もう日付も変わろうという時頃。
じめじめした洞穴の隅で、何者かがしきりに蠢いては、ぴちゃり、ぴちゃりと、啜るような音を立てる。音の合間には、人にあらざる者の荒い息遣いが、微かに、岩壁から染み出て来るかのように、響いている。鼠も小虫も逃げ去ったか、音の主以外には誰ぞの気配も無かった。……
音の主は土蜘蛛。姓を黒谷。名をヤマメという。病を操り、嘗て多くの人間に忌み嫌われたこの古い妖怪も、暗い地底に封じられて以来、てんでその名を聞かなくなった。今は洞穴に張った巣の上で、旧都で買った肉を喰らい、酒を飲んで、一人楽しんでいる最中である。滅多に出回らない幻の酒という文句に惹かれ、この日ヤマメはちょっと奮発した。
「ううん。上物は違うねえ」
独り言して、徳利を傾ける。雪のように白い頬が、ぱっと紅を差した。酒に強い妖怪は多いが、ヤマメに関してはそこらの人間と変わらぬ程度のものである。
(久々に、きょうは一晩飲み明かそうかな)
良い気分になって、左手に持った肉にかぶりついた。にぎやかな旧都で、妖怪たちと世間話しながら飲み食いするのも嫌いではない。だがそれ以上にヤマメは、この長い洞穴の中で、一人晩酌と洒落込む事を好んだ。
地底で住み始めるとすぐ、力持ちで、気立てが良く、おまけに器量も良いヤマメは、妖怪たちの間で評判になった。今では旧都でヤマメを知らぬ者は無い。酒を誘われることも多いが、一度きょうは巣で飲もうと決めてしまうと、どうしても翻意する気になれなかった。この日も、適当に理由をつけて誘いを蹴って来たところである。
(蜘蛛の本能かねえ……)
舐めるようにして酒を味わいながら、そんなことを思う。細く長いこの洞穴の全てが、ヤマメの心を惹き付けた。じめじめした空気も、ごつごつの岩肌も、薄暗さも、静けさも、全体に漂う、何とも言えぬ物寂さも。彼女はまた、晩酌のたびに巣を張る場所を変えた。洞穴は、そのたびごとに違った表情を見せる。くぼみに溜まった水に映る歪んだ天井が、この日の酒の肴だった。
酒を飲む時はいつも、ヤマメは遠い過去に思いを馳せる。
とはいえ、幻想郷に来るまでの記憶はまるで霧がかかったように薄く、微かに人里で暴れ回った記憶が残るに過ぎない。けれどヤマメは、自分の出生の秘密だとか、理由だとか、目的だとか、そんな事にはまるで興味が無かった。考えるだけ無駄だし、酒が不味くなるだけだ。
何時頃に幻想郷に来たのかは定かでないが、来てしばらくの間は、面白半分に病気を振り撒いては、当てもなくぶらついて日々を過ごした。中々愉快なものだったが、ある日、突然現れた妙な力を持った人間の手で、あっという間に地底に封じられてしまった。
その時は地団駄踏んだが、住んでみるとなかなかどうして、心地良かった。似たような経緯から旧都に住み始めた妖怪たちとも馬が合ったし、何よりも、この洞穴があった。それからというもの、ヤマメは毎日のように酒を飲み、肉を喰らって、今に至るまで自由気ままに暮らして来たのである。
「若かったんだよあの頃は。今じゃ、そんな元気ありゃしない」
地上に居た頃の話をする時、ヤマメは決まってこう言った。不老に近い妖怪の吐く台詞じゃない、と皆笑った。だが、事実ヤマメは封印されてからこっち、また地上で暴れてやろうという気には一度もならなかった。最近起きた異変で、地上への通がまた開かれたと聞いても。……
記憶をゆっくり辿りながら、猶もヤマメは酒をあおる。良い思い出であれ、悪い思い出であれ、酒の前では等しく価値があった。水面の岩肌は、少し前から吹き始めた生暖かい風に揺らいで、いっそう不安定な、柔らかなものとなって、ヤマメの目に映った。
――ふと。徳利を傾けたヤマメの手が止まった。
「んッ。」
素っ頓狂な声が上がる。
「む。ム、ム。?」
ヤマメは首をひねった。いくら傾けても酒が出ない。振ってみる。出ない。底を叩いてみる。出ない。放っても吸っても、徳利の口からは一滴の酒もこぼれ落ちてくれない。ところが奇妙なことには、残り半分くらいの量の重みは、確かにこの手に感じるのである。むきになって振り回してみると、すっぽ抜けて壁にぶつかり、驚くほど呆気なく割れてしまった。
「何だい。妙に安いと思ったんだ」
一瞥して、ヤマメは無念そうに叫んだ。そこには、見事な上げ底の徳利の残骸が転がっている。なるほど幻の名酒というだけあって、徳利半杯分も出回らぬような一品だったらしい。
「こんなもンを作る方が、ずっと面倒だろうに。手が込みすぎだよ。ああんもう、つまみはこんなに残ってるってのに……」
酔いも手伝ってか、殆ど半泣きになってヤマメは罵り続けた。先刻まであれほど心を震わせてくれた水溜りも岩肌も、今や唯の無機質な物象に成り下がった。かけがえの無い思い出も、既に頭から吹き飛んだ。――酒が足りない!
晩酌もそうだが、一度計画立てたことは、やり遂げないと気が済まないのがこの妖怪の性分らしい。何としても今宵は飲み明かしてやろうと、早速旧都へ酒を調達しに行こうとしたが、不意に、ある考えが脳裏をよぎった。
(こっから旧都は遠い、それよか人里に忍び込んで、一丁くすねてこようか)
* * *
のっそりと穴から這い出て、ヤマメは地上に立った。何百年振りになるのかは、自分でもわからなかった。
見事な月が出ている。あんなに大きいものだったかと、いやそれ以上に、こんなに明るかったかと、ヤマメは目を丸くした。遠い彼方に映る人里の姿は月の光に照らされて、霞がかっているように見えた。
ヤマメは人里へと続く道を、早足で歩き始めた。これは細長い獣道で、何となくだが見覚えがあった。地面はやけに硬く、踏みしめるとざくざくと荒い音を立てた。両脇では、すすきのように細い草が伸びるだけ伸びきって、道の真ん中にまで飛び出している。そんな乱暴な草々に混じって、ぽつぽつと白い花が咲いているのも見えた。白粉のようなその白さが闇に映えた。細い草が、洞穴のそれよりもずっと冷たい風に吹かれては顔をくすぐるので、両手で掻き分けるようにしてヤマメは進んだ。
ヤマメは、気持ちが変に昂るのを感じた。ぼんやりした人里がだんだんと大きくなるにつれ、その傾向は強くなって行くようだった。緊張の所為かもしれなかったし、酔いの所為かもしれなかったし、遠い昔の記憶がそうさせるのかもしれなかった。気を紛らす為に、立ち止まってもう一度月を見上げてみる。そして胸一杯に空気を吸い込んで、また歩き始めた。間もなく、人里に到着した。
人里は寝静まっていた。通りには、人っ子一人見当たらない。その点では、あの洞穴とも大した相違は無いように思われた。けれども、ひとつひとつの家に近付くと確かに、人間の柔らかな気配を感じた。ヤマメは歩き出した。
連なる家々を見るうち、ヤマメは自分の目的の達成が難しいことを悟った。古臭い木製の扉は皆一様にぴしゃりと閉まっていて、どれが何の店なのかもわからない。看板くらいは出ているだろうと踏んでいたが、それも無い。それでもヤマメは、一軒一軒、覗き込むようにして探しながら進んだ。冷たく乾いた風が少しだけ弱くなって、首筋に当たる。酒で火照った身体には、妙に心地良いものだった。
ふと、ヤマメは愉快を感じた。あと数時間もしたらこの里の人間は、嘗てあれほど恐れた土蜘蛛が、夜中にこっそり帰還していた事にも気づかずに、いつもと同じように一日を過ごし始めるのだ!同時にヤマメは、さっきまでは力ずくでも酒を手に入れようとしてたのに、いつの間にか暗い通りを当てもなく彷徨うこと、それ自体に熱中している自分にも気付いて、ちょっと首を傾げたあと、苦笑いした。
小さな里をぐるりと回ったが、とうとう酒屋は見つからなかった。その代わりヤマメは、里の小さな川の側にそびえる、一本の巨木を見つけた。この木にも見覚えがある。――ああ、こっから病を振り撒いたら、河童の連中に追い回される羽目になったんだったっけ。
ヤマメは軽く跳んで、幹のてっぺんに立った。そうして、落ち着いた里の町並みを、しばらくの間、唯じっと見つめていた。静かだった。まるで里全体が寝息を立てているかのように感じられた。
ひとしきり眺めたあと、ヤマメはひょいと木から飛び降りて、もと来た道へと足を向けた。
帰りは上り道だったが、行きよりも早く着いたように感じた。洞穴の入り口に足を入れかけて、ヤマメは思い出したかのように、もう一度月を見上げた。夜明けが近いのか、さっきよりも光は弱まっているように見えたが、それでもまだ明るいなア、とヤマメは思った。それから、小さくぼやけてしまった人里にちょっとだけ目をやって、最後にあの白粉のような花を、こちらは随分と長い間眺めた。そうして満足そうに頷くと、今度こそしっかり踏み込んで、じめじめした洞穴の中へと、再び潜っていった。
* * *
入り口からちょっと進んだところで、ヤマメは一匹の妖怪に会った。友達の釣瓶落としだった。
「あ、ヤマメちゃん、こんばんは。え、あれ、地上に出てたの?」
「こんばんは、キスメ。いやちょっと、夜の散歩にね」
キスメは大きな目をさらに見開いて、
「へええ、本当に? 珍しいね。めずらしいねえ」
と、しきりに驚いた。ヤマメは笑って別れを告げると、大きな欠伸をしながら、また歩き始めた。酔いはすっかり醒めたようだったが、代わりに眠気が襲ってきた。ヤマメは、どこか寝床に相応しい場所を求めて、そのまま深い闇の中へと消えていった。
これからも頑張ってください
けれど、この静かな空気は素敵だ
私もヤマメは魅力的なキャラだと思います。可愛い。
素敵な作品、ありがとうございました。次の作品も期待しています。
場面を鮮やかにイメージすることができました。
ひとり酒するヤマメが渋くて素敵。
つまみと酒の配分が狂っちまったら嫌っしょ;w
短いのに何ともずっしりくる読感でした
面白かったです
まだ足りないよー