ある春の日、三つの影が湖の畔で水掛けあって遊んでいた。宵闇の妖怪ルーミアと夜雀ミスティア、それに氷の妖精チルノ。湖面はうららかな光を受けて真珠の如く輝き、そうそうと蒼く茂る新緑は、風に吹かれては春の匂いを届ける。この日は快晴だった。そのうち三人は水遊びに飽きて、柔らかな草むらに寝転がっておしゃべりを始めた。
「リグル、遅いねえ」
チルノが言った。ミスティアも頷いて、
「ほんと、いつもは一番乗りなのに、珍しいわね」
「あたい、起こしに行こうかな。こんな良いお天気なのに外に出ないなんて、どうかしてる」
「そのうち来るよ。もうお昼過ぎだもん」
苦笑いしてミスティアはなだめた。隣を見るとルーミアが無防備に口を開けて、早くもまどろみ始めている。
「ちょっとルーミア、いま寝ちゃったら遊べなくなっちゃうよ?」
「うーん。いいじゃん、久しぶりにこんなに暖かいんだもん。ね、リグルが来るまで、みんなでお昼寝しよ?」
伸びをしながらルーミアが言うと、チルノは身を起こして、
「絶対、ダメ!今日みたいな日は、一日中遊ばないとだめな日なの!昼寝なんかしたって、ちっとも楽しくないじゃない!」
と喚いた。ルーミアは不満げに、
「えー。今日みたいな日こそ、お昼寝が良いと思うけどな」
とぼやく。ミスティアは何も言わず肩をすくめて、透き通った春の空に漂う薄曇の動きを、ぼんやりと目で追い始めた。ミスティアとしては、遊んでもいいし、昼寝も結構。ただ何をするにせよ、四人揃わないとどうも気持ちが乗り切らない。そのことは言い争っている二人にとっても、同じなのに違い無かった。
その時、茂みからがさがさと音を立てて件の妖蟲――リグル・ナイトバグが姿を現した。チルノは早速跳ね起きて、
「遅ーい!何して――」
叫び終らぬうちに、ぽかんと口を開けて黙ってしまった。ミスティアもルーミアも、人形のようにその場で固まった。
「あーーっはっはっはっはっは!!」
一瞬の沈黙の後、三人の大きな笑い声が湖にこだました。日頃からリグルの自慢する長い立派な触角が、頭の上で見事に丸結びされてしまっていたからだった。ルーミアは息も絶え絶えに、
「はー、はー、ああ、リグル、それ、なんかのギャグ?さすが、さすが、すべらないなー」
リグルは真っ赤になって、
「ギャグじゃない!昨日外で寝て、起きてみたらこんなになってたの!きっと、いたずら妖精か誰かにやられたんだわ」
そしてその場にぺたりと腰をついて、
「朝からずうっと、何とかほどこうとしてたんだけど、固くて固くてどうにもならないの。早く遊びに行きたかったけど、笑われるのが嫌で……。お願い、みんな、助けて。こんなのが蟲の女王じゃ、ついてくる蟲もいなくなっちゃうよ」
べそかきながらそう言ううちに、とうとうワッと泣き出した。ミスティアは慌てて、
「ごめんごめん、笑ったりして。三人もいるんだから、すぐほどけるわよ」
と励ました。チルノもようやく呼吸を整えて、
「最強のあたいの手にかかれば、あっという間よ。さっさと片付けて、みんなで遊ぼう?」
と言って、リグルの手を取った。ルーミアだけはまだ、ぜえぜえと咳き込んでいたが、必死に笑いを堪えながら、
「ご、ごめんね、リグル」
と、絞り出すように謝罪した。
虫にとって触角は、感覚の核となる器官。他人に触られて、これ程くすぐったい部位はない。そこでルーミアとミスティアで体を押さえつけて、ほどく役目はチルノが担うことになった。
「はたから見たら、あやしい姿だね」
「リグルのためよ。我慢我慢」
「ようし!リグル、ちょっと痛いかもしれないけど、覚悟しなさいよ!」
チルノは気合を入れると、結び目に手をかけて、指先に思い切り力を込めて引っ張り始めた。途端に、リグルはくすぐったさに暴れだす。
「あは、あはは、あひゃ、は、はははひゃ、あひゃひゃひゃひゃ……」
「むむむむむ……うーん……」
「ちょっと、チルノ、早く!」
チルノの唸り声を聴いて、ミスティアは狼狽して叫んだ。リグルの脚力は、妖怪の中でも特に優れている。必死に押さえつけたが二十秒も持たず、まとめて跳ね飛ばされてしまった。
「もう。そんなに暴れるんなら、なんで昨日はあっさり結ばれちゃったのよ!」
「だって、だって、起きたらもう、こうなってたんだもん!」
ミスティアが文句を言うと、リグルは半泣きになって答えた。ルーミアはチルノに尋ねた。
「それ、そんなに固いの?」
「うーん……ちょっと、キツいかも」
チルノは疲れた顔で呟いた。それでも、リグルに暗い目で見られると慌てて、
「まだまだ、あたい全然、全力は出してないから!」
と付け加えた。
「ようし、次は私がやってみる!」
ミスティアが進み出た。
春の日差しはなおも、場を優しく照らし続ける。その静かな光の中で四人は、入れ替わり立ち替わり、汗をかきかき奮闘していたが、いくら力を込めても、結び目は頑としてほどけない。
「湖につけて、ふやかしてみたらどうかしら?」
ミスティアの案だった。早速浸してみたが、しかし水を弾く触角は、いくら浸けようともぴんとして、ふやける気配すら見せない。
「うーん、無駄にハイスペックねえ」
「む、無駄になんて言わないでよう。これでも女王なんだから」
「そうだ、油でぬるぬるにしてみたら、案外するっとほどけるかも」
ルーミアの案である。そこでチルノとミスティアが屋台から、たっぷり油の入った壺を運んで来た。リグルはちょっとためらったが、おとなしく触角を壺に突っ込んだ。
「わあ、ほんとにぬるぬる」
「チルノ、どう?」
「んんー……なんか、手がぬるぬるして、かえってやりにくいかも」
考えてみれば当然である。リグルはというと暴れはしないが、チルノの手が動くたび顔を真っ赤にして、唇を噛み締めて必死に痙攣をこらえている。
「なんだか、やらしいねえ」
言い出しっぺのルーミアが呟いた。
何時間かが経った。太陽は光を弱めて、少しずつ西に傾き始めた。もはや四人とも、疲労困憊である。チルノはばったり倒れて、
「あーもう、疲れたー!手に力が入らないよー」
と音を上げた。そうしてリグルに顔を向けると、
「ねえリグル、その触角、なんだか可愛くない?あたい、うらやましくなってきたな」
などと言い出した。とうとう現実逃避を始めたらしい。ミスティアは驚いて、
「ちょっとちょっとチルノ、そりゃいくら何でもあんまりよ」
「そうよ。諦めないで、次の手を探さなきゃ」
ルーミアも口を尖らせた。リグルは黙っていたが、突然すっくと立ち上がって、三人に向き直って言うには、
「もういいよみんな、ありがとう。みんながこんなに頑張ってくれたのにダメなんだから、諦めがついた。わたしこれから、この触角で生きていく。実はわたしもこのスタイル、ちょっと気に入り始めてたんだ」
そうして、痛々しく笑顔を作って見せた。まことに殊勝な台詞だが、如何せん触角が間抜けで、どうにもきまらない。しかも間が悪いことには、その時一匹のてんとう虫が、ちょうど結び目のところにぴとりと止まった。それを見たルーミアが一瞬吹き出しそうになるのを、ミスティアは右手で思い切りつねってやった。
が、氷精の胸には深く響くものがあったらしい。素早く起き上がると、涙を溜めながらギュッと両手を握った。
「ごめん、リグル、あたいが間違ってたわ。友達だもん、いちど引き受けたことは、何があっても解決してみせる。あたいは最強だから、ぜったい、大丈夫!」
そう言うと、両手でリグルの肩をばんばんと叩いて、励ました。ミスティアとルーミアもちょっと感動して、めいっぱい元気付けの言葉を掛けた。リグルは肩を震わせてうつむくと、嬉しいやら情けないやらで、何も言えなくなってしまった。
一致団結したものの、しかし状況は依然、八方塞がりである。途方に暮れていると不意に、つむじ風と共に一つの人影が降りてきた。鴉天狗の射命丸文である。
「いやあ皆さん、おそろいで。あなた方が揃うと上からでもすぐわかりますよ、なんせ色鮮やかですからね! どうです、一枚――」
言葉が途切れたのは当然、触角が目に入ったからである。と、瞬間、チルノは素早くスペルカードを取り出して、文に向けた。それを見るや、ミスティアとルーミアも同じように取り出した。
「あやや!?何です、いきなりそんな物騒なものを持ち出して!」
「うるさい!あたいの友達のことを笑ったら、承知しないからね!」
自分が最初笑っていたことも忘れて、チルノは叫んだ。
「随分気が立ってますねえ。笑いません、笑いませんよ。写真も撮りませんから、ね?」
幼いとはいえ、侮れない力を持つ者ばかりである。文はなだめると、
「それにしても、リグルさん。一体何があったんです、それは?」
と尋ねた。リグルは弱り切った声で、事の顛末を説明した。文は目を丸くして、
「ふーむ、それはまた、災難でしたねえ」
と呟く。ミスティアはカードをしまって、藁にもすがる思いで文に、結び目をほどくよう頼んでみた。
「腕力にはそんなに自信は無いのですが……まあ、やるだけやってみましょうか」
そこで三人でリグルを押さえて、文に任せてみたがやはり、さっぱりほどけそうもない。
「あやや、これは確かに、固いですね!」
文は感嘆して叫んだ。チルノが、
「何よ、ひとごとみたいに。期待させといて使えないわね」
と怒ると文は苦笑いして、
「おやおや、そちらから頼まれたのに、ひどい言い草ですね」
とぼやいた。ルーミアが懇願するように言った。
「文さん、私たち色々手を尽くしたんだけど、ぜんぶ全然ダメだったの。何か良い考え、ありませんか?」
文はちょっと困った顔をすると、目を瞑ってしばらく考え込んだ。四人は黙ってその様子を見つめていたが、不意に文は「ああ、そうだ」と膝を打って、再び目を開いた。
「今ちょうど、とびきり力持ちで器用な妖怪が来てるんです。どうです、そいつに任せてみては?」
文の後をついて、赤くなりかかった春の空を四人は飛んだ。昼間よりも、少し冷たくなった風が吹き付ける。眼下には菜の花と青葉が見渡す限り、まるで絨毯のように広がっていた。が、これらの春を伝える景観も全て、リグルには灰色にしか映らないらしかった。いよいよ気の毒になってしきりに励ますが、リグルはただ茫然と頷くばかり。そんな四人の様子をちらちら見つつ、文は速くなりすぎないよう調節して飛び続けた。
「さあ、着きましたよ」
五人が降り立ったのは、妖怪の山の麓である。見たことの無い妖怪が座って、酒を飲んでいる。妖怪は文の姿を見ると、
「ああ、射命丸じゃないか。ちょうど今ひと仕事終えたところだよ」
そして後ろの四人組に目を向けて、
「おや、こちらの可愛らしいのは、誰々かな?」
と尋ねた。文は握手して、
「いつもお疲れさまです。こちら手前から、チルノさん、ルーミアさん、ミスティアさん、リグルさん。みんな、地上の妖怪です。ああ、チルノさんだけは妖精でしたね」
それから四人の方を向いて、
「この方は土蜘蛛の黒谷ヤマメさん、天狗の屯所建築の助っ人として、わざわざ地底から来て頂いているんです」
と紹介した。四人はちょっと緊張して挨拶した。ヤマメは目を細めて、
「あはは、カラフルで可愛いね。それで、何か私に用なの?」
「実はですね……」
文が代わりに説明した。ヤマメは笑って、
「成る程ね、それ、最初は地上の流行りなのかと思ったよ」
と言った。チルノがむっとして何か言い返そうとしたが、その前にヤマメはひょいとひとっ跳びして、リグルの前に立った。そして驚いて固まっているリグルをよそに、結び目をがっしと掴むと、ほとんど自然な動作でそのまま軽く引っ張った。すると結び目はあっという間に、するりするりとほどけてしまった。二本の触角は急に自由を得て、別の生き物のようにぴくぴく震えた。
「これでいい?」
一瞬の出来事である。あまりの手軽さに、四人は呆然と立ち尽くして声も出せない。ただ一人、文だけは笑顔で拍手して、
「いやあ、お見事お見事。さすが、古の土蜘蛛ですね」
「こんな程度で褒められても。封じられた妖怪の底力を、舐めてもらっちゃ困るわね」
ヤマメは平然と答えた。突っ立っていた四人はようやく状況を理解すると、飛び上がり、抱き合って、泣きながら喜びだした。あまりの喜びようにヤマメと文も思わず、つられて笑った。
その後ヤマメと文は四人から、特にリグルから、猛烈な勢いで礼を言われた。ヤマメは終始にこにこしていたが、文は頭をかいて、
「こんなに感謝されるのも久しぶりで、なんだか気恥ずかしいですね」
と苦笑いしていた。そしてひとしきり礼を繰り返した後、四人は大笑いしながら、すっかり赤くなった空に向かって、猛スピードで飛んで行ってしまった。ヤマメはその姿を見送って、
「嵐のような連中だね」
と呟くと、愉快そうに
「いやあ、やっぱり地上は眩しいところだねえ。地底の妖怪には辛いよ」
と言って、大袈裟に手で目を覆う素振りをして見せた。文はニヤリとして、
「いえいえ、私のような輩も沢山いるんですよ、地上には」
「何言ってんの。あんたがわざわざ此処まで案内してやったんでしょ?あんなに、感謝されてたじゃないか」
ヤマメはそう言うともう一つおちょこを取り出して酒を注ぎ、
「一杯、どうだい?」
と誘った。
「仕事中なんですけどね。一杯だけ、頂きましょうか」
文はそう言っておちょこを受け取ると、ヤマメの隣に腰を下ろした。そうして今や豆粒のようになった四人の姿を、しばらく二人で眺めていた。
四人は夕日の光をいっぱいに浴びて、春の空を疾走した。リグルのはしゃぎようときたら相当なもので、回転しながらぴんと立った触角で三人の顔を突っつき回し、
「これがみすちーの鼻!」
「これがチルノの唇!」
といちいち叫んでいた。
「今泣いた鴉が、だね」
「今泣いた蛍が、よ」
ルーミアとミスティアがそれを見てからかった。リグルはくるりと振り返ると改めて、
「みんな、今日は本当にありがとう。みんなのおかげで、これからも女王としてやっていけそう!」
と礼を言った。ミスティアは
「やだ、私達は何もしてないじゃない」
と言おうとしたが、その前にチルノが胸を張って、
「そうよ、あの土蜘蛛があんなにあっさりほどけられたのも、あたい達がそれまでさんざん緩めてきたおかげなんだから。感謝しなさいよね!」
と叫んだのでそのまま笑って、何も言わなかった。ルーミアもにこにこしていたが、こっそり
「でも今思えば、あの触角本当に可愛かったなあ」
と呟いた。
光は四人の髪を照らし、あるいは赤く、あるいは青く、黄色にも緑にもなって空に融け込んだ。見事な夕日だった。チルノは眺めて、
「明日も晴れね!今日遊べなかった分、明日は思いっきり遊ぶわよ!」
と叫ぶ。それを聞いてルーミアは、
「えー。それなら、明日こそ四人でお昼寝しようよ」
と返す。また議論が始まり、ミスティアは面白そうにその様子を眺めた。リグルは思い切り深呼吸した。触角を使わずとも、春の喜びはリグルの胸を衝いて湧き上がった。四人はそのままどこへ行く訳でもなく、澄んだ空の中を並んで飛び続けた。
大ちゃんもいるともっとにぎやかでいいんですけどねw
ほのぼのとしてて、読んでて頬が緩んでしまいました。
ヤマメが器用だったり大工だったりが(?)な感じだったけどまあいいや。
それにしても触っただけでも敏感な触覚を気づかれないうちに結ぶなんて一体誰がどうやって……
解けないほど固く結んでるから相当強く引っ張ってるはずだし……
オトナな二人も素敵です。
はしゃいで触角でつつきまくるリグル可愛いよリグル。
この四人は本当に可愛いなあ。
>どうでもいいから四人まとめて嫁に来いよ。
せっかくの読後感がw どうしてくれるー
リグル可愛過ぎだろおいィっ
それにしてもチルノ良いやつだな、ナイスカルテットb