こんにちは、はじめまして、皆さん。
私は紅魔館で司書を務めている『小悪魔』と申します。最近ちょっとした常識の再確認を行うことに成功しました。
え? それは何かって。
ふふふ、聞いて驚かないでくださいよ。
「く、おにょれきるさみぇまりゅさぁ! こんにゃところにゅも星のだんまくぉぉ~」
「いや、それお前が目を回してるだけだから」
全速力で飛びながら後頭部を本棚にぶつけると、とんでもなく痛いということです。
ためになったでしょう?
驚きでしょう?
私は驚きの他にも、眩暈や星の幻影すら加わりましたけど。
「く、これで勝ったと思わないことです。まだ私の攻撃は残されています!」
「お前、さっきから避けてばっかりで、攻撃用の弾幕を撃ってないじゃないか」
「そ、それは、アレですよ! ひ、秘密兵器は最後まで残しておく!」
「わかった、わかったから、今日はもうやめとけって。ほら、膝とか震えてるし」
思いのほか、後頭部へのダメージは大きいらしく。口調はすぐ戻っても、下半身が言うことを聞いてくれません。普段どおり立っているつもりだったのですが、気が付けば自然に背中を本棚に預けておりました。視線をそのまま下へと持っていけばスカートが細かく波打っており、膝が生まれたたての動物のように震えている証拠を示しています。
本当に情けないことです。
怨敵であるあの魔法使いにすら情けを掛けられるのは、本を守る司書としてあってはならないこと。
「さ、さあ、掛かってきなさい! 本は私が守って見せます!」
私の後ろ、安全なところまで離れた場所で、まったりと紅茶を飲み。
本を読みながらチラチラと冷たい視線を向けて、私を応援してくれる。そんな心優しいパチュリー様のためにも何度も敗北を重ねるわけにはいきません。
この前、咲夜さんとかにいろいろ相談したら、『そもそも応援されてないんじゃないか』というおかしな指摘も受けましたが、そんなことはありえないはず。きっとあの目は『大切な使い魔が傷つくのを見ていられない』 でも、気になるから見てしまう。怖いもの見たさで恐怖小説を見るあの感覚に違いないのです。
決して『埃が立つからやめて』とか『読書の邪魔』とかそういったものではありませんよ。
空気でわかりますし。
「さあ、早く!」
そんな不退転の私の気迫に押されたか、魔法使いは重い表情で帽子の唾を掴み。箒にまたがったまま小さく首を左右に振っています。
「じゃあ、これで終わらせるから大人しくしとけよ」
「あ、えっ?」
敵の姿勢が空中で少しだけ傾いたかと思うと、館内で箒に乗るという暴挙を続けているその黒白のシルエットそれがあっという間に消えました。
回復したと思っていた私の視界はどうやらまだ不完全だったようで、相手の動きを追うことすら不可能な状況です。
自分の過信を呪い、慌てて姿を探しますが左右のどこにもその姿がなく。しかもあの黒白の魔法使いの最高速度は、天狗に少々劣る程度。一度見失えば、探し出すことすら困難。
焦りだけが私の心を侵す中で。
「上よ、こぁ」
ああ、やはりあなたは私のご主人様。
パチュリー様が私を声で助けてくださいます。
しっかりしなさいと、激励してくださいます。
私は感動に瞳を潤ませながら上に右手を向け、敵の姿を目視し弾幕を、
「あ、あれ?」
魔力を込めた手の平の先にあるのは、いつもの天井だけ。魔法使いの姿などどこにも、
「あ、右に動いたわ」
しまった。
私の反応が遅れたせいでパチュリー様のアドバイスを無駄にしてしまうとは何たる不覚。
上に向けた手を今できる最高の速さで右に向けるが早いか、即座に弾幕を撃つ。本にあたっても害のない弾幕バトル用の魔力弾は、刃の形に変化して散乱し。
床と、壁と、本棚に当たって消えた。
「え、えぇぇぇっ!?」
また、外れ。
私が困惑して動きを止めていたら。
ぴたっと、何か硬いものが遠慮がちに私の背中に触れてきて。
「あ~、なんか微妙な勝ち方なんだが……降参するか? それともこのまま箒にぶち抜かれたいか?」
パチュリー様の声に振り回される形になってしまった私の背後に回り込んだ彼女が、呆れるように告げてきました。
降伏か、ゼロ距離ひき逃げか。
どちらを選ぶかと。
「ふ、ふざけないでください。私が、そんな誘惑に……」
私は背中にぐいぐいっと押し当てられる固い突起物に畏怖を感じながら、恐怖で毛穴から吹き出る汗の冷たさでなんとか平静を保ち。
流されそうになる自分の意志を固めます。
そうです、私は紅魔館の本の守り手、悪漢の思惑になど屈するはずがありません。
私は痛みに耐えるために、両手を握り締め。歯を食いしばり。
「あぁ~、一応言っとくが。今、強めのスペルカードしか持ってないからな?」
「そ、そんな揺さぶりに掛かるものですかぁぁぁっ! うわぁぁぁぁぁあぁああんっ!」
「……見事な万歳ね」
「……見事な万歳だな」
握り締めた手をおもいっきり開いて、天井に高く掲げる。
そんな私の降参の意思表示はとても見事だと、パチュリー様は褒め称えてくれましたが。私は負けたこととか、それ以外のパチュリー様の優しさが痛くて、しくしくと涙を零したのです。
◇ ◇ ◇
かちゃっとテーブルにカップがぶつかる音が響き、それを見上げる魔理沙という無礼な魔法使いが何事かと見上げますが、お茶を出してあげるのですから感謝して欲しいものです。
「粗茶です、飲んでください。そして飲んだら帰ってください」
「ああ、悪いな、飲まなければずっと居てもいいってことか」
「くぅ、卑劣な罠を、人間はやはり信用ならない種族ですよ。パチュリー様!」
「私はあなたの最初の行動が信用ならないわよ。オブラートに包むものよ、そういうことは」
そうか、さすがはパチュリー様。
私は一度お茶を運んできた台車に戻り、もう一杯紅茶を作りました。今度は優しく、粗相のないように魔理沙の横に置いてみます。
そして、あからさまに嫌そうな顔をする人間の魔法使いに、もう輝かんばかりの笑顔で。
「お茶が入りました。どうぞごゆっくり、あちらの世界への旅路を」
「……おい、何入れた」
「オブラートに包んだ異物を」
「素直なところが余計に怖いぜ……」
「もう、こぁ、邪魔をするならあっちへ行って。私たちは今、大事な研究をしているところなのよ?」
パチュリー様が誰かと一緒に研究をする。
過去を知っている私からすれば、冗談にしか聞こえません。体が病弱であるため実際に使用できる魔法は限られるけれど、魔法使いという種族であることから人間から魔法使い化する者が得ることすら難しい、そんな桁外れの魔力を持つ偉大なる種族。
しかし種族の上にあぐらをかくことは微塵もない。読書と研究を繰り返すことにより独自の魔法理論を組み立て、攻撃魔法も一般生活に関する魔法も使いこなし、賢者の石すら精製して見せた。それをすべてパチュリー様お一人で成し遂げたのですから。
「おーい、パチュリー、ここはどういう意味だ」
「もう、少しは自分で考えなさいよね」
そんなパチュリー様が、経験の浅い人間の魔法使いと研究をすることに何の得があるというのでしょう。今だって、自分の本を読む手を止めることとなったではありませんか。そうやって困った様子で、何年も何十年も前に通った過去の道筋を語らなければいけない。
「おー、こういうことか。わかった、わかった。完璧だ」
「今日何回目の完璧よ」
「19回、私は完璧を求める女だからな」
昔だって共に研究をしたいという魔法使いは後を絶ちませんでしたが、パチュリー様と共に研究を続ける内に己の未熟さを悟り、逃げ帰る。その魔術理論だけを盗むものもいましたが、応用することができず、ただの宝の持ち腐れとなる。
その魔理沙という魔法使いだって現にあなた様の魔法をアレンジして盗み取っているのに、何故そんな泥棒を側に置いているのか私にはさっぱり理解できません。
本当に理解できません。
「キノコの知識だけなら完璧かもしれないけど、それ以外はお世辞にも誉められないわよ」
「へへ~っ、あそこのキノコは魔法の材料最適だからな。今度もってきてやるよ」
「期待しないで待っておくわ、どうせ本も戻ってこないだろうし」
どうしてそんな迷惑な存在に、微笑みかけるのかわかりません。
魔法使いという種族を忘しまった、単なる一人の少女にしか見えない笑みを。
出会って間もない人間に対して見せるのか。
何故、楽しそうに笑うのか。
さっきの弾幕勝負の時だって、今思えば魔理沙に助力するような……
「小悪魔、どうかしたの?」
「い、いえ、なんでも」
……いえ、きっと、そうなのでしょうね。
パチュリー様はどこか昔から寂しそうなお方でしたから。自分を持ち上げようとせずに対等に扱ってくれる別の魔法使いという存在を求めていたのでしょう。
だから、本を持っていくという名目であっても、彼女と過ごす時間はとても充実した日々なのでしょう。
その証拠に、最初は自ら本を持っていくことを妨害していらっしゃったのに、最近では私だけ。
きっと、自分は本を持っていかれることを多少なりとも嫌がっていることを示すために動かされているのではないか。
行為のために私は利用されているのかもしれない。
そう考える『私』が心の中に生まれる度、私は自分の卑しさが嫌になります。
「なあ、この呪文って、ここ削っても発動するんじゃないか?」
「……ホントね、確かになくても発動はする。別な魔法になる可能性もあるけれど。よく気づいたわね」
「今度試してみるか?」
「そうね、でも魔法の暴走というのは危険だから、魔理沙は一緒にやらないほうが身のためね。確かにあなたの無属性の魔法に近いけど、この魔法はれっきとした炎の魔法だから」
「えー、私にも見せろよ」
「完成したらね」
二人は楽しそうに会話をしているだけ。
それだけなのに、それを眺めながら本を片付けたり身の回りのお世話をする自分が酷く惨めに見えて嫌になります。パチュリー様から与えられた仕事をこなすのが優先だというのに、私はその二人から視線を外す事ができず、ただ妬みだけがここに浮かんできてしまのです。
「パチュリー様……」
机の上で楽しそうに身振り手振りで持論をぶつけ合い、改善点を探していく。
その中でほとんどはパチュリー様の意見が通るのですが、時折、人間という別種族の立場で新しい発見をする。
そんな小さな出来事も、パチュリー様にとって掛け替えのないことなのでしょう。
生まれつき体が弱く、外で思う存分体を動かすことができなかった。そんなあなた様にとって、やっとできた気軽に話のできる存在。
きっと、魔理沙という魔法使いはレミリアお嬢様の次にできた友人なのでしょうね。
そんなお二人を見ていると。
「私は、使い魔として、どこか壊れてしまったのかもしれません」
人知れず、そんなことをつぶやいてしまう。
そんな自分に気づくのです。
自然と本を片付けながら、ぽつり、と。でも、なんとか笑顔を作ってあなたの側に新しい本を運ぶとき。自分自身の中に芽生えた歪な感情が、私の心を動かそうとします。
お前は、そこでいいのかと。
あのお方の横の席は誰のものか、と。
「もちろん、レミリアお嬢様か、魔理沙という魔法使いのもの」
それでも、冷静な『私』がその黒い感情をあっさりと砕いていく。
常識を唇に乗せてくれる。
だから私は、平然と誤魔化すことができるのです。
「ん? 呼んだか?」
「いえ、本の名前を読み上げていただけです。誰があなたの名前など好んで呼ぶものですか」
本を片付けながらついつい出た言葉が届いて不信に思われてしまいますが、表情の変化を声で誤魔化して、私はまた作業を続けます。
笑顔を浮かべるパチュリー様の、その後ろを往復しながら。
二つの背中を少しだけ羨ましく思いながら。
◇ ◇ ◇
そんな色鮮やかな世界を見せ付けられた後というのは、普段の生活すら何故か息苦しく感じてしまうもので、パチュリー様に近づくことすら億劫になってしまいます。
たぶん、それを口にするとふざけてないで本を持ってきなさいって言うんでしょうけどね。
それはいいんですよ、持っていくことくらい。
でもですね、パチュリー様には悪い癖がありまして。
「あの、パチュリー様? 少しだけ机の上に空きを作って欲しいと思ったりするんですが」
この言葉だけでおわかりの人はいらっしゃると思いますが、ええ、そうなんです。
凄く、ごちゃごちゃしてるんです。
魔理沙という魔法使いの前では少しくらい片付けようとするんですが、普段はもう書類が山積みで研究機材すら出しっぱなしです。
全体的に薄暗い図書館の中、10人くらい余裕で座れそうな長方形の半分の向かって右半分がフラスコ等機材、左半分が山積みになった本。そしてその中央のわずかに空いたスペースにランプを置いたパチュリー様がいる、と。
反対側から見たら機材と本でパチュリー様の姿が見えず、ランプの光だけが漏れている状態ですね。本当に酷い有様です。嫁入り前の女性の机ではありませんが、レミリアお嬢様やフランドールお嬢様も似た癖があるので、この館では嫌な常識となっております、ええ、とっても。
むしろ吸血鬼や魔法使いに結婚という風習があるのかは疑問ですがね。
何はともあれ、簡単にいえば机の上が汚いわけでして、お茶やお菓子を運ぶ度に暗に言ってみるわけですが。
逆に不機嫌そうな視線が返ってくるんですよね。
「魔法使いが食べ物と書物のどちらを取るか、まだ理解していないの? その食というものを知識の探求のために捨てた種族なのよ、私たちは。だから本が邪魔で食物が置けないという理由は成り立たない」
「いえ、散らかす理由をそうやって正当化されましても、困るといいますか」
さっき二人で楽しそうに会話をしていたときは半分以上スペースが空いていたはずなのに、半日もしたらもう元通りです。どんな魔法を使えばこうも物を散乱させることができるのか。仕方ないので私が片付けようとすると。
「もう少ししたら必要になるかもしれないわ」
これですよ。
また、これですよ。
それを何度も何度も繰り返した結果が、50冊を超える本の山ですよ。
なんですか、山脈でも作るつもりですか、机の上に。仕方ないでは私も、最近咲夜さんから教わった『レミリアお嬢様の我侭対策』を実施させてもらうとしましょう。
「もう少ししたら、ということは今は必要ないと判断してよろしいですね?」
「それは私が決めることよ、邪魔ならあなたが机の隅にどけてちょうだい」
……効果は今ひとつのようです。
しかも凄く睨まれました。
使い魔の癖に生意気言うな、ってことでしょうね。ええ、わかってましたけど。
とにかく、これ以上言うと機嫌を悪くする恐れがあるので、すぐ読まないと思われる本を何冊か机の端に動かして、そこへガラスの深皿を置きます。
てっきり紅茶だと思ったんでしょうね、珍しくパチュリー様が目をぱちぱちさせてそれを眺めています。少し季節ものということで買ってきてみたんですが、思いの他好印象のようですね。
「……イチゴ?」
「ええ、そうです。たまに季節感を出してみようかなと思いまして」
手が汚れないように爪楊枝を突き刺した、イチゴが5つ。そのガラス皿の透明感により、その赤色が際立って、さらにランプの暖色が美しい色合いを醸し出す。
そんな小さな趣向を凝らすのがとても大事なんですよ。
食べなくても生活できるパチュリー様が気分転換に口にできるように、ちょっとした工夫をするのが私のポリシーでして、おかげ様でその作戦の成功率は10割に近いです。
今だって、興味を示されたパチュリー様がほら、無意識に口に爪楊枝つきのイチゴを運ばれて。
「へぇ、なかなか美味しいじゃない。いいものを見つけたわね」
珍しく誉めてくださいました。
大袈裟とは思いますが、もう天にも上る気分ですよ。
仕事に関していえばどれほどやってもご苦労様、としか言ってくれませんし。こういった穏やかな言葉というのはとても嬉しいです。
でも、少し贅沢を言うなら、無表情のまま食べないで欲しいといいましょうか。
さきほどの、あの魔法使いに向けていたような笑顔を見せてくださると非常に……
「どうしたの? 何か私の顔についてる?」
「いいえ、別に何もありませんよ。我ながらいいイチゴを見つけたと自分で自分を賞賛していたところですから」
「ふ~ん、じゃあ残りはあなたが食べなさい、美味しかったから」
そう言いながら、続けて二個パチュリー様が口に運び、残りを私に皿ごと手渡してくれました。パチュリー様とご一緒のものを食べられる、こういうのも少し嬉しいといいましょうか。でも、全部食べてもらえなくて少し悲しいといいましょうか。複雑な気分ですよ。
「何よ、さっきから羽をピクピクさせて」
「あ、いえ、なんでもありませんって、なんでも。美味しそうだなぁって思っただけで」
「そうね、果物はその瞬間を逃すと味が落ちてしまう。あまり放置しても勿体無いから、あなたにあげると言っただけよ。妙な気を起こさないように」
「えへへ~、そういう風に遠まわしに言われると、つい意識しちゃいますよね」
「……『アグニ――』」
「ちょ、じょ、冗談ですって♪ あはは~、美味しいなぁ、イチゴぉ~♪」
「はいはい、わかったら黙って食べる」
はぁっと息を吐きながら見せてくれた微笑は、やはり苦笑から来るものなのでしょうね。どうしても先ほどのと比べると眩しさが見劣りしてしまいます。
慌ててイチゴを食べたのであまり味がわからなかった残念さも合わさって、ちょっぴりがっかりです。
しかし、そんな私の持つガラスの容器をじっと見つめるパチュリー様は、どこか寂しげで。
「容器は何も変わらないのに、その上に載せる食物は時間によって変化し――」
「ぇ?」
「最後には、消えてなくなってしまうのに、器だけはそこにあり続ける」
「え、え、あの? 何かの謎かけ、ですか?」
「なんでもないわ、少し考え事をしただけよ」
突然口にしたその言葉が、何故かとても儚げで。
私は思わず立ち尽くしてしまった。
何を意味するか、それをはっきり理解していないのに。
それでも何故か私の心は。
少しだけ『悲しい』と、思ったのです。
◇ ◇ ◇
異常が毎日繰り返されれば、異常は『日常』となる。
幻想郷の中では通常が異常であることが多いので、平凡な日々の方が珍しいのですが、なんといいましょうか。
毎日弾幕勝負で満身創痍にさせられる従者というのも中々いないとおもいます、はい。
ある意味、負けとか痛みとかに慣れてきました。
……決して変な意味じゃありませんからね。
最初はスペルカードでも作ってみようかと思っていたのですが。
一度だけ、奇跡的に追い払うのに成功したときにパチュリー様が少々不機嫌になったので、やめておくことにしました。
もう、何でしょうね、このやりきれない気分……
それで今日もあの二人の様子を眺めるわけです。
一冊の本を机の上に広げながら、肩を寄せ合って。ああでもない、こうでもない、と楽しそうに言い合いをする二人をじっと後ろから見つめる。
用があって呼び出されれば、本や紅茶を運び、またパチュリー様の後ろという定位置に戻ったり、少し本棚の整理をしたり。
パチュリー様は、とても酷いお方ですね、本当に。
あなたの近くにこれだけあなたを想う存在がいるというのに。
その前で、そうやって笑うのですよ。
毎日、毎日。
そして二人きりになったら、急にその笑顔は終わりを告げるんです。
いままで私が見てきたパチュリー様と同じなのに。
何か、不満なんですよ。
だって、あなたのあんな無邪気な笑顔を知ってしまったから。
あんな笑顔を、私はおよそ百年の間の見た覚えがありません。
聡明で博識な、普段は無口なパチュリー様。
私の憧れで、私しか知らないはずだったパチュリー様の小さな仕草。
指を机の上でカリカリ動かしたときは喉が渇いたとき、
目を半分ほど閉じながら本を読むときは必死に眠気と戦っているとき、
首を少し傾けて私を見たときは、新しい本を持ってきて欲しいとき。
なのに、そんな私すら知らないパチュリー様の仕草をあの魔法使いは簡単に引き出してしまうんです。頬をほんのりと染めながら、帽子から零れた前髪をかき上げたり、
言葉を詰まらせながら、指を忙しなく動かしたり、
視線と視線を合わせるようにして、胸の前で手を組み魔法使いの言葉に聞き入ったり。
そんな仕草を見せ付けられるだけで、嫌いな私がどんどんと大きくなるんです。
憎い、っていうのでしょうか。
悔しい、っていうのでしょうか。
妬ましい、っていうのでしょうか。
きっとどれもが当てはまるのでしょうね。私のこのもやもやした感情には。
だから私は、願いましたよ。
居なくなればいいと、魔法使いなんて居なくなればいいと、パチュリー様を奪っていく泥棒は居なくなれって、心の中でこっそりと。
でも呪術なんてかけません。
だってそんなことをしたらパチュリー様が悲しむとわかっていましたから、だからこれは意味のない私の抵抗です。
なんの効力ももたない悪口にも似た、矮小な私の小さな気晴らし。
だって、ほら。
憎いという感情と一緒に、パチュリー様の笑顔を今日も見ることができたという、言い知れない喜びもあるのですから。
それが例え私に向けられたものではないとしても。
黒い感情の下に、間違いなく輝かしいものもあったから。
でも――、それでも――
私が悪魔だったからでしょうか。
その感情が、あまりに醜かったからでしょうか。
ある日、魔理沙がパチュリー様とケンカをしてしまいました。
その内容は、確か。
そうです、新しい魔法技術について語り合っていたとき。
『まだ、実践で使うのは危ない』そう主張するパチュリー様と。
『机上で語るのはもうウンザリだ! 魔法は試さないと始まらないだろう』という魔理沙が真っ向から言い合って、そのまま喧嘩別れしてしまったのです。
妙な胸騒ぎがした私は、すぐに追い掛けるようにと、パチュリー様に訴えました。
曇っていると入っても雨は降っていませんし、動きやすい湿度でしたから。
喘息のパチュリー様でも魔法を使えば十分追いつけると。
ですが、頑なに拒否するパチュリー様は仮眠室に篭もってしわれて、仕方なく私だけで後を追うことにしました。
『あの魔法は不完全だから、発動することはない。だから暴発もしない』
そうパチュリー様はおっしゃっていましたが、それでも私は追いました。
魔法の森へ、瘴気の漂う森へ、一直線に。
だって、そこにはミニ八卦炉を起動させる魔法の種、キノコが無尽に生える場所。
確率は、万に一つもないのかもしれません。
それでも、もし以上が発生したら。
そのキノコや瘴気が、魔法の発動に何らかの作用を及ぼしたら――
と、そこまで考えた私の思考は、一瞬で停止しました。
爆発が、起きたからです。
魔法の森の、ある一角。
魔理沙という魔法使いが住む、家の近くから。
◇ ◇ ◇
奇跡でした。
家を半分吹き飛ばすような爆発を身近で受けたはずなのに、魔理沙の肉体には擦り傷程度しかなく、欠損した部分もありません。
どうやら、爆発の瞬間に八卦炉を利用した防御魔法でも唱えたのでしょうか。
それとも相反する力をぶつけたのでしょうか。
それは定かではありませんが、ひび割れた八卦炉を握っていることからして何かで耐えたのは間違いないはずです。
そう、パチュリー様もおっしゃってましたから。
でも、ですね。
奇跡っていうのは、何度も起きないから奇跡と言うらしくて。
駄目なんだそうです。
ベッドで眠っているようにみえる彼女は、もう。
生物としては、駄目みたいなんです。
何が、いけなかったのか。
それは風、『爆風』でした。
至近距離の爆風には耐えたまではよかったらしいんですが、その風による吹き返しによって、普段はそこまで到達しないはずの瘴気が一気に魔理沙の家に流れ込んでしまい。
彼女の肺を、一気に瘴気が侵したのだそうです。
だから、今はなんとか活動をしている肺も、もうすぐ機能を失うと。
永遠亭のお医者さんは言っていました。
魔法は専門外だし、もし薬を調合するにしても知識が足りない。
そもそも、呪詛に似たものを薬で回復させるのは難しい、と。
パチュリー様のお部屋兼仮眠室で、はっきりと言ったんです。
今夜が山だ、って。
でも、パチュリー様は諦め切れないご様子でした。
まだ生きているのならなんとかなるはずだ、と。
図書館の中で本棚をひっくり返す勢いで、探しています。
でも、わかっているはずなんです。
瘴気というあまりに単純で強力な呪詛を簡単に解除することはできないことを。もし種族が魔法使いで不老不死となっているのであれば、長い時間をかけて治療することはできる。しかし人間が一瞬のうちにそれを跳ね除ける手段というのは限られるはずですから、あの医者の先生も不可能だと言ったのでしょう。
しかも長年かけて知識を集めたパチュリー様が再度書物を探さなければいけないという事実自体が、彼女の危険さを物語っていました。
外見は何も変わらないのに、内側からじわじわと、確実に呪われていく。
命を削られていく。
その苦しみを声にすることもできず、彼女は荒い息を繰り返すだけ。
そんな彼女の面倒を見るのが、私に課せられた使命でした。
「……あなたと、二人きりですか」
弱々しく上下する胸はとても柔らかそうで、少し魔力を込めてやれば貫けてしまいそう。
毛布から覗く首筋は、手で軽く握れば折れてしまいそうで。
いままで私を弾幕勝負で負かし続けてきたとは思えないほど、小さな存在に見えてしまう。あと少し自分が何かをしただけで、簡単に奪えてしまう命を間近で見せられて。
「……今夜が山なら、あと半日もない」
魔の部分がざわつきました。
本来あるべき魔族の衝動が、表に出ようと、胸を激しく鳴らしてくるのです。
『今なら、私の魔力で何か仕掛けをしても……』
黒い闇が、這い出てるようでした。
今にも命を失いそうな人間を見たせいでしょうか。
いえ、たぶんそうじゃないのでしょう。
きっと、この感情は私がいままで重ねた、醜い嫉妬心なのでしょう。
『ほら、少しだけ魔力を込めてごらん。それだけで昔に戻れるよ、パチュリー様と二人でいた世界に戻れるよ?』
こうやってつぶやくこの黒い影も、それが生み出したもの。
自分で手を下すことを正当化するために生み出した、都合のいい影。
もし何かあったときの逃げ道でしかない。
でも、その黒い感情のおかげで。
私の思考は妙に冴えていました。
だからでしょうか、冷静に現状を見つめることができたのです。
そして私が導き出した奇妙な回答は……
結局のところ『死』でした。
このまま夜を待ち、その命が終わるのを見取ってあげるか。
それとも私が彼女の体を操作して、助かったように見せてから、パチュリー様の知らないところにそその肉体を捨てる。
少しでもパチュリー様が悲しまないようにと、考え抜いたのに。
結局これでした、はい。
本当に情けないと思います、役に立たない使い魔だと思いますよ。
結果は何も変わらず、それが先か後かだけの話なんです。
だって、そうでしょう。
彼女はそもそも人間なんですよ。
最初から同じ時を歩けるはずがないんです。
魔法使いとして、食と不老不死を手に入れる研究もしない不完全な人間。
それと一緒に長い時間を過ごせば、きっと今よりも別れが辛くなるのでしょう。
だから、ちょうどいいんですよ、パチュリー様。
きっと、諦めるには今が一番いいんです。
私は、その結論を正直にパチュリー様に伝えようと仮眠室の扉を開けて。
――見てしまいました。
決して本が傷むようなことをしないパチュリー様が、床に本を散乱させるばかりか、その上で座っていたんですよ。
ぺたんって、座り込んでずっと本を見ているんですよ。
その場所は、私があまり本を取りに足を運ばない場所だったはずなんです。
だってあのあたりには過去に禁呪とされた本ばかりがあるはずで、その中でも最も多いのが。
『反魂の呪法』について記載された書物。
そんな場所でパチュリー様は本を開いているんです。
肩を落として、散らばった本の上に座って。
震えながらページを捲っているのです。
そんなパチュリー様の姿は、見たことがありませんでした。
あんなに辛そうに本を読むパチュリー様なんて、初めてで、叫びたくなる衝動を抑えることしかできませんでした。
その本がもし、反魂について記されているのなら。
きっとパチュリー様はもう、諦めたんです。
魔理沙という魔法使いがこのまま生きていける可能性を私と同じように諦めたんです。
だからあんなに辛そうに、死を否定する呪文を探している。
禁呪中の禁呪を紐解こうとしている。
ゾンビでも、命令に従うだけだけのネクロマンサーが扱う死体でもない。
生命体として蘇らせるために、パチュリー様は必死で方法を探している。
魔理沙という魔法使いが蘇生を望むとは限らないのに、自分勝手にそれを望もうとしている。
だから、私は選択肢を増やすことにしました。
少しでも悲しみを減らすにはどうすればいいか。
冷静にそれを考え直して、たった一つ。増やすことにしました。
そんな姿を見て、大きなため息が私の口から零れたとき。
パチュリー様の頭上からいきなり小さな影が――レミリアお嬢様が降りてきたのです。そして挨拶をすることなく本を読み続けるパチュリー様の前に立つと、私にも聞こえるようなはっきりとした声で言うのです。
「ねえ、パチェ。普段着を着ているときは、きっと飾らない自然な姿だと思うけれど緊張感が足りないし、でも少しでも着飾りたいと思えば、鏡の前で服を選びその緊張で安らぎを忘れる」
でも私にはその内容がさっぱりわかりません。
挨拶もなしにいきなりそんな話をパチュリー様にするのですから。
「どちらの服を着ていたい?」
「……いきなり、何を言うのかしら、レミィ。そんな言葉遊びをしている場合じゃないのよ」
やはり、パチュリー様も何がなんだかわからないご様子。一度はレミリアお嬢様に向けて顔を上げましたが、またすぐに本に視線を戻してしまいます。構っている暇などない、と、はっきり告げて。
するとお嬢様は怒りもせず、落胆もせず。
ただ静かに瞳を閉じたのです。
「選ぶなら、早めにね」
お嬢様なりの励ましのようなものでしょうか。
親友であるけれど、お互いを尊重しあまり干渉しあわない。そんなお嬢様が何を伝えに来たのかはわかりませんでしたが、パチュリー様を困らせたのは間違いなさそうです。
そして私もきっと似たようなことを今からしなければいけないと思うと。
少し、怖いです。
◇ ◇ ◇
「あの、パチュリー様? 少しお伺いしたいことがありまして」
「こぁ。あなたには魔理沙の看病を命じたはずよ?」
「それは重々承知しておりますが、あの、ちょっとだけ気になることがあって相談したいなと」
「……急いでいるのだけれど?」
「一つだけでいいですから、なんとか教えていただけません?」
「一つだけ答えたらあなたが大人しく引き下がるのならいいわよ」
「はい、では、失礼して。もし、もしですよ。今日みたいに何かの魔法が暴走して、パチュリー様が危ない事態が発生したとするじゃないですか」
「それで?」
「ほら、使い魔ってやっぱりご主人様を守ったりするでしょう?」
「うん」
「で、そんなときに、助けたら私が絶対に死んじゃうっ! って、行動する前からわかったときって。私はパチュリー様を守ったりできるのでしょうか? 使い魔の束縛か何かで、わかっていながら命を捨てることは許されないとか、そういう縛りがなければ可能かと思うんですが」
「こんなときに、不謹慎なことを聞くのね」
「ええ、こんなときだからこそ気になったんです」
「どうしても聞きたい?」
「はい、できれば」
「…………」
「…………」
「……可能よ。どんな行動であっても縛っていない。ただし、強制力のある命令を直前に定めているときはそれを守るようになると思うのだけれど」
「例えば、今で言うあの人間の看病とか?」
「質問は一つだけのはずよ、早く戻りなさい」
「もう、パチュリー様はそういうところで融通がききませんよね」
「……悪い?」
「いえ、そういうところも嫌いじゃないです」
「好意は持っているということ?」
「ええ、とびっきりの好意を。ですから、もうちょっとゆっくりお話していたかったり」
「私のお願いを聞いてくれるんじゃなかった?」
「質問は一つかもしれませんけど、談笑は制限なしってことで多めにみてくれるとか?」
「駄目よ、お願いだから言うことを聞いてちょうだい」
「うぅ~、わかりました。わかりましたって。看病しますから、パチュリー様はしっかり情報をまとめちゃってくださいね」
「ええ、わかったわ」
「あ、そうだ、パチュリー様」
「ん、まだ何かあるの?」
「はい、質問を聞いてくれたお礼を忘れていましたので」
「それくらいいいわよ」
「いえ、やっぱりこういうときは親しき中にも礼儀ありですからね」
「そこまで言われると逆に気持ち悪いわよ」
「ふふ、パチュリー様。どうもありがとうございました」
「ん、じゃあ任せたわよ」
「はい、お任せください」
◇ ◇ ◇
私は転がっていた本を抱え、空になっている本棚の中に入れました。
それを戻る合図と思ったのでしょうか。
私に興味を失ったように、パチュリー様は本に視線を戻して文字を追います。
そんな必死なパチュリー様の姿を一度だけ振り返って、私は歩きます。
そうやって夢中になっているから気が付かなかったんでしょうね。
私が最後に仕掛けたちょっとした手品に、気づいてくださらなかったのでしょうね。
少しでもわかりやすいように、重ねた二冊を少しずらしていたのに。
少しでも不自然に思ってくださるように、わざとらしく音を立てたのに。
あの黒白の魔法使いを。
お友達を救うことで頭が一杯のパチュリー様は、気づいてくださらなかった。
それがきっと、私という存在の限界なのでしょう。
あなたと一緒にあって、少しでもあなたを支えていたいと思った。
いつしか、敬称ではなくファーストネームを遠慮なく呼べる存在になることすら、夢見たことはありました。
あなたの側にあるだけでは、不満で。使い魔と魔法使いの絶対的な壁があると知りながら、贅沢な思いを繰り返す私のような、狂った従者はきっと軽いに違いありません。
天秤に乗せれば、隣に何を乗せても吹き飛ばされてしまう。
悲しいですが、少しだけ、安心しました。
私が小さな存在であるからこそ、『消去法』は成り立つはずですから。
そして私は、一冊の本を胸に強く抱き。
黒白の魔法使いがいる仮眠室のドアを叩きました。
◇ ◇ ◇
それから私は準備を始めます。
妖精メイドに、魔理沙を客間に移動させると告げて、それを深夜になったらパチュリー様にもお伝えするようにという指示も加えます。
きっと魔法使いの生命を諦めたパチュリー様はぎりぎりまで調べものを続けるでしょうし、それだけで十分なはずですから。
だって、私はこの呪文だけは忘れたことがありませんでしたから。
もしパチュリー様に何かあったときのために、この魔法だけはこっそりと練習していたんです。悪魔や、限られた種族にしか使えない、魂を束縛する契約の力。
この本にはそれを補助する魔力が込められています。
特殊な本であるため、パチュリー様に気づかれれば私が何をするか悟られてしまったかもしれませんが。
ふふ、皮肉ですね。
パチュリー様は簡単にその結論には至らない。
私と魔理沙が仲良さそうにしているところを見たことがないはずですからね。
今でも大嫌いですし。
荒い呼吸を繰り返すこの首を締められればどれほど気が楽かと。
そう思ってしまいます。
ですから、きっと焦りなんてありません。
失敗してもいいかな、なんて。
すごく気が楽なんですよ。
だから、ちょっとだけやってみますね。
パチュリー様。
私は、ベッドに寝かせたその魔理沙の胸の上に開いた魔導書を置き。
苦しそうに咽る彼女を気にせずに背表紙に手を置き、そのまま書物に記された魔法陣を床へと移す。淡い薄緑の光が繋がり。円を、円の中の図形を、図形の中の文字を、次々と展開していきます。そんな光に覆われた世界で私もその美しさに目を奪われてしまっていました。
だって、いままで実際に試したことはないんですから、こんな綺麗な魔法だなんて思っても見ませんでした。きっと悪魔専用魔法に近いですから、黒い触手が床から伸びるとか。変な想像をした私が少し恥ずかしいです。でもこれが光り輝くということは、基盤の準備が整ったということ。
魔法が発動したと思って間違いはないでしょう。
床に触れた足の裏から魔力を吸われているのが実感できますし、もたもたしていれば魔力だけではなく、『私』という存在まで吸われる。それだけ貪欲な魔法ですからあまりゆっくりはしていられません。
綺麗な緑色の光の中で、苦しそうに呻き声を上げる魔理沙の耳元に唇を寄せ、私はこう提案します。
「その苦しみから、開放されたいと思いませんか?」
薄く笑みを浮かべて私が囁くと、苦しそうに息をしていただけの彼女が救いを求めるように私の方に瞳を向けます。そうやって視界がはっきりとこちらに向いたことを確認してから。
私はもう一度、囁きます。
「その胸の痛みを無くしたいと思いませんか?」
きっとこれは悪魔の囁きというのでしょう。
最後の手の内を見せず、ただ表面上の問題だけを取り除く契約を取り付けて。結果、命を奪っていく。普通の契約ならそれで終わりなんですが。
これは少し違います。
「あなたは首を縦に振るだけでいいんですよ……」
耳に優しく息を吹きかけるようにすると、彼女は睫を震わせてその感覚に耐えているようでした。甘い言葉をなんとか振り払おうとしているのかもしれません。けれど、私が胸の前に置いた本を少しだけ強く押し込んだら。表情はあっという間に崩れます。
声にならない叫び声を搾り出して、舌を天井に向けて突き出す。
そんな情けない表情を晒すのです。
「苦しいでしょう? 痛いでしょう?」
痛みと苦しさ。
そして瘴気による肉体の侵食。
それを同時に味わいながら抵抗の一つもできない。
そんな人間の少女からは、悲壮感すら漂っています。
「でも頷くだけです。たったそれだけで、その苦しみからは解き放たれる。とても素晴らしいことだと思いませんか?」
終わりのない残虐的な行為の先に照らされた微かな光。
瞳に涙を溜めて抵抗していた彼女は、とうとうその苦しみに耐えられなくなり。
こくり、と。
弱々しく首を縦に振ります。
「はい、よくできました……」
ええ、これで完了です。
魔法陣の光が薄れていき、その呪いを完成させるために動き始めます。
直後――
全身が弛緩してしまうほどの脱力感に襲われた私は。
抵抗する間もなく、意識を奪われました。
◇ ◇ ◇
それからどれくらいたったのでしょうか。
私が咽ながら瞳を開ければ相変わらずさっきの客室がそこにあって、視界を動かせばまだ意識を失ったままの魔理沙が見えます。せっかく術式が成功したというのに立って歩いて見せてくれないというのは少し不満ですね。
部屋の置時計で時間を確認してみれば、どうやらまだ日付は変わっていませんが深夜とも言える時間帯。パチュリー様がもうそろそろいらっしゃる頃でしょうか。
でも、急いできてくれないとちょっと困るんですけどね――
と、私が物思いにふけっていると。
廊下から足音が聞こえてきます。
その足音はどこか不定期で、何故か不自然さを感じます。きっと普段走った事のない人物の足音なのでしょう。となれば、それが誰かは簡単に予想が付きます。
「こぁっ! なにをしているのっ!」
やっぱり、パチュリー様でしたか。
しかもその様子からすると、お気づきになったのでしょうね。私が何の書物を勝手に持ち出したか。それを理解してしまったのでしょう。
床に転がった私の体を見つけて、息を乱したまま駆け寄って、背中に膝を置くように抱いてくれていました。そして、少しだけ瞼を震わせる私の姿を見て安堵します。
本当に、嬉しそうに、笑ってくれています。
「ん、ぅ?」
でも私が、声を漏らしながら瞳を開けようとすると、その涙すら溢れそうな笑顔は消えてしまい。またいつもの冷たい視線に戻るのです。
「何をしているの、あなたは! 私が信用できないとでも言うのかしら!」
あ、やっぱり怒られました。
でしゃばった真似をしたと思ったのでしょうね。
それでも『私』は理解していないようで、何事かと瞳を閉じたり開いたりしています。
「え、いや、信用って急に、って近っ!?」
驚きながら、少し頬を赤くする『私』中々の美人ですね。
興奮して羽をパタパタさせるのはとても愛らしく見えます、さすが『私』。
主人に助け起こされる従者というのも絵になりますし、パチュリー様もちゃんとした格好をすれば美しいお方ですから、とても絵になります。
ですから、そうやって少しでも長い間、身を寄せ合っていて欲しかったのですが。
「もうあなたには看病を任せたりはしないわ、変な気を起こされても困るし」
「え、いや、看病って……」
それはいけませんね、パチュリー様。
そんなことを言ったら、『私』がこっちを見てしまうじゃないですか。
「ぇ、ぁ……? う、うわぁっ!?」
「何驚いてるのよ、見飽きた存在でしょう?」
ほら、目が合ってしまいましたよ。
ベッドで荒い息を上げて、いる私と、
驚き壁際で尻餅をついている『私』が。
大きく見開かれ信じられないものを視界に収める瞳は小刻みに震え、そして、『私』は尻餅をついた自分の服装を見て。
「あ、ぁぁぁっ!」
短い悲鳴をあげてしまいました。
失礼ですね、本当に。
人間よりも膨大な魔力を持ち、寿命などでいえば雲泥の差。
そして何より可愛い私の体を差し上げたというのに、なんでそんなに羽を触るんですか。
かっこいいでしょう、本当に。
「……ま、りさ?」
ほら、パチュリー様も中途半端な反応しかしませんね。
もうちょっと溜めてびっくりさせたかったのですが。
口調とその不自然な仕草から気が付いてしまったようです。
悪魔という、契約で命を縛る種族の。
門外不出の禁呪。
『魂の交換』
別に魔理沙のために行ったわけではありませんよ。
パチュリー様が少しでも悲しまないようにするにはどうすればいいかなって、考えた結果です。だってパチュリー様に今一番必要なのは、私のような使い魔ではないはずだから。
友人で、よき理解者である魔理沙こそがあなたの側にいるべき存在なんですよ。
だから、ね。
笑いましょう、パチュリー様。
魔理沙が助かってよかったって、笑ってください。
「こぁ……、待ちなさい、こぁ! 駄目よ、呼吸を続けなさい」
そうじゃないと、ちょっと悔しいです。
せっかく命を預けたのに……
なんて顔をしてるんですか、パチュリー様
「返して、魔理沙……」
そんな顔をされたら。
凄く、後悔しちゃうじゃないですか。
馬鹿なことしちゃったなって、もっと一緒に居たかったなって……
「本なんて、返さなくていいから…… こぁを、返して……、返してよ……」
あ、でも、ちょっとだけ幸せかもしれませんよ。
大好きな人がこんなにも惜しんでくれるということは、きっと。
本当は、愛されていたんだなって、わかっちゃって。
幸せだなって、馬鹿な私は思うんです。
でも、もう少し早ければよかったのにって。
欲張りな私は、そう思うんです。
「……え? っと、あの、すいません、先生。なんだかどんどん気分が良くなってるんですけど?」
「……当然よ。悪魔は瘴気を好む種族ですもの、人間なら肉体と一緒に精神を蝕んでいくけれど、小悪魔の体に移った魔理沙は、肉体の抵抗力によって精神面の瘴気が無力化。そして、交替により精神に耐性のあるあなたが、魔理沙の肉体の瘴気を無力化どころか。自分の力へと変えてしまった」
昨日は匙を投げた永遠亭の先生が、なんだか呆れたように私の胸に聴診器を当てました。そんな裏技があるなんて知らないわよと、今にも言い出しそうです。
だって仕方ないじゃないですか、私だって初めてなんですから。
「え、えと、つまり? どういうことなんだよ」
「あなたたち二人は至って健康、魂が入れ替わっただけ。おわかり?」
「……わかりやすいが、あまり理解したくない結末だな」
えっと、なんといいましょうか。
あの今夜が山、と言っていた夜なんですがね。
私が意識を失ったせいで、パチュリー様は私が死んでしまったと勘違いしたそうなんですが……
寝てただけでして……
非常に悪気はないんですけど。
昨日のあのテンションが嘘のように、まるっきり平凡な朝を迎えてしまったわけです。もうめちゃめちゃ寝起きの気分が良くてびっくりです。でも私が眠っていた布団にずっとすがり付いていたと思われるパチュリー様の寝姿をベッドの上に見つけたときは、いろいろな意味で血の気が引きましたけどね。
あれだけ大見得きったのに、熟睡してましたとか。
一度引いた血の気が、羞恥心で一気に燃え上がる感覚なんて初めての経験でしたよ。
そして、そんな恥ずかしさに耐えながら、三人で仲良く永遠亭にやってきてみたら。
『完治』
と、あっさり太鼓判を押される始末。
冷たい聴診器の感触が残る胸を服で覆い隠しながら、私と魔理沙は顔を見合わせることしかできませんでした。
その後、二人でタイミング計ったように、もう一人の人物を。
朝起きてから何もしゃべらなかったパチュリー様の方を振り帰ると。
「死んじゃえ、この馬鹿……」
真っ赤な顔をさらに紅色に染めながら。
消え入りそうな声を返してきます。
一冊だけ持ってきた本で口元を隠す姿を見ることができただけで、生きてて良かったと心から思います。
やっぱり、私のご主人様は一番魅力的ですね、まるっ!
小悪魔の魔理沙やペチュリーへ向ける感情とか、パチュリーの「こぁを返して」という言葉や顔を赤くしたり、
後日談の話など面白かったです。
一部余計な部分があったので報告です。
>それを深夜になったらしたらパチュリー様にもお伝えするように~
『したら』が必要ないかと。
ただ、あのタイミングで魔理沙に「こぁを返して」は、ちょっとどうなんだろうと思ったり。
はじめの空気からこりゃ暗くなるかなと思ったが
予想をいい意味で裏切られたww
やっぱハッピーエンドが一番だな