Worlds' End With You(上)の続きです。
#6
「あるところに美しくてやさしい娘がいました。町でもその娘はとても気立てが良くて可愛らしい女の子だとして噂になっていました」
その出だしに合わせて上海が私から離れてフランドールの目の前に行き、おしとやかな動作を見せる。フランの前が舞台の中央だと思って私も続けていく。フランドールの目は上海の動きをとらえて離さなかった。
「けれども彼女の母親はとても意地の悪い人でした。娘がまわりからちやほやされているのも気に入らなかったのかもしれません。ことあるごとに娘にいじわるをしていました」
私がそう言うと今度は蓬莱人形が私の横を通りすぎて、上海のそばに行った。実はこの母親は継母だという設定があるのだが、劇でそれは一切言わない。シンデレラをイメージされたくないからだ。上海は蓬莱に気がつくと萎縮するような演技を見せる。私が継母の台詞を言う。
「母親は言いました。『今日は森の水を汲んできて、そのあとそれで家中を掃除してもらいましょう』。娘は嫌と言うことができません。この母親はこの町の長です。彼女に逆らえば、娘のいる場所はなくなってしまいます」
上海が小さくうなずいて舞台の端に行き、森の水を汲むような動作をする。けれどその動作は前にこの劇をやったときとは明らかに違った。前はもっと水を重たそうに汲みあげていたのに、今はそうではなく力任せにやっているような動きだった。そこには苛立ちさえあるように見える。
苛立ちたいのはこっちよ、と私はそれを見て思った。この前の劇のときと同じだ。上海は私の思いどおりに動いてくれない。どうしてそんな動きをするのだろう。台本を読む私の声が尖っていくのが自分でもわかった。けれど、どうしてもそれを抑えることができない。
苛立っているは私だけでもないようだった。人形の動きからフランドールに視線を向けると、彼女の目つきも少し変わっているように見えた。ときどき爪を噛むような動きもする。フランドールには何かを静かに耐えているような雰囲気があった。この劇の序盤はフラストレーションが溜まってしまうからそうなるのだろう。そう私は思った。そうとしか思わなかった。私はなにより上海の動きが気になってしかたなかったのだ。
それからも娘は母親にいじめられつづける。彼女が森から戻ってきて家中の掃除をするのだが、部屋の隅のほこりが拭き取られていないと文句を言われ、それから用意したご飯が不味いと言われ、彼女は散々にけなされる。けれど彼女はそのときは黙って耐えるしかない。
その日の夜、彼女は布団の中に入って孤独に枕を濡らす。あまりにもつらいこの状況は、いくら気がよい彼女でも耐えがたいものだった。ひとりで泣いているところに突然妖精が現れる。
「彼女は言いました。『どうしてそんなに泣いているのですか?』。娘は言いました。『私の母がとても意地悪なのです』と。哀れに思った妖精は言いました。『明日森の中に行きなさい。その中の木のひとつに金のりんごをつけているものがあるでしょう。その金のりんごを持っていればあなたは幸せになれるのです』」
妖精役のオルレアン人形はその台詞に合わせて舞台の中央から端へと移動する。上海はじっとそれを見つめている。フランドールは爪を噛みながらその様子を見ていた。かりかりと噛む音が無機質な部屋に小さく響きはじめた。
「そして次の日、彼女が森に行くと妖精が言ったとおり、本当にそこに金のりんごがあったのです。彼女は喜んでそれを家に持ち帰りました。けれど母親がそのりんごを見つけて娘に尋ねました。『お前、そのりんごはいったいなんだい?』。娘はその問いに答えることができません」
がりっ。フランドールが爪を噛む音が今度ははっきりと私の耳にも聞こえた。フランドールの目つきはここに来たときの表情からは信じられないくらいにけわしくなっている。私はそれに少し驚いて、けれど劇を中断することもなく続けた。
りんごを指差す蓬莱人形に上海は冷たい目線を送る――冷たい目線?
「娘は黙って母親を無視しました。すると母親は怒りだし、娘から無理やりりんごを奪ったのです。そして冷たく娘に言い放ちました。『これは私のものだ。愛していないお前には渡しやしないよ!』」
次の瞬間、信じられないことが二つも同時に起こった。そのどちらもが私の知るかぎり、どこの劇のどの台本にも無いようなことだった。上海が蓬莱人形に掴みかかり、私にフランドールが掴みかかった。二人とも同時に。
私は白い壁に背中から叩きつけられ、後頭部を壁に打ちつけた。鈍く重い痛みが私の頭から広がり、身体をひととき麻痺させる。視界が真っ黒に染まり、それからじわじわと光を取り戻していった。
目の前にはフランドールがいて両腕で私の肩をつかみ、壁に押しつけている。私の身体にはまだ力が入らない。抵抗することができない私は声にならない声を出し、フランドールの顔を見ることしかできなかった。彼女の肩の向こう側では、蓬莱に掴みかかった上海や他の人形が呆然としたように私たちを見ている。
フランドールは私の肩をつかんだまま、その顔を私に思いきり近づけて言った。
「あなたは私のお姉さまを馬鹿にしているの?」
私の内臓を震わせるような低い声だった。私の視界にはフランドールの顔以外映らない。彼女の紅の瞳が底の深い湖のようにして私には見えた。そこに鋭い狂気の光が満ち溢れて、大きなうねりがある。破壊の意志さえ感じられるほど、深い紅の色。
私はうまく呼吸できず、思考回路がまともに機能しないままフランドールに言う。
「お姉さま? 私はあなたのお姉さんのことを一言も口にしていない」
私の声は曲がりくねった大木のように部屋に響いた。ぎりっとフランドールが歯軋りする音が耳に入る。私はこの状況とここに至るまでの経緯を構成できない。すべての出来事がばらばらに分解されて床に打ち捨てられているようで、私はどこから手をつければいいのかわからない。
私は肘を曲げ、フランドールの細い腕に手をかけた。フランドールはそれに気づき、その細い腕で私の身体を後方へと投げ飛ばした。気づけば私はまた身体を壁に叩きつけられ、床に崩れ落ちてうつぶせになっていた。
痛みはない。けれど体中の感覚がどこか遠くにあるようで力がうまく入らない。思考回路のあちこちが焼き切れているように思考がうまくつながらない。私の荒い呼吸音とフランドールの小さな足音が乾いて響く。
私は顔を上げてフランドールを見た。フランドールは笑顔を浮かべながら私の方にゆっくりと歩み寄ってきた。
「ふうん、あなたなかなか頑丈ね。けっこう本気でやったけど、壊れないんだ」
フランドールはそう言ってふふっと小さく笑う。けれど彼女から発せられる雰囲気と目だけは決して笑っていない。小さく獰猛な獣が獲物に近づくときのように。
私は直感した――殺される。そう思った瞬間鳥肌がぞわりと立ち、私の身体に力が一気に流れこんできて、私は立ち上がることができた。彼女が私を襲うようなら、私もそれに応戦するしかない。私はフランドールと私の間で立ちつくしている人形を呼び寄せた。彼女たちの戦闘機能を起動させ、フランドールと対峙する。
フランドールは少しだけ驚いたような表情を見せた。
「その人形、戦うこともできるの」
それから彼女の表情は一気に硬くなり、こんどこそはっきりとその狂気を表に出した。
「でも、もういいや。いくら面白くても、もう壊しちゃいましょ」
私は宙に飛び上がり、防戦体勢をとった。
フランドールは何の武器も持たなかった。たまたまそのときは無いだけだったのかもしれない。彼女が私にすることは突進してその身体で私を傷つけることだった。そして近接格闘に対しては、間合いさえ取れれば私が圧倒的に有利になるはずだった。
けれど私がそのときの戦いで有利になることは一度もなかった。私はふらつく身体で彼女の攻撃を避けるか、あるいは人形の盾で防御するか。その二択しかなかった。
フランドールは呪詛のように呟きつづける。
「壊す、壊す、壊す、壊れろ、壊れろ――」
そして拳を私の身体に叩きつける。身体をひねって私は衝撃を軽減したが、それでも地面に墜落するほどの威力だった。吸血鬼の本気がこれほどまでとは思わなかった。パワーもスピードも、どこにも隙がない。間合いをとる時間すらなく私は一方的にフランドールの攻撃を受けつづける。鉄の扉まで逃げることさえ許されない。
そんな必死の状況なのに私は自分の中にある微妙な違和感を覚えていた。その違和感のせいでフランドールに反撃することができない。ただ傷つく身体を無理やり動かし、さらなる攻撃から身を逃がすことしかできない。
ここから逃げることもできないなら、私はただこうしてフランドールの攻撃を避け、助けが来るのを待つしかないのだろうか。ここはあの長い廊下を通り、長い階段を降りた先にある地下室だから、助けが来る確率なんてどこまでも低い。隙を、と私は祈る。隙さえあればあの扉から逃げることができるのに。
けれど隙ができるのは私の方だった。人形に魔力を送ることさえままならないうちに、人形の魔力が尽きていく。最初に落ちたのは倫敦人形、次にオルレアン人形。そして蓬莱人形も魔力が尽きて地面に力なく落ちていった。残ったのは上海人形だけになった。
蓬莱人形が落ちていくのを見てフランドールが言う。
「あなたが壊れるのも時間の問題ね」
私は首を振ることでしかその言葉を否定できなかった。フランドールはため息をつきながら私に当て身をする。避ける気力すらなく、私は衝撃を真正面から受けて床に叩きつけられる。悲鳴をあげることもできなかった。
私は仰向けに床に横たわり、フランドールが私のもとに急降下しているのを視界の隅において一種の絶望に身を浸していた。
どうして人形劇をしに来ただけなのに、私は戦わなくてはならないのだろう。そして今、逃げたくても逃げられない状況になり、私は死の淵から突き落とされようとしている。私はフランドールに一撃たりとも攻撃を当てることができない。
フランドールは私のそばに降り立ち、黙って私を見下ろしている。その視線に私の中の違和感はぐんと膨らんだ。殺されるということがわかっているのに私は命乞いもすることができない。
相手が強すぎて反撃できない――ひょっとしたらそれはただの言い訳に過ぎないのだろうか。私は荒い呼吸をしながら思った。違う、私は本当はフランドールを傷つけたくないのだ。たぶん、それはフランドールと私がどこかで似ているから。
そこまで考えたとき、フランドールが私の首を左手で掴み、そのまま私の身体を持ち上げた。圧倒的な暴力に私の喉が押しつぶされていくのがわかる。無呼吸が優しく私の意識を奪おうとしている。視界が霧に包まれて、上海に指示を出すことできない。
フランドールの乾いた声が聞こえた。
「心臓を突き刺そうかしら?」
残忍な表情が霧の向こうで浮かび上がり、それからガラスのような声で彼女は宣告する。
「私のお姉さまを馬鹿にするのは許さない、絶対に」
私は目を閉じて霧の視界を自ら遮断した。そのとき、私はある思いを強く感じた。
――私は殺されなくてはいけないのだ。
けれど突然、床の冷たい感覚が私の頬に伝わってきて私は目を開けた。私はうつぶせで床に転がっていて、フランドールは私の首を離して自分の脇腹を見ている。そこに小さな剣が突き刺さっていて、その剣を持っているのは上海人形だった。
フランドールは痛みに顔をゆがめ、何も言わず上海人形を拳で叩いた。上海人形はそのまま床に叩きつけられ、動かなくなった。
「上海……」
声にならない声で私は上海の名を呼んだ。上海は何の反応も示さない。フランドールは床に落ちた上海を見つめたまま冷たく言った。
「私の邪魔をしないでよ」
それからフランドールは無表情に私に目を向けた。
これ以上ない絶望的な状況だった。私は死ぬのだとはっきりとわかった。今度こそ私は殺される。どうしようもないこの狭い世界の中で、私はこの小さな子どもに殺される。そこに疑問の余地はない。あるのはその真理だけだ。
私がそう覚悟した瞬間、地獄の門が開き、そこから眩い光が入りこんできた。私の視界はその光に埋めつくされ、そこで私は気を失った。
#7
夢を見た。
とても温かくてやわらかい感触が身体を包んでいる。真っ暗で視界には何も映らなかったが、そこが水の中だということはわかった。本能的にそこは懐かしい場所だった。とても居心地の良い場所。しばらくの間、私はその水の中に体を漂わせて何も考えずにいた。うまく考えることができなかった。
しばらくすると、私は母の腕に抱かれていた。やわらかい水はやわらかい腕に変わり、私の体は母の体に包まれていた。私は母の膝に座っていて、母の胸に自分の頭を預けていた。真っ暗だった世界は薄明るい小さな部屋に変わっていた。
私が真上に視線を向けると、そこで母が微笑んで私を見ているのだ。「ママ」と私が呼ぶと、母はきつく私を抱きしめた。私もその腕をぎゅっと握った。そこも居心地の良い場所だったが、いつまでもそこにいようとは思えなくなった。
ふと私の前に人形が転がっているのに気がついた。可愛らしい女の子の姿を模した小さな人形だ。それに気づいたとき、私の下腹部が鈍く疼いた。私はあれを欲しいと思った、どうしても。
私は母の腕から手を離し、その人形に向けて腕を伸ばした。けれど拳ひとつ分、人形には届かなかった。ぐっと体を伸ばしてもわずか数ミリのところで届かない。母はそんな私をもっと強く、少し痛いほど抱きしめた。人形を私に取らせたくないかのように。
私は体を必死に捻って母の腕から抜けようとしたが、母の力はとても強く、私の力では抜けることができなかった。私は悲しくなった。どうしてママは私に人形を取らせないのだろうと思った。
「ママ」と私は目に涙がにじむのを感じながら言った。
「あれが欲しいの。どうしてもあれが欲しいの」
すると、私を抱きしめる母の力が少し弱くなったのを感じた。母は言う。
「そんなにあのお人形さんが欲しいの?」
私は黙ってうなずいた。目から涙がこぼれそうになる。少しの間があり、それから母は私を抱きしめるのをやめ、そのかわり私を抱えて人形のそばに置いた。私は振り向いて母を見た。母は少し悲しそうな顔で私に尋ねた。
「そのお人形さんを大事にできる?」
私は再びうなずいて母に背を向け、その人形を手に取った。不思議な喜びが体に満ち、私は人形を両手で高くかかげた。そして私は人形を抱きしめてそれに名前をつけようと思った。どんな名前がいいだろう、こんな可愛らしい人形なのだから可愛い名前がいい。
しばらく人形を見つめながら私は考えた。微笑以外の表情を浮かべない人形は私を黙って見ている。もちろん私に話しかけることもない。そのうちに私は自分の納得のいく人形の名前を考えついて、その人形に名前をつけた。
それから私は母がいた場所に振り向いた。けれどすでに母は母の姿をしていなかった。そこにいたのはとても大きなサメだった。私が悲鳴をあげる間もなく、サメは人形ごと私を一口で呑み込んだ。
そしてまた私は温かく真っ暗な水の中でひとりになった。そこには恐怖もなかったし、息苦しさもなかった。最初のときのようにただ心地良いはずの場所だった。けれど私は前と同じようには感じなかった。私は考えることができた。私がずっとそこにいることはできないのだ。
私は大声で叫んだ。
「ここから出して――!」
叫んだ瞬間、夢から覚めた。真っ白い平板なものが目に入り、それを天井だと認識するまでには時間がかかった。天井が天井だとわかり、けれどそれからまた少しのあいだ私は現実を把握しそこねた。世界には天井しか存在しないような気がした。
しばらくして私の体の神経が目を覚まし、私は体を起こすことができた。同時に私の体を鈍い痛みが走りぬけ、それとともに記憶がフラッシュバックした。狂気の紅、死の淵、地獄の門、眩い光。
小さなうめきが漏れ、私は目を閉じて顔に手をあてた。そしてしばらく体中に走る痛みに静かに耐えた。痛みに耐えるだけで体力を消耗し、息が自然に荒くなるのがわかる。どうして、と私は唐突に思い、そして何が「どうして」なのだろうと思った。
「よう」
不意に私の横から声が飛んできた。目を開けて声のした方に顔を向けると、魔理沙が椅子に座って私の本を読んでいた。そこで初めて私は世界を把握した。私がいるのは自分の家のベッドルームで、私は今ベッドで横になっていて、魔理沙がベッドの隣に置いてあるテーブルの隣で椅子に座っている。部屋が明るいからおそらく今は昼あたりなのだろう。
「どうしてあなたが――」
私の質問は体の痛みによって途切れ、痛みから逃げるように思わず腕で自分の体を抱いた。魔理沙はそんな私の様子を見て軽く笑い、そして言った。
「まあ無理するなよ。全治一週間ちょいの怪我だぜ」
私は自分の体を見た。両腕以外は包帯だらけだった。
魔理沙は本を閉じて立ち上がり、私に言った。
「お粥を作ってやろうか。お前も食事はいまだにするんだろ?」
ふだんなら、いや、たとえ病気や怪我でも私はその提案をきっぱりと断ったはずだ。身体が痛もうが頭が重かろうが、私は無理してでも料理を作るだろうし、どうしてもそれが無理なら食べないという選択も、魔法使いの私にはある。
けれどそのとき、魔理沙の提案を私はすぐに断ることができず、少し考えてから小さく笑みを浮かべて魔理沙に言った。
「断るのも悪いし、お願いしてもいいかしら?」
その声は自分でも驚くほどしんなりとしていた。魔理沙がにやりと笑って、「よし来た」と腕まくりをしてキッチンに向かっていった。私はその背中を見送りながら自分の瞳が少し潤んでいるのに気がついた。
ベッドのそばのテーブルの上にはさっきまで魔理沙が読んでいた本と上海人形が無造作に置かれていた。他の人形はそこには見当たらなかった。きっとリビングに置いてあるのだろうと私は思った。私は本と上海を注意して眺めた。
魔理沙が読んでいたのはグリモワールだった。それにそれは私が魔界から出るときに持ち出したものだ。私の胸で痛覚でない痛みが発光し、私は目を伏せて上海の方に視線を移した。
一見しただけではどこも壊れていないように思えて、私は少し魔力を送り、上海を動かそうとした。けれど上海はわずかにでも動く気配がなかった。どこかの幹部がやられてしまって機能停止しているようだった。そうなった場合は私が直さなくてはいけない。
けれど私は上海にまで手を伸ばし、それから様々な道具を取り出して、神経を使いながら修復作業をする気にはまったくならなかった。そうするにはまだ身体が傷つきすぎているとも思ったし、たとえ健康だったとしても修復する気にはならなかっただろう。
私はまたベッドで横になり、掛け布団を頭からかぶって短い眠りに落ちた。
しばらくして、魔理沙が木製の器とスプーンを持ってきて私の隣に座り、私に呼びかけた。短くも深い眠りから引き上げられた私は、体を起こして魔理沙の姿を見た。意識のスイッチが入るまでのコンマ一秒、私は魔理沙の中に強い幻影を見た。けれどすぐにその幻影は消えて、私は現実に戻った。
少し乱れた髪を手櫛で流しながら私は言った。
「ありがとう、魔理沙」
魔理沙はふふっ、と珍しい笑いかたで私の手櫛の動作を眺めた。それから魔理沙は身を乗り出して私に顔を近づけて尋ねた。
「怪我がつらいんだったら私が食べさせてやろうか?」
少し悪戯っぽい、軽い表情の魔理沙。おそらく本人は冗談のつもりで言ったのだろう。でも私はその魔理沙の顔をしばらくのあいだ真正面から見つめた。そして手を布団の上に静かに置いて、目を伏せがちに魔理沙に言った。
「そうね……お願いしてもいい?」
「へっ」
間の抜けた声を出して、魔理沙は口を中途半端に開いたまま私を見た。しばらく空白の時間があって、それから魔理沙は戸惑いがちに言った。
「あのさ、え、ほんとうなのか?」
私は小さく笑った。
「嘘よ」
そして私は呆然としている魔理沙の手から器とスプーンを取った。中には煌めくような白色のお粥が入っていた。それをスプーンで掬いながら私は魔理沙に言った。
「冗談に決まってるじゃない」
私が食べはじめてからも、魔理沙はそのままの格好でしばらく私をじっと見つめていた。それほど長い時間ではなかったかもしれない。やがて魔理沙は頭の後ろで手を組み、椅子の背にもたれてつぶやくように言った。
「『重症』だな、こりゃ」
私はその言葉を聞かなかったことにした。
#8
「今さらだけど、どうして魔理沙がここにいるのよ?」
お粥を半分くらい食べ終わったところで私は魔理沙に尋ねた。もちろんある程度の予想はした上で。私が倒れたところを誰かが拾い上げて、そのまま私の家に運び、家が近い魔理沙に看護を頼んだ、というところだろうと思っていた。その誰かはわからなかったが。
「お前がどこまで覚えているかはわからないけど、倒れているお前を拾ったのは私だよ」
意外な答えに私は目を見開いた。
「どうしてあなたが来たの?」
「それは偶然だ。パチュリーの図書館に行ったらすごい地響きがして、事情を聞いたらお前がフランのところに行ったっていうじゃないか。それで箒すっ飛ばして行ったんだぜ」
私はパチュリーの言葉を思い出した。「やらなければならないこと」というのは図書館に忍び込んだ魔理沙の撃退のことだったのだろう。魔理沙が腕組みをして続ける。
「フランがお前にとどめを刺そうとするところで、ぎりぎり私のマスタースパークが間に合ったんだ。フランがひるんでいる隙にお前を抱えて逃げた」
淡々と魔理沙は続けた。
「紅魔館に永琳を呼んで診てもらったが、幸いひどい怪我ではなかったらしい。だということで、お前を家まで運んで、私があとの面倒をみることにしたわけだ。昨日今日と私もここにずっといるわけだな」
「なんであなたの家じゃないのよ」と私が言うと、魔理沙は笑って返した。
「お前の家の本が読み放題だろ。お前のガードは固いからこういう機会は貴重なんだ」
「なによ、それ」
身体に軽い痛みを覚えながら私も笑った。それから私は魔理沙に向き直って言った。
「ありがとう、魔理沙」
魔理沙は気恥しそうに私から目をそらして「おう」とだけ言った。けれど、すぐにその視線を私に戻し、少し緊張したような表情で私に尋ねた。
「で、どうしてお前はフランの部屋であんなことになっていたんだ?」
お粥を掬うスプーンの手が自然と止まった。私は魔理沙から自分の手元の器に目を落とす。私はとりあえず言葉を口にした。
「戦ったからよ」
「それは私にもわかる」
魔理沙はあっさりと言い返した。声のトーンを少し落として魔理沙はさらに訊いた。
「どうして戦うようなことになったんだ?」
しばらくのあいだ私は手元を見つめたまま黙っていた。それでも魔理沙の視線はあいかわらず私を見据えたまま動かなかった。私の心がふらりふらりと右へ左へ惑星のように動いているのが自分でもよくわかった。
「どうしても話さなくてはいけない?」
私は罪を問われた子どものような声で言った。魔理沙は腕組みをしたままゆっくりとうなずきながら「そりゃあな」と低く響く声で言う。
「お前に非がないかどうか、わからないだろう?」
その声に押されるようにして、私は今までの出来事を思い返した。その始まりはあの祭りの日、そして終わりは私が気を失うところ。そして魔理沙に、ぽつりぽつりと一つひとつの出来事を語っていった。魔理沙はその話をただ黙って聞いていた。けれど私はあるところだけを意図的に語らなかった。地下室でやった劇の中身を。
私の話が終わると、魔理沙はふうっと息をついて目を閉じ、しばらく思案にふけっていた。私は上海をじっと見つめて、魔理沙が口を開くのを待っていた。
どれくらいの時間がたったかはわからない。魔理沙が目を開いて私に尋ねた。
「地下室でやった劇ってどんな話だったんだ?」
私の喉が締めつけられる感覚を思い出した。錯覚にしてはあまりにもはっきりとしていた。私は自分の喉に手をあててその感覚を拭いさろうとした。けれどいくらさすってもその感覚はじわりと残っている。
私は雑音のような声で魔理沙の質問に答えようとした。
「娘が意地悪な母親のところから出て――」「ああ」
魔理沙は私の話を遮るようにため息をつき、それから低い声で「わかったよ」と言った。私はゆっくりと顔を上げて魔理沙を見た。魔理沙は椅子の背にもたれて再び頭の後ろで手を組み、つぶやいた。
「どっちが悪いとは言えないな……」
それから長いあいだ、沈黙が私と魔理沙の間に流れた。
突然魔理沙が、わざと思い出したような口調で私に言った。
「そういや、お前が寝ている間だいぶうなされていたな」
「うなされてた?」
「ああ、ときどき『ママ』って呼んでたぜ」
胸の芯が震えた。忘れようとしていた夢がかたちをなして私の前に戻ってきた。危うくスプーンをとり落とすところだった。魔理沙は椅子の背にもたれたまま私に尋ねた。
「ママって神綺のことだよな? お前が魔界出身ならそういうことになる」
私は小さくうなずいて、「昔はそう呼んでいたの」と答えた。魔理沙が少し怪訝そうな顔をしてさらに尋ねてきた。
「昔は……って、じゃあ今は違うのか?」
「……わからない」
私は少し時間をあけてそう答えた。
「魔界を出てからまだ一度も戻って会ってないから。どう呼べばいいのかわからないの。あえていうなら、お母さん、かしら」
魔理沙は「ふうん」と言って、それから左ポケットに手を突っ込んだ。「あれ、どこにいったかな」と、しばらくポケットの中をまさぐっていたが、そのうちに「あったあった」と、くしゃくしゃになった紙を取り出した。そしてそれを私に投げ渡しながら言った。
「あんまりうなされるもんだから、お前の家中引っかき回してこれを探したぜ。でもごみ箱の中じゃなくて、その後ろに隠れてるとは思わなかったなあ」
私がスプーンを置いてその紙を両手に持つと、魔理沙はあごで「広げて読めよ」といった動作をした。私はその紙を破れないようにゆっくりと丁寧にのばしていった。それはこのまえ私が受け取った母からの手紙だった。私は何も言わず、黙ってその手紙をもう一度最初からゆっくりと読み直した。魔理沙も黙って私を見ているだけだ。
少し丸みがかって小さい、綺麗で丁寧な字だった。いつも長い時間をかけて私に書いているのだろうか、と私は思った。私に何を書こうか、どう書こうか、綺麗に書こう、そんなふうに考えているのだろうか。皺の部分の字も裏まで染み込んだインクによってはっきりと判別できた。私はいたたまれない気持ちになった。
そして、「ママがアリスちゃんのことを抱きしめてあげちゃうわ。」――急に胸が締めつけられるように切なくなる。どういう気持ちで母はこの文を書いたのだろう。そしてどういう気持ちで今、私はこの切なさを抱えているのだろう。
私は切なさのあまり手紙を握りしめた。ぎゅっと新しい皺ができる。喉から声が出かかって、私は必死でそれを抑えた。そのかわりに目が少し潤むのがわかった。
魔理沙は黙って立ち上がり、少ししかお粥の残っていない器とスプーンを私の膝からとってそれをキッチンに運んだ。私はそのあいだ、体中を駆ける切なさを落ち着けようとして、ある程度その試みはうまくいった。
魔理沙がキッチンから戻ってきて椅子に静かに腰掛けた。私が少し落ち着いてきたのを見て、ゆっくりと口を開いた。
「今まで一度も訊いたことなかったが、アリスはどうして幻想郷に来たんだ?」
私は手紙を握ったまま魔理沙の真摯な瞳を見た。魔理沙は私から目を離さない。
「訊こうと思ったことも今までに何度かあった。でもその度にどこかお前の雰囲気がそうさせなかった。私にもよくわからないけどな、今しか訊く機会はないんじゃないかって思った」
その瞳は私を射抜こうとしているのではなく、ただ真正面からぶつかってくるだけだった。私はテーブルの上に置かれた上海を見た。あいかわらず目を開いたまま動くことはなかった。そこに視線を置いたまま、私は静かに言った。
「お母さんがね、嫌いだったの」
魔理沙は表情を変えずに黙って私を見ていた。彼女は最初からこの答えを知っていて、確認するために質問してきたのだと私は気づいた。そこにどんな意図があるかはわからないけれど、私は話してしまおうと思った。魔理沙に甘えるように、あるいは身を寄せるように。
「最初から嫌いだったわけじゃないわ。私が意識というものを持ちはじめたとき、それからたぶんそれよりも前から、私はお母さんのことが好きでたまらなかった。どんなときも私はお母さんから離れようとしなかった。ご飯を作るときも、夢子と何かを話しているときも、本を読んでいるときも。お母さんから離れることが、なんとなくだけど怖かったの」
ふっとフランドールがレミリアにしがみついている姿が頭の中に甦った。私はそれを振り払うようにして小さく息をつき、話を続けた。
「それほどお母さんに甘えていたのに、あるときから突然お母さんが嫌いになってしまった。嫌いというよりは……そう、生理的に受けつけなくなったような感じかもしれない。どうしてだかはわからないけれど、お母さんのそばにいると私の気が荒立ってきて乱暴な言葉を吐いたりしたわ。私はできるだけお母さんから距離をとろうと思ったし、そうしてきた。そうしないと私は自分でいられないような気がして」
そして私はひとつのピリオドをつける。
「だから私は魔界を飛び出してきた。お母さんとできるだけ離れるために、この幻想郷を選んだの」
私がそこでまた息をつくと、魔理沙は私から上海人形に視線を移した。私と魔理沙の視線が上海人形で交わる。魔理沙は上海人形を見つめたまま言った。
「上海人形はお前が作ったものなのか?」
どうしてそう思うの、と私が魔理沙に尋ねると、魔理沙が私に視線を戻して答えた。
「上海人形だけ他の人形と微妙に造りが違うからな。お前が作ったものじゃないんだと思っているんだが」
「そう、上海人形だけはね、あれはお母さんから貰ったものなの」
そうか、と魔理沙はため息をついて言った。
「お前が神綺を嫌いはじめたのは、その人形を貰ったあたりからじゃないか?」
魔理沙にそう言われて私ははっとした。そうだ、思い返してみると魔理沙の言うとおりだ。私に上海との記憶が甦ってきた。私は魔理沙に尋ねた。
「どうしてわかったの?」
魔理沙は苦笑いして頭をぽりぽりとかく。
「ん、まあ、勘だ。お前と私の付き合いだ。それなりにはわかってしまうもんさ」
私はそんな魔理沙を見ながら言った。
「上海は私の初めての人形だった。上海をもらってからは、私はずっと上海と遊んでいたわ。それこそお母さんから乗り換えてしまったように、朝から晩までずっと。ときどき思い出したようにお母さんに振り向くと、たまらなくお母さんが憎く思えたの」
私はそれから家を見回して続ける。
「一人暮らしはそんなお母さんから逃げるためだけのシェルターのようなものよ、私にとっては。逃亡とそれから反抗。だから手紙が来ても返事なんてしたこともないし、お母さんが万が一来てもドアを開けるつもりなんてなかった。
でも今になって、私は夢にうなされて『ママ』なんて呼ぶのよ。お母さんが嫌いで逃げてきたはずなのに。笑えるわ、本当に――」
そして本当に乾いた笑いを私は漏らした。苦しい強がりだと自分でもわかっている。でもそうせずにはいられなかった。笑いつづける私から魔理沙は黙って目をそらし、窓の外に視線を向けた。その方向には魔理沙の家があった。外では夏の雨が降っていた。しとしとと、いつまでもやまないような湿っぽい雨だった。
私はふと上海に目を留めた。その動かない上海の冷たい目によって私の笑いは止まり、再び沈黙が私と魔理沙を包んだ。
「私は母親じゃなくて、親父が憎かったんだ」
長い沈黙を破ったのは魔理沙だった。窓の外を見たまま私には笑みを見せない。けれどその横顔にはどこか温かい雰囲気が滲み出ていた。
「あるとき、魔法の研究で親父と真っ向からにらみ合った。私の新しい魔法の研究を親父は認めてくれなかった。親父はある意味じゃ保守派というか、大胆な魔法の開発はしない人だったんだ。でもアリスもわかってるだろ。私はパワーのある魔法が欲しいんだよ、何をやるにしてもな。
私も親父もどっちもまったく譲ろうとしなかった。お互いただ言いたいことを言っているだけだ。歩み寄ろうなんて気は微塵もなかったよ。まあ、悪く言えばどっちも阿呆みたいに頭が固かった。何日経ってもその態度は変わらなかった。むしろ、もっと相手への憎しみが大きくなってた」
魔理沙は椅子の端に片足を載せてその膝を抱いた。長い話をするときの魔理沙の癖だ。
「で、ある日、やっぱり私と親父が激しく口論していて、母さんがその様子を見てオロオロしていた。そのあたりの数日はずっとそんな感じだった。でもその日は違った。私が親父の言葉に逆上して、激しく親父を罵りながら、ありったけの力で親父を突き飛ばしたんだよ。突き飛ばしたというか、張り倒したというか、とにかくそんなに軽い話じゃない。親父もさすがに私の様子にひるんだみたいだった。
倒れた親父に私は追い討ちをかけようとした。足で踏んづけようとかそういうふうに思ってた。私には凶暴な魔物が住み着いているようだった。でもそのとき、母さんが私の前に飛び出して私を止めた。当然だよ、だって自分の親父に手を上げて暴力を振るってるわけだからな」
魔理沙は窓の外を見つめたまま、私にぼんやりと尋ねた。
「そこで母さんはどうしたと思う?」
私は何も答えず、ただ黙って魔理沙が再び話しだすのを待った。魔理沙も私の答えを待っているわけではなかった。私を視線を合わせないまま、魔理沙はずっと私に横顔を見せつづける。けれどそこには微笑が浮かんでいるように見えた。
「つかまれて暴れる私を、母さんは何も言わないで抱きしめたんだ。それだけだよ。それ以外には何もしなかったんだ」
そこで魔理沙は小さくため息をついた。少し魔理沙の身体が小さくなったように見えた。私はその魔理沙の姿に微妙な共振を感じた。母に抱きしめられたときの魔理沙は、きっと今の私のような目をしていたのだろうと思った。
「私は叩かれるんだと思ってた。そうして当たり前のことをしたんだから、その報いはあるんだと思ってた。でも母さんはそうしなかった。どんなに苦しい思いを抱えていたのかもわからない。それに突き飛ばされたのは親父なんだ。親父のことも心配でたまらなかったと思う。それなのに私を抱きしめたんだよ……」
魔理沙はそこで声を詰まらせて、少しのあいだ目を伏せて静かに呼吸していた。しばらくして、魔理沙はゆっくりと口を開いた。
「母さんに抱かれたまま、私はわんわん泣いた。どういう気持ちだったのか今でもわからないが、とにかく泣く以外のことは私にはできなかった。自分があまりにも情けなかったのかもしれない。母さんを苦しめるだけの私が情けなかったんだと思う。次の日、私は家を出た。もうこれ以上母さんを苦しめたくはなかったし、いつか一人で暮らしていけるように。だから私は魔界に行ってしばらく魅魔さまのところで修行をして、今は幻想郷に来て魔法の森に住んでる」
魔理沙は少しずつ落ち着いてきた。
「今でも母さんには手紙を書いているよ。ほんのたまに親父宛に文章を書いていたりもするし、お盆とかには家に戻ったりもしている。私が一人で暮らしているのは……そうだな、逃げとか反抗じゃないんだ」
そこで初めて魔理沙は私に顔を向けた。その目には少しだけ涙の陽炎が残されていた。私は衝動的に魔理沙に手を伸ばそうとした。けれど魔理沙は首を振ってそれを制した。違うんだ、そうじゃないんだよ、アリス。魔理沙の目は確かにそう言っているように思えた。
「なあアリス、お前にはそういう関係は結べないのか?」
私は魔理沙から視線を落として伸ばそうとした腕を見つめた。そこで私は初めて自分の腕には一ヶ所も傷がないことに気づいた。あれだけ激しくフランドールに傷つけられて、そこだけ傷が無いというのは、はたして偶然なのだろうか?
そして私はこの腕で母とそうした関係をつくれるのだろうか? 私にはわからなかった。できるかどうかも、できたとして、どうすればいいのかも。
私は再び顔を上げて魔理沙に視線を向けた。魔理沙は私をじっと見据えている。そこにはさっきまでの微妙な温かさも微笑もなかった。あるいはさっき私が見たと思ったものは、私の幻覚だったのかもしれない。私の強い深淵が見せた小さな幻覚。
「魔界茶でも淹れようか」
魔理沙がそう言って伸びをしながら立ち上がった。そしてテーブルに置いてあった上海人形を私に私の膝もとに置いて私の目を見る。
「治してやれよ、こいつも。動けない身体でお前のことを助けようとしてたんだ」
「上海が?」
私は上海を両手にとったが、やはり何の反応も見せなかった。重力に引かれて腕や足は力なく垂れ下がっていた。私は気を失う直前の上海のことを思い返した。フランドールに叩かれて、その時点で動かなくなっていたはずなのに。私は魔理沙に言った。
「上海が動くはずないわ。だってあなたが来たとき、もう私は気を失っていた。戦闘プログラムは複雑だから私の操作がなければ動くことがないようにしてあるのよ」
「でも私が見たときは、気を失っているお前のところに行こうと、腕で地を這って進んでいたと思うけどなあ」
私は魔理沙に尋ねた。
「そんなことってあるのかしら?」
肩をすくめて魔理沙は言った。
「さあ、私は知らないぜ。なんか間違って操作したままだったんじゃないのか? あんまり気にしなくてもいいだろ」
魔理沙は私に背を向けてキッチンにお茶を淹れにいった。
私はもう一度上海人形を、今度は上から下まで眺めた。腰の部分が少しずれているし、あちこちの部分が欠けていた。やはり上海が動きそうな様子はない。魔理沙が言ったことは、彼女の見間違いなのだろうか。それとも本当にそうしていたのだろうか。
どちらとも判断しかねた。上海人形を魔法で動かしている以上、そうした可能性が無いとも言いきれない。魔法のことならある人物がよく知っているはずだ。私は上海を握りしめ、その人物に会いにいこうと思う。
けれど、握りしめたときに身体の痛みがまた戻ってきた。まずはこの身体を治さなくてはいけなかった。私は上海を膝下に置いて、魔理沙の向かったキッチンに顔を向けた。そこからは魔理沙の上機嫌な鼻歌が聞こえてくる。さっきの話はまるでなかったかのように、弾んだ鼻歌だった。
#9
夕暮れどきに魔理沙は自分の家に帰った。いいかげん自分の家に戻らないと何が起こっているのかわからないと言う。
「もう一人で大丈夫だろ。また明日も様子は見に来るからさ」
帰り際に魔理沙はそう言って帽子を深くかぶり、箒に乗って雨の中を私の家から出発した。彼女とともにそれなりの量の本が彼女の家に持っていかれた。それを止めるほどの力が私にはまだ無かった。私は呆れてため息をつきながら、魔理沙が開けっ放しで出ていったドアを閉めた。
ドアを閉めて自分の家の中をあらためて見回すと、なんとなくものが少ないように感じた。けれど多くの人形、家財道具、本などを考えれば少ないということは決して言えないはずだった。でも私はものが少ないということを痛烈に感じてしまう。
そして私の家がひどく小さく狭く、薄暗いもののように感じられた。それは紅魔館で見た、あのフランドールのいる地下室を想起させた。そこは自分の殻のようにもろく、醜いセミの抜け殻のようだった。夏の雨の音が私の部屋の中に虚しく響いた。
私はベッドルームに戻り、テーブルに置いた上海人形に目を向けた。私が目を覚ましてから彼女が動きを見せたことは一度もないままだった。直さなくては、と私は思った。人形遣いとして人形のメンテナンスをすることは、呼吸をするのと同じくらい自然なことだった。私は痛む身体を引きずり、リビングから修繕道具を取り出し、そして上海を手にとって下半身をベッドに入れた。それから私は傷の一つもない両腕で上海人形を直しはじめた。ベッドのそばに置いてあるスタンドから小さな明かりが手元を照らしていた。
針を手に持って糸を上海の身体に通しながら、私は上海のことをゆっくりと思い返した。糸が上海の身体を突き抜けるたび、私は彼女のしたことを痛烈に思い出すことができた。
魔理沙に紅茶を淹れなかったこと、祭りの劇で蓬莱人形の手をとって走り出したこと、地下室の劇で蓬莱人形に掴みかかったこと、フランドールに刃を突き立てたこと、そして地面を這って私のそばまで行こうとしていたという魔理沙の話。
いずれも私がやろうとして命令したことではなかった。どれも上海が勝手にやったこと、あるいはやらなかったことだ。私はそれに戸惑い、苛立ち、そして救われた。私が抱いた心の軌跡は様々なかたちを描いている。けれど上海はどうなのだろう? 人形に心はない。それは私が一番よく知っている。しかし仮に上海に意志というものが内在されているとしたら、彼女はどう思ってその行動をとったのだろう?
私が今こうして上海を直しているのは、魔理沙のおかげでもあり、上海のおかげでもある。狂気に揺られるフランドールから身体を張って私を守ろうとし、傷ついた後でも私のもとに寄ろうとしていた。
どうしてそこまで、と私は思った。何があなたをそんなに強く突き動かしたの、私にはわからないわ、上海。私は声に出さずに上海に問いかけた。けれど上海の目は何も答えなかった。死んだ目は私を見てすらいなかった。私の内なる声が木霊のように自分に返ってきただけだった。
私がそれほど上海に守られるようなことをしてきたのだろうか? 今度は私が上海にとってきた行動を思い出した。紅茶を淹れなかったとき。劇で私の意図した動きと異なっていたとき、私を守ってきたとき、私は上海に何をしたというのだろう?
何もしていないじゃないか、と私はその事実を胸に突き立てられる思いがした。私はただ上海に厳しい言葉を投げかけ、自分の思いどおりにならないから苛立ち、冷たく上海を突き放しただけだ。今思えば、上海にそれほどの落ち度があったわけではなかったのに、私は上海に冷たくあたってきた。彼女が私を守ったときでさえ、そして目覚めた今でさえ、彼女には感謝のひとつもないままに過ごしてきた。上海はその私の態度を強く肌身で感じていたのだろうか? それでも彼女は私を守って、今こうして動かなくなっているのだ――。
私の下腹部がきゅんと切なく締めつけられた。それは今までに感じたことのないほどの強さだった。そこにある何かが私を責め、そして突き動かそうとしているのだ。私はそれを意識しないようにして、上海の修復作業を続けた。
「しゃんはい」。上海人形を初めて抱いたとき、私は彼女にそう名前をつけた。口のない人形にでもそうして名前をつけることは、そのときの私の年齢ほどの女の子になら不思議なことではなかっただろう。上海と名前はたまたま読んだ本の中から語呂のいいものを選んだだけだ。あまり深く考えずに名前を付けるというのも、子ども独特の名付け方だろう。
でも子どもの私はその行為を何よりも大事に思っていた。その人形に名前をつけることで、私はどの人形よりもその人形を大切にすることができると思っていた。ずっとこの上海と一緒にいたい、と小さな子どもの強い言葉で思っていた。だから上海はいつまでも私のそばにいた。
けれど、そこでふとある疑問がわく。
ずっとそれでいいのだろうか?
私は夢で見た母の腕を思い出した。やわらかい腕はたしかに気持ちのいいものではあったけれど、その中に永遠に居続けることはできないのだ。理由はうまく説明できないけれど、それは何よりも確かなことだ。
そして私は自分の母を思った。私が母を憎んでいたときに、憎しみが最大限にこもった視線を母に向けたときに、母はどう思っていたのだろう? 憎しみという膜を取り除いた記憶の中の母は、私にただ哀しい目を向けていただけだった。私に何も言わなかったし、私を叩くわけでもなかった。
下腹部の疼きがどんどん強くなっていった。そうだ、母は私を決して責めようとしなかった。私を心配してくれていただけなのだ。私に冷たい態度をとりたかったのかもしれない。もっと厳しく叱りたかったのかもしれない。そうしようと思えばできたのに、母はそうしなかったのだ。
意識しないように努めていた疼きは私の胸までせりあがってきた。私は泣きたくなった。
私は何もわかっていなかったのだ。ただ強がって生きてきただけだ。魔理沙に言ったとおり、私は――。
そのとき、上海が私の手の中でぴくりと動いたような気がした。私ははっと目を見開いて、今の感覚を取り戻すように、必死で上海を直していった。それから私が今持てるかぎりの魔力を上海の中に充填した。私の身体からどんどん力が抜けていったが、それはもう気にならなかった。
そして上海の身体が動いた。両腕と両足に力が入り、重力に逆らいながら身体を起こした。私の手のひらに腰掛けるようにして上海は姿勢を直した。それから上海は少しあたりを見まわし、私の顔を見つめた。その上海の目には人形なのに光が宿っていた。
「どうしたの、アリス?」。上海はそう言っているように見えた。口はないはずなのに。
「上海」
私は上海を抱きしめ、彼女の名を呼ぶ。私の目から自然に涙がこぼれてきた。
「ごめんね……ごめんね、上海」
上海は何も言わず、私に抱きしめられるままに、私が涙を流しているのを感じているだけだった。そう思う。たとえ彼女にひとかけらの優しさがあったとしても、それでもただ抱きしめられるままだっただろう。泣きながら自分を抱く母に対して、子どもが何もできないのと同じように。
小さな明かりを灯した家の中で、私は上海を抱いて泣きつづけた。外では雨が降りつづけている。夏の雨のようにいつまでも続くような涙だった。
#10
長い雨がふったあとの森は雫が太陽の光に煌めき、宝石の砂が散りばめられているようだった。真っ青な空に白熱の太陽が浮かび、地上を照らし出している。湿度は高かったが、どこかさっぱりとした趣があった。扉を開けた私は、その光景にしばらく呼吸を忘れて見入った。幻想郷の夏はもう何度も体験しているが、こんな光景は初めてだった。
しばらくして私はふっと意識に返って呼吸を取り戻し、自分の家のドアを閉めて鍵をかけた。上海が自分のそばにいることを確認して、私は限りない青い空に飛び上がった。上海も私についてきた。
一週間の怪我が完治した翌日、私は再び紅魔館に行くことにした。魔理沙に言われたことがどうしても気になっていた。「でも私が見たときは、気を失っているお前のところに行こうと、腕で地を這って進んでいたと思うけどなあ」。命令もなしに人形が動くとしたら、それは自律意識が宿っている可能性がある。魔法に詳しいパチュリーならそのことについて何か有用な情報を持っていると、私は考えた。
雲ひとつない空を私と上海は滑っていった。白い太陽は容赦なく己を主張し、焼きつけるような日射しを私たちに向けていた。けれど魔法の森を抜け、湖に入ると太陽の光は少しずつ弱まっていった。そして空に白いもやが見え、だんだんとそれが濃くなり、いつしか雲の形となっていった。私が紅魔館にたどりつくときには、雲は重い灰色となり、激しい雨を降らせていた。雨除けの魔法を私と上海にかけた。
夕立にしては妙だと私は目の前を通り過ぎていく雨を見て思ったが、あまり気にしないことにして紅魔館の門に降り立った。そこまで深くは考えなかったのだ。ついていないと思っただけで。
大きな水たまりのそばに降り立ち、雨の日もそこに立っている門番を見た。美鈴はびしょ濡れになって服から大きな雫を絶え間なく垂らしつづけていた。服だけではない。髪も帽子も顔も、どこにも乾いている部分が無かった。地上にいながら、まるで湖に浸かっているような、そういう格好だった。
そして美鈴は門の横の柱に寄りかかり、うつむいたまま足元にできている大きな水たまりを眺めていた。水たまりには激しい雨が落ちつづけ、波紋が混沌を作りだしている。美鈴は私が来たことに気づいていないようだった。
私は美鈴に声をかけた。
「こんにちは、今日もご苦労さまね」
美鈴はゆっくりと顔を上げて私を見た。その表情にはどこにも驚いた様子がなく、最初から私が来たことを知っているようだった。そして美鈴の表情には、躍動というものが無かった。倦怠、無情といった消極的な波動があった。美鈴は言葉だけ私に答えた。
「アリスさんですか」
その声も平坦で鉛のように重く、温かみが無かった。私は美鈴にもう少し話しかけることにした。
「ずっと雨が降っている中、門番なんて大変ね」
「今に始まったことではないですよ。私が門番となったときから、こんなことは慣れっこです」
そう言って美鈴は息だけで笑い、すぐにそれもやめてしまった。私と美鈴の間に暗い沈黙が流れる。激しい夕立が空気を背景として駆け抜ける。美鈴はずっと暗い目で私を見つめている。私はそこで初めて美鈴の態度に戸惑った。
「通っていいのかしら?」
無理やり沈黙に孔を開けるようにして私は美鈴に尋ねた。美鈴は後ろに首を向け、それから私を一瞥して言った。
「どうぞ、自分で開けてください」
細い針が私の胸を突き刺したような気がした。それほど美鈴の態度は私をひどく傷つけた。門番としての無礼というより、美鈴という個人としてのその冷たさ。この前の訪問のときの温かさはどこへいってしまったというのだろう? 雨が彼女の優しさを奪ってしまったようにも見えたし、実際雨の影響もいくらかはあるに違いない。けれど雨が激しく降っているからといって、雨のせいだと断定することは私にはできなかった。
私は美鈴の横を通り過ぎ、門を押しながら彼女に言った。
「通らせてもらうわ」
美鈴はうなずきもせず、またうつむいて目の前にある水たまりに視線を戻した。水たまりの底には不自然な幾何学的模様が刻まれていた。美鈴はそれきり動く気配がなくなった。私は自分で門を開き、その下をくぐって門を閉じた。上海が美鈴に首を向けたまま私についてくる。結局美鈴は私に明るい笑顔を見せてくれなかった。
門をあとにして玄関前に行くと、綺麗な姿勢で立っている咲夜がそこにいた。あいかわらず凛とした表情で。私は肘から上で手を振り、咲夜に自分が来たことを知らせる。けれど美鈴と同じように、咲夜も私に対して表情の変化を見せなかった。見せなかったというよりは、不変のためにより冷たい方向に変化したように思えた。
彼女の視線には冷たい氷の棘さえ想像させるような鋭さがあった。私はそれに気づき、自然と振っていた手を止めてゆっくりとそれを下ろしてしまった。私は少しあごを引いて咲夜の前まで歩いていった。そのあいだ私と咲夜は何も言葉を交わさなかった。雨が私たちの真上に降り、けれど雨除けの魔法で脇にそれる。家を出たときの青空などどこかにいって、今日は夕立の音ばかり聞いている、と私は思った。
私と咲夜の距離が一メートルになったところで私は立ち止まった。私のいるところは玄関の屋根がちょうど出ていないところで、私の体には雨除けをしているとはいえ雨が降りつづいた。咲夜がきびきびと私にお辞儀をして言う。
「ようこそ、紅魔館へ」
私は少し上目遣いで咲夜を見たまま何も言わなかった。咲夜も私の返答を待たずに先を続けた。
「アリス・マーガトロイドさまを今日は図書館の方へ案内いたします。ついてきてください」
そう言って咲夜は隙のない動きで踵を返し、歩きはじめた。私がついてきているかも確認せず、玄関の扉を開いて中に入った。私は咲夜との距離を一メートル以上に保ったまま、彼女についていった。
空に雨を降らす黒い雲がかかっているせいか、紅魔館の中も妙に暗かった。窓から入ってくる光はわずかで、廊下の壁にかけられた照明が無ければ夜だと思ってしまうかもしれない。妙に暗く、雨の音が妙に静かに響いていた。私と咲夜は一切話さない。咲夜の靴の踵の音が鋭く響き、私のブーツの音が鈍くそれを包む。上海が私の横をふらふらと漂う。
図書館までの間、私はずっと自分の頭の中で独り言をつぶやきつづけた。私が何をしたというのだろう。ここまで気まずい沈黙を生み出すようなことを私がしたというのだろうか。この前のことがあったが、それはほとんどフランドールが原因だ。私に一因が無いとも言いきれないが、しかしもうその話は過去のことではないのか?
何度も同じ問いを自分に繰り返し、そのたび私は冷たくされる覚えがないという結論に至る。雨と靴の微妙な不協和音を引き連れたまま、私は咲夜に導かれて地下の図書館の扉までたどり着いた。
「アリスさま、ここが図書館でございます」
咲夜が扉の横に立って私に振り返り、冷たい表情のまま言う。そのまま扉を開けず、立っているだけだった。私が自分で開けて入れということなのだろう。私は咲夜をなるべく視界に入れないようにして扉の前まで歩き、手をかけてそれを開く。
暗く静かな紅魔館の奥にさらに暗く静かな図書館が広がっていた。私は図書館の中に入り、後ろ向きに扉を閉めた。天井までのびる本棚が無数に存在し、薄いほこりが本棚に積もっていた。あいかわらずほこりっぽい図書館だった。
そして本棚の間から奥に少し広い空間が見えて、そこに細い足のテーブルと二つの椅子が見えた。そしてその椅子にはパチュリーが腰掛け、私に背を向けていた。
「来たのね」
低めのトーンの声が扉の前の私まで届いた。私はその声に促されるようにして本棚の間を進んでいった。天井からつるされたランプの光が空に舞う塵を煌めかせ、上海がランプの下を通り過ぎると塵が渦を巻いた。
私はパチュリーの後ろに立ち、いつものように本を読んでいるその背中を見つめた。彼女も私に対して冷たい態度をとるのではないかと、わずかな不安を浮かべながら。テーブルから少し離れたスペースに私の知らないかたちの不思議な魔法陣が描いてあった。この図書館も、そのときの私には親しみのないどこか別の場所に見えた。
パチュリーは私に後頭部を向けたまま、自分の向かいにある空きの椅子を指差して言った。
「座ったら?」
抑揚のない声は無数の本の中に埋もれてしまうようにして消え入った。私はその声にしたがってパチュリーの向かいの椅子に座ると、彼女が本を読んでいる様子が正面から見ることができた。彼女は顔を本に向けたまま、私以外の誰かに言った。
「小悪魔、紅茶を」
本棚の間から「はい」という返事が聞こえ、そして図書館は再び静寂に包まれた。私が座ってもしばらくの間、パチュリーは本から目を離さずそれを読みつづけた。その光景はいつものことだった。彼女がひと段落して本を閉じるまでは、客人は用件を話しだすことができなかった。彼女は読書を邪魔されるのが嫌いなのだ。
しばらくして、いつものようにきりのいいところで彼女は本を閉じ、そこで初めて顔を上げて私に視線を移した。いつものようにほこりと長時間の読書の疲れのせいで、力のない目だった。私はそれでも疑うようにしてパチュリーの様子を観察していた。
パチュリーは目を上げても少しのあいだ何も言葉を口にせず、私を見つめ、それから言った。
「萎縮しなくてもいいのよ」
私は彼女の言葉に意表を突かれた。パチュリーは私のそばにいる上海を一瞥して私に視線を戻し、そのまま笑顔もない表情で続けた。
「なんだか私に遠慮しているみたいだけど、私はあなたに対してとくに特別な思いを抱いていない。私とあなたは同じ魔法使い、そうでしょう?」
「でも」
私は言った。
「それはあなたがいつもと同じように接してくれるから。他の人はそうじゃないみたい。美鈴も咲夜も私に対して冷たいというか……責めているというか、明らかに前とは違うわ。私は何もしていないのよ、あの二人には」
パチュリーは少し目を見開いたが、すぐにまぶたを重そうに下ろして気のないため息をつき、「そうね」と言った。驚き呆れたといった様子だった。
「紅茶をお持ちしました」
小悪魔が不安げな表情を浮かべながら、私とパチュリーの前に紅茶のカップとポットを置いていった。そこから立ち去るときも何度か私とパチュリーに視線を送っていた。彼女は私に対して冷たくあたるようなことはなかった。
パチュリーは本をテーブルに置き、ポットを手にとって自分と私のカップに注いだ。私はそのカップを手にとり、しばらく中身を見つめていた。白いカップに入った紅茶は少し灰色がかかったような赤で、それは私に乾いた血を連想させた。私がずっと紅茶を見つめていると、パチュリーがカップを右手に持って私に問いかけた。
「飲まないの?」
パチュリーに促され、私は少しためらってから紅茶を口に入れた。今まで飲んだことがない紅茶だった。微妙な苦味、不思議な甘さ。それまで味わったことがない新しい味が口の中に広がっていった。私は目を閉じてその紅茶の味を記憶に焼きつけていった。
「さて、何が訊きたいのかしら?」
パチュリーが紅茶を啜りながら私に尋ねた。
「私の知りうる範囲でなら答えるわ。知らないことはどうしても説明できないけれど」
私は目を薄く開いて、隣に漂っている上海人形を横目で見た。上海はずっとパチュリーに視線を固定している。
「たぶんあなたにも答えづらい話だとは思う」
私はそう切り出し、目を開いてパチュリーを見据えた。
「生き物ではない、物体、ものに心が宿るということははたしてあるものなの?」
パチュリーは少しのあいだ私と上海人形を見ていたが、やがて口を開いた。
「心というものの定義が少しわかりにくいわね。どういうことかしら」
「人に言われたことをそのままやるのではなくて、自分で考え、自分で行動する。そういうことだと私は思っているけど」
パチュリーはまた少しのあいだ私を見ていたが、すぐにあきらめたような表情になり、また私に尋ねた。
「ものに心が宿る、その例えは何かしら?」
私は上海をもう一度横目で見て、答えた。
「人形とか」
「どうしてそう思うの?」
パチュリーは間をあけずに私に再び問いかけた。私はもうすべてを洗いざらい話すしかないと思った。だから私は紅茶を一口啜り、そして私が見た話、魔理沙から聞いた話を始めることにした。私の指示なくフランドールに剣を突き立てた上海、意識を失った私に寄ろうとする上海。
パチュリーはときどき紅茶に口をつけたりはしたが、黙って私の話を聞くだけになった。目を軽く閉じ、左耳を私の顔に向けて、静かに聞きつづけている。私がすべて話し終えるまで、パチュリーは決して口をはさんだりはしなかった。
私は話し終えると喉を潤すために紅茶を一口、喉を鳴らして飲んだ。パチュリーは私がカップをソーサーに置くのを見て、そしてようやく口を開いた。
「あなたのいう、その上海人形。それにはあなたが魔力を注ぎ、ある程度の魔力を貯めることもできるのよね?」
私がうなずくと、パチュリーはテーブルに肘をついて手を組んだ。そしてその手の指を見つめたままパチュリーは考え事を始めたようだった。私はパチュリーの様子を黙って見ていた。彼女はそれなりの結論を出そうとしているのだ、と私は思った。そしてその思考を他人に遮られるのは彼女の嫌うところだった。私はただパチュリーの結論さえ聞ければよかった。
パチュリーが思考の海にいたのは、思いのほか短い時間だった。パチュリーは組んだ手を解き、椅子の背に寄りかかってひとつため息をついた。彼女は何らかの結論を海から引き上げ、私にそれを差し出そうとしている。彼女は小さい咳をひとつして口を開いた。
「私もそういう事例を見たことがないから、これはあくまでも推測になるわ。でもその中で一番可能性の高いものを選び出した」
パチュリーは上海に目を向けて言った。
「魔力は精神の波動。それに尽きるわ」
そしてそのまま口を閉じた。上海が身を震わせたが、それ以上は何もなかった。それで終わりだった。
「それだけ?」
私は思わずそう言ってしまった。
「その程度の推測なの?」
「私の知識はこれ以上のことを語らないわ。推測に基づいた推測ほど信じられないものはない」
パチュリーのその口調はあくまで淡々としたものだった。半ば責めるような私の言葉にも反応せず、申し訳なさも見せなかった。私はパチュリーの次の言葉を待ったが、彼女はそれ以上何も言わなかった。黙って上海を見ているだけだ。それがパチュリーの結論だった。
私は大きなため息をついて椅子の背に寄りかかった。あっけない話だった。そして理解しがたい答えだった。しかしパチュリーはこれ以上話そうとしないし、実際に彼女にはこれ以上説明できる知識を持ちあわせていないのだろう。彼女が何かを隠している雰囲気もなかった。
これ以上パチュリーに望めることはない、と私は思った。あとは自分がよく上海を観察し、そして研究を進めていくしかないのだろう。先の長い研究になるが、幸いなことに私は魔法使いだった。望む答えが見つかるまで研究を続けることができる。
私は少し紅茶の入っているカップを手にとった。
「まあいいわ。ありがとう。少しは役に立つかもしれない」
そう言って私は紅茶を飲み干し、カップをソーサーに置いて席を立った。パチュリーは上海から私に視線を移し、そしてくすっと老婆のように小さく笑った。「どういたしまして」。
私は彼女の笑いを見下ろして、それからゆっくりと足を踏み出して図書館の扉へ向かおうとした。けれど、パチュリーの横を通り過ぎるときに彼女が何かをぼやいたのが聞こえた。
「何?」
私はパチュリーに振り返って問いかけた。椅子に座って彼女は私に振り向いてもう一度言った。
「あなたにもうひとつ伝えることがあったわ」
#6
「あるところに美しくてやさしい娘がいました。町でもその娘はとても気立てが良くて可愛らしい女の子だとして噂になっていました」
その出だしに合わせて上海が私から離れてフランドールの目の前に行き、おしとやかな動作を見せる。フランの前が舞台の中央だと思って私も続けていく。フランドールの目は上海の動きをとらえて離さなかった。
「けれども彼女の母親はとても意地の悪い人でした。娘がまわりからちやほやされているのも気に入らなかったのかもしれません。ことあるごとに娘にいじわるをしていました」
私がそう言うと今度は蓬莱人形が私の横を通りすぎて、上海のそばに行った。実はこの母親は継母だという設定があるのだが、劇でそれは一切言わない。シンデレラをイメージされたくないからだ。上海は蓬莱に気がつくと萎縮するような演技を見せる。私が継母の台詞を言う。
「母親は言いました。『今日は森の水を汲んできて、そのあとそれで家中を掃除してもらいましょう』。娘は嫌と言うことができません。この母親はこの町の長です。彼女に逆らえば、娘のいる場所はなくなってしまいます」
上海が小さくうなずいて舞台の端に行き、森の水を汲むような動作をする。けれどその動作は前にこの劇をやったときとは明らかに違った。前はもっと水を重たそうに汲みあげていたのに、今はそうではなく力任せにやっているような動きだった。そこには苛立ちさえあるように見える。
苛立ちたいのはこっちよ、と私はそれを見て思った。この前の劇のときと同じだ。上海は私の思いどおりに動いてくれない。どうしてそんな動きをするのだろう。台本を読む私の声が尖っていくのが自分でもわかった。けれど、どうしてもそれを抑えることができない。
苛立っているは私だけでもないようだった。人形の動きからフランドールに視線を向けると、彼女の目つきも少し変わっているように見えた。ときどき爪を噛むような動きもする。フランドールには何かを静かに耐えているような雰囲気があった。この劇の序盤はフラストレーションが溜まってしまうからそうなるのだろう。そう私は思った。そうとしか思わなかった。私はなにより上海の動きが気になってしかたなかったのだ。
それからも娘は母親にいじめられつづける。彼女が森から戻ってきて家中の掃除をするのだが、部屋の隅のほこりが拭き取られていないと文句を言われ、それから用意したご飯が不味いと言われ、彼女は散々にけなされる。けれど彼女はそのときは黙って耐えるしかない。
その日の夜、彼女は布団の中に入って孤独に枕を濡らす。あまりにもつらいこの状況は、いくら気がよい彼女でも耐えがたいものだった。ひとりで泣いているところに突然妖精が現れる。
「彼女は言いました。『どうしてそんなに泣いているのですか?』。娘は言いました。『私の母がとても意地悪なのです』と。哀れに思った妖精は言いました。『明日森の中に行きなさい。その中の木のひとつに金のりんごをつけているものがあるでしょう。その金のりんごを持っていればあなたは幸せになれるのです』」
妖精役のオルレアン人形はその台詞に合わせて舞台の中央から端へと移動する。上海はじっとそれを見つめている。フランドールは爪を噛みながらその様子を見ていた。かりかりと噛む音が無機質な部屋に小さく響きはじめた。
「そして次の日、彼女が森に行くと妖精が言ったとおり、本当にそこに金のりんごがあったのです。彼女は喜んでそれを家に持ち帰りました。けれど母親がそのりんごを見つけて娘に尋ねました。『お前、そのりんごはいったいなんだい?』。娘はその問いに答えることができません」
がりっ。フランドールが爪を噛む音が今度ははっきりと私の耳にも聞こえた。フランドールの目つきはここに来たときの表情からは信じられないくらいにけわしくなっている。私はそれに少し驚いて、けれど劇を中断することもなく続けた。
りんごを指差す蓬莱人形に上海は冷たい目線を送る――冷たい目線?
「娘は黙って母親を無視しました。すると母親は怒りだし、娘から無理やりりんごを奪ったのです。そして冷たく娘に言い放ちました。『これは私のものだ。愛していないお前には渡しやしないよ!』」
次の瞬間、信じられないことが二つも同時に起こった。そのどちらもが私の知るかぎり、どこの劇のどの台本にも無いようなことだった。上海が蓬莱人形に掴みかかり、私にフランドールが掴みかかった。二人とも同時に。
私は白い壁に背中から叩きつけられ、後頭部を壁に打ちつけた。鈍く重い痛みが私の頭から広がり、身体をひととき麻痺させる。視界が真っ黒に染まり、それからじわじわと光を取り戻していった。
目の前にはフランドールがいて両腕で私の肩をつかみ、壁に押しつけている。私の身体にはまだ力が入らない。抵抗することができない私は声にならない声を出し、フランドールの顔を見ることしかできなかった。彼女の肩の向こう側では、蓬莱に掴みかかった上海や他の人形が呆然としたように私たちを見ている。
フランドールは私の肩をつかんだまま、その顔を私に思いきり近づけて言った。
「あなたは私のお姉さまを馬鹿にしているの?」
私の内臓を震わせるような低い声だった。私の視界にはフランドールの顔以外映らない。彼女の紅の瞳が底の深い湖のようにして私には見えた。そこに鋭い狂気の光が満ち溢れて、大きなうねりがある。破壊の意志さえ感じられるほど、深い紅の色。
私はうまく呼吸できず、思考回路がまともに機能しないままフランドールに言う。
「お姉さま? 私はあなたのお姉さんのことを一言も口にしていない」
私の声は曲がりくねった大木のように部屋に響いた。ぎりっとフランドールが歯軋りする音が耳に入る。私はこの状況とここに至るまでの経緯を構成できない。すべての出来事がばらばらに分解されて床に打ち捨てられているようで、私はどこから手をつければいいのかわからない。
私は肘を曲げ、フランドールの細い腕に手をかけた。フランドールはそれに気づき、その細い腕で私の身体を後方へと投げ飛ばした。気づけば私はまた身体を壁に叩きつけられ、床に崩れ落ちてうつぶせになっていた。
痛みはない。けれど体中の感覚がどこか遠くにあるようで力がうまく入らない。思考回路のあちこちが焼き切れているように思考がうまくつながらない。私の荒い呼吸音とフランドールの小さな足音が乾いて響く。
私は顔を上げてフランドールを見た。フランドールは笑顔を浮かべながら私の方にゆっくりと歩み寄ってきた。
「ふうん、あなたなかなか頑丈ね。けっこう本気でやったけど、壊れないんだ」
フランドールはそう言ってふふっと小さく笑う。けれど彼女から発せられる雰囲気と目だけは決して笑っていない。小さく獰猛な獣が獲物に近づくときのように。
私は直感した――殺される。そう思った瞬間鳥肌がぞわりと立ち、私の身体に力が一気に流れこんできて、私は立ち上がることができた。彼女が私を襲うようなら、私もそれに応戦するしかない。私はフランドールと私の間で立ちつくしている人形を呼び寄せた。彼女たちの戦闘機能を起動させ、フランドールと対峙する。
フランドールは少しだけ驚いたような表情を見せた。
「その人形、戦うこともできるの」
それから彼女の表情は一気に硬くなり、こんどこそはっきりとその狂気を表に出した。
「でも、もういいや。いくら面白くても、もう壊しちゃいましょ」
私は宙に飛び上がり、防戦体勢をとった。
フランドールは何の武器も持たなかった。たまたまそのときは無いだけだったのかもしれない。彼女が私にすることは突進してその身体で私を傷つけることだった。そして近接格闘に対しては、間合いさえ取れれば私が圧倒的に有利になるはずだった。
けれど私がそのときの戦いで有利になることは一度もなかった。私はふらつく身体で彼女の攻撃を避けるか、あるいは人形の盾で防御するか。その二択しかなかった。
フランドールは呪詛のように呟きつづける。
「壊す、壊す、壊す、壊れろ、壊れろ――」
そして拳を私の身体に叩きつける。身体をひねって私は衝撃を軽減したが、それでも地面に墜落するほどの威力だった。吸血鬼の本気がこれほどまでとは思わなかった。パワーもスピードも、どこにも隙がない。間合いをとる時間すらなく私は一方的にフランドールの攻撃を受けつづける。鉄の扉まで逃げることさえ許されない。
そんな必死の状況なのに私は自分の中にある微妙な違和感を覚えていた。その違和感のせいでフランドールに反撃することができない。ただ傷つく身体を無理やり動かし、さらなる攻撃から身を逃がすことしかできない。
ここから逃げることもできないなら、私はただこうしてフランドールの攻撃を避け、助けが来るのを待つしかないのだろうか。ここはあの長い廊下を通り、長い階段を降りた先にある地下室だから、助けが来る確率なんてどこまでも低い。隙を、と私は祈る。隙さえあればあの扉から逃げることができるのに。
けれど隙ができるのは私の方だった。人形に魔力を送ることさえままならないうちに、人形の魔力が尽きていく。最初に落ちたのは倫敦人形、次にオルレアン人形。そして蓬莱人形も魔力が尽きて地面に力なく落ちていった。残ったのは上海人形だけになった。
蓬莱人形が落ちていくのを見てフランドールが言う。
「あなたが壊れるのも時間の問題ね」
私は首を振ることでしかその言葉を否定できなかった。フランドールはため息をつきながら私に当て身をする。避ける気力すらなく、私は衝撃を真正面から受けて床に叩きつけられる。悲鳴をあげることもできなかった。
私は仰向けに床に横たわり、フランドールが私のもとに急降下しているのを視界の隅において一種の絶望に身を浸していた。
どうして人形劇をしに来ただけなのに、私は戦わなくてはならないのだろう。そして今、逃げたくても逃げられない状況になり、私は死の淵から突き落とされようとしている。私はフランドールに一撃たりとも攻撃を当てることができない。
フランドールは私のそばに降り立ち、黙って私を見下ろしている。その視線に私の中の違和感はぐんと膨らんだ。殺されるということがわかっているのに私は命乞いもすることができない。
相手が強すぎて反撃できない――ひょっとしたらそれはただの言い訳に過ぎないのだろうか。私は荒い呼吸をしながら思った。違う、私は本当はフランドールを傷つけたくないのだ。たぶん、それはフランドールと私がどこかで似ているから。
そこまで考えたとき、フランドールが私の首を左手で掴み、そのまま私の身体を持ち上げた。圧倒的な暴力に私の喉が押しつぶされていくのがわかる。無呼吸が優しく私の意識を奪おうとしている。視界が霧に包まれて、上海に指示を出すことできない。
フランドールの乾いた声が聞こえた。
「心臓を突き刺そうかしら?」
残忍な表情が霧の向こうで浮かび上がり、それからガラスのような声で彼女は宣告する。
「私のお姉さまを馬鹿にするのは許さない、絶対に」
私は目を閉じて霧の視界を自ら遮断した。そのとき、私はある思いを強く感じた。
――私は殺されなくてはいけないのだ。
けれど突然、床の冷たい感覚が私の頬に伝わってきて私は目を開けた。私はうつぶせで床に転がっていて、フランドールは私の首を離して自分の脇腹を見ている。そこに小さな剣が突き刺さっていて、その剣を持っているのは上海人形だった。
フランドールは痛みに顔をゆがめ、何も言わず上海人形を拳で叩いた。上海人形はそのまま床に叩きつけられ、動かなくなった。
「上海……」
声にならない声で私は上海の名を呼んだ。上海は何の反応も示さない。フランドールは床に落ちた上海を見つめたまま冷たく言った。
「私の邪魔をしないでよ」
それからフランドールは無表情に私に目を向けた。
これ以上ない絶望的な状況だった。私は死ぬのだとはっきりとわかった。今度こそ私は殺される。どうしようもないこの狭い世界の中で、私はこの小さな子どもに殺される。そこに疑問の余地はない。あるのはその真理だけだ。
私がそう覚悟した瞬間、地獄の門が開き、そこから眩い光が入りこんできた。私の視界はその光に埋めつくされ、そこで私は気を失った。
#7
夢を見た。
とても温かくてやわらかい感触が身体を包んでいる。真っ暗で視界には何も映らなかったが、そこが水の中だということはわかった。本能的にそこは懐かしい場所だった。とても居心地の良い場所。しばらくの間、私はその水の中に体を漂わせて何も考えずにいた。うまく考えることができなかった。
しばらくすると、私は母の腕に抱かれていた。やわらかい水はやわらかい腕に変わり、私の体は母の体に包まれていた。私は母の膝に座っていて、母の胸に自分の頭を預けていた。真っ暗だった世界は薄明るい小さな部屋に変わっていた。
私が真上に視線を向けると、そこで母が微笑んで私を見ているのだ。「ママ」と私が呼ぶと、母はきつく私を抱きしめた。私もその腕をぎゅっと握った。そこも居心地の良い場所だったが、いつまでもそこにいようとは思えなくなった。
ふと私の前に人形が転がっているのに気がついた。可愛らしい女の子の姿を模した小さな人形だ。それに気づいたとき、私の下腹部が鈍く疼いた。私はあれを欲しいと思った、どうしても。
私は母の腕から手を離し、その人形に向けて腕を伸ばした。けれど拳ひとつ分、人形には届かなかった。ぐっと体を伸ばしてもわずか数ミリのところで届かない。母はそんな私をもっと強く、少し痛いほど抱きしめた。人形を私に取らせたくないかのように。
私は体を必死に捻って母の腕から抜けようとしたが、母の力はとても強く、私の力では抜けることができなかった。私は悲しくなった。どうしてママは私に人形を取らせないのだろうと思った。
「ママ」と私は目に涙がにじむのを感じながら言った。
「あれが欲しいの。どうしてもあれが欲しいの」
すると、私を抱きしめる母の力が少し弱くなったのを感じた。母は言う。
「そんなにあのお人形さんが欲しいの?」
私は黙ってうなずいた。目から涙がこぼれそうになる。少しの間があり、それから母は私を抱きしめるのをやめ、そのかわり私を抱えて人形のそばに置いた。私は振り向いて母を見た。母は少し悲しそうな顔で私に尋ねた。
「そのお人形さんを大事にできる?」
私は再びうなずいて母に背を向け、その人形を手に取った。不思議な喜びが体に満ち、私は人形を両手で高くかかげた。そして私は人形を抱きしめてそれに名前をつけようと思った。どんな名前がいいだろう、こんな可愛らしい人形なのだから可愛い名前がいい。
しばらく人形を見つめながら私は考えた。微笑以外の表情を浮かべない人形は私を黙って見ている。もちろん私に話しかけることもない。そのうちに私は自分の納得のいく人形の名前を考えついて、その人形に名前をつけた。
それから私は母がいた場所に振り向いた。けれどすでに母は母の姿をしていなかった。そこにいたのはとても大きなサメだった。私が悲鳴をあげる間もなく、サメは人形ごと私を一口で呑み込んだ。
そしてまた私は温かく真っ暗な水の中でひとりになった。そこには恐怖もなかったし、息苦しさもなかった。最初のときのようにただ心地良いはずの場所だった。けれど私は前と同じようには感じなかった。私は考えることができた。私がずっとそこにいることはできないのだ。
私は大声で叫んだ。
「ここから出して――!」
叫んだ瞬間、夢から覚めた。真っ白い平板なものが目に入り、それを天井だと認識するまでには時間がかかった。天井が天井だとわかり、けれどそれからまた少しのあいだ私は現実を把握しそこねた。世界には天井しか存在しないような気がした。
しばらくして私の体の神経が目を覚まし、私は体を起こすことができた。同時に私の体を鈍い痛みが走りぬけ、それとともに記憶がフラッシュバックした。狂気の紅、死の淵、地獄の門、眩い光。
小さなうめきが漏れ、私は目を閉じて顔に手をあてた。そしてしばらく体中に走る痛みに静かに耐えた。痛みに耐えるだけで体力を消耗し、息が自然に荒くなるのがわかる。どうして、と私は唐突に思い、そして何が「どうして」なのだろうと思った。
「よう」
不意に私の横から声が飛んできた。目を開けて声のした方に顔を向けると、魔理沙が椅子に座って私の本を読んでいた。そこで初めて私は世界を把握した。私がいるのは自分の家のベッドルームで、私は今ベッドで横になっていて、魔理沙がベッドの隣に置いてあるテーブルの隣で椅子に座っている。部屋が明るいからおそらく今は昼あたりなのだろう。
「どうしてあなたが――」
私の質問は体の痛みによって途切れ、痛みから逃げるように思わず腕で自分の体を抱いた。魔理沙はそんな私の様子を見て軽く笑い、そして言った。
「まあ無理するなよ。全治一週間ちょいの怪我だぜ」
私は自分の体を見た。両腕以外は包帯だらけだった。
魔理沙は本を閉じて立ち上がり、私に言った。
「お粥を作ってやろうか。お前も食事はいまだにするんだろ?」
ふだんなら、いや、たとえ病気や怪我でも私はその提案をきっぱりと断ったはずだ。身体が痛もうが頭が重かろうが、私は無理してでも料理を作るだろうし、どうしてもそれが無理なら食べないという選択も、魔法使いの私にはある。
けれどそのとき、魔理沙の提案を私はすぐに断ることができず、少し考えてから小さく笑みを浮かべて魔理沙に言った。
「断るのも悪いし、お願いしてもいいかしら?」
その声は自分でも驚くほどしんなりとしていた。魔理沙がにやりと笑って、「よし来た」と腕まくりをしてキッチンに向かっていった。私はその背中を見送りながら自分の瞳が少し潤んでいるのに気がついた。
ベッドのそばのテーブルの上にはさっきまで魔理沙が読んでいた本と上海人形が無造作に置かれていた。他の人形はそこには見当たらなかった。きっとリビングに置いてあるのだろうと私は思った。私は本と上海を注意して眺めた。
魔理沙が読んでいたのはグリモワールだった。それにそれは私が魔界から出るときに持ち出したものだ。私の胸で痛覚でない痛みが発光し、私は目を伏せて上海の方に視線を移した。
一見しただけではどこも壊れていないように思えて、私は少し魔力を送り、上海を動かそうとした。けれど上海はわずかにでも動く気配がなかった。どこかの幹部がやられてしまって機能停止しているようだった。そうなった場合は私が直さなくてはいけない。
けれど私は上海にまで手を伸ばし、それから様々な道具を取り出して、神経を使いながら修復作業をする気にはまったくならなかった。そうするにはまだ身体が傷つきすぎているとも思ったし、たとえ健康だったとしても修復する気にはならなかっただろう。
私はまたベッドで横になり、掛け布団を頭からかぶって短い眠りに落ちた。
しばらくして、魔理沙が木製の器とスプーンを持ってきて私の隣に座り、私に呼びかけた。短くも深い眠りから引き上げられた私は、体を起こして魔理沙の姿を見た。意識のスイッチが入るまでのコンマ一秒、私は魔理沙の中に強い幻影を見た。けれどすぐにその幻影は消えて、私は現実に戻った。
少し乱れた髪を手櫛で流しながら私は言った。
「ありがとう、魔理沙」
魔理沙はふふっ、と珍しい笑いかたで私の手櫛の動作を眺めた。それから魔理沙は身を乗り出して私に顔を近づけて尋ねた。
「怪我がつらいんだったら私が食べさせてやろうか?」
少し悪戯っぽい、軽い表情の魔理沙。おそらく本人は冗談のつもりで言ったのだろう。でも私はその魔理沙の顔をしばらくのあいだ真正面から見つめた。そして手を布団の上に静かに置いて、目を伏せがちに魔理沙に言った。
「そうね……お願いしてもいい?」
「へっ」
間の抜けた声を出して、魔理沙は口を中途半端に開いたまま私を見た。しばらく空白の時間があって、それから魔理沙は戸惑いがちに言った。
「あのさ、え、ほんとうなのか?」
私は小さく笑った。
「嘘よ」
そして私は呆然としている魔理沙の手から器とスプーンを取った。中には煌めくような白色のお粥が入っていた。それをスプーンで掬いながら私は魔理沙に言った。
「冗談に決まってるじゃない」
私が食べはじめてからも、魔理沙はそのままの格好でしばらく私をじっと見つめていた。それほど長い時間ではなかったかもしれない。やがて魔理沙は頭の後ろで手を組み、椅子の背にもたれてつぶやくように言った。
「『重症』だな、こりゃ」
私はその言葉を聞かなかったことにした。
#8
「今さらだけど、どうして魔理沙がここにいるのよ?」
お粥を半分くらい食べ終わったところで私は魔理沙に尋ねた。もちろんある程度の予想はした上で。私が倒れたところを誰かが拾い上げて、そのまま私の家に運び、家が近い魔理沙に看護を頼んだ、というところだろうと思っていた。その誰かはわからなかったが。
「お前がどこまで覚えているかはわからないけど、倒れているお前を拾ったのは私だよ」
意外な答えに私は目を見開いた。
「どうしてあなたが来たの?」
「それは偶然だ。パチュリーの図書館に行ったらすごい地響きがして、事情を聞いたらお前がフランのところに行ったっていうじゃないか。それで箒すっ飛ばして行ったんだぜ」
私はパチュリーの言葉を思い出した。「やらなければならないこと」というのは図書館に忍び込んだ魔理沙の撃退のことだったのだろう。魔理沙が腕組みをして続ける。
「フランがお前にとどめを刺そうとするところで、ぎりぎり私のマスタースパークが間に合ったんだ。フランがひるんでいる隙にお前を抱えて逃げた」
淡々と魔理沙は続けた。
「紅魔館に永琳を呼んで診てもらったが、幸いひどい怪我ではなかったらしい。だということで、お前を家まで運んで、私があとの面倒をみることにしたわけだ。昨日今日と私もここにずっといるわけだな」
「なんであなたの家じゃないのよ」と私が言うと、魔理沙は笑って返した。
「お前の家の本が読み放題だろ。お前のガードは固いからこういう機会は貴重なんだ」
「なによ、それ」
身体に軽い痛みを覚えながら私も笑った。それから私は魔理沙に向き直って言った。
「ありがとう、魔理沙」
魔理沙は気恥しそうに私から目をそらして「おう」とだけ言った。けれど、すぐにその視線を私に戻し、少し緊張したような表情で私に尋ねた。
「で、どうしてお前はフランの部屋であんなことになっていたんだ?」
お粥を掬うスプーンの手が自然と止まった。私は魔理沙から自分の手元の器に目を落とす。私はとりあえず言葉を口にした。
「戦ったからよ」
「それは私にもわかる」
魔理沙はあっさりと言い返した。声のトーンを少し落として魔理沙はさらに訊いた。
「どうして戦うようなことになったんだ?」
しばらくのあいだ私は手元を見つめたまま黙っていた。それでも魔理沙の視線はあいかわらず私を見据えたまま動かなかった。私の心がふらりふらりと右へ左へ惑星のように動いているのが自分でもよくわかった。
「どうしても話さなくてはいけない?」
私は罪を問われた子どものような声で言った。魔理沙は腕組みをしたままゆっくりとうなずきながら「そりゃあな」と低く響く声で言う。
「お前に非がないかどうか、わからないだろう?」
その声に押されるようにして、私は今までの出来事を思い返した。その始まりはあの祭りの日、そして終わりは私が気を失うところ。そして魔理沙に、ぽつりぽつりと一つひとつの出来事を語っていった。魔理沙はその話をただ黙って聞いていた。けれど私はあるところだけを意図的に語らなかった。地下室でやった劇の中身を。
私の話が終わると、魔理沙はふうっと息をついて目を閉じ、しばらく思案にふけっていた。私は上海をじっと見つめて、魔理沙が口を開くのを待っていた。
どれくらいの時間がたったかはわからない。魔理沙が目を開いて私に尋ねた。
「地下室でやった劇ってどんな話だったんだ?」
私の喉が締めつけられる感覚を思い出した。錯覚にしてはあまりにもはっきりとしていた。私は自分の喉に手をあててその感覚を拭いさろうとした。けれどいくらさすってもその感覚はじわりと残っている。
私は雑音のような声で魔理沙の質問に答えようとした。
「娘が意地悪な母親のところから出て――」「ああ」
魔理沙は私の話を遮るようにため息をつき、それから低い声で「わかったよ」と言った。私はゆっくりと顔を上げて魔理沙を見た。魔理沙は椅子の背にもたれて再び頭の後ろで手を組み、つぶやいた。
「どっちが悪いとは言えないな……」
それから長いあいだ、沈黙が私と魔理沙の間に流れた。
突然魔理沙が、わざと思い出したような口調で私に言った。
「そういや、お前が寝ている間だいぶうなされていたな」
「うなされてた?」
「ああ、ときどき『ママ』って呼んでたぜ」
胸の芯が震えた。忘れようとしていた夢がかたちをなして私の前に戻ってきた。危うくスプーンをとり落とすところだった。魔理沙は椅子の背にもたれたまま私に尋ねた。
「ママって神綺のことだよな? お前が魔界出身ならそういうことになる」
私は小さくうなずいて、「昔はそう呼んでいたの」と答えた。魔理沙が少し怪訝そうな顔をしてさらに尋ねてきた。
「昔は……って、じゃあ今は違うのか?」
「……わからない」
私は少し時間をあけてそう答えた。
「魔界を出てからまだ一度も戻って会ってないから。どう呼べばいいのかわからないの。あえていうなら、お母さん、かしら」
魔理沙は「ふうん」と言って、それから左ポケットに手を突っ込んだ。「あれ、どこにいったかな」と、しばらくポケットの中をまさぐっていたが、そのうちに「あったあった」と、くしゃくしゃになった紙を取り出した。そしてそれを私に投げ渡しながら言った。
「あんまりうなされるもんだから、お前の家中引っかき回してこれを探したぜ。でもごみ箱の中じゃなくて、その後ろに隠れてるとは思わなかったなあ」
私がスプーンを置いてその紙を両手に持つと、魔理沙はあごで「広げて読めよ」といった動作をした。私はその紙を破れないようにゆっくりと丁寧にのばしていった。それはこのまえ私が受け取った母からの手紙だった。私は何も言わず、黙ってその手紙をもう一度最初からゆっくりと読み直した。魔理沙も黙って私を見ているだけだ。
少し丸みがかって小さい、綺麗で丁寧な字だった。いつも長い時間をかけて私に書いているのだろうか、と私は思った。私に何を書こうか、どう書こうか、綺麗に書こう、そんなふうに考えているのだろうか。皺の部分の字も裏まで染み込んだインクによってはっきりと判別できた。私はいたたまれない気持ちになった。
そして、「ママがアリスちゃんのことを抱きしめてあげちゃうわ。」――急に胸が締めつけられるように切なくなる。どういう気持ちで母はこの文を書いたのだろう。そしてどういう気持ちで今、私はこの切なさを抱えているのだろう。
私は切なさのあまり手紙を握りしめた。ぎゅっと新しい皺ができる。喉から声が出かかって、私は必死でそれを抑えた。そのかわりに目が少し潤むのがわかった。
魔理沙は黙って立ち上がり、少ししかお粥の残っていない器とスプーンを私の膝からとってそれをキッチンに運んだ。私はそのあいだ、体中を駆ける切なさを落ち着けようとして、ある程度その試みはうまくいった。
魔理沙がキッチンから戻ってきて椅子に静かに腰掛けた。私が少し落ち着いてきたのを見て、ゆっくりと口を開いた。
「今まで一度も訊いたことなかったが、アリスはどうして幻想郷に来たんだ?」
私は手紙を握ったまま魔理沙の真摯な瞳を見た。魔理沙は私から目を離さない。
「訊こうと思ったことも今までに何度かあった。でもその度にどこかお前の雰囲気がそうさせなかった。私にもよくわからないけどな、今しか訊く機会はないんじゃないかって思った」
その瞳は私を射抜こうとしているのではなく、ただ真正面からぶつかってくるだけだった。私はテーブルの上に置かれた上海を見た。あいかわらず目を開いたまま動くことはなかった。そこに視線を置いたまま、私は静かに言った。
「お母さんがね、嫌いだったの」
魔理沙は表情を変えずに黙って私を見ていた。彼女は最初からこの答えを知っていて、確認するために質問してきたのだと私は気づいた。そこにどんな意図があるかはわからないけれど、私は話してしまおうと思った。魔理沙に甘えるように、あるいは身を寄せるように。
「最初から嫌いだったわけじゃないわ。私が意識というものを持ちはじめたとき、それからたぶんそれよりも前から、私はお母さんのことが好きでたまらなかった。どんなときも私はお母さんから離れようとしなかった。ご飯を作るときも、夢子と何かを話しているときも、本を読んでいるときも。お母さんから離れることが、なんとなくだけど怖かったの」
ふっとフランドールがレミリアにしがみついている姿が頭の中に甦った。私はそれを振り払うようにして小さく息をつき、話を続けた。
「それほどお母さんに甘えていたのに、あるときから突然お母さんが嫌いになってしまった。嫌いというよりは……そう、生理的に受けつけなくなったような感じかもしれない。どうしてだかはわからないけれど、お母さんのそばにいると私の気が荒立ってきて乱暴な言葉を吐いたりしたわ。私はできるだけお母さんから距離をとろうと思ったし、そうしてきた。そうしないと私は自分でいられないような気がして」
そして私はひとつのピリオドをつける。
「だから私は魔界を飛び出してきた。お母さんとできるだけ離れるために、この幻想郷を選んだの」
私がそこでまた息をつくと、魔理沙は私から上海人形に視線を移した。私と魔理沙の視線が上海人形で交わる。魔理沙は上海人形を見つめたまま言った。
「上海人形はお前が作ったものなのか?」
どうしてそう思うの、と私が魔理沙に尋ねると、魔理沙が私に視線を戻して答えた。
「上海人形だけ他の人形と微妙に造りが違うからな。お前が作ったものじゃないんだと思っているんだが」
「そう、上海人形だけはね、あれはお母さんから貰ったものなの」
そうか、と魔理沙はため息をついて言った。
「お前が神綺を嫌いはじめたのは、その人形を貰ったあたりからじゃないか?」
魔理沙にそう言われて私ははっとした。そうだ、思い返してみると魔理沙の言うとおりだ。私に上海との記憶が甦ってきた。私は魔理沙に尋ねた。
「どうしてわかったの?」
魔理沙は苦笑いして頭をぽりぽりとかく。
「ん、まあ、勘だ。お前と私の付き合いだ。それなりにはわかってしまうもんさ」
私はそんな魔理沙を見ながら言った。
「上海は私の初めての人形だった。上海をもらってからは、私はずっと上海と遊んでいたわ。それこそお母さんから乗り換えてしまったように、朝から晩までずっと。ときどき思い出したようにお母さんに振り向くと、たまらなくお母さんが憎く思えたの」
私はそれから家を見回して続ける。
「一人暮らしはそんなお母さんから逃げるためだけのシェルターのようなものよ、私にとっては。逃亡とそれから反抗。だから手紙が来ても返事なんてしたこともないし、お母さんが万が一来てもドアを開けるつもりなんてなかった。
でも今になって、私は夢にうなされて『ママ』なんて呼ぶのよ。お母さんが嫌いで逃げてきたはずなのに。笑えるわ、本当に――」
そして本当に乾いた笑いを私は漏らした。苦しい強がりだと自分でもわかっている。でもそうせずにはいられなかった。笑いつづける私から魔理沙は黙って目をそらし、窓の外に視線を向けた。その方向には魔理沙の家があった。外では夏の雨が降っていた。しとしとと、いつまでもやまないような湿っぽい雨だった。
私はふと上海に目を留めた。その動かない上海の冷たい目によって私の笑いは止まり、再び沈黙が私と魔理沙を包んだ。
「私は母親じゃなくて、親父が憎かったんだ」
長い沈黙を破ったのは魔理沙だった。窓の外を見たまま私には笑みを見せない。けれどその横顔にはどこか温かい雰囲気が滲み出ていた。
「あるとき、魔法の研究で親父と真っ向からにらみ合った。私の新しい魔法の研究を親父は認めてくれなかった。親父はある意味じゃ保守派というか、大胆な魔法の開発はしない人だったんだ。でもアリスもわかってるだろ。私はパワーのある魔法が欲しいんだよ、何をやるにしてもな。
私も親父もどっちもまったく譲ろうとしなかった。お互いただ言いたいことを言っているだけだ。歩み寄ろうなんて気は微塵もなかったよ。まあ、悪く言えばどっちも阿呆みたいに頭が固かった。何日経ってもその態度は変わらなかった。むしろ、もっと相手への憎しみが大きくなってた」
魔理沙は椅子の端に片足を載せてその膝を抱いた。長い話をするときの魔理沙の癖だ。
「で、ある日、やっぱり私と親父が激しく口論していて、母さんがその様子を見てオロオロしていた。そのあたりの数日はずっとそんな感じだった。でもその日は違った。私が親父の言葉に逆上して、激しく親父を罵りながら、ありったけの力で親父を突き飛ばしたんだよ。突き飛ばしたというか、張り倒したというか、とにかくそんなに軽い話じゃない。親父もさすがに私の様子にひるんだみたいだった。
倒れた親父に私は追い討ちをかけようとした。足で踏んづけようとかそういうふうに思ってた。私には凶暴な魔物が住み着いているようだった。でもそのとき、母さんが私の前に飛び出して私を止めた。当然だよ、だって自分の親父に手を上げて暴力を振るってるわけだからな」
魔理沙は窓の外を見つめたまま、私にぼんやりと尋ねた。
「そこで母さんはどうしたと思う?」
私は何も答えず、ただ黙って魔理沙が再び話しだすのを待った。魔理沙も私の答えを待っているわけではなかった。私を視線を合わせないまま、魔理沙はずっと私に横顔を見せつづける。けれどそこには微笑が浮かんでいるように見えた。
「つかまれて暴れる私を、母さんは何も言わないで抱きしめたんだ。それだけだよ。それ以外には何もしなかったんだ」
そこで魔理沙は小さくため息をついた。少し魔理沙の身体が小さくなったように見えた。私はその魔理沙の姿に微妙な共振を感じた。母に抱きしめられたときの魔理沙は、きっと今の私のような目をしていたのだろうと思った。
「私は叩かれるんだと思ってた。そうして当たり前のことをしたんだから、その報いはあるんだと思ってた。でも母さんはそうしなかった。どんなに苦しい思いを抱えていたのかもわからない。それに突き飛ばされたのは親父なんだ。親父のことも心配でたまらなかったと思う。それなのに私を抱きしめたんだよ……」
魔理沙はそこで声を詰まらせて、少しのあいだ目を伏せて静かに呼吸していた。しばらくして、魔理沙はゆっくりと口を開いた。
「母さんに抱かれたまま、私はわんわん泣いた。どういう気持ちだったのか今でもわからないが、とにかく泣く以外のことは私にはできなかった。自分があまりにも情けなかったのかもしれない。母さんを苦しめるだけの私が情けなかったんだと思う。次の日、私は家を出た。もうこれ以上母さんを苦しめたくはなかったし、いつか一人で暮らしていけるように。だから私は魔界に行ってしばらく魅魔さまのところで修行をして、今は幻想郷に来て魔法の森に住んでる」
魔理沙は少しずつ落ち着いてきた。
「今でも母さんには手紙を書いているよ。ほんのたまに親父宛に文章を書いていたりもするし、お盆とかには家に戻ったりもしている。私が一人で暮らしているのは……そうだな、逃げとか反抗じゃないんだ」
そこで初めて魔理沙は私に顔を向けた。その目には少しだけ涙の陽炎が残されていた。私は衝動的に魔理沙に手を伸ばそうとした。けれど魔理沙は首を振ってそれを制した。違うんだ、そうじゃないんだよ、アリス。魔理沙の目は確かにそう言っているように思えた。
「なあアリス、お前にはそういう関係は結べないのか?」
私は魔理沙から視線を落として伸ばそうとした腕を見つめた。そこで私は初めて自分の腕には一ヶ所も傷がないことに気づいた。あれだけ激しくフランドールに傷つけられて、そこだけ傷が無いというのは、はたして偶然なのだろうか?
そして私はこの腕で母とそうした関係をつくれるのだろうか? 私にはわからなかった。できるかどうかも、できたとして、どうすればいいのかも。
私は再び顔を上げて魔理沙に視線を向けた。魔理沙は私をじっと見据えている。そこにはさっきまでの微妙な温かさも微笑もなかった。あるいはさっき私が見たと思ったものは、私の幻覚だったのかもしれない。私の強い深淵が見せた小さな幻覚。
「魔界茶でも淹れようか」
魔理沙がそう言って伸びをしながら立ち上がった。そしてテーブルに置いてあった上海人形を私に私の膝もとに置いて私の目を見る。
「治してやれよ、こいつも。動けない身体でお前のことを助けようとしてたんだ」
「上海が?」
私は上海を両手にとったが、やはり何の反応も見せなかった。重力に引かれて腕や足は力なく垂れ下がっていた。私は気を失う直前の上海のことを思い返した。フランドールに叩かれて、その時点で動かなくなっていたはずなのに。私は魔理沙に言った。
「上海が動くはずないわ。だってあなたが来たとき、もう私は気を失っていた。戦闘プログラムは複雑だから私の操作がなければ動くことがないようにしてあるのよ」
「でも私が見たときは、気を失っているお前のところに行こうと、腕で地を這って進んでいたと思うけどなあ」
私は魔理沙に尋ねた。
「そんなことってあるのかしら?」
肩をすくめて魔理沙は言った。
「さあ、私は知らないぜ。なんか間違って操作したままだったんじゃないのか? あんまり気にしなくてもいいだろ」
魔理沙は私に背を向けてキッチンにお茶を淹れにいった。
私はもう一度上海人形を、今度は上から下まで眺めた。腰の部分が少しずれているし、あちこちの部分が欠けていた。やはり上海が動きそうな様子はない。魔理沙が言ったことは、彼女の見間違いなのだろうか。それとも本当にそうしていたのだろうか。
どちらとも判断しかねた。上海人形を魔法で動かしている以上、そうした可能性が無いとも言いきれない。魔法のことならある人物がよく知っているはずだ。私は上海を握りしめ、その人物に会いにいこうと思う。
けれど、握りしめたときに身体の痛みがまた戻ってきた。まずはこの身体を治さなくてはいけなかった。私は上海を膝下に置いて、魔理沙の向かったキッチンに顔を向けた。そこからは魔理沙の上機嫌な鼻歌が聞こえてくる。さっきの話はまるでなかったかのように、弾んだ鼻歌だった。
#9
夕暮れどきに魔理沙は自分の家に帰った。いいかげん自分の家に戻らないと何が起こっているのかわからないと言う。
「もう一人で大丈夫だろ。また明日も様子は見に来るからさ」
帰り際に魔理沙はそう言って帽子を深くかぶり、箒に乗って雨の中を私の家から出発した。彼女とともにそれなりの量の本が彼女の家に持っていかれた。それを止めるほどの力が私にはまだ無かった。私は呆れてため息をつきながら、魔理沙が開けっ放しで出ていったドアを閉めた。
ドアを閉めて自分の家の中をあらためて見回すと、なんとなくものが少ないように感じた。けれど多くの人形、家財道具、本などを考えれば少ないということは決して言えないはずだった。でも私はものが少ないということを痛烈に感じてしまう。
そして私の家がひどく小さく狭く、薄暗いもののように感じられた。それは紅魔館で見た、あのフランドールのいる地下室を想起させた。そこは自分の殻のようにもろく、醜いセミの抜け殻のようだった。夏の雨の音が私の部屋の中に虚しく響いた。
私はベッドルームに戻り、テーブルに置いた上海人形に目を向けた。私が目を覚ましてから彼女が動きを見せたことは一度もないままだった。直さなくては、と私は思った。人形遣いとして人形のメンテナンスをすることは、呼吸をするのと同じくらい自然なことだった。私は痛む身体を引きずり、リビングから修繕道具を取り出し、そして上海を手にとって下半身をベッドに入れた。それから私は傷の一つもない両腕で上海人形を直しはじめた。ベッドのそばに置いてあるスタンドから小さな明かりが手元を照らしていた。
針を手に持って糸を上海の身体に通しながら、私は上海のことをゆっくりと思い返した。糸が上海の身体を突き抜けるたび、私は彼女のしたことを痛烈に思い出すことができた。
魔理沙に紅茶を淹れなかったこと、祭りの劇で蓬莱人形の手をとって走り出したこと、地下室の劇で蓬莱人形に掴みかかったこと、フランドールに刃を突き立てたこと、そして地面を這って私のそばまで行こうとしていたという魔理沙の話。
いずれも私がやろうとして命令したことではなかった。どれも上海が勝手にやったこと、あるいはやらなかったことだ。私はそれに戸惑い、苛立ち、そして救われた。私が抱いた心の軌跡は様々なかたちを描いている。けれど上海はどうなのだろう? 人形に心はない。それは私が一番よく知っている。しかし仮に上海に意志というものが内在されているとしたら、彼女はどう思ってその行動をとったのだろう?
私が今こうして上海を直しているのは、魔理沙のおかげでもあり、上海のおかげでもある。狂気に揺られるフランドールから身体を張って私を守ろうとし、傷ついた後でも私のもとに寄ろうとしていた。
どうしてそこまで、と私は思った。何があなたをそんなに強く突き動かしたの、私にはわからないわ、上海。私は声に出さずに上海に問いかけた。けれど上海の目は何も答えなかった。死んだ目は私を見てすらいなかった。私の内なる声が木霊のように自分に返ってきただけだった。
私がそれほど上海に守られるようなことをしてきたのだろうか? 今度は私が上海にとってきた行動を思い出した。紅茶を淹れなかったとき。劇で私の意図した動きと異なっていたとき、私を守ってきたとき、私は上海に何をしたというのだろう?
何もしていないじゃないか、と私はその事実を胸に突き立てられる思いがした。私はただ上海に厳しい言葉を投げかけ、自分の思いどおりにならないから苛立ち、冷たく上海を突き放しただけだ。今思えば、上海にそれほどの落ち度があったわけではなかったのに、私は上海に冷たくあたってきた。彼女が私を守ったときでさえ、そして目覚めた今でさえ、彼女には感謝のひとつもないままに過ごしてきた。上海はその私の態度を強く肌身で感じていたのだろうか? それでも彼女は私を守って、今こうして動かなくなっているのだ――。
私の下腹部がきゅんと切なく締めつけられた。それは今までに感じたことのないほどの強さだった。そこにある何かが私を責め、そして突き動かそうとしているのだ。私はそれを意識しないようにして、上海の修復作業を続けた。
「しゃんはい」。上海人形を初めて抱いたとき、私は彼女にそう名前をつけた。口のない人形にでもそうして名前をつけることは、そのときの私の年齢ほどの女の子になら不思議なことではなかっただろう。上海と名前はたまたま読んだ本の中から語呂のいいものを選んだだけだ。あまり深く考えずに名前を付けるというのも、子ども独特の名付け方だろう。
でも子どもの私はその行為を何よりも大事に思っていた。その人形に名前をつけることで、私はどの人形よりもその人形を大切にすることができると思っていた。ずっとこの上海と一緒にいたい、と小さな子どもの強い言葉で思っていた。だから上海はいつまでも私のそばにいた。
けれど、そこでふとある疑問がわく。
ずっとそれでいいのだろうか?
私は夢で見た母の腕を思い出した。やわらかい腕はたしかに気持ちのいいものではあったけれど、その中に永遠に居続けることはできないのだ。理由はうまく説明できないけれど、それは何よりも確かなことだ。
そして私は自分の母を思った。私が母を憎んでいたときに、憎しみが最大限にこもった視線を母に向けたときに、母はどう思っていたのだろう? 憎しみという膜を取り除いた記憶の中の母は、私にただ哀しい目を向けていただけだった。私に何も言わなかったし、私を叩くわけでもなかった。
下腹部の疼きがどんどん強くなっていった。そうだ、母は私を決して責めようとしなかった。私を心配してくれていただけなのだ。私に冷たい態度をとりたかったのかもしれない。もっと厳しく叱りたかったのかもしれない。そうしようと思えばできたのに、母はそうしなかったのだ。
意識しないように努めていた疼きは私の胸までせりあがってきた。私は泣きたくなった。
私は何もわかっていなかったのだ。ただ強がって生きてきただけだ。魔理沙に言ったとおり、私は――。
そのとき、上海が私の手の中でぴくりと動いたような気がした。私ははっと目を見開いて、今の感覚を取り戻すように、必死で上海を直していった。それから私が今持てるかぎりの魔力を上海の中に充填した。私の身体からどんどん力が抜けていったが、それはもう気にならなかった。
そして上海の身体が動いた。両腕と両足に力が入り、重力に逆らいながら身体を起こした。私の手のひらに腰掛けるようにして上海は姿勢を直した。それから上海は少しあたりを見まわし、私の顔を見つめた。その上海の目には人形なのに光が宿っていた。
「どうしたの、アリス?」。上海はそう言っているように見えた。口はないはずなのに。
「上海」
私は上海を抱きしめ、彼女の名を呼ぶ。私の目から自然に涙がこぼれてきた。
「ごめんね……ごめんね、上海」
上海は何も言わず、私に抱きしめられるままに、私が涙を流しているのを感じているだけだった。そう思う。たとえ彼女にひとかけらの優しさがあったとしても、それでもただ抱きしめられるままだっただろう。泣きながら自分を抱く母に対して、子どもが何もできないのと同じように。
小さな明かりを灯した家の中で、私は上海を抱いて泣きつづけた。外では雨が降りつづけている。夏の雨のようにいつまでも続くような涙だった。
#10
長い雨がふったあとの森は雫が太陽の光に煌めき、宝石の砂が散りばめられているようだった。真っ青な空に白熱の太陽が浮かび、地上を照らし出している。湿度は高かったが、どこかさっぱりとした趣があった。扉を開けた私は、その光景にしばらく呼吸を忘れて見入った。幻想郷の夏はもう何度も体験しているが、こんな光景は初めてだった。
しばらくして私はふっと意識に返って呼吸を取り戻し、自分の家のドアを閉めて鍵をかけた。上海が自分のそばにいることを確認して、私は限りない青い空に飛び上がった。上海も私についてきた。
一週間の怪我が完治した翌日、私は再び紅魔館に行くことにした。魔理沙に言われたことがどうしても気になっていた。「でも私が見たときは、気を失っているお前のところに行こうと、腕で地を這って進んでいたと思うけどなあ」。命令もなしに人形が動くとしたら、それは自律意識が宿っている可能性がある。魔法に詳しいパチュリーならそのことについて何か有用な情報を持っていると、私は考えた。
雲ひとつない空を私と上海は滑っていった。白い太陽は容赦なく己を主張し、焼きつけるような日射しを私たちに向けていた。けれど魔法の森を抜け、湖に入ると太陽の光は少しずつ弱まっていった。そして空に白いもやが見え、だんだんとそれが濃くなり、いつしか雲の形となっていった。私が紅魔館にたどりつくときには、雲は重い灰色となり、激しい雨を降らせていた。雨除けの魔法を私と上海にかけた。
夕立にしては妙だと私は目の前を通り過ぎていく雨を見て思ったが、あまり気にしないことにして紅魔館の門に降り立った。そこまで深くは考えなかったのだ。ついていないと思っただけで。
大きな水たまりのそばに降り立ち、雨の日もそこに立っている門番を見た。美鈴はびしょ濡れになって服から大きな雫を絶え間なく垂らしつづけていた。服だけではない。髪も帽子も顔も、どこにも乾いている部分が無かった。地上にいながら、まるで湖に浸かっているような、そういう格好だった。
そして美鈴は門の横の柱に寄りかかり、うつむいたまま足元にできている大きな水たまりを眺めていた。水たまりには激しい雨が落ちつづけ、波紋が混沌を作りだしている。美鈴は私が来たことに気づいていないようだった。
私は美鈴に声をかけた。
「こんにちは、今日もご苦労さまね」
美鈴はゆっくりと顔を上げて私を見た。その表情にはどこにも驚いた様子がなく、最初から私が来たことを知っているようだった。そして美鈴の表情には、躍動というものが無かった。倦怠、無情といった消極的な波動があった。美鈴は言葉だけ私に答えた。
「アリスさんですか」
その声も平坦で鉛のように重く、温かみが無かった。私は美鈴にもう少し話しかけることにした。
「ずっと雨が降っている中、門番なんて大変ね」
「今に始まったことではないですよ。私が門番となったときから、こんなことは慣れっこです」
そう言って美鈴は息だけで笑い、すぐにそれもやめてしまった。私と美鈴の間に暗い沈黙が流れる。激しい夕立が空気を背景として駆け抜ける。美鈴はずっと暗い目で私を見つめている。私はそこで初めて美鈴の態度に戸惑った。
「通っていいのかしら?」
無理やり沈黙に孔を開けるようにして私は美鈴に尋ねた。美鈴は後ろに首を向け、それから私を一瞥して言った。
「どうぞ、自分で開けてください」
細い針が私の胸を突き刺したような気がした。それほど美鈴の態度は私をひどく傷つけた。門番としての無礼というより、美鈴という個人としてのその冷たさ。この前の訪問のときの温かさはどこへいってしまったというのだろう? 雨が彼女の優しさを奪ってしまったようにも見えたし、実際雨の影響もいくらかはあるに違いない。けれど雨が激しく降っているからといって、雨のせいだと断定することは私にはできなかった。
私は美鈴の横を通り過ぎ、門を押しながら彼女に言った。
「通らせてもらうわ」
美鈴はうなずきもせず、またうつむいて目の前にある水たまりに視線を戻した。水たまりの底には不自然な幾何学的模様が刻まれていた。美鈴はそれきり動く気配がなくなった。私は自分で門を開き、その下をくぐって門を閉じた。上海が美鈴に首を向けたまま私についてくる。結局美鈴は私に明るい笑顔を見せてくれなかった。
門をあとにして玄関前に行くと、綺麗な姿勢で立っている咲夜がそこにいた。あいかわらず凛とした表情で。私は肘から上で手を振り、咲夜に自分が来たことを知らせる。けれど美鈴と同じように、咲夜も私に対して表情の変化を見せなかった。見せなかったというよりは、不変のためにより冷たい方向に変化したように思えた。
彼女の視線には冷たい氷の棘さえ想像させるような鋭さがあった。私はそれに気づき、自然と振っていた手を止めてゆっくりとそれを下ろしてしまった。私は少しあごを引いて咲夜の前まで歩いていった。そのあいだ私と咲夜は何も言葉を交わさなかった。雨が私たちの真上に降り、けれど雨除けの魔法で脇にそれる。家を出たときの青空などどこかにいって、今日は夕立の音ばかり聞いている、と私は思った。
私と咲夜の距離が一メートルになったところで私は立ち止まった。私のいるところは玄関の屋根がちょうど出ていないところで、私の体には雨除けをしているとはいえ雨が降りつづいた。咲夜がきびきびと私にお辞儀をして言う。
「ようこそ、紅魔館へ」
私は少し上目遣いで咲夜を見たまま何も言わなかった。咲夜も私の返答を待たずに先を続けた。
「アリス・マーガトロイドさまを今日は図書館の方へ案内いたします。ついてきてください」
そう言って咲夜は隙のない動きで踵を返し、歩きはじめた。私がついてきているかも確認せず、玄関の扉を開いて中に入った。私は咲夜との距離を一メートル以上に保ったまま、彼女についていった。
空に雨を降らす黒い雲がかかっているせいか、紅魔館の中も妙に暗かった。窓から入ってくる光はわずかで、廊下の壁にかけられた照明が無ければ夜だと思ってしまうかもしれない。妙に暗く、雨の音が妙に静かに響いていた。私と咲夜は一切話さない。咲夜の靴の踵の音が鋭く響き、私のブーツの音が鈍くそれを包む。上海が私の横をふらふらと漂う。
図書館までの間、私はずっと自分の頭の中で独り言をつぶやきつづけた。私が何をしたというのだろう。ここまで気まずい沈黙を生み出すようなことを私がしたというのだろうか。この前のことがあったが、それはほとんどフランドールが原因だ。私に一因が無いとも言いきれないが、しかしもうその話は過去のことではないのか?
何度も同じ問いを自分に繰り返し、そのたび私は冷たくされる覚えがないという結論に至る。雨と靴の微妙な不協和音を引き連れたまま、私は咲夜に導かれて地下の図書館の扉までたどり着いた。
「アリスさま、ここが図書館でございます」
咲夜が扉の横に立って私に振り返り、冷たい表情のまま言う。そのまま扉を開けず、立っているだけだった。私が自分で開けて入れということなのだろう。私は咲夜をなるべく視界に入れないようにして扉の前まで歩き、手をかけてそれを開く。
暗く静かな紅魔館の奥にさらに暗く静かな図書館が広がっていた。私は図書館の中に入り、後ろ向きに扉を閉めた。天井までのびる本棚が無数に存在し、薄いほこりが本棚に積もっていた。あいかわらずほこりっぽい図書館だった。
そして本棚の間から奥に少し広い空間が見えて、そこに細い足のテーブルと二つの椅子が見えた。そしてその椅子にはパチュリーが腰掛け、私に背を向けていた。
「来たのね」
低めのトーンの声が扉の前の私まで届いた。私はその声に促されるようにして本棚の間を進んでいった。天井からつるされたランプの光が空に舞う塵を煌めかせ、上海がランプの下を通り過ぎると塵が渦を巻いた。
私はパチュリーの後ろに立ち、いつものように本を読んでいるその背中を見つめた。彼女も私に対して冷たい態度をとるのではないかと、わずかな不安を浮かべながら。テーブルから少し離れたスペースに私の知らないかたちの不思議な魔法陣が描いてあった。この図書館も、そのときの私には親しみのないどこか別の場所に見えた。
パチュリーは私に後頭部を向けたまま、自分の向かいにある空きの椅子を指差して言った。
「座ったら?」
抑揚のない声は無数の本の中に埋もれてしまうようにして消え入った。私はその声にしたがってパチュリーの向かいの椅子に座ると、彼女が本を読んでいる様子が正面から見ることができた。彼女は顔を本に向けたまま、私以外の誰かに言った。
「小悪魔、紅茶を」
本棚の間から「はい」という返事が聞こえ、そして図書館は再び静寂に包まれた。私が座ってもしばらくの間、パチュリーは本から目を離さずそれを読みつづけた。その光景はいつものことだった。彼女がひと段落して本を閉じるまでは、客人は用件を話しだすことができなかった。彼女は読書を邪魔されるのが嫌いなのだ。
しばらくして、いつものようにきりのいいところで彼女は本を閉じ、そこで初めて顔を上げて私に視線を移した。いつものようにほこりと長時間の読書の疲れのせいで、力のない目だった。私はそれでも疑うようにしてパチュリーの様子を観察していた。
パチュリーは目を上げても少しのあいだ何も言葉を口にせず、私を見つめ、それから言った。
「萎縮しなくてもいいのよ」
私は彼女の言葉に意表を突かれた。パチュリーは私のそばにいる上海を一瞥して私に視線を戻し、そのまま笑顔もない表情で続けた。
「なんだか私に遠慮しているみたいだけど、私はあなたに対してとくに特別な思いを抱いていない。私とあなたは同じ魔法使い、そうでしょう?」
「でも」
私は言った。
「それはあなたがいつもと同じように接してくれるから。他の人はそうじゃないみたい。美鈴も咲夜も私に対して冷たいというか……責めているというか、明らかに前とは違うわ。私は何もしていないのよ、あの二人には」
パチュリーは少し目を見開いたが、すぐにまぶたを重そうに下ろして気のないため息をつき、「そうね」と言った。驚き呆れたといった様子だった。
「紅茶をお持ちしました」
小悪魔が不安げな表情を浮かべながら、私とパチュリーの前に紅茶のカップとポットを置いていった。そこから立ち去るときも何度か私とパチュリーに視線を送っていた。彼女は私に対して冷たくあたるようなことはなかった。
パチュリーは本をテーブルに置き、ポットを手にとって自分と私のカップに注いだ。私はそのカップを手にとり、しばらく中身を見つめていた。白いカップに入った紅茶は少し灰色がかかったような赤で、それは私に乾いた血を連想させた。私がずっと紅茶を見つめていると、パチュリーがカップを右手に持って私に問いかけた。
「飲まないの?」
パチュリーに促され、私は少しためらってから紅茶を口に入れた。今まで飲んだことがない紅茶だった。微妙な苦味、不思議な甘さ。それまで味わったことがない新しい味が口の中に広がっていった。私は目を閉じてその紅茶の味を記憶に焼きつけていった。
「さて、何が訊きたいのかしら?」
パチュリーが紅茶を啜りながら私に尋ねた。
「私の知りうる範囲でなら答えるわ。知らないことはどうしても説明できないけれど」
私は目を薄く開いて、隣に漂っている上海人形を横目で見た。上海はずっとパチュリーに視線を固定している。
「たぶんあなたにも答えづらい話だとは思う」
私はそう切り出し、目を開いてパチュリーを見据えた。
「生き物ではない、物体、ものに心が宿るということははたしてあるものなの?」
パチュリーは少しのあいだ私と上海人形を見ていたが、やがて口を開いた。
「心というものの定義が少しわかりにくいわね。どういうことかしら」
「人に言われたことをそのままやるのではなくて、自分で考え、自分で行動する。そういうことだと私は思っているけど」
パチュリーはまた少しのあいだ私を見ていたが、すぐにあきらめたような表情になり、また私に尋ねた。
「ものに心が宿る、その例えは何かしら?」
私は上海をもう一度横目で見て、答えた。
「人形とか」
「どうしてそう思うの?」
パチュリーは間をあけずに私に再び問いかけた。私はもうすべてを洗いざらい話すしかないと思った。だから私は紅茶を一口啜り、そして私が見た話、魔理沙から聞いた話を始めることにした。私の指示なくフランドールに剣を突き立てた上海、意識を失った私に寄ろうとする上海。
パチュリーはときどき紅茶に口をつけたりはしたが、黙って私の話を聞くだけになった。目を軽く閉じ、左耳を私の顔に向けて、静かに聞きつづけている。私がすべて話し終えるまで、パチュリーは決して口をはさんだりはしなかった。
私は話し終えると喉を潤すために紅茶を一口、喉を鳴らして飲んだ。パチュリーは私がカップをソーサーに置くのを見て、そしてようやく口を開いた。
「あなたのいう、その上海人形。それにはあなたが魔力を注ぎ、ある程度の魔力を貯めることもできるのよね?」
私がうなずくと、パチュリーはテーブルに肘をついて手を組んだ。そしてその手の指を見つめたままパチュリーは考え事を始めたようだった。私はパチュリーの様子を黙って見ていた。彼女はそれなりの結論を出そうとしているのだ、と私は思った。そしてその思考を他人に遮られるのは彼女の嫌うところだった。私はただパチュリーの結論さえ聞ければよかった。
パチュリーが思考の海にいたのは、思いのほか短い時間だった。パチュリーは組んだ手を解き、椅子の背に寄りかかってひとつため息をついた。彼女は何らかの結論を海から引き上げ、私にそれを差し出そうとしている。彼女は小さい咳をひとつして口を開いた。
「私もそういう事例を見たことがないから、これはあくまでも推測になるわ。でもその中で一番可能性の高いものを選び出した」
パチュリーは上海に目を向けて言った。
「魔力は精神の波動。それに尽きるわ」
そしてそのまま口を閉じた。上海が身を震わせたが、それ以上は何もなかった。それで終わりだった。
「それだけ?」
私は思わずそう言ってしまった。
「その程度の推測なの?」
「私の知識はこれ以上のことを語らないわ。推測に基づいた推測ほど信じられないものはない」
パチュリーのその口調はあくまで淡々としたものだった。半ば責めるような私の言葉にも反応せず、申し訳なさも見せなかった。私はパチュリーの次の言葉を待ったが、彼女はそれ以上何も言わなかった。黙って上海を見ているだけだ。それがパチュリーの結論だった。
私は大きなため息をついて椅子の背に寄りかかった。あっけない話だった。そして理解しがたい答えだった。しかしパチュリーはこれ以上話そうとしないし、実際に彼女にはこれ以上説明できる知識を持ちあわせていないのだろう。彼女が何かを隠している雰囲気もなかった。
これ以上パチュリーに望めることはない、と私は思った。あとは自分がよく上海を観察し、そして研究を進めていくしかないのだろう。先の長い研究になるが、幸いなことに私は魔法使いだった。望む答えが見つかるまで研究を続けることができる。
私は少し紅茶の入っているカップを手にとった。
「まあいいわ。ありがとう。少しは役に立つかもしれない」
そう言って私は紅茶を飲み干し、カップをソーサーに置いて席を立った。パチュリーは上海から私に視線を移し、そしてくすっと老婆のように小さく笑った。「どういたしまして」。
私は彼女の笑いを見下ろして、それからゆっくりと足を踏み出して図書館の扉へ向かおうとした。けれど、パチュリーの横を通り過ぎるときに彼女が何かをぼやいたのが聞こえた。
「何?」
私はパチュリーに振り返って問いかけた。椅子に座って彼女は私に振り向いてもう一度言った。
「あなたにもうひとつ伝えることがあったわ」
そして泣きました。
中まで読んだら寝るつもりでしたが、もう最後まで読まずには寝られませんかね。