「はっ……はっ……はっ……」
霧が舞っている筈の、路地裏である筈の場所を、一人の女性が息を切らせて走る。
『筈の』と称す意味は極めてそのままである。
それは、彼女が先ほどまで歩いていた筈の所が、そんな場所であったから。
「どうして、どうして……!」
今の彼女には、何も見えなかった。
ただ、闇だけが彼女を取り囲んでいた。
顔を引きつらせ、彼女は走る。走る。走る。
だが、何も変わらない。どんなに走っても、明るいはずのガス灯の光すら見えず、建物の壁にすらぶつからない。
一体、自分は今どこを走っているのか?
――悪い子ね。
声が聞こえる。
――夜に一人で外を歩いちゃいけませんって、ちっちゃい頃に教わらなかった?
美しい声。
鈴の様に鳴るのでなく、闇にすぅっと融けていくような……優しく、そして恐ろしい声色。
「ひぃっ!」
その声を聞いて、女性はそこにへたり込んでしまった。
足が言うことをきかない。まるで現実を拒む理性に、本能がもう無駄だよと囁きかけるかのごとく……その足は、逃げることをやめてしまった。
手を使ってなんとか進もうとするも、力及ばず体勢を崩し、ころりと後ろを振り返ってしまう。
――こんにちは。
黒一色の中にやたらと映える金色の髪が美しかった。
闇の中に爛々と輝く赤き瞳がおぞましかった。
――そして、
闇がゆらりと動くのがわかる。
獲物を捕らえる狼がそうするように、ゆっくりとあぎとを開くのだ。
事ここに至り、ようやっと彼女は理解する。
これから自分が、喰われるのだということを。
「たっ、助けえええええええええっ――!」
――さようなら。
ごきゅり
19世紀末、ロンドン。
このとき、そこは『宵闇の王』の根城となっていた。
―――≪母なる闇/宵闇の王≫―――
光は闇の尾を食み、
また闇は光の尾を食む。
当たり前に廻り廻る、昼と夜の二匹が織り成す日常という名の永遠。
それが壊れ始めたのは、いつのことだったか。
「へぇ、そうなのか」
薄闇のかかる部屋の中で、黒衣の少女が自らの髪を弄りつつ、客人の話に相槌を打つ。闇に映える金色の髪が、しゃらりと揺れた。
「それはまたけったいな事を創めたねえ。……大結界であの幻想郷を隔離するとは」
その表情は薄く笑いを浮かべているものの、放っているのは、威圧。
機嫌が良さそうだ、とはとてもいえなかった。
「道理でこんな遠くにいながらも、妖怪の規模が減じたと思ったよ。ねぇ――紫」
その眼光を硬い表情で、しかし微動だにせず受け止めているのは、神隠しの主犯たる境界の妖怪、八雲紫。
「いずれ必要なことよ。ルーミア」
読めぬ性格と胡散臭さを武器とし纏わせる彼女も、この古き妖怪――宵闇の王、ルーミアの前でそれは無意味だと知っている。
古くから存在する妖怪が顔を合わせて対談するこの空間は、常人ならば入っただけで卒倒しかねない、重苦しい雰囲気を漂わせていた。
「必要? 何にとっての必要なのかしら」
「……今から遠くない未来、妖怪の力は大きく減衰する」
苛立ちを混ぜて問うルーミアに、紫は目を伏せて答えた。
「まだ、実感できる段階ではないけれど、それでも今も確実に、妖怪の力は落ちているわ。だから……」
「自らそれにトドメを刺そうというわけだ。いやはや、さすがは八雲紫殿。日本のハラキリ精神によく毒されていらっしゃる」
「違うわルーミア!」
両手を広げて煽るルーミアを、紫が大きな声をあげて遮る。
「死ぬためではない。生きるためよ」
普段の胡散臭い雰囲気を知る故に、ルーミアもそれ以上の追撃を控えた。
「力の低下は……あなたも感じていることでしょう」
「ガス灯……かしら?」
イギリスにおいて百年ほど前に発明されたガス灯。それから飛躍的に実用化がなされ、今では遠く日本の地にまで広まっているという。
闇を食む街灯の光。確実に闇に抗おうとする人間の意志。
「あんなのがなんだというの? 人間が闇を恐れているという証じゃない」
「ええ、今はまだ……ね」
紫の言葉に、ルーミアは眉をひそめる。
「これ以上は無理よ。人々は魔の概念を捨て、科学を信奉し始めた。これからは坂を転がり落ちるように、人間の技術は私達の力を凌駕するでしょう」
「ならば、お前のやっていることは逆ではないのか?」
紫の訴えを、しかしルーミアははねつける。
「逆、とは?」
紫もまた、眉をひそめる。
「魔を忘れかけているからこそ、恐怖を揺り起こしてやらねばならない。攻勢を強めねばならないこの時に、なぜ逃げる?」
「勝てぬ戦よ、ルーミア」
紫は力なく首を振った。
「で、逃げてどうなる? 人間あっての妖怪だろうに」
「幻想郷にも人間はいる。足りなければ連れてくる」
「ふん、さすがは神隠しの主犯、か」
ルーミアは顔を伏せ、クックッと唸るように笑う。
「そんな箱庭の世界に、なんの意味がある?」
「そうでなければ、消えるだけよ」
「ならば何故戦って散らん!」
立ち上がり、麗しい顔を歪めて、ルーミアは紫をなじる。
「なんのための妖怪だ!? 我々は人間に警告を与える存在……! 何故この危機に、精一杯警告を与えようともせずに逃げ出すのだ! この戯けが!」
「……」
八雲紫は黙ってそれを受け止める。
妖怪の未来を繋ぐべき幻想郷に、原初の恐怖たる宵闇の王を招くことが出来れば、多くの妖怪を容易に説得することが出来る。
それは今は叶わないとわかっていた。ただ、この妖怪に話を通さないわけにはいかなかったのだ。
原初の恐怖たる古き妖怪。人間とともに生まれ、人間とともに歩み、人間をずっと眺めて生きてきた。
「人間を見捨てるような輩に、妖怪を名乗る資格はないわ!」
その人食いは、人間を愛していた。
きっと、他のどの妖怪よりも。
「……いいわルーミア。ただ、この話だけは覚えておいて。これが私の選択だということも」
「……ならば狭き箱庭の中で眺めているがいい、八雲紫。私は戦うし、負けもしない!」
*
紫の話をはねつけたルーミアだったが、彼女の話自体は無視できるものではない。
焚き火、キャンドル、提灯と。人が闇を照らす術を試行錯誤していく過程で、闇の怪異もまた姿を変えて立ちはだかってきた。
今回もその延長であるとたかをくくっていた。いや、そう思い込もうとしていた。
だが、あの妖怪の賢者があそこまで騒ぐ以上、やはり見過ごしていい問題ではなかったのだ。
紫に大見得を切った。それは動くためのいいきっかけだった。
だから――ルーミアはこのイギリスを訪れた。
ガス灯の生まれた国。その首都ロンドン。
そこで、怪異を起こしてやろうと。
妖怪は、人間の恐怖とともに生まれた。
原初なる恐怖の一つ。それが闇への恐怖。
最古の妖怪たるルーミアは、自身が人に生み出されたと認識していた。
また妖怪たるものの役割も、人間に警告を与え、過ぎた領分まで行かぬように導くことと解していた。
そう思わぬものも多かろうし、かび臭い考えだと笑う者もいるかもしれない。
だけど、彼女はそう思っていた。
人間達が闇への、妖怪への、自然への恐れを忘れていくのは、きっとよくないことだと思ったから。
だからルーミアは決意した。
ガス灯の輝くこの地ロンドンにて大々的に怪異を起こし、闇への恐怖を揺り起こす。
忘れかけた恐怖を、思い出させてやろう。
人間が、間違った方向へと行かないように。
……彼女の目論見の成功は、妖怪の復権を招きえただろうか。
あるいは、それはいっそうの技術革新を招くだけだったのかもしれない。
だが、彼女にはそうするしか出来なかった。闇の怪異でしかない、彼女には。
そして、まずその目論見は、成功することすらなかった。
いくらルーミアが人間を襲い恐怖を煽っても、その成果を掠め取る存在がいたのだ。
19世紀末、ロンドンにおいて、最も民衆を恐怖させた存在。
――切り裂きジャックである。
*
「ちっ……」
ルーミアは苛立たしげに、拾った新聞を地面に叩きつけた。
紙面に綴られていたのはジャックの記事である。
犯行予告が出てから一気にジャックの存在感は厚みを増した。
後に劇場型犯罪の元祖とも言われる、その民衆の視線を集める力に、ルーミアは完全に出し抜かれていた。
「なんて時期に……この状況で人を食っても何も目立ちはしないわ……」
何しろあちらは切り裂かれた死体を残す。
獲物を食ってしまうルーミアに比して、人々の印象に残りやすいのは明らかだった。
今更死体を残す方向に変えようとも、良くて同一視、悪くて模倣犯扱いだろう。
「どうにかしないといけないわね……切り裂きジャック……」
どうにかしなければいけない。その思いは確かにあった。
とにかく、切り裂きジャックを屠らねば、事態を動かすことは出来ない。
場所を移す、という選択肢もあるにはあった。だが、恐怖勝負で人間に負けたまま引き下がれるほど、宵闇の王のプライドは安くはなかった。
ルーミアは切り裂きジャックを探した。だが、切り裂きジャックはなかなかその尻尾をつかませなかった。
『宵闇の王』が、自分のテリトリーたる夜の闇の中で探しているにもかかわらず、だ。
殺人者をいくらか食うことは出来たが、どれも無関係の殺人者や、模倣犯だった。
こいつは違うと、ルーミアにはわかる。切り裂きジャックが背負っている恐怖は、そんなものではないはずだった。
『切り裂きジャック』とは、新しい妖怪か何かではないのか? と思い、首を振る。ならばなおさら自分に見つけられぬはずがない。最古の妖怪たる自分に。
ルーミアは焦っていた。
こんなことをしている場合ではないのに。
悠久の時を生きた自分にとっては毛先ほどの長さもないその数ヶ月が、やたらと長く、そしてもったいなく感じた。
まるで、残された時が、あまりないかのように。
だが、そんな時間にも、ついに終わりがやってくる。
その日、ルーミアはいつものように、ロンドンの町を巡回していた。
……そう、それはもはや巡回といっていいものだった。
ロンドンの町を恐怖に陥れようとやってきた宵闇の王が、ロンドンの町の恐怖を除くべく、夜中に巡回しているのだ。
これもまた不思議であり滑稽であり、はたまた彼女にとって不本意なことであった。
――ともかく。
その日、ルーミアはつんと香る血のにおいを嗅ぎ取った。
食料といえば人間なのだ。血の味とにおいはよくわかっている。
それもかなり強い……いや、血だけではない。それ以外の体液も……。
「切り刻まれて、いる、な」
ルーミアの鼓動は高鳴った。今度こそ当たりではないかと。ロンドンに来てから探し続けていた存在が、すぐそこにいるのではないかと。
ルーミアは笑みを浮かべながら、そのにおいのする方向へと向かった。
イースト・エンドの路地裏へと続く道からぷんぷんとそれはにおっている。
ルーミアはためらいなくそこに踏み込んだ。
そして見た。
今まさに、家屋から出てくる『それ』を。
「……!」
「ほう……?」
ぼろを着た少女だった。――いや、まだ幼女と言っても通用するかもしれない。
紅い目をした銀髪の少女だった。
そんな少女が、ロンドンを震撼させた殺人鬼であるなど、常ならば到底思えない。
だが、血に塗れた服と腕が、手に握られた液体の滴る臓物が。
そして何よりその身を取り巻く恐怖の気が――
その事実を肯定していた。
「あなたが切り裂きジャック……か。なんとも予想外の正体ね」
なぜこんな年端も行かぬ少女がこのような凶行に及んだのか。そんなことはルーミアにはどうでもよかった。
自分の邪魔をした、切り裂きジャックがここにいる。それだけで十分だ。
「かわいそうだ……とはちょっとばかり思うけれど」
逃がさぬように、闇を広げ、相手を飲み込む。
「怯えろ、惑え、恐怖せよ。この私の邪魔をしてしまったことを――」
「ころさなきゃ」
瞬間、ルーミアの胸元から鮮血が迸った。
「――あえ?」
頭で理解が追いつかぬまま、奪い去られたように体から一気に力が抜ける。
裂かれた傷は下腹にまで至っていた。
「――が、あ」
「ころさなきゃ」
もう一閃、今度は横に体を裂かれる。
「か――」
「ころさなきゃ、おこられちゃう」
ルーミアは、夢でも見るような表情で、仰向けにゆらりと倒れた。
最古の妖怪たる宵闇の王が、その小さな少女に、一切の抵抗もできずに。
「おしおきはイヤ、イヤ、イヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤ」
何ゆえ宵闇の王は敗れたか。
時を止める異能の力にか?
闇の中でなお煌く銀のナイフにか?
幼い身に似つかわしくない、洗練された殺しの技術にか?
妖を恐れることを知らぬその狂気にか?
この町において背負う恐れの差ゆえか?
――。
「――ころさなきゃ」
そのナイフが頭を狙う。
確実に獲物をしとめるべきその一撃は……しかし空しくも地面をえぐる。
「……?」
いなくなっていた。
切り裂きジャックはきょろきょろと辺りを見回す。
王の作り出す真の闇はもうない。においもしないし、気配もしない。
「どこ? どこにいったの……?」
かたかたと、切り裂きジャックは体を震わせる。確実にしとめなければ、怒られる。そう思ったから。
「……ころさなきゃ」
呟いて、その場を去ろうとしたとき。
「嫌な血のにおいがすると思ったら、何かしら」
「お嬢様、あれは殺人鬼ですよ」
「殺人鬼? あら、お仲間なのかしら?」
「あまりに悪魔的な人を、鬼となぞらえただけですよ。あれは人間です。人間」
なんとも気の抜けた会話が、ジャックの背中に浴びせられた。
ジャックはまたびくりと体を震わせて、後ろを振り返った。
……翼を生やした青い髪の異形と、異国の服を身に纏った赤い髪の女。双方、宙に浮かんでいた。
「ふーん、人間か」
「お嬢様、こんなのに関わっても面白くは……」
二人組の視線が、ふとナイフに注がれる。
その先から滴る人間のものではない血。地に落ちる前に、それは闇に融けて消えていく。
「お、お嬢様、この気……」
赤髪の女がその顔を強張らせ、蒼髪の異形もまたその顔をしかめ、叫ぶ。
「……死んだか、宵闇の王! 原初なる夜の王よ!」
悟ったのだ。それが夜の世界で古来より鳴る、宵闇の王のものであることを。
「しんだ? ころせた? そう……」
その叫びを聞いて、ジャックは少し安堵したように息をつく。
「じゃあ、ころさなきゃ」
そして改めてナイフを構える。目の前に現れた、新たな異形に向かって。
それを見て、赤髪の女が進言する。
「お嬢様、退きましょう。宵闇の王を倒すような人間、まともに相手できるはずがありません」
「……何を言う、美鈴」
だが、蒼髪の異形は、反対に口の端をつり上げた。
「宵闇の王は確かに強き力を持っていた――が、所詮は妖怪。既にある恐怖を広めることしか出来ない、曖昧な概念の具現よ。だが、我々は違う。そうじゃないかしら?」
「レミリアお嬢様……」
原初の妖怪を倒した人間を前にしながら、しかしその異形――吸血鬼は、笑う。
「恐怖を作り出す存在、それが悪魔、それが吸血鬼。――夜の王を倒した者を倒す……いえ、配下に従えれば、私が夜の王を名乗ることも出来るんじゃなくて?」
吸血鬼レミリアの不敵な自信に、その従者、美鈴はため息をつく。
「……無理そうなら、全力で止めますよ。旦那様に怒られるのは御免ですからね」
「心配、ご無用よ」
瞬間、宙に現れた切り裂きジャックの斬撃を、二人は空中を飛び退って身をかわす。
「……!!」
「宵闇の王を倒した程度で、いい気になっているんじゃないよ? アレは倒されるべき恐怖ではない。闇そのものを退治しようとする人間などいない。……だが、吸血鬼は違う」
かわした体勢から華麗に宙返りを打ち、驚いているジャックを地へと蹴りつけた。
ぱちりと、地に打ち付けられたジャックはまばたきをする。
「倒されるべき魔物として人間と闘争を繰り広げた吸血鬼の紅き歴史は……お前ごときのナイフの切っ先では傷も付けられぬと知れ」
レミリア・スカーレットはまだ幼い吸血鬼ではあった。
だが豊かな才覚を持ち、ハンターに対抗する術も当然に身に付けている。
「さぁ、夜を裂いた者よ。この十六夜の月の下、我が夜を咲かす礎となれ!」
驚きを示す殺人鬼に、吸血鬼は嗜虐的に笑いかけた。
――その日、切り裂きジャックもまた消えた。
殺人鬼を従えた吸血鬼は夜の王を名乗った。
――だがしかし、時を操る従者を得てもなお時の流れに抗えなかったのか。
その吸血鬼もまた百年後、幻想郷へと流れ着くことになる。
*
――ミア
――ーミア
「……ルーミア」
幻聴でない。
確実な音声が、耳朶を打ったことに驚き、宵闇の王は目を開けた。
「……! ……紫? か?」
そうして見たものが、どこかの屋根の上で自分を膝の上に寝かせる八雲紫だったことに、少しルーミアは自らの頬をつねりたくなる衝動に駆られた。
何故彼女がここに?
次に思い出されるのは、常に浮かべる胡散臭い笑い。
「……笑わば笑え、紫」
思い出す、そうだ自分は。
大見得を切ったくせに、人間に恐怖を思い出させるどころか、無様にも人間に敗れ去った。
知略でもなんでもなく、正面から敗れたのだ。
なんという恥曝しか。
しかも恐らく、自分はそれを紫に救われたのだろう。……このまま消えてしまいたくなる。
「笑いませんよ。宵闇の王。母なる闇よ」
だが、紫は笑わない。嘲りも、憐れみもない。
ただ、神妙な顔をして、自分のことを見つめている。
「至極、極端な例に遭ってしまったのですね。……でも、あれもまた人の持つ、可能性。人が人を恐れ、妖に牙を剥く未来」
「……ああ、なるのか? 人は、この先」
「まさか」
怯えたようなルーミアの問いかけに、紫は笑いもせず否定する。
「極端な例と申し上げたはずでしょう。……未来は、誰にもわかりませんわ」
「……」
だがそれは否定にあらず。あくまで人の持つ『可能性』であると。
ルーミアが言葉を探す中、紫は静かに進言した。
「しばらく休みませんか。王よ」
「何……?」
妙に慇懃な口調を使う紫に、ルーミアは眉をひそめる。
「あなたは、人間をわが子のように思っていたのでしょう。母なる闇よ」
まず混沌の闇があり、すべてのものはそこより出でた。
たくさんの色を混ぜれば、それは黒へと還るように。
闇は、全ての母であると。
「ならば……私達の役目は、終わったのかもしれません。あそこへ行ってはいけません、これをしてはいけませんと、口うるさく躾ける母親の役目は」
まるで旅立つ子を見送る母親のような寂しさをたたえて、紫は優しくルーミアの頬を撫ぜる。
「人間は、自分で歩き出そうとしている。私達に庇護されながら、ゆっくりと成長していって……そして、やっと自分の二本の足で立ち上がろうとしている」
妖怪によって禁じられたことがあった。闇夜に出歩いてはいけないと。妖怪にさらわれるぞと。
そんな妖怪に反抗し、人は道具を生み出し、進化させ――そうして人間は文化を育ててきた。
「その歩いてゆく先が、正しいのか間違っているのか、それは私達にはわからないけれど……。今は休みましょう。そして見守りましょう。箱庭の中から、私達の育てた、可愛い子供の行く末を。そして待ちましょう。いつの日か、彼らが私たちのことをまた、必要としてくれる日を」
「そう……なのか」
ルーミアはなんだかしっくりときた。
自分が人間に抱いていた執着の正体を。そして、その心を理解し、共感してくれる妖怪がいることに、喜びを感じた。
きっと、紫も同じような気持ちを持っていたのだろう。そして、とっくにその結論にたどり着いていたのだ。
大結界は逃走にあらず。それは……隠居だ。
役目を終えた妖怪が、自分たちの積み上げてきたものを眺めて暮らす、妖怪たちの楽園。
怒ってやろう、悲しんでやろう、妖怪らしく笑ってもやろう。
嗚呼、そんな日々も、いいのではないだろうか。
しかし。
「無理だよ、紫」
「ルー……ミア?」
「私はもう……駄目だ」
傷のことを言っているのではないはずだ。
治療もしたし、致命傷ではないはず。
紫が次の言葉を待っていると、ルーミアはゆっくりと口を動かした。
「私は――人間に恐怖した」
「……!」
切り裂きジャックと対峙し、相手を闇に呑んだのに、彼女は歯牙にもかけずに自分を切り裂いてきた。
無力感。
恐怖されない恐怖。
傷ついた、妖怪としての存在意義。
原初より全ての恐怖の根源であった、宵闇の王が、だ。
物理的にではなく精神的に存在する妖怪として、それは確かに、致命傷であったのかもしれない。
「きっと、私はもう何も見られない。今にも消えてしまいそうなんだ。……怖い、怖いよ、紫……。私を殺してくれ。この恐怖から、解き放ってくれ」
妖怪を見た人間の子のように怯えるルーミアを見て、紫は初めて悲しそうな顔を浮かべた。
そして、首を振る。
「あなたを失えないわ、原初の恐怖よ。なんのために……なんのためにあの箱庭を作ったと思っているのよ」
慇懃な口調を崩し、紫は声色に感情を込めて、静かに叫ぶ。
「……そうなのか」
ルーミアは、小さく笑った。
「生きろというのか、八雲紫。私に、この重い十字の傷を背負って」
その笑みは何ゆえか。
自嘲か、苦笑か、あるいは、うれしさゆえであったのか。
「……ならば、せめて私を封じろ、紫」
ルーミアは言った。その笑みのままに。
絶望ではない、決意をたたえて。
「力を、心を、小さな器に封じ込め、私は――小さな弱き妖怪として生きる」
ただの小さな妖怪として、十字の傷を背負いながら、生き抜いて再び這い上がっていこう。
「――いずれまた、立ち上がれる強さを、身に付けるまで」
全てを受け入れて、再び人間と向き合えるその時まで。
「ルーミア……」
紫はその決意を、悲しみを滲ませながらも、聞き届ける。
古くから生きてきた妖怪。人間を愛して生きてきた妖怪。
離れてしまうのは寂しいけれど。
「……待っているわ。ルーミア。いつまでも、いつまでも」
紫は名残を惜しむように、強く、ルーミアの手を握った。
「さようなら、宵闇の王よ」
「また会おう、境界の主よ」
二人は、別れの挨拶を交わす。
――共に愛しき子供を眺められる。その時をただ、楽しみにして。
*
幻想郷第118季。
幻想郷を、謎の紅い霧が覆った。
その異変を解決せんとした黒白の魔法使いは、宵闇の妖怪と出会った。
魔法使いは問うた。
「なんでそんな手広げてるのさ」
宵闇の少女は答えた。
「『聖者は十字架に磔られました』っていってるように見える?」
≪母なる闇/宵闇の王≫―――fin
切り裂きジャックがいたロンドンが舞台だったのも新鮮でした。
思います。完全制御とまではいえないですけどね。
この頃のルーミアの「そうなのか」は、なんか織田信長の「で、あるか」みたいなニュアンスで
かっこ良かったです。
すごく面白い設定と展開だと思います。
まだ幻想が微かに残っていた19世紀の時代の雰囲気を感じることができました。
そんな妖怪がいたらいいですね。
蛇足だけど、仮面ライダーアギトの闇の青年を思い出した。
咲夜さんの過去話としても独創的で良かったです。
なんて思いを込めて90点。
こういう幻想の物語を騙るのもまた、二次創作の醍醐味ですね。
ルーミア、かっこいいなぁ。
当時のロンドンの雰囲気を感じられました
ルーミアは、昔のことを覚えているのだろうか
実は不思議に思ってたりしたんですよ。紅魔境でね
なんで闇を操るルーミアがあんなに弱いのか
なんといいますか…とても心の中がすっきりしました
最後にひとつ EXルーミアかぁいいいいいいい!!
長さは丁度良かったと思う。
EXを名乗るのは伊達じゃないっ!
あとルーミアの人間にたいしての思いがすごく共感や納得を抱けるものでした。
と、いうパターンをよく見かけますが、これはどうやらマジのようですね。
恐怖されない恐怖、妖怪にとってはそういうこともありえるんですね。しかし、レミさんたちの登場にはかなり興奮しましたな!
紫とルーミアの会話にしんみりとした気持ちにさせられた
母親のように見守ってくれた2人はまたいつか人間を正しにきてくれるんだろうか……
それとルーミアのキャラが素敵すぎです。
ただ、常闇の王であるルーミアが、咲夜さんにあまりに簡単に負けてしまったのには違和感がありました。でも話的にはルーミアが人間に恐怖しなければならないんですよねぇ。ただ、このルーミア経験豊富そうだから、いまさらちょっとやそっとのことじゃ恐怖しないんじゃないかと思ってしまいます。接戦の内に、咲夜さんの狂気の中に恐怖を感じた――みたいな感じだったら、なんて考えてもみましたが、数多の修羅場をくぐってそうな彼女がそんなことで恐れるのはなんかなあ。
彼女の場合、「ふ、この狂気……。いいぞ人間! もっと私を楽しませろ!」とか言いそう。
でも、咲夜さんでなく、人間の科学に恐怖したみたいな感じだったら、違和感を感じ無かったかもしれません。彼女にも未経験のことでしょうし……。まああくまでも個人的な意見なんですけどね!
なんやかんや言っても、面白かったです!