※この物語は、拙作「不良娘と教師とチルノ」の続きとなっております。
この物語だけでも独立したお話となっていますが、上記作品を読んでいないと判りづらい場面がありますのでご了承ください。
1 姫様、退屈す
「神宝・蓬莱の玉の枝」
私の宣言とともに七色の宝玉が弾け、四方八方へ無数の弾を生み出す。虹色の籠と化したそれは、逃げ遅れた対戦相手の退路を完全に断ち切った。
敵はそれでも意地になってしばし抵抗を続けていたが、ほどなく青色の弾を背後から喰らう。
あとはお決まりのパターン。足の止まったそいつに、全包囲から容赦なく弾が浴びせられる。全身を乱打されたそいつは、悲鳴をあげる暇すらなく無言のままその場に倒れ伏した。
「…………」
あまりの歯ごたえのなさに私は無言で嘆息する。天を見上げてみれば、太陽の位置は決闘を始める前とまったく変わっていない。そろそろ冬に入りかけた薄曇りの空の真ん中に陣取って、今が正午であることを示している。
なんてこと。以前ならばあの太陽が山の向こうに消えるまで戦いが続いていたというのに――今日もこれでおしまいとは。
「ねえー」
視線をおろし、地面に突っ伏している相手に声を掛ける。
「やっぱあんた、スペルカードルール弱すぎよ。このままじゃ私もつまらないわ。
どう? 今からでも殺し合いに戻さない?」
すると、相手――藤原妹紅はのろのろと顔を上げ、しかし断固として拒否の意を示した。
「駄目だ。もう殺し合いはしないんだ。私がそう決めたんだから、おまえもそれに従え」
「なんであんたの決めたことに唯々諾々と従わなきゃいけないのよ。従ってるけど」
「うるさい……! いいから黙って、このルールで私ともう一戦しろっ!」
セリフだけは威勢がよかったが、相手に体力も気力も残っていないのは丸わかりだった。伊達に300年殺しあってきたわけではないのだ、敵の限界くらいは互いによく承知している。
これが殺し合いであったなら、妹紅ももう少し粘りを見せてくれるだろう。でも死の匂いのしないゲームでは駄目だ。彼女は決して私に敵わない。勝負の見えた決闘に付き合うつもりは、私にはさらさら無かった。
私はひらひらと手を振り、妹紅に背を向けた。
「もう帰るわ、退屈だから。
次までにもう少し腕を上げといて頂戴、修行とか特訓とかで」
「なっ……!? ふざけるな、この――」
後ろでむくりと立ち上がる気配。けれどそこから伝わってくる迫力は、殺し合いに興じるときの妹紅とは比べるべくもない。
振り返る必要性すら感じなかった私は、その場でスペルカードを取り出し、宣言した。
「はい、神宝・ライフスプリングインフィニティ」
「うあああ!?」
後ろも見ずに適当に放った弾幕は見事に相手に直撃したようだ。というより、相手が棒立ちのまま喰らったと言うべきか。どちらにしろ私の圧勝であった。まるで嬉しくはなかったけど。
「……やれやれ。今日も永遠亭からコレを持ってきたのに、やっぱり無駄になっちゃったのね」
ぼやきながら、私は竹の下に置いていたカゴを回収する。中身は月製の保温瓶に入れたお茶、兎たちが作った団子、そして永琳特製の応急処置セット。永遠亭を出発するときに鈴仙が私に持たせたものである。戦いが長引き、両者が疲れきったところで中身を披露しようと思っていたのだが、結局その機会もないまま今日の決闘は終わってしまった。
箸より重いものを持ったことがない私がこれをここまで運ぶのは中々に大変だったのだが、それもまったくの無駄骨である。
「はあ~。じゃあね、妹紅。また来週」
返事は返ってこない。完全に気絶したらしい妹紅を放置して、私は帰途についたのだった。
私――蓬莱山輝夜と藤原妹紅との闘争の始まりは、たしか300年ほど前だった。私のかけた永遠の魔法をどうやってか潜り抜けたあいつは、私の姿を見つけるや即座に殺し合いを挑んできたのだ。
もっとも殺し合いと言ったところで、私もあいつも不老不死の薬を飲んだ身である。どれだけ重傷を負おうと、たとえ全身を粉々に砕かれようとも、私たちが真の意味での死を迎えることはありえない。
終わらない憎しみは新たな復讐心を呼び、復讐心は次の戦いの呼び水となる。そうやって私たちは300年間飽きもせず、一対一の殺し合いを続けてきたのだ。
とはいえ、何の変化もなかったわけではない。私の心の平穏を案じた永琳が勝手に妹紅に刺客を差し向けたり、逆に妹紅に半人半妖の教師が味方についたりといった曲折もあった。
その中での最新の変化といえば、二週間前に妹紅が唐突に出してきた提案だろう。
『殺し合いはもうやめる。今後はスペルカードルールでしか戦わない』
最初に聞いたときは単なる気まぐれだと思った。あるいは私を陥れる策を思いついたあいつが、私を吊り出すためにそんなおかしな話を持ちかけてきたのではないかと疑った。
だが、どうもそういうことではないらしい。なにしろ自分で持ちかけた決闘方法だというのに、あいつはそのルールでの戦闘は激弱だったからだ。そのへんの妖怪ならそれでもどうにかなるだろうが、この私に挑むにはあまりにも無謀だ。
かくしてあいつは私相手に連戦連敗を繰り返し、それでも意地になってスペルカードルールを撤回しないのであった。
「ったく……。何を考えているのかしら」
ぼやきながら、二人分のお茶とお菓子と包帯を入れたカゴを両手で引きずるようにして私は飛び続ける。
妹紅がどうしてスペルカードルールに執着するのか、それがいまいち分からない。二週間前にそう提案してくる直前、あいつは三回ほど決闘をすっぽかしてくれたことがあったので、その間に何らかの心変わりがあったのは間違いないのだが……。
「そういえば、妖精相手にシゴキという名の虐待を繰り返してたって鈴仙が言ってたけど……それが何か関係あるのかしら」
妖精イジメをしているうちに殺し合いが嫌になったとか――うん、ワケがわからないわね。これはないか。
となれば、あの半人半妖の女教師に何かつまらないことでも吹き込まれたのか。そちらの方ならありうる話だが、いずれにせよ妹紅が何も話そうとしないのでは追求のしようがない。
「まあ、心変わりの理由はともかくとして。
延々とつまらない戦闘をさせられるこっちの身にもなって欲しいわね。殺し合いなら私と互角でも、あんなルールで私が妹紅に負けるワケないのに」
あいつがスペルカードルールに弱い理由は明白だった。あいつの強さの大半は、私への憎しみと殺意に起因するものだからだ。1000年もの間失われなかったほどの深い憎悪、永遠の魔法を乗り越えるほどに強烈な殺意、それこそがあいつの炎の源なのだ。
スペルの火種たる殺意を無理矢理抑えつけて弾幕ごっこに興じたところで、本来の強さを発揮できるはずもない。自縄自縛のまま戦う妹紅が負け続けるのも当たり前の話だった。
早い話が、あいつが音を上げて殺し合いに戻るまでは、この一方的で退屈な戦闘が延々と繰り返されるということである。永琳は喜ぶかも知れないが、私にとっては最悪の展開だ。
「やれやれだわ。本当にやれやれだわ。
来週もこんなことになるんだったら、新しい暇つぶしの手段を考えておかないと」
半日をかけて取り組むものだった日曜日の殺し合いは、今や半刻ほどであっさりと終了する片手間に堕しつつある。余りに余ったこの時間をどう処理すればいいのだろうか。ただでさえ私には普段からやることがないというのに。
うんざりしながら、永遠亭の玄関にたどり着く。両手のカゴをそこにおろして一息ついていると、向こうからとてとてと、軽い足音が響いてきた。
「おや姫様、今日もお早いお帰りで」
そう言いながら玄関までやってきたのは、ふわふわとしたスカートを履いた黒髪の少女。ただし頭に兎の耳がついていて、明らかに普通の人間とは違う。
因幡てゐ。永遠亭に住み着く地上の妖怪兎である。どこに持っていくのか、今はその背中に大きめの風呂敷を背負っていた。
「楽勝過ぎてつまらないから早々に切り上げたの。で、そう言うてゐは何処へおでかけ?」
「ちょっと人里まで、手紙を届けに」
返答ついでに何気なく発した質問に、そんな言葉が帰ってきた。私の耳がぴくりと動く。
人里。てゐたち妖怪兎の口から何度も噂は聞いていたが、まだそこには一度も足を運んだことがない。暇つぶしの手段を探していた私にとって、これは絶好の巡り合わせではなかろうか――?
私はにんまりと笑って、てゐに小声で話しかけた。
「ねえ、私も連れていってよ。一回くらい行ってみたかったのよ、人里って」
「ええ~? 駄目だよ、危ないよ!」
慌てたように手を振るてゐ。彼女は主人である私たちにさえ平気で嘘をつくとんでもない兎だが、今の言葉は誤魔化しなどではないようだ。
けれど欲求不満を持て余していた私は、簡単に引き下がるつもりはなかった。断ろうとするてゐに追いすがり、食い下がる。
「危なくなんてないわよ、貴方だって何度も行って無事に帰って来てるんだし。なら、人里に私を脅かすような危険なんてないわ」
「まーそりゃ、姫様はそこらの妖怪なんて問題にならないくらい強いけど……。
でも人里っていうところは、月の姫様が行っていい場所じゃないよ?」
「あら、何故かしら?」
「そりゃ、技術はとんでもなく遅れてるし、娯楽は少ないし、人間たちは何かにつけてはいがみあってるし、汚いし、土埃だらけだし、たまに肥溜めの匂いが漂ってくるし……。
私みたいな地上の兎ならともかく、穢れを知らない姫様にとっては毒がありすぎるよ、あそこは」
散々な言いようである。そしてその言い分の前半は決して間違っていない。1300年ほど前に私は地上人の都に住んだことがあるが、あの地も確かに穢れ多き場所だった。多少の技術の進歩はあれど、地上人の営みは今もそれほど変わってはいないはず。
けれど、てゐの言い分の後半は間違っている。私は穢れを知らないわけではない。むしろそこらの人間よりもはるかに慣れ親しんでいるとすら断言できる。なにしろ――
「糞尿どころか血の匂いだってよく知ってるわよ? だって私は、自分の腹を切り裂かれたことも、他人の腹を切り裂いたこともあるんだから」
「……へ?」
てゐがぽかんと口を開ける。そんなに意外なことだろうか? 彼女だって承知のはずなのだ、私が毎週のように殺し合いをしていることは。
そう、私はもう知っている。筋肉を突き破った骨の白さも、腹から飛び出た腸の手触りも、皮膚の下の脂肪のべとつき具合も。焼け焦げた人肉がどんな嫌な匂いを発するか、首を刎ねられた者がどれくらいの高さまで血を吹き上げるのかも知っている。
それはすべて、妹紅から教えられたもの。あいつが私の身体を燃やすたびに私は一つ穢れを知り、私があいつの身体を破壊するたびにまた一つ別の穢れを知った。
月に住んでいては決して出会うことのなかった穢れを。永遠亭の中に引きこもっていては決して知ることのなかった汚れを、妹紅は私に与え続けてきたのだ。300年間も、延々と。
「だっていうのに、急に殺し合いをやめるなんて言い出すんだから……
さんざん人を穢しておいて、どこまで勝手なヤツなのかしらまったく」
「姫様? いきなり独り言を始めないでよ、さすがにちょっと怖いよ」
いけない、思わず回想モードに入ってしまった。今は妹紅のことは置いて、てゐの説得に全力を傾けなければ。
こほんと咳払いをしてから、本題に戻る。
「つまりね、てゐ。人里が穢れてたって私は一向に構わないの。いまさら月の都に戻るつもりもないしね。
そんなことより、噂の人里をこの目で見てみたいの。どれくらいつまらない場所でも構わないわ、それを実際に自分で確認することが大切なんだから」
「……要するに、暇で暇で仕方ないから変わったところに行ってみたいってことだね?」
う、鋭い。さすがは長寿を誇る妖怪である。難しい話っぽくして煙に巻く手段は通用しないらしい。
てゐは指を一本立てると、チッチッと横に振った。
「とにかく駄目だってば。姫様に実害がなかったとしても、お師匠さまはそうは思わないよ。勝手に連れ出した私がお仕置きされちゃう。
それに今回は本当に遊びじゃないんだよ。永遠亭の今後を決めるかもしれない大事な大事な手紙を、人里の有力者に届ける仕事なの」
「へぇ……誰に届けるの?」
それは何気ない質問――のつもりだった。手紙の内容ではなく手紙を届ける先を聞いたのも、興味というよりは単なる気まぐれだ。
けれど私は、てゐの答えに目を見張ることになった。
「上白沢慧音。ほら、あの半妖のくせに人間の教師をしてる変わり者のところさ」
「――!」
なんと。妹紅に味方するヤツの名前が、こんなところで出てくるなんて。
これはチャンスだ。妹紅がスペルカードルールに固執する原因として一番疑わしいのがあの教師なのだ。てゐと一緒についていけば、あの教師が妹紅に何を吹き込んだのか判るかも知れない。否、場合によっては直接問いただしてやってもいい、一体何のつもりなのか、と。
暇つぶしの気まぐれでしかなかった思いつきが、俄然重要性を増した。これはもう絶対にてゐとともに人里まで行かなければ……!
「てゐ、お願い! 仕事の邪魔はしないから、私も連れて行って!」
「ちょっと、なんでいきなりアグレッシブになってるのさ!? 駄目だったら駄目だって、お師匠さまに怒られるー!」
「大丈夫よ、夕刻までに帰ってくればバレないわ! いつもはその時間まで妹紅と戦ってるし!
それに、もしバレたときは私がとりなすから! だからお願い、連れて行ってー!」
「駄目ったら駄目ー!」
「おやつ三日分あげるから!」
「そんなんで買収されるわけないでしょ、馬鹿なの死ぬの!?」
うわっ、何たる暴言。そりゃあ彼女にとって私たちは形式上の主人に過ぎないけど、もうちょっとこう言い方ってものが――
いやいや、ここは我慢我慢。私は何が何でも人里に行って、あの女教師に会わなければいけないのだから。
何かてゐの気を引きそうなもの、てゐとの交渉に使えそうなものはないか……そうだ!
「月の健康グッズをひとつ上げるからー!」
「むむっ!? それは魅力的……い、いや、ダメダメ。リスクとリターンが釣り合ってない」
「じゃあふたつ!」
「うぬぬぬ!? こ、小癪な……!」
てゐの表情がぐらついている。これならあとちょっとで陥落できそうだ。
私は内心でにやりと笑って、健康マニアの兎にさらなる条件を提示していったのだった。
――結局、健康グッズを三つとおやつ一週間分で手を打つことになった。
私たちはこっそりと永遠亭を抜け出し、迷いの竹林のすぐ上を低空飛行して行く。
「もー。姫様ってば、強情な上にワガママなんだからー」
「健康グッズに加えてちゃっかりとおやつまでゲットした強欲兎に、ワガママだなんて言われたくはないわね」
「もらえるものはしっかりともらっておくのが長寿の秘訣だからねー」
「……どちらかというと、その厚顔さの方が長寿の秘訣だと思うわ」
他愛もない会話をかわしながら、私たちは竹林を超えた。ここから妖怪の山の麓を経由して人里まで飛んでいくのだ。歩くよりはずっと早いが、それでも到着まではしばしかかるだろう。
そこまでのつなぎとして、さきほど中断していた話題を持ち出してみる。
「ところで、てゐ。その手紙、結局なんなの?」
「ん? これ?
……お師匠さまから人里への重大な手紙、とくれば、察しはつくでしょ?」
悪戯っぽく笑う兎に、私はこくんと頷いた。
手紙の内容は間違いなく、永遠亭の外の世界と交流を持つ件だろう。
夏の終わりに起こったある事件によって、千年もの間外界から閉ざされていた永遠亭は、その扉を外に開くことになった。私たちは竹林の中に閉じこもることをやめ、幻想郷の住人たち――妖怪や妖精、幽霊や鬼、神や閻魔といった種族たちと交わることにしたのだ。
その交流の手始めに、永琳は地上人を選んだ。他の種族ほどの危険性はなく、複雑な様式や伝統に縛られてもいない。なにより交渉が成立する余地が十分にある、というのがその理由だった。
そして交渉にあたっての取引材料となるのは、永琳の専門である薬学である。人里で薬売りの商売を始めれば、自然と地上人たちとの交流が成り立つ。資金も貯まるし生活用品も購入できる。一石で何鳥も落とせる、というわけだ。
ここまでが、私の知っている範囲である。
「でも、わざわざ事前に手紙のやりとりなんてする必要はあるの? どこかのお店をひとつ買って、そこで商売を始めればいいじゃないの。
永琳の薬なら地上のどんな薬よりもよく効くわ、あっという間に引く手あまたよ」
「そう思うところが素人の浅はかさ……」
にやにやと私を嘲笑う妖怪兎。これはそろそろ口のきき方を注意してもいいレベルではないだろうか。
私が不満そうな顔をしているのを見て、てゐは再び指を振った。
「ただ財産を築くだけならそれでもいいんだけどね、人里との付き合いを深めるのが目的なんだからそれはマズイよ。ある日突然見知らぬ人間がやってきて、街のみんなによく分からない薬を売りつけて大儲け……だなんて、トラブルの種として一番ありがちなパターンじゃない」
「むむっ……そういうものなの?」
「そういうものなの。目つきの悪いひとたちに睨まれちゃったら、よくても連日営業妨害、悪ければ店が不自然な火事で丸焼けになっちゃうよ。おお怖い怖い」
地上人は 怖いねーとうそぶいて、地上のうさぎがケラケラ笑う。あんまり深刻そうな雰囲気ではないが、誇張表現というわけでもなさそうだ。
――なるほど。成功者を妬みそねむ地上人の卑しい心は、1300年たってもまるで変わっていないらしい。
「だからお師匠さまは、念入りに前準備をすることにしたのさ。私たちの事情をよく知る人間に相談し、地上人から恨まれない方法を模索し、じっくりと時間をかけて交流を進めることにしたってわけ」
「それで、あの半妖の教師と手紙のやりとりをしてるのね」
ひととおり説明されてみれば、なるほど確かに筋が通っている。さすがは永琳、万事において抜かりなしってわけか。
人里への飛行を続けながら私がふむふむと納得していると、ふと、てゐの瞳が光った。
口の端を吊り上げ、長い耳の先をぴくりと震わせる。……ああ、これはあれだ、悪巧みを思いついた時の顔だ。
案の定、悪人めいた表情を浮かべ、てゐはこっそりと私に耳打ちしてきた。
「しかし姫様。そのような穏当なやり方では面白くないと思いませんか?」
「なぜ急に敬語……」
「フフフ、気にするようなことではありません。この世で大事なことは健康と長寿、そして面白おかしく生きる術だけ。
それ以外のことはすべて、さっくり投げ捨てて構わないと断言しましょう……!」
てゐが何やらノってきた。しきりに耳を左右に開閉させ、不自然な口調で演説をぶつ。芝居がかった仕草もここまで来れば見事なものだ。
ただ、主人への敬意とか誠意とかまで投げ捨てるのはどうよとは思うのだけれど――まあ、今更ではある。
絶好調の妖怪兎は、がばっと両手を広げた。
「どうですか姫様、地上人との交流などと言わず、いっそヤツらを支配してしまうというのは!?」
「支配、って? 力で屈服させるって言うの? いくらなんでもそんなことしたら、あのスキマ妖怪が黙ってないと思うけど」
「なあに武力などという野蛮な方法は用いません」
ばさっと前髪をかきあげる妖怪兎。これは……なんだろう、このまえ香霖堂で買ってきた外の世界の書物にでも感化されたのだろうか。コミックスとかいう。
色々とツッコミどころはあったが、私は話を合わせてみることにした。
「武力を使わず、どうやって地上人を支配するの?」
「簡単なこと。お師匠さまの薬、これを無料でヤツらにバラまくだけでいいのです。
姫様も言ったとおり、お師匠さまの薬の効き目は恐ろしいほど的確にして万能。欲深い地上人のあらゆるニーズを満たすことでしょう。ヤツらはすぐにお師匠さまの薬の虜となり、毎日のように服用し、やがて薬なしではいられなくなる……!」
クックック、と喉の奥で笑い声を鳴らす妖怪兎。悪そうな顔がじつに良く似合っている。彼女なら演劇をやっても食べていけるかもしれない。
「ヤツらが薬漬けになったその時点で、もはや支配は達成したも同然。薬を餌にヤツらを奴隷同然に飼い殺すことができます。しかも無理やり従わせているわけではないから、妖怪連中に文句を言われる筋合いはありません。
そう、人はその欲深さゆえに、自らの意志で我らが軍門に降ることになるのです……!」
「わあ、なんだか本格的」
「無論! これぞ我が野望、兎が人を支配する理想国家! その名も
「なにその鈴仙のスペルカードみたいな当て字……しかも、いつのまにか兎が支配者になってるし」
「
とるにたらぬ人間どもよ! 支配してやるぞッ!!
我がお師匠さまの“知”と“クスリ”のもとにひれ伏すがいいぞッ!」
「完全に他力本願じゃないの」
ああ、なんだかツッコミを入れるのも馬鹿らしくなってきた。
天に向かって吠える兎の頭にチョップ一閃。正気に戻してやる。
「つまんないジョークはいいから、早く人里に案内しなさい」
「うう、半分くらいは本気だったんだけどなあ……」
涙目で頭を押さえるてゐ。放っておくと本当にどこまでも調子に乗る兎である。ツッコミ役の鈴仙も連れてきた方が良かったかも知れない。
そうこうしているうちに、人里の上空にたどり着いた。
盆地の中いっぱいに広がる景色を、はるか空から一望する。想像していたよりもずっと広く、そして賑やかな眺め。いったいどれくらいの人間がここに住んでいるのか想像もつかない。
「ほら、立派な建物もないしゴミゴミしてるし不潔だし、見るからにつまらなそうなところでしょ」
「そうね……」
てゐのわざとらしい酷評にうなずきつつも、私はしばし街並みに見入った。
1300年前と比べれば、権力者のものと判る巨大な建築物は確かに少ない。けれども、一つ一つの建物の質はずっと上がっているように思える。
道行く人々の体格や栄養状態も向上しているようだ。月の都とは比べるべくもないとはいえ、あのときよりは暮らしぶりも良くなったのだろう。
真ん中の通りの左右を埋める建物は、その多くが何かの商売をしているようだ。衣服を並べている店や家具を置いている店が、この位置からでも何件か確認できた。けれど一番多いのは、やはり飲食店だろう。遅い昼食を摂ろうとする人たちが、街のあちこちにある色とりどりの暖簾をくぐっている。
「あー、たしかに食べ物だけは凄いかな、人里は。栄養は偏ってるけど、永遠亭で出される食事より遥かにバラエティがあって美味しいし。
聞いた話だと、幻想郷の外から紛れ込んできた連中が、外の世界の料理を少しずつこっちに伝えてるらしいね」
「へえ……」
適当に相槌を打ちながら、私は地上人の群れを見つめ続ける。
気ぜわしそうに歩く男たち。愉快そうに笑う女性たち。そこらを駆けまわる子供たち。
その誰もが、月の住人たちよりずっと生き急いでいるように見える。短い生を精一杯謳歌しようと、立ち止まることなく常に歩き続けているように思える。
それが穢れに浸された地上人の宿命。悩みもなく苦しみもない月人とは、余りにもかけ離れた哀れな生き方――
「だから行っちゃダメだってば」
唐突にてゐの手が伸びてきて、ふらふらと街に降りかけていた私の襟首をつかんだ。そのままずるずると元の位置まで引き戻される。
「約束したでしょ姫様。慧音先生と会わせる代わりに、今日は街の中には入らないって。上からそっと観察するだけで済ませるって」
「わかってるわよ」
たしなめるように言ってくるてゐに、私は思わず頬をふくらませた。子供っぽい仕草だと自覚してはいたが、どうにもそうせずにいられない。
もう少し近い位置で見てみたかった。できればあの暖簾をくぐってみたかった。
1300年前の私はずっと屋敷に閉じ込もっていたから、都の人々の暮らしをじっくりと観察することができなかった。だから今度こそ、地上人のナマの暮らしに接してみたかったのだ。
私が無言で拗ねていると、渋い顔をしていたてゐがふっと口元を緩めた。
私に向けて、苦笑を投げかける。
「不思議だよね。姫様もお師匠さまも、いつも地上人の営みを穢れているとか言って見下してるのにさ。
なのに姫様たちは何かにつけて、その穢れに触れたがる。
まるで地上人に憧れてるみたいに」
「…………」
――正直、少しだけドキリとした。
見た目に反して非常に長い時を生きた妖怪は、私の核心を的確に突いてきたのだ。
てゐの言うとおりだった。私は月の都にいた頃から地上の暮らしに興味を抱いていた。蓬莱の薬を口にしたのも、追放という形で地上に行ってみたかったからだ。
実際に地上で暮らしてみて、この世界が思っていたほど楽しい場所ではないことを知った。地上人の欲深さや嫉妬深さは月で聞いていた以上のものであることも知った。その醜さに辟易させられることも何度もあった。
だというのに、私は地上人にいまだ幻滅することができない。それどころか、月人とはあまりに異なる穢れにまみれたその生き方に、心のどこかで魅了すらされている――
「……やっぱり人里は、姫様には毒が強すぎたか。連れてくるんじゃなかったねぇ」
てゐがわざとらしくため息を付いたので、私はあわてて反論した。
「人里の毒なんて大したことないって言ってるでしょ。この程度の穢れで私が悩み苦しむとでも思って?」
「んっふっふー、苦しいだけならまだいいんだけどね。
知ってる姫様? 一番タチが悪い毒はね、食べるとすごく美味しいんだよ。毒があると判ってるのに食べたくなっちゃうのさ」
にやにやと笑みを深める兎を見て、私は口を閉ざした。ムキになって反撃すればするほど、どんどんドツボに嵌っていくのが判ったからだ。
これ以上この話題を続けてもてゐのニヤニヤを止めることはできないと判断した私は、強引に話題を転換する。
「もういいわ、早く慧音の家に行きましょう。それが今日の本題なんだし」
「オーケイ、そうしよっか。これ以上姫様をいじめるのもかわいそうだからね」
余計な一言を付け加えて、てゐが方向転換する。
よほどその後ろ頭を殴ってやろうかとも思ったが、その場はどうにか我慢することができた。
私たちは人目を避け、まず人里の外にある森の茂みに降り立った。そこから人里へと続く道に移動し、てゐの先導で歩いていく。
ほどなく上白沢慧音の家にたどり着いた。平屋建ての飾り気のない、しかし重厚な作りの屋敷だ。塀に囲まれたその家は、人里のすぐ外という、半人半妖の彼女を象徴するがごとくに中途半端な位置に建っている。
「あらー。街の外に追い出されてるなんて、意外と人里の人間からは嫌われてるのかしら?」
「ま、ここには妖怪嫌いも結構いるしね。そういう連中からは、この先生も煙たがられてるみたいだけど」
玄関までてくてくと歩きながら、てゐは事情をよく知らぬ私に解説してくれた。
「家がここにあるのは、里の防衛がやりやすいから。あと、満月の夜にハクタクに変身するとき、いちいち周囲に迷惑をかけないためらしいよ」
「へえ……」
なるほど、あくまで人間のためを思っての立地なのか。兎たちの噂や鈴仙の報告を聞く限りでは随分とお人好しなヤツだと思ったものだが、その印象は間違ってはいなかったようだ。
となると、慧音が妹紅に何か吹き込んだのではないかという私の推理も真実味を帯びてくる。お人好しは他人に要らぬお節介をするのが大好きだからだ。きっと、殺し合いはもう止めろなんてことを妹紅に忠告したのだろう。
まあ、その忠告自体はおかしなものではない。人間として普通に暮らしていくつもりならば、地上人だろうが月人だろうが人殺しは避けるべきなのだから。
けれどその原則は、不死者同士の場合でも当てはめるべきものなのだろうか?
いくら殺したところでお互いに甦る身なのだ、殺し合いを禁忌とする常識などもはや通用しない。
それに妹紅が今のままでは、この私が困るのだ――
殺意という羽根をもがれたままで私に挑む妹紅の姿は、弱々しすぎて見るに耐えない。あのザマが300年間戦い続けてきた相手の末路だなんて思いたくない。
あいつには、もういちど鳳凰の羽根を取り戻してもらわなければならないのだ。
目的を再確認した私は、屋敷の玄関の前でぴしゃりと自分の両頬を叩いた。
「ふふふ、ただのお人好しなんてどうとでも言いくるめてやるわ。
さ、てゐ。さっさと仕事を済ませなさい。私の番が控えてるんだから」
「なんだかよくわからないけど、凄いヤル気だね姫様……」
半眼でぼやいてから、てゐは呼び鈴を鳴らした。程なく中から返事が聞こえる。
くぐもった足音が響いた後、屋敷の主ががらりと戸を開けた。
「はい、上白沢です――ああ、てゐか。待っていたよ」
「こんにちは先生、お師匠さまからの手紙を届けに来たよ」
「うむ、受け取ろう」
早速てゐを見つけて話し始めた女教師は、いつもの紺のスカート姿。今日が休日ということもあってかあの妙な形の帽子を被っておらず、その身長がてゐとあまり変わらないことが一目でわかる。私と比べても少し低いくらいだ。事前に知っていなければ、彼女が里でもかなりの実力者であるなどとはとても思えないだろう。
まあ、見た目と実力が吊り合っていないのは、この教師に限った話ではないのだが。
と――そこまで考えを巡らせたところで、教師がこちらの存在に気付いた。私の来訪までは予期していなかったのか、目を丸くして驚いている。
「ああ、ええと」
教師の瞳に浮かぶは、驚愕が5割、困惑が4割、そして警戒が1割といったところか。対応に苦慮する様子で、私を見つめて呻吟している。
そういえば、こうやって慧音とまともな会話を交わすのは初めてだった気がする。彼女と私の接触の機会は妹紅との決闘の場だけだったし、彼女が決闘の場に顔を見せたのも数えるほどで、おまけに決闘が終わってからその場に駆けつけるのが常だったからだ。私が彼女について覚えていることといえば、傷ついた妹紅に包帯を巻きながら説教している後ろ姿くらいのものである。
ま、それはどうでもいいこと。相手が狼狽しているうちに先制攻撃させてもらうとしよう。
「ごきげんよう、上白沢慧音様」
にこやかな笑みを浮かべて、私は頭を下げてみせた。
澄まし顔での大仰な挨拶は、敵をこちらのペースに引き込む古典的なやり方。相手が雰囲気に呑まれればしめたもの、会話の主導権は一気にこちらの手に渡る。
楽勝の予感に内心でほくそ笑む――がしかし、次の瞬間、展開は一変した。私の挨拶を見た女教師が、見事に態度を翻したのだ。
こちらに向かってうやうやしくお辞儀を返すと、
「失礼いたしました、蓬莱の姫。このような辺鄙な場所にわざわざお越しくださりありがとうございます」
私以上の澄まし顔でもって歓迎の意を表する。
先程のてゐも顔負けの豹変っぷりに、今度は私が驚く羽目になった。
「え……ちょっとちょっと、なにその馬鹿丁寧な言葉遣い。もしかして嫌味のつもり?」
「姫様姫様、違う違う」
私の肘をちょいちょいとつついたてゐが、小声でフォローを入れてきた。
「この人、もともとはこういう口調なんだよ。幻想郷に来る前は宮仕えだったそうだしね」
「因幡様の仰る通りでございます。寺子屋の仕事を始めてからは、少し言葉遣いが荒れてしまいましたが……
高貴な御方への礼儀作法は今でも忘れていないつもりです」
にっこりと、よそ行きの笑顔で微笑んでくる女教師。
てゐの悪党顔も大したものだったが、作り物めいた笑みの出来においてはこちらに軍配が上がるだろう。そのまま絵にして飾っておけるくらいの女官っぷりであった。
こちらとしては居心地が悪いことこの上ない。月の都での退屈な生活を思い出してうんざりしてしまう。
私は早々に白旗を上げることにした。
「悪いけど、てゐと話すときの口調に戻して頂戴」
「――では、そうしよう。私としても、今はこちらの方がやりやすいからな」
またもや態度を豹変させる慧音。
なんともはや、見事な役者ぶりだ。私は当初の目論見が外れたことを認めざるを得なかった。
「ぬぬ、ただのお人好しだと思ってたのに……
この私から一本取るとは、とんでもない腹黒教師ね」
「いやいや。この人の場合、腹黒でも何でもなくてただの天然だから」
ヒソヒソ声でてゐと会話を交わしていると、慧音は私たちに向かって玄関の中を指し示してきた。
「せっかく手紙を届けてくれたんだ、お茶くらいはお出ししよう。遠慮なく上がっていってくれ」
2 姫様、言い争う
私たちは屋敷の居間に通された。
最小限の家具しかないその部屋は少しばかり殺風景で、代わりとばかりに置かれた大きな書棚が大変アンバランス。この屋敷の主のインテリアセンスは落第点だった。
けれど住人の性格を反映するように整理整頓が行き届いていて、圧迫感は感じない。歴史編纂作業の残り香だろうか、かすかに漂う紙と墨の匂いが私の鼻をくすぐる。
正直言って、居心地はかなりよかった。
「細かいところまできちんと掃除されてるね。うむ、出来ておるのう先生……。
んん~、実にスガスガしい。歌でもひとつ歌いたい気分だよ」
タワゴトをつぶやきながら部屋の隅の火鉢のそばで寝転んでいるのは、説明するまでもなく我が家の不良兎である。慧音に手紙を渡し、お茶も飲み終えたてゐは、自分の役目は終わったとばかりに人の家の畳の上でごろごろしていた。
天衣無縫の一歩向こうのやりたい放題な振る舞いに、さすがの私もスペルカードによる制裁を検討する。だが、慧音が気にも留めていない様子なのを見て黙殺しておくことにした。自由気ままな長寿兎に言うことを聞かせるのは、永琳にさえ手に余る難事なのだ。
……さて、それはともかく。
この教師、私たちを家に上げて、おまけにこうやってのんびりとくつろがせていても平気なのだろうか。私と彼女とは友人でも何でもなく、どちらかといえば敵に近いのだから、もう少し私たちを警戒するのが普通だと思うのだが……?
まあ、疑っていても仕方がない。てゐを視界から締め出して、ちゃぶ台の向こうの慧音に向き直る。
「妹紅のことで確認したいことがあるのだけど、いいかしら?」
「ああ、何かな?」
「あの娘、二週間前からやたらとスペルカードルールにこだわってるんだけど。貴方、その点について何か身に覚えはある?」
回りくどいやり方はやめて、ストレートに質問してみる。下手に策を弄していたら簡単にはぐらかされるような気がしたし、あまり時間をかけすぎると無断で人里に来たことが永琳にバレる。ここは直球勝負の短期決戦に出るべきだった。
果たして慧音はすぐに乗ってきた。瞳を輝かせ、感慨深そうにうなずく。
「そうか、妹紅はちゃんとスペルカードルールを続けているのか。頑張ってるんだな、あいつも」
……やっぱり主犯はこいつか。判りやすくて実によろしい。
しかし涙をうっすら浮かべながら喜ぶのはやめなさい。こっちは大いに迷惑しているのだから。
私はなるたけ穏当な口調を保ちつつも、真正面から喰ってかかった。
「妹紅に殺し合いをやめさせたのは、やっぱり貴方だったのね。
本当、要らぬことをしてくれたものだわ。責任をとってもらわなければならないわね」
「え……いや、ちょっと待ってくれ。君は何を言っているんだ?
妹紅に殺し合いを仕掛けられることは、君にとっても迷惑だったんじゃないか?」
「そんなはずないでしょう。むしろ面白かったわ。
不死者である私たちにとっては、殺し合いなんて娯楽に過ぎないもの」
「娯楽……それはいくらなんでも」
困惑する教師に対して、私はきっぱりと言い放った。
「妹紅だって同感のはずだわ。なにせあの娘は300年間も、ずっと飽きずに私を殺し続けていたのだから」
「…………」
苦渋の表情で、教師が口を閉ざす。
彼女もまた、妹紅が殺し合いに耽る心情くらいは理解していたのだろう。私との年月には及ばぬとはいえ、彼女と妹紅のつきあいもそれほど短くはないのだから。
だが、慧音は静かに、そして断固として首を振ってみせた。
「そうだとしても、殺し合いにばかりのめり込んでいてはいけない。
あいつは人間なんだ。なら、それ以外のことにも目を向けなくてはいけない」
「それは何故? 単なる人間の良識というヤツ?」
「それもある。人間であるなら、建設的なこともしていかなくてはいけない」
慧音の言い分に、私は嘆息せざるを得なかった。
なんてつまらない理屈だろう。そんな理由で妹紅の心を縛り付けたと言うのか。
いくらそれが仕事の教師とはいえ、こいつは他人に道徳観念を押し付けることしかできないのか。
「貴方には想像力はないの?
60年しか生きぬ種の常識が、永遠を生きるモノに適用できると本気で思っているの?」
だんだんと自分の声が荒くなっているのが判る。私らしくもなく感情が乱れてきている。
けれど、あえて自制はしない。内心にわだかまる憤りを、ストレートに目の前の女にぶつける。
「貴方の狙い通り、妹紅はいま殺し合いをやめているわ。けれどそのおかげで彼女が今どうなっているか、貴方は知っているのかしら?
かわいそうにあの娘ったら、一方的に私に負け続けてるのよ。今日なんて3分ともたなかったわ」
「む? ……それは一体、どういうことだ?」
慧音が一転して困惑顔になった。それを見て、私はさらに怒りを深める。
――ああ、やっぱりこの女は、妹紅という人間のことをきちんと見ていなかったのか。
相手の心を理解しようともせず、ただ己の良識を押し付けていただけだったのか。
「判らないかしら。本当に判らないのかしら。貴方だって妹紅との付き合いは10年以上になるはずだけど、それで何も判らなかったのかしら」
目の前の余計なお節介焼きを、私は激しく睨みつける。
「知っているだろうけど、あの娘と私の確執の始まりは1300年前に遡るわ。蓬莱の薬を飲んでしまったあの娘は、地上をあてどもなく1000年もさまよう羽目になった。
1000年――そう、1000年よ!
地上人なら16回分も人生を繰り返した計算よ。月人であるこの私ですら遠く感じてしまうほどの年月よ。
それだけの時間をあの娘は生き抜いて――けれど、私への憎しみだけは絶やさなかった!」
「それは――だが」
教師が何やら口を挟もうとしている。けれど、そんな隙間は与えてやらない。こんなつまらない女に、どんな主張もさせてやるつもりはない。
「それにね。あの娘は、私が永遠亭にかけた魔法を破ってくれたのよ。永琳以外には決して破れないはずの永遠の魔法を乗り越えて、私の前に現れたの。
どれだけ私を憎悪していればそんなことができるの? この私でさえ寒気がしたほどだわ!」
「姫様姫様、私私」
横からてゐが口を挟んでくる。……ええ、あんたも私の魔法を破ってみせたのは知ってるわよ、けれどここは空気を読みなさい。
駄兎のせいで少しばかり怒りが削がれてしまったが、私はすぐに気を取り直し、唖然としている慧音に言葉を叩きつける。
「私はね、あの娘の憎悪がどれほどのものかをよく知っているわ。なにしろこの300年間、ずっと殺しあってきたんだもの。
何度も身体を焼かれたわ。何度も腹を裂かれたわ。それでもあの娘は飽きはしないの。どれだけ殺しあっても、次にはより強い殺意を携えて、私を殺しにやってくるのよ。
私と殺し合うたびにあの娘の殺意はいや増し、殺意が増すたびにあの娘の炎は燃えさかるの」
藤原妹紅の炎は、この私さえ魅了するほどの美しい鳳凰。
その翼は、1000年を経ても失われぬ憎しみと、300年殺しあっても尽きせぬ殺意とで彩られている。
何の力も持たぬ地上人として生まれ落ちながら、彼女はその翼で空を翔け、この私と同じ高みに達したのだ。
だからこそ、許せない。
あの素晴らしき鳳凰の羽が、こんな退屈な女に折られてしまっただなんて!
「なぜ妹紅が私に勝てないか、ここまで言えば判るでしょう。彼女はね、憎悪と殺意を糧に強くなったのよ。
それを封じられてしまえば、彼女はただの地上人。私に敵うはずがないわ。
それがどれだけ残酷なことか、貴方には分からない? 私に復讐することだけを願って生きてきた者が、私に一方的に負ける屈辱が分からない?
貴方はね、妹紅に無用な苦しみを与えているのよ!」
怒りのままに、慧音に言葉を叩きつける。
容赦してやるつもりはない。私たちの戦いの場を、深い考えもなく土足で踏みにじった愚か者にかける情けなどない。
「さあ、これで判ったでしょう? 私と妹紅の殺し合いはね、他人が迂闊に立ち入っていいものじゃないの。妹紅の心を理解することもできない貴方は、大人しく外野から指をくわえて眺めてなさい」
最後通牒を突きつけてやる。
もし女教師がこれでも納得しないなら、スペルカードルールで叩きのめしてやるつもりだった。
霊力をたぎらせる私に――しかし返ってきたのは、あっけらかんとしたセリフ。
「うむ、わからん」
「……は?」
「私が妹紅に関わってはいけないという理屈が、正直よく分からない」
「……どういう意味よ」
あまりに端的なセリフに、私は思わず拍子抜けしてしまう。
眉根を寄せる私を生真面目にじっと見つめて、女教師は淡々と続けてきた。
「君の言い分は理解したつもりだし、妹紅の憎しみや殺意の深さとかもまあ、君の言うとおりなんだろう。
だが、それを変えてはいけないという理由はないぞ?」
「なっ――!」
「そう殺気立つな。少しはこちらの話も聞きたまえ」
茶化すのでもなく真面目くさった口調でそんなことを言われて、私の怒りも空回りしてしまう。
すっかり冷め切った様子のお茶をずずっとすすると、女教師は再び口を開いた。
「君は先ほど、人間の常識や良識を軽んじてくれたが。
しかしあれは、地上人が無数の人数と長い時間を投入して編みあげてきた叡智だよ。それこそ1300年よりも長い年月をかけて、ね。盲信するのはいけないが、決して軽く見ていいものじゃない」
「だから、それは60年しか生きられない、いずれ死ぬ定めの地上人のためのモノでしょう!? 私や妹紅には関係ないわ!」
「あるさ。少なくとも妹紅は、ただの地上人だからね」
淡々と。
しかし、きっぱりと。
女教師は私に向かって断言してみせた。
「1300年の人生。普通の人間の20倍もの生涯。たしかにそれは、半妖である私にも想像がつかない領域だ。
1000年を経ても失われぬ憎しみ。300年殺しあっても尽きせぬ殺意。それもまた私の理解の外だ。
けれどこれだけは言える。
いま私が接しているあいつは、ただの少女だ。憎しみと殺意以外にもたくさんのものを持っている、どこにでもいる普通の人間だよ」
女教師の瞳には、怒りの色はない。
澄み切った眼に映るのは、ただひとつの感情――確信だけ。
「だから私は、普通の人間としてあいつに接している。
人の良識に反すれば怒るし、人の常識を守って生きるなら褒める。
人として当たり前の幸せを味わって欲しいと願っているし、人の道に外れたことはして欲しくないと考えている。
あいつがあいつのままでいる限り、私はそれを変えていくつもりはないよ」
「――っ!」
この……頑固教師め!
なぜ己の力不足が判らない? なぜ永遠の時を生きる者との隔たりを理解しようとしない?
その杓子定規な善意の押し付けこそが妹紅を苦しめているのだと――どうして認めようとしない!?
激昂した私は、ちゃぶ台の上に身を乗り出す。
「貴方は――!」
「なあ、月人」
何の悪気もなく、敵意すら見せず、慧音はただ一言、そう呼びかけてきた。
その一言が私を止める。ちゃぶ台に身を乗り出した姿勢のまま、私はワケも分からず硬直する。
「な……なによ、なんだっていうのよ」
「うむ。これはひょっとすると差別発言かも知れないが、私の正直な思いであるから聞いて欲しい。
地上人はね、君たちと違って、変化していけるものなんだよ」
「――!」
私を後ろに下がらせる、それは決定的な一言だった。
ちゃぶ台の上からよろめくように身を引き、私は畳に座り直す。
――変化。
それは確かに、地上人にあって月人にはないものだ。永遠の魔法をかけて竹林の中に閉じこもっていた私もまた、その例外ではない。
「んっふっふー。んっふっふー」
私の横で、畳に転がったまま、てゐが鼻歌を歌い出した。
慧音を楽しそうに見つめながら、私を楽しそうに眺めながら。
彼女をきっと睨みつけるも――怒鳴りつける気力が湧かない。
私はてゐに視線を向けたまま、慧音に力なく言葉を返す。
「変化……それが、それがどうしたっていうの。そんなもの、妹紅から憎しみを奪っていい理由にはならないわ」
「私が無理やり奪うことはできないさ。
でも、妹紅が自ら捨て去ることはできる。
憎悪でも殺意でもない別のものを得て、軽くしていくことはできる。
それこそ、殺し合いなんて必要なくなるくらいに」
どこまでも淡々と、女教師は言葉を紡ぐ。
怒りを見失った私は、その言葉に抗することができない。
「どうも君は、私が妹紅から殺意を奪ったと思っているようだが……それは違う。私の言葉などでは、彼女の心は溶けはしないよ。
彼女が変化したのは、彼女が変化したいと願ったからだ。
変わりたいと願い、変わっていけるように行動したからだ。
自ら望み努力すれば、変わることができる。月人には理解しがたいかも知れないが、それが地上人というものなんだ」
「ぬ――ぐっ!」
喉の奥でうめき声を漏らし、私はむなしく口を開閉させる。
何も言葉が浮かんでこない。有効な反論が思いつかない。
なぜなら私は、慧音の言葉が正しいことを既に知っているから。
穢れこそが変化をもたらすものであり、穢れているがゆえに、地上人がどこまでも変わっていけるということを。
私はもう知っている。
短い寿命を強いられ、悩みと苦しみを抱えて、それでもなお変化し続けるその生き方に、自分が魅せられていることを――
私はもう、自覚してしまっている。
でも、認めてしまうわけには行かない。ここで引けば、妹紅の翼は折れたままだ。美しき鳳凰が無様に地に這いつくばる姿を、私はこれから延々と見せ続けられる羽目になるのだ。
それだけは許せない。それだけは認められない。
私は怒りを奮い起こし、再び慧音に立ち向かおうとする。
「貴方はっ! 妹紅の幸せを願っているなら、何故――!」
「はい、時間切れー」
寝転んでいたはずのてゐが、そこで横から身を乗り出してきた。
私の袖を引っ張りながら、小声で告げてくる。
「時間がかかりすぎだよ姫様。これ以上長居してたらお師匠さまに気づかれちゃう。そろそろ撤収しないと」
口元に微笑みを乗せ、私に向かって片目を瞑るてゐ。
彼女は言外でこう告げていた――これ以上続けたところで堂々巡りにしかならないと。
しぶしぶではあったが、私もその正しさを認めざるを得ない。今この場で何をしたところで、女教師の信念を覆すことはできないだろう。
「……ええ、そうね。時間切れ。お茶を頂いておいて悪いけど、このへんで失礼させてもらうわ」
屋敷の主にそう断って、私は腰を上げた。一方的に負けて退散しているようにしか見えないという事実には目を瞑る。
無言でうなずいた慧音もまた立ち上がる。彼女は礼儀正しく、私たちを玄関まで先導したのだった。
戸を開け、外に出る。
いつの間にか太陽は傾き、山の向こうへと落ちようとしていた。確かにてゐの言うとおり、これ以上長居すれば永琳にバレてしまうところだった。
けれど、このままやられっぱなしで尻尾を巻いて逃げ帰るというのも癪に障る。
私は戸口に立つ慧音へと振り向くと、最後の捨て台詞を投げつけた。
「自ら望めば変わることができると、貴方はそう言ったわね。けれど、本当に妹紅は変わることができるのかしら?
憎悪や殺意を失って、けれどそれに代わるようなものを何ひとつ見つけられていない。私にはそう見えるのだけれど」
「む……」
意外にもその一言は、女教師の急所に命中したものらしい。慧音は眉根を寄せ、答えに窮している様子だ。
けれどすぐに彼女は首を振り、私に言葉を投げ返してきた。
「殺意や憎悪に代わるものは、妹紅が自分で見つけるしかない。見つかるまでは苦しい思いをするだろうが、それは仕方がないことだよ。産みの苦しみというヤツだ」
そして彼女は、悪戯っぽく片目をつぶってみせる。
それは慧音が初めて私に見せた、よそ行きではない本物の笑みだった。
「実を言えばね。私は君たちとの交流に関しては、最初は反対するつもりだったんだ。
月人と地上人との技術力の差を考えれば、君たちはこちらを好き放題にできる。下手に交流など持ってしまっては、君たちがこの里を裏から支配するなんてことになりかねないと考えていたんだ」
「……有り得ないことだけど、貴方がそう警戒するのは当然でしょうね」
答えつつ、私は我が家の不良兎に白眼を向ける。
ついさっき薬漬けによる人里支配をブチ上げていた兎は、私からささっと顔を背け、素知らぬふりで口笛を吹き始めた。……いい加減にしないとそのうち天罰が下るわよ。
――まあ、それはともかく。
私は慧音に向き直り、自らの疑問を述べた。
「でも、永琳と連絡をとりあうなんて、今の貴方はずいぶんと積極的じゃない。考えが変わったの?」
「二週間ほど前、ちょっとした事件があってね。そのとき妹紅から学んだんだ。独力では里は守りきれない、里の外に一人でも多く味方を作れ、と。
確かにその通りだと私は思った。それで手始めに、永遠亭と人里との仲を取り持つことにしたんだ。どちらが上でどちらが下ということのない、対等で円滑な関係が築けるよう努力することにしたのさ」
慧音は懐から、永琳の手紙を取り出した。
それを軽く掲げながら、彼女は続ける。
「私のような頑固者でも、他人の助けを借りればそうやって変わっていける。
なら、妹紅だってきっと変わっていけるさ。あいつは私と違って賢い子だから」
「……ずいぶんと妹紅を信頼しているのね」
皮肉ではなく本心から、私はそうつぶやく。
女教師が確信に満ちた顔でうなずいてみせたので、私は敗北を認めざるを得なかった。
私は月人。
悔しいけれど今の私では、穢れにまみれた地上人を、本当の意味で理解することはできない。
ゆえに、慧音を論破することも不可能だ。
「ええ、いいわ。今日のところは引き下がってあげる。
でも納得したわけじゃない。妹紅がいつまでたっても腑抜けたままなら、どんな手を使ってでも殺し合いに戻させるわ」
「……その点に関しては、そんな事態にならないよう祈っておくよ」
少しだけ肩をすくめ、慧音はそう応じた。
人里に被害が及ばない限りは、妹紅と私の決闘に立ち入るつもりはないという意思表示だろう。
それならとりあえず問題はない。あとは私が妹紅をどうにかするだけの話だ。
私たちはあらためて慧音に別れを告げ、夕暮れが迫る空へと飛び立った。
永遠亭への家路を真っ直ぐに進む。
途中、視界の向こうへと消えていく人里を、私は一度だけ振り返った。
「てゐ、やっぱり貴方の話はウソだったのね。人里が退屈ですって? なかなか刺激的なところじゃない」
「別にウソじゃないよ? 住んでみればわかるけど、やっぱり退屈なところさ。ただし、一度ハマると抜け出せない、こわーい毒はあるけどね」
けらけらと笑う不良兎を、今の私はとっちめてやることができない。
いずれこの身が地上人たちと変わらぬほどに穢れたなら、私は地上の理を理解できるようになるのだろうか。
そのときこそ私は、慧音やてゐと互角に渡り合うことができるのだろうか。
主人への敬意などどこかに投げ捨てた兎をじろりと睨みつけ、私は宣言してやったのだった。
「まあ見てなさい。いずれ私も変わっていくわ。
その暁には、貴方みたいな駄兎はきちんと躾けてあげるから」
「おお、怖い怖い。そのときには私も全力でワナを仕掛けてあげないと」
悪戯好きで傲岸不遜な妖怪兎は、やはり楽しそうに笑うばかりなのであった。
3 姫様、謀る
そして、次の決闘の日はやってきた。
今まで足踏みしていた冬の寒さがこの一週間で急速に訪れ、幻想郷はすっかり冷え込んでいた。
鈴仙が持たせてくれたカゴを持つ私の手にも、手袋がはめられている。人里の生活習慣を真似て永琳が作ってくれたものだが、この暖房具はなかなか快適だった。
私はそのへんの竹の根元にカゴを置き、少し考えて手袋も外した。着ている服はいくらでも替えがあるが、この手袋はまだ一着だけだ。燃えてしまうのは惜しい。
戦いに不要なものを全てその場に置いてから、私は立ち上がり、向こう側に立つ相手と正対した。
「あれから少しは修行でもしてくれたのかしら、妹紅? 少なくとも、前回や前々回みたいなブザマな戦いはしないで欲しいわね」
「うるさい。余計なことを言うな」
噛みつくように挑発を返してくる相手の顔は――どう贔屓目に見ても、一週間前と大差はない。どうやらまだ、殺意や憎悪に代わるものとやらは見つかっていないようだった。
これでは、今日の決闘も期待できそうにない。
「……やれやれ。一体どうすれば、あんたはやる気になってくれるのかしらね」
「何をぶつくさ言ってるんだ!? さっさと構えろよ!」
「ねえ、本気で殺し合いに戻るつもりはないの? 目的を見失った今の貴方なんて、相手してても退屈なだけなんだけど」
挑発を兼ねて、そう提案してみる。
――と、妹紅の表情がますます険しくなった。なにやら怒りの形相を浮かべ、彼女は私に低い声で尋ねかける。
「おまえ、一週間前に慧音に会いに行っただろ。そのときあいつに何を言ったんだ?」
「? 確かに会いに行ったけれど、なぜ貴方がそれを知っているの?」
質問を返してみると、妹紅がぎりぎりと歯ぎしりした。
思い出すのも嫌といった風情で私から目を背けつつ、どうにか言葉を搾り出してくる。
「五日前、夜中にあいつが訪ねてきたんだよ。で、何か目的を持ってみないか? なんて言ってきやがったんだ。
……ひとつ趣味を持っておくといいぞとか、たまには臨時雇いで働いてみてはどうかとか、ボランティアなんて素敵だぞとか、そんなワケの分からない提案をしてくるんだ」
……うわあ。
思ってもみなかった答えに、私はその場で頭を抱える。
あの教師め、何が目的は自分で見つけるしかない、だ。思いきり助力しているではないか。これだから地上人は……
そして私以上にうんざりした様子の妹紅は、再び私を睨みつけ、ワナワナと腕を震わせた。
「あまりにウザいんで逆に問い詰めてみたら、慧音のやつ、おまえから色々言われたから心配になったと白状しやがったんだよ。
輝夜、一体全体あのお人好しに何を吹き込んだんだよ!? おかげでこっちはいい迷惑だっ!」
「別に何も。最近の貴方があんまり不甲斐ないもんだから、あの先生に事情を聞いてみただけよ。
だいたい貴方、そんなに嫌がるなんて失礼でしょ。あの先生だって、貴方に生き甲斐を見つけてあげようと頑張ってくれたんだから」
「訳知り顔で説教するな! 余暇の活用だの自己啓発だの脳力開発だの老後の趣味だの、そんな本を大量に押し付けられた私の迷惑も知らないくせに!」
……うん、なるほど。
てゐの言うとおりだった。あの先生って本当に天然なんだ。本人に悪気はないんだろうけれど。
呆れ果てた私がやれやれと肩をすくめていると、馬鹿にされたとでも思ったのか、妹紅がさらにヒートアップしてきた。
「ふざけるなよ輝夜、この決闘は私とおまえだけの問題だろう!? 他人を巻き込むな!」
「何よ、あの先生に妙な心配をされたことがそんなに恥ずかしいわけ?」
「違うッ! 慧音を巻き込むなって言ってるんだっ! あいつはな、こんな殺し合いなんかに関係していいヤツじゃないんだっ!」
「……へえ?」
相手の言い分を聞きとがめて、私は口をへの字にさせる。
殺し合いに関係させるな――か。なるほど、あの先生のことがそんなに大事なのか。
……少しだけ癇に障ったが、まあいい。そんなことにまで口出しするほど私も悪趣味ではない。
「はいはい、わかりました。
それじゃそろそろ無駄口はやめて、今週の決闘を始めましょう」
「……このっ! その減らず口、今日こそ黙らせてやるっ!」
怒りに身を任せた妹紅がカードを取り出す。それに応じるようにして、私も最初のカードを引き抜いたのだった。
――そして、ほどなく。
目の前に転がる妹紅を見下ろして、私はため息を付いていた。
やはり今日も、焼き直したように同じ展開。密集する枝の向こうに見える太陽は、先週とまったく同じ位置にある。
時計に直せば3分半。決着がつくまでにかかった時間は、それだけだった。
「どうすれば、あんたはやる気を出してくれるのかしらねー」
その問いかけに答えはない。全身をしこたま撃たれた妹紅は、気絶こそしていないようだったが、もはや口を動かすこともできない様子である。
やはり無理だ。血の匂いのしないゲームでは、彼女の翼は羽ばたかない。
そしてこれだけ一方的にやられても、妹紅は決して殺し合いに戻ろうとはしないのだった。
「ねえ……。なんでそんなに、スペルカードルールにこだわるの?」
何の気なしに口にした質問。答えが帰ってくることなど、最初から期待していなかった。
が――妹紅は今のセリフに、何か思うところがあったらしい。
地面に仰向けになったまま、ポツリとつぶやいてきた。
「こだわってるわけじゃ……ない。何が何でもルールを守るつもりなんて、最初はなかったんだ」
「……? じゃあ、どうして」
「あいつが――」
妹紅の右手が、彼女自身の顔を覆った。
傷と汚れにまみれた己の心を隠すようにしながら、それでも彼女は続ける。
「ルールを破って殺し合いに戻ろうとするたび、あいつの顔がちらつくんだ。
変わることのできない私の目の前で、変わってみせたあいつの姿が。
私より弱いくせに、頭が悪いくせに、根性もないくせに……糞、あいつはきちんと変われたんだ。
なのに私だけ変われないままなんて、あまりに情けなさすぎる」
「…………?」
あいつ、とは、誰のことだろう?
慧音だろうか――しかし妹紅より弱いはともかくとして、頭が悪くて根性がないというのは当てはまりそうにない。記憶を巡らせてみても、妹紅が口にした特徴に該当しそうな人物は見当たらなかった。
「ねえちょっと、あいつって誰よ? その人間が気になって、殺し合いができないっていうの?」
「……うるさい。どうでもいいだろ、おまえにとっては」
「よくないわよ。その人間のおかげで私は退屈な戦闘を強いられてるんだから。文句をつけてやるわ」
「だから、おまえには関係ないって言ってるだろ! そんなことより、もう一度私と――」
「戦えっての? 別にいいけど。はい、神宝・ブリリアントドラゴンバレッタ」
「いだだだだっ!?」
適当に取り出したスペルカードが、妹紅の身体を土くれごと吹き飛ばした。
相手の戦闘態勢が整わぬうちにスペルを放つのは、厳密に言えばルール違反だが――まあ、あまりに自分勝手な対戦相手への報復行為のようなものだ。審判がいたとしても見逃してくれるだろう。たぶん。
竹の一本にぶつかって止まり、地面に崩れ落ちる妹紅に、私は尋ねかける。
「ねえー。ここまでコケにされて、それでも私を殺そうとか思わないのー? 以前のあんたなら、超高速で再生して復活して怒りの奇襲フジヤマヴォルケイノを叩き込んでくるところでしょ。ここは」
「……うるさい。黙れっ。私はもう殺し合いはしないって言ってるんだっ!」
よろよろと弱々しく上半身を起こしながら、それでも意地になって首を振る妹紅に――私もだんだんと腹が立ってきた。
一方的に戦いを仕掛け、一方的にルールを押し付けておいて、いくらなんでもそんな態度はないと思う。
そんなにその、弱くて頭が悪くて根性もない誰かさんが大事なのか。
慧音に押し付けられた良識が大事だというのか。
300年間殺しあってきたこの私への殺意よりも、そんなもののほうを優先するというのか。
「ふーん。そう。さんざん人を殺しておいて、気が変わったらあっさりと手の平を返すのね、妹紅。
なら――少しくらい虐めてあげてもバチは当たらないわよね」
そんな不穏当なつぶやきが、自然と口から漏れ出る。
私は顎に手を当て、妹紅イジメのネタを考え始めた。
こういったことを思案しだすと、いくらでも策が閃く。自分で言うのもナンだが、私は天性のいじめっ子かも知れない。
とはいえ、単純ないじめ方では駄目だ。妹紅の心を痛めつけて、ついでにあいつが私を殺す気になってくれるような策でなければ。
対戦相手がへばっている間に、私はしばし思考を巡らせ――そして思いついた。
そうだ、この手があるじゃないか!
「ねえ、妹紅。一週間前に私が慧音先生に会いに行ったのは、いったい何のためだと思う?」
「…………? 何の話だ、いきなり」
「いいから答えてよ。慧音先生から何も聞いてないの?」
問われた妹紅は困惑の表情。決闘とはなんの関係もない話を持ち出されて、こちらの意図を掴みかねているのだろう。
しかしその困惑を押し殺して、彼女は口を開く。
「……永遠亭と人里とで、お互いに交流の手段を模索しているって話は聞いた。
最初は小規模な薬売りの商売をしてもらうだけだから危険は無いって、慧音はそう言ってたけど……」
そう、そこまでは聞いていたのか。ならば好都合。
私はにやりとほくそ笑み、話を続けた。
「そのとおりよ。私たちは竹林の中に閉じこもるのをやめて、外の世界との交流を深めようとしているの。で、その手始めに、人里とのお付き合いを検討してたってわけ。
一週間前に私が人里に赴いたのは、幻想郷の地上人が私たちとの交流に足る相手かどうか、それをこの目で確かめるため」
「それが……それが、どうしたっていうんだ」
地面に座り込んだまま、妹紅が身を乗り出してきた。やはり彼女も、この件は気になるのだろう。
目論見がうまくいきつつあるのを内心で確信しつつ、私は少しだけ嘘を交えた解説を続けた。
「大体のところは兎たちの報告で知っていたけれど――まあ、思ったよりも悪くはなかったわ。人もお店も多いし、食べ物は美味しそうだし。
技術がとんでもなく遅れてたり、娯楽が少なかったり、少しばかり汚れが目立ってたりはするけど、そこに目をつぶりさえすれば、人里もなかなか悪くないわね」
「……何が言いたいんだ。遠回りな言い方はやめろ」
「せっかちね。まあいいわ。
早い話、人里は利用価値があると私たちは判断したの。で、商売を始めるための準備に取り掛かってるんだけどね」
この一週間で、人里での薬の販売方法はほぼ決定していた。永琳と慧音との間の手紙のやりとりや、永琳が直接出向いての里長たちとの会談の結果、置き薬という商法を導入する方針で一致したのだ。
里の中に店舗を構えてそこで薬を販売するのではなく、薬を希望する家々にあらかじめ常備薬を預けておき、消費した分の薬の代金をあとで販売員たちが回収して回る。これが置き薬方式である。永遠亭と地上人の接触をコントロールできるこの方法は、永遠亭にとっても人里にとってもメリットが大きかった。里長や警備隊長といった有力者たちの了解もおおむね取れて、今は妖怪兎たちが、置き薬の最初のモニターとなる家々を回って準備を進めているところである。
わずか一週間でここまで話が進んだのは、永琳の交渉力もさることながら、慧音の尽力も大きかったのだろう。が、それについては置いておく。
いま肝心なのは、ウチの兎たちが人里の中に入り込んでいるという点だ。
「本当、実にトントン拍子に行っているわ。慧音先生も含めて、人里の連中はみんな私たちを信じてくれてる。私たちが地上人と対等な関係を持つつもりだって本気で思ってるのね。
……だから、販売の準備のためと言ってウチの妖怪兎たちを大量に人里に送り込んでも、あっさりと受け入れてくれたわ」
「……おい、輝夜。何を言ってる? なんだよその含みのある言い回しは」
警戒し、苛立ちを強める妹紅に、私は仮面の微笑を向けてやる。
てゐの悪党顔や慧音の作り物めいた女官顔もなかなかのものだったが、この分野に関しては私も引けをとるつもりはない。かつては月の姫君だったのだ、いかにも何か企んでいそうな表情ならばお手の物。
「あら、まだ分からない? もう少し判りやすく言わないと駄目?」
「もったいぶるな、さっさと結論を言えっ!」
いきりたつ妹紅に向けて、私は酷薄な笑みを浮かべた。
「じゃあ結論を言うわ。でもその前に、貴方に聞いてみたいのだけど。
ねえ、妹紅。
私たち月人が、地上人と対等な立場に立つつもりがあると――本気で思ってる?」
「――――!」
狙い通り、妹紅の顔が凍りつく。
私は内心でガッツポーズをとりつつ、くすくすと笑ってみせる。
「さっきも言ったとおり、人里には利用価値があるわ。
でもね、地上人そのものはつまらない。退屈だわ。今の貴方みたいに歯ごたえが無くて――対等に付き合う気になれないのよ」
「輝夜……!」
怒りの形相で妹紅が立ち上がろうとする。けれどまだ回復しきっていないらしく、地面に膝を立てたところで動きが止まった。
これはもうひと押しが必要か。
私は妖しく目を光らせ、てゐが思いついた悪巧みを、少しばかり改良して告げてやった。
「私たちはね、人里を支配してあげることに決めたの。そのための準備ももう進んでいる。
どの人物を抑えれば効率的に支配を進められるか、どの建物が里にとって重要なものなのか、すでに妖怪兎たちが調べ始めているわ。
それにね、無料のお試し品と称して、兎たちにいろんな薬をばらまかせてるの。
たとえば――風邪薬というビンに入った、人の闘争本能を低下させる薬品とか。
胃腸薬という箱に入った、人を従順にさせるお薬とか」
「なっ――!?」
「しかもそれらの薬は、蓋を開けなくても、私たちが合図を送れば中身が漏れ出るようになってるの。霧状になって街を覆い、全ての住人に効果を及ぼしてくれる優れモノなの! さすがは永琳よね!」
「ふ、ふざけるな!」
「ふざけてなんかないわよ、真面目にやっているわ。でも真面目にやりすぎてあっけなく成功しちゃいそう。それはそれで退屈な話ね。
まあでも安心なさい、きちんと支配してあげるから。そう、せっかくだから奴隷のような扱いでね!」
「貴様……貴様ぁぁーー!」
やっと妹紅が立ち上がった。
瞳に少しずつ、私への憎悪が満ちてきている。殺し合いをしていた頃の表情が戻り始めている。
あと一押し、もう一押しすれば、殺意と憎悪で彩られた美しい翼も蘇るかもしれない――
私は期待に心踊らせて、トドメとなる一言を投げつけてやった。
「あの先生はきっと、私たちの企みに気づくでしょうね。そして私たちを止めようとするでしょう。でもそれも無駄なこと。この私が本気を出せば、あの先生では敵わない。ボロ雑巾のように負けて引き下がるしかないわ。
まあ、それもこれも貴方が悪いのよ。貴方が私をあまりに退屈させるものだから、他の暇つぶしの方法を見つけなければならなかった。人里が標的になったのはたまたまよ。
あの先生には悪いと思うけど、せいぜい貴方の不甲斐なさを恨んでもらうしかないわね――!」
「…………っ!」
凄まじい勢いで妹紅が駆け出した。
もはやスペルの宣言も何もなく、ただ怒りのままに炎を呼び出す。
その背中には、憎悪と殺意で彩られた羽根。ついに鳳凰は蘇った――!
「あはっ♪」
歓喜の笑みを浮かべて、私もまたスペルを唱える。恩人の名前を持ち出されたなら、妹紅とて自制することなどできないはず――その読みは完璧に当たったのだ。
さあ、妹紅。一緒に楽しく殺し合いましょう。
お互いを憎しみ、お互いの腹を引き裂き、お互いの首をはねましょう。
私が一番悦しいのはその瞬間。貴方が一番生き生きとするのはその瞬間。
私も貴方も、この螺旋を抜け出すことなどできはしないのよ――!
宙に舞った妹紅が、右手に超高熱の炎を振りかざす。直撃すれば間違いなく、私は死ぬ。
けれど私はいっさいの防御を考えず、両手に光の槍を生み出した。
お互いがお互いに致死の攻撃を突き刺す。殺し合いの再開は、そんな形こそが相応しい。
「うああああああーーーっ!」
「あははははははっ!」
怨嗟と哄笑とを響かせ合いながら、私たちは同時に殺意をぶつけ――
交差の瞬間、妹紅の右手がわずかにブレた。
「――え?」
突き刺さったのは、私のスペルだけ。
妹紅の右手は私に届くことなく――彼女の身体は、私の槍に貫かれた。
槍が彼女の体内で炸裂し、彼女の内臓を吹き飛ばす。対戦相手はあっけなく絶命した。
一人取り残された私は、呆然と立ち尽くす。
「……何よ、それは」
倒れ伏す相手の屍骸を見つめて、ただただ呆然と、つぶやく。
「なぜ。どうして手を止めたの。
あんなに憎悪に満ちていたじゃない。あんなに私を殺したがっていたじゃない。
なのにどうして直前で躊躇するの?
どうして――殺し合いをそこまで拒否するの?」
完全に死んだ相手に、その問いかけが届くことはなく。
蓬莱の薬によって妹紅の身体が再生されるまで、できることなど何もなく。
私はその場で、しばし自らの孤独を噛みしめるしかなかった。
自失していたのは、どれくらいの時間だったのか。
下から妹紅の声が聞こえてきて、私はようやく我を取り戻した。
視線を下げてみれば、彼女は地面に爪を立てていた。自らの不甲斐なさを呪うように、顔を伏せ、嗚咽にも似たうめき声を漏らしている。
……馬鹿な娘。他人に押し付けられた良識など捨てて、私にあの炎を叩きつけていれば良かったのに。貴方にはそうする権利と義務があったのに。
せっかく私が悪役になって、貴方に殺す理由を与えてあげたのに――すべて無駄にしてくれた。
もう、失望しか覚えない。
鳳凰は完全に消滅したのだ。この世で唯一のライバルは、今この瞬間、永遠に失われてしまった。
「さよなら、妹紅。もう貴方に会うこともないでしょう」
地に這いつくばる相手にそう言い捨てて、私は身を翻す。再び1000年の退屈が再開されるのか――そんな思いに押しつぶされながら。
カゴを置いた竹の根元で足を止めると、上に置いていた手袋をはめる。そして、結局今日も使うことのなかったカゴを拾い上げる。
――背後から、うめき声ではない意味のある言葉が届いたのは、そのときだった。
「スペルカードルールだ……!」
「……?」
怪訝に思って首だけを向けると、妹紅が顔を上げ、歯を食いしばってこちらを睨んでいる。
「スペルカードルールで勝負しろ……!」
「……まだそんなことを言ってるの? これ以上、何をやっても無駄よ」
「違うっ!」
妹紅が立ち上がる。ぶるぶると身を震わせながら、それでも私をしっかと睨みつけて。
「
おまえが起こそうとしてるのは立派な異変だ――なら、スペルカード戦に負けたら素直に引き下がるのが筋だろう。それがこの幻想郷での決まりだ。
違うか、輝夜!」
「…………」
私は無言で、相手を見つめ返す。
破れかぶれでそんなことを口走ったのかとも思ったが――どうも、そういうわけではないらしい。
私を睨みつけるその瞳は本気。殺意でも憎悪でもない別の何かを秘め、この私と対峙している。
――そう。少しは期待を持ってもいいということかしら?
気が変わった私は、妹紅に身体ごと振り返った。
「ええ、貴方の言う通りだわ。日を改めてスペルカードルールで再戦しましょう。そこで貴方が勝てたなら、私たちは潔く企みを放棄するわ。
でも、ひとつだけ条件がある」
「……なんだ、その条件ってのは!?」
「この場で私が話したことは、絶対誰にも喋らないこと。
ほら、博麗の巫女とかに相談されたら、彼女が解決に出張ってきてしまうでしょ? だから人里の人間に話すのもダメよ、慧音先生を含めてね。噂はどこから漏れるかわからないし」
そんなふうに釘を刺す。
先ほど妹紅に語って聞かせた人里侵攻計画は、もちろんすべて口から出任せだ。妹紅が人里の誰かに確認をとったなら、あるいは妖怪兎の一匹でも捕まえて締め上げれば、そんなものなど存在しないことが一発でバレてしまう。せっかく相手がやる気らしきものを出してくれたのだ、そんなオチは面白くない。
「この異変もこの決闘も、私たちだけで決着をつけましょう。それでいいなら、二週間後にまた再戦してあげる」
「……二週間後?」
「その間に今度こそ特訓をしてきなさいってことよ、慧音先生あたりをコーチにしてね。今のままでは私に勝てないことくらい、貴方にだって判るでしょう?」
「……ぐっ!」
苛立たしげに妹紅が視線をそらす。彼女とて、彼我の力量差は判りすぎるくらいに判っているのだろう。
妹紅はしばし立ち尽くし、悔しさに身を焦がしていたが――やがて視線をこちらへと戻し、うなずいた。
「判った。二週間後だ。二週間後に、私とおまえとでスペルカードルールの勝負だ」
「決まりね。じゃあね妹紅、二週間後を期待せずに待ってるわ」
私はそう言い残し、今度こそ妹紅に背を向ける。
次へわずかな望みがつながったことに安堵しつつ――しかし次もまた同じ結末にしかならないだろうと、そう予感した。
殺意と憎悪。それに代わるものを、まだ妹紅は見つけきれていないのだから。
閑話。
夕暮れ迫る冬空の下。
藤原妹紅は、人里のすぐ外にある空き地に立っていた。
目の前にいる人達に、頭を下げる。
「悪いな、無理を聞いてもらって」
「気にするな。君の頼みなら、断る理由などない」
真面目くさった顔つきでそう言ったのは、週始めの寺子屋の授業を終えた上白沢慧音。その頭には例の奇妙な形の帽子がのったままだ。子どもたちを送り出してからすぐこの場所に足を運んだものらしい。
「そうさ、気にするな妹紅! このまえ特訓してもらった恩もあるし、きっちり付き合うよ!」
びしっと親指を立てるのは、湖に住む氷精であるチルノ。二ヶ月ほど前に妹紅と知り合ったばかりの彼女は、しかし今では妹紅にとって慧音に次ぐ友人である。
「ええと……チルノちゃんがお世話になりましたし、私で役に立つことがあれば……」
控えめな口調でそう告げるのは、チルノの親友である大妖精。妹紅は彼女にも頼み込み、この場所に来てもらっていた。
全ては二週間後のスペルカード戦のため。
妹紅は自分を鍛え直すべく、彼女らに集まってもらったのだ。
「それにしても、改めて特訓とは……そんなに負けが込んでいるのか?」
何気ない口調で慧音が問う。余人にはあまり見せることのない、からかうような笑顔。
妹紅はそれに苦笑を返すことしかできない。真相を話すことはできないからだ。
「……まあ、ね。前みたいな戦いだったら明らかに私の方が強いんだけど。
ほら、その……スペルカードルールって基本的に、何発か被弾したら終わりじゃないか。そういうのって、どうも調子が出なくてさ」
「……ふむ、なるほど。勝手が違いすぎて対応できない、ということか。君も意外と不器用なのだな」
「あっはっは、まーね。こりゃ本格的に鍛え直すしかないなって、そう思ったんだ」
空笑いで、どうにか誤魔化す。口の端が引きつってしまったが、なんとかセリフをつっかえることだけは免れた。
と、そんな妹紅を力づけるように、チルノが肩をばしばしと叩いてくる。
「大丈夫さ、妹紅は強いから! ちょっと特訓すれば魔理沙くらいはケチョンケチョンだよっ!」
「いや、対戦相手は魔理沙じゃないんだけど」
「……あれ? そうだっけ?
……霊夢?」
「なんで博麗の巫女に喧嘩を売らなくちゃならないんだ」
「だってあいつ、この前あたいにお札をぶつけてくれたし。ムカつく」
「それはおまえが自分で仕返ししろよ」
おバカな会話をしているうちに、妹紅の中にわだかまっていた深刻な気分も薄れてきた。これならば、目の前の特訓にリラックスして取り組むことができそうだ。
ほっと息を吐いたところで、慧音が横から紙を差し出してきた。
いつぞや氷精に戦い方をコーチしたときと同様、慧音が考えて作った訓練メニューである。もちろん輝夜相手ということで、その内容は数倍ハードだ。
「君の要望通りに組んでみたが……随分とまた激しいな。身体がついていくのか?」
「なあに、昔の動きを取り戻せれば大丈夫だよ。外の世界で妖怪退治をしてた頃の身のこなしをさ。
……もっとも600年も前のことだから、思い出すのは大変だろうけどね」
幻想郷に至るより以前、妹紅は300年ほど、妖怪たちから人々を守る仕事をしていたことがある。そのころの彼女の戦い方は、敵の攻撃を極力かわして体力を温存し、相手が隙を見せた瞬間に着実に攻撃を叩き込む――という、スペルカードルールと似た系統のものだった。
いくら不老不死の身といえど、敵の攻撃を浴びれば足が止まってしまう。負傷して動けないでいる間に護衛対象の方を襲われてしまえば、仕事を果たすことができなくなる。ゆえに蓬莱人である妹紅も、敵の攻撃をかわすことを最優先にしなければならなかったのだ。
もっとも、300年積み重ね、鍛え上げたその身体技術も、今では完全に錆びついている。ここ600年ほどは強力な妖怪と戦うこともなく、人を守るということもしなくなっていた。戦いらしい戦いといえば、被弾も負傷もお構いなしでただ相手に憎しみをぶつけるだけの輝夜との殺し合いくらいのもの。頭からも身体からも、かつての動き方は消え去ってしまった。
けれど、魂にはまだ残っているはず――その一点に賭けて、妹紅は慧音に特訓メニューを組んでもらったのだ。
「最初の一週間で、チルノと大妖精の弾幕を同時に相手にして昔の感覚を取り戻す。
次の一週間で更にその上を行く。
それができなけりゃ、輝夜には絶対勝てない」
「……ふむ。まあ、その意気込みはいいのだが」
チルノたちが空き地の反対側に向かっていくのを見つめながら、慧音は小声で、妹紅に尋ねた。
「何か心配事でもあるのか? 妹紅」
「…………!」
メニューを受け取ろうとした妹紅の手が、ぎくりと止まる。
やはり感づかれた。この教師相手に隠し通せるわけがなかった。
もし慧音が本格的に追求してきたなら、最後まで誤魔化しきれる自信など妹紅にはない。
妹紅は必死で教師から目をそらし、言い訳を考える。
「あ……あの、その、つまりだな」
「…………」
「ええと……その……」
じっと慧音から見つめられ、妹紅は生きた心地がしない。
もしここで真相がバレてしまったら――?
輝夜のことだ、どこからか常に自分を監視しているに決まっている。自分が慧音に計画をバラしたことを知れば、二週間後を待たずにすぐに異変を始めてしまうに違いない。
だがそれが判っていても、すぐに上手い言い逃れを思いつけるほど妹紅は器用な人間ではなかった。冷や汗を垂らし、むなしく口を開閉させるだけだ。
そんな気まずい沈黙を破ったのは、慧音だった。
「まあいい」
口元に笑みを浮かべ、安心させるように妹紅の肩を叩く。
「話したくなったら話してくれればいい。授業中以外ならいつでも相談に乗るからな」
「……すまない」
「気にするな、と言っている。この間は、君が私の我侭に付き合ってくれたのだしな」
「……本当に、すまない」
妹紅は頭を下げることしかできない。
――考え直してみれば、ずっと彼女にはお世話になりっぱなしだった。迷いの竹林で初めて出会ったときから、ずっと。
頭を下げたままで、妹紅はこれまでのことを思い返す。10年以上に渡る慧音との付き合いの日々を。
殺意と憎悪に塗りつぶされた精神に、それ以外の感情を取り戻すことができたのも。
輝夜との殺し合い以外には何もなかった毎日に、それ以外の彩りを与えてくれたのも。
――すべて、慧音の尽力あってのことだ。
ならば自分は、彼女に恩返ししなくてはならない。
自分にできる形で、精一杯。
「なあ、慧音」
妹紅は頭を上げた。チルノたちの方へと歩き出しかけた慧音に問いかける。
己の目的を、しっかりと胸に刻み込むために。
「おまえにとっての人里ってさ、凄く――大切なもの、なんだよな。一生をかけて守りたいくらいに」
「む……?」
唐突な問い掛けに、慧音が訝しげに眉根を寄せる。
しかし彼女はすぐに思い直したようだった。妹紅の方に身体ごと向き直り、うなずく。
「もちろん大切だ。一生をかけて、とは大袈裟だが。上手く喩えることはできないが、そう――」
そして慧音は、妹紅が今まで見た中でも最高の笑顔で、にっこりと微笑んでみせた。
「こうして君と会話しているこの時間と同じくらいに、大切だ」
「…………」
妹紅は押し黙る。
今の言葉の意味が、よく判らなかった。
……ちょっと待て、本気で判らないぞ慧音。
「慧音? 今のはどういう意味なんだ?」
妹紅が真正面から問い質すと、慧音も微笑を収めた。首をかしげ、自らのセリフを反芻する。
やがて彼女は、納得したようにうなずいた。
「そうだな。綺麗な喩えにまとめようと思ったのだが、確かにこれでは意味が通らない。
では言い直そう――君に長々と説教しているのに全く言うことを聞いてくれなかったときと同じくらいに大切だ」
「いや、それもよく判らないし!?」
「では……歴史編纂の仕事を終えて、心地よい疲れとともに寝床に入る時と同じくらいに大切だ、というのはどうだろう」
「やっぱり判らない! ていうか、おまえにとっての人里ってその程度なのかよ!?」
「いやいや、もちろんとても大切なのだが――いかんな。うまい言葉でまとめようとすればするほど、余計にこんがらがってしまう」
「そんなんで大丈夫なのか寺子屋教師ッ!?」
立て続けにツッコミを入れてみても、慧音は相変わらずのマイペースなのであった。どうにかして人里の大切さを伝えようと、両腕を組んで考え込んでいる。
――ああもう、コイツは――!
深刻に悩んでいたのが馬鹿らしくなった妹紅は、頼りない教師の背中をどついたのだった。
「さっさと特訓を始めるぞ! ほら、チルノたちに指示を出してくれ!」
「むう……乱暴な」
不服そうにつぶやきつつ、慧音は妖精たちの元へと歩いていく。
やはり不安な出だしではあったが――こうして、妹紅の二週間に渡る特訓の日々は始まったのだった。
……閑話休題。
4 姫様、満足す
吐く息は白く。山頂にはすでに雪が見え。
幻想郷中に冬の気配が切々と強まる中、その日はやってきた。
私と妹紅の、約束の日。
「これより、藤原妹紅と蓬莱山輝夜の、スペルカードルールによる決闘を執り行う」
厳かに告げるのは、私の従者である八意永琳。やや厚手の服に袖を通した彼女は、この決闘を正式なスペルカード戦とする旨を、この場に居並ぶ全員に宣言する。
「決闘者はこの迷いの竹林内にて、ルールに則って戦うべし。勝者は敗者に一つだけ要求を行えるものとする。ただし、要求は命に関わるものや過大すぎるものであってはならない。以上、よろしいか?」
私の対戦相手である妹紅が、そこでコクンと頷いた。その表情は、二週間前に見た時とは大きく変化している。
目的を見失っていたあのときとは違う――そして、憎悪や殺意も感じられない。どうやら彼女は無事、自分なりの目的を見つけ出すことができたようだ。
――ならばよし。私もまた小さくうなずく。
「立会人は、わたくしこと八意永琳と上白沢慧音の二名。この戦いの経過を見届け、その結果を保全するものとす」
妹紅の5メートルほど後ろに立つ女教師が、任務を了解するように軽く頷いた。
彼女もまた、妹紅と同じく厳しい表情をしている――が、あれは単なる地だろう。私にもなんとなく、あの教師のキャラクターというものが掴めてきている。
最後に永琳が、私と妹紅の両方に視線やった。
「取り決めは以上であるが、藤原妹紅、蓬莱山輝夜、双方ともに異存はあるか? あるならばこの場で申し立てよ」
「ないわ」
「ない」
二人同時に答える。すると永琳は、この試合の形式を宣告した。
「時間は無制限。スペルカード枚数の限度は7枚。ギブアップもしくは3度の被弾で敗北とする。
これより二分後、この場所で、コインが地面につくのを合図として決闘を開始する。では、両名別れい」
私と妹紅とはお互い同時に背を向け、それぞれの立会人の元へと歩き去った。
永琳の横に並び、私は小さく息を吐く。
――とうとうやってきた。
お互いの全存在を掛けて戦う日が、ついに来てしまった。
緊張を鎮めるために私は唾を飲み込み、
「……輝夜。ちょっと聞きたいことがあるのだけれど。
どうしてたかがスペルカードルールが、こんな大仰な事態になっているのかしら?
まるで国運を賭けた武将同士の一騎打ちみたいになってるんだけど……何かおかしなことはしてないわよね?」
怖い顔をした永琳に横から質問されて、たちまち心を乱してしまった。
あああああ、ごめんねごめんね本当にごめん永琳! 貴方の知らないところで私とんでもないことしちゃったの!
あのときは頭に血が上ってたのよ、後先考えずにあんな嘘をついちゃったのっ! でもよくよく考えてみれば凄くマズいわよね、下手にバレたら人里から袋叩きにあって永久に絶交されるくらいにマズい嘘よねっ!
内心で永琳に謝罪を繰り返しつつ、しかし私は表面上の平静さを保つ。
「質問は後にして。今はこの決闘に集中させて」
「……それだけじゃなくて、妹紅と上白沢先生があんな目つきで貴方を睨んでいる理由も聞きたいのだけど」
「……妹紅は私を憎んでいるわ、厳しい顔をしてて当たり前。慧音先生は元からあんなものでしょ」
「……なんだかずいぶん上白沢先生のことを知っているような口ぶりね? 人里には行ったことはないはずなのに」
「……ええと、そのアレよ。妹紅との決闘の時に、たまに会話したこともある気がするのよ」
話せば話すほどどんどんボロが出てしまう。こんなことなら、二週間前にさっさと事情を説明して謝っておけばよかった。きっとがみがみとお説教はされただろうが、すぐにフォローしてくれて、ここまで話が大きくなることもなかっただろう。
自分の選択を心の底から後悔する。さすがにこれは妹紅のせいにはできない。
……ええい、もういい。お説教やお仕置きならばあとでいくらでも受けてやるわっ。それくらいの覚悟はとっくにできてるんだから!
そう開き直ることで、私は気持ちを切り替えた。少しばかり涙目になりながら、ではあったが。
それに幸いにも、私の嘘が最悪の事態を招くことだけは避けられたようだ。心配でたまらず兎たちに監視させていたのだが、妹紅は私との約束を守り、人里の誰にもあの計画を話すことはなかった。それどころかこの二週間、一心不乱に特訓に打ち込んでいたのだ――特訓のパートナーが何故か二匹の妖精、という不可解な点はあったが。
こんな展開に落ち着いたなら、あんな嘘をついた甲斐もあったというものだ。少なくとも今までのような腑抜けた戦いにはならないはず。
……そこまで思考を巡らせることで、ようやく私は普段の自分を取り戻すことができた。
横に立つ永琳に、告げる。
「何も事情を説明せず、こんなことに巻き込んでしまったのは謝るわ。でも、この決闘だけは私に預けて頂戴。最後の最後まで、存分に妹紅と戦いたいのよ」
「……わかったわ。決闘が終わったら、きちんと事情を説明してね」
諦めたような表情で、永琳が私のそばを離れる。そろそろ時間が来たのだ。
見れば慧音も、妹紅と拳をぶつけあってから、竹林の端まで下がっていく。
同じく端近くまで下がった永琳が、コインを取り出した。それを合図にしたかのように私たちは二人同時に歩き出し、3メートルほどの距離をとって対峙する。
「ちゃんと特訓してきたみたいね。これまでとは見違えるようだわ」
「そんなことはどうでもいい。私が勝ったら、おまえたちは人里と対等に付き合うんだ。わかってるだろうな?」
「安心なさい、月人としての誇りにかけて約束は守るから」
最後の言葉を交わし終えたちょうどそのとき、永琳がコインを投げ上げた。綺麗な放物線を描いて、私たちが対峙する地点のちょうど中央へと落ちていく。私たちは微動だにせず、その落下を見守る。
そしてコインが、土の上に音もなく落着したその瞬間――
「神宝・サラマンダーシールド!」
「不死・徐福時空!」
私たちは同時に最初のスペルカードを引き抜き、相手にかざす。
戦いの始まりを告げたのは、真正面からのスペルのぶつかり合いだった。
乱れ飛ぶ無数の弾丸。着弾によって撒き散らされる土煙。なぎ倒される竹。
慧音の眼前で展開されているのは、人知を超えた凄まじい弾幕戦だった。
――なるほど、私だけでは訓練にならないはずだ。
竹の陰で身をかがめ、滲み出る汗をぬぐいながら、慧音は心中でうなずく。
妹紅の特訓は、最終的には三人がかりで放ったスペルをすべて回避するというものにまで至ったのだが――それが必要だったことがようやく実感として理解できた。
「チルノを連れてこなくて良かったな……巻き込まれでもしたら守りきれないぞ、これは」
慧音は姿勢を低くし、霊力のガードで流れ弾を防ぐ。これ以上近寄ったら、彼女でも己の身を守ることは難しいだろう。
これが蓬莱人の本気の戦い。自分などでは踏み入ることさえできない世界。部外者が関わるべきではないという輝夜の言葉も、理由がないわけではなかったのだ。
と――そんな弾幕をするすると迂回して、向こうから永琳がやってくる。
彼女は慧音の横に並ぶと、教師と同様に身を伏せた。そのままぺこりと頭を下げてくる。
「わざわざ遠いところをどうも、上白沢先生」
「貴方に先生と呼ばれるのはこそばゆいですよ、八意殿」
慧音もまた頭を下げ、挨拶を済ませた。幾重にも衝撃音が響く中だったので、おそらくろくに聞こえなかったろうが。
苦笑しつつ永琳は慧音に顔を近づけ、そして詫びの言葉を口にした。
「ごめんなさいね、ウチの姫様のワガママにつきあわせたみたいで」
「いえ、こちらこそ。ウチの妹紅がいつも迷惑をかけているようで」
「あら。なんだが保護者同士の挨拶みたいになっちゃったわね」
「……まあ、実際にもそんなものでしょう」
慧音も苦笑を閃かせた。
月の賢人と呼ばれるこの女性の頭脳がどれほどのものであるか、慧音はその片鱗を既に知っている。人里の有力者たちとの会談でも、そこに到るまでの交渉段階でも、この女性の話の進め方には隙らしい隙がひとつもなかった。わずか一週間ですべての人間を納得させて人里との交流を決めてしまったその手腕には、ただただ脱帽するしかない。
そのように油断ならぬ英才である彼女だが、しかしお互いの相方についての話題となると、少なからず共感する部分があるのだった。向こうも向こうで、輝夜に色々と苦労させられているのだろう。
「……ところで先生。ここ最近、ウチの姫が人里でおかしなことをしてません?」
きらりと瞳を光らせ、永琳がそんな探りを入れてくる。
どうもまた、輝夜がらみで頭を悩ませることがあったようだ。しかもなにやら異様に含みというか殺気を感じるあたり、かなり根深い問題らしい。
慧音は微笑みつつ、永琳に向かって首をふった。
「いいえ、何も。三週間ほど前に貴方の手紙を届けに来てくれましたが、非常に礼儀正しくしていましたよ。妹紅とは大違いです」
「まあまあ、そうだったの。お邪魔しちゃったみたいね」
「なんのなんの、お茶を振る舞っただけですから。私としてはもう少し彼女と話をしてみたかったのですが――おっと!」
近い位置に流れ弾が飛び込み、慧音の張った防御壁を叩く。おかげで教師はしばし壁の修復に努めざるを得ず、会話は中断を余儀なくされた。
「ふう、流れ弾ひとつがすごい威力だな。……と、申し訳ない、何の話でしたか?」
「いえいえ、お気になさらず。いい情報をありがとうございます。
それよりも先生、このままではうるさくてろくに話もできませんから……音を遮断しましょう」
その言葉と同時に、何らかの術が発動した――らしい。一瞬で、戦場もかくやの爆音と衝撃音とが周囲から消え去る。永琳がいったい何をしたのか、近くで見ていたはずの慧音にも理解できなかった。やはり月の技術は相当に進んでいるということらしい。
「お見事です」
「それほどでも。……あら、さっそく一発目をもらっちゃったようね」
視線を転じてみれば、蓬莱の姫が宙に吹っ飛ばされている。空中でどうにか体勢を立て直した輝夜は、予想外の苦戦に顔をゆがめ、苛立たしげに妹紅を睨んでいた。
「ふふ。存分に楽しんでるわね、ウチのお姫様は。やっぱり妹紅と戦っているときが一番生き生きしているわ、あの娘」
「……そうなのですか? 戦いを楽しむという心境が、私にはどうもピンと来ない」
「貴方のような人には理解しがたいでしょうね。いえ、これは皮肉ではなく心からの賞賛。人として正しい貴方には、輝夜の心が理解できないのは当然の話よ。
――あの娘はね、先生」
必死の形相で弾幕を作り出す輝夜を、じっと見つめる永琳。
その瞳に込められた感情は何であろうか。親愛、同情、憐憫、後悔……様々な感情が入り交じり、慧音は上手く読みとることができない。
「月の都にいた頃のウチの姫様は、本当に手の掛からない娘だったわ。私の言うことは何でも素直に聞いてくれたし、何でも守ってくれた。
そして、それはもう大変優秀なお姫様だったの。序列を守り、美を愛し、礼節を重んずる。周りの人々はみんな、あの娘のことを口々に褒めたたえたものよ。
……けれどあの娘は、いつだって退屈そうだった」
「退屈、ですか」
「ええ。何もかも定まり、揺れ動くことのない月での暮らしに。何の不安も悩みもないあの場所での暮らしに飽き飽きしていたのよ。
私はそんな彼女が不憫だった。だから1300年前、あの娘の頼みを聞いてしまったの。聞き入れてはならない願いを叶えて、あの娘に大罪を犯させてしまった」
永琳が言っているのは、蓬莱の薬の一件か。飲むことを禁じられた不老不死の薬を口にしたために、輝夜は月の都を追放され、地球へと落とされてしまったのだという。
そしてそれ以来、月の姫君はずっと地上に留まり続けることになったのだ。
「そこまでして、あの娘はようやく地上に辿り着いた。
でもやはりこの地でも、あの娘は心から楽しむことはできなかった。月からの追っ手の目を逃れるために竹林に引き篭らざるを得なかったから仕方ないのだけれど――あの娘は結局、月の都にいる時とほとんど変わらぬ暮らしを強いられたのよ。
私には一言も文句を言わなかったけれど、私はあの娘のことが不憫で仕方なかったわ。このまま永遠に退屈を抱えて生きていくことになるのかと、そう悲観すらしていた。けれど――」
永琳の視線の先で、紅が駆け抜けた。
逃げる輝夜に追いすがるようにして、鳳凰の翼が宙を舞う。空気を焦がす紅蓮の炎を放ち、竹林を赤く染め上げる。
「300年前、あの娘が現れたの。誰にも負けたことのないウチの姫様の顔に泥を塗る存在が。月の万人が褒めそやした麗しき黒髪を容赦なく引きちぎり、地上の貴族たちが恋焦がれた白い頬に容赦なく平手打ちを食らわす人間が」
「……それが、ウチの妹紅というわけですか」
永琳の言葉に応じる慧音は、なんとも言えない気分を味わっていた。平穏な暮らしに飽きる気持ちも、1000年の退屈も、自分からはあまりに遠すぎて想像が及ばない。ゆえに、妹紅と出会ったときの輝夜の心境も理解できるはずがなかった。
だがなんとなく察することだけはできる。輝夜がめぐり合ったのは、自分の力を遠慮なくぶつけることのできる相手だったのだ。
「あの娘と出会ってから、ウチの姫様は変わったわ。昔の品行方正さはどこへやら、汚れようが傷つこうがお構いなし。私に平気で生意気を言うようになったし、悪巧みも平然とするようになった。本当、とんでもないワガママ姫になってしまったわ。
――そう。ウチの姫様があんなにも生き生きとしていられるのは、妹紅のお陰なのよ」
「……しかし、それは……」
「ええ、そうね。殺し合いなんて褒められたものじゃない。もっと別の形で関わった方がよかったとは思う。けれど、あの娘が退屈を感じないで済むようになったのは事実。私にはそれが何より嬉しいのよ。
……姫様を心の底から憎む妹紅には悪いけど、ね」
「…………」
永琳の述懐に、慧音は答える術を持たない。
凡庸な地上人でしかない彼女には、月人たちの心の動きを理解することはできなかった。把握できたとしてもそれは上っ面だけのことだと自覚している。輝夜の苦しみにも永琳の悩みにも、適切な意見を述べることなど不可能だ。
ゆえに慧音は、沈黙でもって月の賢人に応じ――そして、視線を転じた。
自分に最も近い蓬莱人。10年間付き合ってきた友人へと。
輝夜に対して真正面からスペルの撃ち合いを挑む妹紅を見つめて、慧音は口を開いた。
「妹紅は……あいつは確かに、貴方の姫を憎んでいるのでしょう。けれどそれは、彼女の存在を全否定したいということではない」
「……? どういうことかしら?」
首を傾げる永琳に、慧音は淡々と続ける。
「あいつもまた、輝夜さんを必要としているということです。憎悪という形でではありますが、己の感情のぶつける先を彼女に求めているのです。
なぜならあいつは――1000年もの間、心を許せる相手が居なかった。不老不死になってしまった己の心境を理解してくれる者がいなかった」
蓬莱の薬を飲んだ後の妹紅は、その不老不死を不気味がられ、ずっと人と円満な交わりを持てずにいたという。その体験が尾を引いたのか、幻想郷にやってきたあとも、彼女は一向に人里には近寄ろうとせず、迷いの竹林の中に閉じこもっていたのだ。慧音と知りあってからの10年間も、それは変わることがなかった。
そんな妹紅が、300年もの間飽きることなく戦いを繰り広げた相手。それが輝夜なのだ。
「妹紅にとって輝夜さんは、恐らくはこの世で唯一共感できる人間なのでしょう。憎しみを抱いていたとしても――あるいは憎しんでいたからこそ、相手のことを誰よりも分かり合えることができたのです。
……あいつにとって、己の心を存分に打ち明けられる相手は、蓬莱の姫しか居なかったのですよ」
慧音は解説をそう締めくくった。
自分ではついに妹紅の心を開くことはできなかったという、わずかな無念とともに。
「ですから、八意殿。貴方が妹紅のことを気に病む必要はありません」
「……優しい人ね、貴方は」
困ったような顔で、永琳はその慰めに応じたのだった。
ちょうどそのとき防御壁の向こう側で、妹紅が勢いよく竹に叩きつけられていた。スペルの競り合いに打ち勝った輝夜が、誇らしげに拳を握りしめている。
「これで1対1、イーブンね。300年の因縁は、そう簡単には決着がつかないか」
「……もう、決着がつくことはないかも知れません。彼女らの縁は、文字通り永遠に続くのかも知れない」
言って慧音はため息を付き、そして薄く笑った。
永遠の闘争、終わらぬ因縁。そこから漂うのが死臭だけであるなら、それは不幸の極みとしか言いようがない。
だが、と教師は思う。もしそれが、憎しみをぶつけ合うだけのものではなく、もっと別のものに変わっていくのであれば――それはきっと、不幸ではなく幸福なことのはずだ。
「結局彼女たちは、お互いがお互いを必要としている。お互いがお互いのために必死になっている。であれば、関わり方が殺し合いである必要もない。違うかたちで関係を続けていくことができるはずです」
「……本気でそう思っているの?」
「もちろん」
疑わしげな永琳に向かって、慧音はきっぱりと言い切った。
殺し合いではない形で関係を再構築することは、必ずできる、と。
「妹紅は、貴方の姫に勝つために、この二週間ずっと厳しい特訓を積んできました。ただ相手が嫌いなだけなら、スペルカードルールで負けたのが悔しいからなんて理由でそこまでするはずがない。
形は多少いびつかもしれませんが、輝夜さんに対するあいつの熱意は本物です」
「……まあ、確かにそうかもねぇ」
「その熱意にほだされて、私もあいつの特訓に一晩中付き合わされる羽目になりました。ここ二日ほどはずっと徹夜ですよ」
「……貴方もよく付き合うわね。ちょっと目つきが悪いのも、もしかして徹夜のせい?」
「ええ、実は今かなりフラフラです。本音を言えばさっさと帰って眠ってしまいたいのですが、あいつの努力の成果を見届けておかないと眠るに眠れませんからね」
はっはっはっ、と教師は乾いた笑い声を上げた。ちょっとヤケクソ気味なのは秘密だ。いかに熱血教師といえど徹夜の連続は厳しいのである。
ちなみに妹紅は昼間は寝ていたし、チルノたちは夜遅くなる前に必ず就寝させていたから、フラフラなのは昼にも仕事を持つ彼女だけである。
「……貴方も大変ねえ。いつもそんな苦労ばかりして」
同情を顔に浮かべる永琳に、慧音は首を振る。どれもこれも、自分が好きでやっていることですから、と。
そう、これは誰かに強制された苦労ではない。やりたくてやっていることなら、どれだけ大変だろうが苦労などとは呼ばない。慧音には確固とした目的があり、それに向かって歩んでいるだけなのだ。
「妹紅にはね、殺し合いにばかりのめり込んで欲しくないんです。この程度の手伝いでそれが叶うなら、安いものですよ」
あくびを噛み殺しつつ、教師は永琳にそう答えたのだった。
永琳はくすりと笑い――そして、小さくつぶやく。
「……本当、凄いパワーね。このパワーがあったから、妹紅は変わることができたのか……」
「何かおっしゃいましたか?」
「いえいえ、こちらの話よ。さ、この戦いの行方を見守りましょう」
月の賢者は微笑をたたえたまま、視線を再び決闘の場に向けたのだった。
ようやく相手から一本をとったと喜んだのもつかの間、すぐに形成は逆転した。
起き上がった妹紅にそのまま追撃を仕掛けようとした私を、地面から湧き出た大量の弾が迎撃する。
「ちっ――! 陰険なトラップを仕掛けてくれるじゃないの!」
「残念、そっちは囮だよっ!」
「…………っ!」
迂闊。かわそうとしたその先には既に妹紅が回りこみ、スペルカードを掲げていたのだ。
「喰らえ、蓬莱人形っ!」
「ぐっ!?」
二発目の被弾を許した私は、地面に叩き落とされた。
ブザマに顔から大地に突っ込む。口の中に土が入る。ザラザラとした砂が舌にこびりつく。けれど行儀悪く吐き捨てる暇もなく、私は地を蹴って竹の陰へと逃げ込む。
なんて屈辱。なんて侮辱。月の姫であるこの私が、地面を舐め、服を汚し、四つん這いになって必死で逃げ出すだなんて――!
「はっ、はっ、はっ」
悔しさに歯噛みする。怒りに顔がゆがむ。こんな無礼をくれた相手には今すぐ復讐して思い知らせてやりたいのに、そいつの回避能力は私のはるか上。そう簡単にはスペルを当てられそうもない。
悔しい。悔しい。
「はっ、はっ、はっ……ははははは!」
悔しい。悔しい。悔しくて悔しくて――笑いがこみ上げてくる。
なんてこと。なんてこと。全力を出してもわずかに足りない。必死になってもわずかに届かない。敵は私と互角かそれ以上。勝てるかどうかなんて判らない。戦いの結末がまるで見えない。
それが、それがそれがそれが――こんなにも楽しくてたまらない!
「ふ、ふふ、ははははははっ」
敵の追撃を防ぐために、犬のように身を伏せて竹の陰から陰へと逃げまわる。これ以上ない屈辱を味わいながら、私は馬鹿みたいに笑っていた。
――そう、求めていたのはこれなのだ。
自分と対等の敵。全力を出しても勝てるかどうか判らないライバル。そんなヤツと互角に渡り合うときの、焼けつくようなこの感覚。
ルールのある戦いでは手に入らないと思い込んでいたそれを、私は今、殺し合いの時よりも遥かに強烈に味わっている――!
「何がおかしいんだよ――輝夜っ!」
怒声とともに妹紅が連射弾を撃ち込んできた。それを私は飛び上がってかわす。挟み撃ちするようにして降り注いできた別の弾幕を自らの通常弾で迎撃しながら、私は妹紅に大声で言い返した。
「貴方の強さを喜んでるのよ、妹紅! 貴方の翼が甦ったことが、私は心の底から嬉しいのっ!
ねえ妹紅、いったい貴方は何を見出したの? 憎悪と殺意の代わりに、いったい貴方は何を見つけたの!?」
貴人としての余裕などかなぐり捨て、私は歓喜をむき出しにして妹紅に問いかけた。
知りたい。知りたい。
いま鳳凰の羽根を彩るのは、憎悪よりもなお深く、殺意よりもなお恐ろしい何か。
その正体は判らない、判らないけれど――
あれこそは、私が地上人に魅せられたものの核心なのではないか。
月人が決して持ちえぬ、荒ぶる魂の輝きなのではないか?
「教えてよ妹紅! いったい貴方はどんな目的を見つけたの? 人里を守るため? 地上人の平和のため? それとも慧音先生との友情?」
「ええい、ワケの分からないことを……!
おまえの馬鹿げた企みを止めるためにこっちは必死なんだよ、少しは真面目にやれッ!」
その言葉とともに、妹紅が放射状に弾幕を放つ。私は地面ギリギリに飛んで回避する。
――流石に聞く耳持たないか。でも、嫌でも聞いてもらうわっ!
「神宝――蓬莱の玉の枝っ!」
宣言とともに七色の宝玉が弾け、四方八方へ無数の弾を生み出す。弾道にアレンジを加えたそれは、虹色の壁を形成して妹紅へと迫る。
あわてて射程範囲外へと飛びすさった妹紅が、舌打ちの音を立てた。
「ちっ――時間稼ぎか!? スペルカードも残り少ないってのに余裕だな、輝夜!」
「安心して、ラストワードで一気に勝負を決めるからっ。
そんなことより教えてよ、妹紅! 今の貴方を突き動かすのは何?
正義? 友情? 義憤? 誇り? それとも――それよりももっと高貴な何かなの?」
呼吸を整えながら、私は壁の向こうの地上人へと重ねて問うた。
私を凌駕するその力は、いったい何を源としているのか。いかなる想いを燃やして戦っているのか、と。
その答えを知ることができたなら、この戦いに負けたって構わない。私はまた一歩、憧れてやまないものの正体に迫ることができるのだから。
しかし問いかけられた妹紅は、やはり乗り気では無いようだった。理解しがたいといった表情で私を睨みつけ――やがて、呆れたような口調で吐き捨てる。
「なんだそりゃ。バカらしい」
「ちょっと、何言ってるのよ妹紅! バカらしくなんてないでしょう!? 戦う理由よ、戦う目的よ!? これすごく大事でしょ!? 貴方はちゃんと、殺意や憎悪でない何かを見つけたんでしょう!? ほら、ケチケチしてないで話しなさいよ!」
憤然として言い募るも――しかし妹紅の表情はどんどん険しくなる。
彼女はなにか苛立たしげに髪の毛に手を突っ込んでいたが、やがて視線を別の場所へと転じた。私もそれを追って首をそちらに向けてみると、視界の中に立会人の二人が入ってくる。
私の従者である永琳が、竹の陰に腰を下ろしていた。防御壁と防音の術を使って自らを守っているらしく、弾幕飛び交う戦場の只中だというのにそこだけやたらと平和そうだ。
そして、その横。
妹紅の友人である女教師は、のんきな仕草で小さくあくびをしていた。
――妹紅の額にびしりと血管が浮き出る。
「……あいつのせいだ」
「え?」
ワケが分からず疑問符をあげるも、妹紅は自分の友人を睨みつけ、一人で恨みの言葉を垂れ流している。
「あいつが、あのアホが、本当にアホだからだ。あいつがあんなにアホでなけりゃ、私だってこんな苦労はせずに済んだんだ」
「ちょ、ちょっと、アホって……慧音先生のこと?」
「当たり前だろ!」
憤然として、妹紅が私に振り向いた。
人差し指を慧音に突きつけ、糾弾の声をあげ始める。
「今回の件でよっく分かったよ! あいつは本気でアホだっ! 人里の守護者を自称してるくせに隙だらけだっ!
ああ前々から思ってたさ、あいつはあまりにお人好しすぎるって。簡単に人を信じすぎるって! けどな、こんな呆気なくおまえらの企みに乗せられるとは思わなかったよっ! 本当にどこまで無防備なら気が済むんだあいつは!」
妹紅の口からぽんぽんと、友人への罵倒が飛び出す。あまりにも大声で叫ぶので、慧音本人に聞かれはしないかとこちらの方が心配してしまったほどだ。幸いにも永琳の防音の術は慧音も対象に入っていたらしく、女教師はただ首を傾げるだけだったが。
「ほら見ろ、今も自分をだました悪人の横でのほほんと観戦してやがる! こんな間抜けな話があるか!」
「いや、それは……確かにそういうことになるんだけど、でも」
流石に気の毒になってきた私がどうにか弁護を試みるも、妹紅はまるで聞く耳を持たない。肩を震わせ、腕をわななかせ、自らの友人の不甲斐なさを嘆く。
「昔からそうなんだ、本当にあいつはどうしようもないんだ! 困ってる人間を見たら見過ごせない、泣いている子供は放っておけない……そんな調子でどんどん厄介ごとに首をつっこむんだ! おまけに下手に頑固で努力家なものだから、ちょっとやそっとじゃ手を引きやしない!
一体この10年で、何度騒動を起こしたことか……私が尻ぬぐいしたことだって2度や3度じゃないんだぞ!?」
「そ、そうなんだ。筋金入りの天然なんだあの人」
「そうなんだよ! そのくせあいつは私の保護者気取りと来た! やってられないよ、本気で!
今日だってな、あいつは私の特訓に付き合って二日も徹夜した後なんだ! それなのにこの決闘の立会人まで務めてるんだから……本当に何考えてるんだよあいつは!?」
「は?」
さすがに私も、そこで聞きとがめた。
いやいや待て待て、それは貴方が悪いんでしょう妹紅!?
「慧音先生って寺子屋の仕事もあるんでしょう? ちゃんと寝かせてあげなさいよ貴方」
「私だって何度も寝ろって言ったんだよ、なのにあいつは言うことを聞きやしないっ! 本当にもう、あいつは、あいつは……!」
もはや怒りを形容する言葉もないのか、妹紅はぎりぎりと歯ぎしりしたかと思うと、その場で地団駄を踏み始めた。
ジタバタと足を踏み鳴らす宿敵の間抜けな様を唖然として見つめながら――ふと、私は思う。
こいつが他人のためにここまで本気で怒るのは、この300年で初めてのことではないか、と。
そしてまた、こうも思う。
妹紅が殺意と憎悪の代わりに手に入れたのは。
この私を圧倒する炎の、その力の源は。
「妹紅。貴方の見つけた目的って、もしかして……」
「ああそうだよっ! あの底抜けのお人好しは、私がしっかりしてなきゃすぐに不幸になるっ! 私が面倒見てやらなきゃ駄目なんだッ!」
……拍子抜けにもほどがある結論に、私はがっくりとうなだれたのだった。
頼りない友人を見るに見かねて、だって?
何週間にも渡って繰り広げてきた騒動のオチが、これか。
せっかく私が悪役を演じてまで探し求めた答えが、これか。
――納得できない。納得できるわけないでしょこんなものっ!
妹紅に負けないほどの怒りとともに、私は思いきり声を張り上げた。
「却下ーーーっ!」
「何がだっ!?」
「却下却下却下! 駄目よそんなの! 300年も積もり積もった因縁よりもそんなものの方が重いとかありえないでしょう!? あんたね、15分あげるからもっとちゃんとした答えを提出しなさい!」
「だから何の話なんだよ!? そもそもおまえが暇にあかせて妙な陰謀を企んだのが悪いんじゃないか! エラそーにするな!」
「それを言うなら、あんたが殺し合いを止めるとか言い出したのがすべての原因じゃない!? 改善に向けて努力する義務があるのはあんたの方よ!」
「意味が分からないんだよ、このワガママ女っ!」
「ワガママはあんたでしょうが、この乱暴女っ!」
「なんだとっ!?」
「なんですってっ!?」
お互いを凄まじい形相で睨みつける私たち。
こうなるともう、子供の喧嘩と変わらない。どちらかが引くまで終わらぬ意地の張り合いだ。そして私たちは両方とも意地っ張りなので、最後まで負けを認めることなどありえない。
早い話、殺し合いなり何なりで物理的に決着を付けるしかない、ということだ。……まあ、いつも通りとも言うが。
私は挑発的に顎を跳ね上げると、壁の向こうの相手に向かって宣言した。
「ええ、貴方がその気ならもういいわ。スペルカードルールで決着をつけましょう」
「だから最初からそうしてるんだろうが……」
「うるさいわね、貴方の答えが納得いくものだったらわざと負けてあげるつもりだったのよっ!
でももう手加減なんてしてあげない、手段を選ばず勝ちに行ってやるわ!」
そして私は現在のスペルを放棄し、さらに一枚だけを残して残るカードをすべて捨てた。理由は単純、この一枚さえあればスペルカード戦で負けることはありえないからだ。
――これだけは使うつもりはなかった。けれど使ってやる。何が何でもこいつをやっつけてやらなきゃ気が済まない!
私は妹紅を睨みつけ、ラストワードを高らかに唱えた。
「行くわよ――金閣寺の一枚天井っ!」
華麗なる寺社の天井板を模した弾幕が、私の左右に出現する。それは文字通り巨大な障壁と化し、妹紅に向かって高速で飛んでいく。
妹紅があわてて飛び離れる。一旦距離をおいて隙を見つけようという腹だろう。だが、甘い。このスペルに隙など存在しない。
必死で天井板をかわす妹紅めがけ、私は両手から大量の弾丸を放った。
「なっ!?」
妹紅がさらに距離を離そうとする――が、もう遅い。連続で射出される天井板は周囲の空間すべてを狭めつくし、もはや放射状の弾幕から逃れる術はない。
「ちょ、それ――」
なにか文句を言いかけた妹紅の身体を、私の弾幕が直撃する。そのまま彼女は大きく吹っ飛ばされ、竹の一本に叩きつけられた。
ずるずると地面に滑り落ちる妹紅を眺めやり、私は一旦スペルを止める。
「ふふ。これで2対2、再びイーブンね。そしてこのまま3本目も私のもの。
悪いわね妹紅、この勝負の勝ちはもらっていくわよ」
「い、いや……ちょっと待て、そのスペル……」
「ふふふ、気づいた?」
私は余裕綽々で髪の毛をかきあげた。すると髪にこびりついた砂やら血やらがざらざらと指にまとわりついて一瞬うげっとなってしまったが、どうにか気合でスルーして余裕の表情を保つ。
帰ったらすぐにお風呂に入ろう――などと思いつつ、私は妹紅に解説を続ける。
「そう、このスペルには隙はない。愚かな求婚者を徹底的に拒絶するために編み出した攻略不可能の難題だもの。隙間はルールに違反しない程度にちょっぴり用意してあるけど、地上人はおろか月人にもそうは見切れぬ代物。
永琳からも、しつこい新聞記者を撃退するとき以外は絶対に使っちゃダメよ♪ と釘を刺されたほどの恐るべきスペルよ!」
「そんなもん持ち出してくるな阿呆ぉぉぉぉぉ!」
妹紅が全力でツッコミを入れてきたが、聞く耳など持たない。この戦いは絶対に負けられないのだ。
勝ってしまったら妹紅の誤解を解くのが余計に面倒くさくなるとか、そういう指摘は受け付けない。受け付けないったら受け付けないっ!
「さあ、さっさと立ち上がりなさい妹紅! これで止めを刺してあげるわっ!
ちなみにあらかじめ言っておくけど、そちらのスペルで相殺ってのは無理よ。1300年前の月の最新技術を流用した天井板は、地上のあらゆる穢れを弾き返す仕様になってるからっ!」
「くそっ、調子に乗って好き放題やりやがって……」
ぶっきらぼうに言い捨てて、妹紅が立ち上がる。ダメージは思いの外少なかったのか、動きに乱れは見られない。
こちらの切り札を見せつけられてもなおその闘志は衰えないのか、慌てる様子などまるでなく、静かに呼吸を整えている。
そして――その背に再び、あの炎が燃えさかる。
自らの友を守るために、力強く甦った不死鳥の翼が。
「……ああ、何でも使ってこいよ。何があろうと切り抜けられるよう、私はこの二週間、慧音たちと一緒に鍛え直してきたんだ。
地上人の努力と根性を舐めるなよ、月人」
「ふふふ……別に、舐めるつもりなんてないわ。完全に本気だからこそ、このスペルを使ったのよ。
さあ、いらっしゃい地上人っ!」
交わす言葉を号砲代わりに、私たちは同時に動く。
妹紅は小さく息を吐き出し――そしてそのまま、私めがけて駆け出す。
無論私は躊躇なく、中断していたスペルを彼女めがけて解き放った。
「これで終わりよ! 金閣寺の一枚天井ッ!」
高速で射出される巨大な壁と放射状の弾幕とが、同時に妹紅に襲いかかる。先ほどは抗うことさえできなかったそのコンビネーションを――
「ふっ!」
一息で、妹紅はするりとよけてみせた。
……なるほど、一度被弾しただけでもう見切ったということか。さすがね。
だが私は構わず次々と天井を生み出し、妹紅へ向けて解き放つ。両手から弾丸を撃ち出す。一瞬でも判断を誤れば即被弾となる凶悪な弾幕を――
「……ふっ!」
しかし妹紅は、華麗なステップでかわし続ける。鉄のように強靭な意志で冷静さを保ち、じりじりとこちらへと近づいてくる。
……そう、あの動きだ。
最小限の動きで、ぎりぎりのところで、するりするりと弾をよけてみせるあの身のこなし。かつての殺し合いの頃とは――被弾も負傷もお構いなく、私めがけて真正面から突っ込んできた彼女とはまるで違う。
あれこそが妹紅の特訓の成果。今日の彼女が私を終始圧倒し続けているのは、あの回避能力のおかげだ。
弾幕ごっこというよりはパズルゲームを解くように、わずかな隙間を最小限の動きで通り抜け、確実に一歩ずつ近づいてくる妹紅。避けられぬはずの弾幕をことごとく避けてみせる彼女を見つめて――私は内心でほくそ笑む。
ええ、それくらいはやってくれなきゃ困るわ。あんたは私のライバルなんだから!
私はごくわずかに天井板の射出間隔を緩めた。そうしてできた余分な霊力を、密かに己の内側に溜め込む。
今の妹紅は、遠くからの攻撃では仕留められそうもない。どんなに弾幕の密度を上げても確実にかわしてみせるだろう。
けれど、接近した状態からならば?
妹紅の力は天性のものではなく、修業によって身につけたもの。霊力も経験値も普通の人間とは桁違いに高いが、しかし身体能力そのものは普通の人間とさして変わらないのだ。いくら反射神経を研ぎ澄まそうとも限界はある。
ならば反応が間に合わないくらい近い距離で、相手の踏み込みに合わせて弾幕を放ってやればいい。脳の回避命令が間に合ったとしても、身体が動き出すころには弾丸が殺到する。空間や時間を操る妖怪ならばともかく、人間には決してかわせはしない。
充分に霊力を溜め込んだ私は、わざと弾幕の密度を下げてみせた。さらには撃ち疲れを装い、焦りを装い、相手の突進を誘い込む。
果たして妹紅は乗ってきた。地を蹴った彼女は一気に前傾姿勢となり、こちらめがけてまっすぐに飛び込んでくる。鳳凰の翼がはためき、速度を加速させる。
天井板の射出タイミングを完璧に見切ったその軌道は、見事の一言。もし私が本当に撃ち疲れていたのなら、彼女はスペルを無傷で突破してこちらを捉えていただろう。
でも、残念ね妹紅。やっぱり私の勝ちよ!
私はにやりと笑った。充分に相手を引きつけ、決して逃れようがないことを確信したその瞬間、自分も前に一歩踏みでる。可能な限りのありったけの霊力を両の手に集め、そして――
瞬間、妹紅がスペルカードをかざした。
「凱風快晴――」
「!?」
何をするつもりだ。先ほどの警告を聞いていなかったのか? このスペルの前に地上人のあらゆる反撃は無力だと言ったはず。私の前にたどり着くまで弾をよけ続ける以外に道はないというのに。
まあいい、あとはトドメを刺すだけだ。今更何をしようと無駄なあがきだと思い知らせてやるだけだ。
「さあ――仕上げよ!」
両手に集めた力を一気に解き放つ。回避も相殺も不可能な弾丸と化したそれは、前方180度を覆い尽くし――
「フジヤマヴォルケイノ!」
同時に妹紅が、自らのスペルを叩きつけた。
自分自身の足元に向けて。
妹紅の真下で小規模な爆発が生まれる。その衝撃をまともに受け、彼女の身体がバネじかけのように空中に飛び出した。
「な――!?」
私に知覚できたのはそこまでだった。あまりにも凄まじいスピードに意識が追いつかない。かろうじて判ったのは、妹紅が天狗をも上回るスピードで私の真上へすっ飛んで行ったこと――そして、私の弾幕がすべて綺麗にかわされたということだけ。
「…………っ!」
私は慌てて、首を上方にねじ曲げ――
そして見た。
自ら生み出した爆発で全身を傷だらけにした妹紅が、ぼろきれのように宙を舞いながら、
こちらをしっかと睨みつけ、ラストスペルを唱える光景を。
「パゼストバイ――フェニックスッ!」
――瞬間、鳳凰が羽ばたいた。
全身を燃え上がらせて炎の鳥と化した妹紅は、こちらめがけて一直線に舞い降り、私の身体を撃ち抜いたのだった。
目を覚ました私がまず見たのは、己の横に座り込み、荒く息をつく妹紅の姿だった。
服をあちこちぼろぼろにした彼女は、全身火傷と傷まみれだった。蓬莱の薬による再生がまだ始まっていないところを見ると、私が気絶していた時間はそう長くはなかったらしい。決着の瞬間との違いは、その背で燃え盛っていた業火が今は消え去っている点だけだ。
私もまた、胴体をしたたか打たれて激痛が走っていたが――どうにか苦笑することができた。
「ひどい有様ね、妹紅。私よりよっぽど傷だらけじゃない。勝者の姿とはとても思えないわ」
「……なんだ、もう起きたのか」
のろのろと顔を上げた妹紅が、億劫そうな表情を私に向ける。こちらの皮肉にも無反応なところを見ると、先ほどの自爆のダメージはよほど深かったらしい。
まあ、それはそうだ。フジヤマヴォルケイノを足元で爆発させるなど、自殺行為以外の何者でもない。いくら勝利のためとはいえ、あんな馬鹿げた戦法をとるなど、かつての妹紅ではありえなかった。
それほどの覚悟でもって、妹紅は私に打ち勝ってみせたのだ。自らの友人を守るために。
私は上半身を起こすと、宿敵に向かって肩をすくめてみせた。
「やれやれ……ここまでのものを見せられたら、いくらなんでも負けを認めざるを得ないわ。
貴方の勝ちよ、妹紅」
「……その言葉に二言はないだろうな?」
「ないわよ。私、貴方との約束は一度も破ったことはないでしょ?」
「何度かあるぞ」
ジト目でそうツッコんでは来たが、妹紅も一応こちらの敗北宣言を納得してくれたらしい。
彼女は痛みをこらえて立ち上がり、二人の立会人の方へと向き直った。
「聞いたか、永琳、慧音! 輝夜もいま負けを認めた。この決闘は私の勝ちだ!」
「そんなに大声を出さなくても聞こえてるわよ」
言いながら、永琳が私たちの方へと歩いてくる。勝負がついた時点で防音の術は解いていたのだろう、先ほどからの私たちの会話もきちんと聞いていたようだ。
その永琳に向かって、妹紅が指を突きつけた。
「なら、勝者の権利を使わせてもらう。人里の支配は諦めろ。おまえらが人里に仕掛けた罠を今すぐ撤去しろ!」
「……え?」
永琳が目を点にした。月の賢者とたたえられた頭脳も、さすがに今のセリフを瞬時に理解することは叶わなかったようだ。当たり前だが。
ついでに、永琳とともにやってきた慧音も、眉間にシワを寄せて考え込んでいる。
……あはははは。なんでしょうね、このやっちゃった感。
私が自虐的に笑っている間にも、妹紅は永琳に詰め寄っていた。どうも、相手がとぼけていると勘違いしたらしい。
「おまえらはスペルカードルールで負けたんだ。この幻想郷の理に従い、潔く異変を収拾しろ。そう言っているんだよっ!」
「異変……異変って、何の話なの?」
「いい加減にしろ、輝夜から話はすべて聞いてるんだ!
薬の商売を始めると偽って、妖怪兎たちに人里侵攻の準備をさせているんだろ!?
人の闘争本能を低下させる薬品とか人を従順にさせる薬とか、ヤバいもんをあちこちに仕掛けてるんだろ!」
「…………」
永琳の眉がぴくりと動く。さすがは我が従者、今ので事の真相をおおむね掴んだらしい。
彼女の瞳がこちらに向きかけたので、私はあわてて妹紅の腕にしがみついた。
「ね、ねえ妹紅、話を聞いて」
「なんだよ、邪魔するな! おまえもコイツに命令しろよ、ヤバい薬をさっさと撤去しろって!」
「あ、あのね、そのね」
必死に笑顔を浮かべる。月の都で幾度も褒めたたえられ、地上の貴族たちを何人も魅了した作り笑いだ。
宿敵に向かって最上級のスマイルを差し出しつつ、私は真相を解き明かした。
「あれぜんぶ、ウソなの」
「……は?」
妹紅がぴたりと止まる。
私はスマイルを保ったまま続ける。
「人里の支配とか妖怪兎の偵察とかヤバい薬とか、ぜーんぶウソ。永琳も私も地上人との対等な交流を願っているし、そうなるように話を進めているわ。異変を起こすって話は、スペルカードルールで負け続けの貴方を奮起させるための、他愛ないウソなの」
「…………」
妹紅の肩がわなわなと震え始める。
私はスマイルを大盤振る舞いしながら、てへっと舌を出した。
「ごめんね♪」
「ごめんで済むかぁぁぁぁーーーー!」
妹紅大爆発。私の胸ぐらを掴んで締め上げ、ありったけの音量で罵倒する。怒りのあまり、その背に鳳凰の炎まで甦っていた。わあ、これはまずい。
「お、お、お、おま、おまえ、何を考えてるんだよ本気でっ! 言っていい嘘と悪い嘘があるだろうがっ!?」
「だから謝ってるでしょ、私だってちょっとひどかったなーって反省してるんだから! それに、あのウソのお陰で私に勝てたんだから結果オーライじゃない!」
「開き直るなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!
こっ、この女ぁぁ……そこに直れ、サンドバック代わりにして一晩殴り抜いてやるっ!」
「ちょ、妹紅!? 殺し合いはもうやめたんじゃないの!?」
「うるさい、やっぱりおまえは許せない! 絶対に許さないっ! 覚悟しろっ!」
胸ぐらをつかんだまま、妹紅が右腕を振りかぶる。うう、痛そう……でもこれは私の自業自得、何発かは甘んじて受けるしかないか。
覚悟を決めた私が、ぎゅっと目をつぶった瞬間――今まで黙り込んでいた人間の声が響いた。
「やめろ、妹紅。もう決着はついたんだ、それ以上の暴力はいけない」
はっと目を開けてみれば、私と妹紅の間にあの先生が割り込んでいた。振りかぶった右手をしっかりと抑えて、妹紅の顔をのぞき込んでいる。
「スペルカードルールでは、決着後に相手に追い打ちをかけることは厳格に禁じられている。彼女を殴ってしまったら、先ほどの勝利も無意味になるぞ?」
「うるさい、あんな嘘をついたヤツを許しておけるか! その手を離せ慧音っ!」
「駄目だ」
慧音は頑として妹紅の前に立ちはだかり、決してその場をどこうとはしない。私より身長の低い彼女が、今は妹紅よりも大きく見える。
……これが、教師の威厳というヤツなのか。
妹紅に胸ぐらをつかまれたままの姿勢で、私は目の前の慧音の後ろ姿に見入る。
「君の怒りはわかる。だがな妹紅、怒りに身を任せて暴力を振るってしまえば、あの二週間の特訓の日々も無駄にしてしまう。君はそれでいいのか?」
「それは――けど!」
「それだけじゃない。せっかく協力してくれたチルノと大妖精の想いも無駄にしてしまうことになるぞ。私は君に、そんなことをして欲しくない」
慧音が持ち出したその名前は、妹紅の痛いところをついたらしい。彼女はぐっと言葉につまり、下を向いて苦悶している。
やがて妹紅が顔を上げる。しぶしぶといった体ではあるが、彼女は慧音にうなずいてみせた。
「……わかったよ。輝夜のことは許せない――けど、殴ることはやめる。それでいいんだろ、慧音」
そう言って、妹紅は私の胸ぐらから手を離す。ただしその直前に私をじろりと睨みつけることは忘れなかった。
無罪放免ではなく執行猶予――といったところか。判ってるわよ、反省してるってば。今後はもう二度と、深刻な誤解を招くような嘘は言わないから。
「ったく……本当におまえはお人好しだよな、慧音。あんなヤツを殴ることも許さないだなんてさ」
妹紅の怒りはまだ収まらないのか、友人に向けてぶつぶつと文句を言っている。対照的に慧音の方は上機嫌だ。友人の腕を握ったまま、にこにこと微笑んでいた。
「君の勝利にケチを付けたくなかっただけだ。
それと、これは個人的な話だが……私自身の喜びにもな」
「……ん? なんだそりゃ」
疑問符をあげる妹紅を、慧音はじっと見上げている。
後ろからなので詳しく観察することはできなかったが――教師はどうも、感動に打ち震えているようだ。
「なにしろ……誤解とはいえ、君が人里を守るために必死になってくれたのだから」
「え、いや、あれは」
「照れなくていい。妹紅……」
そして教師は、うっすらと涙を流し。
困惑する妹紅に両手を広げると――思い入れたっぷりに、がっしりと抱きしめたのだった。
「本当に――ありがとう……」
「いや、ちょっとっ!? 慧音!?」
「嬉しいよ、妹紅……。人里のために、あんなに努力してくれるなんて……」
「やめっ! 人前! 駄目っ!」
「とうとう君は、殺し合い以外のことに目的を見つけてくれたんだな……」
「大袈裟だからっ! その結論もこの感動の仕方も大袈裟だからっ! だから落ち着け!」
「私は、私は……君にどんな礼をすればいいのかもわからない……」
「なら今すぐ離れてくれっ! 恥ずかしいからっ! 頼むからっ!」
身長も体力も霊力も上のはずの妹紅が顔を真赤にして引き剥がそうとするが、喜びの涙にくれる教師は彼女の背中をしっかりと捕まえ、巌のように動かない。
なんというハグ、そしてなんという教師力。この世にこれよりも美しい光景があるだろうか。
感動の場面を目の当たりにして、もちろん私は大爆笑していた。ねじ切れそうになる腹を抱え、はしたなくも大声で笑い転げる。
「ひーひっひ、良かったじゃない妹紅! 慧音先生大喜びよ、貴方の努力はきちんと報われたわ♪」
「黙れ元凶っ! あとで絶対に仕返ししてやるから覚えとけっ!
それと慧音、お願いだからもう離して! 恥ずかしすぎて死ぬっ!」
「ぷは、あははは、もうダメ、笑いすぎて死んじゃうっ!
あーもう、この場面を見れただけでも、あんなウソをついた甲斐があったってものだわ」
そんな感想を漏らした、その直後。
私は一瞬で凍りつく羽目になった。
「そうですか。それはよかったですねぇ、姫様ぁ?」
――あ。
忘れてた。
忘れてたし、できれば思い出したくなかった。
忘れたままの状態を永遠の魔法で維持すれば誤魔化せないかな。無理かな。
現実逃避の思考を脳裏にめぐらせつつ、私はゆっくりと後ろを振り向く。
果たしてそこには――私の従者から私の鬼教官へと変貌を遂げた、月の賢人が立っていた。
指をボキボキ鳴らしながら。
「かぁ~ぐ~やぁ~~? 覚悟はできてるわよねぇぇ~?」
「ひああああああ!? で、できてない! できてないから手加減して永琳っ!」
「駄目よぉ~。そのお願いは聞いてあげられないぃ~。
さあ帰りましょう輝夜ぁ。お仕置きの時間はもう目の前にあるわぁぁぁ!」
「きゃあああああ! た、助けて妹紅!」
藁にもすがる思いで宿敵へと手を伸ばしてみるも、向こうは向こうですでに慧音先生のベアハッグの餌食となっている。恥ずかしさのあまり気絶一歩手前まで追い込まれ、完全にグロッキーだ。
やはりダメか……絶望に落ち込みかけたところで、妹紅がぴくりと動いた。ちらりとこちらを見るや、最後の力を振り絞ってアイコンタクトを送ってくる。
――地獄で会おうぜ、宿敵。
私はそっと目を伏せ、小さな声でつぶやいた。
「ええ……地獄で会いましょう、強敵」
「別れの挨拶は終わったわね。じゃあさっさと帰宅しましょう姫様」
「ちょ、ちょっと待って! いまなんとなく妹紅と共感できたの! あとちょっとで300年の因縁に終止符を打てそうなのっ! だからもう少しだけ時間をちょうだい永琳っ!」
「駄ぁ目ぇ。待ってられないわぁ。現在の月の最新技術を流用したシゴキ道具の数々を、今日一日で全部貴方に味あわせてあげないといけないからぁ」
「ぎゃあああああ!」
自業自得の悲鳴を上げながら、私はずるずると永琳に引きずられていったのであった。
――教訓。
出来心でウソをついてしまったときは、すぐに周囲に謝りましょう。
「ふう……ひどい目にあったわ」
決闘の日の夜。
やっとのことで永琳のお仕置きから解放された私は、永遠亭の縁側に座っていた。
空には綺麗なお月様。昨日も今日も明日も同じように、東から上って西へと沈む私の故郷。されどもう、あの地に未練は感じない。きっとあの地の人々も、私のことなど覚えてはいないだろう。私とあの地との繋がりは、ほとんど完全になくなったと言える。
「てゐー、てゐー、どこに行ったのー? もう、手伝いを頼もうと思ったのに……」
廊下の向こうから、鈴仙の声が聞こえてくる。月の都から逃げ出してきた彼女も、もうあの場所に帰るつもりはないだろう。永琳だってきっとそうだ。この屋敷に住まう月人と月兎は、ずっとこの地で生きていくことを決めてしまったのだ。
――そう。たとえこれから、何が起こったとしても。
私は視線を月から外し、竹林へと向けた。見えるのはほの暗い木々ばかりだが、それをまっすぐ突っ切っていけば妹紅の家がある。さらに進んでいけば、地上人たちの住まう里がある。
妹紅との戦いは新たな局面を迎えた。彼女は殺し合いを止め、そして新たな力を得た。いったい彼女はこの先、どのように変わっていくのだろうか。どのように強くなっていくのだろうか。
人里との交流もいよいよ始まる。あの地に住む人々は、いったいどんな穢れを私に見せてくれるだろうか。いったいどんな魂の輝きを見せてくれるだろうか。
「ふふ……。本当、退屈する暇なんて無さそうね。
それどころか、のんびりと構えているわけには行かなくなったわ」
なにしろ彼女らはどんどん変わっていく。ぼやぼやしていれば、置いていかれるのはこちらだ。対等であろうとするなら、私も彼女らの一歩先を歩き続けなければいけない。
私は立ち上がり、自分の寝室へと歩き出す。そろそろ眠りにつかなければ、また永琳を怒らせてしまうだろう。
そうして自室に入る前、一度だけ後ろを振り返った。
視線の先にいる人々に、自らの口で宣戦布告する。
「見てなさい妹紅、そして慧音。
私だって変わっていけるのよ。貴方たちにも、いずれそれを証明してあげる。
――私はね、貴方たちの永遠のライバルで在り続けてやるんだから」
年も終わろうかという師走の頃、幻想郷の人里で小さな変化が起こった。薬置きというやり方で、妖怪兎たちが薬売りの販売を始めたのだ。
その特異な販売方法に、最初は気味悪がる住人たちも多かった。しかし里長をはじめとした有力者たちが妖怪兎の活動を許容したこと、そして薬の効き目が抜群であったことから、すぐにこの変わった商売は受け入れられ、好評を博すことになる。
了
テンションの落差を描くのにマッチしてメチャクチャ安心しながら読み終えてしまいました。
テーマが繰り返して歌われるのも個人的にものすごく好きです。妹紅は慧音にずっと羞恥プレイされながら末永く過ごすといいよ!!
かぐもこ好きとしてはさらにクリティカルヒットでした。
個人的にはDIO様入ってるてゐもツボでした。
>永琳からも、しつこい新聞記者を撃退するとき以外は絶対に使っちゃダメよ♪
新聞記者とは一枚天井クラスの脅威なんですかww
それとも永琳もマスコミ嫌いなんでしょうか?
不満を言えば、チルノと大ちゃんvs妹紅も描いてくれたらさらに良かった
あと永琳の姫様おしおきもww
表現上の疑問点
>一石で何石も落とせる
何鳥(一石二鳥からの類推)の方がよろしいのでは?
妹紅とのやり取りになった途端感情むき出しになってしまう輝夜姫
とても人間味に溢れてて魅力的でした
常に素直な妹紅始め、登場人物の言動に優しさがにじみ出てて
心地良い読了感を与えているのだと思います
スペルカードバトルも読み応えがあってまた良し。素晴らしい作品ありがとうございました!
だがどうしても聞きたいので失礼して質問いたします。
もしかしてフス派といって思い当たることはありませんか?
……だったらいいなぁ
あとてゐの声が何故かこなた声で再生されましたが耳鼻科に行くべきですか
あっと言う間に読んでしまいました
これはもっと評価されるべき!
どさくさに紛れて何を!?「ウチの」!?
>ひーっひっひ
下品です姫様!