「ふふ、あははは、あはははははは!!」
諏訪子の足が止まる。もちろん幽香の狂ったような哄笑のせいもある。だが、なにより、この
瞬間一気に幽香から馬鹿げた霊力が溢れ出したからだ。ゆっくりと、もどかしいほどゆっくりと
起き上がる幽香。その顔に浮かぶ喜悦の笑み。相手の精神を壊したかという心配より、そこらの
神など問題にしないほど膨大で暴力的な霊力に、諏訪子は顔をしかめる。
「あは! あはははは! あははははははははははははははは!! あぁ、あはは、あぁ……ああ。
はははは、あぁははは! あ、あはは……。……あぁ」
ひとしきり狂ったように笑って天を仰ぎ、幽香はまるで夢心地といった蕩けるような顔。潤んだ
瞳から一筋の、朝露のような涙粒を落として誰に言うでもなく、ひとつ。
「……痛かったぁ」
その言葉は、まるで甘くて美味しいケーキを食べた乙女のように紡がれる。
ぬるりと幽香が諏訪子に視線を泳がす。ズタボロであっても、その笑みはあまりに妖艶で、だから
こそ諏訪子は相手から目を背ける事ができない。交じり合う視線。嫣然と笑う幽香の唇から、声。
「ありがと。久しぶりよ。ただ、殴られて、こんなに痛いって感じたの。思わずイケるかも、って
感じちゃった。はは、ふふふ。こんな感覚、思い出させてくれて、ありがと」
「……そりゃ、どうも」
軽口を返すのが諏訪子には精一杯だ。さっきから延々と危険を知らせる警報が頭の中で鳴り
響いている。今まで目の前の妖怪を、多少強いといっても神に敵うはずもない、とたかをくくって
いた。しかし今幽香から発せられる霊力は普通の妖怪とは桁が違い過ぎた。
さらに蕩けたような幽香の表情が視界に入るたび、背筋にツララを突っ込まれたような悪寒が
走る。ただの戦闘狂だと思い込んでいたのは間違いだった。そんなものよりもっと拙い相手だと
今更になって気付く。
”眠れる獣が目を覚ました”、そう諏訪子は確信した。
「あは、脚も、腕も……全部、痛い。素敵」
惚けたように呟き、傍らに放り捨ててあった傘をふらふらしながら拾う幽香。それを見据える
諏訪子の額を嫌な汗がつたう。しかしいったん勝負を始めた以上、そう簡単に引き下がるわけ
にはいかない。意を決して、鉄の輪を具現化させる。
「せぁっ!!」
掛け声上げて、一つ。更にタイミングをずらして一つ、追加でもう一つ。最初の鉄の輪は
頭めがけて襲いかかる。それをぼんやりと見つめつつも左腕で顔をかばう幽香。その腕半ばまで、
鉄の輪が食い込んだ。もはや鈍器ではない。外周は鋭い刃と化していた。二つめは振られた傘に
当たりあらぬ方向へと飛ばされる。三つめは外気に曝された左足を切り裂きながら飛んでいった。
「痛っ……」
顔を歪め体を折りながら身悶えする幽香。しかし苦悶と同等の悦楽を諏訪子は表情に見て取る。
思ったとおりだ、こいつは間違いない。痛みが意味を成さないとなると、トップクラスにヤバい
相手と殺りあってるもんだ、とぞっとする。それを裏付けるように、傷を眺めた幽香が諏訪子に
向き直り放った言葉は、
「……これでもう終わり? だめよ。これくらいじゃぁ……イけないわ」
と、常軌を逸したものだった。
腕から刃のリングを引き抜く。一瞬血が溢れかえるが、それは爆発的に増した霊力のおかげか、
次第に傷口がふさがっていく。そんなことなど気にもせず、恋する相手を見つめるような瞳で、
幽香は諏訪子に話しかけてくる。言葉の棘すら消えたのは、痛みの熱のせいか。
「ねぇ、祟り神さま。もしかするとさ、あなた……」
諏訪子は身じろぎ一つできない。蛇に睨まれた蛙? 相手は花だ、だが動けない。そこに向けて
幽香は微笑む。もしかするとある意味において、幽香は諏訪子を”見て”すらいないのかも
しれない。ゆらゆらと揺らめく視線。
「本当の痛みなんて、知らないんじゃなくて?」
「え?」
「じゃあ、教えてあげるわ!」
諏訪子に戸惑う暇もあらばこそ、広げた日傘が諏訪子に向けられる。それに応じて諏訪子は
地中へと潜行しようとした。今の幽香に極太ビームを放たれれば神ですら消し潰される。回避は
当然の選択。だが、しかし。
「ふえっ!?」
襟の後ろを木の枝に引っ掛けたかのように諏訪子の体がつんのめる。なに、と後ろを見れば、
今まさにビームを放とうとしていたはずの幽香が嬉しそうに襟首を掴んでいた。と、視線が
いきなりぐちゃぐちゃに掻き混ぜられた。気付けば諏訪子の体は宙に舞わされていた。真上に
高く放り投げられた、と理解した諏訪子が何とか体勢を立て直そうとして、その視界にあり得る
はずのないものが。今自分を投げたはずの幽香が、上空で待ち構えていた。
「そォらぁっ!!」
「はぐぅ!」
思いっきりの海老反りから、その反動を生かしたハンマーパンチを諏訪子に叩きつける空の幽香。
背中あたりにもろに食らって、血を吐きつつ諏訪子は地面へと一直線。衝撃に明滅する視界に、
あるものを確認して背筋が凍りついた。急いで鉄の輪を具現化し霊力を注ぐ。武器にするわけでは
なく、盾とするため。諏訪子の視線に、どんどん近づいてくるのは地上の幽香。思いっきり体を
ひねり殴り飛ばす構えを取っている!
「死ぃ、ねぇっ!!」
荒ぶる言霊とともに、空を切り裂く拳。衝突音とともに吹き飛ばされる諏訪子。
「うっ!? わぁっ!! ……らーぁっ! ばっ!!」
珍妙な叫び声をあげながらまるで鞠のように地面を跳ねる。数度のバウンドの後ごろごろと
地面を転がってからようやく動きを止める諏訪子の身体。倒れ付しながら諏訪子は己の状態を
何とか把握しようと努める。
手にした鉄の輪は原形をとどめないほどに破壊されている。脚と手に力が入らない。地下に
逃げるかと一瞬考えるが、すぐにそれを打ち消す。相手は一瞬で地から空へと姿を現す何がしか
の技を持っていた。うかつにゆるゆる地面へ潜ろうとすれば、間合いを詰められ傘で突き
殺される可能性は大きい。一瞬でよくここまで考えられたな、などと考えつつ、諏訪子は霊力を
集め回復に徹することを決めた。……それくらいしやれそうなことがないからではあるが。
じんわりと柔らかな霊力が総身に回るより早く、視界が上に持ち上げられる。先のように
首根っこを掴まれて無理やり引き起こされたのだ。その手の主は幽香なのだろう。だが、
諏訪子のぼんやりとした視線の先に、ゆるりと歩いているその姿もまた幽香なのは……?
「どう、祟り神さま? 分身ができるのは別にあなただけじゃないのよ?」
甘く切ない息とともに、幽香の声が諏訪子の耳朶を舐めるように紡がれる。神のように分霊が
できるわけではない。純粋な霊力に己の因子を注ぎ込んで創り出した正真正銘の分身術である。
真っ向からぶちのめすのが幽香のスタイルではあるが、小細工できないほど不器用でもなわけ
でもない。それを見せ付けた幽香だが。
「でも、やっぱりだめね。分身なんか使うのは」
己の力を否定するものであった。何故か?
「殴る力も感触も半分なんだもの。こんなんじゃ気持ちよくなれないわ」
ふぅ、と幽香の憂いの溜息を首筋に受けて、諏訪子。冗談じゃない、今ので半分の力だと、
ぞっとする。受肉した神の難儀なところ、腕にも肋骨にもヒビが入っているように感じる。
尋常じゃない痛みが全身を駆け巡っている。それはつまり精神生命体である”神”において、
”存在そのもの”に大きな欠損が加わっているというサインに他ならない。幽香が洒落でも
なんでもなく、神殺しとなれそうだ。
その幽香が空いた手で指をひと弾きすれば、諏訪子を嘲笑いながら分身が掻き消える。本人に
全ての力が戻る。諏訪子が身をよじるが、幽香の拘束を逃れることは到底できそうにない。
「ふふ、ごめんなさいね、祟り神さま。本当の痛みを教えてやると言っといて半分程度の力で
殴っちゃったわ。だから今度こそ……思いっきり痛くシてあげるわ」
これから己の手で行う残酷無比な所業を想像し、蕩けたような法悦の美貌で辺りを見回す幽香。
やがて目当てのものを見つけたらしく、唇の笑みを更に吊り上げて歩き始める。その手にぶら下げ
られている諏訪子は、幽香が何を見つけたかがおおよそ理解できた。
最初に放ったやつか、それともだいだらぼっちの拳だったか。ともかくそこには崩れた岩の
残骸がある。その一部は、まるで尖った杭の先端か、あるいは槍の穂先のように鋭い先端を
天に向けている。
「百舌のはやにえって知ってるかしら……。なんて、神さまですもの。聞くまでもないかしらね」
幽香の嬉しそうな声を背中に受けて諏訪子。今から幽香が何をしようとしているのか、それも
理解できた。
「まぁ、それよりもちょっと痛いかもしれないわ。そう、私は今からあなたをあの岩で串刺しに
しようと思ってるわ。どんな滑稽な死に様を見せてくれるのかしら? 楽しみですわ」
恐ろしいことを陶然とした顔で告げる幽香。その脳裏にはどてっぱらを岩に貫かれた諏訪子の
姿でも浮かんでいるのか。あるいは、そう、幽香の膂力ならその程度で済みはすまい。辺り
一面に広がった真っ赤な肉入りスープ、そんなものを想像しているのか。その狂気の思考が
もたらした熱が幽香が吐く息に混ざる。うなじあたりでそれを感じる諏訪子。哀れな犠牲者に
なる予定の諏訪子、俯いて思うのは。
しめた!! 詰めが甘い妖怪だねぇ。
いったい何がしめた!! なのか?
尖ってようが何だろうが地面に接した岩はもちろん大地の一部。透過するのは容易い。故に
幽香の目論見は儚くも失敗するだろう。更に諏訪子は幽香の力さえ利用しようとしている。
全力で投げ飛ばされつつ大地を透過する力を使えば、その勢いのまま地中深くまで移動する
ことができるだろう。そうすれば体力を回復させる時間も、相手を倒す手段を考える時間も稼ぐ
ことができる。だから諦めたふりをしつつされるがままに幽香の行動に身をゆだねた。
「さ、イきなさい。……そォら!!」
諏訪子の視界が思いっきり加速する。振りかぶられて、ほんの少しの溜め。先ほどとは景色が
逆再生するのと同時に、己が体を大地に溶け込ます秘術を発動させる。
ざまぁみろだ、妖怪。そう心の中で笑う諏訪子の腹に、鈍く重い何かが思いっきり突き立った。
「……!? っばぁっ!!」
諏訪子の口から、大量の血反吐。地面と幽香の身体を、赤く染める。
「ばぁか」
諏訪子の腹に突き刺さったもの。それは岩なんかではない。幽香の渾身の膝蹴りである。
地面に逃げ込むつもりの諏訪子は、地面でない幽香の膝をまともに食らったことになる。それは
嘲りの笑みを浮かべる幽香の目論見通りであった。
岩に叩きつけるという事を強調したのは、油断を誘うため。地行術は散々目にしてきた。
それが岩にもそれは通用するだろうと目測を付けていた幽香。隠しとおせれば、攻撃のチャンスは
できるとも。だが、なによりも。岩に叩きつけたところで幽香自身はその感触を楽しむことは
できない。それなら己の体の一部である、岩よりもえげつない凶器である膝をブチ込んだほうが
よほど爽快だ。効果的な打撃を与えるよりも、むしろその嗜虐心を満たすがための策であった
といえるだろう。
膝の上で体をくの字に折り、真っ赤な液体を口から吐き出す諏訪子を見て、今日一番心底から
嬉しそうな幽香。強烈な衝撃は、膝から幽香の体の芯に甘い快楽となって伝わっている。衝撃と
いえば諏訪子である。完全に無防備なところに幽香の鬼畜な一撃。小さな体に収まった内臓、
という”神を構成するもの”がぐちゃぐちゃに潰されている。殺される、比喩でなく、痛みに
焼け付く諏訪子の思考にその言葉が走る。……今の諏訪子には体を小さく痙攣させるくらいの
ことしかできないのだが。
諏訪子の半ば破れた襟首を離し、右脇に手を差し込んで持ち上げる幽香。喜色に満ちた
妖怪と苦悶に満ちた神様の顔がすぐ近くで向かい合う。にこりと微笑む幽香に、諏訪子は眉を
歪めて、血混じりの咳で応える。
「祟り神さま、よかった?」
「……」
その言葉に返事すらできない。苦しい息の下辛うじて首をもたげ、憎々しげに睨み付けるのが
やっとだ。それを見て、幽香の顔に艶が増す。
「あら、素敵な顔。祟り神さまにそんな表情されたってだけで、ちょっとキちゃいそう。あはは、
まぁ、いいわ」
ぐっ、と幽香の腕に力が入る。
「さ、もう一回ぁぃっ! ……それで、最期よ」
諏訪子の体が軽々と、供物のように天へと掲げられた。
さて、どう叩きつけるかと思考を回転させる幽香であったが、そこに違和感。幽香は怪訝な
顔を上げた。逆さまにされた諏訪子は手足をばたつかせ必死で抵抗している。そのもがく滑稽さを、
それを無駄に終わらせ絶望とともに蹴り潰す想像を、危なく燃える心の火のまま幽香は楽しもう
とした。
が、思わず幽香は己の目を疑う。じたばたしていた諏訪子が大きく息を吸い込むや、ぷうっと
その腹が妊婦のように大きく膨らんだ。そこに妙な霊力が溜まっている。しまったとばかりに
幽香は腕を動かそうとした。だが、それより早く諏訪子の口から噴き出される何か。人間の拳大の
水滴弾。幽香の顔面目掛けて6発、避けきれる距離ではないから全てがブチ当たる。高速の
ジャブのような打撃をもろに食らえば、幽香とて平気な顔でいられない。
諏訪子を拘束していた手の力が緩ほんの少しだけ緩む。しめたとばかりに諏訪子はその手を
蹴飛ばして、一目散に拘束から逃げ出す。地表に降り立った諏訪子は即座に地中へと潜り込む。
その姿を幽香は目視することができない。今、彼女の視界は赤一色に染まっているからだ。
頭頂部からべっとりと顔を覆う液体を億劫そうにぬぐい去る幽香。
「……この期に及んで小賢しいマネをしてくれるじゃない」
忌々しげに呟く幽香。怪我を負ったせいで流れた血ではない。その血は幽香のものですらない。
諏訪子が体内で己の血と僅かばかりの祟りとを混ぜ合わせた水滴弾のせいである。ダメージよりも
逃げるための目くらましに使ったのだ。
幽香一人だけ立つ戦場に秋風が吹く。
「まぁ、いいわ」
ほんの少し唇の端を歪め、幽香がふわりと宙に舞った。戦っていた穢れた大地が視界に入る程に
上昇を続ける。そして手に掲げていた傘を、普通とは逆、地面に向かって花開かせた。
その一方、逃げ出した諏訪子は一目散に地中深く潜行していた。痛みを気にしていられる状況
ではない。今は何より早くあの危険すぎる相手から距離を取るべきだと本能が告げている。
色々と策を講じて幽香を痛めつけた諏訪子。しかしたった二発の拳で優位性は無と化し、その
後の膝蹴りで受けたダメージが遥かに上回った。
深い海に潜るように地中をどこまでも下に向けて進む諏訪子。そのうなじが、何故かちりりと
焼けるような感覚に襲われる。馬鹿げた霊力を背後に感じたのは、そのすぐ後であった。
「はああああああああああ!!」
諏訪子の頭上数十メートルは、閃光と衝撃に満ちた地獄である。幽香は己の真下に向かって、
代名詞ともいえる超特大レーザーを放っている。それも今まで見せたことがないような、普通なら
誰しもが避けることもできないものだ。何しろその直径は、今しがた戦っていた穢れた土地、
50数メートルにほぼ等しいのだから。範囲が広いだけが問題ではない。圧倒的な破壊力は大地を
掘り進み削り取っていく。諏訪子がどこにいようと、どこまで深く逃げようとこれでは餌食に
なるしかないだろう。
十秒ほどしてようやく幽香はレーザーの放出をやめた。たったそれだけの短い時間で、地面には
隕石が直撃したようなクレーターが出来ている。すり鉢状の地面からは、大地の苦悶を思わせる
くすぶった煙が立ち昇っていた。その縁に幽香はゆるりと降り立ち、そこから静々と、底に
向かって歩を進める。焼け焦げた大地を踏みしめ、目指すのはクレーターの中央。目を凝らせば
そこに小さな黒焦げた何かがあるのが分かる。近づくにつれ、幽香にもそれが人間の形をしている
と認識できた。
やがてクレーターの中央。幽香の歩が止まる。足元には諏訪子の形をしている、真っ黒な炭。
冷ややかな視線を送る幽香。一拍おいて、幽香がそれを潰すかの如く、大きく一歩踏み出した。
斬っ!
刹那、幽香の背中を切り裂く感触。焦げた大地に血の花が咲く。
「やはりね」
背中を走る痛みもあろうに、幽香は淡々と言葉を紡ぐ。
「あの程度で、くたばるとは思えなかったもの」
振り返る先には、諏訪子がいた。地面に半ば以上めり込む、その径幽香の背の二倍はあろう
巨大な鉄の輪の刃の向こうに。
ビームで追撃されたと感づいた諏訪子。必死で逃げながら中核にダミーを残してつつ、複数の
岩盤を盾代わりとする。その思惑は何とか紙一重で成功した。そうやって生き延びた諏訪子は、
佇む幽香の背後から一撃を繰り出したのだ。誤算はそれを避けられたことだけ。切り裂かれた
幽香の傷は、徐々に再生し始めている。
「よく、避けれたね。後ろから襲い掛かるのはゲスの仕業だからと知ってたからかい?」
凍れる表情で幽香を睨みつける諏訪子。視線の先の幽香は対照的に、この血腥い殺伐とした
戦場には似つかわしくない柔らかな笑みを浮かべた。
「いいえ……。あれだけの殺気、気付かないわけないわ。それだけ」
「ふむ、そうか。つい本気を出しちまったか……いや」
幽香が前に避けなければ、そのまま縦に真っ二つになっていたのだろう。この戦いで始めて
諏訪子は明確な殺意を見せた。それが幽香の体を反射的に動かしたのだ。そのことに思い
当たって、諏訪子は真剣な表情で、幽香に語りかける。
「風見幽香」
はじめてまともに名を呼ぶ。そこに少しの敬意を込めて。
「なにかしら。洩矢諏訪子」
幽香も名を呼ぶ。対等な立場であると認識させるように。
「一つだけ謝らせてくれ。最初から本気を出さなかったことを。すまん」
「へえ……。まぁ今更だけれど。で? 謝るから、どうしたいの?」
笑みのまま、幽香の雰囲気が剣呑なものになる。返答次第では即座に叩き殺すつもりだ。その
諏訪子の返答は……。
「次の攻撃で、お前を倒す。完膚なきまでに倒す。腕がブチ曲がろうが足がへし折れようが構わない
……今出せる私の100%をお前に、風見幽香に叩き込む」
諏訪子の瞳に宿る澄んだ光。一切の逡巡も躊躇いも捨てた覚悟の光。幽香は澱みなき清流を
そこに見た気がした。自然と笑みがほころぶ。”神”、それが己を倒すべき敵と認識している
のだ。嬉しくてたまらないが、やはり幽香はそこで軽口を叩くことを選ぶ。
「ふん、殴る前にそういう御託を並べるやつはね、たいてい負けるものよ。でもいいわ。ヤって
みなさいよ、その100%とやらを。それを完璧に受け切ってからお前をミンチ肉みたいに磨り潰して
あげるわ、洩矢諏訪子」
「……行かせてもらうよ」
「とっととかかってきなさい」
対峙する二人の間に風が巻き起こる。大地の気を集めた諏訪子の霊力が、空すら震わせて
いるのだ。でかいのがくる、と幽香。心中が今までになく熱くなるのを感じる。ぺろりと乾いた
唇を舐める幽香の眼前で、諏訪子が複雑な印を組みはじめる。
「”招”ゥッ!」
諏訪子の一声で、邪悪な霊力を足の下から感じる幽香。見渡す大地一面に、どす黒い祟りが
満ちていく。それでも幽香は何事も起きてないかのごとく、傘を差し突っ立っている。そして
諏訪子は印を結び切る。
「”来”ィッ!!」
どん、と霊力が爆ぜる感覚を知ったかどうか、その瞬間に幽香の体は遥か高くに持ち上げ
られていた。めちゃくちゃに揺れる視界は当てにならずとも、脚に突き立つ二つの焼ける
痛みに、攻撃されたことを知る。壮絶な笑みの弧を作り、振り回されている己の身体を制御
する。左の脚に喰らいつく巨大な白い影が見えた。そこ目掛けて傘の先端を思いっきり
突き立てる。真ん中ほどまでずぶりとめり込んだ。
耳障りな声を上げ、幽香の脚を開放するのは真っ白な蛇の形をしたもの。それこそが諏訪子が
束ねる”ミシャグジさま”。司る数多の業を軽んずる者にありとあらゆる難を、苦痛を与え、
あるいは即座に死を与える存在。形無き神ではあるが、諏訪子の力によって受肉し、白い蛇の
姿となって諏訪子の敵、幽香に襲い来る。迅速なる死を与えるために。
死、そのもの、それを知って、だからこそ幽香は笑いながら真っ向からそれを貫き、地面
目掛けて蹴り落とす。死を恐れぬかのように。見下す先で、もがきながら下へ落ちていく白い蛇。
幽香は突如身体を捻り左の肘を空に抉りこむ。ぐしゃり、潰れる音がして真後ろに吹き飛ぶ
別の一体。
「うっとぉしいわねぇ!」
耳元まで避けるような笑みを浮かべ、幽香は更に回転しながら傘を振るう。その先には
すさまじい勢いで体当たりを敢行する真新しい白蛇の姿。そこに右袈裟一閃、空を震わす
衝撃音。勢いをそれで殺され、しかし耐える素振りの白蛇の顔面目掛けて、幽香の左掌から
放たれるゼロ距離からの霊力の弾の雨。顔面を穴だらけにした三体目はそれで沈黙する、が。
「っく!!」
傘を掴んだ右腕を、後ろから噛み付かれる。四体目は先達の犠牲を無駄にすまいと果敢な
攻撃を行った。腕にがっちりと喰らいこむ牙の感触が、甘い痛みとなって幽香の脊髄を走る。
だが、恍惚感を一瞬で消し飛ばし、幽香は左手の拳を数発、遠慮も何もなしに蛇の横っ面に
叩き込んだ。たまらず口を離すそこに、とどめの強烈な左フック。無残に吹き飛ぶミシャグジ
さまを見る幽香はしかし小さく舌打ちをする。お気に入りの傘をそのまま地表へと持ってかれた。
少しばかり気落ちをしたように見える幽香。そこへ後ろから襲い掛かる新手。大口を広げ
飲み込もうと迫る。間一髪、それを察知して幽香は上方へと身を翻す。被害はスカートの布地を
少し奪われただけ。そのまま襲い掛かってきたミシャグジさまの胴に着地し、一気に駆ける。
「……っはァ!」
一瞬に迫る、更なる敵。その胴体目掛けて飛び蹴りを浴びせる。強襲に怯んで身を捩る、そこに
向かってレーザーを放とうとした、その時!
「っ!?」
幽香の視界を闇が支配する。それどころか身体も何かに押し潰された。柔らかさ、熱さ、湿気、
それらを鑑みれば、口内に飲み込まれたと察することは簡単だ。倒し漏らしたやつの仕業か。
「く……ッ」
悪態をつきながら、幽香は蠢く舌を思いっきり踏んづける。
「いい気になるんじゃないわよ、あァん?」
上下に押し付けられる圧力に、脚と腕、そして背中の力で無理やり対抗する。人が膝立ち
できるくらいの空間をなんとかこじ開けた。幽香が暴れるにはそれだけあれば、十分。
体よく幽香を飲み込んだミシャグジさまであったが、突如その顔が上に跳ね上がる。かと
思えば横に、あるいは滅茶苦茶に揺さぶられる。口内で爆弾が爆発でもしているかのようだ。
それともそちらのほうがまだマシか。身体の内から、爆弾よりなお破壊的な幽香のアッパーやら
肘鉄やら、あるいはストンピングをぶち込まれているのだから。
打撃の炸裂が数回続き、そして何の前触れもなく口が大きく開く……いや、こじ開けられた。
ミシャグジさまの口内から出て一つ深呼吸をする幽香。振り向くその先には、痙攣したまま白蛇の
顔が未練たらしそうに宙にある。そこに向けて幽香は飛び切りの笑顔を向けた。その笑みのまま
思いっきり拳を振りかぶる。
「くったばぁれっ」
可愛く甘ったるくそう言って、弧を描いて拳が振り下ろされた。酷い破砕音が響き、哀れな
ミシャグジさまは地面に一直線に落ちていった。その行き先も追わず、幽香はいまだ地上に
いるであろう諏訪子を視界に求める。地上、はるかな足元に諏訪子はしゃがみこんでいる。この
程度の攻撃で自らを満足させようとしたのか、などと一瞬で煮える心中。怒号が口をつこうとした。
「この……っ!?」
一瞬で両足を襲う激痛。後ろから二体同時に脚に喰らいつかれた。それを確認する間もなく、
襲い掛かる影。右裏拳を放つが、下半身の動きを殺されているせいで空を切る。その振り切った
右手に白蛇の牙が上下から突き立てられた。
「……は、やるじゃないっ!!」
脂汗を浮かべて、唯一残った左腕で拳を放とうとした幽香。そのせいか、青空を切り裂いて
一直線に向かってくる影に反応するのが遅れた。
「かはっ!?」
ただ単純な幽香の身体への体当たり、しかし巨大な質量が幽香の臓器を押し潰す。その苦痛に
動きが止まる幽香。そこを逃さぬ連続攻撃。左腕に思い切り喰らいついた。
……幽香の四肢の自由は完全に失われた。噛み付かれた部分がひどく熱いと幽香。鼻腔をつく
のは己の血の香り。戦いに燃え盛る炎に煮詰められた、痛みを与え与えられる快楽が心の裡で
泡立っている。その法悦に一瞬我を忘れそうになる幽香だが、四肢を引かれる感覚に気付いた。
四体のミシャグジさまは祟りを恐れぬ不埒な妖怪を許さないらしい。ぐいぐいと幽香の腕を、
脚を引いていく。それはまさに西洋の処刑方、四裂きの刑。噛み付かれた傷が徐々に広がり、
筋肉のそこここから断ち切れそうな悲鳴が上がる。絶体絶命。
だが、幽香の笑みの弧はいっそう吊り上り、鬼神すら恐れをなすようなものに変わる。この期に
及んで何か策があるとでもいうのか。一度目を閉じ、そしておもむろに力を込めた。身体から
引き剥がされようとしていた右腕が主を思い出したかの如く、じり、じりりと引き戻されていく。
傷口が開くのも厭わずに、だ。やがて右腕は幽香の胸の辺りに引き寄せられた。だが、そこから
どうするというのだろうか。
「私を殺したいならね」
目をかっ、と見開く幽香。そこに宿る狂気的な光。
「……腕と足奪った程度で終わったなんて思わないことよ!!」
そう叫んで幽香は、ミシャグジさまの頭に思い切り噛み付いた。ぞぶり、と歯が食い込む
感触。目には目を、歯には歯を。本来の意味と違うのか違わないのか、それはさておき加害者に
全く同じ方法で反撃する被害者。その強烈な噛み付きに、幽香の腕を咥えたまま苦悶に身を
よじるミシャグジさま。腕に食い込んだ牙はその噛み傷を大きく広げることになる。それも
お構いなしに幽香はその歯を更に深く深く食い込ませていく。
やがて、鈍く引き裂く音がして白蛇の顔を喰いちぎった。不味そうにそれを吐き出し、もう
一度。傷口を狙って噛み付き引き千切る。その苛烈さに音を上げたミシャグジさま。左腕から
牙を抜いて幽香から離れた。すかさずそこに花びら型の弾幕を一気に放出する幽香。その花弁は
剃刀のように総身を切り刻む。墜落していく姿を見もせず、幽香は左腕に齧りついた敵の顔を
無理矢理に引き寄せた。
「はぁッ!!」
気合一閃、右の貫手がミシャグジさまの目をブチ抜く。その体内を混ぜ握り潰しつつ腕から
引き剥がす。両手が自由になればもはや幽香の暴虐は留めるものがいるだろうか。嗜虐的な
笑みにいっそう艶が増す。左足を持ち上げ、近づいたミシャグジさまの頭に両の手を組んだ
ハンマーパンチをお見舞いする。一度で離れないと知るや、二度、三度。原形を留めない姿の
ミシャグジさまが、力を失って落ちていく。
残った一体にゆっくりと手を伸ばす幽香。その顎に手をかける。閉じた口を強引に引き剥がし、
そのまま一気に引き裂いた。胴の半ばまで傷を広げたところで、興味を無くしたかのごとく放り
捨てた。
それが最後の一体だったのだろう、襲い掛かる影はない。だが、今までの攻撃で幽香の四肢
には酷い噛み傷が残っている。それらはいかな幽香の再生力をもってしても容易に塞がる気配が
ない。祟りによって霊力を蝕まれているからだ。だくだくと血が流れ落ちるのを見やる幽香。
それは彼女に無上の秘すべき快楽を送り続けているはずなのに、その顔には冷たい色しか浮かんで
いない。一度、噛み傷に目をやって、地面を見下ろした。ふと、小さな呟きが口から漏れる。
「……これだけ?」
そこにはありありと不満の意思が込められている。眼下の諏訪子はいまだ動く気配はない。
血で血を洗う殴り合いを求めた幽香の腹の底、溜まった鬱屈とした想いは、マグマのように
熱を持って喉を上がっていく。眉間に皺を寄せ、怒りをブチ撒ける。
「こ……ンなものか!! この程度か洩矢諏訪子ォォォ!!」
「いいや」
天を見上げて諏訪子は小さく呟いた。その顔にどこか危険な笑みを認めて、幽香もまた頬が
あがるのを知る。諏訪子の更なる攻撃を、それ諸共潰すため拳を握り締め急降下しようとする
幽香。
諏訪子は、必死の一撃を放てる状態を確認して、もう一度小さく呟く。
「行くよ、風見幽香」
諏訪子の影が、爆ぜるように、いや文字通り、爆ぜて舞い上がる。
迎え撃つ幽香の視界が、急激に鈍化する。極限の一線に、精神が肉体を凌駕したのだ。諏訪子の
一撃が幽香をそれほどまでに追い詰める、その証明でもある。油の中を泳ぐように、緩慢な世界。
視線の先の諏訪子はぐんぐんと近づいている。突き出した右拳は硬く握られ、鉄のような光沢を
帯びている。諏訪子本人は、岩のようなものに乗っているようにも見える。その背後では黒い
煙か雲のような物が爆発的に広がっていた。そして肌を焦がすような熱気。
何が起きているのかを完全に知ることはできそうにない。それは一瞬で近づいてくる諏訪子の
攻撃を受け切ってから考えればいい、そう思いながら、イライラするほど動かない腕でガードを
固める。膂力だけで言えば幻想郷でもトップクラス、その彼女がガードを固めれば、それだけで
鉄壁の防御といえた。
鈍い音が響き、鉄壁がいとも簡単にへし折れる。幽香の腕を叩き折りつつ、ガードをこじ開けて
迫ってくる諏訪子の黒い握り拳。幽香は悟る。確かに全力の一撃だ。防御する術もない。拳が
幽香の鳩尾目掛けて突き進んでいく。
幽香の背筋を、電流のように、倒錯的で喜悦に満ちた、一つの予感が駆け抜ける。その一瞬で
拳が肉体に到達する感触。安らかとさえいえる笑みを浮かべ、幽香は思う。
――あぁ、これなら、逝けるわ。
体内で肉と骨と臓器が完膚なきまでに破壊される音を最後に、幽香は意識を闇の中へと
手放した。
轟く爆音と共に空へと飛んだ諏訪子。それは小規模ながら、破壊的な自然現象。”火山の噴火”
である。諏訪子の能力により集められたマグマは足場の岩ごと天へと吹き飛ばした。大地の
怒りを火山弾として、その勢いで幽香へ突貫したのだ。突き出す腕は、集めた砂鉄を固めて
文字通りの鉄拳と化した。暴力的な一撃の威力を増し、また拳を守る篭手である。
その拳は今、無茶苦茶に折れ曲がりつつも幽香の鳩尾を貫いている。朱に染まる身体を横に
傾げ、足場の岩から幽香の身体諸共身を投げる。右手を埋めたまましっかりと抱きしめるように
して、落ちていく。見据える大地には、赤黒い溶岩と噴煙を吐き続ける孔、ひとつ。
「……証拠、隠っ滅っ」
落ちながらも自由な左手で印を切り結ぶ。噴火口に向けて突き出された掌から霊力が滝の
様に落ちていく。それが地面へと到達すれば、少しばかり地面が蠢き、火を噴く孔は幻の様に
消え去った。熱を放つどろどろとした溶岩も水を浴びせかけられたように一瞬で冷えて固まる。
坤、すなわち大地を操る神のみに出来る荒業であった。
そうこうする間にも地面は近づいてくる。しかしそれでも更に諏訪子は印を打つ。
「水よ、満たせ!!」
人差し指を招くように上げれば、幽香が抉り抜いたすり鉢状のクレーターをあっという間に
水が浸食し、池を作り出す。それを確認して、諏訪子は思いっきり左手をばたばたし始めた。
いささか不恰好ではあるが、大地を司る神ゆえに空を舞うのは苦手である。その苦手を
なんとかかんとか、無茶も大概な体勢で必死に行う。かき抱いた幽香を叩きつけるわけには
いかないからだ。
そして、着水。盛大な水柱を残して水中に没する二つの影。その衝撃を気にするでもなく、
諏訪子は指を下に向け、
「水よ、退け」
と命じる。もちろん諏訪子が水中で窒息するような事はない。諏訪子の意のままに、水は
地面へと吸収されていった。噴火も池も嘘のように、乾いた大地にそっと幽香を横たわらせる
諏訪子。その身体からはゆるゆると温かみが消えていく。
「死ぬなよ」
そう言いながら帽子を脱いで、そこから一枚の札を取り出す。”病気平癒守”、これを貼れば
病の苦しみはたちまち薄れ病魔は退散し、身体に刻まれた傷もたちどころに治っていくという
霊験あらかたな守矢神社特性の神徳溢れる逸品だ。……もっとも作った本人には効かないのだから、
第四部の主人公のようだねぇ、と諏訪子は思っている。
それはともかく札を掲げ、体に残った絞りかすのような霊力をありったけ注ぐ。いまだ幽香の
身体に突き立てていた右手をここでようやく抜いた。蓋となっていた腕が外れ、夥しい量の血が
吹き出る。そこに、病気平癒守を貼り付ける諏訪子。即座に暖かな稲穂色を思わせる、薄い
霊力が幽香を包む。胸に開いた大穴が見る見るうちに塞がっていく。驚くべきは諏訪子の力か、
それとも幽香の妖怪としての再生力か。呆れたように溜息をつく諏訪子であるから後者の方
なのだろう。やがて、幽香の形のいい胸が上下しだした。肺も心臓も再生を終えて、本来の
役目を思い出したのだろう。その顔は、意識を失う前の表情そのままに、柔らかな笑み。
「……やれやれ。笑ってるじゃん。これじゃどっちが勝ったんだかわかりゃしないよ」
そう呟く勝者、諏訪子ではあるがこちらも散々である。気力だけで立ってはいるが身体の
あちこちの骨はヒビが入り、内臓もズタズタである。何より幽香を打ち抜いた右腕は、最後の
一撃の威力で元の形を成していない。まさに死力を尽くした戦いであった。
「けど、勝てたのは幽香のおかげだ。すまんね、卑怯な神様だ、私は」
最後の一撃、それをもし避けられていたら? その場合諏訪子は戦いを放棄して、火山の
後処理もせずに守矢の神社までおめおめと逃げ帰っていただろう。そうなれば必然と諏訪子の、
そして守矢神社の悪評が立つことになってしまう。それでも退くしかないほど追い詰められて
いた。だが、諏訪子は相手が幽香なら必ず受けに行くと確信していた。そうであるなら勝てる、
とも。もし受けきられていたのなら……その時はこちらも全力を出し切ったのだ、笑って死のうと
覚悟は決めていたのだが。
とたん、がくりと膝が落ちる。もう身体を支えきる余力もない。ぐらんぐらんする視界を
何とかなだめつつ、帽子から一枚のスペルカードを取り出す。ぱたりと身を横たえゆるゆると
地にその身を沈ませつつ目を閉じて、朦朧とする意識の中宣言した。
”蛙休「オールウェイズ冬眠できます」”。
「ん……」
髪を撫でる優しい感覚。はるか昔、誰かに……例えば母親にしてもらって以来だろうか。
それとも自分に母などいただろうか。それでもその優しさに母性を感じて……ようやく幽香は
その状況の違和感に気付く。ゆっくりと目を開けた。
「おお、起きたか」
視線の先に柔らかな諏訪子の笑顔。それとやや夕焼け色に染まりつつある空がある。首の
後ろには柔らかな感触、どうやら膝枕をされているらしい。それを知って幽香の頬にも少し
ばかりの朱がさす。そしてそこで、当たり前のあることに気付いて幽香は深い溜息をつく。
「……逝けなかった、か」
「そんな悲しいこと言うなよ。私は楽しかったよ?」
幽香の若草色の髪を撫でながら、諏訪子はことさら優しい笑みを向ける。戦いの最中、
諏訪子は気付いてしまった。幽香の加虐心の裏側にある、狂おしいまでの被虐嗜好。無傷の
勝利など幽香は求めてはいない。弾幕にしとどに身体を打たれ、刃や爪であちこちを切り裂かれ、
内臓を深く抉りこまれ全身を傷だらけにして、なおかつ相手にそれ以上の痛みと傷と、なにより
屈辱を与える血みどろの戦いをこそ望んでいる。奇しくも諏訪子もそれにつきあわされたのだが。
幽香がそんな心境に至り、戦いに命を賭すようになったのか。それを完全に理解することは
諏訪子ですら出来ないだろう。だが、戦いに次ぐ戦いで極端に研がれた精神が、戦いの中でしか
生と死を感じられなくなったことを想像することは難くない。
己の再生力を高める奇跡のスペルカードの効果が発揮され、ひとまず五体満足となった諏訪子。
寝息を立てて横たわる幽香の頭を思わず膝に乗せ、髪を撫でていたという次第である。
「で、いつまでこうしてるつもりなの?」
「うーむ。幽香が動けるようになるまで?」
幽香の不満げな声にも笑顔を変えずそう返す諏訪子。しかし、幽香はかまわず頭を持ち上げた。
「だったら、もういいわ」
「つれないなぁ……、って睨むな睨むな。はいはいはいはい」
おどける諏訪子を尻目にすっくと立ち上がる幽香。胸に大穴が開いてるはずだと視線を
おろせば、札が一枚張り付いている。そこからかすかに感じる癒しの霊力に眉をひそめた。
「こんなもんのせいで逝きそこねたのね」
「死んでもらったら困るといったろう?」
諏訪子に視線を送る幽香。その視線には射殺すような光は……無かった。戦いの結果を
しっかりと呑み込むほどには、彼女も歴を重ねた妖怪である。
「……そうね」
気だるげにそう呟くと、札を引っぺがして風に舞わす。ふらふらとした足取りでクレーターの
外周へと向かい始める幽香。
「どこへ……」
「花、見繕わなきゃいけないんでしょ。ここじゃ無理よ」
「あ、あぁ、そうだね」
力ある存在ふたりに元の形も無いほどに蹂躙された大地ではあるが、いまだ毒が抜けきった
わけではない。ここで花を咲かすわけにはいかないのだ。諏訪子も立ち上がり幽香の後を追う。
クレーターのふちまで上り詰め、向かうのは手近な花畑。
「ねえ」
幽香が振り返った。
「今更だけど、何のために花が必要なの?」
本当に今更だった。と、いうのも。
「あれ? 私、言ってなかったっけ?」
諏訪子はどこかで理由を喋っていたつもりであったからだ。さて実際はどうだったか。
「……言われた覚えがないんだけど。いくら戦いの熱狂に呑み込まれたって、半時程度前の事を
忘れるほどバカじゃないわよ」
「ありゃぁ……そうだったか、すまん」
さすがにこれには諏訪子も素直に謝るばかり。ようやくここで本来の目的を口にした。
「うちにさ、早苗って風祝……んーまぁ、巫女みたいな娘がいるんだ、人間のね。その子が
ちょいと風邪をひいちゃってね」
「洒落?」
「は? ……あぁ、いやそりゃ偶然。なるほど、かぜはふりがかぜひきか。旨い事いうね」
「どうでもいいわ、続き」
自分から話の腰を折っておいてとことんつれない幽香。諏訪子も眉を下げた情けない表情で
抗議の意を示すが、幽香の冷たい素振りは変わらない。仕方ないと咳払いを一つして続きを
話そうと口を開こうとした。
「で……」
「その子を見舞うために花を見繕ってもらいに来た、ってそういうことよね」
「そ、お、ちょ」
そこを言おうとした言葉を丸ごと幽香に取られて思わずつんのめる諏訪子。むすっとした
雰囲気で下から幽香に視線を投げる。
「何よ」
「……分かってるんならわざわざ続けさせようとするなよぅ。幽香は性格悪いなぁ」
「あら、その通りよ。今頃気付いて?」
そんなことを言いながら幽香が、ここでようやく花がほころぶ様な笑顔を見せる。会話の
内容がどうであれ初めて平素の時分の笑みを見て、諏訪子も嬉しくなる。
「うんにゃ、最初っから分かってた。再確認しただけ」
「あら、そう。……それじゃ、花を用意するからとっとと帰っていただけるかしら」
一瞥すると、花畑に再度目を向ける幽香。目を閉じ、意識を集中させる。霊力が高まりを
肌で感じる諏訪子。手を前に差し伸べ、幽香が一言、はっきりと声を出す。
「咲き誇れ」
その瞬間、幽香の眼前の大地から爆発するように草花が萌え出でた。季節も植生も関係なく、
色とりどりの花たちが咲き乱れる。薔薇、百合、ラベンダー、蘭、彼岸花、スイートピー、
数多咲き乱れまさに百花繚乱。思わず息を呑む諏訪子。大地の神である彼女自身でも、こうまで
見事に咲かせる事ができるか。その驚きを知ってか知らずか、幽香は目を開き花たちに歩み
寄る。あ、と諏訪子が驚いた。幽香は花たちを手折り、花束を作っている。
それは一見なんでもないような動作。しかし、花を操り花を司る妖怪である幽香が自ら花を
手折るというのは考えられない事だ。それは花の命を奪う事。根から抜くわけではなく、
花を手折るというのはそういうことなのだ。言葉を失った諏訪子を他所に、大きな花束を
朝顔の蔓で纏め上げ、幽香は振り返る。
「これで、いいんでしょう?」
「……悪い、幽香。まさか花をあんた自ら……」
「負けたんだもの、仕方ないわ」
少しばかり寂しそうな、あるいは悔しそうな声が諏訪子の謝罪を遮る。弾幕勝負に限らず、
敗者は勝者の命を聞く。それは幻想郷のルールだ。諏訪子の要求は無茶なものではなかったが
……今の幽香にしてみれば我が子の首を折って殺し勝者に捧げるようなもの。諏訪子もいたたまれない
気持ちになる。が、受け取らないのは侮辱にしかならない。せめてなにか、と諏訪子は一瞬
思案し、少しばかりの返礼を思いついた。
「すまん、幽香。ありがとうと言いたいところだが、渡すのをちょっと待ってくれないか」
「ん?」
山のような花の向こうから怪訝な声。諏訪子は幽香に背を向けると、今しがたまで戦っていた
その場所に歩み寄る。一度大きく深呼吸、肺の中の空気が全部抜けたんではないかと思うほど、
大きく息を吐いた。人を待たせといて何を始めるのかと幽香は思う。無愛想な表情ではあるが
内心興味津々である。その眼前で諏訪子は何かをかき集めるかのように腕を大きく広げ、息を
吸い始めた。
「え」
そこで始まった信じられないような出来事に、気を抜けた声を出し目を真ん丸にして驚く幽香。
諏訪子が徐々に息を吸えば、それに吸い寄せられるように大地から黒い何かが滲み出してくる。
その一角を不毛の大地へと変えてしまった毒。幽香の知り合いである幼い毒人形、『メディスン・
メランコリー』が誤って放出してしまった大量の猛毒だ。
それらが今まさに大地より吸い上げられ、集まり、諏訪子の側へと吸い寄せられている。
諏訪子の鼻先に集結していく毒。丸い形になり、どんどんと濃縮され小さくなり、さながら
牡丹餅、いや、さらに収縮して見た目には真っ黒な飴玉のようなものになっていった。そして
大地から毒気がまっさらに抜けた頃、禍々しい飴玉の前で蛙のようにパンパンに膨れた腹をした
諏訪子が息を吸い終えた。
「ぷは!」
一息吐けば諏訪子の体型が元に戻る、そして。
「あむ。むぐむぐ……」
「え?!」
自由落下してきた毒の飴玉を飲み込む。だたっぴろい土地全てを害する毒をとことんまでに
凝縮したその飴玉の毒性いかばかりか。インド象なら30回殺しておつりが来るだろう。だが、
諏訪子は神である。彼女を毒で殺すなら、この星全ての大地に猛毒を染み込ませなければ無理
ではなかろうか。
「……うぇ。すっごい鈴蘭の味と香りがする」
「な……にを、してる、のよ」
信じられないものを見る目で花束の向こうの幽香。けろっとした顔で諏訪子はこう、答えた。
「へへ、幽香が頼むかも、って言ってたじゃないか。私が生きてるならこの土地を元に戻しても
いいってさ。ついでに言うならわざわざ花を手折ってまでしてくれた、そのお返しさ。これで
あの地にも花が咲く。うんとうんと咲くぞう」
そして快活な笑み。それを受ける幽香は、驚きの色を隠して冷たい顔を作る。ただちょっとだけ
視線を逸らした。
「……あなたが勝手にやったことだから、礼なんて言わないわよ。はい、これ持ってとっとと
出て行きなさい」
「はいはい」
素直じゃないね、と出そうになる言葉も呑み込み幽香から花束を受け取る諏訪子。それは
花束を抱くというか埋もれたというか、幽香との体格の差が顕著に出た。
「それじゃ日も落ちかけてるし、ぼちぼち去ることにするよ」
「そうしてちょうだい」
あいかわらず視線を逸らしたまま、幽香はけだるげな様子である。思わず出そうになる笑いを
こらえつつ、諏訪子はきびすを返そうとして、やめた。
「それじゃ……、っと、あと言うことひとつ、忘れてた」
「何? まだ用があるの?」
「それだけ言ったら帰るからさぁ」
「じゃあとっとと言いなさい。私は早くあなたをここから追い出してゆっくり休みたいの」
うん、と頷く諏訪子。花束に隠れた表情は、思ったより真面目なものだだ。
「幽香、もし、あんたの胎の内が抑えきれなくなったら、うちに、守矢の神社に遊びに来るが
いい。私でよければいつでも相手してあげられるし、そこにはこの私を打ち負かした八坂の神も
いる。んぁ……早苗は虐めちゃだめだよ? 人間だからあんたが本気出したら壊れちゃう。でも、
あの子も花を愛する優しい子だ。話なら合うだろうさ。じゃあ……またな」
そういうと花束にまた顔を埋め、ふわりと空に舞う諏訪子。ばたばたしなくとも、低速で速く
飛ばなければこれくらいは出来る。ゆっくりと持ち上がり、徐々に遠ざかるその姿に、聞こえるか
聞こえないかの声で、幽香。
「……えぇ、気が向いたら、また」
早く去れと願った相手の姿が、遠く空に点と消えるまで、じっと見つめていた。
ばたり、地面に倒れる。
多少の回復をしたとはいえ胸に大穴を開けられたのだ、立っていられたのが不思議なくらい
だった。幽香はまだ身体の奥に残るじんわりとした痛みと、それを遥かに凌駕する疲労に負けて
意識を朦朧とさせている。ぼんやりと思うのは、戦いと、己とのこと。
この幻想郷にしか生きられないのに、この幻想郷では毎日が退屈だった。たまに心焦がす
戦いもあったが、それも幽香の心を戦いの陶酔と痛みから産まれる法悦で焼き尽くすには少し
ばかり足りなかった。スペルカードルールが出来てからはなおのこと。故に幽香はこのまま
ひっそりと朽ちることさえ覚悟したこともあった。だが、ついこの間、この退屈な幻想郷に
来たばかりの神様のなんと強かったこと。そしてその神を負かした更に強い神も、山の神社に
いるという。
そう、退屈だなんて思うのはどうやらまだまだ早計であったようだと幽香は思う。このまま
待っていれば、もっともっと自分を喜ばせてくれる強者が増えるかもしれない。そして身も心も
蕩かし壊す程の戦いが出来るかもしれない。その期待は彼女を生かすのに十分であった。
とりあえず、回復しきって暇を持て余した時、あの山に向かうのも悪くはないかもしれない。
幻想郷もまだまだ捨てたもんじゃないわね、と幽香の心が少しだけ熱を帯びる。その熱の中、
強烈な睡魔が幽香を呑み込んでいった。
大きな花束が大儀そうに、夕焼けに染まる守矢の神社に降り立つ。目的のものを手に入れた
諏訪子だが、寄り道をするなとの約束はとうに破られている。それどころかさんざんっぱら
幽香と殺りあったおかげで服は破れ、身体のあちこちは土とも乾いた血とも判別つかないような
もので汚れ切っている。さて、どう言い訳をしたものかとそう考え出したそこに、
「諏訪子様!」
と早苗の声。そちらを見やれば、神社の縁側に寝巻き姿の早苗がいる。どうやら言い訳の暇も
ないな、と観念して、諏訪子はそちらへと駆け寄る。
「早苗ー。おみやげだよー。寝てなくていいの?」
「はい! もうすっかり。ところで諏訪子様、おみやげってこの花束ですか?」
「うん、そうだよ。ずーっと寝たまんまじゃ寂しかろうと思ってさ。でも無駄になっちゃったかなぁ」
「そんな事ありません! 大事に生けさせていただきますね」
諏訪子から花束を受け取る早苗。大きく息を吸えば、芳しい花の香りが早苗の気分を朗らかに
する。笑みを浮かべつつ、手ぶらになった諏訪子を見てそこで驚いた。
「ありがとうございます諏訪子さ……。……どうなさったんですかその格好!?」
あっちゃあ、と後ろ頭を掻く諏訪子。その様だけ見ればお姉ちゃんに怒られている妹のよう
にも見える。
「えー、あー、うにゃー。……そ、そう、あれだね! 綺麗な花には棘があるって昔からよく言う
けど最近はヴァージョンアップも甚だしいね! もう棘っていうか槍だね槍、しかもドラゴンスレイヤー。
おかげで私もそいつにつまずいて転んじゃってまぁ大変」
何を言い出すのだこの祟り神は。早苗もついじっとりと湿り気を帯びた視線を投げかけそうに
なったが、手にした花束を、自分のためにどうにかして持ってきてくれたことは事実である。
言いたい事は山のようにあるが、嬉しさの方が遥かに上まわった。多少の事柄は不問にしようと
決める。改めて花束をちらりと見れば早苗の知っているありとあらゆる草花が集まっているよう
にも見えた。そして気付く。
「諏訪子様、あのぅ。この花束……春の花も秋の花もありますけど、どうやって?」
「あ、う」
素直に事のあらましを言えば早苗はともかく神奈子にどう言われるか。ついでに懐にしまった
小銭もしっかり取り上げられるであろう。千年以上を生きた神たるものとしての頭脳をフル回転
させて、言い訳を考える。とりあえずいつかは幽香もここに来る事だし、楽しい殺しあいの
部分だけは省いて話したほうが良さそうだと結論付けた。
「あー、それはだね早苗。私が転んでぴーぴー泣いてたらだね、優しい妖怪さんがやってきてだね、
私の代わりに花を用意してくれた、そういうことだね」
「はぁ」
狼狽する諏訪子の様子を見れば、言葉のとおりではないことは早苗もお見通しである。が、
しかし一度不問にしているから、これ以上妙な追求をする事は諦めた。
「じゃあいつかその妖怪さんにお返しを用意してあげなくてはいけませんね」
「あ、あぁうん。そうだね」
微笑む早苗にちょっとだけ微妙ながらも同じく微笑んで返す諏訪子。これ以上何か言われては
たまらんと、諏訪子から話を切り出した。
「それはさておきお腹すいたよ! 早苗ー、ご飯は?」
「え、あぁ……はい。神奈子様が、ご用意していただいてると、多分」
微妙に煮え切らない顔をされた。どうやらその分では粥しかねーな、などと心中悪態をつきつつ
靴を脱ぎ縁側に飛び上がる諏訪子。
「そんじゃ飯にしようかねぇ」
「その前に諏訪子様、お風呂に入ったほうが……」
「おお。じゃあそうさせてもらうねぇ」
「はい、私はお花を生けてから、食卓に向かいます。ほんとに諏訪子様、こんな素晴らしいお花、
ありがとうございます」
ぺこ、と小さくお辞儀をして自室に向かう早苗。諏訪子はその背を見やってから風呂場に
向かおうとし、足を止めた。見上げる空を赤く染め上げて、大きな夕日が沈んでいる。この
空の下、今日死力を尽くして闘りあった相手がいる。元気を取り戻せばここにも足を運ぶ
だろうか。そうでなければまた遊びに行ってもいい……きっとめんどくさそうな、無愛想な顔で
出迎えてくれるだろうけど。
「……また、遊ぼうな」
遙か太陽の畑にいる強敵(とも)にそう語りかける、諏訪子の心に宿っていた退屈の虫も
いつのまにか、どこかに消し飛んでいた。花咲く彼女の心もそうであれと願いながら、諏訪子は
落ちる夕日をしばし眺めるのであった。
諏訪子の足が止まる。もちろん幽香の狂ったような哄笑のせいもある。だが、なにより、この
瞬間一気に幽香から馬鹿げた霊力が溢れ出したからだ。ゆっくりと、もどかしいほどゆっくりと
起き上がる幽香。その顔に浮かぶ喜悦の笑み。相手の精神を壊したかという心配より、そこらの
神など問題にしないほど膨大で暴力的な霊力に、諏訪子は顔をしかめる。
「あは! あはははは! あははははははははははははははは!! あぁ、あはは、あぁ……ああ。
はははは、あぁははは! あ、あはは……。……あぁ」
ひとしきり狂ったように笑って天を仰ぎ、幽香はまるで夢心地といった蕩けるような顔。潤んだ
瞳から一筋の、朝露のような涙粒を落として誰に言うでもなく、ひとつ。
「……痛かったぁ」
その言葉は、まるで甘くて美味しいケーキを食べた乙女のように紡がれる。
ぬるりと幽香が諏訪子に視線を泳がす。ズタボロであっても、その笑みはあまりに妖艶で、だから
こそ諏訪子は相手から目を背ける事ができない。交じり合う視線。嫣然と笑う幽香の唇から、声。
「ありがと。久しぶりよ。ただ、殴られて、こんなに痛いって感じたの。思わずイケるかも、って
感じちゃった。はは、ふふふ。こんな感覚、思い出させてくれて、ありがと」
「……そりゃ、どうも」
軽口を返すのが諏訪子には精一杯だ。さっきから延々と危険を知らせる警報が頭の中で鳴り
響いている。今まで目の前の妖怪を、多少強いといっても神に敵うはずもない、とたかをくくって
いた。しかし今幽香から発せられる霊力は普通の妖怪とは桁が違い過ぎた。
さらに蕩けたような幽香の表情が視界に入るたび、背筋にツララを突っ込まれたような悪寒が
走る。ただの戦闘狂だと思い込んでいたのは間違いだった。そんなものよりもっと拙い相手だと
今更になって気付く。
”眠れる獣が目を覚ました”、そう諏訪子は確信した。
「あは、脚も、腕も……全部、痛い。素敵」
惚けたように呟き、傍らに放り捨ててあった傘をふらふらしながら拾う幽香。それを見据える
諏訪子の額を嫌な汗がつたう。しかしいったん勝負を始めた以上、そう簡単に引き下がるわけ
にはいかない。意を決して、鉄の輪を具現化させる。
「せぁっ!!」
掛け声上げて、一つ。更にタイミングをずらして一つ、追加でもう一つ。最初の鉄の輪は
頭めがけて襲いかかる。それをぼんやりと見つめつつも左腕で顔をかばう幽香。その腕半ばまで、
鉄の輪が食い込んだ。もはや鈍器ではない。外周は鋭い刃と化していた。二つめは振られた傘に
当たりあらぬ方向へと飛ばされる。三つめは外気に曝された左足を切り裂きながら飛んでいった。
「痛っ……」
顔を歪め体を折りながら身悶えする幽香。しかし苦悶と同等の悦楽を諏訪子は表情に見て取る。
思ったとおりだ、こいつは間違いない。痛みが意味を成さないとなると、トップクラスにヤバい
相手と殺りあってるもんだ、とぞっとする。それを裏付けるように、傷を眺めた幽香が諏訪子に
向き直り放った言葉は、
「……これでもう終わり? だめよ。これくらいじゃぁ……イけないわ」
と、常軌を逸したものだった。
腕から刃のリングを引き抜く。一瞬血が溢れかえるが、それは爆発的に増した霊力のおかげか、
次第に傷口がふさがっていく。そんなことなど気にもせず、恋する相手を見つめるような瞳で、
幽香は諏訪子に話しかけてくる。言葉の棘すら消えたのは、痛みの熱のせいか。
「ねぇ、祟り神さま。もしかするとさ、あなた……」
諏訪子は身じろぎ一つできない。蛇に睨まれた蛙? 相手は花だ、だが動けない。そこに向けて
幽香は微笑む。もしかするとある意味において、幽香は諏訪子を”見て”すらいないのかも
しれない。ゆらゆらと揺らめく視線。
「本当の痛みなんて、知らないんじゃなくて?」
「え?」
「じゃあ、教えてあげるわ!」
諏訪子に戸惑う暇もあらばこそ、広げた日傘が諏訪子に向けられる。それに応じて諏訪子は
地中へと潜行しようとした。今の幽香に極太ビームを放たれれば神ですら消し潰される。回避は
当然の選択。だが、しかし。
「ふえっ!?」
襟の後ろを木の枝に引っ掛けたかのように諏訪子の体がつんのめる。なに、と後ろを見れば、
今まさにビームを放とうとしていたはずの幽香が嬉しそうに襟首を掴んでいた。と、視線が
いきなりぐちゃぐちゃに掻き混ぜられた。気付けば諏訪子の体は宙に舞わされていた。真上に
高く放り投げられた、と理解した諏訪子が何とか体勢を立て直そうとして、その視界にあり得る
はずのないものが。今自分を投げたはずの幽香が、上空で待ち構えていた。
「そォらぁっ!!」
「はぐぅ!」
思いっきりの海老反りから、その反動を生かしたハンマーパンチを諏訪子に叩きつける空の幽香。
背中あたりにもろに食らって、血を吐きつつ諏訪子は地面へと一直線。衝撃に明滅する視界に、
あるものを確認して背筋が凍りついた。急いで鉄の輪を具現化し霊力を注ぐ。武器にするわけでは
なく、盾とするため。諏訪子の視線に、どんどん近づいてくるのは地上の幽香。思いっきり体を
ひねり殴り飛ばす構えを取っている!
「死ぃ、ねぇっ!!」
荒ぶる言霊とともに、空を切り裂く拳。衝突音とともに吹き飛ばされる諏訪子。
「うっ!? わぁっ!! ……らーぁっ! ばっ!!」
珍妙な叫び声をあげながらまるで鞠のように地面を跳ねる。数度のバウンドの後ごろごろと
地面を転がってからようやく動きを止める諏訪子の身体。倒れ付しながら諏訪子は己の状態を
何とか把握しようと努める。
手にした鉄の輪は原形をとどめないほどに破壊されている。脚と手に力が入らない。地下に
逃げるかと一瞬考えるが、すぐにそれを打ち消す。相手は一瞬で地から空へと姿を現す何がしか
の技を持っていた。うかつにゆるゆる地面へ潜ろうとすれば、間合いを詰められ傘で突き
殺される可能性は大きい。一瞬でよくここまで考えられたな、などと考えつつ、諏訪子は霊力を
集め回復に徹することを決めた。……それくらいしやれそうなことがないからではあるが。
じんわりと柔らかな霊力が総身に回るより早く、視界が上に持ち上げられる。先のように
首根っこを掴まれて無理やり引き起こされたのだ。その手の主は幽香なのだろう。だが、
諏訪子のぼんやりとした視線の先に、ゆるりと歩いているその姿もまた幽香なのは……?
「どう、祟り神さま? 分身ができるのは別にあなただけじゃないのよ?」
甘く切ない息とともに、幽香の声が諏訪子の耳朶を舐めるように紡がれる。神のように分霊が
できるわけではない。純粋な霊力に己の因子を注ぎ込んで創り出した正真正銘の分身術である。
真っ向からぶちのめすのが幽香のスタイルではあるが、小細工できないほど不器用でもなわけ
でもない。それを見せ付けた幽香だが。
「でも、やっぱりだめね。分身なんか使うのは」
己の力を否定するものであった。何故か?
「殴る力も感触も半分なんだもの。こんなんじゃ気持ちよくなれないわ」
ふぅ、と幽香の憂いの溜息を首筋に受けて、諏訪子。冗談じゃない、今ので半分の力だと、
ぞっとする。受肉した神の難儀なところ、腕にも肋骨にもヒビが入っているように感じる。
尋常じゃない痛みが全身を駆け巡っている。それはつまり精神生命体である”神”において、
”存在そのもの”に大きな欠損が加わっているというサインに他ならない。幽香が洒落でも
なんでもなく、神殺しとなれそうだ。
その幽香が空いた手で指をひと弾きすれば、諏訪子を嘲笑いながら分身が掻き消える。本人に
全ての力が戻る。諏訪子が身をよじるが、幽香の拘束を逃れることは到底できそうにない。
「ふふ、ごめんなさいね、祟り神さま。本当の痛みを教えてやると言っといて半分程度の力で
殴っちゃったわ。だから今度こそ……思いっきり痛くシてあげるわ」
これから己の手で行う残酷無比な所業を想像し、蕩けたような法悦の美貌で辺りを見回す幽香。
やがて目当てのものを見つけたらしく、唇の笑みを更に吊り上げて歩き始める。その手にぶら下げ
られている諏訪子は、幽香が何を見つけたかがおおよそ理解できた。
最初に放ったやつか、それともだいだらぼっちの拳だったか。ともかくそこには崩れた岩の
残骸がある。その一部は、まるで尖った杭の先端か、あるいは槍の穂先のように鋭い先端を
天に向けている。
「百舌のはやにえって知ってるかしら……。なんて、神さまですもの。聞くまでもないかしらね」
幽香の嬉しそうな声を背中に受けて諏訪子。今から幽香が何をしようとしているのか、それも
理解できた。
「まぁ、それよりもちょっと痛いかもしれないわ。そう、私は今からあなたをあの岩で串刺しに
しようと思ってるわ。どんな滑稽な死に様を見せてくれるのかしら? 楽しみですわ」
恐ろしいことを陶然とした顔で告げる幽香。その脳裏にはどてっぱらを岩に貫かれた諏訪子の
姿でも浮かんでいるのか。あるいは、そう、幽香の膂力ならその程度で済みはすまい。辺り
一面に広がった真っ赤な肉入りスープ、そんなものを想像しているのか。その狂気の思考が
もたらした熱が幽香が吐く息に混ざる。うなじあたりでそれを感じる諏訪子。哀れな犠牲者に
なる予定の諏訪子、俯いて思うのは。
しめた!! 詰めが甘い妖怪だねぇ。
いったい何がしめた!! なのか?
尖ってようが何だろうが地面に接した岩はもちろん大地の一部。透過するのは容易い。故に
幽香の目論見は儚くも失敗するだろう。更に諏訪子は幽香の力さえ利用しようとしている。
全力で投げ飛ばされつつ大地を透過する力を使えば、その勢いのまま地中深くまで移動する
ことができるだろう。そうすれば体力を回復させる時間も、相手を倒す手段を考える時間も稼ぐ
ことができる。だから諦めたふりをしつつされるがままに幽香の行動に身をゆだねた。
「さ、イきなさい。……そォら!!」
諏訪子の視界が思いっきり加速する。振りかぶられて、ほんの少しの溜め。先ほどとは景色が
逆再生するのと同時に、己が体を大地に溶け込ます秘術を発動させる。
ざまぁみろだ、妖怪。そう心の中で笑う諏訪子の腹に、鈍く重い何かが思いっきり突き立った。
「……!? っばぁっ!!」
諏訪子の口から、大量の血反吐。地面と幽香の身体を、赤く染める。
「ばぁか」
諏訪子の腹に突き刺さったもの。それは岩なんかではない。幽香の渾身の膝蹴りである。
地面に逃げ込むつもりの諏訪子は、地面でない幽香の膝をまともに食らったことになる。それは
嘲りの笑みを浮かべる幽香の目論見通りであった。
岩に叩きつけるという事を強調したのは、油断を誘うため。地行術は散々目にしてきた。
それが岩にもそれは通用するだろうと目測を付けていた幽香。隠しとおせれば、攻撃のチャンスは
できるとも。だが、なによりも。岩に叩きつけたところで幽香自身はその感触を楽しむことは
できない。それなら己の体の一部である、岩よりもえげつない凶器である膝をブチ込んだほうが
よほど爽快だ。効果的な打撃を与えるよりも、むしろその嗜虐心を満たすがための策であった
といえるだろう。
膝の上で体をくの字に折り、真っ赤な液体を口から吐き出す諏訪子を見て、今日一番心底から
嬉しそうな幽香。強烈な衝撃は、膝から幽香の体の芯に甘い快楽となって伝わっている。衝撃と
いえば諏訪子である。完全に無防備なところに幽香の鬼畜な一撃。小さな体に収まった内臓、
という”神を構成するもの”がぐちゃぐちゃに潰されている。殺される、比喩でなく、痛みに
焼け付く諏訪子の思考にその言葉が走る。……今の諏訪子には体を小さく痙攣させるくらいの
ことしかできないのだが。
諏訪子の半ば破れた襟首を離し、右脇に手を差し込んで持ち上げる幽香。喜色に満ちた
妖怪と苦悶に満ちた神様の顔がすぐ近くで向かい合う。にこりと微笑む幽香に、諏訪子は眉を
歪めて、血混じりの咳で応える。
「祟り神さま、よかった?」
「……」
その言葉に返事すらできない。苦しい息の下辛うじて首をもたげ、憎々しげに睨み付けるのが
やっとだ。それを見て、幽香の顔に艶が増す。
「あら、素敵な顔。祟り神さまにそんな表情されたってだけで、ちょっとキちゃいそう。あはは、
まぁ、いいわ」
ぐっ、と幽香の腕に力が入る。
「さ、もう一回ぁぃっ! ……それで、最期よ」
諏訪子の体が軽々と、供物のように天へと掲げられた。
さて、どう叩きつけるかと思考を回転させる幽香であったが、そこに違和感。幽香は怪訝な
顔を上げた。逆さまにされた諏訪子は手足をばたつかせ必死で抵抗している。そのもがく滑稽さを、
それを無駄に終わらせ絶望とともに蹴り潰す想像を、危なく燃える心の火のまま幽香は楽しもう
とした。
が、思わず幽香は己の目を疑う。じたばたしていた諏訪子が大きく息を吸い込むや、ぷうっと
その腹が妊婦のように大きく膨らんだ。そこに妙な霊力が溜まっている。しまったとばかりに
幽香は腕を動かそうとした。だが、それより早く諏訪子の口から噴き出される何か。人間の拳大の
水滴弾。幽香の顔面目掛けて6発、避けきれる距離ではないから全てがブチ当たる。高速の
ジャブのような打撃をもろに食らえば、幽香とて平気な顔でいられない。
諏訪子を拘束していた手の力が緩ほんの少しだけ緩む。しめたとばかりに諏訪子はその手を
蹴飛ばして、一目散に拘束から逃げ出す。地表に降り立った諏訪子は即座に地中へと潜り込む。
その姿を幽香は目視することができない。今、彼女の視界は赤一色に染まっているからだ。
頭頂部からべっとりと顔を覆う液体を億劫そうにぬぐい去る幽香。
「……この期に及んで小賢しいマネをしてくれるじゃない」
忌々しげに呟く幽香。怪我を負ったせいで流れた血ではない。その血は幽香のものですらない。
諏訪子が体内で己の血と僅かばかりの祟りとを混ぜ合わせた水滴弾のせいである。ダメージよりも
逃げるための目くらましに使ったのだ。
幽香一人だけ立つ戦場に秋風が吹く。
「まぁ、いいわ」
ほんの少し唇の端を歪め、幽香がふわりと宙に舞った。戦っていた穢れた大地が視界に入る程に
上昇を続ける。そして手に掲げていた傘を、普通とは逆、地面に向かって花開かせた。
その一方、逃げ出した諏訪子は一目散に地中深く潜行していた。痛みを気にしていられる状況
ではない。今は何より早くあの危険すぎる相手から距離を取るべきだと本能が告げている。
色々と策を講じて幽香を痛めつけた諏訪子。しかしたった二発の拳で優位性は無と化し、その
後の膝蹴りで受けたダメージが遥かに上回った。
深い海に潜るように地中をどこまでも下に向けて進む諏訪子。そのうなじが、何故かちりりと
焼けるような感覚に襲われる。馬鹿げた霊力を背後に感じたのは、そのすぐ後であった。
「はああああああああああ!!」
諏訪子の頭上数十メートルは、閃光と衝撃に満ちた地獄である。幽香は己の真下に向かって、
代名詞ともいえる超特大レーザーを放っている。それも今まで見せたことがないような、普通なら
誰しもが避けることもできないものだ。何しろその直径は、今しがた戦っていた穢れた土地、
50数メートルにほぼ等しいのだから。範囲が広いだけが問題ではない。圧倒的な破壊力は大地を
掘り進み削り取っていく。諏訪子がどこにいようと、どこまで深く逃げようとこれでは餌食に
なるしかないだろう。
十秒ほどしてようやく幽香はレーザーの放出をやめた。たったそれだけの短い時間で、地面には
隕石が直撃したようなクレーターが出来ている。すり鉢状の地面からは、大地の苦悶を思わせる
くすぶった煙が立ち昇っていた。その縁に幽香はゆるりと降り立ち、そこから静々と、底に
向かって歩を進める。焼け焦げた大地を踏みしめ、目指すのはクレーターの中央。目を凝らせば
そこに小さな黒焦げた何かがあるのが分かる。近づくにつれ、幽香にもそれが人間の形をしている
と認識できた。
やがてクレーターの中央。幽香の歩が止まる。足元には諏訪子の形をしている、真っ黒な炭。
冷ややかな視線を送る幽香。一拍おいて、幽香がそれを潰すかの如く、大きく一歩踏み出した。
斬っ!
刹那、幽香の背中を切り裂く感触。焦げた大地に血の花が咲く。
「やはりね」
背中を走る痛みもあろうに、幽香は淡々と言葉を紡ぐ。
「あの程度で、くたばるとは思えなかったもの」
振り返る先には、諏訪子がいた。地面に半ば以上めり込む、その径幽香の背の二倍はあろう
巨大な鉄の輪の刃の向こうに。
ビームで追撃されたと感づいた諏訪子。必死で逃げながら中核にダミーを残してつつ、複数の
岩盤を盾代わりとする。その思惑は何とか紙一重で成功した。そうやって生き延びた諏訪子は、
佇む幽香の背後から一撃を繰り出したのだ。誤算はそれを避けられたことだけ。切り裂かれた
幽香の傷は、徐々に再生し始めている。
「よく、避けれたね。後ろから襲い掛かるのはゲスの仕業だからと知ってたからかい?」
凍れる表情で幽香を睨みつける諏訪子。視線の先の幽香は対照的に、この血腥い殺伐とした
戦場には似つかわしくない柔らかな笑みを浮かべた。
「いいえ……。あれだけの殺気、気付かないわけないわ。それだけ」
「ふむ、そうか。つい本気を出しちまったか……いや」
幽香が前に避けなければ、そのまま縦に真っ二つになっていたのだろう。この戦いで始めて
諏訪子は明確な殺意を見せた。それが幽香の体を反射的に動かしたのだ。そのことに思い
当たって、諏訪子は真剣な表情で、幽香に語りかける。
「風見幽香」
はじめてまともに名を呼ぶ。そこに少しの敬意を込めて。
「なにかしら。洩矢諏訪子」
幽香も名を呼ぶ。対等な立場であると認識させるように。
「一つだけ謝らせてくれ。最初から本気を出さなかったことを。すまん」
「へえ……。まぁ今更だけれど。で? 謝るから、どうしたいの?」
笑みのまま、幽香の雰囲気が剣呑なものになる。返答次第では即座に叩き殺すつもりだ。その
諏訪子の返答は……。
「次の攻撃で、お前を倒す。完膚なきまでに倒す。腕がブチ曲がろうが足がへし折れようが構わない
……今出せる私の100%をお前に、風見幽香に叩き込む」
諏訪子の瞳に宿る澄んだ光。一切の逡巡も躊躇いも捨てた覚悟の光。幽香は澱みなき清流を
そこに見た気がした。自然と笑みがほころぶ。”神”、それが己を倒すべき敵と認識している
のだ。嬉しくてたまらないが、やはり幽香はそこで軽口を叩くことを選ぶ。
「ふん、殴る前にそういう御託を並べるやつはね、たいてい負けるものよ。でもいいわ。ヤって
みなさいよ、その100%とやらを。それを完璧に受け切ってからお前をミンチ肉みたいに磨り潰して
あげるわ、洩矢諏訪子」
「……行かせてもらうよ」
「とっととかかってきなさい」
対峙する二人の間に風が巻き起こる。大地の気を集めた諏訪子の霊力が、空すら震わせて
いるのだ。でかいのがくる、と幽香。心中が今までになく熱くなるのを感じる。ぺろりと乾いた
唇を舐める幽香の眼前で、諏訪子が複雑な印を組みはじめる。
「”招”ゥッ!」
諏訪子の一声で、邪悪な霊力を足の下から感じる幽香。見渡す大地一面に、どす黒い祟りが
満ちていく。それでも幽香は何事も起きてないかのごとく、傘を差し突っ立っている。そして
諏訪子は印を結び切る。
「”来”ィッ!!」
どん、と霊力が爆ぜる感覚を知ったかどうか、その瞬間に幽香の体は遥か高くに持ち上げ
られていた。めちゃくちゃに揺れる視界は当てにならずとも、脚に突き立つ二つの焼ける
痛みに、攻撃されたことを知る。壮絶な笑みの弧を作り、振り回されている己の身体を制御
する。左の脚に喰らいつく巨大な白い影が見えた。そこ目掛けて傘の先端を思いっきり
突き立てる。真ん中ほどまでずぶりとめり込んだ。
耳障りな声を上げ、幽香の脚を開放するのは真っ白な蛇の形をしたもの。それこそが諏訪子が
束ねる”ミシャグジさま”。司る数多の業を軽んずる者にありとあらゆる難を、苦痛を与え、
あるいは即座に死を与える存在。形無き神ではあるが、諏訪子の力によって受肉し、白い蛇の
姿となって諏訪子の敵、幽香に襲い来る。迅速なる死を与えるために。
死、そのもの、それを知って、だからこそ幽香は笑いながら真っ向からそれを貫き、地面
目掛けて蹴り落とす。死を恐れぬかのように。見下す先で、もがきながら下へ落ちていく白い蛇。
幽香は突如身体を捻り左の肘を空に抉りこむ。ぐしゃり、潰れる音がして真後ろに吹き飛ぶ
別の一体。
「うっとぉしいわねぇ!」
耳元まで避けるような笑みを浮かべ、幽香は更に回転しながら傘を振るう。その先には
すさまじい勢いで体当たりを敢行する真新しい白蛇の姿。そこに右袈裟一閃、空を震わす
衝撃音。勢いをそれで殺され、しかし耐える素振りの白蛇の顔面目掛けて、幽香の左掌から
放たれるゼロ距離からの霊力の弾の雨。顔面を穴だらけにした三体目はそれで沈黙する、が。
「っく!!」
傘を掴んだ右腕を、後ろから噛み付かれる。四体目は先達の犠牲を無駄にすまいと果敢な
攻撃を行った。腕にがっちりと喰らいこむ牙の感触が、甘い痛みとなって幽香の脊髄を走る。
だが、恍惚感を一瞬で消し飛ばし、幽香は左手の拳を数発、遠慮も何もなしに蛇の横っ面に
叩き込んだ。たまらず口を離すそこに、とどめの強烈な左フック。無残に吹き飛ぶミシャグジ
さまを見る幽香はしかし小さく舌打ちをする。お気に入りの傘をそのまま地表へと持ってかれた。
少しばかり気落ちをしたように見える幽香。そこへ後ろから襲い掛かる新手。大口を広げ
飲み込もうと迫る。間一髪、それを察知して幽香は上方へと身を翻す。被害はスカートの布地を
少し奪われただけ。そのまま襲い掛かってきたミシャグジさまの胴に着地し、一気に駆ける。
「……っはァ!」
一瞬に迫る、更なる敵。その胴体目掛けて飛び蹴りを浴びせる。強襲に怯んで身を捩る、そこに
向かってレーザーを放とうとした、その時!
「っ!?」
幽香の視界を闇が支配する。それどころか身体も何かに押し潰された。柔らかさ、熱さ、湿気、
それらを鑑みれば、口内に飲み込まれたと察することは簡単だ。倒し漏らしたやつの仕業か。
「く……ッ」
悪態をつきながら、幽香は蠢く舌を思いっきり踏んづける。
「いい気になるんじゃないわよ、あァん?」
上下に押し付けられる圧力に、脚と腕、そして背中の力で無理やり対抗する。人が膝立ち
できるくらいの空間をなんとかこじ開けた。幽香が暴れるにはそれだけあれば、十分。
体よく幽香を飲み込んだミシャグジさまであったが、突如その顔が上に跳ね上がる。かと
思えば横に、あるいは滅茶苦茶に揺さぶられる。口内で爆弾が爆発でもしているかのようだ。
それともそちらのほうがまだマシか。身体の内から、爆弾よりなお破壊的な幽香のアッパーやら
肘鉄やら、あるいはストンピングをぶち込まれているのだから。
打撃の炸裂が数回続き、そして何の前触れもなく口が大きく開く……いや、こじ開けられた。
ミシャグジさまの口内から出て一つ深呼吸をする幽香。振り向くその先には、痙攣したまま白蛇の
顔が未練たらしそうに宙にある。そこに向けて幽香は飛び切りの笑顔を向けた。その笑みのまま
思いっきり拳を振りかぶる。
「くったばぁれっ」
可愛く甘ったるくそう言って、弧を描いて拳が振り下ろされた。酷い破砕音が響き、哀れな
ミシャグジさまは地面に一直線に落ちていった。その行き先も追わず、幽香はいまだ地上に
いるであろう諏訪子を視界に求める。地上、はるかな足元に諏訪子はしゃがみこんでいる。この
程度の攻撃で自らを満足させようとしたのか、などと一瞬で煮える心中。怒号が口をつこうとした。
「この……っ!?」
一瞬で両足を襲う激痛。後ろから二体同時に脚に喰らいつかれた。それを確認する間もなく、
襲い掛かる影。右裏拳を放つが、下半身の動きを殺されているせいで空を切る。その振り切った
右手に白蛇の牙が上下から突き立てられた。
「……は、やるじゃないっ!!」
脂汗を浮かべて、唯一残った左腕で拳を放とうとした幽香。そのせいか、青空を切り裂いて
一直線に向かってくる影に反応するのが遅れた。
「かはっ!?」
ただ単純な幽香の身体への体当たり、しかし巨大な質量が幽香の臓器を押し潰す。その苦痛に
動きが止まる幽香。そこを逃さぬ連続攻撃。左腕に思い切り喰らいついた。
……幽香の四肢の自由は完全に失われた。噛み付かれた部分がひどく熱いと幽香。鼻腔をつく
のは己の血の香り。戦いに燃え盛る炎に煮詰められた、痛みを与え与えられる快楽が心の裡で
泡立っている。その法悦に一瞬我を忘れそうになる幽香だが、四肢を引かれる感覚に気付いた。
四体のミシャグジさまは祟りを恐れぬ不埒な妖怪を許さないらしい。ぐいぐいと幽香の腕を、
脚を引いていく。それはまさに西洋の処刑方、四裂きの刑。噛み付かれた傷が徐々に広がり、
筋肉のそこここから断ち切れそうな悲鳴が上がる。絶体絶命。
だが、幽香の笑みの弧はいっそう吊り上り、鬼神すら恐れをなすようなものに変わる。この期に
及んで何か策があるとでもいうのか。一度目を閉じ、そしておもむろに力を込めた。身体から
引き剥がされようとしていた右腕が主を思い出したかの如く、じり、じりりと引き戻されていく。
傷口が開くのも厭わずに、だ。やがて右腕は幽香の胸の辺りに引き寄せられた。だが、そこから
どうするというのだろうか。
「私を殺したいならね」
目をかっ、と見開く幽香。そこに宿る狂気的な光。
「……腕と足奪った程度で終わったなんて思わないことよ!!」
そう叫んで幽香は、ミシャグジさまの頭に思い切り噛み付いた。ぞぶり、と歯が食い込む
感触。目には目を、歯には歯を。本来の意味と違うのか違わないのか、それはさておき加害者に
全く同じ方法で反撃する被害者。その強烈な噛み付きに、幽香の腕を咥えたまま苦悶に身を
よじるミシャグジさま。腕に食い込んだ牙はその噛み傷を大きく広げることになる。それも
お構いなしに幽香はその歯を更に深く深く食い込ませていく。
やがて、鈍く引き裂く音がして白蛇の顔を喰いちぎった。不味そうにそれを吐き出し、もう
一度。傷口を狙って噛み付き引き千切る。その苛烈さに音を上げたミシャグジさま。左腕から
牙を抜いて幽香から離れた。すかさずそこに花びら型の弾幕を一気に放出する幽香。その花弁は
剃刀のように総身を切り刻む。墜落していく姿を見もせず、幽香は左腕に齧りついた敵の顔を
無理矢理に引き寄せた。
「はぁッ!!」
気合一閃、右の貫手がミシャグジさまの目をブチ抜く。その体内を混ぜ握り潰しつつ腕から
引き剥がす。両手が自由になればもはや幽香の暴虐は留めるものがいるだろうか。嗜虐的な
笑みにいっそう艶が増す。左足を持ち上げ、近づいたミシャグジさまの頭に両の手を組んだ
ハンマーパンチをお見舞いする。一度で離れないと知るや、二度、三度。原形を留めない姿の
ミシャグジさまが、力を失って落ちていく。
残った一体にゆっくりと手を伸ばす幽香。その顎に手をかける。閉じた口を強引に引き剥がし、
そのまま一気に引き裂いた。胴の半ばまで傷を広げたところで、興味を無くしたかのごとく放り
捨てた。
それが最後の一体だったのだろう、襲い掛かる影はない。だが、今までの攻撃で幽香の四肢
には酷い噛み傷が残っている。それらはいかな幽香の再生力をもってしても容易に塞がる気配が
ない。祟りによって霊力を蝕まれているからだ。だくだくと血が流れ落ちるのを見やる幽香。
それは彼女に無上の秘すべき快楽を送り続けているはずなのに、その顔には冷たい色しか浮かんで
いない。一度、噛み傷に目をやって、地面を見下ろした。ふと、小さな呟きが口から漏れる。
「……これだけ?」
そこにはありありと不満の意思が込められている。眼下の諏訪子はいまだ動く気配はない。
血で血を洗う殴り合いを求めた幽香の腹の底、溜まった鬱屈とした想いは、マグマのように
熱を持って喉を上がっていく。眉間に皺を寄せ、怒りをブチ撒ける。
「こ……ンなものか!! この程度か洩矢諏訪子ォォォ!!」
「いいや」
天を見上げて諏訪子は小さく呟いた。その顔にどこか危険な笑みを認めて、幽香もまた頬が
あがるのを知る。諏訪子の更なる攻撃を、それ諸共潰すため拳を握り締め急降下しようとする
幽香。
諏訪子は、必死の一撃を放てる状態を確認して、もう一度小さく呟く。
「行くよ、風見幽香」
諏訪子の影が、爆ぜるように、いや文字通り、爆ぜて舞い上がる。
迎え撃つ幽香の視界が、急激に鈍化する。極限の一線に、精神が肉体を凌駕したのだ。諏訪子の
一撃が幽香をそれほどまでに追い詰める、その証明でもある。油の中を泳ぐように、緩慢な世界。
視線の先の諏訪子はぐんぐんと近づいている。突き出した右拳は硬く握られ、鉄のような光沢を
帯びている。諏訪子本人は、岩のようなものに乗っているようにも見える。その背後では黒い
煙か雲のような物が爆発的に広がっていた。そして肌を焦がすような熱気。
何が起きているのかを完全に知ることはできそうにない。それは一瞬で近づいてくる諏訪子の
攻撃を受け切ってから考えればいい、そう思いながら、イライラするほど動かない腕でガードを
固める。膂力だけで言えば幻想郷でもトップクラス、その彼女がガードを固めれば、それだけで
鉄壁の防御といえた。
鈍い音が響き、鉄壁がいとも簡単にへし折れる。幽香の腕を叩き折りつつ、ガードをこじ開けて
迫ってくる諏訪子の黒い握り拳。幽香は悟る。確かに全力の一撃だ。防御する術もない。拳が
幽香の鳩尾目掛けて突き進んでいく。
幽香の背筋を、電流のように、倒錯的で喜悦に満ちた、一つの予感が駆け抜ける。その一瞬で
拳が肉体に到達する感触。安らかとさえいえる笑みを浮かべ、幽香は思う。
――あぁ、これなら、逝けるわ。
体内で肉と骨と臓器が完膚なきまでに破壊される音を最後に、幽香は意識を闇の中へと
手放した。
轟く爆音と共に空へと飛んだ諏訪子。それは小規模ながら、破壊的な自然現象。”火山の噴火”
である。諏訪子の能力により集められたマグマは足場の岩ごと天へと吹き飛ばした。大地の
怒りを火山弾として、その勢いで幽香へ突貫したのだ。突き出す腕は、集めた砂鉄を固めて
文字通りの鉄拳と化した。暴力的な一撃の威力を増し、また拳を守る篭手である。
その拳は今、無茶苦茶に折れ曲がりつつも幽香の鳩尾を貫いている。朱に染まる身体を横に
傾げ、足場の岩から幽香の身体諸共身を投げる。右手を埋めたまましっかりと抱きしめるように
して、落ちていく。見据える大地には、赤黒い溶岩と噴煙を吐き続ける孔、ひとつ。
「……証拠、隠っ滅っ」
落ちながらも自由な左手で印を切り結ぶ。噴火口に向けて突き出された掌から霊力が滝の
様に落ちていく。それが地面へと到達すれば、少しばかり地面が蠢き、火を噴く孔は幻の様に
消え去った。熱を放つどろどろとした溶岩も水を浴びせかけられたように一瞬で冷えて固まる。
坤、すなわち大地を操る神のみに出来る荒業であった。
そうこうする間にも地面は近づいてくる。しかしそれでも更に諏訪子は印を打つ。
「水よ、満たせ!!」
人差し指を招くように上げれば、幽香が抉り抜いたすり鉢状のクレーターをあっという間に
水が浸食し、池を作り出す。それを確認して、諏訪子は思いっきり左手をばたばたし始めた。
いささか不恰好ではあるが、大地を司る神ゆえに空を舞うのは苦手である。その苦手を
なんとかかんとか、無茶も大概な体勢で必死に行う。かき抱いた幽香を叩きつけるわけには
いかないからだ。
そして、着水。盛大な水柱を残して水中に没する二つの影。その衝撃を気にするでもなく、
諏訪子は指を下に向け、
「水よ、退け」
と命じる。もちろん諏訪子が水中で窒息するような事はない。諏訪子の意のままに、水は
地面へと吸収されていった。噴火も池も嘘のように、乾いた大地にそっと幽香を横たわらせる
諏訪子。その身体からはゆるゆると温かみが消えていく。
「死ぬなよ」
そう言いながら帽子を脱いで、そこから一枚の札を取り出す。”病気平癒守”、これを貼れば
病の苦しみはたちまち薄れ病魔は退散し、身体に刻まれた傷もたちどころに治っていくという
霊験あらかたな守矢神社特性の神徳溢れる逸品だ。……もっとも作った本人には効かないのだから、
第四部の主人公のようだねぇ、と諏訪子は思っている。
それはともかく札を掲げ、体に残った絞りかすのような霊力をありったけ注ぐ。いまだ幽香の
身体に突き立てていた右手をここでようやく抜いた。蓋となっていた腕が外れ、夥しい量の血が
吹き出る。そこに、病気平癒守を貼り付ける諏訪子。即座に暖かな稲穂色を思わせる、薄い
霊力が幽香を包む。胸に開いた大穴が見る見るうちに塞がっていく。驚くべきは諏訪子の力か、
それとも幽香の妖怪としての再生力か。呆れたように溜息をつく諏訪子であるから後者の方
なのだろう。やがて、幽香の形のいい胸が上下しだした。肺も心臓も再生を終えて、本来の
役目を思い出したのだろう。その顔は、意識を失う前の表情そのままに、柔らかな笑み。
「……やれやれ。笑ってるじゃん。これじゃどっちが勝ったんだかわかりゃしないよ」
そう呟く勝者、諏訪子ではあるがこちらも散々である。気力だけで立ってはいるが身体の
あちこちの骨はヒビが入り、内臓もズタズタである。何より幽香を打ち抜いた右腕は、最後の
一撃の威力で元の形を成していない。まさに死力を尽くした戦いであった。
「けど、勝てたのは幽香のおかげだ。すまんね、卑怯な神様だ、私は」
最後の一撃、それをもし避けられていたら? その場合諏訪子は戦いを放棄して、火山の
後処理もせずに守矢の神社までおめおめと逃げ帰っていただろう。そうなれば必然と諏訪子の、
そして守矢神社の悪評が立つことになってしまう。それでも退くしかないほど追い詰められて
いた。だが、諏訪子は相手が幽香なら必ず受けに行くと確信していた。そうであるなら勝てる、
とも。もし受けきられていたのなら……その時はこちらも全力を出し切ったのだ、笑って死のうと
覚悟は決めていたのだが。
とたん、がくりと膝が落ちる。もう身体を支えきる余力もない。ぐらんぐらんする視界を
何とかなだめつつ、帽子から一枚のスペルカードを取り出す。ぱたりと身を横たえゆるゆると
地にその身を沈ませつつ目を閉じて、朦朧とする意識の中宣言した。
”蛙休「オールウェイズ冬眠できます」”。
「ん……」
髪を撫でる優しい感覚。はるか昔、誰かに……例えば母親にしてもらって以来だろうか。
それとも自分に母などいただろうか。それでもその優しさに母性を感じて……ようやく幽香は
その状況の違和感に気付く。ゆっくりと目を開けた。
「おお、起きたか」
視線の先に柔らかな諏訪子の笑顔。それとやや夕焼け色に染まりつつある空がある。首の
後ろには柔らかな感触、どうやら膝枕をされているらしい。それを知って幽香の頬にも少し
ばかりの朱がさす。そしてそこで、当たり前のあることに気付いて幽香は深い溜息をつく。
「……逝けなかった、か」
「そんな悲しいこと言うなよ。私は楽しかったよ?」
幽香の若草色の髪を撫でながら、諏訪子はことさら優しい笑みを向ける。戦いの最中、
諏訪子は気付いてしまった。幽香の加虐心の裏側にある、狂おしいまでの被虐嗜好。無傷の
勝利など幽香は求めてはいない。弾幕にしとどに身体を打たれ、刃や爪であちこちを切り裂かれ、
内臓を深く抉りこまれ全身を傷だらけにして、なおかつ相手にそれ以上の痛みと傷と、なにより
屈辱を与える血みどろの戦いをこそ望んでいる。奇しくも諏訪子もそれにつきあわされたのだが。
幽香がそんな心境に至り、戦いに命を賭すようになったのか。それを完全に理解することは
諏訪子ですら出来ないだろう。だが、戦いに次ぐ戦いで極端に研がれた精神が、戦いの中でしか
生と死を感じられなくなったことを想像することは難くない。
己の再生力を高める奇跡のスペルカードの効果が発揮され、ひとまず五体満足となった諏訪子。
寝息を立てて横たわる幽香の頭を思わず膝に乗せ、髪を撫でていたという次第である。
「で、いつまでこうしてるつもりなの?」
「うーむ。幽香が動けるようになるまで?」
幽香の不満げな声にも笑顔を変えずそう返す諏訪子。しかし、幽香はかまわず頭を持ち上げた。
「だったら、もういいわ」
「つれないなぁ……、って睨むな睨むな。はいはいはいはい」
おどける諏訪子を尻目にすっくと立ち上がる幽香。胸に大穴が開いてるはずだと視線を
おろせば、札が一枚張り付いている。そこからかすかに感じる癒しの霊力に眉をひそめた。
「こんなもんのせいで逝きそこねたのね」
「死んでもらったら困るといったろう?」
諏訪子に視線を送る幽香。その視線には射殺すような光は……無かった。戦いの結果を
しっかりと呑み込むほどには、彼女も歴を重ねた妖怪である。
「……そうね」
気だるげにそう呟くと、札を引っぺがして風に舞わす。ふらふらとした足取りでクレーターの
外周へと向かい始める幽香。
「どこへ……」
「花、見繕わなきゃいけないんでしょ。ここじゃ無理よ」
「あ、あぁ、そうだね」
力ある存在ふたりに元の形も無いほどに蹂躙された大地ではあるが、いまだ毒が抜けきった
わけではない。ここで花を咲かすわけにはいかないのだ。諏訪子も立ち上がり幽香の後を追う。
クレーターのふちまで上り詰め、向かうのは手近な花畑。
「ねえ」
幽香が振り返った。
「今更だけど、何のために花が必要なの?」
本当に今更だった。と、いうのも。
「あれ? 私、言ってなかったっけ?」
諏訪子はどこかで理由を喋っていたつもりであったからだ。さて実際はどうだったか。
「……言われた覚えがないんだけど。いくら戦いの熱狂に呑み込まれたって、半時程度前の事を
忘れるほどバカじゃないわよ」
「ありゃぁ……そうだったか、すまん」
さすがにこれには諏訪子も素直に謝るばかり。ようやくここで本来の目的を口にした。
「うちにさ、早苗って風祝……んーまぁ、巫女みたいな娘がいるんだ、人間のね。その子が
ちょいと風邪をひいちゃってね」
「洒落?」
「は? ……あぁ、いやそりゃ偶然。なるほど、かぜはふりがかぜひきか。旨い事いうね」
「どうでもいいわ、続き」
自分から話の腰を折っておいてとことんつれない幽香。諏訪子も眉を下げた情けない表情で
抗議の意を示すが、幽香の冷たい素振りは変わらない。仕方ないと咳払いを一つして続きを
話そうと口を開こうとした。
「で……」
「その子を見舞うために花を見繕ってもらいに来た、ってそういうことよね」
「そ、お、ちょ」
そこを言おうとした言葉を丸ごと幽香に取られて思わずつんのめる諏訪子。むすっとした
雰囲気で下から幽香に視線を投げる。
「何よ」
「……分かってるんならわざわざ続けさせようとするなよぅ。幽香は性格悪いなぁ」
「あら、その通りよ。今頃気付いて?」
そんなことを言いながら幽香が、ここでようやく花がほころぶ様な笑顔を見せる。会話の
内容がどうであれ初めて平素の時分の笑みを見て、諏訪子も嬉しくなる。
「うんにゃ、最初っから分かってた。再確認しただけ」
「あら、そう。……それじゃ、花を用意するからとっとと帰っていただけるかしら」
一瞥すると、花畑に再度目を向ける幽香。目を閉じ、意識を集中させる。霊力が高まりを
肌で感じる諏訪子。手を前に差し伸べ、幽香が一言、はっきりと声を出す。
「咲き誇れ」
その瞬間、幽香の眼前の大地から爆発するように草花が萌え出でた。季節も植生も関係なく、
色とりどりの花たちが咲き乱れる。薔薇、百合、ラベンダー、蘭、彼岸花、スイートピー、
数多咲き乱れまさに百花繚乱。思わず息を呑む諏訪子。大地の神である彼女自身でも、こうまで
見事に咲かせる事ができるか。その驚きを知ってか知らずか、幽香は目を開き花たちに歩み
寄る。あ、と諏訪子が驚いた。幽香は花たちを手折り、花束を作っている。
それは一見なんでもないような動作。しかし、花を操り花を司る妖怪である幽香が自ら花を
手折るというのは考えられない事だ。それは花の命を奪う事。根から抜くわけではなく、
花を手折るというのはそういうことなのだ。言葉を失った諏訪子を他所に、大きな花束を
朝顔の蔓で纏め上げ、幽香は振り返る。
「これで、いいんでしょう?」
「……悪い、幽香。まさか花をあんた自ら……」
「負けたんだもの、仕方ないわ」
少しばかり寂しそうな、あるいは悔しそうな声が諏訪子の謝罪を遮る。弾幕勝負に限らず、
敗者は勝者の命を聞く。それは幻想郷のルールだ。諏訪子の要求は無茶なものではなかったが
……今の幽香にしてみれば我が子の首を折って殺し勝者に捧げるようなもの。諏訪子もいたたまれない
気持ちになる。が、受け取らないのは侮辱にしかならない。せめてなにか、と諏訪子は一瞬
思案し、少しばかりの返礼を思いついた。
「すまん、幽香。ありがとうと言いたいところだが、渡すのをちょっと待ってくれないか」
「ん?」
山のような花の向こうから怪訝な声。諏訪子は幽香に背を向けると、今しがたまで戦っていた
その場所に歩み寄る。一度大きく深呼吸、肺の中の空気が全部抜けたんではないかと思うほど、
大きく息を吐いた。人を待たせといて何を始めるのかと幽香は思う。無愛想な表情ではあるが
内心興味津々である。その眼前で諏訪子は何かをかき集めるかのように腕を大きく広げ、息を
吸い始めた。
「え」
そこで始まった信じられないような出来事に、気を抜けた声を出し目を真ん丸にして驚く幽香。
諏訪子が徐々に息を吸えば、それに吸い寄せられるように大地から黒い何かが滲み出してくる。
その一角を不毛の大地へと変えてしまった毒。幽香の知り合いである幼い毒人形、『メディスン・
メランコリー』が誤って放出してしまった大量の猛毒だ。
それらが今まさに大地より吸い上げられ、集まり、諏訪子の側へと吸い寄せられている。
諏訪子の鼻先に集結していく毒。丸い形になり、どんどんと濃縮され小さくなり、さながら
牡丹餅、いや、さらに収縮して見た目には真っ黒な飴玉のようなものになっていった。そして
大地から毒気がまっさらに抜けた頃、禍々しい飴玉の前で蛙のようにパンパンに膨れた腹をした
諏訪子が息を吸い終えた。
「ぷは!」
一息吐けば諏訪子の体型が元に戻る、そして。
「あむ。むぐむぐ……」
「え?!」
自由落下してきた毒の飴玉を飲み込む。だたっぴろい土地全てを害する毒をとことんまでに
凝縮したその飴玉の毒性いかばかりか。インド象なら30回殺しておつりが来るだろう。だが、
諏訪子は神である。彼女を毒で殺すなら、この星全ての大地に猛毒を染み込ませなければ無理
ではなかろうか。
「……うぇ。すっごい鈴蘭の味と香りがする」
「な……にを、してる、のよ」
信じられないものを見る目で花束の向こうの幽香。けろっとした顔で諏訪子はこう、答えた。
「へへ、幽香が頼むかも、って言ってたじゃないか。私が生きてるならこの土地を元に戻しても
いいってさ。ついでに言うならわざわざ花を手折ってまでしてくれた、そのお返しさ。これで
あの地にも花が咲く。うんとうんと咲くぞう」
そして快活な笑み。それを受ける幽香は、驚きの色を隠して冷たい顔を作る。ただちょっとだけ
視線を逸らした。
「……あなたが勝手にやったことだから、礼なんて言わないわよ。はい、これ持ってとっとと
出て行きなさい」
「はいはい」
素直じゃないね、と出そうになる言葉も呑み込み幽香から花束を受け取る諏訪子。それは
花束を抱くというか埋もれたというか、幽香との体格の差が顕著に出た。
「それじゃ日も落ちかけてるし、ぼちぼち去ることにするよ」
「そうしてちょうだい」
あいかわらず視線を逸らしたまま、幽香はけだるげな様子である。思わず出そうになる笑いを
こらえつつ、諏訪子はきびすを返そうとして、やめた。
「それじゃ……、っと、あと言うことひとつ、忘れてた」
「何? まだ用があるの?」
「それだけ言ったら帰るからさぁ」
「じゃあとっとと言いなさい。私は早くあなたをここから追い出してゆっくり休みたいの」
うん、と頷く諏訪子。花束に隠れた表情は、思ったより真面目なものだだ。
「幽香、もし、あんたの胎の内が抑えきれなくなったら、うちに、守矢の神社に遊びに来るが
いい。私でよければいつでも相手してあげられるし、そこにはこの私を打ち負かした八坂の神も
いる。んぁ……早苗は虐めちゃだめだよ? 人間だからあんたが本気出したら壊れちゃう。でも、
あの子も花を愛する優しい子だ。話なら合うだろうさ。じゃあ……またな」
そういうと花束にまた顔を埋め、ふわりと空に舞う諏訪子。ばたばたしなくとも、低速で速く
飛ばなければこれくらいは出来る。ゆっくりと持ち上がり、徐々に遠ざかるその姿に、聞こえるか
聞こえないかの声で、幽香。
「……えぇ、気が向いたら、また」
早く去れと願った相手の姿が、遠く空に点と消えるまで、じっと見つめていた。
ばたり、地面に倒れる。
多少の回復をしたとはいえ胸に大穴を開けられたのだ、立っていられたのが不思議なくらい
だった。幽香はまだ身体の奥に残るじんわりとした痛みと、それを遥かに凌駕する疲労に負けて
意識を朦朧とさせている。ぼんやりと思うのは、戦いと、己とのこと。
この幻想郷にしか生きられないのに、この幻想郷では毎日が退屈だった。たまに心焦がす
戦いもあったが、それも幽香の心を戦いの陶酔と痛みから産まれる法悦で焼き尽くすには少し
ばかり足りなかった。スペルカードルールが出来てからはなおのこと。故に幽香はこのまま
ひっそりと朽ちることさえ覚悟したこともあった。だが、ついこの間、この退屈な幻想郷に
来たばかりの神様のなんと強かったこと。そしてその神を負かした更に強い神も、山の神社に
いるという。
そう、退屈だなんて思うのはどうやらまだまだ早計であったようだと幽香は思う。このまま
待っていれば、もっともっと自分を喜ばせてくれる強者が増えるかもしれない。そして身も心も
蕩かし壊す程の戦いが出来るかもしれない。その期待は彼女を生かすのに十分であった。
とりあえず、回復しきって暇を持て余した時、あの山に向かうのも悪くはないかもしれない。
幻想郷もまだまだ捨てたもんじゃないわね、と幽香の心が少しだけ熱を帯びる。その熱の中、
強烈な睡魔が幽香を呑み込んでいった。
大きな花束が大儀そうに、夕焼けに染まる守矢の神社に降り立つ。目的のものを手に入れた
諏訪子だが、寄り道をするなとの約束はとうに破られている。それどころかさんざんっぱら
幽香と殺りあったおかげで服は破れ、身体のあちこちは土とも乾いた血とも判別つかないような
もので汚れ切っている。さて、どう言い訳をしたものかとそう考え出したそこに、
「諏訪子様!」
と早苗の声。そちらを見やれば、神社の縁側に寝巻き姿の早苗がいる。どうやら言い訳の暇も
ないな、と観念して、諏訪子はそちらへと駆け寄る。
「早苗ー。おみやげだよー。寝てなくていいの?」
「はい! もうすっかり。ところで諏訪子様、おみやげってこの花束ですか?」
「うん、そうだよ。ずーっと寝たまんまじゃ寂しかろうと思ってさ。でも無駄になっちゃったかなぁ」
「そんな事ありません! 大事に生けさせていただきますね」
諏訪子から花束を受け取る早苗。大きく息を吸えば、芳しい花の香りが早苗の気分を朗らかに
する。笑みを浮かべつつ、手ぶらになった諏訪子を見てそこで驚いた。
「ありがとうございます諏訪子さ……。……どうなさったんですかその格好!?」
あっちゃあ、と後ろ頭を掻く諏訪子。その様だけ見ればお姉ちゃんに怒られている妹のよう
にも見える。
「えー、あー、うにゃー。……そ、そう、あれだね! 綺麗な花には棘があるって昔からよく言う
けど最近はヴァージョンアップも甚だしいね! もう棘っていうか槍だね槍、しかもドラゴンスレイヤー。
おかげで私もそいつにつまずいて転んじゃってまぁ大変」
何を言い出すのだこの祟り神は。早苗もついじっとりと湿り気を帯びた視線を投げかけそうに
なったが、手にした花束を、自分のためにどうにかして持ってきてくれたことは事実である。
言いたい事は山のようにあるが、嬉しさの方が遥かに上まわった。多少の事柄は不問にしようと
決める。改めて花束をちらりと見れば早苗の知っているありとあらゆる草花が集まっているよう
にも見えた。そして気付く。
「諏訪子様、あのぅ。この花束……春の花も秋の花もありますけど、どうやって?」
「あ、う」
素直に事のあらましを言えば早苗はともかく神奈子にどう言われるか。ついでに懐にしまった
小銭もしっかり取り上げられるであろう。千年以上を生きた神たるものとしての頭脳をフル回転
させて、言い訳を考える。とりあえずいつかは幽香もここに来る事だし、楽しい殺しあいの
部分だけは省いて話したほうが良さそうだと結論付けた。
「あー、それはだね早苗。私が転んでぴーぴー泣いてたらだね、優しい妖怪さんがやってきてだね、
私の代わりに花を用意してくれた、そういうことだね」
「はぁ」
狼狽する諏訪子の様子を見れば、言葉のとおりではないことは早苗もお見通しである。が、
しかし一度不問にしているから、これ以上妙な追求をする事は諦めた。
「じゃあいつかその妖怪さんにお返しを用意してあげなくてはいけませんね」
「あ、あぁうん。そうだね」
微笑む早苗にちょっとだけ微妙ながらも同じく微笑んで返す諏訪子。これ以上何か言われては
たまらんと、諏訪子から話を切り出した。
「それはさておきお腹すいたよ! 早苗ー、ご飯は?」
「え、あぁ……はい。神奈子様が、ご用意していただいてると、多分」
微妙に煮え切らない顔をされた。どうやらその分では粥しかねーな、などと心中悪態をつきつつ
靴を脱ぎ縁側に飛び上がる諏訪子。
「そんじゃ飯にしようかねぇ」
「その前に諏訪子様、お風呂に入ったほうが……」
「おお。じゃあそうさせてもらうねぇ」
「はい、私はお花を生けてから、食卓に向かいます。ほんとに諏訪子様、こんな素晴らしいお花、
ありがとうございます」
ぺこ、と小さくお辞儀をして自室に向かう早苗。諏訪子はその背を見やってから風呂場に
向かおうとし、足を止めた。見上げる空を赤く染め上げて、大きな夕日が沈んでいる。この
空の下、今日死力を尽くして闘りあった相手がいる。元気を取り戻せばここにも足を運ぶ
だろうか。そうでなければまた遊びに行ってもいい……きっとめんどくさそうな、無愛想な顔で
出迎えてくれるだろうけど。
「……また、遊ぼうな」
遙か太陽の畑にいる強敵(とも)にそう語りかける、諏訪子の心に宿っていた退屈の虫も
いつのまにか、どこかに消し飛んでいた。花咲く彼女の心もそうであれと願いながら、諏訪子は
落ちる夕日をしばし眺めるのであった。
よってこの一作で大満腹の大満足ですっ!!多謝!!
堪能させていただきました。ごちそうさまっす。
そして非想天則感もひしひしと伝わってきて楽し面白かったです
北斗の拳ネタおいしかったです
確かに殴り合いのバトルものは久しぶりに読んだ気がします。面白かった。