「はあ……天子、可愛いよ……」
椛が抱き締めてやると、天子はそれに応えた。
Ⅰ
「椛!」
自分の名前を親友のにとりに呼ばれた椛は顔を上げた。その目は睨みつけるように鋭い。
「寝てるわけじゃないよね?」
「僕はそんなことしない。考えていただけだ」
椛は頭の中で目の前の盤上の未来を予想していた。将棋の対戦相手を負かすための最善策を出し、その手を打った。
それを受けて、相手は動かなくなった。椛は自分の集中力を上手に安定させながら相手の一手を待ち続ける。なかなか動かない相手に苛立つ椛ではない。
焦げくさい臭いが鼻を刺し、目を対局者にやった。
「あっちゃー、熱でやられたよ」
にとりは椛の対戦相手――機械仕掛けの人形を横にした。人形からはもくもくと黒い煙があがっている。
「……投了、で良いのかな?」
「そーなると思う」
椛は今は冷え切ってしまったお茶を飲み干して緊張をほぐした。
「で、どうだった?」
「うん、面白かったよ。僕くらいの腕前なら十分楽しめるんじゃないかな」
「そうかー、あとはどこまで動けるかだなー。冷却性能を上げないと」
「……それ、この前試したよね?」
「うん、だけどさー、あれ、音がうるっさくてうるさくて。何とか静かに出来ないもんかとね」
椛はそのときの機械人形を思い出す。あのときはにとりの言うように非常にうるさくて集中出来ずかなりイライラした。
「そうした方が良いよ……」
椛は熱がこもる自分の額を冷やそうと、近くの川に行った。流れる水に手拭をさらし、それをぴたっと額につける。
「はぁ……」
口から零れる声。女性の匂いを僅かながら含んでいる。もう一度手拭を水に晒してからにとりの所へ戻った。
「ところでさぁ、まだ思考力って上げても良いかな?」
「切り替えが出来るなら良いと思う。上げすぎたらついていけなくなるよ?」
「うん。んー、だとしたらどうするかなー、数種類思考回路を作るかなー」
「そういえばこの前貸した資料は?」
「ああ、あれ?うん、参考にしてるよ。ちょっと解りづらい所があるから今度教えてもらえない?」
「うん、解った」
ありがとう、とにとりは言う。
「悪いね、いつも付き合わせちゃって……」
「そんな顔をしないでくれよにとり。僕も好きでやってるんだからさ」
にとりは照れ臭そうにもう一度、ありがとう、と言った。椛はうんと満足げにうなずき、帰宅することにした。
家――椛の現在の家は働く白狼達の寮になるのだが、帰宅した椛は下駄を脱いだ。狭い自室、椛はごろんと横になった・
(何も特別なことじゃない。ありがとうって言われたら、誰だって嬉しいさ)
にやける頬にそんな言い訳を付けくわえた。
(しかし、僕はいつまでこんな同じ生活をするんだろうなぁ)
何年も同じ天井を見上げているうちに、にやけは消えて不安になってきた。
(家を出て独り立ちする時は、変化に期待していた。だけど、結局変わりやしなかった)
繰り返す日常。変わり映えがしないことは、果たして椛にはどう映るのだろうか。平和は素晴らしいことだと誰かが言う。椛もそう思うが、じゃあその平和の中身はなんだと問う。椛が求めているのは春の陽気のような眠い世界ではなく、協力と争いを繰り返し、螺旋のように発展していく世界だった。椛は前進に飢えていた。
(僕には何が出来る?何を為すべきなんだ!?)
進むべき方向は椛には見えない。椛の眼にも見えない千里よりも遠い、遥か彼方に答えがあると探していた。椛の剣の師は言った。自分の使命を見つけなさい、と。
幼い頃にそう指導されたが、椛が反省しているのはその使命と言うのは向こうから来てくれると考えていたことだ。気が付けば社会に放り出され、そしてやはり変わらない毎日を送っている。何も考えずに過ごしてきたことを痛感させられる。
今まで積み上げてきたものが無駄と問われれば、椛は怒って否定する。友人も、親友もいる。恋をしたこともある。犬走 椛が歩んできた人生は無駄ではない。しかしその人生はどこにだってあるものだ。椛が夢見る偉人、英雄達の人生。それには遠く及ばない。
身近にいる人物を挙げるとすれば射命丸 文であろう。上からの信頼も厚く、下からは尊敬の念を集める。椛の想像もつかぬ苦労をしたに違いない。それが身の振る舞いに繋がっているのだろう。重ねた年数の違いを言い訳にはしたくない。そんなもので自分自身を肯定するのは情けないことだと思うからだ。
ぐらりと視界が揺れ動く。椛は頭を振ると、布団を敷いて早々に寝てしまうことにした。
(僕は……どこへ行くんだろう)
死は万物に定められた結末だ。死への闇に落ちるまでに、どのように歩くかだけが自由に許されている。それぞれの歩き方がそれぞれの生き様だ。椛が望んだ方向は背中にある。もうそこには行けない。解っていたとしても、それでも憧れる。
――特別には、なれやしないんだ……
Ⅱ
仕事が早めに終わったので、椛は森の中を散策していた。思索に耽るのはこちらの方が椛には合っているようだった。答えを出すことに椛は焦りを感じていた。周りの皆はもう出している気がするのだ。プライドが高いわけではなかったが傷つけられるのは真っ平ごめんである。仕事をしているだけで死ぬ人生は送りたくないと願いながら、未だに答えを出せずにいる。椛は足元の木の枝を蹴飛ばした。
(僕は何をしているんだ……)
物に当たった自分が恥ずかしい。
――物音がした。
何者かの気配。
(誰だ?誰かがいる。同胞の臭いじゃない、侵入者か!?)
椛は太刀を抜いた。盾は手元にない。日光が木々に遮られる薄闇の中、椛の目に飛び込んだのは1人の少女。
椛は唸り声をあげる。
少女は椛を見て、剣を出した。緋色の剣。不敵な笑みを浮かべている。
「ここから出ていけ」
「嫌。なんでそんなことしなきゃならないのよ」
返答を聞いた瞬間に椛は間合いを詰めた。刃と刃を交えて理解した。
(女の子と思って油断した。なかなかの怪力だな……)
人間のようではあるが、麓や山の上の巫女のことを考えてみるとなんら不思議ではない。少なくとも、この「山」の中にいる時点で一定以上の実力はある。少女はコソコソと隠れていたわけではないようだった。戦闘狂の自信家、と椛は判断する。連絡が来なかったことから、初めて彼女を見つけたのは椛ということになる。
椛は誰に伝えるまでもなく、自分自身で撃退することに決めた。
どうやら速度で勝っているようだ。加えて地の利は椛にある。勝つ要素は十分にあると踏んだ。実際、それは本当であった。椛は猛攻で畳みかけると少女から笑みは消えた。苦しそうな、鬱陶しそうな相手の顔。刃を合わせ続けて解ってきた少女の腕前。勝利の要素はどんどん揃い、椛は油断した。
勝負が決まる。その決定的な隙が生まれた。
少女の目の前に浮いた大きな石。それから放たれる光線。
射撃が一切頭になかった椛は、直撃を食らった。
椛は誰かに呼ばれる声を聞いた。冷えだした身体も気にかかり、椛は目を開いた。赤い下駄が目に入る。上に視界をうつすと、射命丸 文が立っていた。
「こんなところで昼寝だなんて。野生にでも帰りたかったの?」
「いえ……」
椛は文にどんな目で見られ、どんな顔をされているかははっきりとは見えない。恥ずかしくなって近くの木を背もたれにして立ちあがった。長い間倒れていたらしい、森の中はほとんど闇だった。
「ま、今のは冗談だとして。誰かにやらたんでしょう?あれが相手なら仕方ないか」
「知ってるんですか……?」
「私達よりも高い所にいる不良娘よ」
「……」
「ところでさ、なんで仲間を呼ばなかったの?お陰で私が駆り出されたんだけど」
「倒せると思いました……」
「いや、思ったとかじゃなくて。貴女は番人だから侵入者を追い出すのが役目でしょ?重要なのは貴女が倒すことじゃないの、どんな方法でも良いから追い出すことが重要なの」
椛は何も言えない。文は更に言葉を吐いた。
「そんなことも理解しないまま仕事なんてしないでもらえる?こっちの仕事を増やされるのは勘弁してもらいたいわね。それにさぁ、ここに1人で来てる時点で実力がどれくらいかって解るでしょ?敵を見たからすぐ攻撃じゃなくて、自分の実力を考えてから確実に追い出すことを考えなさい」
「反省します……」
「1歩待って考えてみれば済むんだけどね、こんなの」
文は一切容赦しない。椛は自分のプライドが粉々に砕かれていくのをただひたすら耐える。文の言葉が正しいからだ。もしあれこれ言い訳をしてしまったら、砕かれたプライドはどこかへ飛散してしまう。
「さて、と。私はもう部屋に戻るから。……あとこれ使いなさい。返さなくて良いから」
文はポケットから取り出したハンカチを椛に渡し、空に飛んでいった。椛は自分が泣いていくことに気付いた。言い訳しないように必死で歯を食いしばっていたからそのことが解らなかった。椛はハンカチでごしごし顔を拭くが、後から後から涙が出てくる。やがて嗚咽も混ざり、椛はその場に崩れ落ちた。
Ⅲ
次の日、椛の手首には文のハンカチが巻き付けられていた。自分に対する戒めの意を込めてのことだった。より上へ、より上へ。椛は常に向上しなければ世間から認められない。そうでもしなければ特別にはなれないと椛ははっきりと理解している。文の言葉を心に、戒めを手首に。椛は今日も労働に励んでいた。
滝の音が椛の中で一体となった頃、後から来る予定だった隊員と交代し休憩をとることにした。昼食に配られている塩おむすびと漬物を食べながら熱い茶をすするのがたまらなく幸せだった。
「おにぎりはどうしてこんなに美味いんだろうねぇ……」
胃袋の中でぐるぐると熱い茶と食べ物がうずまいている。それが落ち着いたら、また仕事に戻るつもりだった。しかし……
「いた!」
声がして椛が振り向くと、昨日の青い髪の少女がいた。
「また来たのか……」
「そうよ、貴女と戦いたくてね」
「僕と?」
「私ね、思ったの。昨日の勝負は私の負けだって。そっちは剣しか使っていないのに、私は要石を使っちゃった。ねえ、負けだと思わない?」
「君が持っているものを使ったんだから、それはそれで良いと思うけどね」
「いーや、私の負けよ。絶対そうよ。だからもう一度私と戦いなさい」
少女から闘気が溢れている。椛は一呼吸置いて、相手と状況を適切に判断してから言った。
「僕はこれからも仕事があってね。君に構ってはいられない」
「貴女の事情なんてどうだっていいのよ。戦ってくれさえすれば」
「……残念だけど、それなら仲間を呼ぶよ?僕は君を確実に撃退する義務がある。僕個人の決闘はここじゃ出来ない」
「何よ。この臆病者」
「何て言われても良いさ、僕は仕事をきっちりしたいし、しなきゃならないから。ああ、悪いけどこれ以上ここにいても仲間を呼ぶよ。もし君が大人しくこの場を退いてくれたら、この山じゃないどこかで戦っても良い」
この提案を椛は出したかった。少女は何としてでも自分と戦おうとするのと、自分の状況を考えるとこれが最善だと思った。通常なら多数で撃退するべきかもしれないが、少女のことを考えればそれはすべきではない。多数で撃退しても少女の目的が椛なのだから、何度も何度もやってくるが目に見えてる。
「……ふん。解った、じゃあこの森を抜けた先にある原っぱで待ってる。あそこは流石に貴方達の外でしょ?」
「うん、そうだね。あそこなら……そうだな、大きい岩があるからそこで待っててくれ。仕事が終わり次第、そっちに行くよ」
椛は何とか切り抜けたとホッとした。
「絶対に来てよ」
「もちろん。約束はきちんと守る主義だ」
少女はじっ……椛の顔を見ると踵を返して去っていった。椛は少女との会話で時間が取られた分、急いで持ち場に戻った。
夜、仕事が終わった椛は果実を口にした。エネルギー補給のためである。彼女を満足させるのが一番の目的であるが、戦う以上はやはり勝ちたいものである。太刀を担いで椛は待ち合わせの場所に向かった。距離が縮んでいくにつれて集中力を高めていく。眉間に皺を寄せがちの椛だが、このときは口元に笑みを浮かべた。竹刀の試合で緊張で身体が思うように動かず何度も涙をのんだことがある。技を磨き、体を鍛えたとしても、土台である心がぶれていては勝負にならない。使い手が正しい状態、望ましい形で初めて技が出せるのだ。
息を吸って、吐く。戦うための空気を少しばかり、吸う。心を鼓舞し、身体に熱を与える。
「来たよ」
少女は既に剣を手にしていた。
それからは互いに無言で構える。
この瞬間、椛は少女と心が重なりあったと感じた。
2人は同時に動き、真っ向からぶつかった。
不思議な感覚だった。背中に地面がついているはずなのに、何故かふわふわと浮かんでいるように思われた。夜空が揺れて、星の光がぐるりぐるり。
「ねえ……大丈夫?」
「ああ、全身痛いけど大丈夫」
結果は、椛の勝利で終わった。身体能力は総合的に見てみると両者引き分けだったが、剣術では椛に軍配が上がった。精神的な面に注目するとしたら、少女が冷静さを欠かしたことも勝敗に関係するだろう。
「……僕が稽古をつけてあげようか?」
寝転びながら言うことじゃないけどね、椛は少しだけ冗談めかすように付け加えた。近くで同じ格好をしている少女は……
「ええ……と……」
「君はまだ強くなれる。その可能性を潰すだなんてもったいないよ」
(僕は、うらやましい……)
心でそっと呟く。誰からも称賛される、輝かしい栄光を約束されていること。凡人の椛には決してないものだ。自分が凡人だと自覚してるからこそ偉人に憧れる。そして……偉人に憧れながら、どこかではそうはなれないとも思っていた。自分がこれから向かう未来は、英雄なんかにはなれず、歴史の中に埋没していくだけのもの……
だから椛は素質を持つ者に可能性を捨てて欲しくはなかった。
「君が強くなって僕を負かしたら君はどこにだって行って良い。でも、そうなるまでは僕が指導する」
「……すぐに倒してみせるんだから!見てなさいよ!」
「ん、解った。じゃあ毎晩ここへ来て」
「ところで、さ」
「なに?」
「名前、教えなさい」
(一応、僕は君の師になるんだけどなぁ……)
でも、それが彼女らしさかもしれないと椛は思った。
「僕は犬走 椛。椛って呼んでね」
「比名那居 天子。天の使いじゃなくて、天の子の方ね」
「そうか……よろしくね、天子」
Ⅲ
話をしてみて、天子は教養もあって頭の回転が速い子であるとすぐさま解った。天人達の教えを椛に言ってくることもある。本人は守る気は更々ないだけだ。何よりも舌を巻いたのは天子の抜群の吸収力である。師である椛が頭の中で考えていた、まずは1か月という目安を考えなければないないほどだった。今のままだとすぐに抜かれてしまうと仕事で遠のいていた道場に足しげく通い、実力向上を図る。しかし、悲しきかな、凡人である椛が天子に追い抜かれるのは時間の問題であった。椛の頭には天子にあえてゆっくりと教えて成長を妨げる考えもちらついた。その考えは良心と責任感で振り払った。
「天子、お茶」
今日の稽古を終えて、椛は天子に水筒を渡した。受け取った水筒に口をつけて、こくこくと喉を鳴らす天子。口を離した時、天子はようやく笑顔を見せる。椛が待ち合わせ場所についたときは笑顔を見せるのに、稽古中は無表情。真剣に取り組んでいるという風にはまったく見えない。つまらない、早く終わって欲しい、という天子の気持ちがその無表情な顔から椛に伝わってくる。それで成長が遅ければあれこれ椛も言えるのだが、そうではなく、むしろ早いから何も言えない。
「あ、そうだった。天子、僕明日仕事がないんだけど……」
「ふぅん……じゃあさ、2人で遊びに行かない?」
突然の提案に椛は驚いた。そんなことを言われるとは思っていなかったし、更に椛が提案しようしていたのは長時間の稽古だった。
「え、遊びに?どこへ?」
「天界と山以外ならどこでも。人里とか?」
「人里かぁ……僕、行ったことないなぁ」
「じゃあ尚更行こ!」
「う、うん。解った」
待ち合わせの時間を決めて、2人はそれぞれの家へ帰った。椛は小さくなる天子の背中を見つめながら、反省にも似た疑念を抱いた。
(休みで時間があるからもっと稽古をつけるって言おうとしてたんじゃないのか)
(僕は天子の提案を口実に、僕は天子の成長を止めたかったんじゃないだろうか……?)
否定をしきるための証拠も、肯定せざるを得ない証拠もない。椛はゆらりと空を飛ぶ。ふと、天子が見せてくれた笑顔と、明るい声を思い出した。あの笑顔を指導中に見たことがない。椛は天子のことを考えながら飛び続ける。夜空は曇っていた。椛は雨だけはと祈った。
椛の祈りは天に通じたらしい。夜の内に雨が降り、朝には止んでいた。土が水分を含んでいて2人の靴が汚れる。椛は特別気にならなかったが、天子は泥が固まって汚くなるのが嫌だとぼやいている。
「そんなに気になる?」
「当然よ。気にならないそっちが……ああ、服を見るとそうでしょうね」
椛はよく解らない。服を見てみた。いつもと同じ、仕事着でもある普段着の格好。椛にとってはそれが当り前であるし、気になる要素などどこにもなかった。
「どういうこと?」
「あのね、遊びに行くときに仕事の時の服なんて着る?なぁに?貴女はここでも警備をしているつもり?」
「いや……」
天子はやれやれと両手を上げて呆れている。その態度に椛は自分の人生を侮辱されたとムッとした。
「うるさいなぁ、なんなのさ」
「お前は見識が狭すぎる。それでは正しい判断も出来ず、選べるものも少ない。もうちょっと知ることね」
「僕の見識が狭いだって?」
椛は天子に食ってかかった。その様子を見て天子はにんまりと笑う。
「貴女は正しいと思うかもしれない。そりゃあ、狭い世界じゃあそうでしょうね。その外に広がる世界を知らない。山と剣術で世界は成立しないのよ?」
その指摘に椛は言葉を奪われた。
狭い。狭い。
「自分の世界はすぐに広まりはしない。少しずつ広げていくことね。人里なら丁度服が見れるから、そうね、行ってみましょう」
椛は天子に手を引かれて走り出した。天子がつける足跡から、目を離すことが出来ずに。
椛は不安だった。凛と胸を張り、ピンと伸ばしていた背筋。それを維持出来ない。身を縮めることでしか身を守れない。異質として排除されるのではないかと気が気ではない。好奇心が湧くという気持ちを失ったのだと目を閉じた。閉じたところでもう遠すぎる。椛は眼を開いた。
「椛、気になる服を探してきなさい」
「……」
洋服を触れることすらなかった。狭い自分の世界をくまなく探して、鴉天狗の格好であった。文は特に鮮明である。
(うん、あんな感じ……かな……?)
白のシャツに黒のスカートを手にした。スカートは文ほど短い丈ではなく、膝くらいまであるものを選んだ。あの短さははしたないと思っていたからだ。天子も物色を一段落したのか椛のところへ戻ってきた。椛が手に持っている服を見るなり言った。
「地味ねえ……」
「だ、駄目かな……?」
「うーんと、これとか合いそうね」
ぱっとハンガーをとって椛に突きつけた。
「ええ!?こんなの――」
「派手だ、って言うんでしょ?それが大きな間違いなのよ」
スカートはまあそれでも良いかなと言って、天子は自分が持っていたジャケットを椛に渡した。
「身体のラインはかなり綺麗なんだからどんどん強調しなさい」
まあウエストは私が細いけどねと天子は笑いながら自慢する。
「それは君が幼い身体だからじゃあ……」
ギロっと天子に睨みつけられ、椛は慌てて眼を逸らした。
「ほらほら、お会計」
天子に背中を押されてレジへ向かう。服の金額合計を聞いて椛は飛び跳ねた。
(え?1ヶ月分の給料の半分?冗談でしょ?)
万が一に備えて椛は寮の家賃と光熱水費を抜いた給料ほとんど丸々を財布に入れてきた。お金を出すときに手が震えた。頭にあるのは目の前の服ではなく、これからの食費のこと。毎日3食は出るが、何か口にしたいときもある。宴会になればそこそこの額がかかる。次の給料日まで何日かと思うと悲しくなった。椛は修行の一環と割り切ってしまおうと決め込んだ。
服を抱えて店から出てきた椛の表情は暗い。一方、満足行く買い物が出来た天子は喜色満面と言ったところである。
「どうしてそんなに落ち込んでるの?」
「いや……」
「これからのことなんて考えなくて良いわ。お金なんて、無いなら無いで頭を使うのよ」
椛は盛大に溜息を吐いた。どうせ天子はお金持ちの家なんだろう。この気持ちが果たして本当に解るのだろうかと思う。
「総領娘様……?」
自分達の方向に声がしたので椛は顔を上げた。天子とよく似た、しかし細かいところは違う帽子。羽衣が身体の周りにふわふわと浮いている。人外、最低でも特殊な人間であることが判断出来た。
「あ、衣玖。丁度良かったわ、これ家に持って帰って」
いく、と呼ばれた女性と天子。椛は2人の顔を見る。総領娘様と呼んだことから、ある程度のことは想像可能である。椛は2人のやりとりを観察する。
「またですか。私は少し用事があるからここへ来たのですが」
「そんなに時間かからないでしょ?」
「確かにそうですけど……」
「じゃあお願い」
「それくらい自分で持ちなよ、天子」
椛は見てられなくなって、つい割って入った。
「貴女は……?」
不思議そうに椛を見る目。
「初めまして、犬走 椛と言う者です。もみじは、木に花と書きます」
「こちらこそ初めまして、椛さん。私は永江 衣玖。『衣』に、石の『玖』と書きます」
「衣玖……はい、解りました」
「えっと、白狼天狗の方ですか?」
「はい、そうです。今日は天子と人里まで下りてきて遊びに来てました」
「まあ、そうでしたか」
「でさ、荷物のことなんだけど」
2人の会話に入ってきた天子の顔は不機嫌そのものだった。しかし、どこか愛嬌がある不機嫌な顔であった。衣玖は困り果てたように眉根を寄せた。
「はいはい解りました。私が持って帰ります」
「ありがとねー、衣玖。大好きよ」
溜息を吐く衣玖も悲哀と共に可笑しさがある。2人の仲がよく表された光景に見えた。
今日の天子は感情をよく動かす。稽古の時とは大違いだ。椛の心は大きく揺れる。
『お前の世界は狭すぎる』
それは果たしてどういう意味なのか。椛は省みる。
(僕は天子の才能を無駄にはしたくなかった……そうか、僕は――)
己が凡人であるという否定しがたく、そして目にしたくない事実。英雄への願望。椛は自分のコンプレックスを天子に押し付けた。
(天子のことを思って、したはずだ……)
そう思っていたことは、確かに嘘ではない。
「僕の視野は狭いね……」
感情の、一般的に良しとされる部分だけを見ていただけである。別方向からの視点を持っていない。考えることは自分の行動だけで、反省の材料となる自らの思考を考えたことが無かった。両親と師に厳しくしつけられ、その正義を疑うことをしてこなかった。正義と思い、しかし、どうして正義なのかと理由が答えられない。
(天子の言う狭いって、恐らくこういうことじゃないかな)
盲目な己を悔い、改めようと椛は心に決める。ずっと手首に巻いて、そろそろ習慣化してきた文のハンカチ。思考の一呼吸。椛は世界を広めていくことを、誰かに言われたからではなく、自らの意思で決意した。
世界を広めるとき、恐怖するものだなと椛は言った。反省と決意の日から次の日、にとりから機械を借りてきた。親友の為と考えにとりの製作に尽力していたが、機械そのものには興味は無かった。千里眼でも見渡せないほど世界は広い。手にするものは当然それよりも狭い、即ち少ない。加えて、自分の世界というのはある時から一変する。何もかもを受け入れていた少女の頃。天狗の中ではまだまだ若年ではあるけれども、椛の世界は既に拒むことを覚えている。中にあるものだけで正義を作り、外側にあるものは無関心。
にとりに書いてもらった解説書に目を通すが、ただの走り書きでとても読めたようなものじゃない。所々理解出来るが、全体に繋がらず四苦八苦する。借りてきて何日も経つが未だに読破出来ていない。
それでも面白い、と椛は感じる。未知のものへ触れるまでしか恐れはない。恐怖に少しずつ興味、好奇心が混ざって行く。面白い、椛は声に出して笑う。そうして自分の感情をはっきりさせておきたかった。頭の中に浮かばせておくだけでは、自分の世界が否定してもみ消しそうだと思って。
「あ、そろそろだ……」
椛は太刀を担いで部屋を出た。今夜、天子との稽古は3週目に入った。1月というこだわりはさっぱりと捨てた。そんなものは自分のエゴでしかないと気付いたからだ。前日、天子に万全の状態に整えてくるよう伝えておいた。今夜、椛は天子と決着をつける。結果がどうあれ、天子を手離すつもりである。自分が何を押し付けたところで天子の得にはならない。剣術で心を鍛えるというのは相手が勝手にすることで、剣術を教えるというのは相手が望んでくるから教えるのだ。
「そうさ、僕は間違っていた。押しつけていた」
愚かな自分の願望を押し付けて、それを正当化するための見苦しい言い訳。逃げてはならない。
「僕は断ち切らないといけない。ここでやらなかったら、狭い箱の中で腐るのを待つだけになる」
この一歩は、重い。
だけど歩ける、僕は歩ける。
夜の、風の重圧よ。
止められるなら止めてみろ。
僕は行く。
歩いて、つまずいて、世界の広さに嘆いても。
この歩みは、止めない。
待ち合わせの場所に天子はいた。椛を退屈そうに待っていた。椛は一息ついて天子に告げた。
「今日で稽古は終わりにする」
天子は揺らしていた両足を止め、椛の顔を見た。
「僕は君のことを考えて稽古をつけていたけど、それは君に僕を投影していた。凡人である僕は君の才能をうらやんで、僕は君を通して夢を果たそうとしたんだ」
「そう……」
「ごめん」
「別に……」
「そう、か……うん、それでね、天子。今日は君と戦う」
椛は心と合わせて太刀を抜く。太刀を抜くのに合わせて心を鼓舞するのではない。心の昂りに合わせて太刀を抜くのだ。
「やっと勝負出来る。私は椛を倒すことだけが目的」
「ずっと退屈させてすまない」
天子は解放の喜びからか、笑みがこぼれている。目つきはギラギラと光り、霊力が伝わってくる。
単色の感情ではない。極光。多彩な色の感情。椛は目覚める。椛は咆哮をあげる。世界を守っていた腕を広げて、これから来る何かを受け入れる。
決意の太刀を、振り上げた。
2人は何度も倒れた。砂が、土が、口に入った。血も出た。酷く痛かった。剣の果たし合いで始まった2人だったが、いつしか剣というものを超えていた。互いを讃えあっているんじゃないだろうかと、椛は思った。
ありったけ全てを出しきって、最後に立っていたのは、天子だった。
椛はもう立ち上がる力が出てこない。
「……ああ、負けた……」
負けたという悔しさは当然ながらあった。しかしそれだけではなく、心地よい風が心に吹いていた。
「ありがとう……」
感謝の言葉が自然と零れる。天子に、文に、自分の世界に送る言葉。言いたい言葉が多すぎて、全てをまとめたら『ありがとう』になっていた。
勝利を得るために立っていた天子は、尻もちをつくように座り込んだ。
「やった。私の……勝ち……」
「うん、君の勝ちだ。天子の勝利だ」
恨みがこみ上がってこない。自分自身に対してもだ。雲がない夜空。きっと明日は晴れる。禊はこの夜に済んだ。
夢は英雄もあれば、それ以外にもある。英雄にならねばいけないのか?夢とは強制されたものだろうか?それは違う、と椛は言った。
禊が済んだ椛の身体はどこまでも飛んで行けそうなくらい軽かった。強迫観念に支配されないとは、不安と喜びを得るということなのかと思う。
「椛……」
「うん……?」
「これからも、一緒に居てくれる?もうこれで、お別れじゃないのよね?」
「もちろんさ」
「椛といるとまだまだ退屈しなさそうだからね」
「僕も天子といたいな。君と……いたい」
天子といる。天子といたい。贖罪でもあったし、天子の行く末を見たいという気持ちも未だにあった。彼女が見える世界を分けて欲しかった。どれがどれくらい割合なのかは判断出来ない。
何もかも、あって良いのだと思う。世界の全てを受け止めるには小さいからでは限界がある。でもだからと言って、何も受け入れない世界はつまらないと思う。頭を使って、手で触れて、これからの人生を歩いていこう。
Ⅳ
「スカートってどうやって穿くんだろう?」
椛は手をぴたりと止めて考えた。天子と遊びに行くことになったこの日、椛は例の服を着ようとした。洋服に触れてこなかった自分への罰だと思う、着方が解らない。もちろん説明書なんてものはあるわけもなく、椛は焦った。遅刻はしたくないというのに時間がかかる。前日の晩、大丈夫だと決め込んで寝たのがまず間違いだったと遅すぎる反省をした。
(ともかく、服を着よう)
椛はスカートから身体を外に出してよくよく観察した。すると、いつも着用している足袋のコハゼによく似たものが3個あった。反対側にはひっかけられそうな金属の部品もあり、ようやく構造が解った。椛はもう一度全体を調べてしてそれ以外のものはないことを確認した。
(よし、穿けたぞ!)
袴と同じようで別物の服、スカート。椛はくるりと天子がするように回ってみるとふわりとスカートが浮く。まさか袴着用でこのようなことはしてはならないので、ふわふわと浮くのは実に新鮮であった。シャツはボタンにいくらか手間取ったものの着ることが出来た。次に悩んだのは、シャツをスカートに入れるか入れないかということだ。どっちも見たことがあるからだ。決めあぐねた椛は袴にならってシャツを入れることにした。
洋服を着て出かける。椛はスキップと言うものをやってみた。気分が弾む。周りの同僚が自分を変な目で見ていても気にならない。大方、自分の高揚見て驚いているのだろうと思った。白狼と鴉の寮は別れている。仲が悪い2つを一緒にすれば毎日傷が絶えないだろう。
「おや、珍しい。洋服の恰好」
寮の外に出るとばったり文と出くわした。
「あ、射命丸様。おはようございます」
「おはよう。これからお出かけ?」
「はい。友人と一緒に色々回ろうかと」
「そう」
文は椛の脇を通り抜けた。とろこが、数歩行ったとことで椛のところへ猛然と戻ってきた。
「どうして中に入れてるのよ!?」
椛がスカートにぎゅうぎゅうに入れたシャツを乱暴に引き抜いた。椛は慌てふためくも文は無視する。中に入れている時間が少なかったおかげで、大したしわになってなかった。文がきちんと伸ばせば元通りの、清潔感のある状態になった。
「少しは物事を考えるようになったかしらと思っていたらこれだもの。何を思ったかは解らないけど、なんでこんな不格好にしたのよまったく。中途半端な知識が一番役に立たないくらい解るでしょう!?」
「は、はい、すみません……!」
もしかして周りが自分を見てた目は、と椛は顔を真っ赤にした。
「……洋服に興味を持ったの?」
「はい」
「それじゃあ今度そっちに私の服を持ってってあげるわ。着れなくなったものがたまって困ってたのよ」
「え、本当ですか!?ありがとうございます!」
文は自分の腰回りに触れて、はぁと大きく息をついた。
「最近えらくついちゃったわ……不規則な生活が原因かしらねぇ」
「減量するなら起きてすぐに走り込むと良いそうですよ」
「はは……貴女、やっぱりずれてるわ……」
ぐるりと全体をチェックして、文はそれじゃあと言って空へ消えていった。椛は時間を食った分、急ぎ足で天子が待つ所へ行った。
天子は待ちきれない様子でそわそわしていた。身体を動かして外に吐き出さないと駄目なのか、緋想の剣をブーメランのように投げていた。
「ごめん天子、待たせたね。おはよう」
「あ、椛!」
剣を投げたあとに声をかけてしまったのは迂闊だった。天子は椛に目を向けて、その間にも投げた剣が天子に戻ってきている。声を発するか、自分が受け止めるか。椛は息を吸う間に考え、吐き出すと共に行動した。
「天子!剣!」
「え?おっと……」
椛は受け止めにいかなかった。受け止められるわけがない。責任感だけで身体を突き動かさない。
「ごめん、僕の不注意だった」
ただし、しっかりと処理は、謝罪はする。
「当たったくらいじゃなんともないけどね」
君の身体は頑丈だからなぁ、と口の中で言った。
「さて、今日はどこへ行こうかな。天子、君は?」
「そうねぇ、服はこの前買ったし……ま、人里をぶらぶらして考えましょ」
天子はまっすぐ歩かない。目を椛に向けながら、歩く椛の周りをうろちょろ回る。堅牢そうなブーツの割には非常に軽快なステップである。天子のつま先蹴りを食らったことはないが、見る限り堅そうである。
「天子、それ、重たくない?」
「うん、重い」
動き回る天子を目で追う。天子の足に合わせたかような皺。色落ち、つま先に若干の傷。これらには躍動感というものが表現されている。それは天子が持つ活発さでもあった。天子の魅力の一端を示すブーツに、椛は心打たれた。
「それは自分が手入れしているの?」
「まっさかぁ、衣玖にやらせてるのよ」
「へぇ……」
(あの人も解っているんだな、恐らくは……)
自分のものくらい自分で管理しなよ、という言葉が後から出てきたが、椛はそれをそっとしまった。ペラペラとしゃべっているといつの間にか人里に入っていた。2人は店を指差しては中へ入り、存分に冷やかしてくる。昼過ぎまで歩きまわった。
「そろそろお腹が空いたわ」
「そうだね、じゃあ何か食べに行こうか」
2人はあたりを見回して、近くにあった蕎麦屋に入った。
蕎麦を食べているときに椛が驚いたのは天子の食事マナーだった。大変綺麗で、食べている様は正しく姫であった。その様子だけ見れば、天子のことを勘違いしてしまうだろう。椛自身も母親に厳しく躾けられていたので、どこで食べても恥ずかしい思いをしたことはない。しかし、天子のそれを見てどこか劣等感を覚えた。天子が姫ならば、自分はそこらの雑草だと思ってしまう。目立つことが食事の目的ではないが、とにかく椛には華がない。それでも良いのだと椛はさっぱりと考え、劣等感を放り投げた。
「このお蕎麦、美味しいわね」
「うん、美味しい。適当に入ったけど正解だった」
歩き回っていたので蕎麦の冷たさがとても合う。日が照る秋にはまだ夏の残り香がある。蕎麦を平らげた2人は、もう一度お品書きを眺めた。このお店は甘味も豊富に揃えている。
「おしるこ、タイ焼き、大福……」
「それ、あんこばかりじゃない」
「僕、あんこが大好きなんだ」
あんこを考えるだけでわくわくする。
(小さい頃はよく稽古の帰り道で買い食いをしたなぁ……)
「へぇ、洋菓子もあるんだ」
天子が言って、椛は天子がもつお品書きを覗き込む。ここ、と指した先を見る。
「チョコパフェ……?」
「それ以外もあるわよ。アイスクリーム類ばかりだけど。あ、ホットケーキなんかもあるのね」
「ホットケーキ……ああ、あれか。あれは食べたことあるね。……うん、僕はチョコパフェを頼もうかな。食べたことないしね」
「じゃあ、私はおぜんざいをいただこうかしら」
「解った。すみません!」
チョコパフェ、というものが出てきて椛はそれの高さに驚いた。高くしなければならない理由はよく解らないが、見ているだけでわくわくする。どこからスプーンをいれようか迷ってしまう。
「椛、子供っぽい」
「そうか、うん」
天子の声がよく耳に入らない。興奮しきっている椛の様子に天子はやれやれと溜息をついた。天子は自分の菓子を食べながら椛を観察してみる。
「よし……」
親のカタキを目の前にしているのだろうか。椛はスプーンと言う武器をパフェに入れた。掬ったスプーンに乗っていたのは生クリーム。チョコレートソースがかかっている。
口に運ぶ。
とろりと舌に絡む。ソースの苦み、クリームの甘み。舌の温度が艶めかしかった。舌を卑猥な肉と感じたのは初めてだった。
喉を通って行った。
もう一度スプーンで掬う。今度はアイスクリームだ、口の中へ入れる。生クリームとは違う、冷たい。舌の温度が奪われる。徐々に溶けていって、生クリームと同じ温度になる。再びアイスを口に入れて、冷たいまま喉に通すと、冷たくて気持ち良い。
「ねえ」
「……」
「ねえったら、椛!」
「あ、な、何?」
「私にもちょっとちょうだい」
「ええ!?」
「なによ、くれないんだ?このケチんぼ!」
「いや、良いけどさ……」
天子が持っているのは箸だから、椛は自分のスプーンを差し出した。
「え、食べさせてくれないんだ?」
「はぁ?何を言ってるんだ君は?」
あまりにも予想外の注文だったのでうっかり口を滑らせてしまった。言ってしまった後にまずいと焦る。天子の表情はみるみる不機嫌になってしまった。
「えっと、ほ、ほら」
椛は泣く泣く、生クリームとアイスをスプーンにたっぷり乗せて天子に差し出した。しかし天子はプイとそっぽを向いたまま口を開こうとしない。椛は差し出したスプーンを引っ込めることが出来ずにほとほと困り果てる。何て憎たらしいんだ、と思うと同時に、はあ天子可愛い、と感じられた。相反するような感情の中、椛は天子の口元にスプーンを伸ばす。半ば押しつけるようにぐいぐい伸ばす。伸ばした腕がぷるぷる震えだした頃、ようやく天子はパクッとスプーンをくわえた。
「んふふ、おいし。ありがと」
「はは……」
天子の笑顔に可愛いという感情が大きくなる。疲れた片腕をさすりながら、椛は苦笑した。
店を出てから少しだけ回って、2人はすぐに喫茶店に入った。先程入った店と比べて中は暗い。陰気臭い暗さではなく、気分を落ち着かせる暗さである。掌で包みたくなる穏やかな光が内部を照らしている。
「コーヒー、なかなか美味しいね」
「ブラックで飲めるだなんておかしいわよ、絶対……」
天子はずっとコーヒーをかきまぜている。中の砂糖をよく溶かすためだそうだ。談笑していると、戸のベルがカランと鳴った。特段気にしていなかった2人だったが……
「ホットコーヒーを。あと灰皿」
その来客の声を聞いて2人はその者に顔を向けた。
「衣玖!」
静かな店だから特別声を大きくしなくとも聞こえる。衣玖は不意打ちを食らったようにこちらに振り向いた。
「総領娘様……」
驚きと落胆。衣玖は突然の2人を歓迎していないのが椛には解った。天子を引っ込めようとするが、それに従う天子ではない。
「ねえねえ、衣玖もここに来るの?」
「いえ、今日はたまたま……」
明らかに嘘と見抜いた。店主の対応がそうだ。店主は衣玖が頼んでから灰皿を持ってきていない、そう言われることを見越して既に持ってきていた。そして椛達のときは、灰皿を持ってきていなかった。
天子は勝手に席を移動して衣玖の隣に座った。食事のマナーは良いのに、と思う。椛1人で座っているわけにもいかないので、店主に一言断ってから移動した。快く、どうぞ、と言ってくれたのがありがたかった。
「ホットコーヒーです」
「どうも」
「あ、待って。クッキーのセット、3人分お願い」
「かしこまりました」
こういう天子の強引さは厄介だと思う。衣玖の渋い表情を見ると、どうやら同じような気持ちらしい。
「椛さんは煙草は大丈夫ですか?」
「あ、はい。どうぞ遠慮なく」
大丈夫ではない。鼻が利く椛が煙草を良いものと思ったことはない。しかしこちらが迷惑をかけてしまった手前、駄目だとは言えなかった。コーヒーがくるまでずっと手の中で遊ばせていた箱から衣玖は煙草を取り出した。マッチを擦る手付きは淀みなく、しかもその一連の動作には1種の格好良さまである。衣玖の喫煙歴を推し測るのに十分だった。
3人の会話が止まる。衣玖も遠慮して煙を吐き出すときは2人がいない方向へ顔を向ける。少しだけ椛が感じ取れる香りに、意外と臭みがないことに気付いた。会話を切り出すのに躊躇したが、思いきって尋ねてみた。
「良い匂いですね。どういう名前の煙草なんですか?」
「カーム、という煙草です。そうですか、これを良い匂いと思うとは……」
クスリと衣玖は笑った。何かを企んでいるようで、台詞も怪しい。とは言え衣玖が笑ったという事実は椛達にとって大きなものだった。そのことで和やかな雰囲気になり、会話の流れがようやく動き始めた。
衣玖を交えての談笑も楽しかった。真に不幸なのは、椛はまた天子にクッキーをあげる羽目になってしまったことだろう。
衣玖も仕事終わりだったらしく、3人で帰り道を歩いた。
「そろそろここでお別れですね」
「えー、まだ遊び足りないわ。もっと遊ぼ?」
「これから遊ぶとなると飲むしかないからね……明日は仕事なんだ、また今度にしよう」
ぐずる天子に困ったが、椛はそうだと手を叩いた。ピィッと指笛を吹くと、烏が一羽飛んできた。
「この子、天子に預けるよ。僕の使いの1羽なんだ。僕に連絡したいならこの子に手紙を持たせて僕に飛ばしてくれ。とても良い子なんだ、しっかり世話をしてくれよ?」
「わぁ……!ありがとう椛!」
椛は天子の不満を一掃出来た。
「椛さん」
すっと、衣玖は椛の前に出た。衣玖の体格はすらりと背が高く、天子の姿が隠れてしまった。
「またお会い出来たら良いですね」
さりげなく椛の左手を取り、ある物をその掌の上に置いた。
「これは……?」
衣玖は人差し指をそっと自分の口元にあてる。
「ねえ、2人で何をやってるの!?」
蚊帳の外で再び不満を募らせた天子の声が衣玖の背後から聞こえる。
「いえ、ただまた会えたら良いですねと言っただけですよ総領娘様」
くるりとその場で身体の向きを変える衣玖。椛はその背に隠れて受け取った物をシャツのポケットに仕舞った。
「じゃ、じゃあね。天子、衣玖さん」
今を好機として椛は山へ向かって飛んだ。
椛は自室に戻る前に、寮の売店で買い物をした。買ったものはマッチと灰皿。そう、衣玖からもらったのはカームの箱……煙草だったのである。
晩御飯の時間は過ぎていたので今日はもう自分で買う以外は食べられない。そこまで空腹ではなかったので椛はすぐさま煙草を吸う用意をした。部屋着に着替えて煙草をくわえた。
灰皿が遠くにあったので、手元に引き寄せる。気を取り直してマッチを擦る。勢いよく燃えあがり椛は火に煙草を寄せる。思った以上に熱く、椛は顔をそむけた。
「椛、いる?」
「射命丸様?」
慌てて部屋の戸を開ける。声の通り、文が部屋の前に立っていた。険悪な関係である鴉天狗と白狼天狗。文はそれをいたって気にしてる風はない。強い人だ、と思う。
「これ、持ってきてあげたわよ」
「ああ、ありがとうございます!」
文から肩幅ほどある大きな箱を両手で受け取った。
「昔の服とか今の私には小さいのばかりだけど、椛なら着れると思ったものよ」
「すみません、こんないっぱい……」
「部屋にあったって邪魔なだけだしね、ただでさえ圧迫されてるんだしさ。……貴女、煙草やってたの?」
文がちらりと椛の部屋の中を見て意外に思ったのが灰皿の上にある1本の煙草だった。
「はい、今日人からもらって」
ちょっとお邪魔するわね、と文が中へ入って煙草を観察する。
「ああ、カームかぁ……渋いわね……」
「射命丸様も喫煙を?」
「付き合いで必要になることもあるからね。話のネタに役立つことも多いし。たとえばこのカーム、こいつは年配の男性陣に受けが良いわよ」
(落ち着きがある人に、という意味で考えれば衣玖さんにはぴったしかも……)
「へぇ……あの、吸い方教えてもらえませんか?」
「煙草に火を点けて、吸って、深呼吸して、吐く。何てことないわ」
「はい……解りました、ありがとうございます」
こんなことを教えて礼を言われるのは何とも言えない気分ね、と文は苦笑いした。
文が帰り、椛は再び喫煙に挑んだ。先が黒くなった煙草をもう一度咥え、文から教えてもらった方法を頭で確認しながらマッチを擦った。二度と同じ轍は踏まぬ、とマッチの火が落ち着くのを待つ。そろそろと火に煙草を移す。吸ってやる。
ふっと煙を吐き出してしまった。吸って、もう一度吸うという意識がまだ確立出来ていない。だが、火をつけることは成功した。もう一度文の言葉を思い出す。
「……」
煙を吸って、肺に入れた。
「――!」
衝撃と表現するには生温い。喉が焼けた。肺がズンと重くなり、吐くというよりも吐き出した。
咳きこむ。頭がくらくらする。血がさっと引いていく。神経が身体の奥へ潜ったように感じる。
煙草を投げ捨てたくなったが、もったいないので灰皿の端に乗せた。部屋の中にあるやかんに、非常にはしたないのだが、そのまま口を付けてお茶を飲んだ。
「っはぁ!ふー、げほっ……」
(衣玖さん、こんなものを吸っているのか。何が美味しいんだろう。こんなの、苦くて、辛くて、息苦しいだけじゃないか……)
山菜や魚の腸のような旨みのある苦みではない、口にしたくない苦みだ。煙は部屋の天井へ行き、灰とフィルターだけが灰皿に残された。箱を見て椛は参った。中身はまだまだ残っている。数えたら残り十数本あった。次に衣玖と会った時、この煙草の話題になるに決まっている。捨てました、とは言えない。衣玖が自分の財布から出して買ったものを捨てるなんて出来なかったし、そうじゃなくても他人からもらったものを平然と捨てられる根性なんて椛にはない。
「ん……?」
窓を叩くものがいた。天子にやった使いの烏である。烏の足には手紙が結ばれていた。椛はすぐに烏を部屋の中に入れてやりご褒美の餌を与えた。
「あれ、衣玖さんから?」
さっそく天子が飛ばしたなと思ったが、その差出人は予想外だった。
『今日はありがとうございました。総領娘様にお渡ししたこの烏を初めて飛ばすのが私ですみません。椛さんに渡した煙草のことが気になり、この手紙を書きました』
手紙によれば、椛がさっきのようなことになると予感したらしい。そして、上手な吸い方も一緒に書かれていた。カームという言葉の意味と同じように、静かに吸うのだそうだ。決して勢いよく吸ってはならないとある。さっきの凶悪な味はそれをしてしまったからだろう。
平穏と静けさを心に宿して、椛はカームを吸った。
「美味しい……」
急に優しい味になった。苦みからは棘が取れ、辛みには甘みが混じるようになった。衣玖が吸う理由が解る。その味は椛にとって新しいもので、そしてそれ以外にはないように思われたから。
灰になっていく煙草を見て、椛はいつか誰かが言った言葉を思い出した。
「どうしてお酒は飲むと無くなるんだろう、か……はっはっは……」
Ⅴ
衣玖からの手紙は1度きりで、それからの手紙は天子からのしかなかった。毎日飛ばしてくるものだから椛も返事を書くのに必死だった。仕事でへとへとに疲れて返事を書くことを怠ったことがある。次の日来たのがねちねちとした恨み節が綴られた天子からの手紙だった。椛は理由を簡潔に述べて、あとはひたすら平謝りの返事を書く破目になった。そのような経験から、形だけでも返事は毎日書くことにした。天子が書くことは、本当に雑多なことだった。ときどき、書いている本人ですら理解出来ているのか怪しいときもある。話はあちこちへ飛び、椛がそれを頑張って解読して頭の中で要約する。
安心する。椛はそんな天子に安心を覚えるのだ。天子の感情に何か裏がある気がしていた。自らが犯した罪に起因する疑念なのだが、天子の様子にその疑念は消えていった。
疑念から解放されたとき、椛は天子のことが気になった。今は何をして、何を思っているのだろうか、と。恋と呼んでいいのかも解らない。ただ純粋に、気にかかるのだ。
ふ、と稽古中に椛は集中力が切れて師に叱られた。椛は集中力が上がりすぎて身体が固くなることはよくあったものの、切れるということはあまりなかった。師もそのことをよく理解していて、何かあってもそれで精神を揺らがせてはならないと椛に指導した。どこか理想的に聞こえたが、椛は素直に頷いた。
稽古が終わっても流れる汗を拭きながら椛は道場から出てきた。山は麓よりも一足先に雪が降る。中途半端に積もる雪はぐしゃぐしゃと音を立てる。
「椛」
声をかけられた方へ振り向くと、文が木にもたれながら立っていた。
「射命丸様、こんばんは」
「うん、今時間あるわよね?ちょっとついてきなさい」
文に引っ張られるまま椛は文の寮部屋に連れていかれた。声の様子と表情からあまり良いことではなさそうだった。
「座りなさい」
文の部屋の中には座布団が2つ用意されていた。
「どうして呼ばれたか、解る?」
「いえ……」
文は自分の部屋の中であるにも関わらず、周囲を見回す。警戒している。更に声の音量を小さくして、椛に言った。
「貴女、スパイじゃないかって疑われているわよ……」
「え……?」
「ここ最近天界と山の間で飛ばされてる烏。あれ、貴女のでしょう?」
「はい……」
「私達鴉天狗、特に私は山の中と外を行ったり来たりしてるけど貴女はそうじゃない。それにこの山と天界に関係がありそうなのって、あの天人崩れしかいない。あの崩れが何か山で一騒動起こすために山の内部情報を探っている、それを提供している犬走 椛……」
「そんな、僕は――!」
「誰もが貴女みたいに物事を好意的に受け止めてくれるとは思わない方が良いわよ。むしろ悪意が多いと思った方が良い。ただでさえ山の威信が地に堕ちたと嘆いてる連中が上に多いのよ。あの山の神の1件から……」
「……」
「椛、貴女は軽率な行動をした」
「……はい……」
「本当はさ、この話をする前に貴女を上に突き出すことだって出来たの。今回の話が私に回ってきたのが幸運だったわね」
椛は深く自分の浅慮を恥じた。
「自慢じゃないけど、私は少し上に顔が利く。まずは使いをやめなさい。それに貴女の勤務態度をあと1段階上げて。真面目なのは知ってるし、遅刻も欠勤もなし。でもそれ以上にやるのよ」
「はい、解りました」
「さて、と……明日、何か予定ある?」
「いえ、明日は仕事が休みです。まだ何も予定は決まってませんね」
「じゃあ、飲みますか!」
今までの暗い雰囲気を吹き飛ばすように文は部屋に置いてあった一升瓶を椛の前にドンと叩きつけた。
「え、え?」
「飲めるでしょ?」
杯ではなく、湯飲みに酒をとくとく注ぐ。
「まぁねぇ……貴女とちょっと飲みたいと思っててねぇ……」
一気に飲んだ文はすぐに次の酒を注ぐ。
「まあさ、私はね、貴女のことがさ、目に入ってたわけよ……んで、最近はそれなりに努力はしている」
それなり、と耳に入って椛は酒を飲む手を止めた。
「それなりよ、まだまだ貴女は甘い。今回の話だってそうよ、甘さ丸出し。まあそこから考えるのは貴女次第よ、まったく」
文はそこまで言ってふるふると頭を振った。
「そんなことは解りきってるか。そうじゃなくてさ、貴女、あの天人崩れのことどう思ってるの?」
「どう、ですか……」
「まー、あんま言っちゃまずいんだけど、これも監視の一環だと思ってさ、答えてちょうだいな」
「よく、解らないんです。ただ、天子のことが気になるんです」
椛がそれを恋と呼ぶにははっきりとしなかった。ふわふわとした掴みどころのないものだった。
「恋ね」
そう断言する文。
「やはり、恋ですか……」
椛は酒に口をつけて、考えなおしてみる。
「それを判断するのは貴女だからこれ以上はどうこう言わないけどさぁ……恋ねぇ、あれのどこが……」
椛は腹が立った。酔い始めていることも解っている。文の匙加減で自分が追いつめられることも解っている。だが、それでもなお、許せなかった。
「天子は良い子です。元気で、いつも楽しそうで、僕を笑顔にしてくれる。あの子と会って僕はどんな存在かを知りました。天子は……僕の大切な人です!」
大切だった。一片の曇りも偽りもなく、天子は椛にとって大切な人だった。
「大声を出さないで。もう夜なんだかまったく……ああ、でもやっぱり恋ね、それ」
文の酒はどんどん進む。
「まったく、純粋な恋慕なんて上にどう説明すればいいのよ。貴女は面倒事ばかり作るわね」
酒の肴を用意してなかった文は煙草を吸いだした。
「煙草……射命丸様も吸ってましたね」
「好きで吸ってるのはクロッターだけよ」
「クロッター?」
「知らない?クローズスターの略よ。こいつがそう、吸う?」
「あ、すみません、どうも」
文は椛にクロッターをくわえさせるとそのまま火まで点けてやった。
「ふぅ……あ、カームと違う……」
「でしょう?気に入ったらどんどん吸って良いわよ。買いだめしてるから」
文はクロッターの箱を2つ出してきた。自分の分と椛の分だった。
「あと足崩しなさい、正座とかやめて。今日は殺すから覚悟してもらうわよー」
(明日の予定を聞いたのはそういうことか……)
酔い始めた頭で、明日自分が生きていることを椛は願うのだった。
Ⅵ
椛は文に殺された。反省せざるを得ないこの吐き気。椛は今こうして生きていることを喜ぶべきだと思った。枕元に水が入った湯飲みがある。最後の最後、これを置いて力尽きた。道端で吐いた覚えがある。それは覚えているのだが、腕についている傷がいつ出来たのかが解らない。残っている記憶には転んだ覚えがない。あるはずのない傷に椛はいやになった。
「うー……」
文さんと飲むときは、かなりの覚悟を決める必要があるなと思った。
「文さん、強すぎる……」
文さん、と呼べるのは、昨日文にこう言われたからだ。
「射命丸様だなんて気持ち悪い、文さんって呼びなさい」
一緒に酒を飲んだら友達だ、と同僚が言ってたのを覚えている。確かにその通りかもしれない。
二日酔いが治まり、ようやく椛が立って歩けるようになったの日が暮れてからだった。いい加減起きて晩御飯を食べに行かなきゃと布団から抜け出し、少しだけ口に物をいれた。食事中に天子から来てるであろう手紙のことを考えると、無駄に過ごした休日と相まって憂鬱になった。食事を済ませた椛は烏を呼び手紙を受け取った。
「毎日ごめんね、本当にありがとう」
カァっと鳴いた使い。椛からの、いつもよりも高級なご褒美をもらってご満悦そうだった。
椛は部屋に戻って手紙を開いた。手紙を放り出して窓から飛び出した。
未だに軋む頭。憂鬱に錆びた身体。
椛は飛んだ。ぼろぼろの身体で飛んだ。
「今日遊ぼうだなんて……!」
手紙には天子からのお誘いが書かれていた。時間の指定までしてあった。遅刻どころの騒ぎではない。
(待ってる!絶対に、天子は待っている!)
予想ではない、確信であった。そしてその椛の確信は正しかった。
「天子!」
いつもの待ち合わせ場所に着地すると、天子は遅すぎる待ち相手を見た。
椛を見つめる天子の目は、ずっと前に椛を見ていたときと目と同じだった。つまらなさそうで、無感情の目。
「遅いんだけど」
「すまない、昨日君の手紙を読むことが出来なかったんだ……」
「あっそ」
椛の心が痛む。
(その顔をしないでくれ、君にそんな顔は似合いやしない)
「ごめん……」
「……解った。私もちょっと急すぎたわ」
「うん……」
天子は無表情から不機嫌になり、椛は一安心した。
「それで、今日はどこへ行く?」
「え?」
考えてみれば、このまま天子と別れられるはずもなかった。
「今から?僕、明日から仕事なんだけどなぁ……」
「何よ、私をなっがい間待たせておいて自分はすぐに帰っちゃうんだ?あーあ、冷たいのね椛って」
「そんなぁ……」
「帰って寝て明日もお仕事頑張ってね」
天子は少し大げさに拗ねる。膝を抱える様子が可愛らしく、愛おしい。
「参ったな……」
暗くなればどこにも遊びに行けない。酒を飲むということは出来るが、椛は明日の仕事を考えると避けなければならなかった。しかし、これほど不機嫌なまま天子を家に帰すのも次が怖い。
「寒い」
「そうだね……」
夜空に星と月が見える。夜なのに、奇妙なくらい明るい空だった。
「こうすれば温かいかもね!」
ころりと表情を変えて天子は椛に抱きついた。椛を見上げてえへへと笑う。
椛は震える。あまりに天子が可愛くて、しかし、椛は何も出来なかった。抱きしめ返してやるほどの胆力がなかった。頭を撫でてやることすら出来なかった。ただただ身体を震わせていた。恋をした相手にこれほど近づかれて、椛は身体の内側から熱が来ていることを知った。
「椛?」
「ああ、うん……」
天子は椛から離れた。消えていく温もりの一部が、天子からのものであったことに今更気付いた。
「ごめん椛、私が悪かった……」
「いや、そんなことは……」
2人の間でどうしようもない公開の沈黙が漂う。
「うん、今日はもう帰る……」
帰らせてはいけないと思った。この沈黙を持ちかえらせては、きっと取り返しがつかないことになると。
天子は背を向けた。
(どうしてそんな寂しそうな背を僕に見せる!?やめろ、君は笑うんだ。君には誰よりも笑顔でいて欲しいんだ!)
「ねぇ、椛」
天子の顔が、不安で怯えていた。初めての表情だった。
「私のこと、嫌いにならないでね?」
「な、なるもんか!絶対ないさ、そんなこと!」
思わず椛は声を荒げた。そのことに天子は少しだけ安心したように良かったと言って、帰ってしまった。
今まで真面目にこなしてきたと盲目的に信じていて、更にそこから一歩踏み込むのは決して易しくはない。文に言われた通り、椛は一層の努力をしたわけだが最初は何をどうして良いのか解らなかった。初心に帰るという言葉を思い出してせっせと雑務をこなすが、後輩の仕事を奪うことにもなる危険性も当然ながらあった。しかし、それは逆に良い方向に効果が合った。先輩には負けじと後輩が雑務をこなし、先輩である椛も更に努力をした。最早これ以上は出来ぬという限界点に辿りついた時、後輩との連帯感が強固になった。
これでは満足してはならぬと椛は業務中の小さなミスを減らすよう心がけた。目を瞑れば見逃されるものを1つ1つ丁寧に消していった。詰めの作業をしていくとミスの多さに驚かされた。自分の真剣というものが如何に恥知らずかを痛感せずにはいられなかった。
そうして仕事をこなしていく日常の中で、椛は気にかかることがあった。天子のことである。使いの烏が飛ばせず、2人の間の連絡手段は断たれた状況で、椛を追いこむ最後に見た天子の顔。
天子との1件から8日目。この日は偶然にも昼を過ぎたくらいで仕事から上がることになった。椛はこれから天界へ明日の仕事に影響を出さずに向かえるだろうかと考えた。非常に大きな不安要素はあるが、この好機を潰したくはなかった。
「天子に伝えるだけでも……そうか、衣玖さんに頼めば……」
椛はあえて人里へ向かった。
(人里に行くのは何も不思議なことじゃない。そこで友人と会ったのだ、そう、偶然に……!)
椛は衣玖が通う喫茶店に入った。結構な速度で飛んだので身体はカッカと暑く、汗が流れていた。袖で首筋の汗を拭いながら出されたお冷を飲む。ホットコーヒーと灰皿を頼み、先に店主が持ってきた灰皿の横にカームの箱を置いた。息が落ち着いてきたとき、冷たいものを頼めば良かったと頭をかすめたが、それが今回の目的ではないと考えた。
薄暗い灯りに煙草の煙が消えていく。
(衣玖さんは来るんだろうか?)
もし来たとしても、椛と入れ違いになる可能性も十分あった。椛は煙草に祈りを込めた。2本吸い終えて椛は溜息を吐いた。煙草が切れてしまった。
ホットコーヒーは冷えだし、背中に当たる店主の視線も気にかかる。チラリとカウンターを見ると、助かることに煙草が数種類売っていた。
「えっと……クローズスター下さい」
残念なことにカームはなかったが、吸ったことのある煙草は売っていた。ついでに椛はクッキーも頼み、自分の椅子に戻った。店主の態度はトゲトゲしさはなく――元々温厚な性格なのだろうか、店主は椛に笑顔を向けた。
(少し吸いすぎたな……)
クロッターの辛みが強い煙を吐きながら椛は後悔した。やってきたクッキーを分けて、ほんの少しずつ口の中へ放り込む。時間稼ぎだった。
外気が入って、入口の方へ顔を向けた。
「あら、椛さん」
衣玖であった。
「クロッター、ですか」
「はい。えっと、カームはちょっと切らしてしまって……」
「あらあら」
「あと、あれは少し僕には強過ぎて……美味しいんですけれど……」
「ふふ、そう言う人がほとんどですよ」
衣玖は笑いながら煙草をくわえ、火を点けた。衣玖が煙を吐き出す時間が自分とは段違いで椛は驚いた。
「2人で会うのは初めてですね」
「そうですね」
「今日はお休みですか?」
「いえ、今日は急に昼から上がりになったので……」
衣玖がカップを置くと、カチャリと音がした。
「その、天子のことなんですけど、使いの烏の体調が悪いので連絡がとれないと伝えてもらえませんか?」
「ええ、解りました。……ふふふ、そのことを早く伝えるべきでしたね」
衣玖は乱暴に煙草の火を消した。ストレスを撒き散らしているかのようだった。
「ふぅ……今、総領娘様が相当荒れていまして……」
「え?」
「総領娘様がいつにも増して我が儘を。天界であちこち物を壊して見るに見かねたご両親が天子を軟禁。更に逆上した総領娘様は家から脱出しようとして失敗。最後は私を呼んでの愚痴。ふふ……疲れましたよ」
「……」
「何もかも……ええ、言いましょう。椛さん、貴女が原因です」
「ぼ、僕がですか!?」
「見せてあげたいくらいですよ。椛に会いたいと喚き散らすあの姿を」
衣玖はクックッと笑う。苛立ちを笑みに変えるのは慣れているようだった。
「……全てを話しても構いません。私は何だって良いんです、私は何でもないんです」
「いや、衣玖さんは……」
「いえ、そんな言葉はいりません。受け入れてますから。それに、そんな自分が嫌だとはもう思ってません。何ともなくたって、即ち不幸だなんて、勝手に世間が言ってるだけじゃないですか」
「衣玖、さん……」
「何でもなくたって出来ることはあります。こうやって、たった僅かな、人と言葉を交わすくらいなら。誰かに煙草を教え込むのは実に愉快。椛さんもいつかやりますよ」
衣玖は煙草を取り出す手を止めた。
「流石に少しくらくらするわ、こんなに連続は……伝言の件、了解しました。さぁて、出ましょうか。私がおごりますよ」
「え、そんな、僕が……!」
「こんなときくらい、私にもカッコつけさせて下さい。貴女はこれから、カッコつけるんですからね、ふふ」
Ⅶ
衣玖と別れてからすぐに椛は自ら文の所へ赴いた。焦燥を胸に秘めながらも顔を上げて堂々と歩いた。すれ違う鴉天狗達には軽く会釈し、文の部屋へ足早に向かう。
「文さん、椛です」
すぐ近くにいた鴉天狗がぎょっと驚いた。彼には、白狼の小娘が鴉の文に向かってさん付けで呼んだのが命知らずと映ったようだった。
「はい、入って良いわよ」
「失礼します」
中で文は机に向かって書きものをしていた。次に発行する新聞の記事だろう。狭い部屋の中は煙草の煙で充満しており文の作業時間の長さがよく解った。
「珍しいわね、何?」
椛は戸を閉め、文の隣に座って耳元で尋ねた。
「ここから天界へはどれくらいかかりますか?」
「……危険よ、その行動は」
「解っています。ですけど、僕は天子を止めに行かなければなりません。あの子は今、僕に会いたくてしょうがないそうなんです……このまま放っておけば、いつかはこの山へ来てしまいます。剣を持って、怒りを携えて……」
「あの崩れならやりそうね……そうなったらまずい、上が憂慮していた通りになるわ」
「仕事はもちろん休めませんから、休日前の仕事が終わったら天界へ向かうつもりです」
「あと何日?」
「2日後です」
「2日……きついわね……でも解った。上にもだけど、山全体に貴女が恋をしているっていう噂を流して全員の目を眩ませる。新聞の発行まで使うからかなり広まるわよ、良いわね?」
「はい」
「皆がその噂を信じるかは信じないかは普段からの貴女の印象次第。もちろん信じやすいように私もそれっぽく書くけれど」
「すみません文さん。何てお礼を言ったら良いか……」
「後でしっかり借りは返してもらうから気にしなくていいわ。それに、個人的に応援してやりたいのよ。貴女みたいな真っ直ぐで不器用で真面目な馬鹿をさ」
「文さん……」
思わず椛の瞳が潤んだ。
「さ、さっさと行きなさい。精一杯、真剣にね」
「はい!」
事を実行に移す際は誰もが緊張する。椛は仕事から帰ってきて、一切の武器となるものを置いた。誰にも敵意が無いことを示すためだった。身体の汚れを拭き、身だしなみを整える。天界へ着ていく服は、替えにおいてある仕事着の袴衣装にした。今椛が持っている私服ほど軽くもなく、かと言って正装ほど固くはない。鏡の前に立って、自分の姿を確認した。鏡の中には、馬鹿な天狗が立っている。椛は良いね、と笑って部屋を出た。
夜空の星がとても優しく見えた。手は届かないが、そこにあるという安心感が得られた。星達の光が、椛が一筋だけ流した涙を受け止めた。まぶたを閉じて、椛は微笑む。
ありがとう
冷たくも温かな世界に感謝して、椛はより高く空を翔け上がった。
ようやく足が地面に着いて、椛は膝に手をついた。長距離の飛行は堪えた。
「天界へようこそ」
「衣玖さん……」
下にあった視界に靴が入り、顔を上げた。衣玖はすぐさま歩きだす。
「早く行きましょう」
余裕を感じさせる割には、衣玖の足はとても速かった。いつまでも疲れているわけにはいかないと呼吸を1つ、大きくしてその背中を追った。
「天子は?」
「椛が明日ここに来たとしたら、また別の方向へ行ったでしょう」
「天子……」
椛は衣玖の横に並ぶ。月の光の下では誤魔化せないのか、笑みを浮かべている衣玖の表情には心労があった。お疲れ様ですと気楽に言えないほどだった。
「何かあったら僕に言って下さい。聞くだけしか、出来ないかもしれませんけど……」
どうしても伝えておきたくて、だから椛は言った。
「じゃあ今度、お酒に誘って下さい」
「……はい!」
「ありがとうございます。自分から言うのはどうも苦手でして。さあ、着きました」
天子の家は大きすぎた。椛はそう思った。過剰で、派手で、触れたくなかった。触れるのが恐ろしいのではない。鼻につく嫌悪感がするのだ。
「椛さん、こちらへ。使用人の入り口から入りましょう」
衣玖に連れられ、家の中へ入る。中は灯りがなく、静まり返っていた。衣玖はランプを持って先に進み、椛はその後ろをついていく。時間は深夜手前と言ったところだが、あまりにも静かすぎる。外の豪華さとは反対に、中は虚ろだった。
「天女は私以外は全員暇を出してます。総領娘様が暴れると、危険ですからね」
衣玖が止まった。ランプに照らされる、扉。
椛は衣玖に頭を下げ、その扉を開けた。
「天子」
「椛……?椛なの!?」
部屋の中は爛々としていて、椛の網膜はひりついた。その状態で身体に重みが加わる、天子が抱きついたのだ。
「ねぇ、私に会いに来てくれたの?そうだよね?ね?」
「つ、う……ああ、そうさ、天子に会いに来たんだよ」
やったぁ!と天子はより強く椛を抱き締める。それだけしか、感情を伝える術がないかのように。
「君に会いたくて仕方なかった。だから、今日来た」
椛が言える言葉も、少なかった。
「椛、ずっとここにいてよ。何だって良いわ、誰もいらないでしょ?私達がいれば」
やっと眼が光に慣れて、すがる天子の表情が見える。期待は椛の重みになる。ついに手首から外した文のハンカチ。しかし、その感触は十分に残っている。
「駄目だ。僕にそんなことは出来ない」
「……やっぱり私のこと嫌いになった?どうなの!?」
「馬鹿、そんなことあるもんか!でもね、僕は働いているんだ。この仕事を捨てて、君の所へは走れない。君は山には入れない、だから会える時は会いに行く」
「どうして烏を送ってくれないの?私、ちゃんとお世話してたよ?」
「衣玖さんには嘘を君に伝えてもらった。本当はあの子の体調は悪くない。僕は……上の人達から睨まれている。僕が内通者じゃないかってね。だからあの子が送れなかった。ごめん」
「……貴方達は愚かよ。皆下で何を言ってるの?私には理解できないわね」
小馬鹿にする天子に、椛はあの時言われた言葉を返した。
「君の世界も狭いね、この世界は君だけで出来てはいないのに。そうやって馬鹿にしてると良いさ」
「何よ、じゃあもう椛なんていらない。出てって」
「僕を物か何かだと思っていたのか……そうか、僕は……」
椛は緩んでいた天子を突き放すと、もう何も見ずに部屋を出た。背中からは何も聞こえてこない。積み上げた全てが崩壊して、残骸は沈黙となった。
衣玖が部屋の外でランプを持って待っていた。2人は頷き合って、外に出た。
「……どうでしたか?」
「天子のことが好きだったんですけど……駄目、でした」
外で気楽に座れそうな場所を見つけて2人はそこに座った。息を合わせたように2人は煙草を吸い始めた。
「どうしてでしょうね」
「はい」
「僕は天子のことが好きなのに解らないんです。ああ、どうしてかな。天子の顔が目に入らない。あれだけ気になっていたのに」
煙草の苦みが不快なくらい舌にはりついた。
「……天子はまた、誰かを探すんですかね」
「ええ、またどこかへ行きますよ」
「馬鹿だなぁ」
「はい、とっても馬鹿です」
椛は下駄に煙草を押し付けて、吸い殻を遠くへ投げ捨てた。衣玖はまだ半分程しか吸っていなかった。椛は衣玖に合わせてもう1本吸おうとしたが、無かった。
「カーム、吸いますか?」
「いえ……良いです。とてもじゃないですけど、吸えるような気分じゃないんで」
全てが上手くいかなかった。今日は天子をなだめて、あとは2人でずっと笑っている予定だった。
衣玖は何も見ず、あえて言えば煙の行く先を眺めているようだった。
「やっぱり、納得出来ません。こんなの」
「そうですか」
「はい、ランプ借りますね」
「椛さん」
ランプを持って走り出しかけた椛を衣玖は呼びとめた。煙草の煙から、椛に視線が移っていた。
「たとえどのような形になろうとも、総領娘様を……いえ、天子を外に出してやってください。それがあの子の友人としての、私、永江 衣玖のたった1つの願いです」
部屋に戻ると、天子は部屋の真ん中で俯いて棒立ちしていた。
「何をしに来たの?」
「僕にもよく解らない。理解出来ないって感情しかなくてね」
「お呼びじゃないんだけど」
「そうだね」
「出ていって」
「ここじゃないと、今じゃないと、多分解りそうにもないから」
天子は顔を上げた。泣き腫らした瞳。
椛に叫ぶ。
「貴女なんて大嫌い!皆、皆私から離れていくんだ!」
椛は解った。
「ああ、多分それだ。天子はさ、誰かといないと駄目なんだな」
「離れる癖に!」
「そりゃあ、僕は天狗だし、働く義務もあるからね。天子はさ、いつでもどこでも一緒にいて欲しい……いや、違う、自分がいて欲しいときにいてくれなきゃ嫌なんだ!そうだろう!?」
大きくなった椛の声に天子はわっと泣き出した。
「寂しいの!空っぽはもういや、椛、椛が欲しいよぉ!」
「僕?僕じゃなくて、我が儘を聞いてくれる従順で都合の良い奴だろ?」
天子はぼろぼろと大粒の涙を零す。荒い息、伏せる顔。ぎゅっと目一杯スカートを握って、ぶつけるように叫んだ。
「違う!椛よ!誰かじゃないの、椛にいて欲しいの!」
「僕に、か……」
「うん、椛よ……」
「僕はそんな都合が良い訳じゃないよ?君と会える時間は少ない。寂しがり屋の君には、むしろ僕は不適だ」
「待つ、私、椛のことちゃんと待ってる!」
不適でも、と椛は思う。
「君に会える時は必ず会いに行く。約束する」
だからもう泣かないで。
椛は天子を抱き締めてやった。椛自身から抱き締めたのは初めてだった。
「ごめんね……椛……」
「泣くのも謝るのも今日はもうそれっきりにしてくれ。君は笑って、不満に頬を膨らませて、拗ねて、僕を少しくらい困らせる。そんな君が、僕は大好きだよ」
「ありがとう!大好き椛!」
「やれやれ……泣いて笑うなんて、君は卑怯だ。はあ……天子、可愛いよ……」
椛が強く抱き締めてやると、天子はそれに応えた。
【Epilogue】
「椛さん、椛さん」
朝、椛が着替えをしているときに来客が来た。今日はデートだってのに、と思う。しかし来客の声は文のようだったし、また文が何故自分をさん付けで呼ぶのか疑問に思った。
「すみません、少し待って下さい」
椛は洋服を手早く着終えて、文を部屋に招き入れた。
「どうしたんですか文さん?こんな早くに……それに僕をさん付けって」
文は自分の腕章を指差す。ああ、と椛は合点が行った。
「お忙しいところすみませんねぇ、取材で少しお願い出来ますか?」
「はあ」
「近頃椛さんの恋愛の噂、それを本人への直接取材で真相を探ろうかと」
文の意図が解った。
(この取材を記事にして、文さんは上へ報告するつもりなんだろう)
「いやぁ、他人の恋愛話ってのは皆好きですね。うちの新聞の購読数がどんどん伸びましたよ」
(なるほど、借りを返してもらうとはそういうことか……しっかり計算してるなぁ……)
2人で笑い合う。天子とのデートの待ち合わせ時間まであまりゆっくりは出来なかったから、途中からは歩きながらの取材になった。椛は懐かしく思いながら文に全てを話。恥ずかしくなるようなことも、自分を戒めなおすこともあった。何よりも、天子達に巡り合えた幸運に、ほろりと涙した。その涙はきっちり文に撮られてしまった。
「あの、そろそろ……」
「はい、すみませんね長々と。あ、これで最後なんですけど、お願いします」
椛は長すぎる文の取材の途中で煙草を吸いだしていた。あと1口、吸えそうなくらいだった。
「犬走 椛にとって、天子とはどのような人ですか?」
「天子は……」
今日は突き抜けて青い空だった。
白い雪が日光に当たって綺麗だった。
(青と白。天子と、僕だな)
最後の1口を吸って、椛は煙草を捨てた。
「意地っ張りで、わがままで、寂しがり屋で……笑顔が素敵な、とびきり可愛い、僕の彼女です!」
文にそう笑って告げて、椛は心地良い風の中へ飛んだ。
椛が抱き締めてやると、天子はそれに応えた。
Ⅰ
「椛!」
自分の名前を親友のにとりに呼ばれた椛は顔を上げた。その目は睨みつけるように鋭い。
「寝てるわけじゃないよね?」
「僕はそんなことしない。考えていただけだ」
椛は頭の中で目の前の盤上の未来を予想していた。将棋の対戦相手を負かすための最善策を出し、その手を打った。
それを受けて、相手は動かなくなった。椛は自分の集中力を上手に安定させながら相手の一手を待ち続ける。なかなか動かない相手に苛立つ椛ではない。
焦げくさい臭いが鼻を刺し、目を対局者にやった。
「あっちゃー、熱でやられたよ」
にとりは椛の対戦相手――機械仕掛けの人形を横にした。人形からはもくもくと黒い煙があがっている。
「……投了、で良いのかな?」
「そーなると思う」
椛は今は冷え切ってしまったお茶を飲み干して緊張をほぐした。
「で、どうだった?」
「うん、面白かったよ。僕くらいの腕前なら十分楽しめるんじゃないかな」
「そうかー、あとはどこまで動けるかだなー。冷却性能を上げないと」
「……それ、この前試したよね?」
「うん、だけどさー、あれ、音がうるっさくてうるさくて。何とか静かに出来ないもんかとね」
椛はそのときの機械人形を思い出す。あのときはにとりの言うように非常にうるさくて集中出来ずかなりイライラした。
「そうした方が良いよ……」
椛は熱がこもる自分の額を冷やそうと、近くの川に行った。流れる水に手拭をさらし、それをぴたっと額につける。
「はぁ……」
口から零れる声。女性の匂いを僅かながら含んでいる。もう一度手拭を水に晒してからにとりの所へ戻った。
「ところでさぁ、まだ思考力って上げても良いかな?」
「切り替えが出来るなら良いと思う。上げすぎたらついていけなくなるよ?」
「うん。んー、だとしたらどうするかなー、数種類思考回路を作るかなー」
「そういえばこの前貸した資料は?」
「ああ、あれ?うん、参考にしてるよ。ちょっと解りづらい所があるから今度教えてもらえない?」
「うん、解った」
ありがとう、とにとりは言う。
「悪いね、いつも付き合わせちゃって……」
「そんな顔をしないでくれよにとり。僕も好きでやってるんだからさ」
にとりは照れ臭そうにもう一度、ありがとう、と言った。椛はうんと満足げにうなずき、帰宅することにした。
家――椛の現在の家は働く白狼達の寮になるのだが、帰宅した椛は下駄を脱いだ。狭い自室、椛はごろんと横になった・
(何も特別なことじゃない。ありがとうって言われたら、誰だって嬉しいさ)
にやける頬にそんな言い訳を付けくわえた。
(しかし、僕はいつまでこんな同じ生活をするんだろうなぁ)
何年も同じ天井を見上げているうちに、にやけは消えて不安になってきた。
(家を出て独り立ちする時は、変化に期待していた。だけど、結局変わりやしなかった)
繰り返す日常。変わり映えがしないことは、果たして椛にはどう映るのだろうか。平和は素晴らしいことだと誰かが言う。椛もそう思うが、じゃあその平和の中身はなんだと問う。椛が求めているのは春の陽気のような眠い世界ではなく、協力と争いを繰り返し、螺旋のように発展していく世界だった。椛は前進に飢えていた。
(僕には何が出来る?何を為すべきなんだ!?)
進むべき方向は椛には見えない。椛の眼にも見えない千里よりも遠い、遥か彼方に答えがあると探していた。椛の剣の師は言った。自分の使命を見つけなさい、と。
幼い頃にそう指導されたが、椛が反省しているのはその使命と言うのは向こうから来てくれると考えていたことだ。気が付けば社会に放り出され、そしてやはり変わらない毎日を送っている。何も考えずに過ごしてきたことを痛感させられる。
今まで積み上げてきたものが無駄と問われれば、椛は怒って否定する。友人も、親友もいる。恋をしたこともある。犬走 椛が歩んできた人生は無駄ではない。しかしその人生はどこにだってあるものだ。椛が夢見る偉人、英雄達の人生。それには遠く及ばない。
身近にいる人物を挙げるとすれば射命丸 文であろう。上からの信頼も厚く、下からは尊敬の念を集める。椛の想像もつかぬ苦労をしたに違いない。それが身の振る舞いに繋がっているのだろう。重ねた年数の違いを言い訳にはしたくない。そんなもので自分自身を肯定するのは情けないことだと思うからだ。
ぐらりと視界が揺れ動く。椛は頭を振ると、布団を敷いて早々に寝てしまうことにした。
(僕は……どこへ行くんだろう)
死は万物に定められた結末だ。死への闇に落ちるまでに、どのように歩くかだけが自由に許されている。それぞれの歩き方がそれぞれの生き様だ。椛が望んだ方向は背中にある。もうそこには行けない。解っていたとしても、それでも憧れる。
――特別には、なれやしないんだ……
Ⅱ
仕事が早めに終わったので、椛は森の中を散策していた。思索に耽るのはこちらの方が椛には合っているようだった。答えを出すことに椛は焦りを感じていた。周りの皆はもう出している気がするのだ。プライドが高いわけではなかったが傷つけられるのは真っ平ごめんである。仕事をしているだけで死ぬ人生は送りたくないと願いながら、未だに答えを出せずにいる。椛は足元の木の枝を蹴飛ばした。
(僕は何をしているんだ……)
物に当たった自分が恥ずかしい。
――物音がした。
何者かの気配。
(誰だ?誰かがいる。同胞の臭いじゃない、侵入者か!?)
椛は太刀を抜いた。盾は手元にない。日光が木々に遮られる薄闇の中、椛の目に飛び込んだのは1人の少女。
椛は唸り声をあげる。
少女は椛を見て、剣を出した。緋色の剣。不敵な笑みを浮かべている。
「ここから出ていけ」
「嫌。なんでそんなことしなきゃならないのよ」
返答を聞いた瞬間に椛は間合いを詰めた。刃と刃を交えて理解した。
(女の子と思って油断した。なかなかの怪力だな……)
人間のようではあるが、麓や山の上の巫女のことを考えてみるとなんら不思議ではない。少なくとも、この「山」の中にいる時点で一定以上の実力はある。少女はコソコソと隠れていたわけではないようだった。戦闘狂の自信家、と椛は判断する。連絡が来なかったことから、初めて彼女を見つけたのは椛ということになる。
椛は誰に伝えるまでもなく、自分自身で撃退することに決めた。
どうやら速度で勝っているようだ。加えて地の利は椛にある。勝つ要素は十分にあると踏んだ。実際、それは本当であった。椛は猛攻で畳みかけると少女から笑みは消えた。苦しそうな、鬱陶しそうな相手の顔。刃を合わせ続けて解ってきた少女の腕前。勝利の要素はどんどん揃い、椛は油断した。
勝負が決まる。その決定的な隙が生まれた。
少女の目の前に浮いた大きな石。それから放たれる光線。
射撃が一切頭になかった椛は、直撃を食らった。
椛は誰かに呼ばれる声を聞いた。冷えだした身体も気にかかり、椛は目を開いた。赤い下駄が目に入る。上に視界をうつすと、射命丸 文が立っていた。
「こんなところで昼寝だなんて。野生にでも帰りたかったの?」
「いえ……」
椛は文にどんな目で見られ、どんな顔をされているかははっきりとは見えない。恥ずかしくなって近くの木を背もたれにして立ちあがった。長い間倒れていたらしい、森の中はほとんど闇だった。
「ま、今のは冗談だとして。誰かにやらたんでしょう?あれが相手なら仕方ないか」
「知ってるんですか……?」
「私達よりも高い所にいる不良娘よ」
「……」
「ところでさ、なんで仲間を呼ばなかったの?お陰で私が駆り出されたんだけど」
「倒せると思いました……」
「いや、思ったとかじゃなくて。貴女は番人だから侵入者を追い出すのが役目でしょ?重要なのは貴女が倒すことじゃないの、どんな方法でも良いから追い出すことが重要なの」
椛は何も言えない。文は更に言葉を吐いた。
「そんなことも理解しないまま仕事なんてしないでもらえる?こっちの仕事を増やされるのは勘弁してもらいたいわね。それにさぁ、ここに1人で来てる時点で実力がどれくらいかって解るでしょ?敵を見たからすぐ攻撃じゃなくて、自分の実力を考えてから確実に追い出すことを考えなさい」
「反省します……」
「1歩待って考えてみれば済むんだけどね、こんなの」
文は一切容赦しない。椛は自分のプライドが粉々に砕かれていくのをただひたすら耐える。文の言葉が正しいからだ。もしあれこれ言い訳をしてしまったら、砕かれたプライドはどこかへ飛散してしまう。
「さて、と。私はもう部屋に戻るから。……あとこれ使いなさい。返さなくて良いから」
文はポケットから取り出したハンカチを椛に渡し、空に飛んでいった。椛は自分が泣いていくことに気付いた。言い訳しないように必死で歯を食いしばっていたからそのことが解らなかった。椛はハンカチでごしごし顔を拭くが、後から後から涙が出てくる。やがて嗚咽も混ざり、椛はその場に崩れ落ちた。
Ⅲ
次の日、椛の手首には文のハンカチが巻き付けられていた。自分に対する戒めの意を込めてのことだった。より上へ、より上へ。椛は常に向上しなければ世間から認められない。そうでもしなければ特別にはなれないと椛ははっきりと理解している。文の言葉を心に、戒めを手首に。椛は今日も労働に励んでいた。
滝の音が椛の中で一体となった頃、後から来る予定だった隊員と交代し休憩をとることにした。昼食に配られている塩おむすびと漬物を食べながら熱い茶をすするのがたまらなく幸せだった。
「おにぎりはどうしてこんなに美味いんだろうねぇ……」
胃袋の中でぐるぐると熱い茶と食べ物がうずまいている。それが落ち着いたら、また仕事に戻るつもりだった。しかし……
「いた!」
声がして椛が振り向くと、昨日の青い髪の少女がいた。
「また来たのか……」
「そうよ、貴女と戦いたくてね」
「僕と?」
「私ね、思ったの。昨日の勝負は私の負けだって。そっちは剣しか使っていないのに、私は要石を使っちゃった。ねえ、負けだと思わない?」
「君が持っているものを使ったんだから、それはそれで良いと思うけどね」
「いーや、私の負けよ。絶対そうよ。だからもう一度私と戦いなさい」
少女から闘気が溢れている。椛は一呼吸置いて、相手と状況を適切に判断してから言った。
「僕はこれからも仕事があってね。君に構ってはいられない」
「貴女の事情なんてどうだっていいのよ。戦ってくれさえすれば」
「……残念だけど、それなら仲間を呼ぶよ?僕は君を確実に撃退する義務がある。僕個人の決闘はここじゃ出来ない」
「何よ。この臆病者」
「何て言われても良いさ、僕は仕事をきっちりしたいし、しなきゃならないから。ああ、悪いけどこれ以上ここにいても仲間を呼ぶよ。もし君が大人しくこの場を退いてくれたら、この山じゃないどこかで戦っても良い」
この提案を椛は出したかった。少女は何としてでも自分と戦おうとするのと、自分の状況を考えるとこれが最善だと思った。通常なら多数で撃退するべきかもしれないが、少女のことを考えればそれはすべきではない。多数で撃退しても少女の目的が椛なのだから、何度も何度もやってくるが目に見えてる。
「……ふん。解った、じゃあこの森を抜けた先にある原っぱで待ってる。あそこは流石に貴方達の外でしょ?」
「うん、そうだね。あそこなら……そうだな、大きい岩があるからそこで待っててくれ。仕事が終わり次第、そっちに行くよ」
椛は何とか切り抜けたとホッとした。
「絶対に来てよ」
「もちろん。約束はきちんと守る主義だ」
少女はじっ……椛の顔を見ると踵を返して去っていった。椛は少女との会話で時間が取られた分、急いで持ち場に戻った。
夜、仕事が終わった椛は果実を口にした。エネルギー補給のためである。彼女を満足させるのが一番の目的であるが、戦う以上はやはり勝ちたいものである。太刀を担いで椛は待ち合わせの場所に向かった。距離が縮んでいくにつれて集中力を高めていく。眉間に皺を寄せがちの椛だが、このときは口元に笑みを浮かべた。竹刀の試合で緊張で身体が思うように動かず何度も涙をのんだことがある。技を磨き、体を鍛えたとしても、土台である心がぶれていては勝負にならない。使い手が正しい状態、望ましい形で初めて技が出せるのだ。
息を吸って、吐く。戦うための空気を少しばかり、吸う。心を鼓舞し、身体に熱を与える。
「来たよ」
少女は既に剣を手にしていた。
それからは互いに無言で構える。
この瞬間、椛は少女と心が重なりあったと感じた。
2人は同時に動き、真っ向からぶつかった。
不思議な感覚だった。背中に地面がついているはずなのに、何故かふわふわと浮かんでいるように思われた。夜空が揺れて、星の光がぐるりぐるり。
「ねえ……大丈夫?」
「ああ、全身痛いけど大丈夫」
結果は、椛の勝利で終わった。身体能力は総合的に見てみると両者引き分けだったが、剣術では椛に軍配が上がった。精神的な面に注目するとしたら、少女が冷静さを欠かしたことも勝敗に関係するだろう。
「……僕が稽古をつけてあげようか?」
寝転びながら言うことじゃないけどね、椛は少しだけ冗談めかすように付け加えた。近くで同じ格好をしている少女は……
「ええ……と……」
「君はまだ強くなれる。その可能性を潰すだなんてもったいないよ」
(僕は、うらやましい……)
心でそっと呟く。誰からも称賛される、輝かしい栄光を約束されていること。凡人の椛には決してないものだ。自分が凡人だと自覚してるからこそ偉人に憧れる。そして……偉人に憧れながら、どこかではそうはなれないとも思っていた。自分がこれから向かう未来は、英雄なんかにはなれず、歴史の中に埋没していくだけのもの……
だから椛は素質を持つ者に可能性を捨てて欲しくはなかった。
「君が強くなって僕を負かしたら君はどこにだって行って良い。でも、そうなるまでは僕が指導する」
「……すぐに倒してみせるんだから!見てなさいよ!」
「ん、解った。じゃあ毎晩ここへ来て」
「ところで、さ」
「なに?」
「名前、教えなさい」
(一応、僕は君の師になるんだけどなぁ……)
でも、それが彼女らしさかもしれないと椛は思った。
「僕は犬走 椛。椛って呼んでね」
「比名那居 天子。天の使いじゃなくて、天の子の方ね」
「そうか……よろしくね、天子」
Ⅲ
話をしてみて、天子は教養もあって頭の回転が速い子であるとすぐさま解った。天人達の教えを椛に言ってくることもある。本人は守る気は更々ないだけだ。何よりも舌を巻いたのは天子の抜群の吸収力である。師である椛が頭の中で考えていた、まずは1か月という目安を考えなければないないほどだった。今のままだとすぐに抜かれてしまうと仕事で遠のいていた道場に足しげく通い、実力向上を図る。しかし、悲しきかな、凡人である椛が天子に追い抜かれるのは時間の問題であった。椛の頭には天子にあえてゆっくりと教えて成長を妨げる考えもちらついた。その考えは良心と責任感で振り払った。
「天子、お茶」
今日の稽古を終えて、椛は天子に水筒を渡した。受け取った水筒に口をつけて、こくこくと喉を鳴らす天子。口を離した時、天子はようやく笑顔を見せる。椛が待ち合わせ場所についたときは笑顔を見せるのに、稽古中は無表情。真剣に取り組んでいるという風にはまったく見えない。つまらない、早く終わって欲しい、という天子の気持ちがその無表情な顔から椛に伝わってくる。それで成長が遅ければあれこれ椛も言えるのだが、そうではなく、むしろ早いから何も言えない。
「あ、そうだった。天子、僕明日仕事がないんだけど……」
「ふぅん……じゃあさ、2人で遊びに行かない?」
突然の提案に椛は驚いた。そんなことを言われるとは思っていなかったし、更に椛が提案しようしていたのは長時間の稽古だった。
「え、遊びに?どこへ?」
「天界と山以外ならどこでも。人里とか?」
「人里かぁ……僕、行ったことないなぁ」
「じゃあ尚更行こ!」
「う、うん。解った」
待ち合わせの時間を決めて、2人はそれぞれの家へ帰った。椛は小さくなる天子の背中を見つめながら、反省にも似た疑念を抱いた。
(休みで時間があるからもっと稽古をつけるって言おうとしてたんじゃないのか)
(僕は天子の提案を口実に、僕は天子の成長を止めたかったんじゃないだろうか……?)
否定をしきるための証拠も、肯定せざるを得ない証拠もない。椛はゆらりと空を飛ぶ。ふと、天子が見せてくれた笑顔と、明るい声を思い出した。あの笑顔を指導中に見たことがない。椛は天子のことを考えながら飛び続ける。夜空は曇っていた。椛は雨だけはと祈った。
椛の祈りは天に通じたらしい。夜の内に雨が降り、朝には止んでいた。土が水分を含んでいて2人の靴が汚れる。椛は特別気にならなかったが、天子は泥が固まって汚くなるのが嫌だとぼやいている。
「そんなに気になる?」
「当然よ。気にならないそっちが……ああ、服を見るとそうでしょうね」
椛はよく解らない。服を見てみた。いつもと同じ、仕事着でもある普段着の格好。椛にとってはそれが当り前であるし、気になる要素などどこにもなかった。
「どういうこと?」
「あのね、遊びに行くときに仕事の時の服なんて着る?なぁに?貴女はここでも警備をしているつもり?」
「いや……」
天子はやれやれと両手を上げて呆れている。その態度に椛は自分の人生を侮辱されたとムッとした。
「うるさいなぁ、なんなのさ」
「お前は見識が狭すぎる。それでは正しい判断も出来ず、選べるものも少ない。もうちょっと知ることね」
「僕の見識が狭いだって?」
椛は天子に食ってかかった。その様子を見て天子はにんまりと笑う。
「貴女は正しいと思うかもしれない。そりゃあ、狭い世界じゃあそうでしょうね。その外に広がる世界を知らない。山と剣術で世界は成立しないのよ?」
その指摘に椛は言葉を奪われた。
狭い。狭い。
「自分の世界はすぐに広まりはしない。少しずつ広げていくことね。人里なら丁度服が見れるから、そうね、行ってみましょう」
椛は天子に手を引かれて走り出した。天子がつける足跡から、目を離すことが出来ずに。
椛は不安だった。凛と胸を張り、ピンと伸ばしていた背筋。それを維持出来ない。身を縮めることでしか身を守れない。異質として排除されるのではないかと気が気ではない。好奇心が湧くという気持ちを失ったのだと目を閉じた。閉じたところでもう遠すぎる。椛は眼を開いた。
「椛、気になる服を探してきなさい」
「……」
洋服を触れることすらなかった。狭い自分の世界をくまなく探して、鴉天狗の格好であった。文は特に鮮明である。
(うん、あんな感じ……かな……?)
白のシャツに黒のスカートを手にした。スカートは文ほど短い丈ではなく、膝くらいまであるものを選んだ。あの短さははしたないと思っていたからだ。天子も物色を一段落したのか椛のところへ戻ってきた。椛が手に持っている服を見るなり言った。
「地味ねえ……」
「だ、駄目かな……?」
「うーんと、これとか合いそうね」
ぱっとハンガーをとって椛に突きつけた。
「ええ!?こんなの――」
「派手だ、って言うんでしょ?それが大きな間違いなのよ」
スカートはまあそれでも良いかなと言って、天子は自分が持っていたジャケットを椛に渡した。
「身体のラインはかなり綺麗なんだからどんどん強調しなさい」
まあウエストは私が細いけどねと天子は笑いながら自慢する。
「それは君が幼い身体だからじゃあ……」
ギロっと天子に睨みつけられ、椛は慌てて眼を逸らした。
「ほらほら、お会計」
天子に背中を押されてレジへ向かう。服の金額合計を聞いて椛は飛び跳ねた。
(え?1ヶ月分の給料の半分?冗談でしょ?)
万が一に備えて椛は寮の家賃と光熱水費を抜いた給料ほとんど丸々を財布に入れてきた。お金を出すときに手が震えた。頭にあるのは目の前の服ではなく、これからの食費のこと。毎日3食は出るが、何か口にしたいときもある。宴会になればそこそこの額がかかる。次の給料日まで何日かと思うと悲しくなった。椛は修行の一環と割り切ってしまおうと決め込んだ。
服を抱えて店から出てきた椛の表情は暗い。一方、満足行く買い物が出来た天子は喜色満面と言ったところである。
「どうしてそんなに落ち込んでるの?」
「いや……」
「これからのことなんて考えなくて良いわ。お金なんて、無いなら無いで頭を使うのよ」
椛は盛大に溜息を吐いた。どうせ天子はお金持ちの家なんだろう。この気持ちが果たして本当に解るのだろうかと思う。
「総領娘様……?」
自分達の方向に声がしたので椛は顔を上げた。天子とよく似た、しかし細かいところは違う帽子。羽衣が身体の周りにふわふわと浮いている。人外、最低でも特殊な人間であることが判断出来た。
「あ、衣玖。丁度良かったわ、これ家に持って帰って」
いく、と呼ばれた女性と天子。椛は2人の顔を見る。総領娘様と呼んだことから、ある程度のことは想像可能である。椛は2人のやりとりを観察する。
「またですか。私は少し用事があるからここへ来たのですが」
「そんなに時間かからないでしょ?」
「確かにそうですけど……」
「じゃあお願い」
「それくらい自分で持ちなよ、天子」
椛は見てられなくなって、つい割って入った。
「貴女は……?」
不思議そうに椛を見る目。
「初めまして、犬走 椛と言う者です。もみじは、木に花と書きます」
「こちらこそ初めまして、椛さん。私は永江 衣玖。『衣』に、石の『玖』と書きます」
「衣玖……はい、解りました」
「えっと、白狼天狗の方ですか?」
「はい、そうです。今日は天子と人里まで下りてきて遊びに来てました」
「まあ、そうでしたか」
「でさ、荷物のことなんだけど」
2人の会話に入ってきた天子の顔は不機嫌そのものだった。しかし、どこか愛嬌がある不機嫌な顔であった。衣玖は困り果てたように眉根を寄せた。
「はいはい解りました。私が持って帰ります」
「ありがとねー、衣玖。大好きよ」
溜息を吐く衣玖も悲哀と共に可笑しさがある。2人の仲がよく表された光景に見えた。
今日の天子は感情をよく動かす。稽古の時とは大違いだ。椛の心は大きく揺れる。
『お前の世界は狭すぎる』
それは果たしてどういう意味なのか。椛は省みる。
(僕は天子の才能を無駄にはしたくなかった……そうか、僕は――)
己が凡人であるという否定しがたく、そして目にしたくない事実。英雄への願望。椛は自分のコンプレックスを天子に押し付けた。
(天子のことを思って、したはずだ……)
そう思っていたことは、確かに嘘ではない。
「僕の視野は狭いね……」
感情の、一般的に良しとされる部分だけを見ていただけである。別方向からの視点を持っていない。考えることは自分の行動だけで、反省の材料となる自らの思考を考えたことが無かった。両親と師に厳しくしつけられ、その正義を疑うことをしてこなかった。正義と思い、しかし、どうして正義なのかと理由が答えられない。
(天子の言う狭いって、恐らくこういうことじゃないかな)
盲目な己を悔い、改めようと椛は心に決める。ずっと手首に巻いて、そろそろ習慣化してきた文のハンカチ。思考の一呼吸。椛は世界を広めていくことを、誰かに言われたからではなく、自らの意思で決意した。
世界を広めるとき、恐怖するものだなと椛は言った。反省と決意の日から次の日、にとりから機械を借りてきた。親友の為と考えにとりの製作に尽力していたが、機械そのものには興味は無かった。千里眼でも見渡せないほど世界は広い。手にするものは当然それよりも狭い、即ち少ない。加えて、自分の世界というのはある時から一変する。何もかもを受け入れていた少女の頃。天狗の中ではまだまだ若年ではあるけれども、椛の世界は既に拒むことを覚えている。中にあるものだけで正義を作り、外側にあるものは無関心。
にとりに書いてもらった解説書に目を通すが、ただの走り書きでとても読めたようなものじゃない。所々理解出来るが、全体に繋がらず四苦八苦する。借りてきて何日も経つが未だに読破出来ていない。
それでも面白い、と椛は感じる。未知のものへ触れるまでしか恐れはない。恐怖に少しずつ興味、好奇心が混ざって行く。面白い、椛は声に出して笑う。そうして自分の感情をはっきりさせておきたかった。頭の中に浮かばせておくだけでは、自分の世界が否定してもみ消しそうだと思って。
「あ、そろそろだ……」
椛は太刀を担いで部屋を出た。今夜、天子との稽古は3週目に入った。1月というこだわりはさっぱりと捨てた。そんなものは自分のエゴでしかないと気付いたからだ。前日、天子に万全の状態に整えてくるよう伝えておいた。今夜、椛は天子と決着をつける。結果がどうあれ、天子を手離すつもりである。自分が何を押し付けたところで天子の得にはならない。剣術で心を鍛えるというのは相手が勝手にすることで、剣術を教えるというのは相手が望んでくるから教えるのだ。
「そうさ、僕は間違っていた。押しつけていた」
愚かな自分の願望を押し付けて、それを正当化するための見苦しい言い訳。逃げてはならない。
「僕は断ち切らないといけない。ここでやらなかったら、狭い箱の中で腐るのを待つだけになる」
この一歩は、重い。
だけど歩ける、僕は歩ける。
夜の、風の重圧よ。
止められるなら止めてみろ。
僕は行く。
歩いて、つまずいて、世界の広さに嘆いても。
この歩みは、止めない。
待ち合わせの場所に天子はいた。椛を退屈そうに待っていた。椛は一息ついて天子に告げた。
「今日で稽古は終わりにする」
天子は揺らしていた両足を止め、椛の顔を見た。
「僕は君のことを考えて稽古をつけていたけど、それは君に僕を投影していた。凡人である僕は君の才能をうらやんで、僕は君を通して夢を果たそうとしたんだ」
「そう……」
「ごめん」
「別に……」
「そう、か……うん、それでね、天子。今日は君と戦う」
椛は心と合わせて太刀を抜く。太刀を抜くのに合わせて心を鼓舞するのではない。心の昂りに合わせて太刀を抜くのだ。
「やっと勝負出来る。私は椛を倒すことだけが目的」
「ずっと退屈させてすまない」
天子は解放の喜びからか、笑みがこぼれている。目つきはギラギラと光り、霊力が伝わってくる。
単色の感情ではない。極光。多彩な色の感情。椛は目覚める。椛は咆哮をあげる。世界を守っていた腕を広げて、これから来る何かを受け入れる。
決意の太刀を、振り上げた。
2人は何度も倒れた。砂が、土が、口に入った。血も出た。酷く痛かった。剣の果たし合いで始まった2人だったが、いつしか剣というものを超えていた。互いを讃えあっているんじゃないだろうかと、椛は思った。
ありったけ全てを出しきって、最後に立っていたのは、天子だった。
椛はもう立ち上がる力が出てこない。
「……ああ、負けた……」
負けたという悔しさは当然ながらあった。しかしそれだけではなく、心地よい風が心に吹いていた。
「ありがとう……」
感謝の言葉が自然と零れる。天子に、文に、自分の世界に送る言葉。言いたい言葉が多すぎて、全てをまとめたら『ありがとう』になっていた。
勝利を得るために立っていた天子は、尻もちをつくように座り込んだ。
「やった。私の……勝ち……」
「うん、君の勝ちだ。天子の勝利だ」
恨みがこみ上がってこない。自分自身に対してもだ。雲がない夜空。きっと明日は晴れる。禊はこの夜に済んだ。
夢は英雄もあれば、それ以外にもある。英雄にならねばいけないのか?夢とは強制されたものだろうか?それは違う、と椛は言った。
禊が済んだ椛の身体はどこまでも飛んで行けそうなくらい軽かった。強迫観念に支配されないとは、不安と喜びを得るということなのかと思う。
「椛……」
「うん……?」
「これからも、一緒に居てくれる?もうこれで、お別れじゃないのよね?」
「もちろんさ」
「椛といるとまだまだ退屈しなさそうだからね」
「僕も天子といたいな。君と……いたい」
天子といる。天子といたい。贖罪でもあったし、天子の行く末を見たいという気持ちも未だにあった。彼女が見える世界を分けて欲しかった。どれがどれくらい割合なのかは判断出来ない。
何もかも、あって良いのだと思う。世界の全てを受け止めるには小さいからでは限界がある。でもだからと言って、何も受け入れない世界はつまらないと思う。頭を使って、手で触れて、これからの人生を歩いていこう。
Ⅳ
「スカートってどうやって穿くんだろう?」
椛は手をぴたりと止めて考えた。天子と遊びに行くことになったこの日、椛は例の服を着ようとした。洋服に触れてこなかった自分への罰だと思う、着方が解らない。もちろん説明書なんてものはあるわけもなく、椛は焦った。遅刻はしたくないというのに時間がかかる。前日の晩、大丈夫だと決め込んで寝たのがまず間違いだったと遅すぎる反省をした。
(ともかく、服を着よう)
椛はスカートから身体を外に出してよくよく観察した。すると、いつも着用している足袋のコハゼによく似たものが3個あった。反対側にはひっかけられそうな金属の部品もあり、ようやく構造が解った。椛はもう一度全体を調べてしてそれ以外のものはないことを確認した。
(よし、穿けたぞ!)
袴と同じようで別物の服、スカート。椛はくるりと天子がするように回ってみるとふわりとスカートが浮く。まさか袴着用でこのようなことはしてはならないので、ふわふわと浮くのは実に新鮮であった。シャツはボタンにいくらか手間取ったものの着ることが出来た。次に悩んだのは、シャツをスカートに入れるか入れないかということだ。どっちも見たことがあるからだ。決めあぐねた椛は袴にならってシャツを入れることにした。
洋服を着て出かける。椛はスキップと言うものをやってみた。気分が弾む。周りの同僚が自分を変な目で見ていても気にならない。大方、自分の高揚見て驚いているのだろうと思った。白狼と鴉の寮は別れている。仲が悪い2つを一緒にすれば毎日傷が絶えないだろう。
「おや、珍しい。洋服の恰好」
寮の外に出るとばったり文と出くわした。
「あ、射命丸様。おはようございます」
「おはよう。これからお出かけ?」
「はい。友人と一緒に色々回ろうかと」
「そう」
文は椛の脇を通り抜けた。とろこが、数歩行ったとことで椛のところへ猛然と戻ってきた。
「どうして中に入れてるのよ!?」
椛がスカートにぎゅうぎゅうに入れたシャツを乱暴に引き抜いた。椛は慌てふためくも文は無視する。中に入れている時間が少なかったおかげで、大したしわになってなかった。文がきちんと伸ばせば元通りの、清潔感のある状態になった。
「少しは物事を考えるようになったかしらと思っていたらこれだもの。何を思ったかは解らないけど、なんでこんな不格好にしたのよまったく。中途半端な知識が一番役に立たないくらい解るでしょう!?」
「は、はい、すみません……!」
もしかして周りが自分を見てた目は、と椛は顔を真っ赤にした。
「……洋服に興味を持ったの?」
「はい」
「それじゃあ今度そっちに私の服を持ってってあげるわ。着れなくなったものがたまって困ってたのよ」
「え、本当ですか!?ありがとうございます!」
文は自分の腰回りに触れて、はぁと大きく息をついた。
「最近えらくついちゃったわ……不規則な生活が原因かしらねぇ」
「減量するなら起きてすぐに走り込むと良いそうですよ」
「はは……貴女、やっぱりずれてるわ……」
ぐるりと全体をチェックして、文はそれじゃあと言って空へ消えていった。椛は時間を食った分、急ぎ足で天子が待つ所へ行った。
天子は待ちきれない様子でそわそわしていた。身体を動かして外に吐き出さないと駄目なのか、緋想の剣をブーメランのように投げていた。
「ごめん天子、待たせたね。おはよう」
「あ、椛!」
剣を投げたあとに声をかけてしまったのは迂闊だった。天子は椛に目を向けて、その間にも投げた剣が天子に戻ってきている。声を発するか、自分が受け止めるか。椛は息を吸う間に考え、吐き出すと共に行動した。
「天子!剣!」
「え?おっと……」
椛は受け止めにいかなかった。受け止められるわけがない。責任感だけで身体を突き動かさない。
「ごめん、僕の不注意だった」
ただし、しっかりと処理は、謝罪はする。
「当たったくらいじゃなんともないけどね」
君の身体は頑丈だからなぁ、と口の中で言った。
「さて、今日はどこへ行こうかな。天子、君は?」
「そうねぇ、服はこの前買ったし……ま、人里をぶらぶらして考えましょ」
天子はまっすぐ歩かない。目を椛に向けながら、歩く椛の周りをうろちょろ回る。堅牢そうなブーツの割には非常に軽快なステップである。天子のつま先蹴りを食らったことはないが、見る限り堅そうである。
「天子、それ、重たくない?」
「うん、重い」
動き回る天子を目で追う。天子の足に合わせたかような皺。色落ち、つま先に若干の傷。これらには躍動感というものが表現されている。それは天子が持つ活発さでもあった。天子の魅力の一端を示すブーツに、椛は心打たれた。
「それは自分が手入れしているの?」
「まっさかぁ、衣玖にやらせてるのよ」
「へぇ……」
(あの人も解っているんだな、恐らくは……)
自分のものくらい自分で管理しなよ、という言葉が後から出てきたが、椛はそれをそっとしまった。ペラペラとしゃべっているといつの間にか人里に入っていた。2人は店を指差しては中へ入り、存分に冷やかしてくる。昼過ぎまで歩きまわった。
「そろそろお腹が空いたわ」
「そうだね、じゃあ何か食べに行こうか」
2人はあたりを見回して、近くにあった蕎麦屋に入った。
蕎麦を食べているときに椛が驚いたのは天子の食事マナーだった。大変綺麗で、食べている様は正しく姫であった。その様子だけ見れば、天子のことを勘違いしてしまうだろう。椛自身も母親に厳しく躾けられていたので、どこで食べても恥ずかしい思いをしたことはない。しかし、天子のそれを見てどこか劣等感を覚えた。天子が姫ならば、自分はそこらの雑草だと思ってしまう。目立つことが食事の目的ではないが、とにかく椛には華がない。それでも良いのだと椛はさっぱりと考え、劣等感を放り投げた。
「このお蕎麦、美味しいわね」
「うん、美味しい。適当に入ったけど正解だった」
歩き回っていたので蕎麦の冷たさがとても合う。日が照る秋にはまだ夏の残り香がある。蕎麦を平らげた2人は、もう一度お品書きを眺めた。このお店は甘味も豊富に揃えている。
「おしるこ、タイ焼き、大福……」
「それ、あんこばかりじゃない」
「僕、あんこが大好きなんだ」
あんこを考えるだけでわくわくする。
(小さい頃はよく稽古の帰り道で買い食いをしたなぁ……)
「へぇ、洋菓子もあるんだ」
天子が言って、椛は天子がもつお品書きを覗き込む。ここ、と指した先を見る。
「チョコパフェ……?」
「それ以外もあるわよ。アイスクリーム類ばかりだけど。あ、ホットケーキなんかもあるのね」
「ホットケーキ……ああ、あれか。あれは食べたことあるね。……うん、僕はチョコパフェを頼もうかな。食べたことないしね」
「じゃあ、私はおぜんざいをいただこうかしら」
「解った。すみません!」
チョコパフェ、というものが出てきて椛はそれの高さに驚いた。高くしなければならない理由はよく解らないが、見ているだけでわくわくする。どこからスプーンをいれようか迷ってしまう。
「椛、子供っぽい」
「そうか、うん」
天子の声がよく耳に入らない。興奮しきっている椛の様子に天子はやれやれと溜息をついた。天子は自分の菓子を食べながら椛を観察してみる。
「よし……」
親のカタキを目の前にしているのだろうか。椛はスプーンと言う武器をパフェに入れた。掬ったスプーンに乗っていたのは生クリーム。チョコレートソースがかかっている。
口に運ぶ。
とろりと舌に絡む。ソースの苦み、クリームの甘み。舌の温度が艶めかしかった。舌を卑猥な肉と感じたのは初めてだった。
喉を通って行った。
もう一度スプーンで掬う。今度はアイスクリームだ、口の中へ入れる。生クリームとは違う、冷たい。舌の温度が奪われる。徐々に溶けていって、生クリームと同じ温度になる。再びアイスを口に入れて、冷たいまま喉に通すと、冷たくて気持ち良い。
「ねえ」
「……」
「ねえったら、椛!」
「あ、な、何?」
「私にもちょっとちょうだい」
「ええ!?」
「なによ、くれないんだ?このケチんぼ!」
「いや、良いけどさ……」
天子が持っているのは箸だから、椛は自分のスプーンを差し出した。
「え、食べさせてくれないんだ?」
「はぁ?何を言ってるんだ君は?」
あまりにも予想外の注文だったのでうっかり口を滑らせてしまった。言ってしまった後にまずいと焦る。天子の表情はみるみる不機嫌になってしまった。
「えっと、ほ、ほら」
椛は泣く泣く、生クリームとアイスをスプーンにたっぷり乗せて天子に差し出した。しかし天子はプイとそっぽを向いたまま口を開こうとしない。椛は差し出したスプーンを引っ込めることが出来ずにほとほと困り果てる。何て憎たらしいんだ、と思うと同時に、はあ天子可愛い、と感じられた。相反するような感情の中、椛は天子の口元にスプーンを伸ばす。半ば押しつけるようにぐいぐい伸ばす。伸ばした腕がぷるぷる震えだした頃、ようやく天子はパクッとスプーンをくわえた。
「んふふ、おいし。ありがと」
「はは……」
天子の笑顔に可愛いという感情が大きくなる。疲れた片腕をさすりながら、椛は苦笑した。
店を出てから少しだけ回って、2人はすぐに喫茶店に入った。先程入った店と比べて中は暗い。陰気臭い暗さではなく、気分を落ち着かせる暗さである。掌で包みたくなる穏やかな光が内部を照らしている。
「コーヒー、なかなか美味しいね」
「ブラックで飲めるだなんておかしいわよ、絶対……」
天子はずっとコーヒーをかきまぜている。中の砂糖をよく溶かすためだそうだ。談笑していると、戸のベルがカランと鳴った。特段気にしていなかった2人だったが……
「ホットコーヒーを。あと灰皿」
その来客の声を聞いて2人はその者に顔を向けた。
「衣玖!」
静かな店だから特別声を大きくしなくとも聞こえる。衣玖は不意打ちを食らったようにこちらに振り向いた。
「総領娘様……」
驚きと落胆。衣玖は突然の2人を歓迎していないのが椛には解った。天子を引っ込めようとするが、それに従う天子ではない。
「ねえねえ、衣玖もここに来るの?」
「いえ、今日はたまたま……」
明らかに嘘と見抜いた。店主の対応がそうだ。店主は衣玖が頼んでから灰皿を持ってきていない、そう言われることを見越して既に持ってきていた。そして椛達のときは、灰皿を持ってきていなかった。
天子は勝手に席を移動して衣玖の隣に座った。食事のマナーは良いのに、と思う。椛1人で座っているわけにもいかないので、店主に一言断ってから移動した。快く、どうぞ、と言ってくれたのがありがたかった。
「ホットコーヒーです」
「どうも」
「あ、待って。クッキーのセット、3人分お願い」
「かしこまりました」
こういう天子の強引さは厄介だと思う。衣玖の渋い表情を見ると、どうやら同じような気持ちらしい。
「椛さんは煙草は大丈夫ですか?」
「あ、はい。どうぞ遠慮なく」
大丈夫ではない。鼻が利く椛が煙草を良いものと思ったことはない。しかしこちらが迷惑をかけてしまった手前、駄目だとは言えなかった。コーヒーがくるまでずっと手の中で遊ばせていた箱から衣玖は煙草を取り出した。マッチを擦る手付きは淀みなく、しかもその一連の動作には1種の格好良さまである。衣玖の喫煙歴を推し測るのに十分だった。
3人の会話が止まる。衣玖も遠慮して煙を吐き出すときは2人がいない方向へ顔を向ける。少しだけ椛が感じ取れる香りに、意外と臭みがないことに気付いた。会話を切り出すのに躊躇したが、思いきって尋ねてみた。
「良い匂いですね。どういう名前の煙草なんですか?」
「カーム、という煙草です。そうですか、これを良い匂いと思うとは……」
クスリと衣玖は笑った。何かを企んでいるようで、台詞も怪しい。とは言え衣玖が笑ったという事実は椛達にとって大きなものだった。そのことで和やかな雰囲気になり、会話の流れがようやく動き始めた。
衣玖を交えての談笑も楽しかった。真に不幸なのは、椛はまた天子にクッキーをあげる羽目になってしまったことだろう。
衣玖も仕事終わりだったらしく、3人で帰り道を歩いた。
「そろそろここでお別れですね」
「えー、まだ遊び足りないわ。もっと遊ぼ?」
「これから遊ぶとなると飲むしかないからね……明日は仕事なんだ、また今度にしよう」
ぐずる天子に困ったが、椛はそうだと手を叩いた。ピィッと指笛を吹くと、烏が一羽飛んできた。
「この子、天子に預けるよ。僕の使いの1羽なんだ。僕に連絡したいならこの子に手紙を持たせて僕に飛ばしてくれ。とても良い子なんだ、しっかり世話をしてくれよ?」
「わぁ……!ありがとう椛!」
椛は天子の不満を一掃出来た。
「椛さん」
すっと、衣玖は椛の前に出た。衣玖の体格はすらりと背が高く、天子の姿が隠れてしまった。
「またお会い出来たら良いですね」
さりげなく椛の左手を取り、ある物をその掌の上に置いた。
「これは……?」
衣玖は人差し指をそっと自分の口元にあてる。
「ねえ、2人で何をやってるの!?」
蚊帳の外で再び不満を募らせた天子の声が衣玖の背後から聞こえる。
「いえ、ただまた会えたら良いですねと言っただけですよ総領娘様」
くるりとその場で身体の向きを変える衣玖。椛はその背に隠れて受け取った物をシャツのポケットに仕舞った。
「じゃ、じゃあね。天子、衣玖さん」
今を好機として椛は山へ向かって飛んだ。
椛は自室に戻る前に、寮の売店で買い物をした。買ったものはマッチと灰皿。そう、衣玖からもらったのはカームの箱……煙草だったのである。
晩御飯の時間は過ぎていたので今日はもう自分で買う以外は食べられない。そこまで空腹ではなかったので椛はすぐさま煙草を吸う用意をした。部屋着に着替えて煙草をくわえた。
灰皿が遠くにあったので、手元に引き寄せる。気を取り直してマッチを擦る。勢いよく燃えあがり椛は火に煙草を寄せる。思った以上に熱く、椛は顔をそむけた。
「椛、いる?」
「射命丸様?」
慌てて部屋の戸を開ける。声の通り、文が部屋の前に立っていた。険悪な関係である鴉天狗と白狼天狗。文はそれをいたって気にしてる風はない。強い人だ、と思う。
「これ、持ってきてあげたわよ」
「ああ、ありがとうございます!」
文から肩幅ほどある大きな箱を両手で受け取った。
「昔の服とか今の私には小さいのばかりだけど、椛なら着れると思ったものよ」
「すみません、こんないっぱい……」
「部屋にあったって邪魔なだけだしね、ただでさえ圧迫されてるんだしさ。……貴女、煙草やってたの?」
文がちらりと椛の部屋の中を見て意外に思ったのが灰皿の上にある1本の煙草だった。
「はい、今日人からもらって」
ちょっとお邪魔するわね、と文が中へ入って煙草を観察する。
「ああ、カームかぁ……渋いわね……」
「射命丸様も喫煙を?」
「付き合いで必要になることもあるからね。話のネタに役立つことも多いし。たとえばこのカーム、こいつは年配の男性陣に受けが良いわよ」
(落ち着きがある人に、という意味で考えれば衣玖さんにはぴったしかも……)
「へぇ……あの、吸い方教えてもらえませんか?」
「煙草に火を点けて、吸って、深呼吸して、吐く。何てことないわ」
「はい……解りました、ありがとうございます」
こんなことを教えて礼を言われるのは何とも言えない気分ね、と文は苦笑いした。
文が帰り、椛は再び喫煙に挑んだ。先が黒くなった煙草をもう一度咥え、文から教えてもらった方法を頭で確認しながらマッチを擦った。二度と同じ轍は踏まぬ、とマッチの火が落ち着くのを待つ。そろそろと火に煙草を移す。吸ってやる。
ふっと煙を吐き出してしまった。吸って、もう一度吸うという意識がまだ確立出来ていない。だが、火をつけることは成功した。もう一度文の言葉を思い出す。
「……」
煙を吸って、肺に入れた。
「――!」
衝撃と表現するには生温い。喉が焼けた。肺がズンと重くなり、吐くというよりも吐き出した。
咳きこむ。頭がくらくらする。血がさっと引いていく。神経が身体の奥へ潜ったように感じる。
煙草を投げ捨てたくなったが、もったいないので灰皿の端に乗せた。部屋の中にあるやかんに、非常にはしたないのだが、そのまま口を付けてお茶を飲んだ。
「っはぁ!ふー、げほっ……」
(衣玖さん、こんなものを吸っているのか。何が美味しいんだろう。こんなの、苦くて、辛くて、息苦しいだけじゃないか……)
山菜や魚の腸のような旨みのある苦みではない、口にしたくない苦みだ。煙は部屋の天井へ行き、灰とフィルターだけが灰皿に残された。箱を見て椛は参った。中身はまだまだ残っている。数えたら残り十数本あった。次に衣玖と会った時、この煙草の話題になるに決まっている。捨てました、とは言えない。衣玖が自分の財布から出して買ったものを捨てるなんて出来なかったし、そうじゃなくても他人からもらったものを平然と捨てられる根性なんて椛にはない。
「ん……?」
窓を叩くものがいた。天子にやった使いの烏である。烏の足には手紙が結ばれていた。椛はすぐに烏を部屋の中に入れてやりご褒美の餌を与えた。
「あれ、衣玖さんから?」
さっそく天子が飛ばしたなと思ったが、その差出人は予想外だった。
『今日はありがとうございました。総領娘様にお渡ししたこの烏を初めて飛ばすのが私ですみません。椛さんに渡した煙草のことが気になり、この手紙を書きました』
手紙によれば、椛がさっきのようなことになると予感したらしい。そして、上手な吸い方も一緒に書かれていた。カームという言葉の意味と同じように、静かに吸うのだそうだ。決して勢いよく吸ってはならないとある。さっきの凶悪な味はそれをしてしまったからだろう。
平穏と静けさを心に宿して、椛はカームを吸った。
「美味しい……」
急に優しい味になった。苦みからは棘が取れ、辛みには甘みが混じるようになった。衣玖が吸う理由が解る。その味は椛にとって新しいもので、そしてそれ以外にはないように思われたから。
灰になっていく煙草を見て、椛はいつか誰かが言った言葉を思い出した。
「どうしてお酒は飲むと無くなるんだろう、か……はっはっは……」
Ⅴ
衣玖からの手紙は1度きりで、それからの手紙は天子からのしかなかった。毎日飛ばしてくるものだから椛も返事を書くのに必死だった。仕事でへとへとに疲れて返事を書くことを怠ったことがある。次の日来たのがねちねちとした恨み節が綴られた天子からの手紙だった。椛は理由を簡潔に述べて、あとはひたすら平謝りの返事を書く破目になった。そのような経験から、形だけでも返事は毎日書くことにした。天子が書くことは、本当に雑多なことだった。ときどき、書いている本人ですら理解出来ているのか怪しいときもある。話はあちこちへ飛び、椛がそれを頑張って解読して頭の中で要約する。
安心する。椛はそんな天子に安心を覚えるのだ。天子の感情に何か裏がある気がしていた。自らが犯した罪に起因する疑念なのだが、天子の様子にその疑念は消えていった。
疑念から解放されたとき、椛は天子のことが気になった。今は何をして、何を思っているのだろうか、と。恋と呼んでいいのかも解らない。ただ純粋に、気にかかるのだ。
ふ、と稽古中に椛は集中力が切れて師に叱られた。椛は集中力が上がりすぎて身体が固くなることはよくあったものの、切れるということはあまりなかった。師もそのことをよく理解していて、何かあってもそれで精神を揺らがせてはならないと椛に指導した。どこか理想的に聞こえたが、椛は素直に頷いた。
稽古が終わっても流れる汗を拭きながら椛は道場から出てきた。山は麓よりも一足先に雪が降る。中途半端に積もる雪はぐしゃぐしゃと音を立てる。
「椛」
声をかけられた方へ振り向くと、文が木にもたれながら立っていた。
「射命丸様、こんばんは」
「うん、今時間あるわよね?ちょっとついてきなさい」
文に引っ張られるまま椛は文の寮部屋に連れていかれた。声の様子と表情からあまり良いことではなさそうだった。
「座りなさい」
文の部屋の中には座布団が2つ用意されていた。
「どうして呼ばれたか、解る?」
「いえ……」
文は自分の部屋の中であるにも関わらず、周囲を見回す。警戒している。更に声の音量を小さくして、椛に言った。
「貴女、スパイじゃないかって疑われているわよ……」
「え……?」
「ここ最近天界と山の間で飛ばされてる烏。あれ、貴女のでしょう?」
「はい……」
「私達鴉天狗、特に私は山の中と外を行ったり来たりしてるけど貴女はそうじゃない。それにこの山と天界に関係がありそうなのって、あの天人崩れしかいない。あの崩れが何か山で一騒動起こすために山の内部情報を探っている、それを提供している犬走 椛……」
「そんな、僕は――!」
「誰もが貴女みたいに物事を好意的に受け止めてくれるとは思わない方が良いわよ。むしろ悪意が多いと思った方が良い。ただでさえ山の威信が地に堕ちたと嘆いてる連中が上に多いのよ。あの山の神の1件から……」
「……」
「椛、貴女は軽率な行動をした」
「……はい……」
「本当はさ、この話をする前に貴女を上に突き出すことだって出来たの。今回の話が私に回ってきたのが幸運だったわね」
椛は深く自分の浅慮を恥じた。
「自慢じゃないけど、私は少し上に顔が利く。まずは使いをやめなさい。それに貴女の勤務態度をあと1段階上げて。真面目なのは知ってるし、遅刻も欠勤もなし。でもそれ以上にやるのよ」
「はい、解りました」
「さて、と……明日、何か予定ある?」
「いえ、明日は仕事が休みです。まだ何も予定は決まってませんね」
「じゃあ、飲みますか!」
今までの暗い雰囲気を吹き飛ばすように文は部屋に置いてあった一升瓶を椛の前にドンと叩きつけた。
「え、え?」
「飲めるでしょ?」
杯ではなく、湯飲みに酒をとくとく注ぐ。
「まぁねぇ……貴女とちょっと飲みたいと思っててねぇ……」
一気に飲んだ文はすぐに次の酒を注ぐ。
「まあさ、私はね、貴女のことがさ、目に入ってたわけよ……んで、最近はそれなりに努力はしている」
それなり、と耳に入って椛は酒を飲む手を止めた。
「それなりよ、まだまだ貴女は甘い。今回の話だってそうよ、甘さ丸出し。まあそこから考えるのは貴女次第よ、まったく」
文はそこまで言ってふるふると頭を振った。
「そんなことは解りきってるか。そうじゃなくてさ、貴女、あの天人崩れのことどう思ってるの?」
「どう、ですか……」
「まー、あんま言っちゃまずいんだけど、これも監視の一環だと思ってさ、答えてちょうだいな」
「よく、解らないんです。ただ、天子のことが気になるんです」
椛がそれを恋と呼ぶにははっきりとしなかった。ふわふわとした掴みどころのないものだった。
「恋ね」
そう断言する文。
「やはり、恋ですか……」
椛は酒に口をつけて、考えなおしてみる。
「それを判断するのは貴女だからこれ以上はどうこう言わないけどさぁ……恋ねぇ、あれのどこが……」
椛は腹が立った。酔い始めていることも解っている。文の匙加減で自分が追いつめられることも解っている。だが、それでもなお、許せなかった。
「天子は良い子です。元気で、いつも楽しそうで、僕を笑顔にしてくれる。あの子と会って僕はどんな存在かを知りました。天子は……僕の大切な人です!」
大切だった。一片の曇りも偽りもなく、天子は椛にとって大切な人だった。
「大声を出さないで。もう夜なんだかまったく……ああ、でもやっぱり恋ね、それ」
文の酒はどんどん進む。
「まったく、純粋な恋慕なんて上にどう説明すればいいのよ。貴女は面倒事ばかり作るわね」
酒の肴を用意してなかった文は煙草を吸いだした。
「煙草……射命丸様も吸ってましたね」
「好きで吸ってるのはクロッターだけよ」
「クロッター?」
「知らない?クローズスターの略よ。こいつがそう、吸う?」
「あ、すみません、どうも」
文は椛にクロッターをくわえさせるとそのまま火まで点けてやった。
「ふぅ……あ、カームと違う……」
「でしょう?気に入ったらどんどん吸って良いわよ。買いだめしてるから」
文はクロッターの箱を2つ出してきた。自分の分と椛の分だった。
「あと足崩しなさい、正座とかやめて。今日は殺すから覚悟してもらうわよー」
(明日の予定を聞いたのはそういうことか……)
酔い始めた頭で、明日自分が生きていることを椛は願うのだった。
Ⅵ
椛は文に殺された。反省せざるを得ないこの吐き気。椛は今こうして生きていることを喜ぶべきだと思った。枕元に水が入った湯飲みがある。最後の最後、これを置いて力尽きた。道端で吐いた覚えがある。それは覚えているのだが、腕についている傷がいつ出来たのかが解らない。残っている記憶には転んだ覚えがない。あるはずのない傷に椛はいやになった。
「うー……」
文さんと飲むときは、かなりの覚悟を決める必要があるなと思った。
「文さん、強すぎる……」
文さん、と呼べるのは、昨日文にこう言われたからだ。
「射命丸様だなんて気持ち悪い、文さんって呼びなさい」
一緒に酒を飲んだら友達だ、と同僚が言ってたのを覚えている。確かにその通りかもしれない。
二日酔いが治まり、ようやく椛が立って歩けるようになったの日が暮れてからだった。いい加減起きて晩御飯を食べに行かなきゃと布団から抜け出し、少しだけ口に物をいれた。食事中に天子から来てるであろう手紙のことを考えると、無駄に過ごした休日と相まって憂鬱になった。食事を済ませた椛は烏を呼び手紙を受け取った。
「毎日ごめんね、本当にありがとう」
カァっと鳴いた使い。椛からの、いつもよりも高級なご褒美をもらってご満悦そうだった。
椛は部屋に戻って手紙を開いた。手紙を放り出して窓から飛び出した。
未だに軋む頭。憂鬱に錆びた身体。
椛は飛んだ。ぼろぼろの身体で飛んだ。
「今日遊ぼうだなんて……!」
手紙には天子からのお誘いが書かれていた。時間の指定までしてあった。遅刻どころの騒ぎではない。
(待ってる!絶対に、天子は待っている!)
予想ではない、確信であった。そしてその椛の確信は正しかった。
「天子!」
いつもの待ち合わせ場所に着地すると、天子は遅すぎる待ち相手を見た。
椛を見つめる天子の目は、ずっと前に椛を見ていたときと目と同じだった。つまらなさそうで、無感情の目。
「遅いんだけど」
「すまない、昨日君の手紙を読むことが出来なかったんだ……」
「あっそ」
椛の心が痛む。
(その顔をしないでくれ、君にそんな顔は似合いやしない)
「ごめん……」
「……解った。私もちょっと急すぎたわ」
「うん……」
天子は無表情から不機嫌になり、椛は一安心した。
「それで、今日はどこへ行く?」
「え?」
考えてみれば、このまま天子と別れられるはずもなかった。
「今から?僕、明日から仕事なんだけどなぁ……」
「何よ、私をなっがい間待たせておいて自分はすぐに帰っちゃうんだ?あーあ、冷たいのね椛って」
「そんなぁ……」
「帰って寝て明日もお仕事頑張ってね」
天子は少し大げさに拗ねる。膝を抱える様子が可愛らしく、愛おしい。
「参ったな……」
暗くなればどこにも遊びに行けない。酒を飲むということは出来るが、椛は明日の仕事を考えると避けなければならなかった。しかし、これほど不機嫌なまま天子を家に帰すのも次が怖い。
「寒い」
「そうだね……」
夜空に星と月が見える。夜なのに、奇妙なくらい明るい空だった。
「こうすれば温かいかもね!」
ころりと表情を変えて天子は椛に抱きついた。椛を見上げてえへへと笑う。
椛は震える。あまりに天子が可愛くて、しかし、椛は何も出来なかった。抱きしめ返してやるほどの胆力がなかった。頭を撫でてやることすら出来なかった。ただただ身体を震わせていた。恋をした相手にこれほど近づかれて、椛は身体の内側から熱が来ていることを知った。
「椛?」
「ああ、うん……」
天子は椛から離れた。消えていく温もりの一部が、天子からのものであったことに今更気付いた。
「ごめん椛、私が悪かった……」
「いや、そんなことは……」
2人の間でどうしようもない公開の沈黙が漂う。
「うん、今日はもう帰る……」
帰らせてはいけないと思った。この沈黙を持ちかえらせては、きっと取り返しがつかないことになると。
天子は背を向けた。
(どうしてそんな寂しそうな背を僕に見せる!?やめろ、君は笑うんだ。君には誰よりも笑顔でいて欲しいんだ!)
「ねぇ、椛」
天子の顔が、不安で怯えていた。初めての表情だった。
「私のこと、嫌いにならないでね?」
「な、なるもんか!絶対ないさ、そんなこと!」
思わず椛は声を荒げた。そのことに天子は少しだけ安心したように良かったと言って、帰ってしまった。
今まで真面目にこなしてきたと盲目的に信じていて、更にそこから一歩踏み込むのは決して易しくはない。文に言われた通り、椛は一層の努力をしたわけだが最初は何をどうして良いのか解らなかった。初心に帰るという言葉を思い出してせっせと雑務をこなすが、後輩の仕事を奪うことにもなる危険性も当然ながらあった。しかし、それは逆に良い方向に効果が合った。先輩には負けじと後輩が雑務をこなし、先輩である椛も更に努力をした。最早これ以上は出来ぬという限界点に辿りついた時、後輩との連帯感が強固になった。
これでは満足してはならぬと椛は業務中の小さなミスを減らすよう心がけた。目を瞑れば見逃されるものを1つ1つ丁寧に消していった。詰めの作業をしていくとミスの多さに驚かされた。自分の真剣というものが如何に恥知らずかを痛感せずにはいられなかった。
そうして仕事をこなしていく日常の中で、椛は気にかかることがあった。天子のことである。使いの烏が飛ばせず、2人の間の連絡手段は断たれた状況で、椛を追いこむ最後に見た天子の顔。
天子との1件から8日目。この日は偶然にも昼を過ぎたくらいで仕事から上がることになった。椛はこれから天界へ明日の仕事に影響を出さずに向かえるだろうかと考えた。非常に大きな不安要素はあるが、この好機を潰したくはなかった。
「天子に伝えるだけでも……そうか、衣玖さんに頼めば……」
椛はあえて人里へ向かった。
(人里に行くのは何も不思議なことじゃない。そこで友人と会ったのだ、そう、偶然に……!)
椛は衣玖が通う喫茶店に入った。結構な速度で飛んだので身体はカッカと暑く、汗が流れていた。袖で首筋の汗を拭いながら出されたお冷を飲む。ホットコーヒーと灰皿を頼み、先に店主が持ってきた灰皿の横にカームの箱を置いた。息が落ち着いてきたとき、冷たいものを頼めば良かったと頭をかすめたが、それが今回の目的ではないと考えた。
薄暗い灯りに煙草の煙が消えていく。
(衣玖さんは来るんだろうか?)
もし来たとしても、椛と入れ違いになる可能性も十分あった。椛は煙草に祈りを込めた。2本吸い終えて椛は溜息を吐いた。煙草が切れてしまった。
ホットコーヒーは冷えだし、背中に当たる店主の視線も気にかかる。チラリとカウンターを見ると、助かることに煙草が数種類売っていた。
「えっと……クローズスター下さい」
残念なことにカームはなかったが、吸ったことのある煙草は売っていた。ついでに椛はクッキーも頼み、自分の椅子に戻った。店主の態度はトゲトゲしさはなく――元々温厚な性格なのだろうか、店主は椛に笑顔を向けた。
(少し吸いすぎたな……)
クロッターの辛みが強い煙を吐きながら椛は後悔した。やってきたクッキーを分けて、ほんの少しずつ口の中へ放り込む。時間稼ぎだった。
外気が入って、入口の方へ顔を向けた。
「あら、椛さん」
衣玖であった。
「クロッター、ですか」
「はい。えっと、カームはちょっと切らしてしまって……」
「あらあら」
「あと、あれは少し僕には強過ぎて……美味しいんですけれど……」
「ふふ、そう言う人がほとんどですよ」
衣玖は笑いながら煙草をくわえ、火を点けた。衣玖が煙を吐き出す時間が自分とは段違いで椛は驚いた。
「2人で会うのは初めてですね」
「そうですね」
「今日はお休みですか?」
「いえ、今日は急に昼から上がりになったので……」
衣玖がカップを置くと、カチャリと音がした。
「その、天子のことなんですけど、使いの烏の体調が悪いので連絡がとれないと伝えてもらえませんか?」
「ええ、解りました。……ふふふ、そのことを早く伝えるべきでしたね」
衣玖は乱暴に煙草の火を消した。ストレスを撒き散らしているかのようだった。
「ふぅ……今、総領娘様が相当荒れていまして……」
「え?」
「総領娘様がいつにも増して我が儘を。天界であちこち物を壊して見るに見かねたご両親が天子を軟禁。更に逆上した総領娘様は家から脱出しようとして失敗。最後は私を呼んでの愚痴。ふふ……疲れましたよ」
「……」
「何もかも……ええ、言いましょう。椛さん、貴女が原因です」
「ぼ、僕がですか!?」
「見せてあげたいくらいですよ。椛に会いたいと喚き散らすあの姿を」
衣玖はクックッと笑う。苛立ちを笑みに変えるのは慣れているようだった。
「……全てを話しても構いません。私は何だって良いんです、私は何でもないんです」
「いや、衣玖さんは……」
「いえ、そんな言葉はいりません。受け入れてますから。それに、そんな自分が嫌だとはもう思ってません。何ともなくたって、即ち不幸だなんて、勝手に世間が言ってるだけじゃないですか」
「衣玖、さん……」
「何でもなくたって出来ることはあります。こうやって、たった僅かな、人と言葉を交わすくらいなら。誰かに煙草を教え込むのは実に愉快。椛さんもいつかやりますよ」
衣玖は煙草を取り出す手を止めた。
「流石に少しくらくらするわ、こんなに連続は……伝言の件、了解しました。さぁて、出ましょうか。私がおごりますよ」
「え、そんな、僕が……!」
「こんなときくらい、私にもカッコつけさせて下さい。貴女はこれから、カッコつけるんですからね、ふふ」
Ⅶ
衣玖と別れてからすぐに椛は自ら文の所へ赴いた。焦燥を胸に秘めながらも顔を上げて堂々と歩いた。すれ違う鴉天狗達には軽く会釈し、文の部屋へ足早に向かう。
「文さん、椛です」
すぐ近くにいた鴉天狗がぎょっと驚いた。彼には、白狼の小娘が鴉の文に向かってさん付けで呼んだのが命知らずと映ったようだった。
「はい、入って良いわよ」
「失礼します」
中で文は机に向かって書きものをしていた。次に発行する新聞の記事だろう。狭い部屋の中は煙草の煙で充満しており文の作業時間の長さがよく解った。
「珍しいわね、何?」
椛は戸を閉め、文の隣に座って耳元で尋ねた。
「ここから天界へはどれくらいかかりますか?」
「……危険よ、その行動は」
「解っています。ですけど、僕は天子を止めに行かなければなりません。あの子は今、僕に会いたくてしょうがないそうなんです……このまま放っておけば、いつかはこの山へ来てしまいます。剣を持って、怒りを携えて……」
「あの崩れならやりそうね……そうなったらまずい、上が憂慮していた通りになるわ」
「仕事はもちろん休めませんから、休日前の仕事が終わったら天界へ向かうつもりです」
「あと何日?」
「2日後です」
「2日……きついわね……でも解った。上にもだけど、山全体に貴女が恋をしているっていう噂を流して全員の目を眩ませる。新聞の発行まで使うからかなり広まるわよ、良いわね?」
「はい」
「皆がその噂を信じるかは信じないかは普段からの貴女の印象次第。もちろん信じやすいように私もそれっぽく書くけれど」
「すみません文さん。何てお礼を言ったら良いか……」
「後でしっかり借りは返してもらうから気にしなくていいわ。それに、個人的に応援してやりたいのよ。貴女みたいな真っ直ぐで不器用で真面目な馬鹿をさ」
「文さん……」
思わず椛の瞳が潤んだ。
「さ、さっさと行きなさい。精一杯、真剣にね」
「はい!」
事を実行に移す際は誰もが緊張する。椛は仕事から帰ってきて、一切の武器となるものを置いた。誰にも敵意が無いことを示すためだった。身体の汚れを拭き、身だしなみを整える。天界へ着ていく服は、替えにおいてある仕事着の袴衣装にした。今椛が持っている私服ほど軽くもなく、かと言って正装ほど固くはない。鏡の前に立って、自分の姿を確認した。鏡の中には、馬鹿な天狗が立っている。椛は良いね、と笑って部屋を出た。
夜空の星がとても優しく見えた。手は届かないが、そこにあるという安心感が得られた。星達の光が、椛が一筋だけ流した涙を受け止めた。まぶたを閉じて、椛は微笑む。
ありがとう
冷たくも温かな世界に感謝して、椛はより高く空を翔け上がった。
ようやく足が地面に着いて、椛は膝に手をついた。長距離の飛行は堪えた。
「天界へようこそ」
「衣玖さん……」
下にあった視界に靴が入り、顔を上げた。衣玖はすぐさま歩きだす。
「早く行きましょう」
余裕を感じさせる割には、衣玖の足はとても速かった。いつまでも疲れているわけにはいかないと呼吸を1つ、大きくしてその背中を追った。
「天子は?」
「椛が明日ここに来たとしたら、また別の方向へ行ったでしょう」
「天子……」
椛は衣玖の横に並ぶ。月の光の下では誤魔化せないのか、笑みを浮かべている衣玖の表情には心労があった。お疲れ様ですと気楽に言えないほどだった。
「何かあったら僕に言って下さい。聞くだけしか、出来ないかもしれませんけど……」
どうしても伝えておきたくて、だから椛は言った。
「じゃあ今度、お酒に誘って下さい」
「……はい!」
「ありがとうございます。自分から言うのはどうも苦手でして。さあ、着きました」
天子の家は大きすぎた。椛はそう思った。過剰で、派手で、触れたくなかった。触れるのが恐ろしいのではない。鼻につく嫌悪感がするのだ。
「椛さん、こちらへ。使用人の入り口から入りましょう」
衣玖に連れられ、家の中へ入る。中は灯りがなく、静まり返っていた。衣玖はランプを持って先に進み、椛はその後ろをついていく。時間は深夜手前と言ったところだが、あまりにも静かすぎる。外の豪華さとは反対に、中は虚ろだった。
「天女は私以外は全員暇を出してます。総領娘様が暴れると、危険ですからね」
衣玖が止まった。ランプに照らされる、扉。
椛は衣玖に頭を下げ、その扉を開けた。
「天子」
「椛……?椛なの!?」
部屋の中は爛々としていて、椛の網膜はひりついた。その状態で身体に重みが加わる、天子が抱きついたのだ。
「ねぇ、私に会いに来てくれたの?そうだよね?ね?」
「つ、う……ああ、そうさ、天子に会いに来たんだよ」
やったぁ!と天子はより強く椛を抱き締める。それだけしか、感情を伝える術がないかのように。
「君に会いたくて仕方なかった。だから、今日来た」
椛が言える言葉も、少なかった。
「椛、ずっとここにいてよ。何だって良いわ、誰もいらないでしょ?私達がいれば」
やっと眼が光に慣れて、すがる天子の表情が見える。期待は椛の重みになる。ついに手首から外した文のハンカチ。しかし、その感触は十分に残っている。
「駄目だ。僕にそんなことは出来ない」
「……やっぱり私のこと嫌いになった?どうなの!?」
「馬鹿、そんなことあるもんか!でもね、僕は働いているんだ。この仕事を捨てて、君の所へは走れない。君は山には入れない、だから会える時は会いに行く」
「どうして烏を送ってくれないの?私、ちゃんとお世話してたよ?」
「衣玖さんには嘘を君に伝えてもらった。本当はあの子の体調は悪くない。僕は……上の人達から睨まれている。僕が内通者じゃないかってね。だからあの子が送れなかった。ごめん」
「……貴方達は愚かよ。皆下で何を言ってるの?私には理解できないわね」
小馬鹿にする天子に、椛はあの時言われた言葉を返した。
「君の世界も狭いね、この世界は君だけで出来てはいないのに。そうやって馬鹿にしてると良いさ」
「何よ、じゃあもう椛なんていらない。出てって」
「僕を物か何かだと思っていたのか……そうか、僕は……」
椛は緩んでいた天子を突き放すと、もう何も見ずに部屋を出た。背中からは何も聞こえてこない。積み上げた全てが崩壊して、残骸は沈黙となった。
衣玖が部屋の外でランプを持って待っていた。2人は頷き合って、外に出た。
「……どうでしたか?」
「天子のことが好きだったんですけど……駄目、でした」
外で気楽に座れそうな場所を見つけて2人はそこに座った。息を合わせたように2人は煙草を吸い始めた。
「どうしてでしょうね」
「はい」
「僕は天子のことが好きなのに解らないんです。ああ、どうしてかな。天子の顔が目に入らない。あれだけ気になっていたのに」
煙草の苦みが不快なくらい舌にはりついた。
「……天子はまた、誰かを探すんですかね」
「ええ、またどこかへ行きますよ」
「馬鹿だなぁ」
「はい、とっても馬鹿です」
椛は下駄に煙草を押し付けて、吸い殻を遠くへ投げ捨てた。衣玖はまだ半分程しか吸っていなかった。椛は衣玖に合わせてもう1本吸おうとしたが、無かった。
「カーム、吸いますか?」
「いえ……良いです。とてもじゃないですけど、吸えるような気分じゃないんで」
全てが上手くいかなかった。今日は天子をなだめて、あとは2人でずっと笑っている予定だった。
衣玖は何も見ず、あえて言えば煙の行く先を眺めているようだった。
「やっぱり、納得出来ません。こんなの」
「そうですか」
「はい、ランプ借りますね」
「椛さん」
ランプを持って走り出しかけた椛を衣玖は呼びとめた。煙草の煙から、椛に視線が移っていた。
「たとえどのような形になろうとも、総領娘様を……いえ、天子を外に出してやってください。それがあの子の友人としての、私、永江 衣玖のたった1つの願いです」
部屋に戻ると、天子は部屋の真ん中で俯いて棒立ちしていた。
「何をしに来たの?」
「僕にもよく解らない。理解出来ないって感情しかなくてね」
「お呼びじゃないんだけど」
「そうだね」
「出ていって」
「ここじゃないと、今じゃないと、多分解りそうにもないから」
天子は顔を上げた。泣き腫らした瞳。
椛に叫ぶ。
「貴女なんて大嫌い!皆、皆私から離れていくんだ!」
椛は解った。
「ああ、多分それだ。天子はさ、誰かといないと駄目なんだな」
「離れる癖に!」
「そりゃあ、僕は天狗だし、働く義務もあるからね。天子はさ、いつでもどこでも一緒にいて欲しい……いや、違う、自分がいて欲しいときにいてくれなきゃ嫌なんだ!そうだろう!?」
大きくなった椛の声に天子はわっと泣き出した。
「寂しいの!空っぽはもういや、椛、椛が欲しいよぉ!」
「僕?僕じゃなくて、我が儘を聞いてくれる従順で都合の良い奴だろ?」
天子はぼろぼろと大粒の涙を零す。荒い息、伏せる顔。ぎゅっと目一杯スカートを握って、ぶつけるように叫んだ。
「違う!椛よ!誰かじゃないの、椛にいて欲しいの!」
「僕に、か……」
「うん、椛よ……」
「僕はそんな都合が良い訳じゃないよ?君と会える時間は少ない。寂しがり屋の君には、むしろ僕は不適だ」
「待つ、私、椛のことちゃんと待ってる!」
不適でも、と椛は思う。
「君に会える時は必ず会いに行く。約束する」
だからもう泣かないで。
椛は天子を抱き締めてやった。椛自身から抱き締めたのは初めてだった。
「ごめんね……椛……」
「泣くのも謝るのも今日はもうそれっきりにしてくれ。君は笑って、不満に頬を膨らませて、拗ねて、僕を少しくらい困らせる。そんな君が、僕は大好きだよ」
「ありがとう!大好き椛!」
「やれやれ……泣いて笑うなんて、君は卑怯だ。はあ……天子、可愛いよ……」
椛が強く抱き締めてやると、天子はそれに応えた。
【Epilogue】
「椛さん、椛さん」
朝、椛が着替えをしているときに来客が来た。今日はデートだってのに、と思う。しかし来客の声は文のようだったし、また文が何故自分をさん付けで呼ぶのか疑問に思った。
「すみません、少し待って下さい」
椛は洋服を手早く着終えて、文を部屋に招き入れた。
「どうしたんですか文さん?こんな早くに……それに僕をさん付けって」
文は自分の腕章を指差す。ああ、と椛は合点が行った。
「お忙しいところすみませんねぇ、取材で少しお願い出来ますか?」
「はあ」
「近頃椛さんの恋愛の噂、それを本人への直接取材で真相を探ろうかと」
文の意図が解った。
(この取材を記事にして、文さんは上へ報告するつもりなんだろう)
「いやぁ、他人の恋愛話ってのは皆好きですね。うちの新聞の購読数がどんどん伸びましたよ」
(なるほど、借りを返してもらうとはそういうことか……しっかり計算してるなぁ……)
2人で笑い合う。天子とのデートの待ち合わせ時間まであまりゆっくりは出来なかったから、途中からは歩きながらの取材になった。椛は懐かしく思いながら文に全てを話。恥ずかしくなるようなことも、自分を戒めなおすこともあった。何よりも、天子達に巡り合えた幸運に、ほろりと涙した。その涙はきっちり文に撮られてしまった。
「あの、そろそろ……」
「はい、すみませんね長々と。あ、これで最後なんですけど、お願いします」
椛は長すぎる文の取材の途中で煙草を吸いだしていた。あと1口、吸えそうなくらいだった。
「犬走 椛にとって、天子とはどのような人ですか?」
「天子は……」
今日は突き抜けて青い空だった。
白い雪が日光に当たって綺麗だった。
(青と白。天子と、僕だな)
最後の1口を吸って、椛は煙草を捨てた。
「意地っ張りで、わがままで、寂しがり屋で……笑顔が素敵な、とびきり可愛い、僕の彼女です!」
文にそう笑って告げて、椛は心地良い風の中へ飛んだ。
非常に新鮮な気持ちで読ませて頂きました。
椛の一人称が僕ということで衝撃を受けましたが
丁寧にキャラを立てていて好印象。こういうのもありだなあ。
喫めないのに美味しそうだなと思ってしまった煙草の描写がお気に入りです。
他の場面もざっくり掘り下げて書いて頂けるともっともっと楽しめたかも……
何はともあれお惚気ごちそうさまでした!
>椛はごろんと横になった・
中黒は読点でしょうか。細かいところ済みませんっ! 間違ってたらもっと済みません!
http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=big&illust_id=5357479
↑天モミ画像
キャラ造りの巧みさに思わず「うめぇ!」と叫びました。
序盤からスキなく椛の真面目な部分や天子の可愛さが描かれていて
それが後半のシリアスな展開での説得力を出していると思います。
一つ一つのエピソードが丁寧で楽しく、のめり込む様に夢中で読めました。
誰かと出会って変わってゆく、世界が広がる物語って素敵ですね。
キャラがそれぞれ魅力的でした。
おしゃれをしたり煙草を覚えたりする真面目で素朴な椛が可愛く、
我侭で天真爛漫でどこか都会的な雰囲気の天子も可愛く。
微笑ましく見守ってあげたくなるような感じです。
しかし……なによりも衣玖さんと文がね。
説教したあと呑みに連れて行ったり、椛を気にかける良き先輩の文や
喫茶店での煙草が様になる怠惰な衣玖さん。最高です。
素敵な話をありがとうございました。
ああ、なんとも素晴らしい
小説として軸がぶれなくて、世界がより一層鮮やかに描かれていました。
そして、衣玖さん 私を貴女のしもb(ry
一人ひとりが生きてるので影になることがなくて素晴らしかったです
見習いたい位です
この衣玖さんと煙草で語りたい
そりゃもう朝まで
それでいて現実世界のしがらみもよく描かれてらっしゃる。流れもお見事でした。
他のキャラも皆すばらしい。
自分も、もっと世界を広げなくてはなあ……
手法ってのはあまり好きになれないかな。
短い描写でカッコ良く見えて書くのがすごく簡単なんだけどね。
てか哨戒役が匂いの染み付くタバコを愛用したら駄目だろw
僕っ娘椛はイケメンだったけど、ここまでするなら別に女性でなくて
男との設定にしてても良いと思った。
もちろんキャラ付けは大分違うのですが、それでも充分俺得な話でした。
はあ天子可愛い