太陽の光さえ差し込まない四畳半の一部屋で、射命丸文は遅々として進まない原稿と向かい合っていた。
より正確に記すならば、両手に広げた彼女愛用のネタ帳――文花帖を睨んでいる。
穴が開きそうな程睨んでいるが、生憎と彼女はその手の力を持っていなかった。
尤も、開いたら開いたで悲鳴を上げるのだが……。
真夏の、しかも、締め切った部屋。
顔と言わず体と言わずじっとりと浮かびあがる汗が室内温度の無情さを物語っている。
下着は言わずもがな、薄いシャツさえもぬめりとした水分を無理やり吸わされ、歪な染みを作っていた。
にもかかわらず、文は唯、文花帖を願うような面持ちで睨んでいた。そこに、ネタを探し求めて。
「たっしっか、つい先日何かあったような……」
促音の度に頁を大幅に捲り、記憶にある該当箇所へと辿り着く。
直前、弛ませ繰っていた紙が微かな抵抗を示した。
首を捻る文だったが、考えても詮なしと指で頁を送る。
ピンっと抵抗の原因が弾ける。黒ずんだ小さな染み。血だった。
バンっ――それをそうだと理解した直後、文は何も考えず、否、何も考えられないまま、文花帖を閉じた。
心臓が高鳴る。脈拍が加速する。じっとりとした汗は、冷や汗へと変貌していた。
胸に手を当て、息を吸い、吐く。呼吸が整い、頭が回り出す。
其処に書かれていた言葉は――。
『爪に至る……』
――文は、記憶を放りだした。ぽっかりと黒くなった思考の隅に、紅と白の蝶が舞う。
ネタがない。
文の現状抱える問題を端的に示せば、そうなる。
ないったらない。徹底的にない。鞄の中を机の中を探してみても見つからないのだ。
ポケットを叩けばビスケットが二つに増えるかもしれないが、そも文の胸ポケットには一つのネタもない。
平均サイズの、けれど、形の良い胸が揺れただけである。
自身の胸を弄っても楽しくない。愉しくはあるが。いやいや。
溜息一つを零し、文は文花帖を適当に捲る。
断片でも良い。何かないか。
だから、ないんだってば。
『ローションプレイ』。
刺激的な言葉だったが、要は単なる痛み止めの使用方法だ。
以前に書きあげ印刷所に回したが、突っ返された。表現の自由の侵害だと申し立てたが、「だから?」と一蹴された。
『生足魅惑のマーメイド』。
是もまだいい。まだ理解できる。
けれど、残念ながら文の記憶は菩薩の様な笑顔でサムズアップする昔馴染みの八雲藍しか覚えていない。使えない。
『もけけぴろぴろ』。
丸みのある言葉に、しかし、文は唸りをあげた。
意味が解らない。文字がのたくっている事を鑑みるに、寝起きにでも書いたのだろう。だからなんだ。
再度、唸る。唸ってどうにかするつもりはない。どうにもならないから唸るのだ。
両手を後頭部で重ね、ごろんと背を畳に任せた。
一瞬だけのひやりとした心地よさを味わう。
数十秒経たぬ間に、温くなるだろう。
「どうしよっかなぁ……」
締め切りまではまだ幾ばくかの猶予がある。
とは言え、現状を考えればもたもたしていられないのは自明の理。
時間とは、時にしなる鞭を打ちつけられた馬のように駆けていくものなのだから。
けれど、とかくそのような状況こそ思考とは纏まらない。
遂には文の頭はオーバーヒートを起こしてしまった。
何時もの事だ。
何時から『何時もの事』になってしまったのだろう――文はぼんやりとそんな事を思う。
自身の履歴を頭の中で並べていく。今年の春はどうだったろう。去年は、一昨年は。
年表がずらずらずらずら……と勿体つけた巻物の様に伸びていく。
当たり前だ、と文は苦笑する。私は、齢千年を越えているんだから――。
「あー、思えば遠くにきたもんだ」
呟いた言葉に意味はない。千年と言う膨大な時間は、文に何の感慨も抱かせなかった。
ソレを思い付くまでは。
「……ふむ。半生を振り返る、ってのはネタとして悪くないかも」
腹筋の力だけで身を起こし、すかさず右手にペンを握りコメカミをリズムよく叩く。
「事件性があるのは……駄目か。使っちゃってるし。
なら、プライベートな事を徒然と並べてみる……。
ありきたりじゃ面白くないから」
トントン、トントン、トトン、トットットッン、トトントトトン、トトトトン、トンっ!
「恋愛遍歴……とか」
拍子が刻一刻と早くなる。ラテンのリズムで文は続けた。
「つまびらかにされる衝撃の事実!
まぁおたくの娘さんも! 奥様こそ名前が出ておりますわ!
次々と発覚する種族を超えた兄弟姉妹! いやいや、人妖みな兄弟!」
気に入らない奴は誰であろうがぶっとばす。博麗の巫女が言っていた。たぶん。
「天狗社会のみならず幻想郷全土を覆う骨肉の愛憎劇!
村八分改め郷八分にされた私は、あぁっ!
遂にその魔性の躰を十字架に晒される!」
ペンを振る手は既にロックバンドのドラムが速さ! 最高にハイって奴だ!
「そんな私を見上げるのはヒトリの少女とヒトリの女!
全部、全部、嘘ですよね、文様! あぁ椛! 可愛い椛さん! いいえ、私は真実しか記さない!
文、一体何がお前をそこまで……! 貴女、あぁ貴女こそが私のファムファタル! 貴女が私を袖にしたからよ――藍っ!!」
四畳半の室内に、嬌声にも似た文の叫びが響き渡った――。
「や、うん。袖にしたって言うのは真実じゃないわね。そもそも告白のこの字も……やめとこ」
若干テンションが落ちた文は、ペンを机に立て、代わりに右手の指でコメカミを掻く。ヌメっとした。
どうやら皮膚を軽く抉っていたようだ。彼女にすれば日常茶飯事、ままある事。
慌てず騒がず机の対面に転がる白い尻尾を左手に掴む。
モフっとした。
「尻尾……モフ……つまり!」
卓越した推理力に瞳を煌めかせながら、文は見上げた。
「なんの物好きかお手伝いをしてくれている白狼天狗の犬走椛さ、うわぉう!?」
素っ頓狂な声をあげながらも瞬時に文が思ったのは、右手で掴まなくてよかったという一点だった。
数瞬の後、自身があげていた叫びを思い出し、両手を畳についてじりじりと後退する。
視界に映る椛は変わらず虚ろで、要は爆発する寸前と思えた。
幾らも経たないうち、文の背にひやりとした感触が走る。
椛との距離はさほど開いていない。
四畳半では限界がある。
「違う、違うの、椛さん!
貴女を藍の幼い頃に重ねたりなんてしていないわ!
貴女は貴女で可愛いの! 食べちゃいたい! って、墓穴!?」
こらあかん。
懐柔の為か諦観の為か、文は歪な笑顔を浮かべる。
けれど、近頃は本気で痛いと感じるような椛の弾幕は、何時まで経っても降ってこなかった。
「椛さん……?」
荒い息を吐きながら呼びかける。反応はない。
そろそろと近づく。一向に変わらない。
眼前で手を振る、と、漸く視線が合わせられた。
「……っ!」
畳みを蹴り零距離を離脱しようとする文はしかし、音もなく伸ばされた椛の両手に肩を拘束される。
自身を捕らえる椛の成長に胸中で喜びつつ、とみに狂ってきたパワーバランスに口を開く、直前。
虚ろな瞳で見上げられ、文は言葉を失った。
椛が、ぼぅとした声で呟く。
「口付けって、どんなお味がするんでしょう」
どうしよう。
真実を告げようか虚構を告げようか。
『赤ちゃんは何処からくるの』程度の難題に、文は一瞬呆然となった。
陶然とした様の椛からどうにかこうにか抜け出した文は、隣室の炊事場から意識を覚ます冷たい水を淹れてやった。
こくりこくりと機械的に飲む椛は、次第に僅かの余裕が出てきたようで、表情も微かに柔らかくなる。
それでも今だ硬い動作に微苦笑しつつ、問う。
「で、何があったんです?」
大体の見当はついていますが――言葉を飲み込み、文は応えを待った。
暫く返ってこなかった。
椛は両拳を握りつつ口を開きかけ、噤む。
その代わりにか開かれた両手で口を覆い、人差し指を唇に這わせる。
両の指が真ん中の窪みで合わさり、何らかの連想を催したのだろう、頬を朱に染め首を振った。
可愛いなぁ、こんちくしょう――思いながら、微苦笑を苦笑に変える。
このままでは何時まで経っても語られそうにない。
文は助け船を出す事にした。
「椛さん?」
「サ、イエッサ!」
「なんで西洋式敬礼ですか」
突然の挙動に動揺するが、軽く流す。
「んー、此処に来る途中で何か見でもしたんですかねぇ」
ちらりと盗み見た椛は目を見開いている――どうしてわかったんですか?
わからいでか――頬を掻き、文は続けた。
「合躰シーンとか」
『どうしてそう言う事ばっかり仰るんですか!』
『しまっち!? つい願望が!』
『文様のばかーっ!』
一連の流れを想像し、文は悟りきったような目で衝撃波に備える。
しかし、先ほどの問いと同じく、予想した行動は返ってこない。
それどころか、椛は両手を頬にあて俯いた。
なんかキャーキャー言ってる。
「あの、えと、合躰、じゃなくて、その前、ですから、つまり」
「ははぁん、ペッティング」
「も一つ前です」
軽く流され、文は畳にのの字を書いた。
うずくまるのは一瞬、それもそうかと考えを改める。
椛は少女。とは言え、何の知識もないと思う方が間違っている。
夢を見ていると言い換えてもいい。少女だって便秘になるし水虫にもなる。
そう、年頃の少年少女は誰もがピンクドリーマー。
「そう言うのはむっつりって呼ぶのかしら……」
「わ、私はスケベじゃありません! 文様のばかーっ!」
「や、かつての私であって椛さんの事うぉう、三度目の正直ー!?」
そうそうこれこれ――吹き飛ばされる文の表情は、何処か安らかであったと言う。
「要は、ですよ。キスでも見たんでしょう、椛さん」
胸に手を当て驚愕の表情を貼り付ける椛に、文は腕を伸ばし掌を向けた。
「そもそも、此処まで引っ張るような話でもないんですけどねぇ……」
「はい……?」
「いえいえ」
簡単に済ます文。
一方、椛はもごもごと口を動かしていた。
白い尻尾も併せたように振られている。
耳までが左右に揺れていた。
部屋の片隅に鎮座していた扇風機――河童作。動力は言わずもがな電池――を回し、文は再び話を振った。
「で、どんな風だったんです?」
落ち付かない動作の椛はつまり、話を引っ張りたいのだろう。
ずいと身を乗り出す椛。
尻尾と言わず耳と言わず出鱈目に動いてもいる。
文の予想に違わず、自身の目撃談を話したくてしょうがないといった風だ。
扇風機程度の風じゃ冷えないようねぇ――両手を握り上下に振る椛に、文は微笑みを送った。
「えとですね、私、今日、お仕事だったんです。
あ、紅魔館のメイドさんがやってきました。
お強いですね、あのお方。
一つ二つの弾幕は避けれたんですが、『秘儀!』の掛け声とともに――。
って、すいません、話が逸れてしまいました。でも、惜しかったんですよ! ……文様?」
秘儀って十六夜咲夜の上級スペカだったんじゃないかしら。
乾いた汗を頬に流しながら、文は不意に浮かんだ疑問を無理やり飲み込み続きを促した。
「お仕事を終えた私は、お社に戻りました。
そこで、えっと、幾つか使っていない部屋があるじゃないですか。
そのうちの一つ、文様ならば知っているかと思いますが、私たち哨戒天狗の部屋の二つほど離れた部屋です。
部屋の扉が微かに開いていまして、私、変だなって思ったんですよ。
いえ、鍵云々ではなく、何時も締まっていたので……」
文には椛の言う部屋に覚えがあった。
と言うよりも、自身、何度か使った過去がある。
その時は文字通りの休憩であり、要はさぼっていただけであったが。
「更衣室で先輩たちに聞いてみたら、にまにまお笑いになって、『椛にはまだ早い。あの部屋は休憩室よ』と。
談話室なら他にもありますし、やっぱり、私、釈然としませんでした。
で、こっそりと千里眼で遠くから見たんですが……。
あ! あの、文様が知っていると申しましたが、そう言う意味では!
ただ、文様は報道を生業にしているお方、その手の噂の一つや二つご存知かと思っただけです!」
泡を飛ばしながらの弁明に、文は微苦笑しながら首を振る。
「構いませんよ。実際、お世話になった事もありますし」
「あ、やっぱり……わぅん」
「結局、そこで――」
椛は小さく頷いた。
「はい。その、く、口付けをされているお姿を、きゃー!?」
現場を思い出したのだろう、一瞬テンションが落ちたように見えた椛はばたばたと無意味に手を振った。
ついでとばかりに放たれる弾幕をかわしつつ、文は頬を掻く。
何か勘違いされていた気がしないでもない。
まぁいっか。
休憩室。正確に呼べば『恋人たちの休憩室』。
愛を語るのは許されていたが愛を放つのは許されていない。失敬。
天狗たちの勤務時間は長く、また、椛の様に律儀に家に帰る者は少ない。
そう言う事情の元、何時の間にか、使われていない部屋が寄り合い所となっていった。
報道部に身を置きながらもある程度の自由を獲得している文も、以前は常連だったと言う訳だ。
因みに、正式には千年以上使われていない。頭領天狗である天魔の粋な計らいの一つである。
だったら本番も許可しなさいよと思う文であったが、それは頑なに受け入れられなかったそうだ。
ヒトづてに聞いた話では、曰く『おおおおおお母さんは許しませんよ!?』状態で拒否されたらしい。
どうでもいい事を思い出しながら、文は我武者羅に腕を振る椛の動きを押さえた。
何時の間にやら鼻先を掠めていた弾幕はその速度にして文にとっても脅威。
加えて、当たるととても痛そうだった。
両腕を掴まれた椛は、目が覚めたようにはっとなり、弾幕をすぐさま止める。
「あ……も、申し訳ございません、文様!」
「いえいえ。それにしても、可愛らしい事で」
「可愛らしいと言うよりは格好いいおフタリです。両名とも殿方だったのですが」
そっちか!
「や、ではなくて」
「『そう、そのまま飲み込んで儂の鼻……』」
「何やってんだ鼻高天狗! あれ、そう言えば椛さん、遠くから見ていたのでは……?」
ぷぃす。
そっぽを向く椛。
年頃の少年少女は誰もが桃色間諜。
そうだとしても――椛の両腕を解放し、文はくすりと微笑を浮かべた。
「可愛らしいと言ったのは貴女にですよ、椛さん」
ピンっと耳が張る。
白い尻尾も針金が入ったように真上を向いた。
解っているのかいないのか、椛はそんな有様で視線を文へと戻す。
開かれた口から零れた声は、震えていた。
「どういう意味でしょう……?」
あからさまな怒気に多少困惑しつつ、表面を取り繕い、文は応える。
「どういうも何も。
キス一つで湯気まで出そうな様子は可愛らしいとしか。
しかも、他所様のですし。ご自身にその手の経験がないのが丸わかりと言いますか」
言葉にして、後悔した。
文にとっては紛れもない本心である。
真実可愛らしく思ったし、その心に卑下したものもない。
けれど、従来の挑発的な口調ゆえ、そう取られても仕方のない言い方をしてしまった。
焦ってるのかしらねぇ――内心苦笑する文に、しかし返ってきた椛の言葉は意外なものであった。
「わ、私だって、く、口付けの一つや二つ!」
目をぱちくりさせた後、文は一つ頷いた――ほぅ!
「それは初耳ですねぇ」
無論、椛の裏返った声は文に疑問を抱かせるに十分であった。
が、同時に眼前の少女がそう嘘をつくとも思えない。
例えこのような状況であろうと、だ。
両拳を強く握る椛に、文はずぃと身を乗り出した。
「宜しければ、お聞かせ願えますか」
「あ、正確には口付けられたと言いますか」
「ふむふむ。ご自身からではなく何方様にか……あー」
なんか微妙な予感がする。
「椛さん。お父上はノーカンですよ?」
「きゃいん!? か、母様にも!」
「ノーカンですってば」
該当部位なのだろう両頬をふにふに伸ばしつつ沈む椛。
予想通りの解答に、文は唯、苦笑を浮かべた。
と、浮上する椛。手は額に移っている。
「お、おでこに!」
「天魔様ですか」
「あぅぅ……」
天狗は一般的に他の種族より仲間意識が強い。
であるならば、その頂きはどうか。
語るまでもない。
少なくとも文が幼少の頃より、天魔のでこちゅーは天狗たちの通過儀礼とさえ呼ばれていた。熱烈。
片手で椛と同じように額に触れ、文は一瞬、過去に思いを馳せる。
その後、頬に、口にと手を移し――肩を竦めた。
夢見る少女じゃあるまいし、と。
文の動作は自身に対してのものだった。
しかし、対面の少女はそう捉えられなかったようだ。
「だ、だったら!」
「……椛さん?」
「あ、文様が」
拳を握り、睨むような視線で、椛が吠える――。
「文様が、く、口付け、してください!」
唐突な咆哮に、文は数度目を瞬かせ、頬を小さく掻いた。
不躾な椛の態度は頬を染める朱と相まって、程良く困惑している事がありありと伝わる。
常日頃なら文にして据え膳だと顔を輝かせる展開であるが、実際にはどうしたもんかと考えていた。
文の思惑をよそに、叫びの様な椛の願いは続く。
「そも、口付けなど単なる部位と部位の接触!
何をどう恥ずべき事がありましょうか!?
この犬走椛、その程度の事、事……!」
見て解る程度に、一杯一杯だった。
湿り気を帯びた怒声に、真っ赤に染められた頬に、文は、椛に重ねた。
昔馴染みである妖獣の幼い姿を、ではない。
自身の過去を重ねていた。
文は震える椛の両肩を掴み、問う。
「いいんですか?」
「に、二言はっ」
「そう」
返すやいなや腕を引き、椛を抱きこむ。
「え、わ、や、文様……?」
どんな表情をすればいいかわからない。
眉根を寄せ見上げてくる椛から、文はそう読み取った。
揺れる少女の声が、触れる胸を擽り、感触と共にまた一つ小さく笑む。
「触れるだけの口付けじゃ、気持ち良くないでしょう?」
文の笑みは、艶み。容姿云々を超えた所にある蠱惑的な艶やかさ。
「お、お任せします……っ」
感化され、椛は目を瞑り口を真一文字に結んだ。
扇風機を回しているとは言え閉め切っている室内。
指を伝う汗は自身のものだろうか。
それとも――。
吹く風の音よりも回る機首の音の方が、文の耳に煩く響く。
僅かな動きによる衣擦れの微かな音など届く訳もない。
ないのだが、視界に映る椛の耳はぴくりと動いた。
片手を、肩から日に焼けた顎へと移す。
小麦色の肌は幼さの象徴のよう。
果実とはそんなもの――。
――思いつつ、文は椛に、口付けた。
くちゅ、と湿り気のある音が残される。
椛の耳は否応なくその感触を味わった。
文の口は形もいい。
じゃなくて。
「……あの、文様。そこ、耳です」
「気持ちいいでしょ? かぷ」
「きゃわんっ」
やっぱり耳が弱いかぁ――文はしたり顔で頷く。きっと尻尾も弱いに違いない。
「付け根なんて弱点もいい所。蒙古斑も可愛らしい」
「ありませんっ! で、ではなくてっ」
「おぉ、と言う事は桃尻なのですね」
ちょいと失敬と顎から手を離す文。
腕がするりと伸ばされる。
椛の背へと。
「じょ、冗談はやめてください! 私は、私はっ!」
「……冗談はそちらでしょう? 可愛い狼さん」
「――! 子ども扱いしないでわぷっ!?」
文の腕は、下にではなく上に、椛の頭へと移り、そのまま抱きこむ。
向けられる困惑の色を宿した双眸を、見つめ返す。
視線が数瞬交錯し、相手の感情が流れ込んだ。
少なくとも、文にはその余裕があった。
「貴女のキスを数えましょう。頬に二度。額に一度。――子どもではなくて?」
椛にも返す余地はある。
額はともかく、頬は何度となくキスを受けている。
けれど、それがどうしたと言うのだ。椛とて、文の言わんとする事は解っていた。
加えて、文は抱きこんだ椛の髪を撫でている。
柔らかく、優しく、幾度も、何度も。
手と同じような声色で、続ける。
「私のキスを数えましょう。――馬鹿らしいわね。日が暮れる。
ねぇ、椛さん。……いいえ、椛。
貴女の迫り方、悪くないわ。及第点はあげる。
だけど、私は射命丸文。その程度で私の唇は奪えない。
――なんてね。
椛。可愛い椛。
焦る必要なんてないの。
自棄になっていい事なんて……うん、そんなにないわよ?
――全然ではないけどね。
可愛い椛。少女の椛。
ゆっくりと、階段を上がってきなさい。
天狗の先輩じゃなく、女の先輩として、そう言うわ。
そして、何時の日か、貴女が美味しそうになったら――」
くしゃりと歪む椛の表情。
羞恥とも憤怒とも、大きな落胆とも読み取れた。
だが、視線は逸らさない。ただ、文を見つめている。
「『なったら』……?」
故に、文は、己が言葉を受け入れていると断じた。それは、間違っていなかった。
「――その時は教えてあげる、奪ってあげる。全力で、全身で、全部を、ね」
言葉を最後に、文は椛を抱く力を強めた。
部屋には変わらず扇風機の回る音が響いている。
故に、胸元であげられる嗚咽など、彼女の耳には届かなかった――。
「――と言う感じでさぁ。もーおぅ椛ってば可愛い! 私ったらいい女!」
「それがなけりゃ素直に同意してやらん事もなかったんだがなぁ」
「あらん。じゃあ、抵抗しつつも同意してくれるの、藍?」
時と場所を移して。
椛を家まで送り、そのまま帰るのも味気ないと文は博麗神社の裏手にある間欠泉へとやってきた。
間欠泉――温泉には先客がおり、びばのんのと鼻歌を一つ。
要は、金毛九尾の妖獣八雲藍が其処に居た。
かくして今に至る。
「汗を流したばかりだと言うのにべたつくんじゃない」
しなだれかかる文を、藍は面倒臭そうに払った。
湯に浮かべた盆から杯を掴み、藍がくぃとあおる。
するりするりと酒が喉を通っていく。
杯がそのまま回された。
文が指をからめ杯を持ち上げると、無遠慮に酒が注がれる。
透き通った色合いと極僅かな酒臭が喉をそそった。
注がれ終わる前に口をつけ、呑む。
文の無作法に顰め面を浮かべながら、それでも、藍がポツリと呟く。
「同意してやるさ。お前はいい女だよ」
「あったり前でしょ。ずぞー」
「お前なぁ……」
向けられる半眼など何処吹く風、文は滑り落ちる酒を楽しんだ。
喉を焼き、胃を熱くする。
旨かった。
たっぷりと嚥下し終わった後、ふと気付く。
「これ、萃香様の酒じゃないの?」
ひゅぅと口笛を吹く藍。的中。
「流石だ」
「いい女は色と酒を好むのよ」
「うむ、大抵の輩は色も酒も好むな」
もっともだ。
文は頷きつつ、注意深く藍の持つ瓢箪を盗み見た。
紺色のソレには一枚二枚と用途不明の札が貼られいる。
どう見ても、天狗の上司である‘小さな百鬼夜行‘伊吹萃香の瓢箪であった。
また杯を満たす藍。一気にあおる文。
「善意の第三者!」
「気付いていただろうが」
「えー、文ー、わかんないって感じぃ?」
「うっわ、むかつく。だがまぁ」
「どったの、ソレ?」
昔馴染みの間柄は伊達ではない。
自身の口元にあてていた指を離し、文は尋ねる。
他の者ならばいざしらず、眼前の女が無駄な無茶をする訳がない。
文の持つ杯を軽やかに奪い、満たしながら藍は応える。
「勇儀様から預かった」
至る経緯はどういうものだったのだろう。
考えていると肩に飛沫がかかった。
振り向いた文は、見た。
杯を持つ藍の腕が、否、全身が小刻みに揺れているのを。
「お前が来る前だ。
此処に、萃香様と勇儀様、そして、キスメがいてな。
勇儀様が目を離していた一瞬に、萃香様が愛し子の頬にぶちゅっと。
……凄かった。鬼だ。いや、元から鬼なんだが。しかし、鬼だ。
私をしてキスメの目と耳を防ぐので精一杯だった……っ」
かたかたと震える藍の両肩を押さえ、文は叫ぶ。
「藍、いいの、もういいの、わかったから……!」
「だから、私は見た、聞いた。おぉおぉぉ!」
「藍っ」
呼び声と共に、抱きしめる。美しい金色の髪が胸を擽り、背中には腕が回された。敏感な位置に触れるが、意に介さない。
自身と同じかそれ以上の修羅場を経験しているであろう最強の妖獣が恐怖により震えている。
文は、ただ抱きしめる事しか出来ない非力を、心中で嘆くふりをした。
ふりをした。
「……藍。そこ。羽の付け根。気持ちいいんだけど」
「胸に顔を埋められているからな。お返しだ」
「あー、パフパフ。やかましわっ」
引っぺがす。
「はっはっは、痴話喧嘩を見せつけられたのだ。私とて無為に戯れたくもなる」
「普段は常識人ぶってるけど、貴女も性質が悪いわよねぇ」
「お前に言われるとはな。少し反省しよう」
何処まで本気かわからない口調と笑みに、つられた文も呆れて笑う。
態勢と落ち着きを戻した藍が杯をあおる。
つ……と口の端から酒が垂れていた。
怖かったのは本心だったようだ。
「ま、私も、紫様が橙に粗相をしようものなら白毛となりて相対せんと思うがな。……ん?」
腕を伸ばそうとする文だったが、不意に向けられた視線により気付かれる前に引っ込めた。
「あら、貴女も? 椛や勇儀様ならともかく……ふーん」
「……含みのある言葉だな。何が言いたい?」
「たかがキス一つでってところかしら」
これはこれで文の本心だった。
キス一つで動揺したり激怒したり反旗を翻したり。
正直な感想として、『たかが』その程度の事で忙しいものだ――そう思っている。
文に杯を渡し、藍が微苦笑と共に弁明する。
「そう言うな。椛は少女だろう。勇儀様や私とて、自身が対象なら然程――おぃこら、なんだその笑い顔」
受け取り酒を注がれながら、文は先程よりも含みを持つ笑みを浮かべていた。
「んー、勇儀様は知らないけどさ。貴女はそうだろうなぁって」
「どういう意味だ言ってみろ、あ、やっぱり言うな」
「えー。初心なねんねじゃあるまいしぃ」
「そっちか。なら構わん」
「あん、つまんない」
唇を尖らせる文に藍の微苦笑は続く。
するりするりと酒を喉に落としてから、追撃。
「若気の至り?」
「今にして思えばな」
「当時は本気だったって?」
「私とて恋の一つや二つ」
「すっくないわねぇ」
肩を竦める藍。反応はそれだけだった。
多少なりとも嘲りの響きを匂わせていただけに、文は肩透かしを食らった気分になった。
軽口の返しに、何か面白い事を口にしないかと思っていたのだ。
或いは、そんな心中を読まれていたのかもしれない――。
「……お前に言われるとな」
「え、あ、ごめん。ちょっと聞いてなかった」
「ん。百戦錬磨のお前にかかれば、笑われても仕方ないのかもな、と」
言葉を切り、藍がにやりと笑う。
文は残った酒を飲み干した。
ずぃと差し出す。
とくとくとく。
もっきゅもっきゅもっきゅ。
――ガソリン、注入。
「ぷっはぁ! それは私の恋愛遍歴を語らせようとゆー算段かしら!?」
「あっやっさんのいい所、みってみたい!」
「どんと来いっ!」
とくとくとく、もっきゅもっきゅもっきゅ。
「ちょっとどうかと思うシチュの説明もあり!?」
「イエスっチキンレースなんてビっちぎれ!」
「何かぽろっと本音が出なかった!?」
とくとくとくもっきゅもっきゅもっきゅ。
「宜しい! NBV文さんの爛れた関係を教えてあげましょう!」
「っきゃーあやさーん! 橙と紫様が出てきたらぬっ殺す!」
「ふふん子狐ちゃんね。知人が出てきても知らないわよ?」
「香霖堂店主の筆下ろしをやってたとしても驚かない!」
「……え?」
とくとくとく……。
「ん、文?」
傾けていた瓢箪を慌てて戻し、動きの止まった文に、藍が怪訝な表情を向ける。
当の文は視線にも気付かない様子で、首を捻っていた。
何かを思い出しそうなのだが……。
白、黒、水、紅、白――。
「文、文!?」
「え、あ、何?」
「何って、お前……」
呼びかけられるまで、文の肩は小刻みに揺れていた。
その有様を不可解に思った藍は、しかし口を噤む。
確実に何がしかの傷を抉ると思ったからだ。
代わりに、手をあげ杯を煽る動作をした。
促され、文は喉を熱くする。
もっきゅもっきゅもっきゅ。
とくとくとく、もっきゅもっきゅもっきゅ。
ともくとくとく! もっきゅもっきゅもっきゅ!
「くぁ、旨い!」
「っきゃー、文さんかっこいー!」
「さぁーって、耳ぃかっぽじって聞きなさい!」
――ガソリン、再注入。
「……っても、最近はご無沙汰なんだけどねぇ」
「以前にそんなことを言っていたな」
「ま、色々あったから」
文の言う『色々』は、主に此処最近頻繁に起きる異変のことだ。
大きいものは一年に一回、多ければ二回。
小さいものなら、それこそ月単位。
無論、他の事物、或いは人物も含まれていたのだが、文は元より、藍も追及しなかった。
「じゃあ、少し下って、か」
「百年くらい前? んー、執筆に夢中だったわね」
「あぁ、『今は仕事が恋人』って地を這っていたっけ」
ネタが落ちていないものかと庭の小石をどかしたりしていた。
今とさして変わっていない。
それはそれで素晴らしいことだと言える。
仕事であろうと趣味であろうと、一つに対しての情熱が永く変わっていないのだから。
「その前は、専ら鍛錬に時間を費やしていたわ。いい女は自分磨きもしないと」
「実に嘘臭い……と言いたいところだが、実力を知っているとな」
「……貴女に素直に同意されると、なんだかむず痒いわね」
そうか? ――視線で問う藍に、文は曖昧な笑みを返した。
声に、微かな湿り気があった。
文自身が、そのことに少し驚いていたのだ。
酔いが予想以上に回っているようだ――顔を逸らし、微苦笑を浮かべる。
とくとくとく……。
戻した時には、また、杯が満たされていた。
少しの揺れでも零れ落ちそうな嵩。
文は、笑う。
静かに飲みほし、向きあい、続けた。
「だって、貴女に恋をしていた、その後の話なんだもの」
ぴく、と藍の耳が動いた。
文は、微笑う。
杯を渡し、注いだ。
微かの揺れでも零れ落ちそうな嵩。
静かに飲み干され、向き合われ、応えられる。
「そうだったか」
藍もまた、微笑んでいた。
――静かに、静かに、一つの話が、終わった。
同時。
藍がかたかたと震える。
文もがくがくと震えていた。
互いに視線を逸らし、押し黙る。
揺れによる湯の波紋が交わった頃、先に、どうにか藍が口を開いた。
「……その、なぁ、文。文さん」
「な、なにかしら、藍さん」
「いや、あの、お前」
まさか――続けられた言葉は、文が立ち上がった音にかき消される。
姿勢的に、文を見上げる藍。
視界に映るのは、『魔性の身体』。
藍をして、そう思わせられる肢体。
だと言うのに――水泡に帰した言葉を、今度は文が、言った。
「まさか、って、はっ、なに、貴女、こ、この私が、私が」
「やめろ、言うな、止まれ文ぁぁぁぁぁ!」
「乙女だとでもっ!?」
無音。
ただ静寂。
無情なほどの、静けさ。
ぽとん、と文の手から瓢箪が落ちる。
「そんな……このナチュラルボーンビッチ・文さまが、え、いやいやそんな御冗談を、あ、あれ?」
「お、おおおお落ち着け、文、落ちつつつつくんだ!」
「ちょっと藍、調べてみて!?」
間。
「乙女……! まごうことなき乙女……!」
「うっそ、い、いやぁぁぁぁぁ!?」
「私だっていやだ! ……はっ!」
藍が目を見開いた。
これ以上何があると言うのか。
何もないから、言葉を失ったのだ。
「文、それ以前に、お前、口付けすら……!?」
「ばぁ、馬鹿にしないで! あるわよ!?」
「だよなぁ」
「て、天魔様から……おでこに……」
「すまない。言いづらいが、それはノーカンだ」
ふと、文の頭に、椛との会話がよぎった。
――私のキスを数えましょう。
――んっと、ぜろ。
――以上。
――あ、椛の耳にしたわね。わぁい、一つだぁ。
文は、湯に戻った。
より正確に記すならば、崩れ落ちた。
膝をしこたま打ち付けたが、声一つあげなかった。
あげられなかった。
傍の藍も同じだ。
かける言葉が見つからない。
傷心というには余りにも深すぎる傷を負った友に、何を言えよう。
何ができよう――(……否!)
腕を伸ばす。
手で掴んだ。
右手には文の肩。
「忘れよう、文」
「わすれるって、なにを……?」
「今日、いや、今夜、この場で語らったことをだ」
力強く言う藍に、文は儚げな頬笑みを返した。
藍の提案は魅力的なのだ。
ただ、なかったことにする。
確かに忘れられるなら手っ取り早い。
けれど、どうやって?――文は、無理やり微笑み、首を横に振った。
「無理よ……」
筈だった。
しかし、動かない。
藍の手に、固定されていた。
「無理じゃないさ」
「……ら、ん?」
「文」
呟くように呼ばれた名前。
思わず、文は身を固くした。
視界に映るのは、藍の端正な顔立ち。
そして、伸ばされた左腕。
「え?」
「おら呑めぇぇぇ!」
「んごごごごごごごおごごおおおお!?」
そいでもって口に押しつけられた瓢箪。
「っぷあ! 無理だって言ってんでしょ!? 私は天狗よ! 酒なんかどれだけ呑んだって!」
「『どれだけ』、あぁ、そうだろう。けれど、無限に呑んでも、か?」
「無限って、貴女ね……――あっ!」
藍が頷く。
続けて、呑んだ。
デモンストレーションのように、延々と呑んだ。
そう、今、フタリの間にあるのは、まさしく無限に酒が出てくる、鬼の瓢箪なのだ。
「でも、藍、貴女まで付き合う必要はないんじゃないの……?」
「っぷぁ、きっつ! ……ふん、さっき、言っただろう」
「えっと……『私だっていやだ』?」
白い歯を輝かせ、藍が笑う。
「うむ。純真無垢かカマトトか、そんな連中ばかりの幻想郷、お前がいなければ、私は誰に下世話な話を振ればいい?」
「あー、うん。やっぱり、貴女も性質が悪い」
「調子が戻ってきたじゃないか」
そして、昔馴染みの悪戯気な表情に、文もまた、笑ったのだった――。
明けて、翌日。
太陽が昇り詰める頃、文は幻想郷を舞っていた。
午前中は机に向かっていたのだが、どうにもネタが出て来ない。
ならば新しいネタを探そうと、西へ東へ飛び回る。
少し前から変わらない、変哲のない日常だ。
いや、変わったか――文は小さく笑った。
「――様、前、前、木が!」
「わと、あっぶない危ない」
「何をされているんですか」
「いや、何故か頭が痛くて」
「お酒臭いです。駄目な方」
覚えはないが、全くだ――文は笑った。
「……何がそんなに可笑しいんですか」
「あやや。ともかく、ありがとうございます、椛さん」
「まぁ、貴女が可笑しいのは何時ものこと。どういたしまして、あや、や、射命丸様っ」
真っ赤な顔を向ける椛にこらえきれず、文は大笑いした。
――唐突な態度の変化は、椛なりの決着のつけ方なのだろう。
幼すぎるその変わりようが、文には可愛らしくてたまらない。
だが、相応に応えようとも思っていた。
「こ、この! いい加減、静かにしなさい!」
「あらさっさのひゃーっはっは」
「吹き飛べぇぇぇl」
ぴきりとしびれを切らした椛が、大剣を振う。
どうということもなく、文はよけた。
ミリ単位の回避。
剣の腹に手を当て、胸へと導き、呟く。
「ふふ、それじゃまだ、届かないわ」
目を見開く椛――開きかけた口が、結局、もごもごと閉じられた。
その後、文と椛は、幻想郷の東の果て、博麗神社へと降り立った。
特に理由があった訳ではない。
比較的、ネタが手に入りやすいだけだ。
此処には様々な人妖がひっきりなしに集まっている。
無論、今日もそれは当てはまっていた。
「あやや、面子までもが何時も通りですか」
「毎日来ている訳ではありませんよ?」
「右に同じくだぜ」
文の軽口に応えたのは、‘風祝‘東風谷早苗と‘魔法使い‘霧雨魔理沙。
「……毎日、じゃないわね。うん、毎日じゃ」
そして、‘巫女‘博麗霊夢。
霊夢の呟きに、早苗はにこりと笑み、魔理沙は茶をすすった。
毎日ではないのだろう。
一日飛ばしとか。
そんな有様を推測し、くっくっと文は笑う。
「可愛らしいお嬢さん方が、こんな辺鄙なところに飽きもせず」
「お前に言われたくな――早苗、スペカはちょっと待て!?」
「むぅ。ですが、魔理沙さんに同意します」
霊夢だけが頷いていた。
二人に、文は首を振る。
「私は、お嬢さんではなく、女ですから」
反論しようとする二人。
文は指を向ける。
「貴女のキスを数えましょう」
問いに、早苗は両頬に、魔理沙は額に手をあてた。
加えて、椛は耳だった。
文は笑う。
そして、言った。
「――私のキスを数えましょう」
二人と一妖が、一斉に首を振る。
「も、もう少し恥じらいをもってください、あやまる様!?」
「興味はなくもないんだが、聞かない方がよさそうだ」
「とんでもない部位が出そうですから、駄目です」
三名の反応に、文は、愉快気に、蠱惑的な笑みを浮かべるのだった――。
「ね、霊夢さん?」
「え、あー……うん。聞かない方が、いいでしょうね」
<了>
より正確に記すならば、両手に広げた彼女愛用のネタ帳――文花帖を睨んでいる。
穴が開きそうな程睨んでいるが、生憎と彼女はその手の力を持っていなかった。
尤も、開いたら開いたで悲鳴を上げるのだが……。
真夏の、しかも、締め切った部屋。
顔と言わず体と言わずじっとりと浮かびあがる汗が室内温度の無情さを物語っている。
下着は言わずもがな、薄いシャツさえもぬめりとした水分を無理やり吸わされ、歪な染みを作っていた。
にもかかわらず、文は唯、文花帖を願うような面持ちで睨んでいた。そこに、ネタを探し求めて。
「たっしっか、つい先日何かあったような……」
促音の度に頁を大幅に捲り、記憶にある該当箇所へと辿り着く。
直前、弛ませ繰っていた紙が微かな抵抗を示した。
首を捻る文だったが、考えても詮なしと指で頁を送る。
ピンっと抵抗の原因が弾ける。黒ずんだ小さな染み。血だった。
バンっ――それをそうだと理解した直後、文は何も考えず、否、何も考えられないまま、文花帖を閉じた。
心臓が高鳴る。脈拍が加速する。じっとりとした汗は、冷や汗へと変貌していた。
胸に手を当て、息を吸い、吐く。呼吸が整い、頭が回り出す。
其処に書かれていた言葉は――。
『爪に至る……』
――文は、記憶を放りだした。ぽっかりと黒くなった思考の隅に、紅と白の蝶が舞う。
ネタがない。
文の現状抱える問題を端的に示せば、そうなる。
ないったらない。徹底的にない。鞄の中を机の中を探してみても見つからないのだ。
ポケットを叩けばビスケットが二つに増えるかもしれないが、そも文の胸ポケットには一つのネタもない。
平均サイズの、けれど、形の良い胸が揺れただけである。
自身の胸を弄っても楽しくない。愉しくはあるが。いやいや。
溜息一つを零し、文は文花帖を適当に捲る。
断片でも良い。何かないか。
だから、ないんだってば。
『ローションプレイ』。
刺激的な言葉だったが、要は単なる痛み止めの使用方法だ。
以前に書きあげ印刷所に回したが、突っ返された。表現の自由の侵害だと申し立てたが、「だから?」と一蹴された。
『生足魅惑のマーメイド』。
是もまだいい。まだ理解できる。
けれど、残念ながら文の記憶は菩薩の様な笑顔でサムズアップする昔馴染みの八雲藍しか覚えていない。使えない。
『もけけぴろぴろ』。
丸みのある言葉に、しかし、文は唸りをあげた。
意味が解らない。文字がのたくっている事を鑑みるに、寝起きにでも書いたのだろう。だからなんだ。
再度、唸る。唸ってどうにかするつもりはない。どうにもならないから唸るのだ。
両手を後頭部で重ね、ごろんと背を畳に任せた。
一瞬だけのひやりとした心地よさを味わう。
数十秒経たぬ間に、温くなるだろう。
「どうしよっかなぁ……」
締め切りまではまだ幾ばくかの猶予がある。
とは言え、現状を考えればもたもたしていられないのは自明の理。
時間とは、時にしなる鞭を打ちつけられた馬のように駆けていくものなのだから。
けれど、とかくそのような状況こそ思考とは纏まらない。
遂には文の頭はオーバーヒートを起こしてしまった。
何時もの事だ。
何時から『何時もの事』になってしまったのだろう――文はぼんやりとそんな事を思う。
自身の履歴を頭の中で並べていく。今年の春はどうだったろう。去年は、一昨年は。
年表がずらずらずらずら……と勿体つけた巻物の様に伸びていく。
当たり前だ、と文は苦笑する。私は、齢千年を越えているんだから――。
「あー、思えば遠くにきたもんだ」
呟いた言葉に意味はない。千年と言う膨大な時間は、文に何の感慨も抱かせなかった。
ソレを思い付くまでは。
「……ふむ。半生を振り返る、ってのはネタとして悪くないかも」
腹筋の力だけで身を起こし、すかさず右手にペンを握りコメカミをリズムよく叩く。
「事件性があるのは……駄目か。使っちゃってるし。
なら、プライベートな事を徒然と並べてみる……。
ありきたりじゃ面白くないから」
トントン、トントン、トトン、トットットッン、トトントトトン、トトトトン、トンっ!
「恋愛遍歴……とか」
拍子が刻一刻と早くなる。ラテンのリズムで文は続けた。
「つまびらかにされる衝撃の事実!
まぁおたくの娘さんも! 奥様こそ名前が出ておりますわ!
次々と発覚する種族を超えた兄弟姉妹! いやいや、人妖みな兄弟!」
気に入らない奴は誰であろうがぶっとばす。博麗の巫女が言っていた。たぶん。
「天狗社会のみならず幻想郷全土を覆う骨肉の愛憎劇!
村八分改め郷八分にされた私は、あぁっ!
遂にその魔性の躰を十字架に晒される!」
ペンを振る手は既にロックバンドのドラムが速さ! 最高にハイって奴だ!
「そんな私を見上げるのはヒトリの少女とヒトリの女!
全部、全部、嘘ですよね、文様! あぁ椛! 可愛い椛さん! いいえ、私は真実しか記さない!
文、一体何がお前をそこまで……! 貴女、あぁ貴女こそが私のファムファタル! 貴女が私を袖にしたからよ――藍っ!!」
四畳半の室内に、嬌声にも似た文の叫びが響き渡った――。
「や、うん。袖にしたって言うのは真実じゃないわね。そもそも告白のこの字も……やめとこ」
若干テンションが落ちた文は、ペンを机に立て、代わりに右手の指でコメカミを掻く。ヌメっとした。
どうやら皮膚を軽く抉っていたようだ。彼女にすれば日常茶飯事、ままある事。
慌てず騒がず机の対面に転がる白い尻尾を左手に掴む。
モフっとした。
「尻尾……モフ……つまり!」
卓越した推理力に瞳を煌めかせながら、文は見上げた。
「なんの物好きかお手伝いをしてくれている白狼天狗の犬走椛さ、うわぉう!?」
素っ頓狂な声をあげながらも瞬時に文が思ったのは、右手で掴まなくてよかったという一点だった。
数瞬の後、自身があげていた叫びを思い出し、両手を畳についてじりじりと後退する。
視界に映る椛は変わらず虚ろで、要は爆発する寸前と思えた。
幾らも経たないうち、文の背にひやりとした感触が走る。
椛との距離はさほど開いていない。
四畳半では限界がある。
「違う、違うの、椛さん!
貴女を藍の幼い頃に重ねたりなんてしていないわ!
貴女は貴女で可愛いの! 食べちゃいたい! って、墓穴!?」
こらあかん。
懐柔の為か諦観の為か、文は歪な笑顔を浮かべる。
けれど、近頃は本気で痛いと感じるような椛の弾幕は、何時まで経っても降ってこなかった。
「椛さん……?」
荒い息を吐きながら呼びかける。反応はない。
そろそろと近づく。一向に変わらない。
眼前で手を振る、と、漸く視線が合わせられた。
「……っ!」
畳みを蹴り零距離を離脱しようとする文はしかし、音もなく伸ばされた椛の両手に肩を拘束される。
自身を捕らえる椛の成長に胸中で喜びつつ、とみに狂ってきたパワーバランスに口を開く、直前。
虚ろな瞳で見上げられ、文は言葉を失った。
椛が、ぼぅとした声で呟く。
「口付けって、どんなお味がするんでしょう」
どうしよう。
真実を告げようか虚構を告げようか。
『赤ちゃんは何処からくるの』程度の難題に、文は一瞬呆然となった。
陶然とした様の椛からどうにかこうにか抜け出した文は、隣室の炊事場から意識を覚ます冷たい水を淹れてやった。
こくりこくりと機械的に飲む椛は、次第に僅かの余裕が出てきたようで、表情も微かに柔らかくなる。
それでも今だ硬い動作に微苦笑しつつ、問う。
「で、何があったんです?」
大体の見当はついていますが――言葉を飲み込み、文は応えを待った。
暫く返ってこなかった。
椛は両拳を握りつつ口を開きかけ、噤む。
その代わりにか開かれた両手で口を覆い、人差し指を唇に這わせる。
両の指が真ん中の窪みで合わさり、何らかの連想を催したのだろう、頬を朱に染め首を振った。
可愛いなぁ、こんちくしょう――思いながら、微苦笑を苦笑に変える。
このままでは何時まで経っても語られそうにない。
文は助け船を出す事にした。
「椛さん?」
「サ、イエッサ!」
「なんで西洋式敬礼ですか」
突然の挙動に動揺するが、軽く流す。
「んー、此処に来る途中で何か見でもしたんですかねぇ」
ちらりと盗み見た椛は目を見開いている――どうしてわかったんですか?
わからいでか――頬を掻き、文は続けた。
「合躰シーンとか」
『どうしてそう言う事ばっかり仰るんですか!』
『しまっち!? つい願望が!』
『文様のばかーっ!』
一連の流れを想像し、文は悟りきったような目で衝撃波に備える。
しかし、先ほどの問いと同じく、予想した行動は返ってこない。
それどころか、椛は両手を頬にあて俯いた。
なんかキャーキャー言ってる。
「あの、えと、合躰、じゃなくて、その前、ですから、つまり」
「ははぁん、ペッティング」
「も一つ前です」
軽く流され、文は畳にのの字を書いた。
うずくまるのは一瞬、それもそうかと考えを改める。
椛は少女。とは言え、何の知識もないと思う方が間違っている。
夢を見ていると言い換えてもいい。少女だって便秘になるし水虫にもなる。
そう、年頃の少年少女は誰もがピンクドリーマー。
「そう言うのはむっつりって呼ぶのかしら……」
「わ、私はスケベじゃありません! 文様のばかーっ!」
「や、かつての私であって椛さんの事うぉう、三度目の正直ー!?」
そうそうこれこれ――吹き飛ばされる文の表情は、何処か安らかであったと言う。
「要は、ですよ。キスでも見たんでしょう、椛さん」
胸に手を当て驚愕の表情を貼り付ける椛に、文は腕を伸ばし掌を向けた。
「そもそも、此処まで引っ張るような話でもないんですけどねぇ……」
「はい……?」
「いえいえ」
簡単に済ます文。
一方、椛はもごもごと口を動かしていた。
白い尻尾も併せたように振られている。
耳までが左右に揺れていた。
部屋の片隅に鎮座していた扇風機――河童作。動力は言わずもがな電池――を回し、文は再び話を振った。
「で、どんな風だったんです?」
落ち付かない動作の椛はつまり、話を引っ張りたいのだろう。
ずいと身を乗り出す椛。
尻尾と言わず耳と言わず出鱈目に動いてもいる。
文の予想に違わず、自身の目撃談を話したくてしょうがないといった風だ。
扇風機程度の風じゃ冷えないようねぇ――両手を握り上下に振る椛に、文は微笑みを送った。
「えとですね、私、今日、お仕事だったんです。
あ、紅魔館のメイドさんがやってきました。
お強いですね、あのお方。
一つ二つの弾幕は避けれたんですが、『秘儀!』の掛け声とともに――。
って、すいません、話が逸れてしまいました。でも、惜しかったんですよ! ……文様?」
秘儀って十六夜咲夜の上級スペカだったんじゃないかしら。
乾いた汗を頬に流しながら、文は不意に浮かんだ疑問を無理やり飲み込み続きを促した。
「お仕事を終えた私は、お社に戻りました。
そこで、えっと、幾つか使っていない部屋があるじゃないですか。
そのうちの一つ、文様ならば知っているかと思いますが、私たち哨戒天狗の部屋の二つほど離れた部屋です。
部屋の扉が微かに開いていまして、私、変だなって思ったんですよ。
いえ、鍵云々ではなく、何時も締まっていたので……」
文には椛の言う部屋に覚えがあった。
と言うよりも、自身、何度か使った過去がある。
その時は文字通りの休憩であり、要はさぼっていただけであったが。
「更衣室で先輩たちに聞いてみたら、にまにまお笑いになって、『椛にはまだ早い。あの部屋は休憩室よ』と。
談話室なら他にもありますし、やっぱり、私、釈然としませんでした。
で、こっそりと千里眼で遠くから見たんですが……。
あ! あの、文様が知っていると申しましたが、そう言う意味では!
ただ、文様は報道を生業にしているお方、その手の噂の一つや二つご存知かと思っただけです!」
泡を飛ばしながらの弁明に、文は微苦笑しながら首を振る。
「構いませんよ。実際、お世話になった事もありますし」
「あ、やっぱり……わぅん」
「結局、そこで――」
椛は小さく頷いた。
「はい。その、く、口付けをされているお姿を、きゃー!?」
現場を思い出したのだろう、一瞬テンションが落ちたように見えた椛はばたばたと無意味に手を振った。
ついでとばかりに放たれる弾幕をかわしつつ、文は頬を掻く。
何か勘違いされていた気がしないでもない。
まぁいっか。
休憩室。正確に呼べば『恋人たちの休憩室』。
愛を語るのは許されていたが愛を放つのは許されていない。失敬。
天狗たちの勤務時間は長く、また、椛の様に律儀に家に帰る者は少ない。
そう言う事情の元、何時の間にか、使われていない部屋が寄り合い所となっていった。
報道部に身を置きながらもある程度の自由を獲得している文も、以前は常連だったと言う訳だ。
因みに、正式には千年以上使われていない。頭領天狗である天魔の粋な計らいの一つである。
だったら本番も許可しなさいよと思う文であったが、それは頑なに受け入れられなかったそうだ。
ヒトづてに聞いた話では、曰く『おおおおおお母さんは許しませんよ!?』状態で拒否されたらしい。
どうでもいい事を思い出しながら、文は我武者羅に腕を振る椛の動きを押さえた。
何時の間にやら鼻先を掠めていた弾幕はその速度にして文にとっても脅威。
加えて、当たるととても痛そうだった。
両腕を掴まれた椛は、目が覚めたようにはっとなり、弾幕をすぐさま止める。
「あ……も、申し訳ございません、文様!」
「いえいえ。それにしても、可愛らしい事で」
「可愛らしいと言うよりは格好いいおフタリです。両名とも殿方だったのですが」
そっちか!
「や、ではなくて」
「『そう、そのまま飲み込んで儂の鼻……』」
「何やってんだ鼻高天狗! あれ、そう言えば椛さん、遠くから見ていたのでは……?」
ぷぃす。
そっぽを向く椛。
年頃の少年少女は誰もが桃色間諜。
そうだとしても――椛の両腕を解放し、文はくすりと微笑を浮かべた。
「可愛らしいと言ったのは貴女にですよ、椛さん」
ピンっと耳が張る。
白い尻尾も針金が入ったように真上を向いた。
解っているのかいないのか、椛はそんな有様で視線を文へと戻す。
開かれた口から零れた声は、震えていた。
「どういう意味でしょう……?」
あからさまな怒気に多少困惑しつつ、表面を取り繕い、文は応える。
「どういうも何も。
キス一つで湯気まで出そうな様子は可愛らしいとしか。
しかも、他所様のですし。ご自身にその手の経験がないのが丸わかりと言いますか」
言葉にして、後悔した。
文にとっては紛れもない本心である。
真実可愛らしく思ったし、その心に卑下したものもない。
けれど、従来の挑発的な口調ゆえ、そう取られても仕方のない言い方をしてしまった。
焦ってるのかしらねぇ――内心苦笑する文に、しかし返ってきた椛の言葉は意外なものであった。
「わ、私だって、く、口付けの一つや二つ!」
目をぱちくりさせた後、文は一つ頷いた――ほぅ!
「それは初耳ですねぇ」
無論、椛の裏返った声は文に疑問を抱かせるに十分であった。
が、同時に眼前の少女がそう嘘をつくとも思えない。
例えこのような状況であろうと、だ。
両拳を強く握る椛に、文はずぃと身を乗り出した。
「宜しければ、お聞かせ願えますか」
「あ、正確には口付けられたと言いますか」
「ふむふむ。ご自身からではなく何方様にか……あー」
なんか微妙な予感がする。
「椛さん。お父上はノーカンですよ?」
「きゃいん!? か、母様にも!」
「ノーカンですってば」
該当部位なのだろう両頬をふにふに伸ばしつつ沈む椛。
予想通りの解答に、文は唯、苦笑を浮かべた。
と、浮上する椛。手は額に移っている。
「お、おでこに!」
「天魔様ですか」
「あぅぅ……」
天狗は一般的に他の種族より仲間意識が強い。
であるならば、その頂きはどうか。
語るまでもない。
少なくとも文が幼少の頃より、天魔のでこちゅーは天狗たちの通過儀礼とさえ呼ばれていた。熱烈。
片手で椛と同じように額に触れ、文は一瞬、過去に思いを馳せる。
その後、頬に、口にと手を移し――肩を竦めた。
夢見る少女じゃあるまいし、と。
文の動作は自身に対してのものだった。
しかし、対面の少女はそう捉えられなかったようだ。
「だ、だったら!」
「……椛さん?」
「あ、文様が」
拳を握り、睨むような視線で、椛が吠える――。
「文様が、く、口付け、してください!」
唐突な咆哮に、文は数度目を瞬かせ、頬を小さく掻いた。
不躾な椛の態度は頬を染める朱と相まって、程良く困惑している事がありありと伝わる。
常日頃なら文にして据え膳だと顔を輝かせる展開であるが、実際にはどうしたもんかと考えていた。
文の思惑をよそに、叫びの様な椛の願いは続く。
「そも、口付けなど単なる部位と部位の接触!
何をどう恥ずべき事がありましょうか!?
この犬走椛、その程度の事、事……!」
見て解る程度に、一杯一杯だった。
湿り気を帯びた怒声に、真っ赤に染められた頬に、文は、椛に重ねた。
昔馴染みである妖獣の幼い姿を、ではない。
自身の過去を重ねていた。
文は震える椛の両肩を掴み、問う。
「いいんですか?」
「に、二言はっ」
「そう」
返すやいなや腕を引き、椛を抱きこむ。
「え、わ、や、文様……?」
どんな表情をすればいいかわからない。
眉根を寄せ見上げてくる椛から、文はそう読み取った。
揺れる少女の声が、触れる胸を擽り、感触と共にまた一つ小さく笑む。
「触れるだけの口付けじゃ、気持ち良くないでしょう?」
文の笑みは、艶み。容姿云々を超えた所にある蠱惑的な艶やかさ。
「お、お任せします……っ」
感化され、椛は目を瞑り口を真一文字に結んだ。
扇風機を回しているとは言え閉め切っている室内。
指を伝う汗は自身のものだろうか。
それとも――。
吹く風の音よりも回る機首の音の方が、文の耳に煩く響く。
僅かな動きによる衣擦れの微かな音など届く訳もない。
ないのだが、視界に映る椛の耳はぴくりと動いた。
片手を、肩から日に焼けた顎へと移す。
小麦色の肌は幼さの象徴のよう。
果実とはそんなもの――。
――思いつつ、文は椛に、口付けた。
くちゅ、と湿り気のある音が残される。
椛の耳は否応なくその感触を味わった。
文の口は形もいい。
じゃなくて。
「……あの、文様。そこ、耳です」
「気持ちいいでしょ? かぷ」
「きゃわんっ」
やっぱり耳が弱いかぁ――文はしたり顔で頷く。きっと尻尾も弱いに違いない。
「付け根なんて弱点もいい所。蒙古斑も可愛らしい」
「ありませんっ! で、ではなくてっ」
「おぉ、と言う事は桃尻なのですね」
ちょいと失敬と顎から手を離す文。
腕がするりと伸ばされる。
椛の背へと。
「じょ、冗談はやめてください! 私は、私はっ!」
「……冗談はそちらでしょう? 可愛い狼さん」
「――! 子ども扱いしないでわぷっ!?」
文の腕は、下にではなく上に、椛の頭へと移り、そのまま抱きこむ。
向けられる困惑の色を宿した双眸を、見つめ返す。
視線が数瞬交錯し、相手の感情が流れ込んだ。
少なくとも、文にはその余裕があった。
「貴女のキスを数えましょう。頬に二度。額に一度。――子どもではなくて?」
椛にも返す余地はある。
額はともかく、頬は何度となくキスを受けている。
けれど、それがどうしたと言うのだ。椛とて、文の言わんとする事は解っていた。
加えて、文は抱きこんだ椛の髪を撫でている。
柔らかく、優しく、幾度も、何度も。
手と同じような声色で、続ける。
「私のキスを数えましょう。――馬鹿らしいわね。日が暮れる。
ねぇ、椛さん。……いいえ、椛。
貴女の迫り方、悪くないわ。及第点はあげる。
だけど、私は射命丸文。その程度で私の唇は奪えない。
――なんてね。
椛。可愛い椛。
焦る必要なんてないの。
自棄になっていい事なんて……うん、そんなにないわよ?
――全然ではないけどね。
可愛い椛。少女の椛。
ゆっくりと、階段を上がってきなさい。
天狗の先輩じゃなく、女の先輩として、そう言うわ。
そして、何時の日か、貴女が美味しそうになったら――」
くしゃりと歪む椛の表情。
羞恥とも憤怒とも、大きな落胆とも読み取れた。
だが、視線は逸らさない。ただ、文を見つめている。
「『なったら』……?」
故に、文は、己が言葉を受け入れていると断じた。それは、間違っていなかった。
「――その時は教えてあげる、奪ってあげる。全力で、全身で、全部を、ね」
言葉を最後に、文は椛を抱く力を強めた。
部屋には変わらず扇風機の回る音が響いている。
故に、胸元であげられる嗚咽など、彼女の耳には届かなかった――。
「――と言う感じでさぁ。もーおぅ椛ってば可愛い! 私ったらいい女!」
「それがなけりゃ素直に同意してやらん事もなかったんだがなぁ」
「あらん。じゃあ、抵抗しつつも同意してくれるの、藍?」
時と場所を移して。
椛を家まで送り、そのまま帰るのも味気ないと文は博麗神社の裏手にある間欠泉へとやってきた。
間欠泉――温泉には先客がおり、びばのんのと鼻歌を一つ。
要は、金毛九尾の妖獣八雲藍が其処に居た。
かくして今に至る。
「汗を流したばかりだと言うのにべたつくんじゃない」
しなだれかかる文を、藍は面倒臭そうに払った。
湯に浮かべた盆から杯を掴み、藍がくぃとあおる。
するりするりと酒が喉を通っていく。
杯がそのまま回された。
文が指をからめ杯を持ち上げると、無遠慮に酒が注がれる。
透き通った色合いと極僅かな酒臭が喉をそそった。
注がれ終わる前に口をつけ、呑む。
文の無作法に顰め面を浮かべながら、それでも、藍がポツリと呟く。
「同意してやるさ。お前はいい女だよ」
「あったり前でしょ。ずぞー」
「お前なぁ……」
向けられる半眼など何処吹く風、文は滑り落ちる酒を楽しんだ。
喉を焼き、胃を熱くする。
旨かった。
たっぷりと嚥下し終わった後、ふと気付く。
「これ、萃香様の酒じゃないの?」
ひゅぅと口笛を吹く藍。的中。
「流石だ」
「いい女は色と酒を好むのよ」
「うむ、大抵の輩は色も酒も好むな」
もっともだ。
文は頷きつつ、注意深く藍の持つ瓢箪を盗み見た。
紺色のソレには一枚二枚と用途不明の札が貼られいる。
どう見ても、天狗の上司である‘小さな百鬼夜行‘伊吹萃香の瓢箪であった。
また杯を満たす藍。一気にあおる文。
「善意の第三者!」
「気付いていただろうが」
「えー、文ー、わかんないって感じぃ?」
「うっわ、むかつく。だがまぁ」
「どったの、ソレ?」
昔馴染みの間柄は伊達ではない。
自身の口元にあてていた指を離し、文は尋ねる。
他の者ならばいざしらず、眼前の女が無駄な無茶をする訳がない。
文の持つ杯を軽やかに奪い、満たしながら藍は応える。
「勇儀様から預かった」
至る経緯はどういうものだったのだろう。
考えていると肩に飛沫がかかった。
振り向いた文は、見た。
杯を持つ藍の腕が、否、全身が小刻みに揺れているのを。
「お前が来る前だ。
此処に、萃香様と勇儀様、そして、キスメがいてな。
勇儀様が目を離していた一瞬に、萃香様が愛し子の頬にぶちゅっと。
……凄かった。鬼だ。いや、元から鬼なんだが。しかし、鬼だ。
私をしてキスメの目と耳を防ぐので精一杯だった……っ」
かたかたと震える藍の両肩を押さえ、文は叫ぶ。
「藍、いいの、もういいの、わかったから……!」
「だから、私は見た、聞いた。おぉおぉぉ!」
「藍っ」
呼び声と共に、抱きしめる。美しい金色の髪が胸を擽り、背中には腕が回された。敏感な位置に触れるが、意に介さない。
自身と同じかそれ以上の修羅場を経験しているであろう最強の妖獣が恐怖により震えている。
文は、ただ抱きしめる事しか出来ない非力を、心中で嘆くふりをした。
ふりをした。
「……藍。そこ。羽の付け根。気持ちいいんだけど」
「胸に顔を埋められているからな。お返しだ」
「あー、パフパフ。やかましわっ」
引っぺがす。
「はっはっは、痴話喧嘩を見せつけられたのだ。私とて無為に戯れたくもなる」
「普段は常識人ぶってるけど、貴女も性質が悪いわよねぇ」
「お前に言われるとはな。少し反省しよう」
何処まで本気かわからない口調と笑みに、つられた文も呆れて笑う。
態勢と落ち着きを戻した藍が杯をあおる。
つ……と口の端から酒が垂れていた。
怖かったのは本心だったようだ。
「ま、私も、紫様が橙に粗相をしようものなら白毛となりて相対せんと思うがな。……ん?」
腕を伸ばそうとする文だったが、不意に向けられた視線により気付かれる前に引っ込めた。
「あら、貴女も? 椛や勇儀様ならともかく……ふーん」
「……含みのある言葉だな。何が言いたい?」
「たかがキス一つでってところかしら」
これはこれで文の本心だった。
キス一つで動揺したり激怒したり反旗を翻したり。
正直な感想として、『たかが』その程度の事で忙しいものだ――そう思っている。
文に杯を渡し、藍が微苦笑と共に弁明する。
「そう言うな。椛は少女だろう。勇儀様や私とて、自身が対象なら然程――おぃこら、なんだその笑い顔」
受け取り酒を注がれながら、文は先程よりも含みを持つ笑みを浮かべていた。
「んー、勇儀様は知らないけどさ。貴女はそうだろうなぁって」
「どういう意味だ言ってみろ、あ、やっぱり言うな」
「えー。初心なねんねじゃあるまいしぃ」
「そっちか。なら構わん」
「あん、つまんない」
唇を尖らせる文に藍の微苦笑は続く。
するりするりと酒を喉に落としてから、追撃。
「若気の至り?」
「今にして思えばな」
「当時は本気だったって?」
「私とて恋の一つや二つ」
「すっくないわねぇ」
肩を竦める藍。反応はそれだけだった。
多少なりとも嘲りの響きを匂わせていただけに、文は肩透かしを食らった気分になった。
軽口の返しに、何か面白い事を口にしないかと思っていたのだ。
或いは、そんな心中を読まれていたのかもしれない――。
「……お前に言われるとな」
「え、あ、ごめん。ちょっと聞いてなかった」
「ん。百戦錬磨のお前にかかれば、笑われても仕方ないのかもな、と」
言葉を切り、藍がにやりと笑う。
文は残った酒を飲み干した。
ずぃと差し出す。
とくとくとく。
もっきゅもっきゅもっきゅ。
――ガソリン、注入。
「ぷっはぁ! それは私の恋愛遍歴を語らせようとゆー算段かしら!?」
「あっやっさんのいい所、みってみたい!」
「どんと来いっ!」
とくとくとく、もっきゅもっきゅもっきゅ。
「ちょっとどうかと思うシチュの説明もあり!?」
「イエスっチキンレースなんてビっちぎれ!」
「何かぽろっと本音が出なかった!?」
とくとくとくもっきゅもっきゅもっきゅ。
「宜しい! NBV文さんの爛れた関係を教えてあげましょう!」
「っきゃーあやさーん! 橙と紫様が出てきたらぬっ殺す!」
「ふふん子狐ちゃんね。知人が出てきても知らないわよ?」
「香霖堂店主の筆下ろしをやってたとしても驚かない!」
「……え?」
とくとくとく……。
「ん、文?」
傾けていた瓢箪を慌てて戻し、動きの止まった文に、藍が怪訝な表情を向ける。
当の文は視線にも気付かない様子で、首を捻っていた。
何かを思い出しそうなのだが……。
白、黒、水、紅、白――。
「文、文!?」
「え、あ、何?」
「何って、お前……」
呼びかけられるまで、文の肩は小刻みに揺れていた。
その有様を不可解に思った藍は、しかし口を噤む。
確実に何がしかの傷を抉ると思ったからだ。
代わりに、手をあげ杯を煽る動作をした。
促され、文は喉を熱くする。
もっきゅもっきゅもっきゅ。
とくとくとく、もっきゅもっきゅもっきゅ。
ともくとくとく! もっきゅもっきゅもっきゅ!
「くぁ、旨い!」
「っきゃー、文さんかっこいー!」
「さぁーって、耳ぃかっぽじって聞きなさい!」
――ガソリン、再注入。
「……っても、最近はご無沙汰なんだけどねぇ」
「以前にそんなことを言っていたな」
「ま、色々あったから」
文の言う『色々』は、主に此処最近頻繁に起きる異変のことだ。
大きいものは一年に一回、多ければ二回。
小さいものなら、それこそ月単位。
無論、他の事物、或いは人物も含まれていたのだが、文は元より、藍も追及しなかった。
「じゃあ、少し下って、か」
「百年くらい前? んー、執筆に夢中だったわね」
「あぁ、『今は仕事が恋人』って地を這っていたっけ」
ネタが落ちていないものかと庭の小石をどかしたりしていた。
今とさして変わっていない。
それはそれで素晴らしいことだと言える。
仕事であろうと趣味であろうと、一つに対しての情熱が永く変わっていないのだから。
「その前は、専ら鍛錬に時間を費やしていたわ。いい女は自分磨きもしないと」
「実に嘘臭い……と言いたいところだが、実力を知っているとな」
「……貴女に素直に同意されると、なんだかむず痒いわね」
そうか? ――視線で問う藍に、文は曖昧な笑みを返した。
声に、微かな湿り気があった。
文自身が、そのことに少し驚いていたのだ。
酔いが予想以上に回っているようだ――顔を逸らし、微苦笑を浮かべる。
とくとくとく……。
戻した時には、また、杯が満たされていた。
少しの揺れでも零れ落ちそうな嵩。
文は、笑う。
静かに飲みほし、向きあい、続けた。
「だって、貴女に恋をしていた、その後の話なんだもの」
ぴく、と藍の耳が動いた。
文は、微笑う。
杯を渡し、注いだ。
微かの揺れでも零れ落ちそうな嵩。
静かに飲み干され、向き合われ、応えられる。
「そうだったか」
藍もまた、微笑んでいた。
――静かに、静かに、一つの話が、終わった。
同時。
藍がかたかたと震える。
文もがくがくと震えていた。
互いに視線を逸らし、押し黙る。
揺れによる湯の波紋が交わった頃、先に、どうにか藍が口を開いた。
「……その、なぁ、文。文さん」
「な、なにかしら、藍さん」
「いや、あの、お前」
まさか――続けられた言葉は、文が立ち上がった音にかき消される。
姿勢的に、文を見上げる藍。
視界に映るのは、『魔性の身体』。
藍をして、そう思わせられる肢体。
だと言うのに――水泡に帰した言葉を、今度は文が、言った。
「まさか、って、はっ、なに、貴女、こ、この私が、私が」
「やめろ、言うな、止まれ文ぁぁぁぁぁ!」
「乙女だとでもっ!?」
無音。
ただ静寂。
無情なほどの、静けさ。
ぽとん、と文の手から瓢箪が落ちる。
「そんな……このナチュラルボーンビッチ・文さまが、え、いやいやそんな御冗談を、あ、あれ?」
「お、おおおお落ち着け、文、落ちつつつつくんだ!」
「ちょっと藍、調べてみて!?」
間。
「乙女……! まごうことなき乙女……!」
「うっそ、い、いやぁぁぁぁぁ!?」
「私だっていやだ! ……はっ!」
藍が目を見開いた。
これ以上何があると言うのか。
何もないから、言葉を失ったのだ。
「文、それ以前に、お前、口付けすら……!?」
「ばぁ、馬鹿にしないで! あるわよ!?」
「だよなぁ」
「て、天魔様から……おでこに……」
「すまない。言いづらいが、それはノーカンだ」
ふと、文の頭に、椛との会話がよぎった。
――私のキスを数えましょう。
――んっと、ぜろ。
――以上。
――あ、椛の耳にしたわね。わぁい、一つだぁ。
文は、湯に戻った。
より正確に記すならば、崩れ落ちた。
膝をしこたま打ち付けたが、声一つあげなかった。
あげられなかった。
傍の藍も同じだ。
かける言葉が見つからない。
傷心というには余りにも深すぎる傷を負った友に、何を言えよう。
何ができよう――(……否!)
腕を伸ばす。
手で掴んだ。
右手には文の肩。
「忘れよう、文」
「わすれるって、なにを……?」
「今日、いや、今夜、この場で語らったことをだ」
力強く言う藍に、文は儚げな頬笑みを返した。
藍の提案は魅力的なのだ。
ただ、なかったことにする。
確かに忘れられるなら手っ取り早い。
けれど、どうやって?――文は、無理やり微笑み、首を横に振った。
「無理よ……」
筈だった。
しかし、動かない。
藍の手に、固定されていた。
「無理じゃないさ」
「……ら、ん?」
「文」
呟くように呼ばれた名前。
思わず、文は身を固くした。
視界に映るのは、藍の端正な顔立ち。
そして、伸ばされた左腕。
「え?」
「おら呑めぇぇぇ!」
「んごごごごごごごおごごおおおお!?」
そいでもって口に押しつけられた瓢箪。
「っぷあ! 無理だって言ってんでしょ!? 私は天狗よ! 酒なんかどれだけ呑んだって!」
「『どれだけ』、あぁ、そうだろう。けれど、無限に呑んでも、か?」
「無限って、貴女ね……――あっ!」
藍が頷く。
続けて、呑んだ。
デモンストレーションのように、延々と呑んだ。
そう、今、フタリの間にあるのは、まさしく無限に酒が出てくる、鬼の瓢箪なのだ。
「でも、藍、貴女まで付き合う必要はないんじゃないの……?」
「っぷぁ、きっつ! ……ふん、さっき、言っただろう」
「えっと……『私だっていやだ』?」
白い歯を輝かせ、藍が笑う。
「うむ。純真無垢かカマトトか、そんな連中ばかりの幻想郷、お前がいなければ、私は誰に下世話な話を振ればいい?」
「あー、うん。やっぱり、貴女も性質が悪い」
「調子が戻ってきたじゃないか」
そして、昔馴染みの悪戯気な表情に、文もまた、笑ったのだった――。
明けて、翌日。
太陽が昇り詰める頃、文は幻想郷を舞っていた。
午前中は机に向かっていたのだが、どうにもネタが出て来ない。
ならば新しいネタを探そうと、西へ東へ飛び回る。
少し前から変わらない、変哲のない日常だ。
いや、変わったか――文は小さく笑った。
「――様、前、前、木が!」
「わと、あっぶない危ない」
「何をされているんですか」
「いや、何故か頭が痛くて」
「お酒臭いです。駄目な方」
覚えはないが、全くだ――文は笑った。
「……何がそんなに可笑しいんですか」
「あやや。ともかく、ありがとうございます、椛さん」
「まぁ、貴女が可笑しいのは何時ものこと。どういたしまして、あや、や、射命丸様っ」
真っ赤な顔を向ける椛にこらえきれず、文は大笑いした。
――唐突な態度の変化は、椛なりの決着のつけ方なのだろう。
幼すぎるその変わりようが、文には可愛らしくてたまらない。
だが、相応に応えようとも思っていた。
「こ、この! いい加減、静かにしなさい!」
「あらさっさのひゃーっはっは」
「吹き飛べぇぇぇl」
ぴきりとしびれを切らした椛が、大剣を振う。
どうということもなく、文はよけた。
ミリ単位の回避。
剣の腹に手を当て、胸へと導き、呟く。
「ふふ、それじゃまだ、届かないわ」
目を見開く椛――開きかけた口が、結局、もごもごと閉じられた。
その後、文と椛は、幻想郷の東の果て、博麗神社へと降り立った。
特に理由があった訳ではない。
比較的、ネタが手に入りやすいだけだ。
此処には様々な人妖がひっきりなしに集まっている。
無論、今日もそれは当てはまっていた。
「あやや、面子までもが何時も通りですか」
「毎日来ている訳ではありませんよ?」
「右に同じくだぜ」
文の軽口に応えたのは、‘風祝‘東風谷早苗と‘魔法使い‘霧雨魔理沙。
「……毎日、じゃないわね。うん、毎日じゃ」
そして、‘巫女‘博麗霊夢。
霊夢の呟きに、早苗はにこりと笑み、魔理沙は茶をすすった。
毎日ではないのだろう。
一日飛ばしとか。
そんな有様を推測し、くっくっと文は笑う。
「可愛らしいお嬢さん方が、こんな辺鄙なところに飽きもせず」
「お前に言われたくな――早苗、スペカはちょっと待て!?」
「むぅ。ですが、魔理沙さんに同意します」
霊夢だけが頷いていた。
二人に、文は首を振る。
「私は、お嬢さんではなく、女ですから」
反論しようとする二人。
文は指を向ける。
「貴女のキスを数えましょう」
問いに、早苗は両頬に、魔理沙は額に手をあてた。
加えて、椛は耳だった。
文は笑う。
そして、言った。
「――私のキスを数えましょう」
二人と一妖が、一斉に首を振る。
「も、もう少し恥じらいをもってください、あやまる様!?」
「興味はなくもないんだが、聞かない方がよさそうだ」
「とんでもない部位が出そうですから、駄目です」
三名の反応に、文は、愉快気に、蠱惑的な笑みを浮かべるのだった――。
「ね、霊夢さん?」
「え、あー……うん。聞かない方が、いいでしょうね」
<了>
俺のキスを数え……酒だー!酒を寄越せーッ
なんつ~か! ねぇ! あれでこれでなになんて!
100点持っってけぇ!w