さて、人生というものは予想できないからこそ楽しいという言葉は、一体誰から聞いた言葉だったか。
鍛錬も終わり、仲間の玉兎達も思い思いの時間をすごしている。
私―――レイセンも一通りの訓練を終え、流した汗をタオルで拭きながらのんびりと歩いていた時のこと。
私は、その予想外の光景に立ち会うこととなったのである。
「……依姫、さま?」
視線を向けた先―――屋敷の縁側で柱に背を預けて眠りに落ちている依姫さまの姿を見つけて、私は思わず彼女の名を呼んだ。
いつもしゃんとして、誰に対しても凛とした佇まいで振舞っている彼女が、今は無防備にもその端正な寝顔を晒してしまっている。
なにしろ、月の使者のリーダーとして日々を歩んでいるお方だから、その疲れも並々ならぬものがあるのだろう。
だから、私は起こさないように彼女に近寄り、そっと隣に腰掛けた。
少し不躾だとは思ったけれど、依姫さまがこうやって眠っている姿なんてほとんど見た事がないから、ついつい覗き込んでしまう。
整った顔立ちは言わずもがな、白い透き通るような肌に藤色の長いサラサラの髪。
眠っているおかげでその長い睫がよりわかりやすく、聞こえる吐息はとても穏やかだ。
こうして見ていると、いつも抱く凛々しいという印象よりは―――その、なんと言うか可愛らしい。
自分にも他人にも、自身の姉にすらも厳しい性格の彼女が見せる、こんなにも穏やかで可愛らしい表情。
なんていうか、ギャップがすごい。すごいからこそ、なんだかこの寝顔を見られてすごく得をした気分になれた。
「意外だわ。依姫様の寝顔がこんなにも可愛らしいなんて、反則よ反則」
しかし、なんだか負けた気がして思わずそんな言葉がついて出る。
反則だって言うのなら、こうやって依姫さまの顔を覗き込んでる私のほうこそ、きっと反則に違いない。
なんともまぁ、我ながら都合のいいことを口走っているものだ。
でも、仕方ないじゃない。依姫さまの寝顔がこんなにも……その、胸がときめくような可愛さだなんて思わなかったんだから。
その可愛さを私だけで独り占めしてると思うと―――……うん、そんなに悪くないかも。
月の都の喧騒も、ここには届かない。
聞こえるのは私と、そして彼女の息遣いだけ。
もしも私が男だったら、……もしかしたら、依姫さまを襲ってしまってるかも。
そんなことしたら間違いなく命が無いとは思うけれど、つまりそれだけ今の彼女は魅力的なのだ。
裏を返せば、そんな考えが浮かんでしまうぐらいに今の依姫さまに参ってしまっているということなんだけれど、それはなんだかアレなので考えない方向で。
くぁっ……と、依姫さまにつられたか私のほうにも眠気が襲ってくる。
もともと体が疲れてたって言うのもあるんだろうけれど、これは中々に抗い難い。
何もやる気が無くなるこの虚脱感は、やっぱり生きている限りは付きまとうものなわけで。
だからそう、こうやって依姫さまに寄りかかるようにウトウトと舟をこぎ始めるのも、致し方ないことなのである。
よし、言訳おしまい。
こんなに暖かで、いい匂いがする姫のそばで眠りに落ちる。
なんという贅沢か。でもいいのだ、今はこの贅沢を堪能したくて仕方ないんだから。
そんな言訳がましい思考を最後に、私の意識はそこで途絶える。
暖かさと、心地良い香水の香りに包まれて、私は深い深いまどろみの中に落ちていった。
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お姫様には、とても尊敬するお師匠様がいました。
姉妹で一緒に習い事をして、お師匠様に褒められたくてなんでも一生懸命。
その人の教えを心に刻んで。
その人の笑顔も、心に刻んで。
大好きでした。心のそこから尊敬できて、もっと教えを乞いたいと心のそこから思えるほどに。
お姫様にとって、お師匠様は尊敬できる人であると同時に、目指すべき目標でした。
見上げれば遥か彼方にある目標の先。
目にすることはおろか、どこまで続いているのかすらもわからない絶望的なまでに巨大な壁。
けれども、お姫様は誓ったのです。
お師匠様に負けないくらい、お師匠様と同じ高みに至れるようにと。
そうすればきっと、もっと一緒にいられると思ったから。
そうすればきっと、心優しいお師匠様は自分のことをほめてくれるから。
そうすればきっと―――お師匠様に、認めてもらえるから。
あぁ、だって言うのに。
お姫様の敬愛していたお師匠様は―――ある日、罪深き罪人とともに姿を消してしまったのです。
罪人を迎えにと従えた多くの月の使者を、一人残らず皆殺しにして。
▼
深い深い泥の底から這い上がるように、私の意識は覚醒していく。
目覚めは最悪。重い瞼を開けて辺りを見渡せば、屋敷の中庭が見渡せる縁側だった。
はぁ……と、私―――綿月依姫は深々とため息をひとつこぼす。
まったく、私としたことがこんなところで寝てしまうなんて弛んでる。こんなことじゃ他の兎たちに示しがつかないじゃないの。
夢見は最悪で、目を覚ませば自身の気の緩みで不覚にも居眠りであったと気づく有様。
本当、こんなところをお姉さまに見られてしまえば散々にからかわれてしまうに違いない。
是非とも、お姉さまには見つかっていないと思いたい。そうでないと色々憂鬱になってしまいそうだ。
と、そこまで考えて、肩に寄りかかる奇妙な重みに気がついた。
「……レイセン?」
そちらに視線を向ければ、なんとも幸せそうな表情で眠りこけているペットがいた。
月から逃げてしまった兎と同じ名を与えた、新しい子。
無防備にも頬が緩みっぱなしで、一体どんな夢を見ているのか知らないけれど随分と気持ちよさそうだ。
なんとも弛んでいるものである。
その弛みを矯正するべく、私は彼女を起こそうとして―――苦笑をこぼしてやめた。
私も弛んでいたのだ。それで彼女だけ叱りつけるのは、なんというかフェアではない。
さわさわと頭を撫でてやって、そのまま私の膝の上にレイセンの頭を移動させる。
俗に言う、膝枕というものだ。ろくにペットらしい扱いをしてこなかったのだし、たまにはこうやって甘えさせるのも悪くはない。
けれど―――うん、コレは予想以上に恥ずかしいかも。
「そういえば、あの子にもこうやって膝枕をしてあげたっけ」
ぼんやりと、この子が聞いてしまえば怒ってしまいそうな言葉がこぼれた。
ずっとずっと昔のこと、戦争になるかもしれないと噂が流れたとき、いつの間にか居なくなってしまっていた臆病な兎。
今はどこにいるのか、どこで何をしているのか、それすらも定かではなくて、心配していないと言えば、嘘になる。
せめて、何か通信でもしてくれればいいのにとは思うのだけれど、きっとそれも難しい。
理由はどうアレ、彼女は脱走兵。そのことを良く理解しているあの子が、こちらに連絡をよこさないのもまた道理であるのだから。
臆病なあの子はきっと―――処罰を恐れてここに帰ることも、連絡をとることも出来はしないだろう。
せめて、誰か優しい人の世話になってくれればいいのにと、そう思う。
地上に隠れている八意様のお世話になっていれば何も言うことは無いのだけれど、……さすがにそれは楽観視が過ぎるか。
自分らしくないそんな考えに自嘲して、さわさわとレイセンの柔らかい髪を撫でる行為に耽る傍ら、色々な考えが脳裏をよぎっていく。
八意様……そうだ、今頃八意様はどうしているのだろうか。
今もまだ、あの罪人とともに日々を過ごしているのだろうか。
あぁ、多分きっと……そうなのだろうという、確信に近い予感が私の胸中に蠢いている。
思えば、あの事件のことも予想できたことだったんだ。
八意様とあの罪人の仲の良さを知っていれば、そうなることなんて火を見るよりも明らかだった。
それでも、私は信じていたかったのかもしれない。
あの人は、きっと私たち姉妹の元へと帰ってきてくれるって。
けれども、八意様は私たち姉妹よりも―――あの罪人を選んで、私たちの前から姿を消した。
わかってる。わかってるつもりだった。
例え私たちにとって八意様が一番の恩師であり、一番の大切な人であるからといって。
八意様にとっての一番が、私たちであるなんて、都合のいい話なんかないとわかってる。
本当は、心のどこかであの人にとっての一番が自分たちではないことぐらい、薄々はわかってた。
けれど、やっぱり私は―――わかってる『つもり』だったみたいで。
「……何後ろ向きな考えしてるんだか」
本当、弛んでる。
こうなったのも、きっとさっき見た夢のせいだけど、それとコレとはまた別の問題だ。
私の気持ちの問題。いつもはこんなこと考えもしないのに―――考えないようにしてるのに、こんなにも蟠りがまとわりついてはなれない。
だから、弛んでる。私は月の使者のリーダーなんだから、もっとしっかりしないと。
こんなことじゃ、八意様に笑われてしまうではないか。
「……えへ~、依姫さま~」
「アンタは暢気でいいわねぇ。……まぁ、聞こえちゃいないだろうけど」
そんな風に苦笑して、私は眠りこけるレイセンの頬をぷにぷにとつついてやる。
お饅頭みたいな弾力と柔らかさが心地良くて、つい夢中になってしまいそうな気持ちを戒める。
言葉では色々言うけれど、この子を大切にしたいと、そう思う。
けれども、私が大切にしたいと思う人々は、いつも私の前からいなくなってしまう。
八意様は、あの咎人とともに私の前からいなくなってしまった。
前の「レイセン」は、戦争に怯えその事に気がついてあげられぬまま、行方知れず。
そう思うと―――途端に、怖くなった。
もしかしたら、今私の膝の上で眠りこけているこの子も、私の前から居なくなってしまうんじゃないかって、そう思えて。
大切な誰かがいなくなっても寂しくないなんて、そんな自分も騙せないような嘘、私はつけそうにないから。
「ねぇ、レイセン。あなたは、私の前から居なくなったりしないわよね?」
はたして、その声は一体どんな風に紡がれたのか。
怯えだったのか、寂しさだったのか、それともそれは願望だったのか。
私自身すらもよくわからずに、そんな言葉に眠りに落ちているレイセンが応えてくれるはずもない。
ねぇ、レイセン。あなたは今どんな夢を見ているのかしら。
きっとあなたのことだから、とても愉快で楽しい夢を見ているのでしょう。
でも、ひとつだけ、ひとつだけ私に聞かせてほしいの。
あなたの見る夢の中に―――愉快で楽しい夢の世界に、私は居るのかしら?
かなりのものだよな
弱気になる時もあるさ!
このよっちゃんは全会一致で可決されました。
あなたは今何処で何をしていますか?この空の続く場所にいますか?
こういう片思い的な話をみると、相手方バージョンも見たくなってしまうw
心理描写が綺麗で、とても気分良く読めました。
ありです!!