1、助言そのいち
くどくどくどくどと流れる慧音の小言を聞きながら、私は地面に座り込み、はるか彼方の竹林を見つめていた。
真昼の太陽の下でもなお深く垂れ込める霧。その霧の中にかすかに姿を覗かせるのは、迷いの竹林。私――藤原妹紅の住処である。今私のいるこの場所、妖怪の山のふもとからはずいぶんと遠い。つい半刻ほど前までは、自分はあの竹林の上空で殺し合いを演じていたのだが。
……ちっ、派手に吹き飛ばされたものだな。
すぐ目の前に膝をついて私の腕に包帯を巻く慧音には聞こえぬよう、小さく舌打ちする。
半刻ほど前の戦いの相手は、言わずもがな、私の宿命の敵である輝夜だ。お互いに力の限りを尽くした死闘の果て、私は渾身の一撃であいつを竹林のはるか向こうまでぶっ飛ばし、お返しに私はこの場所までぶっ飛ばされてきたというわけだ。
1300年前にあいつが私の父に大恥をかかせたことから始まった縁は、お互いが別々の経緯で不老不死の薬を飲んだことによって、永遠に終わることのない闘争の螺旋へと収束した。300年前からお互いを何度も殺し、お互いから何度も殺され、そのたびごとに蘇っては次の殺し合いの機会を待つ日々。自分でも呆れるくらいに繰り返し、しかし不思議と飽きることはない。
それはそうだ。今の私にはもう、あいつとの殺し合いくらいしか、生の実感のわくものは残っていないのだから。
死を遠ざけようとあがき、逃れえぬ死に焦り、そして死ぬ前に己が生きたことを証明すべく努力する。それが人という生き物だ。だが不死の身となった私にはそれがない。あがかずとも、焦らずとも、努力せずとも、死は私には無縁のもの。ゆえに、あがく必然性も焦る必然性も努力する必然性も存在しないのだ。
そんな生が、死と同一のものだと気づいたのは、今から600年も前のことだったか。
――と、私の腕に包帯を巻き終わった慧音が、じろりとこちらの顔を睨んだ。
「……おい、妹紅。聞いているのか?」
もちろん聞き流していた。慧音の小言は無駄に長くて真面目に拝聴する気にならないのだ。無論それを口に出しはしないが。
私が視線をそらすと、まだ言い足りないのか、慧音は視線を険しくしながら追撃してきた。
「21日前は脇腹、7日前は左足、そして今日は右手。ここ一ヶ月だけで、私が見かけただけでも3度も重傷を負っている。そんなに自分の体を傷つけるのが好きなのか?」
よくそんなことを覚えてるな、と呆れてしまった。そのせいか、口から思わず本音が漏れてしまう。
「好きなわけないだろ。あいつの顔や右足や左手を焼いてやるのは大好きだけどな」
慧音の視線がますます険しくなった。
彼女――上白沢慧音は、人間の里の近くに住む半人半妖だ。互いの住処が遠いこともあって会う機会は少ないが、この幻想郷で私を理解してくれる数少ない人物のひとりである。だが輝夜との殺し合いに関してだけは、彼女はあまりいい顔をしてくれない。というよりも、どう見ても止めたがっている。
難しい顔をしたまま、慧音はこちらを諭すように語りかけてきた。
「たとえ相手の全身を焼却したところで、どうせすぐに元に戻ってしまうのだろう? そんなことを何度も繰り返しても、ただただ不毛なだけだと思うのだが」
確かに不毛だ。だがそんなことでしか、今の私は喜びを見いだせないのだ。きっと私と同じ境遇のあいつもそうなのだろう。
だから私たちはやめられない。自分の右手が潰される苦痛を復讐心に変え、相手の左手を焼き尽くす快楽に酔う。憎しみを吐き出すカタルシスは人間にとって最高の甘美だ。これに浸っているうちは、自分の生が死んでいることを忘れられる。自分が確かに生きていると錯覚できる。
そんな私の捻くれた心情を、慧音もきっと判っているのだと思う。彼女は直裁的には私の殺し合いを止めようとはしない。形式通りの婉曲なお小言を並べ終えたら、諦めたような顔をして立ち去るのだ。
今日もその例外ではなかった。こちらが黙っているのを見てとると、彼女は首を振りながら立ち上がった。
「まったく……。不毛なことだと判っているなら、いい加減飽きてくれればいいのだがな」
「不毛だというなら慧音こそ、私の傷を見るたびに包帯を巻いているじゃないか。どうせ何もしなくても回復するのに」
こちらも立ち上がりつつ、軽口を返してみる。この程度ならば慧音の機嫌をこれ以上損ねることもないだろう。理屈好きの相手に向かって、不死者の身体に包帯を巻くのは不毛じゃないのか、と水を向けてみた。
「不毛ではないぞ、包帯の役目は血止めや防菌だけではないからね。正しく巻くことで痛みを緩和する効果もある。不老不死でも痛みは感じるのだろう? ならば、それを和らげることは無駄ではない」
真面目くさった顔で、慧音はそう言い返してきた。
なるほど、確かにその通りだ。不老不死の身にも痛みは普通にあるし、痛みに慣れることはできても不快に感じることまでは止められない。不死者とて痛み止めを必要とするならば、確かに不死者に包帯を巻くことは不毛でも無駄でもない。
だが――と、今日の私はいつになくしつこく食い下がった。自分のやることはすべて理が通っていると言わんばかりの相手の態度が不満だったのだ。
「包帯だけじゃないぞ。まだある。だいたい、お前のやることは不毛だらけなんだ」
「む? たとえば?」
「たとえば――」
反論を紡ぎかけた口を、私はぴたりと閉じた。何やら近くで気配が揺れ動いたのを感じたのだ。
妖怪の山の麓にある、大きな湖。その上空を見上げると、新たに現れた二つの気配が激しく動き回っている。
「あれは……?」
慧音も気づいたようだ。私と同じく、湖の上空へ目を向ける。
春先の穏やかな光の下、二つの人影が中空でめまぐるしく位置を変え、伸ばした手の先から様々なものをまき散らしていた。
小さな方の人影が撃ち出すは氷の塊。散弾のように放たれるそれは、春の陽光を反射してキラキラと光り、湖面へと着弾して弾け散る。
大きな方の人影が撃ち打すは純粋な光と熱。陽の光を圧して輝きを放ち、空の彼方へと吸い込まれていく。
「スペルカードルールか……」
一定のルールのもとに行われる魔法合戦。私と輝夜の殺し合いとは異質の、命の危険を極力減らした弾幕ごっこ。上空で展開されているのはそれだった。
当事者の一方、大きな人影のほうは霧雨魔理沙か。先日起こった異変で知り合った、人間の魔法使いである。未だ年若い少女とは思えぬほどに腕の立つ実力者だ。
もう片方の小さな影、あれは……
「チルノだな」
言い当てたのは慧音だった。この湖に住むという小さな妖精とは、私は直接の面識はない。けれど人間の里に住む慧音ならば、あるいは会ったこともあるのかもしれない。
不意に始まった魔法使いと妖精との弾幕ごっこは、傍から見ていても一方的な展開だった。
撃ち出す弾幕は明らかにチルノの方が多い。めくら滅法という感じで虚空に弾丸をばらまいている。だが哀しいかな、魔理沙の速度に全く追従できていない。氷の散弾も巨大な氷塊も、すでに魔法使いが通り過ぎたあとを虚しく叩くばかりだ。
一方の魔理沙は完全に余裕綽々だった。圧倒的な高速でチルノを翻弄し、死角に回り込んでは最小限の弾だけを撃ち込んでいる。ただでさえ頭に血が上っている相手をさらに挑発するかのごとくに、だ。
決着の時はすぐに訪れた。一向に魔理沙を捉えられない妖精の癇癪が爆発したのだ。
「も~怒った! これで一気に凍らしてやる~!
氷符……アイシクルフォール!」
最後のスペルカードが発動する。妖精の周囲に氷の弾が展開し、それが相手に向かって滝のようになだれ込む。あの妖精の力がもっと高ければ、そのスペルは広範囲に高密度の弾幕を形成し、相手の退路を断ち切っていただろう。
だが今の少女の力では、生み出す弾の数があまりに足りなかった。弾丸と弾丸との間が空きすぎてスカスカなのだ。魔理沙は待ってましたとばかりに楽々とその隙を見切って、一瞬でチルノの前まで移動し、
「こいつで終わりだ。星符・メテオニックシャワー!」
星型の玉の集中砲火を浴びせた。スペル使用中の無防備なところを狙われ、チルノはまともに弾丸を食らって墜落する。
「ちくしょ~~……」
「毎度毎度ご苦労さん。いい準備運動になったぜ。じゃあな」
へろへろと落下する氷精に向かって指を2本立ててみせると、魔理沙はまたがった箒の先を湖の彼方へと向けた。そのまま後ろも見ずに飛び去っていく。
あれは……紅魔館の方向か。あの魔法使いの口ぶりからすると、真昼間から図書館強盗でもするつもりなんだろう。相変わらず呆れた奴であった。
一方のチルノは、湖のほとりにぺちょりと不時着していた。これが人間だったら大怪我を負っているところだが、妖精である彼女には風の加護でもあるのか、その落下速度もひどくゆっくりしたものだった。あれなら大事はあるまい。
「なーにやってんだか……」
私は肩をすくめた。
氷精と魔法使いの力の差は明白だった。機動力も霊力もスペルの使いこなしも経験も、あらゆる面で魔理沙が上。チルノには万に一つも勝ち目はない。その当然の結果を予測することもできないまま真正面から戦いを挑むとは、愚かとしか言いようがない。
「うー……。まーたー負―けーたぁー! ちくしょー!」
仰向けに寝転がったチルノは、涙目で手足をジタバタとさせている。その滑稽な様がまた私の呆れを誘った。
何を言ってるんだ、妖精ごときが力ある魔法使いに挑めばこうなるのは当たり前だろう。消滅させられなかっただけでもありがたく思うべきだ。
……いや、無理もないか。
何百年も妖怪や魔物との戦いを続けてきた私と違い、あいつら妖精の行動パターンは人間の子供レベルなのだ。思いつきで事件を起こし、困難にぶち当たれば場当たり的に対処し、うまく行けば有頂天になり、うまく行かなければ泣く。その程度のものでしかない。同じところを飽きるまでぐるぐると回り続け、いつまでたっても何の進歩もない。
きっとあいつらは、幼稚で単純で不毛な繰り返しを、きっと何百年も続けるのだろう。
ぐるぐると。
ぐるぐると。
まるで――
まるで、永遠に殺し合いを続ける私たちみたいに。
「ちっ。私は妖精並みってことかよ」
脳裏に閃いた嫌な連想に、私は舌打ちをした。ただでさえ良くなかった気分がますます悪くなる。
もういい、今日はとっとと帰って布団にこもってしまおう。まだ朝から何も食べてないが、なに、この身体には飢え死の心配すらない。胸糞悪さを忘れるくらい心ゆくまで不貞寝してから、改めて次のことを考えればいい。
私はもんぺのポケットに両手を突っ込むと、地団駄を踏む氷精に背を向けた。迷いの竹林までは4里。歩いているうちに日も沈むだろう。
「じゃあな、慧音……って、あれ?」
別れを告げようとして、慧音がすでに歩き出しているのに気づいた。
その方向は人間の里……ではない。彼女の視線は――よりによって――湖のほとりでびゃーびゃー泣いている氷精へと向けられていた。
「ちょっと、慧音? 何をするつもりだ?」
嫌な予感を覚えて、友人の背に声を掛ける。だが彼女は聞こえなかったのか、無言のまままっすぐ湖のほとりへと歩いていく。
ああ――こいつの悪い癖が始まった。
私は天を仰いだ。私と輝夜の殺し合いが不毛というなら、慧音のやることは不毛な上に徒労なのだ。本人がそれを自覚していない分よけいにタチが悪い。
私はもう一度、先程よりも大きな声で友人に尋ねた。
「慧音、何をするつもりだ。あの氷精に用でもあるのか?」
「うむ、まあ。少しだけ」
「なんでまた妖精なんかに」
「実は彼女とは一度だけ挨拶を交わしたことがあってね。知らない仲ではないんだ。だから少し、放っておけなくてな」
「余計な説教でもするつもりか? 喧嘩するなとか」
「まさか。ルールに則って行われる喧嘩にまで口出しはしないよ。殺し合いなら流石に止めるが」
要領を得ない答えを返しながら、慧音は一向に歩みを止めようとしない。
私はため息を付いた。ポケットに手をつっこんだまま、再度方向転換をする。
友人が不毛な徒労に足を突っ込もうとしているなら、適当なところで止めなければならない。その程度の義理は私にもあるのだ。
まっすぐに歩いていく慧音の背中に、私は恨めしげな視線を送ったのだった。
目的の場所にはすぐにたどり着いた。先程の戦いの残滓か、あちこちに氷片が散らばってきらきらと光る草むらの中に、氷精は寝転んでいた。文字通り人間の子供サイズしかない少女は、いまだにちくしょーとか悔しいーとか幼稚極まりないことを口走っている。
慧音はゆっくりと歩いていくと、そんな氷精の横にしゃがみこんだ。目と目を合わせ、ニッコリと微笑む。
「こんにちは、チルノ」
「うえっ!? あ、あんた何!?」
「おや、憶えていないか? 7日前の夕方にも挨拶をしただろう。歴史教師の慧音だよ」
「れ、れき? ……轢死狂死? なにそれカッコいい!」
「なんだその不審な死因は、人を勝手に惨殺するな。……いやまあ、それはいい」
わずかに苦笑してから、慧音はもう一度挨拶を言い直した。
「こんにちは、チルノ」
寝転んだままの氷精は、ぼんやりと慧音を見上げている。本当に何も憶えていないのか、その口はぽかんと開いたままだ。
だがやがて、その表情に少しずつ、理解の色が加わり始めた。
「えー……っと。んーっと……」
眉根を寄せ、首をかしげ、氷精は脳裏にイメージを組み上げていく。
やがてその目が、はっと見開かれた。
「………………あ!!」
氷精はがばっと跳ね起きた。両手で自分の額のあたりをカバーしつつ、あからさまに怯えた表情を慧音に向け、恐る恐る口を開く。
「コ、コンニチハっ、けーね」
「うんうん、今日はちゃんと挨拶できたな。えらいぞ」
怯えきった氷精に微笑みかける友人の横顔に、私はジト目を送った。
……慧音。おまえ、頭突いただろ。挨拶してもらえなかったからって。
私の内心のツッコミをよそに、暴力教師は氷精の頭を嬉しそうに撫でている。ちょうど、寺子屋で良い点を取った生徒を褒めるときのように。
こいつの悪い癖とはこれだ。子供が困っているのを見ると絶対に放っておけないのだ。半妖の身でありながらわざわざ人里で寺子屋なぞを開いているのも、間違いなくそのお節介焼きな性分が関係している。
しかも今回は、人間どころか妖精と来た。ここまで来るともう病気だ。困っている子供なら誰であろうと世話を焼くのか、こいつは。
「おい、慧音、いい加減に」
「チルノ、こちらは私の友人の藤原妹紅さんだ。よろしくしてやってくれ」
「コ、コンニチハっ、クジラノモコサン」
……クジラノって何だ、クジラノって。
しっかりと額をガードしながらこちらを見上げる氷精の姿に、私は思い切り脱力してしまった。私の名前はモコサンじゃない、妹紅だ。あと、頭突きなんかしないから警戒するな。
――何だかもう、何もかもがどうでも良くなってしまった。
「あー、……こんにちは、チルノ」
投げやりな気分でひらひらと手を振ってやると、攻撃されなかったことにでも安堵したのか、チルノがほっとしたような表情でガードを緩めた。そしてそんな私たちのやりとりに、慧音は満足げな笑みを見せる。
「うんうん、何事もまずは挨拶からだな。きちんとした挨拶こそが円滑な人間関係の要だ」
「……その挨拶を徹底するためなら、頭突きも辞さないのか?」
「時と場合によっては」
しれっと言ってのけてから、慧音は氷精に向き直った。
「ところでチルノ、今の戦いは何が原因だったんだ?」
「え? 魔理沙とやったあれ?」
「ああ。口喧嘩に収まらずスペルカードまで用いるとなると、それなりに大きな理由があるのだろう?」
「戦う理由なら、決まってるよ!」
慧音の頭突きを警戒して小さくなっていたチルノの態度が、そこで一転する。
氷精は大きく胸を張ると、堂々たる口調で断言した。
「あたいが最強だからさ! 最強を証明するために、魔理沙をやっつけるんだ!」
「は……?」
私は目を丸くした。
慧音も同様で、眉間にシワを寄せている。
「最強? 最強というと……この世界で一番強いということかい?」
「そうさ! あたいは幻想郷最強の妖精! そのしょーごーを邪魔するヤツは、全員やっつけてやるのさ!」
――――。
最強? 神だの大妖怪だのその大妖怪を退治する人間だのが掃いて捨てるほどいるこの幻想郷で、この程度の力しか持たない妖精が最強を名乗るだって?
カチンと来たのは、そのあまりにも荒唐無稽な主張か。それとも己を疑うことすら知らぬ傲岸不遜なその態度か。心の何処かをがりがりと引っ掻かれ、ただでさえ最悪に近かった私の気分は一気にレッドゾーンへと突入した。自制も効かぬまま、吐き捨てるように横から怒りを叩きつける。
「何言ってるんだオマエは。あれだけ一方的にやられたあとで、どうしてそんな戯けたセリフが吐ける。本当に頭がおかしいのか」
「なんだとー!」
「事実だろう。攻撃、防御、機動、どれもこれも完璧に負けていたんだ。そんなことすら判らないほど愚かなのかオマエは」
容赦なく指摘してやると、氷精は一瞬だけひるんだ。あらゆる点で魔理沙に劣っているという自覚くらいはあったのだろう。
だがそれでも、愚かな氷精は引き下がらない。短い腕を振り回し、私に指を突きつけてくる。
「た、たしかに負けてたけど……でもあたいは最強なんだ! あたいをバカにすると許さないぞクジラノ!」
「クジラノじゃない藤原だ」
「え? ふ、ふじ、ふじわ……
と、とにかく、バカにすると許さないよモコサン!」
「モコサンじゃない妹紅だ! 人の名前を間違えるなよ失礼だな!」
「間違えられるような妙ちきりんな名前のほうが悪いのさ!」
「みょ、妙ちきりん!? 貴様、我が家名を侮辱するか!? そこに直れ、成敗してくれる!」
「――そこまでだ」
横から慧音が割って入り、私たちは左右に引きはがされた。大人げもなく頭に血が上っていた私も、そこでようやく我に返る。
ぐっ、しまった。妖精相手に何をやってるんだ私は。
自己嫌悪に頭を抱える。咎めるような慧音の視線がやたらと心に痛かった。
「まったく……いや、まあいい」
仕切り直しとばかりにつぶやくと、慧音は視線を転じた。私に向かって腕をぶんぶん振り回しているチルノの瞳を、じっと覗き込む。
「……チルノ。妹紅の言うことにも一理ある。今の君では魔理沙相手には勝ち目は薄い。それは君も判るのだろう?」
そのとき彼女が見せたのは、歴史家のそれでも半妖のそれでもなく、教師としての貌。寺子屋を続けるうちに自然と身につけた威厳をまとい、チルノと向き合う。
わずかに赤みを帯びた彼女の瞳に真正面から射抜かれて、己の本心を隠しとおせるような子供はいない。
妖精ですら、その例外では無いのだ。
「それは! それは……!」
悔しそうに慧音を見上げ、しかしチルノはその後を続けることができない。この時点で、勝負あったも同然だった。
やれやれ、と一息つく。どうやら今回は、我が友人が不毛な厄介ごとに足を突っ込むことはなさそうだ。慧音がひとくさり説教をたれて、それで終わりだろう。
学習能力の無い妖精などに物事の道理を言い聞かせたところで馬の耳に念仏だと思うが、それで慧音の気が晴れるならどうでもいい。私の心配は杞憂に終わったのだ。
私はもんぺのポケットに手を突っ込み、駄々をこねる氷精とそれをあやす教師とを見守る。
「君は今のままでは、魔理沙に勝つことはできない」
「それは……そんなの、やってみないと分かんないよ!」
「だが、今まで何度も同じように挑戦して、そのたびに敗れてきたのだろう?」
「それは、そうだけど……でも!」
二人の会話を聞き流しながら、私はぽりぽりと頭をかいた。
ここからの説教が長いのが、我が友人の困ったところなのだが……まあ、それは我慢しておこう。ここで私だけ帰ったのではさすがに薄情だし。
「同じやり方を繰り返していたのでは駄目だ。工夫しなければ進歩はない」
「工夫って……どうやったらいいか分かんないよ!」
「ふむ、そうだな。確かに今の君には難しいことかもしれない」
「難しくても勝ちたいよ!」
「う~む……」
ああ、昼飯はどうしようかな。ここで適当に魚を捕まえて焼こうか。ぼんやりと湖を見つめて、そんなことを考える。
慧音とチルノの会話はまだ続いていた。
「勝ちたい勝ちたい勝ちた~い!」
「……どうしても?」
「どうしても!」
「なら、私のアドバイスを聞く気はあるか?」
「アドバイス? よく分かんないけど、それを聞いたら勝てるようになるの?」
「うまく行けばな」
「ホント!? じゃあ聞く!」
……ん? あれ?
なにか妙なことを耳にした気がして、私は二人のほうへ振り返った。
きらきらと目を輝かせるチルノに、慧音が厳しい表情で告げている。
「言っておくが、私の指示は甘くはないぞ? 楽に成し遂げられると思うな」
「へっへーん、あたいは最強だもん! どんなこと言われたってへっちゃらだーい!」
「いいだろう、ならば私は君のセコンドにつくことにしよう」
「ならばあたいは、けーねにセコンドについてあげられることにするよ!」
え、ちょ……
おーい、慧音? 何を言ってるんだ?
助言とかセコンドとか何を戯けたことを……慧音? 慧音?
「では最初のアドバイスを言う。準備はいいか? ちゃんと覚えるんだぞ?」
「おう! どんと来い!」
「よろしい。助言その1は……アイシクルフォールは使わない。これだけだ」
「え? それだけ?」
「うむ。次に魔理沙と戦うときは、必ずこの約束を守ること。いいな?」
「おっけー! それくらいなら全然ラクショー!」
氷精がびしぃと親指を立て、慧音がうんうんと頼もしげに頷き、そして私はあんぐりと口を開けた。
ちょっと待ってくれ。なんだこの流れは。どうしていきなりそういうことになるんだ。
目の前で繰り広げられる謎展開に頭が追いつかない。そうして私が固まっている間に、二人の話はあっさりとまとまってしまった。
「ではな、チルノ。私は7日後にまたここを通る。そのときに結果を聞かせてくれ」
「お安い御用さ! 次に会うときは、けーねにあたいの武勇伝を聞かせてあげるよ!
じゃーね、けーね! モコサン!」
……だから、私の名前は妹紅だ。
あっという間に飛び去っていった氷精には、そのツッコミすら届かなかったのだった。
「おまえは馬鹿か!?」
――友人への第一声がそれだったとしても、私を非難するには当たるまい。
ああもう、どうしてこいつは、こうも面倒事に首を突っ込もうとするのだろう?
「何を考えてるんだよ慧音!
助言!? セコンド!? それに何の意味がある!?
私には不毛なことは辞めろと言ったくせに、自分はもっと不毛なことをしようとしてるんだぞ!」
「そうでもないと思うのだが……」
「どう考えたって不毛だろう! おまえだって、あの二人の力の差くらいは分かるはずだ!」
掴みかからんばかりの勢いで、私は慧音に詰め寄った。
私ほど戦いに明け暮れたわけではないにせよ、慧音にだって下級妖怪から人の里を守り続けてきた経験がある。妖精に何を入れ知恵したところで、力ある魔法使いにかなうはずがない――その程度のことは判っているはずなのだ。
だというのに、なぜ氷精のセコンドなど買って出るというのか。不毛な徒労に終わるのは目に見えているのに。
そして問題はそこだけではない――
「大体だな、妖精にアドバイスなんて無意味の極みだ! あいつらの生態くらいはおまえも知ってるだろうが!」
そう、最大の問題はそこだ。自然の歪みそのものでしかないあいつらに、教育など無意味。たとえ死んでもすぐに生き返るがゆえに後先を考えず、目の前のものにしか興味を持てないゆえに反省もせず、思いつきでしか行動しないゆえに進歩もしない。そんな連中に何かを教えて、何の意味があるというのか。
「慧音、不毛なことはやめろ。何をしたところで、あいつらは変わりやしない。ただ同じところをぐるぐる回ってるだけだ。砂漠に水をまくのと同じ。何をしたところで、何も生えてきやしないんだ」
「うーん……だが……」
天を見上げ、慧音は考え込んでいる。その目はどこか遠くを見ているようであり、また、とても近いものを見つめているようでもある。
やがて彼女は空から視線を外し、
「だけどチルノは、悔しがっていたぞ?」
謎めいた笑みを浮かべて、私にそう告げた。
「……どういう意味だよ?」
「そのままの意味さ。彼女は負けたことに憤っていた。勝ちたいと願っていた。それはつまり、変わりたいということ。変わることを願うということ」
楽しそうに慧音は笑う。その瞳は、すでにこの場にいないチルノを見ているようでもあり、そして私を見ているようでもあった。
「変わりたいと願うだけでは変わることはできない。それは確かだ。
けれど、閉じた円環から抜け出せるのは、変わりたいと願った者だけだ。
だから私は彼女に手を貸すことにしたのさ。変わり方を知らない彼女に、ね」
「…………!」
言い返してやろうとして、何もセリフが出ない。言葉は喉につっかえ、胸につっかえ、臓腑に逆戻りしていく。苛立ちと焦燥にたたずむうちに、何を言い返そうとしたのかさえ判らなくなってしまう――
私にできたのは、その場から逃げ出すことだけだった。
「……勝手にしろ! 私はもう知らないからな!」
負け惜しみのようにそう吐き捨てて、私は宙へと浮かび上がり、迷いの竹林にむけて飛び去る。
家にたどり着いてからも、苛立ちは収まらず。
結局私はその日一日、空腹のままで布団をかぶって過ごす羽目になったのだった。
2、助言そのに
そうして、一週間後――の昼過ぎ。
私は湖の近くの木陰に潜み、ぼんやりと空を見上げていた。
「ここで会ったが一週間目! 覚悟しろよ魔理沙ー、今日という今日はあたいが勝つ!」
「いやはや、今日も今日とて元気なことだなお前は……」
視線の先で繰り広げられる愉快な会話を聞き流しつつ、頭を抱える。
……なんで私は、またここにいるのだろう……?
「なんだかんだでチルノが心配になったのだろう? 意外とお人好しだな、君も」
私はばっと顔を上げ、横にいる慧音に喰ってかかった。
「違う! そういうつもりじゃない! たまたま近くを通りかかっただけだ、たまたま!」
「そうか、たまたまか。ふっふっふ……」
私の必死の抗議に、そこはかとなく嫌な笑みを返す慧音。うっわ、今ちょっと本気で殴りたくなった。
少なくとも私はこいつに笑われるほどお人好しじゃあない。お人好しじゃないぞ、本当だ!
……そもそも、輝夜のヤツが決闘をすっぽかすのが悪いんだ。あいつが来なかったせいで今日一日何もやることがなくなってしまった私は、暇にあかせて竹林の外をぶらついているうち、なんとなくここへ足を運んでいた。そこで慧音に見つかった私は、無理やりこんな場所に引きずり込まれてしまったのだ。
「来たくて来たんじゃないぞ! 気がついたらここを通りかかってたんだ!」
「そうだな、そういうことにしておこう。ふっふっふ」
「だからその笑い方をやめろっての! ていうか、そう言うおまえはどうなんだよ慧音!」
なおも不気味な笑い声をあげる慧音に、私は指を突きつけた。
氷精と魔法使いの再戦の場に私が居合わせたのは完全な偶然である。だが慧音はあきらかに、私よりも先にこの場所に到着していた。ということは、彼女はずっと前からこの湖で待ち伏せをしていたと言うことではないか。
「何をやってるんだよおまえは。結果だけを聞くんじゃなかったのか。まさかチルノの試合を観戦するために、朝からここに張り込んでたのか?」
暇な私とは違い、慧音には寺子屋の仕事もあれば歴史編纂の仕事もある。それを放り出してまで駆けつけてきたというのなら、慧音の方がよほど重症だ。
「張り込みなどしていないよ。今日は香霖堂に買い物に来ていたんだが、森の奥から魔理沙が飛んでくるのが見えたのでね。急遽その後をつけてきたというわけだ」
「買い物? 寺子屋はどうしたのさ」
「今日は日曜日で寺子屋は休みだ。……妹紅、もしかして曜日感覚がなくなっていないか?」
「ぐっ……」
慧音の指摘に、私は何も言い返せない。このところ輝夜との殺し合い以外には特に何もやってなかったから、日付などまるで気にしていなかったのだが……なんだかこうして見ると、どんどん自分が駄目人間に思えてくる。
い、いや、それはともかくっ。……香霖堂?
あんなおかしなものしか売ってない店に、慧音は何を買いに行ったというんだ? いやそもそも、一週間前も慧音はこのあたりを通りかかっていなかったか。
「なあ、慧音。おまえってさ、最近しょっちゅう香霖堂に通ってるのか」
「うむ。少しばかり必要なものがあってね。週末のたびに足を運んで……と、いかん、始まるようだ」
空を見上げた慧音が、状況の変化に気づいて会話を中断する。
氷精と魔法使いは、前口上を済ませてお互いのスペルカードを取り出したところだった。
「4枚!」
「……1枚で充分、だな」
スペルカードルールにおいては、試合に使用するカードの枚数を予め宣言しておかなければならない。そして宣言した数のスペルを破られたら、たとえまだ余力が残っていようともその時点で敗北が確定する。つまり全力で勝ちに行くならば、自分の体力と精神力が許す限りの枚数を宣言しておくべきなのだ。
すなわち、たった1枚しか宣言しなかった魔理沙は、この試合においてまったく全力を出すつもりがないということである。
「1枚だとー、舐めやがってー!」
「お前を相手に、1枚より多く手数は要らんさ」
ずばり言ってのける魔理沙の言葉に、私も心の底で同意する。たしかにあの妖精相手なら、1枚だけでも充分すぎるほどだろう。
私は横に立つ慧音に尋ねかけた。
「なあ、本気で勝てると思ってるのか? あんなアドバイスだけで埋まるほど簡単な実力差じゃないぞ」
「……まあ、難しいだろうね」
苦笑気味にそう返答する慧音は、しかしその目を決闘の場から離そうとしない。どうも私には、彼女が何を考えてるのか理解できなかった。
そして――
「行くぞー、今日という今日はあたいが勝つ!」
「その台詞はさっきも聞いたぜ……」
そんなやりとりから始まった試合は、まったくもって一週間前の焼き直しだった。圧倒的な速度差を活かして逃げる魔理沙に、チルノはまるでついていくことができない。スペルをことごとく無駄打ちさせられ、精神力を浪費していく。魔法使いは完璧に余裕と優位を保ったまま、最低限の弾を撃ち込んで氷精の体力を削っていく。
やがて……
「んがー! これでトドメだっ、氷符・アイシクルマシンガン!」
「ん? 今日はそっちか? まあ結果は変わらんが」
魔理沙の言うとおりだった。訪れた結末も、一週間前とまったく同じ。素直すぎるチルノの弾道はあっさりと見切られ、死角から魔理沙にスペルを放たれる。星型の弾の連射にさらされ、氷精はあっけなく撃墜された。
「アレを使わんとは、ちょっとは賢くなったか? ま、本当にちょっとだけだが」
そんな感想を残すと、魔理沙は後ろも見ずに紅魔館の方へと飛んでいく。今日も今日とて図書館強盗に励むのだろう。
そして私は、地上でため息をついていた。結局何も変わりやしない。チルノのラストスペルが違ったというだけで、その実力差はまるで埋まっていなかった。ただ徒労感だけが心に残る。
「はあ……。もう気は済んだだろ、慧音」
そう言って横を振り向いたときには、我が友人は歩き出していた。その方向は言わずもがな、氷精が落ちていった方向である。この程度のことで諦めるほど彼女は潔くはないのだ。
私はもう一度ため息をつくと、一週間前と同じように、友人の背を追って歩きだしたのだった。
「勝てなかったじゃないかー!」
「そうだな。さすがにあの助言だけでは足りなかったらしい」
「勝てるって言ってたじゃないかー!」
「うむ。魔理沙に勝つには、やはりもう少し努力が必要なのだろう」
噛みつくように抗議してくる氷精を、慧音は軽くいなしている。さすがは現役教師、子供の扱いはどこまでも巧みなのだった。
あれから私たちが氷精のもとまで行ってみると――当然といえば当然だが――氷精は怒り心頭に達していた。けれど慧音は今回もまた、巧みな話術で幼い相手を誘導し、先週のような説教に持ち込んでいる。
おそらくこの後の展開も同じようになるのだろう。教師が何事か氷精にアドバイスし、氷精がそれを受け入れる、という。
――だがしかし、慧音はいつまで続けるつもりなのだろう?
チルノが諦めるまで? 自分が諦めるまで?
どちらかが諦めるまでずっと、この不毛な行為を繰り返すつもりだろうか。どこまでもどこまでも、この徒労を続けるというのだろうか、こいつは。
「決して徒労ではないよ。なにしろ、アイシクルフォールを使わないという約束は守れたのだから」
こちらの心中を見透かしたようなセリフに、ぎくりと身をすくめる。だが慧音は別に、私に向かってそう言ったわけではないらしい。彼女の視線はあくまでチルノに向けられていた。
「助言その1はきちんと守れたじゃないか。おかげで、魔理沙に大きな隙をさらすことはなかった」
「でも、結局負けたじゃないか」
「そう簡単には行かないということさ。さて、次の助言を聞く気はあるかな?」
「むー……」
不服そうに見上げてくる氷精に、慧音はただ笑みを向けるだけだ。ここで諦めるも自由、諦めないのも自由。自分の道は自分で決めればいい――そう言わんばかりに。
やがて氷精は、しぶしぶといった表情で口を開いた。
「聞く。けーねをセコンドにするって決めたのはあたいだし。だから最後まで助言を聞く」
教師が嬉しそうに、ひとつ頷いた。
「了解した。では、助言その2を言おう。その2は――何よりもまず、相手を見る、だ」
「……なにそれ。よく分かんない」
「慌てて弾を撃ったりスペルを使ったりしてはいけない、ということだよ。まず相手の動きをきちんと目で追う。相手の攻撃はしっかりとかわす。それができてから自分の攻撃に移るんだ。どうだ、やれるかな?」
「簡単だい、それくらい! あたいは最強だもん!」
先程までしょぼくれていた氷精が、一転して偉そうに胸をはる。どうもこの生き物の頭の中身は、大変お気楽にできているらしい。
機嫌を取り戻した氷精が、ふわりと宙に舞い上がる。
「ふっふーん、見てなよー。来週こそ魔理沙をカチンコチンだ! じゃーねー、けーね、モコタン!」
ちょっと待て、モコタンって何だ。どんどん実名から離れてるぞコラ。
私が視線を険しくしたときには、氷精はもう、湖の向こうへと飛び去っていたのだった。
さらに一週間後。
私はまた、その場所に来ていた。
夏も過ぎ、秋色に染まりつつある湖のほとりは適度に涼しく、かすかに聞こえる虫の音が景色に彩りを添える。
雲ひとつない空には太陽。そして氷精と魔法使いの姿。
「やあ、今来たのか」
「…………」
にこにこと笑う慧音には何も答えず、木陰にどっかと腰を下ろした。そのまま私は黙って観戦に徹する。今日は朝から何もやってなかったので、エネルギーは有り余っていたのだが。
……ん? 輝夜との決闘? そんなもん先週すっぽかされたお返しに、今日はこっちからすっぽかしてやった。ザマ見ろだ。
それに今は、あいつの顔はあんまり見たくない。
魔法使いと氷精の戦いはもう始まっていた。その展開は、やはり今までと大差ない。圧倒的な優速で追い込んでくる魔法使いに、氷精は防戦一方だ。違うところがあるとすれば、チルノがほとんど弾を撃たないことくらいか。
「……それで何が変わるって言うんだ。かえって負けを早めるだけだろ」
不機嫌につぶやく。そのつぶやきは慧音の耳にも入ったはずだが、彼女は黙って二人の戦いを見守っていた。
確かに氷精はよく頑張っている。慧音の言いつけを守り、攻撃よりも回避を最優先に、魔理沙の速度に振り回されながらも必死で追随している。けれど、ただそれだけだ。何か策があるというならともかく、ただ防御に専念しているだけではゲームに勝利することはできない。
と、一方的に氷精を追いまくっていた魔法使いが、頭上の帽子をひょいとずらした。
「なんだあ? どうしたチルノ、今日のお前はお前らしくないぜ。具合悪いのか?」
「う、うるさーい! あたいはいつだって絶好調だもん!」
「そうかい。じゃあこっちも遠慮なくとどめと行くぜ」
「え? ちょっと待っ……!」
フェイント一閃。単純に弾を放つと見せかけて、急接近してからの奇襲零距離射撃。完全に釣られたチルノは隙だらけで相手に背後をさらす。
「ヤバっ……」
「喰らいな、星符・メテオニックシャワー」
それでもどうにか反応し、かろうじて振り返ったチルノを、無数の星の弾丸が襲う。3発目までをかわしてみせたのはむしろ褒めるべきかもしれない。だが氷精の粘りもそれまでだった。流星に全身を乱打されて、くるくるとスピンしながら湖へと落ちていく。
決着がついたのを確認すると、魔法使いはあっさりと興味の対象を切り替えた。今日は捨て台詞さえ残すことなく、後ろも見ずに紅魔館へと飛んでいく。
「ちくしょーっ、来週こそはやっつけてやるんだからー!」
墜落しながらのチルノの罵声に、魔法使いはひらひらと手の平をふっただけだった。
一部始終を見届けて、慧音が動く。木陰から出て、チルノの落ちていった方向へと歩き出す。
「さて……」
その横顔は、完全に一週間前と同じ。完全敗北を見せつけられても彼女はまるで動じることなく、生真面目なその表情を崩さない。
「…………」
私は口をへの字にして、そんな友人をじっと見つめていた。
今日もこいつは氷精に助言を与えるのだろうか。
来週負けたら来週も。再来週に負けたら再来週も。その次も、その次も、その次も……
ぐるぐると同じ場所を回り続ける氷精に、延々と助言を与え続けるのか。
――頭の中にそんな連想が浮かんだ、次の瞬間。
私は慧音の肩をがっしりと掴んでいた。
「? どうした、妹紅」
「……もういいだろ、慧音。もういい加減にしろ。これ以上やったって、何も変わらない」
手の平に力がこもる。慧音の肩に私の指が喰い込んでいく。
けれど自制が効かない。無性に腹が立って仕方がない。
「いやそもそも、本当に変える気があるのかよ慧音。変わり方を知らないチルノに手を貸すだって? 今のおまえがやってることは、私にはただの自己満足にしか見えないぞ!」
暴言だ。これは友人に吐くべきセリフではない。頭の隅でそう自覚しながら、私は、溢れ出る言葉を止めることができない。
おかしい。どうして私はこんなことを言っているんだ。そもそも私は、妖精に手を貸すなんて馬鹿なことをしている友人を止めようとしていたはずだ。この言い分ではまるで、妖精への指導方法に文句があるみたいじゃないか。
自分の気持ちがよくわからない。どうしてこんなに腹が立つのか、自分で自分が判らない。
「……妹紅? どうしたんだ。何を急に怒っているんだ」
慧音も困惑の表情で私を見ている。それはそうだ。私だってこの怒りがどこから来ているのか判らない。
……不可解といえば、そもそも私がここに足を運んでいる事からして変だった。だってもう結果は見えている。慧音がどんな助言を与えようと、弾幕ごっこの結末は変わらない。愚かな妖精は決して魔法使いに勝てはしない。愚者の円環は閉じたまま、永遠に同じ愚行を繰り返すだけ。
それが判っているのになぜ、私はここに足を運んでいるのだろう? どうして判りきった結末を確認しようとするのだろう?
……なぜ私は、もしかしたら違う結末が見れるかもしれないと――そんな馬鹿げた期待を抱いているのだろう?
「妹紅? 一体、君は――」
「――変えられるワケないだろ。バカは死んでも治りはしない。なのにおまえは、変われるかもしれないなんて希望を与えて同じ愚行を続けさせてるんだ。先週も今日も来週もその後も……。
それがどれだけ残酷なことか、おまえは判ってるのか? なあ、慧音!」
私は友人にひどいことを言っている。大して親しい仲でもない妖精のために、ほとんど唯一の親友の肩を捕まえて、激しい口調で罵っている。
やめるべきだと理性が告げる。これ以上不毛なことはするなと、全身の細胞が私を止めようとする。
だが感情は止まらない。こんなことを許してはならないと、私をはやしたて、突き動かし、慧音に憎悪を向けさせる。
「どうなんだ、慧音!」
「……馬鹿なことを言うな、妹紅。
言ったはずだ、閉じた円環から抜け出せるのは変わりたいと願った者だけだと。そしてチルノは変わりたいと強く願っている。ならば彼女にも平等にチャンスはある」
「無理だって言ってるだろう! 変われるはずがない……そんなはずがないんだ! だってあいつは妖精で、不老不死で」
私と同じ、永遠に死ぬことのない存在。
「この世に生きた証を残そうともしない自堕落な存在で」
私と同じ、無限の時間を持つがゆえの無気力。
「いつまでたっても反省もしない、進歩もしない!」
私と――1300年の年月を経て摩耗し果てたこの私と同じ。馬鹿げた遊び以外には何の楽しみも見いだせず、ただひたすらに同じ行為に耽り続ける。
「もうそれは変えられないんだ。変えられるワケがないんだ。おまえだって本当はそう思ってるんだろ!? 何をしたって変わらないって、始めから判ってるんじゃないのか!?」
「妹紅……」
「もうやめろ! 中途半端に希望を持たせるのはやめてくれ! 最初から希望がない方がまだマシだ! これ以上あいつに、私に、こんな惨めな思いをさせないでくれっ!」
私の手は、いつのまにか、慧音の肩から離れていた。
両手で自らの顔面を覆い、喉から漏れ出る嗚咽を抑えている。
「ぐ……っ!」
――ああ、ようやく判った。
どうしてあれだけムキになって慧音を止めようとしたのか。
どうして妖精の戦いの結果があんなにも気になったのか。
私と氷精は、同じものだったのだ。変わることを心のどこかで願いながら、結局はいつまでも変わることのできない愚か者。
そして私は、もうこれ以上耐えられない。鏡を見せつけるようにして己の醜さを思い知らされることに我慢できない。
そんなことをされるくらいなら、いっそ放っておいて欲しかった。
「慧音、もうやめてくれ。ぜんぶ無駄なんだ。あいつは変わらない。そして私も変われない。
私にはもう殺し合いしかないんだ。私の精神が狂気に逃げ込まずに済んでいるのは、輝夜との殺し合いがあるからなんだ」
たとえ愚行とわかっていても。摩耗しきったこの心はもう、激しい憎しみと復讐の快楽にしか喜びを感じられないのだ。それをやめてしまったら、きっと私は、永遠に狂っているしかなくなる――
「……っ。畜生……っ!」
肩が震える。
結局のところ、不老不死たる私たちは、妖精よりもさらに惨めな存在なのだった。死を恐れず老いを恐れず、ただ狂気だけを恐れて、永遠に死の舞踏を続ける愚者。この世界から何もかもがなくなったあとも、きっと私たちはいつまでも、不毛の大地でステップを踏むのだろう。
いつまでも。いつまでも。
「だから、もう、やめてくれ。こんな私たちに付き合うのは、もう――」
そうして最後に、友人に向かって拒絶の言葉を吐いたとき。
黙りこくっていた慧音が、唐突に声をあげた。
「妹紅」
その音色にはまるでブレはない。いつもどおりに生真面目でとっつきがたい、澄みきった声。
はっと顔を上げた私を見つめて、彼女はきっぱりと言い切った。
「君は二つ勘違いしている」
「……勘違い?」
「一つ。私は別に、輝夜との付き合いをやめて欲しいわけではない。止めて欲しいのは殺し合いだけだ。
人殺しという行為には強烈な麻薬作用がある。アレばかりを続けていると、いずれ精神が健康な状態に戻れなくなってしまう。たとえ殺し合いをやめるのは無理でも、君にはそれ以外のことにも目を向けて欲しいと思っている。
私が君に願っているのはそれだけで、それ以外に他意はないよ」
「……へ?」
唖然としている私に向かって、慧音は次の言葉をぶつけてきた。
「二つ。私は自己満足を得るためだけに人に教えたりはしない。少なくとも、そんなことにならないよう常に気を付けているつもりだ」
よくよく見れば、慧音の顔はわずかに紅潮していた。もしかしたら彼女は今、己のプライドを傷つけられて憤然としているのかもしれない。
「長いこと教師を続けていると、見込みのあるヤツとないヤツの区別くらいはすぐに付くようになる。
挑戦の内容にも拠るが、生徒にやる気があっても適性がないと努力は徒労に終わるし、適性があってもやる気が無ければやはりどうにもならない。せっかく教えても成果が出ないならそれは無駄だし、私はそんな無駄は大嫌いなんだ。
だから私は、生徒にやる気と適性がなければ、大きな目標には挑戦させないようにしている」
そこで彼女は一息入れた。
私より頭ひとつ小さな彼女だが、しかし今は私を見下ろすような威厳を放っている。それは半妖としての迫力ではなく、歴史家としての誇りでもない。
三つの顔のうちの最後の一つ――教師としての矜持をたたえて、彼女は私に断言した。
「私はね。最初から、見込みのあるヤツにしか手は貸さないよ」
「…………」
何も言い返せないでいる私の背を、慧音の手の平がぽんと叩く。
彼女は口の端に少しだけ笑みを浮かべると、湖の方へと視線を転じた。
「さて、チルノに助言その3を伝えに行こう。ここからそろそろ難しくなってくるが――もし彼女がついてこれるなら、魔理沙に勝つこともできるかもしれない」
3、助言そのさん
またさらに一週間後。
例によって例のごとく、湖のほとりの木陰。時刻は正午――の少し前。
魔理沙が来るであろう時間よりも早めに集合した私たちは、3人で顔を突き合わせていた。
「今日こそ魔理沙をコテンパンさ!」
「なんでそうも自信満々に言い切れるんだ……」
偉そうな態度で胸を張る氷精にツッコミを入れると、私はもんぺのポケットに手を突っ込む。
正直なところ、いまだ私は半信半疑である。慧音の指導にではなく、この氷精の頭の中身に、だ。
一週間前に慧音が語った作戦は意外とイケそうな気もしたのだが、いかんせん実行するのがコイツでは……
「だーいじょーぶっ! 心配性だねモコンは」
「おい、モコンって何だモコンって。いくらなんでも蹴るぞコラ」
「蹴ったら殴るっ! いや間違った、殴ったら蹴るだっけ。あたいが蹴る」
「意味が判らんわっ!」
「……君たち、静かにしなさい」
まるっきり遠足を引率する先生のようなツラで、慧音が私たちをたしなめた。……ちょっと待て慧音、なんで私まで子供扱いする?
いろいろと納得が行かない。行かないが、ここは1300年間生きてきた大人としての度量を見せるところだろう。気を落ち着け、静かに息を吐くと、私は氷精に向き直った。
「おまえさ、慧音の助言はちゃんと全部覚えてるのか?」
「むう、そこはかとなくバカにされてるような……まあいいけど。覚えてるよ、ちゃんと」
ぷうと頬をふくらませるも、氷精は存外素直に復唱してきた。
「ひとつ、アイシクルフォールは使わない。
ふたつ、何よりもまず、相手を見る。
みっつ、障害物走で焦らせて、狙え必殺カウンター。
どう? 合ってるでしょ?」
「凄いぞ。びっくりした。満点じゃないか。完璧すぎて怖いくらいだ」
「……やっぱあたいのことバカにしてるでしょ」
氷精がさらに頬をふくらませるが、私は笑いを噛み殺しつつ無視を決め込んだ。さんざんおかしな名前で呼んでくれたことに対するお返しである。
「ふーんだ。あたいくらいの天才になると、3つのことまでなら完璧に記憶できるんだから」
いやそれは自慢になってないだろ、4つ以上は記憶できないのかよ。
内心でそうも思ったが、口には出さない。慧音の助言が無駄にならないことが今回の最優先事項である。余計な口論をしていては、ただでさえ薄い勝ち目がますます失くなってしまう。
私はもう一度気持ちを落ち着けると、せいぜい生真面目そうな顔を取り繕って、氷精にエールを送ったのだった。
「ええと、まあ、なんだ……がんばれ」
「なにその気の抜けた応援……」
「うるさい、他人に声援を送るなんて久しくやってなかったんだ、セリフが思いつかないんだよっ!」
怒鳴り終えてからふと横を見ると、慧音も手で口元を抑えて笑いをこらえていた。ああもう、ほっといてくれっ。
気勢を削がれた私が髪の毛に手を突っ込んでくしゃくしゃにしていると、慧音が魔法の森の方向へと視線を転じた。
「……む。魔理沙も来たようだ」
私には何も見えないが、遠見の術かなにかでも使っているのだろう。そのまま彼女は視線をチルノへと戻す。
「私たちはここで君の戦いを見守る。手出しは一切しないから、君の工夫の成果を見せてくれ」
「うん! じゃ、行ってくる!」
相変わらず元気だけは一人前に、氷精は勢いよく湖の上空へと飛び出していった。
少女の手には一枚の紙片がある。彼女がこの日のために工夫を凝らしたというスペルカードだ。慧音は方針を示しただけで、具体的なスペルの構築はすべてチルノがやったという。
あの一枚で、これまでずっと一方的だった展開を変えられるのだろうか。変えられるのだとしても、あの氷精が上手く使いこなすことができるのだろうか。やはり一抹の不安は残る。
「なあ、慧音……本当に、その、大丈夫か?」
50メートルほど上空で魔理沙を待ち構える氷精を見上げながら、私は隣の友人に小声で尋ねる。
友人はというと、軽く肩をすくめただけだった。
「勝敗だけを言うなら、チルノが勝つのは難しいな。私も魔理沙とは二度戦っただけだが、彼女の力はずば抜けている。過去に吸血鬼や大妖怪とも渡り合ったと聞くが、確かにそれも納得できるくらいの実力を秘めているよ。
彼女の武器は――」
慧音が言葉を切った。空の向こうから何かが急速接近してくる。
三角帽にスカート、そして箒。特徴的なそのシルエットは、この狭い幻想郷では誤認しようもない。由緒正しき西洋風魔法使い、霧雨魔理沙だった。
彼女はチルノが待ち構える場所を避けようともせず、真っすぐに飛んでくる。それを確認してから、慧音が話を再開した。
「彼女の武器のひとつは、あの速度。天狗や吸血鬼といった種族を除けば、この幻想郷で彼女に追いつける存在は少ない。となれば、追うも逃げるも彼女の自由。彼女と戦う者は、常に主導権を相手に握られた状態となる、というわけだ」
「どこに逃げられてもいいように、あらゆる方向に一斉に弾幕を張る、ってやり方もあるけどね」
「君ならその手も可能だろう。だがチルノでは難しい。特にこの季節では、まだ気温が高すぎて氷弾ひとつ出すにも余計な手間がかかる。弾幕で相手の逃げ場を狭める手は使えない」
「でも相手に自由に飛び回られては、結局のところ勝ち目はない。――だから、まずは障害物走ってワケか」
「うむ」
そのとき私たち二人の視線は、チルノの持つスペルカードへと注がれていた。それはこの戦いにおいて、最初に使うと決めておいた手札。
……うまく行くだろうか? あいつは上手くやってみせるだろうか?
もんぺのポケットに突っ込んだ手が、じわっと汗ばんだような気がした。
――霧雨魔理沙は、日々努力を欠かさぬ魔法使いである。毎週のように紅魔館へ押し入るのも、己の魔法修行の一環であると本人は主張する。
詭弁とは言い切れまい。彼女の押し入る先は、複数の強力な妖怪が巣食う危険な屋敷である。その中に潜入するというだけでも人間には難しすぎる行為だ。ましてや館内を堂々と歩きまわって探索するとなれば、それだけでも大変な力量を要求される。
謎の拳法を使う門番の目をかいくぐり、無数のナイフを操る殺人メイドと追いかけっこを演じ、大妖怪たる館の主たちの手を逃れながら図書館へたどり着き、そこにいつもいる紫色の魔法使いにスペル勝負を挑む。首尾よく勝利して目的のものを手に入れたならば、再び恐るべき住人たちの追跡を振り切って館の外へ脱出する。
それはたしかに命がけの蛮行であり、蛮行であるがゆえに効率的な修行といえよう。
無論この魔法使いとて、いつもいつも成功しているわけではない。たまには門番に叩き返されたり、殺人メイドに捕まって長々とお説教されたり、館の主たちにこてんぱんにのされたりもする。図書館の魔法使いの気分次第では、他の住人も呼んでお茶会と洒落込む羽目にもなる。が、そんな状況を臨機応変に切り抜けることもまた、霧雨魔理沙の修行なのだ。
ではそんな彼女にとって、紅魔館そばの湖に住む氷精は、どんな位置づけなのだろうか。
「よ。今日もお出ましか」
いつものように姿を表したチルノに、魔理沙は気安く手をふった。
ライバルと呼ぶには実力差が開きすぎている相手は、最近どうも調子が悪いのか、おかしな戦い方をするようになった。以前は元気いっぱいにほどよい量の弾幕をまき散らしてくれたので、紅魔館に潜入する前の準備運動にはもってこいの相手だったのだが……
「体調が戻ってないなら無理に出てこなくてもいいんだぜ? 妖精に体調なんてものが有るのかは知らないけど」
「心配無用ってものよ、あたいはいつでも絶好調だから。あんたこそ、ぼやぼやしてると指先から凍傷するよ?」
「おっと怖いね、冬でもないのに霜焼けなんて洒落にもならんな。じゃ、今日も遠慮なく行くぜ?
先週みたいな戦いはしてくれるなよ、弱い者いじめしてるみたいな気分になるから」
「あたいはいつでも最強って言ってるでしょ! あんまり舐めると舌も火傷するよ! ……2枚!」
魔理沙はにやりと笑った。他の点はともかくとして、この妖精の威勢の良さは嫌いではない。それでこそ遠慮なく叩きのめせるというものだ。
帽子の中からいつものスペルカードを取り出すと、彼女は己のセット数を1枚と宣言した。
そして、チルノが手に持つカードを指差す。
「さあ、そいつを使ってこい。始まる前から持ってきたってことは、よほど自信のあるスペルなんだろ?」
「後悔しても知らないんだから。行くよ、凍符・マイナスQ!」
「……Q?」
チルノの宣言したスペル名を耳にして、魔理沙は首をかしげた。
マイナスKというスペルならば知っている。大型の氷塊を周囲に撃ち出し、さらにそれを次々と破裂させることで大量の氷塊弾を生み出すのだ。だが、マイナスのあとにQが続くスペルは初耳である。
……もしかして、Qじゃなくてマル9の聞き間違いとか? いやいやいくらなんでもそれはない、さすがに。
普通に考えれば、マイナスKの改良版であろう。魔理沙はいつでも回避行動を取れるようわずかに身を伏せつつ、相手の出方を見守る。
魔法使いが慎重に様子を伺う間に、チルノの周囲に大量の氷塊が展開されていく。四方八方にゆっくりと広がるその様はマイナスKと同様だが、しかしそれとは違って、いつまでたっても炸裂しない。
「……? おい、これはどういう仕組みなんだ?」
「ふふーん。知りたい?」
魔理沙の問い掛けに、妖精は自信あり気な表情で両腕を組んだ。もっとも、この妖精はいつだって根拠のない自信に満ち溢れているのだが。
付け加えれば――少しおだてるだけで、大概のことを喋ってくれたりもする。
「うん、知りたいな。私も興味あるぜ。是非とも教えてくれ」
「じゃあ教えてあげるよ! この氷塊は、一見すると全部同じに見えるけど、なんと実は3種類あるのさ!」
「3種類? それはまた手が込んでるな」
「でしょ!? でしょう!」
見事におだてに引っかかった氷精は、嬉しそうに勢い込む。
魔理沙は内心でほくそ笑んだ。ちょろいぜ。
「……で、その3種類って、どう違うんだ?」
「ふっふーん。ひとつはマイナスKと同じで、時間経過で破裂する時間差弾! ただし、マイナスKよりも長めに保つよう工夫したのさ!」
へえ、と魔理沙は感心した。マイナスKの氷塊は、外気との気温差を利用して破裂する仕組みである。単純に氷塊の温度を下げたり大きさを変えるだけでは、起爆までの時間を大幅に伸ばすことはできないはずだ。チルノが自慢した通り、その構造にかなりの工夫がしてあるのは間違いない。
「もうひとつは接触弾! 他の弾がぶつかると破裂して弾をまき散らすけど、しなかったらずっと漂い続ける!」
ほう、と魔理沙は唸った。壊すと撃ち返してくる弾幕とは斬新だ。マル9とは思えないほど実にユニークなコンセプトである。
「最後に浮遊弾! 何が起こっても破裂せず、溶けるまで漂い続けるのさ!」
むう、と魔理沙は眉間に皺を寄せた。漂い続けるだけの氷塊は、それだけなら恐ろしくもなんともない。だが先程の2種類とまったく見分けがつかないとなると、かなり邪魔になりそうである。
「どれがどの弾か判らない、謎が謎呼ぶクエッションなスペル! ゆえにその名はマイナスQってわけ!
どう、スゴいでしょ?」
「ネーミングセンスはともかく、確かにこれはお前らしくもなく奥深いスペルだな……で、その3種類を巧妙に配置して撃ってるのか?」
「へ? 配置って? 弾は適当に作ってるだけだけど」
「……………」
魔理沙はますます眉間に皺を寄せた。
適当に、ということは、先程の3種類の弾の配置は、使い手であるチルノ自身も判らないということだ。
それはすなわち、
「いつどこでどの氷塊が破裂するか、お前にも分からない、ってことなのか?」
「そうだよ?」
「……自分で自分の弾を喰らったりしないか? それ」
「…………」
自信満々に両腕を組んでいた氷精の顔が、ふと曇る。
それを合図にでもしたかのように、チルノの頭上を漂っていた氷塊が破裂した。生み出された無数の散弾は、狙ったようにチルノめがけて飛び散る。
「うわわわわっ!? 危なっ!? ひえ、足元のも破裂したぁ! うわうわうわわわわ」
「本当にバカかお前はっ!?」
「バカって失礼ね、バカって言う方がバカ……うわ、危なっ、うわ」
自分で作り出した弾から必死で身をかわす氷精の姿に、魔理沙は頭を抱えた。
本気でマル9じゃないかコレ。感心して損した。
「まあいいや……決着つけるぞ。次はもっとまともなスペルを考えてこい」
「ちょっと、何もう勝った気分でいるのよ!? あたいのマイナスQはまだまだこれからなんだからね!
さあ、捕まえられるもんなら捕まえてみなさい!」
自分の弾幕による敗北をどうにかまぬがれた氷精が、魔理沙めがけて舌を突き出す。魔法使いはやれやれとため息をつくと、懐から八卦炉を取り出す。
間抜けな出だしながらも、何十度目かの二人の戦いはこうして開幕したのであった。
同刻、地上では――
「駄目だこりゃ……」
わずかながらも期待を寄せていたスペルの正体を知って、私はすでに投げやりな気分に陥っていた。
文字通り、駄目だこりゃ、である。自分自身で制御できないスペルなど何の意味もない。お互いにとって等しく有害というのであれば、それはつまり何もしていないのと同じことだ。
「おい、どうするんだよ慧音……あんなスペルじゃあ勝ち目はないぞ」
私のぼやきに、しかし我が友人は、意外な答えを返してきた。
「そうか? 私は悪くないと思うが」
「どこが!?」
「自爆しかねないというのは確かにマイナス要素だが、障害物走を相手に強いるという要求は充分に満たしている。ほら」
慧音が頭上のチルノたちを指差す。
それを目で追った私は、ほどなく、上空の戦況が今までとは異なっていることに気づいた。
「おい、ちょこまかと逃げるな……うわ、危なっ!? なんだよこりゃ、思ってたより厄介だな!」
「どうだ、思い知ったか魔理沙! 早くあたいを捕まえないとどんどん氷塊が増えていくよ……ってうわっ、髪の毛カスった!?」
逃げるチルノ、追う魔理沙。二人ともが周囲の氷塊の破裂を警戒し、ろくに弾も撃てないでいる。お互いに決め手を欠いたまま、勝負は膠着しつつあった。
なによりも今までと違うのは、魔理沙がチルノをスピードで圧倒できないでいるという点だろう。
「魔理沙の武器のひとつはその速度。だが彼女とて、狭い隙間をぬって全速力で飛べるわけではない。そのスピードを活かせるのは開けた空間でだけだ。
だから彼女への対処法として、全方位に高密度の弾幕を張るのが有効なわけだが――
先程も言ったとおり、今のチルノではそれはできない。ならば別の方法で魔理沙のスピードを殺す必要がある」
「それがあのやり方ってこと?」
「ああ。いつ破裂するか分からない障害物が周辺に散らばっていれば、飛行可能空域が狭まる上にいちいち周囲を警戒しつつ飛ばなければならなくなる。妖怪には周囲の状況を一瞬で把握しつつ飛べる連中も多いが、魔理沙はまだそこまでの空間情報処理能力を持っていないはず。
魔理沙相手には二重の意味で効果のあるスペルというわけさ。そして全速力を出せない魔理沙なら、今のチルノでも追いつける」
それが慧音の作戦だった。そしてチルノは、見事それに見合ったスペルを作り出してきたというわけだ。
「でもさ。相手のスピードを殺したはいいけど、チルノ自身もろくに攻撃できてないぞ? あのままじゃスペルが時間切れになるんじゃないか?」
「時間切れでブレイクされても、それはそれで構わないさ。このスペルの狙いのひとつは、泥沼の勝負に持ち込んで相手を疲れさせることにあるのだから」
「なるほど……」
魔理沙はあくまで人間である。不老不死の薬を飲んだこの私ですら、疲労や痛みが積み重なれば身体を動かすことができなくなるのだ。不老でも不死でもない魔理沙は言わずもがな。
一方のチルノは自然の化身だ。一度に出せる力は小さいものの、精神力がもつ限りは自然からいくらでも力をくみ出せるという利点が彼女にはある。人間のような身体構造を持たないぶん疲労にも強い。長期戦に持ち込むことができたなら、勝負は間違いなくチルノの有利に傾く。
自分が作った弾を危ういところでかわしながらの戦い方は、傍から見ていてブザマとしか言いようがない。勇猛でもなければ洗練されてもいない、稚拙極まりない戦法。けれどもその戦い方で、氷精は魔法使いを確実に追い詰めつつある。
これなら、ひょっとして、もしかしたら……
ポケットの中の手の平が、ひときわ熱くなった気がした。
「チ、ミスったなあ……」
周囲に漂う氷塊を睨みながら、霧雨魔理沙は己の失策を悟っていた。
自慢のスピードを殺されたというのも無論ある。だが、彼女にとって不利な要素はそれだけではなかった。
霧雨魔理沙は観察と先読みを武器にするタイプである。一度でも見たスペルならばすべての弾道を予測し、完璧に対処する自信がある。だが逆に、このようなランダム性の高い弾幕、反射神経のみを頼りに回避しなければならないスペルは苦手なのだ。
「霊夢はこういうの得意なんだけどな、カンで全部避けるから」
親友の顔を思い浮かべて、魔理沙は憮然とする。
なんにしても、迂闊に氷塊群の中に飛び込んだのがまずかった。最初に慎重に距離をとっておけば、こんな苦戦はなかっただろう。相手のスペルを舐めて早期決着を図ったのが彼女の最大のミスであった。
「やれやれ、本当に火傷したな。ちょいと慢心してたか」
上方と左方とで同時に爆発した氷塊の破片をまとめてかわしてから、魔法使いは小声でぼやく。
と――前方20m先に浮かんだ氷塊の陰から、チルノがひょいと顔を出した。
「さあどうだ魔理沙、まいったか。今のうちに降参したなら、カチンコチンの刑だけは勘弁してあげるよっ」
「誰が参るかバカ。……そんなことよりその氷塊、そろそろ破裂しそうだぞ? 離れた方がいいんじゃないか?」
「へん、これは時間差弾じゃなくて浮遊弾だよ。頭の悪い魔法使いと違って、妖精様は自然を見切るのが上手いのさ!」
「へえへえ、そりゃ大したもので」
相手の挑発に軽口で応戦するも、魔法使いの精神にはセリフほどの余裕はない。氷精の言葉はあながち間違ってはいないのだ。
たしかにチルノは、自分の作り出した氷塊がいつどこで破裂するかを把握し切れていない。だが氷精であるが故の特権か、氷塊を一度見さえすれば、それがどういう性質を持つのかをおおむね読み取ることができるらしいのだ。
魔理沙には同じ真似はできない。否、魔法研究を進めることで氷塊の性質を読み取る技術を編み出すことは可能だろうが、今の彼女はそのような知識を持ち合わせていない。
氷塊の性質をあるていど察知することができるチルノと、ほとんどできない魔理沙。その差は、消耗度という形で少しずつ現れ始めていた。
(私が動き続けられるのは、あと2分? 3分? 一旦休憩しないとそれ以上は無理、だな……)
全速力で一直線に飛ぶだけならば1時間でも2時間でも飛んでいられる。だが、邪魔な障害物が多数漂うなか、常に全方位を見渡しつつ氷塊の破裂に備え、度々ちょっかいを掛けてくるチルノを牽制しつつ最小の動きで氷の散弾をかわし続ける……こんな状態はいつまでも続けられるものではない。体力はともかく集中力がもたないのだ。
魔理沙は今、敵の術中に完全にハマってしまっていた。
「チルノのくせに中々やるじゃん。こりゃ、ちょっとだけ本気を出さないとマズいかな?」
後方から飛んできた氷弾を宙返りで回避しつつ、魔理沙はぺろりと舌を出し、乾ききった唇を舐めた。
「……仕掛けてくるな、彼女」
雰囲気の変化を読み取ったのだろう、私の横で慧音がポツリとつぶやく。
「さすがに思い切りがいいな、ジリ貧になる前に勝負に出るつもりだ。だとすれば――」
「だとすれば、こっちの思い通り……!」
慧音の言葉をついだのは、私だった。
ポケットの中の手は握り締められ、断言する口調に意味もなく力がこもる。
戦況は慧音の思惑通り、いやそれ以上に上手く進展していた。勝ち目はすこしずつ見えつつある。
だが、まだまだチルノが不利なのには変わりない。なにしろ元々の実力差がありすぎるのだ。たとえスペルブレイクまで逃げ切り、相手を消耗させ尽くすことができたとしても、それでも氷精の勝率はせいぜい一割といったところだろう。
ゆえに、最大の勝機が訪れるのは時間切れのあとではない。状況の打開を狙って魔理沙が仕掛けてくる、この瞬間だった。
「あいつはきっと、チルノが最後まで逃げるつもりだと思ってる。あいつはきっと、逃がすまいと勢いよく突っ込んでくるはず。そこを狙い撃つことができれば……!」
私の分析には、少なからず己の願望が入っていたかもしれない。
慧音がちらりとこちらを見たようだったが、上空を凝視する私は、そのことに気づかなかった。
――霧雨魔理沙は、確実に相手との距離を詰めつつあった。
彼女の観察眼は、何もスペルの性質のみに留まるものではない。これまで戦ってきた相手の動き方や癖までもが、この魔法使いの頭の中には完璧にインプットされていた。彼女はそれを武器に、吸血鬼やスキマ妖怪、月人といった強敵たちと渡り合ってきたのだ。
全方位から不規則に氷弾の舞い飛ぶこの状況下でも、その眼は健在だった。氷精の動きの癖を読みより、未来位置を予測し、少しずつ先回りすることで距離を詰めていく。己のスペルが確実に命中するその場所まで、じっと息を潜めて忍び寄っていく。
――やがて好機は訪れた。じりじりと近づいてくる魔理沙の姿に焦りを感じたか、氷塊の陰から陰へと逃げ回っていたチルノが身体を反転させ、迎撃の弾を撃ってきたのだ。
「くっ……この、しつこいよっ!」
今だっ!
無言の叫びとともに、魔理沙は急加速をかけた。すでに周囲の氷塊の位置は確認済みだ。どのタイミングで何が破裂しようと、魔理沙の機動を妨害する弾幕は発生し得ない。今この瞬間が、一気に勝負をつける最大のチャンスであった。
「わわっ……!?」
魔理沙の狙いに気づいたチルノが慌てたような表情を見せるが、もう遅い。彼女の速度ではこの強襲をかわしきることは不可能。
勝利を確信した魔法使いは、螺旋を描いて迎撃弾をよけつつ1枚きりのスペルカードを前方に突き出す。
「行くぜ、星符……」
「かかったね魔理沙! ブレイク!」
瞬間、周囲を浮遊していた氷塊がすべて破裂した。チルノが自らのスペルを放棄したのだ。霊力供給を断たれた氷塊片は弾丸となることもなく、力のない放物線を描いて落下していく。
「――!?」
無力化された氷塊は無害であり、魔理沙の突進を妨害することはない。だが一斉炸裂の衝撃と轟音、何より完全に予測外だったその行動は、魔法使いを怯ませるに充分だった。
突進の態勢のまま、魔理沙の動きが一瞬だけ止まる。
「しまっ……!」
「喰らえ、瞬間冷凍ビーム!」
満を持しての2枚目のスペルは、超高速の3方向ビーム。完璧なまでの角度で放たれたそれは、魔理沙の飛行経路を完全に覆い尽くしていた。
そう――敵の動きを読んでいたのは魔法使いだけではない。チルノもまた、魔理沙の突進速度を計算しつつ、カウンターのタイミングを測っていたのである。
すでに魔法使いの癖は覚えていた。なにしろ少女は前回、じっと回避に徹しつつ、魔理沙の動きを必死に目で追っていたのだから!
「やった!」
扇状にビームが一閃し、どう考えても避けようがないと確信したチルノが快哉を叫び――
「ふう。今のは少しヒヤっとしたぜ」
――そして頭上で響いたそんなセリフとともに、大量の星弾が雪崩れ落ちてきた。
「……っ!!」
至近距離でスペルの直撃を喰らった氷精が、くるくると回りながら落下していく。
決着を見届けた私は、ぎりっと奥歯を噛み締めた。
完全に決まったはずだった。ブザマで、不器用で、稚拙ではあったけれども、それでもチルノが組み立てた罠は完璧に作動していたのだ。
けれど魔理沙は、軽々とそれを乗り超えてしまった。
「……読まれていた? 途中で……」
「ああ。おそらく、マイナスQをスペルブレイクする直前あたりで気づかれたのだろう。見事な回避運動だった」
肯定する慧音の声には、無念がにじんでいた。
彼女は静かに首をふり、己の見込み違いを認める。
「チルノには何の非もない。私の期待以上によくやってくれた。正直、今回は勝てるとさえ思ったのだが……。
敗因はチルノではなく、私の分析ミスだ。魔理沙の本気がこれほどまでとは思っていなかった。
……やはり君が最初に言った通りなのかもしれない。あの二人には、力の差がありすぎる」
「…………」
慧音の言葉に、私は無言を貫く。
そう――その通りだ。私の見立ては間違っていなかった。間違っていたのは慧音で、氷精に対する私の実力評価は完全に正しかったのだ。
その事実を確認して、けれど心には何の爽快感もない。
むしろ、悔しい。
信じられないほどに、悔しい。
心の中でぐらぐらと火が燃えているようだ。
「……ともかく、彼女の元へ行ってやろう。私は彼女に謝らなければならん」
慧音にそう促されなければ、私はいつまでもそこに立ち尽くしていたかもしれない。
とっくの昔に魔理沙はどこかへと飛び去り、この場に残る戦いの残滓は、溶けかけた氷塊の欠片だけになっていた。
湖のほとりで、氷精はこちらに背を向け、座り込んでいた。歩み寄りながら観察する限り、星弾の直撃で受けたダメージも、すでにある程度回復しているようだ。
だが、ぽつんとたたずむその後姿に、私は痛々しさを感じ取っていた。どうにか声をかけようとするも、喉から言葉が出てこない。
結局今日も、負けた氷精に最初に声をかけたのは慧音だった。
「大丈夫か? チルノ」
「…………」
振り返った氷精の瞳は、わずかに潤んでいた。
震える唇から、小さな声が漏れる。
「悔しい……」
立ち止まった私たちの前で、氷精がうつむく。
「ちくしょー……。勝てなかった……。
悔しい……悔しいよ……」
それは4週間前にも、そして3週間前にも彼女が口にしたセリフ。そのときのチルノは、子どもが駄々をこねるようにジタバタと手足を振り回していた。
「なんでさ……。
完璧だったのに。最強だったのに。
なんで届かないのさ。なんで、なんで……」
今、氷精はうつむくだけだ。
悔しさに手足を投げ出したりはしない。
世界に泣き声を響かせたりはしない。
己の弱さを、他の誰かのせいにしたりはしない。
なぜなら今の彼女は、己の不足を知りすぎるほどに知ってしまったから。
震える少女の頭に、慧音が優しく手を乗せる。
「よくやった。勝てはしなかったが、見事なスペルだった。君はよく頑張ったよ、チルノ」
「ダメだよ……このままじゃ駄目だ。勝てない。届かないよ」
「そうだな、魔理沙は強い。私の策だけで何とかなるかと思ったが、それでは不十分だった。
すまなかったな、役に立てなくて」
「違うよ、けーねじゃない。足りないのはけーねの力じゃなくて、策じゃなくて……」
チルノの言葉はそれ以上続かず、嗚咽の中に紛れてしまった。けれど、語られなかった彼女の気持ちが、私には痛いほどよくわかる。
不死を頼りにして何も考えず敵に挑むうちは、実力差というものは見えてこない。勝つための方法を考え、工夫し、努力し、勝てると確信して――
そうしたあとにあっけなく負けて、初めて認識できるのだ。
敵の強さが。泣きたくなるような己の弱さが。
慧音もまた、そのことをよく知っているはずだった。
「……それでもまだ、勝ちたいのか? チルノ」
「当たり前だよ!」
吠えるように断言するチルノに、慧音はにっこりと笑ってみせた。
「ならば、もっと力をつけるんだ。妖精が生まれながらに持つ力だけでは到底足りない。ただ生きているだけでは、永遠に魔理沙に届きはしない。
少しずつ己を変えていくんだ。工夫して、努力して、積み重ねて、もっと強くなるんだ」
それはきっと、慧音が一番言いたかったセリフなのだろう。
変わりたいと願いながら、変わり方を知らなかった妖精。そんな彼女に、慧音は最初の道しるべを立ててやりたかったのだろう。
でも――と、私は思う。
それだけでは足りない。愚かだったモノが変わろうとするなら、もっと強い導きが必要なはずなのだ。
「判らないよ……。工夫って、努力って、どうすればいいの?
あたいは早く強くなりたい。強くなれるなら何だってする。魔理沙に勝つためならどんな苦しいことでもできる。
でも、何をすればいいか分からない」
「焦る必要はない。ゆっくりと周囲から学んでいけばいい。それに私も、週に一度くらいならば時間を取れる。そこで少しずつ戦い方を教えよう」
「少しずつじゃあ駄目だよ! それじゃあ追いつけない! あたいは魔理沙に追いつきたいんだ!
ねえ、教えてよけーね! 強くなる方法を教えて! 厳しくてもいいから、魔理沙に追いつく方法を!」
「うむ、それは……」
そのとき初めて、慧音が困惑の表情を見せた。どうも相手の情熱の量を見誤っていたらしい。
まっすぐな視線で見上げてくる少女に、歴戦の教師もたじろぎ気味だ。
「さすがにここからは、これまでのような小手先のやり方は通用しない。訓練と、そして実戦での経験を積み重ねる必要がある。一朝一夕でできることではないんだ」
「一鳥でも一石でもいいよ、それしかないなら、あたいはそれをする! 訓練でも実戦でも経験でも何でもするよ! どんなにつらくてもいい、だからけーね、それを教えて!」
「……それは……」
無理だ。慧音には寺子屋の仕事がある。人里を守る仕事もある。歴史の編纂もしなければならない。小手先のやり方だったからこそ今までチルノに付き合えたのであって、本格的な訓練を施すなどとうてい不可能だ。
だがそれを正直に告げることは、慧音という人間には難しいだろう。なにしろ少女の熱意は本物だった。文字通り熱に浮かされたようにして、慧音の元へと詰め寄ってくる。
「お願い! ちょっとだけでも! 魔理沙に一度勝つまででもいいから!」
「君の願いは叶えてやりたいのだが……」
「なんでもする! できる限りのお礼もするからっ!」
「むう……」
本当に珍しいことに、慧音が本気で戸惑っていた。少女の熱さを受けとめそこねたのだろう、わずかに目をそらしてさえいる。
そして目をそらしたのは彼女だけではなかった。私もまた、少女の顔を直視できない。
それは――
圧倒的な実力差という現実を思い知らされて、それでもなお愚者の円環を叩き壊そうと挑む氷精のまっすぐさに、羨望と嫉妬を覚えたからか。
それとも、かつての私自身を思い出したからか。不老不死であるという以外に何の能力も持たず、味方も家族もなかった私が、生きる場所を守るために強さを欲したころの――とっくに忘れ去っていたと思っていた、あのころの記憶を。
妖怪を退治するための力を求めたかつての私と同じように、少女は、心中しかねない者の顔つきで慧音へと詰め寄る。
「お願い! ……お願い!」
「……チルノ。その、すまないのだが……」
慧音がようやく口を開いた。本当に言いにくそうな表情で、何事かを相手に告げようとしている。
返答の内容は決まっていた。我が友人は、自分の仕事を放り出せるような人間ではない。チルノの願いを聞き入れるわけには行かない。だから答えはNOだ。
それは本来、私にとっても歓迎すべき答えのはずだった。つい一週間前まで私は、友人が妖精に手を貸すことを辞めさせようとしていたのだから。あんなものに関わるな、どこまでも不毛な徒労に過ぎないと。
今だってそれは変わらない。この氷精の願いにつきあってやる義理もなければ、つきあって得られるものもない。以前と同じく、私は我が友人を止めるべきなのだ。
けれど……
「――なあ、慧音。その、ちょっとくらいは手伝ってやれよ」
そのとき私の口から出たのは、そんなセリフだった。
「えっと……私もさ、手伝うからさ。おまえの負担にならないよう、コイツの指導を手伝う。だから、慧音」
「…………」
顔中に驚きを貼りつけて、我が友人がこちらへと振り返った。
無理もない。私自身、自分の心変わりに驚いているのだから。
なぜ妖精を手伝えなどと言ったのか。なぜ自分も手伝うと言い出したのか。
それはきっと、泣きながら慧音に頼み込む氷精の姿が、かつての自分と被ったから。力を求めながらもそれを得る方法を見つけることができず、何十年も各地をさまよい歩いたころの私も、きっとあんな情けないツラをしていたのだろう。
「……手伝ってくれるのか? 妹紅」
「ああ。二言はないよ」
そう返答すると、慧音の顔に、この上もない喜色が浮かんだ。
力強くうなずいて、彼女はチルノに視線を戻す。
「チルノ、了解した。私たちは君を教えよう。
ただしひとつ条件がある。その条件を飲めなければ、私は君を手伝えない」
「……条件って?」
「これから私たちが教えることは、自分より強いものと戦うためのやり方だ。けれどそれは、弱い相手に向けることもできる。弱い相手を好き放題にいたぶるために使うことができる」
チルノに向ける慧音の視線が鋭くなった。
ひとことひとことを確認するように、教師は氷精に語りかける。
「私は人里に住み、人の味方をしている。だから、弱い人間が傷つけられることを見過ごすことはできない。悪戯までなら仕方ないが、もし君が子供や老人を傷つけたり死なせたりしたら、私は君を退治しなければならない」
「弱っちい人間を傷つけたりなんてしないよ! あたいは最強の妖精なんだから!」
「――そうだな。その通りだ。君はそういう妖精だった」
わずかに苦笑したあと、慧音はもう一度、厳しい表情を浮かべた。
「君が弱い人間を襲う妖精ではないことは聞き知っている。けれどやはり、約束は必要だ。だからここで約束して欲しい。これから教える力は、自分より強いものを相手にしたときだけしか使わないと」
「判った!」
あっさりと承諾した氷精に、慧音は再び笑顔を取り戻す。そして右手をチルノに差し出した。
「では約束しよう。とりあえず二週間だ。その二週間で君が魔理沙に勝てるよう、私たちは君に訓練を施そう。
さあ、約束の握手だ」
「うん、握手!」
妖精と教師が笑顔で手をつなぐ。
滑稽で微笑ましいその様は、私にはずっと縁のなかった光景。思わず目を閉じてしまったのは、嫉妬のゆえか、それとも安堵のゆえか。自分の感情が、今ひとつ自分でも理解できない。
「ま、いいか」
厄介ごとは増えたけれども、今の自分はそれほどイライラしていない。むしろどこか清々しい気持ちだった。
そしてこんな清々しい気持ちは、実に久しぶりなのだった。輝夜に完勝した時でさえ、これほどいい気分にはなれなかったというのに。
「あ。そういえば、今日もあいつとの決闘をすっぽかしたんだっけ。
ま、別にいいけど」
どうでもいいことをつぶやいていると、慧音とチルノが私の隣まで連れ立ってやってきた。
慧音は氷精の背を押し、彼女に促す。
「さ、妹紅とも約束の握手を。君の実地指導は彼女が行う。つまり、今日から彼女が君のコーチだ」
「うん! 握手!」
氷精が、私に向かってぐっと右手を差し出す。
……ってちょっと待て慧音、コーチってオイ。そりゃ手伝うとは言ったが、そこまでするとは一言も……。
「握手!」
ふんっと気合を入れて右手を伸ばす氷精の姿に、私は思わず吹き出してしまった。慧音への抗議の意思も面倒くささも、その間抜けな姿の前には全てが吹っ飛んでしまう。
もうこうなっては、完敗を認めるしかない。私は潔く諦めて、右手を差し出したのだった。
「わかったよ、約束の握手だ。よろしく、チルノ」
「うん! よろしくモコン」
「だから私の名前は妹紅……って冷てぇぇぇー!?」
そして私は飛び上がった。慌ててチルノの手を振りほどき、一瞬で冷え切った右手を懐に抱え込む。
なんだこりゃ、危うく大怪我するところだったぞ!?
「何するんだよ、悪戯にしちゃ度が過ぎてるぞ!」
「え? 別にあたいは何も……」
「何をしているんだ妹紅。何の守りもなしに氷精の身体に手を触れたら、凍傷になるに決まっているだろう」
呆れたような表情でたしなめてくる慧音に、私は全力で喰ってかかった。
「ちょっと待て、それはおかしいぞ!? おまえだってチルノに何度も触ってたじゃないか! なんでおまえだけ平気なんだよ!?」
「霊力を手に通してガードしていたんだ。氷精に直に触れるときは、普通そうするものだ」
「さも当然のように言うなよ、一言くらい注意してくれよ! おまえってたまに配慮に欠けるところがあるぞ!」
「悪かった。反省しよう」
「誠意が感じられないぞ!?」
「まあまあ、落ち着きなよモコン」
「冷たっ!? だから触るなコラ! あと私の名前は妹紅だ! 次に変な名前で呼んだら手伝ってやらないからなっ!」
うがーと叫び声を上げる私。けらけらと笑う氷精。口に手を当てて笑いをこらえる慧音。
……かなり不安な出だしではあったが、こうして、私たちの特訓の日々は幕を開けたのだった。
閑話。
慧音先生の二週間ダイジェスト。
一日目の朝、人里のすぐ外。
「里長に相談して、そこの空き地を貸してもらったよ。訓練は主にそこでやってくれ。ただし、あまり派手に弾幕を張らないように。それと火事にはくれぐれも気をつけて」
「わかってるって」
「これが今日の訓練メニュー。私はこれから夕方までずっと寺子屋なのでな、悪いが付きっきりでチルノを見てやってくれ。メニューに沿ってやっているかどうかを監視するだけでいいから」
「監視するだけって……気軽に言うなよ。一日中って、そう楽な話じゃないぞ」
「本当にすまない。夕食は普段の2割増しで豪勢にするから」
「……それを言われちゃ弱いな。ま、適当にやっとくよ」
ひらひらとやる気なさげに手を振って、妹紅はチルノとともに臨時の訓練場へと向かっていく。
それを見送りながら、慧音は小声でつぶやいた。
「大丈夫かな、妹紅は」
妹紅を信頼していないわけではない。が、彼女が自分や永遠亭の人間以外とまともな接触を持つのは本当に久しぶりなのだ。赤の他人に近いチルノと上手くやれるかどうか、心配でないと言えば嘘になる。
「途中で飽きて投げ出さないでくれよ……」
半分はチルノに、そして半分は妹紅に。祈りじみた気持ちでそんな言葉を向けてから、慧音は踵を返したのだった。
そして夕刻――慧音の自宅。
帰ってきた二人を見て、女教師は唖然とする羽目になった。
「君たち……なんでそんなことになっているんだ?」
有り体に言って、チルノはぼろぼろである。青い服はあちこち焦げ目だらけ、人間よりも回復速度が早いはずの身体のそこかしこに、いまだ癒えきらぬアザが浮かんでいた。
妹紅はそれよりはマシだが、普段は絹のように美しく流れる銀色の髪がところどころで逆立っていた。よほど激しい運動をしたのだろう。
どう考えてもおかしい。今日のメニューは準備運動のようなもので、二人がこんな姿になる道理がないのだ。
もしや、途中で大喧嘩でもしたのだろうか? 青くなりながらそんなことを考える慧音に、妹紅がびしりと指を突きつけてきた。
「慧音、おまえ何を考えてるんだよ!? なんなんだあの訓練メニューは!」
「え? ……訓練メニュー?」
「とぼけるな、なんだあのヌルい内容は! あんなんで二週間やっていくつもりか!? あれでこいつが魔理沙に勝てるようになると本気で思ってるのか、おまえは!?」
「ええ?」
――どうも、自分の心配とはまったく違う方向に話が進展しているらしい。
怒りの形相のコーチに、教師は慌てて口をはさむ。
「い、いや、今日のは導入編で、厳しくなるのはこれから――」
「それが甘いってんだよ! 最初から飛ばさなきゃ絶対に間に合わないぞ!」
今にもスペルを発動させかねない勢いで怒鳴る妹紅。燃え上がるようなその様は、今朝あれだけダラけきっていたのと同一人物だとはとても思えないほどだ。
「おまえは身内への評価が甘すぎる。もっともっと厳しく鍛えなきゃダメだ! だから私の判断で訓練メニューは変えさせてもらったぞ!」
「メニューを変えたって……ああ、だから君たちはこんなぼろぼろになってるのか」
「そうだよ! ええい、こんなもの!」
妹紅は懐から一枚の紙――すなわち、朝に慧音が持たせた訓練メニューを取り出すと、忌々しげにびりびりと破り捨てた。その行儀の悪さに眉を潜めつつも、慧音は落ち着いてコーチをたしなめにかかる。
「妹紅、そう焦るな。訓練は指導者だけがやるものではない、生徒とともに歩まなければ意味が無いんだ。だから私はチルノがついていけるよう、最初は緩めにだね」
「駄目だよけーね! そんなんじゃ追いつけやしないよ!」
と、服をぼろぼろにしたチルノまでもが、眉を吊り上げて糾弾の声をあげる。
「言ったはずだよ、どんな苦しいことでもするって! こんなんじゃあたいは強くなれないよ、もっとスゴいメニューを組んでよ!」
「そ、そうか。緩すぎたか」
「ユルすぎ! 最強のあたいにこんなん相応しくない! もっとこう、悪魔も泣いて鬼も哭いて、人を超え獣を超えるような変形合体メニューを組んでよ!」
「何を呼び出すシークエンスだ、それは」
ジト目でツッコミを入れるも、もはや氷精は話を聞いていなかった。こんな姿になってもまだ元気が有り余っているのか、妹紅と一緒になって両腕を振り上げ、メニューへの不満を叫ぶ。
「明日からはちゃんとした訓練内容にしろよ慧音! 地獄の千本ノックとかそういう感じの!」
「地獄! 最強! 変形だ、合体だ!」
「…………」
呆れたような表情で二人を眺めつつ――ふと慧音は思う。
なるほど、自分の心配はどこまでも杞憂だったらしい。自分よりもこの二人の方がやる気に満ちていたとは。
「過小評価してしまったな。反省反省」
小声でつぶやきつつ、いまだ暴れ回る二人を放置して、慧音は台所へと向かった。
今日の夕食は、普段の5割増しで豪勢にしてやろう。そんなことを考えながら。
三日目の昼休み、人里の入り口にて。
「午後の授業開始までは少し時間があるな。二人の様子でも見に行くか。……おや?」
人里の外にある訓練場へ足を向けようとして、慧音はふと、木陰からこちらを伺う視線に気づいた。
「君は……妖精じゃないか。そんなところに隠れて、何をしているのかな?」
「あ、こ、こんにちは。わたしチルノちゃんの友達なんですが……チルノちゃんがここにいると聞いて」
礼儀正しく挨拶をしながら出てきたのは、緑色の髪を片側でとめた妖精だった。その容姿、そしてチルノの友達というセリフに、慧音も相手の正体に気づく。
「ああ、大妖精だね。こんにちは、チルノから話は聞いているよ。今日はどうしたのかな」
「その、チルノちゃんがずっと湖に帰ってこないので……様子を見に来たんです」
「そうか……それは心配をかけてすまない。私も配慮が足りなかった」
妖精には人間と同じ意味での家族はいないが、しかし友達はいる。もし自分の友人が人里に行ったまま帰ってこないとなれば不安になるのも当然だった。そこに思い至らなかったことは、教師として反省すべきところであろう。
己の迂闊さに苦笑しつつ、慧音は妖精に事情を説明する。
「チルノは今、ここに泊まり込みで、スペルカードルールの特訓をやっているんだ」
「特訓……? あの、それって危ないことなんですか?」
「絶対安全とは言えないが……まあ大丈夫さ。今チルノのコーチをしているのは、私よりもずっと実戦経験が豊富な人だ。力の調節はきちんとできる。生徒にケガをさせたりはしないよ」
「ほ、本当ですか……?」
「気になるならば様子を見ていくといい。訓練場はすぐそこだから。さあ、こっちだ」
大妖精を伴って、慧音は目的の場所へと歩く。
そして――
「わわわわわ!? ひえ、ひゃう、危なっ」
「だからいちいちパニクるなって! 落ち着いてかわせ、しっかりと見てかわせ! こんなんイージーレベルだぞ!?」
「簡単に言うなー、こっちだって必死なんだぞっ!」
だだっ広い空き地の真ん中には、怒鳴り合いながら千本ノックに打ち込む少女が二人。無論バッターが妹紅で野手はチルノだ。ただし普通のそれと違い、球は捕るのではなくかわすのである。
一方的に追いまくられ、時には髪の毛を数本持っていかれつつも、氷精はギリギリで弾を回避し続けていた。少しずつではあるが、確実に上達してきている。
満足げにひとつ頷くと、慧音は横に立つ妖精へと微笑みかけた。
「君の友達は大したものだよ。この三日間、こんな厳しい訓練をずっと続けているんだ。きっと彼女は強くなれる――」
そして教師は、大妖精の様子がおかしいことに気づいて言葉を止めた。
細い肩がプルプルと震えている。チルノを追い回す妹紅をじっと凝視し、何かをこらえるように唇を噛み締めている。
「君、一体どうした?」
「……な」
「む?」
「……るな」
小声でぶつぶつと呟く少女。その可愛らしい容姿にあまりにもそぐわぬ異様な迫力に、慧音は思わず息を飲む。
そしてまずい点はそこだけではなかった。少女の体中に霊力が集まり始めている。まるでスペルカードを使う直前のように。
「き、君? 一体何を」
教師の呼び掛けを途中でぶった切って、小さな妖精は絶叫した――涙目で。
「チルノちゃんをいじめるなぁぁぁーーっ!」
少女が飛び出し、千本ノック中の妹紅めがけてまっしぐらに突っ込む。種族としての能力限界にも迫るその速度に、慌てて止めようとした慧音の手も間に合わない。
「落ち着け君、ちょっと待っ」
「悪い人間めっ! チルノちゃんをはなせー!」
「うわっ、なんだおまえは!?」
「え? 大ちゃん?」
不意打ちを食らったコーチは泡を喰い、氷精は目を点にする。
そしてそんな二人に、錯乱した大妖精の弾幕が殺到した。
「なっ、妖精がこの私に喧嘩を売るのかよ……って痛っ!? オイ待て、本気で殺すつもりか!?」
「うわああーん! チルノちゃん逃げてー!」
「大ちゃん泣かないで、あたいは大丈夫だよ! あとそれもやめて、痛い痛いそれ凄く痛いっ!」
「うわあああーん!」
「やめたまえ大妖精、あと妹紅も反撃はよせ! その子は勘違いしてるだけだ!」
――結局、誤解を解くのに一時間かかりました。
「ごめんなさい、すいません、早合点しましたっ」
「あたいも謝るよ。本当ごめんね、けーね、妹紅」
「いやまあ、それはいいんだけどさ。
……死ぬ気で全力を出した妖精って、結構強いんだな……」
「うむ……同感だ」
二、三発ほど被弾してしまったためにあちこち擦り傷を作ったコーチと教師は、妖精という種族への認識を新たにして、しみじみと頷き合うのであった――
「……ところで慧音。おまえ、寺子屋は?」
「うわあああ、忘れていたー!」
五日目、自宅――夕食の席。
ここまでの特訓は思いのほか順調に進んでいた。途中いろいろとアクシデントはあったが、まあおおむね上手く行っていると言えよう。今までの経過を振り返り、そしてこれからの計画を脳裏で組み立てつつ、慧音は冷やし中華をすする。
と同時、対面で妹紅が大声を上げた。
「だーかーらっ! おまえには力押しは向いてないんだって! どっちかっていうと、ちょこまかと小技で牽制しつつ効率的にカウンターをとっていくタイプなの!」
「やだよ、それなんかカッコ悪い! あたいも妹紅みたいな派手なスペルが使いたいよ! フジヤマヴォルケイノとかさー!」
静かにお皿を置いた慧音は、目の前で繰り広げられる喧騒に、静かに静かにため息を付いた。
食事中は行儀よく。これは人間として最低限の礼儀であると彼女は思っている。まあ、人の作法に慣れていない氷精は仕方ないとしよう。だが幼い頃に家出したとはいえ、名門の家で生まれ育った妹紅までもが膝を崩して口論に乗り出すのは如何なものか。
じろりと二人を睨みつけ、慧音は口を開いた。
「……君たち。熱心なのはいいが、食事中は静かにしなさい」
「おまえの力でヴォルケイノはまだまだ早いっ! 私だってアレぐらいの炎を操れるようになるのに百年以上はかかったんだ。こういうのは積み重ねが大事だって、慧音もそう言ってただろ?」
「そうだけど~。あたいも一つくらい欲しいよ、こう、凄く太いレーザーとか凄く派手な一斉射撃とか」
二人とも聞いてない。声が小さすぎたのだろうか。
思い直して、慧音は声のトーンをひとつ上げた。
「……君たち、ものを食べながら喋るのは行儀が悪いぞ」
「弾幕は派手さより美しさだって。……まあ、派手なのがいいって気持ちはわかるけど。でもどちらにしろ、おまえにもっと力がついてからの話!」
「でもでも、ひとつくらいスゴいのを持ちたいよ、ちょっと出すのが難しくてもいいからさっ!」
また聞き流された。これはあれか、学級崩壊の前兆だろうか。
少しばかりくじけつつも、慧音は辛抱強く注意を続ける。
「……君たち。そういう話は食事が終わってからだね」
「あーもー判った判った! そこまで言うなら、アレだ、とりあえず周囲の環境をうまく利用してみろ。何も無いところで弾幕を一から作り出そうとすると骨が折れるけど、あらかじめ材料があるところに作ればそうでもないから」
「あらかじめ存在してる材料って……ええと、土の中に染み込んでる水とか、川の水とかそういうの?」
もはや教師など不要とばかりに、二人は慧音を無視して額を突き合わせ、自主的に学習に取り組んでいる。
それ自体はいいことだ。むしろ推奨されるべきだ。だが今は食事中なのだ。礼儀作法は大事なのだ。そして教師の威厳だってこのままでは台無しなのだ。
慧音は意を決して声をあげる。
「……君たち、人の注意にはきちんと耳を傾けなさい」
「そう! 土の水、川の水――そういうやつだよ、判ってるじゃないか! あとは、それを使える地形にうまく相手を誘い込むのさ。私だって力が弱かった頃はよくそうしてたんだぞ?」
「むー、それなら今のあたいでもできそうだけど、でも状況限定って使いにくいなあ……」
…………。
「贅沢いうなってば。おまえの目標は魔理沙に勝つことなんだろ? 戦い方を選んでたらいつまでたっても勝てやしない。おまえはそれでいいのか?」
「よくないよ! あたいは絶対に魔理沙に勝って、最強のしょーごーを取り戻す……」
ぼきり。
女教師の手の中で、箸が音を立ててへし折れる。
いまだ会話に夢中な二人に向けて、女教師は澄み切った声で最後通牒を突きつけた。
「……いいかげんにしないと頭突くよ?」
「やめて慧音。私凄く反省してるから」
「ゴゴゴ、ゴメンナサイけーね」
由緒正しき謝罪法・土下座で対処する二人に、慧音は満足げに頷いたのだった。
七日目の午後。
慧音が訓練場に足を運んでみると、久々の休日だというのに、今日も特訓を続ける妹紅とチルノの姿があった。精密射撃の練習だろうか、妹紅が上空に投げる石をチルノが地上から撃ち落としている。
次の石を投擲しようとするコーチの背中に、慧音は苦笑混じりの声をかけた。
「……今日くらいは休んだらどうだ? 根を詰めすぎても逆効果だぞ」
「軽く流してるだけだよ、午前中はたっぷり休んだし。それに、あんまり休みすぎるとあいつがダラける」
振り返りもせず答えてから、妹紅は石を5つまとめて投げ上げた。わずかに軌道をずらしつつ、5つともが綺麗な放物線を描いて飛んでいく。彼女がこの仕事を引き受けてからまだ一週間だというのに、随分とコーチっぷりが板についていた。
――いや、それは違うか。
慧音は内心で首を振った。妹紅の炎の力は生来のものではなく、厳しい修行によって身につけたもの。能力を鍛えることにかけては彼女は元々豊富な経験があるのだ。やる気さえあれば、これくらいのことはすぐにできてもおかしくはない。
宙に舞った石が5つとも見事に叩き落とされるのを眺めながら、慧音はぼやき混じりにつぶやいた。
「君の方は、想定よりもはるかに順調だな。羨ましいくらいだ」
「なんだー? 声が暗いぞ慧音。何か悪いことでもあったのか?」
「……ああ。こちらの仕事が、少しばかり行き詰まっていてな」
「出来の悪い生徒にでも手こずってるのか? 妖精なみに頭の悪いガキなんてそうはいないと思うけど」
次に投げる石を拾い上げながら、冗談めかして笑う妹紅。調子の良さを反映してか、その表情はあくまで気楽だ。
だが慧音は、相方の明るさに同調することができなかった。重い気分を引きずったままの声で事情を説明する。
「寺子屋の方は問題はないよ。問題があるのは里の守りの方だ。今日も香霖堂に行ってみたんだが、やはりどうしても見つからない」
「……何が?」
慧音の声からにじみ出る深刻さに気づいたのか、妹紅も石を拾うのをやめ、立ち上がった。
「ていうかおまえ、今日もあの店に行ってきたのかよ。前々から何度も通ってるみたいだけど、一体何を捜してるんだ?」
「人を異変から隠すための手段。……大妖怪すらも欺き通すほどの結界を、な」
慧音が答えると、妹紅もはっと目を見開いた。今話題にしていることが、予想以上に根深い問題であることを理解したのだ。
慧音がそれを探し始めたきっかけは、今から二ヶ月ほど前に起こった事件――ある日突然、いつまでたっても夜が明けなくなってしまった怪異である。
慧音はそれが大事件であると判断し、半妖としての己の能力を活用して、人里全体の歴史を「喰」らった。そうすることで里の外のモノたちから中の住人を隠し、災難をやり過ごそうとしたのだ。
だが彼女の能力は、人里を訪れた妖怪たちにはことごとく通用しなかった。スキマ妖怪、人形使い、吸血鬼、幽霊……慧音の仕掛けたからくりは、それら強力な妖怪にはまるで役に立たないことを露呈してしまったのだ。
幸運にも、あのとき人里を訪れた妖怪たちには人間を害する意志はなく、里に被害が出る事態には至らなかった。
だがもし、あの妖怪たちの一匹でも、その場で暴れ出していたら?
……間違いなく、慧音には止めることはできなかっただろう。そして多くの人間が犠牲になっていただろう。
「あのときほど自分の無能さを噛み締めたことはない。
いざ大異変が起こったとしても、歴史を喰らうこの能力さえあればどうにかなると考えていた。満月の夜ならばいかなる妖怪も退ける自信があった。
けれど実際には、私には何一つ守れはしなかったんだ。里の人間たちも……そして君の安全も」
「そんなの、おまえが気にすることじゃないだろ。アレは相手が悪かったんだ」
「相手が悪いで片付けることはできない。力ある妖怪は気まぐれだからな。あの妖怪たちのうちのいずれかが、ある日ふと人里を襲いたくなったとしたら?
……今の私では、どうやってもそれを止めることはできない」
だから慧音は、歴史を喰う以外の方法を探していたのだ。戦う力のない人間を、妖怪や異変から守るために。
だが幻想郷の中でも最もおかしなものを扱う店でも、その目的の手がかりとなりうるものは見つからなかった。
「やれやれ、だな。自分の力を過信しすぎた結果がこのザマだ」
「慧音……」
「まあ、これくらいで諦めるつもりはないさ。どこかに手がかりがあるかも知れないからな」
落ち込んだ雰囲気を払拭しようと無理やり笑ってみせるが、かえって痛々しさを演出しただけだったらしい。慧音を見る妹紅の表情がますます暗くなる。
「なあ、慧音。あのさ……その仕事……私も……」
気まずげに下を向いてぶつぶつとつぶやき出した妹紅を見て、慧音は己の失策を悟った。いま彼女にこんな話をしたところで何の解決にもなりはしない。かえって目の前の仕事を阻害するだけだ。
慧音は強引な手を使うことにした。わざと力を込め、妹紅の肩をばしばしと叩く。
「ほら、君がそんな顔をするな! チルノが待ってるぞ、早くコーチの仕事にもどれ!」
「いや、その、私……」
「今は目の前のことに集中するんだ! 二人でチルノを勝たせてやろう! さあ!」
「あ、ああ……」
不承不承といった体ながらも、妹紅はチルノの方へ振り返る。
彼女が手に持った石を再び投げ始めたのを見てから、慧音はほっと息をついた。
「まったく、やれやれだな。状況も見ずに愚痴をついてしまうとは、私もまだまだ未熟だ」
とりあえず今は、この仕事に集中しよう。
己にもそう言い聞かせて、その日慧音は訓練が終わるまで、その場で二人を見守り続けたのだった。
九日目の夕刻、人里のすぐ外の訓練場にて。
「ほら、これもちゃんと回避できるようになったじゃないか。さあ、そろそろ次のレベルに突入するよ!」
「おっけー! どんと来い……ってうわわわわ、やっぱ待って、弾が多すぎるよっ!」
「落ち着け、最小限の動きで避けていけば追いつめられることはないから! さあもう一丁!」
「ひえええ!? 無理無理無理無理っ!」
宙に浮かんだ妹紅がスペルを発動して次々と弾幕を生み出し、チルノは悲鳴を上げながらもどうにかそれをよけ続けている。
他はともかく、回避に関する訓練は着実に成果を上げているようだった。二人を見守る慧音はうんうんとうなずく。
――と、すぐそばの木陰で何かが動く気配がした。慧音が視線をやると、訓練場をじっと伺う人影が一つ。
「……そこにいるのは誰かな?」
「うわっ!?」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔で振り向いたのは、頭部にウサギの耳を持つ少女。永遠亭に住む輝夜の従者、鈴仙・優曇華院・イナバであった。
赤い目を白黒させながら、彼女は慧音に抗議する。
「び、びっくりした……ちょっと先生、驚かさないでよ。寿命が縮んだじゃない」
「月の兎の寿命は恐ろしく長いのだろう、多少縮んでも問題はあるまい。
それより、こんなところで何をしている? 性懲りも無く妹紅の命を狙いに来たか?」
「ちょ、ちょっとタンマ! 戦闘モードはやめて! 私たちにそんな気はないって、もう!」
スペルカードを取り出す素振りを見せると、鈴仙は慌てて両手をふった。その腰砕けの様子を見て敵意がないことを確認した慧音は、ゆっくりと戦闘態勢を解く。
「君の言葉を信じて矛を収めよう。だが要件は聞かせてもらう。ふだん竹林から出ることのない君が、人里まで一体何をしに来た」
「あーもう、怖い顔。どうして私っていつもこういう役回りなの」
ぶつくさとぼやく鈴仙は、無防備を示す仕草のつもりなのか、万歳するように両手を上げた。そしてその姿勢のままで申し開きを始める。
「ていうかさ、悪いのは私たちじゃなくて妹紅なのよ。あいつってば先々週も先週も一昨日も、ウチの姫様との決闘をすっぽかしてくれたじゃない」
「……そういえば、そうだったな。妹紅は最近ずっと永遠亭には行ってないようだ」
「ええ、そうなのよ。だから姫様から命じられたの、いま妹紅が何をやってるのか探ってこいって。で、ついさっきアイツの姿をここで見つけて、ずっと様子を伺ってたわけなんだけど」
万歳の姿勢はそのままに、鈴仙は訓練場へと視線を向ける。そこでは相変わらず、妹紅とチルノが地獄の千本ノックを繰り広げていた。
「……何やってるの、アレ。なんだか妖精に稽古つけてるように見えるんだけど」
「見たままだ。氷精の特訓をコーチしている」
「……ええと、妹紅ってば、最近そういう趣味に目覚めたの?」
「君がどういう趣味を想定しているのかは知らないが……少なくとも、不死者同士で殺し合うよりはずっと健康的な行為だと私は思う」
「まあ、それはそうかも。……って、納得してる場合じゃない!」
唐突に叫んだ鈴仙は、両手をおろして慧音に詰め寄ってきた。
「別に妹紅が何を趣味にしてもいいけどさ、ウチの姫様との決闘をすっぽかすのだけはやめさせてよ。三連続で無視されたもんだから、ウチの姫様は今かなりご機嫌斜めなの。で、そのあおりでウチのお師匠まで機嫌が悪くなっちゃって、てゐは要領よくどっかに隠れちゃうもんだから、私が全部とばっちりを引っ被る羽目になってるの。
もうひどいのよ、今朝なんて怪しげな人体実験の被験者にさせられそうになるし! いい加減にしてよ、私これ以上耐えられない!」
「ああ、うむ、その……」
長い泣き言をたったの一息で言い切った鈴仙に、さしもの慧音も言葉を挟むことができない。
本来ならば知ったことではないと突き返すべきなのだろうが、赤い目をさらに充血させて泣きはらす少女を門前払いにするのも気が引ける。
気まずげにポリポリと頬をかきながら、慧音は小声で告げた。
「……判った。決闘の方は保証しかねるが、たまには輝夜にも会ってやるよう、妹紅に言っておく」
「ホントにお願いよ! 今週末は必ず来てよ! ちゃんとおもてなしするから! ウチの姫様に二人分のお茶とお菓子と包帯を持たせておくから!」
慧音の左腕にすがりついて懇願する鈴仙。
空いた右手で彼女の頭を押さえつけながら、慧音は思った。悩みなど存在しないという月の人間たちも、案外と妙なことで苦労しているものらしい、と。
十三日目の夜、慧音の自宅。
――決戦前夜。
すべてのプログラムを終えた教師とコーチは、チルノを寝かしつけてから、連れ立って外に出た。
夜空に浮かぶ三日月を見上げ、教師がつぶやく。
「いよいよ、明日だな」
「ああ……」
同じく空を見上げるコーチもまた、感慨深げだった。
長いようで短かった二週間。
生徒とともに一つ屋根の下に寝泊まりし、朝から夕刻までつきっきりで鍛え続けた。
苦しさも限界も弱音も、二人一組で一緒に乗り越えてきたのだ。
そうして積み重ねてきた二週間。その成果がどれほどのものであるのか、明日の戦いですべてが決まる。
「……ってちょっと待てよ慧音。さも明日が決戦だと決まったみたいな流れになってるけどさ、肝心なことを見落としてるぞ。
魔理沙が明日も都合よく紅魔館に押し入るとは限らないんじゃないか? もしあいつが来なかったら、決闘を吹っかけようがないんだけど」
「ああ、それなら心配はいらない。どうも彼女は最近、紅魔館の警備をすっかり舐めきっているようでね。ここしばらくは必ず日曜に、昼のショッピング感覚で屋敷に押しかけるんだそうな。香霖堂で聞いてきたから間違いない」
「……滅茶苦茶だな。妖怪以上の暴君っぷりだ」
「確かに」
二人して苦笑する。霧雨魔理沙の傍若無人さはある意味で痛快ではあった。自分が当事者でないなら、愉快な笑い話としてこれ以上のものはない。
笑い声とともにゆっくりと時は流れ、それにつれて空気も弛緩していく。
お互いに気が緩んだ、その隙間に滑り込ませるようにして、慧音は相方に水を向けてみた。
「で、チルノはどうだ? 君から見て、どれくらい上達しているだろう」
「んー……。そうだな」
気の抜けたような表情で、妹紅は地面を見つめている。
否――見つめているのは目の前の光景ではなく、この二週間の出来事か。しばし黙り込み、脳裏に思いを巡らせてから、彼女はもう一度口を開く。
「たったの二週間、特訓ごっこをやっただけだ。そんなもんで霊力は増えやしない。飛ぶ速度が速くなるわけでも、弾幕の量が跳ね上がるわけでもない。まあ、そういう力はほとんど変わってないよ、当たり前だけど」
そう言い置いてから、妹紅は視線を上げた。
山の上に陣取る三日月を見つめ、続ける。
「でもまあ、無駄な動きはなくなったかな。落ち着いてるとは言い難いけどパニックになることも少なくなったし。ふてぶてしさも……まあ、これは元から充分あるか。
あとは、自分自身の力を把握できるようになった。何ができて何ができないのか、きちんと自覚できるようになった」
動作の最適化と現状の把握。言ってみれば、この二週間の成果はただそれだけとも言える。もちろん訓練のプログラムを組んだ慧音自身も、そのことは予め承知していた。
その上で、慧音は妹紅に尋ねかけたのだ。二週間前と比べて、氷精はどの程度マシになったのかと。
臨時コーチは、どこか気まずげに頭を掻きながら――
そしてどこか誇らしそうに天を見上げて、つぶやいた。
「私が思ってたよりは、ずっと……うん、成長したよ。本当に。
もしかしたら魔理沙にだって勝てるんじゃないかと期待できるくらいに」
「そうか」
その答えと、そしてその横顔を確認して、慧音は満足げに頷く。
妹紅は気づいているだろうか。そんな風に心から嬉しそうに笑ったのは、自分たちが出会ってから初めてだということに。
「それはよかった。ところで妹紅」
「ん?」
振り向いた妹紅に、慧音はもうひとつの――そして、本命の質問を投げかけた。
「君は、どうだった?」
「……私?」
「ああ。楽しかったか?」
妹紅もそこで、こちらの本当の意図に気づいたようだ。要するに慧音は、妹紅自身の変化をこそ聞きたかったのだと。
このお節介め。そう言わんばかりに嫌そうに表情を歪めると、妹紅はぷいと視線をそらした。
「楽しい? 何が楽しいもんか、この二週間どれくらい手を焼いたと思ってるんだよ!? あいつはバカだしワガママだしすぐ弱音を吐く。せっかくこっちが好意で助言してやっても言うこと聞かないし、同じことを何度も繰り返さないと覚えないんだ。あんな苦労したのは久しぶりだよ!」
「そうか」
「なんでニヤニヤしてるんだよ!? それだけじゃないんだぞ、熱心に朝練をやってるかと思えばすぐに集中力が切れてダラダラしてるし、そのうちそのへんの蛙をいじめだすし、それをやめさせたら不機嫌になるし……。やっぱりあいつの脳みそは子供並みなんだよ、やってられない!」
「なるほどなるほど」
「だからニヤニヤするなっ! おまえが怒るからやらなかったけど、この二週間、何度ぶん殴って言うことを聞かせようと思ったか判らないんだぞ!?」
「ぶん殴らずに済んだんだからいいじゃないか」
「よくなーい! 私の苦労を判ってないだろ、慧音!? ああ、この際だから全部ぶちまけてやる!」
――なあ、自覚してるか妹紅。
輝夜以外では初めてなんだぞ、君がそれほど他人に心動かされるのは。
正真正銘初めてなんだぞ、君が殺し合い以外のことにそれほど夢中になるのは。
そのセリフは胸の内に飲み込んで、慧音はただ、妹紅の愚痴に付き合い続けたのだった。
……閑話休題。
4、助言そのよん
そして、その日はやってきた。
「いよいよだね!」
「……そうだな」
「うむ」
正午より15分ほど前。もはやすっかり馴染みとなった湖の木陰に、私たち三人は集まっていた。
私たちが初めて顔を合わせたときはまだ夏の緑を残していた木々は、今やすっかり色づき、湖の周囲を赤く彩っている。
うっかり昼寝でもしてしまいたくなる穏やかな日差しの元、慧音はチルノを見つめ、口を開いた。
「今までの特訓の成果を見せる時が来た。だが、気負う必要はない。妹紅とやって来た通りにやればいいんだ」
「……ん!」
チルノの返事にいつものような元気がない。いや、あれは逞しくなったというべきか。無駄に勢いを発散するのではなく、気合を内に秘めたまま、少女は力強く頷く。
そんな教え子を頼もしげに眺めながら、慧音は続けた。
「私からは特に指示はない。君が思ったとおりに戦えばいい。……頑張れよチルノ。私も君が勝つところを見たいのだから」
「うん、任せて。やってくるよ、けーね」
ぐっと拳を握る氷精の頭を嬉しそうに撫でてやってから、慧音は一歩後ろに下がった。
そして、横で見ていた私の肩を叩く。
「ではコーチ、最後に君から、助言その4を伝えてやってくれ」
私は面食らった。ちょっと待て慧音、何を言ってるんだ。そういうのはおまえの役目だろ?
うろたえる私を力づけるように、慧音はニコリと笑ってみせる。
「この二週間チルノのそばにいたのは、私ではなく君だ。チルノの成長を見守ってきたのは君なんだ。ならば、君こそが助言役として相応しい」
「……そ、そりゃそうかも知れないけど、でも私がアドバイスなんて」
「頼むよ。最後に彼女を激励してやってくれ」
頭ひとつ低い位置からじっと見上げられ、私はうっと言葉に詰まった。どうにもこの顔に私は弱い。優しく微笑みかけられると、拒否の言葉なんて出なくなってしまう。
それに今回は慧音だけでなく、やる気満々の表情でこちらを見つめる氷精もいた。二人がかりの視線の圧力に背を押されるようにして、私はチルノの前へと歩み出る。
「あー、えーと……」
もちろん前に出たからと言って、何かいい言葉を思いつけたわけではない。助言などと言われても、決闘直前のこの状況で、新しく教えられることがあるはずもない。
――何を言えばいいんだよ?
チルノを見下ろし、眉根を寄せ、わしゃわしゃと髪を掻き回し、助けを求めるように友人へと視線をやり、相手がにやにや笑っているのを見てすぐさま視界から外す。畜生、本気で殴るぞ。
結局以前と同じように、助言らしき言葉など何も浮かばなかった。いま私が思い出せるのは、この氷精との二週間の日々くらいのものだ。
私は覚悟を決めた。照れ隠しに髪の毛に手を突っ込んだまま――けれど、相手の目はしっかりと覗き込んで、告げる。
「おまえは二週間がんばった。その頑張った二週間は、しっかりとおまえの力になってる。その力を信じろ。どんなに不利になっても、どんなに追い詰められても、それだけは最後まで信じ続けろ」
後頭部のあたりがやたらと熱い。なにやら自分がとてつもなく恥ずかしいことを口にしている気がして、居ても立ってもいられない。
けれども、ここで逃げ出すつもりは無かった。頭が悪いくせに、根性もないくせに、すぐに不平や弱音を吐くくせに、それでも最後まで逃げ出すことなく特訓をやり遂げた少女を、私はきちんと送り出さなくてはならない。
しっかりと呼吸を整えて、私は助言その4を、弟子に贈った。
「いいか、最後まで諦めるな。最後まで自分を信じろ。……できるな? チルノ」
「……できるさ。だから、安心して見てなよ妹紅」
互いに伸ばした右拳を、私たちはこつんとぶつけ合わせる。少女の内に漲る力は、霊力のガード越しでもこちらに伝わってくるようだった。
そして氷精は身を翻す。私たちに背を向け、振り返ることなく一直線に戦いの場へと飛んでいく。
少女の背中を見送っていると、慧音が私の横に並んだ。
「最高の助言だったよ、妹紅」
「……笑いたいなら笑えよ、ガラじゃないってさ」
「とんでもない。君に任せて本当に良かった」
友人から混じりっけなしの感謝をストレートに伝えられ、私はますます赤面し、ぷいと視線をそらしたのだった。
――そして、時計の針が正午を差したとき。
箒にまたがる魔法使いは、今日もこの場所へとやってきた。
待ち構えるチルノの前で、いつものように彼女は空中停止する。
湖の上空で対峙する氷精と魔法使い。今まで何度も繰り返してきた展開。何度も繰り返してきた光景だ。
魔法使いはひょいと帽子を上げ、にやりと笑ってみせた。
「よ。先週は姿が見えなかったが、今日はお相手してくれるのかい?」
氷精は眉を吊り上げ、挑発に挑発を返す。
「あったり前だよ。あたいをこれまでのあたいと同じだと思ってたら、指先から凍傷にかかるよ?」
「そのセリフは先々週も聞いたぜ」
「え? あれ? そうだっけ?
えーと、じゃあ……あたいを舐めると舌を火傷するよ!?」
「それも先々週に聞いたぜ。他に気の利いた挑発はないのか?」
「う、うるさいっ! そんなんどうでもいいからさっさと始めるわよ! ……5枚!」
いつものように前口上を終えて、氷精がスペルカードの枚数を宣言する。一方の魔法使いは箒にまたがったまま、何事か思案しているようだ。
じっとチルノの顔を観察したあと、魔法使いはおもむろに帽子の中に手を入れた。
スペルカードを取り出し、告げる。
「2枚だ」
「…………」
少しびっくりしている氷精に、魔法使いはもう一度、にやりと笑いかけた。
「こないだの善戦に敬意を表して、ほんのちょっとだけ本気で対戦してやるよ。まあ今まで10%だったのを20%に上げるというだけだが」
「に、20%!? それってやっぱりバカにしてるってことじゃない!」
「そうだよ。バカにされたくなけりゃ、もっと私を苦戦させてみせるんだな」
「ならさっそく苦しませてあげるわ!」
すぐさま氷精は1枚目のスペルを取り出した。無論それは、前回の戦いで魔理沙を苦戦させた新しい弾幕。否、弾幕というよりはトラップか。まずはこれで相手の速度を減じ、時間稼ぎに持ち込む腹積もりであった。
今の少女は、魔法使いとの力量差をしっかりと把握している。格好は悪くても、勝利のためにはどうしてもこのトラップは必要なのだ。
「凍符・マイナスQ! さあ、今日も地獄のかくれんぼを楽しんで、じゃなくて苦しんでもらうよ!」
「遠慮しとく、お遊戯の時間は強制終了だ。儀符・オーレリーズサン!」
「……へ?」
チルノが氷塊を展開し始めたと同時、魔理沙の周囲にも4つの球体が浮かんだ。それは魔法使いを護るように高速回転しながら小型の弾を乱射し、チルノの作り出した氷塊を破壊し始める。
「あ!? ちょっと、それ卑怯よ!?」
「どこが卑怯だよ。スペルカードルールには相手のスペルを攻撃してはいけないなんて文言はないぜ?」
「そ、そりゃそうだけど……って、ひゃ、うわ、わわわ!?」
4色の球体から放たれる弾丸と、そして氷塊が破裂する際に放つ撃ち返し弾、その両方がチルノに襲いかかった。もはやトラップの展開どころではなく、被弾を避けるために氷精は必死に逃げ回る。
「ええい、くそー、……ブレイク!」
これ以上よけきれないと判断したチルノは、自らスペルを放棄せざるを得なかった。中途半端に展開していた氷塊が一斉に割れ、力なく湖へと落下していく。
無論、魔理沙には何の被害もない。そして彼女の周囲に展開した4色の魔法球も健在だった。
「うー、そんな……」
「マイナスQ――ま、発想は悪くなかったけど。
展開しきる前に接触弾を潰してしまえばあとは大して怖くないし、そうでなくとも近づかなければいいんだ。
結局は、一度見られたら終わりの欠陥スペルだな」
「け、欠陥スペル!? あたいが必死で組み上げたスペルをバカにするなぁ!」
激昂した少女が叫ぶ。そのまま彼女は何の捻りもなく2枚目のスペルを取り出し、魔法使いに突きつける。
予め考えていた作戦があっさりと崩れ去ったという焦り。そして、今まで積み重ねてきた努力を根底から否定されたことへの怒り。その双方が、幼い妖精の頭に血を上らせてしまった。
「思い知らせてやる! 雪符・ダイアモンドブリザード!」
全方位への乱射が始まる。一見すれば激しい弾幕、だが実のところ、速度の違う直線弾の組み合わせに過ぎない。これまで無数のスペルを見切ってきた魔理沙にとってみれば、こんなものは何の驚異にもなりはしなかった。
「せっかく忠告してやったんだがな……やれやれ、いつものつまらんお前に戻ったか」
小声でぼやくと、魔理沙は回避に専念するモードへ切り替えた。魔法球への霊力供給を最小限にとどめ、力を温存する。弾幕をかわし続けて相手の焦りを誘い、隙を見せたところで最大威力を叩き込むのだ。
しくじることなどありえない。なぜならそれは、今まで何度も繰り返してきた作業だったから。
結局のところこの勝負も、いつもどおりの結末に終わることになりそうだった。
「あの……バカ!」
慧音とともに隠れた木の陰で、私は空を見上げ、ぎりぎりと歯ぎしりしていた。
明らかにチルノは負けパターンにハマっていた。冷静さを見失い、無駄に弾を撃ちまくり、体力と精神力を消耗して、あっさりととどめを刺される。一ヶ月前までの彼女とまるで同じだ。
何やってるんだバカ、今までの苦労を無駄にするつもりか!
敗北への道を突き進む弟子を見ているうちに、私は居ても立ってもいられなくなり、気がつけば木陰を飛び出していた。
「あ、妹紅!?」
慧音の静止も聞こえない。一目散に湖のすぐ近くまで駆け寄ると、上空で無駄打ちを繰り返す氷精に向けて大声を上げる。
「バカチルノ! その乱射をやめろ、霊力の無駄遣いだ!」
「えっ……妹紅!?」
「もう私たちの助言を忘れたのかよ!? 慧音に言われたことを思い出せ! 何よりもまず、相手を見る、だろ!?」
「あ……」
怒りに染まっていた氷精の瞳が、その一言でようやく元に戻った。あわてて魔理沙へと視線を戻すと、乱射していた弾の勢いを緩める。
「んぬ……ええい!」
そしてそのまま、全方位に打ち出していた弾を魔理沙めがけて集中させる――が、やはりただの直線弾では魔法使いを捉えることはできない。いくつもの散弾が湖へと吸い込まれ、むなしくその表面を凍らせる。
「ええい、もういいや! ブレイク!」
これ以上は無駄と判断した氷精は、2枚目のスペルも途中で放棄した。放たれた散弾は途中で力をなくし、湖へと落下していく。チルノ自身は魔法球からの攻撃を警戒し、すぐさま加速をかけて魔理沙から退避した。
再び二人の距離が空く。戦場にひとときの静寂が戻る。
「よーし、それでいい」
私はほっと一息ついた。スペルは2枚無駄にしたが、負けパターンから脱却するためならば仕方ない、必要経費だ。チルノが冷静さを取り戻してくれれば、まだ勝負にはなる。
汗を拭いつつ呼吸を整える氷精を見上げて、私はもう一度檄を飛ばした。
「いいか、忘れるな! 助言その4、最後まで自分を信じろ、だ!」
その言葉は、相手には無事に届いたようだ。魔理沙から視線を外さないまま、弟子がこくんとひとつ頷いてみせる。
――まったく、手間のかかる。
「チルノは平常心に戻れたか。君のお陰だな。だが、状況は良くない」
そのセリフは、後ろから歩いてきた慧音のものだった。私の横に並んだ彼女に、私はちらりと視線を送る。
確かに我が友人の言うとおりだった。切り札だったマイナスQは破られ、霊力消費の激しいスペルを無駄打ちさせられ、おまけに相手のスペルは一枚も攻略できていない。これ以上に悪い状況もないだろう。
けれど私は、力強い声で断言した。
「勝負は最後まで分からない。これからだよ」
「……ああ、その通りだ」
そして私たちは口を閉ざし、二人の戦いに意識を集中させたのだった。
――スペルブレイク直後に離脱しようとするチルノを、魔理沙は追わなかった。トドメを刺す絶好のチャンスではあったが、今の氷精に対して迂闊に追いすがることにわずかな危険の匂いを感じとる。魔理沙はあっさりと追撃を諦め、氷精の後退を見送った。
どのみち自身のスペルはまだほとんど消耗していない。無理に勝負を急ぐ必要もなかった。それに――少しばかり状況が変わった、ということもある。
20メートルほど向こうまで飛びすさった氷精から視線を外すと、魔理沙は湖のほとりを見やった。そこに立つ二つの影には、見覚えがある。
「上白沢慧音と、藤原妹紅……だったか? お前、あいつらと知り合いだったのかよ」
その言葉は、無論チルノに向けたものだった。だが息を整えるのに集中しているのか、少女は答えない。
魔理沙は構わず続けた。
「助言とかなんとか叫んでたな。ってことは……お前、あいつらに鍛えてもらってたのか? へえ、そりゃあ」
「なにかおかしい?」
そこで口を挟まれて、魔理沙は視線をチルノへと戻した。生意気な氷精は、こちらをじろりと睨みつけている。
魔法使いは軽く両手を上げてみせた。
「おかしくはないさ。けど、何があったのかは気になるな。お前みたいなプライドだけ高い天上天下唯我独尊なお子様が、他人の言う事に耳を貸すだなんて。いったい何があったんだ?」
「てんじょーてんげ……なにそれカッコイイ」
「ものすごくワガママで手に負えないって意味だぞ、この場合は。
……まあそれは別にどうでもいい。で、なんか心境の変化でもあったのか? 今までの前非を悔いたとか」
実のところ魔法使いは、その点が気になっていた。自分のことを幻想郷最強だと称して憚らないあの氷精は、他人に教えを乞うような殊勝な性格ではなかったはずだからだ。
些細な変化を観察し、些細な異変に首を突っ込む。これもまた霧雨魔理沙の修行の一環である。妖精の心変わりなどが異変に価するとも思えないが、まあ念のため、というヤツだ。
魔理沙に問いかけられた氷精は、返答がわりにべえっと舌を突き出してきた。
「へんっ、あたいは何も変わってないよ。いつもどおりにあたいは最強、いつもどおりにあたいは無敵。やりたいことをやって、やりたくないことはやらない」
言いながら、氷精は両手を広げてふわふわと浮き出した。隙だらけといえば隙だらけな行動だったが、脳天気な仕草がお馬鹿なセリフと噛みあって、妙に絵になる光景だった。そのあまりの間抜けさに、魔理沙はなんとなく攻撃を手控えてしまう。
気ままに風に舞う蝶のように、チルノは両手を広げてふわふわと上昇する。
「他人の言うことなんて聞かないし、お説教なんてまっぴら。気にくわない奴は思い切り凍らせて思い切りぶん投げるだけよ、だって最強だし。それがあたいの生き方で、それはちっとも変わってない」
「んー?」
相手の言葉の意味がいまいち掴めず、魔理沙は怪訝そうに眉根を寄せる。そうしている間にチルノは、魔理沙の頭上30メートルほどまで昇っていた。
その位置でぴたりと止まると、チルノはじっと魔理沙を見下ろし、告げる。
「あたいは何も変わってない、最強の妖精様よ。だから魔理沙、あんただってやっつけてやるわ」
「……なんだ? ただ虚勢を張りたかっただけか?」
「違うわよ。あたいは何も変わってないってこと。たとえアンタにこてんぱんに負けたって、あたいは最強だもん。
……ちょっぴり最強を諦めかけたこともあったけど、でも」
そこで氷精は、ちらりと魔理沙の横を見やったようだった。
――湖のほとり、彼女の師匠たちが立つ場所。
「でも、けーねは言ってた。最強を名乗りたいなら、とことん名乗ればいい。何度負けても諦める必要はない。滑って転んでもそのたびに立ち上がって、また最強を名乗れるよう強くなればいいって」
「……ほほう」
魔理沙はにんまりと口の端を吊り上げる。
チルノは眉を吊り上げたまま、続ける。
「妹紅は言ってた。気ままに生きるだけじゃ、最強なんて到底無理だって。やりたくないことをやって、他人の言うことを聞いて、お説教だって我慢して、苦しいことを1000年も積み重ねて……そうやって初めて、最強を名乗れるぐらいに強くなれるって」
「なるほど。分からんでもない」
魔理沙はにやにやと笑いながら相槌を打ち、そしてチルノはそんな魔理沙にびしりと指を突きつけた。
「あたいは今日、あんたに勝つ。だってあたいは最強だもん。たとえ何度負けたって、たとえ何度こけたって、そのたびに立ち上がるから。最強になるためならどんな苦しいことでもできるから。
だからあたいは、いつもどおりに最強なのさ。ほら、何も変わってないでしょ?」
「んー……」
魔理沙は目を閉じ、ぽりぽりと鼻の頭を掻いた。
はっきり言って、やはりチルノの言葉の意味はよく分からない。妖精の言うことに整合性を求めても無駄ということなのだろう。
ただ、意気込みだけは伝わってきた。どうやらこの勝負、あまり手を抜くわけにも行かないらしい。
――上等。それでこそ叩き潰し甲斐があるってもんだ。
魔理沙は目を見開いた。己の周囲で旋回を続ける魔法球の霊力残量を再チェックする。万全の状態であることを確認してから、魔法使いは改めてチルノを見上げた。
「さあ、かかってこい。お前の力を見せてみろ」
「あ、そうだ。妹紅はこうも言ってたっけ。大技を使いたいなら、周囲の環境をうまく利用してみろ。土の水とか川の水とか、そういう材料を使える場所に相手を誘い込めって」
「……おいコラ、話を聞けよ。せっかく雰囲気を作ってやったのに」
未だ一人でしゃべり続ける氷精に、魔理沙は少しばかり肩をこけさせる。
――と。そこでチルノの表情が変わった。
文字通りに悪戯を企むときの妖精の顔つきで、魔理沙に告げる。
「ちゃんとヒントはあげたからね? じゃ、切り札行くよ!
あたい式――」
懐から次のスペルカードを取り出し、彼女は大声で宣言した。
念入りに仕込んだ罠の名前を。
「あたい式、一条戻り橋ぃ!」
「……は?」
一瞬、魔理沙は思考を停止した。理由は単純、意味が判らなかったのだ。
そのスペルは、たしか慧音のものではなかったか。まさかパクったというのか?
だがそうだとしても、スペルカードを発動したのにチルノの周囲には何の変化もない。これは一体どういう――
「……あ」
魔理沙の思考停止は一瞬で終わった。理由は単純、意味に気づいたからだ。
チルノの周囲に変化がないのは当然。何故なら弾は――自分の視界の後ろ、すなわち真下から来る!
即座に己の箒に全力で魔力を叩き込み、最大出力で急発進する。直後、彼女のいた場所を多数の氷弾が通り過ぎた。
「…………何!?」
彼女が驚愕したのは、背後から襲われたことに、ではない。それは事前に察知できた。
驚いたのは、回避直後に真下を振り返ったときに見た光景にである。
湖の直上に、無数の氷塊が漂っていた。まるで水面に広がる絨毯のように、下方の半径30メートルを覆い尽くす弾、弾、弾……!
「嘘だろっ!? これはチルノが作り出せるような弾幕じゃないぞ!」
「そらそら、言ってる間に逃げないとカチンコチンだよ!」
背後からはやし立てるチルノに罵声を返す暇もない。見るのも久しぶりなほど大量の弾丸が、魔法使いに一斉に襲いかかってきた。
「にゃろ……!」
再びの急加速。天へと駆け上がる逆流れの豪雨の、その僅かな隙間へと突入する。次々と飛来する氷塊を、高速と低速とを使い分けてギリギリでかわしていく。
もはやスペルの見切りなどしていられない。否、する必要もなかった。ひとつひとつの氷塊はごく普通の弾で、軌道もただの等速直線運動。弾幕としてはあまりに単純なパターンなのだ。ただ、あまりに多い――多すぎる!
「おわっと!?」
回避をミスりかけ、展開していた魔法球がひとつ持っていかれた。続く敵弾を宙返りとバレルロールでかわしつつ、魔理沙は残り3個になった魔法球を自らの真下に配置し、もしもの時のためのバリア代わりにする。
「くっ、もうちょいっ」
分厚い弾幕の中を駆けまわるうちに、ようやく終わりが見えてきた。殺到する氷塊の向こうに湖の水面が見える。穏やかな陽の光を反射して輝く、あの場所まで抜ければ安全だ。もう少し、あと2、3個かわせば――
――抜けた!
ついに弾幕から逃れ出た魔理沙は、胸の中で快哉を叫んだ。もはや氷塊が襲いかかってくる気配はない。ゆっくりとブレーキを掛け、湖のすぐ上で停止する。
やれやれと一息つき、魔理沙は頭上へと視線を向け、
「前半クリアおめでと! さすがは魔理沙だね!」
「……へ?」
そして、見上げたままの格好で愕然とする羽目になった。
はるか上空にチルノが陣取っている。偉そうに腕組みをして、こちらを見下ろしている。
妖精の周囲には大量の氷塊。今まで回避してきた弾が全部、まるで空を覆う絨毯のように、半径30メートルを埋め尽くす――
「それは卑怯だろ、いくらなんでもっ!?」
「スペルカードルールに、よけられた弾を再利用してはいけないって言葉は無いよ? さあ、スピード2倍で難易度4倍の後半に突入だ!」
「ふざけるなぁぁぁ!」
射程範囲外へ逃れる暇もない。魔理沙は大声で絶叫しつつ、重力加速をつけて駆け降りてくる氷塊の瀑布へと突っ込むしかなかった――
湖に大量の氷塊が降り注ぐ。私たちの目の前で、盛大な水柱が何本も上がる。
私と慧音は息を飲み、その光景に見入っていた。
そのスペルを組み立て始めたのは一週間前、ようやく形になったのがつい昨日。どうしても大技を使いたいという氷精のワガママに応えた慧音が基本方針を示し、チルノ自身が内容を作り上げ、私はそれが具現化できるようになるまでつきっきりで指導を続けた。
もっとも完成したとはいえ、今のチルノの力では発動条件を満たすまでに恐ろしく時間と手間がかかってしまう。ゆえに、実戦で使用できるとは思っていなかったのだが――
「やったぞ……。見事に決めてくれたよ」
「うむ。大したものだ、本当に」
友人とともに賛嘆の声を上げる。
スペルの仕組み自体は単純なものだ。相手に気づかれないよう、湖の水を材料にして少しずつ氷塊を生成しておく。その作業を悟られにくくするため、氷は水中に固定しておく。そうして大量の氷弾をこっそり準備しておいて、スペル発動と同時に一気に投入するのだ。
あまりまっとうな方式のスペルとは言い難いが、莫大な霊力も特殊能力も結界も魔法道具も持たないチルノが大技を再現しようとするならば、このくらいしか方法がない。そして高速を活かした回避を得意とする魔理沙相手には、この手の単純な大量弾が一番有効なのだ。
これならば通用したはず。頼む、これで終わってくれっ。
私はもんぺのポケットの中で手を握り締め、祈るように湖上を見つめ続ける。
最後の氷塊が水しぶきをあげ終えた。次第に視界が晴れてくる。
その中には――
水しぶきと、それが生み出した一時的な霧。その只中に彼女はいた。最後の氷塊がはねとばした水滴をひょいとよけてから、魔法使いは毒づく。
「あー、やられたぜっ」
箒にまたがる彼女自身の服にはほつれ一つない。あの高速の氷塊瀑布を、ついに彼女は最後までかわしきっていた。
ただし、彼女の周囲を回っていた魔法球は消滅していた――氷塊をかわすのに全て使いきってしまったのだ。
「まさか、妖精相手にスペルブレイクとはね……霊夢に知られたら爆笑されちまう」
まったくもって、最近ではまるで覚えが無いほどの大失態であった。魔理沙はきまり悪げに自らの額を拳で小突く。
冷えた頭で考えてみれば、特に難しい話でもない。一見すれば妖精には不可能なあの大弾幕も、あらかじめ水中に作って沈めておいたと考えれば説明がつく。一番最初のスペルが前回と同じくマイナスQだったのも、水中に氷塊を作る時間を稼ぐのが目的だったのだろう。2つ目のスペルであるダイアモンドブリザードを放棄したあと、チルノが不自然に間をとったのは、こちらと会話している間にこっそりと氷弾を作成するためか。
会話といえば、こちらに話しかけつつ自らは上へと移動し、視線を湖から外させたあのテクニック。あれも元はと言えば――
「……私の得意技じゃないか」
魔理沙は憮然となった。フェイントやミスディレクションといった小細工は、紅魔館の強者たちと渡り合うために彼女が身につけた技術のひとつ。あまりにもよく引っかかってくれるので、チルノ相手にも練習代わりに色々と試していたのだが――まさかそれをやり返される日が来るとは。
「呉下の阿蒙にあらず、って言うんだっけ? こういうの」
香霖堂の主人から聞いた褒め言葉を魔理沙が思い出したところで、上から氷精がへろへろと落ちてきた。
「へえ~へっへー……。ど、どーだ魔理沙、まいった、か」
「……いっぱいいっぱいで何を言ってるんだお前は」
がくがくと膝を震わせながら、それでもなお偉そうな態度で降伏勧告をしてくるおバカに、魔法使いは呆れたような視線を送る。
自分の力量を超えるスペルを使ったことで大幅に消耗したのだろう、チルノは空中浮遊も難しい様子だった。水の中に落っこちないのが不思議なくらいである。視界も定まっていないようで、目をぐるぐる回しているようにも見えた。
隙だらけといえば隙だらけ――ではあったが、こんな状態の妖精に弾を一発当てて勝ったところで嬉しくもなんともない。魔理沙はため息を付いて、相手の回復を待ってやる。
「す、スゴかっただろ~、あたいのスペル。驚いただろ~?」
「凄かったし驚いたよ。一発も当たってないけどな」
「むっ。……でもこう、力の差とかそんなんを感じて、降参したい気分になったとか」
「なるかバカ。どう見てもお前の方が消耗してるじゃないか。使いこなせないスペルを無理やり使うからそういう羽目になるんだよ」
「へ、へん! いつでもどこでも使えるようになってやるさ、百年後くらいには! そのときを楽しみに待ってろ~」
「そのときまで私が生きてるかどうかは分からんがな。
……ていうか、さっさと呼吸を整えろよ。ぼやぼやしてると大怪我するぜ? なにしろ私の次のスペルは」
魔理沙は箒から両手を離し、右手を懐に、左手を帽子の中へと入れる。
少女の右手が取り出したのはミニ八卦炉。彼女の魔法の根幹をなす魔術具だ。
そして左手が取り出したのは、この決闘における最後のスペルカード。1枚だけでは勝負を決められなかった時のための保険――すなわち、彼女が絶対の自信を持つ魔術である。
ふらふらの氷精に対して、魔法使いは己が次に使用するスペルを宣言した。
「わかってるだろ? マスタースパークだ」
「…………!」
氷精の顔色がはっきりと変わった。
無言のまま、十数メートルも飛び退る。その目は油断なく魔理沙を見つめ、いつでも動き出せるように全身をたわめている。
本気で警戒している。だが恐怖しているわけではない。このスペルを予期し、恐らくは対策も積んできたのだろう。
魔理沙はにやりと笑った。
「いい動きだぜ。本当に本気で鍛えてきたってわけか。
今のお前になら、コイツだって遠慮なく使えそうだ。じゃ、決着と行こうぜ」
「……望むところだよ」
氷精もまた、4枚目のスペルを取り出す。先程のような大技を繰り出す余力が、今のチルノにあるとは思えないが――もはや油断はできない。
だが、魔理沙の心には何の不安もなかった。それほどまでにこのスペルに掛ける信頼は厚いのだ。箒とともに上に飛び上がると、水面近くに留まるチルノに向けてミニ八卦炉を突きつける。
――いかなる策もいかなる弾幕も、この魔砲が全て撃ち貫く。
魔法使いは声を張り上げ、最強の魔術の名を唱えた。
「恋符・マスタースパーク!」
そしてその名に抗するように、湖上の妖精がスペルカードを掲げた。
策はぶっつけ本番、原理はうろ覚え。だが最後まで自分を信じ抜く覚悟とともに――その名を唱える。
「氷塊・コールドスプリンクラー!」
正直なことを言えば。
魔理沙が無事だったのを見たとき、私はすでに諦めかけていた。
魔理沙が取り出したスペルがマスタースパークだったと知ったとき、私は絶望を覚えていた。
マスタースパークの閃光をよける素振りすら見せず、氷精が新たなスペルを宣言したとき、完全に敗北を確信してさえいた。
――だからそれを目にしたとき、私はぽかんと口を開ける羽目になった。
「嘘……」
チルノを飲み込もうとするビームを、湖から生えた巨大な氷塊が遮っている。高さも幅も5メートルはあろうかという円柱状のそれは、ビームの直撃を受けて猛烈な蒸気を発生させながらも頑としてその場にそびえ、高速回転を続けていた。
大きなゴーレムが、自らをコマのように自転させ、小さな妖精を必死で守っている。そんな光景にも見えた。
「あ、あれは……あのスペル、慧音が教えたのか!? ただの氷塊でマスタースパークを跳ね返すだなんて……!」
「スペルは教えていないよ。教えたのは原理だけだ。だがそれにしても、まさか実戦で活用してしまうとは……驚いた」
答える慧音の瞳も丸く見開かれている。彼女とて目の前の光景が信じられないのだろう。
それはそうだ。破壊力だけならこの幻想郷でも随一であるはずのスペルを、最弱の種族である妖精の作り出した障壁が防いでいるのだから……!
「正確には、跳ね返しているのではないよ。壊されながら再生しているんだ」
「え?」
「よく見てみたまえ」
ビームと氷塊の衝突するあたりを、慧音が指さす。言われるままに見てみれば、氷塊は高速回転を続けながら猛烈な勢いで破壊されていた。ビームの衝撃であちこちを粉砕され、ビームの熱に外壁を溶かされる。全体をまんべんなく破壊され続け、それでも氷塊が消えてなくならないのは――
「そうか、湖の水を吸い上げながら凍らせてるんだ。内側からどんどん氷を補充してるから、マスタースパークの破壊に拮抗できてるワケか」
「付け加えるなら、気化熱の作用だな。固体から液体へ、液体から気体へと移行する際、水は周囲から大量の熱を奪う。マスタースパークの正体は光と熱だから、氷を盾にすればその破壊力をかなり削ぐことができるんだ」
もっとも――と我が友人は付け加える。マスタースパークの圧力にさらされながら自分のスペルを保つのは、相当に精神力を削る作業だろうが、と。
私は改めて、戦いの場へと視線を移した。
砕け散った氷片と撒き散らされる蒸気とが、対決の場を完全に覆いつくしている。小さな妖精の姿はとっくの昔にかき消えていた。かろうじて見えるのは、周囲を圧するマスタースパークの強烈な光と、それを防いでそびえ立つ氷の柱だけだ。
それでも私は一歩、湖に向けて歩み寄った。
「がんばれ……」
どこまでも愚かで、己の弱さも自覚できない、ただ威勢がいいだけの子供だった妖精が。
幼稚で単純で不毛な繰り返ししかできなかったはずの存在が。
今、幻想郷における最強の破壊力と対峙している。己の能力と周囲の環境を駆使して渡り合っている。
「おまえの力を魔理沙に見せつけてやれ」
ここまで積み重ねてきたものを。
弱音を吐きながら、何度もくじけながら、それでも逃げずにやり抜いた二週間を。
勝つための方法を考え、工夫し、努力してきた成果を――この世界に見せてやれ。
「証明してみせてくれ」
同じところをぐるぐる廻っているのではないと。
一歩ずつでも、進んでいけるということを。
愚者の円環を抜け出して、どこまでも変わっていけるのだと。
この世界に――そして私に、証明してくれ。
「勝て、チルノっ!!」
見栄も恥も外聞も忘れ、私は大声で絶叫する。それは数百年ぶりの、心の底からの声援だった。
そして――その絶叫に応えるように、氷塊がぐらりと動く。
そびえたつ円柱の頭が、少しずつ進んでいるのが見える。ビームの猛威にさらされながら、魔理沙のほうへと動き出している。
全身を傷まみれにした巨人が、それでも棍棒を握り締め、敵陣に向けて一歩ずつ前進している――そんな錯覚すら覚えるような光景。
行け。行ってくれ。そのまま魔理沙を押しつぶしてやれっ。
もはや私の両手はポケットから離れ、胸の前で祈りの形に組まれていた。
――霧雨魔理沙もまた、その光景には少なからず驚きを覚えていた。
このような防ぎ方自体に覚えが無いわけではない。たとえば七曜を操る紫色の魔女などは、水の魔術を駆使してこちらのスペルを何度も無効化してくれたものだ。
だが、自然の力を借りているとはいえ、ただの妖精があの精霊魔法の達人と同じ真似をしてくるとは――!
「ったく、本気で大したもんだよ」
蒸気と破片とが周囲を荒れ狂う中、マスタースパークをまともに浴びながらじりじりとこちらに近づいてくる氷塊。どうにも現実感に欠けるその光景を眺めつつ、魔理沙は自らの誤算を認めた。
そして、右手のミニ八卦炉を握りしめ直す。
「30%で充分だと思ってたんだが。
まさかあいつ相手に、100%の出力を使う日が来るなんて、な」
直後。
これまでの光量などただの前座だとでも言うように――極大の閃光が、魔法使いの前方のすべてを薙ぎ払った。
いきなり視界が真っ白になったと思った、次の瞬間のことだった。
「……あ」
それはコマを落としたように、ほんの一瞬の出来事。
頑として攻撃に耐え続けていた氷柱が、あっけなく崩壊していく。
粉砕され、溶かされ、周囲に散らばっていく。
極光に、蒸気と氷片が吹き散らされていく。
「ああ……」
チルノが全力を注ぎ込んだスペルは、出力を上げたマスタースパークによって、あっさりと破壊されてしまった。
妖精と魔法使いの力の差が埋まることはないと。現実は決して変わりはしないと、そう私たちに告げるかのように。
「そんな……」
膝から力が抜けていく。盛大な水音をたてて湖に落下していく氷塊と同じように、私もまた、へなへなとその場に崩れ落ちる。
そうして私がへたり混んだ、ちょうどその時。
私の横で慧音がつぶやいた。
「なるほど」
彼女が見ていたのは、私とはまるで違う場所。マスタースパークを放つ魔理沙の後方だ。
決闘とは何の関係もないはずのそこを見つめて、慧音は静かに、驚嘆の声を上げた。
「私もだまされたぞ。見事だ、チルノ」
「――――!?」
驚愕しながら私も首を捻る。今までまったく意識していなかった場所へと視線を向ける。
――魔理沙の20メートルほど後ろ。
そこに、全身に氷をまとわりつかせつつ、湖から浮上するチルノの姿があった。
「――――何!?」
魔理沙が気づいたのも、妹紅たちとほとんど同時だった。氷塊が崩れ落ちる轟音にまぎれて背後から聞こえた水音が、かろうじて彼女の耳に入ったのだ。
「なんだと!?」
戦慄とともに振り返った彼女は、最悪の光景を目にする羽目になった。
マスタースパークの死角である背後に、水に濡れ、氷にまみれた氷精の姿がある――!
「そんな馬鹿なっ!」
ありえない。今の今まで氷柱のそばにいた氷精が、一瞬でそんなところに行けるはずがないのだ。たとえ幻想郷最速の天狗とて、テレポートでも使わなければそんな高速移動は不可能……いや待て、ちょっと待て。
違う、これは高速移動などではない。氷精は氷柱のそばになど居なかった。猛烈な蒸気が周囲を覆ったと同時、それにまぎれて水中に潜り、自分の後ろにまで回り込んでいたのだ。そして今、自分がマスタースパークの出力を全開にするのを待って飛び出してきたのだ。
そう――完全に勘違いしていた。巨大な氷柱を生み出したあのスペルは、術者がその場にとどまって制御するタイプのものではない。あらかじめ与えられたプログラムに従って自動で展開する設置型スペルの一種だったのだ。チルノは初めから、4枚目のスペルを盾ではなく囮として利用するつもりだった――!
「う――うおおおぉぉぉ!」
気合を振り絞り、魔理沙は握りしめたミニ八卦炉ごと右腕を引き戻そうとする。だが身体が重い。ひとたびマスタースパークの出力を最大にしてしまうと、その状態の維持だけでも膨大な魔法力が必要となる。すぐに射角を変えることも、まともに空を飛ぶことも困難となるのだ。
たった180度旋回するだけで敵にトドメを刺すことができるというのに、魔理沙は大きな隙をさらしたまま亀のようにゆっくりと動くことしかできない。
もっともそれは、相手も同じことだった。湖から飛び出してきた氷精は、弾を撃つこともできずにその場で棒立ちとなっている。立て続けの大技による霊力枯渇のためだろう、自らの体温で凍らせた氷を全身に貼りつけたまま、荒く息をつくだけだ。
これなら間に合う、相手が動き出すより早くマスタースパークで撃ち抜ける!
今までの余裕もかなぐり捨てて、魔法使いは最後のスペルカードの制御に全力を傾けた。
一方のチルノは――
「はっ、はあ、はっ……」
魔理沙を睨みすえたまま、動くことができないでいた。
最大出力中のマスタースパーク――魔理沙がまともに動けない今こそが最初にして最後のチャンスなのだ。なのに身体が動かない。全身に疲労がのしかかり、新たなスペルを発動させる余裕などどこにも無い。それどころか、気をしっかり持たなければそのまま昏倒してしまいそうだった。
「う、うぐっ……」
否、いっそこのまま昏倒してしまいたかった。あちこちが痛くて重くてつらい。こんな苦しい思いをするくらいなら、さっさと負けを認めて休んだ方がいい。たかがスペルカードルールの勝負ごときに、血反吐を吐いてまで意地を張る必要なんてない。
「でも……あたいは……最強だもん……!」
少女は――諦めなかった。
ずっと最強だとうそぶいてきた。何度負けても、何度痛い目に遭っても、それでも最強を自負してきたのだ。このちっぽけな意地を張ることすらできなくなったら、自分が自分でなくなってしまう。
それに、今はそれだけではない。
「けーねが、教えてくれたもん。妹紅に、助けてもらったんだもん」
初めてだったのだ。自分の願いを笑いもせずに真摯に聞いてもらえたのは。
初めてだったのだ。こんなふうにして最後まで手伝ってもらえたことは。
だから途中で投げ出すことなんてできない。ほんのわずかでも力が残っているのなら、それを最後まで出しきらないといけない。自分と、そして二人の師匠のために。
「う……うわああああああああっ!」
絶叫とともに、最後のスペルカードを取り出す。
残った霊力はごく微量。自然から流れ混んでくる力も、体力と精神力を消耗しきった今の状況では焼け石に水。通常の弾なら作り出せるだろうが、視界が霞んで、まっすぐ飛ばすことすら難しい。
かといって、まともに繰り出せるスペルは皆無。パーフェクトフリーズもヘイルストームもフロストコラムスも無理だ。大雑把な狙いだけでどうにかなるような広範囲弾幕は残っていない。
ならば諦めるのか。打つ手がないと認めて、両手を上げて降参するのか。
いや、まだだ。まだある。魔理沙にマスタースパークがあるなら、自分にはコレがあるのだ。長年使い続けてきたスペルが。どんなときでも撃つことのできる相棒が。
魔法使いが必死の形相で旋回を続けている。マスタースパークの閃光がゆっくりとこちらに向かってきている。けれど、ギリギリで間に合う。使い慣れたこのスペルならば、先に魔理沙に当てることができる!
「喰らえぇぇぇぇ!」
魔理沙を真正面に捉え、
残る霊力の全てを振り絞り、
氷精は、最後のスペルカードを高らかに掲げた。
「氷符・アイシクルフォール!」
「……は?」
地上で妹紅は目を点にした。
「……む?」
その横に立つ慧音もまた、首を傾げる。
「……え?」
対戦相手である魔理沙さえもが、呆然とした表情を浮かべる。
妖精の周囲に氷塊が発生し、それが相手に向かって滝のようになだれ込んだ。だが、弾と弾の隙間はスカスカ。せっかく生み出した氷の散弾は、魔理沙だけを綺麗に外して虚しく通り過ぎていく。
「ええっ?」
自分の横を通り抜ける弾に視線を奪われた魔理沙は、思わずそのまま旋回を続けてしまい――
結果としてマスタースパークの閃光は、当初の予定通り、チルノへと到達したのだった。
「……あ」
じゅっ。
嫌な音とともに、最大出力のスペルが氷精を直撃した。
「チルノぉーー!?」
悲鳴とともに妹紅が地面を蹴り、チルノの落ちていった方へとまっしぐらに飛んでいく。
もちろん慧音もすぐさまそれに続いた。
ただし彼女は、妹紅よりもいくばくか冷静だった。教師のサガか、どこで指導を間違えたのかを脳裏で反芻する。
結論は一つだった。
「チルノ……。覚えることが多すぎて、いちばん最初の助言を忘れていたのか……」
そして二分後――湖のほとり。
妹紅が必死で湖から引き上げた氷精は、ぐったりと目を閉じてはいたが、幸いなことに軽症で済んだようだった。アイシクルフォールを展開していたことで、マスタースパークの威力が多少なりとも減じられたのだろう。大事にならなかったことに妹紅はほっと胸をなで下ろす。
ほどなくチルノも目を覚ました。仰向けに寝かされたままの姿勢で、ぼんやりと周囲を見回している。
そんな少女を膝立ちの姿勢で見下ろして、妹紅は優しく声をかけた。
「大丈夫か? 痛いところはないか?」
やっと妹紅の存在に気づいた氷精は、無言のままで視線をそちらへと向ける。
しばらくじっと妹紅を見上げてから、チルノはぽつりとつぶやいた。
「あたい、負けた……?」
「……ああ。負けた」
「…………」
少女が再び口を閉ざす。水が砂に染み入るように、少しずつ、敗北の事実を受け入れていく。
やがて少女は、瞳をうるませ、嗚咽を漏らし始めた。
妹紅は慌てて少女に声を掛ける。
「バカ、泣くなよっ! おまえは凄かったぞ、本当に驚いた! 勝てはしなかったけど、十分に強くなってたぞ!」
「うえっ……うえええ………うあああああ」
「だから泣くなって! 悔しがる必要なんてどこにもないんだ、おまえは立派に戦い抜いたんだからっ!」
必死になってなだめてみるも、チルノの嗚咽は止まらない。勢いを増し、盛大に泣き声を上げ始める。
どうすればいいか判らなくなった妹紅は、おろおろと戸惑った挙句、チルノの身体を両手で抱きしめた。
「泣くなよ……私まで悲しくなるだろ。おまえは立派だった。私が途中で諦めたのに、おまえは最後まで諦めなかったんだ。おまえは凄いよ、本当に最強だよ。だから泣くな。泣くんじゃないっ」
「だって……だってぇー!」
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、チルノは妹紅に詫びたのだった。
「あたいがバカだから……あたいが頭が悪いから……せっかく妹紅とけーねに教えてもらったのに、ちゃんと全部覚えてれば勝てたのに、あたいが覚えきれなかったからぁ……!」
「バカっ! どうでもいいんだよそんなことはっ! 泣くなって言ってるだろ、わ、私まで泣けてくるじゃないかバカ……!」
「うえええ、うえええええっ」
「泣くなってば。……頼むから泣くなよ、泣かないでくれよ……」
そうして。
1300年を生きた少女は、いつしか、小さな妖精とともに泣きじゃくり始めたのだった。
「ふー……。グッドエンドとは行かなかったが、まあ、めでたしめでたしではあるか」
女教師は肩をすくめ、涙にくれる生徒たちを見守る。
彼女も妹紅の言葉には全く同感だった。これほどまでに頑張り抜いたチルノに、何の恥じるところもない。いくつ花マルをつけてやっても足りないくらいに満点の出来だった。
そして、妹紅も――チルノをここまで導いた彼女もまた、自らの成果を誇っていいはずだ。
「優秀な生徒とコーチを持てて、私は本当に幸せだよ」
満足のため息をつきながら、慧音は笑みを浮かべる。
そのまま彼女は首をかしげ、背後に立つもう一人に声をかけた。
「君にも礼を言わなければならないな。チルノをここまで育てたのは、君の力でもある」
「……なんでそこで、私に話をふるんだ」
憮然とした表情で応じたのは、霧雨魔理沙。弾幕ごっこに勝利を収めた彼女もまた、氷精の容態が気になったのか、この場にとどまっていた。
「別に私は、チルノになんて教えていないぜ。なんでそんな妙なことを」
「私たちは戦い方の基本は教えたが、それ以外のことまでは教えられなかった。だがチルノが先程見せた戦法――スペルをひとつ囮にして相手の死角に潜り込むなどというやり方は、初級者にできるものではない。かなりの実戦経験を積まなければとうてい無理だ。
おそらくチルノは、君との実戦を通じて、君の戦い方を学んでいたんだ。ああいうのは君の得意技だろう?」
「……そういうのは学んだって言わない。パクったって言うんだ」
ますます不機嫌そうにする魔理沙ではあったが、慧音の言葉を否定はしなかった。当人にも、少なからずその自覚はあったのだろう。
魔法使いの意外な人の良さに慧音が微笑んでいると、魔理沙はじろりと教師をにらみ返してきた。
「……ていうか、どういうつもりなんだアンタは。人里の教師だと聞いていたが、なんでまた妖精に戦い方なんぞ教えてるんだ?」
「妹紅と同じことを聞くのだな、君は」
「いや、普通の人間なら疑問に思うだろ。妖精の味方なんかしたって、退屈しのぎ以外に何の利益もないのに」
「ふむ」
慧音は片目を閉じ、視線を前方に戻す。
生徒とコーチは、いまだお互いの身体を抱きしめ、ぼろぼろと涙をこぼしていた。感情の波が収まるまでは、きっとしばらくこのままだろう。
その涙は、不毛の涙ではない。徒労の涙ではない。何かを生み出し、何かを前に進ませる源だ。二人の背を別の場所へと押し出すために必要なものなのだ。
その確信とともに、慧音は魔理沙に自らの答えを示した。
「やる気があり、才能もあるのに、歩き方がわからないヤツがいる。そういうヤツの手助けをするのは、私にとって何ものにも代えがたい喜びだ。教えた理由などその程度のものだよ」
「……自己満足のためだけに、チルノに手を貸したってことか?」
「まあ、結局はそういうことかも知れないな。だが自己満足のためと言うなら、君の魔法修行だってそうなのだろう?」
「……まあね」
しぶしぶながら、魔理沙も同意の頷きを返す。彼女もまた、泣き崩れる二人の背中を見ていたのだった。
「はあー、……ったく」
やがて魔法使いは、氷精の泣き声に我慢がならなくなったらしい。不機嫌な表情のままで二人のもとへ歩いていく。
チルノの真上から少女を見下ろすと、魔法使いは口を開いた。
「おい、よく聞けバカ。今日の勝負は私の負けでいい」
「……へ?」
呆然と見上げる氷精から、魔理沙はぷいと視線をそらす。
「今日はお前のドジのおかげで勝てたようなものだからな。アレだ、試合に勝って勝負に負けたとかそういうヤツだ。だから今日のは、お前の勝ちってことにしてやってもいい」
「え? ……え? それ、ホント?」
ぱちくりとまばたきをする妖精に、魔法使いはこくんと頷いてみせた。
「今の言葉は嘘じゃない。だからホレ、いい加減泣きやめっての」
「…………」
真っ赤に腫らした目を、チルノが見開く。少女があれほど望んだ勝利が、向こうから転がり込んできたのだ。
チルノと抱き合ったままの妹紅が息を飲む。こんな展開は予想していなかった。
背後で見守る慧音も驚き、また同時に納得してもいた。魔法使いの提案は不当なものではない。今回のチルノの頑張りは充分勝利に価するものだ。たとえ譲られた勝ちだとしても、胸を張って受け取っていいはず。
「私が認めたんだから、今回はお前の勝ちだ。ほれ、涙を拭いて喜べって」
「あたいの勝ち――」
魔法使いの言葉に、にへら、とチルノの顔が一瞬だけ緩む。
しかしそれは本当に一瞬のことだった。少女は何かに気づいたように口元を引き締める。
妹紅の手の中から抜け出ると、氷精はよろめきながらも一人で立ち上がり、怒ったような表情で魔法使いに告げた。
「いらない」
「……ん?」
「そんな勝ちはいらない。試合に負けて勝負に勝ったとか、そんなよくわからない勝ち方したって嬉しくない。だから今日の勝負はあたいの負けでいい」
「おいおい……それでいいのか? 今日お前が使ったスペルは、悪いがもう全部見切らせてもらった。次回以降は今日ほどの接戦になんてなりゃしないぜ?」
今回を勝ちとしないのであれば、もう当分は勝利できないぞ――呆れたような表情で魔理沙はそう指摘する。だが、氷精の返答は変わらなかった。
「いいよ別に。あたいは最強なんだから、そのうち実力ですっきり勝つもん。勝ちを譲ってもらう必要なんてないのさ」
ふんっと鼻息も荒く胸を張り、負けたくせに勝利者のように偉そうな態度で――つまりはいつものチルノ通りに、少女はそう断言したのだった。
チルノの前に立つ魔理沙も、座ったままの姿勢でチルノを見上げる妹紅も、傍らで見守る慧音も、しばし無言のまま、腕組みしてふんぞり返る氷精を見つめる。
「はっ――」
最初に口を開いたのは、魔理沙だった。
やれやれと首をふり、片手に持っていた箒を肩に担ぐ。
「お前の勇戦に敬意を評したつもりだったが、かえって失礼なことをしたか。いや、悪かった。素直に謝っとくよ」
空いた片手をひらひらと振りながら、魔法使いはチルノたちに背を向けた。
そのまま彼女は、湖の方へと歩いていく。
「今回は私の勝ちだ。そして次も、その次も私の勝ちだ。次回以降、私はスペルカードを3枚用意しておくからな。お前に勝ち目なんて与えない。お前には絶対に負けてやらない」
水面のすぐそばで立ち止まると、彼女は箒にまたがった。その柄の先にあるのは、いつも通りに紅魔館。今日もまた図書館強盗を兼ねた魔法修行に向かうのだろう。
飛び上がる寸前、魔法使いは肩ごしに振り返り、じっとチルノを見つめた。
「本気で私に勝つつもりなら、もっと必死で努力するんだな。欠陥スペルの一枚や二枚でいちいちヘコむな。
完璧なスペルカードの下には、何千枚もの失敗カードが積み重なってるもんなんだぜ」
憎まれ口とも挑発とも、あるいは助言とも取れるセリフを残して、魔理沙は宙に浮かぶ。
自慢の快速で、彼女は一直線に紅魔館へと飛び去っていったのだった。
空の向こうに消えていく魔法使いを眺めながら、私は立ち上がった。チルノの横に並ぼうとして、自分の目の下にまだ水分が残っていることに気づき、あわてて指でぬぐい取る。
こんなに泣いたのっていつ以来だろう? 気恥ずかしさとともに、そんなことを考えた。
悔し涙なら何度も流したものだが、他人のために心から泣いた経験は、1300年の人生の中でも数えるほどしかない。
「……勝てなかったな」
チルノの隣に立ち、少女と同じ方向――魔法使いの飛んでいったほうを向く。
偉そうに腕組みをした氷精は、自信たっぷりに言ってのけた。
「次は絶対に勝つよ。あたいは幻想郷最強の妖精! そのしょーごーを邪魔するヤツは、全員やっつけてやるんだから!」
それは、コイツが私と初めて顔を合わせたときにも言っていたセリフ。神だの大妖怪だのが掃いて捨てるほどいるこの幻想郷で、身の程知らずとしか言いようのない放言だ。
考えてみれば、状況はあのときとあんまり変わっていない。結局魔法使いには勝てなかったし、今後も当分は負け続けるだろう。戦い方は多少巧みにはなったけど、少女が幻想郷最弱の種族だという事実は変わらない。
この妖精が最強を自称して憚らない点も、いっそ清々しいと評したくなるほどに不変だった。
ではこの一ヶ月あまりで、コイツは変わらなかったのか。何も変えられなかったのか。
「なあ、チルノ。魔理沙には勝てそうか?」
私がそう水を向けると、氷精は腕組みを解いた。
顎の下に手を当てて、ふうむと唸る。
「うん……。魔理沙の戦い方を真似したら意外といいところまで行けたけど、やっぱそれだけじゃ駄目だよね。もっと手札を増やさないと。
とりあえず、接近した状況で確実に叩き込めるような新スペルが欲しいなあ……」
今後の対策を練る氷精の姿に、私は確信を得た。
もう彼女は、手足を投げ出して駄々をこねる子供ではない。成功も失敗も受け止めて、次に何をやるべきかを自ら考えることができるようになった。何度転んでも、何度失敗しても、そのたびに立ち上がり、一歩ずつ前に進めるようになったのだ。
愚者の円環を抜け出た少女は、きっとどこまでも変わっていけるだろう。
私は満面の笑みを浮かべ、チルノの肩をばしばしと叩いた。
「そうと決まったらさっそく特訓だな。はっきり言っておまえの力はまだまだ弱い。スペルもだけど、もっと地力をつけないと」
「おう! 特訓! 特訓!」
「いや、盛り上がっているところを悪いのだが……」
と、後ろに立っていた慧音が声を上げた。私とチルノが振り返ると、教師は自らの背後を指さして、チルノに告げる。
「まずは友達を安心させてあげなさい。ほら、さっきからずっと心配そうに君のことを見ているぞ?」
「え? ……あ、大ちゃん!?」
教師の示す方向には、木々に隠れるようにして立つ人影が一つ。緑色の髪を片側でとめた妖精である。忘れようはずもない、10日ほど前に勘違いから私たちに襲いかかった、チルノの友人だった。
大妖精は木に身を隠したまま、ちらちらとこちらを伺っている。よほどチルノのことが気になっているのだろう。
「大ちゃん、来てくれてたんだ……」
「たぶん、魔理沙との戦いが始まる前から見ていたのだろうな。
もう二週間も彼女の元に帰っていなかったんだ、そろそろ戻った方がいい」
「ん、そっか。そうだよね」
納得したようにうなずくと、氷精は飛び上がりかけ、しかし何かに気づいたようにその場に留まる。
おずおずとこちらへ振り向くと、少女は口を開いた。
「忘れてた。できる限りのお礼をするって、あたいも約束してたんだ。帰る前に、けーねと妹紅に何か恩返ししないと」
――そんなことを覚えてたのか? 私も忘れてたっていうのに。
妖精の言葉に、私はもちろん、慧音さえも心底驚いたようだった。生徒の思わぬ健気さがよほど嬉しかったのか、教師はうっすらと涙まで浮かべている。……いやまあ、気持ちはわかるけどちょっと大げさだろ慧音。
実にいい笑顔で涙をこぼしつつ、しかし教師は首を横に振った。
「いいんだよ、チルノ。私たちは君を勝たせることができなかったのだから。それに私から出した条件は、弱い人間を傷つけないということだけだ。それさえ守ってくれるなら、恩返しなどしなくていい」
「でもっ! それじゃあたいの気が収まらないよ!」
「いいんだチルノ。その気持ちだけでも、私は本当に嬉しいよ」
「でもでもっ! やっぱり約束したからには……!」
「いいんだいいんだ」
「でもでもでもっ!」
……何やってるんだ、この二人は。
詰め寄る生徒と感動の涙にむせぶ教師は、お互いに譲り合いを繰り返し、いつまでたっても埒が明きそうにない。慧音が適当に妥協点を提示してやればすむ話なのだが、感極まった教師はそこまで考えが回らないようだ。
……ったく、このお人好しめ。
ふと木陰を見ると、教師と言い争うチルノの姿に、大妖精がおろおろと狼狽している。そろそろ決着をつけてやらなければ、あの心配性の妖精がまた錯乱してしまうかも知れない。
私はやれやれと肩をすくめると、譲り合いを続ける二人の間に割って入った。
「ハイハイそこまで。いい加減にしないと日が暮れるよ」
そして慧音の頭を引き寄せ、耳打ちする。
「堅苦しいところは相変わらずだな。ここは素直に恩返しを受け取っておきなよ」
「む、いや、しかし」
「チルノの気持ちを察してやりなよ。おまえに断られた方がよっぽど悲しいはずだぞ?」
「むむっ……それはそうか」
慧音もその言葉には納得してくれたようだ。これで我が友人とは話がついた。
次に私はチルノに向き直った。今のコイツにならばこれを頼んでもいいはず――そう確信して、私は彼女に提案する。
「恩返しだけどさ、こういうのはどうだ? 次に人里を巻き込むような大異変が起こったとき、慧音の手伝いをするってのは」
「手伝い? 何をすればいいの?」
「慧音は、人里に住む人間を――戦う力を持たない弱い人間を守りたいんだ。でも、私やこいつの力だけじゃ全員は守りきれない。だから、最強であるおまえの力を貸して欲しいんだ」
すると、チルノの顔にみるみる誇らしげな笑みが浮かんだ。
その言葉を待っていたとばかりに得意満面に宙に浮かび上がり、びしっと親指を突き立てる。
「いいねっ、それこそ最強のあたいに相応しい仕事って感じ! 任せてよ、どんなヤツだってカチンコチンに凍らせてあげる! 困ったときにはいつでもあたいを呼ぶがいいさっ!」
「ああ、頼りにしてるからな」
「へへへっ! 本当にありがとう、妹紅、けーね!
そのうちまた会いに行くよ! じゃーねぇ!」
そんな一言を残して、氷精はあっという間に飛び去っていく。向かう先はもちろん、彼女の一番の友人が待つ場所だ。
「大ちゃん、心配かけてゴメンね」
「チルノちゃん、無事でよかった~。もうあんまり危ないことはしないでよ、頼むから」
二言三言言葉をかわすと、二人は仲良く飛び上がり、戯れるようにくるくる回りながら、湖の向こうへと消えていった。
妖精たちの姿が見えなくなった後、慧音がポツリとつぶやく。
「……すまないな。気にかけていてくれたのか」
「礼を言われるほどのことじゃない。礼なら私じゃなくてチルノに言ってやれよ」
何でも一人で抱え込んでしまうタイプである我が友人に、私はそう告げた。
人里を愛するのはいい。困っている人を見捨てられないのも仕方ない。けれど、何でも一人でやろうとするのは駄目だ。支えきれなくなるのは目に見えている。人里を守り抜きたいなら、休日を潰して一人で方法を探し回るのではなく、もっと他人を頼るべきなのだ。
「今のチルノなら、下級妖怪くらいは楽勝で倒せるだろ。それだけでも慧音の負担はずいぶん減るんじゃないか?」
「彼女の実力に関しては疑問はない。ただ……
次に異変が起こったとき、チルノが今の約束を忘れていなければいいのだが」
「うっ……その心配はあるか」
妖精という種族は記憶力がない――というより、何をいつ思い出して何をいつ忘れるのか、実に気まぐれなのだ。チルノを二週間コーチした私には実感としてよく判る。
いざ大異変が起こったとき、あいつが都合よく私たちとの約束を思い出してくれる保証はどこにもない。あいつは無闇に人間を傷つけるヤツではないが、騒動に参加して事態を悪化させるくらいのことはしてしまうかも知れない。
けれど、たとえ頼りない仲間であっても、一人でも多く味方を作っておくのは間違いではないはずだ。
それに――
「大丈夫だよ。本当に私たちが大変なときは、きっと助けに来てくれるさ。だってあいつは友達だから」
「…………。
ああ、本当にその通りだ」
まじまじと私を見つめ、たっぷり3秒ほど沈黙してから、ようやく慧音はうなずいてくれた。
私を見る彼女の目がどこかまぶしそうだったのは、何か理由があったのだろうか。まあ、特に気にすることでもないと思うけど。
「……と、そうだ」
ふと、その場で思いつく。
この機会に、私もきちんと慧音に言っておこう。人里がピンチの時は、私も助けに行くって。
今までは人が大勢集まる場所が苦手で、なんとなく言い出す気になれなかったのだが――チルノにあんな約束をさせておいて、自分だけ慧音を手伝わないなんて虫が良すぎる。あの少女が変わってみせたように、私だって今までの自分から変わっていかなければ。
なんとなく深呼吸で気持ちを落ち着けてから、私は改めて慧音の方を向いた。
意を決して、口を開く。
「なあ、慧音。人里を守る仕事のことだけど」
「と、いかんいかん。大事なことを一つ忘れていた」
まったく同時に、慧音がぽんと手をたたく。機先を制された私は思わず口を閉ざし、提案のタイミングを逃してしまった。
硬直している私をよそに、慧音は迷いの竹林のほうに目を向ける。
「妹紅、そろそろ輝夜に会ってやったらどうだ。さんざん決闘をすっぽかされてご機嫌斜めらしいぞ?」
――は?
どうしてここで、あんなヤツの名前が出てくるんだ?
思ってもみなかった展開に、私は冷静さを失った。今まで言おうとしたことも忘れ、我が友人に喰ってかかる。
「なんで私が、わざわざあいつに会いに行ってやらなきゃいけないんだ。あいつが勝手に来ればいい、鳳凰の炎で歓迎してやるから」
「冷たいことを言うものじゃないぞ。君だってさっき言ってただろう、本当に困っているときに必ず助けに行くのが友達というものだと」
「あいつは友達じゃない! 敵だ!」
怒鳴り声に近い口調で断言するも、我が友人はどこ吹く風である。
「友達か敵かは置いておくとしても、何百年もの付き合いなのだろう? 古くからの知り合いを、そう邪険に扱うものではないよ」
「……慧音。おまえ、私があいつと殺し合うたびに長々と説教をしてくれなかったか?」
苦虫を噛み潰したような顔でそう指摘してみるが、女教師はまるで動揺を見せない。悪戯っぽく片目をつぶり、しれっと返答してくる。
「私が説教をしたのは、君が殺し合いにのめり込むことに対してだ。彼女との付き合いにまで口を出したことは一度もないよ」
「……なっ!?」
「さ、行ってきなさい。鈴仙から聞いた話だと、二人分のお茶とお菓子と包帯を用意して歓迎してくれるらしいぞ」
そして慧音は、私の背中を無理やり竹林の方へと押し出したのだった。
……な、なんなんだそりゃ……。
こいつの考えてることは時々よく判らなくなる。輝夜と出会った私がすることは殺し合い以外にない。そんなこと、こいつだって重々承知のはずなのだ。
だというのに慧音は、あいつに会ってこいというのか。あいつと会って、殺し合い以外のことをしろというのか。そんなのは無理だ。無理に決まってる――
「…………」
そこで私は立ち止まった。
不機嫌に髪の毛に手を突っ込み、しばし掻き回したのち、慧音に振り向く。
「……スペルカードルールで戦えっての?」
「そうだな。できればそうしたほうがいい」
「無理だと思うけど」
「やってみなければ判らない」
「……努力はしてみる。けど、結果は保証しないぞ」
「それでいいさ。無理に全てを変えなくてもいい。少しずつ変わっていけるならば」
にっこりと笑う慧音の顔が少しばかりムカついたので、私は思い切り舌を出してやった。ちょうどチルノが魔理沙に対してそうしていたみたいに。
そのまま私は、ふわりと宙に浮かび上がる。気は向かないが、どうせ今日は他にやることもないのだ。適当な言い訳で誤魔化して逃げ出そうにも、その言い訳も見つからないとあっては仕方がない。
「……ったく。なんで私があんなヤツのために」
ぶつくさとぼやきながら、私は両手をもんぺのポケットに突っ込んだ。
思い返してみれば、あいつとの殺し合いの日々ももう300年以上にもなる。あいつに抱く感情も、憎しみという次元を通り越して殺意だけになってしまった。
そんなふうに捻じ曲がって錆びついた鎖を、そう簡単に断ち切れるものだろうか。
――本当に私は、断ち切ることができるのか?
「……でも、少しずつでも変えていかなきゃいけない、か。
そうだよな、チルノ?」
滑って転んでもそのたびに立ち上がり、一歩ずつ前に進むあいつのように。
きっと私も、成長していかなければいけないのだから。
まずは、スペルカードルールで収まるよう努力してみようか。
穏やかな日差しを浴びて湖の上を横断しながら、私はとりあえず、そう決心したのだった。
秋の深まるある日のこと、幻想郷の只中で、三つの運命が交差した。
この出来事が彼女たちにどう影響を与え、どんな結末をもたらすのか――それはまた別の物語である。
了
年をとると涙腺が弱くなって困る
これで初投稿とは今後が楽しみです
結構な文量なのですがあっという間に最後まで気持ちよく読むことができました
これで初投稿?次回作も期待させてくださいな
スペルカードでの戦闘が詳しくて想像し易かったですし、強くなりたいチルノの気持ちとか妹紅と慧音の協力とか、
魔理沙を追い詰めたところとか、私自身がその場に居るような臨場感を味わいました。
チルノには勝って欲しかったけど、この終わり方で良かったと思います。
輝夜と妹紅の関係が変わるお話もぜひ読んでみたい。
これからも期待させて頂きます。
100点持っていってくだせぇ
スペルカード戦も見ごたえがありました
次はぜひとも今回出番の無かった輝夜との絡みを……
カラテマさんてもしかして学園セイバーさんを執筆なさってた方でしょうか・・・?もしそうならまたあなた様の作品が拝めて嬉しい限り。
続編があるならよみたいですね。
次回作に期待してます~。
これからも期待しています
次回作も期待しています。
チルノの成長によって変わってゆく妹紅の心情も見逃せませんでした。
ふと、妹紅に決闘をすっぽかされた輝夜を想像して萌えた・・・
すいません、俺だけですね^^;
一条戻り橋と、氷柱を囮にした場面は鳥肌ものでした。
最後のアイシクルフォールには、不覚にも笑ってしまったw
誤字(?)報告です
頭に血が登っている→頭に血が上っている
傲岸無知→傲岸不遜or厚顔無恥?
激を飛ばした→檄を飛ばした
カラテマさんは恐ろしい人!!
そろそろSS読むの自重したほうがいいかなーって思ってるとこういった素晴らしい作品があるからやめられなくてこまります
マンネリ化した人生が嫌ならまず自分が動く!
そして諦めるな!
そういった熱い気持ちになりました
文章も巧みで魔理沙とチルノの弾幕時の場面がリアルに想像できました
いい作品、ごちそうさまでした
期待させてください!
これからもカラテマさんの作品に期待させてください!!
「完璧なスペルカードの下には、何千枚もの失敗カードが積み重なってるもんなんだぜ」
というセリフです。・・・これはシビれる
このお話を読んで一層その思いを深めました。
いや、これはいいスポ根もの。次のお話も読んでみようかと思います。
>「だが、今まで何度も同じように挑戦して、そのたびに破れてきたのだろう?」
「敗れて」の方が良いかも
じっくりと読み返せるSSっていいですよね
弱い物が強い物に立ち向かう王道ストーリーで、
キャラも目立った崩壊も無く、無駄な仕掛けも無く、文章も読み手の集中力を切らさない
物になっていますね。
文句無く匿名評価の最大点を押せますね。
これからは作者さんの味が試されて行くんでしょうね。
まぁそそわのコメはぬるま湯ですので、慢心せずにがんばってください。
>不労でも不死でもない魔理沙は言わずもがな。
不老ですね…いや、魔理沙の生活ぶりは不労以外のなにものでもないような気もしますがw
断空光我チルノ‼
ただ個人的に魔理沙が1人のキャラクターっていうより舞台装置な印象を受けてしまったので
そこがちょっと残念。
その他のキャラクターは非常に魅力的に感じました。
実に熱い!
文句なしに面白かったです!
直向きな熱さがたまらんです
創想話の長文で最初から最後まで楽しく
読めたのは、これが初めてです!
いい話だった!
展開も先が読めるほどありきたりなものなんで、途中で飽きてくる。
成長物だっつってんのに成長させる気ないでしょう?
あと他に続編が3つあるらしいが、リベンジの機会はあるんだろうな?