いなくなった。
みんないなくなった。
私も、いなくなるんだろう。
◆ ◆ ◆
実はこれって懐中時計じゃなくて、ルーレットなんですよ。
円盤の上、カチリカチリと、時を刻む針を見せつけて。
内緒ですよと、あのメイドはいつだったか、なぜか得意げに言ったもんだ。
あいつは私と顔を隣り合わせて、肩を抱いて。子供みたいに、悪戯っぽく笑って。
私達は、姉にわざと背を向けるみたいにしていた。二人だけの内緒話をしていた。姉はそんなの気にならないっていうみたいに、しばらく私達を放っておく。だけど、やっぱり気になるのだ。そのうちそわそわし始めて、背中の両翼をぱたぱた動かし始める。あいつの「さ」の字を口にしかける。私の「ふ」の字を口にすることはなかったから、たぶん姉は、私をあいつにとられることじゃなく、あいつを私にとられることを気にしていた。
私はどうだったんだろう。そのときの私は、たしか嬉しかった。ついつい笑みを漏らしそうだった。そのときの私は、何が嬉しかったんだろう。
姉の隣に、誰もいなくなったことだろうか。
あいつが隣にいたことだろうか。
あのころの私は『私』がよくわからないままで、きっと好きなように過ごしていたんだろうけど、『好き』の範囲がすごく狭かった。周りのことだとか世界のことだとかわかる必要が無かったのは、姉とあいつの仕業だった。私は閉じられた世界で自由に生きていて、いびつな羽は捻くれた世界を飛び回るのにじゅうぶんな翼だった。
いまはもう、むかしの話だ。
幼くゆがんだ、広い館のどこにでも行けた翼は、ただ宝石をきらめかせるだけの飾りになった。あんなにもねじまがった、素敵な迷路みたいな場所は、もうどこにもない。
これはですね、ルーレットなんです。くるくるって回して、出た目に従うんです。
目には、アタリとハズレがあるんですよ。アタリが出たら、時の魔法が使えます。
ほとんどはアタリなんですけど、たまに、ほんとうにたまーに、ハズレてしまうこともあるんです。
姉は、あいつが完全なメイドだと、信じていたんだと思う。
私は姉のことが、他の誰よりも、一番よくわからなかった。だって姉は、私に弱みを見せようとしなかった。弱みと言うより、本音だとか、いろいろな思惑だとか、心の中すべてを隠そうとしていたんじゃないかと思う。私も同じだ。そしてそれというのもきっと、あの不完全なメイドのせいだった。
姉は、あいつに寄っかかっていた。おそらく姉は、あいつに弱みを見せていた。だけど、どうやらあいつときたら、姉に弱みを見せたりしなかった。姉が、あいつに一方的に寄っかかっていた。
だってあいつは、内緒ですよと言ったのだ。
ハズレが出たら、魔法は失敗です。
時の魔法なんて便利なものを使っていたツケが、ぜんぶ返ってきます。
どこか冗談めいた、子供に聞かせるみたいな声色だったけど。
それは真実だった。姉には聞かせなかったのだと思う。私にだけ聞かせたのだと思う。
だから、ねえ、
妹様。
……あいつは、たぶん。
私に寄りかかろうとしていた。
◆ ◆ ◆
結局あいつが何を考えてそんなことをしていたかは、私にはわからない。わかるわけがない。悪魔に仕えるような狂った人間の考えなんて。今の私はただのまともな吸血鬼だし、当時の私は単にまともじゃないってだけの吸血鬼だった。
あいつだって姉に寄りかかればよかったじゃないかと今となっては思うけれど、そもそも私は、あいつが姉に仕えるようになった経緯すら知らない。もちろんあいつの過去も。そうしなかった理由が何かあったのだろうか、それすらも。ともかくあいつの深いところは何も知らないから、あいつのことなんて、起こった事実から推測しかできないのだ。
◆ ◆ ◆
姉は、ときたまあいつにキスをせがんだ。
身長差のある相手。姉が宙に浮いて、なんて無粋なことはしない。二人の間で通じる何かがあったのかもしれない。姉は何も言わなかったけれど、あいつは姉のことをすべてわかってるみたいに、その眼前にひざまずく。するとだいたい、目線が同じ高さになる。姉は当たり前のようにあいつに顔を近づける。そのまま両手でしっかりあいつの身体を包み込んで、しばらく放そうとしない。それが姉と、あいつとのキスだった。
あいつはというと、ときたま私にキスをせがんだ。
いや、せがんでいたとは言えないんだろう。あいつは、地下の私の部屋に突然やってくるのだった。私の前にいきなり現れて、前触れもなく、抵抗も許さず(当時の私は、それに抵抗する意味すら見出せなかったから、されるがままだったけれど)。あいつは私の前にひざまずいて、同じ高さになって、唇を押し付けるのだ。私の細い身体をへし折ってしまおうというくらいに力をこめて、抱き締めて。
何度か経験したころには、あいつが私にキスをしようとしているときが、なんとなくわかるようになってきていたけど。姉とあいつのようにはできていなかったのだと思う。
だってあの二人は、ほんとうに前触れもなく唇を合わせていたのだ。
人がいるだとか、場の雰囲気だとか、そんなのおかまいなしに。私のは違った。いつも二人きりだった。誰もいない場所で、誰にも見られないようにして、あいつはいつもは静かに現れて、静かに消えた。
あいつが私にキスしようとしていることがわかったとしても、それはたぶん、姉とのように心を通じ合わせているとかそんなんじゃなく、二人きりだとかそういう条件が整ったから、パブロフの犬みたいに反射的にそれを感じているだけだったんだと思う。
そんな時間が、どれだけ続いていたのかはわからない。あいつと違って、私に時間の感覚はあまりなかった。
その日私は、とても機嫌が悪かった。その日の少し前に、それなりに面白がって慕っていた森の魔法使いが死んだのだ。死に目には会った。会ったけれど、私は魔法使いの隣にはいなかった。隣には人形遣いがいた。
お疲れ様と言って、人形遣いは、ベッドに横になったしわしわの魔法使いに、そっとくちづけをした。くちびるを離すと、魔法使いも人形遣いも、おかしそうに笑った。
私が憶えている魔法使いの記憶は、それで最後だ。
二人のくちづけを見てから、私はずっと、あいつと姉のことを考えていた。私の知っているキスは二つだけだった。姉とあいつの。あいつと、私の。その二つに正しさも間違いもなかったはずなのに、私はそのとき、予感してしまった。気づいてしまった。そういうふうに、理解してしまった。
だって私には、そのくちづけが、すごく正しいものに思えたのだ。それを欲してしまったのだ。それを、私だけが手に入れられてないことに、気づいてしまったのだ。
館に帰ってからも、自室でひとりきり、ずっと考えていた。なんで私だけ。
そのうちに、いつものように、あいつが来た。いつものように、私の前にひざまずいた。いつものように、私だけが違うのだと知った。
それが気に入らなくて。もやもやして、ぐるぐるして、満足できなくて、納得できなくて、
私は一度だけ、あいつを拒絶した。
尻餅をついたあいつが目をぱちくりさせているのだけが見えた。私があいつを押し返したのだと気づいたときには、すでにあいつはいなくなっていた。
それからというもの、あいつが私にキスをしようとすることはなくなった。話をしようとしてみても、できなかった。相変わらず姉はあいつにキスをして、あいつはそれに従っていた。私のところに来ることだけがなくなった。
少しして、あいつはハズレを引いた。
時空操作は見た目よりはるかに高度で繊細で危険な術式で、涼しい顔でこなす方が異常だったのだと。おそらく彼女は、精神を乱した状態で術を使おうとし、操作を誤ったのだろうと。図書館の魔女が冷めた顔で言っていた。
肉片一つ。髪の毛一本。服の切れ端すらも残らなかった。
まるで元からいなかったみたいに、紅魔館のメイド長は消えた。たぶんもう戻ってこない。
◆ ◆ ◆
あいつの使う時の魔法はとてもとても便利なもので、私が思う以上に、館の誰もがその恩恵を受けていた。
だから、そんな便利なものを使っていたツケが返ってくるのも当然、あいつだけじゃなくて。
特に、姉は。あいつの魔法の連帯保証人だったみたいに、これでもかってくらいにツケを払うことになったみたいだ。
あいつがいなくなってからというもの、意気消沈して、見るからに無気力になった姉は、そのままゆるやかに死の道を歩んだ。その気があれば永劫に近い時間を生きただろう吸血鬼は、その気がなくては人間より長く生きることすらできなかった。
館のかたちを保っていたのは、メイド長であるように見えていたけれど、どうやら館の主でもあった。物理的とか精神的とかじゃなく、紅い魔の館は、もっと概念的なところで姉の力に拠っていた。
館は、こわれ始めた。いくらかはメイド長のせいだった。拡張されていた空間が元に戻って、いろんなところにひずみを生じさせた。けれどそんなのはしょせん物理的なもので、やっぱりだいたい姉のせいで、はらり、はらりと、館をかたちづくっていたものが一枚一枚剥がれるようにして、なくなっていった。
◆ ◆ ◆
あいつが消えて、しばらくしていなくなった魔女。彼女のことも結局よくわからないままだった。
図書館の空間も、あいつ任せで無計画に広げられていたはずだった。本来なら、あいつが消えた時点で空間が不自然に圧縮されて、図書館も中の本もめちゃくちゃになっていたはずだ。姉が消えた時点で、たぶん図書館の本は一冊一冊、忘れられるように、神隠しに遭ったかのように、なくなっていくはずだったと思う。
そうならずに図書館が、図書館だけがまともに保っていたのは、やはり彼女が何かやっていたからなんだろう。ただ、私の知るかぎりでも、それは彼女にとっては畑違いの仕事だったはずだ。彼女はおおよそなんでもできる魔女だったけれど、やっぱり得意不得意はある。
図書館だけは、だから、ほんのしばらく、止まった時間の中にあった。
「悪いけれど」
だけど、あるとき。ついに彼女は言った。
「私の友人はもうとっくに死んだみたいだし、便利なメイドもいなくなったし。この図書館も延命してきたけどさすがにもう死ぬから、」
たしか、私は笑んでいた。静かな納得と、少しの喜びがあった。
「私がここに在ることはもうできない。さよなら、妹様」
こうなるだろうと思っていた。こうするだろうと思っていた。私の知っている彼女。私の思う彼女。あいつと姉がいなくなって、真っ白でがらんとした私の世界の中で、色を持って立っていたひとり。彼女のことをちゃんと知れていたのだと思うと、胸が弾んだ。
「悪いと思うなら、残ってくれてもいいんじゃない? 私のために、とか」
ほとんど冗談で口に出していた。こんなので彼女の気持ちが変わるはずないとわかっていた。
「残れたところで何もないし。あなたへの義理は、まあ、あなたがやんちゃだった頃に家庭教師をさんざ苦労させてもらったし」
「懐かしいなあ」
「忌まわしい記憶よ……」
その翌日。図書館があったところにはきれいさっぱり何も無くて、もちろん彼女の姿も無かった。
今にして思うと、なかなかロクでもない姉とメイドの元で育ったものだと思う。せっかく私がまともに『外』を見始めた頃だったのに、姉は基本的にはメイドしか見ていなかったし、メイドはおそらく私をまともには見ていなかった。
その点、本以外のすべてを平等に、だけどどこか相手を認めて扱う彼女は、意外なほどの温かみをくれた。たしかに彼女の手は暖かいとは言いがたいものだったかもしれないけど、それまで私の手はもっともっと冷たかったのだ。妹様としか呼んでくれなかったのは残念だったけれど、どうせ妹様だろうと何か別の愛称だろうと、彼女の態度は変わらなかったと思う。
彼女はいま何をしているんだろうと、たまに思うことがある。
どこかで、以前のようにひたすら本を読み続けているか。
あるいは、ちょっとした予感。
ひょっとして、彼女はもう。
あの長い時を過ごした、図書館と共に。
……いや。
これは私の願望でしかない。
それに。仮にそうなのだとしたら、きっとそれは感傷が彼女を狂わせたのであり……きっと悲しむべきことなんだろう。
◆ ◆ ◆
門番をさっさとクビにしなかったのは、かつての主の妹であり、その権限を持っていたはずである私の、最大の失敗だった。
笑顔を絶やさない、人当たりの良い妙ちきりんな妖怪。
のらりくらりと、仕事らしい仕事もせず適当に過ごしていたようにも見える彼女。だけど、館の皆には……認められていた、とかいうよりも、そこにいることを『疑われようがなかった』のだと思う。当たり前のように、じゃなく。当たり前に、彼女は館の門の前にいた。私は実際に見たことはないけれど、普段のイメージとは裏腹に、外敵に対しては真っ先に出て行って立ち向かっていたらしい。
だから、ああやっていろんなものがなくなっていったのが外からの敵によるものだったなら、きっと、紅魔館は大丈夫だったと思うけれど。
そうじゃなかったから。
姉と、あいつと。
……たぶん、少しだけ私の問題だったから。
彼女は何もできなくて。門の前から、なくなっていく紅魔館を、見ていることしかできなくて。
そんなままで、けっきょく彼女を最後まで繋ぎとめてしまった。それは私のエゴだったんだろう。彼女はこのままあの場所に立たせていては、だめになってしまう。私達と一緒に、はらり、はらりと崩れていってしまう。わかっていたはずだった。けど、彼女もまた、私の世界に色を持って立っていたひとりだったから。彼女を手放したら、もう誰もいなくなってしまうとわかっていたから。
そうして、最期まで繋ぎとめてしまった。
知っていたはずなのに。妖怪なんて、精神が折れたなら、人間なんかよりよほど簡単に死ぬんだって。
彼女の身体にはところどころ皹が入って。私の声も、だんだん聞こえなくなって。指の先から、静かに、砂のようになって、崩れ落ちていった。
かつて門番だった塵の塊を、ぼんやり眺めながら。
姉なら、どうしたんだろうと。
そんなふうに姉のことを思ったのは、初めてだった。初めてだったけど、簡単にイメージできた。それはかつての姉だった。姉はせいいっぱいかっこつけて、なんでもないことみたいに、門番に暇を出す。門番は喰い下がるけど、問答無用だ。むしろ叩き出すくらいだ。ぼっこぼこにして、遠くにぶん投げてしまう。吸血鬼の力だ、森か人里か神社か、まあだいたいどこにでも投げ飛ばしてやれる。
悲鳴を上げて門番は吹っ飛んでいって、一仕事終えた姉は息をつく。悲鳴が小さくなって、やがて聞こえなくなる。静寂。残るのは、誰もいない場所。崩れ壊れた館。
そうして姉は、ひとりになるのだ。
◆ ◆ ◆
──それ以来。
どうにも、姉のことを思い出すのが多くなった。
今はもう、ほとんどいっつも、姉の幻像と一緒に過ごしている。
紅魔館の瓦礫の中。ただ一つ残ったのは、私の部屋。長く過ごした地下室。そこで日の光をしのぎながら、昔のように、生きていた。
ひとりになる、姉。
私も、ひとり。
でも、違う。
なんだか私は、ひどくみじめだ。
私がイメージする姉は、門番を追い出すのにもぜんぜん後悔していなかったし、ひとりになっても、館や従者や友人をなくしても、余裕を持って、誇り高く生きていて。
日傘をさして。神社や人里に散歩に行ったり。なんだかよくわからないけど人間に慕われてて、そうしようと思えば人里で暮らすこともできるだろうに、その誘いには黙って首を振って、またひとり。
瓦礫が積み重なっただけの場所に。
紅魔館に、戻るのだ。
「……はは」
笑えてくる。
実際、そんなかっこいいわけがないじゃないか。
なんで姉のことを、こんなふうに思うんだろう。空想だから?
……ああ。そうだ。
これは私の空想。
都合のいい、まぼろし。
まぼろし、だから。
私は目を閉じた。
一瞬、光が閉ざされて。
まぶたの裏に、また、まぼろしがよみがえる。
こんどのまぼろしは、まぼろしだから、誰もがいる。
この狭い地下室に、みんなが、いる。
私が死なせた門番が、懐かしい笑みを浮かべている。
いなくなってしまった魔女が、いつものように本を読んでいる。
結局うまく付き合えなかった人間と、
そして、お姉様、が。
夢のようなまぼろし。
ここにいると、気持ちが安らかになる。
ここにいるとき、身体の崩壊が進んでいくのには気づいている。
大切なものをなくした妖怪が、力を弱めて、倒れていくのだとしたら。
この夢の中で、私が壊れていくのも。きっと、そういうことなんだろう。
ずいぶんいろんなものが、遅すぎたのかもしれないけど。
……すべては。
私の手が届くか届かないかというところにあった。姉も、あいつも。ドミノの倒れ始め。何かが一つ違っていれば、私の何かが間に合っていれば、たぶん、どうにかできていた。
おそらく二人は、二人こそが扉だった。その先には、もう少し広い世界もあったはずだった。
だけど今は、すべて失われた。
二度と取り返せない。
その先には、今みたいにひとりじゃない、別の私もいたのかもしれない。
この夢の中にいるような、そんな、私が。
はらり、はらりと、自分をかたちづくるものが零れ落ちていく感覚。
指先と肩に、砂のような感触。肩に落ちて溜まるのは、私の髪の毛だったものだろうか。
大切なものを、失くしたからじゃなく。
失くしたものが、大切だったのだと知れたから。
その死に方を。
私は、幸せだろうと信じることにしている。
いなくなった。
みんないなくなった。
私も、いなくなるんだろう。
いなくなることが、できるんだろう。
みんないなくなった。
私も、いなくなるんだろう。
◆ ◆ ◆
実はこれって懐中時計じゃなくて、ルーレットなんですよ。
円盤の上、カチリカチリと、時を刻む針を見せつけて。
内緒ですよと、あのメイドはいつだったか、なぜか得意げに言ったもんだ。
あいつは私と顔を隣り合わせて、肩を抱いて。子供みたいに、悪戯っぽく笑って。
私達は、姉にわざと背を向けるみたいにしていた。二人だけの内緒話をしていた。姉はそんなの気にならないっていうみたいに、しばらく私達を放っておく。だけど、やっぱり気になるのだ。そのうちそわそわし始めて、背中の両翼をぱたぱた動かし始める。あいつの「さ」の字を口にしかける。私の「ふ」の字を口にすることはなかったから、たぶん姉は、私をあいつにとられることじゃなく、あいつを私にとられることを気にしていた。
私はどうだったんだろう。そのときの私は、たしか嬉しかった。ついつい笑みを漏らしそうだった。そのときの私は、何が嬉しかったんだろう。
姉の隣に、誰もいなくなったことだろうか。
あいつが隣にいたことだろうか。
あのころの私は『私』がよくわからないままで、きっと好きなように過ごしていたんだろうけど、『好き』の範囲がすごく狭かった。周りのことだとか世界のことだとかわかる必要が無かったのは、姉とあいつの仕業だった。私は閉じられた世界で自由に生きていて、いびつな羽は捻くれた世界を飛び回るのにじゅうぶんな翼だった。
いまはもう、むかしの話だ。
幼くゆがんだ、広い館のどこにでも行けた翼は、ただ宝石をきらめかせるだけの飾りになった。あんなにもねじまがった、素敵な迷路みたいな場所は、もうどこにもない。
これはですね、ルーレットなんです。くるくるって回して、出た目に従うんです。
目には、アタリとハズレがあるんですよ。アタリが出たら、時の魔法が使えます。
ほとんどはアタリなんですけど、たまに、ほんとうにたまーに、ハズレてしまうこともあるんです。
姉は、あいつが完全なメイドだと、信じていたんだと思う。
私は姉のことが、他の誰よりも、一番よくわからなかった。だって姉は、私に弱みを見せようとしなかった。弱みと言うより、本音だとか、いろいろな思惑だとか、心の中すべてを隠そうとしていたんじゃないかと思う。私も同じだ。そしてそれというのもきっと、あの不完全なメイドのせいだった。
姉は、あいつに寄っかかっていた。おそらく姉は、あいつに弱みを見せていた。だけど、どうやらあいつときたら、姉に弱みを見せたりしなかった。姉が、あいつに一方的に寄っかかっていた。
だってあいつは、内緒ですよと言ったのだ。
ハズレが出たら、魔法は失敗です。
時の魔法なんて便利なものを使っていたツケが、ぜんぶ返ってきます。
どこか冗談めいた、子供に聞かせるみたいな声色だったけど。
それは真実だった。姉には聞かせなかったのだと思う。私にだけ聞かせたのだと思う。
だから、ねえ、
妹様。
……あいつは、たぶん。
私に寄りかかろうとしていた。
◆ ◆ ◆
結局あいつが何を考えてそんなことをしていたかは、私にはわからない。わかるわけがない。悪魔に仕えるような狂った人間の考えなんて。今の私はただのまともな吸血鬼だし、当時の私は単にまともじゃないってだけの吸血鬼だった。
あいつだって姉に寄りかかればよかったじゃないかと今となっては思うけれど、そもそも私は、あいつが姉に仕えるようになった経緯すら知らない。もちろんあいつの過去も。そうしなかった理由が何かあったのだろうか、それすらも。ともかくあいつの深いところは何も知らないから、あいつのことなんて、起こった事実から推測しかできないのだ。
◆ ◆ ◆
姉は、ときたまあいつにキスをせがんだ。
身長差のある相手。姉が宙に浮いて、なんて無粋なことはしない。二人の間で通じる何かがあったのかもしれない。姉は何も言わなかったけれど、あいつは姉のことをすべてわかってるみたいに、その眼前にひざまずく。するとだいたい、目線が同じ高さになる。姉は当たり前のようにあいつに顔を近づける。そのまま両手でしっかりあいつの身体を包み込んで、しばらく放そうとしない。それが姉と、あいつとのキスだった。
あいつはというと、ときたま私にキスをせがんだ。
いや、せがんでいたとは言えないんだろう。あいつは、地下の私の部屋に突然やってくるのだった。私の前にいきなり現れて、前触れもなく、抵抗も許さず(当時の私は、それに抵抗する意味すら見出せなかったから、されるがままだったけれど)。あいつは私の前にひざまずいて、同じ高さになって、唇を押し付けるのだ。私の細い身体をへし折ってしまおうというくらいに力をこめて、抱き締めて。
何度か経験したころには、あいつが私にキスをしようとしているときが、なんとなくわかるようになってきていたけど。姉とあいつのようにはできていなかったのだと思う。
だってあの二人は、ほんとうに前触れもなく唇を合わせていたのだ。
人がいるだとか、場の雰囲気だとか、そんなのおかまいなしに。私のは違った。いつも二人きりだった。誰もいない場所で、誰にも見られないようにして、あいつはいつもは静かに現れて、静かに消えた。
あいつが私にキスしようとしていることがわかったとしても、それはたぶん、姉とのように心を通じ合わせているとかそんなんじゃなく、二人きりだとかそういう条件が整ったから、パブロフの犬みたいに反射的にそれを感じているだけだったんだと思う。
そんな時間が、どれだけ続いていたのかはわからない。あいつと違って、私に時間の感覚はあまりなかった。
その日私は、とても機嫌が悪かった。その日の少し前に、それなりに面白がって慕っていた森の魔法使いが死んだのだ。死に目には会った。会ったけれど、私は魔法使いの隣にはいなかった。隣には人形遣いがいた。
お疲れ様と言って、人形遣いは、ベッドに横になったしわしわの魔法使いに、そっとくちづけをした。くちびるを離すと、魔法使いも人形遣いも、おかしそうに笑った。
私が憶えている魔法使いの記憶は、それで最後だ。
二人のくちづけを見てから、私はずっと、あいつと姉のことを考えていた。私の知っているキスは二つだけだった。姉とあいつの。あいつと、私の。その二つに正しさも間違いもなかったはずなのに、私はそのとき、予感してしまった。気づいてしまった。そういうふうに、理解してしまった。
だって私には、そのくちづけが、すごく正しいものに思えたのだ。それを欲してしまったのだ。それを、私だけが手に入れられてないことに、気づいてしまったのだ。
館に帰ってからも、自室でひとりきり、ずっと考えていた。なんで私だけ。
そのうちに、いつものように、あいつが来た。いつものように、私の前にひざまずいた。いつものように、私だけが違うのだと知った。
それが気に入らなくて。もやもやして、ぐるぐるして、満足できなくて、納得できなくて、
私は一度だけ、あいつを拒絶した。
尻餅をついたあいつが目をぱちくりさせているのだけが見えた。私があいつを押し返したのだと気づいたときには、すでにあいつはいなくなっていた。
それからというもの、あいつが私にキスをしようとすることはなくなった。話をしようとしてみても、できなかった。相変わらず姉はあいつにキスをして、あいつはそれに従っていた。私のところに来ることだけがなくなった。
少しして、あいつはハズレを引いた。
時空操作は見た目よりはるかに高度で繊細で危険な術式で、涼しい顔でこなす方が異常だったのだと。おそらく彼女は、精神を乱した状態で術を使おうとし、操作を誤ったのだろうと。図書館の魔女が冷めた顔で言っていた。
肉片一つ。髪の毛一本。服の切れ端すらも残らなかった。
まるで元からいなかったみたいに、紅魔館のメイド長は消えた。たぶんもう戻ってこない。
◆ ◆ ◆
あいつの使う時の魔法はとてもとても便利なもので、私が思う以上に、館の誰もがその恩恵を受けていた。
だから、そんな便利なものを使っていたツケが返ってくるのも当然、あいつだけじゃなくて。
特に、姉は。あいつの魔法の連帯保証人だったみたいに、これでもかってくらいにツケを払うことになったみたいだ。
あいつがいなくなってからというもの、意気消沈して、見るからに無気力になった姉は、そのままゆるやかに死の道を歩んだ。その気があれば永劫に近い時間を生きただろう吸血鬼は、その気がなくては人間より長く生きることすらできなかった。
館のかたちを保っていたのは、メイド長であるように見えていたけれど、どうやら館の主でもあった。物理的とか精神的とかじゃなく、紅い魔の館は、もっと概念的なところで姉の力に拠っていた。
館は、こわれ始めた。いくらかはメイド長のせいだった。拡張されていた空間が元に戻って、いろんなところにひずみを生じさせた。けれどそんなのはしょせん物理的なもので、やっぱりだいたい姉のせいで、はらり、はらりと、館をかたちづくっていたものが一枚一枚剥がれるようにして、なくなっていった。
◆ ◆ ◆
あいつが消えて、しばらくしていなくなった魔女。彼女のことも結局よくわからないままだった。
図書館の空間も、あいつ任せで無計画に広げられていたはずだった。本来なら、あいつが消えた時点で空間が不自然に圧縮されて、図書館も中の本もめちゃくちゃになっていたはずだ。姉が消えた時点で、たぶん図書館の本は一冊一冊、忘れられるように、神隠しに遭ったかのように、なくなっていくはずだったと思う。
そうならずに図書館が、図書館だけがまともに保っていたのは、やはり彼女が何かやっていたからなんだろう。ただ、私の知るかぎりでも、それは彼女にとっては畑違いの仕事だったはずだ。彼女はおおよそなんでもできる魔女だったけれど、やっぱり得意不得意はある。
図書館だけは、だから、ほんのしばらく、止まった時間の中にあった。
「悪いけれど」
だけど、あるとき。ついに彼女は言った。
「私の友人はもうとっくに死んだみたいだし、便利なメイドもいなくなったし。この図書館も延命してきたけどさすがにもう死ぬから、」
たしか、私は笑んでいた。静かな納得と、少しの喜びがあった。
「私がここに在ることはもうできない。さよなら、妹様」
こうなるだろうと思っていた。こうするだろうと思っていた。私の知っている彼女。私の思う彼女。あいつと姉がいなくなって、真っ白でがらんとした私の世界の中で、色を持って立っていたひとり。彼女のことをちゃんと知れていたのだと思うと、胸が弾んだ。
「悪いと思うなら、残ってくれてもいいんじゃない? 私のために、とか」
ほとんど冗談で口に出していた。こんなので彼女の気持ちが変わるはずないとわかっていた。
「残れたところで何もないし。あなたへの義理は、まあ、あなたがやんちゃだった頃に家庭教師をさんざ苦労させてもらったし」
「懐かしいなあ」
「忌まわしい記憶よ……」
その翌日。図書館があったところにはきれいさっぱり何も無くて、もちろん彼女の姿も無かった。
今にして思うと、なかなかロクでもない姉とメイドの元で育ったものだと思う。せっかく私がまともに『外』を見始めた頃だったのに、姉は基本的にはメイドしか見ていなかったし、メイドはおそらく私をまともには見ていなかった。
その点、本以外のすべてを平等に、だけどどこか相手を認めて扱う彼女は、意外なほどの温かみをくれた。たしかに彼女の手は暖かいとは言いがたいものだったかもしれないけど、それまで私の手はもっともっと冷たかったのだ。妹様としか呼んでくれなかったのは残念だったけれど、どうせ妹様だろうと何か別の愛称だろうと、彼女の態度は変わらなかったと思う。
彼女はいま何をしているんだろうと、たまに思うことがある。
どこかで、以前のようにひたすら本を読み続けているか。
あるいは、ちょっとした予感。
ひょっとして、彼女はもう。
あの長い時を過ごした、図書館と共に。
……いや。
これは私の願望でしかない。
それに。仮にそうなのだとしたら、きっとそれは感傷が彼女を狂わせたのであり……きっと悲しむべきことなんだろう。
◆ ◆ ◆
門番をさっさとクビにしなかったのは、かつての主の妹であり、その権限を持っていたはずである私の、最大の失敗だった。
笑顔を絶やさない、人当たりの良い妙ちきりんな妖怪。
のらりくらりと、仕事らしい仕事もせず適当に過ごしていたようにも見える彼女。だけど、館の皆には……認められていた、とかいうよりも、そこにいることを『疑われようがなかった』のだと思う。当たり前のように、じゃなく。当たり前に、彼女は館の門の前にいた。私は実際に見たことはないけれど、普段のイメージとは裏腹に、外敵に対しては真っ先に出て行って立ち向かっていたらしい。
だから、ああやっていろんなものがなくなっていったのが外からの敵によるものだったなら、きっと、紅魔館は大丈夫だったと思うけれど。
そうじゃなかったから。
姉と、あいつと。
……たぶん、少しだけ私の問題だったから。
彼女は何もできなくて。門の前から、なくなっていく紅魔館を、見ていることしかできなくて。
そんなままで、けっきょく彼女を最後まで繋ぎとめてしまった。それは私のエゴだったんだろう。彼女はこのままあの場所に立たせていては、だめになってしまう。私達と一緒に、はらり、はらりと崩れていってしまう。わかっていたはずだった。けど、彼女もまた、私の世界に色を持って立っていたひとりだったから。彼女を手放したら、もう誰もいなくなってしまうとわかっていたから。
そうして、最期まで繋ぎとめてしまった。
知っていたはずなのに。妖怪なんて、精神が折れたなら、人間なんかよりよほど簡単に死ぬんだって。
彼女の身体にはところどころ皹が入って。私の声も、だんだん聞こえなくなって。指の先から、静かに、砂のようになって、崩れ落ちていった。
かつて門番だった塵の塊を、ぼんやり眺めながら。
姉なら、どうしたんだろうと。
そんなふうに姉のことを思ったのは、初めてだった。初めてだったけど、簡単にイメージできた。それはかつての姉だった。姉はせいいっぱいかっこつけて、なんでもないことみたいに、門番に暇を出す。門番は喰い下がるけど、問答無用だ。むしろ叩き出すくらいだ。ぼっこぼこにして、遠くにぶん投げてしまう。吸血鬼の力だ、森か人里か神社か、まあだいたいどこにでも投げ飛ばしてやれる。
悲鳴を上げて門番は吹っ飛んでいって、一仕事終えた姉は息をつく。悲鳴が小さくなって、やがて聞こえなくなる。静寂。残るのは、誰もいない場所。崩れ壊れた館。
そうして姉は、ひとりになるのだ。
◆ ◆ ◆
──それ以来。
どうにも、姉のことを思い出すのが多くなった。
今はもう、ほとんどいっつも、姉の幻像と一緒に過ごしている。
紅魔館の瓦礫の中。ただ一つ残ったのは、私の部屋。長く過ごした地下室。そこで日の光をしのぎながら、昔のように、生きていた。
ひとりになる、姉。
私も、ひとり。
でも、違う。
なんだか私は、ひどくみじめだ。
私がイメージする姉は、門番を追い出すのにもぜんぜん後悔していなかったし、ひとりになっても、館や従者や友人をなくしても、余裕を持って、誇り高く生きていて。
日傘をさして。神社や人里に散歩に行ったり。なんだかよくわからないけど人間に慕われてて、そうしようと思えば人里で暮らすこともできるだろうに、その誘いには黙って首を振って、またひとり。
瓦礫が積み重なっただけの場所に。
紅魔館に、戻るのだ。
「……はは」
笑えてくる。
実際、そんなかっこいいわけがないじゃないか。
なんで姉のことを、こんなふうに思うんだろう。空想だから?
……ああ。そうだ。
これは私の空想。
都合のいい、まぼろし。
まぼろし、だから。
私は目を閉じた。
一瞬、光が閉ざされて。
まぶたの裏に、また、まぼろしがよみがえる。
こんどのまぼろしは、まぼろしだから、誰もがいる。
この狭い地下室に、みんなが、いる。
私が死なせた門番が、懐かしい笑みを浮かべている。
いなくなってしまった魔女が、いつものように本を読んでいる。
結局うまく付き合えなかった人間と、
そして、お姉様、が。
夢のようなまぼろし。
ここにいると、気持ちが安らかになる。
ここにいるとき、身体の崩壊が進んでいくのには気づいている。
大切なものをなくした妖怪が、力を弱めて、倒れていくのだとしたら。
この夢の中で、私が壊れていくのも。きっと、そういうことなんだろう。
ずいぶんいろんなものが、遅すぎたのかもしれないけど。
……すべては。
私の手が届くか届かないかというところにあった。姉も、あいつも。ドミノの倒れ始め。何かが一つ違っていれば、私の何かが間に合っていれば、たぶん、どうにかできていた。
おそらく二人は、二人こそが扉だった。その先には、もう少し広い世界もあったはずだった。
だけど今は、すべて失われた。
二度と取り返せない。
その先には、今みたいにひとりじゃない、別の私もいたのかもしれない。
この夢の中にいるような、そんな、私が。
はらり、はらりと、自分をかたちづくるものが零れ落ちていく感覚。
指先と肩に、砂のような感触。肩に落ちて溜まるのは、私の髪の毛だったものだろうか。
大切なものを、失くしたからじゃなく。
失くしたものが、大切だったのだと知れたから。
その死に方を。
私は、幸せだろうと信じることにしている。
いなくなった。
みんないなくなった。
私も、いなくなるんだろう。
いなくなることが、できるんだろう。
このような世界もありますね
それが合ったかも知れないから、かえって今の景色が無色に彩られている、という感じがします。でも、儚くて、きれいだ。
ないかもしれないけど、今度はきっと一緒に……
お見事
吸血鬼には夜の方が似合うはずなのですが、なんていうんでしょうか、
目に痛いほど白い世界のなかで見た白昼夢、みたいな印象を受けるお話でした。
主人公の視点から語られる、愛したものが滅んでいく様というのは心が締め付けられます。
そしてタイトルが滅びの儚さを上手に表現していると感じました。不覚にも目頭が
咲夜さんには物申したいところ。
特に咲夜さんの能力についてのフランの語り方が幻想めいていて、絵本のようだと。
魔理沙の死から、だんだんと無邪気なファンタジーは残酷な童話に変化していったように感じます。
フランの咲夜と美鈴への後悔も含めて、胸が締め付けられました。
フランが美鈴を叩き出す姉の姿を幻視した場面が、悲しくて優しくて切ないです。