真下が賑やかだと想えば、メディスンが小町、お燐と共に花を植え直していた。振動に揺さぶられながらも、各々がしゃがみ込んで忙しなく動いている。
その様子は幽香の心に一振りの種を蒔く為の光景として十分であった。幽香がひとりで花の世話をしていた頃と比べれば、あそこにはその時に無かったものが在るように感じる。孤独とか、自閉的なものではなく、もっと独りよがりな感覚が想い起こせるが、今の幽香にはもっと別のものが満ち溢れている気がした。その独りよがりをメディスンには感じてほしくなかった幽香は、嬉しさの種、と比喩した子供特有の湿ったれた笑顔を脳裏に浮かべた。
「ほらほら、働き蟻に構っていられる余裕なんてあげないわよ」
飛び回るお札、空間を超えた弾幕の合間から切り込んだ声に意識を引っ張られて、幽香は目の前のスペルに集中した。紅白のお札が前から後ろから、いや、全方位から押し寄せてくるスペルカード夢符『二重結界』は、この空間をお札で埋め尽くさんばかりの勢いでもって展開されていた。お札弾は前方で消えたかと想えば横合いから飛び出し、避けたかと想えば突き上げるように下方から現れる。結界という空間と空間を接続したアダプターを通り、縦横無尽にお札が駆け回るそこは、さながら弾幕嵐と呼ぶに相応しい。
その嵐の中心で結界の維持に力を注いでいる霊夢が、弾幕の隙間でほくそ笑んでいるのが幽香には見えた。飛び退りながらもあの口から出た働き蟻という言葉に引っかかるものを感じた幽香は、次に左から突き出てきたお札を鼻先で避ける。確かに、この上空から見たメディスン達は小さくなって、働き蟻に見えない事もない。だが、
「きっと、みんなやりたい事を考えて、それで幸せになろうとしているだけよ」
弾幕とはまた別種の、言葉の矢が飛び交うお札弾を無視して霊夢に突き刺さった。その一瞬に嵐の密度が薄くなったのを見逃さない幽香は、掌から小さな弾丸を出す。弾丸は身動ぎする事もなく、ただ出された空間に根を張るように留まった。霊夢がそれに気付いていないのを確認して、幽香は背後からのお札を見ずに避けてみせた。
やりたい事? 頭を軽く振って結界を維持する集中力を呼び寄せ、霊夢は霊力を練り続ける。
「働き蟻じゃないってんなら、なにさ」
幽香を正面に捉えた口から強張った声が出る。戦いの最中という割りにはどこか朧げで、不安と憂いを感じさせる声色が、幽香の耳元をくすぐった。そこに先ほどまでの快活さは無く、一片の揺らぎを見出した幽香は、またひとつその場に弾丸を置く。
結界内の弾幕は変わらず幽香へと襲い来るが、もう当たる気はしなかった。結界の維持と弾幕の制御を一時に行うのは難儀だと踏み、どちらかが必ず疎かになると予測した幽香は、すでにこの結界を読んでいたのだ。
実際のところ、霊夢は結界の維持に重きを置き、その代わりに弾幕をパターン化している。もちろん、そのパターンはひと目で分かるほど単純でもなければ、ご丁寧にパターンだと読ませない為にランダム弾も紛れ込ませている。だが、個々のお札に込められた殺気の濃さでそれを肌身に感じた幽香に、通用する道理は無かった。
それでも幽香はぎりぎりのところで弾幕を躱す。すれ違い様にお札に記されている滅の一文字さえ読み取り、幽香は霊夢の言葉に耳を傾けた。
「誰だって願いが在るのは分かる。あんたも願いが在ってここに居て戦っているんでしょう? 願いって言う女王様に従う働き蟻、私だってそう。なんの違いがあるのよ」
自らに依頼しに来た村人達の顔を浮かべ、苦いものが込み上げてくる。口々に日々の平穏を願う彼らを、働き蟻だと比喩したのはなにも馬鹿にしていたからではない。その中に霊夢自身も含めた働き蟻たらしめる要素を見つけ、それ故にそう名付けた。皮肉と言うより自虐さえ込めて、すがり付くような想いを込めて。
働き蟻でなければなんだと言うのだ。願いとは人を突き動かす動力源で、それが無くなれば死んだも同然、本当に生きているかどうか怪しいものだ。ならば働き蟻で生きていく方がマシ、なにも無くなれば働き蟻でさえいられない。もしそうなれば、どうなるのだ。また必然を押し付けられる世界に戻るのか? また誰も認めない『博麗の巫女』に戻るのか? そんなのは、いやだ。
緩慢とした、しかし明確とした不安の塊が、心を押し広げて胸を圧迫する。濃く出しすぎてしまったお茶に似た、苦味と渋味が混ざり合ったものが口中に滲みる。動悸が激しくなるのは期待や希望ではなく、失う事を危ぶむ警鐘だった。それがさらに霊夢の焦燥感をじりじりと焼いていった。過ぎ去ったものが未だこの身に根付き、そして今の自分を構成している一部になりつつあるという事実が、恐ろしくて堪えられない。またいつかあの頃に戻るかもしれないという不安が、霊夢の小さな胸を圧迫していたのだ。
「あいた!」
開いた? なにが?
突然湧いて出た声に思考を掻き回され、霊夢がいつの間にか伏せていた顔を上げる。視界に入ったのは変わらず吹き荒れる弾幕と、風見幽香の痛みを我慢した渋い顔。後頭部をさすっている姿を見るに、お札の一枚でも当たったのか?
その割にはまた身軽な回避をし始めた様子に訝しげな目を注いだ霊夢は、幽香がきょとんとした顔をしてこちらを見つめているのに気付いた。まるまると開かれた眼で、狐に摘まれた顔を向けている。
「なにしてんの?」
「あんまり変な事言わないでちょうだい。うっかり被弾しそうになっちゃったじゃない」
いや、明らかにそれは被弾だろう、という言葉を飲み込み、戦闘の只中という光景が霊夢に結界の維持を促す。しかし次に発せられた幽香の声が再び霊夢の意識を掻っ攫う。
「願いは願い続けている限り、決して失くならないわ」
その言葉が、すとん、と霊夢の心に落ちてきた気がした。
「願いを叶える力を持つ人はね、ひとつ願いが成就するたびにまた新しい願いを見つけてくるの。それに、願いを生むのは人の感情よ。喜怒哀楽、多種多様な感情が人の願いを見つけ出す、搾り出す。私の知っている小さい娘がね、こう言ったの。幽香は私の嬉しさの種だねって」
「嬉しさの種?」
「ええ、きっと考えて言った言葉じゃないわ。でもあんな娘だから、口先だけで言った訳でもない。私はずいぶんその言葉に救われた。感謝してもしきれないくらい」
幽香はふと視線を下に向けた。その先に居るであろう小さい娘を、霊夢は知っていた。共に見下ろした花の塚には、死神と火車と、土に紛れた小さな影がひとつ。一所懸命に、無邪気に、そして楽しそうに。拭った汗が滴り、赤土と混ざれば妖怪花も喜ぶように蕾を持ち上げた。みながその光景に、もうじき、という言葉を浮かべる中、霊夢だけは小さい娘の笑顔に既視感を覚えた。
「あと、霊夢」
名を呼ばれ、静まっていた回転数が高鳴る。
「貴女がそんな事で止まるようなタマかしら?」
にやり、と、結んだ口元に薄いリップが映え、化粧も悪くないかもね、と胸中に浮かべた霊夢は、むず痒い想いを抱いて無性におかしくなってきた。合点がいくとか、納得するとか、人間そのような境地になるとこんなにも笑えてくるものなのか。
そうだ、そうだろう。だって誰に言われるまでもない、自分で自分の事を決めると決意したあの時に、夜通し魔理沙と笑い合った。知らず酒宴に付き合ってくれた親友は、口を輪にして笑ってくれた。この身に新しい歯車が生まれた偶然は、霊夢自身が引き当てた事。同時に生まれた願いは、今もこの胸に息づいている。なら、想う存分廻すだけだ。
「ああもう! めんどくさい! 私にこんな事似合わん、一気に決めるわよ!」
弾ける声と対照的に、ふっと掻き消えるお札の嵐。変わらず二重の結界は舞台のように張り巡らされて、静まり返った戦域は新たなスペルの幕開けにて再び活気付く。
「宝具『陰陽鬼神玉』!!」
練りに練った霊力を一気に解放し、青白い巨大な陰陽玉を顕現させる。霊夢のありったけの霊力を、ありったけの想いを乗せて、鬼神玉が空気を唸らせて幽香に押し迫る。
力に手数では勝てなくても、同じ力でなら互角以上に渡り合えるはず。今自分に出来る事であんたを超える。最大限の力技でねじ伏せてこそ、あんたに勝つ事に意味がある。私にとっての最高の偶然があんたとの出逢いなら、私はどこまでも強くなれる。そう、幽香のように。
巨大な陰陽玉が眼前に拡がり、先程までと逆の立場になった幽香へと襲い掛かった。幽香の向日葵弾とは比べ物にならない巨大さに、細めた口元から感嘆の吐息が漏れる。
「恐れ入ったわ。でもね」
こちらも底知れぬ妖気を一気に膨らまし、幽香が両手を前に突き出す。弾幕の嵐に置いてきた小さい種に、ぴしりと亀裂が入った瞬間、萌芽する妖力が炎を上げた。瞬く間に拡散、収束を繰り返し、妖力の塊が急成長を遂げ、霊夢の鬼神玉にカチ合った。
それは向日葵ではなかった。小さな、いや、目の前にするには巨大すぎる太陽がそこにはあった。激突した鬼神玉に負けない力で押し合い、プロミネンスが炎を戦慄かせる。張られた結界の内壁を食い破り、膨張した空間が熱波でひしゃげる。空に浮かんでいるはずの太陽が、霊夢の視界を焼き尽くした。
「そうこなくっちゃね! だから、あんたには負けられないのよ!」
霊夢が両手を前へ押し込めるように張り出すと、鬼神玉も勢いを増して太陽を押し返す。鬼神玉と太陽が触れる表面が激しい火花を放ち、雷鳴のごとき轟音を戦域へと震わせる。均衡した力と力は乱気流を生み、弾幕の嵐とはまた違った暴風を巻き起こした。
それは地上に居るメディスン達にまで届き、凄まじい光景となって網膜に焼き付く。スーさんと名付けられた人形が危うく飛びそうになるのを制し、自らの肩に掴まらせると長身を屈ませた小町が大声で叫んだ。
「どーしてこうなるのさ! なにがなんだか分からんのよ!」
「ゆーか! がんばって!」
隣で土に這いつくばったメディスンが、さらに負けない声を張りあげた。幽香と巫女は決着をつけようとしている。それを見届けるのも、私の責任なんだ。メディスンは荒れ狂う強風に立ち向かいながら、ふたりの戦いを見守った。
その時、赤毛の三つ編みをはためかせ、お燐が妖怪花を指さし催促の声をあげる。
「ねえ、あれ見てみなよ!」
メディスンと小町が促されて見れば、今まさに妖怪花が蕾を開こうとしているところだった。幾万ともしがたい花々の精気を吸い、妖怪花の開花が始まった。頭と言える蕾を天高く突き上げ、桁外れのスケールで花を咲かせる。
いよいよだ、と想いながら、メディスンは愕然と息を飲み込んだ。
「あ、あれって……」
霊力と妖力の塊が激突する傍らで、乱れ荒ぶる暴風でも微動だにしないその巨体が開花の咆哮をあげた。黄色い花弁が蕾の中心から盛り上がり、生まれた事を喜ぶような煌めきを見せる。太陽を独り占めした想いで花開かせ、日光が透けた黄色に花の塚が包まれた。
「こなくそー!」
同じく咆哮を身体全体で叫んだ霊夢が両手を前へとにじり出る。もはや妖怪花が咲いたかどうかは関係なく、全身全霊をもってして眼前の太陽を押し返す、その想いだけが霊夢の力を後押しした。気迫と霊力、それに負けられない想いが身の内の歯車を激しく回転させる。高鳴る歯車が組み込まれ、鬼神玉の力を底上げした。
均衡を破った鬼神玉がじりじりと太陽を押しやる。じわり浮かんだ汗を拭いもせず、霊夢が渾身の霊気を放った。勢いを増し、鬼神玉は太陽をすくい上げるように猛進する。徐々に詰め寄って来る太陽弾と鬼神玉が幽香の妖力さえも圧倒し始めた。
「ふふっ 昔よりも、やるようになったじゃない」
「うわああー!!」
勢いを止めさせない、あんたと一緒くたに押し返してやる。
そう叫ぶ視線が、幽香のそれとカチ合った。身動ぎひとつ出来ない両者が、ぶつかる視線に言葉を探す。負けない、負けたくない。一心にその瞳の光を輝かせる霊夢が、己の限界を超える。もはや止めようのない速度で押し返され、太陽がわずかに悲鳴をあげた。
ふ、と、幽香が吐息を漏らし、途端にがくんとつんのめった鬼神玉がさらに勢いを増した。太陽弾は為す術も無く形を変えられ、レモンのようにひしゃげた姿が鬼神玉ごと幽香の眼前を埋め尽くした。少なからず嬉々とした輝きを弾けさせた霊夢の瞳に、しかして幽香の視線が重なる。探すどころか押し返された言葉が、輝きと共に霊夢の脳天を貫いた。
――――負けてあげない
置いてきたもうひとつの種が萌芽する。押されたひとつ目の太陽に触れた刹那、その種が烈火のごとく開花した。紅きプロミネンスが幾筋も弧を描き、炎を煮えたぎらせて血潮のように駆け回る。幽香の底無しな妖力を爆発させ、ひとつ目よりも一周り以上大きい太陽が、霊夢の鬼神玉を事も無げに押し返した。
轟音を引き連れて極大の太陽が迫り上がる。ひとつ目の太陽は跪くように収縮し、それを吸収したふたつ目の太陽がさらに妖力を得てその身をたぎらせる。その姿に本物と言ってもおかしくない力強さと尊大さを見せつけられた霊夢は、もはや呆然として目を見開いていた。統合された太陽弾が鬼神玉をも飲み込もうとし、寄り切った巨体が炎を連々と上げる。鬼神玉にプロミネンスの道が縦横に走り、刻みつけた焼け跡が霊夢の脳裏にも焦げ付くものを残していく。
「邪魔はさせないと、そう言ったでしょ」
ふわり、と、緑の髪が揺れる。その瞬間、霊夢に風が吹き抜け、鬼神玉に亀裂が生まれた。瞬く間に表面を亀裂が走り、中心核にまで到達すると雪崩のように瓦解していく。太陽に競り負けたその身がいくつかの塊に割れ、そのまま炎と一体になって飲み込まれる。咀嚼するように炎が蠢き、塊の大半が沈むと太陽はゆっくりと上昇していった。
「あはは、信じらんない。ばかじゃないの」
振り切れてた歯車がどんどん速度を落としていくのが分かる。霊力と気力を出しきった身体が鉛のように重く、手足をだらりと下げた霊夢が苦笑交じりに呟いた。
紛れも無く自分は持てる力のすべてを込めた。身体中に残る疲労感がその証拠だが、それでも勝てなかった。目の前に佇む花の権化はそれすらも飲み込み、疲れも見せずに平然と妖怪花を見上げている。まだまだだ、そう想えた自分の心情に悔しさとは違うものも感じられた霊夢は、呆けた横顔につられて目線を上げた。
「……やっと咲いたわ」
「きれい、ね」
つい口を出た言葉に自身が一番驚き、霊夢が少し顔を赤らめる。柄にも無くそんな言葉を呟いた事を、誤魔化すように口を尖らせた。
「あ、あれはなんて花なのよ」
そう早口に言った質問を、幽香は昇りつつある太陽弾に照らされた顔で受け止めた。
「ルドベキアだ……」
呆けた声色でメディスンが言う。小町とお燐がそちらに振り向いて、途端にふたりは困った顔を突き合わせた。ぎゅっと抱きしめられた小さな人形も、心配する素振りでその顔を見上げる。人形の頬に、ぽたり、と雫が落ちて糸を引いた。
メディスンは泣いていた。震える瞳を湿らせて、瞬きもせずに。視線は巨大な花を捉えて身動き出来ず、黄色い花弁に太陽の色を覚え、心へと吹き付ける風ともつかない緩やかな流れを感じながら、メディスンは泣いていた。流れはやがてメディスンの全身に行き渡り、心に負った霜焼けさえも癒してくれるような温かさを持ち始めた。爪の間に入り込んだ土の感触が伝わる。鼻に通る土の匂いがさらに心を堪らなくする。込み上げて来るものすべてが、自身の中から生まれたものとは想えないほどに充実している。メディスンは、右手で顔を覆った。
瞼の裏、さらに指さえ通り越して太陽の色が網膜に映り込む。それは幽香と出逢った時を想い出させる光の色。とても眩しくて、けれど優しくて。信じられないほどの温かさを分けてくれる恒星の色が、メディスンの脳裏と瞼の裏に浮かび上がる。その光景に、見慣れた緑のウェーブが動いている。
「ううう……うっぐ、うううぅぅ」
もう、なにを言おうとしても言葉にならないのは分かっていた。でも、伝えなければいけない、その想いだけが唇を空回りさせて、けれどまた喉が痙攣してしまい息をする事さえ難しい。しゃくりあげた息遣いが身体を小刻みに揺らし、言葉にならない言葉達が小さな胸でつっかえてる。せき止めているわけじゃないのに出て行けず、飛び出してしまいたいと必死にもがいてる。形になるのを忘れた言葉達が、メディスンの中で渦を巻いた。
けれどメディスンはそれでもいいと想った。例え言葉に出来なくとも、喋って伝える事が出来なくとも、いつも傍に居るひとは私の言いたい言葉を知っているから、それだけでいいと。ゆっくり私の髪を撫で、その温もりの代わりに私の胸で詰まっている想いを連れて行ってくれる。優しい微笑みで語りかけ、知らないうちに私の心に種を蒔いてくれる。でも、いつか、種が芽を出して花を咲かせたら、見せてあげられたら、素敵だな。
「うっぐ、ぐす……うぅわあぁぁ~ん」
涙が止まらない。止まらない言葉が涙に溶けるのも止まらない。大声でしゃくりあげ、泣き出したメディスンの想いが止まらない。頬を湿らす涙は滝のようで、抱きしめられた小さな人形はメディスンの想いに溺れそうだった。小町とお燐の胸に響く想いで、それに呼応するかのように、巨大な花がより輝きを増す。
妖怪花はルドベキアの花。メディスンの一番好きな、メディスンの花。幽香との想い出を映す花が、感謝の咆哮をあげる。
「すごい……」
その光景は霊夢の目を釘付けにした。本物の太陽と幽香の太陽の力を吸収し、巨大なルドベキアがほんのりと輝いたかと想った瞬間、なにかが拡がるのを感じた霊夢は感嘆とした息を吐いた。巨大ルドベキアの根元から、波紋のようにモザイク模様が拡がっていく。赤や青、黄に橙や紫。様々な色彩のモザイクが緻密に敷き詰まって周囲を飾っていく。それは精気を吸い取られ仮死状態になっていた種や子株、巨大ルドベキアに精気を貸していた花々が一斉に咲き誇ったのだ。
掘り上げられた赤土を覆い隠し、花の塚が花の産土へと生まれ変わる。モザイク模様は勢いを衰えさせずに幻想郷全体へと拡がっていった。小町とお燐がばら蒔いた花も、村の黒ずんでしまった作物も、すべてが精気を取り戻し、青々とした活力を取り戻していく。
「うへー、こりゃ綺麗だ。三途の河の彼岸花にも負けず劣らずといったところかね」
「すごいすごい! ただでさえ地底では花は珍しいのに、こんなにいっぱいの花、さとり様だって見た事ないよきっと!」
花々の絨毯は清々しい匂いを放って小町とお燐を包んでいた。三つ編みを弾けさせて大の字に寝転がり、大きく息を吸い込んだお燐は、鼻をくすぐる生命力にむせ返りそうだった。ふわふわと身体中を覆うのは眩しい日差しと優しい温もり。寝心地の良い主人の膝の上を想い出し、お燐は精一杯伸びをした。
もはや楽しまなければ損だと想えた。小町は後に残る懸念材料を頭の片隅に退けて今を楽しもうと、どこからともなく酒瓶と盃を取り出した。距離を操るくらいどうって事ないのだが、こと自分と仕事との距離を上手く保てない小町は苦笑いでとくとくと酒を注ぐ。きっとたくさん叱られるだろうが、上司との折り合いも距離を詰めてこなしたいと想う。ぐびり、とやれば胸元を熱が通り過ぎ、小町は一時の酔いに溺れた。
幻想郷中が花に包まれていた。拡散した精気は作物の種を叩き起しては芽を吹き出させ、枯れそうになっていた植物さえも蘇らせる。綿毛になりかけていた蒲公英は黄色い花弁を呼び戻し、散りかけた桜は最盛期を想わせる賑わいを見せ、竹は稲穂のような花をつけた。それは生命の歓喜。喜びを形にした花々は、様々な人々に感慨を残していった。
作物の成長を一心に願っていたある百姓は嬉々として飛び上がり、花の開花を心待ちにしていたある妖精は小躍りし、なんぞ異変かと今更慌てだす粗忽者もいれば気にも止めず花見をやり直す者もいる。往々にして十人十色の様相を呈し、その場その時に相応しい色をつける。花はその想いに促され、やはり無限に顔色を変えていった。
花とはなんだろう。花を美しいと想わない者はいない。何故なら花は人の心に美しいと想わせるなにかを持っているからだ。美しさの基準は人によって様々だが、ある一定の心を動かすに値するなにかがあれば、きっとそれは美しいと想えるのだろう。花は、小さくとも大きくとも美しいものには変りない。
同時に、花を花以上のものと捉える者は少ないだろう。花は花で、それ以上でもそれ以下でもない。その固定概念然とした見地は花の価値を定着し、永久不変な美しさを約束してくれる。
だが、花は美しいという事実が一人歩きしてしまってはいないだろうか。先に行ってしまった概念が今この場で目に映る花の本質を陰らせてしまってはいないだろうか。すり込みによる習慣化は怠惰的ではないにしても、なにかしらの停滞感を抱かせる。人は花の後ろにある『美しい』という言葉に急かされて、本質を見逃しているのではないか。
花の本質は生命である。生きる事が花の本質で、それこそが絶対不変な真実であるはずだ。誰にも変えられない、誰も逃げられない、誰も逆らえない。極論とも、曲論とも言えるだろうが、ならば何故人は花を美しいと想える?
それは本質を見れば自ずと導き出せる生命の輝き。謳歌するにはあまりにも短くて、あまりにも気高い生命の歓喜。それをして人は美しいと見出し、そして人は、それを美しいと想える心を持っている。花だけが美しいのではなく、花を育て、見守り、慈しみ、愛でる心があればこそ、そこに美しさが咲き誇るのだろう。
そうして、必死に考えた妖怪が居た。
「メディ」
いつの間にやら傍に居た幽香がその緑のウェーブを揺らす。瞬きをすれば見逃してしまう感情の身震いを、メディスンは髪を掻き上げる仕草に垣間見て、自身もその瞳を鈴蘭のように揺らした。すっと差し出された指先が鈴蘭に触れる。それは泣きじゃくって腫れた頬には堪らなく刺激的な、心の浅い部分にさざ波を立てる春の日差しに似ていた。やがて深みへと光が届けば、何者にも遮れない温もりをメディスンに確かに感じさせてくれる。
溢れる涙を拭った指先がそのままメディスンの金髪を撫で、しっとりとした土の匂いを残していく。奏でられた息吹を吸い込み、胸の内側に熱が生まれた。
「貴女に伝えたいことがあります」
巨大なルドベキアが変わらず輝いている。聳える姿はそれこそ太陽のようで、後光に輪郭を強調された幽香をメディスンの視界に浮き上がらせた。
「あのルドベキアを見つけたのはついこのあいだ、まだ小株だというのにすごく元気な力で、冬が終わったばかりなのに根を深くまで伸ばしていました。いくら生命力の強いルドベキアでも、それは異常でした。探ってみれば僅かに妖気を纏い、妖怪変化の予兆が感じられたのです。私は、それを害虫と同じく駆除しようとしました」
淡々と、しかし芯を持った声がメディスンの耳に届く。交わった瞳が微かに怯えているように見え、髪に触れる指にも強張りを感じる。それでも瞳は真っ直ぐ見据え、メディスンも応えたい気持ちで見返した。
「このままだと他の花にも被害が出るのも分かっていましたし、もしかしたらとんでもないものに妖怪変化するのかもと予想したからです。そして手にかけようとした時、ある事に気付きました。それはこのルドベキアが生きている理由です。私はなんの信憑性も無いその理由がとても愛しくて、ついに駆除出来なかった。だから、信じることにしたのです。その理由も含め、もし私の考えていることが当たっているとしたら素敵だと想ったのです」
メディスンの鼓動が高鳴り、見つめ返した瞳の奥で仄かな光が弾けた。自分の中で言葉にならなかった想いが、幽香の中で形になっていくのが分かる。その光がルドベキアの輝きと重なって、見覚えのある色をしていたからだ。
「私はひっそりとそのルドベキアを育てることにしました。希望と不安を半分に、きっと私のやりたい事に繋がると信じて。いいえ、不安の方が大きかったかもしれません。だって今でもこうして動揺しているんですもの、腹が立つよりも悲しくなります。だけど良かった。信じて良かった。私の考えていた事は当たっていたのですから」
黄色い輝きが一際強くなったかと想うと、幽香がルドベキアに振り向く。ウェーブが舞い上がり、黄色い光線に混ざって緑のハイライトがメディスンの瞳に焼き付いた。
「メディ、あれは貴女が去年育てていたルドベキアなの。ルドベキアは多年草。貴女が一所懸命に世話をした株が冬を越し、今年また花をつけようとしていた。私はそれが堪らなく嬉しかった。たとえ不安に沈みそうでも、メディが育てたルドベキアだから信じられた。花は心の鏡だから、育てたメディとおんなじ、良い子だと信じてたから」
言葉尻の震えがメディスンに伝わった。泣いているの? という言葉は相変わらず小さな胸につっかえ、その分、瞳から溢れる涙の量を増やした。それでもその思惟が届いたのか、幽香はこちらを向こうとしない。ぐず、と、メディスンの声が上ずる。
「嬉しさの種を私も見つけたの。メディっていう、ちっちゃくてかわいい、まだ手のかかる甘えん坊な私だけの種。貴女の存在が私の中で花開いて、どんなに救われたか。ひとりで花と向き合ってた頃はね、不安で仕方なかった。花が心の鏡なら、私の目の前で咲いている花の色を見るのが怖かった。もし、くすんだ色をしていたら、醜い色をしていたらって考えてしまって、世話をしながらその実、顔を逸らしていたの。でも、貴女が私の傍にいつも居るようになってからは、だんだんと花と向き合う勇気が持てるようになっていくのが分かったわ。私の心にね、花が咲いていくのが分かるの。そしてやっと花と向き合おうと想って、あのルドベキアを見つけた。あの子、私に手をかけられようとしているのにね? それなのに笑いかけてくれたの、私に」
ふたつの太陽の光がさんさんと降り注ぎ、巨大なルドベキア共々、花達は一層の輝きを見せる。様々な色の花弁が入り乱れ、風に靡いてはモザイク模様がようようにさざめいた。その色にまるで感情のような波を垣間見て、メディスンは幽香の言葉を聞きながら見入ってしまった。
幽香は耳元の髪をかきあげ、落ち着いた声色を響かせた。
「花はほんとうに心の鏡だわ。真実、少しの狂いも無く心の隅々までその身に映して咲き誇ってる。そしてその心を育むのはやっぱり感情なの。感情は人との繋がりで喚起されて、嬉しさの種になってその人の心に根を張り、いつか花を咲かせる。いつか必ず。メディ、貴女に伝えたいことがあるの」
幽香がメディスンに振り向き、柔らかな視線を瞬かせる。優しく、温かいその表情をメディスンは知っていた。
「ありがとう。メディ」
幽香の顔に微笑みが花開いて、メディスンは心の種が芽吹く気がした。緩やかに押し広げられる感情の波紋が形を持ち始め、やがて凝縮された一粒の種になる。その小さな強張りがひび割れて、隙間から顔を出した緑色が明確に知覚出来るまでになると、もはや心から溢れ出した嬉しさに全身が満たされていた。メディスンの形になるのを忘れた想いが、幽香の言霊に結実し、相乗するように息吹を帯びてくる。震えた視線は今、それを捉えて離さない。メディスンは両腕の力をより一層強くし、小さな胸を人形と一緒に抱きしめた。
絡み合った視線が、言葉になるのに追いつかないほどに浮かび上がってくる思惟を間断無く飛翔させる。形を為さないが故にそれは何者にも縛られず、空間を通り越してどこまでも響き渡り、温かさを湛えながら広がっていく。言葉にならないが故に輝きとなって、包み込むような優しさを如実に感じさせる。
もしかしたら、言葉というのは一種の果実なのかもしれないと、メディスンは想った。心に芽吹いた種は人との繋がりによる感情で成長し、花を咲かせて実をつける。その実った果実が言葉となり、伝わった相手の心にも種を残して――――
円環の中で、世界の中で、人の中で。言葉という果実が膨れ上がっていく感覚を覚えたメディスンは、ルドベキアの花を咲かせる。
「わたしも、ありがとう、ゆーか」
涙を一杯に溜めた瞳で幽香を見つめ、不思議と喉の痙攣も抑えられたメディスンは、こちらもやはり落ち着いた様子で言葉を紡いだ。その声色に大人びた印象を受けた幽香が少しばかり目を丸くし、やがて表情を緩ませると掌を差し出してくれた。
繋がった思惟を感じるまでもなく、次にメディスンはその温かい掌に飛びついていた。もう逃すまいと急いで掴まえた土の匂いを胸にしまい込み、勢いそのままにたたらを踏む。一時にメディスンの重さを受け取り、両腕で支える形になって二度驚いた幽香が、身体全体を正対させた。向き合った笑みと笑みが嬉しさの種を生むと、巨大なルドベキアとその周りに咲き誇る花々も笑っているようだった。
この光景にどれだけの人が、なにを想って見ているのだろう。肩で息をし疲労困憊ではあるが、浮かんだまま空を仰いでいる霊夢は清々した面持ちで佇んでいる。ごろ寝したお燐は幻想郷中を駆け回ったせいだろう、もうすでに深い寝息をたてて夢を見ているようだった。夢の中で誰と遊んでいるのやら、耳をぴくりと動かしては花のベッドで寝返りを打つ。そのすぐ近くでは小町が酒を呑んで出来上がっていた。なにかに追われるように盃を傾け、楽しんでいる様子ではあったが笑顔があまり上手ではない。
それぞれの人々の中にも花が咲いているのだろうと、メディスンには想えた。この場に居なくとも、花が咲き、種が実る光景は誰の心にもなにかを残していくはずだ。きっと、その姿に身近なものを重ね、少なからず感慨に浸ろうとする心を持っているはずだ。花に自分自身を映したり、誰かの幸せを願ったり、時には運命すら覗こうとする。それは人が弱いからではなく、ただ繋がりを持とうとした結果なのだ。恐れない事が強さの証だろうか。何者も寄せ付けない高みが強さの条件だろうか。そうではなく、繋がる指先たったひとつでメディスンはどこまでも強くなれる気がした。恐いものなんて幾らでもあるし、誰にも頼らずに生きていく自信も無い。だけどこの傍で見上げる人が居ればと、そう想える強さを花は教えてくれた。
同じように、花は誰の心にも語りかけてくるのだろう。そうでなければ、花に美しさを見出せず、こんなにも愛せる訳がない。花は心の鏡と言うのならば、花を愛する事は人を愛する事に他ならない。自身の心を糧に育った花を愛でるのは自分自身を愛でる事。それに気付くのはもっと先になるかもしれないけれど、誰の心にも宿る美しさを忘れてはいけないのだと、メディスンはあのルドベキアに誓った。
輝かしい光が、淡く憂いを帯びてくる。短くも力強いその姿を、忘れるもんかと記憶に刻みつけたメディスンが、繋がる掌を強く握る。握り返してくる掌はさらに優しくて温かくて強くて、溢れる土の匂いが、メディスンの鼻をくすぐった。
※
春も折り返しを過ぎて、梅雨を迎えようと雲が忙しなく通り過ぎて行く。風に散らされる事も無く、だんだんと白く大きい雲が目立つようになってきた空は、青い色をまばらに見せるばかりで季節通りの模様を呈していた。流れる空気に湿り気を感じ取れれば、鬱陶しい梅雨はすぐ目の前である。だがひと足早い夏の雰囲気をかもし出す赤色がとてもおいしそうに見え、まだまだ緩い日差しを遮る軒先の縁側に座った霊夢は三角形の頂点に噛み付いた。口の中で仕分けた異物をぷっと吐き出すと、その甘味を堪能した目元がだらしなく緩む。
「巫女ー、来るのは夏じゃなかったのー? っていうか、ほんとに来るんだ」
目ざとく嫌味を放つメディスンを受け流し、霊夢はスイカの種を勢い良く飛ばした。先取りした夏の風物詩は、甘みが最高でよく身が詰まった素晴らしい出来上がりだった。こんなおいしいスイカを妖怪ふたりにだけ味わわせるなんて勿体無い、と予告した夏ではなくこの梅雨前に喜び勇んで霊夢はやって来ていた。あの妖怪花が遺していった異変を、霊夢はさぞや嬉しがっているに違いない。
巨大なルドベキアに溜まっていた精気が解放されて幻想郷に満ちると、通常の植物に有り得ないほどの急成長が現れた。ルドベキアの中で純度を増した精気のせいだと想われるが、夏に咲くはずだった花が咲き、夏に収穫されるはずだった作物もそのおかげで早すぎる収穫を迎えていた。未熟と言う訳ではなく、完全に育ちきってるこのスイカを見るに妖力を帯びた精気が植物達になにかしらの影響を与えたのだろう。言うなれば、借りていた精気の利息代わりか、と霊夢はひとりごちてまた種を飛ばした。
しかしこの異変も秋には終息し、元のサイクルに戻るはずだと聞いた。少し残念ではあるが、それが自然の強さなのだろう。
「また来るって言ったから来たのよ。別におかしくないでしょ」
「わたしが言いたいのはそこじゃないんだけどね。ちょっと、種を粗末にしないでよ」
「あ~、はいはい。土遊びさまさまよね、こんなにおいしいのが出来るんだもん」
ニヤリと笑った顔でメディスンに催促の視線を向けた。せっかくだからお土産に、とでも言いたげな目配せに、メディスンは強かさよりも図々しさを覚える。小さな人形もその傍で肩をすくめ、やれやれと身振りで現した。
観念した吐息をし、霊夢の隣に腰掛けたメディスンは自らもスイカに齧り付いた。なるほど、やっぱり幽香と私で育てたのだから、おいしいのは当たり前だ。愛情を込めた分だけ真摯に応えてくれる、幽香の言葉は間違っていない。
「そう言えば、あいつは?」
「ゆーかなら、ほら、あそこ」
メディスンが指さしたのは縁側の正面にある太陽の畑だった。やはりそこには精気の影響で咲き誇り、満開を迎えたいくつもの向日葵が太陽へと背を伸ばしていた。その中の数本が、風ではない不自然な揺れ方をし、霊夢はあの恐ろしげな弾幕を想い出して少しばかり身を竦める。それを知ってか知らずか、メディスンが掛け声を張り上げると応えた向日葵が余計に揺れ、さらに霊夢の心を粟立たせた。きっとあの向日葵の根元であいつはまた土に混じって世話をしているのだろう。
まったく、迷惑な話である。『ありがとう』という五文字を伝える為だけにあの騒ぎを起こしたと言うのだから、霊夢はあの花の権化の考えように流石にげんなりしたものだった。それに放っておいても別段悪い方向へと向かうような異変ではなかったのだし、これでは博麗の巫女も形無しである。振り回された自らを顧みて、やはりまだまだだと口内で呟き、甘みの減った赤い果肉に歯を立てる。
「あいつには困ったものだわ。昔からそうだけど、周りを巻き込む変な癖をどうにかしてほしいものね」
種も入ってない果肉はやはり甘くない。それでも貧乏性が赤身を残らずたいらげさせ、余った皮は働き蟻も寄り付かなかった。均等に歯型が付いた皮を見つめ、メディスンは鼻を鳴らす。
「ゆーかは花柄のサイクロンだから、しょうがないよ」
したり顔でスイカの種を掌に出したメディスンが、霊夢をちらりと見遣る。その表情が舌を出したように霊夢の瞳に映り、言葉にした『花柄のサイクロン』という意味が胸に落ちると、やたらと笑いが込み上げてきた。
腹を抱えて笑い出した霊夢にきょとんとしながら、メディスンも太陽の畑に向かってえくぼを湛える。先程の向日葵よりも手前のものが、頭を振って空を仰いでいた。温帯低気圧は今はあの辺りかな?
よほど面白いのか、霊夢はまだ笑い転げている。だんだんと鬱陶しさを覚えたメディスンがスイカの種が張り付いた顔を見る。すると、意外な事に声を張り上げた。
「あー! 巫女ー、リップなんかつけてるー!」
虚を突かれた顔が即座に笑いを止め、霊夢は起き上がった拍子にメディスンの背中を平手打ちした。それにびっくりした小さな人形が抗議のジェスチャーをし、メディスンの背中をさすった。咳き込みながらも観察の目を止めないメディスンに、霊夢の耳が赤くなる。
「うるさいわね、毒ぼんぼり! ちょっと試しにしてるだけよ」
「へー、ふーん、ほー」
「うぎぎ……」
初めてかもしれない劣勢さに顔をしかめた霊夢が、次のスイカを頬張った時だった。乱立する向日葵の隙間から幽香が顔を出して声を出した。
「メディ、ちょっと手伝ってちょうだい」
「うん、わかったー」
いそいそと動き出すメディスンと小さい人形を尻目に、霊夢はスイカを頬張ったまま現れた幽香に注視する。まさか、今の話しを聞かれてはいないよな?
それに気付いた幽香と視線がカチ合い、久方ぶりに顔を合わせた事に今更気づいた霊夢は、少しだけ緊張した面を構える。しばらく無表情を注いでいた幽香が、白い笑顔を浮かべた。
「似合ってるわよ」
全身の毛穴が開く想いだった。お札の代わりにスイカの皮を掴み上げ、弾幕さながら投げつける。ひょいと躱した緑の髪が揺れ、霊夢はもはや顔を上げる事さえ出来なかった。
その傍を通り過ぎたメディスンを見送ってから、食べかけのスイカに齧り付く。いつか必ず見返してやる、と、心に刻んで。
「さあ、行きましょう」
涼し気な幽香の声が耳に届く。その声が雲が多い空にこだましたように想え、霊夢は上空を仰いだ。遠く、幻想郷の終りまで続く白い雲の列が、眩しく映った瞳になにかしらの感慨を残していく。どこで生まれたのか知れない雲は、やはりどこへ辿り着くのか行方も分からない。そう言えば、小町とお燐の姿を最近見ていないが、仕事が忙しいのだろうか?
「うん!」
弾ける声に視線を戻せば、メディスンが笑顔で幽香に駆け寄るところだった。ふと、その笑いようにまたも既視感を覚えた霊夢は、吐き出した種と一緒に昔の事を想い出した。
それは幽香がとても楽しげに花の世話をしていた光景。土と汗にまみれ、一所懸命に花に愛情を注いでいる姿。あの時の笑顔に、メディスンの笑顔が瓜二つだった。重なる表情に霊夢は納得の情を深める。そうだ、あの時あいつは無名の丘で鈴蘭畑の世話を――
「――偶然よね」
湧き上がる感慨を胸に潜め、霊夢がふたりの妖怪を見遣った。繋いだ手は緩い円環と優しい可能性を描き、霊夢に偶然という言葉の意味を噛み締めさせた。
(了)
太陽の畑から少し離れた猫の額ほどの平地、そこは彼女のプライベートエリアだった。ちょうど小高くなっている太陽の畑とは違い、人の手で均した赤色はいかにも土いじりが達者な様が現れており、平らになりながらもよく空気と混ざってほろほろとした柔らかさが垣間見えた。均した平地には均等に空けられた小さな穴があり、その中に小粒程度の黒いものが入っていた。
未だ底冷え衰えぬ朝方、遠くから鳥の声が聞こえ、振り向いて見ればちょうど頭の上を二羽の小鳥が通り過ぎるところだった。つがいと想われる小鳥たちは、仲睦まじく戯れながら北の方向へと飛んで行く。吹奏楽器に似た鳴き声で時折交互に上下位置を変えて、過剰なほどに愛し合っている様は、見る者に不快感を与えるのではないかと想像出来ないでもない。
いや、それはそいつの心が余程荒んでいるか、せいぜい十cm四方しかない狭っ苦しい心の持ち主なのであろう。きっとつま先立ちがやっとの幅しかないその場所では、自分自身だけが鼻息荒げて睨みを利かせているに違いない。
そんな様子の風見幽香を想像して、少しばかり笑いが込み上げてきたメディスンは、吹きそうになる吐息を我慢してつい鼻が鳴ってしまった。とっさに目の前の幽香を見遣れば、どうやらメディスンの鼻音には気づかなかったようで、先程からの『日傘グルグル』行為はさらに拍車を掛けて回転し続けていた。
幽香は決して心の狭い妖怪ではなく、朗らかで優雅な大人の女性であると、この時ばかりは真剣に、きっとそうであるようにと神にでも祈る面持ちのメディスンであった。あの小鳥達が無事に行き過ぎてくれて、ほっと胸を撫で下ろしたのだって考え過ぎではないと想わせるのが、風見幽香に対するメディスンの素直な感慨だ。
「ねぇゆーかー、もう諦めよーよー。また来年だってあるんだしさー」
苛立ちを表現していると分かる日傘の回転は、今や唸りを上げて空気を裂いている。幽香との付き合いはまだまだ短期間ではあったが、これほどまであの日傘が高速回転をしているのをメディスンは目にしたことがない。唸りはやがて嵐を呼び、天変地異に火山噴火、荒廃する世界の末に救世主でも現れんばかりの大スペクタルをメディスンに感じさせる。
それは恐ろしい事なのか、はたまた喜劇的な戯れ言なのか。判断しかねるメディスンにとって、振り向いた幽香の笑顔に寒気を覚えたのもまた、喜劇であって欲しい理由のひとつだった。
「ダメよ、この子達に次なんて無いの。今年種を付けなければここで世代が途絶えてしまう。それじゃ一年草の名が泣くわ」
幽香が憤りを募らせているのは訳があった。今年は、大事な大事な行為がまだ出来ていない。それは幽香にとって快楽であり、とんでもなく妖艶で心身を陥れるに値する行為。それは魅惑的で蠱惑的で、もし踏み誤れば狂ってしまうやもしれぬ、いや、むしろ狂乱するほどに心踊らせるのが正しいと想える行為。
こんな春の穏やかな日々に、こんな晴れ渡った朝日を浴びて、その行為に殉ずる事が出来るのであれば、もはや命を投げ出すのも厭わないとさえ想えるほど、幽香は真剣に信じていた。
「あぁ……」
恋の相手にしな垂れるような声色を吐き、幽香は朱々とその穢れを知らない頬を染める。どうせまたロクでもない想像で脳内麻薬を分泌させているのだろうと、幽香の背筋とその白い吐息だけで判断したメディスンは、違った意味でこちらも吐息を漏らす。
メディスンの想う通り、幽香の想像は遙か宇宙の果てまで飛び上がり、その脳内麻薬の効果を遺憾無く発揮して快楽の渦に飲み込まれようとしていた。妄想の中で幽香は激しく身悶え高揚し、目まぐるしく突き抜ける快感に溺れようと身体をくねらせていた。それは神々しいまでに美しく、涅槃のように苦楽を超越した域にまで達し、それにつれて幽香の表情は何とも言えない淫らで、しかし上品さを兼ね備えた最高の境地へと辿り着きつつある。
だが、外から見ただけでそれと分かる訳はなく、せいぜい、妄想癖のあるせいでお嫁に行きそびれそうな近所のお姉さんとしか、メディスンの瞳には映らなかった。お嫁の貰い手は居なくとも、優しければそれで良いとする気概をメディスンは備えてはいたが、生憎こうなってしまった幽香にそんな希望的観測は悲しいほどに無意味であった。
「はふぅ……」
また一つ、吐息が漏れる。げんなりするメディスンをよそに、幽香は再び想像する。
自らの指で柔らかいものを押し広げて穴を穿つ様を。選りすぐりや特別なんて無い、内にある全ての粒をその穴に入れてやる瞬間は、自分はさぞやだらしない顔をしているのだろう。周りから両手でゆるゆると包み隠してやれば、きっと盛り上がって伸びてくるそれを、あとは心踊らせて出てくるのを待つだけだ。
にへら、と、妄想と現実の両方で幽香が笑う。
「種蒔きってそんなに楽しいもんだったかなー」
種蒔き。種を植え付ける、花や木々の種を土に植え付ける行為。
そう、風見幽香が毎年楽しみにしている事とは、春の種蒔きの事だ。
「じゅるり……っ」
『小春日和は種蒔き日和』が信条で、冬の終り頃になると一日数回は気温や天気や湿気を確認するほどである。どれだけ幽香が春を恋しがっていたかはメディスンも理解しているが、秋だって種蒔きの時期でその時も散々はしゃいでいたのに、現状はそれを凌駕するほどまでに幽香は輝いているではないか。
さりとて、幽香のこだわりは土作りから始まっており、肥料から与える水まで最高のものを用意している。それを鑑みて許容出来ない事もないと想えた。
土は太陽の畑で幾年も向日葵達を支えてきたものに妖怪の山で培われた腐葉土を混ぜ、肥料は最近よく見かける火車から譲ってもらったもので申し分ない。水は暇そうにしていた死神をシメて運ばせている。出処は知らないがこの世のものとは想えないほど優しい軟水で、植物の細胞によく馴染むからこれも満点だ。
さらに幽香は植物達の世話をたった一人でほとんど行ってしまう。土を耕し水を与え、真夏でも真冬でも、一日たりとて休まず葉の一枚一枚を丁寧に観察して余計な虫や病気に犯されていないか調べるのだ。
とにかく植物の世話が好きで好きでしょうがなく、少ないながらもその身に内包している愛とか優しさをこれでもかと叩き込む姿に、それはそれで幸せなのだろうとメディスンは幽香の小刻みに震える背中を眺めて想わずにはいられなかった。
「はっ いけないヨダレが」
「ゆーかが幸せならそれでいいけどさー、だったらこの異変をどうにかしないとねー」
頭の後ろに両手を投げ、いかにも当て付けがましい物言いを放つメディスン。その視線は変わらず幽香の背中を捉えており、返ってくる言葉を待つかのようにそこで黙る。
幽香がポッケからハンカチを取り出し、おもむろに口元を拭くその姿は優雅ではあった。だがそこに至るまでの経緯はお世辞にも優雅とは言えず、そもそもヨダレを垂らす事自体が上品さとはかけ離れ過ぎている。
メディスンは何度目かの溜め息を吐く。その吐息が白く濁っているのを見遣って気温の低さを再確認した。冬が終わって間もないこの時期、さすがに朝方は未だ寒気を覚える。だがメディスンの言う異変とはこの寒さの事ではない。以前に春が来ない異変があったらしいが、今回のはまた違った異変だ。
「種が蒔いた先から芽を出さないで枯れていくなんて、変な異変だよねー」
その異変とは蒔いた種がことごとく枯れるという妙なものだった。大切に大切に育てようと土から水からなにまで準備していたのに、その楽しみを、その快楽を、あと少しというところで奪われては誰だって怒りを覚えよう。その分も含めて、幽香が怒るのも無理はないようにメディスンは想えた。
しかし、一つだけこの異変がおかしいと感じられる部分がある。枯れるのは今年蒔いた種ばかりなのだ。秋に蒔いた分は今や元気に開花しており、ここから見える一面にその花弁を揺らしていた。
パンジー、デイジー、スイートピー。ルリミゾカクシ、ヒナゲシにカルセオラリア。想い想いに咲き誇る花々はモザイク模様のように群生し、春の息吹を感じさせては自らもその生を謳歌しているようだった。
「今度は誰のせいなのかなー? きっとまた巫女が解決するからー……って」
メディスンは目の前の光景に息を呑んだ。妄想に耽っている時は鳴りを潜めていた日傘の回転が、再度活性化し始めて空気を切り裂いているではないか。甲高い風切り音が耳を虐め、巻き起こる風はメディスンの身体を引き寄せようと渦を巻く。それはさながら台風、花柄のサイクロンだった。
じりじりと吸引力を上げていく回転に、メディスンは日傘の切れ味を想像する。再び寒気を覚えた背中に力を入れてその場に踏ん張り、苦笑を浮かべて幽香に言った。
「ゆーかー、恐いよー。もっと落ち着いてさー、冷静になってさー」
「あら、私は冷静よ。葉の裏に潜むあぶら虫を、お箸で摘まんで掃除出来るくらいにね」
それは冷静ではなくて冷徹、などとは言えずに居るメディスンは、今やこれから始まる幽香の怒りの矛先を憂い、そしてその行方の決定権は自分の双肩に掛かっている事に気付きつつあった。
付き合いは長くなくとも、破天荒な性格は常に幽香という女性を浮き彫りにし、出逢ってから今まではその生き様をメディスンが酌み取るのに充分なほど濃密な時間だった。故に幽香のこの言動は非常に危険なものだと、粟立つ肌でひしひしと感じていたのだ。
そう、メディスンはなにもふらふらと幽香の後くっついて来た訳でも、威を借りようとしているのでもない。ただ単に、妖怪として尊敬する幽香を観察していた。そして幽香の生態について少なからず把握した事実があった。
『サイクロン症候群』と名付けたそれは、怒りによって発露する三つの症状だ。
「そう言うならそのぐるぐる止めてよ、吸い寄せられて粉々になっちゃう」
風見幽香が怒っている時の症状その一。日傘を回転させる。
すでにぐるぐると言えるほどかわいくはないが、いかにも精神の不安定さが現れていると言えよう。したい事が出来ない、あるいは上手くいかない事への我慢・抑制によるストレスを、簡単な動作を行う事で紛らわそうとする自己防衛行動だ。
しかし幽香の場合、有り余る腕力の為に嵐が巻き起こり、危険極まりない。
「あと、その笑顔ねー。天使のような微笑みだけど、なんか恐いよね」
風見幽香が怒っている時の症状その二。笑顔になる。
強い者ほど笑顔になるらしい。もしくは自分が憤慨している事実を表に出さないように笑っているのかもしれない。やはり、怒りという感情は不安定さや見苦しさを覗かせるし、若干の子供っぽさも見受けられるものだ。笑う事で周囲への配慮と自己の保存を両立させているのかもしれない。
また、怒りのボルテージが上がるほど、幽香の微笑は聖母のそれに匹敵する輝かしさを放つ。
最後の症状その三は……。
「メディ、貴女は手伝ってくれるわよね? この子達も私も、もう後が無いの」
メディスンの話しを聞いていたのか聞いてないのか、内面の激しさとは裏腹に呑気そうな声色で話しを遮る。幽香はなおも満面の笑みで日傘を高速回転させ、ゆっくりとその足をメディスンの方向に運ばせる。
基本的に自分勝手な幽香の事だ、メディスンの忠告など右から左に、いや、もしかしたら届いてさえいないのかもしれない。きっともう種蒔きの事で頭がいっぱいなのだろう。妄想だって数十回は巡っているはずだ。
『サイクロン症候群』が抑えられるのであれば、今は良しとしよう。メディスンは諦め、掛けられた声の調子に合わせて自らもえくぼを作った。
「あーうん。いーよー、今までもしてきたし、ゆーかと一緒なら楽しーしー」
「良い子ね。嬉しいわ」
そう言って幽香はメディスンの頭を愛しむように撫でる。この時ばかりはメディスンもその暖かい手のひらについ甘えてしまい、意識のすべてを頭に集中させて余すところ無く温もりを得ようと一所懸命になってしまう。
幽香は、他人に興味が無い。一人で草花の世話をしている姿を見ると、メディスンはいつもそう想う。でもそれを寂しそうと想った事は一度も無い。その時の幽香はとても楽しそうだったからだ。だから花を愛でるように幽香の眼がこちらを捉えれば、メディスンは嬉しかった。
それに、自分を撫でてくれている幽香の笑顔は、とても綺麗だった。
「それじゃあ、まずは土を耕しましょう。種は柔らかいベッドがお好みなの」
「はーい」
様々想うところはあるものの、メディスンは今の生活に満足していた。どこからか持ってきたスコップや如雨露だって幽香とお揃いだし、草花の世話も楽しい。これ以上を望むとしたら怒りっぽい部分を直して欲しい事だったが、それも悪くないと想えるくらい、メディスンは幽香が好きだった。
生まれてこの方、悲しい事をあまり知らない自分は幸せなのだろうと想う。
「メディ、頭巾と長靴を持ってきてちょうだい。鍬は私が持ってくるわ」
「はいはーい」
「今日こそは種蒔きを終わらせるわよ。そしてここ一面を花の芽で一杯にしましょう」
相変わらずだらしない顔はしているが、腕まくりをする幽香はそれなりに頼もしげにメディスンの眼に映った。これから土色に埋もれるだろう細腕は、白く輝いて欲望の奔流を見せる。
また嬉しくなって、メディスンは急ぎ幽香に頼まれたものを取りに行く。
青空に浮かんだ一つの雲を見つけると、<ルドベキア雲>と名付けて、心踊らせた。
※
「釈然としない」
ふわふわと宙に浮く博麗霊夢は、膨れた仏頂面を悪びれる様子も無く眼下の村へと降らせていた。見える村人たちは、すでに日々の生活に戻って忙しなく動いている。ここからだと働き蟻のように小さくなり、従順を装うそれがやけに鼻につくのだ。
異変解決のプロとして、博麗の巫女として、両立するはずのこの二つが、今はお互いが背中を向けている心境の霊夢は、今さっき聞かされた話を想い出した。
畑の作物がみんな枯れてしまう、早くなんとかしてくれ。
手に手に冬の残り物の大根やもち米や干し柿を持ち、あからさまな作り笑顔を浮かべた村人達に、もっと報酬をふんだくってやれば良かったと少しだけ後悔した。
「普段はお賽銭もお参りもお布施もお賽銭もしに来ないくせにぃ」
閑散とする博麗神社で、お茶を啜る事と境内の掃除に耽らざるを得ない毎日の霊夢は、舌を出してより一層の僻み面を浮かべる。
異変解決のプロとして頼りにされているのはなによりだが、博麗の巫女としての方はどうでもいいと言われているようで、心中穏やかになれない『博麗の巫女』は異変を解決するかどうか本気で考えていた。
別に解決しなくても良いのではないか? あの働き蟻達に誰が女王なのか知らしめすにはもってこいの状況ではないか。そんな想いが首をもたげ、濁った瞳をしたのも束の間に、激しく両手を振ってその邪な想いを霧散させる。
こんな事、あのスキマ妖怪に知られたら非道い事になる。ただでさえ広い幻想郷のどこで見ているか分からないのに、幻想郷と相応の心の広さをアイツが持ち合わせているなんて望めるはずがない。それにもし出てくればニタリとする笑顔に憤りを増幅させるのが落ちだ。
実際のところ、ここで辞めたら損をするのは自分自身だ。作物が取れなければ生活が成り立たなくなり、飢え死にするのは目に見えている。
「背に腹は代えられないし、人の厚顔、仏も知らずか。うぎぎ」
項垂れて不満と不平を一度に吐き出す。見た目はただのため息だが、それ以上の内包した意味を持って宙に拡散させた。少しは気が紛れたのか、上げた顔に暗さは無かった。
「いつもそうなら頼まれなくたって自分から動きますっての。仕方がない、さっさと終わらせてお茶飲もう」
最後の愚痴を吐き、腰においた手を新たにして遠く幻想郷の地平を探すように旋回する。
そのような考え方こそが、今日の博麗の巫女たるイメージを養ってきたとは露知らず、霊夢はもうすでにお茶請けをなににするかで悩んでいた。
怠惰や呑気と言う温床は湿り気を帯びて霊夢の心を鷲掴みにし、霊夢自身もそこから抜け出そうとは想いもせずに、ただ日常と非日常をその基準に則って暮らしていくだけだった。必死さから言えば働き蟻と比喩した村人の方がよっぽど緊張感に満ちており、いざ苛まれた時の行動としては今回の件は理に適っている。必要最小限を必要な時に渡せるだけの備えがあれば、霊夢とてこんな事で腹を立てずに済んだのかもしれない。
「ほいっと」
紅白の陰陽玉を天高く放り投げ、これからの行き先を決める。
霊夢はこれを怠けているとは想っていない。直感というものは、ちょっとの努力と多くの偶然で成り立っていると理解しているのだ。
偶然が結果的に必然だったと後追い修正され、霊夢の内と外の歯車がたまたま噛み合っただけの事。そう曲解というかひねくれているというか、自らを過大評価せず、また過小評価もせずに枠に収まる殊勝さを持ち合わせているのが、博麗の巫女としての霊夢という少女だった。
だから、赴くままに、捉えるままに。忌憚なく、導かれるように解決に至ってきた今までが、自らへの自信にも繋がっていると霊夢は想う。
ただ、
「女王は言い過ぎだったかな?」
落ちてきた陰陽玉をその手に受け止める。小気味良い音を手の中で弾けさせた紅色は、『博麗の巫女』の行き先を示していた。
女王じゃなければ、私も働き蟻の一匹だな。
そう想い、霊夢は紅色が指す方向へと宙を駆けた。
※
土の柔らかさを確認する。手の中で握り込んで少々ダマになる程度で丁度良く、湿り気はまだ足りないくらいだがそれは後で水を撒けば問題無いと想われた。
「うふふ」
さっそく我慢出来ずに指先を畝の頂上に埋めた。頬に土を付けた顔がにへらと緩み、糸を引いたように細くなった目がその快感の度合を物語っている。
指の圧力から逃げるでもなく、余分に押し返してくるでもなく。土はしっとりとした優しさで指先を包んでくる。爪の間からその優しさが染み込んでくるようで、身体全部が感覚器官と成り果てるこの瞬間。まるで土と融け合って飲み込まれるような、精気を吸い取られた時の虚脱感を迎えるこの一瞬。これだ。これを待っていたのだ。
背筋を逆昇る快感に心を弛緩させ、震えた指先が宇宙を描く錯覚を覚え、この世界を自分自身で覆い尽くした歓喜にその身を溺れさせる。そんな想わず叫び出したい衝動を抑える背中に、非難の声が掛けられた。
「あー、ずるいよゆーかー。一人で勝手にはじめてー」
新雪の足跡を先取りされ、メディスンが急いで駆け寄って来る。手にはルドベキアの種が入った小袋を抱え、ちょうど鍬とそれを交換してきたところだった。小さな身体に見合った幼い声を幽香に投げ掛け、これまた子供らしい不貞腐れた渋い顔を向ける。
「だってメディがあんまり遅いんだもの、待ちくたびれたわ」
「もー、私だって手伝ったんだよ。誰よー、ルドベキアを一番奥にしまったのはー」
「あ、私だわ。メディの一番好きな花だと想ってつい」
あっけらかんに言われ、一瞬だけ意識が抜けてしまったメディスン。それをよそに、幽香が小首を傾げて合図をする。ごめんね、と伝わる言葉を確認すると、メディスンは唸るような声を出して駆ける足を加速させた。
そのまま無言で幽香の側まで走り寄る。狙って仕掛けた罠をさも悪気が無いように謝られて、怒り出すタイミングさえ奪われてしまえば、メディスンには腰を下ろしている幽香のすぐ隣にうずくまるしか出来なかった。
「……種、芽を出すといいね」
「うんっ」
精一杯の不満を混ぜて放った言葉は、メディスンよりも幼い笑顔で掻き消されてしまった。ついに怒りの感情をも失ってしまい、顔を赤らめたメディスンは必死にそれを隠す。
「ほら、そんなにへそを曲げないで。一番はそのルドベキアって想ってたんだから」
「ほんとっ?」
「本当よ、ルドベキアは力が強いから、きっと芽を出してくれる」
顔を上げたメディスンはきらきらと輝く瞳を幽香に向けた。もうすでに心の中ではルドベキアを咲かせているような面持ちだったが、見遣った幽香の心は蕾もままならなかった。
ルドベキアはキク科の花で強い生命力と繁殖力を持ち、多年草で冬を越せる。その強い生命力はしばしば他の花にも迷惑を掛ける事があるが、今はこの花を信じるしかない。
ここまで多くの種を犠牲にしてしまった。コスモス、サルビア、朝顔に向日葵。全てではないが種の半分以上を駄目にした負い目を、芽を出す事さえ出来ずに枯れていった種達を、幽香は忘れたわけではなかったのだろう。
夏や秋に輝く花弁を拡げたであろうあの子らは、今頃幽香の胸の中で咲いているはずだと、メディスンは想う。
「きっと芽を出すよね」
「当たり前じゃない」
メディスンの祈りの声に、被り気味な勢いで幽香は肯定した。小さく頷いた横顔を見遣り、その唇に熱を帯びたなにかを感じ取ったメディスンは、同じく頷き、空けられた穴を見直した。
ちょうど幽香の人差し指と同じ形に空いた穴は、今か今かと入ってくる種を待ち侘びているようだった。そこに隣で唇を噛む女性の残留思念を見つけ、また問い掛ける言葉を放つ。
「入れるよ?」
幽香は黙ったまま、穴を見つめていた。
その無言はメディスンの耳朶を打ち、形を伴わない意識の強さを焼き付かせ、心の内に在る想いを引き寄せる。横顔は時を止めたように動かず、バツが悪くなったメディスンは穴に向き直った。
お互いが穴に集中し、今や二人の身体は隣り合うどころか鼓動を感じられるまでにくっついていた。相手の強張りや動揺さえも手に取るように分かり、じっとりとした汗も感じて、メディスンはひとつ摘んだ種を、指先からそっと離す。
びくり、と、身体に感情が伝わった。
「ねぇ、ちょっと」
唐突に放たれる後ろからの声に、メディスンは想わず目を丸くして振り返った。震えた視線は声の主を探し、泳ぎながらも真後ろに佇むそいつを捉える。
立ち上がった自分よりも頭ひとつ分高い背丈。腰に宛てがった両腕は気怠げに肩まで緩く線を引いている。変な服、と一番に想いつく特徴的な袖とあらわになった肩。そして大きな赤いリボンを乗せた頭が、メディスンの後ろを窺おうと少し横へ傾いた。
「あんたたち、なにやってるの?」
「うわー、巫女だー! 巫女が出たー! ファーッ!」
博麗霊夢はメディスンの張りあげた声を物ともせず、冷めきった表情で近づいてくる。肩で切る風は無礼な態度を現し、無表情を被ったその顔にも微かな懐疑を隠しながらメディスンのすぐ前で立ち止まった。
メディスンの頭越しに覗き込んで、なにやら勘付いたようにその目を細める。
「まーた土遊びか。飽きないね、あんたたちもさ」
「うーるーさーいー。巫女めー、なにしに来たかー!」
「うっさいわねこの毒ぼんぼり。それに何よファーって。私は打ち仕損じの球か」
霊夢に言われ、真っ赤に膨らませた自分の顔に気付いたメディスンは、息を吐いてぼんぼりのように萎んだ。その様に全く人間味を見出せなかった霊夢は改めて呆れ返り、メディスンを見るふりをして、その隣に腰を下ろしている妖怪を窺う。
顔を覗けず、なにを考えているのかも分からない妖怪は、緑色の髪が眩しい花の権化。側で喚くぼんぼりよりも、遥かに注意せねばならない強力な妖怪だ。
しかし目に入るのは頑なな背中ばかりで、微動だもしないで土の山を一心不乱で見つめている姿に不気味なものを感じた霊夢は、代わりに未だむくれているぼんぼりに訊ねた。
「なにか食べられるものでも育ててるの? 美味しく実ったら私を呼んで欲しいな」
「巫女に食べさせるものなんてなーい! スイカは私とゆーかだけで食べるんだから」
「ほほう、夏にまた来るわ」
しまった、と、口を噤んだ頃にはもう遅く、ニタリとした粘っこい微笑みにメディスンは幽香とは違った寒気を覚える。とても歳相応な可憐さは無く、どちらかと言えば年季の入った小姑のような強かさを感じ、メディスンはこいつから与えられた屈辱を想い出した。以前こいつと弾幕ごっこをした時、完敗を喫したメディスンはこれと同じ笑顔を見た。それからなのだ、巫女を目の敵にするようになったのは。
生ぬるい瞳の笑顔を手土産に、霊夢は身体を翻して歩き出した。
「じゃあね」
ここじゃない。そう胸に落ち着かせた霊夢は、こんな妖怪どもがなにか企んでいる訳ない、と独りごちた。浅はか極まりない妖怪と不気味だがなにを考えているか分からない妖怪。この二人が居たところで、なにが出来るものでもない。せいぜい、かわいらしげな丸文字で、ひまわり成長日誌をつける程度が関の山だろう。それも三日坊主のだ。
「お待ちなさいな」
じわり、と、総毛立つ気配がした。
背後からの殺気は、歩みを止めるとますます濃度を上げて霊夢を包み込んだ。まるで気配に気に入られたように絡みつかれ、霊夢はその狭い眉間に皺を寄せる。素肌を撫で、染み渡り、精神にまで届こうと這いずってくる。気配は、貪欲なまでに霊夢の内を探っていた。
値踏みされているような、煽られているような。舌なめずりする妖艶ささえ帯びてきた気配に、霊夢はいい加減鬱陶しさをあらわにした。
勢い良く振り返り、イラついた瞳で睨み据える。ぽかんとしている毒ぼんぼりの側に、真っ白い笑顔が立っていた。
「ゆーか?」
メディスンはハッとして後ろを振り返り、穴に落とした種を見た。幽香が丹精込めて作った土と、メディスンが一番好きな花の種。
ルドベキアの種は、黒ずんでいた。また、枯れたのだ。
「なに? 風見幽香。私は異変のせいで忙しいの。弾幕ごっこなら後にしてよね」
「誰もそんな事言ってないじゃない。勇んだって強くはなれないわよ?」
「よく言うわ。そんなやる気まんまんの雰囲気で、あんた鏡見てみなさいよ」
「貴女こそ鏡を見なさいな。年端もいかない子供でも、お化粧くらい憶えるでしょうに」
「いい歳して土遊びして泥を顔に付けてるヤツにそんな事言われたくない」
「貴女の涙でお化粧のお勉強、しましょうか?」
「なにかしたいんでしょ? 誘ってるんでしょ? 弾幕ごっこがお好みなの?」
「ごっこじゃなくてもいいのよ?」
二人の間を目には見えない弾幕が飛び交い、焼け焦げた匂いを嗅いだ気がしたメディスンは、おっかなびっくりで後ろへとたじろぐ。今まで垂れ下がっていた緊張の糸が、はち切れんばかりにピンと張る。とても自分の手には負えない状況だが、なにが切っ掛けで戦いが始まるか分からない緊張感に、メディスンは逃げるに逃げ出せず、自分の存在をただ薄くさせるので精一杯だった。
幽香は、明らかに憤りの捌け口をあの巫女に求めている。種蒔きが出来ない。それも幾度となく試しているのにも関わらず、発芽さえしない現状に、幽香の怒りはついに頂点に達したかと想われた。その暴力的で獰猛な感情を、これまで隠してきた凶暴な爪を、遺憾無く発揮出来る相手が目の前に居るのである。ストレスの逃げ道は、暴力に限る。そう感じさせる幽香の顔に、微笑みが満ちていくのがメディスンには分かった。
またあの『サイクロン症候群』が現れているのだ。
「ゆーか、やめよう? 今度はここじゃなくて別の場所に蒔いてみようよ、ねー?」
怯えながらも勇気を振り絞って放った言葉は、しかし宙を漂うようにあてもなくさまよって、ほどなく霞んで消えてしまった。睨み合う妖怪と人間には、メディスンは居ても居なくても差し支えない程度なのだろう、火照った身体と苛立ちを持て余す二人には眼にも映らず耳にも入らない。
だが、メディスンは二人に戦って欲しくなかった。これ以上、幽香の怒りが増す事はどうしても避けたかった。幽香が怒る事で発露する『サイクロン症候群』の三つ目の症状を、ほんの少しだけでも抑えたかった。
「巫女もやめてよ、おまえなにしに来たの、異変の解決じゃないの」
未だ睨み合う――幽香は笑顔だが――二人の間に、決死の覚悟で躍り出る。幽香を背にし、霊夢と向かい合う形になったメディスンは、二つの殺気の板挟みでどうにかなりそうだった。それでもなんとか両手を前に突き出し、荒ぶる二人の緩衝材にならねばと必死の形相をしてその場に留まる。
振り乱した金髪が強烈な視線でじりじりと焼ける。外見もさる事ながら、幼さしか伺えないメディスンには能力的にも歯が立たないと想えた。
しかし、ふと、見据える巫女と目が合った。必死のメディスンを捉えた途端、目を丸くし、口元が緩み、見る見るうちに怒りの表情が溶け出していった。不可思議な想いを抱きながらも、メディスンは霊夢の笑顔は幽香が自分を撫でてくれている時の笑顔に似て、血の通った人間の顔をしていると感じられた。楽しい事からしか生まれない純粋な笑顔だ。
「あはははは、あんた鼻が垂れてるわよ?」
メディスンは、二秒前の感慨を撤回した。この巫女は悪い巫女だ。
「は、鼻がなによ、いいから早く帰れ巫女!」
自らもあまりに興奮してしまったのか、鼻が垂れている事に気付かなかったようだ。メディスンは啜り上げ、手の甲で拭い、どうにか格好をつけようと躍起になる。ここで舐められては巫女を追い払えないと想ったのだ。だが、
「もういいや、変にこじらせる前に止めときましょ」
「え? いいの?」
肩をすくめて息を吐く霊夢は、すっかり毒気を抜かれたのかそれともメディスンの毒にあてられたのか、苛烈な睨み合いから一歩身を引いたようだった。遠からず戦う気が失せた雰囲気に、メディスンはきょとんとしながらもひとまず安心し、霊夢自身もまた一息ついて身体の緊張を緩めた。
これで幽香も落ち着けば、と想い、背後の気配が消えてしまっているのに気付く。メディスンは勢い良く振り返る。
「むぎゅっ」
一瞬で視界を包まれ、鼻を摘まれ、想わず目をつむる。
「メディ、ほら、チーンなさい、チーン」
いつもの幽香らしい声色を聞いて、テッシュに顔を覆われながらもメディスンは良かったと想う。顔をほころばせてはいるが、隠れて幽香に見せられないのが多少残念だった。
大きく口から空気を吸い込み、おもいっきり鼻をかむ。耳にキーンと空気が張れば、鼻の通りが格段にさっぱりする。もごもごと周りを拭われ、やっと解放されるとそこには幽香の笑顔があった。膝を曲げ、メディスンと同じ高さになった幽香の笑顔が。
よかった、『サイクロン症候群』は現れていない。
「今回はおあずけね。お勉強会はまた今度で」
「ええ、そのぼんぼり娘にね。私はご遠慮願うからさ」
幽香とメディスンの姿を見遣り、霊夢は再度確信する。今回の異変について、この妖怪達はなにも知らない。やはりここに赴いたのも偶然。しかし、なにかしらの手掛かりはあるはずだ。
霊夢は二人の横をすり抜け、土の小山に空けられた穴の前にしゃがみ込み、ジッと見つめた。そこには黒く煤けたようになった花の種がひとつ、精気も無く芽を出す気配も無い。訝しげに眉間に皺を寄せると、霊夢は振り向いて言った。
「分かってると想うけど、これ、まだ生きてるわね」
「えっ!?」
巫女の意外な言葉に、メディスンは声を張りあげた。
「ええそうね、この子達はまだ生きている。この春に蒔いた子はみんなそうなってしまったけど、土に蒔いたままにしてあるわ。いつでも芽を出せるように」
「えっ!? 幽香も知ってたの?」
事も無げに言い返す幽香に再度驚く。てっきり種は枯れて死んでしまったものと想っていたメディスンに、さも当たり前のように傾けた表情を向けた幽香は、数回瞬きして反対側にも傾ける。その態度に三度目の驚きを覚えたメディスンは、もはや吐き出す言葉も無くただ口を開け放つばかりだった。
「春に蒔いた……じゃあ今咲いているあれは?」
「あの子達は去年の秋蒔きの分。秋に種を蒔いて冬を越し、春には花を咲かせる強い子達よ」
「ふーん、そうなんだ」
再び穴に目を戻す霊夢は、眉間の皺を一層刻み、さらに口元に手を添える。見遣る穴は薄暗く、小さいながらも底知れぬ不気味さを霊夢に感じさせた。その印象に既視感を覚え、先ほどの幽香の姿に重なるものを見出した霊夢は、背中越しに問い掛ける。
「幽香」
「なにかしら」
「あんた、これからなにが起こるか知ってる?」
「知らないわ」
一息も置かずに飛んできた返事を、霊夢は背中で受け止めた。その声色に疑える余地は無かったが、信じられる要素も無い事を噛み締め、村人達の話しを想い出す。
ここと同じく、種や移植の苗、子株を植えると枯れてしまう。まるで新しく植えられるものを拒むように土が精気を吸い取る。そして見た限りではやはり、生きてはいるが黒くくすんでしまうのだ。
「メディ、そんなに口を開けてると虫が入るわよ」
未だ原因は分からない。誰が犯人でなんの為に異変を起こしているのか。だが霊夢にとって、こんな五里霧中の状態はいつもの事だった。常態をもって非ずを制す。異変を解決出来る者こそが平穏無事の体勢であってはじめて事態に取り掛かれる。
つまりは、いつも通り、という事だ。
「ほら、メディ、別のところへ行くわ。準備して。口閉めて」
ここに赴いたのは偶然だとしても、この二人の妖怪に異変の手掛かりが隠されている。そう勘が告げている霊夢は、静かに立ち上がって当の妖怪達を見遣った。
ショックから醒めやらぬ毒ぼんぼりと、危険な爆弾である怒れる花の権化。ちょっとした手荒い雰囲気がこの異変を象徴しているように捉えられ、霊夢は自らの勘とやらに苦笑を漏らす。それは内にある歯車だとしても、楽に回せる訳ではないという戒めのようにも感じられた。ならば外の歯車を動かす為の労力はその比ではないとも想い、苦笑は苦味だけ残して霊夢の心に居座り続ける。
「要るのは鍬と、鎌と。鋤は大きいから置いていきましょう。メディ、口は閉めた?」
「う、うん。わ、わかった」
せかせかと支度に走ろうとするふたりは、やはり働き蟻なのかそうでないのか。なにかの為に行動し、それが意義を得るまでは働き蟻にさえもなれない、なにかでしかない。しかし、自らを型にはめてしまえば驚くような強さと推進力になるかもしれないという、盲目的で妄信的な原動力を、あの揺れる緑の髪の眩しさに覚えた霊夢は、それがあいつの不気味さにも、力強さにもなるのではないか、と、心の内で呟いた。
「ねえ、あんたたち」
手に手に農具や種の袋を持ち、忙しく動いていたふたりの妖怪は、霊夢のその一言でピタリと身体を固めた。毒ぼんぼりは嫌な予感を覚えて不安げな顔を、花の権化はやはりなにを考えているのか分からない無表情な顔を、こちらに向け、身を強ばらせて次の言葉を待っている。
「私もついて行っていい?」
そう放った言葉が届くと共に、見る見るうちにふたりの表情が変わっていく。浮かんだあからさまに嫌そうなふたつの顔が、霊夢の苦味を和らげた。
※
「……釈然としない」
幽香とメディスンの後方、やや遅れ気味に飛翔している霊夢は、噛み潰すように不満を呟いた。その背中には先ほどふたりの妖怪が準備していた耕作具一式を担ぎ、両脇には花の種が入った袋を抱えていた。
いくら飛べるからと言っても、結構な重さの荷物は霊夢の気力を蝕んでいく。前を飛ぶ妖怪達は涼しい顔なのに対して、額に汗が浮く霊夢は濡れる感触を気にしながらもう一度不満を吐く。
「なんで私が荷物持ちなのよ、なんであんたたちは手ぶらなのよ」
今度は聞こえただろうと二人の様子を窺うが、けんもほろろに振り向きもしない。それどころか耳に入らなかったかのように無反応を示すので、霊夢はいっそ荷物を振り落とそうかとも考え始めた。
ごめ~ん、私ってか弱い少女だからー、などと言い訳を想いつきながらシラけた顔で両腕の力を緩めていく。ついでにペロリと舌でも出せばかわいいかな、とも想っていると、ようやく幽香がこちらを向いてくれた。霊夢がしめしめとほくそ笑む間に、幽香は一度メディスンを見遣り、また霊夢に視線を向ける。
「貴女がついて来るって言い出したのだから、荷物持ちをさせるのが礼儀でしょ?」
「そんな作法聞いた事ないわよ。ねぇ、少しでいいから持ってよ」
「嫌よ」
そう言って幽香は視線を前に戻す。きっぱり切り捨てられた霊夢は、一層腕の力を緩めた。もはや落としても構わないとさえ想い、後の事はあのぼんぼり娘にでも任せようと密かに計画を立てた。
ゆるゆると飛ぶ速度を下げて、落としそうな演技でもしてやろう。
「ね~え~、もう落ちちゃう~」
これでどうだ、と内心で活気付くが、それでもメディスンは相手にせず、ひたすら寡黙に飛び続けていた。あのやかましいぼんぼり娘ならきっと噛み付くだろうと計画の勘定に入れていたのに、これでは霊夢の方が浅はかに想えて恥ずかしくなる。
代わりに幽香がまたこちらを振り返るが、すぐに黙り込んでいるメディスンを窺って視線を外した。そうだ、あのぼんぼりめ、急に静かになってしまって、私の計画がおじゃんじゃないか。霊夢が膨れた面をしていると、四度幽香と目が合った。
「もう少しでつくから。我慢なさい」
いよいよをもってバツの悪るそうな霊夢は、しぶしぶ諦めて腕に力を込めた。軽々と袋を抱え直し、飛ぶスピードを上げて元の高度へと戻る。
それを見遣った幽香は、嘆息を混じえて苦笑する。少女が見せる歳相応の反応は幽香の頬を緩ませ、けれどもその扱いに慣れてしまっている自分はもしかしたらもう年配者なのかもしれない、という想いに耽る。いや、私には面倒を見るべきさらに幼い少女が居るではないかと考え直し、隣を飛ぶ元気の無さそうな姿に心配する瞳を向けた。
幽香の眼に映るメディスンは、いつもいつでも元気で明るい少女である。いつだったかに出逢って以来、常に付き纏うようになって終いには毎日幽香のところまで遊びに来るようになった。それまでひとりで花と向き合っていた幽香にとって、最初は羽虫程度にしか想ってなかったメディスンが、これ程までに幽香の割合を占めるようになったのはいつ頃からだったか。もはや磨りガラスのようにぼやけてしまったが、不思議と直感めいた感慨が幽香の心にはあるのだ。故に、幽香はメディスンを気に掛ける。
「どうしたの、メディ。まだ怒っているの?」
虚ろげな横顔のメディスンからは、幽香への返事がすぐには出て来ないようだった。言葉を選ぶように瞳を泳がせ、逡巡している様は幽香が初めて見るメディスンの姿だった。メランコリーという名の通り、憂いを帯びた表情で考えを巡らせていると、きゅっと口を結んでやっとこちらを向いてくれた。
「そんなんじゃないよ。私は、ゆーかに怒ってほしくないの」
自らを映す揺れる大きな瞳に、幽香は戸惑いを覚える。白々しくも大した事ではないだろうと考えていた一秒前の自分を後悔し、見つめ返す事に少しばかりの覚悟を用意した幽香は、改めてメディスンの瞳を見る。
「ゆーか、怒ると辛いでしょう? 怒れない事も辛いけど、怒る事はもっと辛いでしょ? 怒るとだれかを傷付けるけど一番傷付くのはゆーかだもん」
「……メディは私がなにに対して怒っているか分かるの?」
「ううん、たぶん分かってない」
逃げるように瞳を逸らし、申し訳なさそうに指を遊ばせるメディスンに、幽香は目を見張った。メディスンから生まれる意外な表情が、この子の新たな側面を垣間見せるのだ。
幽香は自分の中の割合がまた変動する音を聞いた。
「でも、ゆーかが花をすごく大切にしているのは分かるから、それで怒るんだったら花だって辛いと想う。きっときれいに咲けないと想う」
手元を強く握り込みながらも、視線は未だ定まらない。危ない橋を渡るような不安感を覚えさせるメディスンの姿に、しかし幽香は表情をほころばせる。
「メディは優しいのね。私とは大違いだわ」
「ゆーかだってやさしいよ、私を撫でてくれる時のゆーかはきれいだもん」
「ふふふ。でも花はね、悲しんだり怒ったりしないの。花には感情は無いの」
メディスンがぱっとこちらを向く。その顔は驚きで満ちていた。
幽香は続ける。
「花は生きる事に純粋なの。純粋過ぎて感情を必要としない。楽しそうとか悲しそうとか、そういうのは私達が勝手に想ってる事なの。それを花に押し付けちゃいけないわ」
「ほんとうに、ほんとうにそうなの?」
「私はずっと花と一緒に過ごしてきた。だけど今まで花に笑い掛けはしても笑い掛けられた事は一度も無いわ、精神的な意味じゃなくてね。あの子達は本当に厳しいのよ」
残念そうな顔でメディスンは言い出しかけた言葉を詰まらせる。握った両手は力を失くしてほどけてしまい、唇は生まれるはずだった言霊の形で固まってしまう。メディスンの緩んだ瞼が光を遮ろうとした時、風になびく金髪に温かみを感じた。
後頭部をふわりと包んでそのまま髪の流れに沿うように幽香はメディスンの金髪を撫でた。伝わる熱はほんのりと広がり、その優しさはメディスンの瞼を動かすには充分だった。
「それでも私が花達を嫌いにならないのはね?」
メディスンの瞳に再び自分の姿が映り込む。真摯な反応に夢中になってしまっている我が身に多少の違和感を覚えながらも、幽香は流れる金髪を梳く左手を止めなかった。くせっ毛が混じる髪質は、土の感触によく似ている。
メディスンは瞳を逸らさずに強く頷いた。
「私の純粋な感情を受け止めてくれるからよ。嬉しい色、悲しい色、楽しい色、怒った色。様々な色の花弁を咲かせてくれる。まるで心を映す鏡のように」
「かがみ?」
「ええ。出自がどうとか、能力がどうとかじゃなくて、だから私は花を愛しているの。もしかしたら、その反応を花達自身の感情だと勘違いしているのかもしれないわね。本当は花を育てた者の心次第なのにね」
そうなのかもしれない、というストレートな賛成の声が内心に響き、メディスンは幽香の声色に聞き入っていた。赤みを帯びた白い微笑みから揺れる緑のウェーブまで、どこをどう切っても反論する気を感じさせないのは、幽香お得意の圧迫感ではなく、ひとえに他人をも巻き込んで醸し出すその雰囲気がそうさせるのではないかと想えた。
普段の笑みよりも人懐っこさと緩やかさを紛れさせた表情に、メディスンの鼓動が高鳴る。頬を冷やす風に負けない温もりを、金髪を梳く幽香の指先と自らの胸に感じ、幽香という花柄のサイクロンに巻き込まれた自分自身はほとほと幸せ者だと、メディスンは嬉しくなった。
「じゃあじゃあ、私が育てた花がきれいなのは私がかわいかったから?」
「も~、メディはそうやってすぐ調子にのる」
「あいたっ」
頭の芯に届くデコピンさえも嬉しさの種になるのであれば甘んじて受けよう、そう身を以て覚えたメディスンは、一点の曇りもなく笑った。
感情は伝播する。幽香の怒りが巫女に伝わったように、幽香の微笑みが自分に移ったように、感情は見えない思惟でどこまでも飛んで行く。それなら、私は笑っていよう、メディスンはそう想った。私が笑って幽香にも嬉しさを伝えよう、幽香がずっと本当に嬉しくて笑っていられるように私が笑っていよう。それが嬉しさの種になるように祈って。
ヒリリと染みるおでこが熱くなるのを感じながら、メディスンは幽香の隣ではにかんだ。
「ちょっとおふたりさん、無名の丘、通り過ぎちゃったんだけど」
「あら、すっかり忘れていたわ。貴女の存在を」
「ホントだ。巫女はかわいそうだなー」
「あんたマジで調子にのってるわね。封印するわよ」
霊夢の上っ面だけな煽りを、鼻先で軽々と避けて見せたメディスンに、幽香はただ目を細めるばかりだった。
※
その者にとって、サボるという行為はすでに生活反応の一部であり、朝起きて厠に行くとか食べた後に胃に溜まったガスを出すとかと同じく、生活の中で身体が自ずと動いてしまう、いわば生理的な発露であった。「仕事」という単語が頭に浮かんだ次の瞬間には「サボタージュ」という単語がそれを押し退け、電気的信号がその者の身体をその通りに動かす。終いにはサボって寝ている夢の中でもサボるという始末で、フロイトもびっくりの精神構造をしていた。
サボマイスタ、怠けの頂点などと誰もが口々にその者を蔑むが、しかしこれらは所詮他人の評価に過ぎないと、当人は至って気にしてはおらず、むしろ賞賛の声だと受け取っていた。何故ならば自らの行動理念は一貫してサボるという行為に準じており、どこまで行ってもそこから外れる事など無いという強靱な精神力を持ち合わせた超人だと己を認識していたのだ。どんなに簡単な仕事でも難しい仕事でも、分け隔て無く平等にサボる。これは並大抵の心臓の持ち主では出来得ない事だ。
例えば、過去の霊魂渡航歴を百年単位で纏め、さらにそれを分析して数字的にこれからの法廷予測と審判傾向をレポートで提出しろとかいう面倒極まりない仕事を、手書きの円グラフや「~だとおもいました」という語句を多用した小学校低学年の夏休みの自由研究並みに幼稚な内容で終わらせたり、お茶を入れろとかいう至極簡単な仕事を、白湯(水道水使用・ぬるい)で済ませてしまうといった徹底ぶりなのである。しかしながら、幸か不幸かそれが今までまかり通ってしまった事実が存在し、その者の増長を促した側面もあるにはあるが、本当に不幸なのはその者の耳が周囲の嘆息を感嘆だと勘違いしてしまった事が理由なのだろう。
さらに言えば、その者は相当な自己愛主義者でこんなサボっている自分が大好きであり、愛してさえいた。出来る事なら上司である閻魔の耳元で「あたいはサボりが大好きだ」などと叫び、その胸の内を閻魔の鼓膜と自尊心を破る事で顕現成し得ればどんなに幸せだろうか、と、日々を欲望の赴くままに過ごしていた。
故に、いま小野塚小町は働いていた。三途の河の水をせっせこと運ぶ仕事に従事していたのである。
先日、いつものように昼寝をしていた所を風見幽香に発見され、そこから寝息が悲鳴に変わるまで三秒と掛からなかったという尊い経験を得た小町は、今や幽香に隷属する身と成り果てていた。それは我が身愛するが故の行為であり、自己愛溢れる小町の最大限の善処だった。
そんな中でもやはりというか当然というか、小町の精神的支柱であるサボタージュが頭をもたげてしまうのは、もはや小町自身にも止めようがない事だったのかもしれない。
「ちわーっす、三途の河の渡し屋、略して三河屋で~っす」
人の気配を感じられない花畑に、のらりとした暢気な声が弾けた。それに応えるのは個々に咲き乱れる花達だけで、少しばかりの風の揺らぎが挨拶に相当していた。しかし小町に花達の声を聞き取れる術がある訳も無く、自らの声だけが響いた花畑に安息を漏らした。
「なんだ、幽香さん居ないじゃないか。急いじゃって損したよ」
当たり前のように寝坊し、本来ならば待ち合わせるはずだった時間に起床した小町は、それでも必死の想いで急いで来たのだった。すべては幽香の怒りから少しでも逃れる為ではあるが、その心配が無くなった今となっては反省や後悔等の折角の経験も頭の片隅で霧散しつつあった。
幽香に頼まれたのは、花達に与える水だった。水を持って来いというシンプルな命令に、小町の頭にすぐよぎったのが三途の河だったのは、別に渡し守という仕事に就いていたからではなかった。花に与えるのであれば、三途の河の水は最適だと想ったからだ。
「今日の水も活きが良いのが採れたってのに。きっと花も元気になるよ、そしてあたいも誉められる、うん」
三途の河の畔に咲く花、朱々と咲き誇る彼岸花は小町が知る限りこの世で一番美しいと想えた。幻想郷にも彼岸花は咲いているが、三途の河のそれとは違ってどこか物足りなさを感じる。どうしてなのかと持て余した暇な――サボる事で生じた――時間を使い調べてみると、どうやら三途の河の水が関係しているらしかった。
三途の河に咲く彼岸花はなんというか、濃いのだ。命や力や色彩といった花の存在を支える要素が尋常じゃない濃度で、あの彼岸花達はそれをむせ返るほどに立ち昇らせていた。生命力そのものが輝きを放つような鮮やかさは、三途の河の水がその理由のようで事実、幻想郷に咲いている草花に与えてみたら同じように自らの存在を漲らせるようになった。どういう原理かは知らないが、幽香が満足してくれるなら我が身の安全も含めて上々であったのだ。
「よっこいしょ」
リアカー一杯の桶にさらになみなみと入っている三途の河の水。小町がリアカーを落ち着かせると水は波紋を広げて湿った音を立てた。円形の波が水面全体に広がると水はぬらっとした煌めきを見せ、やはりこの世のものとは違う輝きを放つ。心なしか周囲の花達も色めき立ったように想えた。風がなびくたびに花弁が揺れ、花達が顔を振る。そしてまるで小町を歓迎しているように騒がしさが周囲に広がった。
さすがに小町もその反応に気付き、些か不安を覚えた。ざわめきがざわめきを呼び、大きな気配に成長していく様はとても想い違いとは感じられず、確固たる悪寒で以て小町に伝えられた。
「うわぁ、なんだこれ……」
見渡す限りの花達が一斉に小波を打つ。自らの肘を抱き、背筋に潜む冷たさに耐える小町は、今や幾万と想える視線に晒されていた。すぐ足元の花が見上げ、遠く丘の上に咲く花が眺め、岩の陰から花が覗く。粟立つ肌を撫でながら、自らが苛まれる現状に小町はひとりで居る事に僅かながらも心細さを覚えた。
だが、所詮は花だ。それだけは間違い無い事だし、視線や気配に寒気を覚えてもそれ以上の実害は無いはずだ。三途の河の水と言ったってこれだけじゃせいぜい花の命が濃くなる程度だろう。もっと要素が集まれば話しは別だが。
小町は周囲に一瞥をやり、もうそれ以上考える事を止めようとした。こんな時は小町のような性格は気楽であった。数秒前の心配も霧散し、腕を放り投げて回れ右をした。
「帰ろ。そして寝よう」
「こにゃにゃちわあー! おねいさん今日も肥料持ってキタヨー!!」
「きゃーん!」
突然の来訪者の叫びに、負けじと悲鳴を高らかに響かせる。小町は死神ながら魂が飛び出るほど驚愕した。
振り向いた先に居たのは赤毛のお下げ髪が弾ける妖怪だった。両腕を高々と挙げ、黒目がちな瞳が小町を捉えると、その妖怪はひと飛びで近づいて来る。
「あんたは誰だ! 花のおねいさんはどこに!?」
「あ、あんたこそなにモンだい、名乗りな!」
「おお、それもそうだ。あたいはお燐。火車の妖怪さ」
すっかり萎縮してしまった小町は、自らを火車と名乗る妖怪に目を白黒させた。緑の混じるワンピースにどら猫がそのまま袖を通したような活発さを見せる少女は、その通り猫耳と二つに分かれた尻尾を振り回して鋭い気配を放つ。しかし間近で見遣れば少し浅黒い肌に既視感と懐かしい匂いを感じ、小町は自ずと姿勢を直してコホンと息を付いた。
「あんた、地底のモンだね。この焦げたような匂いは灼熱地獄か」
「もはや跡地だよ。でもまあ、変な地獄烏が闊歩してるからすこぶる熱いけど」
肩をすくめるお燐に気を許せる部分を感じ、小町は比較的小さくはない胸を撫で下ろす。どうやら全く知らない仲ではないこの少女は地獄跡地の出身らしい。遥か昔に隔離された地獄の成れの果て。今や地底の住人の居住区になり、獄炎もさる妖怪の管理下にあると聞いている。そう言えば、地底と地上では交流は断絶されているのではなかったっけ?
実際目の前に居る妖怪は間違いなく地底の者だし、自分には些細な事というか正直関係無い事と決め付けた小町は、お燐をどうやってやり過ごそうか考え始めた。自分がここに居た事を知る者は出来るだけ少ない方が都合が良いのだが。
その想いを知ってか知らずか、お燐は忙しなく周囲に視線を巡らす。
「それで花のおねいさんはどちら? 肥料を持って来たんだけど」
「あ、ああ、幽香さんの事かい。出掛けてるようでね、あたいも用が……肥料?」
「うん、そう。灼熱地獄の燃えカスがね、調子良さそうなんだよ」
「燃えカス?」
そうさ、とお燐は身を翻す。お燐は幽香に花の肥料を頼まれていた。灼熱地獄で燃やしたその残りカスが、なかなか土を肥やすのに適しているらしい。小町がお燐の影になっていた手押し車を見遣ると、そこにはこんもりと盛られた白っぽい粉があった。風を受ければすぐに飛んでしまうのか、小さい幌で覆ってはあるが、やはりそこからも地獄の匂いがする。
小町は割と鈍感な方ではあるが、こと仕事に関係するものには敏感であった。別に仕事熱心なのではない。それとは逆に、仕事から逃げる為に敏感になるのだ。
「大丈夫だよ。放射能汚染はないから。きっと」
訝る瞳に気づいたのか、お燐がえへんと胸を張った。しかし聞き慣れぬ用語を持ち出され、小町はなおさら目を細めた。不安を覚え、確認しようと手を近づける。だが触れる前に、小町の不安は確信に変わった。
「これ、なにを燃やした?」
「え? ああ、に」
「もういい。皆まで言うな」
当たりも当たり、大当たりの感覚に実際自分はこの仕事に向いているのではないかと想えて、小町はひとり笑みを噛み潰す。この不安予測が現実感を帯びて奥行きを持つ感覚。何度味わっても慣れぬ寒気と心が粟立つ震えに、小町はもはや楽観視する気持ちにはなれなかった。夢であって欲しいと願いはするも、事実、目の前にそれが広がっているからだ。
「まずいまずいマズイ。これはまずいぞ」
見る見るうちに青ざめ身体を萎縮させていく小町に、お燐は首を傾げる。一体なにに怯えているのか、分かりかねるお燐はふと自分が持って来た肥料を見遣った。このノッポな女性はこいつを見た途端に態度が変わった。お燐からしてみれば別になんの変哲もないただの肥料。他と違いがあるとすれば、些か有機的過ぎる事と友人のお空が関わっている事ぐらい。
はて、とお燐は小町の異常さに既視感を覚える。この怯えよう、誰かを恐れているのか? そう言えば、お空のヤツも失敗してさとり様に叱られる時はこんな感じだった。そう、大きな失敗を犯してしまうと、怒られるのを恐れ決まって子供のように身を縮こまらす。
そこまで行き当たってお燐は小町に視線を戻した。依然として青ざめては身をくねらす大柄な女性の姿に、友人の幻影が重なる。
「え? なに? なにか間違った事しちゃった? お、怒られるの?」
不安が伝播したお燐にも寒気が襲った。お燐にしても、主人に叱られる事は身を震わすほどに畏怖する事だった。
しかし、身体の芯から凍えるこの感覚は不安だけとは到底想えず、なにか別の存在がお燐の神経を逆撫でしているように想えた。いや、これは先ほどからすでに感じていた。さっき大声を張りあげた瞬間に、何者かの注目を一身に浴びるゾッとする感覚。そうだ、あれは。
「いや、お、お前さんのせい、じゃない。かといってあたいのせい、でもない、と想う」
途切れ途切れに釈明の言葉を吐く小町は、その背丈が半分にも満たないくらいまで縮まってしまった。もはや目に入るのは肥えに肥えた赤土と、火車の妖怪のおみ足だけ。その視界だって恐怖で揺らいでしまい、二本の足もガクガクと震えていた。しかもその足だけやたらと膝が笑っているので、小町は恐怖でついに眼もおかしくなってしまったのかと想えた。
「こ、これは悲しい事故さね。そう、事故なら仕方ない、致し方ない」
凍える寒さに耐えるような声を出し、小町は逃げる算段を整え始めた。このままここに居てはやがて巫女がやって来る。そうすれば上司の耳にも入り自分はこってり絞られる。こうなれば見つかるにしてもなるべく事が落ち着くまで先伸ばしし、見つかっても知らんぷりをしよう、そうしよう。
考えを巡らす小町は、突然両肩を鷲掴みにされ顔を引き攣らせた。恐る恐る自分の肩を掴み上げる白い腕沿いに見遣って行けば、そこには火車の顔があった。それは非道くやつれた細面で、あの活発そうな表情は見る影もなく、特徴的な黒目がちの瞳も猫の目よろしく縦に長く震えていた。視線がカチ合ったはずなのに、小町の顔に焦点が定まっていない。
「みみっみっみっ見てみみっみみて」
「…………きゃん」
お燐は話す言葉すら危うく、小町は呟くほどの小さな小さな悲鳴を吐く。ふたりの瞳に映ったのは幾万の花。見える限り、足元から丘の上まで連々と続く花畑。ふたりが視線をどんなに巡らせても、その先にある花もこちらを見ている。あそこの花も、こっちの花も、向こうの花も、この花も。みんな笑ってこちらを見ている。
「あわわわわわわわわわ」
ざわめく大波が四方八方から押し寄せ、注目の只中に据えられたふたりに覆い被さる。あれは風による揺らぎでも、ましてや気のせいでもない。確実に意思を持った視線が蜘蛛の糸のように絡みついてこの身体から離れない。額から頬に流れる冷や汗も、鳴り止まない奥歯の震えも、お互いの身体を掴み合う腕の強張りも、笑いが止まらない膝小僧も。すべて視られ、晒されている。
視線で頬を舐められたような幻覚と、嘲笑うかのような小声を幻聴し、小町とお燐は突き付けられた現実にその身を溺れさせた。もがいても手探っても這い上れない濁流へと、目の前に咲き誇る花達は憐れむようにふたりを招き寄せる。
「四季様に」
「さとり様に」
抱き合うふたりには、もはや涙声で叫ぶ事だけしか残されていないように想えた。
「怒られるー!!」
なおも花達はふたりを見つめ、愉快そうにさざめく。
お燐は幾万の視線に当てられた上に、どうやら誰かに怒られる事で頭の中が一杯のようだった。瞼を固く結び自分の殻に閉じ籠もる姿に、猫特有の気まぐれと自分勝手さが垣間見られた。そこに頼みに出来るような要因は一切感じられず、小町はぐっと息を飲む。
逃げ場など無い、腹を括るなら今しかない。小町は意を決して立ち上がり、強く抱き締めてくるお燐を引き剥がした。少なからず心の支えとなっていた体温が離れ、ふたりの間にまた嘲笑の風が流れ込むと、小町は急激に冷めていく両腕に心許なさを覚える。だが、もうさすがに引き返せないと踏んで、どこからともなく大鎌を取り出した。
「お、おねいさん、い、一体なにを?」
「こうなりゃヤケだ。少しでも怒られないようにする!」
小町の長身と相まって高く振り上げられた大鎌は、ぬらりと濡れた輝きを見せた。その大鎌の使い道を、お燐はひとつしか知らない。うっすらと笑みを浮かべている小町に、もはやまともな思考も忠告も必要無いようにお燐には想えた。ただ、この現実を切り払うにはそれしかないと心の内で懺悔を反芻し、大鎌は望み通り、嘲笑を斬り裂いた。
ざわめきは霧散し、笑みを隠していないのは周囲でふたりだけだった。
※
肩越しに見えた顔は憂いを帯び、ほんのり紅いチークもその仕事を為せてはいないようだった。嘆息が漏れる口元のリップは潤っているものの、歯痒い現状と焦燥感を感じさせる空気に、それも乾いてしまうのではないかとメディスンには想えた。
目の前でしゃがみ込んでいる幽香は、先ほどとは打って変わって寂しげな表情だった。目に見えて活気が萎えている姿はまるで背徳感に苛まれているようで、メディスンは掛ける言葉を見つけられずにいた。
「やっぱり駄目だったの?」
雰囲気を読んで零れ落ちた問いを放つ。だがふたつの背中に無言で返答された霊夢は、土と自らの汗に汚れた両手を見遣った。少しだけ掌に出来たマメを気にし、しかしそれに見合った成果を得られなかったこの疲労感と徒労感の逃げ場を見つけ出せず、霊夢は辺りに咲き乱れる鈴蘭を見渡した。
その名の通り、鈴の音を鳴らすように花弁を揺らす姿に、この汗の気持ち悪さが少しばかり引いていく気がした。重労働と言える耕耘作業は力仕事に慣れない身体を激しく虐めたが、その間も鈴蘭達はやはり涼しそうな音色を奏でて、幾らかは清涼剤の代わりになっていたと想えた。そんな畑仕事に付き合った自分を褒めてやりたい霊夢だったが、最後までやり通す精神力を保てたのは意外にもあの花の妖怪のお陰であった。額に緑のウェーブを張り付かせ、陽気過ぎる春の日差しに照りつけられながらも、あいつは始終楽しそうにしていた。見慣れぬその様子に呆れてはいたが、霊夢は自らの両腕に力が入るのを自覚していたのだ。
それなのに。想いは叶わず、種はまたも黒ずんでしまった。
「ここも同じ。幻想郷ぜんぶがこの状態なのかしら」
寂しげな背中を目尻に残しつつ、なおも揺れ靡く鈴蘭を注視する。相変わらずここの鈴蘭達も普段どおり咲いている。幽香達が居た花畑と同じく、すでに土に根を下ろしている植物は被害にはあわないのだ。
ぼんぼり娘と出逢い、危うく毒に犯されそうになったこの場所は、当時と同じ妙に冷えた風が流れる不思議な丘だった。『無名の丘』と名付けるに値する雰囲気は、その成り立ちに相応しいと想えた。なにしろ土を耕せば白いものがそこら中に見え隠れするのだから、霊夢は神妙になるのにも飽き飽きするほどであった。
そのせいか、ここの鈴蘭達からは妖気を感じる。浮かばれぬ屍が重なり合い、混ざり合った思惟が反応を起こせばそれもあり得ると想われた。不穏な思惟を養分に成長した鈴蘭は健康的なまでに妖気を放ち、あのぼんぼり娘すら生み出したのだ。植物は時に感情めいた力を発揮し、予想だにしない事をしでかす。
ふと、そこで霊夢の思考が立ち止まる。
今回の件、被害が植物に限定している事で自然とそれ以外の存在が犯人だと仮想していたが、もしそうでなければ、もしなにかしらの関係があるとすれば。『博麗の巫女』の顔を覗かせ、霊夢は独りごちる。
霊夢は歯車が動き出す音を幻聴していた。
「幻想郷ぜんぶ? いや、違う。少なくとも被害が出ていない場所があるんだから、それが答えじゃないにしても間違いではないはず」
自らの内に在る歯車が回り出せば、あとはそれに噛み合う外輪を見つけるだけだ。少しくらい歯こぼれやボロでも構いやしない。そんなものは博麗の能力がどうにかしてくれる。目に見えぬものが手招きしてくれる。
「そうだ。種や子株から消えた精気はどこへ行くのよ。土に還るわけでも雨に流れるのでもなければどこに溜まるの?」
偶然が霊夢の味方ならば、必然は敵であった。決められた事に力など無く、いつでも問題を起こすのも答えへと導いてくれるのも自らの範疇よりも外の存在だ。必然は決めつける事だけだが、偶然は可能性を呼んでくれる。驕り高ぶる世界の先を、幾つもの枝々に分かれさせたのは必然などではない。
しかし例え道を見つけても歩くのは自らの力でだ。回されるのが歯車の運命だとしても、回されてやるのは博麗霊夢の自由意思だからだ。
「…………そこに犯人が居るのか」
見据えられた一輪の鈴蘭が、びくりと震えた気がした。淡い炎を灯した霊夢の瞳は、冷えた風に晒されながら揺らぎもせずに熱を帯びる。身の内の歯車が加速し、もうすぐ一度目の変速を迎える事を自覚している霊夢は、自らをその熱と躍動に巻き込ませる覚悟をつけた。
引いた汗に喉の渇きを覚え、それを高鳴る心臓のせいにし、浮かれ気味の身体を繋ぎ止める為に拳に力を込めた。小さなマメなど気にしてはいられなかった。
「分かったわよ。まだ色々と分からないけど、この異変の尻尾を掴んだわ」
「さっきからなにを言ってるのか巫女はー。スーさんの毒に当てられたのかしら? 解毒してあげようか?」
鈴蘭から視線をスライドさせると、残念そうなメディスンの顔があった。霊夢をかわいそうな子のように見つめる瞳には、けれど少なからず嘲る色が覗き、その口元が歪んでいるのも見間違いではなさそうだった。この毒ぼんぼりめ。
「異変の中身が分かったって言ってるのよ。感謝しなさい、これで畑仕事から解放だわ」
「え、犯人分かったの? どこに居るの?」
「知らない。それはこれから探すわよ」
メディスンの鼻が鳴った。口元を押さえ、霊夢に背を向けると催したように身体を震えさせた。小さな肩がこくこくと上下し、指の間から漏れた息がふざけた音をたてる。あからさまな態度に身の内の熱も急激に冷めていくのが分かった。
背中を丸めて息も切れ切れに喘ぐメディスンの姿に、霊夢は目を細め、スカートのポッケに手を入れると一枚の紙を取り出した。『大入り』とオモテ面一杯に書かれ、裏には朱色の奇妙な紋様と真ん中に『滅』の文字がひとつ。霊夢がそれを放り投げると一瞬浮遊し、まるで糸が付いているかのようにメディスンへと飛んで行く。その後頭部に張り付けば、悲鳴をあげるのに一秒と掛からない霊夢謹製のお札だ。
「いやー! イタイイタイイタイー!」
「ほーらバチが当たった。博麗の巫女を馬鹿にするから」
「とれないー、とってー! イタイー!」
目から火花を散らせるほどの痛みが全身に駆け巡る。断続的に電流が流れるような鋭さでメディスンの身体をお札の力が苛む。破魔の力が染み付いているお札は、対妖怪用の巫女の攻撃手段だった。スペルカードルールがあるので直截の攻撃力はさほどでもないが、敵を一時的に釘付けにし、その後降参させるなり弾を当てるなり使い勝手の良い飛び道具だ。以前の決闘でもこれにしてやられたのを想い出し、メディスンは苦いものが広がる感覚を覚える。無視出来ぬ悔しさを噛み締め、地面に這いつくばっていると、すっと身体が痛みから解放された。
ふと見上げるメディスンの顔に手の形をした影が差した。影はメディスンの視界に留まると、手の中のお札をいとも簡単に破り捨ててしまった。能力的に上位の妖怪には効きにくいお札を、容易く破るその力にメディスンは素直に尊敬の眼差しを送る。だが、容赦のない凄まじさも垣間見え、胸の内に波紋が広がった。案の定、手の主は笑顔を湛えていた。
「メディになにをするの?」
しまった、と想ったのも束の間、メディスンはその身体を転げさせた。二転三転し、渦を巻く視界に世界が天変地異を起こしたのかとも錯覚する。何度か土の味を知り、ようやく落ち着いてみれば、仰向けに見上げた青い景色の端でサイクロンが唸りを上げていた。
頭だけを持ち上げると顔のすぐ傍を小石がすっ飛んで行った。風を切る音が間近で弾け、喉元に冷えるものだけを残して一瞬で心を掻き乱していく。だが、メディスンの目の前にはさらに恐ろしい光景が渦巻いていて、それから目を離せずにいた。
「サイクロン症候群だ」
やっと絞り出した声を吹き飛ばし、乱気流が土埃と共に踊る。日傘が空気を引き裂き、気圧が一気に引き下げられる。花柄が残像を描けば、ピンと張り詰めた糸が周囲に満ちていく。その一本に触れれば爆発しかねない小さな低気圧の中心で、白い笑顔が佇んでいた。
快楽を求め、その都度奪われてきた花柄のサイクロンが、美しいまでに怒りを露わにしている。
「なによ? お友達いじめられて怒った? あんたらしくもない」
右手で髪の毛を押さえ、巫女が悠然と言い放った。それでも風圧で表情を歪ませるところを見ると、少なからず威圧的な雰囲気を感じ取り、警戒しているようだった。両足に力を入れ、強風を受けながらも背筋を曲げない様子に、やはりメディスンは巫女の強かさを見つける。サイクロンに負けじとその瞳を見開き、片時も動きを逃すまいと目を皿にしていた。
しかし、肝心の幽香はというと、感情を発露させてはいるもののそれ以上のアクションを起こさず、相変わらず笑顔のままで日傘を回転させていた。一旦火が付けば捌け口を求めるように行動する幽香だが、冷静さすら感じさせるその様子は逆に恐怖心を掻き立て、なにもかもを無下に帰す雰囲気は心の奥底に鈍い光を落とす。
「なにか言いなさいよ」
その光に当てられたのか、霊夢が堪らず声を出した。言葉を放つと言うよりも吠えると言った方がしっくりくる声色に、自分でも情け無いと想うが、これだけの妖気とプレッシャーを浴びてはと、霊夢は心の折り合いをつける。自身の中で幽香という存在がどのように扱われているか分かっていたつもりだったが、こうまで動揺する心に屈辱を覚え、霊夢は改めて気を引き締めようと目の前の妖怪を睨み据える。身の内の歯車がブレているようでは、外輪が言うことを聞く訳がないのだから。
「さっきもそうだったけど、誘うだけ誘っといて動かないなんて、らしくないんじゃない? 案山子じゃあるまいし、突っ立ってるだけじゃ……」
にわかに語尾を濁した霊夢の顔色が、見る見るうちに青ざめていく。表情だけじゃなく、指先まで凍りついたように動かせないでいる霊夢を見遣り、メディスンは困惑する。恐ろしくても恐ろしいとは言わず、背筋を伸ばして見つめるのがこの巫女の強かさだ。そう把握していたのに、今の巫女は蛇に睨まれた蛙同然ではないか。その心の内を隠そうともせず、霊夢は出しかけた言葉を飲み込み、乾いた喉を鳴らした。
「なによ、これ」
やっと聞き取れるくらいのかすれた声を皮切りに、霊夢はなにかを探すように身体を巡らした。ただ事ではないそのうろたえようは、メディスンにとって初めて見る霊夢の姿だった。一番の脅威であるはずの幽香を見向きもせず、忙しなく辺りを窺う霊夢に、メディスンも緊張の色を隠せない。ヒヤリとした空気が背中を這い、居ても立ってもいられず身体を起こしたメディスンは、ふと乱気流が収まっているのに気付く。幽香が日傘の回転を止めていたのだ。
あれ、と、メディスンは心を粟立たせる。幽香が笑っていない。あんなに怒りを露にしていたのに、幽香が笑っていない。その表情は何事も浮かんではおらず、それこそ霊夢が言った通り、のっぺりとした案山子のようだった。
「なんなの、この大きな気配。西行妖? 違うわね、あれよりもっと近い」
「大きいわ」
芯の通らない、抜け殻のような声で、幽香が呟く。霊夢に向けて言ったのか独り言なのかはっきりしない声色に、気持ちを引き戻されるように霊夢は振り向いた。幽香もこの気配に気付いたのか、呆けた顔をしながらも敵意を収めてくれている。やり場の無い疑問をぶつけるには少しばかり頼りなさそうな雰囲気だったが、霊夢はなにか知っているならと口を開く。
「あんたなにか知ってるの? 教えて」
「大きくて、大きいけど、まだ足りないみたい」
「おい」
足りない? なにが足りない?
幽香と視線がカチ合ったのも束の間、先にそっぽを向いた幽香がその瞳を輝かせて青い空を見上げた。つられて見遣る霊夢は、その方向に心当たりがあった。陰陽玉の紅色が指し示した場所。ふたりの妖怪と出くわした、あの花畑の方向だった。
ぽとり、と、手で包んでいたパンジーを地面に落として、小町は自分がしてしまった事を後悔した。見遣った両手は震え、土が食い込んだ爪と指が自らの失敗を物語るように赤々としている。指の間から、これが杞憂ではない証拠が見えた。その可憐な姿を根っこごと晒していたパンジーが、一瞬の内に黒ずんで精気を吸われていった。
「いやぁ、三河屋のおねいさんが鎌を振り上げた時にはびっくりしちゃったけど。そうだよねえ、花を刈るなんて事、それこそなにされるか分かったもんじゃないよねえ」
幽香の事を言っているのだろうと分かる言葉を吐きながら、お燐が小町の横を通り過ぎて行く。それを聞いても乾いた笑い声しか出て来ない小町は、いっそあの時に花を刈っていた方が良かったと想えた。幽香には恨まれるだろうが、彼岸まで逃げてしまえば追って来れる訳がないのだから。
「でもこれいいの? 植え替えた花が片っ端から枯れていくんだけど」
小町の提案は、あの畑にあった花を幻想郷中にばら撒くように植え替えるというものだった。それにより花の妖気を拡散させ無力化させるのが狙いだ。
だが、違う。裏目に出た、と言うより自分の迂闊さで招いた現状に、舌打ちすらはばかる面持ちの小町は、もはやどんな事をしても無駄だと断じていた。そうだ、そうなのだ。花達の妖気と気配ばかりに気を取られて、肝心な事を素通りしていた。
妖気の燃料、気配の媒体。意思を持つまでに至る為のエネルギーというものの存在を、小町は思案の外に置き忘れていた。それがこの、他の植物の精気。土を介して種や植物の精気を吸い取り、それを元手に自らの妖気を高める。あの花達はそれをやってのけたのだ。小町が運んだ命を濃くする『三途の河の水』、お燐が持って来た死体を燃やした灰の『肥料』、それに過分な『精気』が混ざれば後は言わずもがな。鬼が出るか蛇が出るか、小町はそれを指を咥えて見ているしかない。
花畑の土の下、あそこに蠢くものを想像する気持ちにはなれない小町は、せっせこやと一所懸命植え替えを手伝うお燐に申し訳ない想いを抱えながら、自分亡き後に秘蔵の『四季様盗撮コレクション』を映姫自身が見つけた光景を軽々と想像し、少し身震いした。
「あーあー、どんどん枯れていっちゃうよ。かわいそうに」
もはやお燐に仕事を止めさせる言葉すら出て来ない。かわいそうなのはこれから非道く叱られるお前さんだよ、と想いはするが、正直、現状を把握していないお燐が幸福そうで仕方なかった。
地鳴りがする。地を揺らし、小石を転がし、腹の底を震わす重低音が足元から突き上げてくる。そう感じた霊夢は、もう異変の犯人もこの大きな気配の位置も探る気は毛頭無かった。目の前に居る妖怪が見つめる方向、爛々と輝かせる大きな瞳、垂れ流しにしている霊夢への敵意が全てを述べており、そんなものは頭の隅から弾かれる寸前であった。
再び加速を終えた身の内の歯車が、今や遅しとその歯をギラつかせていると自覚して、まずは段階を踏もうと言葉を放つ。
「案山子なんて、我ながらよく言ったものだわ。あんたは案山子だ。あの花畑に私みたいなヤツを近づけさせない為の、鳥よけってわけだ」
悔しさが滲み出ている表情で、呻くように語尾を震えさせた。その通り、案山子にまんまと花畑から引き出され、あまつさえこの異変の手伝いまでしてしまった霊夢にとって、未だ乙女の顔を見せている幽香が堪らなく恨めしかった。唇を噛み締め、掌に出来たマメを握り潰しそうほどに拳を固くする。
「ゆーか、そーなの? ゆーか」
ひとり蚊帳の外だったメディスンが、揺れる瞳を幽香に向けていた。立っているのがやっとの様子に、幽香からなにも聞かされていないのだろうと窺えた。地鳴りのせいか、それとも溢れる動揺を抑えようとしているのか、細い足を踏ん張りながら身体を強張らせていた。しかし、か細い四肢をして人形たるように出来上がっている姿は、とてもその事実を受け止めきれるとは霊夢には想えなかった。せいぜいがその容姿同様の幼さで駄々をこね、自らの言い分を一方的に押し付けるだけだろうと。
なれど、ぼんぼり娘は違った。地鳴りによろめきながらも、自らの範疇を超える事実があろうとも、湿気めいた瞳は真っ直ぐに幽香を見つめていた。
「なんでこんなことするの? 花の種を犠牲にしてなにしようとしているの?」
地鳴りに負けないよう、必死に声を張った。視線の先の幽香が、まるで人形のように首だけを動かして目をメディスンに向ける。その瞳に輝きは無く、微かに動いた口元は小さく開かれ、吐息が漏れるようだった。
「花がかわいそうだよ。花が大好きなんじゃなかったの」
「洗いざらい吐きなさい。植物の精気をあの花畑に集めてなにを企んでいたか、これからなにが起こるのかをね」
幽香の表情に隙を見つけ、霊夢がメディスンの言葉と重ねるように問いただした。身動ぎひとつしなかった幽香の身体が後ずさり、少しばかり肩を竦めたかに見えた。霊夢の問いに反応したかのように想えたが、幽香の顔はこちらを向く事はなく、メディスンと視線を交じ合わせたままだった。数秒間置いてから目を背け、それも気のせいだったかのように再び身体を硬くさせる。
歯切れの悪いその態度と今この瞬間も大きくなっていく気配に霊夢は焦りを覚え、もはやふたりに構っていられる気持ちにはなれなかった。頭を振って花畑の方向を仰ぎ、背中で言い放つ。
「私はこの気配の元へ行く。あんたはどうする?」
最後の質問のつもりで静かに、だが確実に届くように言葉にした。これ以上は待てないとばかりに放たれた言葉の矢に促され、緑の髪が揺らぐのを霊夢は自らの肩越しに確認した。
途端に巻き起こる殺気と妖気が混ざり合った乱気流が、紅白の巫女服を弄び、霊夢の肌を粟立たせながら吹き抜けて行く。爪の先から頭の天辺にまで痺れを来たす視線は背中で受け止めるには少々酷で、想わず喉を鳴らした霊夢は懐から出した御幣を握り締めた。
ゆっくりと振り向けば、そこには白く細いとびっきりの笑顔があった。こちらを見据える目は開かれ、緑の髪が踊り狂い、日傘はチャクラムのように研ぎ澄まされ回転する。目の端に見える棒立ちのメディスンが少しだけ邪魔だと想いつつ、霊夢は薄い色を乗せた幽香の口元がやけに生々しく感じた。
「私の邪魔はさせない」
ルージュのように紅いローヒールが一歩踏み出され、小石を蹴飛ばした。
その直後に地鳴りは地震に変貌し、ふたりの間の空気を震わす。
「結局こうなるのね」
苦笑交じりに言い捨て、御幣を真正面に構えると、霊夢の周囲に陰陽玉が浮き上がった。身の内の歯車が外輪を見つけてさらに加速し、二回目の変速の時を迎えようとしていた。
地鳴りとは違う、大気を揺るがす轟音が遠く例の方向から聞こえる。
再び対峙したふたりを見遣り、メディスンはきゅっと口を結ぶ。湿りつつも怯まない瞳は、今や現状を捉えるのに努めてやまない。
無名の丘の向こう、幽香とメディスンが愛情込めて耕した花畑に、大きく立ち昇る土煙が見えた。
小山のように土が盛り上がっては陥没し、またさらに盛り上がる。土の下、それも大して深くないところでなにかが動いていた。脈動するように、自らの存在を膨張させるように捲れ上がり、今か今かと地上に出るのを窺っていた。幾筋の土煙がそこかしこから噴出しては土の隆起を促進し、地殻変動のように地表が蠢く。地鳴りと共にごうごうと地形が変わりつつある中で、相変わらず周囲の花々がさざめいていた。何事かの始まりを予感し、土の下で生まれる大きな存在を祝福しているかのように。
やがて土煙の噴出が収まり、隆起が沈静化してくると、そこには真新しい一対の葉が出ていた。青々とした色に健康的な葉脈が生命力の強さを物語っている。天高く登った陽の光を一身に浴び、気持ち背伸びをするように力強く天を目指す葉は、まだまだ小さいながらも至ってシンプルに命を謳歌していた、かに見えた。
突如として地面が割れる。赤土を縦横に渡って深い溝が入り、地面が巨大な数個の塊に別れるとなにかの一部分が溝の隙間から覗けた。轟音と土塊、それに妖気と共に膨れ上がり、一気に爆発させるとその全貌があらわになる。周囲の花々や幽香達が蒔いた種を土塊と一緒くたに宙へ放り上げながら、天突く勢いでその巨大な姿を顕現させた。
長い長い根を支えにして自らの身体を仰け反らせ、豊満な生命力を誇示するかのように太陽へと見せつける。他の植物の精気を吸ったその葉は肉厚で、今も脈動しながら活発過ぎる光合成を行っている。そして周囲数十メートルはあろうかと想われる茎の先端に垂れ下がっている丸い螺旋が、これがなんなのかと辛うじて教えてくれていた。螺旋は花の蕾。項垂れる巨人のような影を持ったそれは、蕾を抱えた妖怪花だった。
ゆっくりと蕾を持ち上げ、空に遠吠えするような格好で停止した。未だ足りない精気を太い根から吸い上げ、衝撃でばら蒔かれた花達も、落下して地面に触ると同時に黒ずんでいく。それでも花達は歓迎し祝福して各々の花弁を揺らめかせている。貪欲なまでに膨れ上がっていく妖怪花の影が、黒ずんだ花達を包み隠していった。太陽を独り占めにした妖怪花は、幼い子供のような我儘さを垣間見せ、開花の時を静かに迎えつつあった。
地震と地鳴りの後、一際大きい轟音が聞こえたのを合図に霊夢が一足飛びに幽香へと突進した。そのまま小脇に構えた御幣を刀よろしく振り上げ一撃を食らわそうと目論むも、幽香はそれを日傘で軽々と防ぐ。絡み合う視線と殺気を帯びた攻防。柔らかいが弾力性に富んだ日傘の感触に、突き破るのは無理と逡巡しているとすかさず幽香が日傘を閉じる。込めた力が肩透かしを食らい、霊夢がよろめいた時にはすでに幽香は視界の外に居た。瞬間的な殺気の高まりに咄嗟の判断で身を伏せた霊夢の頭上をかすめ、閉じた日傘が宙を斬る。乱れた風を背中で確認した霊夢は伏せたままで足払いを周囲に薙ぐ。手応えの無い感覚に、半ば脊髄反射的にその場から飛び起きた霊夢は片膝をついて御幣を構えた。
「そんな身のこなし、いつの間に? 前は弾遊びだけだったのにね」
「臨機応変にってね。お互い運動不足解消にいいでしょ」
数メートル先で笑顔を浮かべる幽香が、日傘を回転させながらこちらに目配せをする。皮肉めいた言葉を投げかけ合いつつも、霊夢は改めて幽香の身体能力の高さに驚いた。自身も怠けていた訳ではなく、たまに行っていたそれなりの精進をも無下にするような幽香の体術は、今なおひりつく殺気として霊夢の身体が記憶していた。一振りで必殺の剛腕と、多くの戦闘経験に基づいた勘。隙をも生んでしまう大振りなスタイルは、自らの高過ぎる能力の裏付けで、自負にも似た力強さを霊夢に見せつけた。
それでもここで引く訳にはいかない。臨戦態勢の幽香に背を向けるのは自殺行為と知っているからだ。霊夢は自らを奮い立たせる為に声を上げる。
「時間も無いから、めいっぱいで行くわよ」
周りに浮かんでいた陰陽玉が霊夢の正面に収束、弧を描いて回転しなにかが連続で撃ち出された。糸のように細い赤みを帯びた弾丸、『封魔針』が前方の空間に猪突して穴を穿ち、幽香めがけて殺到する。真正面から見れば細すぎて光の点にしか見えない『封魔針』は、眼に映りづらく回避の間合いが読み難い。幽香は日傘での防御を諦め、大きく横っ飛びに回避するが針の数本がスカートの裾を破りさらって行った。
幽香が軽く舌打ちする間に霊夢は次弾を放つ。今度は陰陽玉を左右に振って『封魔針』の掃射。広範囲にばら蒔かれた針が壁のように弾幕を形成し、スカートを翻した幽香へと押し寄せる。幽香は一瞬で掃射角度を読みはしたが、また衣服が汚れるのを嫌い堪らず上方へと身を踊らせ、足の下に針の壁をやり過ごしながら宙を蹴って霊夢へと加速した。一秒とかからず最高速度に達し、殺気を感じさせる間もなく霊夢の懐に飛び込む。背中まで振りかぶった日傘の柄を想い切り握り込み、身体全体で叩きつけるようとした瞬間、視線がカチ合った霊夢の目が吊り上がる。
想いも寄らずに幽香は縦ロールで回転して急速に方向転換。そのすぐ後に幽香をかすめて左右からお札弾が飛び込んだ。幽香が居たであろう空間でお札弾は交差し、そのままベクトルを曲げて個々に幽香を追尾した。
「もう、ちょっとだった」
大入りと書かれた『ホーミングアミュレット』は、先ほどの『封魔針』に紛れさせて射出したものだった。お札弾は名の通りの性能で、飛び石のように地を駆ける幽香へと迫る勢いを見せる。鋭角、直角、鈍角と、じぐざぐに高速で移動するもお札弾は幽香自身が手繰り寄せているかのようにその軌跡をなぞり、じりじりと距離を詰めて行く。
貫通力のある『封魔針』とは違い、お札弾であれば日傘で容易に防御出来るが、それでは面白くない、と幽香は想った。霊夢はこの『ホーミングアミュレット』の中に、時折『妖怪バスター』を忍ばせている事があるからだ。それは先ほどメディスンの後頭部を苛んだ妖怪封じのお札弾。張り付かれれば痺れと共に妖気を封じられてしまう。
「ズルイだなんて想わないでよ」
さらに陰陽玉からお札弾を高速で撃ち出す。口の中で小さく呻いた幽香を、お札弾は束になって容赦無く襲った。前と後ろから挟み撃ちの格好となり、さあどうするかと独りごちた幽香の目の端に、紅白のリボンが躍った。陰陽玉を引き連れて幽香との相対速度を合わせたその姿に少しばかり鼓動が跳ねる。揺らぐリボンに不釣合いな強張った表情をこちらに向け、いつの間にやら並走していた霊夢が針の弾丸、『封魔針』を放った。
見る見るうちに弾幕で包囲され、周りが逃げ場の少ない鳥籠と化す。素早く身を翻すもお札弾と針が形成する弾幕に追い詰められ、苦味を覚えた幽香は霊夢の強張った表情に視線を投げた。度胸と強かさを併せ持ち、たったひとりだけでこの十字砲火を成し得た霊夢に、幽香は感心するように口元をすぼめる。この娘、本当に妖怪には容赦が無い。
ならば、と、幽香は地面を割れんばかりに蹴って宙へと舞った。打ち上げ花火の如く垂直に飛び上がった幽香を、さも当たり前のようにお札弾が追跡する。お札同士がぶつかって消滅するような間抜けさは無く、互いに避け合いながら一層の精密さで同じく直角にベクトルを持ち上げた。またも殺到するお札弾は渦を描いて幽香に切迫する。幽香が両手をそのお札の渦に向けると、掌に妖気が収束し淡い光を放つ。光に集中しつつも、ふと霊夢の姿が見えない事に幽香は気付いた。
周囲に目を配り、気配を窺い姿を探す。だがあの目立つ巫女服を見つけられずにいると、逆に自らの首筋に鋭い視線を感じた。隙を狙いながら一点集中するこの気配はあの強かな霊夢そのものだ。
幽香よりもさらに上方、なにもない空間が裂け目を生み、博麗の巫女が躍り出た。『亜空穴』を通り抜け、その身を翻らせると重力と真下への加速を重ね合わせた最高の膝蹴りでもって幽香の細い首筋へと強襲する。
無防備な幽香の姿に、霊夢は脈動が跳ね上がるのを感じた。想ったよりも幽香の近くに開いた『亜空穴』のお陰で十分な加速距離が得られないと踏み、膝蹴りによる一点粉砕を狙った霊夢の目論見は決して間違ってはいなかったが、一足早く用意の整った幽香の前に、その強かさごと脆くも崩れ去る事となる。淡い光が一気に輝きを増したかと想うと、殺気に反応した身体が霊夢の意思に関係なく回避行動を取ったのだ。
「ぐううっ」
呻き声を上げながら辛うじて避けきったそれは、霊夢のすぐ傍の空間を抉り取って急上昇していった。未だ続く光の乱舞に巻き込まれ、横に縦にと身体が回転する。平衡感覚を見失いながらも鼻孔をくすぐる太陽の匂いを熱波に嗅ぎとり、霊夢は視界の端にその本性を表した花の権化を捉えた。
あれほど射出したお札が、今や紙くずになって幽香の周囲に渦のように舞っていた。数秒前に確信した勝利をも引き裂き、渦の中心に佇む白い笑顔が悠然と日傘を弄んでいた。悔しさを飲み下しながら、霊夢は光に呑まれた瞬間を想い起こす。幽香が放ったのはふたつの弾だ。しかしそれはあまりにも大きく、すぐに弾だとは判別出来ない形状をしていた。『ホーミングアミュレット』を相殺したのがひとつ、さらに霊夢へのカウンターとして放たれたのがひとつ。かすめた時に間近で見たそれは、間違い無く巨大な向日葵弾だった。
「よく避けたわね。当たっていれば綺麗に裂けたのに。好きでしょ? お花」
「弾じゃない花なら」
苦笑いで愛想を返すも、あの恐ろしげな向日葵弾を見せられて心情穏やかでない霊夢は、すぐに表情を曇らせて間合いを取った。これだ、これがあるからこいつは厄介なんだ。舌打ちともとれる呟きを口中にころがし、優雅にスカートの埃を払う花の権化を注視する。
こちらの渾身の技を意図も簡単に小賢しさへと落ちぶらせ、自らはなおも余裕でもってして事も無げに笑顔を垂れる。すべてに平等である力強さが自惚れていない証拠であり、その部分は魔理沙に通じるところではあるが、肝心な時にしか本気を出さない様子は傲慢甚だしく、そこが鼻につくのがこいつを本気で信用出来ない要因だと霊夢は想う。しかして強大な力は本物であり、圧倒されるべくして圧倒されたのだ、という事実を敵に対して押し付ける瞳の光り方がすべてを物語り、すべてを無下に帰していた。
小技など恐るるに足らず、剛腕にて掻き消す姿はまさに恐怖の対象で、どこまでも果て無きパワータイプの戦闘スタイルは身動ぐ時間さえ与えない。敵との相性はあまり考えない霊夢だったが、こうまでして力押しを貫かれては不釣合いを感じずにはいられなかった。
「お急ぎじゃあ、なかったかしら?」
すらっと口端が伸び、日傘を回転させる幽香の背後、ずっと遠くで聳えている大きな気配の正体が霊夢の目に飛び込むと、一時忘れかけていた焦燥感が心臓を叩いた。舞い上がった土煙と大気を陰らす巨体が非日常感を煽り、ぼやけた遠近感が不明瞭な現状を捲くし立てる。呻き声を吐き出す時間さえ惜しく想いながらも、未だひりつく殺気を拭いきれない心情の霊夢は、歯痒さに醜く目を細めた。
ゆっくりと蕾を揺らした巨体がこちらを見据えて、幽香共々笑った気がした。
「は、入り込めるわけないよ」
幽香と霊夢との戦闘を目の当たりにし、正直な感想が口から抜け出てしまったメディスンは、茫然自失といった様相を呈して暗い表情を落とした。首が痛くなるまで見上げていた熾烈極める弾幕戦は、もはやメディスンの太刀打ち出来るような隙は全くと言っていいほど見つけられず、その力無く緩めた掌はじっとりと濡れており、放った言葉同様、なにも出来ない自らの無力さに落胆した。
妖力、気迫、度量、根性。それ以外にも多々あるだろう戦いに必要なセンスというものが、自分はあのふたりの足元にも及んでいない。欠けているんじゃなくて、元から持ち合わせていないんだ、と、我ながらしっくりする感覚を覚える。手の届かない場所と理解し、ならば背伸びをする事になんの意味があるのだろうと、足の裏を土から引き剥がす事さえにも億劫さを抱いた。
目に映る場所に行きたくても行けないもどかしさを、嫌というほど味わってきた。欲しいものが通り過ぎて行く光景を幾度も見てきた。やがて望みが拒絶へと変わると、幽香の傍に立つ事への抵抗感も浮かんでくる。どうせ役に立たないなら行きたくない、という我儘の方が自虐的な考えよりも先に頭をもたげてくると、いよいよメディスンの表情に鬱屈の陰が差してくる。『なにもできない』という言葉が呪いのように心をがんじ絡めにし、その身体同様に硬直していくのをメディスンは感じていた。
ふと、足元へと転じようとした視線に鈴蘭が映り込んだ。のっぺりとした感じを受けるその白い花弁は、それこそなにかしらの欠落をメディスンに抱かせる。風に揺れる姿は世俗から切り離された孤高の美しさを醸し出すが、鬱とした瞳には一転して世間知らずで横柄な美学として映ってしまう。
だが辛うじて覗いた黄色い雄しべが情熱を、中心にある雌しべが冷静さを放ち、生きているんだなと、メディスンの心に浮かび上げた。
「きれい」
内側を読むのではなく、率直に見た目だけで判断した言葉が口から溢れる。そう、きれい。こんなきれいな花の下から生まれた自分は、果たしてそれに見合っているだろうか。毒という手段だけを教えてくれた鈴蘭に、与えるものはもう無いと、捨てられるように吐き出されたのではないだろうか。闇雲に転がる思惟が、角を落として丸くなってくれれば、どんなに気が楽だろうか。誰が答える訳でもない問いは渇きを促す風になり、父とも母ともつかぬ花々が黙して揺れていた。
突然、『花は心を映す鏡』という声が、緑のウェーブの幻像と一緒にメディスンの脳裏に焼き付いた。火花のように散る光を見たのも一瞬、それよりもはっきりとした感覚が胸によみがえって来る。
そうだ、幽香が言っていたではないか。花は感情が無い代わりにそれを映し出す鏡を持っていると。ときに人が誤解してしまうほど正確に、無情と想えるほど厳格に、感情の悲喜こもごもを決して誤魔化さずに明るく照らす。それを捉えた人の心に、良くも悪くも様々なものを残して。
しかし、嘘や偽りが効かない頑固さは優しさの裏返しだとも受け取れるし、鬱屈しない思惟を感じさせる行為は力強さを想い出させた。だから好きになれる、という言葉の持つ意味がメディスンの心に流れ込み、幽香が真に伝えたかった事を浮き彫りにした。
それは自分を好きになる事。花を育て、花を見守り、花を愛する。心血を注いで育て上げた自らを映す鏡は、もしかした自分自身に他ならないのではないだろうか。幽香は花以外に興味を持たないのではない、常に自分自身と向き合い、自分自身に笑い掛け、厳しい目で戒める。苦行にも似た練磨が、自らを高める唯一の事だと知っている。花は、その機会を与えてくれると知っているのだ。メディスンはそんな花から生まれた。ならば、それならば。
メディスンの揺らめく金色の髪に、あの時の温もりが生まれる。撫でてくれた優しさも、熱を帯びた掌も、今この瞬間も幽香が目の前に居るかのように想い出せる。その幽香の心だって、花が美しさを分けたのだと想えば、メディスンはなんでも出来る気がした。
鈴蘭が揺れる。その名の通り、鈴の音が鳴る。凛とした音色が幾重にも連なり、メディスンの拳を震わせた。
「お願い、スーさん、勇気を貸して欲しいの」
それはきっと、鈴蘭からのプレゼントだったのかもしれない。優雅に咲き誇る鈴蘭畑から、なんの前触れも無しにひょこっと小さな陰が現れ、よたよたと歩き出した赤ん坊のような挙動で、しかし真っ直ぐメディスンに向かって近寄って来る。小さな陰がやがて人の形を帯びてくると、鈴蘭の思惟も形を成してくるようだった。すぐ傍で止まり、メディスンを見上げる格好をすると、その小さな人形と目が合った。毒々しいかわいらしさが、自分に似合っている。
打き寄せた小さな人形は、土の匂いがした。自らが生まれた時に初めて感じた匂いを、メディスンは想い出した。やはりそれも土の匂い。霞んだ日向の匂いと、葉っぱの湿気に似た瑞々しさ。生まれた事に感謝した匂いだった。
いつだったか、空を飛ぶ事を楽しんでいたら、あの巫女に出逢い頭で難癖を付けられ惨敗して逃げた。悔しくて悔しくて、生まれて初めて泣いた。涙は苦いと初めて知った。
いつの間にやら向日葵が咲く畑まで飛んで来ていた。鮮やかな黄色に、上にある太陽と区別がつかなかった。眩しく細めた視界の中に、メディスンはあの緑のウェーブを見る。吸い寄せられるように傍まで行くと、その人は、土の匂いがした。
「ありがとう、スーさん。いこう」
土の匂いがする、それだけの理由でメディスンは幽香に付き纏うようになる。その時は不思議と惹かれているだけだと想っていたが、なんて事はない、幽香に対して親への感情に似たものを抱いていたのだ。形の無い感情、それでいて温かく、冷えきった芯に熱を与えてくれる感情。突き動かすのではなく、優しく導いてくれるものが確かに在った事に幸せを覚え、メディスンは鈴蘭に向けた顔を縦に振った。
鈴蘭はなにも語らず、ただ花弁を揺らす。幽香の言った通り、厳しげな印象に少し苦笑し、じゃあこの鈴蘭には誰の感情が映っているのだろうと、ふと考えた。だが傍らの小さい人形もこちらに頷き返し、思考を自ら遮ったメディスンはゆっくりと上昇した。つま先が土から離れる感触が、今までにない清々しさを生み、心身に広がってゆくのが分かる。
向かうは幽香の隣、自分の居場所と定めた場所。花柄のサイクロンを止める為に。
幽香が怒りの感情を発露した時に現れる『サイクロン症候群』は、今やその最後の発症を見せていた。一つ目は日傘の回転、二つ目は満面の微笑み、そして三つ目が嘘を吐く事だった。
幽香の怒りは最終的に誰かへの暴力として昇華されるが、言うよりも単純ではないのがこの症候群の厄介さだった。怒りと言うものは往々にしてとてつもなくエネルギーを消費するものだ。それは向けられた者よりも、怒った本人の方が疲れてしまうような、非道く非効率的で燃費の悪い感情の発露だ。
誰しもが経験のある、その怒った直後の倦怠感や自己嫌悪を、幽香は激しすぎる怒り故に人一倍抱えてしまっていた。暴力によって誰かを傷付け、自分は傷付いていないフリをし、自分自身に嘘を吐く。怒れない事は辛いけど、怒る事はもっと辛い。怒った直後に残るのは快感などではなく、無気力感だった。
一度だけ、メディスンは幽香の大事に育てていた花を枯らし、非道く怒られた事があった。手こそ上げられはしなかったが、丸一日以上口をきいてもらえず、後に自己嫌悪に苛まれていた幽香を見守るしかないメディスンにとって、その時間は原因を作ってしまった事以上に辛かった。以来、どうにか幽香の怒りを抑えようと考えを巡らしてきた。幽香にあんな想いをしてほしくなかったのだ。
今、この瞬間も幽香は傷付いている。それなら怒るのを止めればいいのに、とはメディスンは想わない。怒りを溜め込むのは健康的ではないし、怒るのは生理現象だと考えているからだ。誰だって抱える感情が幽香は少し過激なだけで、あとは至ってごく普通の心優しい女性なのだ。初めて出逢った時の印象そのままに、メディスンはそう受け取っていた。だから、土の匂いのする幽香の為に、自分に出来る事をするしかない。
メディスンは身体を加速させた。幽香と巫女が戦っている空域までもう少しだが、だいぶあの花畑の方向へと移動している。もしや巫女が戦いながらも幽香を誘い込んでいるのだろうか。それとも幽香があの妖怪花に近づいて行っているのか。いや、今は妖怪花は関係無い。幽香を止める事だけが出来ればそれでいい。
抱えた小さな人形がちらりと案ずる瞳をメディスンの顔に向ける。それを笑顔で返すと、芳しい土の匂いがした。自分にも出来る事があるという事実がメディスンの身体を熱くさせ、今はそれだけでいいという想いが、宙を駆ける速度をさらに上げさせた。
霊夢の紅いリボンをかすめ、向日葵弾が咆哮をあげる。自らの『封魔針』が宙を切り裂く音とは違い、空間そのものを喰らい尽くすような重低音が霊夢の身を震わせた。喰われた空間は太陽にも似た熱波となって膨張し、すんでのところで弾を躱しても目に見えないそれを躱せる道理はなく、まともに身体に浴びせられては心身を痛めつけていく。どうどうとこだまする咆哮を背中に当てられ、やっとの想いで前に向けられた霊夢の瞳に、まだまだ押し寄せる向日葵弾が映り込む。熱波による消耗は凄まじく、体力は汗と共に身体から滲み出てしまい、力の入らない乾いた唇をひと舐めして、霊夢は覚悟を決めて太陽の群れへと突っ込んだ。
幽香は霊夢の予想に反して、あれからずっと向日葵弾を放ち続けていた。まるで勝負を急いでいるかのように本気で霊夢を潰しにきている様子に、焦りすらも垣間見える。以前ならここまで間断無く向日葵弾が放たれる事はなかった。それ故に弾幕の隙間を縫いきった霊夢は勝利を得られたというのに、現状は巨大な手で押し返されるように近づく事も適わない。
げに恐ろしきは未だ底知らずのその妖気だ。一発毎が魔理沙の『マスタースパーク』並みの威力で、それを一秒の差も無く続けざまに撃ってくる。衰えを知るどころか勢いを増す弾幕の力強さは以前の幽香には有り得ない事だった。前は本気を出していなかったのか、それともあれから妖力を上げてきたのかは定かではないが、まさに太陽のような無限の力に想える弾幕は、圧倒的威力でもって霊夢を苦しめていた。
「あのお化け花がなにかしでかす前に、滅さないといけないのにっ」
手持ちの弾は三種類ともまだストックはある。だが向日葵弾に相殺されるのがオチなら無駄弾を撃つ余裕は決して無い。すでに一度見せてしまった『亜空穴』が、あの花の権化にまた届くとは到底想えず、迂闊に使えば良くてカウンターか悪くて剛腕に捉えられる可能性さえあった。攻撃で使うにしても防御で使うにしても条件は同じ、そうなってしまえば一巻の終わりだ。絞め落とされて気が付いたら事が終わった後だろう。
しかし、このまま避け続けるだけでは幽香は倒せない。長期戦に持ち込む為の体力も時間も無ければ、残る手段はそう多くない。されどその残された手段とやらも、この弾幕の中では動かしようがなかった。せめてアイツの気が少しだけでも逸れれば、そう胸中に浮かべ、またひとつ向日葵弾を避けきった霊夢は、奥歯を噛み締めて迫り来る次弾の軌道を読む。と、その時、あらぬ姿が霊夢の視界の端に紛れ込んだ。
「なにしてんだアイツ!?」
およそ戦いに向いていない小柄で華奢な身体、自分よりも幼さない表情ばかりが目立つ毒ぼんぼりが、あろうことかこの熱波渦巻く空域にしゃしゃり出て来ているではないか。
幽香との弾幕戦に身を投じてからこっち、完全に失念していたメディスンが、戦域で見るには眩しいほどに鮮やかで、それ以上に滑稽に映る金髪を靡かせながら急速に近づいて来た。まさか、幽香に加勢する気か?
「こっちに来るな、離れていろ」
牽制の声を張り上げ、一時だけ集中の糸が切れた霊夢に向日葵弾が襲う。眼前いっぱいに広がる極大の光弾が迫り、その中心核がこちらへの直撃コースだと直感するや三種類の弾を撃ち放つが、最大限の悪あがきでもってしても軌道が逸れる事はなかった。腹の底に響く重低音が耳を苛み、迫る熱波が容赦なく吹き付ける。
もはやこれまで、と想った時、向日葵弾が身をよじり直撃のコース軸から僅かに逸れるのを見た霊夢は、渾身の力でその反対側へと加速した。極限の隙間へとその身をねじ込み、それでも足りずに横ロールで身体をねじ曲げ、向日葵弾ぎりぎりをかすめ飛ぶ。じりりと黒髪の焼ける匂いと音を聞きながら、その口中が呻き声で満たされると霊夢の身体が途端に弾け飛んだ。惜しくも向日葵弾が左足に当たり、その勢いで向日葵弾から離れる方向へと逃げ出せた。熱波ともつれ合いながらもはっきりしている意識と左足の状態を確認し、なんとか弾幕から距離をとる。どうやら五体無事なようだ。
「メディ?」
戦いの最中に他に意識を飛ばした霊夢を訝り、そちらへと視線を動かした幽香は自らもその光景に気が削がれる想いだった。鈴蘭畑に置いてきたはずのメディスンがすぐそこに居た。幽香を見据え、想い詰めたような顔をして佇んでいる。
自分らしくない、重く鈍い心臓が跳ねる音を感じ、戸惑いが弾幕の乱れになって現れてしまった。逃げおおせた霊夢に注意を配りつつ、幽香は弾幕を放つ手を止めた。
「いけっ 巫女。ゆーかはわたしが止めるから!」
「なに言ってんだ?」
どの口が言ってるんだ。その先の言葉を飲み込み、霊夢はメディスンの姿を注視した。あの毒ぼんぼりめ、なにをやろうと言うのだ。
「ゆーか、もうやめよう? わたし、これ以上ゆーかが辛い想いをするのヤダよ」
凍てつくほどに緊張していた周辺の空気が、なんだかごちゃごちゃになるのが分かる。霊夢は苦笑いを浮かべ、嘆息を漏らしながら腰に手をやる。すっとんきょうな事を言い出したメディスンが少しだけかわいいと想いつつも、それは認められない、と目を細めた。今は勝負の最中である。曲がりなりにも決闘をし、さらに決着さえ着いていないのだから、それを邪魔したメディスンに道理など無い。それにあの花の権化がこんな事で止まりはすまい。
投げかけられた言葉を受け流し、幽香がこちらに殺気を向けるのが分かる。再び戦端が開くのを感じた霊夢は、言わんこっちゃないと身を踊らせて弾幕を張り、先手を打つ。
『封魔針』と『妖怪バスター』が交互に射出され、波状攻撃を仕掛ける。幽香を中心に半円を描いて飛翔し、霊夢は扇の形状を成した弾幕を張った。二種類の弾はその性能差故に、避けるのにもそれぞれ方法が違う。さらにこの広範囲に及ぶ弾幕なら、向日葵弾でも容易には相殺出来まい。その隙にこちらの準備が整えば、花の権化を倒す手立てが出来る。霊夢は速度を緩めずに霊力を錬った。
「おもしろい飛び方するのね?」
ふわりと緑の髪を揺らしたかと想うと、幽香は目だけで霊夢を追う。その視線に絡められた感覚を覚え、霊夢は幽香の口元が吊り上がるのを見た。
幽香が胸の前で両腕を交差させたかと想うと、光がその掌から迸る。目眩ましかと想われた次の瞬間、幽香を囲んで三つの向日葵が同時に現出した。百八十度範囲に巡る弾幕を、余裕でカバー出来るほどの大きさを持つ太陽が三つ、数秒前にはなにも無かった空間を焼き尽くしながら放たれた。
じわりと動き出し、一際大きい咆哮を上げて弾幕を相殺していく黄色い太陽。幽香を中心にゆっくりと広がっていく様は開花に見えなくもなく、ならば霊夢が放った弾幕は花に群がる虫かなにかかと想われたが、ことごとく焼失していく弾幕はまるで喰われているかのようで、あれでは食虫植物の方がお似合いだ。
ひとつ生唾を飲み下し、その光景に見入ってしまった霊夢はしかし、すべての弾が消えるより前に一目散で回避行動を取る事になった。三つの巨大な向日葵弾が速度は遅いものの、確実に身を驀進させ霊夢をも喰わんと追い駆けて来たのだ。
左足の痛みを想い出させる巨体に歯噛みしながら、それこそ羽虫のように霊夢は逃げ出す。しかしまたもあらぬ方向へと逸れる向日葵弾を目にし、なんなんだ、と安全圏へと逃げるうちに幽香の姿を探した。
見つけた視線の先にあったのは黒い塊。幽香が居るであろう空域は黒い霧のようなもので覆われていた。もうもうとした霧の密度はとても自然発生したものとは想えず、だいたいあんな色の霧がある訳がない。あの中だとさぞや息苦しかろう、と想った途端、毒々しいという言葉が霊夢の脳裏を横切る。
「行けってんだ、巫女。お前はあのでっかいのをなんとかするんだろ!」
幼い少女の怒鳴り声が聞こえた。震えた高音域が感情を伝え、高ぶっているのが分かる声質が霊夢の癇に障る。二度も邪魔した。
「さっきは見逃したけど、今度はそうはいかないわよ」
低く、それでいてよく通る、少女特有の涼やかな音を出し、しかしたっぷりの威嚇を混ぜ込んだ声で霊夢はメディスンに向けて言い放った。我ながら非道い目つきをしているだろうと想いながら、それでもそうせずにはいられないこの感情を、忍ばせておく訳にはいかない。
理由がどうであれ、二度も勝負の邪魔をしたのを、霊夢は許せはしなかった。こちらが優位だったなら笑って済ませよう、しかし劣勢の時に、それも自らの被弾によって勝負が付きかけた戦いを、横から割り込んで長引かせるなど言語道断だ。メディスンにその気はなくとも、助けられたという想いが少なからず後を引き、それが霊夢の苦笑を霧散させ、苦い屈辱感を舐めさせるのだ。
安いプライドだと言われようと、勝負の行方をごっこ遊びに委ねたからには、勝敗というのはなによりも優先されなければならない。あいつ、分かっていないのか。
黒い霧越しに浮遊するメディスンを睨み据え、霊夢はより一層の声を張りあげる。
「あんた、なにしたか分かってるの? 恥を知りなさい」
相手を揺さぶる為の、侮辱に汚された腹の底から絞り出した声をメディスンに投げつけた。あんたはあんたが想っている以上の事をした。謝ったって許さない。言いたい事は山ほどあるが、一先ず尖兵の言葉でメディスンの挙動を窺う。いっそ針弾の一本でも放ってやろうか、と想った時、黒い霧を突き抜けて数発の弾が飛んで来た。
弾は霊夢から離れた宙を行き過ぎる。避けるまでもなくそれを目で追った霊夢は何度目かの嘆息を吐く。弾の雰囲気から見てあれは威嚇、幽香の放ったものじゃない。どこまでふざけるつもりなのか。
「なんのつもりよ」
弾を撃ったであろうメディスンに向けて、またもナイフのような声を張りあげる。もはや怒りを誤魔化す必要も無い。お灸を据える、という言葉がそぞろ立ち上がり、あいつの幼い外見にぴったりだと内心でほくそ笑んだ。
黒い霧が気持ち晴れ、真正面から睨み殺すつもりで視線を向ける。毒ぼんぼりなんて視線を交わらせるだけで追い返せるだろうと高を括っていた。しかし、それとは別の勢いを持った視線が霊夢のそれと絡み合い、一瞬の怯みを覚えた。カチ合った先に居たのは間違いなくメディスンで、霊夢はそれを理解するのに数秒のラグが必要だった。
見つめ返す、と言うより弾き返すと言った方が似合っていた。霊夢の睨みを受け止め、後ろに流したり横へ避けたりするような逃げ腰の意識は全く感じられない。されど柔軟とも堅牢とも言う訳ではなく、そう、弾力性に似た感受性を帯びた瞳をしていた。力ある視線を己の中で反芻し、それに勝てずとも負けない光を持つ芯の強い瞳。あれがメディスンの目か。あれは飛び掛ってくる子供の目じゃない。あれはなにかを守ろうとする目だ。
「行ってよ!」
呆気に取られて飛び出していた意識が、やはり甲高い幼い声により霊夢の中に戻ってくる。声から滲み出る感情には、一瞬前の気迫がうっすらとも感じられない。いや、消えたのではない。未だ芯の強い色を持つ瞳がそれを物語り、もう必要が無いとして身を潜めているだけなのだろう。メディスンの目は潤み、唇は震えていたが、その強い光だけは残っているように霊夢には感じられた。
次には、想わず頷いてしまっていた。顎を下げた感触が後を引いて、少しばかりの後悔と苦味を生む。別に圧倒された訳ではなく、真摯な切望に促されたのだと想う。言い分は分かる、でも今は引いてほしい。言葉ではうまく言えないのだろう幼き瞳は、その思惟を霊夢に向かって投げて来たのだ。
「知らないわよ。どうなっても」
抜け切らない苦味が言葉となって口を衝いて出る。それを最後に霊夢は一瞬の逡巡を黒い霧に質し、そのまま背中を向けて飛び去る決心をした。目配せもそこそこに身体を翻した勢いそのままで妖怪花へと加速する。
妖怪ふたりの気配がどんどん遠ざかり、妖怪花の存在だけが浮き彫りになりつつある。ふと、胸の中にあるしこりが気になった。痛みとも成り得ないしこりはしかし、静かに確実に重みを増すのが分かる。まさかあの娘があんな目をするなんて。想い出したメディスンの瞳は、とても切なげで悲しげで。
「あまいのかなぁ」
言葉にした途端にしこりの正体に気付く。自らの怒りも一気に冷めきって、反省すら持ち始めるに至った感慨。罪悪感。実際のところ、その理由も知らないしこちらが認める道理も無い。だがあんな目で見つめられては、誰だって自らに否が在るのかと自問するだろう。なにかを守ろうとする目のメディスンに対して、非道い事をしてしまったのかもしれない、と霊夢は自分をたしなめた。
あの花の権化が霊夢とメディスンのやりとりを黙って聞いていた事に、なにかしらの因縁だって嗅ぎ取れる。ふたりにはふたりにしか分からない事があるのだろうか、と、霊夢は小さく舌打ちした。
意外にもあっさり身を引いてくれた巫女に、少しだけ戸惑いを覚えた。あの強かな巫女が自分の言葉を聞いてくれるなんて想ってもみなかったメディスンは、ほっと息を整えながら小さくなった背中を見遣る。薄く、長く吐き出した息に、自らの緊張感が溶け出していくようだった。
戦いに割り込み、勝負の邪魔をしたのは本当に悪いと想っている。巫女がピンチになるたびに手を出したのだって、些細な自己満足だと理解している。そこまで気づいていたかは分からないが、その甘えた自覚さえ許し、この場を預けてくれた巫女に、メディスンは心の中で誠心誠意に詫びた。
「ごほごほっ ひどいじゃない、メディ」
わざとらしさが浮き出る咳と声色に、しかし険は含まれていないと確認したメディスンは、黒い霧の中でも目立つ緑のウェーブを見据えた。折り重なって映える緑髪は出逢った頃と同じ、日差しに反射してその活力を露にしていた。やはり土の匂いがするであろう緑髪に甘えたい想いが心に滲み出てしまい、メディスンの表情を歪ませる。だが、と軽く頭を振った。幽香にこれ以上傷付いてほしくない。その想いの方がメディスンの心の中で強い芯になり、支えられた視線が幽香の視線とカチ合わせた。
「ゆーかは、なにがしたいの?」
その絡み合う視線の先が、僅かに揺らいだ。瞳の奥に感情というものが隠されていて、それが震えたときにはちょうどこういう風に見えるのだろうかと想えた。
「それだけ教えて。わたし、他はなにもいらないから」
自分の瞳も揺らぐのが分かった。きっと幽香から見た瞳にも、あれと同じ感情の揺らぎが見えているのだろうと自覚する。極端で素直すぎて赤裸々な、それでいて隠す必要も無い感情がメディスンの瞳に波を立たせた。波は思惟と共に言葉となり、幽香へと伝播する。
だが、視線を交わしたのも束の間、幽香は伝播を遮るように俯き、瞼を閉じた。
「私がなにに怒っているのか、まだ言ってなかったわね」
閉じた瞼の裏になにを見たのか、幽香はあの妖怪花に視線を向けて言葉を紡ぐ。普段の力強さに霞がかり、その姿に線の細い女性が顔を覗かせ、メディスンは少しだけ不安になった。
「種が芽を出さない事、じゃないよね。この異変の犯人だったんだから」
「そうね」
「あの巫女が邪魔するから? あのでっかいのはなんなの?」
順番にね、と、幽香が人差し指を立てる。くすぶって湧き上がる疑念がせき止められ、メディスンはやきもきする表情を見せた。それに気付いた幽香が笑顔で、吐息のような言葉を吐く。
「私が怒っているのは、私自身になのかしら」
「ゆーかがゆーかに怒ってるの?」
こくりと頷いた幽香の横顔はもの哀しい色を帯び、憂いを含んだ雰囲気を出していた。傾いた首から上が折れた一輪挿しのようで、何者にも屈しない緑のウェーブも散り残った花弁に見えなくもない。ぽつりぽつりとその口から語られる理由は、笑顔であるが故に痛々しくもあった。
「花のように、素直な鏡を持ち合わせていれば、こんな事もないのでしょうけど。私がやりたい事は私が想っている以上に難しい事だったみたい。なにも出来ない訳じゃないけれど、一番大切な事は私にとって一番難しい事なの」
そう言って日傘がくるりと一回転する。ささやかにも陰る日差しが、幽香の輪郭を強調した。
「たったそれだけの事なのに、たくさんの種があんなになってしまって、それをしょうがないって想っている自分も居て、それでもなかなか上手くいかなくて。昔はこんな事無かった。なんでも想い通りにいってた。でもそれは違うのね」
幽香の白い頬に日傘の影が映える。レース生地で縁どられた影が口元まで差し掛かると、途端に笑顔が消える錯覚をメディスンは見た。白と黒のコントラストはそのまま幽香の心象を現しているようで、ぐっと喉がつまる感覚を覚える。
「あの頃はなにかをやりたいだなんて想いもしなかったわ。だから想い通りになった。当たり前よね、その時と今とでは私の中の割合がぜんぜん違うもの。昔は自分の範疇にある事しかしなかった。それだけの事だわ。今は昔に出来なかった事をやろうとしているから、きっと上手くいかないのだと想う」
「やりたい事……」
幽香の言葉が自らの心の中に入り込み、その一部が口からこぼれ落ちた。慌ててそれを拾い上げようとして、メディスンは幽香の次の言葉を待った。
「なにが出来るか、じゃなくて、なにがしたいか。私はね、やりたい事があるの。それが今の私の願い。メディ、貴女にも分かるかしら」
そう言って幽香は手を差し伸べた。メディスンに温もりを教えてくれた指先は、少しだけ震えていた。土いじりに長け、力強さを感じさせた幽香の指は、震えのせいかやけに細長く見える。白く美しい掌を、力に満ち溢れている掌を、メディスンは初めて小さいと感じた。不安に飲み込まれそうで、助けさえ欲しがりそうな、ひとりのか弱い女性の掌がそこにはあった。
一時の逡巡が答えだと想ったのだろう。あっ、とメディスンが声を発したのは、出された手が引っ込められた後だった。
「ほらね、難しいでしょう?」
宛先不明の手を胸の前にしまい込み、幽香は苦笑を漏らした。
ちがうよ、と言いかけて、メディスンはその言葉を出し切れずに心の中で霧散させる。正直、幽香の言葉のすべてを理解出来ず、はっきりとした否定も肯定も持てなかったのだ。曖昧なままで接するには幽香の微笑が切なすぎて、メディスンは歯痒さを噛み締めた。俯いた先の視界に自らの掌が入り、非道く冷たく感じた。
「メディはきっとそれでいいのよ。貴女はそれでいいの」
「わたしは……」
このままじゃ駄目だと想えた。私はここに来てまだなにもしていない。幽香が傷付くのを防ぐ為に戦いを止める不義理までしたのに、なんの成果も得られていないし、むしろ余計な事をしている気がする。視界の中の掌が、滲んで揺らいだ。
「わたしはゆーかに傷付いてほしくないだけなの」
それなのに、私は幽香になにもしてあげられないのだろうか。それだけの事なのに、私は幽香のなにも分かっていないのだろうか。
滲んだ掌の形がより一層崩れ、もはや指が何本なのかさえ分からない。ただ肌色をした小さくて大きい無力感が見えるだけだった。ぽたり、と、落ちた雫が冷たい指先には非道く熱く感じて、火傷するほどの熱なのに身動ぎひとつしない自分が居る。頬を伝うものがなんなのか、メディスンにはすぐには理解出来なかった。
ふとそれとは別の、温かい太陽のような熱が、メディスンの金髪に触れた。
「ごめんね、メディ」
投げ掛ける言葉は優しげで、なんの形にもならないメディスンのぐずりさえも、包み込むように溶かしていった。それでも涙が止まらない、喉が引きつって声が出ない、わたしの方がごめんなさいって言いたいのに、それすらも溶かしていくようで、メディスンは触れる幽香の掌に堪らなくなった。
ゆっくりと、なでこなでことされるたびに、ほんのり温かくなっていくのが分かる。冷たかった自らの指先だって、だんだんと感覚を取り戻していく。でも、この涙と一緒に流れていくのはなんだろう。身体の内側から当然のように滲み出て、霜焼けのように赤く腫れ上がって。温めすぎた心が、痛いほどに赤くなって。
幽香の掌が温かすぎたのか、それとも自分の心が冷たすぎたのかは、メディスンには分からなかった。ただこの霜焼けの傷跡は、きっと治りづらいのだろうと、メディスンは流れ続ける涙で知る事が出来た。
「でも、大丈夫。メディは大丈夫よ」
涙と鼻水でぐずぐずな顔を上げる。歪んだ視界に、幽香の笑顔が浮かんでいた。
「それを今から証明してあげるから」
さっきまでの憂いじゃない、なにか芯の通った声色で、幽香は優しくメディスンに微笑みかける。歪んだままの視界が煩わしくて、一所懸命に瞼を擦ったメディスンだったが、晴れた視界の幽香はすでに視線を落としていた。スカートのポッケに手を入れ、中からティッシュを取り出すとそれをメディスンに渡した。
「鼻は、自分でチーンなさいね」
花柄のかわいらしいティッシュ。呆けたように見つめていると、いい香りが漂ってきた。泣き止む直前特有のぼんやり感が、香りのせいで一層引き立った。
それと同時に、幽香が離れていくのが目に入り、メディスンは慌てて顔を上げた。待って、と言おうとするも相変わらず引きつった喉と詰まった鼻のせいで上手く声が出せない。それでも幽香の姿は、日傘と共にどんどん離れていく。
自らの身体に喝を入れるように咳をして、必死に声を出そうとする。やっと喉の震えが抑えられ、そのまま小さくなった幽香の姿に声を張りあげた。
「すっぐに、お、追いつくから!」
留める言葉ではなかったが、メディスンはそれでも大きく手を振り続けた。
※
数刻前に見ていた花畑の光景とはほど遠く、そこに広がっていたのは未だ土煙が吹き出す凄惨な現場だった。花々は一様に根っこごと投げ出され、いたるところに可憐な姿を顕にしていた。赤土に紛れているが、周囲の花のほとんどが例に漏れず黒ずんでおり、やはり精気を吸われたのだろう、儚い花弁を妖気に晒す。生きているとも死んでいるとも判別出来ないが、これではまるで墓場、花の塚ではないかと想えた。
それらを素知らぬ顔で見下ろし、巨大な影を花達に落としているのがこの異変の元凶だった。手を広げるように葉を伸ばし、眼前いっぱいに聳える姿が人のそれと似ている気がした霊夢は、先ほどよりも濃くなった気配と妖気にあてられてごくりと息を飲んだ。太く伸びた根がその足で、岩山のような胴体と言える茎と、腕にあたる葉。そして霊夢を見下ろしている頭は、蕾という極上の妖気の塊となって身動ぎしていた。気配や妖気はその蕾に集中しているようで、今にも開花しそうな雰囲気を、微かに覗ける花弁に垣間見せていた。花弁は嘘のように黄色く、蕾にひび割れた隙間から見えると、その全体像は笑いに歪んだ表情そのままだった。
「なかなか生意気な。出てきたばかりだけど、また埋めてあげるわ」
ひとつ身を奮い立たせる言葉で毒づき、霊夢は御幣を構えた腕に力を込める。呼応した陰陽玉が霊夢を中心に周回し、すべての弾丸の射出準備へと入った。『封魔針』は紅い細身を研ぎ澄ませ、『ホーミングアミュレット』は妖気の中心である蕾を的と捕捉し、『妖怪バスター』にはありったけの破魔の力が宿る。およそ出来得る限りの攻撃力を注ぎ、霊夢は妖怪花と対峙した。
回り込む陰陽玉がもはやその色味さえも判別出来ないほどに速くなる。その光景は身の内の歯車とも奇妙に共鳴し、強張る表情をいくらか緩ませる。
偶然と勘を道標に辿り着いた今回の異変。最初に来た花畑が終着地点だったとは、皮肉と言うよりむしろ面白みがあるじゃないか。今次も博麗の能力はすこぶる快調なようで、霊夢は内心でほくそ笑んだ。
今までも、そしてこれから先も役に立つであろうこの能力が、自らの歯車を回している動力源であるのは間違いなく、それによって出来る事の幅が広がっているのも理解しているし感謝もしてやっている。
しかしだ、と霊夢は内心の笑みをその頬へと顕現させる。回されてやっている分、導かれてやる分の料金はしっかりと払ってもらう。この身ひとつ動かす事は出来ても、どこまでも想い通りになってはやらない。歯車は私の好きなタイミングで回すし、どの外輪と噛み合うかだって私自身で決める。誰にも文句は言わせないし、なにを言われたって変えるつもりも毛頭ない。博麗霊夢というこの器が健在な間は、『博麗の巫女』の好きにはさせない。せいぜい、その能力を存分に私へと注ぎ込めばいいのだ、と、霊夢は紅白を纏った身体を翻した。
つまりは、だ。
「決着は付ける。そういう事よ。ねえ、幽香」
振り向いた先に、その姿はあった。放たれる妖気と殺気が混じり合い、周囲の空間を歪ませるほどに圧迫している。宙が突っ張り、震えた振動を受け入れた耳がキンと痛くなる。飲み込まんばかりに威圧した視線は間違いなくこちらに向けられ、肌にひりひりとした感触さえ霊夢は覚えた。
「待っていてくれたの? かわいいらしいところ、あるのね」
ゆったりと舞うスカートが風に踊り、紅いローヒールが宙を踏みしめてこの空域を支配下に置く。日傘を白く細い腕に掛けて、眩しい緑の髪が青空に映えていた。緑色の花というものを見たことがないが、あるとしたらコイツのような力強さを持っているのだろうか。そう想えた霊夢は、燦然と輝く花の権化の姿に目を奪われつつあった。
風見幽香は白い微笑みを顔いっぱいに湛え、しなやかな四肢が霊夢の視界を彩る。殺気にあてられているくせに、この呑気さはなんだろうと想えた。
「まあね、私が気に入らないだけよ。いいの? あの毒ぼんぼりは」
「情けを掛けられるなんて、私も丸くなったものだわ。貴女だって昔はもっと必死だったし、今とは違って青い果実のようだった。お互い歳は取りたくないものね」
「そんなに昔じゃないわよ。それに、誰が丸くなったって?」
霊夢の苦笑につられて、幽香の目が細くなる。
なにかしらの共有とでも言うのだろうか。確かに、決して古くはない記憶を辿れば、昨日の事のように激しい弾幕戦が脳裏に浮かぶ。出逢って間もなかったお互いは、弾丸を投げつけ合うだけの関係でしかなく、こんな風に相手の髪の艶やかさに目を奪われるなんて考えもしなかった。いかにして敵を出し抜き、撃退するか。攻撃の手段だけを思慮していた脳みそは、今と違ってずっしりと重たかった気がする。重心が上にある分、不安定になった心が足元をおぼつかせ、それが余裕の無さとなり、さらに攻撃色を強める。気が滅入るように博麗の力に溺れ、否応無くその身を歯車へと変貌させていく。
世界が必然で満たされている感覚は、それはそれで居心地のいいものだった。二極化する他人との関係は分かりやすく、それでいて一向に飽きる事のない唯一無二の霊夢の世界。すなわち、敵か、敵ではないか。博麗の境内で、お茶を啜りながらも敵意に身を強張らせていた頃を想い出し、霊夢はそっと瞼を閉じた。
「でもお互い、角が取れた気はするよ」
呟いた霊夢の言葉が耳元をくすぐり、幽香は昔は長かった緑の髪をかきあげた。
鋭利な日々の途中、妖怪退治の最中に、霊夢は花を世話している幽香を見かけた。ついでとばかりにそっと近づいて注視した姿は、霊夢に呆気を覚えさせるのに十分だった。チェック柄の洋服を土で汚し、一所懸命に若葉に水をやる幽香が、そこにはあった。幼い子供のような笑顔に、狙っているのではないかと勘ぐりたくなる鼻の下の泥、額に滲んだ汗を拭えば、そこにもまた泥が付く体たらく。
本当にあの風見幽香かと疑い軽蔑する一方で、霊夢は羨望を抱えた自分に気付いた。敵とは想えない姿に毒気を抜かれたのかそれとも毒気に当てられたのか、訳も分からずすっ飛んで帰路についたのを憶えている。
想えば、それからだろうか。霊夢の周りに居た敵が少なくなっていったのは。敵だった者は敵ではないなにかに、敵ではない者は味方とも言えない同郷者に。敵という存在が薄れていく中で、霊夢はある仮説に行き当たる。私が認めなければ、敵なんて元々居ないのではないか?
それは『博麗の巫女』に支えられた身にはそこそこ衝撃的だった。例え敵として現れようと、そいつを敵と認識しなければ別に大したものではなくなる事実。固かった視界が柔らかさを帯びて広がっていく様に、霊夢はいくらかの不安と大きな期待に胸を踊らせたものだ。必然に押し付けられていた世界を、自らの考え方次第でひっくり返す事が出来る。新しい、自分だけの心の歯車が生まれた瞬間だった。
「大したことじゃあない」
そう、大した事じゃない。言葉と胸中に浮かべた想いとで身を新たにした霊夢は、瞼を開けて身の内の歯車の回転数を上げる。眼前の花の権化は相変わらず白い笑顔を湛えている。
風見幽香は敵じゃない。そう想えるくらいには丸くなった自らに、やはり苦笑が出る。じゃあ敵でなければなんなのかと聞かれれば、そこはそれ、めんどくさいヤツで済ませるのが今の博麗霊夢だった。実際面倒なのだ。その力強さは底無しで憧れるし、何者にも負けない意思は羨ましい限りだ。ああ、めんどくさいヤツ。
だから決着をつける、そう胸中に結んだ霊夢は自らの視線と幽香の視線を絡ませた。その存在すべてが畏怖であると同時に羨望である花の権化は、いくらでもこの身を踊らせてくれる、身の内の歯車の回転数に限界が無い事を教えてくれる。わくわくするのだ。
「大したことじゃないけど、大切なことね」
意外な返答に虚を突かれながらも、霊夢は静かに首を縦に振った。分かっているなら話は早い。霊夢は御幣を片手に霊力を練る。周囲の陰陽玉が霊夢の頭上で収束、回転して紅白の光輪を作った。
「私はね、メディにしてあげたい事があるの。邪魔するなら、容赦しないわよ」
「は、今更だわ。望むところよ」
再び両者の間に火花が走る。殺気が飛び散り、圧倒される空気が重く感じる。お互いを縛るものはなにも無い、と想えたその時。
「花のおねいさーん!」
跳ね回るような声が空に響いた。明るく活発な声量が、二人の間の糸を束の間緩ませる。声は下方、幽香と霊夢が視線を転じれば妖怪花の根元近くに、その主がリヤカーを牽いた死神と共にこちらへ手を振っていた。その荷台は活き活きとした生花を山盛りに、花屋さながらに鮮やかを暗い花塚で際立たせている。
「今ねー、花を幻想郷中に植え替えしているんだ!」
「ごめんよう、幽香さん。でも仕方が無い、仕方が無かったんだよ……」
赤毛の三つ編み二つを弾けさせて叫ぶお燐に、諦め萎びた顔でこの世の終わりのようにうなだれている小町。対照的なふたりに何事かと目をぱちくりさせた霊夢は、幽香が発した笑い声に尚更驚いた。
何故ここにふたりが居るのかよりも、ふたりがなにをしていたかに気付いた幽香が、声を出して笑っていた。終いにはお腹を抱えるほどにころころと笑うものだから、霊夢はさらに下に居るふたりを凝視した。
「そうね、そうすればもっと早く精気を集められたのね。まったく、困ったものだわ」
「花の植え替え? あ! あいつら、そうか!」
村人の話しを想い出した霊夢は、得心の声と一緒に非難の視線をふたりに投げつける。種とは別に、植えた植物の子株も黒ずんでしまうのは聞いていたが、それは同じく精気が吸い取られた結果だったのだろう。あの妖怪花は種だけでは飽き足らず、成長したものにまで手を広げていたようだ。もちろん、種よりも成長した子株の方が精気が多いのは当然で、たらふくな量の精気はさぞや妖怪花の良い栄養となったに違いない。
そんな事知りもしない小町とお燐は、幻想郷中に一所懸命ばら蒔いた末に霊夢の睨みに打ち据えられ、その隣で笑い転げる幽香に哀願の上目遣いを差し向けた。
「良いわ、貴女たち、あとで褒めてあげる。どんどんやりなさい!」
「あんた達! 憶えてなさい、封印してやるから」
二種類の声が降り注ぎ、ちらりと目配せをし合った小町とお燐は、せっせこや、せっせこやと花の植え替えを再開した。
「三河屋のおねいさん、よかったねー怒られないで」
「いいからほらほら、やる事はひとつだよ。手を動かしな」
払えきれない不安をしまい込み、小町がお燐に檄を飛ばした。土に触れた先から順に黒くなっていく花々が、一層の精気を妖怪花へと送る。また供給され始めた栄養に、妖怪花は喜びに打ち震えるかのようだった。いや、震えるのは小町の視界で、それは足元の地面から、ひいては妖怪花自体が鳴動し始めていたのだ。
「もうすぐ、もうすぐだわ」
蕾がぎりぎりと開き始めるのを感じ取った幽香は、呆けた顔で妖怪花を見据えていた。鳴り止まない鼓動をその瞳へと顕現させ、抱えきれない胸の騒ぎを微笑みへと昇華させ、風見幽香が美しく笑う。もうすぐ、私のやりたい事が叶う。
その表情に妖しくも狂気めいた雰囲気を覚え、博麗霊夢は奥歯を噛み締める。やはりこいつはこの位の方が調度いい。そう浮かんだ感慨をひた隠して『博麗の巫女』が声を張る。
「ああもう、いつまでも呆けてないで、さっさと始めるわよ!」
「ええそうね。霊夢、始めましょう。私の願いを見せてあげるわ」
「さあ、行くわよ! こちとら準備万全、夢符『二重結界』!」
轟音となりつつある大地の振動に負けないほどの声で、掲げたスペルカードが発動する。幽香を待ち構えていたあいだに張り巡らした二重の結界が、宙で対峙したふたりの周囲に顕現した。白い笑顔から湧き出る妖気が鋭さを増し、放たれた高濃度の殺気が結界をも軋ませる。
もはや勝負を邪魔する者など居やしない。結界に囲まれたふたりに、割って入る道理を持つ者はこの世に存在しない。薄い唇を睨み据え、今日初めてあいつに名前を呼ばれたという感慨を胸中に踊らせた霊夢の回転数は、振り切れるほどに跳ね上がった。
いまや肌で感じられる轟音が耳を苛み、スペル発現の光景が目前で開扉した。拒絶するように空間を断絶した二重の結界が、紅白というおめでたい色味よりも巫女の勝負に対するこだわりだと想えたメディスンは、あの強かそうな笑みを想い出した。勝負を邪魔しようにもその気力と手段に乏しくなった身の上として、もはや脳裏に浮かぶにやけ面の主に事の成り行きを任せるしか出来ず、メディスンは行き場の無い掌を胸の前で握り込んだ。
幽香を見送り、鼻水と涙をなんとか身に仕舞って追いかけること数分、辿り着いてみればすでにふたりの戦いが始まっていた。
あそこで戦っているであろう、メディスンの情け無い顔を見て笑った巫女。内容はともあれその表情は安心し得る顔だったと想う。幽香のやりたい事を理解出来ず、無責任なほど無力な自分よりかは幾らか託すに値すると見做し、メディスンはもう手を出すまいと心に決めていた。それが自らの無気力感に拍車をかける事は自覚していたし、後で後悔するかもしれないとも分かっていた。だが見守る以外になにも出来ないメディスンにとって、今ほど巫女の存在に感謝した時もなく、良い方へと向かえるのであれば少しだけ身が軽くなる想いだった。
それと、メディスンは幽香を信じる事にした。一体なにをしようとしているのかは分からないが、証明してあげる、と言った幽香は嫌な感じひとつしなかったからだ。
「ん、あれは?」
妖怪花の根元、激しい弾幕戦を繰り広げる空間に、なにやら不釣合いなやかましい声が聞こえた。カラスが喚くような騒々しさにメディスンが目を向けると、そこには見知った顔がふたつ、花が山盛りのリアカーの傍で言い争っていた。
「あ、あいつら。こらー!」
勇んで飛翔し、通り抜けざまに口論の元をかすめ取る。メディスンの腕の中でもごもごと動いたそれは、鈴蘭から貰ったあの人形だった。少しだけぐったりした人形が腕に抱きついてくる。
「スーさんになにするのよ、ひどい事したらゆるさないわよ」
「ああ、メディスンのだったのかい。だーからほっとけって言ったのに」
死神の小野塚小町が長身を翻して頬を指でかいた。束の間メディスンと目を合わせていたが、すぐにその隣で獣の眼をギラつかせる火焔猫燐に非難の声をかけた。息を荒らげるお燐の視線はずっとメディスンの人形に注がれており、不気味な光を覗かせている。
「だ、だって、そいつちょこちょこ動いてたから、なんていうか、掻き立てられて」
なにが、とは聞かず、メディスンは後ろ手に人形を隠す。見るからに情緒不安が騒いでいる顔からして、ろくな答えは聞けないだろう。睨んだ顔を寄越すメディスンに、小町は目を伏せがちに、否定を現すポーズをとった。
「いや、そのちっちゃいのがさ、散らばっている花を植え直していたみたいでね」
「スーさんが?」
鈴蘭畑から飛び立って、幽香達が居た空域の直前で別行動をすると身振りで示した人形が、よもやこんな所で花を助けていたとは。不思議、と言うか花から生まれた故にそういうところに敏感なのだろうか。メディスンが腕の中で元気を取り戻した人形を見つめると、こくりこくりと頷いて短い両手を振る。その様子から必死さが伺え、なんらかの想うところがあるように感じられたメディスンは、決めた表情で口をきゅっと結んだ。
「スーさん、わたしも手伝う。あんたたちも手伝ってよ」
「手伝うもなにも、あたい達だってやってる事は同じさね。ほら、お燐」
「はいよ、ぐずぐずしてると花のおねいさんに叱られちゃうからね」
そう言うと、ふたりは腰を曲げて花の植え替えに戻っていく。
幽香が望んでいる? 首を持ち上げたその認識がメディスンの胸を高鳴らせた。突き動かされるように足元に転がっていた黒ずんだ花を植え直し、メディスンはやっと捕まえられた感慨を抱きしめてその花を見つめる。満面の笑みのメディスンの様子に呆気に取られた小町とお燐だったが、顔を突き合わせてにやりとし、負けてられないとばかりに手を動かし始めた。
ようやく見つけた幽香の望み。やはりそれは土の匂いがするささやかさで、でも大きな感慨を残していった。拭ったおでこに泥をつけ、上空で戦っている幽香の存在を感じながら、メディスンは少し近づいた自分のやりたい事に瞳を震えさせた。
真下が賑やかだと想えば、メディスンが小町、お燐と共に花を植え直していた。振動に揺さぶられながらも、各々がしゃがみ込んで忙しなく動いている。
その様子は幽香の心に一振りの種を蒔く為の光景として十分であった。幽香がひとりで花の世話をしていた頃と比べれば、あそこにはその時に無かったものが在るように感じる。孤独とか、自閉的なものではなく、もっと独りよがりな感覚が想い起こせるが、今の幽香にはもっと別のものが満ち溢れている気がした。その独りよがりをメディスンには感じてほしくなかった幽香は、嬉しさの種、と比喩した子供特有の湿ったれた笑顔を脳裏に浮かべた。
「ほらほら、働き蟻に構っていられる余裕なんてあげないわよ」
飛び回るお札、空間を超えた弾幕の合間から切り込んだ声に意識を引っ張られて、幽香は目の前のスペルに集中した。紅白のお札が前から後ろから、いや、全方位から押し寄せてくるスペルカード夢符『二重結界』は、この空間をお札で埋め尽くさんばかりの勢いでもって展開されていた。お札弾は前方で消えたかと想えば横合いから飛び出し、避けたかと想えば突き上げるように下方から現れる。結界という空間と空間を接続したアダプターを通り、縦横無尽にお札が駆け回るそこは、さながら弾幕嵐と呼ぶに相応しい。
その嵐の中心で結界の維持に力を注いでいる霊夢が、弾幕の隙間でほくそ笑んでいるのが幽香には見えた。飛び退りながらもあの口から出た働き蟻という言葉に引っかかるものを感じた幽香は、次に左から突き出てきたお札を鼻先で避ける。確かに、この上空から見たメディスン達は小さくなって、働き蟻に見えない事もない。だが、
「きっと、みんなやりたい事を考えて、それで幸せになろうとしているだけよ」
弾幕とはまた別種の、言葉の矢が飛び交うお札弾を無視して霊夢に突き刺さった。その一瞬に嵐の密度が薄くなったのを見逃さない幽香は、掌から小さな弾丸を出す。弾丸は身動ぎする事もなく、ただ出された空間に根を張るように留まった。霊夢がそれに気付いていないのを確認して、幽香は背後からのお札を見ずに避けてみせた。
やりたい事? 頭を軽く振って結界を維持する集中力を呼び寄せ、霊夢は霊力を練り続ける。
「働き蟻じゃないってんなら、なにさ」
幽香を正面に捉えた口から強張った声が出る。戦いの最中という割りにはどこか朧げで、不安と憂いを感じさせる声色が、幽香の耳元をくすぐった。そこに先ほどまでの快活さは無く、一片の揺らぎを見出した幽香は、またひとつその場に弾丸を置く。
結界内の弾幕は変わらず幽香へと襲い来るが、もう当たる気はしなかった。結界の維持と弾幕の制御を一時に行うのは難儀だと踏み、どちらかが必ず疎かになると予測した幽香は、すでにこの結界を読んでいたのだ。
実際のところ、霊夢は結界の維持に重きを置き、その代わりに弾幕をパターン化している。もちろん、そのパターンはひと目で分かるほど単純でもなければ、ご丁寧にパターンだと読ませない為にランダム弾も紛れ込ませている。だが、個々のお札に込められた殺気の濃さでそれを肌身に感じた幽香に、通用する道理は無かった。
それでも幽香はぎりぎりのところで弾幕を躱す。すれ違い様にお札に記されている滅の一文字さえ読み取り、幽香は霊夢の言葉に耳を傾けた。
「誰だって願いが在るのは分かる。あんたも願いが在ってここに居て戦っているんでしょう? 願いって言う女王様に従う働き蟻、私だってそう。なんの違いがあるのよ」
自らに依頼しに来た村人達の顔を浮かべ、苦いものが込み上げてくる。口々に日々の平穏を願う彼らを、働き蟻だと比喩したのはなにも馬鹿にしていたからではない。その中に霊夢自身も含めた働き蟻たらしめる要素を見つけ、それ故にそう名付けた。皮肉と言うより自虐さえ込めて、すがり付くような想いを込めて。
働き蟻でなければなんだと言うのだ。願いとは人を突き動かす動力源で、それが無くなれば死んだも同然、本当に生きているかどうか怪しいものだ。ならば働き蟻で生きていく方がマシ、なにも無くなれば働き蟻でさえいられない。もしそうなれば、どうなるのだ。また必然を押し付けられる世界に戻るのか? また誰も認めない『博麗の巫女』に戻るのか? そんなのは、いやだ。
緩慢とした、しかし明確とした不安の塊が、心を押し広げて胸を圧迫する。濃く出しすぎてしまったお茶に似た、苦味と渋味が混ざり合ったものが口中に滲みる。動悸が激しくなるのは期待や希望ではなく、失う事を危ぶむ警鐘だった。それがさらに霊夢の焦燥感をじりじりと焼いていった。過ぎ去ったものが未だこの身に根付き、そして今の自分を構成している一部になりつつあるという事実が、恐ろしくて堪えられない。またいつかあの頃に戻るかもしれないという不安が、霊夢の小さな胸を圧迫していたのだ。
「あいた!」
開いた? なにが?
突然湧いて出た声に思考を掻き回され、霊夢がいつの間にか伏せていた顔を上げる。視界に入ったのは変わらず吹き荒れる弾幕と、風見幽香の痛みを我慢した渋い顔。後頭部をさすっている姿を見るに、お札の一枚でも当たったのか?
その割にはまた身軽な回避をし始めた様子に訝しげな目を注いだ霊夢は、幽香がきょとんとした顔をしてこちらを見つめているのに気付いた。まるまると開かれた眼で、狐に摘まれた顔を向けている。
「なにしてんの?」
「あんまり変な事言わないでちょうだい。うっかり被弾しそうになっちゃったじゃない」
いや、明らかにそれは被弾だろう、という言葉を飲み込み、戦闘の只中という光景が霊夢に結界の維持を促す。しかし次に発せられた幽香の声が再び霊夢の意識を掻っ攫う。
「願いは願い続けている限り、決して失くならないわ」
その言葉が、すとん、と霊夢の心に落ちてきた気がした。
「願いを叶える力を持つ人はね、ひとつ願いが成就するたびにまた新しい願いを見つけてくるの。それに、願いを生むのは人の感情よ。喜怒哀楽、多種多様な感情が人の願いを見つけ出す、搾り出す。私の知っている小さい娘がね、こう言ったの。幽香は私の嬉しさの種だねって」
「嬉しさの種?」
「ええ、きっと考えて言った言葉じゃないわ。でもあんな娘だから、口先だけで言った訳でもない。私はずいぶんその言葉に救われた。感謝してもしきれないくらい」
幽香はふと視線を下に向けた。その先に居るであろう小さい娘を、霊夢は知っていた。共に見下ろした花の塚には、死神と火車と、土に紛れた小さな影がひとつ。一所懸命に、無邪気に、そして楽しそうに。拭った汗が滴り、赤土と混ざれば妖怪花も喜ぶように蕾を持ち上げた。みながその光景に、もうじき、という言葉を浮かべる中、霊夢だけは小さい娘の笑顔に既視感を覚えた。
「あと、霊夢」
名を呼ばれ、静まっていた回転数が高鳴る。
「貴女がそんな事で止まるようなタマかしら?」
にやり、と、結んだ口元に薄いリップが映え、化粧も悪くないかもね、と胸中に浮かべた霊夢は、むず痒い想いを抱いて無性におかしくなってきた。合点がいくとか、納得するとか、人間そのような境地になるとこんなにも笑えてくるものなのか。
そうだ、そうだろう。だって誰に言われるまでもない、自分で自分の事を決めると決意したあの時に、夜通し魔理沙と笑い合った。知らず酒宴に付き合ってくれた親友は、口を輪にして笑ってくれた。この身に新しい歯車が生まれた偶然は、霊夢自身が引き当てた事。同時に生まれた願いは、今もこの胸に息づいている。なら、想う存分廻すだけだ。
「ああもう! めんどくさい! 私にこんな事似合わん、一気に決めるわよ!」
弾ける声と対照的に、ふっと掻き消えるお札の嵐。変わらず二重の結界は舞台のように張り巡らされて、静まり返った戦域は新たなスペルの幕開けにて再び活気付く。
「宝具『陰陽鬼神玉』!!」
練りに練った霊力を一気に解放し、青白い巨大な陰陽玉を顕現させる。霊夢のありったけの霊力を、ありったけの想いを乗せて、鬼神玉が空気を唸らせて幽香に押し迫る。
力に手数では勝てなくても、同じ力でなら互角以上に渡り合えるはず。今自分に出来る事であんたを超える。最大限の力技でねじ伏せてこそ、あんたに勝つ事に意味がある。私にとっての最高の偶然があんたとの出逢いなら、私はどこまでも強くなれる。そう、幽香のように。
巨大な陰陽玉が眼前に拡がり、先程までと逆の立場になった幽香へと襲い掛かった。幽香の向日葵弾とは比べ物にならない巨大さに、細めた口元から感嘆の吐息が漏れる。
「恐れ入ったわ。でもね」
こちらも底知れぬ妖気を一気に膨らまし、幽香が両手を前に突き出す。弾幕の嵐に置いてきた小さい種に、ぴしりと亀裂が入った瞬間、萌芽する妖力が炎を上げた。瞬く間に拡散、収束を繰り返し、妖力の塊が急成長を遂げ、霊夢の鬼神玉にカチ合った。
それは向日葵ではなかった。小さな、いや、目の前にするには巨大すぎる太陽がそこにはあった。激突した鬼神玉に負けない力で押し合い、プロミネンスが炎を戦慄かせる。張られた結界の内壁を食い破り、膨張した空間が熱波でひしゃげる。空に浮かんでいるはずの太陽が、霊夢の視界を焼き尽くした。
「そうこなくっちゃね! だから、あんたには負けられないのよ!」
霊夢が両手を前へ押し込めるように張り出すと、鬼神玉も勢いを増して太陽を押し返す。鬼神玉と太陽が触れる表面が激しい火花を放ち、雷鳴のごとき轟音を戦域へと震わせる。均衡した力と力は乱気流を生み、弾幕の嵐とはまた違った暴風を巻き起こした。
それは地上に居るメディスン達にまで届き、凄まじい光景となって網膜に焼き付く。スーさんと名付けられた人形が危うく飛びそうになるのを制し、自らの肩に掴まらせると長身を屈ませた小町が大声で叫んだ。
「どーしてこうなるのさ! なにがなんだか分からんのよ!」
「ゆーか! がんばって!」
隣で土に這いつくばったメディスンが、さらに負けない声を張りあげた。幽香と巫女は決着をつけようとしている。それを見届けるのも、私の責任なんだ。メディスンは荒れ狂う強風に立ち向かいながら、ふたりの戦いを見守った。
その時、赤毛の三つ編みをはためかせ、お燐が妖怪花を指さし催促の声をあげる。
「ねえ、あれ見てみなよ!」
メディスンと小町が促されて見れば、今まさに妖怪花が蕾を開こうとしているところだった。幾万ともしがたい花々の精気を吸い、妖怪花の開花が始まった。頭と言える蕾を天高く突き上げ、桁外れのスケールで花を咲かせる。
いよいよだ、と想いながら、メディスンは愕然と息を飲み込んだ。
「あ、あれって……」
霊力と妖力の塊が激突する傍らで、乱れ荒ぶる暴風でも微動だにしないその巨体が開花の咆哮をあげた。黄色い花弁が蕾の中心から盛り上がり、生まれた事を喜ぶような煌めきを見せる。太陽を独り占めした想いで花開かせ、日光が透けた黄色に花の塚が包まれた。
「こなくそー!」
同じく咆哮を身体全体で叫んだ霊夢が両手を前へとにじり出る。もはや妖怪花が咲いたかどうかは関係なく、全身全霊をもってして眼前の太陽を押し返す、その想いだけが霊夢の力を後押しした。気迫と霊力、それに負けられない想いが身の内の歯車を激しく回転させる。高鳴る歯車が組み込まれ、鬼神玉の力を底上げした。
均衡を破った鬼神玉がじりじりと太陽を押しやる。じわり浮かんだ汗を拭いもせず、霊夢が渾身の霊気を放った。勢いを増し、鬼神玉は太陽をすくい上げるように猛進する。徐々に詰め寄って来る太陽弾と鬼神玉が幽香の妖力さえも圧倒し始めた。
「ふふっ 昔よりも、やるようになったじゃない」
「うわああー!!」
勢いを止めさせない、あんたと一緒くたに押し返してやる。
そう叫ぶ視線が、幽香のそれとカチ合った。身動ぎひとつ出来ない両者が、ぶつかる視線に言葉を探す。負けない、負けたくない。一心にその瞳の光を輝かせる霊夢が、己の限界を超える。もはや止めようのない速度で押し返され、太陽がわずかに悲鳴をあげた。
ふ、と、幽香が吐息を漏らし、途端にがくんとつんのめった鬼神玉がさらに勢いを増した。太陽弾は為す術も無く形を変えられ、レモンのようにひしゃげた姿が鬼神玉ごと幽香の眼前を埋め尽くした。少なからず嬉々とした輝きを弾けさせた霊夢の瞳に、しかして幽香の視線が重なる。探すどころか押し返された言葉が、輝きと共に霊夢の脳天を貫いた。
――――負けてあげない
置いてきたもうひとつの種が萌芽する。押されたひとつ目の太陽に触れた刹那、その種が烈火のごとく開花した。紅きプロミネンスが幾筋も弧を描き、炎を煮えたぎらせて血潮のように駆け回る。幽香の底無しな妖力を爆発させ、ひとつ目よりも一周り以上大きい太陽が、霊夢の鬼神玉を事も無げに押し返した。
轟音を引き連れて極大の太陽が迫り上がる。ひとつ目の太陽は跪くように収縮し、それを吸収したふたつ目の太陽がさらに妖力を得てその身をたぎらせる。その姿に本物と言ってもおかしくない力強さと尊大さを見せつけられた霊夢は、もはや呆然として目を見開いていた。統合された太陽弾が鬼神玉をも飲み込もうとし、寄り切った巨体が炎を連々と上げる。鬼神玉にプロミネンスの道が縦横に走り、刻みつけた焼け跡が霊夢の脳裏にも焦げ付くものを残していく。
「邪魔はさせないと、そう言ったでしょ」
ふわり、と、緑の髪が揺れる。その瞬間、霊夢に風が吹き抜け、鬼神玉に亀裂が生まれた。瞬く間に表面を亀裂が走り、中心核にまで到達すると雪崩のように瓦解していく。太陽に競り負けたその身がいくつかの塊に割れ、そのまま炎と一体になって飲み込まれる。咀嚼するように炎が蠢き、塊の大半が沈むと太陽はゆっくりと上昇していった。
「あはは、信じらんない。ばかじゃないの」
振り切れてた歯車がどんどん速度を落としていくのが分かる。霊力と気力を出しきった身体が鉛のように重く、手足をだらりと下げた霊夢が苦笑交じりに呟いた。
紛れも無く自分は持てる力のすべてを込めた。身体中に残る疲労感がその証拠だが、それでも勝てなかった。目の前に佇む花の権化はそれすらも飲み込み、疲れも見せずに平然と妖怪花を見上げている。まだまだだ、そう想えた自分の心情に悔しさとは違うものも感じられた霊夢は、呆けた横顔につられて目線を上げた。
「……やっと咲いたわ」
「きれい、ね」
つい口を出た言葉に自身が一番驚き、霊夢が少し顔を赤らめる。柄にも無くそんな言葉を呟いた事を、誤魔化すように口を尖らせた。
「あ、あれはなんて花なのよ」
そう早口に言った質問を、幽香は昇りつつある太陽弾に照らされた顔で受け止めた。
「ルドベキアだ……」
呆けた声色でメディスンが言う。小町とお燐がそちらに振り向いて、途端にふたりは困った顔を突き合わせた。ぎゅっと抱きしめられた小さな人形も、心配する素振りでその顔を見上げる。人形の頬に、ぽたり、と雫が落ちて糸を引いた。
メディスンは泣いていた。震える瞳を湿らせて、瞬きもせずに。視線は巨大な花を捉えて身動き出来ず、黄色い花弁に太陽の色を覚え、心へと吹き付ける風ともつかない緩やかな流れを感じながら、メディスンは泣いていた。流れはやがてメディスンの全身に行き渡り、心に負った霜焼けさえも癒してくれるような温かさを持ち始めた。爪の間に入り込んだ土の感触が伝わる。鼻に通る土の匂いがさらに心を堪らなくする。込み上げて来るものすべてが、自身の中から生まれたものとは想えないほどに充実している。メディスンは、右手で顔を覆った。
瞼の裏、さらに指さえ通り越して太陽の色が網膜に映り込む。それは幽香と出逢った時を想い出させる光の色。とても眩しくて、けれど優しくて。信じられないほどの温かさを分けてくれる恒星の色が、メディスンの脳裏と瞼の裏に浮かび上がる。その光景に、見慣れた緑のウェーブが動いている。
「ううう……うっぐ、うううぅぅ」
もう、なにを言おうとしても言葉にならないのは分かっていた。でも、伝えなければいけない、その想いだけが唇を空回りさせて、けれどまた喉が痙攣してしまい息をする事さえ難しい。しゃくりあげた息遣いが身体を小刻みに揺らし、言葉にならない言葉達が小さな胸でつっかえてる。せき止めているわけじゃないのに出て行けず、飛び出してしまいたいと必死にもがいてる。形になるのを忘れた言葉達が、メディスンの中で渦を巻いた。
けれどメディスンはそれでもいいと想った。例え言葉に出来なくとも、喋って伝える事が出来なくとも、いつも傍に居るひとは私の言いたい言葉を知っているから、それだけでいいと。ゆっくり私の髪を撫で、その温もりの代わりに私の胸で詰まっている想いを連れて行ってくれる。優しい微笑みで語りかけ、知らないうちに私の心に種を蒔いてくれる。でも、いつか、種が芽を出して花を咲かせたら、見せてあげられたら、素敵だな。
「うっぐ、ぐす……うぅわあぁぁ~ん」
涙が止まらない。止まらない言葉が涙に溶けるのも止まらない。大声でしゃくりあげ、泣き出したメディスンの想いが止まらない。頬を湿らす涙は滝のようで、抱きしめられた小さな人形はメディスンの想いに溺れそうだった。小町とお燐の胸に響く想いで、それに呼応するかのように、巨大な花がより輝きを増す。
妖怪花はルドベキアの花。メディスンの一番好きな、メディスンの花。幽香との想い出を映す花が、感謝の咆哮をあげる。
「すごい……」
その光景は霊夢の目を釘付けにした。本物の太陽と幽香の太陽の力を吸収し、巨大なルドベキアがほんのりと輝いたかと想った瞬間、なにかが拡がるのを感じた霊夢は感嘆とした息を吐いた。巨大ルドベキアの根元から、波紋のようにモザイク模様が拡がっていく。赤や青、黄に橙や紫。様々な色彩のモザイクが緻密に敷き詰まって周囲を飾っていく。それは精気を吸い取られ仮死状態になっていた種や子株、巨大ルドベキアに精気を貸していた花々が一斉に咲き誇ったのだ。
掘り上げられた赤土を覆い隠し、花の塚が花の産土へと生まれ変わる。モザイク模様は勢いを衰えさせずに幻想郷全体へと拡がっていった。小町とお燐がばら蒔いた花も、村の黒ずんでしまった作物も、すべてが精気を取り戻し、青々とした活力を取り戻していく。
「うへー、こりゃ綺麗だ。三途の河の彼岸花にも負けず劣らずといったところかね」
「すごいすごい! ただでさえ地底では花は珍しいのに、こんなにいっぱいの花、さとり様だって見た事ないよきっと!」
花々の絨毯は清々しい匂いを放って小町とお燐を包んでいた。三つ編みを弾けさせて大の字に寝転がり、大きく息を吸い込んだお燐は、鼻をくすぐる生命力にむせ返りそうだった。ふわふわと身体中を覆うのは眩しい日差しと優しい温もり。寝心地の良い主人の膝の上を想い出し、お燐は精一杯伸びをした。
もはや楽しまなければ損だと想えた。小町は後に残る懸念材料を頭の片隅に退けて今を楽しもうと、どこからともなく酒瓶と盃を取り出した。距離を操るくらいどうって事ないのだが、こと自分と仕事との距離を上手く保てない小町は苦笑いでとくとくと酒を注ぐ。きっとたくさん叱られるだろうが、上司との折り合いも距離を詰めてこなしたいと想う。ぐびり、とやれば胸元を熱が通り過ぎ、小町は一時の酔いに溺れた。
幻想郷中が花に包まれていた。拡散した精気は作物の種を叩き起しては芽を吹き出させ、枯れそうになっていた植物さえも蘇らせる。綿毛になりかけていた蒲公英は黄色い花弁を呼び戻し、散りかけた桜は最盛期を想わせる賑わいを見せ、竹は稲穂のような花をつけた。それは生命の歓喜。喜びを形にした花々は、様々な人々に感慨を残していった。
作物の成長を一心に願っていたある百姓は嬉々として飛び上がり、花の開花を心待ちにしていたある妖精は小躍りし、なんぞ異変かと今更慌てだす粗忽者もいれば気にも止めず花見をやり直す者もいる。往々にして十人十色の様相を呈し、その場その時に相応しい色をつける。花はその想いに促され、やはり無限に顔色を変えていった。
花とはなんだろう。花を美しいと想わない者はいない。何故なら花は人の心に美しいと想わせるなにかを持っているからだ。美しさの基準は人によって様々だが、ある一定の心を動かすに値するなにかがあれば、きっとそれは美しいと想えるのだろう。花は、小さくとも大きくとも美しいものには変りない。
同時に、花を花以上のものと捉える者は少ないだろう。花は花で、それ以上でもそれ以下でもない。その固定概念然とした見地は花の価値を定着し、永久不変な美しさを約束してくれる。
だが、花は美しいという事実が一人歩きしてしまってはいないだろうか。先に行ってしまった概念が今この場で目に映る花の本質を陰らせてしまってはいないだろうか。すり込みによる習慣化は怠惰的ではないにしても、なにかしらの停滞感を抱かせる。人は花の後ろにある『美しい』という言葉に急かされて、本質を見逃しているのではないか。
花の本質は生命である。生きる事が花の本質で、それこそが絶対不変な真実であるはずだ。誰にも変えられない、誰も逃げられない、誰も逆らえない。極論とも、曲論とも言えるだろうが、ならば何故人は花を美しいと想える?
それは本質を見れば自ずと導き出せる生命の輝き。謳歌するにはあまりにも短くて、あまりにも気高い生命の歓喜。それをして人は美しいと見出し、そして人は、それを美しいと想える心を持っている。花だけが美しいのではなく、花を育て、見守り、慈しみ、愛でる心があればこそ、そこに美しさが咲き誇るのだろう。
そうして、必死に考えた妖怪が居た。
「メディ」
いつの間にやら傍に居た幽香がその緑のウェーブを揺らす。瞬きをすれば見逃してしまう感情の身震いを、メディスンは髪を掻き上げる仕草に垣間見て、自身もその瞳を鈴蘭のように揺らした。すっと差し出された指先が鈴蘭に触れる。それは泣きじゃくって腫れた頬には堪らなく刺激的な、心の浅い部分にさざ波を立てる春の日差しに似ていた。やがて深みへと光が届けば、何者にも遮れない温もりをメディスンに確かに感じさせてくれる。
溢れる涙を拭った指先がそのままメディスンの金髪を撫で、しっとりとした土の匂いを残していく。奏でられた息吹を吸い込み、胸の内側に熱が生まれた。
「貴女に伝えたいことがあります」
巨大なルドベキアが変わらず輝いている。聳える姿はそれこそ太陽のようで、後光に輪郭を強調された幽香をメディスンの視界に浮き上がらせた。
「あのルドベキアを見つけたのはついこのあいだ、まだ小株だというのにすごく元気な力で、冬が終わったばかりなのに根を深くまで伸ばしていました。いくら生命力の強いルドベキアでも、それは異常でした。探ってみれば僅かに妖気を纏い、妖怪変化の予兆が感じられたのです。私は、それを害虫と同じく駆除しようとしました」
淡々と、しかし芯を持った声がメディスンの耳に届く。交わった瞳が微かに怯えているように見え、髪に触れる指にも強張りを感じる。それでも瞳は真っ直ぐ見据え、メディスンも応えたい気持ちで見返した。
「このままだと他の花にも被害が出るのも分かっていましたし、もしかしたらとんでもないものに妖怪変化するのかもと予想したからです。そして手にかけようとした時、ある事に気付きました。それはこのルドベキアが生きている理由です。私はなんの信憑性も無いその理由がとても愛しくて、ついに駆除出来なかった。だから、信じることにしたのです。その理由も含め、もし私の考えていることが当たっているとしたら素敵だと想ったのです」
メディスンの鼓動が高鳴り、見つめ返した瞳の奥で仄かな光が弾けた。自分の中で言葉にならなかった想いが、幽香の中で形になっていくのが分かる。その光がルドベキアの輝きと重なって、見覚えのある色をしていたからだ。
「私はひっそりとそのルドベキアを育てることにしました。希望と不安を半分に、きっと私のやりたい事に繋がると信じて。いいえ、不安の方が大きかったかもしれません。だって今でもこうして動揺しているんですもの、腹が立つよりも悲しくなります。だけど良かった。信じて良かった。私の考えていた事は当たっていたのですから」
黄色い輝きが一際強くなったかと想うと、幽香がルドベキアに振り向く。ウェーブが舞い上がり、黄色い光線に混ざって緑のハイライトがメディスンの瞳に焼き付いた。
「メディ、あれは貴女が去年育てていたルドベキアなの。ルドベキアは多年草。貴女が一所懸命に世話をした株が冬を越し、今年また花をつけようとしていた。私はそれが堪らなく嬉しかった。たとえ不安に沈みそうでも、メディが育てたルドベキアだから信じられた。花は心の鏡だから、育てたメディとおんなじ、良い子だと信じてたから」
言葉尻の震えがメディスンに伝わった。泣いているの? という言葉は相変わらず小さな胸につっかえ、その分、瞳から溢れる涙の量を増やした。それでもその思惟が届いたのか、幽香はこちらを向こうとしない。ぐず、と、メディスンの声が上ずる。
「嬉しさの種を私も見つけたの。メディっていう、ちっちゃくてかわいい、まだ手のかかる甘えん坊な私だけの種。貴女の存在が私の中で花開いて、どんなに救われたか。ひとりで花と向き合ってた頃はね、不安で仕方なかった。花が心の鏡なら、私の目の前で咲いている花の色を見るのが怖かった。もし、くすんだ色をしていたら、醜い色をしていたらって考えてしまって、世話をしながらその実、顔を逸らしていたの。でも、貴女が私の傍にいつも居るようになってからは、だんだんと花と向き合う勇気が持てるようになっていくのが分かったわ。私の心にね、花が咲いていくのが分かるの。そしてやっと花と向き合おうと想って、あのルドベキアを見つけた。あの子、私に手をかけられようとしているのにね? それなのに笑いかけてくれたの、私に」
ふたつの太陽の光がさんさんと降り注ぎ、巨大なルドベキア共々、花達は一層の輝きを見せる。様々な色の花弁が入り乱れ、風に靡いてはモザイク模様がようようにさざめいた。その色にまるで感情のような波を垣間見て、メディスンは幽香の言葉を聞きながら見入ってしまった。
幽香は耳元の髪をかきあげ、落ち着いた声色を響かせた。
「花はほんとうに心の鏡だわ。真実、少しの狂いも無く心の隅々までその身に映して咲き誇ってる。そしてその心を育むのはやっぱり感情なの。感情は人との繋がりで喚起されて、嬉しさの種になってその人の心に根を張り、いつか花を咲かせる。いつか必ず。メディ、貴女に伝えたいことがあるの」
幽香がメディスンに振り向き、柔らかな視線を瞬かせる。優しく、温かいその表情をメディスンは知っていた。
「ありがとう。メディ」
幽香の顔に微笑みが花開いて、メディスンは心の種が芽吹く気がした。緩やかに押し広げられる感情の波紋が形を持ち始め、やがて凝縮された一粒の種になる。その小さな強張りがひび割れて、隙間から顔を出した緑色が明確に知覚出来るまでになると、もはや心から溢れ出した嬉しさに全身が満たされていた。メディスンの形になるのを忘れた想いが、幽香の言霊に結実し、相乗するように息吹を帯びてくる。震えた視線は今、それを捉えて離さない。メディスンは両腕の力をより一層強くし、小さな胸を人形と一緒に抱きしめた。
絡み合った視線が、言葉になるのに追いつかないほどに浮かび上がってくる思惟を間断無く飛翔させる。形を為さないが故にそれは何者にも縛られず、空間を通り越してどこまでも響き渡り、温かさを湛えながら広がっていく。言葉にならないが故に輝きとなって、包み込むような優しさを如実に感じさせる。
もしかしたら、言葉というのは一種の果実なのかもしれないと、メディスンは想った。心に芽吹いた種は人との繋がりによる感情で成長し、花を咲かせて実をつける。その実った果実が言葉となり、伝わった相手の心にも種を残して――――
円環の中で、世界の中で、人の中で。言葉という果実が膨れ上がっていく感覚を覚えたメディスンは、ルドベキアの花を咲かせる。
「わたしも、ありがとう、ゆーか」
涙を一杯に溜めた瞳で幽香を見つめ、不思議と喉の痙攣も抑えられたメディスンは、こちらもやはり落ち着いた様子で言葉を紡いだ。その声色に大人びた印象を受けた幽香が少しばかり目を丸くし、やがて表情を緩ませると掌を差し出してくれた。
繋がった思惟を感じるまでもなく、次にメディスンはその温かい掌に飛びついていた。もう逃すまいと急いで掴まえた土の匂いを胸にしまい込み、勢いそのままにたたらを踏む。一時にメディスンの重さを受け取り、両腕で支える形になって二度驚いた幽香が、身体全体を正対させた。向き合った笑みと笑みが嬉しさの種を生むと、巨大なルドベキアとその周りに咲き誇る花々も笑っているようだった。
この光景にどれだけの人が、なにを想って見ているのだろう。肩で息をし疲労困憊ではあるが、浮かんだまま空を仰いでいる霊夢は清々した面持ちで佇んでいる。ごろ寝したお燐は幻想郷中を駆け回ったせいだろう、もうすでに深い寝息をたてて夢を見ているようだった。夢の中で誰と遊んでいるのやら、耳をぴくりと動かしては花のベッドで寝返りを打つ。そのすぐ近くでは小町が酒を呑んで出来上がっていた。なにかに追われるように盃を傾け、楽しんでいる様子ではあったが笑顔があまり上手ではない。
それぞれの人々の中にも花が咲いているのだろうと、メディスンには想えた。この場に居なくとも、花が咲き、種が実る光景は誰の心にもなにかを残していくはずだ。きっと、その姿に身近なものを重ね、少なからず感慨に浸ろうとする心を持っているはずだ。花に自分自身を映したり、誰かの幸せを願ったり、時には運命すら覗こうとする。それは人が弱いからではなく、ただ繋がりを持とうとした結果なのだ。恐れない事が強さの証だろうか。何者も寄せ付けない高みが強さの条件だろうか。そうではなく、繋がる指先たったひとつでメディスンはどこまでも強くなれる気がした。恐いものなんて幾らでもあるし、誰にも頼らずに生きていく自信も無い。だけどこの傍で見上げる人が居ればと、そう想える強さを花は教えてくれた。
同じように、花は誰の心にも語りかけてくるのだろう。そうでなければ、花に美しさを見出せず、こんなにも愛せる訳がない。花は心の鏡と言うのならば、花を愛する事は人を愛する事に他ならない。自身の心を糧に育った花を愛でるのは自分自身を愛でる事。それに気付くのはもっと先になるかもしれないけれど、誰の心にも宿る美しさを忘れてはいけないのだと、メディスンはあのルドベキアに誓った。
輝かしい光が、淡く憂いを帯びてくる。短くも力強いその姿を、忘れるもんかと記憶に刻みつけたメディスンが、繋がる掌を強く握る。握り返してくる掌はさらに優しくて温かくて強くて、溢れる土の匂いが、メディスンの鼻をくすぐった。
※
春も折り返しを過ぎて、梅雨を迎えようと雲が忙しなく通り過ぎて行く。風に散らされる事も無く、だんだんと白く大きい雲が目立つようになってきた空は、青い色をまばらに見せるばかりで季節通りの模様を呈していた。流れる空気に湿り気を感じ取れれば、鬱陶しい梅雨はすぐ目の前である。だがひと足早い夏の雰囲気をかもし出す赤色がとてもおいしそうに見え、まだまだ緩い日差しを遮る軒先の縁側に座った霊夢は三角形の頂点に噛み付いた。口の中で仕分けた異物をぷっと吐き出すと、その甘味を堪能した目元がだらしなく緩む。
「巫女ー、来るのは夏じゃなかったのー? っていうか、ほんとに来るんだ」
目ざとく嫌味を放つメディスンを受け流し、霊夢はスイカの種を勢い良く飛ばした。先取りした夏の風物詩は、甘みが最高でよく身が詰まった素晴らしい出来上がりだった。こんなおいしいスイカを妖怪ふたりにだけ味わわせるなんて勿体無い、と予告した夏ではなくこの梅雨前に喜び勇んで霊夢はやって来ていた。あの妖怪花が遺していった異変を、霊夢はさぞや嬉しがっているに違いない。
巨大なルドベキアに溜まっていた精気が解放されて幻想郷に満ちると、通常の植物に有り得ないほどの急成長が現れた。ルドベキアの中で純度を増した精気のせいだと想われるが、夏に咲くはずだった花が咲き、夏に収穫されるはずだった作物もそのおかげで早すぎる収穫を迎えていた。未熟と言う訳ではなく、完全に育ちきってるこのスイカを見るに妖力を帯びた精気が植物達になにかしらの影響を与えたのだろう。言うなれば、借りていた精気の利息代わりか、と霊夢はひとりごちてまた種を飛ばした。
しかしこの異変も秋には終息し、元のサイクルに戻るはずだと聞いた。少し残念ではあるが、それが自然の強さなのだろう。
「また来るって言ったから来たのよ。別におかしくないでしょ」
「わたしが言いたいのはそこじゃないんだけどね。ちょっと、種を粗末にしないでよ」
「あ~、はいはい。土遊びさまさまよね、こんなにおいしいのが出来るんだもん」
ニヤリと笑った顔でメディスンに催促の視線を向けた。せっかくだからお土産に、とでも言いたげな目配せに、メディスンは強かさよりも図々しさを覚える。小さな人形もその傍で肩をすくめ、やれやれと身振りで現した。
観念した吐息をし、霊夢の隣に腰掛けたメディスンは自らもスイカに齧り付いた。なるほど、やっぱり幽香と私で育てたのだから、おいしいのは当たり前だ。愛情を込めた分だけ真摯に応えてくれる、幽香の言葉は間違っていない。
「そう言えば、あいつは?」
「ゆーかなら、ほら、あそこ」
メディスンが指さしたのは縁側の正面にある太陽の畑だった。やはりそこには精気の影響で咲き誇り、満開を迎えたいくつもの向日葵が太陽へと背を伸ばしていた。その中の数本が、風ではない不自然な揺れ方をし、霊夢はあの恐ろしげな弾幕を想い出して少しばかり身を竦める。それを知ってか知らずか、メディスンが掛け声を張り上げると応えた向日葵が余計に揺れ、さらに霊夢の心を粟立たせた。きっとあの向日葵の根元であいつはまた土に混じって世話をしているのだろう。
まったく、迷惑な話である。『ありがとう』という五文字を伝える為だけにあの騒ぎを起こしたと言うのだから、霊夢はあの花の権化の考えように流石にげんなりしたものだった。それに放っておいても別段悪い方向へと向かうような異変ではなかったのだし、これでは博麗の巫女も形無しである。振り回された自らを顧みて、やはりまだまだだと口内で呟き、甘みの減った赤い果肉に歯を立てる。
「あいつには困ったものだわ。昔からそうだけど、周りを巻き込む変な癖をどうにかしてほしいものね」
種も入ってない果肉はやはり甘くない。それでも貧乏性が赤身を残らずたいらげさせ、余った皮は働き蟻も寄り付かなかった。均等に歯型が付いた皮を見つめ、メディスンは鼻を鳴らす。
「ゆーかは花柄のサイクロンだから、しょうがないよ」
したり顔でスイカの種を掌に出したメディスンが、霊夢をちらりと見遣る。その表情が舌を出したように霊夢の瞳に映り、言葉にした『花柄のサイクロン』という意味が胸に落ちると、やたらと笑いが込み上げてきた。
腹を抱えて笑い出した霊夢にきょとんとしながら、メディスンも太陽の畑に向かってえくぼを湛える。先程の向日葵よりも手前のものが、頭を振って空を仰いでいた。温帯低気圧は今はあの辺りかな?
よほど面白いのか、霊夢はまだ笑い転げている。だんだんと鬱陶しさを覚えたメディスンがスイカの種が張り付いた顔を見る。すると、意外な事に声を張り上げた。
「あー! 巫女ー、リップなんかつけてるー!」
虚を突かれた顔が即座に笑いを止め、霊夢は起き上がった拍子にメディスンの背中を平手打ちした。それにびっくりした小さな人形が抗議のジェスチャーをし、メディスンの背中をさすった。咳き込みながらも観察の目を止めないメディスンに、霊夢の耳が赤くなる。
「うるさいわね、毒ぼんぼり! ちょっと試しにしてるだけよ」
「へー、ふーん、ほー」
「うぎぎ……」
初めてかもしれない劣勢さに顔をしかめた霊夢が、次のスイカを頬張った時だった。乱立する向日葵の隙間から幽香が顔を出して声を出した。
「メディ、ちょっと手伝ってちょうだい」
「うん、わかったー」
いそいそと動き出すメディスンと小さい人形を尻目に、霊夢はスイカを頬張ったまま現れた幽香に注視する。まさか、今の話しを聞かれてはいないよな?
それに気付いた幽香と視線がカチ合い、久方ぶりに顔を合わせた事に今更気づいた霊夢は、少しだけ緊張した面を構える。しばらく無表情を注いでいた幽香が、白い笑顔を浮かべた。
「似合ってるわよ」
全身の毛穴が開く想いだった。お札の代わりにスイカの皮を掴み上げ、弾幕さながら投げつける。ひょいと躱した緑の髪が揺れ、霊夢はもはや顔を上げる事さえ出来なかった。
その傍を通り過ぎたメディスンを見送ってから、食べかけのスイカに齧り付く。いつか必ず見返してやる、と、心に刻んで。
「さあ、行きましょう」
涼し気な幽香の声が耳に届く。その声が雲が多い空にこだましたように想え、霊夢は上空を仰いだ。遠く、幻想郷の終りまで続く白い雲の列が、眩しく映った瞳になにかしらの感慨を残していく。どこで生まれたのか知れない雲は、やはりどこへ辿り着くのか行方も分からない。そう言えば、小町とお燐の姿を最近見ていないが、仕事が忙しいのだろうか?
「うん!」
弾ける声に視線を戻せば、メディスンが笑顔で幽香に駆け寄るところだった。ふと、その笑いようにまたも既視感を覚えた霊夢は、吐き出した種と一緒に昔の事を想い出した。
それは幽香がとても楽しげに花の世話をしていた光景。土と汗にまみれ、一所懸命に花に愛情を注いでいる姿。あの時の笑顔に、メディスンの笑顔が瓜二つだった。重なる表情に霊夢は納得の情を深める。そうだ、あの時あいつは無名の丘で鈴蘭畑の世話を――
「――偶然よね」
湧き上がる感慨を胸に潜め、霊夢がふたりの妖怪を見遣った。繋いだ手は緩い円環と優しい可能性を描き、霊夢に偶然という言葉の意味を噛み締めさせた。
(了)
いいお話でした。
読み終わった後の自分の感情がうまく言葉に出来ませんが
ただ言えるのは、いいお話をありがとうございました。
ちょっと話に乗り切れませんでした。
話の展開が不自然かもしれない。
それでも大長編お疲れ様です。
読み応えありました。
逆に、それだけ読み応えがあったとも言えますが。
荷物持ちさせられる霊夢って珍しいw
最後に、幽香の優しさが見られて良かったです。
察しが良い駄目人間な小町が好き。
メディスンが好き。
メディスンが可愛いすぎて可愛いすぎて
大好きです
点数入れ忘れました…
一言一言は正しいのに、段落を全体で捉えて読んでみるよ、いまいち繋がっていないような感じです。
また、人称の視点もブレていました。たとえば、心のなかの声が、霊夢の心の声がきたと思ったら、次の段落では幽香の心の声が入ってきたりと、そういう場面に戸惑いました。
それから、文章を修飾する言葉が多いせいで、一文が長くなりすぎてる気もします。特にバトルシーンになると修飾語が目立ちました。
攻撃のたびに修飾表現が入ってくるので、文章を理解する速さが遅くなってしまい、バトルのスピード感を妨げてしまっているように思います。
幽香、メディ、霊夢、それぞれにちゃんと焦点が当たっているのは良かったです。
特に、メディが覚醒するシーンなんかは読んでいてカタルシスをおぼえる部分でした。
前作『毒の在渦』を読んでいたのもあって、バトルで弱者扱いされるたびに「この子も本当は強いのに」と歯噛みしてしまっていましたから。
霊夢の解釈も独特だとおもいます。自分のなかに歯車の存在を感じているところが、
『博麗』という名のロボットと、人間の少女の中間にいるような書かれかたをされているように読めました。
だけど、心はあくまで少女のものであって、恐怖もあれば怪我もする。
大局観だけを見る『博麗』という機械になりきれない少女の葛藤は、また別の作品でも書いてほしいです。
幽香は、強い、という描写が多かったですね。
今回の異変は、幽香という一人で生きてきた妖怪が、心の底からメディを信じるため冒険・賭けだったんじゃないかと解釈しました。
(お花へのこだわりを別にすると)何を考えているのはわからないところもありましたが、
最後まで読んでみれば、怖ろしい妖怪として描かれていた彼女が、新しい友だちを作るのにけっこうビクビク怖れていたんじゃないかなと、親しみを感じるようになっていました。
小町、お燐は、異変を起こすパーツとしては必要だったけれど、登場してからは情けないアクションが多かったように思います。
小町が己のサボタージュに自信を持っている、という段落は、小町への悪い印象しか受けませんでした。
最後になりましたが、長さに相応する、読み応えのある作品でした。
これだけの文章になると、執筆することはマラソンを走るのに似たものでしょう。完走、お疲れ様でした。