魂魄妖夢は一度、立ち止まった。
そっと自分の胸に触れて、静かに息を吐いた。
妖夢は己の未熟を知っている。己の剣がいかに脆いか。己の意志がいかに脆いか。
師は常から何も語らないが、何も語らないからこそ、はっきりと自覚するのだ。
私はあまりにも、弱い。心体どちらともに、弱い。
思えば思うほど悔しくなって、胸の奥底に暗い情念が渦巻くのを、彼女は感じた。
そう簡単に乱れる心にこそ、脆さがあるのだとわかっていてもだ。
この時期はいつもそうだ。きっと真に生きるものたちならば、身を切るような、という形容が適当であろう。しかし、半霊の彼女にはどこか薄ぼんやりとしていて、むしろ気の緩んでしまうような冬が過ぎようという時。
常の彼女ならば、白玉楼に閉じこもって、一歩も出ないであろう時期。
妖夢はいつも己の無力に打ち震える。一度、鍛錬を始めれば自らの振るう剣に眉をひそめ、主と言葉を交わせば、ふわふわとおぼつかない自らの言葉に苛立つ。
庭の手入れをすれば、ふと師の姿が脳裏によぎり、唇を思いっきり噛む。
しかし、では自分は何をするのか。何ができるのか?
そう自問しては、彼女は自身の答えに気圧され、押し黙って、何もできなくなる。
そしてまた、情けない面を引っ提げて、『時期』が過ぎるのを息を殺して待つようになるのだ。平静を装って、師にも主にも阿呆のような笑顔を向けて、ただ日々を過ごすのだ。
しかし、それではいけない、とついに己を叱咤したのが今年である。
妖夢は無理矢理にでも気持ちを整えようとする。かき乱された意識で成せることなどではないのだ。
ようやっと自身を衝き動かした決意である。みっともない劣等感で濁らせるわけにはいかない。
もう一度息を吐いて、妖夢はあたりを見回した。近くに手頃な桜の木を見つけて、とと、と走り寄った。両手でその樹幹をひっつかむと、思いっきり額を打ち付けた。
我ながら評価に値する勢いであった。あまりの衝撃に、脳がぐわんと揺れたように感じたほどだ。軽く潤んだ目を拭って、ゆっくりと額を木の幹から離した。
じんじんと、痛みはなかなか収まらない。
しかしこれで、あっちへふらりこっちへふらりと迷い子のような、己の思いも少しは正されたのではないか。
妖夢は自分が出会いがしらに頭突きをかましてしまった桜を、見る。
春など知らぬと言わんばかりに、寒々しく裸の体を風に震わせる様を、眺める。
とんとんと、妖夢は腰の刀の、柄頭を指で叩く。
踵を返して、彼女は今さっき背を向けたばかりの目的地へ、歩を進めた。
ここ白玉楼に生えるどの桜よりも妖しく美しく、だが醜く不気味な妖怪桜。
西行妖の元へと向かったのだ。
気付けば早足になっている自分に、妖夢は舌打ちをした。
急いては事を仕損じる。教えでもなんでもなく、これは留意すべきことだ。歩を緩めると同時に、妖夢はぎくしゃくと振っていた右腕を、鞘を掴んで離さない左手を正した。
ゆっくりと、ゆっくりと、そうだ。お嬢様のごとく、マイペースたれ。
白玉楼の広大な庭を、妖夢はなるべく気を張らず、しかし油断なく歩いた。
いやに静かだ。きょろきょろとせわしない自分の視線に辟易しながら、彼女は思う。
いつもならば、この時期、白玉楼は春の匂いにつられた幽霊たちが騒いでいたりして、およそ人間が持つ冥界のイメージとは異なるであろう、賑やかなものとなっているはずだ。
憶えている。父などは、いつもそのような連中を見かけると、務めなどほったらかして、その中に混ざって馬鹿騒ぎをするのだ。それがあまりにも度を過ぎているので、ある日、とうとう祖父が怒りだして真剣を持ち出したことを、まだ幼かった妖夢も鮮明に記憶していた。ふくふくと笑う、己が主の満ち足りた表情も、一緒に憶えている。
けらけらといつも笑って陽気な父と、年がら年中ぶすっと不平顔をしている祖父。
対照的な二人は、そうして見ている限りでは、まるで血の繋がりを感じさせなかった。
俺は捨て子だ、と父が何時の日か、冗談とも本気とも取れる調子で言った。祖父と喧嘩をした時のように思う。無名の丘なるところでクソ親父に拾われたのだ、と。
面倒な家に拾われてしまった、と零して、それから遅れて思い出したように、くつくつ笑っていた。
その反応は正しい。だって、妖夢もその言葉を可笑しく思ったのだ。
幽々子とともに歩む自らの父を、妖夢は幾度となく見かけている。
凛としていて、けれどもどこかその表情には幸せが滲んでいた。弛んでいるわけでは決してなく、むしろいつも以上に感覚を研ぎ澄ましているであろうに、気を張ったところがまるでない。ただ、自然と、主を護る。
そんな真似が面倒がって出来るものではないことを、妖夢はわかっていたのだ。
ちなみに、父の何気ない告白の真偽は、今をもってはっきりしない。
もともとお気楽な父に、寡黙が過ぎる祖父、いつもふわふわとしている主だ。そういえば、たまに見るからに怪しい、派手な格好をした妖怪の女もいたか。
とにかく、異常と言えばどれもが異常な彼女の周りだ。家族としておかしな点は多々あれども、彼女は気にしていなかったし、今も気にしていない。
とはいえ、放っておくのもつまらないと思ったのだ。あれから一応、妖夢が改めて問いただしたのだが、父は笑って適当に話を逸らして誤魔化すばかりだったし、祖父はしかめっ面のまま、黙って彼女の頭をがしがしと撫でるだけだった。
ただ、妖夢自身、自身の祖母の姿も母の姿さえも見かけたことがない。
父が捨て子ならば、もしや自分も素質なりなんなりを見出されて、どこかから『補充』されてきたのかな。妖夢はさしたる憤慨も悲哀もなく想像をしていた。
なにぶん特殊な身体だ。これが先天的なものでないのならば、まともな者には務まらないであろう。血のつながった者を、とはこだわれずに選別する必要があったのかもしれない。
だとしたら、と妖夢は今も思っている。そういう事情の下、『魂魄妖夢』を名乗れる自分を、妖夢は誇りに思う。
それほどに、妖夢は父が好きで、祖父が好きで、幽々子が好きだった。
と、妖夢は首を振って思考を断ち切った。
本音を言えば、心細いせいもあるのだろう。ついつい拠り所を求めて、思考があらぬ方向に飛んでいってしまっていた。だめだ、と妖夢は自身を叱咤する。それは甘えだ。甘えは刃を鈍らせる。
父の事はもちろん、祖父のことだって今は考えてはいけない。妖夢の脆い意志は、それに耐え得る強さを持っていないのだ。
祖父の事を考えるということは、祖父を想うことに繋がる。
殺したいぐらいに憎いのか、出来る限り傍にいたいぐらいに愛しいのか、わからない祖父。
ああだめだ、と妖夢は力なく笑った。
やはり、あの人のことが頭を離れない。否が応にも、考えてしまう。
『面倒な』一族に生まれた彼女が初めて言葉を話した時、字を書いた時、剣を握った時、一生に何度見れるかわからない、笑顔を見せた祖父。
道を違えた父をその手にかけて、私に斬れないものはない、と言い放った祖父。
お嬢様の命に背いて、何が従者か。
私が仕えたのは西行寺幽々子様であって、『彼女』ではない。
父も祖父も、お互いがひどく興奮しているのが、あの時妖夢には手に取るように感じられた。まさしく一触即発であった。真剣で打ち合うような鋭い言葉の応酬に、彼女は耳を塞いで身体を震わせたものだ。
やがて、なんとか勇気を振り絞って、あちこちつまずきながら幽々子のもとへと急いだ。すぐに熱くなる彼らを止めるのは、いつも彼女だったのだ。そもそもその争いの全てが彼女を原因としてるのだから、当たり前ではあった。常と同じ口喧嘩でありながら、その中に常とは違う異様を感じていた妖夢は、とにかく急いで自らの主を捜していた。
その時だ。初めてあの桜を意識したように思う。
満開とはいかないけれども、見事に咲き誇る西行妖。
その下でぼんやりと佇んだ、幽々子の微笑み。
怖い、と妖夢は一瞬だけ、感じた。どちらが、とは判別がつかない。
しかしすぐに尋常ならざる現状が彼女を追いたて、自らの主に呼びかけるに至った。
再び彼らのもとに戻った彼女たちが見たのは、茫然と立ち尽くす祖父だった。
楼観剣を片手に、血で汚れた頬を拭って、自らの足元に倒れ伏す父を見下ろす、祖父だた。その時すら、彼は何も言葉を紡ごうとはしなかった。
彼は自らの愛刀を投げ捨てると、白楼剣を引き抜いて父の背に突き立てた。
それでも。
決して短くはない時を経て、妖夢は思ってしまう。
父の亡骸を抱いて、耳を塞ぎたくなるほどに慟哭する祖父を知る妖夢は、祖父を思えば、やはり彼を大切に想うのだ。握る刀が鈍るほどに、想ってしまうのである。
それではいけないのだ。それでは決意の意味がなくなる。
ただ西行寺幽々子のために誓った決意を、守りきれなくなる。
父の思いを、無駄にしてしまう。
魂魄妖忌は斬らねばならない。
う、と声が漏れた。
妖夢は口を押さえて、しばしの間、身を屈めてじっと目を瞑った。
気持ち悪い。嘔吐感がとめどなく込み上げてきて、妖夢は弱る。そのままうずくまって、地面に指を突き立てた。がりがりと音を立てて、削った。
地面に頭を打ち付けた。二度、三度、打ち付けた。身体をよじらせて、自分の肩を強く抱いた。うう、とまた無様に彼女は唸った。
無為に、時が過ぎた。
怖気が走るような深い静寂の中、少女の荒い息遣いはことさらに強調される。
桜の木々がざわざわとさざめき立つ。
意味もなく間延びする冬に苛立つように、木枯らしに身を躍らせている。
やがて。
大丈夫だ。妖夢は少しだけだが、ようやく頬を引きつらせたることに成功した。
妖夢に言わせれば、それは笑みであった。
唾を吐いて、妖夢はなんとか立ち上がった。ややおぼつかない足取りに、拳骨で脚を殴って、ずんずんと彼女は突き進んだ。なんだ、越えてしまえばやたらに彼女は陽気であった。ほら、かしゃりかしゃりと、腰の刀も笑っている。
楼観剣と白楼剣。二本の刀の柄を愛おしげに撫でると、歩を早めていった。
魂魄妖忌を斬らねばならない。
心中に呟いても、今度はなにを揺らがせることもなかった。妖夢は意気揚々と歩調も変らず、着々と目的地に近付いていった。
全ては主のため、西行妖を咲かせるためだ。
それを長年阻んできたあの老いたりを、ついに打ち据える時が来たのだ。
ちら、と腰の二本を見やる。
もとより分はこちらにあるのだ。あれがしているのは老人の悪あがきである。
なんだ。冷静に考えれば、くだらない。
自分は何を怖がっていたのだろう。何を葛藤していたのだ。
亡き父のように、あの方に忠義を尽くし、その存在の限りを捧げよう。
物を言わない祖父を睨みながら、彼女は誓ったのだ。彼の術を必死に盗み、彼の言葉を解し、いずれは彼を越えて斬り伏せてやろうと、胸の内で吠えたてたものではないか。
昔の話だ、などと戯けたことを言うなよ。
鞘を握る手が、ぐっと力を増した。小刻みに震えて、白く変色した。
重いため息を吐いて、しかし歩みはさらに早くなっていく。
身体が熱い。
復讐心に身が滾っているのか、師に祖父に喜び勇んで刃を向けようという羞恥からか。
なんにせよ、今の自分ならば、主の思いを果たすことが出来る。
頭に浮かぶ父の姿に目元を緩めて、祖父の姿に唇を引き結んで、妖夢は歩む。
は、と妖夢は息を呑んだ。
見えたのだ。
西行妖である。やはりというか、遠目から見ても、他の桜とはまるで違う。雄々しく猛々しく屹立するそれは、まさしく人を畏怖させ魅了する妖怪桜だ。
しかしそれに十分な魔力を感じないのは、やはりその状態に起因するのだろう。
他の木々と同じように、丸裸なのだ。
茫然としていた妖夢は、遅れて事態を把握した。
はやる気持ちを抑えきれず、息を乱して走り出した。目の前に倒れる大柄な男を跳び越えて、首から上を失くして呻く亡霊を蹴倒して、ひたすらに急いだ。
人間の死体、妖怪の死体、もうどちらとも区別できない肉塊、幽霊、亡霊……。
死屍累々の血と生と死の匂いが混じり合った悪臭に、妖夢は眉をひそめた。
西行妖が近づく。足がすくむほどの巨躯が、彼女を喰らわんばかりにおぞましく広がり、視界を覆う。ぴたり、と妖夢は足を止めた。
妖怪桜の下で、まるで臆することもなくただ泰然と立つ男。
背が高いせいもあるだろうが、それを考慮に入れても痩せぎすだ。そのくせ、肌が異様に白く、その面には深いしわが刻まれていて、およそ生よりも死に近い印象を受ける。
目ばかりがぎらぎらと獣じみた輝きを放っていて、そこだけに突出した生気というか、彼を彼たらしめる豪気を、妖夢は認めた。
顎に蓄えられた白いひげには、千年以上を在り続けた魂としての傲慢を感じた。
彼の周りの血だまりは、その手に握られた獲物によるものだろう。どこで手に入れたのか。何者かからでも奪い取ったか。
剣先の欠けた、一見してわかるなまくらをぶらりと下げて、妖忌は立っている。
彼の足もとには、生きていた人間がいた。妖怪もいた。切り捨てられ消えた幽霊や亡霊もいるはずだ。あちこちから春を集め、結局たったの一人にそれら全てを奪われた、妖夢の主が雇っていた者たちだ。
またか。
妖夢は重く沈んでいく自身の心情に、知らずに頭を垂れた。
まただめなのか。
脆い剣を携え、脆い意志に身を衝き動かされてここまで来た彼女は、いとも簡単に心を挫かれてしまった。敗北が、脳裏をよぎったのだ。
負ける。剣を交えずしてそれを悟った妖夢は、思う。
では、自分は何をするのか。何かできるのか?
答えよりも先に、胸を焦がす激情が、彼女を奮い立たせた。
また、いつものように、西行妖を咲かすことなく、春が訪れ過ぎ去るのか。
父が望んだ桜を。
父が仕えた『彼女』が望んだ桜を。
嫌だ。嫌だ、そんなのは。
妖夢は決めたのだ。いかに子供じみていようと、理に反していようと、そんなことは些細な問題なのだ。もうあの頃は戻らないけれど、戻らないからこそ、彼女の彼の夢を、妖夢は果たさんと立ちあがれたのである。
そうすることが自身の務めだと、魂魄の名に誇りを持つ彼女は、断じたのだ。
その邪魔をするのならば、強大な妖怪とて、実の祖父とて、斬る。
ゆっくりと顔を上げた妖夢を、静かに妖忌は見据えていた。
一歩、妖夢はその元に近づいた。
妖夢は腰を落とすと、右手を楼観剣の柄に添えた。じりじりと、妖忌との距離を縮めていく。一方、妖忌は動かない。刀を構えることもなく、突っ立っていた。
稽古の時とは大違いだ。呆けた感想を、妖夢は抱いた。
妖忌の稽古は厳しかった。彼は父にも稽古をつけていたが、父のものとは比べ物にならないぐらい、妖忌の妖夢に対しての稽古は激烈であった。とにかく打つ。ひたすらに打つ。狂ったように繰り出される彼の技に、彼女は本物の殺意を感じたものだ。
今思えばそれは期待の表れだったのだろうが、それをおくびにも出さない彼だ。妖夢にとっては、父のほうが優遇されているようにしか思えなかったものだ。
しかし今の彼はあの時と真逆である。ただ沈黙し、ただ不動だ。
これが妖忌の剣術なのだとすれば、……はて。未熟な妖夢には警戒しかできない。
気付けば、動悸が激しい。こともあろうに、地面を這う彼女の足は、小刻みに震えていた。しかもだ。普段ならば大したことのないような運動で、肩で息をしている。
敵を眼前に控えて、動揺したか。……修行不足にもほどがある。妖夢は歯ぎしりをしたが、目だけは妖忌を捉えて離さなかった。一歩と半歩かな。あとそれほどで、妖忌の刀は、この首元に届く。ここまで来て、刀も抜かずに首を飛ばされてはたまらないのだ。
引き抜いた楼観剣は、ほとんど竹刀しか握ったことのない妖夢には重く感じた。単純な重量もあるが、道具では量れない重みがあったのだ。
主の意のままに、善意も悪意もなく平等に斬って捨てた、魂をすすってきたこの刀は、その最後に自身の持ち主さえも斬る。
胸糞の悪い因縁のある刀である。妖忌を斬れば、それでさっさと叩き折ってしまうつもりだが、それにしても底知れない不安感を抱かせる代物だ。
握っていると、自分の命も、ひとの命も、容易く感じてしまう。
妖夢は息を整えた。きりきりと痛む頭に惑わないように、意識を集中した。
斬ってやる。妖夢は念じた。
魂魄妖忌。貴方は邪魔だ。貴方のせいで、何度西行妖は満開を逃したものか。
何年も何十年も何百年も幽々子を護り、何年も何十年も何百年も幽々子の願いを阻み、挙句に自身の息子をも斬り捨て、なおも平気な面をする非道のジジイめ。
西行寺幽々子は護るが、『彼女』の願いは聞き入れられない。
そんな訳のわからない主張が通るものか。
妖夢は自らの父のごとく、一つの思いに身を熱くした。
一瞬。
一瞬のうちに、妖夢は妖忌に肉迫していた。自分自身の意識すら追いつかない、本能に任せたその動きは、まさしく彼女の覚悟の具現であった。
しかし、妖夢は目を見張って、ぞくりと悪寒が走った。妖忌の目だ。彼は確かに、いとも簡単に、妖夢の動きを目で追っていた。
自分の手首が斬り飛ばされることを、妖夢はごく自然に予想した。いや、思いきりにぶつかられて、押し倒されるか。まて、妖忌ならば直接首を狙えるかもしれない。
しかし、彼女の予想は外れる。信じがたいことに、妖忌は何もしなかったのだ。
なぜ、という疑問は凄まじい自身の危機感と殺意にかき消された。
妖夢もまた身体を硬直させていることを、遅れて察したのだ。
斬らなければ。
ぐるぐると胸の内でうずまき、混濁する感情に、しかし妖夢は構わない。
は、は、は、……。肺が潰れてしまいそうに、呼吸が辛い。
両手で握られた柄が、ぎしぎしと音を立てる。必要以上に力が籠っているのだ。
天を衝く楼観剣は、気味悪く頭上に広がる西行妖に遮られてか、鈍く光るのみだ。
ごくり、と喉が鳴った。
目の前で無防備に刀を振り上げる妖夢に、妖忌はいまだ動きを見せない。
「斬ります」
妖夢は、宣言していた。訴えかけるように、吠えていた。
斬ってやる斬ってやる斬ってやる斬ってやる斬ってやる斬ってやる斬ってやる斬ってやる!
その何倍も、何遍も妖夢は心中で叫んでいた。
あれはお嬢様ではない。
かつて妖忌は、妖夢とその父を西行妖の下に呼んで、重々しく言った。
お嬢様は、ここにおる。あの哀れな娘の心は、ここに眠っておる。
ゆっくりと自分の足下を指さして、妖忌は言った。
だからどうした、だからどうした、俺はあの人を護るぞ。それだって護ってやる。
顔を赤くして、唾を飛ばして、怒る父に、珍しく、本当に珍しく、妖忌は柔らかな笑みを浮かべたものだ。
当たり前だ。だから、一年に一度ぐらいは、無礼を許せと言うのだ。あのお嬢様を護るために、あのお嬢様の命に背くのだ。良いな?
昔の記憶であった。もう、誰も彼もが日々を在り続けるために、すっかりと摩耗して消え失せてしまったような、大昔の話だ。
妖夢の手が、わなわなと震える。
今さっきまでは斬れないものはないとばかりに威勢のよかった妖夢の『剣』は、すっかりと脆く、弱く、羽虫の一匹すら払えないただの心の重しと化していた。
片目から一筋、涙が流れた。
妖夢は膝をついた。がしゃり、と重い金属音を立てて、楼観剣が傍らに転がった。
見上げる妖忌の顔は、一見、無表情に見える。
しかし、彼が握るなまくら刀を見て、妖夢は愕然とした。
骨ばっていて、大きい、彼女が幼い頃から恐れ、憧れていた祖父の手は、今や見る影もない。まさしく老いたりであった。何の思いに中てられてか、それには猛る力がなく、揺るがぬ頑強さもない。涙する少女を前に、震えるばかりの老人の手だ。
まるでその手は、眼前に輝く命を、潰すのに躊躇っているように思えた。
妖忌は唇を噛み切らんばかりに表情を歪めて、一歩、前に出た。
そして。
さらに一歩。もう一歩。妖夢は嗚咽する。
妖忌は物も言わず、彼女の横を、通り過ぎて行ったのだ。
足音もなく、ただ彼の気配が遠く薄くなっていくのを、妖夢は感じた。
妖夢は後ろを振り返ることが出来ず、しかし妖怪桜を仰ぎ見ることも出来ず、瞑目して口元を押さえて、頭を垂れるのみだった。
彼はもう戻ってこないだろう。なんとなく、妖夢は思った。
妖夢もまた、しばらくは剣を振るうことはないように思えた。出来ないように、思えた。
彼女の、彼の、剣は折られてしまったのだ。
妖夢はずっとそのままだった。そこにいるはずのない誰かに、頭を下げているのだ。
やがて、そよ風が彼女の頬を撫でた。暖かな、優しい春風であった。
今年もまた、誰しもが気付かない程度の遅刻をして、春が訪れたのだ。
そっと自分の胸に触れて、静かに息を吐いた。
妖夢は己の未熟を知っている。己の剣がいかに脆いか。己の意志がいかに脆いか。
師は常から何も語らないが、何も語らないからこそ、はっきりと自覚するのだ。
私はあまりにも、弱い。心体どちらともに、弱い。
思えば思うほど悔しくなって、胸の奥底に暗い情念が渦巻くのを、彼女は感じた。
そう簡単に乱れる心にこそ、脆さがあるのだとわかっていてもだ。
この時期はいつもそうだ。きっと真に生きるものたちならば、身を切るような、という形容が適当であろう。しかし、半霊の彼女にはどこか薄ぼんやりとしていて、むしろ気の緩んでしまうような冬が過ぎようという時。
常の彼女ならば、白玉楼に閉じこもって、一歩も出ないであろう時期。
妖夢はいつも己の無力に打ち震える。一度、鍛錬を始めれば自らの振るう剣に眉をひそめ、主と言葉を交わせば、ふわふわとおぼつかない自らの言葉に苛立つ。
庭の手入れをすれば、ふと師の姿が脳裏によぎり、唇を思いっきり噛む。
しかし、では自分は何をするのか。何ができるのか?
そう自問しては、彼女は自身の答えに気圧され、押し黙って、何もできなくなる。
そしてまた、情けない面を引っ提げて、『時期』が過ぎるのを息を殺して待つようになるのだ。平静を装って、師にも主にも阿呆のような笑顔を向けて、ただ日々を過ごすのだ。
しかし、それではいけない、とついに己を叱咤したのが今年である。
妖夢は無理矢理にでも気持ちを整えようとする。かき乱された意識で成せることなどではないのだ。
ようやっと自身を衝き動かした決意である。みっともない劣等感で濁らせるわけにはいかない。
もう一度息を吐いて、妖夢はあたりを見回した。近くに手頃な桜の木を見つけて、とと、と走り寄った。両手でその樹幹をひっつかむと、思いっきり額を打ち付けた。
我ながら評価に値する勢いであった。あまりの衝撃に、脳がぐわんと揺れたように感じたほどだ。軽く潤んだ目を拭って、ゆっくりと額を木の幹から離した。
じんじんと、痛みはなかなか収まらない。
しかしこれで、あっちへふらりこっちへふらりと迷い子のような、己の思いも少しは正されたのではないか。
妖夢は自分が出会いがしらに頭突きをかましてしまった桜を、見る。
春など知らぬと言わんばかりに、寒々しく裸の体を風に震わせる様を、眺める。
とんとんと、妖夢は腰の刀の、柄頭を指で叩く。
踵を返して、彼女は今さっき背を向けたばかりの目的地へ、歩を進めた。
ここ白玉楼に生えるどの桜よりも妖しく美しく、だが醜く不気味な妖怪桜。
西行妖の元へと向かったのだ。
気付けば早足になっている自分に、妖夢は舌打ちをした。
急いては事を仕損じる。教えでもなんでもなく、これは留意すべきことだ。歩を緩めると同時に、妖夢はぎくしゃくと振っていた右腕を、鞘を掴んで離さない左手を正した。
ゆっくりと、ゆっくりと、そうだ。お嬢様のごとく、マイペースたれ。
白玉楼の広大な庭を、妖夢はなるべく気を張らず、しかし油断なく歩いた。
いやに静かだ。きょろきょろとせわしない自分の視線に辟易しながら、彼女は思う。
いつもならば、この時期、白玉楼は春の匂いにつられた幽霊たちが騒いでいたりして、およそ人間が持つ冥界のイメージとは異なるであろう、賑やかなものとなっているはずだ。
憶えている。父などは、いつもそのような連中を見かけると、務めなどほったらかして、その中に混ざって馬鹿騒ぎをするのだ。それがあまりにも度を過ぎているので、ある日、とうとう祖父が怒りだして真剣を持ち出したことを、まだ幼かった妖夢も鮮明に記憶していた。ふくふくと笑う、己が主の満ち足りた表情も、一緒に憶えている。
けらけらといつも笑って陽気な父と、年がら年中ぶすっと不平顔をしている祖父。
対照的な二人は、そうして見ている限りでは、まるで血の繋がりを感じさせなかった。
俺は捨て子だ、と父が何時の日か、冗談とも本気とも取れる調子で言った。祖父と喧嘩をした時のように思う。無名の丘なるところでクソ親父に拾われたのだ、と。
面倒な家に拾われてしまった、と零して、それから遅れて思い出したように、くつくつ笑っていた。
その反応は正しい。だって、妖夢もその言葉を可笑しく思ったのだ。
幽々子とともに歩む自らの父を、妖夢は幾度となく見かけている。
凛としていて、けれどもどこかその表情には幸せが滲んでいた。弛んでいるわけでは決してなく、むしろいつも以上に感覚を研ぎ澄ましているであろうに、気を張ったところがまるでない。ただ、自然と、主を護る。
そんな真似が面倒がって出来るものではないことを、妖夢はわかっていたのだ。
ちなみに、父の何気ない告白の真偽は、今をもってはっきりしない。
もともとお気楽な父に、寡黙が過ぎる祖父、いつもふわふわとしている主だ。そういえば、たまに見るからに怪しい、派手な格好をした妖怪の女もいたか。
とにかく、異常と言えばどれもが異常な彼女の周りだ。家族としておかしな点は多々あれども、彼女は気にしていなかったし、今も気にしていない。
とはいえ、放っておくのもつまらないと思ったのだ。あれから一応、妖夢が改めて問いただしたのだが、父は笑って適当に話を逸らして誤魔化すばかりだったし、祖父はしかめっ面のまま、黙って彼女の頭をがしがしと撫でるだけだった。
ただ、妖夢自身、自身の祖母の姿も母の姿さえも見かけたことがない。
父が捨て子ならば、もしや自分も素質なりなんなりを見出されて、どこかから『補充』されてきたのかな。妖夢はさしたる憤慨も悲哀もなく想像をしていた。
なにぶん特殊な身体だ。これが先天的なものでないのならば、まともな者には務まらないであろう。血のつながった者を、とはこだわれずに選別する必要があったのかもしれない。
だとしたら、と妖夢は今も思っている。そういう事情の下、『魂魄妖夢』を名乗れる自分を、妖夢は誇りに思う。
それほどに、妖夢は父が好きで、祖父が好きで、幽々子が好きだった。
と、妖夢は首を振って思考を断ち切った。
本音を言えば、心細いせいもあるのだろう。ついつい拠り所を求めて、思考があらぬ方向に飛んでいってしまっていた。だめだ、と妖夢は自身を叱咤する。それは甘えだ。甘えは刃を鈍らせる。
父の事はもちろん、祖父のことだって今は考えてはいけない。妖夢の脆い意志は、それに耐え得る強さを持っていないのだ。
祖父の事を考えるということは、祖父を想うことに繋がる。
殺したいぐらいに憎いのか、出来る限り傍にいたいぐらいに愛しいのか、わからない祖父。
ああだめだ、と妖夢は力なく笑った。
やはり、あの人のことが頭を離れない。否が応にも、考えてしまう。
『面倒な』一族に生まれた彼女が初めて言葉を話した時、字を書いた時、剣を握った時、一生に何度見れるかわからない、笑顔を見せた祖父。
道を違えた父をその手にかけて、私に斬れないものはない、と言い放った祖父。
お嬢様の命に背いて、何が従者か。
私が仕えたのは西行寺幽々子様であって、『彼女』ではない。
父も祖父も、お互いがひどく興奮しているのが、あの時妖夢には手に取るように感じられた。まさしく一触即発であった。真剣で打ち合うような鋭い言葉の応酬に、彼女は耳を塞いで身体を震わせたものだ。
やがて、なんとか勇気を振り絞って、あちこちつまずきながら幽々子のもとへと急いだ。すぐに熱くなる彼らを止めるのは、いつも彼女だったのだ。そもそもその争いの全てが彼女を原因としてるのだから、当たり前ではあった。常と同じ口喧嘩でありながら、その中に常とは違う異様を感じていた妖夢は、とにかく急いで自らの主を捜していた。
その時だ。初めてあの桜を意識したように思う。
満開とはいかないけれども、見事に咲き誇る西行妖。
その下でぼんやりと佇んだ、幽々子の微笑み。
怖い、と妖夢は一瞬だけ、感じた。どちらが、とは判別がつかない。
しかしすぐに尋常ならざる現状が彼女を追いたて、自らの主に呼びかけるに至った。
再び彼らのもとに戻った彼女たちが見たのは、茫然と立ち尽くす祖父だった。
楼観剣を片手に、血で汚れた頬を拭って、自らの足元に倒れ伏す父を見下ろす、祖父だた。その時すら、彼は何も言葉を紡ごうとはしなかった。
彼は自らの愛刀を投げ捨てると、白楼剣を引き抜いて父の背に突き立てた。
それでも。
決して短くはない時を経て、妖夢は思ってしまう。
父の亡骸を抱いて、耳を塞ぎたくなるほどに慟哭する祖父を知る妖夢は、祖父を思えば、やはり彼を大切に想うのだ。握る刀が鈍るほどに、想ってしまうのである。
それではいけないのだ。それでは決意の意味がなくなる。
ただ西行寺幽々子のために誓った決意を、守りきれなくなる。
父の思いを、無駄にしてしまう。
魂魄妖忌は斬らねばならない。
う、と声が漏れた。
妖夢は口を押さえて、しばしの間、身を屈めてじっと目を瞑った。
気持ち悪い。嘔吐感がとめどなく込み上げてきて、妖夢は弱る。そのままうずくまって、地面に指を突き立てた。がりがりと音を立てて、削った。
地面に頭を打ち付けた。二度、三度、打ち付けた。身体をよじらせて、自分の肩を強く抱いた。うう、とまた無様に彼女は唸った。
無為に、時が過ぎた。
怖気が走るような深い静寂の中、少女の荒い息遣いはことさらに強調される。
桜の木々がざわざわとさざめき立つ。
意味もなく間延びする冬に苛立つように、木枯らしに身を躍らせている。
やがて。
大丈夫だ。妖夢は少しだけだが、ようやく頬を引きつらせたることに成功した。
妖夢に言わせれば、それは笑みであった。
唾を吐いて、妖夢はなんとか立ち上がった。ややおぼつかない足取りに、拳骨で脚を殴って、ずんずんと彼女は突き進んだ。なんだ、越えてしまえばやたらに彼女は陽気であった。ほら、かしゃりかしゃりと、腰の刀も笑っている。
楼観剣と白楼剣。二本の刀の柄を愛おしげに撫でると、歩を早めていった。
魂魄妖忌を斬らねばならない。
心中に呟いても、今度はなにを揺らがせることもなかった。妖夢は意気揚々と歩調も変らず、着々と目的地に近付いていった。
全ては主のため、西行妖を咲かせるためだ。
それを長年阻んできたあの老いたりを、ついに打ち据える時が来たのだ。
ちら、と腰の二本を見やる。
もとより分はこちらにあるのだ。あれがしているのは老人の悪あがきである。
なんだ。冷静に考えれば、くだらない。
自分は何を怖がっていたのだろう。何を葛藤していたのだ。
亡き父のように、あの方に忠義を尽くし、その存在の限りを捧げよう。
物を言わない祖父を睨みながら、彼女は誓ったのだ。彼の術を必死に盗み、彼の言葉を解し、いずれは彼を越えて斬り伏せてやろうと、胸の内で吠えたてたものではないか。
昔の話だ、などと戯けたことを言うなよ。
鞘を握る手が、ぐっと力を増した。小刻みに震えて、白く変色した。
重いため息を吐いて、しかし歩みはさらに早くなっていく。
身体が熱い。
復讐心に身が滾っているのか、師に祖父に喜び勇んで刃を向けようという羞恥からか。
なんにせよ、今の自分ならば、主の思いを果たすことが出来る。
頭に浮かぶ父の姿に目元を緩めて、祖父の姿に唇を引き結んで、妖夢は歩む。
は、と妖夢は息を呑んだ。
見えたのだ。
西行妖である。やはりというか、遠目から見ても、他の桜とはまるで違う。雄々しく猛々しく屹立するそれは、まさしく人を畏怖させ魅了する妖怪桜だ。
しかしそれに十分な魔力を感じないのは、やはりその状態に起因するのだろう。
他の木々と同じように、丸裸なのだ。
茫然としていた妖夢は、遅れて事態を把握した。
はやる気持ちを抑えきれず、息を乱して走り出した。目の前に倒れる大柄な男を跳び越えて、首から上を失くして呻く亡霊を蹴倒して、ひたすらに急いだ。
人間の死体、妖怪の死体、もうどちらとも区別できない肉塊、幽霊、亡霊……。
死屍累々の血と生と死の匂いが混じり合った悪臭に、妖夢は眉をひそめた。
西行妖が近づく。足がすくむほどの巨躯が、彼女を喰らわんばかりにおぞましく広がり、視界を覆う。ぴたり、と妖夢は足を止めた。
妖怪桜の下で、まるで臆することもなくただ泰然と立つ男。
背が高いせいもあるだろうが、それを考慮に入れても痩せぎすだ。そのくせ、肌が異様に白く、その面には深いしわが刻まれていて、およそ生よりも死に近い印象を受ける。
目ばかりがぎらぎらと獣じみた輝きを放っていて、そこだけに突出した生気というか、彼を彼たらしめる豪気を、妖夢は認めた。
顎に蓄えられた白いひげには、千年以上を在り続けた魂としての傲慢を感じた。
彼の周りの血だまりは、その手に握られた獲物によるものだろう。どこで手に入れたのか。何者かからでも奪い取ったか。
剣先の欠けた、一見してわかるなまくらをぶらりと下げて、妖忌は立っている。
彼の足もとには、生きていた人間がいた。妖怪もいた。切り捨てられ消えた幽霊や亡霊もいるはずだ。あちこちから春を集め、結局たったの一人にそれら全てを奪われた、妖夢の主が雇っていた者たちだ。
またか。
妖夢は重く沈んでいく自身の心情に、知らずに頭を垂れた。
まただめなのか。
脆い剣を携え、脆い意志に身を衝き動かされてここまで来た彼女は、いとも簡単に心を挫かれてしまった。敗北が、脳裏をよぎったのだ。
負ける。剣を交えずしてそれを悟った妖夢は、思う。
では、自分は何をするのか。何かできるのか?
答えよりも先に、胸を焦がす激情が、彼女を奮い立たせた。
また、いつものように、西行妖を咲かすことなく、春が訪れ過ぎ去るのか。
父が望んだ桜を。
父が仕えた『彼女』が望んだ桜を。
嫌だ。嫌だ、そんなのは。
妖夢は決めたのだ。いかに子供じみていようと、理に反していようと、そんなことは些細な問題なのだ。もうあの頃は戻らないけれど、戻らないからこそ、彼女の彼の夢を、妖夢は果たさんと立ちあがれたのである。
そうすることが自身の務めだと、魂魄の名に誇りを持つ彼女は、断じたのだ。
その邪魔をするのならば、強大な妖怪とて、実の祖父とて、斬る。
ゆっくりと顔を上げた妖夢を、静かに妖忌は見据えていた。
一歩、妖夢はその元に近づいた。
妖夢は腰を落とすと、右手を楼観剣の柄に添えた。じりじりと、妖忌との距離を縮めていく。一方、妖忌は動かない。刀を構えることもなく、突っ立っていた。
稽古の時とは大違いだ。呆けた感想を、妖夢は抱いた。
妖忌の稽古は厳しかった。彼は父にも稽古をつけていたが、父のものとは比べ物にならないぐらい、妖忌の妖夢に対しての稽古は激烈であった。とにかく打つ。ひたすらに打つ。狂ったように繰り出される彼の技に、彼女は本物の殺意を感じたものだ。
今思えばそれは期待の表れだったのだろうが、それをおくびにも出さない彼だ。妖夢にとっては、父のほうが優遇されているようにしか思えなかったものだ。
しかし今の彼はあの時と真逆である。ただ沈黙し、ただ不動だ。
これが妖忌の剣術なのだとすれば、……はて。未熟な妖夢には警戒しかできない。
気付けば、動悸が激しい。こともあろうに、地面を這う彼女の足は、小刻みに震えていた。しかもだ。普段ならば大したことのないような運動で、肩で息をしている。
敵を眼前に控えて、動揺したか。……修行不足にもほどがある。妖夢は歯ぎしりをしたが、目だけは妖忌を捉えて離さなかった。一歩と半歩かな。あとそれほどで、妖忌の刀は、この首元に届く。ここまで来て、刀も抜かずに首を飛ばされてはたまらないのだ。
引き抜いた楼観剣は、ほとんど竹刀しか握ったことのない妖夢には重く感じた。単純な重量もあるが、道具では量れない重みがあったのだ。
主の意のままに、善意も悪意もなく平等に斬って捨てた、魂をすすってきたこの刀は、その最後に自身の持ち主さえも斬る。
胸糞の悪い因縁のある刀である。妖忌を斬れば、それでさっさと叩き折ってしまうつもりだが、それにしても底知れない不安感を抱かせる代物だ。
握っていると、自分の命も、ひとの命も、容易く感じてしまう。
妖夢は息を整えた。きりきりと痛む頭に惑わないように、意識を集中した。
斬ってやる。妖夢は念じた。
魂魄妖忌。貴方は邪魔だ。貴方のせいで、何度西行妖は満開を逃したものか。
何年も何十年も何百年も幽々子を護り、何年も何十年も何百年も幽々子の願いを阻み、挙句に自身の息子をも斬り捨て、なおも平気な面をする非道のジジイめ。
西行寺幽々子は護るが、『彼女』の願いは聞き入れられない。
そんな訳のわからない主張が通るものか。
妖夢は自らの父のごとく、一つの思いに身を熱くした。
一瞬。
一瞬のうちに、妖夢は妖忌に肉迫していた。自分自身の意識すら追いつかない、本能に任せたその動きは、まさしく彼女の覚悟の具現であった。
しかし、妖夢は目を見張って、ぞくりと悪寒が走った。妖忌の目だ。彼は確かに、いとも簡単に、妖夢の動きを目で追っていた。
自分の手首が斬り飛ばされることを、妖夢はごく自然に予想した。いや、思いきりにぶつかられて、押し倒されるか。まて、妖忌ならば直接首を狙えるかもしれない。
しかし、彼女の予想は外れる。信じがたいことに、妖忌は何もしなかったのだ。
なぜ、という疑問は凄まじい自身の危機感と殺意にかき消された。
妖夢もまた身体を硬直させていることを、遅れて察したのだ。
斬らなければ。
ぐるぐると胸の内でうずまき、混濁する感情に、しかし妖夢は構わない。
は、は、は、……。肺が潰れてしまいそうに、呼吸が辛い。
両手で握られた柄が、ぎしぎしと音を立てる。必要以上に力が籠っているのだ。
天を衝く楼観剣は、気味悪く頭上に広がる西行妖に遮られてか、鈍く光るのみだ。
ごくり、と喉が鳴った。
目の前で無防備に刀を振り上げる妖夢に、妖忌はいまだ動きを見せない。
「斬ります」
妖夢は、宣言していた。訴えかけるように、吠えていた。
斬ってやる斬ってやる斬ってやる斬ってやる斬ってやる斬ってやる斬ってやる斬ってやる!
その何倍も、何遍も妖夢は心中で叫んでいた。
あれはお嬢様ではない。
かつて妖忌は、妖夢とその父を西行妖の下に呼んで、重々しく言った。
お嬢様は、ここにおる。あの哀れな娘の心は、ここに眠っておる。
ゆっくりと自分の足下を指さして、妖忌は言った。
だからどうした、だからどうした、俺はあの人を護るぞ。それだって護ってやる。
顔を赤くして、唾を飛ばして、怒る父に、珍しく、本当に珍しく、妖忌は柔らかな笑みを浮かべたものだ。
当たり前だ。だから、一年に一度ぐらいは、無礼を許せと言うのだ。あのお嬢様を護るために、あのお嬢様の命に背くのだ。良いな?
昔の記憶であった。もう、誰も彼もが日々を在り続けるために、すっかりと摩耗して消え失せてしまったような、大昔の話だ。
妖夢の手が、わなわなと震える。
今さっきまでは斬れないものはないとばかりに威勢のよかった妖夢の『剣』は、すっかりと脆く、弱く、羽虫の一匹すら払えないただの心の重しと化していた。
片目から一筋、涙が流れた。
妖夢は膝をついた。がしゃり、と重い金属音を立てて、楼観剣が傍らに転がった。
見上げる妖忌の顔は、一見、無表情に見える。
しかし、彼が握るなまくら刀を見て、妖夢は愕然とした。
骨ばっていて、大きい、彼女が幼い頃から恐れ、憧れていた祖父の手は、今や見る影もない。まさしく老いたりであった。何の思いに中てられてか、それには猛る力がなく、揺るがぬ頑強さもない。涙する少女を前に、震えるばかりの老人の手だ。
まるでその手は、眼前に輝く命を、潰すのに躊躇っているように思えた。
妖忌は唇を噛み切らんばかりに表情を歪めて、一歩、前に出た。
そして。
さらに一歩。もう一歩。妖夢は嗚咽する。
妖忌は物も言わず、彼女の横を、通り過ぎて行ったのだ。
足音もなく、ただ彼の気配が遠く薄くなっていくのを、妖夢は感じた。
妖夢は後ろを振り返ることが出来ず、しかし妖怪桜を仰ぎ見ることも出来ず、瞑目して口元を押さえて、頭を垂れるのみだった。
彼はもう戻ってこないだろう。なんとなく、妖夢は思った。
妖夢もまた、しばらくは剣を振るうことはないように思えた。出来ないように、思えた。
彼女の、彼の、剣は折られてしまったのだ。
妖夢はずっとそのままだった。そこにいるはずのない誰かに、頭を下げているのだ。
やがて、そよ風が彼女の頬を撫でた。暖かな、優しい春風であった。
今年もまた、誰しもが気付かない程度の遅刻をして、春が訪れたのだ。
なんというかせっぱ詰まったような、そぞろな妖夢の心境が伝わってくる描写がとても良く、剣の重さや春の風の無情さが強く弱く響いてくる。何度読み返しても心を打たれます。示唆的で想像をかき立ててくれる良い作品でした。
またお会いしましょう。では。
これはいいシリアス。
そんな二人が共に慮る幽々子の描写はほとんどないのに、物語の中心として機能している。
とてもいい短編映画を見た気分です。
何と言うのかな、巧く言えるかな。文章が優れているのは間違い無い。
言葉には事物の分節機能と、その言葉にヒトが如何な感じを懐くかの表象的機能がある。
例えばこれ、
>骨ばっていて、大きい、彼女が幼い頃から恐れ、憧れていた祖父の手は、今や見る影もない。まさしく老いたりであった。何の思いに中てられてか、それには猛る力がなく、揺るがぬ頑強さもない。涙する少女を前に、震えるばかりの老人の手だ。
この僅か数行に怒涛の如き妖夢の心象がちりばめられている。たったこれだけで妖忌を語れてしまっている。
この作者さんの感受性はとても綺麗に機能している様に思える。
と、云うわけで自分はのしのしさんを応援させて貰います。そして未読の人は是非。
これはもう文句なしだわ
ホントなんで伸びてないんだろう…