初めに宣言しておこう。
私、犬走椛は好色ではない。
後輩からも仕事に真面目な白狼天狗として認められているし、先輩からは異性の付き合いがなさ過ぎると心配されるほど。人間にすら色目を使いかねないあの半端者の鴉天狗どもなどとは違い、色恋やそういった夜の付き合いについては自分でもきつく制限してきたつもりである。
何せ私には大きな夢があるのだから、一時の情事に気を取られてなどいられない。
「ふぁぅ……」
そ、それはまあ、一年に特定の期間だけ急激に他人の肌が恋しくなる時期はあるが、それでも私は他の天狗と違い甘えた行動などとったことはない。
今も実は、その、なんというか。甘い衝動に流されやすい季節がこの身に襲い掛かっていたりする。疼きのままに、一夜の間違いを犯してもいいんじゃないか、と。私の身体が訴えているが、それだけは断固拒否し続けて、もう千年に近い。
一時期の感情に流され、家庭を持って一線から退いていく。そんな先輩の白狼天狗は何人もいる。しかし私は例え先輩であったとしても苦言を述べたいところなのだ。何故大天狗様や天魔様から与えられた山の哨戒任務よりも恋愛とかそういうものを優先するのか、そんなものに現を抜かしている場合ではないと激を飛ばしたくなるほどなのだから。
しかし、決して私が頑固とかそういうわけではない。
皆が任務に対し責任がなさ過ぎるのだ。
柔軟に仕事をしているだけと意見を言う者もいるが、軟弱としか思えない。
「はぁうん……」
言われた仕事すら確実にこなせない奴は嫌いだし、
それより、明確な仕事を与えられないほど浮いた存在がいるのは余計に気に食わない。
あの取材だけしていればいいと思っている、言わずと知れた鴉天狗のことである。それを頭の中に思い浮かべただけで沸々と熱い感情が溢れてくほど、嫌悪を抱いているのだ。
そうやって再認識できるほど、大嫌いで反吐が出る鴉天狗の代表格、射名丸文が――
なんで私の布団の中で寝ているんだろう。
なんで全裸なんだろう。
なんで時折誤解を招きかねない声を発しながら体をもぞもぞと動かすのだろう。
落ち着け、私。
まず、落ち着いて確認しよう。
本当に全裸かどうか、掛け布団をめくっ
いや、めくってどうする。しっかりしろ、これは罠だ。鴉天狗の卑劣な罠に違いない。確かに薄布一枚着てないことを確認しちゃったけど、落ち着こう私。冷静になって、昨日何があったかを思い出すんだ。
『あら椛ちゃん、今日も哨戒? 精が出るわねぇ、でも夜の『せい』の方も期待してるのよおばちゃん♪』
よし、必要ないね。
ちょっと変態な隣の奥さんとの朝の挨拶なんて思い出さなくていいよ、戻りすぎだよ、もうっちょっと一日を進ませないといけないよ。
そうだ、仕事が終わった後くらいからにしよう。
確かその後は汗を流しに共同のお風呂に入った。そのとき二人の後輩と一緒だったから間違いはない、背中の流しっことかしたから。
その次は、ご飯かな。昼の休憩のうちに捕まえておいた兎を三匹。綺麗に捌いて食べた。鴉天狗の手伝いで無理やり行かされたときの唯一の収穫、人里の銘酒も一緒に飲んで一息ついた。その後は部屋の内側から鍵をしっかり閉めて、布団を敷いて、おやすみなさ~い。
そして、無防備な文をいただきまー
いや、違う。まだ落ち着いていないな。
朝食じゃない、これはきっとそういう意味で『たべる』ものではない。
ひとまず別な意味で食べてから考えて……たまるか!
だから私は何を考えている!
あれか、一年に一度来る『恋しくなる季節』だからか!
とにかく、そんなことはどうでもいい。
冷静に考えてわかったのは昨日を思い出してみたら私に落ち度はないことだ。いつもどおり施錠して、眠った。それで一日が終わったはず。今まで誰か異性を連れ込んだことも、同姓を連れ込んだこともない部屋で、いつもどおり目覚めただけなのに。
何故、いる。
何故こんなところに、文がいる。
「年頃もいかぬ外見の女性が狼の部屋に入るなんて……」
正しくは、『鍵を閉めたはずなのになんで……』とつぶやく予定だったのに。
私の口はどうやら大暴走しているらしく、脳から口へ伝達される前に勝手に変換されてしまったようだ。私は無言で布団から抜け出てゴロゴロ畳の上を転がりまわる。暖かい布団の中にいたら、暴走する思考を抑え切れそうに無かったから、なんとか動いて意識を逸らそうと試みた。
そうやって転がっていたら、畳の上に置いてあった姿身の足のところに頭部を強打してしまう。しかも、頭と姿身の間に耳を挟んで打ち付けてしまっていたせいで、耐え難い激痛が耳から全身に伝わってしまう。
「うぎゅるぅぅ□△#$%&……」
耳を押さえて、亀のように体を丸めるだけの情けない姿で痛みに耐える。
ぷるぷると、尻尾と耳と、そして全身を震わせて、叫びたくなる衝動をなんとか抑えた。大声を出したらこんな情けない、恥ずかしい場面を文に見られてしまうことに――
パシャッ
パシャ、とな?
その音に気がついたカメ状態から上半身だけを起こしたとき、さっきまで寝ていたはずの文が布団を押しのけて起き上がっており。
「犬走椛の恥ずかしい写真、いくらで売れるかな♪」
黒光りするカメラをと右手で連射しながら、満面の笑みを浮かべてくる。
もしかしたら胸ぐらい隠せと注意するべきなのかもしれないが、あまりにも潔く肌を晒してしまっているので、自分の目がおかしいのかもしれないという錯覚すら与えてきた。
ふむ、その意気や良し!
「って、良い事あるかぁ!」
「朝っぱらからうるさい。もうちょっと静かにしなさいよ近所迷惑な」
「あ、すみませ、じゃない! こ、この破廉恥天狗! ここが犬走椛の住居と知っての狼藉か! そのカメラ今すぐに叩き壊してくれる!」
私はまだじんじんと響く耳の痛みを我慢して、部屋の隅に立て掛けてあった白狼天狗用の刀を鞘を付けたまま振り上げ、正眼に構えた。つもりだったが、驚きで腰が多少抜けてしまったいたせいだろうか。壁に体重を預けた、なんとも格好のつかない中腰姿勢となってしまった。
傍目からだと、どっちが脅しているのかわからない。
途中でそれに気がついた私は、とりあえず威嚇でブンブン刀を振り回してみるが、文のニヤケ度とカメラのボタンの連射速度が上がっているのは何故だろう。
「も~みじ、これな~んだ♪」
「何を妙なことを、私の正装の下……」
……下?
文が布団の中から赤と黒で彩られた白狼の下半身を隠す布地を左手で掴んで揺らす。
それを眺めているうちに、股下がすーすーしている事に気付き。
視線を下へ動かしたら。
なんだか薄い桃色の布地が、いきなり瞳に飛び込んできた。
なんのことはない。おへその真下くらいの位置に可愛らしいリボンのついた、ショーツ――
「きゃぃんっ!?」
私は刀を思わず文に向けて投げ捨て、両手で上半身の服を引っ張りその場に座り込んだ。
決して犬ではない、野生の狼風の悲鳴が出てしまうが、仕方ない。
だ、だって、そんな下着姿とかありえないし。
「おお、こわいこわい」
文が写真を取り続けているのは、つまりこういうことだったのだろう。
上半身の服だけを着ただけ、そんな姿のまま。カメのように畳の上で体を丸めたり、その上、驚いて腰を引いたまま刀を構えたり、あまつさえブンブンと照れ隠しに振り回したり。
そういうことをしたわけだ、私は。
あははっ
あはははははははははははっ
恥ずかしいですむかぁぁぁぁぁぁああああっ!
私はこのとき、初めて顔から火が出るという言葉の本当の意味を知る。
それをずっと、行い続けてきたことを考えただけで立っていられず。慌てて文から掛け布団を奪い自分の下半身を隠した。
「変態、馬鹿、恥知らず、エロス天狗!」
「おや、失礼な。私は折角、椛の芸術的な可愛らしさを。強気と恥じらいが同居する仕草を後世に残すため、新聞記者の情熱をたぎらせたと言うのに」
「誰が頼んだ、誰が! お願いだから返して、早く! それに服を着て!」
「仕方ないですねぇ……」
「こら、だから返して! なんで私の予備の服を着ようとするの!」
「いいじゃないですか、減るものじゃないんですし」
「減ります! 価値が減ります!」
「あやや、そう言われると着るしか……」
「だからぁぁぁぁぁぁぁあああああっ!」
「……怒らないから、怒らないから今から質問することに対して本当のことを答えて、そして写真をヨコセ」
「わかった、本当のことを答えればいいのね。でも写真は渡さない」
白狼天狗が二人、ではなく。片方は白狼天狗のコスプレをしただけだという文と、八畳ほどの部屋で向き合って正座する。
なんとか子々孫々に受け継いではいけない恥を消し去ろうと、引きつった笑みで訴えてみても目の前の鴉天狗は真っ向から拒否の姿勢だ。
仕方なく、朝からの疑問点を整理して尋ねる作業に移る。
「えっと、鍵閉まってたよね?」
「そうね、しっかりと」
「なんで中にいる?」
「針金って便利よね」
「なんで布団の中にいる?」
「だって掛け布団がそこにしか無かったし、意外と寒かったから」
「なんで裸でいる?」
「人間とちょっとしたいざこざがあって、服が大変なことになったから部屋に入ってから脱いだ」
「そもそもなんで私の棲家に来る?」
「一番近いのが白狼天狗の住む洞窟だったから、別に邪魔してもいいかなって」
「なんで私の下半身の服を脱がしてる?」
「その方が、起きた反応が面白そうだったから♪」
「殺す♪」
ぶんっと、狭い部屋の中で鞘がついたままの刀を振る。
ほとんど予備動作のない動きだったのに、正座状態からあっさり飛び跳ねて避けるのだからなんとも小憎たらしい。しかも半笑いで……
こんな狭い部屋の中でなければ、刀の軌道が制限されていなければその体を真っ二つにしてやるものを。
「やめて、椛! 争いは何も生まないわ!」
「じゃあ、争いの原因の一つの写真渡してください、今すぐ!」
「あれは大事な収入げ――いえ、天狗の遺産だもの!」
「収入源とか言い掛けたッ! 今、絶対言おうとした」
「とにかく、写真は私の所有物。あなたにホイホイと渡す筋合いはないもの。何に使うかは私の自由だし、ああ綺麗に現像して部屋の写真立てにでも飾ってみたりして。あの桃色の宝物はまるで春の桜を思い浮かべるほどに鮮やかで、儚げで……」
「ああもう、逃げるな! 逃げるな!」
文が喋るたびに体温を増していく頬。私はそれを自覚しながら夢中で刀を振る。
しかし部屋の置物や、家具を気にしながらの斬撃が文に当たるはずもなく、ただ空しく風を斬る音を奏でるだけ。それでも刀を振っていた理由はたぶん、そうでもしないとまともに文の姿を見ることすらできなかったから。
「なにより、下着姿で丸くなった姿が実に可愛かったかな。尻尾もあんなか弱く揺らしちゃって」
「うるさい! だから文はなんで私にそういうことする!」
「好きだからとか、安っぽく言っとく?」
「知るか、馬鹿!」
恥ずかしい姿を見られたという意識が強すぎて、体を動かしていないと反論すらできない。
きっと正座したまま今の台詞をすべて聞いていたら、顔を赤くして押し黙ることしかできなかったかもしれない。
そんな私の肉体的な感情表現を余裕の表情で避ける文は、鼻歌交じりで部屋中を飛び回り呼吸一つ乱さない。苛立った私は刀を床に置き、殴りかかってやろうと身構える。その瞳、犬走家の血筋に伝わる千里を見渡せる瞳であれば文の動きを追うなんて造作もない。
しかし、それに身体が追いついてくれない。
目ではしっかりその姿を捉えているのに、手を伸ばすのが遅れるせいで手の中を擦り抜けていく。
「近寄らなければどうということはありませんしねぇ?」
私の服を着たまま天井に張り付き、手で団扇を作り自らを扇ぐ。
荒い息を吐き、動きが緩慢になり始めた私を嘲笑う。そこで私ができたのは負け狼の遠吠えの如く、低い威嚇の声を出し続けるだけ。
畳の上で威嚇し続ける私に対し、また文はカメラを向けて――
「あ、そういえば」
不意に、目を大きく開けた。
何事かと私も声を消し、あやの言葉を待つ。
すると文は入り口付近を指差して、私の視線を向けさせた。
一体、何があるというのかと、目を凝らせば部屋の入り口にぽつんっと置かれた灰色の紙。鴉天狗の誰かの新聞だろう。いつもなら新聞よりも私の方が早く起きているので手渡しして貰うわけだが、いつもより疲れがたまっていたせいか、起きるのが送れて仕方なく置いていったと。
「あの新聞に何があると?」
「全然、新聞には特に意味はないわよ」
おかしなことを言う。では何故指差したのか。私の視線があの新聞に移動するまでしっかり様子を伺っていたのに何もないなんてあり得ない。しかし遠目にみても新聞を開いた形跡はないし、中の記事は関係がないはず。
鴉天狗が部屋に入って置いただけで、特に細工が施されているわけでもない。
部屋に、入って?
私はいつも起きてから鍵を外すから、私が起きていない時間帯で部屋に新聞を置くのは不可能なはず。
ああ、そうか。
今日は文が無理やり針金で鍵を開けて潜入したまま鍵をしめなかったからか。鍵が開いているから手渡しをしようと入ってきた鴉天狗が、布団で寝ている私を見つけてその場に置いて出て行ったと。
そういうわけだね。
ああ、なるほど、わかってみれば単純なことで、大したことないじゃない。
文のことだからもっと大変な――
「って、大問題じゃないのっ!」
「あやややや、やっと気づいた」
「そ、それでまさか。変なことしてないよね? やってきた鴉天狗に何か変なこと吹き込んだりとか!」
「いや、特に何もしなかったよ、私も眠かったし」
なら、よかった。
文が寝ていた位置はちょうど戸棚に隠れて発見しづらい位置。恐れていたことは何も起こらないだろう。
「軽く上半身を起こして挨拶しただけ」
「……え?」
今、なんと?
私の背骨に沿うようにして、つーっと何か冷たい感覚が伝わっていく。
「私の知らない鴉天狗の声だったから、きっとこの春の新人ね。いやぁ、若々しくて良い挨拶だったからつい、先輩として褒めてあげたくなって起き上がったら。慌てて悲鳴上げて逃げるんだなんて、困ったものね」
「困るのはあなたのそのときの格好! 全裸だったでしょう、なんで裸で返事しようとするのよ! 痴女かあなたは! それにここ私の部屋だし!」
新聞を届けに来てみたら、出てきたのはいつもの白狼天狗ではなく。鴉天狗の中では名が知れている、文。しかも上半身だけを起こしたといっても、そこには程良い膨らみが二つほど見えてしまうわけで。
しかも、同じ布団の中。
安らかに眠る私と、気だるげな文。
その場面を想像しただけで急激に体温が上昇していく。
「天狗ってそういう噂広がるの早いわよねぇ、結構情報に飢えてるから」
「――――――っ!」
「朝刊で、出ちゃうかもね」
『白狼天狗と鴉天狗の確執を超えた恋。
『射命丸文、通い妻疑惑』
私の中で朝刊の見出しがいくつも踊り出て、消えていく。
恐らくそれが天狗の山だけでなく、人里にまで配布されたら私の人生、ならぬ天狗生は転落の一歩をたどるに違いない。
何故、今まで真面目に生きてきた私が、このような屈辱を……
しかも、ちゃらんぽらんな鴉天狗代表の文なんかと……
「うう、真面目に仕事を繰り返して、いつか白狼天狗初の大天狗になる夢が……」
「無理無理、白狼天狗じゃ下っ端どまりだし」
「がるるるるるるっ」
「あやややややっ、そんなに睨まないでよ当然のことなんだから」
確かに通例では狼天狗は大天狗になれない。
白狼天狗の頭領になっても業務はほとんど変わらず、哨戒天狗の配置変更程度の権限しかない。それでも私はいつか尊敬する大天狗様と同じ場所に上がってみたいと夢見る。
もし奇跡的に大天狗になれたら、他の大天狗様からお褒めの言葉をいただいたり、頭を撫でていただいたりしただけで、私は、犬走椛は、天にも上る気分でございます。
「おーい、こらー、戻ってこーい」
「はっ、せっかく大天狗様にもふもふしていただいていたというのに、なぜ邪魔を!」
「あんた、よくそれで人のことを変態扱いできるわね、感心するわ」
大天狗様の何がいけないと言うのか。
筋骨隆々な中年の魅力溢れるあのお姿は、まさに男の中の男。そんな憧れの存在に少しでも近づきたいなと思うこの乙女心がわからないというのか。
私の敵意が霧散したことを察し、天井から降りてきた直後に口走ったのがやはり挑発染みた言葉だった。
しかも私が一番気に障る言葉――
「真面目ぶっといて結局それだもんね、椛は。何かあれば大天狗様、大天狗様。まるで犬みたい」
犬?
ふふ、私が……犬?
私は口の中で息を殺し、特に表情を変えることなく文へと間合いを詰めて。
「わふっ!」
「いったぁぁぁぁあああ、この馬鹿犬! 離せ、離しなさいよ! もう言わないから!」
会話状態で油断しきっていた文の腕を掴んで、おもいっきり噛み付いてやる。
それでも大嫌いな鴉天狗に長く牙を立てるつもりもないので、すぐに開放してやった。ふん、白狼天狗を甘く見るから痛い目を見るんだ。
大袈裟に痛がって私の頭を押し退けようとする、そんな文に情けを掛けてわざと牙を外してやった。
まったく、もう少し早く許しを乞うていれば、二の腕に噛み跡など残らなかっただろうに。
「まったく、目先のことしか見えていない馬鹿はこれだから困るわ。自分がまず何をするべきか忘れかけてない?」
「優先すること、優先するべきこと……ああっ、新聞!」
「そうそう、明日の朝刊の投稿は今日の夕方までだから、印刷所に先回りしたほうがいいと思うんだけど? あ、もしかして、気の早い奴なら夕刊に間に合わせようと昼前に原稿を仕上げるかも」
「え、ええっ、ええええええっ!? ま、まさか新聞の発行を止めるためには夕方まで張り付いてないといけないとか……」
「そういうこと。もしくは、ガセネタだから新聞にしないよう担当の天狗に直談判するか」
「後者の作戦の方が確実か、じゃあ文その天狗の名前教えてよ」
「じゃあ、服を一日借りてもいいわよね?」
私の予備の制服を引っ張ってにこやかに笑う。
そんな文に対して私ができたのは、呻き声を漏らすことだけ。
「ぐぅぅぅっ、それもやむなし……」
「はい、決定。では、さっさと新聞差し止めに行くとしますかな。私も下っ端天狗と交際中なんて書かれたら気分悪いし」
「こっちこそ望むところ。今後の生活に汚点など残したくない」
「ふん、減らず口を言う暇があったら、さっさと行動してはどう?」
「軽率に動く鴉天狗に言われたくない」
いがみ合いながら部屋を出て洞窟まで歩き、文の後ろをついて空へと飛び上がる。
さあ、素早く新聞の投稿を止めて、いつもどおり哨戒任務に付こう。そう思っていた私の視界を、何か四角いものが塞いだ。
意気込んだところを邪魔されて、私は顔に張り付いた灰色の紙を荒々しく毟り取る。
「何なの、いきなり」
くしゃくしゃになって手の中に残るのは、間違いなく誰かの新聞。
空を見上げれば、それを配ったと思われる鴉天狗が営業用の笑顔で飛び去っていく。空と同様に晴れ晴れとした姿からは、彼女自身の達成感が溢れていた。
それだけ満足した記事がかけた。
たぶん、それが清々しく見えた原因だろう。
その内容が気になって、私はしわしわになりかけた新聞をゆっくり開いて。
でかでかと書かれた文字を視線でなぞる。
目立ち易くするため、縁取りまでされたその文字が形作るものは、はやり新鮮なスクープ。
『熱愛発覚!! 羽毛を散らす、狼の牙!』
はぇ?
『燃え上がる禁断の恋、種族、性別、世間体。その壁が高ければ高いほど、二人の愛は燃え上がる!』
わ、わぅ?
『本日早朝、新聞記者がいつものように白狼天狗の住処に足を運び、洞窟の中の個室に新聞を配っていたときのこと、仕事一辺倒と名高い犬走椛氏の部屋に差し掛かり、いつもどおり部屋が空いているのを確認してから新聞を手渡そうと中へ入ったところ。出迎えたのはなんと、一糸纏わぬ姿の鴉天狗界の大御所、射命丸文氏であった』
ぇぇえ、ぇぇぇぇぇぇぇえええええっ!
『新聞記者が、静かに文氏に何が会ったのかと尋ねたところ、「はげしかった」と頬を染めて答え、赤裸々に夜の営みを語り始めた。その内容はあまりに刺激が強すぎるため割愛させていただくが、文氏の恋する乙女を思わせる言動から推測して、間近にゴールインはするに違いな――』
「してたまるかぁぁぁぁぁああああああっ!」
気が付けば、新聞はその短い命を終えていた。
もちろん、私が感情のまま粉微塵に破り捨てたから。
「ふむ、これは中々。感嘆するほどの捏造」
「感心してる場合か! 何で、夕刊まで時間あるって言ってたのに!」
「ほれほれ、ここをごらんなさい」
文が空中を舞っていたもう一枚の新聞を掴み、一番上に記載された文字を指差す。
そこにははっきりと。
『号外』
と記されていた。
「いやぁ、そういえばこんなものもあったなと」
「だから落ち着いてる場合か! 追ってよ! 最速の癖にちんたらしてないで!」
「おやおや、これは人に物を頼む態度ではありませんな?」
「そっちだって被害こうむるから五分五分!」
「そうですかな? 新聞が作れる私としては、あの日は椛に連れ込まれただけ、という誤解に発展させることもできるわけですが」
「うぬ、うぬぬぬぬっ!」
嫌いだ。
丁寧な口調の文は、大嫌いだ。
ちょっと弱みを見せただけで、そこを執拗に狙おうとする。
私がこんなに困っているのに、なんでそんな意地悪なことができるのか。
「い、一回だけ……てやる」
「おや、何ですかな? もう少しはっきり言ってくれないと困りますねぇ?」
「一回だけ、可能な限り言う事を聞いてやるから!」
「ふふ、その言葉、お忘れなく♪」
もう、とにかく叫んでいた。
わけもわからずに、ただ、あの新聞をばら撒かられるのだけは止めて欲しいと、苦し紛れに出た言葉。そのときは、文が風を唸らせながら飛んでいく姿を見て安堵した私だったけど。
思考が冷静さを取り戻したとき、さぁっと顔から血の気が引いていくのがわかった。
あの性根の腐りきった鴉天狗にいったい私はなんて提案をしてしまったのだろう、と。
ちょっとした騒動のせいで忘れていたけれど、私の体は今……
とても敏感な時期にある。
天狗たちの情報を知り尽くしている文が、白狼天狗にその時期があるのを知らないはずもない。もしそこを付かれて何か『良くないこと』を要求されるんじゃないか。
そう思ってしまう。
そして、何故か。危険な思考も生まれてくる。
幼い頃から貶し合い、対抗心を剥き出しにしてぶつかり続けたあの文に何かされるのなら、別にそれでもいいかな。
そんな馬鹿げた想像をしてしまう自分がいる。
別の自分が、理性とは違う自分が出てきて、私を追い詰める。
そう、こんな風に、囁いて――
『本当は、良い友達だと思っているのでしょう?』
馬鹿を言うな、誰がああんな天狗。
『いえ、それ以上の関係だと思っているのでしょう?』
単なる腐れ縁だ!
『そう? 腐れ縁という間柄で、とっさに出るのかしら? 何でも一つ言う事を聞くという発言が』
そ、それは、焦っていたから!
『それに朝のことだって、そう。あなたは、例え眠っていたとしても、部屋に誰かが入ってくればすぐ気付き追い払うはず、なのに、なんで文に気が付かなかったのかしら』
知るか、そんなの! 深く眠っていただけ、無意識だったから……
『そうね、無意識に彼女が近寄ってくるのを求めたんだもの』
違う、そんなの違う……
『違わないわ、なら、どうしてすぐに文を起こそうとしなかったの? あなたが起きてすぐ、文は眠っていたでしょう?』
だって……気持ち良さそうで、起こしたら可哀想かなって……
『本当は寝顔を見ていたかったんじゃないの?』
――っ!?
『その寝顔を見て、変な気分になってしまったんじゃないの? だから妙なことを口走ったり、わざと強がって見せたり、可愛らしい自分を見せようとしたんじゃないの?』
違う、そんなの……そんなの私じゃない……
『でも、私は、あなたよ?』
私は、私よ。
『私は、あなた』
私は、私は……
「絶対! そんなんじゃないんだからぁぁぁぁああああっ」
「え、ちょ、椛っ!?」
「え?」
がつんっと。
超至近距離で目の前に火花が散った。
私は気の遠くなっていく浮遊感と激痛を同時に味わいながら地面をごろごろと転がる。そうやってなんとか痛みを誤魔化して、周囲を観察すればそこは妖怪の山の森の中。
どうやら私は、文が追いかけるのを見送った後、森の中に着地して一息ついていたようだ。
で――
「この石頭……」
私の横で同じく額を地面に擦り付け、痛みを冷たさで誤魔化しているのが言わずと知れた文である。その手元には山のような号外が散乱していた。
その状況から察するに。
私は一息ついている間にうたた寝をしてしまい。
その間、文はその速度を利用し若い天狗を捕まえて、新聞を強奪。すでに刷った紙もすべて回収して、ここに戻ってきたところ。
私が寝ているのに気が付いて……
で、文が来たことに機が付かないまま、目を覚ました私が遠慮なく頭突きをぶち当てたということだ。
「不用意に私に近づくからそうなる」
「やはり凶暴で、野蛮ですね白狼天狗は、優雅さの欠片もない」
「そのガサツな白狼天狗の正装を着ているのはどこのどなたかな?」
「服に罪はありませんし♪」
まったく、ああいえばこう言う。
私は無意識だったから、やっぱり今回は文の責任に違いない。
額と額をぶつけ合うほど、顔を近づけるのが悪いのだ。どうせまた、恥ずかしい写真ですとか言いながら私に見せつけ、見せ、つけ? ん?
「え、えと、あれ?」
額と額を打ち付けるほど、近く?
想像、してしまった。その映像を、その時の私の無防備な寝姿と、そこに覆い被さるような文の姿。
そして接近していく二つの――
「どうかした?」
「な、なんでもない! ちょっと呆けただけ!」
「それはよかった、記憶喪失にでもなられたらさっきの約束もなしにされてしまいますからね」
約束、なんでも一つだけ言うことを聞くという。
とんでもない約束。
「そうですねぇ、私の裸も見られてしまったことですし、腹踊りとか?」
「ば、馬鹿なことを!」
「じゃあ、どうしましょうかねぇ。尻尾くすぐり地獄とか?」
私の心配を他所に、文はいつもどおり馬鹿げた提案を繰り返す。
その度に私は、安堵の声を漏らしつつ。
どこか、寂しかった。
もしかしたら私は別な言葉を聞きたかったのかもしれない。
そんなふざけた言葉じゃなくて、もっと、心のこもった何かを。
「さっさと決めろ、この馬鹿!」
その何かを期待して私は苛立ち、焦燥する。
決してありえるはずのない、私に訪れるはずのない物語を思い浮かべてしまう。馬鹿な夢を見ながら、その唇の動きを待って。
「じゃあ、こうしましょう♪」
丁寧な口調に戻ったことに、落胆する。
ああ、やっぱり、馬鹿げた悪戯を要求するだけなんだ。
「私と同じ家名を名乗りなさい、椛」
ほら見ろ、裸踊りか? ドジョウ掬いか? なんでもやって――
「――え?」
「『犬走』を捨てなさい」
何を、言っているのかわからなかった。
心臓が破裂しそうなほど脈打って、沸騰しそうなほどの血が全身を駆け巡る。
「あなたの夢は大天狗になることなのでしょう、ならば鴉天狗の血族になるのが一番の近道」
「え、あ、文? 何を……」
「あなたが本当にその夢を叶えたいと本気で願うなら、頷きなさい、椛」
それがどういうことか、わかっているんだろうか。
名前が変わるなんて単純な話じゃない。
文は、文は……
「じ、自分が何を言ってるかわかって」
「わかってますよ。あなたと家族になりたい、そう言っているつもりですが?」
「――っぅ、あ、えぅっ」
真剣な声音に押される。
逃げるように腰を引く私を追い掛け、文が顔を近付けて来る。
「頷いては、くれませんか?」
そうだ、私はあのとき宣言したはずだ。
可能な限り言うことを聞くと。
ならば、はっきりこう言ってやればいい。
不可能だと。
無理だと。
馬鹿げている、と。
白狼天狗という種族を、自らの血族に招きいれる愚かな行為が許されるか、と。
でも、そのときの真っ直ぐな文の瞳は。
すべてを許してくれる気がした。
種族や、性別や、いくつもの柵をすべて打ち破ってくれそうな、そんな頼もしい瞳で。
その瞳を、瞳を潤ませながら見ていた私は……怯えた。
この瞳を見ていたら、自分が自分でなくなってしまう気がして。
今まで守ってきた白狼天狗の誇りが全て打ち砕かれそうで、怖くて。
私は、思わず瞳を閉じた。
それを、答えと感じ取ったのだろうか。
文は、私に柔らかい息を吹きかけると。
私の耳を、はむっ、と噛んだ。
「あっ!」
唇で挟み込み、柔らかく、ゆっくりと。
数回唇を動かした文は、名残惜しそうにその身を私から遠ざけて。
「冗談ですよ」
と、言った。
少しだけ悲しそうな、寂しそうな声で。
その言葉尻をかき消すように、私と文の間を一陣の風が吹き去り。
私が瞳を開けた時、見慣れた風景だけしか残っていなかった。
……ハッピーエンドをお願いします。切なすぎて寝れそうにないです(土下座
みたいなベルセルク的展開になるのかと
切ないですね
テンポが良かったからか、あっという間に読み終えてしまった気もします。
とても面白かったです。
続きがあるのかは分かりませんが、もし続きがあるのならば、期待して待っています。
烏と白狼が不仲な設定のあやもみは初めてだったのでなかなか新鮮でした。
文の態度も中々良しですな
どうだろう、汲み直す事はできるんじゃないか?
でも『射命丸 椛』に違和感を感じないのもまた事実。
ここまで来るのに約千年、ならばあと千年経てば或いは……
さぁ、ラストからの分岐ifルートを用意するんだ。
ハリー、ハリー、ハリー!
と我を忘れるほどにこのもみもみはかわいすぎる。
退いた文も、頷けなかった椛も切ない。
自分は、DS設定は憧れの裏返しだと思ってるので、
こういう関係は実にしっくり来る。
是非その後、もしくはIfでハッピーエンドも書いてもらいたいです。
DS設定を生かした、素晴らしいあやもみでした。
DSあやもみいいですね
設定を活かしつつ切ない二人が描かれていて素晴らしいです
もしかしたら、椛の内心が反映されていたのかもしれませんが。
ああ、最後まで飄々としている文も良いし、この作品のような文も良いし……
誤字報告
> 馬鹿を言うな、誰がああんな天狗。
あながち間違ってない気もしますが。いま「ああん」な状態なのは椛ですから、多分誤字かと。
このお話、大好きです
序盤、中盤はテンポがよくすらすら読めて、にやにや展開もあり、そしてラストは切ない。
全体的にコメディチックで楽しいですが、一本筋のようなものが通っていて、考えさせられますね。
でも、この二人でらぶらぶ展開もみたいなあ。