春は間近だというのに、幻想郷はまだ寒い日常が続いていた。
曇天の空から降る雪は季節外れか、それとも今の気候に当て嵌まるのか。
たまに吹き付ける風が、大地から暖かみを奪っていった。
その温暖さは、ひょっとすると意図的に掠め取られているのかもしれない。
それが、無意識のうちに行われていたとしたら?
もしそうだとすれば、恐らく自分の仕業だろうと思う人物がいた。
そこは、まさに地獄絵図と称するべきだった。
周囲には妖怪の死体があちらこちらに転がっている。
原型を留めているのは、まだ幸運な方だった。
四肢を失われ、首が吹き飛び、腕や脚が散乱し、挙句の果てには肉片や脳髄が飛び散っている。
おかげで美しいはずの自然は、あたり一面真っ赤に染まっていた。
言わずもがな、『妖怪だったもの』の血や臓物によって、である。
「さて、あなたが最後のひとりですか」
返り血を浴びに浴びた人間が呟いた。
驚くべきことに、その人物は女だった。
ただの女ではない。まだこの世に生まれて何年が経過したのだろうか。
外見は、非常に若い女だった。
少女の前には、外見は筋骨隆々とした妖怪がいた。
何の目的で自らが討伐されなければならないのだろうか、とその妖怪は思っているかもしれない。
で、あるならば、妖怪からしてみれば、それは一種の不幸に該当すると言った方が自然だった。
何故ならば、妖怪の前に立つ少女の職業は、妖怪退治を主として扱うものだからだ。
「来ないのですか?」
少女は言った。別に挑発しているわけではなかった。
その気になればいつでも殺せるからこそ、放つことの出来る余裕があるからだ。
せめて、懺悔の時間を与えようという、彼女の心遣いと言うべきだろうか。
妖怪は、動くことすら出来なかった。
逃げることも出来るかもしれないが、成功する確率は両手の指を合計した数より低いだろう。
少女の仕事は妖怪退治であり、人間に害成す妖怪であると判定されれば、完膚無きまでに叩き潰す。
いや、叩き潰すというより、一方的にぶち殺すと表現するのが正しいのかもしれない。
その結果が、少女の周りに転がっている死体なのだから。
少女の足が、一歩動いた。
妖怪が攻撃を仕掛けたのは、その直後だった。
通常、妖怪は身体的に人間に優れているのが普通だ。
当然ながら、この妖怪もまた、人間とは比べものにならない脚力を有していた。
そして、右手で打撃を放つ。あの力で殴られれば、華奢な少女など一撃で致命傷を負うはず――だった。
「遅いですね」
その言葉と共に、少女の姿が消えた。
妖怪の攻撃は見事に回避されたのであった。
妖怪が着地を決めたその時には、少女は妖怪の背後に回り込んでいた。
「やれやれ、少しは出来るとは思っていたのですけれどね……。
所詮、この程度ですか」
妖怪が気付いた時は、もう本当の意味で遅かった。
少女は妖怪の頭を右手で掴み、その細い腕からは到底思えないほどの腕力を発揮した。
何故なら、重さは自らの倍はあると思われる妖怪の頭を掴み、軽々と持ち上げたからだ。
「下の下、以下ですね」
少女は言った。
妖怪は抵抗を見せるが、この状況ではどうにもならなかった。
「お別れです」
刹那、妖怪の身体が巨大な竜巻に包みこまれた。
猛烈な風は自然の刃となり、妖怪の身体は挽肉と化した。
それは、まるでハンバーグ・ステーキの材料になるかのように。
当然ながら、おびただしい量の血液が周囲を朱に染めた。
その一部は少女に降りかかるが、少女は何も気にしてはいなかった。
少女は粉々となった妖怪だったものを見た。
何も感じない。慈悲など存在しない。そして、無様だとも思わない。
思ったのは、何て愚かで、哀れなのだろう。それくらいだった。
「また、汚れてしまいましたね。
帰って洗濯をしなければなりません……」
少女は言った。仕事は終わったのだ。
なんてあっけない。今迄強いと思っていた妖怪は、こうも弱いのか。
いや、妖怪といっても反則的な強さを持つ妖怪もいれば、このように雑魚もいる。
だから、正確に言えばどう言えばいいのだろうか。兎に角、この妖怪はただのゴミと言えばいいのだろうか。
そう、この世界では、常識に捉われてはならないのだ。
妖怪が棲み付き、超人的な力を持つ連中がうじゃうじゃいる世界。
それが幻想郷という世界なのだ。
少女が戻ろうとした時、視界にひとりの男が映った。
金髪の髪に、顎髭を蓄えた壮年で大柄の男だった。
「また、あなたですか。
何故私の前に現れるのですか?」
この男とは、以前にも出会ったことがあった。
あれは自分が妖怪退治を本格的に行うようになってからだろうか。
当然ながら、彼女は男の名前を知らない。その逆も然りだ。
「まずは一方的な虐殺、やはり大したものですよ」
男は言った。少女の表情が変わった。
「一方的な器物損壊容疑の間違いです。
あんなもの、犬や猫の首を切り落とすのと同じでしょう」
吐き捨てるように少女は言った。
彼女は歩きながら男の前を通り過ぎようとした。
が、その動きは止まった。
何故だろう。この男を無視しても、ずっと視界に入ってくる気がする。
そう思った。
「まあ、確かに。
私達から見れば、そうだと解釈してもおかしくはないと思います」
私達? この男には仲間がいるのか?
意味深な発言に、少女は耳を傾けざるを得なかった。
今迄、男が(恐らく所属しているであろう)組織らしいものに所属していることは、言っていなかったからだ。
「まだお気付きになられないのでしょうか?
既に始まっているのですよ。貴女の目覚めは」
「……何が言いたいのです」
少女は男の瞳を見た。
男は黙って下を向いた。
「こうして私が見えること自体、非常にありえないことだと申し上げたいのですよ。
私はもう数十年前に、死んでいるのですから。
そして、私が見えることは、あなたが力に目覚めていることを示唆するのも同然というわけです」
「……」
少女は黙った。そんなこと、今迄ずっと黙っていたというのか。
もしそれが本当だとしたら、自分は幽霊と会話していることとなる。
まさか、この男が白玉楼の人間と関係しているとは思えない。
あの桃色の髪の亡霊とその従者が、こんな慇懃無礼な大男の仲間であることを。
「いい加減教えて頂けませんか?
あなたは何者で、私に何を望むのですか?」
少女は男を見て言った。
その瞳は鋭い視線となり、男に突き刺さる。
「人の有り様を観測する者、と申し上げましょう。
貴女に望むといえば、そうですねえ……このまま妖怪退治を続けること、ですね」
男はそう言った。
少女は黙ったままだった。
「いずれわかることです。
せいぜい、風祝としての所業をお励み下さい。
貴女に、神の御加護があらんことを……」
男が呟いた、その瞬間だった。
突風が吹き、木々がばさばさと揺れた。
気付けば、視界から男が消えていた。
少女は周囲を見渡すが、転がっている
「神の御加護があらんことを……とは。
聖職者でも気取っているのでしょうか。
気持ちが悪い」
そういう私も、神に仕える者だけれども。
と、少女は思った。
思えば私はどうしてこんなことをしているのだろう。
妖怪を蹴散らした帰り道、少女は自分にとっては至極下らないことを考えていた。
<向こう側>で非科学的現象は信じられなくなり、そのしわ寄せはついに自らの領域にも及んだ。
それでもあらゆる媒体で、『信仰』という形で何かを信じるという行為が続けられているのは事実だった。
古来、数多の自然災害や疫病といった類のものは、神の逆鱗に触れたと解釈されていた。
人々はそれらを鎮めるために神に祈りを捧げ、旱魃や台風、洪水なので農作物に甚大な被害が出た時は、
神の力を頼るために、また祈りを捧げた。
しかし、それらは科学力の発達により、事前に予知し、防ぐことが可能となった。
そのため、人々は神を信仰するより、科学を信仰するようになったのである。
が、多くの人々は『信じる』そのものを否定的と捉えるようになった。
だが、それは本当のことであろうか?
とあるカルト教団が、地下鉄で毒ガスを撒いた頃はどうだろうか。
その当時、少女はもっと幼く、まだ『信仰』についてそれほど宗教的概念は持ち合わせていなかった。
風祝としての本格的教育は受けていたが、それが何を意味するのかも理解ままならぬ年齢であったから、無理もない。
この一連のテロ事件により、その手の信仰集団に多大なる不信感が生まれたのは言うまでも無い。
あの白装束を着た正体不明の連中も然りである。
とある宗教勢力についてはどうか?
あれは自分達がこちらに来る前にもかなりの影響力を持っていた。
その信仰は凄まじいもので、ごく普通の一般家庭は当然ながら、企業や政治家にも浸透していた。
記憶が正しければ、学生時代、同級生の親がその手のシンパサイザーであった。
政治の季節になれば戸別訪問もあったが、その親は間接支持援助者であったため、公選法には抵触しなかった。
つまり、科学が発展しても尚、人々はなんらかの形で『信仰』を行っていることとなる。
絶対的な数は減ったが、未だ世界的に影響力を与えている宗教はいくらでもいるではないか。
そして最近知ったことだが、<向こう側>では世界的に大きな不況の嵐が巻き起こっているという。
不安と貧困にあえぐ人間が頼りとするものは、結果的に『信仰』に辿り着くらしい。
なんとも皮肉な結果だ。
信仰が得られなくなったから、こちらにやってきたというのに。
だが、あの隙間妖怪が言うには、宗教ではないが宗教であるらしかった。
プレカリアートという言葉自体、こちらに来て初めて耳にした言葉だった。
それでも、幻想郷にやってきたのは間違いではなかった。
妖怪の山に暮らす天狗達との講和が実現し、強大な神力を持つ神を信仰することにより、
保身が約束されるというのであれば、こちらにとっては非常に美味しい話だった。
だが、この世界では常識に捉われてはいけないのだ。
天狗達の信仰が必要ならば、天狗達を邪魔する妖怪は消し去らなければならない。
だから退治する。だから殺す。まあ、<向こう側>の法律ならば、器物損壊で済むと思うが。
そう、私は風祝、東風谷早苗。
妖怪退治を生業とする存在なのだ。
あれこれ考えている時、早苗は不意に足を止めた。
彼女は空を見上げた。
「今は雪ですが……」
空に向かって、手を上げた。
すると、みるみるうちに雲の動きが変化していった。
曇天なのは変わりないが、その色は一層濃くなっていく。
そして、風が吹き始める。辺りの木々を揺らし、風は次第に勢力を増す。
雲が降らす物体は、いつの間にか雪から雨と変わっていた。
先程までの弱い雪から、強烈な雨が地面を濡らす。
それは傘を差していない早苗も然りであった。
風は更に強くなり、早苗ほどの体格の人間であれば、いつ吹き飛ばされてもおかしくない威力となった。
が、彼女は何の恐怖も抱いていなかった。
むしろ、この猛烈な暴風雨を生み出す自分の力に恐怖するのかもしれなかったい。
「この風、この雨……。
そう、私は風祝。
私の力は、誰にも止めることは出来ない。
神奈子様であっても、諏訪子様であっても……もう、無理なのです」
早苗は大空を見上げた。
全身に雨が降りかかる。
けれども、雨が降り止むことは無い。
悪天候は早苗の力によって起こされたものだが、彼女に喰い止めることは出来なかった。
何故なら、力を起こすことは出来ても、停止させるだけの抑制力は持ち合わせていなかったから。
「……落ち着いたら、雨も止むでしょう」
早苗は呟き、帰路に着いた。
その背中は、とても悲しげなものに満ちていた。
東風谷早苗が、一方的な器物損壊事件を行っている時とほぼ同時刻のことである。
博麗神社に向かうひとつの姿があった。
それは鳥でも未確認飛行物体でもない。普通の魔法使い、霧雨魔理沙その人であった。
「かーくゆうごうろにさー とびこんでみーたいとーおもうぅ~
まっさおなひかり つつまれてきれい~♪」
機嫌良く歌を歌いながら、魔理沙は神社の石畳に着地を行った。
「ああ寒い寒い。何か歌わなきゃ凍えることだけを考えてしまうぜ」
身体についた雪をある程度払い、魔理沙はそのまま神社へと向かった。
幻想郷は春に近付きつつあるが、まだ雪がちらつくこともそれなりにあった。
「おーい霊夢、いるか?」
こうして魔理沙が博麗神社の巫女を訪ねるのは、ごく普通の話だった。
こんな寒い時は、とても熱い緑茶を片手に談話をするに限る。
香霖堂の主人は境界を操る妖怪と乳繰り合っているに違いないから、と魔理沙は判断していたからだ。
自慢のスペルカードで脅かすのも一向だが、反撃という名のぶらり廃駅下車の旅に行きたくは無い。
だから神社に行くことを決めたのであった。
「はいはいいるわよ。まーったく、あんたは冬でも元気ねー」
衝立障子が開き、中から現れたのは博麗霊夢だった。
とても寒いためか、上着を羽織っている。
「元気が取り得なのが私だからな。
というか、寒いならあれ着なきゃいいのに」
魔理沙は言った。霊夢が普段から着用する巫女装束のことを言っていた。
「巫女としての伝統だからね。嫌でも着るのが博麗霊夢なのよ」
「さいですか」
「ここで話もなんだし、上がりなさい」
霊夢に手招きされ、魔理沙は神社の中に入ることとした。
霊夢が自宅として使用する博麗神社は、とても広い。
この世界では貧乏という流言が飛び交っているが、巫女の暮らしは案外裕福な方であった。
お茶の用意はすぐに出来た。
高級品の香りが、魔理沙の鼻をくすぐった。
「良いやつだから、大事に飲みなさい」
「高いものなんて買えるのか?」
かくれんぼで見つかった時の幼児のような顔をしながら、魔理沙は言った。
「妖怪退治の報酬よ。人助けをすると、良いことがたまにあるってわけよ」
と、霊夢は得意気に言って見せた。
博麗霊夢の仕事は、主に妖怪退治と異変解決だった。
これまで何件もの異変を解決しているため、その実力は折り紙付きと言われている。
新聞や幻想郷縁起にも、その活躍は英雄譚として書かれていた。
異変があると自ら解決に向かうが、たまに仕事として異変を解決するよう依頼されることも多い。
霊夢の知名度は幻想郷ではとても高いため、かなりの確率で問題解決の仕事が入っていた。
今日、魔理沙に振舞ったお茶は、そうした仕事で得たお礼だった。
人里で栽培される緑茶の、非常に貴重な部分である。
「私も妖怪退治しようかなあ」
魔理沙は言った。
「あんたには似合わなさそうね」
霊夢は切り捨てた。
「冗談で言ってみただけだ。
子供の頃、そういう冒険物語を結構読んでたからな」
今でも十分子供だけどね、と霊夢は思った。
思わず魔理沙はお茶を吹き零しそうになった。
ヒーローが悪者を懲らしめる、というストーリーは、魔理沙の人格形成に多大なる影響を与えたらしかった。
その教育方針は間違っていたか、間違っていなかったのか。
それは魔理沙の両親に尋ねるしかない。
「だからそんな活発になったのね」
「まあな。強い奴を見ると、戦いたくて身体がウズウズするんだ」
「あんたらしいわ」
霊夢は笑いながら言った。
別に好戦的ではないが、霧雨魔理沙とはそういう人間だった。
何年も友人をやっていると、自然と性格は理解できるものである。
「お前はいいよなあ」
唐突に魔理沙は言った。
「何が?」
「合法的に妖怪退治が出来るじゃないか」
「あのねえ……」
霊夢は頭を掻きながら言った。
「私も好きでやってるわけじゃないのよ。
博麗霊夢としての生き方が、それしかないのはわかっているでしょう?」
妖怪退治と異変解決。それは代々博麗霊夢が受け継ぐものであった。
霊夢は数えで十何代目に当たるが、先代の博麗霊夢もまた強力な霊力を持ち、人間と妖怪の間で活躍した(らしい)。
そして、血縁的に次代を生むのが不可能となると、そこら辺にいる娘を拉致し、博麗霊夢として育てるそうである。
「言ってみただけだ」
「わかればよろしい」
そう言って、霊夢は緑茶に口を付けた。
「妖怪退治といえば、あいつの活躍、やばいな」
魔理沙は言った。
「早苗のこと?」
霊夢は魔理沙を見て言った。
「連日新聞に載ってやがるぜ。白蓮達がこっちに来る前くらいかな、それはもうやりたい放題じゃないか」
ついこの間、幻想郷に突如として現れた飛行船。
それらに関する異変を見事に解決したのは、巫女と魔法使いと風祝。
その風祝が東風谷早苗なのだが、特に彼女の最近の活躍は凄まじかった。
農作物を荒らす小動物がいるので、どうにかして欲しいという依頼が博麗神社に届いた。
現場に急行した霊夢が見たのは、木々に吊るし上げられた鹿や猪の死骸であり、それが霊夢の所業と誤解された。
他には妖怪同士の小規模な抗争があり、これを鎮圧して欲しいという依頼が博麗神社に届いた。
ひとりでは骨が折れそうなので、魔理沙と一緒に現場に行けば、
何十体もの妖怪の死体が転がっていた。
おかげで巫女と魔法使いは大量惨殺者と間違えられた。
そして今日の朝刊には、ゴミを荒らす野鳥に悩まされていた人々の歓喜の声が載っていた。
農業の弥代兵衛(仮名)なる者の取材記事があり、『流石は風祝様だ』との記事があった。
「木々に括り付けられた野鳥は、人々の胃袋に収まる事だろう……」
と、霊夢は今日の朝刊を見直した。
本来であれば処分するのが普通であるが、霊夢は新聞を捨てに行く作業すら面倒としていた。
おかげで新聞紙の山が、あちらこちらで出来ていた。
新聞勧誘は断っているのだが、あのブン屋は購読の手続きをしていないのにもかかわらず、一方的に新聞を投げ込んでいた。
押し紙を断るスペルカードでも作ろうかしら、と霊夢は考えたこともあった。
「霊夢、どう思う?」
魔理沙は真剣な目付きをして言った。
「止めたいけど、恐らく無理ね」
霊夢は瞬時に結論を組み立てた。
魔理沙は無言で頷いた。彼女も同じ事を考えているらしかった。
「今の所、あいつは人里の人間を完全に味方に付けている」
魔理沙は言った。それがとても厄介な事項だった。
妖怪に対する自衛手段はある程度持ち合わせているだろうが、人間と妖怪の力の差は圧倒的である。
野生動物程度なら兎も角、箍を外した妖怪が襲いかかってくればひとたまりもない。
そのため、妖怪相手に互角に戦う風祝の力は、絶対的なものであった。
誰よりも高く、誰よりも強く、誰の手でも止めることの出来ない存在。
恐らく、人里の住人はそのように早苗の実力を認めているだろう。
「そしてもうひとつ、天狗の存在ね」
「ああ」
霊夢の言葉に魔理沙が相槌を打った。
妖怪の山に守矢神社が丸ごと転移した事件後、守矢神社側は山に住む天狗達の信仰を得ることが出来た。
その交換条件として、山周辺の治安維持――有事になった際、祭神である八坂神奈子の協力を仰ぐことを約束させた。
いわば天狗側と神社側の相互防衛条約であり、天狗でも手が付けられない状況にそれは発動されることとなっていた。
が、敵対する存在の芽は事前に摘み取っておくことを、早苗は優先した。
天狗が守矢神社を信仰することで、
彼らは八坂神奈子の強大な神力(それが実際に影響を与えるかどうかは不明だが)を手に入れた。
が、それは山に住む天狗と、麓に住む妖怪のパワー・バランスを根本的に崩す結果となった。
それ故に、天狗に対して不満に思う妖怪の一部が、挑発的な行動を取るようになっていた。
この行動を弾圧粛清していたのが、他でもない東風谷早苗であった。
確かにあの当時の異変では、博麗霊夢の実力に敗北を喫したものの、
幻想郷について学んだ早苗は、あれから更に自身を鍛え、磨き上げてきた。
それは現在進行形で続いている。
風を操る力も凶悪さを増し、時たま発生する竜巻は、彼女が起こしていると言われるほどだった。
「このままあいつが、私達が手の付けられないほどの力を得たらどうする?」
魔理沙は言った。
彼女は早苗が後々敵になるかもしれないことを前提としていた。
「もう手遅れだと思うわよ」
霊夢は吐き捨てるように言った。
「何でそれがわかるんだ?」
「なんとなく、よ。巫女としての勘かな」
と、霊夢は言った。魔理沙は黙り込んだ。
博麗霊夢の勘は、高い確率で的中するという噂があるからだ。
その時だった。
衝立障子や襖が、突然音を発したのであった。
「何だ?」
異変に気付いたのは二人だが、実際に動いたのは霊夢だった。
障子を開けると、そこは既に物凄い暴風雨が支配する空間が完成されていた。
「おいおい……、さっきまで雪が降っていたのにいきなり……うわ、こりゃすげーなおい」
魔理沙は感想を述べた。
雪には音を吸い取る性質があるが、雨にはそれがない。
それどころか、熱帯低気圧に匹敵する凄まじい風雨だ。
神社程度の建築物は、屋根が吹き飛ばされてもおかしくない威力である。
「おい……霊夢」
魔理沙は言った。
霊夢は目前の現実を、黙って見ているだけであった。
妖怪の山には、守矢神社なる神を祀る場所がある。
秋に周辺の地形ごと幻想郷に出現し、現在に至っている。
参拝するためには山岳地帯を突破しなければならないため、
行くだけでかなりの疲労感が伴うとされていた。
それでも伯耆国に存在する修験道の行場である三仏寺よりは、大分マシと言うべきだろう。
投入堂の通称で知られるそれは、垂直に切り立った絶壁に建立されているのだから。
「早苗はまだ帰ってこないのか?」
外の様子を見ながら、八坂神奈子は発言した。
直立の体勢であるが、両腕は組まれており、軍神としての風格を漂わせている。
彼女こそ、守矢神社を幻想郷に移動させる計画を立案・実行した神であった。
最近では産業革命を着々と進め、更なる信仰を得ようと画策している。
「そうみたいだね。この雨の中だったら、もうそろそろ戻ってもいいと思うけど……」
神奈子にそう返事をしたのは洩矢諏訪子だった。
守矢神社の本当の神で、かつては様々な事柄の祟り神である『ミシャグジ』を束ねていた。
「諏訪子、この天候……どう思う?」
神奈子は言った。
神社の外は強烈な風雨が巻き起こされ、誰も外出は出来ない状況に置かれていた。
そして、神奈子は苦い笑みを浮かべていた。
「神奈子の力で制御不能なんて、ありえない話だと思うよ」
諏訪子は特徴的な形をしている帽子を持ちながら言った。
彼女は室内では脱帽する気質であった。
神奈子の力、それは乾を創造する程度の能力。
「乾」とは八卦における「天」を意味する。
一方、諏訪子の力は坤を創造する程度の能力で、「坤」は八卦における「地」を意味する。
この二柱の力はそれぞれ対となる能力を持ち、
神奈子は風雨や天候を左右する力、諏訪子は大地に関する様々なことを操ることが出来る。
なお、大地に関する能力は天人くずれの比那名居天子も所持しているが、
彼女は主に自然災害を起こす(または鎮める)方に特化している。
諏訪子の場合は、主に地形を創造し、新たに農地などを作るための力を持っている。
神は信仰を行動源としている。
そのため、<向こう側>にいた時は信仰力が不足し、満足な行動が取れなかった。
が、今は違う。
天狗や河童の信仰を集め、今までより強大な力を行使できるはずだった。
その力が、全く通用しないのは、神奈子にとって自身のプライドを揺るがすこととなる。
風雨や天候を左右することが出来るのであれば、今起こっている暴風雨を止めることくらい、非常に容易いものだった。
それどころか、この強い風雨は止まるどころか、更に勢いを増していた。
「つまり……早苗の力が私を上回っていると言いたいんだな?」
神奈子は愕然とした表情を作った。
諏訪子は黙って首を縦に振った。
「認めたくないけど、そういうことになるね。
あの娘は現人神。信仰を得ずとも修行次第で、いくらでも力を増加することが出来るから」
諏訪子は言った。
現人神。それはその身に神が宿っていると称される人間のことである。
日本の天皇家もかつては現人神とされていたが、太平洋戦争の敗戦により、
合衆国によって「人間宣言」をさせられた。
だが、早苗は違う。
彼女は諏訪子の血統を引く由緒正しき神の子孫。
神格化はされてないものの、それに近い力を有し、また人間であるため信仰を必要としない。
故に自身の力は修行によって磨きをかけることが要るが、
霊夢との戦いによる敗北で、彼女は別の意味で己を鍛え直すことを選択した。
しばしの沈黙が流れた。
神奈子は何かを考える様子で立ち、諏訪子は座っている。
二柱の黙りを破ったのは、玄関口から発せられた音だった。
帰ってきたのだ。
急いで玄関に行くと、雨でずぶ濡れとなった東風谷早苗の姿を発見した。
そして、二人は驚愕した。
「早苗……それは」
神奈子は彼女の全身を見た。
「大丈夫です。……私の血ではありません、全部妖怪の返り血ですから」
早苗の風祝装束は、殆どが倒した妖怪の血で染まっていた。
それに雨が吹き付けられ、どす黒い色へと変色している。
「早苗……」
諏訪子が言った。
「御心配おかけしました。
……お風呂、入りますね」
早苗は言いながら靴を脱ぎ、そのまま廊下をゆっくりと歩いていった。
神奈子と諏訪子はそこから動かなかった。
いや、動けなかったのだ。
「準備、してくるね。
たぶん、早苗はそのまま入ったと思うから」
「ああ……」
諏訪子は神奈子にそう言って、その場から消えていった。
なんともやり切れない思いだ。神奈子はそう思った。
雨が止む気配は、全く無いに等しかった。
神奈子は廊下を歩き、居間に戻ろうとする。
とりあえずこの場は諏訪子に任せよう、その方がいい。
彼女は思考を巡らせながら、ふと後ろを振り向いた。
(……誰だ?)
何かがいる。
気配だけは感じられるが、当然ながらそこには誰もいない。
守矢神社は神奈子と諏訪子と早苗の3人で暮らしている。
客人でも招かない限り、誰かがそこにいることはありえないはずだ。
だが、神奈子は何者かの気を確かに感じ取っていた。
無言が支配する。
居間の戸を開ける。そこには誰もいない。
先程まで諏訪子が食べていた饅頭が置かれていた皿が、食卓の上にあるだけ。
(気のせいか……?)
神奈子は周囲を見渡す。
そして確信した。
(ここにいないというのであれば……!)
戸を開け、更に外へと移動する。
一面に広がるのは、豊かな自然と暴風雨。
辺りは風と雨によって地形が変化され、地面は泥沼と化していた。
神奈子は目を動かして警戒する。
写るのは幻想郷が生んだ自然しかない。
湖も水位が上昇している。このまま河川が氾濫してもおかしくない状況だった。
「出てこい……。いるのはわかっているんだ。
いつまでも逃げる気か? 神に怖気づいたか?」
そして、神奈子は地面へと降り立った。
とはいっても、彼女は神である。濡れもしなければ、泥が跳ねたりもしない。
早苗がずぶ濡れとなったのは、まだ彼女も人間としての部分があるからだろう。
と、神奈子は思った。
「やはり気付いておりましたか……」
声が聞こえた。
神奈子には、声と共に男の姿がそこにあるのが見えた。
金髪に顎髭を蓄えた大柄な男。青を基調とした異国の服に、肩には黒いケープをかけている。
「何者だ……貴様」
神奈子の眼光が鋭く光った。
彼女は男をしっかりと捉えた。
自分と同じで、全く雨には濡れず、履いている靴には泥が付着していない。
もしこの男が普通の人間であれば、濡れるし、至る所に悪天候独特の痕跡があるはずだ。
だが、それがない。
「魂の配慮を行い、信仰と生活を導く只の牧師でございますが?」
男は口を開いた。
「牧師だと? 只の牧師がこの世界にいるものか」
神奈子は男の発言を切り捨てた。
<向こう側>で暮らしている時に、ある程度の知識は身に付けている。
そうでなければ人間世界を生きることは出来ない。神も学習はするのだ。
牧師はプロテスタント教会の聖職者だ。つまりこの男はキリスト教に籍を置く者。
だが、幻想郷でイエスの人格と教えを中心とする宗教活動家は存在しない。
最近になって人類と妖怪の平等を説く年齢不詳の女が活動を始めたが、あれは仏教だ。
「これは失礼。
まあ、生前は牧師をしていたものでございまして」
「生前だと?」
神奈子は男に言った。
「ええ、訳あって私は天へ召されたのでございます」
「つまり、貴様は自分が幽霊だと言いたいのか?」
「左様で。人の有り様を観察するのが日課となりましてですね……。
偶然にも観察対象となるべき人間を発見したのですよ」
「……」
神奈子は押し黙った。
幽霊(というより亡霊)は幻想郷にもおり、自分もこの目で見たことがある。
だが、人間を観察するという悪趣味を持ち合わせた幽霊など、見たことは無い。
「何が言いたい」
「東風谷早苗、と申されましたか?」
「!?」
神奈子の足が、一歩動いた。
「貴様、早苗に何をした?」
神奈子の表情が変わった。
男は上から見下ろしている。
神奈子も女性としては身長は高い方だが、この男は更に高い。
いや、成人男性としても非常に高い部類だろう。2m近くはある。
「先程までの余裕が無くなったと理解してよろしいですね。
私は別に何もしておりませんよ。直截的には――」
男が言葉を発し終わる前のことだった。
彼の周囲に立っていた木々のうち、一本が薙ぎ倒された。
「……やれやれ、血気盛んな御方だ。
私はそういう女性は嫌いではありませんがね」
「本気で殺すぞ……」
神奈子の両目が光る。
「幽霊を殺すと申すのですか?」
「……貴様、舐めるなッ!」
神奈子が腕を振るう。
瞬間、常人に恐らく視えないであろう、風で生成された刃が超高速で男に放たれた。
このまま行けば間違いなく直撃。先程倒された木の数は一本だが、今度は岩ですら両断する勢いだった。
男は不敵な笑みを浮かべた。
「ここですか?」
男が口を開いたと同時、何かが現れた。
それは、風だった。
いや、風というより、竜巻。
神奈子にも、確かに視えた。
自身が生み出した風の刃を、竜巻が跳ね返したのだ。
その竜巻は、この男によって作られたものだった。
「……ッ!」
突然の反撃に、神奈子は何を思っただろうか。
「驚かれましたか? 私もあの娘と同じように、風を操る力を有しているのですよ」
貴女は見た所、風を操る立場でございますね。
力の出所は違いますが、私も同じなのです」
男は言った。
「最後に一つ、良いことを教えて差し上げましょう。
東風谷早苗は確実に私達の血、それも私の力に目覚めつつあります。
妖怪を退治するという仕事、それは覚醒の始まりなのですよ。
我らオロチの力、にね」
オロチ。確かに男は言った。
「オロチ……だと?」
「また機会があればお話致しますよ。
良い風が吹いてきましたね。貴女に、神の御加護が有らん事を……」
男が発言を終えると、一層強い風が吹き荒れた。
彼なりの演出だろう。神奈子の視界には、男の姿はもういなかった。
「私は神そのものなんだがな……」
神奈子は誰もいなくなった平原に向かって言った。
(オロチ。それは私を示唆しているのだろうか?
それとも、あの男が言ったまた何かの別の力か?)
神奈子は思った。
風は少しずつだが収まり始める。雨もまた、小雨となってきた。
(早苗の力が落ち着きを取り戻したか……)
そう心の中で言うと、神奈子は神社へと戻っていくのであった。
「確かにそう名乗ったの?」
守矢神社の居間で、洩矢諏訪子は八坂神奈子に問うた。
早苗はその後身体の不調を訴え、布団の中ですやすやと眠っている。
諏訪子が寝かし付けたのだが、早苗が眠りに就いてから、風雨が何事も無かったかのように降り止んだ。
「正確な名前までは聞き出せなかったけどね。
だが、あの男は自分をオロチと名乗った。それが何なのかさっぱりわからん」
諏訪子が煎れた熱い緑茶を飲みながら神奈子は言った。
「オロチって、あの八岐大蛇のことかな?」
諏訪子は言った。
八岐大蛇。それは記紀神話に登場する巨大な蛇である。
出雲国の簸川(ひのかわ)に棲んでいると言われ、スサノオノミコトによって討伐され、
クシナダヒメを救出し、その尾からは天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)が生まれたとされる。
「それとあの男が関係するとなると、辻褄が合わなくなるわよ。
何で八岐大蛇と風が関係するんだ?」
神奈子は両手を頭の後ろに組みながら言った。
「風?」
「私の攻撃を竜巻で相殺したんだ。
ただの牧師かと思ったんだが、あれは相当な使い手と解釈して良いと思う」
神奈子は一連の出来事を諏訪子に説明した。
牧師であり、幽霊と名乗る男は、激昂した自分の攻撃をいとも簡単に防いでみせた。
防御に使われたのは竜巻。男は自らも風を操る者と称した。
それについて、諏訪子は特に疑問には思わなかった。
幽霊は幻想郷にもいるし、弾幕ごっこという名の攻撃手段は自身にも行使出来る。
「調べる必要があるわね。
ちょっと行ってきますか」
神奈子は緑茶を一気に飲み干した。
神になると、熱いや冷たいの概念をも打ち消せることが出来るらしい。
「行くって、何処に?」
「人里の歴史家と郷土史家を当たってみる。
彼女達なら、私や諏訪子も知らない<向こう側>の歴史について知ってるでしょう」
そう言うと、神奈子は瞬間移動を用いてその場から消え去った。
「行っちゃった……」
ひとり残された諏訪子は、とりあえず湯呑みを片付けることにした。
私が家事なんて、昔じゃ全く考えられないことだ。
諏訪子はそう思いながらも、慣れた手付きで洗い物を終える。
そして、廊下を歩いて早苗の様子を見に行くことにした。
彼女もまた、神である。音も立てずに歩くという所業はお手の物だった。
早苗を起こさないよう、一応注意しながら彼女の枕元へと座った。
東風谷早苗は、すやすやと眠っていた。
こうして見ると、本当に自分の子孫かと疑いたくなるほど、ごく普通の少女だった。
しかし、彼女は一歩間違えれば自身をも破滅に導く強大な力を持っている。
力の暴走というのは良くある話だが、今から数年前、早苗もそういう時期があった。
今でこそは力を制御し、風祝として生きているが、また逆戻りとなるというのであろうか。
「大丈夫だよ、早苗。私と神奈子がいるもの。
早苗は一人じゃないからね」
小声で諏訪子は言った。
寝息を立てる早苗の姿を確認した諏訪子は、廊下へと戻り、居間に行こうとした。
「……私が気付かないと思っているの?
出てきなさい、牧師さん」
諏訪子は、普段誰にも見せないような強烈な目付きをしながら言った。
すると、彼女の背後に現れたのは、早苗と神奈子に出会った大男がひとり。
「いやはや、流石ですねぇ。私がいつ何処にいるのかおわかりで?」
「神出鬼没も大概にした方がいいんじゃないの?
こっちはある意味で迷惑しているんだよ」
諏訪子は言った。
「それは仕方がありません。私は幽霊ですので。
あの血気盛んなご婦人がいない間に、貴女にとても良いことを教えて差し上げようと思いまして」
「良いこと?」
「我らオロチに関する秘密ですよ。
あの人は自ら御調べに行ったようですから、その努力を無駄にしないようにしようと」
何もかもお見通しってわけか。諏訪子は思った。
たった今、神奈子はそのオロチについて専門家の意見を聴くために人里に向かったのだから。
「わかった。場所を変えよう。立ち話もどうかと思うしね」
「恐縮でございます」
そして、男は話し始めた。
男は名前をゲーニッツといった。元々は<向こう側>の生まれで、本当に牧師をしていたという。
オロチというのは古来より土着信仰されていた姿形を持たない、所謂概念的なものであるらしい。
早い話が神奈子や諏訪子のような神であり、オロチを信仰する者達は、豊かな自然を守り続けていた。
時代は流れ、オロチ一族とは別に人類が誕生し、彼らは独自の発展を続けた。
人類が文明を築くと、豊かな自然は荒廃し始めた。
そして、ついにオロチ一族は自然を破壊する人類に対し、全面戦争を挑んだ。
が、人類側の反撃によって次々と一族は撃破され、一族の中でも極めて高い力を持つ八傑集は封印されたのであった。
「それが八岐大蛇伝説というわけ?」
諏訪子はゲーニッツに言った。
「はい」
「おかしいな……。私達の世界ではそんな話では無かったような」
諏訪子は過去を思い出した。
とは言っても、記憶にない。何せ何千年も前の話だ。
「この際細かいことは気にしない方が良いでしょう。
……我ら八傑集は転生によってその力を継承します。
早苗という娘が選ばれたのは、魂の気紛れと申しましょうか」
ゲーニッツは言った。
ただオロチを信仰する一族は、血族関係によってその血を伝えていくが、
八傑集となると転生によって受け継ぐという。
「早苗は本当にあなたと同じになるの?」
「恐らくそうなるでしょう。
彼女が妖怪を次々と襲撃しては惨殺するというのは、殺戮衝動に駆られているのだと思います」
彼らの祈りは、八傑集に力を分け与えるという点で叶った。
自然を破壊する人類に対する攻撃手段。それが自然現象を自由自在に操る力だった。
八傑集の中でも、風、炎、雷、地の属性を操る四人を四天王という。
ゲーニッツは、風を操る四天王の一人だった。
その彼は、数十年前に死亡し、八傑集としての機能は失われた。
だが、風を操る者としての魂は死なず、次なる転生体を見付けて何年も彷徨っていた。
そして、適応する存在が発見された。それが東風谷早苗だったのである。
「元々人類に対して滅ぼそうとは思っていませんでしたが、何せ自然を破壊するのですからね。
オロチによって、人類を滅ぼすように命令されるのです。
とはいっても、普段はこうして人間社会に溶け込んでいましたけれどね」
諏訪子は頷いた。
でなければ、彼が牧師として仕事をすることはしなかっただろう。
「ということは、あなたが死ぬ前にその八傑集は封印を解かれたというわけ?」
「ええ。だから私も再び人類を滅ぼすべく活動しました。
結果は見事に敗れました。私は人間の強さを認め、自ら死ぬことを選択したのです。
それからは亡霊として人間の有り様を観測するために、生きることを決めました。
恐らく、残りの八傑集もまた倒され、オロチも封印されたと思いますけれどね」
諏訪子は黙った。
しばらくして、口を開いた。
「あなたはそれでよかったの?」
「後悔などしていません。人類が強く、我らが弱かっただけです。
ですが問題は彼女ですね……」
ゲーニッツは言った。
歴史の中でオロチは封印されたが、彼女は風を操る存在として、オロチ四天王としての魂を植え付けられている。
「どうにかならない?」
「これについては、私でもどうにもならないと思います。
まだ幸運なのは、彼女が大義名分を持って妖怪を討伐していることですね」
諏訪子は首を縦に振った。
オロチの血に覚醒したとはいえ、早苗は人里の住人の依頼をただこなしているだけだった。
妖怪退治も、信仰母体である天狗達の領域に攻め込もうとするのを、水際で撃退しているだけである。
「殺戮衝動はあっても、それは人を活かすための行いというわけだね」
「そう解釈するべきだと思います。強大な力というのは、自身を滅ぼす原因となります」
かつてオロチの力を狙い、私に返り討ちにされた挙句、結局自滅したあの男のようにね。
と、ゲーニッツは思った。
「しかし、その力を上手くコントロールすれば、それは誰かのためとなる。
活かすも殺すも自分次第でしょう」
ゲーニッツは言った。
「あと……私達が早苗に出来ることって、何かある?」
「普段していることで十分だと思います。
オロチの力を手に入れたとはいえ、まだ彼女は若すぎる。
精神的な面で、まだまだ貴女方に頼らざるを得ないでしょう」
「成程ね。というかあれだね。話せば意外と饒舌なのね」
諏訪子は感心するかのように言った。
「貴女だからこそ、会話が迅速に進むのだと思います。
私は好戦的な女性は嫌いではありませんが、あちらの方は少々喧嘩っ早い」
「わかるよ、それ。神奈子はいっつも手が出るから困ってるんだよね。
食後のデザート如きであれこれ言う性格だからさ。少しは大人になりなよって思うんだ」
そして、会話は神奈子が帰ってくる直前まで続いた。
「ここには主に子供達が出入りするのですが、まさか八坂様がおいでになるとは予想外でした」
人里の寺子屋を切り盛りする歴史家、上白沢慧音は、突然の来訪者に驚きを隠せなかった。
何せ相手は山で絶大なる信仰を受けている軍神、八坂神奈子であるからだ。
「そりゃそうだ。神が読書――それも歴史書なんて目を通すなんて、ありえない話だからな」
神奈子は苦笑いをしながら言った。
「しかし、大した蔵書の数だ。これも全て貴女が揃えたものか?」
「譲り受けた物もありますが、大多数は私が自費で。
物事を研究するには、莫大なお金がかかりますよ」
「へえ~」
神奈子は感心した。
「歴史とは、現在と過去との対話である」
神奈子は言った。
「エドワード・ハーレット・カーですか。随分とまた偉人の言葉を引用なさいますね」
「歴史は多方面に渡って検討しなければならない。一つの歴史で全てを語ることは絶対に出来んよ。
昔があってこそ、今の優れた文明がある。しかし……」
「しかし?」
慧音は言った。
さて、神様はどんな言葉を紡ぐのだろうか。
「誰も過去を学ぼうとはしない。先生、それは何故だかわかるだろうか?」
「文明が余りにも発達し過ぎたからですね。
幻想郷の魔法は、<向こう側>でいえば高度な科学技術と一緒ですから。
だから人々は伝統を忘れてしまう。八坂様がこちらに来られた理由も――」
「まあな」
神奈子は笑いながら言った。それ以上は言わないでくれという表情だった。
「自国の歴史を知らないということは、アイデンティティが無いのも同然。
そんな人間は尊敬に値しないでしょう」
そう言いながら、数冊の本を運んできた少女が現れた。
稗田阿求。幻想郷の歴史や英雄譚をまとめた幻想郷縁起を編纂する家系の九代目を務めている。
「痛い話だ。
国際化という名の元に、世界情勢や外国語は勉強するが、肝心な自国を一切知らないなんてね」
神奈子は言った。
「そんな人が国際人ぶっても、恐らく莫迦にされるだけでしょう」
慧音が付け足した。
「まあ、ここは幻想郷。
幻想郷であっちやこっちの記録を見分しても、全く意味がありませんけどね。
よっこいしょ」
阿求は本を適当な位置に置いた。
「稗田殿は別格であろう。何せ一度読んだ本を全て記憶するのだから」
「それは凄い能力だ。まるで<禁書目録>だな」
慧音の説明に、神奈子が感心するように言った。
「「インデックス?」」
慧音と阿求の声が合致した。
「ああ……<向こう側>でやっていた小説作品に出てきたんだ。
10万3000冊の蔵書を全て記憶しているキャラクターが出てきてな」
まさか私がライトノヴェルに嵌っていたなんて、そんな事実は歴史に載せないでくれよ。
と、神奈子は汗を拭きながら言った。
寒いというのにどうして汗が出るのか、自分でもわからなかった。
「とりあえず、うちの家系が持つ記紀神話に関連する本をピックアップしてみました。
お役に立てれば光栄です」
阿求は神奈子に向かって言った。
「面目無い。感謝する」
神奈子は頭を下げて感謝した。
「いえいえ、ご協力出来るのであれば光栄です」
阿求もまた、丁寧に頭を下げた。
「しかし、八岐大蛇伝説とは。
やはり神様も神話に興味を?」
慧音は言った。
「話せば長くなるんだがな……。
どうも早苗がオロチの血に目覚めたとかなんとかなんだが」
「「オロチ?」」
阿求と慧音の声が重なった。
「うむ。突然男が現れて、意味不明なことを喋りまくるんだから気味が悪い」
「それでしたら、地球意思ではないでしょうか?」
突如として阿求は言った。
「地球意思?」
驚いたのは神奈子ではなく、慧音の方だった。
幻想郷の日も暮れ始め、すっかり夕方となっていた。
空を覆う雲の量こそ変わらないが、雨は止んでいる。
夕刊の配達に向かうであろう鴉天狗が、大空の支配者になる時間帯であった。
「また載ってやがるぜ」
昼から博麗神社に滞在していた霧雨魔理沙は、届けられた新聞の見出しを見ながら言った。
その夕刊は、彼女と顔見知りの鴉天狗が発行しているものではなかった。
たまにこうやって、別の鴉天狗が配る新聞が配達されることも、珍しいことではないらしい。
「んー、どれどれ。ああ、本当だ」
博麗霊夢は覗き込むようにして新聞を見た。
そこにはこう書かれていた。
『我ら天狗社会を脅かす妖怪、壊滅的打撃を被る!』
それは、今日の昼に行われた東風谷早苗による大量器物損壊事件の記事だった。
早苗が駆逐した妖怪は天狗達と敵対している者達らしく、
天狗の中でもバリバリの右翼であるこの発行者は、妖怪を倒した人物の活躍を過剰気味に称えていた。
「裏付けが取れていないのかね。早苗のことは一言も書いて無いな」
魔理沙が言った。
新聞には妖怪に対する罵詈雑言が書かれていたが、誰が殺したのか、それは一切書いていなかった。
どうやらこの鴉天狗はどこぞのブンブン丸とは違い、きちんと裏付け取材を行うタイプらしい。
だが、霊夢と魔理沙は、それが早苗の所業であることを理解していた。
何故なら、妖怪退治を専門的に扱うのは、この世界では巫女と風祝しかいない。
魔理沙は基本的に霊夢に同行するだけであり、本格的な妖怪退治というのを行ったことはない。
「でもさ……」
「ん?」
霊夢は新聞に載っている写真を見た。
「修正されているけど、これ血よね?」
「だろうな。恐らく相当派手にやらかしたんだな」
新聞には適正な真実を報道する必要はある。
この鴉天狗は読者の心理的状況に配慮したのだろうか、事実は事実だが、衝撃が強すぎることで自粛を行っていた。
それがモザイクという修正で、早苗によってぐちゃぐちゃにされた妖怪の死体写真に、一定の修正が加えられていた。
仕方の無い話だった。最近の風祝は容赦しない傾向にあり、
一度喧嘩を売ったが最後、顔面が吹き飛び、臓物が飛び散り、挙句の果てには原型を留めない程であるのだから。
「なあ、霊夢……」
「何?」
「お前さ、誰かを殺しちまったことってあるか?」
魔理沙の表情は、分銅を秤にかけるような目付きをしていた。
「あるって言ったらどうする?」
霊夢は言った。
「冗談だと思い込みたいな。少なくとも私はそうしたい」
お前をそういう目で見たくないからな、と魔理沙は付け加えた。
そういう自分はどうだろう、という霊夢の反論は無かった。
霊夢も彼女なりに、魔理沙を信用したいからだ。
「つまり、退治の意味を知りたいってわけでしょ?」
「ああ。霊夢はただ懲らしめるだけだ。命までは取らない」
たぶんそうだろう、と魔理沙は思い込みながら言った。
「だが……あいつはいくらなんでもやりすぎだ。これが妖怪退治というカテゴリーに入ると思うか?」
新聞記事を指差しながら魔理沙は言った。
霊夢は首を横に振った。
「どうする? 力ずくで止めるか?」
「止めるしかないでしょう。異変を解決するのが博麗の巫女よ」
魔理沙は頷いた。
その表情には、一種の余裕が感じられた。
「地球意志とはね。全く、別次元の力が働くなんて予想もしないよ」
人里にて資料を頭に叩き込んだ神奈子は、そのまま守矢神社へと帰還した。
話を聞けば、諏訪子はオロチについて全てを理解してしまっていた。
自分に喧嘩を売ってきたあの大男――ゲーニッツが洗い浚い話してしまったからだ。
「それに関しては、私達も見守るしか無いと思う」
諏訪子は言った。
「例え早苗が大量殺戮兵器に化してもか?」
「例え早苗が大量殺戮兵器に化しても、だよ」
諏訪子の返事に神奈子は黙り込んだ。
そうだろうな、神奈子は思った。
今迄、東風谷早苗は何の為に生きてきたのであろうか。
風祝として、神を祀るという大役を生まれながらに約束された存在。
奇跡を操る力は八坂神奈子と洩矢諏訪子から得たものだが、それにオロチの力が加わった。
「思えば、早苗が現人神じゃなくて、普通の女の子だったらどうしていると思う?」
諏訪子は言った。
「今更そんな話か? 考えるだけ無駄だ。歴史を変えることなど出来んよ。
あの吸血鬼に運命を操作されようが、早苗は私達の風祝だ」
神奈子は言い切った。
「それでいいんだよ。どんな形であれ、早苗は早苗だからね」
諏訪子がそう言うと、神奈子は壁にもたれかかった。
彼女も辛いことはわかっている。諏訪子はじっと神奈子を見た。
その時であった。
またもや障子が嫌な音を奏で始めた。
神奈子と諏訪子は同時に外を向いた。
凄まじい雨と、凄まじい風。
悪夢がよぎった。
二柱が寝室に辿り着くまでに、秒単位の時間はかからなかった。
布団には誰もいない。諏訪子が着せた着替えは、無造作に散らばっていた。
「神奈子!」
「くっ、始まったというのか!」
東風谷早苗から見れば、妖怪が報復活動を行うことは十分予測出来た。
守矢神社の風祝。ターゲットは間違いなく自分。
だから私が犠牲にならねばならないのだ。早苗はそう考えていた。
妖怪の山近くの森林地帯。
身を隠すには一番の場所であり、奇襲にはもってこいの個所といえる。
妖怪は散開を初め、少しずつ神社との距離を詰めていく。
そのうち、一匹の妖怪が何かの気配を感じ取った。
周りを見渡すが、誰もいない。そして正面を向いた瞬間、そこに標的はいた。
妖怪の顔が青ざめた瞬間、彼にとって不幸の総仕上げが始まった。
妖怪の人生は、一瞬にして終了した。
人間でいえば頸動脈に当たる部分を、瞬時に切り裂かれたのであった。
夥しい量の血液が放出される。まだ意識のある妖怪は、自分を殺しにかかる存在を確かに目視した。
緑色の髪をした少女。その瞳は、爬虫類のように縦に分かれていた。
そして、竜巻が妖怪に直撃。風の刃によって、妖怪の身体は真っ二つに両断された。
異変に気付いた妖怪は、更に警戒を強めた。
だが、風雨が強く、満足に行動が出来ない。
逆に先手を取ったのは、逆襲を開始した早苗その人であった。
「遅いですね」
呟きつつ、身体を滑らせるようにして突進を開始する。
そして油断をしていた妖怪に、一気に猿の如く襲いかかった。
妖怪は、何が起こったのか全く理解出来なかった。
頭を掴まれ、華奢な細い腕が自分を持ち上げたことを理解したこと。
それが彼の最期の脳内思考だった。
「お別れです」
刹那、竜巻に包まれ、妖怪の身体は粉々に砕け散った。
風という刃がありとあらゆる部分を切り刻み、意志の無い肉片を生成させる。
これで二体が倒された。
その時、妖怪が飛びかかった。
驚異的な脚力。それは人間には真似出来ないものだ。
そのまま早苗に殴りかかろうとするが、早苗は動かなかった。
そして、彼女は笑みを浮かべた。
「如何です?」
早苗が右腕を上げ、指を鳴らした。
同時、彼女の手から風で生成された刃が生み出され、攻撃を仕掛けた妖怪は早苗の攻撃を一方的に喰らった。
首が、腕が、脚が、胴体が切断され、妖怪だったものは散らばり、風に飛ばされていった。
もはや、地獄絵図と称するしかなかった。
妖怪は我先にと早苗に襲いかかるが、いずれもただの肉片として返り討ちにされるだけであった。
統制が崩れた妖怪側は、早苗の桁外れな強さに恐れ戦き、まだ命のある者達は退却を開始した。
いくら束でかかろうが、東風谷早苗に勝つことは出来ない。
それを思い知らされた妖怪は、何を思っただろうか。
「「早苗!」」
ふと、誰かの声が聞こえた。
あの声は……。
早苗は見つかる前に姿を消し、その行方を眩ましたのであった。
もう、顔を合わせることが出来ない。
彼女はそう思った。
駆け付けたのは二柱の神々だった。
「遅かったか……」
八坂神奈子はあちらこちらで息絶えた妖怪の死体を見た。
それは死体というより、残骸と称する方が妥当だろうか。
誰が発見しても、第一印象の感想は『惨い』と言うであろう。
どれもこれもが、見るも無残な姿で殺されていた。
洩矢諏訪子は、早苗に倒された妖怪を触った。
「まだ温かいね。やられてから時間はそんなに経っていないと思う」
彼女にしては珍しく、冷静に物事を分析した。
何せ、早苗の命が心配だ。
とはいっても、ほぼ一方的に早苗が殺戮劇を繰り広げたのは間違い無かった。
「早苗……何処行ったんだ?」
「ねえ、神奈子……あれは」
神奈子が周りをあちらこちら見ている時、諏訪子はこちらに向かってくる何かを見付けた。
「霊夢に魔理沙?」
「おいおい、何でこいつらがここにいるんだ?」
神奈子は呆気に取られた顔を作った。
「こいつらとは聞き捨てならないわね。探しに来たのよ、早苗をね」
「まー、今回ばかりは私達も協力させてくれるか?」
駆け付けたのは、博麗霊夢と霧雨魔理沙だった。
この暴風雨だというのに、二人は雨具すら付けていなかった。
「そうか……すまない、助かる」
「神奈子も素直になったねえ」
諏訪子が言った。
「早苗の無事がかかってるんだよ。……よし」
そう言うと、神奈子は口笛を吹いた。
すると、忽ちのうちに空から白狼天狗の一団が舞い降りた。
こちらは山の哨戒中であったのか、雨天装備が施されており、その全てが外套を羽織っていた。
「八坂様、どうかなされましたか?」
白狼天狗の一人が代表して言った。
「早苗が妖怪をぶっ潰してどっか行っちまったらしい。
まだ遠くにいないと思うんだが、捜索を頼む」
「はッ! 仰せのままに!」
そう言うと、白狼天狗は一斉に行動を開始した。
二人一組のバディを組み、低空飛行で移動する。
空からでは木々が邪魔して、満足に捜すことが出来ないからだ。
「私達はあっちを探してみる。行こう、霊夢」
「わかったわ」
魔理沙は箒に乗った。
二人は超低空飛行で早苗を探し始めた。
「まさかあの二人が助けに来てくれるとはね……」
「心配なんだよ、きっと。私達も行こう、神奈子」
諏訪子は神奈子の手を握った。
神奈子は大きく息を吐いた。
「……そうだな」
それだけ呟き、腕で顔面を拭く。
強い風雨は収まる気配を見せなかったものの、彼女の表情はとても清々しかった。
出来ればこのまま見つからない方がいい。
そして、私は一体全体、どうすればいいのだろう。
山周辺の森林地帯に身を潜めた東風谷早苗は、一人そう思った。
ここなら岩壁が死角となって、恐らく誰も近寄っては来ない。
むしろそれを歓迎したい。
「ここにいたのですか。貴女は現実からお逃げになる心算なのですか?」
俯く早苗に声をかけたのは、ゲーニッツであった。
幽霊である彼は、早苗が自然に醸し出す風使いとしての気を読み取り、彼女の居場所を察知していた。
「あなたですか……。諏訪子様との会話を聞きましたよ。
私は異形の力に目覚めてしまったのですね」
「ほう……、私とあの神さえ気付かせないとは、やはり四天王と言うべきでしょうか」
ゲーニッツは、気配を遮断しながら盗み聴きをやってのけた早苗を褒めた。
「貴女が祀るべき神々と、御友人が心配しておりますよ。
戻らなくてよろしいのですか?」
牧師らしく、彼は優しく早苗に問い掛けた。
「あなたに私の何が理解出来るというのですか?
既に私は多くの妖怪達を殺し、手はともかく全身が汚れているのですよ。
そんな大量殺戮人間を、温かく迎える家族がいるとでも仰るのですか!?」
ゲーニッツは早苗の言葉を噛み締めた。
「それは私にも言えることです。私にも仲間がおりました。
過去に敵対する人間と、あとは裏切り者、少なくとも二人以上は殺しました。
それが地球意志のお導きなのです。私は何の後悔もしておりません」
地球意志。
それがオロチであり、彼自身でもあった。
「それはあなたと同じ仲間がいるから――」
「では、逆に問いましょう」
ゲーニッツは、早苗の言葉を遮った。
「貴女は人間を殺したことがありますか?
御両親を、信頼する御友達を、尊敬する恩師を」
「……」
「私でしたら余裕で殺せますね。何せ人類は自然を平気で破壊する愚かな存在なのですから。
顔を見るのも、奴らが息をするのも、繁栄を遂げるのも、全てが汚らわしい者達でした」
「……」
早苗は黙ったままだった。
恐らく、彼の声は自分にしか聞こえていないだろう。
私だけに問い掛ける声だ。私の心を試しているのだ。
「そして私は全力を出しましたが、そんな人類に負けたのです。
舞台を最後まで見届けることが出来なかったのが、とても残念でしたがね。
だから人の有り様を見届けることをしようと思ったのです」
天を仰ぎ、彼は話すのを続けた。
「確かに人は愚かな存在です。いつまで経っても争いを止めない。
争いが争いを生む負の連鎖を、何年何十年何百年何千年と続けてきました。
だが、戦争を捨て、環境を再生するのもまた、人類が成すべきこと。
皮肉なことですけれどね。地球意志もそれを願っているでしょう」
そして、ゲーニッツは早苗を見た。
「貴女は確かに私の力を継承しましたが、まだ人間の心を持っています。
現に人間は、貴女の活躍を喜んでおられるではないですか。
異変を解決する風祝は、人里の者達にとっては英雄なのです」
「……私が、英雄?」
早苗は言った。
「私は貴女に言いました。妖怪退治を継続することが私の願いであると。
それは、貴女に人間を殺させたくはないという、オロチのお導きがあったからなのですよ。
もしもオロチが再び人類抹殺を望むのであれば、
貴女はとっくに幻想郷の人間を、一人残らず滅ぼしているでしょうからね」
早苗はゲーニッツの方を向いた。
その両目には、涙が溢れていた。
「私は……生きていいんですね?」
「自害する心算だったのですか? それは私の二の舞ですよ。
風を操るのであれば、もっと自由気ままに生きて欲しいですね。
私のもう一つの願いと言っておきましょうか」
両腕を後ろに組みながら、ゲーニッツは言った。
「さあ、お行きなさい、人の子よ」
彼がそう言うと、早苗は立ち上がった。
彼女は無言でゲーニッツの方を向いた。
「貴女に涙は似合わない。
神であれば、神らしく振舞うことを提唱しますよ」
恐らく早苗にゲーニッツの言葉は届いていないかもしれなかった。
一度振り向き、そして早苗は力強く足を踏み出した。
「もう貴女と会うことは無いでしょう……風祝、東風谷早苗。
願わくば、貴女に神の御加護が有らん事を……」
独特のポーズを取りながら、彼の姿は風と共に消えていった。
「見つからないな……」
「見つからないね……」
あれから何分の時間が経っただろう。
逆に森林地帯で遭難してもおかしくは無い。
時間はまもなく夜に差し掛かろうとしていた。
この雨では、松明に明かりを灯すことも出来ない。
捜索打ち切りか? 莫迦を言うな。
守矢神社の風祝が行方不明だなんて、そんなことがあるか。
神奈子が考えていると、霊夢と魔理沙が戻ってきた。
「どうだった?」
諏訪子が言った。
「駄目だ。どこに行ったのか見当が付かない」
「ひょっとしたら、下山している可能性もあるわね……」
魔理沙と霊夢が報告する。
誰もが希望を失い掛けた、その時だった。
「八坂様、あれは……」
白狼天狗が空を指差した。
空にかかっている雲が……風の流れによって消えていった。
強い雨を降らす雲が、何事もなかったように霧散する。
「おいおい、どうなってるんだ?」
神奈子は言った。
まるで時間を倍速にしたかのような映像を見るようだった。
雲が消え、雨は止み、風は穏やかな気流を作り出す。
「ねえ、神奈子!」
諏訪子が言った。
彼女達の目の前に向かってくるのは、確かに東風谷早苗だった。
「早苗!?」
瞬間、神奈子は走り出した。
空間転移を使えば一瞬だろうが、彼女はそれを使わず駆け寄った。
後の皆もそれに続く。
「早苗、良かった……無事で。怪我も何も無いな……ああ、良かった!」
神奈子は早苗の安否を確かめると、彼女の身体をしっかりと抱き寄せた。
「神奈子様……諏訪子様……皆様。
私は何て愚かなことを」
早苗は呟いた。
「いいんだよ、早苗。それでいいんだ」
「ああ、そうだ。くぅー、良い話だなあ……」
諏訪子と魔理沙が言った。
が、一人浮かない顔をした人物がいた。
博麗霊夢だった。
「ほら、霊夢も――」
魔理沙が言った、その時だった。
霊夢はいきなり早苗の頬を平手打ちしたのであった。
その行動に、周囲は絶句した。
「あんたね……神奈子や諏訪子、それに魔理沙や天狗の皆にどれだけ迷惑かけたのかわかってんの!?
地球意志? オロチの力? ある程度の気持ちはわかるけどね。
だからと言って、限度ってもんがあるでしょうが!」
それは物凄い剣幕であった。
長年付き合っている魔理沙はともかく、神である神奈子と諏訪子ですら手が出せない状況にあった。
「何の為に私が人間と人外の対決手段を作ったのかわからないの?
あんたがわけのわからない力に支配されて、自我まで失われたというのならね……」
そして、霊夢は御札を数枚取り出した。
「そのふざけた幻想を打ち砕く!」
霊夢は言い放った。
一瞬の静寂が流れる。
「そこまでだ」
「あうっ!?」
その時、霊夢の後頭部に向かって垂直チョップを繰り出したのは、魔理沙だった。
「もう私達の必要は無いよ。
あんな決めポーズまで作るなんてさ……。
帰るぞ、霊夢」
そう言うと、魔理沙は「邪魔したな」と言い、箒に跨ってその場から立ち去った。
「……今日は魔理沙に免じてあれだけど。
今度やったらただじゃおかないわよ」
まるで悪役の捨て台詞を吐きながら、霊夢も上空へと飛び立って行った。
彼女を追いかけるように、白狼天狗もそれぞれの持ち場へと帰っていく。
残されたのは守矢神社の面々だった。
「早苗、帰るぞ」
神奈子はそれだけ言った。
諏訪子は黙って頷いた。
「……はい!」
早苗は先導する二人の後に着いた。
既に太陽は沈み、満月と星が煌めいていた。
それから数ヶ月の時が流れた。
幻想郷の冬も終わり、新たな息吹が自然に潤いを与えた。
冬眠の時から生き物は目覚めを告げ、日本を代表する花が開花し始めていた。
「あの時は最高にかっこよかったよ、なぁ!
そのふざけた幻想を打ち砕く、だっけ? 何処のどいつの真似だよって。
あはははは!」
場所は冥界、白玉楼。
桜が咲き乱れるこの場所で、霧雨魔理沙はネジが外れたかのように笑った。
今日は花見に来ており、彼女は当時の霊夢の真似をしていた。
「本当にそんな恥ずかしいこと言ったの?
ねえ、そうなの? 霊夢ってばー」
魔理沙の発言に興味を持った伊吹萃香が言った。
萃香は霊夢の方をじっと見ている。
「記憶に無いわね」
霊夢は言ったが、顔は赤かった。
「あー、図星だこりゃ」
「だよね。霊夢が飲んでるのはただの水だもんねー」
「なー」
「ねー」
魔理沙と萃香は顔を合わせた。
霊夢は何も言わなかった。
すると、少し強い風が吹いた。
桜の花弁が散り始める。
「この風は……」
魔理沙は言った。
独特のポーズを取りながら現れたのは、東風谷早苗その人だった。
ただし、その服装はあの時の装束と異なっていた。
彼女の先代に当たる牧師が着用していた服装と、全く同じものを着用していた。
「さあ、神に祈りなさい。
ご一緒してもよろしいですか?」
早苗はそう言いつつ、霊夢達の前に現れた。
「おー、早苗だ。いつもとカッコが違うね」
萃香が言った。
「お久しぶりです、萃香さん。
神社に私宛に届いておりまして、折角だから衣替えをしてみました」
「そうなんだー。凄く似合うよ!」
「ありがとうございます」
早苗が会釈をした。
その時、地霊殿からの客人が萃香の視界に入った。
「私あっち行ってくるね。勇儀が来たみたい」
「おー、行ってこい行ってこい。たまには鬼同士水入らずで談話しろぉ」
魔理沙が言った。
「んで、あれからどうなのよ?」
「おかげ様で。ふざけた幻想を打ち砕かれることにはなってませんね」
霊夢の言葉に早苗が返答する。
思いがけない言葉に、霊夢は飲んでいたただの水を吹き出した。
「うわ、汚っ!」
思わず魔理沙はその場から身を引いた。
「げほげほっ! ……あんたも冗談言えるとはね」
「風祝が冗談の一つや二つ言えなかったら、職業が成り立ちませんよ」
「……言うようになったな、お前」
魔理沙は何かを疑うような目付きをして言った。
「で、地球意志のお導き通りに暮らしているというわけね」
霊夢は言った。
「ええ。豊かな自然を守ることが第一です。妖怪退治はその次ですね。
神奈子様による産業革命が始まったとはいえ、環境に優しい動力を目指しております」
「確か反応動力だっけ? 何だかやばそうな気がするんだけどな」
魔理沙は質問を行う。
「そこはご安心を。他には風力発電所も建設が始まっております。
風の力で電気を起こす、とても綺麗な発電方法です」
「何か凄いことになってるなぁ。私にはついていけないぜ」
「まあ、暮らしが便利になれば言うことなしだけどね」
暮らしを便利、か。早苗は思った。
それで<向こう側>の人間は、数多の自然を再び破壊した。
森は砂漠化が進み、水は汚れ、多くの動物が棲みかを追われ、多くの動物が姿を消した。
だから私は、初めから自然を壊さない方法を取るよう、神奈子様に打診した。
そして、人間の有り様を見続けようと思う。
それは、人間でありながら神でもある私だからこそ、出来ると思うのだ。
私に風がある限り、風が答えを導き続ける限り、神の御加護が私を包み込む限り、
私のために、風は吹き荒ぶ。
そして、私は神そのものとなるだろう……。
曇天の空から降る雪は季節外れか、それとも今の気候に当て嵌まるのか。
たまに吹き付ける風が、大地から暖かみを奪っていった。
その温暖さは、ひょっとすると意図的に掠め取られているのかもしれない。
それが、無意識のうちに行われていたとしたら?
もしそうだとすれば、恐らく自分の仕業だろうと思う人物がいた。
そこは、まさに地獄絵図と称するべきだった。
周囲には妖怪の死体があちらこちらに転がっている。
原型を留めているのは、まだ幸運な方だった。
四肢を失われ、首が吹き飛び、腕や脚が散乱し、挙句の果てには肉片や脳髄が飛び散っている。
おかげで美しいはずの自然は、あたり一面真っ赤に染まっていた。
言わずもがな、『妖怪だったもの』の血や臓物によって、である。
「さて、あなたが最後のひとりですか」
返り血を浴びに浴びた人間が呟いた。
驚くべきことに、その人物は女だった。
ただの女ではない。まだこの世に生まれて何年が経過したのだろうか。
外見は、非常に若い女だった。
少女の前には、外見は筋骨隆々とした妖怪がいた。
何の目的で自らが討伐されなければならないのだろうか、とその妖怪は思っているかもしれない。
で、あるならば、妖怪からしてみれば、それは一種の不幸に該当すると言った方が自然だった。
何故ならば、妖怪の前に立つ少女の職業は、妖怪退治を主として扱うものだからだ。
「来ないのですか?」
少女は言った。別に挑発しているわけではなかった。
その気になればいつでも殺せるからこそ、放つことの出来る余裕があるからだ。
せめて、懺悔の時間を与えようという、彼女の心遣いと言うべきだろうか。
妖怪は、動くことすら出来なかった。
逃げることも出来るかもしれないが、成功する確率は両手の指を合計した数より低いだろう。
少女の仕事は妖怪退治であり、人間に害成す妖怪であると判定されれば、完膚無きまでに叩き潰す。
いや、叩き潰すというより、一方的にぶち殺すと表現するのが正しいのかもしれない。
その結果が、少女の周りに転がっている死体なのだから。
少女の足が、一歩動いた。
妖怪が攻撃を仕掛けたのは、その直後だった。
通常、妖怪は身体的に人間に優れているのが普通だ。
当然ながら、この妖怪もまた、人間とは比べものにならない脚力を有していた。
そして、右手で打撃を放つ。あの力で殴られれば、華奢な少女など一撃で致命傷を負うはず――だった。
「遅いですね」
その言葉と共に、少女の姿が消えた。
妖怪の攻撃は見事に回避されたのであった。
妖怪が着地を決めたその時には、少女は妖怪の背後に回り込んでいた。
「やれやれ、少しは出来るとは思っていたのですけれどね……。
所詮、この程度ですか」
妖怪が気付いた時は、もう本当の意味で遅かった。
少女は妖怪の頭を右手で掴み、その細い腕からは到底思えないほどの腕力を発揮した。
何故なら、重さは自らの倍はあると思われる妖怪の頭を掴み、軽々と持ち上げたからだ。
「下の下、以下ですね」
少女は言った。
妖怪は抵抗を見せるが、この状況ではどうにもならなかった。
「お別れです」
刹那、妖怪の身体が巨大な竜巻に包みこまれた。
猛烈な風は自然の刃となり、妖怪の身体は挽肉と化した。
それは、まるでハンバーグ・ステーキの材料になるかのように。
当然ながら、おびただしい量の血液が周囲を朱に染めた。
その一部は少女に降りかかるが、少女は何も気にしてはいなかった。
少女は粉々となった妖怪だったものを見た。
何も感じない。慈悲など存在しない。そして、無様だとも思わない。
思ったのは、何て愚かで、哀れなのだろう。それくらいだった。
「また、汚れてしまいましたね。
帰って洗濯をしなければなりません……」
少女は言った。仕事は終わったのだ。
なんてあっけない。今迄強いと思っていた妖怪は、こうも弱いのか。
いや、妖怪といっても反則的な強さを持つ妖怪もいれば、このように雑魚もいる。
だから、正確に言えばどう言えばいいのだろうか。兎に角、この妖怪はただのゴミと言えばいいのだろうか。
そう、この世界では、常識に捉われてはならないのだ。
妖怪が棲み付き、超人的な力を持つ連中がうじゃうじゃいる世界。
それが幻想郷という世界なのだ。
少女が戻ろうとした時、視界にひとりの男が映った。
金髪の髪に、顎髭を蓄えた壮年で大柄の男だった。
「また、あなたですか。
何故私の前に現れるのですか?」
この男とは、以前にも出会ったことがあった。
あれは自分が妖怪退治を本格的に行うようになってからだろうか。
当然ながら、彼女は男の名前を知らない。その逆も然りだ。
「まずは一方的な虐殺、やはり大したものですよ」
男は言った。少女の表情が変わった。
「一方的な器物損壊容疑の間違いです。
あんなもの、犬や猫の首を切り落とすのと同じでしょう」
吐き捨てるように少女は言った。
彼女は歩きながら男の前を通り過ぎようとした。
が、その動きは止まった。
何故だろう。この男を無視しても、ずっと視界に入ってくる気がする。
そう思った。
「まあ、確かに。
私達から見れば、そうだと解釈してもおかしくはないと思います」
私達? この男には仲間がいるのか?
意味深な発言に、少女は耳を傾けざるを得なかった。
今迄、男が(恐らく所属しているであろう)組織らしいものに所属していることは、言っていなかったからだ。
「まだお気付きになられないのでしょうか?
既に始まっているのですよ。貴女の目覚めは」
「……何が言いたいのです」
少女は男の瞳を見た。
男は黙って下を向いた。
「こうして私が見えること自体、非常にありえないことだと申し上げたいのですよ。
私はもう数十年前に、死んでいるのですから。
そして、私が見えることは、あなたが力に目覚めていることを示唆するのも同然というわけです」
「……」
少女は黙った。そんなこと、今迄ずっと黙っていたというのか。
もしそれが本当だとしたら、自分は幽霊と会話していることとなる。
まさか、この男が白玉楼の人間と関係しているとは思えない。
あの桃色の髪の亡霊とその従者が、こんな慇懃無礼な大男の仲間であることを。
「いい加減教えて頂けませんか?
あなたは何者で、私に何を望むのですか?」
少女は男を見て言った。
その瞳は鋭い視線となり、男に突き刺さる。
「人の有り様を観測する者、と申し上げましょう。
貴女に望むといえば、そうですねえ……このまま妖怪退治を続けること、ですね」
男はそう言った。
少女は黙ったままだった。
「いずれわかることです。
せいぜい、風祝としての所業をお励み下さい。
貴女に、神の御加護があらんことを……」
男が呟いた、その瞬間だった。
突風が吹き、木々がばさばさと揺れた。
気付けば、視界から男が消えていた。
少女は周囲を見渡すが、転がっている
「神の御加護があらんことを……とは。
聖職者でも気取っているのでしょうか。
気持ちが悪い」
そういう私も、神に仕える者だけれども。
と、少女は思った。
思えば私はどうしてこんなことをしているのだろう。
妖怪を蹴散らした帰り道、少女は自分にとっては至極下らないことを考えていた。
<向こう側>で非科学的現象は信じられなくなり、そのしわ寄せはついに自らの領域にも及んだ。
それでもあらゆる媒体で、『信仰』という形で何かを信じるという行為が続けられているのは事実だった。
古来、数多の自然災害や疫病といった類のものは、神の逆鱗に触れたと解釈されていた。
人々はそれらを鎮めるために神に祈りを捧げ、旱魃や台風、洪水なので農作物に甚大な被害が出た時は、
神の力を頼るために、また祈りを捧げた。
しかし、それらは科学力の発達により、事前に予知し、防ぐことが可能となった。
そのため、人々は神を信仰するより、科学を信仰するようになったのである。
が、多くの人々は『信じる』そのものを否定的と捉えるようになった。
だが、それは本当のことであろうか?
とあるカルト教団が、地下鉄で毒ガスを撒いた頃はどうだろうか。
その当時、少女はもっと幼く、まだ『信仰』についてそれほど宗教的概念は持ち合わせていなかった。
風祝としての本格的教育は受けていたが、それが何を意味するのかも理解ままならぬ年齢であったから、無理もない。
この一連のテロ事件により、その手の信仰集団に多大なる不信感が生まれたのは言うまでも無い。
あの白装束を着た正体不明の連中も然りである。
とある宗教勢力についてはどうか?
あれは自分達がこちらに来る前にもかなりの影響力を持っていた。
その信仰は凄まじいもので、ごく普通の一般家庭は当然ながら、企業や政治家にも浸透していた。
記憶が正しければ、学生時代、同級生の親がその手のシンパサイザーであった。
政治の季節になれば戸別訪問もあったが、その親は間接支持援助者であったため、公選法には抵触しなかった。
つまり、科学が発展しても尚、人々はなんらかの形で『信仰』を行っていることとなる。
絶対的な数は減ったが、未だ世界的に影響力を与えている宗教はいくらでもいるではないか。
そして最近知ったことだが、<向こう側>では世界的に大きな不況の嵐が巻き起こっているという。
不安と貧困にあえぐ人間が頼りとするものは、結果的に『信仰』に辿り着くらしい。
なんとも皮肉な結果だ。
信仰が得られなくなったから、こちらにやってきたというのに。
だが、あの隙間妖怪が言うには、宗教ではないが宗教であるらしかった。
プレカリアートという言葉自体、こちらに来て初めて耳にした言葉だった。
それでも、幻想郷にやってきたのは間違いではなかった。
妖怪の山に暮らす天狗達との講和が実現し、強大な神力を持つ神を信仰することにより、
保身が約束されるというのであれば、こちらにとっては非常に美味しい話だった。
だが、この世界では常識に捉われてはいけないのだ。
天狗達の信仰が必要ならば、天狗達を邪魔する妖怪は消し去らなければならない。
だから退治する。だから殺す。まあ、<向こう側>の法律ならば、器物損壊で済むと思うが。
そう、私は風祝、東風谷早苗。
妖怪退治を生業とする存在なのだ。
あれこれ考えている時、早苗は不意に足を止めた。
彼女は空を見上げた。
「今は雪ですが……」
空に向かって、手を上げた。
すると、みるみるうちに雲の動きが変化していった。
曇天なのは変わりないが、その色は一層濃くなっていく。
そして、風が吹き始める。辺りの木々を揺らし、風は次第に勢力を増す。
雲が降らす物体は、いつの間にか雪から雨と変わっていた。
先程までの弱い雪から、強烈な雨が地面を濡らす。
それは傘を差していない早苗も然りであった。
風は更に強くなり、早苗ほどの体格の人間であれば、いつ吹き飛ばされてもおかしくない威力となった。
が、彼女は何の恐怖も抱いていなかった。
むしろ、この猛烈な暴風雨を生み出す自分の力に恐怖するのかもしれなかったい。
「この風、この雨……。
そう、私は風祝。
私の力は、誰にも止めることは出来ない。
神奈子様であっても、諏訪子様であっても……もう、無理なのです」
早苗は大空を見上げた。
全身に雨が降りかかる。
けれども、雨が降り止むことは無い。
悪天候は早苗の力によって起こされたものだが、彼女に喰い止めることは出来なかった。
何故なら、力を起こすことは出来ても、停止させるだけの抑制力は持ち合わせていなかったから。
「……落ち着いたら、雨も止むでしょう」
早苗は呟き、帰路に着いた。
その背中は、とても悲しげなものに満ちていた。
東風谷早苗が、一方的な器物損壊事件を行っている時とほぼ同時刻のことである。
博麗神社に向かうひとつの姿があった。
それは鳥でも未確認飛行物体でもない。普通の魔法使い、霧雨魔理沙その人であった。
「かーくゆうごうろにさー とびこんでみーたいとーおもうぅ~
まっさおなひかり つつまれてきれい~♪」
機嫌良く歌を歌いながら、魔理沙は神社の石畳に着地を行った。
「ああ寒い寒い。何か歌わなきゃ凍えることだけを考えてしまうぜ」
身体についた雪をある程度払い、魔理沙はそのまま神社へと向かった。
幻想郷は春に近付きつつあるが、まだ雪がちらつくこともそれなりにあった。
「おーい霊夢、いるか?」
こうして魔理沙が博麗神社の巫女を訪ねるのは、ごく普通の話だった。
こんな寒い時は、とても熱い緑茶を片手に談話をするに限る。
香霖堂の主人は境界を操る妖怪と乳繰り合っているに違いないから、と魔理沙は判断していたからだ。
自慢のスペルカードで脅かすのも一向だが、反撃という名のぶらり廃駅下車の旅に行きたくは無い。
だから神社に行くことを決めたのであった。
「はいはいいるわよ。まーったく、あんたは冬でも元気ねー」
衝立障子が開き、中から現れたのは博麗霊夢だった。
とても寒いためか、上着を羽織っている。
「元気が取り得なのが私だからな。
というか、寒いならあれ着なきゃいいのに」
魔理沙は言った。霊夢が普段から着用する巫女装束のことを言っていた。
「巫女としての伝統だからね。嫌でも着るのが博麗霊夢なのよ」
「さいですか」
「ここで話もなんだし、上がりなさい」
霊夢に手招きされ、魔理沙は神社の中に入ることとした。
霊夢が自宅として使用する博麗神社は、とても広い。
この世界では貧乏という流言が飛び交っているが、巫女の暮らしは案外裕福な方であった。
お茶の用意はすぐに出来た。
高級品の香りが、魔理沙の鼻をくすぐった。
「良いやつだから、大事に飲みなさい」
「高いものなんて買えるのか?」
かくれんぼで見つかった時の幼児のような顔をしながら、魔理沙は言った。
「妖怪退治の報酬よ。人助けをすると、良いことがたまにあるってわけよ」
と、霊夢は得意気に言って見せた。
博麗霊夢の仕事は、主に妖怪退治と異変解決だった。
これまで何件もの異変を解決しているため、その実力は折り紙付きと言われている。
新聞や幻想郷縁起にも、その活躍は英雄譚として書かれていた。
異変があると自ら解決に向かうが、たまに仕事として異変を解決するよう依頼されることも多い。
霊夢の知名度は幻想郷ではとても高いため、かなりの確率で問題解決の仕事が入っていた。
今日、魔理沙に振舞ったお茶は、そうした仕事で得たお礼だった。
人里で栽培される緑茶の、非常に貴重な部分である。
「私も妖怪退治しようかなあ」
魔理沙は言った。
「あんたには似合わなさそうね」
霊夢は切り捨てた。
「冗談で言ってみただけだ。
子供の頃、そういう冒険物語を結構読んでたからな」
今でも十分子供だけどね、と霊夢は思った。
思わず魔理沙はお茶を吹き零しそうになった。
ヒーローが悪者を懲らしめる、というストーリーは、魔理沙の人格形成に多大なる影響を与えたらしかった。
その教育方針は間違っていたか、間違っていなかったのか。
それは魔理沙の両親に尋ねるしかない。
「だからそんな活発になったのね」
「まあな。強い奴を見ると、戦いたくて身体がウズウズするんだ」
「あんたらしいわ」
霊夢は笑いながら言った。
別に好戦的ではないが、霧雨魔理沙とはそういう人間だった。
何年も友人をやっていると、自然と性格は理解できるものである。
「お前はいいよなあ」
唐突に魔理沙は言った。
「何が?」
「合法的に妖怪退治が出来るじゃないか」
「あのねえ……」
霊夢は頭を掻きながら言った。
「私も好きでやってるわけじゃないのよ。
博麗霊夢としての生き方が、それしかないのはわかっているでしょう?」
妖怪退治と異変解決。それは代々博麗霊夢が受け継ぐものであった。
霊夢は数えで十何代目に当たるが、先代の博麗霊夢もまた強力な霊力を持ち、人間と妖怪の間で活躍した(らしい)。
そして、血縁的に次代を生むのが不可能となると、そこら辺にいる娘を拉致し、博麗霊夢として育てるそうである。
「言ってみただけだ」
「わかればよろしい」
そう言って、霊夢は緑茶に口を付けた。
「妖怪退治といえば、あいつの活躍、やばいな」
魔理沙は言った。
「早苗のこと?」
霊夢は魔理沙を見て言った。
「連日新聞に載ってやがるぜ。白蓮達がこっちに来る前くらいかな、それはもうやりたい放題じゃないか」
ついこの間、幻想郷に突如として現れた飛行船。
それらに関する異変を見事に解決したのは、巫女と魔法使いと風祝。
その風祝が東風谷早苗なのだが、特に彼女の最近の活躍は凄まじかった。
農作物を荒らす小動物がいるので、どうにかして欲しいという依頼が博麗神社に届いた。
現場に急行した霊夢が見たのは、木々に吊るし上げられた鹿や猪の死骸であり、それが霊夢の所業と誤解された。
他には妖怪同士の小規模な抗争があり、これを鎮圧して欲しいという依頼が博麗神社に届いた。
ひとりでは骨が折れそうなので、魔理沙と一緒に現場に行けば、
何十体もの妖怪の死体が転がっていた。
おかげで巫女と魔法使いは大量惨殺者と間違えられた。
そして今日の朝刊には、ゴミを荒らす野鳥に悩まされていた人々の歓喜の声が載っていた。
農業の弥代兵衛(仮名)なる者の取材記事があり、『流石は風祝様だ』との記事があった。
「木々に括り付けられた野鳥は、人々の胃袋に収まる事だろう……」
と、霊夢は今日の朝刊を見直した。
本来であれば処分するのが普通であるが、霊夢は新聞を捨てに行く作業すら面倒としていた。
おかげで新聞紙の山が、あちらこちらで出来ていた。
新聞勧誘は断っているのだが、あのブン屋は購読の手続きをしていないのにもかかわらず、一方的に新聞を投げ込んでいた。
押し紙を断るスペルカードでも作ろうかしら、と霊夢は考えたこともあった。
「霊夢、どう思う?」
魔理沙は真剣な目付きをして言った。
「止めたいけど、恐らく無理ね」
霊夢は瞬時に結論を組み立てた。
魔理沙は無言で頷いた。彼女も同じ事を考えているらしかった。
「今の所、あいつは人里の人間を完全に味方に付けている」
魔理沙は言った。それがとても厄介な事項だった。
妖怪に対する自衛手段はある程度持ち合わせているだろうが、人間と妖怪の力の差は圧倒的である。
野生動物程度なら兎も角、箍を外した妖怪が襲いかかってくればひとたまりもない。
そのため、妖怪相手に互角に戦う風祝の力は、絶対的なものであった。
誰よりも高く、誰よりも強く、誰の手でも止めることの出来ない存在。
恐らく、人里の住人はそのように早苗の実力を認めているだろう。
「そしてもうひとつ、天狗の存在ね」
「ああ」
霊夢の言葉に魔理沙が相槌を打った。
妖怪の山に守矢神社が丸ごと転移した事件後、守矢神社側は山に住む天狗達の信仰を得ることが出来た。
その交換条件として、山周辺の治安維持――有事になった際、祭神である八坂神奈子の協力を仰ぐことを約束させた。
いわば天狗側と神社側の相互防衛条約であり、天狗でも手が付けられない状況にそれは発動されることとなっていた。
が、敵対する存在の芽は事前に摘み取っておくことを、早苗は優先した。
天狗が守矢神社を信仰することで、
彼らは八坂神奈子の強大な神力(それが実際に影響を与えるかどうかは不明だが)を手に入れた。
が、それは山に住む天狗と、麓に住む妖怪のパワー・バランスを根本的に崩す結果となった。
それ故に、天狗に対して不満に思う妖怪の一部が、挑発的な行動を取るようになっていた。
この行動を弾圧粛清していたのが、他でもない東風谷早苗であった。
確かにあの当時の異変では、博麗霊夢の実力に敗北を喫したものの、
幻想郷について学んだ早苗は、あれから更に自身を鍛え、磨き上げてきた。
それは現在進行形で続いている。
風を操る力も凶悪さを増し、時たま発生する竜巻は、彼女が起こしていると言われるほどだった。
「このままあいつが、私達が手の付けられないほどの力を得たらどうする?」
魔理沙は言った。
彼女は早苗が後々敵になるかもしれないことを前提としていた。
「もう手遅れだと思うわよ」
霊夢は吐き捨てるように言った。
「何でそれがわかるんだ?」
「なんとなく、よ。巫女としての勘かな」
と、霊夢は言った。魔理沙は黙り込んだ。
博麗霊夢の勘は、高い確率で的中するという噂があるからだ。
その時だった。
衝立障子や襖が、突然音を発したのであった。
「何だ?」
異変に気付いたのは二人だが、実際に動いたのは霊夢だった。
障子を開けると、そこは既に物凄い暴風雨が支配する空間が完成されていた。
「おいおい……、さっきまで雪が降っていたのにいきなり……うわ、こりゃすげーなおい」
魔理沙は感想を述べた。
雪には音を吸い取る性質があるが、雨にはそれがない。
それどころか、熱帯低気圧に匹敵する凄まじい風雨だ。
神社程度の建築物は、屋根が吹き飛ばされてもおかしくない威力である。
「おい……霊夢」
魔理沙は言った。
霊夢は目前の現実を、黙って見ているだけであった。
妖怪の山には、守矢神社なる神を祀る場所がある。
秋に周辺の地形ごと幻想郷に出現し、現在に至っている。
参拝するためには山岳地帯を突破しなければならないため、
行くだけでかなりの疲労感が伴うとされていた。
それでも伯耆国に存在する修験道の行場である三仏寺よりは、大分マシと言うべきだろう。
投入堂の通称で知られるそれは、垂直に切り立った絶壁に建立されているのだから。
「早苗はまだ帰ってこないのか?」
外の様子を見ながら、八坂神奈子は発言した。
直立の体勢であるが、両腕は組まれており、軍神としての風格を漂わせている。
彼女こそ、守矢神社を幻想郷に移動させる計画を立案・実行した神であった。
最近では産業革命を着々と進め、更なる信仰を得ようと画策している。
「そうみたいだね。この雨の中だったら、もうそろそろ戻ってもいいと思うけど……」
神奈子にそう返事をしたのは洩矢諏訪子だった。
守矢神社の本当の神で、かつては様々な事柄の祟り神である『ミシャグジ』を束ねていた。
「諏訪子、この天候……どう思う?」
神奈子は言った。
神社の外は強烈な風雨が巻き起こされ、誰も外出は出来ない状況に置かれていた。
そして、神奈子は苦い笑みを浮かべていた。
「神奈子の力で制御不能なんて、ありえない話だと思うよ」
諏訪子は特徴的な形をしている帽子を持ちながら言った。
彼女は室内では脱帽する気質であった。
神奈子の力、それは乾を創造する程度の能力。
「乾」とは八卦における「天」を意味する。
一方、諏訪子の力は坤を創造する程度の能力で、「坤」は八卦における「地」を意味する。
この二柱の力はそれぞれ対となる能力を持ち、
神奈子は風雨や天候を左右する力、諏訪子は大地に関する様々なことを操ることが出来る。
なお、大地に関する能力は天人くずれの比那名居天子も所持しているが、
彼女は主に自然災害を起こす(または鎮める)方に特化している。
諏訪子の場合は、主に地形を創造し、新たに農地などを作るための力を持っている。
神は信仰を行動源としている。
そのため、<向こう側>にいた時は信仰力が不足し、満足な行動が取れなかった。
が、今は違う。
天狗や河童の信仰を集め、今までより強大な力を行使できるはずだった。
その力が、全く通用しないのは、神奈子にとって自身のプライドを揺るがすこととなる。
風雨や天候を左右することが出来るのであれば、今起こっている暴風雨を止めることくらい、非常に容易いものだった。
それどころか、この強い風雨は止まるどころか、更に勢いを増していた。
「つまり……早苗の力が私を上回っていると言いたいんだな?」
神奈子は愕然とした表情を作った。
諏訪子は黙って首を縦に振った。
「認めたくないけど、そういうことになるね。
あの娘は現人神。信仰を得ずとも修行次第で、いくらでも力を増加することが出来るから」
諏訪子は言った。
現人神。それはその身に神が宿っていると称される人間のことである。
日本の天皇家もかつては現人神とされていたが、太平洋戦争の敗戦により、
合衆国によって「人間宣言」をさせられた。
だが、早苗は違う。
彼女は諏訪子の血統を引く由緒正しき神の子孫。
神格化はされてないものの、それに近い力を有し、また人間であるため信仰を必要としない。
故に自身の力は修行によって磨きをかけることが要るが、
霊夢との戦いによる敗北で、彼女は別の意味で己を鍛え直すことを選択した。
しばしの沈黙が流れた。
神奈子は何かを考える様子で立ち、諏訪子は座っている。
二柱の黙りを破ったのは、玄関口から発せられた音だった。
帰ってきたのだ。
急いで玄関に行くと、雨でずぶ濡れとなった東風谷早苗の姿を発見した。
そして、二人は驚愕した。
「早苗……それは」
神奈子は彼女の全身を見た。
「大丈夫です。……私の血ではありません、全部妖怪の返り血ですから」
早苗の風祝装束は、殆どが倒した妖怪の血で染まっていた。
それに雨が吹き付けられ、どす黒い色へと変色している。
「早苗……」
諏訪子が言った。
「御心配おかけしました。
……お風呂、入りますね」
早苗は言いながら靴を脱ぎ、そのまま廊下をゆっくりと歩いていった。
神奈子と諏訪子はそこから動かなかった。
いや、動けなかったのだ。
「準備、してくるね。
たぶん、早苗はそのまま入ったと思うから」
「ああ……」
諏訪子は神奈子にそう言って、その場から消えていった。
なんともやり切れない思いだ。神奈子はそう思った。
雨が止む気配は、全く無いに等しかった。
神奈子は廊下を歩き、居間に戻ろうとする。
とりあえずこの場は諏訪子に任せよう、その方がいい。
彼女は思考を巡らせながら、ふと後ろを振り向いた。
(……誰だ?)
何かがいる。
気配だけは感じられるが、当然ながらそこには誰もいない。
守矢神社は神奈子と諏訪子と早苗の3人で暮らしている。
客人でも招かない限り、誰かがそこにいることはありえないはずだ。
だが、神奈子は何者かの気を確かに感じ取っていた。
無言が支配する。
居間の戸を開ける。そこには誰もいない。
先程まで諏訪子が食べていた饅頭が置かれていた皿が、食卓の上にあるだけ。
(気のせいか……?)
神奈子は周囲を見渡す。
そして確信した。
(ここにいないというのであれば……!)
戸を開け、更に外へと移動する。
一面に広がるのは、豊かな自然と暴風雨。
辺りは風と雨によって地形が変化され、地面は泥沼と化していた。
神奈子は目を動かして警戒する。
写るのは幻想郷が生んだ自然しかない。
湖も水位が上昇している。このまま河川が氾濫してもおかしくない状況だった。
「出てこい……。いるのはわかっているんだ。
いつまでも逃げる気か? 神に怖気づいたか?」
そして、神奈子は地面へと降り立った。
とはいっても、彼女は神である。濡れもしなければ、泥が跳ねたりもしない。
早苗がずぶ濡れとなったのは、まだ彼女も人間としての部分があるからだろう。
と、神奈子は思った。
「やはり気付いておりましたか……」
声が聞こえた。
神奈子には、声と共に男の姿がそこにあるのが見えた。
金髪に顎髭を蓄えた大柄な男。青を基調とした異国の服に、肩には黒いケープをかけている。
「何者だ……貴様」
神奈子の眼光が鋭く光った。
彼女は男をしっかりと捉えた。
自分と同じで、全く雨には濡れず、履いている靴には泥が付着していない。
もしこの男が普通の人間であれば、濡れるし、至る所に悪天候独特の痕跡があるはずだ。
だが、それがない。
「魂の配慮を行い、信仰と生活を導く只の牧師でございますが?」
男は口を開いた。
「牧師だと? 只の牧師がこの世界にいるものか」
神奈子は男の発言を切り捨てた。
<向こう側>で暮らしている時に、ある程度の知識は身に付けている。
そうでなければ人間世界を生きることは出来ない。神も学習はするのだ。
牧師はプロテスタント教会の聖職者だ。つまりこの男はキリスト教に籍を置く者。
だが、幻想郷でイエスの人格と教えを中心とする宗教活動家は存在しない。
最近になって人類と妖怪の平等を説く年齢不詳の女が活動を始めたが、あれは仏教だ。
「これは失礼。
まあ、生前は牧師をしていたものでございまして」
「生前だと?」
神奈子は男に言った。
「ええ、訳あって私は天へ召されたのでございます」
「つまり、貴様は自分が幽霊だと言いたいのか?」
「左様で。人の有り様を観察するのが日課となりましてですね……。
偶然にも観察対象となるべき人間を発見したのですよ」
「……」
神奈子は押し黙った。
幽霊(というより亡霊)は幻想郷にもおり、自分もこの目で見たことがある。
だが、人間を観察するという悪趣味を持ち合わせた幽霊など、見たことは無い。
「何が言いたい」
「東風谷早苗、と申されましたか?」
「!?」
神奈子の足が、一歩動いた。
「貴様、早苗に何をした?」
神奈子の表情が変わった。
男は上から見下ろしている。
神奈子も女性としては身長は高い方だが、この男は更に高い。
いや、成人男性としても非常に高い部類だろう。2m近くはある。
「先程までの余裕が無くなったと理解してよろしいですね。
私は別に何もしておりませんよ。直截的には――」
男が言葉を発し終わる前のことだった。
彼の周囲に立っていた木々のうち、一本が薙ぎ倒された。
「……やれやれ、血気盛んな御方だ。
私はそういう女性は嫌いではありませんがね」
「本気で殺すぞ……」
神奈子の両目が光る。
「幽霊を殺すと申すのですか?」
「……貴様、舐めるなッ!」
神奈子が腕を振るう。
瞬間、常人に恐らく視えないであろう、風で生成された刃が超高速で男に放たれた。
このまま行けば間違いなく直撃。先程倒された木の数は一本だが、今度は岩ですら両断する勢いだった。
男は不敵な笑みを浮かべた。
「ここですか?」
男が口を開いたと同時、何かが現れた。
それは、風だった。
いや、風というより、竜巻。
神奈子にも、確かに視えた。
自身が生み出した風の刃を、竜巻が跳ね返したのだ。
その竜巻は、この男によって作られたものだった。
「……ッ!」
突然の反撃に、神奈子は何を思っただろうか。
「驚かれましたか? 私もあの娘と同じように、風を操る力を有しているのですよ」
貴女は見た所、風を操る立場でございますね。
力の出所は違いますが、私も同じなのです」
男は言った。
「最後に一つ、良いことを教えて差し上げましょう。
東風谷早苗は確実に私達の血、それも私の力に目覚めつつあります。
妖怪を退治するという仕事、それは覚醒の始まりなのですよ。
我らオロチの力、にね」
オロチ。確かに男は言った。
「オロチ……だと?」
「また機会があればお話致しますよ。
良い風が吹いてきましたね。貴女に、神の御加護が有らん事を……」
男が発言を終えると、一層強い風が吹き荒れた。
彼なりの演出だろう。神奈子の視界には、男の姿はもういなかった。
「私は神そのものなんだがな……」
神奈子は誰もいなくなった平原に向かって言った。
(オロチ。それは私を示唆しているのだろうか?
それとも、あの男が言ったまた何かの別の力か?)
神奈子は思った。
風は少しずつだが収まり始める。雨もまた、小雨となってきた。
(早苗の力が落ち着きを取り戻したか……)
そう心の中で言うと、神奈子は神社へと戻っていくのであった。
「確かにそう名乗ったの?」
守矢神社の居間で、洩矢諏訪子は八坂神奈子に問うた。
早苗はその後身体の不調を訴え、布団の中ですやすやと眠っている。
諏訪子が寝かし付けたのだが、早苗が眠りに就いてから、風雨が何事も無かったかのように降り止んだ。
「正確な名前までは聞き出せなかったけどね。
だが、あの男は自分をオロチと名乗った。それが何なのかさっぱりわからん」
諏訪子が煎れた熱い緑茶を飲みながら神奈子は言った。
「オロチって、あの八岐大蛇のことかな?」
諏訪子は言った。
八岐大蛇。それは記紀神話に登場する巨大な蛇である。
出雲国の簸川(ひのかわ)に棲んでいると言われ、スサノオノミコトによって討伐され、
クシナダヒメを救出し、その尾からは天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)が生まれたとされる。
「それとあの男が関係するとなると、辻褄が合わなくなるわよ。
何で八岐大蛇と風が関係するんだ?」
神奈子は両手を頭の後ろに組みながら言った。
「風?」
「私の攻撃を竜巻で相殺したんだ。
ただの牧師かと思ったんだが、あれは相当な使い手と解釈して良いと思う」
神奈子は一連の出来事を諏訪子に説明した。
牧師であり、幽霊と名乗る男は、激昂した自分の攻撃をいとも簡単に防いでみせた。
防御に使われたのは竜巻。男は自らも風を操る者と称した。
それについて、諏訪子は特に疑問には思わなかった。
幽霊は幻想郷にもいるし、弾幕ごっこという名の攻撃手段は自身にも行使出来る。
「調べる必要があるわね。
ちょっと行ってきますか」
神奈子は緑茶を一気に飲み干した。
神になると、熱いや冷たいの概念をも打ち消せることが出来るらしい。
「行くって、何処に?」
「人里の歴史家と郷土史家を当たってみる。
彼女達なら、私や諏訪子も知らない<向こう側>の歴史について知ってるでしょう」
そう言うと、神奈子は瞬間移動を用いてその場から消え去った。
「行っちゃった……」
ひとり残された諏訪子は、とりあえず湯呑みを片付けることにした。
私が家事なんて、昔じゃ全く考えられないことだ。
諏訪子はそう思いながらも、慣れた手付きで洗い物を終える。
そして、廊下を歩いて早苗の様子を見に行くことにした。
彼女もまた、神である。音も立てずに歩くという所業はお手の物だった。
早苗を起こさないよう、一応注意しながら彼女の枕元へと座った。
東風谷早苗は、すやすやと眠っていた。
こうして見ると、本当に自分の子孫かと疑いたくなるほど、ごく普通の少女だった。
しかし、彼女は一歩間違えれば自身をも破滅に導く強大な力を持っている。
力の暴走というのは良くある話だが、今から数年前、早苗もそういう時期があった。
今でこそは力を制御し、風祝として生きているが、また逆戻りとなるというのであろうか。
「大丈夫だよ、早苗。私と神奈子がいるもの。
早苗は一人じゃないからね」
小声で諏訪子は言った。
寝息を立てる早苗の姿を確認した諏訪子は、廊下へと戻り、居間に行こうとした。
「……私が気付かないと思っているの?
出てきなさい、牧師さん」
諏訪子は、普段誰にも見せないような強烈な目付きをしながら言った。
すると、彼女の背後に現れたのは、早苗と神奈子に出会った大男がひとり。
「いやはや、流石ですねぇ。私がいつ何処にいるのかおわかりで?」
「神出鬼没も大概にした方がいいんじゃないの?
こっちはある意味で迷惑しているんだよ」
諏訪子は言った。
「それは仕方がありません。私は幽霊ですので。
あの血気盛んなご婦人がいない間に、貴女にとても良いことを教えて差し上げようと思いまして」
「良いこと?」
「我らオロチに関する秘密ですよ。
あの人は自ら御調べに行ったようですから、その努力を無駄にしないようにしようと」
何もかもお見通しってわけか。諏訪子は思った。
たった今、神奈子はそのオロチについて専門家の意見を聴くために人里に向かったのだから。
「わかった。場所を変えよう。立ち話もどうかと思うしね」
「恐縮でございます」
そして、男は話し始めた。
男は名前をゲーニッツといった。元々は<向こう側>の生まれで、本当に牧師をしていたという。
オロチというのは古来より土着信仰されていた姿形を持たない、所謂概念的なものであるらしい。
早い話が神奈子や諏訪子のような神であり、オロチを信仰する者達は、豊かな自然を守り続けていた。
時代は流れ、オロチ一族とは別に人類が誕生し、彼らは独自の発展を続けた。
人類が文明を築くと、豊かな自然は荒廃し始めた。
そして、ついにオロチ一族は自然を破壊する人類に対し、全面戦争を挑んだ。
が、人類側の反撃によって次々と一族は撃破され、一族の中でも極めて高い力を持つ八傑集は封印されたのであった。
「それが八岐大蛇伝説というわけ?」
諏訪子はゲーニッツに言った。
「はい」
「おかしいな……。私達の世界ではそんな話では無かったような」
諏訪子は過去を思い出した。
とは言っても、記憶にない。何せ何千年も前の話だ。
「この際細かいことは気にしない方が良いでしょう。
……我ら八傑集は転生によってその力を継承します。
早苗という娘が選ばれたのは、魂の気紛れと申しましょうか」
ゲーニッツは言った。
ただオロチを信仰する一族は、血族関係によってその血を伝えていくが、
八傑集となると転生によって受け継ぐという。
「早苗は本当にあなたと同じになるの?」
「恐らくそうなるでしょう。
彼女が妖怪を次々と襲撃しては惨殺するというのは、殺戮衝動に駆られているのだと思います」
彼らの祈りは、八傑集に力を分け与えるという点で叶った。
自然を破壊する人類に対する攻撃手段。それが自然現象を自由自在に操る力だった。
八傑集の中でも、風、炎、雷、地の属性を操る四人を四天王という。
ゲーニッツは、風を操る四天王の一人だった。
その彼は、数十年前に死亡し、八傑集としての機能は失われた。
だが、風を操る者としての魂は死なず、次なる転生体を見付けて何年も彷徨っていた。
そして、適応する存在が発見された。それが東風谷早苗だったのである。
「元々人類に対して滅ぼそうとは思っていませんでしたが、何せ自然を破壊するのですからね。
オロチによって、人類を滅ぼすように命令されるのです。
とはいっても、普段はこうして人間社会に溶け込んでいましたけれどね」
諏訪子は頷いた。
でなければ、彼が牧師として仕事をすることはしなかっただろう。
「ということは、あなたが死ぬ前にその八傑集は封印を解かれたというわけ?」
「ええ。だから私も再び人類を滅ぼすべく活動しました。
結果は見事に敗れました。私は人間の強さを認め、自ら死ぬことを選択したのです。
それからは亡霊として人間の有り様を観測するために、生きることを決めました。
恐らく、残りの八傑集もまた倒され、オロチも封印されたと思いますけれどね」
諏訪子は黙った。
しばらくして、口を開いた。
「あなたはそれでよかったの?」
「後悔などしていません。人類が強く、我らが弱かっただけです。
ですが問題は彼女ですね……」
ゲーニッツは言った。
歴史の中でオロチは封印されたが、彼女は風を操る存在として、オロチ四天王としての魂を植え付けられている。
「どうにかならない?」
「これについては、私でもどうにもならないと思います。
まだ幸運なのは、彼女が大義名分を持って妖怪を討伐していることですね」
諏訪子は首を縦に振った。
オロチの血に覚醒したとはいえ、早苗は人里の住人の依頼をただこなしているだけだった。
妖怪退治も、信仰母体である天狗達の領域に攻め込もうとするのを、水際で撃退しているだけである。
「殺戮衝動はあっても、それは人を活かすための行いというわけだね」
「そう解釈するべきだと思います。強大な力というのは、自身を滅ぼす原因となります」
かつてオロチの力を狙い、私に返り討ちにされた挙句、結局自滅したあの男のようにね。
と、ゲーニッツは思った。
「しかし、その力を上手くコントロールすれば、それは誰かのためとなる。
活かすも殺すも自分次第でしょう」
ゲーニッツは言った。
「あと……私達が早苗に出来ることって、何かある?」
「普段していることで十分だと思います。
オロチの力を手に入れたとはいえ、まだ彼女は若すぎる。
精神的な面で、まだまだ貴女方に頼らざるを得ないでしょう」
「成程ね。というかあれだね。話せば意外と饒舌なのね」
諏訪子は感心するかのように言った。
「貴女だからこそ、会話が迅速に進むのだと思います。
私は好戦的な女性は嫌いではありませんが、あちらの方は少々喧嘩っ早い」
「わかるよ、それ。神奈子はいっつも手が出るから困ってるんだよね。
食後のデザート如きであれこれ言う性格だからさ。少しは大人になりなよって思うんだ」
そして、会話は神奈子が帰ってくる直前まで続いた。
「ここには主に子供達が出入りするのですが、まさか八坂様がおいでになるとは予想外でした」
人里の寺子屋を切り盛りする歴史家、上白沢慧音は、突然の来訪者に驚きを隠せなかった。
何せ相手は山で絶大なる信仰を受けている軍神、八坂神奈子であるからだ。
「そりゃそうだ。神が読書――それも歴史書なんて目を通すなんて、ありえない話だからな」
神奈子は苦笑いをしながら言った。
「しかし、大した蔵書の数だ。これも全て貴女が揃えたものか?」
「譲り受けた物もありますが、大多数は私が自費で。
物事を研究するには、莫大なお金がかかりますよ」
「へえ~」
神奈子は感心した。
「歴史とは、現在と過去との対話である」
神奈子は言った。
「エドワード・ハーレット・カーですか。随分とまた偉人の言葉を引用なさいますね」
「歴史は多方面に渡って検討しなければならない。一つの歴史で全てを語ることは絶対に出来んよ。
昔があってこそ、今の優れた文明がある。しかし……」
「しかし?」
慧音は言った。
さて、神様はどんな言葉を紡ぐのだろうか。
「誰も過去を学ぼうとはしない。先生、それは何故だかわかるだろうか?」
「文明が余りにも発達し過ぎたからですね。
幻想郷の魔法は、<向こう側>でいえば高度な科学技術と一緒ですから。
だから人々は伝統を忘れてしまう。八坂様がこちらに来られた理由も――」
「まあな」
神奈子は笑いながら言った。それ以上は言わないでくれという表情だった。
「自国の歴史を知らないということは、アイデンティティが無いのも同然。
そんな人間は尊敬に値しないでしょう」
そう言いながら、数冊の本を運んできた少女が現れた。
稗田阿求。幻想郷の歴史や英雄譚をまとめた幻想郷縁起を編纂する家系の九代目を務めている。
「痛い話だ。
国際化という名の元に、世界情勢や外国語は勉強するが、肝心な自国を一切知らないなんてね」
神奈子は言った。
「そんな人が国際人ぶっても、恐らく莫迦にされるだけでしょう」
慧音が付け足した。
「まあ、ここは幻想郷。
幻想郷であっちやこっちの記録を見分しても、全く意味がありませんけどね。
よっこいしょ」
阿求は本を適当な位置に置いた。
「稗田殿は別格であろう。何せ一度読んだ本を全て記憶するのだから」
「それは凄い能力だ。まるで<禁書目録>だな」
慧音の説明に、神奈子が感心するように言った。
「「インデックス?」」
慧音と阿求の声が合致した。
「ああ……<向こう側>でやっていた小説作品に出てきたんだ。
10万3000冊の蔵書を全て記憶しているキャラクターが出てきてな」
まさか私がライトノヴェルに嵌っていたなんて、そんな事実は歴史に載せないでくれよ。
と、神奈子は汗を拭きながら言った。
寒いというのにどうして汗が出るのか、自分でもわからなかった。
「とりあえず、うちの家系が持つ記紀神話に関連する本をピックアップしてみました。
お役に立てれば光栄です」
阿求は神奈子に向かって言った。
「面目無い。感謝する」
神奈子は頭を下げて感謝した。
「いえいえ、ご協力出来るのであれば光栄です」
阿求もまた、丁寧に頭を下げた。
「しかし、八岐大蛇伝説とは。
やはり神様も神話に興味を?」
慧音は言った。
「話せば長くなるんだがな……。
どうも早苗がオロチの血に目覚めたとかなんとかなんだが」
「「オロチ?」」
阿求と慧音の声が重なった。
「うむ。突然男が現れて、意味不明なことを喋りまくるんだから気味が悪い」
「それでしたら、地球意思ではないでしょうか?」
突如として阿求は言った。
「地球意思?」
驚いたのは神奈子ではなく、慧音の方だった。
幻想郷の日も暮れ始め、すっかり夕方となっていた。
空を覆う雲の量こそ変わらないが、雨は止んでいる。
夕刊の配達に向かうであろう鴉天狗が、大空の支配者になる時間帯であった。
「また載ってやがるぜ」
昼から博麗神社に滞在していた霧雨魔理沙は、届けられた新聞の見出しを見ながら言った。
その夕刊は、彼女と顔見知りの鴉天狗が発行しているものではなかった。
たまにこうやって、別の鴉天狗が配る新聞が配達されることも、珍しいことではないらしい。
「んー、どれどれ。ああ、本当だ」
博麗霊夢は覗き込むようにして新聞を見た。
そこにはこう書かれていた。
『我ら天狗社会を脅かす妖怪、壊滅的打撃を被る!』
それは、今日の昼に行われた東風谷早苗による大量器物損壊事件の記事だった。
早苗が駆逐した妖怪は天狗達と敵対している者達らしく、
天狗の中でもバリバリの右翼であるこの発行者は、妖怪を倒した人物の活躍を過剰気味に称えていた。
「裏付けが取れていないのかね。早苗のことは一言も書いて無いな」
魔理沙が言った。
新聞には妖怪に対する罵詈雑言が書かれていたが、誰が殺したのか、それは一切書いていなかった。
どうやらこの鴉天狗はどこぞのブンブン丸とは違い、きちんと裏付け取材を行うタイプらしい。
だが、霊夢と魔理沙は、それが早苗の所業であることを理解していた。
何故なら、妖怪退治を専門的に扱うのは、この世界では巫女と風祝しかいない。
魔理沙は基本的に霊夢に同行するだけであり、本格的な妖怪退治というのを行ったことはない。
「でもさ……」
「ん?」
霊夢は新聞に載っている写真を見た。
「修正されているけど、これ血よね?」
「だろうな。恐らく相当派手にやらかしたんだな」
新聞には適正な真実を報道する必要はある。
この鴉天狗は読者の心理的状況に配慮したのだろうか、事実は事実だが、衝撃が強すぎることで自粛を行っていた。
それがモザイクという修正で、早苗によってぐちゃぐちゃにされた妖怪の死体写真に、一定の修正が加えられていた。
仕方の無い話だった。最近の風祝は容赦しない傾向にあり、
一度喧嘩を売ったが最後、顔面が吹き飛び、臓物が飛び散り、挙句の果てには原型を留めない程であるのだから。
「なあ、霊夢……」
「何?」
「お前さ、誰かを殺しちまったことってあるか?」
魔理沙の表情は、分銅を秤にかけるような目付きをしていた。
「あるって言ったらどうする?」
霊夢は言った。
「冗談だと思い込みたいな。少なくとも私はそうしたい」
お前をそういう目で見たくないからな、と魔理沙は付け加えた。
そういう自分はどうだろう、という霊夢の反論は無かった。
霊夢も彼女なりに、魔理沙を信用したいからだ。
「つまり、退治の意味を知りたいってわけでしょ?」
「ああ。霊夢はただ懲らしめるだけだ。命までは取らない」
たぶんそうだろう、と魔理沙は思い込みながら言った。
「だが……あいつはいくらなんでもやりすぎだ。これが妖怪退治というカテゴリーに入ると思うか?」
新聞記事を指差しながら魔理沙は言った。
霊夢は首を横に振った。
「どうする? 力ずくで止めるか?」
「止めるしかないでしょう。異変を解決するのが博麗の巫女よ」
魔理沙は頷いた。
その表情には、一種の余裕が感じられた。
「地球意志とはね。全く、別次元の力が働くなんて予想もしないよ」
人里にて資料を頭に叩き込んだ神奈子は、そのまま守矢神社へと帰還した。
話を聞けば、諏訪子はオロチについて全てを理解してしまっていた。
自分に喧嘩を売ってきたあの大男――ゲーニッツが洗い浚い話してしまったからだ。
「それに関しては、私達も見守るしか無いと思う」
諏訪子は言った。
「例え早苗が大量殺戮兵器に化してもか?」
「例え早苗が大量殺戮兵器に化しても、だよ」
諏訪子の返事に神奈子は黙り込んだ。
そうだろうな、神奈子は思った。
今迄、東風谷早苗は何の為に生きてきたのであろうか。
風祝として、神を祀るという大役を生まれながらに約束された存在。
奇跡を操る力は八坂神奈子と洩矢諏訪子から得たものだが、それにオロチの力が加わった。
「思えば、早苗が現人神じゃなくて、普通の女の子だったらどうしていると思う?」
諏訪子は言った。
「今更そんな話か? 考えるだけ無駄だ。歴史を変えることなど出来んよ。
あの吸血鬼に運命を操作されようが、早苗は私達の風祝だ」
神奈子は言い切った。
「それでいいんだよ。どんな形であれ、早苗は早苗だからね」
諏訪子がそう言うと、神奈子は壁にもたれかかった。
彼女も辛いことはわかっている。諏訪子はじっと神奈子を見た。
その時であった。
またもや障子が嫌な音を奏で始めた。
神奈子と諏訪子は同時に外を向いた。
凄まじい雨と、凄まじい風。
悪夢がよぎった。
二柱が寝室に辿り着くまでに、秒単位の時間はかからなかった。
布団には誰もいない。諏訪子が着せた着替えは、無造作に散らばっていた。
「神奈子!」
「くっ、始まったというのか!」
東風谷早苗から見れば、妖怪が報復活動を行うことは十分予測出来た。
守矢神社の風祝。ターゲットは間違いなく自分。
だから私が犠牲にならねばならないのだ。早苗はそう考えていた。
妖怪の山近くの森林地帯。
身を隠すには一番の場所であり、奇襲にはもってこいの個所といえる。
妖怪は散開を初め、少しずつ神社との距離を詰めていく。
そのうち、一匹の妖怪が何かの気配を感じ取った。
周りを見渡すが、誰もいない。そして正面を向いた瞬間、そこに標的はいた。
妖怪の顔が青ざめた瞬間、彼にとって不幸の総仕上げが始まった。
妖怪の人生は、一瞬にして終了した。
人間でいえば頸動脈に当たる部分を、瞬時に切り裂かれたのであった。
夥しい量の血液が放出される。まだ意識のある妖怪は、自分を殺しにかかる存在を確かに目視した。
緑色の髪をした少女。その瞳は、爬虫類のように縦に分かれていた。
そして、竜巻が妖怪に直撃。風の刃によって、妖怪の身体は真っ二つに両断された。
異変に気付いた妖怪は、更に警戒を強めた。
だが、風雨が強く、満足に行動が出来ない。
逆に先手を取ったのは、逆襲を開始した早苗その人であった。
「遅いですね」
呟きつつ、身体を滑らせるようにして突進を開始する。
そして油断をしていた妖怪に、一気に猿の如く襲いかかった。
妖怪は、何が起こったのか全く理解出来なかった。
頭を掴まれ、華奢な細い腕が自分を持ち上げたことを理解したこと。
それが彼の最期の脳内思考だった。
「お別れです」
刹那、竜巻に包まれ、妖怪の身体は粉々に砕け散った。
風という刃がありとあらゆる部分を切り刻み、意志の無い肉片を生成させる。
これで二体が倒された。
その時、妖怪が飛びかかった。
驚異的な脚力。それは人間には真似出来ないものだ。
そのまま早苗に殴りかかろうとするが、早苗は動かなかった。
そして、彼女は笑みを浮かべた。
「如何です?」
早苗が右腕を上げ、指を鳴らした。
同時、彼女の手から風で生成された刃が生み出され、攻撃を仕掛けた妖怪は早苗の攻撃を一方的に喰らった。
首が、腕が、脚が、胴体が切断され、妖怪だったものは散らばり、風に飛ばされていった。
もはや、地獄絵図と称するしかなかった。
妖怪は我先にと早苗に襲いかかるが、いずれもただの肉片として返り討ちにされるだけであった。
統制が崩れた妖怪側は、早苗の桁外れな強さに恐れ戦き、まだ命のある者達は退却を開始した。
いくら束でかかろうが、東風谷早苗に勝つことは出来ない。
それを思い知らされた妖怪は、何を思っただろうか。
「「早苗!」」
ふと、誰かの声が聞こえた。
あの声は……。
早苗は見つかる前に姿を消し、その行方を眩ましたのであった。
もう、顔を合わせることが出来ない。
彼女はそう思った。
駆け付けたのは二柱の神々だった。
「遅かったか……」
八坂神奈子はあちらこちらで息絶えた妖怪の死体を見た。
それは死体というより、残骸と称する方が妥当だろうか。
誰が発見しても、第一印象の感想は『惨い』と言うであろう。
どれもこれもが、見るも無残な姿で殺されていた。
洩矢諏訪子は、早苗に倒された妖怪を触った。
「まだ温かいね。やられてから時間はそんなに経っていないと思う」
彼女にしては珍しく、冷静に物事を分析した。
何せ、早苗の命が心配だ。
とはいっても、ほぼ一方的に早苗が殺戮劇を繰り広げたのは間違い無かった。
「早苗……何処行ったんだ?」
「ねえ、神奈子……あれは」
神奈子が周りをあちらこちら見ている時、諏訪子はこちらに向かってくる何かを見付けた。
「霊夢に魔理沙?」
「おいおい、何でこいつらがここにいるんだ?」
神奈子は呆気に取られた顔を作った。
「こいつらとは聞き捨てならないわね。探しに来たのよ、早苗をね」
「まー、今回ばかりは私達も協力させてくれるか?」
駆け付けたのは、博麗霊夢と霧雨魔理沙だった。
この暴風雨だというのに、二人は雨具すら付けていなかった。
「そうか……すまない、助かる」
「神奈子も素直になったねえ」
諏訪子が言った。
「早苗の無事がかかってるんだよ。……よし」
そう言うと、神奈子は口笛を吹いた。
すると、忽ちのうちに空から白狼天狗の一団が舞い降りた。
こちらは山の哨戒中であったのか、雨天装備が施されており、その全てが外套を羽織っていた。
「八坂様、どうかなされましたか?」
白狼天狗の一人が代表して言った。
「早苗が妖怪をぶっ潰してどっか行っちまったらしい。
まだ遠くにいないと思うんだが、捜索を頼む」
「はッ! 仰せのままに!」
そう言うと、白狼天狗は一斉に行動を開始した。
二人一組のバディを組み、低空飛行で移動する。
空からでは木々が邪魔して、満足に捜すことが出来ないからだ。
「私達はあっちを探してみる。行こう、霊夢」
「わかったわ」
魔理沙は箒に乗った。
二人は超低空飛行で早苗を探し始めた。
「まさかあの二人が助けに来てくれるとはね……」
「心配なんだよ、きっと。私達も行こう、神奈子」
諏訪子は神奈子の手を握った。
神奈子は大きく息を吐いた。
「……そうだな」
それだけ呟き、腕で顔面を拭く。
強い風雨は収まる気配を見せなかったものの、彼女の表情はとても清々しかった。
出来ればこのまま見つからない方がいい。
そして、私は一体全体、どうすればいいのだろう。
山周辺の森林地帯に身を潜めた東風谷早苗は、一人そう思った。
ここなら岩壁が死角となって、恐らく誰も近寄っては来ない。
むしろそれを歓迎したい。
「ここにいたのですか。貴女は現実からお逃げになる心算なのですか?」
俯く早苗に声をかけたのは、ゲーニッツであった。
幽霊である彼は、早苗が自然に醸し出す風使いとしての気を読み取り、彼女の居場所を察知していた。
「あなたですか……。諏訪子様との会話を聞きましたよ。
私は異形の力に目覚めてしまったのですね」
「ほう……、私とあの神さえ気付かせないとは、やはり四天王と言うべきでしょうか」
ゲーニッツは、気配を遮断しながら盗み聴きをやってのけた早苗を褒めた。
「貴女が祀るべき神々と、御友人が心配しておりますよ。
戻らなくてよろしいのですか?」
牧師らしく、彼は優しく早苗に問い掛けた。
「あなたに私の何が理解出来るというのですか?
既に私は多くの妖怪達を殺し、手はともかく全身が汚れているのですよ。
そんな大量殺戮人間を、温かく迎える家族がいるとでも仰るのですか!?」
ゲーニッツは早苗の言葉を噛み締めた。
「それは私にも言えることです。私にも仲間がおりました。
過去に敵対する人間と、あとは裏切り者、少なくとも二人以上は殺しました。
それが地球意志のお導きなのです。私は何の後悔もしておりません」
地球意志。
それがオロチであり、彼自身でもあった。
「それはあなたと同じ仲間がいるから――」
「では、逆に問いましょう」
ゲーニッツは、早苗の言葉を遮った。
「貴女は人間を殺したことがありますか?
御両親を、信頼する御友達を、尊敬する恩師を」
「……」
「私でしたら余裕で殺せますね。何せ人類は自然を平気で破壊する愚かな存在なのですから。
顔を見るのも、奴らが息をするのも、繁栄を遂げるのも、全てが汚らわしい者達でした」
「……」
早苗は黙ったままだった。
恐らく、彼の声は自分にしか聞こえていないだろう。
私だけに問い掛ける声だ。私の心を試しているのだ。
「そして私は全力を出しましたが、そんな人類に負けたのです。
舞台を最後まで見届けることが出来なかったのが、とても残念でしたがね。
だから人の有り様を見届けることをしようと思ったのです」
天を仰ぎ、彼は話すのを続けた。
「確かに人は愚かな存在です。いつまで経っても争いを止めない。
争いが争いを生む負の連鎖を、何年何十年何百年何千年と続けてきました。
だが、戦争を捨て、環境を再生するのもまた、人類が成すべきこと。
皮肉なことですけれどね。地球意志もそれを願っているでしょう」
そして、ゲーニッツは早苗を見た。
「貴女は確かに私の力を継承しましたが、まだ人間の心を持っています。
現に人間は、貴女の活躍を喜んでおられるではないですか。
異変を解決する風祝は、人里の者達にとっては英雄なのです」
「……私が、英雄?」
早苗は言った。
「私は貴女に言いました。妖怪退治を継続することが私の願いであると。
それは、貴女に人間を殺させたくはないという、オロチのお導きがあったからなのですよ。
もしもオロチが再び人類抹殺を望むのであれば、
貴女はとっくに幻想郷の人間を、一人残らず滅ぼしているでしょうからね」
早苗はゲーニッツの方を向いた。
その両目には、涙が溢れていた。
「私は……生きていいんですね?」
「自害する心算だったのですか? それは私の二の舞ですよ。
風を操るのであれば、もっと自由気ままに生きて欲しいですね。
私のもう一つの願いと言っておきましょうか」
両腕を後ろに組みながら、ゲーニッツは言った。
「さあ、お行きなさい、人の子よ」
彼がそう言うと、早苗は立ち上がった。
彼女は無言でゲーニッツの方を向いた。
「貴女に涙は似合わない。
神であれば、神らしく振舞うことを提唱しますよ」
恐らく早苗にゲーニッツの言葉は届いていないかもしれなかった。
一度振り向き、そして早苗は力強く足を踏み出した。
「もう貴女と会うことは無いでしょう……風祝、東風谷早苗。
願わくば、貴女に神の御加護が有らん事を……」
独特のポーズを取りながら、彼の姿は風と共に消えていった。
「見つからないな……」
「見つからないね……」
あれから何分の時間が経っただろう。
逆に森林地帯で遭難してもおかしくは無い。
時間はまもなく夜に差し掛かろうとしていた。
この雨では、松明に明かりを灯すことも出来ない。
捜索打ち切りか? 莫迦を言うな。
守矢神社の風祝が行方不明だなんて、そんなことがあるか。
神奈子が考えていると、霊夢と魔理沙が戻ってきた。
「どうだった?」
諏訪子が言った。
「駄目だ。どこに行ったのか見当が付かない」
「ひょっとしたら、下山している可能性もあるわね……」
魔理沙と霊夢が報告する。
誰もが希望を失い掛けた、その時だった。
「八坂様、あれは……」
白狼天狗が空を指差した。
空にかかっている雲が……風の流れによって消えていった。
強い雨を降らす雲が、何事もなかったように霧散する。
「おいおい、どうなってるんだ?」
神奈子は言った。
まるで時間を倍速にしたかのような映像を見るようだった。
雲が消え、雨は止み、風は穏やかな気流を作り出す。
「ねえ、神奈子!」
諏訪子が言った。
彼女達の目の前に向かってくるのは、確かに東風谷早苗だった。
「早苗!?」
瞬間、神奈子は走り出した。
空間転移を使えば一瞬だろうが、彼女はそれを使わず駆け寄った。
後の皆もそれに続く。
「早苗、良かった……無事で。怪我も何も無いな……ああ、良かった!」
神奈子は早苗の安否を確かめると、彼女の身体をしっかりと抱き寄せた。
「神奈子様……諏訪子様……皆様。
私は何て愚かなことを」
早苗は呟いた。
「いいんだよ、早苗。それでいいんだ」
「ああ、そうだ。くぅー、良い話だなあ……」
諏訪子と魔理沙が言った。
が、一人浮かない顔をした人物がいた。
博麗霊夢だった。
「ほら、霊夢も――」
魔理沙が言った、その時だった。
霊夢はいきなり早苗の頬を平手打ちしたのであった。
その行動に、周囲は絶句した。
「あんたね……神奈子や諏訪子、それに魔理沙や天狗の皆にどれだけ迷惑かけたのかわかってんの!?
地球意志? オロチの力? ある程度の気持ちはわかるけどね。
だからと言って、限度ってもんがあるでしょうが!」
それは物凄い剣幕であった。
長年付き合っている魔理沙はともかく、神である神奈子と諏訪子ですら手が出せない状況にあった。
「何の為に私が人間と人外の対決手段を作ったのかわからないの?
あんたがわけのわからない力に支配されて、自我まで失われたというのならね……」
そして、霊夢は御札を数枚取り出した。
「そのふざけた幻想を打ち砕く!」
霊夢は言い放った。
一瞬の静寂が流れる。
「そこまでだ」
「あうっ!?」
その時、霊夢の後頭部に向かって垂直チョップを繰り出したのは、魔理沙だった。
「もう私達の必要は無いよ。
あんな決めポーズまで作るなんてさ……。
帰るぞ、霊夢」
そう言うと、魔理沙は「邪魔したな」と言い、箒に跨ってその場から立ち去った。
「……今日は魔理沙に免じてあれだけど。
今度やったらただじゃおかないわよ」
まるで悪役の捨て台詞を吐きながら、霊夢も上空へと飛び立って行った。
彼女を追いかけるように、白狼天狗もそれぞれの持ち場へと帰っていく。
残されたのは守矢神社の面々だった。
「早苗、帰るぞ」
神奈子はそれだけ言った。
諏訪子は黙って頷いた。
「……はい!」
早苗は先導する二人の後に着いた。
既に太陽は沈み、満月と星が煌めいていた。
それから数ヶ月の時が流れた。
幻想郷の冬も終わり、新たな息吹が自然に潤いを与えた。
冬眠の時から生き物は目覚めを告げ、日本を代表する花が開花し始めていた。
「あの時は最高にかっこよかったよ、なぁ!
そのふざけた幻想を打ち砕く、だっけ? 何処のどいつの真似だよって。
あはははは!」
場所は冥界、白玉楼。
桜が咲き乱れるこの場所で、霧雨魔理沙はネジが外れたかのように笑った。
今日は花見に来ており、彼女は当時の霊夢の真似をしていた。
「本当にそんな恥ずかしいこと言ったの?
ねえ、そうなの? 霊夢ってばー」
魔理沙の発言に興味を持った伊吹萃香が言った。
萃香は霊夢の方をじっと見ている。
「記憶に無いわね」
霊夢は言ったが、顔は赤かった。
「あー、図星だこりゃ」
「だよね。霊夢が飲んでるのはただの水だもんねー」
「なー」
「ねー」
魔理沙と萃香は顔を合わせた。
霊夢は何も言わなかった。
すると、少し強い風が吹いた。
桜の花弁が散り始める。
「この風は……」
魔理沙は言った。
独特のポーズを取りながら現れたのは、東風谷早苗その人だった。
ただし、その服装はあの時の装束と異なっていた。
彼女の先代に当たる牧師が着用していた服装と、全く同じものを着用していた。
「さあ、神に祈りなさい。
ご一緒してもよろしいですか?」
早苗はそう言いつつ、霊夢達の前に現れた。
「おー、早苗だ。いつもとカッコが違うね」
萃香が言った。
「お久しぶりです、萃香さん。
神社に私宛に届いておりまして、折角だから衣替えをしてみました」
「そうなんだー。凄く似合うよ!」
「ありがとうございます」
早苗が会釈をした。
その時、地霊殿からの客人が萃香の視界に入った。
「私あっち行ってくるね。勇儀が来たみたい」
「おー、行ってこい行ってこい。たまには鬼同士水入らずで談話しろぉ」
魔理沙が言った。
「んで、あれからどうなのよ?」
「おかげ様で。ふざけた幻想を打ち砕かれることにはなってませんね」
霊夢の言葉に早苗が返答する。
思いがけない言葉に、霊夢は飲んでいたただの水を吹き出した。
「うわ、汚っ!」
思わず魔理沙はその場から身を引いた。
「げほげほっ! ……あんたも冗談言えるとはね」
「風祝が冗談の一つや二つ言えなかったら、職業が成り立ちませんよ」
「……言うようになったな、お前」
魔理沙は何かを疑うような目付きをして言った。
「で、地球意志のお導き通りに暮らしているというわけね」
霊夢は言った。
「ええ。豊かな自然を守ることが第一です。妖怪退治はその次ですね。
神奈子様による産業革命が始まったとはいえ、環境に優しい動力を目指しております」
「確か反応動力だっけ? 何だかやばそうな気がするんだけどな」
魔理沙は質問を行う。
「そこはご安心を。他には風力発電所も建設が始まっております。
風の力で電気を起こす、とても綺麗な発電方法です」
「何か凄いことになってるなぁ。私にはついていけないぜ」
「まあ、暮らしが便利になれば言うことなしだけどね」
暮らしを便利、か。早苗は思った。
それで<向こう側>の人間は、数多の自然を再び破壊した。
森は砂漠化が進み、水は汚れ、多くの動物が棲みかを追われ、多くの動物が姿を消した。
だから私は、初めから自然を壊さない方法を取るよう、神奈子様に打診した。
そして、人間の有り様を見続けようと思う。
それは、人間でありながら神でもある私だからこそ、出来ると思うのだ。
私に風がある限り、風が答えを導き続ける限り、神の御加護が私を包み込む限り、
私のために、風は吹き荒ぶ。
そして、私は神そのものとなるだろう……。
次はネスツ編の幻想郷入りを希望