「また、おかしなことになったわね……」
喧噪の中に、永琳は立っていた。
感じたことのない程の、と表現しようと思ったが、それは嘘だ。ずっと、ずっと昔――もう誰も覚えていない程の昔なら、これほどの喧噪は日常だった。天と地以外はすべて人の姿で埋まっていて、色とりどりなはずの灰色の世界が広がっている。常に何かに追われている仮初めの平和の中で安穏とした振りをして生きていく生活……彼女はそういうものを知っていた。
今の今まで私は何をしていたんだっけ……永琳はそう首を傾げて不意に現れたとしか言いようのない世界をゆっくりと見回した。足下に広がる白と黒の縞模様が気になるが、それよりも別のことが気になった。そう、研究の真っ最中だったのだ。確かBの処理が終わったのだから……、
「おい、あんた!」
その声は、人混みの中でも一際大きく聞こえた。自分に向けて掛けられたと認識した声は何故かはっきりと聞こえるものだ。
どうやらこの一瞬の間に永琳の周りには誰も居なくなっていて、人混みは塊となって黒い道を避けるようにして集まっていた。黒い道ではやたらとスピードの遅い物体がのろのろと蠢いており、それの前にある窓から人が乗っているのが見えた。
どうやら、声を掛けられたのはあれにぶつかってしまうからだろうと瞬時に理解して、慌てた振りをして人混みの中へと飛び込む。それから素早く周りを確認して、この世界がどうやって動いているのかを把握した。
棒にぶら下げられている光が赤色の場合は黒い道を歩いてはいけないこと、逆に緑色の時は縞模様の上に限り歩くことが可能であること、すなわち黒い道はよくわからない物体専用の道であるということ……それくらいはすぐに分かった。天才だから、と自己満足しようかと思ったが、うちの頭の良い方の兎でもすぐに理解することは可能だろうと思い直して、やめた。大体、余り意味がない。意味がないことは大好きなのだが、ここでそれをして時間を潰していると、さっきみたいに理解の範疇にない出来事で注意されてしまうかもしれない。出来るだけ他人に違和感を持たせないのが、上手くやっていくコツだ。
あと、もう一つ分かったことがある。この姿は異様に目立ってしまうということだ。
「まぁ、迷っていても仕方がないわね」
ここはどこかと似ている。彼女が昔住んでいた都の劣化ヴァージョンとでも言ったらいいだろうか、とにかく、この社会を外見だけで理解するのはそう難しいことではなさそうだった。何故自分が此処にいるのかなど、そういうものは別として。
ひとまず、服が良くない。幻想郷ではどんな服装でもおかしいなどとは言われないが、一人鮮やかな原色を纏っているのは構図として少しばかり滑稽だ。急に生まれた疑問を解決するためにも、乗り気ではないがこの世界に馴染む必要がある。周りの人を見る限りでは、服装はスーツが自然だろうか。太股を露わにするのは少々躊躇うので、何か他に自然なものはないだろうか……、と。
見回した先、もう一人、やたらと浮いている人物を発見して永琳は思わず吹き出しそうになった。
「……姫」
「あら、永琳じゃない。どうしたのよこんなところで」
姫――蓬莱山輝夜だった。いつも通りの鮮やかな桃色の衣装を纏ったまま、僅かに幼さの残る表情を疑問の形に変えて首を傾げる。綺麗だ、とか可愛いな、とかいつものような感想を抱いている場合ではないので、無言のまま腕を取って強引に人混みを突破した。「えっ、ちょっと永琳?」と困惑する表情は珍しいだろうから見てみたいという気持ちも湧いてきたが、今は仕様がない。無事に永遠亭に戻ったら少し困らせてみようかしら、と口を斜めにして、姫を路地裏へと引きずり込む。
「……ぷはっ、もう、一体永琳ったらどうしたのよ?」大きく息を吸い込んで、輝夜は質問を繰り返した。
「姫、」永琳も同じように言葉を繰り返す。「今、私は混乱しているのです」
「そうには見えないけれど」
「外見で判断するのは余り利口ではありません。人間には心と頭脳という厄介なものがありますから」
「はいはい、それで?」彼女は聞き飽きたという風に首を振って先を促した。心外だ。
「混乱しているのは何故か分かりますね?」
「分かるわ」それだけ言って、小さく頷いてから輝夜は黙った。訊ねたことだけを答えるというのは効率的でなかなか利口と言える。もちろん場合によるけれど。どうせ面倒だっただけだろう、という真実も脇には存在している。なかなかに無意味な分析だったようだ。
「つまり、私にはここがどこだか分からないのです」
「私には分かるけれど、ね」
「分からないから…………え?」耳を疑った。「姫、分かるのですか?」
「えぇ、簡単よ。難題ですらない。大問一、程度だわ」
「大問って何ですか?」
「さぁ? 寺子屋の教師が言ってた言葉の一つよ」
「そりゃ、分からないわけだわ。変な言い方ですね、そりゃ、って」そこで永琳はくすくすと笑いを漏らした。何かがおもしろかったわけではない。
「永琳が分からないことなんて」輝夜は呆れ顔で続けた。「死ぬことと、外の世界のことだけだわ」
「なるほど、ね」
永琳は頷いて、静かに細長い天を仰いだ。太陽の高さから考えてちょうどお昼時……時間は幻想郷とずれてはいないようだった。
ここは、外の世界。
そう理解した瞬間から、知っている限りの外の情報を記憶から引きずり出してみた。けれどそれは非常に少ない。なるほど確かに姫の言うとおり、永琳の持っている外の知識は驚くほど僅かだ。天才いくら言われても、インプットなしにアウトプットすることは出来ないと言う良い例だ。普段からやたらと頼ってくる人たちに混乱した自分の姿を見せてやりたいと思った。
「東京、って書いてあるわね」
「首都の名前……のはずですよ。私の知識が遅れていなければ」
「首都、ってなあに?」
「月の都で言う×××のことです」
「はあ」
「はあ、って何ですか?」
「感嘆符」
とにかく格好をどうにかした方が良いということを話して聞かせ、二人は周辺で一番背の高い建物へと向かった。古びたロゴが壁に大きく張り付いていて、それが廃された威厳のようなものを醸し出している。栄えているように見えて、人々は余り栄えてはいないようだ。首都という情報も、本当に古いものに変わってしまっているのかもしれないと感じる。
正直に言うなら、少し気持ちの悪い空間だった。洋服屋らしき場所には辿り着いたが、地面が鏡のように天井を映し出していて、感覚が狂いそうになる。その天井に埋め込まれた蛍光灯も漢字のように優しい光を発するわけでもなしに、ただただ真っ白な光で物が見えるようにとだけ辺りを照らしていた。
「予想以上に、アーティフィシャルね」永琳は溜息を吐いた。
「何だっけ、事実は小説よりも奇なり?」
「まぁ、間違ってはいませんけれど」
周りで買い物をする人を見ながら、籠に洋服を放り込んでいく。自分の物も輝夜の物も、適当に永琳が見繕ったものだ。普段と余り変わらない。
「そんなに多くて良いの?」
「お土産があった方が面白いでしょう? ウドンゲを着せ替え人形にでもして遊ぶとか」
「なるほどね」
まさか着せ替え人形にされるのが姫自身だとは今は言えまい。そう一人ほくそ笑んでから、永琳は重要なことに気がついた。
「お金……か」
「永琳のミスね。ヘマをやらかしたのね」輝夜がころころと笑う。笑い事ではなかった。
先立つ物がないと社会ではやっていけない。それこそ幻想郷のような場所でもない限りは。もちろん幻想郷でも人間はそれがないと生きていけないのだけれど。
レジ、と書いてある受付のような場所で、客は金を払っている。この光景は月でも見たことがあるから分かる。問題はやはり金だ。紙切れを出しているのが見えるが、さすがにどんな紙でも良いというわけにはいかないだろう。けれどあんな紙切れに金としての価値があるのだろうか、と疑問に思う。人が名付ければもちろん金になるが、最初に紙をそれにしようと言い出した人物は誰だろうか?
金属ならどうにかなると思ったが、紙ではどうしようもない。金閣寺の天井でも崩して売れば金になるだろうか……。
「ちょっと永琳、どうしようもないこと考えてない?」
「どうしようもないことを考えています」
「もっと他にないの? どうしようもなくないこととか」
「盗む、ですか」
「とんでもないことね。疲れてるんじゃない?」
「買い物は諦めましょうか」
「妥当だわ」
「あぁ、でも姫の髪が地面に付くのは余り嬉しくありませんから……、」永琳は左手に巻いたリボンを解いて、輝夜の頭にそれを持っていった。
「……? 何してるの?」
「結んでいるのです。後ろで一つに……出来ました。お似合いです」
「ありがとう」姫は優しく微笑んだ。「けれど鏡がないから見れないわね。ハクタクがいれば良いのに」
鏡という意味よ、と必要ないのに付け足して、彼女は興味を失ったかのように洋服売場から離れた。最初から興味があったのは自分だけだったのかもしれない、と苦笑して、姫の後についていく。
透明な自動ドアから外へと出て、汚い空気を肺に取り込んでむせた。同じくむせている姫の背中をさすってやりながら、永琳は次に行く場所を考えた。といっても、今度は逆に人気のない場所というだけのことだが。そこで二人でこれからどうするかを話したいだけだ。人混みは気持ちが悪いし、人が多ければ多いほどに空気が悪い気がする。原因は黒い道を動く物体で、人が多い場所ならそれも多い。そういうものなのだろう。
「ねぇ永琳、飛んじゃ駄目かしら?」
「駄目ですね。さすがに浮くでしょう」
「上手いこと言ったつもりかしら」
人混み云々というのが、やがて杞憂に終わったということはすぐに分かった。少し歩けばビル群の姿はぷつりと途切れ、雑草ばかりの草原が広がっていたからだ。あちこちに彼岸花の姿が見え、この草原は何かしら退廃的な物を感じさせた。
「卯東京駅?」輝夜が遠くに見える看板を指さした。「酉東京駅もあるのかしら」
「さぁ?」永琳は両の掌を上に向けて持ち上げる仕草をした。「卯酉で同じ名前が付くのは何だかおかしな気がしますけれど」
「違いないな」姫は肩を竦めて笑った。
「何ですかそれ」
「魔理沙の真似」
「さいで」
ビル群の中とは空気が違う。少し離れただけでもこんなに違うものなのかと思わず口元に笑みが浮かぶ。空気の善し悪しもすべて調整されていたし、幻想郷ではどこの空気も綺麗だ。だからこんなことは検証したことがなかった。
「で、永琳。駅っていうのは……」
「まぁ、おそらく月のアレと同じ物でしょう。あるいはそれの下位互換のような何か」
「私、アレ嫌いなのよね」
「それは……、姫は空間移動装置に慣れていましたからね。庶民の乗り物ですよ」
「随分と荒れた土地ね」輝夜は話題を無理矢理変えた。「草まみれ」
「そう見えるかもしれませんが、実は都会よりも余程生に満ち溢れているのですよ。コンクリートで固めて殺した土地よりかは」
「物は言いようだわ」
「いやいや、これは真実です」永琳は首を振って、「まぁもっとも、永遠たる私たちには生と死のどちらが正しいかなんて分かるわけがないのですけれど」
「それこそ、永久に」
歩きましょう? と姫が言ったから、二人は駅に向かって歩きだした。理由はない。ただなんとなく、行くあてがなかったから目に見えた物に向かっているだけだ。昔から、生命はそうやって進化してきた。永遠が進化するかどうかは……永遠の後になれば分かることだろう。
輝夜は道端の彼岸花をへし折って永琳に渡した。これをどうしろと……と首を傾げる彼女に、「難題よ」と微笑んでから、跳ねるように先を行く。ふむ……と難題に頭を捻りながらゆっくりと輝夜についていくその構図は、どこか母親と娘のそれに似ていた。
永遠に、親子という概念はない。ただ、なんとなく、昔見たことのあるそれと偶然重なってしまっただけのことだ。
我ながら、馬鹿馬鹿しい。
我ながら、微笑ましい。
どちらでも良いか、と永琳は笑い、手にした花の茎を変形させて輝夜の髪に挿した。毒々しいまでの紅が黒髪に映える。大きな花が、彼女の顔を少しばかり幼くした。
「お似合いですよ」
「む……ちょっと予想外だわ。でも正解」
そう言って微笑む姫の顔が美しいと、これからも永遠に見ていけるならそれは幸せだと、そう思ってしまうのは自己満足の類だろうか? 既に自分自身も制御できなくなっている証拠か。
別に構わないな、と自分を笑うことが出来るから、それで良い。
綺麗なものを求め続けることが生きるということなら、確かに永遠は生きているのだ。
「珍しいわね、永琳がニヤニヤしているなんて」
「ニヤニヤ出来ることを考えていたのです。非日常はすべからく美しいものですから」
「永琳は美しいものを見るとニヤニヤするわけ?」
「その通りです」
「じゃあ普段からそうしてても良いものだわ」
「正論ですね」
大きく輝夜が欠伸をして、目の端から僅かな涙がこぼれ落ちる。すぐに袖で拭って、髪に挿した毒草の位置を整えた。普段見ることのない姿というのは、美しいと同時に興味深い。それを見て自分や他人がどういう心境の変化を得るのか考えるのが楽しい。他人の場合すぐに終わってしまうから余り意味はないのだけれど、自分のについてはいつまでも答えが出ない。
論より証拠。だからその姿を実際に眺めてみればいい。予想通りだったり、そうでない結果が生まれる。
「見て、永琳。駅の方……人がいるわ」
「それは、その駅が機能しているという証拠でしょう」
「つまらないこと言うのね。もっと面白い返し方して頂戴」
「無茶振りです」
「なぁに、無茶振りって」
「宴会の幹事の仕事です」
ちょうど列車が駅に着いた頃なのか、駅からは多くの人たちがこっちへと向かって歩いて来ていた。ビル群で見た人間たちよりかは、少しばかり豊かな表情をしている。精神の豊かさだ。それだけ見て、永琳はここはやはり首都と言うには退廃的すぎると、結論から言えば首都ではないのかもしれないと判断した。
しかし、と真逆の考えも首をもたげる。首都であるほど、精神は病んでいくものではないか? 郊外へ、地方へ行けば行くほど精神は豊かに守られていくのではないかと。そういう考え方もありね、とだけ結論づけて横でのんびりと歩く少女の真似をしてみようと大きく口を開いた。誘発されるように欠伸が漏れる。
「駅に行くの?」
「列車が来るでしょう」
「でも無一文よ」
「無一文でも乗せてくれる列車があってもおかしくありません」
「……確かに、私もお金を払って乗った記憶はないわ」
「それは、家来が払ってくれていたからです」
「貴女の発言は矛盾してるわ」
「可能性の問題です。矛盾ではありません」
そう言って、向かってくる人混みの中に身体を滑り込ませる。観光に来たような様子の人々に、あの都会に何か見所があるのかしらと首を傾げながら輝夜の手を引いて駅へと進む。
――ねぇ、×××、今……。
――何? 結界の綻びでも視えた?
唐突にはっきりと聞こえた声に、思わず永琳は振り返る。自分に向けられた声には敏感……先ほどのそれと同じだ。僅かな揺らぎが生じているのを感じた。
「姫……、今、」
「何? おかしな声でも聞こえた?」
意地悪そうな笑みを浮かべてそう返す輝夜と共に、後ろを眺める。誰の声か……既に人混みに消えてしまったのか見分けがつかないだけか、それらしき姿は見あたらなかった。
一瞬の、幻想との邂逅。
今なら幻想郷に帰れたかもしれないという漠然とした感覚が急速に全身を支配する。けれど、引き返してももう遅いということもすぐに分かった。
無駄なことをしていても仕様がない。
幸い、二人には永遠の時間がある。
すぐに戻れるかどうかということはさほど問題にはならないのだ。
「どうするの?」
「駅へ行きましょう」
「良いの?」
「良いのですよ」永琳は微笑みを向けて、考えていることと同じことを口に出した。「私たちには、永遠に時間がありますから」
考えているのと同じ言葉を口にするのは、彼女にとって非常に珍しい。普段なら絶対にしない。そう、少し……歪んでしまっているのかもしれない。その歪みが悪いというわけではなく、ただ、笑ってしまう。
たったそれだけの意味しかない。
気にならないと言えば、それは嘘になる。何かがおかしくなったあの瞬間、後ろにいたのは誰だったのか、気になるに決まっている。天才、天才と、頭が良くなればなるほど、知識が増えれば増えるほど、自分に分からないことがあるとそれを排除したくなるのは当たり前のことだ。
けれど、時には諦めなくてはならない。人間は人間だから、どこまで成長してもラプラスの魔にはなることが出来ないのだ。
『卯東京駅』と書かれた巨大な看板の掛かった壁を見上げながら駅へと入っていく。ちょうど出てくる人とすれ違いになったり、後ろから追い越して行かれたりした。走って来て後ろからぶつかってくる人もいる。何をそんなに焦っているのか……。
「何を焦っているのかしら」輝夜が心中を代弁してくれた。
「まぁ、大方列車がもうすぐ発車してしまうのでしょう」永琳は適当に答える。
「次の列車を待てばいいのに」
「彼らは、永遠ではありませんからね。今日という一瞬ですら大切にしたがるのです」
「じゃあなんで遊ぶのかしら? ほら、ビル群の中にはどう考えても遊ぶために作られたとしか言いようのない建物がたくさんあったわ」
「それが有意義だと信じているからです。実際、勉強をするよりは有意義でしょう」
「勉強は終わらないものね」
「そういうことです」
「だから永琳は勉強し続けているのね。研究も勉強の内でしょう?」
「それは、真実の一部分に過ぎませんけれど」
駅の構内は、それなりに栄えているように見えた。あくまで都会と同じ意味での、ということに過ぎないが。それに、床の鏡具合は相変わらずで気持ち悪い。彼らは既にこれが普通なのだろう。少なくともあと百年くらいは信じられそうになかった。
「どことなく、月を思い出すわね」
「そうですか?」一瞬、首を傾げた。「あぁ、でも、それは分かります。実際に私も思いだしたような気がしますから」
「漠然と、ね……懐かしいっていうのかしら」
「帰りたいですか?」
ふと、そんな疑問を投げかけてみる。ちょっとした意地悪のつもりだった。それからすぐに彼女がどう答えるかをシミュレートしてみる。ひねくれた輝夜の答え方を二十個ほど列挙してから答えを待つ。ここまでだいたい零点五秒くらいか。
「行ってみたいわね」一番可能性が低そうだった返答だった。なるほど、やはり相当ひねくれている。「行って、今みたいに少しぶらぶらして、それから帰りたい……幻想郷に」
「旅行ですか」
「それが一番適当な表現だわ」
「では、ここはどうでしょう? 外の世界は」
「百年に一度来るくらいで良いわ。臭いんだもの」
そういって姫はいたずらに笑った。永琳も思わず笑いをこぼして、改札の前まで辿り着いたことにようやく気づく。
「……何だっけ、カードが必要よね、確か」
「そうですねぇ……、飛びますか?」
「浮くんじゃなくて?」
「では、」永琳は改札を通る必要なく行ける一つの階段を指さした。「あちらを下ってみますか」
階段は、細く、狭い。横に二人は並べなかった。無機質だった壁や床もやがて岩石に変わり、二人に再び空間の歪みを感じさせる。
別に、焦る必要などなかった。行き止まりなら引き返せばいいし、おかしなところに繋がってしまったらそこで同じことをまた繰り返せばいい。なるほど永遠とは便利なものだ、と再認識して口元に笑みが広がる。
「永琳、笑っているでしょう」
「暗いのに、よく分かりましたね」
「永琳のことなら何でも分かるわ。何年一緒にいると思っているのよ」
「そうですね……」
「真面目に答えないで頂戴」
「せっかくボケようと思いましたのに」
「貴女のそれは分かりづらいの」
「それは残念……あ、」
下りきったのか、目の前に現れた扉を永琳はゆっくりと押した。開かないので引いたら開いた。馬鹿かと思った。
「……つまらないわね」
輝夜が呟いた通り、永琳もその感想は同じだった。つまらない。目の前に広がっていたのが幻想郷でも確かにつまらないけれど、これは本当につまらなかった。
ただの、駅のホームだった。唯一違和感があるとすれば、そこには二人以外誰もいないということだけ。結局、訳の分からない事象を通過してもとの空間に戻ってきただけのようだった。
「まぁ、ここで待っていればきっと列車が来るでしょう。そうしたらもう少し広い視野で散策できるのではないでしょうか」
「何年待ったら来るかしらね……っと、もう来たわ。風情がないわ」
「どこかで見たような姿をしていますが」永琳はその列車の形に苦笑を漏らす。
「いよいよ、馬鹿馬鹿しいわねぇ」輝夜も必死で笑いを堪えているようだった。
長野電鉄木島線3500系。見覚えのある姿と、その列車の上に腰掛けたこれまた見覚えのある姿に永琳は思わず舌打ちをしそうになった。もしもしてしまったら、この列車はこのままこの駅を通過していってしまうかもしれない。それはそれで構わないのだけれど。
「御機嫌よう、お二人とも。この世界は如何でしたか?」
飛び降りながら気取って話しかけてくる紫色の物体に、永琳は再び両の掌を上に持ち上げて答える。輝夜も扇で口元を隠しながら言った。
「つまらなかった」
「風情がなかった」
「それは残念……」紫はくすくすと笑って、「それでは、もうお帰りになりますか? 今なら格安で『次の宴会に来る』でお引き受け致しますが」
「そうやって稼いでいるの?」輝夜が大きく欠伸をした。「勝手にこっちに送り込んで、帰してあげるからなんかしなさいって」
「とんでもない!」しかし紫は大げさに首を振った。「私がそういう意図でするのであれば、宴会ごときでは済ましませんわ」
「あぁ……姫が決めて下さい」
「じゃ、帰る。飽きたわ」
「だそうで」
「了解致しました。永遠二人、入りますー」
おどけた調子でそういう紫に続いて、二人は列車の中へと入っていった。どこもかしこも壊れかけの廃電車……。境界線上のプラットホームから、ようやく出発するのだ。
「帰ったら、どうしますか?」
「イナバたちが今頃探しているんじゃないかしら。永琳のことを」
「自立くらいして欲しいですね」
「地上の因幡には、自律が必要だけれど」
「私はそこはあまり気にしていません。ウドンゲが心配です。あの子は寂しがりですから」
「だからてゐがいるんでしょう」
「珍しいですね、名前で呼ぶなんて」
『幻想郷行き、発車致しますー』
紫のやる気のないアナウンスがノイズ混じりに響きわたり、ギシギシと不安な音を立てながら列車が動き出した。
「姫、山手線って知ってますか?」
「なぁに、それ」
「永遠の列車です。滅びてしまったようですけれど」
「それじゃあ、永遠じゃないじゃないの」
「いやいや、それが循環なのですよ」
「?」
窓の外に見える景色は、未だにこの世界のものだった。壊れた窓から風が吹き込み、綺麗とはとうてい言えない空気が車内に入る。満たされる前に出ていくけれど、この列車がこの世界にある時点で中の空気もそのままだった。
こてん、と輝夜の頭が永琳の肩にぶつかる。この箱入り娘は隙あらば寝てしまおうという精神のもと動いているのだろうか、と笑った。それでも髪を結んだままでは眠りづらいだろうとも思ったが、彼女は既に安らかな寝息を立てていた。
しばらく姫の髪の毛を弄んでのんびりとしていたが、やがて手の伸ばす対象を髪に挿した彼岸花に変えた。
指先で花を引き抜き、割れた窓から放り捨てる。
紅い花が宙を舞って、落下して。
すぐに、何も見えなくなった。
喧噪の中に、永琳は立っていた。
感じたことのない程の、と表現しようと思ったが、それは嘘だ。ずっと、ずっと昔――もう誰も覚えていない程の昔なら、これほどの喧噪は日常だった。天と地以外はすべて人の姿で埋まっていて、色とりどりなはずの灰色の世界が広がっている。常に何かに追われている仮初めの平和の中で安穏とした振りをして生きていく生活……彼女はそういうものを知っていた。
今の今まで私は何をしていたんだっけ……永琳はそう首を傾げて不意に現れたとしか言いようのない世界をゆっくりと見回した。足下に広がる白と黒の縞模様が気になるが、それよりも別のことが気になった。そう、研究の真っ最中だったのだ。確かBの処理が終わったのだから……、
「おい、あんた!」
その声は、人混みの中でも一際大きく聞こえた。自分に向けて掛けられたと認識した声は何故かはっきりと聞こえるものだ。
どうやらこの一瞬の間に永琳の周りには誰も居なくなっていて、人混みは塊となって黒い道を避けるようにして集まっていた。黒い道ではやたらとスピードの遅い物体がのろのろと蠢いており、それの前にある窓から人が乗っているのが見えた。
どうやら、声を掛けられたのはあれにぶつかってしまうからだろうと瞬時に理解して、慌てた振りをして人混みの中へと飛び込む。それから素早く周りを確認して、この世界がどうやって動いているのかを把握した。
棒にぶら下げられている光が赤色の場合は黒い道を歩いてはいけないこと、逆に緑色の時は縞模様の上に限り歩くことが可能であること、すなわち黒い道はよくわからない物体専用の道であるということ……それくらいはすぐに分かった。天才だから、と自己満足しようかと思ったが、うちの頭の良い方の兎でもすぐに理解することは可能だろうと思い直して、やめた。大体、余り意味がない。意味がないことは大好きなのだが、ここでそれをして時間を潰していると、さっきみたいに理解の範疇にない出来事で注意されてしまうかもしれない。出来るだけ他人に違和感を持たせないのが、上手くやっていくコツだ。
あと、もう一つ分かったことがある。この姿は異様に目立ってしまうということだ。
「まぁ、迷っていても仕方がないわね」
ここはどこかと似ている。彼女が昔住んでいた都の劣化ヴァージョンとでも言ったらいいだろうか、とにかく、この社会を外見だけで理解するのはそう難しいことではなさそうだった。何故自分が此処にいるのかなど、そういうものは別として。
ひとまず、服が良くない。幻想郷ではどんな服装でもおかしいなどとは言われないが、一人鮮やかな原色を纏っているのは構図として少しばかり滑稽だ。急に生まれた疑問を解決するためにも、乗り気ではないがこの世界に馴染む必要がある。周りの人を見る限りでは、服装はスーツが自然だろうか。太股を露わにするのは少々躊躇うので、何か他に自然なものはないだろうか……、と。
見回した先、もう一人、やたらと浮いている人物を発見して永琳は思わず吹き出しそうになった。
「……姫」
「あら、永琳じゃない。どうしたのよこんなところで」
姫――蓬莱山輝夜だった。いつも通りの鮮やかな桃色の衣装を纏ったまま、僅かに幼さの残る表情を疑問の形に変えて首を傾げる。綺麗だ、とか可愛いな、とかいつものような感想を抱いている場合ではないので、無言のまま腕を取って強引に人混みを突破した。「えっ、ちょっと永琳?」と困惑する表情は珍しいだろうから見てみたいという気持ちも湧いてきたが、今は仕様がない。無事に永遠亭に戻ったら少し困らせてみようかしら、と口を斜めにして、姫を路地裏へと引きずり込む。
「……ぷはっ、もう、一体永琳ったらどうしたのよ?」大きく息を吸い込んで、輝夜は質問を繰り返した。
「姫、」永琳も同じように言葉を繰り返す。「今、私は混乱しているのです」
「そうには見えないけれど」
「外見で判断するのは余り利口ではありません。人間には心と頭脳という厄介なものがありますから」
「はいはい、それで?」彼女は聞き飽きたという風に首を振って先を促した。心外だ。
「混乱しているのは何故か分かりますね?」
「分かるわ」それだけ言って、小さく頷いてから輝夜は黙った。訊ねたことだけを答えるというのは効率的でなかなか利口と言える。もちろん場合によるけれど。どうせ面倒だっただけだろう、という真実も脇には存在している。なかなかに無意味な分析だったようだ。
「つまり、私にはここがどこだか分からないのです」
「私には分かるけれど、ね」
「分からないから…………え?」耳を疑った。「姫、分かるのですか?」
「えぇ、簡単よ。難題ですらない。大問一、程度だわ」
「大問って何ですか?」
「さぁ? 寺子屋の教師が言ってた言葉の一つよ」
「そりゃ、分からないわけだわ。変な言い方ですね、そりゃ、って」そこで永琳はくすくすと笑いを漏らした。何かがおもしろかったわけではない。
「永琳が分からないことなんて」輝夜は呆れ顔で続けた。「死ぬことと、外の世界のことだけだわ」
「なるほど、ね」
永琳は頷いて、静かに細長い天を仰いだ。太陽の高さから考えてちょうどお昼時……時間は幻想郷とずれてはいないようだった。
ここは、外の世界。
そう理解した瞬間から、知っている限りの外の情報を記憶から引きずり出してみた。けれどそれは非常に少ない。なるほど確かに姫の言うとおり、永琳の持っている外の知識は驚くほど僅かだ。天才いくら言われても、インプットなしにアウトプットすることは出来ないと言う良い例だ。普段からやたらと頼ってくる人たちに混乱した自分の姿を見せてやりたいと思った。
「東京、って書いてあるわね」
「首都の名前……のはずですよ。私の知識が遅れていなければ」
「首都、ってなあに?」
「月の都で言う×××のことです」
「はあ」
「はあ、って何ですか?」
「感嘆符」
とにかく格好をどうにかした方が良いということを話して聞かせ、二人は周辺で一番背の高い建物へと向かった。古びたロゴが壁に大きく張り付いていて、それが廃された威厳のようなものを醸し出している。栄えているように見えて、人々は余り栄えてはいないようだ。首都という情報も、本当に古いものに変わってしまっているのかもしれないと感じる。
正直に言うなら、少し気持ちの悪い空間だった。洋服屋らしき場所には辿り着いたが、地面が鏡のように天井を映し出していて、感覚が狂いそうになる。その天井に埋め込まれた蛍光灯も漢字のように優しい光を発するわけでもなしに、ただただ真っ白な光で物が見えるようにとだけ辺りを照らしていた。
「予想以上に、アーティフィシャルね」永琳は溜息を吐いた。
「何だっけ、事実は小説よりも奇なり?」
「まぁ、間違ってはいませんけれど」
周りで買い物をする人を見ながら、籠に洋服を放り込んでいく。自分の物も輝夜の物も、適当に永琳が見繕ったものだ。普段と余り変わらない。
「そんなに多くて良いの?」
「お土産があった方が面白いでしょう? ウドンゲを着せ替え人形にでもして遊ぶとか」
「なるほどね」
まさか着せ替え人形にされるのが姫自身だとは今は言えまい。そう一人ほくそ笑んでから、永琳は重要なことに気がついた。
「お金……か」
「永琳のミスね。ヘマをやらかしたのね」輝夜がころころと笑う。笑い事ではなかった。
先立つ物がないと社会ではやっていけない。それこそ幻想郷のような場所でもない限りは。もちろん幻想郷でも人間はそれがないと生きていけないのだけれど。
レジ、と書いてある受付のような場所で、客は金を払っている。この光景は月でも見たことがあるから分かる。問題はやはり金だ。紙切れを出しているのが見えるが、さすがにどんな紙でも良いというわけにはいかないだろう。けれどあんな紙切れに金としての価値があるのだろうか、と疑問に思う。人が名付ければもちろん金になるが、最初に紙をそれにしようと言い出した人物は誰だろうか?
金属ならどうにかなると思ったが、紙ではどうしようもない。金閣寺の天井でも崩して売れば金になるだろうか……。
「ちょっと永琳、どうしようもないこと考えてない?」
「どうしようもないことを考えています」
「もっと他にないの? どうしようもなくないこととか」
「盗む、ですか」
「とんでもないことね。疲れてるんじゃない?」
「買い物は諦めましょうか」
「妥当だわ」
「あぁ、でも姫の髪が地面に付くのは余り嬉しくありませんから……、」永琳は左手に巻いたリボンを解いて、輝夜の頭にそれを持っていった。
「……? 何してるの?」
「結んでいるのです。後ろで一つに……出来ました。お似合いです」
「ありがとう」姫は優しく微笑んだ。「けれど鏡がないから見れないわね。ハクタクがいれば良いのに」
鏡という意味よ、と必要ないのに付け足して、彼女は興味を失ったかのように洋服売場から離れた。最初から興味があったのは自分だけだったのかもしれない、と苦笑して、姫の後についていく。
透明な自動ドアから外へと出て、汚い空気を肺に取り込んでむせた。同じくむせている姫の背中をさすってやりながら、永琳は次に行く場所を考えた。といっても、今度は逆に人気のない場所というだけのことだが。そこで二人でこれからどうするかを話したいだけだ。人混みは気持ちが悪いし、人が多ければ多いほどに空気が悪い気がする。原因は黒い道を動く物体で、人が多い場所ならそれも多い。そういうものなのだろう。
「ねぇ永琳、飛んじゃ駄目かしら?」
「駄目ですね。さすがに浮くでしょう」
「上手いこと言ったつもりかしら」
人混み云々というのが、やがて杞憂に終わったということはすぐに分かった。少し歩けばビル群の姿はぷつりと途切れ、雑草ばかりの草原が広がっていたからだ。あちこちに彼岸花の姿が見え、この草原は何かしら退廃的な物を感じさせた。
「卯東京駅?」輝夜が遠くに見える看板を指さした。「酉東京駅もあるのかしら」
「さぁ?」永琳は両の掌を上に向けて持ち上げる仕草をした。「卯酉で同じ名前が付くのは何だかおかしな気がしますけれど」
「違いないな」姫は肩を竦めて笑った。
「何ですかそれ」
「魔理沙の真似」
「さいで」
ビル群の中とは空気が違う。少し離れただけでもこんなに違うものなのかと思わず口元に笑みが浮かぶ。空気の善し悪しもすべて調整されていたし、幻想郷ではどこの空気も綺麗だ。だからこんなことは検証したことがなかった。
「で、永琳。駅っていうのは……」
「まぁ、おそらく月のアレと同じ物でしょう。あるいはそれの下位互換のような何か」
「私、アレ嫌いなのよね」
「それは……、姫は空間移動装置に慣れていましたからね。庶民の乗り物ですよ」
「随分と荒れた土地ね」輝夜は話題を無理矢理変えた。「草まみれ」
「そう見えるかもしれませんが、実は都会よりも余程生に満ち溢れているのですよ。コンクリートで固めて殺した土地よりかは」
「物は言いようだわ」
「いやいや、これは真実です」永琳は首を振って、「まぁもっとも、永遠たる私たちには生と死のどちらが正しいかなんて分かるわけがないのですけれど」
「それこそ、永久に」
歩きましょう? と姫が言ったから、二人は駅に向かって歩きだした。理由はない。ただなんとなく、行くあてがなかったから目に見えた物に向かっているだけだ。昔から、生命はそうやって進化してきた。永遠が進化するかどうかは……永遠の後になれば分かることだろう。
輝夜は道端の彼岸花をへし折って永琳に渡した。これをどうしろと……と首を傾げる彼女に、「難題よ」と微笑んでから、跳ねるように先を行く。ふむ……と難題に頭を捻りながらゆっくりと輝夜についていくその構図は、どこか母親と娘のそれに似ていた。
永遠に、親子という概念はない。ただ、なんとなく、昔見たことのあるそれと偶然重なってしまっただけのことだ。
我ながら、馬鹿馬鹿しい。
我ながら、微笑ましい。
どちらでも良いか、と永琳は笑い、手にした花の茎を変形させて輝夜の髪に挿した。毒々しいまでの紅が黒髪に映える。大きな花が、彼女の顔を少しばかり幼くした。
「お似合いですよ」
「む……ちょっと予想外だわ。でも正解」
そう言って微笑む姫の顔が美しいと、これからも永遠に見ていけるならそれは幸せだと、そう思ってしまうのは自己満足の類だろうか? 既に自分自身も制御できなくなっている証拠か。
別に構わないな、と自分を笑うことが出来るから、それで良い。
綺麗なものを求め続けることが生きるということなら、確かに永遠は生きているのだ。
「珍しいわね、永琳がニヤニヤしているなんて」
「ニヤニヤ出来ることを考えていたのです。非日常はすべからく美しいものですから」
「永琳は美しいものを見るとニヤニヤするわけ?」
「その通りです」
「じゃあ普段からそうしてても良いものだわ」
「正論ですね」
大きく輝夜が欠伸をして、目の端から僅かな涙がこぼれ落ちる。すぐに袖で拭って、髪に挿した毒草の位置を整えた。普段見ることのない姿というのは、美しいと同時に興味深い。それを見て自分や他人がどういう心境の変化を得るのか考えるのが楽しい。他人の場合すぐに終わってしまうから余り意味はないのだけれど、自分のについてはいつまでも答えが出ない。
論より証拠。だからその姿を実際に眺めてみればいい。予想通りだったり、そうでない結果が生まれる。
「見て、永琳。駅の方……人がいるわ」
「それは、その駅が機能しているという証拠でしょう」
「つまらないこと言うのね。もっと面白い返し方して頂戴」
「無茶振りです」
「なぁに、無茶振りって」
「宴会の幹事の仕事です」
ちょうど列車が駅に着いた頃なのか、駅からは多くの人たちがこっちへと向かって歩いて来ていた。ビル群で見た人間たちよりかは、少しばかり豊かな表情をしている。精神の豊かさだ。それだけ見て、永琳はここはやはり首都と言うには退廃的すぎると、結論から言えば首都ではないのかもしれないと判断した。
しかし、と真逆の考えも首をもたげる。首都であるほど、精神は病んでいくものではないか? 郊外へ、地方へ行けば行くほど精神は豊かに守られていくのではないかと。そういう考え方もありね、とだけ結論づけて横でのんびりと歩く少女の真似をしてみようと大きく口を開いた。誘発されるように欠伸が漏れる。
「駅に行くの?」
「列車が来るでしょう」
「でも無一文よ」
「無一文でも乗せてくれる列車があってもおかしくありません」
「……確かに、私もお金を払って乗った記憶はないわ」
「それは、家来が払ってくれていたからです」
「貴女の発言は矛盾してるわ」
「可能性の問題です。矛盾ではありません」
そう言って、向かってくる人混みの中に身体を滑り込ませる。観光に来たような様子の人々に、あの都会に何か見所があるのかしらと首を傾げながら輝夜の手を引いて駅へと進む。
――ねぇ、×××、今……。
――何? 結界の綻びでも視えた?
唐突にはっきりと聞こえた声に、思わず永琳は振り返る。自分に向けられた声には敏感……先ほどのそれと同じだ。僅かな揺らぎが生じているのを感じた。
「姫……、今、」
「何? おかしな声でも聞こえた?」
意地悪そうな笑みを浮かべてそう返す輝夜と共に、後ろを眺める。誰の声か……既に人混みに消えてしまったのか見分けがつかないだけか、それらしき姿は見あたらなかった。
一瞬の、幻想との邂逅。
今なら幻想郷に帰れたかもしれないという漠然とした感覚が急速に全身を支配する。けれど、引き返してももう遅いということもすぐに分かった。
無駄なことをしていても仕様がない。
幸い、二人には永遠の時間がある。
すぐに戻れるかどうかということはさほど問題にはならないのだ。
「どうするの?」
「駅へ行きましょう」
「良いの?」
「良いのですよ」永琳は微笑みを向けて、考えていることと同じことを口に出した。「私たちには、永遠に時間がありますから」
考えているのと同じ言葉を口にするのは、彼女にとって非常に珍しい。普段なら絶対にしない。そう、少し……歪んでしまっているのかもしれない。その歪みが悪いというわけではなく、ただ、笑ってしまう。
たったそれだけの意味しかない。
気にならないと言えば、それは嘘になる。何かがおかしくなったあの瞬間、後ろにいたのは誰だったのか、気になるに決まっている。天才、天才と、頭が良くなればなるほど、知識が増えれば増えるほど、自分に分からないことがあるとそれを排除したくなるのは当たり前のことだ。
けれど、時には諦めなくてはならない。人間は人間だから、どこまで成長してもラプラスの魔にはなることが出来ないのだ。
『卯東京駅』と書かれた巨大な看板の掛かった壁を見上げながら駅へと入っていく。ちょうど出てくる人とすれ違いになったり、後ろから追い越して行かれたりした。走って来て後ろからぶつかってくる人もいる。何をそんなに焦っているのか……。
「何を焦っているのかしら」輝夜が心中を代弁してくれた。
「まぁ、大方列車がもうすぐ発車してしまうのでしょう」永琳は適当に答える。
「次の列車を待てばいいのに」
「彼らは、永遠ではありませんからね。今日という一瞬ですら大切にしたがるのです」
「じゃあなんで遊ぶのかしら? ほら、ビル群の中にはどう考えても遊ぶために作られたとしか言いようのない建物がたくさんあったわ」
「それが有意義だと信じているからです。実際、勉強をするよりは有意義でしょう」
「勉強は終わらないものね」
「そういうことです」
「だから永琳は勉強し続けているのね。研究も勉強の内でしょう?」
「それは、真実の一部分に過ぎませんけれど」
駅の構内は、それなりに栄えているように見えた。あくまで都会と同じ意味での、ということに過ぎないが。それに、床の鏡具合は相変わらずで気持ち悪い。彼らは既にこれが普通なのだろう。少なくともあと百年くらいは信じられそうになかった。
「どことなく、月を思い出すわね」
「そうですか?」一瞬、首を傾げた。「あぁ、でも、それは分かります。実際に私も思いだしたような気がしますから」
「漠然と、ね……懐かしいっていうのかしら」
「帰りたいですか?」
ふと、そんな疑問を投げかけてみる。ちょっとした意地悪のつもりだった。それからすぐに彼女がどう答えるかをシミュレートしてみる。ひねくれた輝夜の答え方を二十個ほど列挙してから答えを待つ。ここまでだいたい零点五秒くらいか。
「行ってみたいわね」一番可能性が低そうだった返答だった。なるほど、やはり相当ひねくれている。「行って、今みたいに少しぶらぶらして、それから帰りたい……幻想郷に」
「旅行ですか」
「それが一番適当な表現だわ」
「では、ここはどうでしょう? 外の世界は」
「百年に一度来るくらいで良いわ。臭いんだもの」
そういって姫はいたずらに笑った。永琳も思わず笑いをこぼして、改札の前まで辿り着いたことにようやく気づく。
「……何だっけ、カードが必要よね、確か」
「そうですねぇ……、飛びますか?」
「浮くんじゃなくて?」
「では、」永琳は改札を通る必要なく行ける一つの階段を指さした。「あちらを下ってみますか」
階段は、細く、狭い。横に二人は並べなかった。無機質だった壁や床もやがて岩石に変わり、二人に再び空間の歪みを感じさせる。
別に、焦る必要などなかった。行き止まりなら引き返せばいいし、おかしなところに繋がってしまったらそこで同じことをまた繰り返せばいい。なるほど永遠とは便利なものだ、と再認識して口元に笑みが広がる。
「永琳、笑っているでしょう」
「暗いのに、よく分かりましたね」
「永琳のことなら何でも分かるわ。何年一緒にいると思っているのよ」
「そうですね……」
「真面目に答えないで頂戴」
「せっかくボケようと思いましたのに」
「貴女のそれは分かりづらいの」
「それは残念……あ、」
下りきったのか、目の前に現れた扉を永琳はゆっくりと押した。開かないので引いたら開いた。馬鹿かと思った。
「……つまらないわね」
輝夜が呟いた通り、永琳もその感想は同じだった。つまらない。目の前に広がっていたのが幻想郷でも確かにつまらないけれど、これは本当につまらなかった。
ただの、駅のホームだった。唯一違和感があるとすれば、そこには二人以外誰もいないということだけ。結局、訳の分からない事象を通過してもとの空間に戻ってきただけのようだった。
「まぁ、ここで待っていればきっと列車が来るでしょう。そうしたらもう少し広い視野で散策できるのではないでしょうか」
「何年待ったら来るかしらね……っと、もう来たわ。風情がないわ」
「どこかで見たような姿をしていますが」永琳はその列車の形に苦笑を漏らす。
「いよいよ、馬鹿馬鹿しいわねぇ」輝夜も必死で笑いを堪えているようだった。
長野電鉄木島線3500系。見覚えのある姿と、その列車の上に腰掛けたこれまた見覚えのある姿に永琳は思わず舌打ちをしそうになった。もしもしてしまったら、この列車はこのままこの駅を通過していってしまうかもしれない。それはそれで構わないのだけれど。
「御機嫌よう、お二人とも。この世界は如何でしたか?」
飛び降りながら気取って話しかけてくる紫色の物体に、永琳は再び両の掌を上に持ち上げて答える。輝夜も扇で口元を隠しながら言った。
「つまらなかった」
「風情がなかった」
「それは残念……」紫はくすくすと笑って、「それでは、もうお帰りになりますか? 今なら格安で『次の宴会に来る』でお引き受け致しますが」
「そうやって稼いでいるの?」輝夜が大きく欠伸をした。「勝手にこっちに送り込んで、帰してあげるからなんかしなさいって」
「とんでもない!」しかし紫は大げさに首を振った。「私がそういう意図でするのであれば、宴会ごときでは済ましませんわ」
「あぁ……姫が決めて下さい」
「じゃ、帰る。飽きたわ」
「だそうで」
「了解致しました。永遠二人、入りますー」
おどけた調子でそういう紫に続いて、二人は列車の中へと入っていった。どこもかしこも壊れかけの廃電車……。境界線上のプラットホームから、ようやく出発するのだ。
「帰ったら、どうしますか?」
「イナバたちが今頃探しているんじゃないかしら。永琳のことを」
「自立くらいして欲しいですね」
「地上の因幡には、自律が必要だけれど」
「私はそこはあまり気にしていません。ウドンゲが心配です。あの子は寂しがりですから」
「だからてゐがいるんでしょう」
「珍しいですね、名前で呼ぶなんて」
『幻想郷行き、発車致しますー』
紫のやる気のないアナウンスがノイズ混じりに響きわたり、ギシギシと不安な音を立てながら列車が動き出した。
「姫、山手線って知ってますか?」
「なぁに、それ」
「永遠の列車です。滅びてしまったようですけれど」
「それじゃあ、永遠じゃないじゃないの」
「いやいや、それが循環なのですよ」
「?」
窓の外に見える景色は、未だにこの世界のものだった。壊れた窓から風が吹き込み、綺麗とはとうてい言えない空気が車内に入る。満たされる前に出ていくけれど、この列車がこの世界にある時点で中の空気もそのままだった。
こてん、と輝夜の頭が永琳の肩にぶつかる。この箱入り娘は隙あらば寝てしまおうという精神のもと動いているのだろうか、と笑った。それでも髪を結んだままでは眠りづらいだろうとも思ったが、彼女は既に安らかな寝息を立てていた。
しばらく姫の髪の毛を弄んでのんびりとしていたが、やがて手の伸ばす対象を髪に挿した彼岸花に変えた。
指先で花を引き抜き、割れた窓から放り捨てる。
紅い花が宙を舞って、落下して。
すぐに、何も見えなくなった。
ポニテ輝夜が見たいとの事でしたので、紹介しておきます
良い話をありがとう
ひとまず。
>12さん
紫ではないと明記したつもりでしたが……誤解を招いてしまったようで申し訳ありません
外の世界でもマイペースな二人。らしいっちゃらしいですねww
雰囲気が凄くいい。
応援してます。