Worlds' End With You(中)の続きです。
#11
パチュリーはテーブルから少し離れた魔法陣を指差した。
「あの魔法陣が何を生み出してくれるのか、あなたは学んだことがある?」
私はかぶりを振った。私は魔法陣を多くは使わないし、学んだこともない。パチュリーが手を膝もとに置いて言った。
「あの魔法陣は別の魔法陣に私の魔力を転送するもの。だから、あれ自体はとくに外部環境に影響しない」
「じゃあ、別の魔法陣であなたは何をしているの?」
私がそう訊くと、パチュリーは口元に薄い笑いを浮かべながら訊き返した。
「何だと思う?」
少し意地の悪い質問だった。私は少しのあいだ考えたが、思い当たることは何もなかった。パチュリーが結局その問いに答えた。
「いくつか外に魔法陣が描いてあるわ。そこの魔法陣から外の魔法陣に魔力を送り、そして私はこの紅魔館のまわりに雨を降らせているのよ」
そう言われると私の中に今までにあった違和感が解消された。紅魔館に夕立が降っているのはパチュリーのせい、そして美鈴の視線の先にあった模様は雨を降らす魔法陣だったのだ。けれど私は何のためにパチュリーがそうしているのか理解できなかった。
「何のためにそんなものを描いたの?」
パチュリーは淡々と答えた。
「妹さま――ああ、フランドールのことね。彼女を外に出さないためよ」
彼女の名が出て私は唐突に胸を衝かれるような感覚がした。私の視線が図書館の奥から手前を不規則に泳いだ。自分でも意識できない動きだった。私は彼女に対して罪悪感を抱いているのだろうか?
パチュリーが私を眺めているのに気づいたが、彼女に返す適当な言葉が見つからなかった。私は狼狽していた。遠くから地響きがして、パチュリーは音のした方に視線を移した。私はその視線から逃れても、まだ動揺を落ちつけることはできなかった。パチュリーが地響きの方を見つめたまま言葉を口にした。
「九日ほど前かしら、フランが突然地下室で激しく暴れはじめたわ。暴れるというよりは暴走の方が適切かもしれないわね。突然の出来事だったし、私以外は誰も予想していなかったことでしょうね。レミィは知ろうと思えばそうできただろうけど、たぶん知ろうとはしなかったはずよ」
さっきの地響きでテーブルの上のカップが倒れていた。まだ紅茶が残っていたパチュリーのカップから紅茶が流れ、ソーサーを満たした。ソーサーの紅茶は波を刻んでいた。パチュリーは手を濡らさないようにカップをソーサーにきちんと置いて続けた。
「フランが何をしたいのかは私にもわからないわ。さっきも言ったけど、推測の推測ほど信頼できないものはないから。そもそも目的なんてはじめからどこにも存在していないのかもしれない。事実として信用できるのは、フランが暴れつづけているということだけ。
私たちがとれる対策の選択肢もはじめから無かった。いつかのように彼女を閉じ込めるだけだったわ。彼女自身には何の慰めもなく、ただ外部に被害が及ばないようにするだけよ。扉を閉めきって、それから万が一のときのために雨を降らせつづけている。扉を開くことができないから彼女に食事も与えられないわ」
パチュリーはそこで一呼吸置いて、そして言った。
「ずっとこのままだと、フランは死ぬかもしれない」
そのパチュリーの言葉だけは真っ直ぐで、そして何よりも真実に近いものだった。けれど彼女は私を見ない。私はそこに呆然と立ち尽くしていた。
九日前、それは私がこの紅魔館に人形劇をしに来た日だ。そしてその日からフランドールが暴れているということは、あのとき私に襲いかかったときからだということになる。その日以来ずっとフランドールはあの檻のように無機質な地下室で、異様なまでのあの力で暴れつづけているのだろうか。
どうしてそこまで? 自分の命さえもおびやかして? それはあの日人形劇をやった私が原因なのだろうか? わからない、わからない。私の頭の中で不可解な暗い渦が巻き起こり、体中の血液の流れが速くなったり遅くなったりした。
「違う!」
私は思わず叫んでいた。甲高い声は図書館の本の中に吸い込まれていった。それから私は力が抜けた声で言った。
「私のせいじゃない」
パチュリーは黙って私を見ていた。私はその視線に耐えられなくなり、体の力が抜けたようにうずくまり、膝に顔を埋めた。どうしてこんなことになったのか、私には理解できなかったし、そのときは理解しようとも思わなかった。自分が泣きたいのか叫びたいのか、自分の表面上の感情すらわからなかった。私はただ逃げるようにして声を漏らしつづけた。
「私は……私は……悪くない……」
膝と腕のあいだから上海人形が心配そうに私を見上げているのが見えた。その視線には明らかに感情がこめられていた。けれど私はそれを知覚できても認識できずにいた。すべてのことを自分から切り離そうとしていた。
パチュリーが椅子を引く音がして、私の細い視界から彼女の足元が見えた。
「今度はあなたの家に長雨を降らせようかしら」
パチュリーはあいかわらず抑揚のない声で言った。私を冷静に責めているようでもあるし、哀れんでいるようでもあった。あるいはそんなことには一切興味が無かったのかもしれない。私は目をつむって彼女の言葉をも遮ろうとした。けれどパチュリーはそれにかまわず続けた。
「けれどたしかにあなたの言葉どおり、あなたは悪くないわ。いえ、もっと言えば、今度のことは誰にも咎がないのかもしれない。偶然に偶然が重なりつづけて、運命に導かれたようにも思えるけれど、これは偶然ではなく必然なのかもしれない」
私はその言葉に世界から自分を切り離すのを思いとどまった。誰が私を助けてくれるわけでもないし身体が震えてはいたが、うずくまったまま、パチュリーの次の言葉を待った。私の頭の上からパチュリーの平坦な声がする。
「あなたは人形劇が好きなんでしょう。私があなたのためにお話をしてあげましょうか」
私は膝に顔を埋めたまま、わずかに首を縦に振った。パチュリーがそれを確認したのかどうかはわからなかったが、彼女は話を続けた。
「そうね、ある姉妹の物語にしましょうか。誰のためでもない、幸せでもない結末の物語」
私の震えはそこで止まった。自分がどこかの細い糸をつかんだような感覚がした。
パチュリーの物語。そしてそれはたしかに彼女の言ったように、誰のためでもなくハッピーエンドでもなかった。ずっとうずくまっていたので、話が終わるまでどれくらいの時間が経ったかはわからなかった。私にとっては495年の時間を過ごしたように思えた。
私はサメと決別しなければならないと知った。夢のなかで見たサメは間違いなく私が生み出したものだった。また地響きがして図書館の本棚から数冊本が落ちる音がした。ソーサーに載ったカップが再び倒れた。私はこの地響きも抑えなければならない。
私は顔を上げてパチュリーを見た。彼女はずっと同じような顔で私を見ていた。そのどこか達観したようなその顔が私に確信を与えた。私は立ち上がり、そして彼女に背を向けて図書館の扉に向かって走りはじめた。私が背を向けたときにパチュリーが何かを言ったような気がしたが、それは私の耳には届かなかった。私に対して言ったのではなかったのかもしれない。
上海が私に少し遅れてついてきた。私はそれを確認して身体を浮かせ、全力で紅魔館のあの地下室に向かって飛びはじめた。図書館の扉を蹴るようにして開け、薄暗い廊下に出てそのままずっと飛びつづけた。自分の抜け殻を図書館に振り落としていくようなスピードが出ていたのではないかと、私は思う。
#12
私は全力で紅魔館の廊下を飛びつづけた。すぐに息が切れたが私はそれも気にせずに、ときどき私の横に現れる窓の外の景色も目に入れずに、ただひたすら無機質な地下室を目指して飛びつづけた。今はもう紅魔館の暗さも雨が降る音も気にならなかった。
上海も遅れずに私についてきた。廊下を曲がるときや階段を通るときに彼女の顔が一瞬視界に入ったが、その目には明らかな光が灯っていた。赤い絨毯によく映える白い光だった。
飛びつづけている間にも何度も地響きが続いた。一度は疲れていたフランドールが少し力を取り戻してまた暴れはじめたのだろう。私はその地響きを止めるために紅魔館を駆け抜けている。妖精のメイドは私に気づくと驚愕したように、けれど私に当たらないようにして廊下の端に身を寄せた。私は彼女たちに謝らなかった。謝る余裕がなかった。
呼吸が困難になり、視界が黒く霞みはじめた頃にようやく地下室へと続く階段が視界の奥に見えた。そしてその階段の入口のところに一人の人物が立っているのも見えた。私はその人を無視して階段に飛び込もうとした。
けれど階段まで残り五メートルのところで、その人物が目にもとまらない速さで私に接近し、そして上から私を床に叩きつけ、そのまま馬乗りになって私を床に押さえつけた。突然の衝撃に私は一瞬、意識を飛ばしてしまいそうになった。
ぎりぎりのところで私は意識を保ち、私の上に乗っている人物の顔を見た。それはレミリアだった。
「館の主に断りもなく、どこへ行こうというのかしら?」
冷たい笑いを浮かべ、鋭い口調でレミリアは私に言った。彼女は私の肩を両手で押さえつけ、私の腰のあたりに身体を載せていた。彼女の身体は驚くほど軽かったが、力は驚くほど強かった。私は彼女に抵抗することができなかった。レミリアはガラスのような微笑を浮かべたまま言った。
「失礼な客人ね、あなたは。まるで魔理沙になってしまったみたいよ」
私は吐息混じりにレミリアに言う。
「今は魔理沙のようでもかまわないわ」
「そう、反省するつもりはないの。じゃあ、尋問してもよろしいかしら?」
レミリアが私の肩を強くつかんだ。雷撃のような痛みが私の身体に走って、私は顔を痛みに歪めた。レミリアがそれを見て口の端をより吊り上げた。
「もう一度訊くけど、あなたはどこに行こうとしていたの?」
レミリアは私の肩をつかんだままそう尋ねた。私は顔をしかめたまま、けれど静かに言った。
「地下室へ」
レミリアは表情を変えずに私を見ている。私は続けて言った。
「あなたの妹へ会いに」
レミリアは小さくため息をついて呆れたように微笑を崩した。
「あなたわかっているわよね? フランは今暴れているのよ」
「ええ、知っているわ」
私の痛みに少しずつ身体が慣れてきて、顔の力が少しずつ抜けていった。
「この前あなたはあれだけ傷ついたのに、また懲りずに行くの。あの子が暴れはじめたら私でさえ手がつけられないのよ」
「わかっているわ」
私は下腹部の底から声を出すように静かに言った。今度はレミリアの顔がわずかに歪んだ。レミリアの声の波も少し変わった。
「あなたに何ができるというの? 行ったところで何もできないかもしれない」
「そうかもしれないわ」
「死にに行くようなものよ!」
レミリアは顔を歪めて私に叫んだ。悲痛な少女の声が私の鼓膜を激しく震わせ、それに呼応するように地響きが起きた。けれど私は自分でも不思議なくらい落ち着いていた。
「あなたの言うとおり、死ぬかもしれないわね。でも、私はすでにあの日に一度死んでいたのよ」
私はそう言って息をついた。レミリアに何と言われようと私の決意が揺らぐことはなかった。死ですらそのときの私には脅しにならなかった。レミリアは私の顔を見て泣き出しそうな表情になった。口をへの字に曲げ、射抜くように私を見つめた。
「どうして、死ぬかもしれないのに、行こうとするの?」
レミリアが私に訊いた。
「この前の責任?」
私はゆっくりと首を横に振った。口を開きかけたレミリアに私は言った。
「責任じゃないわ。これは私とフランドールのためなのよ」
レミリアは開きかけた口を閉じて、私の肩をさらに強く握ったが、もう私の痛みが増すことはなかった。私は静かにレミリアに言った。
「死が怖くないと言えば嘘になる。でも、もうあまり気にならない。私はもう一度自分が冥界に行かなくてはならない、そういう意志を感じているの」
雨の音が私の耳に入ってきた。そのとき私はふと思った。ひょっとしたらパチュリーは、フランドールではなくてレミリアも外に出さないつもりだったのかもしれない。何の根拠もなかったけれど、私のその考えをレミリアの顔が証明しているように、私には思えた。
私の顔に雨粒がひとつ落ちてきたような気がした。
「だめ」
レミリアが目を閉じて言った。
「だめ」
子どものような悲痛な声が廊下に響いた。私の肩をつかんでいた力が少しずつ抜け、その手が小さく震えた。
「行かないで」
哀れだとか可哀相だとかそういう意識はなかったのかもしれない。あるいは最初から何も考えていなかったのかもしれない。気がつけば低い地響きの中で、私は仰向けになったままレミリアを両腕で抱きしめ、その背中を手のひらで包み込んでいた。レミリアと私の身体が重なり合う。衝動的に言葉が出る。
「心配してくれてありがとう。でも、私は行かなくてはならないの」
レミリアの身体は細く小さく軽く、私はそこでこの紅魔館の主をあらためて認識し直した。いくら威厳があるように見せかけても、いくら力があっても、彼女はまだ子どもなのだと。物理的に強靭な身体は、すぐに壊れてしまうものなのだと。だから私はよけいに彼女を強く抱きしめたくなった。言葉なんていらないのかもしれない。
レミリアの身体の震えが大きくなった。鼻を啜る音とぐずるような声が私の耳に響いてきた。彼女が泣いているのだと私は気がついた。そしてそれは大声で泣いてしまいたい衝動を耐えているような泣き方だった。
「ぐす……ふぇ……」
レミリアの口から我慢しきれない声が漏れてくる。もう一度私たちの真下から、今までになく激しい震動が床と壁を走って伝わってきた。それは床が崩れ落ちてしまいそうなほど強いものだった。私はレミリアを抱いたまま身体を起こし、彼女の頭の上に自分の頭を置いた。
ふと目を上げるとそこには咲夜が来ていて、口を開けて目を見開いたまま私たちを見つめていた。それは私が今までに見たことがなかった表情だった。おそらく咲夜自身もこういう光景を見たことがなかったのだろう。自分の主が人に抱きついてぐずるように泣いているなんて、彼女には想像することもできなかったのだろう。
私は彼女を見て首を縦に振り、そして言った。
「レミリアを任せていいかしら?」
しばらく咲夜は私とレミリアを見ていた。もしかしたらその間に咲夜は時を止めて私が思っていたよりも長い時間思考に浸っていたのかもしれない。私がもう一度咲夜に向かって首を振ると、咲夜も首を縦に振って言った。
「あなたは地下に、早く」
私がレミリアの身体から腕を離すと同時に、咲夜がレミリアに両腕をまわした。軽いレミリアの身体は私の両腕の中から消えていった。私は少しのあいだ自分の両腕を見ていたが、やがて立ち上がり、上海を振り返った。上海はもう階段の入口にいた。
私は咲夜とレミリアを見る。レミリアの小さな羽根が震えていて、咲夜がそれを愛しそうに撫でている。私は息をついて階段に向かって歩きはじめた。
「待って」
背後から声が聞こえて私は振り返る。咲夜の腕の中でレミリアが目を真っ赤にして私を見ていた。
「あなたはもう一度、死ぬ」
涙声でレミリアは私に言った。その宣告を私は真正面から受け止めることができた。レミリアは手の甲で涙を拭い、そして涙の跡が残る顔で静かに言った。
「でもフランを止めることができるのは、今ここで、あなたしかいない。死ぬことがわかっていても、今のあなたにしかできない。だから――」
レミリアはそこで一度言葉を切り、そしてまた目から涙を零した。
「だからフランを、フランを助けて……お願い……」
もう一度彼女を抱きしめることができたら、私はそうしたはずだ。でもそうする時間は残されていなかった。それは下からの地響きがはっきりと示していた。だから私はレミリアをしっかりと見据えて、そして言った。
「私は戻ってくるわ、必ず」
#13
暗くて長い冥界への階段を私は下っていった。私を待ちわびる地響きは続いており、そしてその感覚は少しずつ短くなっていた。私は壁を蹴って加速していった。上海も私に遅れずについてくる。私たちが通った後の壁の光は吹き消されそうなほどに揺れた。
少しして重く硬い鋼鉄の扉が前に見えて、すぐ目の前に押し寄せてくる。私はそれを足で蹴るようにしてぶつかっていった。自分への身体の衝撃がどっと押し寄せて、足の骨がみしみしと軋んだような音を立てた。それでも私は後ろへ引かずに扉に向かって飛ぼうとする。鉄の扉がゆっくりと開いていった。それから私はわずかに開いた隙間から身を滑らせて部屋に入り、床に降り立った。
何も物が無いはずの部屋は、それでも酷い姿に変わり果てていた。壁や天井や床のいたるところにひびが入っており、天井から床まで走っている亀裂がある。壁がえぐれていて床のタイルはいくつも剥がれている。明かりのいくつかは完全に粉々に砕かれて、部屋はこの前よりもさらに暗くなっている。
床には腕以外が壊れている、あの赤い服を着ていた人形が転がっていた。
そして壁に寄りかかってフランドールはいた。両腕を壁に当てて顎を上に向け、荒い吐息を天井に向かって吐いていた。全身傷だらけで、酷い青あざもいくつかあった。顔のまだ新しい傷からは血が垂れ落ちて、それが彼女の紅い服をより赤く染めていった。
パチュリーの言ったとおり、彼女は死んでいく者の空気を纏ってそこに佇んでいた。彼女の生気は誰かに奪い取られ、もう肉体として存在することですら精一杯のようだった。それでも彼女はこの無機質な部屋で暴れつづけて、紅魔館のすべてを揺らす。吸血鬼としての身体能力を失っても、その奥に眠る本能はまだ強く彼女を突き動かしていた。
私はフランドールの姿に思わず目を覆いたくなった。小さな子どもがこんな姿でいることがここまで残酷なことだとは思ってもいなかった。けれど私は視界を隠そうとする手を無理やり押さえつけた。
私が彼女を見なければ、誰が彼女を救うことができる?
「フランドール」
私は半開きになったままの鋼鉄の扉を背にして彼女の名前を呼んだ。それはどのような波動となって彼女の耳に伝わっただろう。油が切れたような機械のように彼女は私に顔だけを向けた。
その顔もひどく痛々しかった。目の下には黒い隈がくっきりと浮かび上がり、頬には大きな切り傷ができていた。唇の色も明るい赤ではなく、青みがかった紫色になっていた。けれど隈に縁どられたような彼女の瞳だけは光を失わず、猛獣の光をたたえて私を見据えていた。その冷たい視線に私は思わずひるみそうになった。
「お姉さまじゃないのね」
フランドールは低く冷たい声でそう言い、口の中に溜まっていた血を床に吐き捨てた。レミリアが来ることを期待しつつも、はじめから裏切られることがわかっているような、そんな言い方だった。私は右手で左腕を強く握り、逃げずに彼女を見ていた。フランドールは壁から自分の身体を離し、大きく息をついた。
「なんとなくわかってたけど、お姉さまじゃない」
フランドールは目をあちこちに走らせ、壁の奥に何かを求めた。けれど彼女の求めるものはその視線の先には存在しなかった。彼女は口を歪めて言った。
「来ない、来ない、お姉さまは、来ない、来ない……」
呪うようにして呟きつづけ、フランドールは重心を後ろから前に移動させた。糸で操られるようにして彼女の身体が前に進んでいく。腕を重力にまかせて下に垂らし、つま先で歩いているようだった。少しずつ私に近づいてくる。
「どうして、どうして、どうして邪魔するの? どうして、邪魔するの? 邪魔なのよ、邪魔、邪魔……」
彼女が一歩足を進めるごとに、壊れたタイルから乾いた音が部屋に響いた。からり、からり。また少しずつ部屋が壊れていくような響きだった。
「あなたも私の邪魔をするの? ねえ、どうして? あなたは邪魔をするの?」
そしてフランドールの口調は少しずつ棘を帯びてくる。
「邪魔されたくない。私はただお姉さまといたい。お姉さまに会いたい。それだけなのに、どうしてみんな邪魔をするの? 私はお姉さまに会うことはできないの?」
「それは」
私は口を開き、フランドールに静かに告げた。フランドールの歩みは止まらない。
「レミリアはあなたの姉だからよ」
フランドールの歩みがわずかに遅くなった。あと8メートル。怪しく光る目が私をとらえて離さない。
「そうよ、お姉さまは私のお姉さまよ」
あと5メートル。私は両腕をおろした。
「レミリアはこの館の主人でもある。けれど、まだ小さな子どもでもあるのよ」
あと3メートルのところでフランドールは止まり、うつむいた。彼女の荒い呼吸が私の耳にまではっきりと聞こえるほどの距離。そして彼女が私に飛び込んでくれば避けることはできないほどの距離。それでも私は後ろにさがらず、フランドールに問いかけた。
「それが何を意味しているのか、あなたにはわかる?」
フランドールはうつむいたまま何も答えなかった。垂れ下がっていただけの手をぎゅっと握りしめ、何かに耐えているようだった。もう私の問いに対する答えは持っているのだろうと私は思った。だから私は私の言葉でそれを明らかにしなければならなかった。
「レミリアはあなたの母親、いえ、『ママ』にはなりえない。絶対に」
私の宣告は部屋のどこにいてもはっきりと響いたように思えた。フランドールはしばらくうつむいたまま黙っていた。壁の亀裂が少し広がったようにも見えたし、天井から破片がからからと落ちてきた。
長い時間がたち、フランドールはぽつりと呟いた。
「うそよ」
「嘘じゃないわ」
私は首をゆっくりと横に振りながら言い返した。
「それならどうしてあなたのお姉さまはここに来ないのかしら?」
「それは――」
そのあとの言葉がすぼみ、それからうつむいたままフランドールは言う。
「きっと、忙しいのよ。だってお姉さまはこの館の主ですもの。当たり前じゃない」
私の胸が痛みに疼いた。フランドールが本気でそれを信じていないことは、彼女の口振りからすぐにわかった。彼女はそう信じたいだけだ。そうしなければこの部屋と一緒に崩れ去るしかないから。けれど私は真実を彼女に叩きつける。
「いいえ、レミリアは忙しいからあなたに会えなかったわけじゃない。彼女はずっとこの地下室への階段の入口にいたわ。おそらく、九日前からずっと」
「嘘よ」
フランドールは悲痛に満ちた顔を上げ、今度は彼女から私に尋ねた。
「どうして、それならどうしてお姉さまは私のところへ来ないのよ」
彼女は胸の前で両手を組んですがるように見つめる。けれど私は彼女を突き落とすように言うしかない。彼女はすがる相手を間違えている。
「それはレミリアがあなたのママではないからよ。彼女はあなたの姉に過ぎないわ。あなたとどう接すればいいのか、彼女にはわからないからよ」
私が言い終わらないうちにフランドールは組んでいた両手を解き、そして悲痛の叫びを上げた。
「嘘よ!」
彼女はその細い脚で床を蹴り、私に向かって真っ直ぐ身体を飛び込ませた。3メートルの間隔はやはり私に避ける時間を与えてはくれなかった。フランドールの身体を真正面から受け、私は肋骨が悲鳴を上げるのを感じながら吹き飛ばされて、気づいたときには床に転がっていた。
けれど私はそうなってもかまわなかった。フランドールが私に攻撃を加えるなら、最初の一撃だけは甘んじて受け容れようと思っていた。痛みに呻きながら、私はその痛みが自分の身体に染み込み、血肉となっていくのを感じていた。上海が私の上に来て、心配そうに覗き込んだ。
私は両手を床について身体を起こした。フランドールが少し離れたところから私をにらみつけている。九日前に見たような狂気の瞳、紅の血。感情を剥き出しにして私に突き刺そうとしている。
「あなたが邪魔なの。あなたがいなくなれば私はお姉さまに会うことができるはずよ。私はずっとお姉さまと一緒にいたいの」
そしてフランドールが再び私に突進してきた。
「壊れて、壊れてよ!」
今度の攻撃はぎりぎりのところでかわし、フランドールの爪が私の頬をかすめた。彼女は突進で体のバランスを崩したのか、壁に肩から当たった。衝突の震動でまたこの部屋に大きな軋みが生じる。フランドールは床に倒れて痛みに耐えているが、けれどまたすぐに起き上がって私を殺そうとするだろう。
「上海」
私はずっと私を見ていた上海人形の名を呼ぶ。上海が私のそばに来た。
「やれるわよね?」
上海はフランドールを見て、それからまた私に視線を戻し、力強くうなずいた。私は宙に浮き上がり、上海に指示を出した。
「彼女を倒そうと思わなくていいわ。ただ、一瞬の間でいい、隙をつくってちょうだい。私とあなたならなんとかできるはずよ。そして隙ができたら……あとは私次第だから」
上海が背中に装備してあった槍を手に持つ。その姿はこれまでになく頼もしく、そして私の人形とは思えないほど意志に満ちていた。
フランドールが私に対して猛スピードで突進し、私はそれを紙一重でかわす。背中を見せたフランドールに向けて上海が氷の魔法を撃ったが、彼女の振り向きざまにそれを両手で吹き消した。そして彼女は壁を蹴り、また私に爪を突き刺そうとしてくる。
私は両腕で自分の上半身を守ろうとしたが、フランドールは下から私の横腹に爪を突き立てた。その痛みに私は呻き声を漏らした。フランドールの背中に上海が槍を突き立てた。フランドールは驚いたように後ろを振り向き、そして私から爪を抜き、急上昇した。
私は横腹を抑え、彼女に向けて魔法を撃った。けれどそれは軽くかわされ、私に向かって急降下してくる。その急降下を上海が槍で狙い撃ちにしようと突進した。それもフランドールの左手の一薙ぎによって遮られ、上海は数メートル飛ばされたが、すぐに体勢を立て直した。
弱っているとはいえ、フランドールが持つ吸血鬼の身体能力はまだその影を残していた。その反射神経、脚力は傷ついても衰えを見せはしなかった。やはり私がフランドールから攻撃を受ける方が多かった。
けれど私もこの前のような違和感を抱くことはなかった。部屋の中をすべて見まわし、正確な位置取りや攻撃方法などを計算する。上海に指示を出し、ときには彼女の行動に任せてフランドールの隙を突こうとする。私がこれほど自分の能力を使うことはなかった。自分の力のすべてを出し切り、そしてその自分がいるという自覚をしたのはこのときが初めてかもしれない。上海も私の指示にうまく従い、ときには指示以上のことをやってくれた。フランドールに何度か槍で傷をつけることに成功した。私の危機をも何度か救ってくれた。
それでもフランドールに隙は生まれなかった。私は扉を背にして彼女が外に飛び出さないようにしなければならなかった。隙をつくることとそれの並行は想像以上の負担だった。私も上海も少しずつフランドールからの傷をためていった。自分たちの動きが時間とともに鈍くなっていくのもわかった。
けれど諦められない。私が諦めてしまったら、この地下室は永遠に崩れず、そのままフランドールが朽ちてしまうから。
#14
「吸血鬼の家族があるところに住んでいた」
パチュリーはそう物語を切り出した。「ですます」調でもなく、抑揚もなく、子どもに読み聞かせするような口調ではなかった。けれど図書館でうずくまったままの私は、黙ってそれを聞いていた。
「そこには小さな子どもの吸血鬼が一人、それからその両親がいて、子どもの吸血鬼は親からとてもかわいがられていた。子どもの吸血鬼は親の愛情をいっぱいに受けて、五歳になった。彼女は言葉を覚え、そして自分で歩くことができるようになっていた。自分が自分であり、親が親であることを理解しはじめた。けれど五歳になった彼女にある大きな事件が起きた。
その吸血鬼に新しい存在が誕生した。それは彼女の妹と呼ばれる赤ん坊だった。自分の髪の色と違い、その子の髪は金色で羽根も七色の宝石を持っていた。彼女と赤ん坊はほとんど姿が違い、少しでも似ているといったら二人の紅の瞳だった。彼女の両親はその子を慈しみ、彼女をかわいらしいといい、その子を常に抱いていた。純粋な光をたたえるその瞳がとくにかわいいと彼女の親は言った。
けれどそれは姉となってしまった吸血鬼に強烈な嫉妬を生み出した。彼女の親は自分よりも妹の方に愛情を注ぐようになっていった。それは普通の親として当たり前のことだけれど、やはりどの姉も妹に対しては嫉妬する。姉は妹をある意味憎み、そして自分の妹というものは親の愛情を奪うものだと考えるようになっていった。だから彼女は母親が自分を見てくれるように、わざとわがままになっていった。たとえ叱られるだけだとわかっていても、母親が自分を見てくれればそれだけでよかった。それだけなら、時間がたつとともにそういった感情はなくなり、姉も妹も現実の世界の中で生きていくことができるようになるはずだった。
けれどあるとき、ふとしたことから妹の吸血鬼には大変な能力が備わっていることが判明した。それはすべてのものを破壊する能力で、そしてまだ自意識というものに目覚めていない子どもには恐ろしい凶器となった。扱い方によってはその吸血鬼の家族だけでなく、世界さえ滅ぼしかねないほどの破壊の能力だった。そしてそうした子どもを愛さない母親がどこの世界にも数人いるのもしかたのないことだった。
彼女の母親はその子を気味悪がり、まだ赤ん坊であった妹の吸血鬼をどこか人に見つからない場所に捨ててしまった。そしてもともと新しい子どもなんて生まれなかったかのように暮らしはじめた。吸血鬼の父親もそうした母親の態度を黙認してして、ふつうに暮らそうと努めた。妹が捨てられてからは吸血鬼の親は彼女に愛情を再び注ぐようになり、一見すれば円満な家庭が戻ってきた。そして彼女の両親もそれでよかったと心の底から思っていた。
ふつうに暮らせなくなったのは姉の吸血鬼だった。まだ自意識が芽生えてそう時間もたっていない彼女にとって、憎むべき存在だった妹がいなくなるということは彼女に強烈な喪失感を与えた。妹ができてから母の愛情はすべて彼女に奪い取られていたのにもかかわらず、その愛情を受けていた妹が捨てられてしまった。
吸血鬼は強烈な喪失感と不安に包まれていた。愛情を注がれていたはずの妹が捨てられ、自分が捨てられない保障なんて彼女にはないようなものだった。自分もいつか妹のように親に捨てられるのではないか、彼女はそう思っていた。それから彼女の妹がどうなったのか、憎んでいたはずなのに彼女はずっと不憫に思っていた。
だから彼女は自分の家を飛び出し、捨てられた自分の妹を探した。吸血鬼だということが幸いしたのか、捨てられてから四日ほどたっていたが、妹は無事に林の中にいた。姉は彼女のもとにひざまずき、家から持ち出した食事を彼女に与えようとした。けれど彼女はそれを拒絶し、そして言葉にならない言葉で姉に問いかけた。『ママ?』
その言葉は家を飛び出してきた姉にとってはあまりにも残酷な言葉だった。姉をママだと思ったのか、それともママがどこにいるのか尋ねたのか、姉には判断できなかったが、とにかく妹にとってはママという存在がいまだに絶対であった。たとえ捨てられたとしても妹はママを信じつづけ、その存在を求めていた。家を飛び出してきた姉はママにもなれないし、ママを信じることもできない。今さら家に戻れるとも思っていなかった。
妹の前で困惑しきっている姉の頭に、ある紅の廃墟の姿が浮かんできた。それは妹が生まれる前に親とともに旅をした途中で見たものだった。彼女は妹に嘘をついた。『お母様は、真っ赤な館で待っていなさいと言っていたわ』と。そして姉は妹の身体を抱え、彼女の記憶に残っていた館にたどり着き、そこで来るはずもない母を待ちつづけることにした。
そこであらためて家から持ち出した食事を妹は食べた。母親が来るということで安心したのか、あるいはどうしようもなく空腹になってしまったのか、姉にはわからなかった。幸いに人里は館からそう離れていなかったので、姉は人間を襲って自分はその血を吸い、その肉をそのまま妹に持っていった。そうして二人はかろうじて食いつないでいくことができた。
姉は妹に昼夜の回数を教えさせないため、彼女を館の地下室に閉じ込めることにした。あまり長い時間が経ったということがわかってしまえば、妹が何をしでかすか彼女にはわからなかった。妹は姉の言うことに抵抗せず、おとなしく地下室に入っていた。姉の言うことに従っていれば自分のママに会えると信じていたからだった。
二人の生活は続いた。途方もなく長い時間続いた。そして妹にとっての姉はママとなった。さらに長い時間が経ち、妹はある程度の現実を知ることになった。それは喘息持ちの魔法使いだったり、銀髪のメイドだったり、紅白の巫女だったり、黒白の魔法使いだった。彼女たちは妹の吸血鬼にそれなりの世界を見せたし、妹もそれを少しずつ受け入れていった。だから物理的には姉は自分の生みの親ではないことも、自分がどうして地下室にいるのかということも理解していった。姉の方も妹がそういう現実を理解しつつあることは自覚していた。
けれど二人の中で失われたものは決して還ってきていない。それは二人の柱となるべきものだったのに、姉が五歳のときに、妹が生まれてすぐのときになくなって、そのまま失われつづけて年月が過ぎている。彼女たちの中のねじ巻き時計は沈黙をまもっている。彼女たちは誰かが自分たちの中のねじを巻き、柱となる存在を求めつづけているのかも知れない。そしてそれはおそらく――」
「本当のママ」
私がパチュリーの最後の言葉を引き継いだ。パチュリーは首を縦にゆっくりと振り、そしてカップを手に取った。けれどそこに紅茶はなく、パチュリーはそれに気づいてそのままカップをソーサーに戻して言った。
「これが私の知っている物語よ。感想は受け付けてないわ」
私はうずくまったままパチュリーを横目で見た。彼女は笑みも哀しみも見せず、ただ椅子に座って本を膝下に置いて私を見ているだけだった。本の匂いが不意に私の鼻をついた。私はパチュリーに尋ねた。
「それは本当の話なの?」
「さあ」
パチュリーは淡々とした口調で答えた。
「ある程度は私の脳の中に生まれた真実らしい作り話かもしれないし、どこかには真実が紛れ込んでいるかもしれないわ。推測から生まれた推測もあるかもしれない」
そしてパチュリーは「けれど」と言って小さく咳をした。
「ひとつだけ確かなことがあるわ。それはレミィもフランも私を自分の母親に会わせたことがなかったし、そして私に自分の母親の話をしたこともない、ということよ。だいぶ昔に彼女たちに出会ったのに、ただの一度も聞いたことがない」
地響きが図書館に伝わってきて、また本が数冊床に落ちる音が響いた。けれどパチュリーは私から視線をそらさずに言った。
「それはつまり、彼女たちには私に話せない理由があるということだと私は考えているわ。それは母への絶望であると同時に希望なのだと、私は思う」
私は顔を上げてパチュリーの顔を見た。彼女はあくまでいつものように力のない顔で私を見ていた。けれどよく見ると、それがいつもの表情を維持しようと努力して作られているものだと気がついた。彼女が何も感じていないなんて、そんなことはなかったのかもしれない。
私は九日前の人形劇をゆっくりと振り返ってみる。それは魔理沙に言ったとおり「いじわるな母のもとから娘が飛び出す」話だった。けれど見方によってはその劇が「母が娘を捨てる」という話にもなりえるのではないだろうか? それはかなり極端ではあるけれど、そうして見ようと思えば――そして母に捨てられた子どもがそれを見たとしたら――そう解釈できるものだったのだ。
「私が悪かったのね」
私の心の呟きは声となって私の口から滑り出た。そして声になった瞬間にその自覚はかたちをなして確かな重さを私の胸に感じさせた。パチュリーがため息をついて言った。
「さっきも言ったけれど誰が悪いというわけでもないわ。あなたはフランのことを知らなかったから」
パチュリーはそこで話疲れたように椅子の背に寄りかかり、体の力を抜いた。そして何度か苦しそうに咳をした。私はパチュリーをしばらく見つめてよく考えた。長い時間が経ち、私はかろうじて彼女に聞こえるほどの声でパチュリーに尋ねた。
「どうして私にそんな話をしたの?」
パチュリーは少し苦しそうに呼吸をしながら、それでも静かに私に答えた。
「ただの老婆心よ。けれどあえて言うとしたら――」
そしてパチュリーは穏やかに微笑んで私を見つめた。
「あなたとフランがどこかで似ているように見えた。それでは答えにならないかしら?」
私は首を横に振った。それで十分だった。パチュリーの言うとおりだった。
私とフランドールはどこかで似ている。どこかという話ではなく、決定的に同じだった。私もフランドールも自分の母のことで苦しんでいた。母を捨てた私、母に捨てられたフランドール。それは正反対のようで、実はどこまでも一緒なのだ。いつまでも私たちは子どもだった。
そこで私は気づいた。私がしなければならないことはフランドールに対する贖罪でもなく、責任を取ることでもなかった。自分と世界を隔てている壁を壊すことだ。逃げることもなく反抗することもなく、私は壁を壊すことができると強く思った。
私はサメと決別しなければならないと思った。夢のなかで見たサメは間違いなく私が生み出したものだった。また地響きがして図書館の本棚から数冊本が落ちる音がした。ソーサーに載ったカップが再び倒れた。私はこの地響きも抑えなければならない。
私は顔を上げてパチュリーを見た。彼女はずっと同じような顔で私を見ていた。そのどこか達観したようなその顔が私に確信を与えた。私は立ち上がり、そして彼女に背を向けて図書館の扉に向かって走りはじめた。
私の母の顔が頭をよぎった。
ねえ、お母さん。私は胸の中で自分の母に呼びかけた。
お母さんなら、こういうときどうする? 私と同じように考えるかしら。母親に捨てられた子を見捨てることなんてできないわよね、絶対に。
だって、自分を見捨てた娘でさえも、心の底から愛してくれているんですもの。
#15
七色の光が交錯する戦いになっていた。彼女の羽根の色と私の繰り出す魔法が作り出す幻想的で眩しい世界。これから何が起こるのか、そして私たちが何をしたいのか、もう何もわからなくなっていった。私たちはただ、その世界の中で戦いつづけるだけだった。理屈も理論も感情もない。そこにあるのは激しく燃える炎だった。
私も上海も限界が近づいてきた。私の体力が切れはじめ、朦朧とする意識の中で上海を操っていた。気づけばフランドールの攻撃を受けて地面に落ちていた。上海もフランドールの攻撃を受けつづけ、身体機能が落ちていった。
それなのにフランドールには限界がないように見えた。いつになっても彼女の身体のきれは衰えず、ものすごいパワーで私をひねりつぶそうとしている。彼女に隙が生まれることなんて到底ありえないことのようにさえ感じられた。けれど私と上海は諦められない。彼女の攻撃を避けつづけ、たとえ倒れたとしてもすぐに立ち上がって彼女の前に立ちはだかった。
「どうして壊れないの?」
フランドールは肩で息をしながら私をにらみつけ、悲痛な声で言った。地下室にまた新しい亀裂が生まれ、そこから地下室の破滅の音が近づいてきた。フランドールは肩に降りかかる塵を受けながら呟く。
「どうして邪魔なのに壊れてくれないの? 私はなんでも壊せるはずなのに、どうしてあなたを壊すことはできないの? どうして、ねえ、どうして――」
七色の羽根が彼女の背中で小刻みに揺れている。それは彼女にも限界が訪れていることを如実にあらわしていた。もうお互いに気力だけで戦っているようなものだった。
私は暗く染まりはじめた視界を無理やり開き、自分の腕を見る。そこには傷ひとつない。前にフランドールと戦ったときも私の腕だけはまったく傷ついていなかった。意図的なものなのか、無意識にそうしているのか、私にはわからない。けれどとにかく、フランドールは私の腕に攻撃していなかったのだ。
私は苦しそうに息をする肺を鎮めようと深呼吸し、空に舞う塵を吸い込んで大きく咳をした。呼吸をすることさえ限界だった。けれど私は口を開いてフランドールに言った。
「どうしても壊れないの」
フランドールがびくりと肩を震わせて、私をにらんでいた目は一気に不安に染められた。私は自分の胸に手をあてて続けた。
「いえ、壊れないのとは違うわ。壊せないのよ。あなたは私を決して壊すことはできない。それはあなたにもわかっているでしょう?」
私はフランドールに歩み寄った。フランドールはもつれる足で後ずさりし、そして自分の腕で自分の身体を抱いてうつむいた。
「いや……いや、やめて、怖いの、やめて……」
彼女の声は少しずつ小さくなっていった。私はさらにフランドールに近づいた。
「本当は私を壊したくないのよ。だってあなたは――」
「やめて!」
フランドールが私の言葉を遮り、そして地面を蹴って私に飛びかかってきた。おそらく残っている彼女の体力すべてを使い果たして。私はそれを避けようと身体を動かそうとした。けれどもう自分の身体は自分の意識では制御できなくなっていた。筋肉が誰かに吊られているような感覚で少しも動かなかった。
もう彼女の攻撃を避けるのは無理かもしれない。私はそう思ったが、同時に願わずにはいられなかった。せめてこの攻撃さえ避けることができるなら、私は――。
そして彼女の爪が私の顔に触れる刹那、真っ白な閃光が私の目の前を右から左に走り、フランドールはその閃光に呑み込まれて流されていった。そして床にうちつけられてそのまま何度か床を転がり、うつぶせになって動かなくなった。
私は閃光が走ってきたところに視線を移した。そこには上海人形がいて両手の手のひらを前に差し出していた。彼女がさっきの閃光を出したのだと私はわかった。けれどその技をどこかで見たことがあるとも私は思った。魔理沙のマスタースパークだ。
しばらく時が止まったように上海は空中に留まっていたが、やがてすべての魔力を使い果たしたのか、地面に落ちて彼女も動かなくなった。
「上海」
私は荒い息混じりの声で彼女に呼びかけたが、反応はなかった。私は動かない上海に向かって首を縦に振った。ありがとう、上海。あとで直してあげるから。そういう思いをこめて。
それから私はフランドールの方を見た。彼女は腕を動かし、両手を地面につけて身体を起こそうとした。けれどその腕は震えるだけで彼女の身体を支える力は残っていなかった。苦しそうな息声が彼女の口から漏れ、崩れかかっている部屋に転がるように響く。
私は動かない身体を無理やり動かし、重心が定まらないままにフランドールのもとに歩み寄っていった。何度かバランスを崩して床に倒れ込みそうになったが、足を地面について耐えた。
フランドールが首を私の方に向け、そして追い詰められた獣のような表情を浮かべる。傷だらけの顔で小さな悲鳴を上げた。
「いや、やめて、来ないで……」
フランドールは今にも泣き出しそうに見えた。私は黙ってフランドールに近づいていく。もう彼女に語りかける言葉でさえ口から出すことができなかった。フランドールが上半身だけを起こしたまま首を小さく横に振る。
「嫌よ、嫌いよ、あなたが嫌いなの、来ないで……」
私は唇を固く結び、そして喉が震えるのを抑えてフランドールの隣にひざまずいた。そして彼女の前に両手を差し出した。フランドールはそれを見て、それから私に視線を戻した。紅の瞳が揺れている。小さな体が痛みに震えている。その身体でフランドールは左手を振り上げて言った。
「壊れてよ……」
そして彼女は左手を振り下ろした。爪が私の顔の表皮を裂き、真っ赤な血が私の頬から滴り落ちた。フランドールは涙をこらえるような表情で私を見つめている。もう彼女は腕を振り上げなかった。ただ首を横に振って私を拒絶しようとしているだけだった。
ふと私の顎から血に混じった涙が落ちた。いつのまにか私の目から涙がこぼれてきた。その涙はとめどなく私の目から生まれ、泣き出しそうなフランドールの前で小さな流れを作っていった。
どうしてだろう? どうして私は彼女の前で涙をこぼしているのだろう? わからない。ただ私は悲しくて、切なかった。フランドールがたまらなく愛しくて、その傷ついた姿がたまらなく哀れで、それが私の胸を震わせる。自分の血の流れも身体の痛みもその震えの前に消え去り、私はフランドールしか目に入らない。
どうしてそんなことを感じるのだろう? 彼女が私に似ているから? 違う、と私は思った。似ているとか似ていないとか、そういうことではない。そんなものはこの震えを説明できない。この涙は理屈や感情ではないはずだ――。
私は両腕をのばしてフランドールの肩に静かに手をかけた。フランドールは唇を固く結び、それをへの字に曲げていた。紅の瞳は私を見据えて動かなかった。
次の瞬間、私はフランドールを自分の腕の中に抱きしめていた。彼女の小さくて、軽くて、傷ついた身体を私に最も近い場所に引き寄せていた。そして彼女の身体の感触を、彼女の体温を、彼女の身体の震えを、私は自分の身体で感じていた。その衝動は今までの何よりも強く私の体を突き動かした。
フランドールは私の腕の中で震えていた。どうしてこんなに小さいのだろう。私はそれを強く思った。私の腕の中で震えているのは狂気に満ちた獣ではなく、小さな子どもだった。
「ごめんね」
彼女を抱きしめる私の口から、言葉が涙のようにこぼれた。
「私はこうすることしかできない。小さなあなたを抱きしめることしか、私にはできないの……」
それ以上の言葉は紡げず、私は愛しさと切なさにまかせてフランドールを抱きしめた。どれほど強く彼女を抱きしめても足りない気がした。その欠落は私の涙としてあふれ、フランドールの体を濡らしていった。涙を止めるすべも、自分の無力さを変えるすべも、私にはなかった。彼女の頭に私の顔を埋めてただ泣いていた。
フランドールが私の腕の中で、震える声で呟いた。
「あなたが嫌いよ」
そう言って、けれどフランドールは私の体に腕をまわし、ぎゅっと子どものように私の体にしがみついた。その力はもう吸血鬼のものではなく、本当に小さな子どものものだった。
「……大っ嫌いよ」
フランドールは涙声でそう言って、声をあげて泣く。今まで泣いたことがなかった子どもが、初めて泣いた。495年の時間を超えて彼女の涙はここにつながっていたのだと私は思う。私は彼女の涙も泣き声をも受けとめて、彼女を抱きしめて涙をこぼしつづけた。
時の流れは止まり、あるいは進み、巻き戻された。視覚も聴覚も明らかではなかった。壊れかけた部屋の中で私とフランドールは抱き合っていた。いつまでも、いつまでも永い時間。世界の終わりを私たちは感じていた。そして地下室は崩落しはじめた。
――なんとなく今になって私は思う。私はいつか母になるのではないかと。
#16
気がつくと見覚えのある白い天井が私の視界いっぱいに広がっていた。私はゆっくりと体を起こし、痛みに顔をしかめながらまわりを見渡した。私の隣で魔理沙が椅子に座っていて、私は自分の暖かいベッドの中にいて、そしてそこは私の家だった。痛みが何度も私の体の中を駆け巡った。
「夢だったの?」
私がそう魔理沙に尋ねると魔理沙は静かに答えた。
「いいや、夢じゃないさ」
魔理沙は身を乗り出して私をじっと見つめて言った。
「おまえとフランが地下室で抱き合っていたのは、間違いなく現実だったよ」
そして魔理沙は爽やかな笑みを私に見せて「怪我人は寝てなよ」と言った。
私は自分の体を見下ろした。再び包帯に全身が巻かれていて、やはり腕の部分は怪我ひとつなかった。身体がひどく痛んだ。
ふと私は思い出して言った。
「上海」
私はもう一度自分の周囲を見渡して上海人形の姿を探した。上海は魔理沙のそばにあるテーブルの上に腰を落ち着けていた。私は彼女の無事を確認して肩をなでおろした。魔理沙が私を見たまま、首を微妙に傾けて言った。
「大丈夫だ。私が魔力を注入しておいた。幸い大した怪我もなかったみたいで、すぐに動き出したよ。で、それからずっとお前のことを心配そうに見ていたぜ」
私を静かに見ている上海は、魔理沙の言葉にゆっくりと首を縦に振った。魔理沙の言うとおり、彼女は大した怪我がなさそうだった。私は自然にため息が漏れて体の力が抜け、ベッドにまた横たわった。
窓から夏の陽が差し込んでいて、部屋の中は異様に暑かった。魔理沙の横顔を汗が一筋流れ落ちていった。それを見ていた私の額にも汗がじわりと浮き出てきた。夏らしい空気をそのまま感じることができたのが久しぶりのように思えた。
「まあ、とりあえずはおまえの怪我を治すこった」
魔理沙は笑ってそう言い、椅子から立ち上がって私に尋ねた。
「これから昼食にするけど、ご飯と味噌汁でいいか?」
「和食ばっかりね」
私は呆れたように笑ってそう言った。魔理沙は頭の後ろで手を組んで私に応えた。
「私は日本人だからな、和食がいちばん合ってるんだよ」
その魔理沙の気持ちは、私には少しわかるような気がした。私は首を縦に振って魔理沙に言った。
「うん、ありがとう。いただくわ」
「よしきた、任せとけ。美味しい和食を作ってやるからな」
魔理沙はにやりと笑って腕まくりをするような動作をし、キッチンに向かって歩いていった。キッチンが爆発しなければいいけど、と私はひとりごちて窓の外に目を移した。今度こそ雲ひとつ無い空が森の木の隙間から見えた。森は深い青を背景にして濃い緑を浮かべていた。それは長い長い雨がやんだあとの、これ以上ない美しい世界の景色だった。
それから私たちは魔理沙が作った昼食を食べた。魔理沙の言ったとおり、ご飯とお味噌汁とそれからおしんこというとても簡素な食事だった。もう少しタンパク質と脂肪をとらないと、と私が言うと、魔理沙はそれじゃあ太って箒に乗れなくなるじゃないかと返した。それもそうねと私がうなずくと、それもそうだろと魔理沙もうなずいた。
魔理沙が作った食事はとても美味しい、とは言えないけれど、そこそこ美味しいものだった。正直なところ、魔理沙がそれなりに料理をできるのが私には意外だった。「魔法はパワーだぜ」と言っている魔理沙が料理をしている、その映像を思い浮かべることができなかった。私がそう言うと魔理沙はふくれつらを作って言った。
「失敬だな。私だって料理できるんだぜ。母さんから習ったからな」
私は魔理沙のふくれつらがなんだか可笑しくて、思わず吹き出してしまった。するとごはん粒が魔理沙の顔にかかり、それが面白くてさらに私の笑いは止まらなくなった。魔理沙が怒ったように私を責めたが、しまいには私の笑いにつられて魔理沙も笑っていた。
和食も悪くないと私は思った。今度から自分の食事に和食を加えてもいいかもしれない。私は頭の中で密かに検討することにした。
少しして、味噌汁を飲みながら魔理沙が私に言った。
「それにしてもパチュリーから知らせが来たときは冷や汗をかいたぜ」
私はごはんを食べる箸を止めて魔理沙に尋ねた。「どういうこと?」
「パチュリーからの手紙が突然私の家に転送されたんだよ。たぶん転送魔法を使ったんじゃないか? で、その手紙にはアリスが地下室に行く、って書いてあった。血の気が引くような、冷や汗がどっと吹き出るような気がしたぜ。この前のようなことがまた起きるんじゃないかってな」
「パチュリーが手紙?」
私はパチュリーの表情を思い浮かべた。偏屈なあの魔女が魔理沙に手紙を書いている姿を想像して少し不思議な気持ちになった。パチュリーも結局私とフランドールのことが気になっていたのだろうか。
魔理沙は空に視線を浮かべたままぼんやりと話しつづけた。
「フランが暴れつづけていたのは知ってたから、そりゃもう全力疾走で地下室に向かったよ。おまけに地下室が崩れるような音がしていたから本当に焦りに焦っちまった。でもなあ、開いてる扉から飛び込んだときは驚いたなあ。お前とフランが抱き合ったまま気を失ってるんだぜ。結局すぐあとからやってきた咲夜にフランを任せて、お前は私が運んだんだ」
魔理沙は味噌汁を飲みおえ、ご飯の器を手にとって食べはじめた。私は少しの気恥しさを覚えてうつむいた。フランドールと抱き合っている姿を魔理沙だけではなくて、咲夜にも見られていたのかと思うと、自分の顔に熱が浮かんでくるのがわかった。私はそれを押し隠すように一気に食事を進めた。
魔理沙はそんな私の姿を眺めながらさらに続けた。
「でも驚いたのと同時にさ、ふっとため息も出てしまったよ。地下室が崩れて自分の命も危ないっていうのにな。お前とフランの姿は、まるで本当の母と娘のようだった」
私の箸が止まり、私は顔をあげて魔理沙の顔を見た。魔理沙は首をゆっくりと縦に振った。それは確信に満ちた肯定の動作だった。だから私は魔理沙に尋ねることにした。
「フランドールはどうなったの?」
「地下室はなくなったけど、紅魔館のベッドの中で介抱されてるよ。パチュリーからあのあとのことも連絡が来た。今はフランドールも落ち着いてるってさ」
魔理沙はそれから私を見て尋ねた。
「フランのこと、やっぱり気にしてたのか?」
「ええ」
私が少し小さな声で答えると魔理沙は横顔を向けて言った。
「今はフランのことを心配しなくてもいいさ」
どうして、と私が尋ねる前に魔理沙が言った。
「私もフランのことは気にかけてたからな。紅霧異変のときからずっと」
魔理沙はそう言ってまた箸を進め、ご飯を口の中に入れていった。私はそんな魔理沙を見つめている。本当にすべてはこれでよかったのかどうか、まだ確信が持てなかった。何かを見落としているのではないか、そんな不安が私の胸の中にわずかに残っている。
けれどそれを吹き消したのも魔理沙だった。ご飯を口の中で噛みながら、魔理沙は呟くようにぼそっと言った。
「ありがとな」
そして魔理沙は私の目を真っ直ぐに見た。彼女の表情は、すべてがこれでよかったのだと言っているようだった。そして私は魔理沙の顔を見て笑いがこぼれた。
「ほっぺにごはん粒ついてる」
私がそう言うと、魔理沙は慌てて右手で自分の右頬を触りそこに米粒がついていることを確認した。それから頬を少し赤く染めて指についた米粒を口の中に入れた。ばつが悪そうな顔で私を見る魔理沙。そういうところがやっぱり魔理沙らしく、私は好きだった。
昼食を終え、私たちは私のベッドルームで静かな午後を過ごした。私はテーブルに置いてあった上海人形の細かな修復をし、魔理沙は私の本棚から取り出したグリモワールを眺めた。
上海人形は一部が欠けてはいたものの、すぐに治すことができた。治しているあいだ彼女はときどきくすぐったそうに身体をはねさせることがあった。それが怪我を手当してもらっている子どものような動きで、私はときどき自分の下腹部が疼いた。この短期間に上海人形はもう人形という存在から離れはじめているような気がした。そして私はそれを当たり前のことのように受け容れはじめていた。
修復が終わると上海は嬉しそうに宙を舞った。自分が元気であることを私に見てほしい、そんな動きだった。私も上海の様子を見て、自分の顔に微笑が浮かぶのを感じた。上海の舞いを眺めながら私は魔理沙に呼びかけた。
「ねえ、魔理沙」
「うん、なんだ?」
魔理沙がテーブルに頬杖をついたまま、本から顔を上げて私を見た。私は上海から魔理沙に視線を移し、その金色の瞳を見て尋ねた。
「あなたは自分のお父さんもお母さんも好き?」
それはもう答えがわかりきっている問いかけだった。魔理沙はしばらく私の顔をじっと見て、それから顔をほころばせて言った。
「ああ、好きだぜ」
魔理沙は頬杖をつくのをやめて背筋を伸ばし、グリモワールを閉じた。
「私を産んでくれたことにももちろん感謝している。それに私が私としていられるのも二人のおかげだからな。もうすぐお盆になるけど、一度は実家に返って二人に顔を見せるさ」
私はゆっくりと魔理沙にうなずいた。魔理沙はへへっ、と笑って鼻の下を人差し指でこすった。私はそんな魔理沙を見て、そして自分の部屋と家の中を見回しながら言った。
「私も一度は魔界に帰ろうかしら? せっかくのお盆なんですもの」
魔理沙は「それがいいや」と言った。
「神綺もお前が帰ってくれば喜ぶだろ。そりゃもう飛び上がって踊るほどに」
私は自分の母が飛び上がるようにして私に抱きついてくる映像を頭に思い浮かべた。絶対にそうしてくるはずよね、と思い苦笑した。そうしてきたとしたら、私はお母さんを抱きしめてあげようとも思った。そういうふうにできる自信もあった。
あ、と魔理沙が思いついたように声をあげて私を見た。
「アリスが魔界に帰るなら、私もアリスについて行こうか。魅魔さまにも会いたいし、それから神綺にも会わなくちゃいけないな。いつもアリスにお世話になっています、ってな」
私はその言葉に呆れながら魔理沙に返した。
「そうよ、本当に。いつも私がどれだけあなたを世話しているかわかっているわよね? 食事とかお菓子とかお茶とか本とか本とか本とか……」
私が魔理沙の悪行を挙げていこうとすると、魔理沙は慌てて両手を振って私を制止しようとした。
「ちょっと待ってくれ。今回のことでは私がお前を世話してやっただろうが。介護したり食事を作ったり大変だったんだぜ。だから今日はおあいこってことで、な?」
「わかってるわよ」
私はいたずらっぽく魔理沙に笑いかけて小言を止めた。けれど最後に一言付け足すのは忘れなかった。
「でも借りた本は早く返しなさいよ、いいかげんに」
「ああ、いつかな?」
とぼけたようにいう魔理沙に再び私は呆れ、大きなため息をついた。けれどそれと一緒に笑いも口から漏れてきた。魔理沙も私と一緒に笑う。上海も目を細めて私たちを見ている。そうして夏の暑い午後は過ぎていく。
#17
それが今日のこと。そして夜になって、私は今こうしてずいぶん長い手紙を書いている。上海が私の隣で私の書いた手紙を最初から読んでいる。彼女が文章を読むことができるのと私は初めて知った。
まだまだ上海は変わりつづけるのだと思う。パチュリーの答えの意味はまだわからないけれど、でもこうして過ごしていればいつか上海人形は自立する。そんな気がする。私はそれを見守ることにしようと思う。
いろいろなことが起こった。私も肉体的に傷ついたり精神的に参ったりしたし、今もまだ身体は包帯で巻かれてはいるけれど、これもあまりひどい怪我はなかったようだ。だから心配しなくても大丈夫。
前にも書いたように、私は来たる盆にそちらに帰ろうかと思っている。魔界を出てから初めて里帰りするから、私は少し緊張しているし恥ずかしくもある。里帰りするというのはこういう気分なのだろうか。けれど決して悪い気分ではなくて、むしろその緊張が心地いい。怪我が早く治ってほしい。
そういえば魔理沙は本当に私について魔界に行くつもりなのか、とうとう聞きそびれてしまった。彼女のことだからおそらくは本当なのだとは思うけれど、一緒に行くならまたそれはそれで別の心の準備をしなくてはならない。まったく私は魔理沙に振り回されているような気もするが、でも今回のことでは彼女に深く感謝している。
お母さんからの手紙が来てからのこと、私はまだそれをすべて理解できないではいるが、ひとつだけわかったことがある。それもまだ言葉にすることはうまくできないけれど、でも表現できるだけはしてみようと思う。
私が一人で魔界を出ようとしたとき、夢子や他の魔界の人たちが必死で私を引き留めようとする中、お母さんだけは私に対して何もしなかった。魔界の神だからそうしようと思えば魔界の出口を塞ぐことだってできたはずだ。でもそうしなかった。
お母さんは、私が離れて行くのを見るのはすごくつらかったはずだ。でも何といえばいいのだろう、それはお母さんが自分で選びとった道なのだと私は思う。私はそのときは何も気づいてはいなかったけれど、それはお母さんがお母さんであるために選んだのだと今は思える。
そう、だから今の私が私でいられる。魔理沙の言ったとおりかもしれない。
未来のことは誰もわからない。運命を操ることができるレミリアも、遠く先の未来を知ることはできない。時の流れは歯車のように簡単なものではなく、海に存在する無数の波よりも、もっと多くのことが絡まって進んでいる。
でもたとえば歯車を動かす炎のように、あるいは波を起こす風のように、時の流れを進める根源的な力もどこかには存在しているのだろう。それを探そうだなんて大それたことは思わない。私はただ、時が来たらその力にしたがって決断するだけだ。そのとき私は本当の母になることができるのだと思う。そして私はそうなりたいとも思う。
魔界に帰ったら、少しだけお母さんに甘えさせてほしい。私を抱きしめてほしい。そのぬくもりの中で私は静かに呼吸をしたい。私の腕の中でフランドールが感じたものは何だったのか私も知りたい。
それからお母さんに見せたいものもある。お母さんからもらった上海人形。彼女がそっちに行く頃にどうなっているのか、私も楽しみでしかたない。
最後に月並なことを書いてこの手紙を終えようと思う。続きは魔界に帰ったときに山ほど話すから。
私は元気です。昔も大好きだったけれど、今の私としてもまた言わせてください。
ありがとう、お母さん。大好き。
――アリス・マーガトロイド
この手紙の余白に書き込むことを許してほしい。スペースが無いのであまり多くのことは書けない。しかし短いながらに私がこうしてあなたに書いている目的は、アリスの成長の記録、そして私自身のアイデンティティの証明。
私は上海人形。あなたがアリスに初めて渡したという人形。私が自我を持ち、こうして文章を書けることをまだアリスは知らない。あなたがこの文字に気づいてくれれば私は「嬉しい」と思う。
パチュリー・ノーレッジが私に伝えた言葉、「魔力は精神の波動」。確かにこれに尽きる。私はこの言葉を理解できた。アリスが私に対してとった行動、言葉。彼女は意識していないかもしれないが、彼女の精神の波動はすべて私に伝わっている。そうした波動は私の中で永遠に消えない。少しずつ私という自我を形成する。
人形はルールに従うものだが、アリスは偶然にも自分のルールを自分で壊した。その波動が私に伝わり、私に新しい経験が蓄積された。一見理不尽なものが私というものを決定づけたと、私はパチュリーの推測から推測する。
私はアリスを「憎い」と思ったこともある。しかし彼女はやはり私に「魔力」という名の愛を注ぐ。ちょうどフランドールにそうしたように。だから私は彼女の糸から解き放たれ、私として生きていけるようになった。
この文章を私がうまく書けている可能性は低い。まだ意識のルールの影響が強く、意識で理解できないものが多いからだ。しかし最後にこれだけは「自信を持って」書ける。
アリスはもう私の主人ではない。母だ。
#11
パチュリーはテーブルから少し離れた魔法陣を指差した。
「あの魔法陣が何を生み出してくれるのか、あなたは学んだことがある?」
私はかぶりを振った。私は魔法陣を多くは使わないし、学んだこともない。パチュリーが手を膝もとに置いて言った。
「あの魔法陣は別の魔法陣に私の魔力を転送するもの。だから、あれ自体はとくに外部環境に影響しない」
「じゃあ、別の魔法陣であなたは何をしているの?」
私がそう訊くと、パチュリーは口元に薄い笑いを浮かべながら訊き返した。
「何だと思う?」
少し意地の悪い質問だった。私は少しのあいだ考えたが、思い当たることは何もなかった。パチュリーが結局その問いに答えた。
「いくつか外に魔法陣が描いてあるわ。そこの魔法陣から外の魔法陣に魔力を送り、そして私はこの紅魔館のまわりに雨を降らせているのよ」
そう言われると私の中に今までにあった違和感が解消された。紅魔館に夕立が降っているのはパチュリーのせい、そして美鈴の視線の先にあった模様は雨を降らす魔法陣だったのだ。けれど私は何のためにパチュリーがそうしているのか理解できなかった。
「何のためにそんなものを描いたの?」
パチュリーは淡々と答えた。
「妹さま――ああ、フランドールのことね。彼女を外に出さないためよ」
彼女の名が出て私は唐突に胸を衝かれるような感覚がした。私の視線が図書館の奥から手前を不規則に泳いだ。自分でも意識できない動きだった。私は彼女に対して罪悪感を抱いているのだろうか?
パチュリーが私を眺めているのに気づいたが、彼女に返す適当な言葉が見つからなかった。私は狼狽していた。遠くから地響きがして、パチュリーは音のした方に視線を移した。私はその視線から逃れても、まだ動揺を落ちつけることはできなかった。パチュリーが地響きの方を見つめたまま言葉を口にした。
「九日ほど前かしら、フランが突然地下室で激しく暴れはじめたわ。暴れるというよりは暴走の方が適切かもしれないわね。突然の出来事だったし、私以外は誰も予想していなかったことでしょうね。レミィは知ろうと思えばそうできただろうけど、たぶん知ろうとはしなかったはずよ」
さっきの地響きでテーブルの上のカップが倒れていた。まだ紅茶が残っていたパチュリーのカップから紅茶が流れ、ソーサーを満たした。ソーサーの紅茶は波を刻んでいた。パチュリーは手を濡らさないようにカップをソーサーにきちんと置いて続けた。
「フランが何をしたいのかは私にもわからないわ。さっきも言ったけど、推測の推測ほど信頼できないものはないから。そもそも目的なんてはじめからどこにも存在していないのかもしれない。事実として信用できるのは、フランが暴れつづけているということだけ。
私たちがとれる対策の選択肢もはじめから無かった。いつかのように彼女を閉じ込めるだけだったわ。彼女自身には何の慰めもなく、ただ外部に被害が及ばないようにするだけよ。扉を閉めきって、それから万が一のときのために雨を降らせつづけている。扉を開くことができないから彼女に食事も与えられないわ」
パチュリーはそこで一呼吸置いて、そして言った。
「ずっとこのままだと、フランは死ぬかもしれない」
そのパチュリーの言葉だけは真っ直ぐで、そして何よりも真実に近いものだった。けれど彼女は私を見ない。私はそこに呆然と立ち尽くしていた。
九日前、それは私がこの紅魔館に人形劇をしに来た日だ。そしてその日からフランドールが暴れているということは、あのとき私に襲いかかったときからだということになる。その日以来ずっとフランドールはあの檻のように無機質な地下室で、異様なまでのあの力で暴れつづけているのだろうか。
どうしてそこまで? 自分の命さえもおびやかして? それはあの日人形劇をやった私が原因なのだろうか? わからない、わからない。私の頭の中で不可解な暗い渦が巻き起こり、体中の血液の流れが速くなったり遅くなったりした。
「違う!」
私は思わず叫んでいた。甲高い声は図書館の本の中に吸い込まれていった。それから私は力が抜けた声で言った。
「私のせいじゃない」
パチュリーは黙って私を見ていた。私はその視線に耐えられなくなり、体の力が抜けたようにうずくまり、膝に顔を埋めた。どうしてこんなことになったのか、私には理解できなかったし、そのときは理解しようとも思わなかった。自分が泣きたいのか叫びたいのか、自分の表面上の感情すらわからなかった。私はただ逃げるようにして声を漏らしつづけた。
「私は……私は……悪くない……」
膝と腕のあいだから上海人形が心配そうに私を見上げているのが見えた。その視線には明らかに感情がこめられていた。けれど私はそれを知覚できても認識できずにいた。すべてのことを自分から切り離そうとしていた。
パチュリーが椅子を引く音がして、私の細い視界から彼女の足元が見えた。
「今度はあなたの家に長雨を降らせようかしら」
パチュリーはあいかわらず抑揚のない声で言った。私を冷静に責めているようでもあるし、哀れんでいるようでもあった。あるいはそんなことには一切興味が無かったのかもしれない。私は目をつむって彼女の言葉をも遮ろうとした。けれどパチュリーはそれにかまわず続けた。
「けれどたしかにあなたの言葉どおり、あなたは悪くないわ。いえ、もっと言えば、今度のことは誰にも咎がないのかもしれない。偶然に偶然が重なりつづけて、運命に導かれたようにも思えるけれど、これは偶然ではなく必然なのかもしれない」
私はその言葉に世界から自分を切り離すのを思いとどまった。誰が私を助けてくれるわけでもないし身体が震えてはいたが、うずくまったまま、パチュリーの次の言葉を待った。私の頭の上からパチュリーの平坦な声がする。
「あなたは人形劇が好きなんでしょう。私があなたのためにお話をしてあげましょうか」
私は膝に顔を埋めたまま、わずかに首を縦に振った。パチュリーがそれを確認したのかどうかはわからなかったが、彼女は話を続けた。
「そうね、ある姉妹の物語にしましょうか。誰のためでもない、幸せでもない結末の物語」
私の震えはそこで止まった。自分がどこかの細い糸をつかんだような感覚がした。
パチュリーの物語。そしてそれはたしかに彼女の言ったように、誰のためでもなくハッピーエンドでもなかった。ずっとうずくまっていたので、話が終わるまでどれくらいの時間が経ったかはわからなかった。私にとっては495年の時間を過ごしたように思えた。
私はサメと決別しなければならないと知った。夢のなかで見たサメは間違いなく私が生み出したものだった。また地響きがして図書館の本棚から数冊本が落ちる音がした。ソーサーに載ったカップが再び倒れた。私はこの地響きも抑えなければならない。
私は顔を上げてパチュリーを見た。彼女はずっと同じような顔で私を見ていた。そのどこか達観したようなその顔が私に確信を与えた。私は立ち上がり、そして彼女に背を向けて図書館の扉に向かって走りはじめた。私が背を向けたときにパチュリーが何かを言ったような気がしたが、それは私の耳には届かなかった。私に対して言ったのではなかったのかもしれない。
上海が私に少し遅れてついてきた。私はそれを確認して身体を浮かせ、全力で紅魔館のあの地下室に向かって飛びはじめた。図書館の扉を蹴るようにして開け、薄暗い廊下に出てそのままずっと飛びつづけた。自分の抜け殻を図書館に振り落としていくようなスピードが出ていたのではないかと、私は思う。
#12
私は全力で紅魔館の廊下を飛びつづけた。すぐに息が切れたが私はそれも気にせずに、ときどき私の横に現れる窓の外の景色も目に入れずに、ただひたすら無機質な地下室を目指して飛びつづけた。今はもう紅魔館の暗さも雨が降る音も気にならなかった。
上海も遅れずに私についてきた。廊下を曲がるときや階段を通るときに彼女の顔が一瞬視界に入ったが、その目には明らかな光が灯っていた。赤い絨毯によく映える白い光だった。
飛びつづけている間にも何度も地響きが続いた。一度は疲れていたフランドールが少し力を取り戻してまた暴れはじめたのだろう。私はその地響きを止めるために紅魔館を駆け抜けている。妖精のメイドは私に気づくと驚愕したように、けれど私に当たらないようにして廊下の端に身を寄せた。私は彼女たちに謝らなかった。謝る余裕がなかった。
呼吸が困難になり、視界が黒く霞みはじめた頃にようやく地下室へと続く階段が視界の奥に見えた。そしてその階段の入口のところに一人の人物が立っているのも見えた。私はその人を無視して階段に飛び込もうとした。
けれど階段まで残り五メートルのところで、その人物が目にもとまらない速さで私に接近し、そして上から私を床に叩きつけ、そのまま馬乗りになって私を床に押さえつけた。突然の衝撃に私は一瞬、意識を飛ばしてしまいそうになった。
ぎりぎりのところで私は意識を保ち、私の上に乗っている人物の顔を見た。それはレミリアだった。
「館の主に断りもなく、どこへ行こうというのかしら?」
冷たい笑いを浮かべ、鋭い口調でレミリアは私に言った。彼女は私の肩を両手で押さえつけ、私の腰のあたりに身体を載せていた。彼女の身体は驚くほど軽かったが、力は驚くほど強かった。私は彼女に抵抗することができなかった。レミリアはガラスのような微笑を浮かべたまま言った。
「失礼な客人ね、あなたは。まるで魔理沙になってしまったみたいよ」
私は吐息混じりにレミリアに言う。
「今は魔理沙のようでもかまわないわ」
「そう、反省するつもりはないの。じゃあ、尋問してもよろしいかしら?」
レミリアが私の肩を強くつかんだ。雷撃のような痛みが私の身体に走って、私は顔を痛みに歪めた。レミリアがそれを見て口の端をより吊り上げた。
「もう一度訊くけど、あなたはどこに行こうとしていたの?」
レミリアは私の肩をつかんだままそう尋ねた。私は顔をしかめたまま、けれど静かに言った。
「地下室へ」
レミリアは表情を変えずに私を見ている。私は続けて言った。
「あなたの妹へ会いに」
レミリアは小さくため息をついて呆れたように微笑を崩した。
「あなたわかっているわよね? フランは今暴れているのよ」
「ええ、知っているわ」
私の痛みに少しずつ身体が慣れてきて、顔の力が少しずつ抜けていった。
「この前あなたはあれだけ傷ついたのに、また懲りずに行くの。あの子が暴れはじめたら私でさえ手がつけられないのよ」
「わかっているわ」
私は下腹部の底から声を出すように静かに言った。今度はレミリアの顔がわずかに歪んだ。レミリアの声の波も少し変わった。
「あなたに何ができるというの? 行ったところで何もできないかもしれない」
「そうかもしれないわ」
「死にに行くようなものよ!」
レミリアは顔を歪めて私に叫んだ。悲痛な少女の声が私の鼓膜を激しく震わせ、それに呼応するように地響きが起きた。けれど私は自分でも不思議なくらい落ち着いていた。
「あなたの言うとおり、死ぬかもしれないわね。でも、私はすでにあの日に一度死んでいたのよ」
私はそう言って息をついた。レミリアに何と言われようと私の決意が揺らぐことはなかった。死ですらそのときの私には脅しにならなかった。レミリアは私の顔を見て泣き出しそうな表情になった。口をへの字に曲げ、射抜くように私を見つめた。
「どうして、死ぬかもしれないのに、行こうとするの?」
レミリアが私に訊いた。
「この前の責任?」
私はゆっくりと首を横に振った。口を開きかけたレミリアに私は言った。
「責任じゃないわ。これは私とフランドールのためなのよ」
レミリアは開きかけた口を閉じて、私の肩をさらに強く握ったが、もう私の痛みが増すことはなかった。私は静かにレミリアに言った。
「死が怖くないと言えば嘘になる。でも、もうあまり気にならない。私はもう一度自分が冥界に行かなくてはならない、そういう意志を感じているの」
雨の音が私の耳に入ってきた。そのとき私はふと思った。ひょっとしたらパチュリーは、フランドールではなくてレミリアも外に出さないつもりだったのかもしれない。何の根拠もなかったけれど、私のその考えをレミリアの顔が証明しているように、私には思えた。
私の顔に雨粒がひとつ落ちてきたような気がした。
「だめ」
レミリアが目を閉じて言った。
「だめ」
子どものような悲痛な声が廊下に響いた。私の肩をつかんでいた力が少しずつ抜け、その手が小さく震えた。
「行かないで」
哀れだとか可哀相だとかそういう意識はなかったのかもしれない。あるいは最初から何も考えていなかったのかもしれない。気がつけば低い地響きの中で、私は仰向けになったままレミリアを両腕で抱きしめ、その背中を手のひらで包み込んでいた。レミリアと私の身体が重なり合う。衝動的に言葉が出る。
「心配してくれてありがとう。でも、私は行かなくてはならないの」
レミリアの身体は細く小さく軽く、私はそこでこの紅魔館の主をあらためて認識し直した。いくら威厳があるように見せかけても、いくら力があっても、彼女はまだ子どもなのだと。物理的に強靭な身体は、すぐに壊れてしまうものなのだと。だから私はよけいに彼女を強く抱きしめたくなった。言葉なんていらないのかもしれない。
レミリアの身体の震えが大きくなった。鼻を啜る音とぐずるような声が私の耳に響いてきた。彼女が泣いているのだと私は気がついた。そしてそれは大声で泣いてしまいたい衝動を耐えているような泣き方だった。
「ぐす……ふぇ……」
レミリアの口から我慢しきれない声が漏れてくる。もう一度私たちの真下から、今までになく激しい震動が床と壁を走って伝わってきた。それは床が崩れ落ちてしまいそうなほど強いものだった。私はレミリアを抱いたまま身体を起こし、彼女の頭の上に自分の頭を置いた。
ふと目を上げるとそこには咲夜が来ていて、口を開けて目を見開いたまま私たちを見つめていた。それは私が今までに見たことがなかった表情だった。おそらく咲夜自身もこういう光景を見たことがなかったのだろう。自分の主が人に抱きついてぐずるように泣いているなんて、彼女には想像することもできなかったのだろう。
私は彼女を見て首を縦に振り、そして言った。
「レミリアを任せていいかしら?」
しばらく咲夜は私とレミリアを見ていた。もしかしたらその間に咲夜は時を止めて私が思っていたよりも長い時間思考に浸っていたのかもしれない。私がもう一度咲夜に向かって首を振ると、咲夜も首を縦に振って言った。
「あなたは地下に、早く」
私がレミリアの身体から腕を離すと同時に、咲夜がレミリアに両腕をまわした。軽いレミリアの身体は私の両腕の中から消えていった。私は少しのあいだ自分の両腕を見ていたが、やがて立ち上がり、上海を振り返った。上海はもう階段の入口にいた。
私は咲夜とレミリアを見る。レミリアの小さな羽根が震えていて、咲夜がそれを愛しそうに撫でている。私は息をついて階段に向かって歩きはじめた。
「待って」
背後から声が聞こえて私は振り返る。咲夜の腕の中でレミリアが目を真っ赤にして私を見ていた。
「あなたはもう一度、死ぬ」
涙声でレミリアは私に言った。その宣告を私は真正面から受け止めることができた。レミリアは手の甲で涙を拭い、そして涙の跡が残る顔で静かに言った。
「でもフランを止めることができるのは、今ここで、あなたしかいない。死ぬことがわかっていても、今のあなたにしかできない。だから――」
レミリアはそこで一度言葉を切り、そしてまた目から涙を零した。
「だからフランを、フランを助けて……お願い……」
もう一度彼女を抱きしめることができたら、私はそうしたはずだ。でもそうする時間は残されていなかった。それは下からの地響きがはっきりと示していた。だから私はレミリアをしっかりと見据えて、そして言った。
「私は戻ってくるわ、必ず」
#13
暗くて長い冥界への階段を私は下っていった。私を待ちわびる地響きは続いており、そしてその感覚は少しずつ短くなっていた。私は壁を蹴って加速していった。上海も私に遅れずについてくる。私たちが通った後の壁の光は吹き消されそうなほどに揺れた。
少しして重く硬い鋼鉄の扉が前に見えて、すぐ目の前に押し寄せてくる。私はそれを足で蹴るようにしてぶつかっていった。自分への身体の衝撃がどっと押し寄せて、足の骨がみしみしと軋んだような音を立てた。それでも私は後ろへ引かずに扉に向かって飛ぼうとする。鉄の扉がゆっくりと開いていった。それから私はわずかに開いた隙間から身を滑らせて部屋に入り、床に降り立った。
何も物が無いはずの部屋は、それでも酷い姿に変わり果てていた。壁や天井や床のいたるところにひびが入っており、天井から床まで走っている亀裂がある。壁がえぐれていて床のタイルはいくつも剥がれている。明かりのいくつかは完全に粉々に砕かれて、部屋はこの前よりもさらに暗くなっている。
床には腕以外が壊れている、あの赤い服を着ていた人形が転がっていた。
そして壁に寄りかかってフランドールはいた。両腕を壁に当てて顎を上に向け、荒い吐息を天井に向かって吐いていた。全身傷だらけで、酷い青あざもいくつかあった。顔のまだ新しい傷からは血が垂れ落ちて、それが彼女の紅い服をより赤く染めていった。
パチュリーの言ったとおり、彼女は死んでいく者の空気を纏ってそこに佇んでいた。彼女の生気は誰かに奪い取られ、もう肉体として存在することですら精一杯のようだった。それでも彼女はこの無機質な部屋で暴れつづけて、紅魔館のすべてを揺らす。吸血鬼としての身体能力を失っても、その奥に眠る本能はまだ強く彼女を突き動かしていた。
私はフランドールの姿に思わず目を覆いたくなった。小さな子どもがこんな姿でいることがここまで残酷なことだとは思ってもいなかった。けれど私は視界を隠そうとする手を無理やり押さえつけた。
私が彼女を見なければ、誰が彼女を救うことができる?
「フランドール」
私は半開きになったままの鋼鉄の扉を背にして彼女の名前を呼んだ。それはどのような波動となって彼女の耳に伝わっただろう。油が切れたような機械のように彼女は私に顔だけを向けた。
その顔もひどく痛々しかった。目の下には黒い隈がくっきりと浮かび上がり、頬には大きな切り傷ができていた。唇の色も明るい赤ではなく、青みがかった紫色になっていた。けれど隈に縁どられたような彼女の瞳だけは光を失わず、猛獣の光をたたえて私を見据えていた。その冷たい視線に私は思わずひるみそうになった。
「お姉さまじゃないのね」
フランドールは低く冷たい声でそう言い、口の中に溜まっていた血を床に吐き捨てた。レミリアが来ることを期待しつつも、はじめから裏切られることがわかっているような、そんな言い方だった。私は右手で左腕を強く握り、逃げずに彼女を見ていた。フランドールは壁から自分の身体を離し、大きく息をついた。
「なんとなくわかってたけど、お姉さまじゃない」
フランドールは目をあちこちに走らせ、壁の奥に何かを求めた。けれど彼女の求めるものはその視線の先には存在しなかった。彼女は口を歪めて言った。
「来ない、来ない、お姉さまは、来ない、来ない……」
呪うようにして呟きつづけ、フランドールは重心を後ろから前に移動させた。糸で操られるようにして彼女の身体が前に進んでいく。腕を重力にまかせて下に垂らし、つま先で歩いているようだった。少しずつ私に近づいてくる。
「どうして、どうして、どうして邪魔するの? どうして、邪魔するの? 邪魔なのよ、邪魔、邪魔……」
彼女が一歩足を進めるごとに、壊れたタイルから乾いた音が部屋に響いた。からり、からり。また少しずつ部屋が壊れていくような響きだった。
「あなたも私の邪魔をするの? ねえ、どうして? あなたは邪魔をするの?」
そしてフランドールの口調は少しずつ棘を帯びてくる。
「邪魔されたくない。私はただお姉さまといたい。お姉さまに会いたい。それだけなのに、どうしてみんな邪魔をするの? 私はお姉さまに会うことはできないの?」
「それは」
私は口を開き、フランドールに静かに告げた。フランドールの歩みは止まらない。
「レミリアはあなたの姉だからよ」
フランドールの歩みがわずかに遅くなった。あと8メートル。怪しく光る目が私をとらえて離さない。
「そうよ、お姉さまは私のお姉さまよ」
あと5メートル。私は両腕をおろした。
「レミリアはこの館の主人でもある。けれど、まだ小さな子どもでもあるのよ」
あと3メートルのところでフランドールは止まり、うつむいた。彼女の荒い呼吸が私の耳にまではっきりと聞こえるほどの距離。そして彼女が私に飛び込んでくれば避けることはできないほどの距離。それでも私は後ろにさがらず、フランドールに問いかけた。
「それが何を意味しているのか、あなたにはわかる?」
フランドールはうつむいたまま何も答えなかった。垂れ下がっていただけの手をぎゅっと握りしめ、何かに耐えているようだった。もう私の問いに対する答えは持っているのだろうと私は思った。だから私は私の言葉でそれを明らかにしなければならなかった。
「レミリアはあなたの母親、いえ、『ママ』にはなりえない。絶対に」
私の宣告は部屋のどこにいてもはっきりと響いたように思えた。フランドールはしばらくうつむいたまま黙っていた。壁の亀裂が少し広がったようにも見えたし、天井から破片がからからと落ちてきた。
長い時間がたち、フランドールはぽつりと呟いた。
「うそよ」
「嘘じゃないわ」
私は首をゆっくりと横に振りながら言い返した。
「それならどうしてあなたのお姉さまはここに来ないのかしら?」
「それは――」
そのあとの言葉がすぼみ、それからうつむいたままフランドールは言う。
「きっと、忙しいのよ。だってお姉さまはこの館の主ですもの。当たり前じゃない」
私の胸が痛みに疼いた。フランドールが本気でそれを信じていないことは、彼女の口振りからすぐにわかった。彼女はそう信じたいだけだ。そうしなければこの部屋と一緒に崩れ去るしかないから。けれど私は真実を彼女に叩きつける。
「いいえ、レミリアは忙しいからあなたに会えなかったわけじゃない。彼女はずっとこの地下室への階段の入口にいたわ。おそらく、九日前からずっと」
「嘘よ」
フランドールは悲痛に満ちた顔を上げ、今度は彼女から私に尋ねた。
「どうして、それならどうしてお姉さまは私のところへ来ないのよ」
彼女は胸の前で両手を組んですがるように見つめる。けれど私は彼女を突き落とすように言うしかない。彼女はすがる相手を間違えている。
「それはレミリアがあなたのママではないからよ。彼女はあなたの姉に過ぎないわ。あなたとどう接すればいいのか、彼女にはわからないからよ」
私が言い終わらないうちにフランドールは組んでいた両手を解き、そして悲痛の叫びを上げた。
「嘘よ!」
彼女はその細い脚で床を蹴り、私に向かって真っ直ぐ身体を飛び込ませた。3メートルの間隔はやはり私に避ける時間を与えてはくれなかった。フランドールの身体を真正面から受け、私は肋骨が悲鳴を上げるのを感じながら吹き飛ばされて、気づいたときには床に転がっていた。
けれど私はそうなってもかまわなかった。フランドールが私に攻撃を加えるなら、最初の一撃だけは甘んじて受け容れようと思っていた。痛みに呻きながら、私はその痛みが自分の身体に染み込み、血肉となっていくのを感じていた。上海が私の上に来て、心配そうに覗き込んだ。
私は両手を床について身体を起こした。フランドールが少し離れたところから私をにらみつけている。九日前に見たような狂気の瞳、紅の血。感情を剥き出しにして私に突き刺そうとしている。
「あなたが邪魔なの。あなたがいなくなれば私はお姉さまに会うことができるはずよ。私はずっとお姉さまと一緒にいたいの」
そしてフランドールが再び私に突進してきた。
「壊れて、壊れてよ!」
今度の攻撃はぎりぎりのところでかわし、フランドールの爪が私の頬をかすめた。彼女は突進で体のバランスを崩したのか、壁に肩から当たった。衝突の震動でまたこの部屋に大きな軋みが生じる。フランドールは床に倒れて痛みに耐えているが、けれどまたすぐに起き上がって私を殺そうとするだろう。
「上海」
私はずっと私を見ていた上海人形の名を呼ぶ。上海が私のそばに来た。
「やれるわよね?」
上海はフランドールを見て、それからまた私に視線を戻し、力強くうなずいた。私は宙に浮き上がり、上海に指示を出した。
「彼女を倒そうと思わなくていいわ。ただ、一瞬の間でいい、隙をつくってちょうだい。私とあなたならなんとかできるはずよ。そして隙ができたら……あとは私次第だから」
上海が背中に装備してあった槍を手に持つ。その姿はこれまでになく頼もしく、そして私の人形とは思えないほど意志に満ちていた。
フランドールが私に対して猛スピードで突進し、私はそれを紙一重でかわす。背中を見せたフランドールに向けて上海が氷の魔法を撃ったが、彼女の振り向きざまにそれを両手で吹き消した。そして彼女は壁を蹴り、また私に爪を突き刺そうとしてくる。
私は両腕で自分の上半身を守ろうとしたが、フランドールは下から私の横腹に爪を突き立てた。その痛みに私は呻き声を漏らした。フランドールの背中に上海が槍を突き立てた。フランドールは驚いたように後ろを振り向き、そして私から爪を抜き、急上昇した。
私は横腹を抑え、彼女に向けて魔法を撃った。けれどそれは軽くかわされ、私に向かって急降下してくる。その急降下を上海が槍で狙い撃ちにしようと突進した。それもフランドールの左手の一薙ぎによって遮られ、上海は数メートル飛ばされたが、すぐに体勢を立て直した。
弱っているとはいえ、フランドールが持つ吸血鬼の身体能力はまだその影を残していた。その反射神経、脚力は傷ついても衰えを見せはしなかった。やはり私がフランドールから攻撃を受ける方が多かった。
けれど私もこの前のような違和感を抱くことはなかった。部屋の中をすべて見まわし、正確な位置取りや攻撃方法などを計算する。上海に指示を出し、ときには彼女の行動に任せてフランドールの隙を突こうとする。私がこれほど自分の能力を使うことはなかった。自分の力のすべてを出し切り、そしてその自分がいるという自覚をしたのはこのときが初めてかもしれない。上海も私の指示にうまく従い、ときには指示以上のことをやってくれた。フランドールに何度か槍で傷をつけることに成功した。私の危機をも何度か救ってくれた。
それでもフランドールに隙は生まれなかった。私は扉を背にして彼女が外に飛び出さないようにしなければならなかった。隙をつくることとそれの並行は想像以上の負担だった。私も上海も少しずつフランドールからの傷をためていった。自分たちの動きが時間とともに鈍くなっていくのもわかった。
けれど諦められない。私が諦めてしまったら、この地下室は永遠に崩れず、そのままフランドールが朽ちてしまうから。
#14
「吸血鬼の家族があるところに住んでいた」
パチュリーはそう物語を切り出した。「ですます」調でもなく、抑揚もなく、子どもに読み聞かせするような口調ではなかった。けれど図書館でうずくまったままの私は、黙ってそれを聞いていた。
「そこには小さな子どもの吸血鬼が一人、それからその両親がいて、子どもの吸血鬼は親からとてもかわいがられていた。子どもの吸血鬼は親の愛情をいっぱいに受けて、五歳になった。彼女は言葉を覚え、そして自分で歩くことができるようになっていた。自分が自分であり、親が親であることを理解しはじめた。けれど五歳になった彼女にある大きな事件が起きた。
その吸血鬼に新しい存在が誕生した。それは彼女の妹と呼ばれる赤ん坊だった。自分の髪の色と違い、その子の髪は金色で羽根も七色の宝石を持っていた。彼女と赤ん坊はほとんど姿が違い、少しでも似ているといったら二人の紅の瞳だった。彼女の両親はその子を慈しみ、彼女をかわいらしいといい、その子を常に抱いていた。純粋な光をたたえるその瞳がとくにかわいいと彼女の親は言った。
けれどそれは姉となってしまった吸血鬼に強烈な嫉妬を生み出した。彼女の親は自分よりも妹の方に愛情を注ぐようになっていった。それは普通の親として当たり前のことだけれど、やはりどの姉も妹に対しては嫉妬する。姉は妹をある意味憎み、そして自分の妹というものは親の愛情を奪うものだと考えるようになっていった。だから彼女は母親が自分を見てくれるように、わざとわがままになっていった。たとえ叱られるだけだとわかっていても、母親が自分を見てくれればそれだけでよかった。それだけなら、時間がたつとともにそういった感情はなくなり、姉も妹も現実の世界の中で生きていくことができるようになるはずだった。
けれどあるとき、ふとしたことから妹の吸血鬼には大変な能力が備わっていることが判明した。それはすべてのものを破壊する能力で、そしてまだ自意識というものに目覚めていない子どもには恐ろしい凶器となった。扱い方によってはその吸血鬼の家族だけでなく、世界さえ滅ぼしかねないほどの破壊の能力だった。そしてそうした子どもを愛さない母親がどこの世界にも数人いるのもしかたのないことだった。
彼女の母親はその子を気味悪がり、まだ赤ん坊であった妹の吸血鬼をどこか人に見つからない場所に捨ててしまった。そしてもともと新しい子どもなんて生まれなかったかのように暮らしはじめた。吸血鬼の父親もそうした母親の態度を黙認してして、ふつうに暮らそうと努めた。妹が捨てられてからは吸血鬼の親は彼女に愛情を再び注ぐようになり、一見すれば円満な家庭が戻ってきた。そして彼女の両親もそれでよかったと心の底から思っていた。
ふつうに暮らせなくなったのは姉の吸血鬼だった。まだ自意識が芽生えてそう時間もたっていない彼女にとって、憎むべき存在だった妹がいなくなるということは彼女に強烈な喪失感を与えた。妹ができてから母の愛情はすべて彼女に奪い取られていたのにもかかわらず、その愛情を受けていた妹が捨てられてしまった。
吸血鬼は強烈な喪失感と不安に包まれていた。愛情を注がれていたはずの妹が捨てられ、自分が捨てられない保障なんて彼女にはないようなものだった。自分もいつか妹のように親に捨てられるのではないか、彼女はそう思っていた。それから彼女の妹がどうなったのか、憎んでいたはずなのに彼女はずっと不憫に思っていた。
だから彼女は自分の家を飛び出し、捨てられた自分の妹を探した。吸血鬼だということが幸いしたのか、捨てられてから四日ほどたっていたが、妹は無事に林の中にいた。姉は彼女のもとにひざまずき、家から持ち出した食事を彼女に与えようとした。けれど彼女はそれを拒絶し、そして言葉にならない言葉で姉に問いかけた。『ママ?』
その言葉は家を飛び出してきた姉にとってはあまりにも残酷な言葉だった。姉をママだと思ったのか、それともママがどこにいるのか尋ねたのか、姉には判断できなかったが、とにかく妹にとってはママという存在がいまだに絶対であった。たとえ捨てられたとしても妹はママを信じつづけ、その存在を求めていた。家を飛び出してきた姉はママにもなれないし、ママを信じることもできない。今さら家に戻れるとも思っていなかった。
妹の前で困惑しきっている姉の頭に、ある紅の廃墟の姿が浮かんできた。それは妹が生まれる前に親とともに旅をした途中で見たものだった。彼女は妹に嘘をついた。『お母様は、真っ赤な館で待っていなさいと言っていたわ』と。そして姉は妹の身体を抱え、彼女の記憶に残っていた館にたどり着き、そこで来るはずもない母を待ちつづけることにした。
そこであらためて家から持ち出した食事を妹は食べた。母親が来るということで安心したのか、あるいはどうしようもなく空腹になってしまったのか、姉にはわからなかった。幸いに人里は館からそう離れていなかったので、姉は人間を襲って自分はその血を吸い、その肉をそのまま妹に持っていった。そうして二人はかろうじて食いつないでいくことができた。
姉は妹に昼夜の回数を教えさせないため、彼女を館の地下室に閉じ込めることにした。あまり長い時間が経ったということがわかってしまえば、妹が何をしでかすか彼女にはわからなかった。妹は姉の言うことに抵抗せず、おとなしく地下室に入っていた。姉の言うことに従っていれば自分のママに会えると信じていたからだった。
二人の生活は続いた。途方もなく長い時間続いた。そして妹にとっての姉はママとなった。さらに長い時間が経ち、妹はある程度の現実を知ることになった。それは喘息持ちの魔法使いだったり、銀髪のメイドだったり、紅白の巫女だったり、黒白の魔法使いだった。彼女たちは妹の吸血鬼にそれなりの世界を見せたし、妹もそれを少しずつ受け入れていった。だから物理的には姉は自分の生みの親ではないことも、自分がどうして地下室にいるのかということも理解していった。姉の方も妹がそういう現実を理解しつつあることは自覚していた。
けれど二人の中で失われたものは決して還ってきていない。それは二人の柱となるべきものだったのに、姉が五歳のときに、妹が生まれてすぐのときになくなって、そのまま失われつづけて年月が過ぎている。彼女たちの中のねじ巻き時計は沈黙をまもっている。彼女たちは誰かが自分たちの中のねじを巻き、柱となる存在を求めつづけているのかも知れない。そしてそれはおそらく――」
「本当のママ」
私がパチュリーの最後の言葉を引き継いだ。パチュリーは首を縦にゆっくりと振り、そしてカップを手に取った。けれどそこに紅茶はなく、パチュリーはそれに気づいてそのままカップをソーサーに戻して言った。
「これが私の知っている物語よ。感想は受け付けてないわ」
私はうずくまったままパチュリーを横目で見た。彼女は笑みも哀しみも見せず、ただ椅子に座って本を膝下に置いて私を見ているだけだった。本の匂いが不意に私の鼻をついた。私はパチュリーに尋ねた。
「それは本当の話なの?」
「さあ」
パチュリーは淡々とした口調で答えた。
「ある程度は私の脳の中に生まれた真実らしい作り話かもしれないし、どこかには真実が紛れ込んでいるかもしれないわ。推測から生まれた推測もあるかもしれない」
そしてパチュリーは「けれど」と言って小さく咳をした。
「ひとつだけ確かなことがあるわ。それはレミィもフランも私を自分の母親に会わせたことがなかったし、そして私に自分の母親の話をしたこともない、ということよ。だいぶ昔に彼女たちに出会ったのに、ただの一度も聞いたことがない」
地響きが図書館に伝わってきて、また本が数冊床に落ちる音が響いた。けれどパチュリーは私から視線をそらさずに言った。
「それはつまり、彼女たちには私に話せない理由があるということだと私は考えているわ。それは母への絶望であると同時に希望なのだと、私は思う」
私は顔を上げてパチュリーの顔を見た。彼女はあくまでいつものように力のない顔で私を見ていた。けれどよく見ると、それがいつもの表情を維持しようと努力して作られているものだと気がついた。彼女が何も感じていないなんて、そんなことはなかったのかもしれない。
私は九日前の人形劇をゆっくりと振り返ってみる。それは魔理沙に言ったとおり「いじわるな母のもとから娘が飛び出す」話だった。けれど見方によってはその劇が「母が娘を捨てる」という話にもなりえるのではないだろうか? それはかなり極端ではあるけれど、そうして見ようと思えば――そして母に捨てられた子どもがそれを見たとしたら――そう解釈できるものだったのだ。
「私が悪かったのね」
私の心の呟きは声となって私の口から滑り出た。そして声になった瞬間にその自覚はかたちをなして確かな重さを私の胸に感じさせた。パチュリーがため息をついて言った。
「さっきも言ったけれど誰が悪いというわけでもないわ。あなたはフランのことを知らなかったから」
パチュリーはそこで話疲れたように椅子の背に寄りかかり、体の力を抜いた。そして何度か苦しそうに咳をした。私はパチュリーをしばらく見つめてよく考えた。長い時間が経ち、私はかろうじて彼女に聞こえるほどの声でパチュリーに尋ねた。
「どうして私にそんな話をしたの?」
パチュリーは少し苦しそうに呼吸をしながら、それでも静かに私に答えた。
「ただの老婆心よ。けれどあえて言うとしたら――」
そしてパチュリーは穏やかに微笑んで私を見つめた。
「あなたとフランがどこかで似ているように見えた。それでは答えにならないかしら?」
私は首を横に振った。それで十分だった。パチュリーの言うとおりだった。
私とフランドールはどこかで似ている。どこかという話ではなく、決定的に同じだった。私もフランドールも自分の母のことで苦しんでいた。母を捨てた私、母に捨てられたフランドール。それは正反対のようで、実はどこまでも一緒なのだ。いつまでも私たちは子どもだった。
そこで私は気づいた。私がしなければならないことはフランドールに対する贖罪でもなく、責任を取ることでもなかった。自分と世界を隔てている壁を壊すことだ。逃げることもなく反抗することもなく、私は壁を壊すことができると強く思った。
私はサメと決別しなければならないと思った。夢のなかで見たサメは間違いなく私が生み出したものだった。また地響きがして図書館の本棚から数冊本が落ちる音がした。ソーサーに載ったカップが再び倒れた。私はこの地響きも抑えなければならない。
私は顔を上げてパチュリーを見た。彼女はずっと同じような顔で私を見ていた。そのどこか達観したようなその顔が私に確信を与えた。私は立ち上がり、そして彼女に背を向けて図書館の扉に向かって走りはじめた。
私の母の顔が頭をよぎった。
ねえ、お母さん。私は胸の中で自分の母に呼びかけた。
お母さんなら、こういうときどうする? 私と同じように考えるかしら。母親に捨てられた子を見捨てることなんてできないわよね、絶対に。
だって、自分を見捨てた娘でさえも、心の底から愛してくれているんですもの。
#15
七色の光が交錯する戦いになっていた。彼女の羽根の色と私の繰り出す魔法が作り出す幻想的で眩しい世界。これから何が起こるのか、そして私たちが何をしたいのか、もう何もわからなくなっていった。私たちはただ、その世界の中で戦いつづけるだけだった。理屈も理論も感情もない。そこにあるのは激しく燃える炎だった。
私も上海も限界が近づいてきた。私の体力が切れはじめ、朦朧とする意識の中で上海を操っていた。気づけばフランドールの攻撃を受けて地面に落ちていた。上海もフランドールの攻撃を受けつづけ、身体機能が落ちていった。
それなのにフランドールには限界がないように見えた。いつになっても彼女の身体のきれは衰えず、ものすごいパワーで私をひねりつぶそうとしている。彼女に隙が生まれることなんて到底ありえないことのようにさえ感じられた。けれど私と上海は諦められない。彼女の攻撃を避けつづけ、たとえ倒れたとしてもすぐに立ち上がって彼女の前に立ちはだかった。
「どうして壊れないの?」
フランドールは肩で息をしながら私をにらみつけ、悲痛な声で言った。地下室にまた新しい亀裂が生まれ、そこから地下室の破滅の音が近づいてきた。フランドールは肩に降りかかる塵を受けながら呟く。
「どうして邪魔なのに壊れてくれないの? 私はなんでも壊せるはずなのに、どうしてあなたを壊すことはできないの? どうして、ねえ、どうして――」
七色の羽根が彼女の背中で小刻みに揺れている。それは彼女にも限界が訪れていることを如実にあらわしていた。もうお互いに気力だけで戦っているようなものだった。
私は暗く染まりはじめた視界を無理やり開き、自分の腕を見る。そこには傷ひとつない。前にフランドールと戦ったときも私の腕だけはまったく傷ついていなかった。意図的なものなのか、無意識にそうしているのか、私にはわからない。けれどとにかく、フランドールは私の腕に攻撃していなかったのだ。
私は苦しそうに息をする肺を鎮めようと深呼吸し、空に舞う塵を吸い込んで大きく咳をした。呼吸をすることさえ限界だった。けれど私は口を開いてフランドールに言った。
「どうしても壊れないの」
フランドールがびくりと肩を震わせて、私をにらんでいた目は一気に不安に染められた。私は自分の胸に手をあてて続けた。
「いえ、壊れないのとは違うわ。壊せないのよ。あなたは私を決して壊すことはできない。それはあなたにもわかっているでしょう?」
私はフランドールに歩み寄った。フランドールはもつれる足で後ずさりし、そして自分の腕で自分の身体を抱いてうつむいた。
「いや……いや、やめて、怖いの、やめて……」
彼女の声は少しずつ小さくなっていった。私はさらにフランドールに近づいた。
「本当は私を壊したくないのよ。だってあなたは――」
「やめて!」
フランドールが私の言葉を遮り、そして地面を蹴って私に飛びかかってきた。おそらく残っている彼女の体力すべてを使い果たして。私はそれを避けようと身体を動かそうとした。けれどもう自分の身体は自分の意識では制御できなくなっていた。筋肉が誰かに吊られているような感覚で少しも動かなかった。
もう彼女の攻撃を避けるのは無理かもしれない。私はそう思ったが、同時に願わずにはいられなかった。せめてこの攻撃さえ避けることができるなら、私は――。
そして彼女の爪が私の顔に触れる刹那、真っ白な閃光が私の目の前を右から左に走り、フランドールはその閃光に呑み込まれて流されていった。そして床にうちつけられてそのまま何度か床を転がり、うつぶせになって動かなくなった。
私は閃光が走ってきたところに視線を移した。そこには上海人形がいて両手の手のひらを前に差し出していた。彼女がさっきの閃光を出したのだと私はわかった。けれどその技をどこかで見たことがあるとも私は思った。魔理沙のマスタースパークだ。
しばらく時が止まったように上海は空中に留まっていたが、やがてすべての魔力を使い果たしたのか、地面に落ちて彼女も動かなくなった。
「上海」
私は荒い息混じりの声で彼女に呼びかけたが、反応はなかった。私は動かない上海に向かって首を縦に振った。ありがとう、上海。あとで直してあげるから。そういう思いをこめて。
それから私はフランドールの方を見た。彼女は腕を動かし、両手を地面につけて身体を起こそうとした。けれどその腕は震えるだけで彼女の身体を支える力は残っていなかった。苦しそうな息声が彼女の口から漏れ、崩れかかっている部屋に転がるように響く。
私は動かない身体を無理やり動かし、重心が定まらないままにフランドールのもとに歩み寄っていった。何度かバランスを崩して床に倒れ込みそうになったが、足を地面について耐えた。
フランドールが首を私の方に向け、そして追い詰められた獣のような表情を浮かべる。傷だらけの顔で小さな悲鳴を上げた。
「いや、やめて、来ないで……」
フランドールは今にも泣き出しそうに見えた。私は黙ってフランドールに近づいていく。もう彼女に語りかける言葉でさえ口から出すことができなかった。フランドールが上半身だけを起こしたまま首を小さく横に振る。
「嫌よ、嫌いよ、あなたが嫌いなの、来ないで……」
私は唇を固く結び、そして喉が震えるのを抑えてフランドールの隣にひざまずいた。そして彼女の前に両手を差し出した。フランドールはそれを見て、それから私に視線を戻した。紅の瞳が揺れている。小さな体が痛みに震えている。その身体でフランドールは左手を振り上げて言った。
「壊れてよ……」
そして彼女は左手を振り下ろした。爪が私の顔の表皮を裂き、真っ赤な血が私の頬から滴り落ちた。フランドールは涙をこらえるような表情で私を見つめている。もう彼女は腕を振り上げなかった。ただ首を横に振って私を拒絶しようとしているだけだった。
ふと私の顎から血に混じった涙が落ちた。いつのまにか私の目から涙がこぼれてきた。その涙はとめどなく私の目から生まれ、泣き出しそうなフランドールの前で小さな流れを作っていった。
どうしてだろう? どうして私は彼女の前で涙をこぼしているのだろう? わからない。ただ私は悲しくて、切なかった。フランドールがたまらなく愛しくて、その傷ついた姿がたまらなく哀れで、それが私の胸を震わせる。自分の血の流れも身体の痛みもその震えの前に消え去り、私はフランドールしか目に入らない。
どうしてそんなことを感じるのだろう? 彼女が私に似ているから? 違う、と私は思った。似ているとか似ていないとか、そういうことではない。そんなものはこの震えを説明できない。この涙は理屈や感情ではないはずだ――。
私は両腕をのばしてフランドールの肩に静かに手をかけた。フランドールは唇を固く結び、それをへの字に曲げていた。紅の瞳は私を見据えて動かなかった。
次の瞬間、私はフランドールを自分の腕の中に抱きしめていた。彼女の小さくて、軽くて、傷ついた身体を私に最も近い場所に引き寄せていた。そして彼女の身体の感触を、彼女の体温を、彼女の身体の震えを、私は自分の身体で感じていた。その衝動は今までの何よりも強く私の体を突き動かした。
フランドールは私の腕の中で震えていた。どうしてこんなに小さいのだろう。私はそれを強く思った。私の腕の中で震えているのは狂気に満ちた獣ではなく、小さな子どもだった。
「ごめんね」
彼女を抱きしめる私の口から、言葉が涙のようにこぼれた。
「私はこうすることしかできない。小さなあなたを抱きしめることしか、私にはできないの……」
それ以上の言葉は紡げず、私は愛しさと切なさにまかせてフランドールを抱きしめた。どれほど強く彼女を抱きしめても足りない気がした。その欠落は私の涙としてあふれ、フランドールの体を濡らしていった。涙を止めるすべも、自分の無力さを変えるすべも、私にはなかった。彼女の頭に私の顔を埋めてただ泣いていた。
フランドールが私の腕の中で、震える声で呟いた。
「あなたが嫌いよ」
そう言って、けれどフランドールは私の体に腕をまわし、ぎゅっと子どものように私の体にしがみついた。その力はもう吸血鬼のものではなく、本当に小さな子どものものだった。
「……大っ嫌いよ」
フランドールは涙声でそう言って、声をあげて泣く。今まで泣いたことがなかった子どもが、初めて泣いた。495年の時間を超えて彼女の涙はここにつながっていたのだと私は思う。私は彼女の涙も泣き声をも受けとめて、彼女を抱きしめて涙をこぼしつづけた。
時の流れは止まり、あるいは進み、巻き戻された。視覚も聴覚も明らかではなかった。壊れかけた部屋の中で私とフランドールは抱き合っていた。いつまでも、いつまでも永い時間。世界の終わりを私たちは感じていた。そして地下室は崩落しはじめた。
――なんとなく今になって私は思う。私はいつか母になるのではないかと。
#16
気がつくと見覚えのある白い天井が私の視界いっぱいに広がっていた。私はゆっくりと体を起こし、痛みに顔をしかめながらまわりを見渡した。私の隣で魔理沙が椅子に座っていて、私は自分の暖かいベッドの中にいて、そしてそこは私の家だった。痛みが何度も私の体の中を駆け巡った。
「夢だったの?」
私がそう魔理沙に尋ねると魔理沙は静かに答えた。
「いいや、夢じゃないさ」
魔理沙は身を乗り出して私をじっと見つめて言った。
「おまえとフランが地下室で抱き合っていたのは、間違いなく現実だったよ」
そして魔理沙は爽やかな笑みを私に見せて「怪我人は寝てなよ」と言った。
私は自分の体を見下ろした。再び包帯に全身が巻かれていて、やはり腕の部分は怪我ひとつなかった。身体がひどく痛んだ。
ふと私は思い出して言った。
「上海」
私はもう一度自分の周囲を見渡して上海人形の姿を探した。上海は魔理沙のそばにあるテーブルの上に腰を落ち着けていた。私は彼女の無事を確認して肩をなでおろした。魔理沙が私を見たまま、首を微妙に傾けて言った。
「大丈夫だ。私が魔力を注入しておいた。幸い大した怪我もなかったみたいで、すぐに動き出したよ。で、それからずっとお前のことを心配そうに見ていたぜ」
私を静かに見ている上海は、魔理沙の言葉にゆっくりと首を縦に振った。魔理沙の言うとおり、彼女は大した怪我がなさそうだった。私は自然にため息が漏れて体の力が抜け、ベッドにまた横たわった。
窓から夏の陽が差し込んでいて、部屋の中は異様に暑かった。魔理沙の横顔を汗が一筋流れ落ちていった。それを見ていた私の額にも汗がじわりと浮き出てきた。夏らしい空気をそのまま感じることができたのが久しぶりのように思えた。
「まあ、とりあえずはおまえの怪我を治すこった」
魔理沙は笑ってそう言い、椅子から立ち上がって私に尋ねた。
「これから昼食にするけど、ご飯と味噌汁でいいか?」
「和食ばっかりね」
私は呆れたように笑ってそう言った。魔理沙は頭の後ろで手を組んで私に応えた。
「私は日本人だからな、和食がいちばん合ってるんだよ」
その魔理沙の気持ちは、私には少しわかるような気がした。私は首を縦に振って魔理沙に言った。
「うん、ありがとう。いただくわ」
「よしきた、任せとけ。美味しい和食を作ってやるからな」
魔理沙はにやりと笑って腕まくりをするような動作をし、キッチンに向かって歩いていった。キッチンが爆発しなければいいけど、と私はひとりごちて窓の外に目を移した。今度こそ雲ひとつ無い空が森の木の隙間から見えた。森は深い青を背景にして濃い緑を浮かべていた。それは長い長い雨がやんだあとの、これ以上ない美しい世界の景色だった。
それから私たちは魔理沙が作った昼食を食べた。魔理沙の言ったとおり、ご飯とお味噌汁とそれからおしんこというとても簡素な食事だった。もう少しタンパク質と脂肪をとらないと、と私が言うと、魔理沙はそれじゃあ太って箒に乗れなくなるじゃないかと返した。それもそうねと私がうなずくと、それもそうだろと魔理沙もうなずいた。
魔理沙が作った食事はとても美味しい、とは言えないけれど、そこそこ美味しいものだった。正直なところ、魔理沙がそれなりに料理をできるのが私には意外だった。「魔法はパワーだぜ」と言っている魔理沙が料理をしている、その映像を思い浮かべることができなかった。私がそう言うと魔理沙はふくれつらを作って言った。
「失敬だな。私だって料理できるんだぜ。母さんから習ったからな」
私は魔理沙のふくれつらがなんだか可笑しくて、思わず吹き出してしまった。するとごはん粒が魔理沙の顔にかかり、それが面白くてさらに私の笑いは止まらなくなった。魔理沙が怒ったように私を責めたが、しまいには私の笑いにつられて魔理沙も笑っていた。
和食も悪くないと私は思った。今度から自分の食事に和食を加えてもいいかもしれない。私は頭の中で密かに検討することにした。
少しして、味噌汁を飲みながら魔理沙が私に言った。
「それにしてもパチュリーから知らせが来たときは冷や汗をかいたぜ」
私はごはんを食べる箸を止めて魔理沙に尋ねた。「どういうこと?」
「パチュリーからの手紙が突然私の家に転送されたんだよ。たぶん転送魔法を使ったんじゃないか? で、その手紙にはアリスが地下室に行く、って書いてあった。血の気が引くような、冷や汗がどっと吹き出るような気がしたぜ。この前のようなことがまた起きるんじゃないかってな」
「パチュリーが手紙?」
私はパチュリーの表情を思い浮かべた。偏屈なあの魔女が魔理沙に手紙を書いている姿を想像して少し不思議な気持ちになった。パチュリーも結局私とフランドールのことが気になっていたのだろうか。
魔理沙は空に視線を浮かべたままぼんやりと話しつづけた。
「フランが暴れつづけていたのは知ってたから、そりゃもう全力疾走で地下室に向かったよ。おまけに地下室が崩れるような音がしていたから本当に焦りに焦っちまった。でもなあ、開いてる扉から飛び込んだときは驚いたなあ。お前とフランが抱き合ったまま気を失ってるんだぜ。結局すぐあとからやってきた咲夜にフランを任せて、お前は私が運んだんだ」
魔理沙は味噌汁を飲みおえ、ご飯の器を手にとって食べはじめた。私は少しの気恥しさを覚えてうつむいた。フランドールと抱き合っている姿を魔理沙だけではなくて、咲夜にも見られていたのかと思うと、自分の顔に熱が浮かんでくるのがわかった。私はそれを押し隠すように一気に食事を進めた。
魔理沙はそんな私の姿を眺めながらさらに続けた。
「でも驚いたのと同時にさ、ふっとため息も出てしまったよ。地下室が崩れて自分の命も危ないっていうのにな。お前とフランの姿は、まるで本当の母と娘のようだった」
私の箸が止まり、私は顔をあげて魔理沙の顔を見た。魔理沙は首をゆっくりと縦に振った。それは確信に満ちた肯定の動作だった。だから私は魔理沙に尋ねることにした。
「フランドールはどうなったの?」
「地下室はなくなったけど、紅魔館のベッドの中で介抱されてるよ。パチュリーからあのあとのことも連絡が来た。今はフランドールも落ち着いてるってさ」
魔理沙はそれから私を見て尋ねた。
「フランのこと、やっぱり気にしてたのか?」
「ええ」
私が少し小さな声で答えると魔理沙は横顔を向けて言った。
「今はフランのことを心配しなくてもいいさ」
どうして、と私が尋ねる前に魔理沙が言った。
「私もフランのことは気にかけてたからな。紅霧異変のときからずっと」
魔理沙はそう言ってまた箸を進め、ご飯を口の中に入れていった。私はそんな魔理沙を見つめている。本当にすべてはこれでよかったのかどうか、まだ確信が持てなかった。何かを見落としているのではないか、そんな不安が私の胸の中にわずかに残っている。
けれどそれを吹き消したのも魔理沙だった。ご飯を口の中で噛みながら、魔理沙は呟くようにぼそっと言った。
「ありがとな」
そして魔理沙は私の目を真っ直ぐに見た。彼女の表情は、すべてがこれでよかったのだと言っているようだった。そして私は魔理沙の顔を見て笑いがこぼれた。
「ほっぺにごはん粒ついてる」
私がそう言うと、魔理沙は慌てて右手で自分の右頬を触りそこに米粒がついていることを確認した。それから頬を少し赤く染めて指についた米粒を口の中に入れた。ばつが悪そうな顔で私を見る魔理沙。そういうところがやっぱり魔理沙らしく、私は好きだった。
昼食を終え、私たちは私のベッドルームで静かな午後を過ごした。私はテーブルに置いてあった上海人形の細かな修復をし、魔理沙は私の本棚から取り出したグリモワールを眺めた。
上海人形は一部が欠けてはいたものの、すぐに治すことができた。治しているあいだ彼女はときどきくすぐったそうに身体をはねさせることがあった。それが怪我を手当してもらっている子どものような動きで、私はときどき自分の下腹部が疼いた。この短期間に上海人形はもう人形という存在から離れはじめているような気がした。そして私はそれを当たり前のことのように受け容れはじめていた。
修復が終わると上海は嬉しそうに宙を舞った。自分が元気であることを私に見てほしい、そんな動きだった。私も上海の様子を見て、自分の顔に微笑が浮かぶのを感じた。上海の舞いを眺めながら私は魔理沙に呼びかけた。
「ねえ、魔理沙」
「うん、なんだ?」
魔理沙がテーブルに頬杖をついたまま、本から顔を上げて私を見た。私は上海から魔理沙に視線を移し、その金色の瞳を見て尋ねた。
「あなたは自分のお父さんもお母さんも好き?」
それはもう答えがわかりきっている問いかけだった。魔理沙はしばらく私の顔をじっと見て、それから顔をほころばせて言った。
「ああ、好きだぜ」
魔理沙は頬杖をつくのをやめて背筋を伸ばし、グリモワールを閉じた。
「私を産んでくれたことにももちろん感謝している。それに私が私としていられるのも二人のおかげだからな。もうすぐお盆になるけど、一度は実家に返って二人に顔を見せるさ」
私はゆっくりと魔理沙にうなずいた。魔理沙はへへっ、と笑って鼻の下を人差し指でこすった。私はそんな魔理沙を見て、そして自分の部屋と家の中を見回しながら言った。
「私も一度は魔界に帰ろうかしら? せっかくのお盆なんですもの」
魔理沙は「それがいいや」と言った。
「神綺もお前が帰ってくれば喜ぶだろ。そりゃもう飛び上がって踊るほどに」
私は自分の母が飛び上がるようにして私に抱きついてくる映像を頭に思い浮かべた。絶対にそうしてくるはずよね、と思い苦笑した。そうしてきたとしたら、私はお母さんを抱きしめてあげようとも思った。そういうふうにできる自信もあった。
あ、と魔理沙が思いついたように声をあげて私を見た。
「アリスが魔界に帰るなら、私もアリスについて行こうか。魅魔さまにも会いたいし、それから神綺にも会わなくちゃいけないな。いつもアリスにお世話になっています、ってな」
私はその言葉に呆れながら魔理沙に返した。
「そうよ、本当に。いつも私がどれだけあなたを世話しているかわかっているわよね? 食事とかお菓子とかお茶とか本とか本とか本とか……」
私が魔理沙の悪行を挙げていこうとすると、魔理沙は慌てて両手を振って私を制止しようとした。
「ちょっと待ってくれ。今回のことでは私がお前を世話してやっただろうが。介護したり食事を作ったり大変だったんだぜ。だから今日はおあいこってことで、な?」
「わかってるわよ」
私はいたずらっぽく魔理沙に笑いかけて小言を止めた。けれど最後に一言付け足すのは忘れなかった。
「でも借りた本は早く返しなさいよ、いいかげんに」
「ああ、いつかな?」
とぼけたようにいう魔理沙に再び私は呆れ、大きなため息をついた。けれどそれと一緒に笑いも口から漏れてきた。魔理沙も私と一緒に笑う。上海も目を細めて私たちを見ている。そうして夏の暑い午後は過ぎていく。
#17
それが今日のこと。そして夜になって、私は今こうしてずいぶん長い手紙を書いている。上海が私の隣で私の書いた手紙を最初から読んでいる。彼女が文章を読むことができるのと私は初めて知った。
まだまだ上海は変わりつづけるのだと思う。パチュリーの答えの意味はまだわからないけれど、でもこうして過ごしていればいつか上海人形は自立する。そんな気がする。私はそれを見守ることにしようと思う。
いろいろなことが起こった。私も肉体的に傷ついたり精神的に参ったりしたし、今もまだ身体は包帯で巻かれてはいるけれど、これもあまりひどい怪我はなかったようだ。だから心配しなくても大丈夫。
前にも書いたように、私は来たる盆にそちらに帰ろうかと思っている。魔界を出てから初めて里帰りするから、私は少し緊張しているし恥ずかしくもある。里帰りするというのはこういう気分なのだろうか。けれど決して悪い気分ではなくて、むしろその緊張が心地いい。怪我が早く治ってほしい。
そういえば魔理沙は本当に私について魔界に行くつもりなのか、とうとう聞きそびれてしまった。彼女のことだからおそらくは本当なのだとは思うけれど、一緒に行くならまたそれはそれで別の心の準備をしなくてはならない。まったく私は魔理沙に振り回されているような気もするが、でも今回のことでは彼女に深く感謝している。
お母さんからの手紙が来てからのこと、私はまだそれをすべて理解できないではいるが、ひとつだけわかったことがある。それもまだ言葉にすることはうまくできないけれど、でも表現できるだけはしてみようと思う。
私が一人で魔界を出ようとしたとき、夢子や他の魔界の人たちが必死で私を引き留めようとする中、お母さんだけは私に対して何もしなかった。魔界の神だからそうしようと思えば魔界の出口を塞ぐことだってできたはずだ。でもそうしなかった。
お母さんは、私が離れて行くのを見るのはすごくつらかったはずだ。でも何といえばいいのだろう、それはお母さんが自分で選びとった道なのだと私は思う。私はそのときは何も気づいてはいなかったけれど、それはお母さんがお母さんであるために選んだのだと今は思える。
そう、だから今の私が私でいられる。魔理沙の言ったとおりかもしれない。
未来のことは誰もわからない。運命を操ることができるレミリアも、遠く先の未来を知ることはできない。時の流れは歯車のように簡単なものではなく、海に存在する無数の波よりも、もっと多くのことが絡まって進んでいる。
でもたとえば歯車を動かす炎のように、あるいは波を起こす風のように、時の流れを進める根源的な力もどこかには存在しているのだろう。それを探そうだなんて大それたことは思わない。私はただ、時が来たらその力にしたがって決断するだけだ。そのとき私は本当の母になることができるのだと思う。そして私はそうなりたいとも思う。
魔界に帰ったら、少しだけお母さんに甘えさせてほしい。私を抱きしめてほしい。そのぬくもりの中で私は静かに呼吸をしたい。私の腕の中でフランドールが感じたものは何だったのか私も知りたい。
それからお母さんに見せたいものもある。お母さんからもらった上海人形。彼女がそっちに行く頃にどうなっているのか、私も楽しみでしかたない。
最後に月並なことを書いてこの手紙を終えようと思う。続きは魔界に帰ったときに山ほど話すから。
私は元気です。昔も大好きだったけれど、今の私としてもまた言わせてください。
ありがとう、お母さん。大好き。
――アリス・マーガトロイド
この手紙の余白に書き込むことを許してほしい。スペースが無いのであまり多くのことは書けない。しかし短いながらに私がこうしてあなたに書いている目的は、アリスの成長の記録、そして私自身のアイデンティティの証明。
私は上海人形。あなたがアリスに初めて渡したという人形。私が自我を持ち、こうして文章を書けることをまだアリスは知らない。あなたがこの文字に気づいてくれれば私は「嬉しい」と思う。
パチュリー・ノーレッジが私に伝えた言葉、「魔力は精神の波動」。確かにこれに尽きる。私はこの言葉を理解できた。アリスが私に対してとった行動、言葉。彼女は意識していないかもしれないが、彼女の精神の波動はすべて私に伝わっている。そうした波動は私の中で永遠に消えない。少しずつ私という自我を形成する。
人形はルールに従うものだが、アリスは偶然にも自分のルールを自分で壊した。その波動が私に伝わり、私に新しい経験が蓄積された。一見理不尽なものが私というものを決定づけたと、私はパチュリーの推測から推測する。
私はアリスを「憎い」と思ったこともある。しかし彼女はやはり私に「魔力」という名の愛を注ぐ。ちょうどフランドールにそうしたように。だから私は彼女の糸から解き放たれ、私として生きていけるようになった。
この文章を私がうまく書けている可能性は低い。まだ意識のルールの影響が強く、意識で理解できないものが多いからだ。しかし最後にこれだけは「自信を持って」書ける。
アリスはもう私の主人ではない。母だ。
上手く言葉にできない感じの登場人物の関係が良かったです
ストーリーもいいし、文章自体も上手いと思う。
そしてコメントを付けるのも初めてだったり←
もう2,3回読み返してみたいですねー。
いや、良い話をありがとうございました。
言葉にできない関係というのが、個人的にはいいと思うんです。
> 8さま
こちらこそ満足していただいてありがとうございます。
今回は本当にストーリー重視にしました。おかげでこんな長くなって……。
> 14さま
コメントを初めてつけてくださったのがこのお話で、とても光栄です。
読み返しても読み応えがあるように書いたつもりですので、また時間があればぜひ。
> 15さま
最後はいい感じで締めていますが、フランはたぶんアリスのことが「大っ嫌い」なままだと思います。
私としてはそれでいいとも思います。
> 16さま
アリスかっこいいですよね。ちょっとかっこよくなりすぎてしまった感じがしないでもないですが。
あと、魔理沙もとってもかっこいいですよ。
> 22さま
(上)(中)はだいぶ力を入れました。実は上の前半を一回ぜんぶ書き直したりもしています。
この憂鬱感がないと話が成り立たなかったのです。
個人的にはですが、“〜た。〜た。〜だった。”という表現の多用により若干の読み辛さを覚えてしまいました。
面白かったです。
この作品にはいくつもの物語が凝縮されています。単純に(上)(中)(下)で分けられているという意味ではありません。
「アリスと上海」「紅魔館」「吸血鬼の姉妹」「親子」「魔理沙とアリス」「上海」
本当にどれか一つでも立派な作品になるタイトルを、一つの物語の中に収めてしまったのです。これはあまりに濃厚、そして贅沢に感じました。
そんな数作分の感動をこのたった一回の評価でしか表せられないのはちょいともどかしい気もしますが、とにかく面白かったです。ありがとうございました。
やっぱり語尾が重なりすぎましたか。手紙という文体は少し難しいですね。
次からは気をつけていきます。
> 33さま
フランの「狂気」の解釈が大変でしたが、説得力があるようにできてよかったです。
> ずわいがに様
ああ、ほとんど暴かれた! いや、本当にそうなんです。
これはアリスだけの話ではなく、上海も、フランも……そして話に出てくる人たちみんなが生きている話です。
彼女たちの思いをそこまで感じとってもらえたなら、私としては本当に感無量です。
ありがとうございました。
とてもよかったっです。
親子ってやっぱりいいですね。
アリス、かっこよくて、可愛いかったぞ!
では、失礼いたします。