Coolier - 新生・東方創想話

Worlds' End With You(上)

2010/03/20 16:05:10
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#1

「愛しのアリスちゃんへ

 二週間ぶりぐらいかしら、神綺ママです。
 この手紙、ちゃんとアリスちゃんのもとに届いているかしら。なんだか最近夢子ちゃんがママの手紙に細工しているような気がしているのです。勘違いかもしれないけれど、なんとなく夢子ちゃんがママの手紙をにらみつけているように思えるので、ママちょっぴり怖いです。でもそんなことを心配しても始まらないし、届いていると思って手紙を書くことにします。

 幻想郷の暦では夏になったみたいで、気づいたらもう七月も半ばを過ぎてしまったみたい。どうにも魔界にいると季節感が狂っちゃうものね。だって四季の楽しみなんてこの世界にないんですもの。毎日毎日、なんだか暗くてうねうねしている風景はそろそろ飽きちゃいました。外の光景が羨ましい。でもママが作った世界だから、ママが文句を言うなんて少し変な話かしら?
 魔界は暑いも寒いもないけれど、幻想郷の方はきっととても暑いのでしょうね。死ぬほど暑いでしょうね。だいぶ前にママが魔界を抜け出して幻想郷に行こうとしたら、あまりの暑さに五分で魔界に逃げ帰った記憶もあります(ママも若かったということね)。あんなに暑いところに人が住んでいるって、ママちょっと信じられません。

 そんなところにアリスちゃんが住んでいるんだから、ママとしてはアリスちゃんのことがとっても心配です。暑くてご飯を食べてないってことはない? もしそうだったらそれは「夏バテ」というものらしいわよ(夢子ちゃんが話してたわ)。アリスちゃんは魔法使いだから食事をとらなくてもいいとは思うけど、でもとった方がもっといいわよ。それから睡眠も大事。その二つを怠って夏風邪を引いてない? 魔法使いも健康に気を遣った方がいいわ。
 だって魔法使いになったからといって病気や怪我をしないとは限らないのよ。ちゃんとした体づくりをした方がママはいいと思います。だからやっぱりそのためには食事と睡眠は大事。食事もしっかり三食食べて、睡眠も真夜中前に寝て朝早く起きて。食事は栄養のバランスも大事だから、野菜もちゃんと食べて、お肉も食べてね。
 アリスちゃんを心配してはいるけど、幻想郷には行けないので(あとで理由も書くわね)ママは魔界で魔界せんべいでも食べて過ごすことにします。

 そうそう、この前魔界では魔界せんべいの魔界味噌味がついに登場したの。ママがせんべい屋さんにずっと言ってきた夢がとうとう叶いました。今もこの手紙を書きながらちょっと食べてみたけど(ごめんなさいね)、とっても美味しかったわ。ママびっくり。これは魔界茶とよく合う味だと思うわ。
 でも今思い返してみたら、魔界味噌味を最初に希望したのはママじゃなくて、アリスちゃんだったかしら。ちょっとママの記憶が曖昧で断定はできないんだけど、もしそうだったらこれはアリスちゃんにも嬉しい知らせだと思います。
 そういうことで手紙には魔界せんべい魔界味噌味をつけて、それからおまけに魔界茶もあります。袋にちゃんと入っているわよね。夢子ちゃんはつまみ食いは絶対にしないはずですもの。この手紙が届いていたら、ぜひ魔界せんべいと魔界茶を一緒に味わってください。味はママが保証します。

 それにしても、こうやってアリスちゃんに手紙を書いていると、またアリスちゃんのことが心配になってきちゃった。アリスちゃんがママに手紙を送ってくれないので、元気にやっているかママ心配です。本当に心配です。死ぬほど心配です。

 あんまりにも心配になっちゃって、ついこのあいだ魔界を抜け出して幻想郷に行こうとママ思ったの。幻想郷のアリスちゃんのおうちに行って、アリスちゃんの姿を見ようと思ってたわ。でもそれはとうとう叶わなかった。
 というのも、まずは幻想郷の暑さにママがノックアウトされちゃったから。前にも書いたけど、厚着しているママにはあの気温は耐えられません。無理です。それからね、魔界を出てちょっとしたら夢子ちゃんにあっさりと捕まっちゃった。ママがダウンしている隙に捕まえるとは、あの子もなかなかのものね。
 でもママはアリスちゃんのところに行きたいから、がんばって夢子ちゃんから逃げようとしたのよ。そうしたら夢子ちゃんが『魔界神がそんなお姿をまわりに見せてはなりません』って言うのよ、もうそれはとんでもなく怖い顔で。ママは魔界神だからべつにそんなアレではないのだけど、でもちょっと怖かったから結局アリスちゃんのおうちに行くのはやめにしました。(ちょっと泣きそうになったのはアリスちゃんとママだけの秘密ね)

 そうそう、夢子ちゃんのこと書いていたら思い出したんだけどね――

(ここから先は不自然な空白が続く)

 ――もうママも思わず笑っちゃった。

 ちょっとこの手紙も長くなりすぎちゃったかしら。アリスちゃんに手紙を書いているとついつい長くなっちゃうのよね。他の人に書くときにはたぶん百文字くらいで終わらせようとするのだけど。というよりも手紙を書くこともしないわ。でもそろそろこの手紙も終わりにします。本当はもっと書きたいけど。
 アリスちゃんに手紙を書くのは本当に楽しいけど、ママはちょっぴり寂しくもあります。だって、やっぱりママはアリスちゃんの元気な姿を見たいんですもの。隙があればまた魔界を抜け出してアリスちゃんに会いにいこうとも、ちょっと考えてるわ。(夢子ちゃんが最大の関門だけど)

 一人暮らしは大変だと思います。ママにできないことをやっているアリスちゃんはすごいと、ママはいつも思います。でも、たまには魔界に帰ってきて、今までの楽しいこと(つらいこともね)、ママにいっぱい話してください。そうしたらママがアリスちゃんのことを抱きしめてあげちゃうわ。それはもう力いっぱい。

 じゃあ、また手紙を送るわね。元気でね。

 あなたのママ 神綺より」




#2

 私は手紙をくしゃくしゃに丸めて放り投げた。丸められた手紙はリビングの隅にあるごみ箱には入らず、ごみ箱の側面に当たって脇に落ちた。かさりという乾いた音が夏の蒸し暑さには似合わない。
 魔界せんべいを食べていた魔理沙の手が止まり、その視線は手元の本から私に向けられた。私の横でずっと待機していた上海人形もその顔を私に向けていた。生活の音が消え、外から蝉の声が入ってくるばかりの間があった。
 私は頬杖をついて手紙を投げ入れそこねたごみ箱をにらみつけ、荒いため息を吐き出した。夏の暑さにあてられて、そのため息も不快なものになった。自分の顔がひきつっているのがそれでわかる。私はごみ箱からテーブルの上に視線を移した。そこには魔界味噌味魔界せんべいが入っている袋と、魔界茶が入っている袋がある。せんべいの袋はすでに魔理沙が開け、その中身も食べられていた。
 熱気が埋めつくす沈黙のあと、魔理沙が口にせんべいを持っていきながら私に尋ねた。

「どうしたんだ、アリス。せっかくの神綺からの手紙を捨てちまうのか?」

 そして魔理沙は魔界せんべいを再び食べはじめた。ばりばりとせんべいを噛み砕く音が私の耳には耳障りなものに感じられた。私はもう一度荒いため息を吐いて、視線をせんべいの袋に固定したまま魔理沙に答えた。

「たいしたことが書いてあるわけじゃないもの。何度も読み返すわけでもないし、捨ててもいいでしょ?」

 自分の声は思っていたよりもずっと刺々しくリビングに響いた。それにも気づいて私の苛立ちがより大きくなっていった。
 べつに自分のことをそこまで心配しなくてもいい。そういううっとおしさが手紙を読み終えた直後の私を満たしていた。私がどこまで自分を管理できていないと思われているのだろうか。当たり前のことから、本当に細かいことまでが手紙に何度も何度も書かれ、読み進めていくにつれて、私は自分の心が荒立っていくがわかった。
 だから手紙を読み終えた私はそれをごみ箱に投げ入れた。

 せんべいをどんどん食べ進める魔理沙がまた私に訊いた。

「魔界せんべいは食べないのか? 新発売の魔界味噌味魔界せんべい、これはなかなかたまらないんだぜ。これは売れるぜ、絶対」

 魔理沙は私に送られたはずの魔界せんべいを一人でどんどん美味しそうに食べていく。手紙にもあったとおり、確かに魔界味噌味魔界せんべいは私が食べたいと思っていたものだ。私はそれを熱望していたはずなのに、今はそのせんべいに手をつけようとさえ思わない。袋を見ているだけで思い出したくないものまで頭に浮かんでくる。
 私は袋から目をそむけ、頬杖をついていない方の手で袋を魔理沙の方に押しやった。

「別に食べたくもない。勝手に食べていいわよ」
「ふうん」

 魔理沙は気のない返事をして、魔界せんべいを食べつづけた。私は魔理沙を横目に見て、それから自分の視界に丸められた手紙が入っているのに気がついて、目のやり場がないからしかたなく窓の外を見た。窓の外では白い太陽が魔法の森を焼き尽くすように燃えている。蝉の声がいつまでも騒々しく響く。どうして魔法の森に蝉が来るのかがわからない。夏の暑さと家の湿度と蝉の声で私の苛立ちはおさまらなかった。そしてそんな苛立ちに振り回されている私自身にも苛立った。

 ふと視界の端で揺れているものに気づいてそちらに視線を移すと、それは魔理沙が魔界せんべいを縦に振っているだけだった。魔理沙が私の視線に気づいてにやりと笑う。

「やっぱりこのせんべい、欲しいんだろ?」
「……からかうだけならやめてよ」

 私はそう言ってまた魔理沙から目をそらした。「ああ、そうかい」と言って魔理沙はくっくと笑った。私は再び魔理沙に視線を戻して「何よ」とぶっきらぼうに言った。魔理沙は「いいや、なんでもないさ」と軽く返した。私が魔理沙をにらむと、魔理沙は「おお、こわいこわい」と椅子の背に寄りかかった。そしてにやにやと気持ちの悪い笑みを浮かべたまま言った。

「せんべいを食べたらやっぱりお茶が欲しくなった」
「ああ、そう」
「勝手にここにある魔界茶を淹れていいか?」
「紅茶ならそこに出てるでしょ。人のものを勝手に食べて、今度はお茶まで勝手に飲むっていうの?」

 私は頬杖をついたまま視線を下に向けて、テーブルにあるはずの紅茶の姿を求めた。そこには魔界せんべいの袋と魔界茶の入った袋があり、魔理沙の前にはグリモワールが置いてある。それだけだった。紅茶はどこにも置かれていない。
 虚を突かれるような思いがした。魔理沙も戸惑いがちに私を見て、ためらったように言う。

「……ないぜ、紅茶」
「……ないわね、紅茶」

 いつもなら、たとえ私の本を勝手に持ち出すような魔理沙にでも、私の家に来るからには最低限のもてなしとして紅茶を出しているはずだった。けれどその日、魔理沙がうちに来てからもう40分くらい経っているのに、そこに紅茶は置かれていなかった。それまでにそこに存在したような気配もない。
 少しのあいだ私は混乱した。苛立ちのせいで思考回路がうまくまわらなかった。客が来たときに紅茶を出すのはいつも上海人形だった。その上海人形はその日、ずっと私のそばにいるだけだった。ということは上海人形が紅茶を出すのを忘れていたのか。あるいは私がそのように上海人形に命令し忘れていただけなのか。
 いずれにせよ、魔理沙に紅茶を出していないことは私にとっては信じられないことだった。頬杖をつく私の腕が揺れはじめ、私はそれを必死で抑えつけて上海人形を呼ぶ。

「上海」

 いつもよりも数段低い声だった。私の隣にいた上海は私の視界の真ん中に移動してきたが、私はわざと視線を移してその姿を視界の端に追いやった。蒸された部屋の中で私は低いトーンを保ったまま上海に言う。

「ねえ、上海。お客さんが来たら紅茶を出すのは当然のことでしょう。あなたは今までそれをずっとやってきたはずよね」

 上海には口がないから、彼女は私の言葉に首を縦に振り、それで肯定の意を示した。けれど、それから彼女は動こうとしなかった。その間に蝉の声がやんだ。魔理沙があいかわらず薄い笑いを浮かべたまま私を見ていた。その顔に私は思わず歯軋りしそうになる。

「上海?」

 私がそう問いかけても上海はきょとんとした目で私を見つめているだけだった。その姿に私の頭に苛立ちの波が押し寄せ、それに私は押し倒された。感情を表に爆発させないだけでも精一杯だった。思わず怒鳴ってしまいそうになる喉を抑え、私は上海に鋭く言いつけた。

「紅茶、淹れてきてよ」

 上海は一時そこから動かなかったが、少しするとねじを巻いたばかりのおもちゃのようにぎこちない動きでキッチンに向かっていった。私は上海を見送ることもなく、さっと視線をテーブルの上に振って、また大きなため息をついた。
 魔理沙がそんな私を見て、息だけで笑った。

「まあ、そんなにかっかするなよ」

 そして魔理沙は袋から魔界せんべいを取り出して、それを私の目の前に差し出した。そしてハンカチを振るような動作でせんべいをひらひらと揺らした。

「ほら、魔界せんべいやるからさ」
「要らないって言ってるでしょ」

 私は魔理沙をにらんでそう言った。まだ私の声の鋭さは失われていなかった。魔理沙はそんな私の様子など気にしないかのように、差し出したせんべいを自分の口に入れた。私は魔理沙をにらんだまま、右手の人差指を不規則にテーブルに叩きつけた。かつかつと棘のある音が部屋に響く。

 わからない。どうして自分がここまで荒立っているのか。手紙を読んだときから苛々しはじめたのは確かだけれど、なにもここまで荒れることもないはずだ。手紙の中に直接私を不快にさせる文章もなかったのだから。しかし私はとにかく不愉快だった。苛立った原因があの手紙の中にあるのかどうか、私には確信がなかった。
 ああいう手紙が私のもとに来るたび、そして私がそれを読むたび、愉快な気持ちになったことはない。いつも私を心配するような文章が書かれていて、私はそれを非常にうるさく感じていた。けれどその日は一段と不快感が強かった。そしてその不快感に振り回されている私自身にも腹が立った。自分が自分ではなく、喜劇の人形師に操られている滑稽な人形のようにさえ感じられた。


 終わらない私の自問自答を遮るようにして、キッチンから戻った上海がティーセットを持ってきた。私と魔理沙の前にカップを置き、そこに淹れたてのダージリンを注ぐ。蒸し暑さの上に紅茶の湯気が重なり、不思議な異常感を生んだ。紅茶を注ぎ終わった上海はキッチンに逃げるようにして戻った。何をしに行ったのか私にはわからなかったが気にしないことにした。
 私は頬杖をつくのをやめ、紅茶のカップを手にとり、目をつむって一口ダージリンを啜る。暑い夏に薫り高いダージリンの熱気を感じ、私の感覚はふわりと現実から離れる。そうして私はようやく自分の苛立ちを鎮めることができた。目を薄く開くと、ダージリンの澄んだ赤が私の顔を映し出した。私の顔が平常に戻ってきたのがわかった。
 私は目を上げて紅茶を飲んでいるはずの魔理沙を見た。けれど彼女は紅茶に口をつけていなかった。ソーサーの上のカップの液体を、じっと見つめているだけだった。その顔からはさっきまでの軽い笑いは消え、複雑な表情が浮かんでいた。魔理沙の額から顎にかけて汗が滑り、顎から紅茶に一滴垂れた。けれど魔理沙はそれにすら気づかないように紅茶をじっと眺めている。魔理沙にしては珍しく何かに悩んでいるようだった。

「せんべいに紅茶は合わなかったかしら?」

 それとなく私が訊くと、魔理沙は驚いたように顔を上げて私を見た。その顔には動揺が明らかに現れていたが、すぐにそれは消えて作り笑いがかわりに出てくる。

「ああ、ちょっと考え事をしていてな。せんべいに紅茶が合わないわけじゃないさ」

 そう言って魔理沙は熱い紅茶を一気に喉に流し込み、それから熱さと苦さに驚いたように咳きこんだ。咳きこみながら魔理沙は袋に手を入れてせんべいを取り出して食べ、そしてそのかけらでまた咳きこんだ。私は慌てて魔理沙のからのカップに新しい紅茶を注ぎ、それをゆっくり飲むように言った。魔理沙は苦悶の表情を浮かべながら紅茶を一口飲み、それからようやく落ち着いたように深呼吸をした。

「ああもう、死ぬかと思ったぜ」

 私は自分の顔の筋肉が一気に弛緩していくのを感じた。思わず笑みがこぼれる。

「まったく、そんなに焦ってもしかたがなくてよ」

 魔理沙はまた一つ咳をしながらせんべいを口に入れた。私は魔理沙に尋ねた。

「何をそんなに考えていたの?」

 魔理沙がせんべいを口にしたまま動きを止めた。目だけが私を見ていて、妙に不自然な格好になっていた。蝉の声がしない沈黙がひととき流れ、しばらくして魔理沙の口が動きを取り戻した。

「いや、今思い出しただけなんだ。今日ここに来た目的をすっかり忘れてて、で、今思い出したからそれをおまえに伝えなきゃいけないんだが、なんていうか……」

 そこで魔理沙は言葉を止め、また黙って紅茶を見つめた。その赤さから途方もない連想をしているように私には見えた。少しして魔理沙は視線を上げ、ためらいがちに私と目を合わせながら言った。

「今度の博麗神社の例大祭なんだけどさ、ああ、なんだその、おまえも何か出し物をするんだろ?」

 魔理沙と会話が微妙にすれ違っているような気がした。けれど私は気にしないようにして首を縦に振った。

「やるわよ。いつものように人形劇を」
「……どんな内容なんだ?」

 また別の質問。私は魔理沙がいったい何を言いたいのかがよくわからなかった。

「西洋文学の『ロミオとジュリエット』から着想を得たものよ。大筋は似ているけれど、最後をハッピーエンドにしてるわ」

 魔理沙がまた口を開き、私に何かを尋ねようとしたが、今度は私が先回りして尋ねる。

「何か私のやることに問題があるのかしら?」
「あー……」

 聞き返された魔理沙は居心地悪そうに、歯切れの悪い「あー……」を何度か繰り返した。その間に目は右へ左へとさまよう。これも魔理沙らしくない。ふだんはずばりと、それこそ私の嫌がるようなことも言ってしまうはずなのに。
 私がわざと咳払いをして早く言うように促すと、魔理沙はぐっと顎を引いてようやくまともな言葉を捻り出した。

「まあ問題はないけどさ」
「じゃあ何か不安なことがあるわけね、私に関して」

 私がわざと冷淡に返すと、魔理沙は慌てて手を横に振って言った。

「違うぜ、そういうわけじゃない。おまえのことではないんだ」
「じゃあ誰のことなのかしら?」
「うむ……」

 私の追及に耐えかねたらしく、魔理沙は間をもたせるようにして紅茶をひとくち飲んだ。私は黙って魔理沙を見つめる。紅茶を飲み込んだ魔理沙は天井に向かってふうと熱い息を吐いた。それから覚悟したように私に顔を向け、真っ直ぐに言った。

「例大祭に悪魔が来るぜ」
「悪魔?」

 私は魔理沙の言葉をうまく呑み込めず、しばらくその意味を考えた。それがレミリアのことだと思い当たるまでかなりの時間がかかった。けれどそのことに気づいてしまえばなんてことはない。

「レミリアが来るっていうだけでしょ?」

 私がそう言うと、魔理沙は紅茶のカップを手にとって答えた。

「でも、レミリアが例大祭で普通の人間の前に姿を現すっていうのは初めてのことなんだ。何か問題を起こさなきゃいいんだけどな」
「大丈夫じゃないかしら。彼女には多少わがままなところがあるけれど、別に問題を起こすってほどじゃないし」
「まあ、あいつならそうなんだが」

 魔理沙は残り一枚のせんべいを口にして、大きな音を立ててそれを割った。そしてそれを何度も何度もゆっくりと噛み砕く。だんだん目の焦点が私に合わなくなってきた。心ここにあらず、といった雰囲気が魔理沙のもとに戻ってきた。魔理沙が何をそこまで考えているのか、私にはわからなかった。

「考えすぎよ」

 私はそう言って紅茶を啜った。魔理沙は私に視線を戻してせんべいを呑み込み、それから紅茶のカップを手に取った。

「そうならいいんだがな」

 あいかわらず浮かない顔でそう言って、紅茶を一気に飲み干した。ダージリンの苦さに顔をしかめながら、魔理沙は私に言った。

「人形劇、とりあえずうまくやってくれよ」

 私は「当たり前でしょ」と応えた。そのとき窓から差し込んでくる太陽の光が私のカップに残っていた紅茶を照らした。水面で激しい光をまき散らす紅茶。その色はさっきよりもずっと鮮明な赤になっていた。まるで流血を思わせるような、そんな色だった。




#3

 うだるような暑さの中で例大祭は行われた。いつもの博麗神社からは信じられない人の数が集まり、お祭りの屋台や賽銭箱の前に群がっている。賽銭箱の音がやむことはなく、忙しくさえなければ霊夢は賽銭箱の前で泣いて喜んだだろう。
 私は自分の人形劇の準備に追われていて、そうした祭りの光景を楽しむわけにもいかず、朝から気持ちよくない汗をかきつづけていた。雨が降ったわけでもないのだが、その日は妙に湿度が高かった。妙な不快感が私を包む。そしてその不快感を生み出しているのは夏の湿度だけではなかった。

 次の舞台は夕方、日が沈んだ直後から始まる。すでに太陽は山に顔を隠しはじめていて、舞台の前には子どもたちが何人か腰を下ろし、舞台を眺めたり他の子ども達との談笑を楽しんでいた。子どもたちの親は彼らの背後に立ち、また彼らは彼らなりの会話を楽しんでいるようだった。祭りの陽気が彼らを饒舌にさせ、軽く弾んだ雰囲気が舞台の表側に満ちていた。
 けれどその舞台の裏にいた私は、その雰囲気から遠くかけ離れて人形たちを見つめていた。人形たちもどこか落ち着かない顔で舞台裏に立っている。劇が始まるまであと20分。舞台裏の気まずい沈黙が晴れるきっかけはどこにもなかった。

「ねえ」

 私は人形たちに向かって言う。背後からは子どもたちの笑い声が聞こえる。「ねえ、あそこの射的でこんなのとったんだよ」、「さっきうな重食べたんだけど、とっても美味しかった」、「蛍屋ってどこにあるの? 行ってみたい」――。そして私は彼らとは対照的な重い口調で次の言葉を口にする。

「いつになったらここは成功するの? これはリハーサルよ。練習ではないの。もう時間が無いのはあなた達にもわかっているわよね?」

 地面に転がっている蓬莱人形が体を起こして私に視線を向けた。上海人形は蓬莱人形を見つめたまま少しも動かない。他の人形たちも私を見たまま、何の反応も見せなかった。当たり前といえば当たり前だ。人形なのだから。私もそんな人形たちに対して怒るのは馬鹿らしいことだとわかっているけれど、それでも自分の感情の流れにまかせて続ける。

「上海が蓬莱を抱えて舞台の端から出る、これだけのことなの。何が難しいというわけでもないはずよ。上海、蓬莱を抱えられないほどあなたを非力につくった覚えはないわ。それなのに、どうして何度やってもできないの?」

 私は腕を組んで舞台の柱に寄りかかった。すると柱が歪んで軋む嫌な音がして私は柱から体を離した。それでも腕組みはほどかない。私は目を伏せてまた言った。

「もう一度やるわよ。いいかげんに次は成功させて」

 人形たちはもとの配置に、無駄の無い機械的な動きで戻った。上海が蓬莱の隣に立ち、蓬莱が上海に寄りかかるような体勢。他の人形たちは二人をとりかこむようにして立った。正しい配置に戻ったのを確かめて、私は指を小さく鳴らした。

 主人公の上海とヒロインの蓬莱がじっと互いを見つめる。私がもう一度指を鳴らすと、上海が蓬莱を抱きかかえるために腰を落とし、腕を蓬莱の腰と背中にまわす。その体勢まではうまくいく。けれど次の瞬間、蓬莱は上海ではなく地面に抱かれていて、上海は蓬莱ではなく空気を抱いている。これほど情けない失敗はない。クライマックス、さらに言えば最後のシーンなのに。

 私は額に手をあてて目をつむり、大きなため息をついた。いやでもため息が出てしまう。地面からわきあがる湿気が私の頬を焦がし、感情が荒れていく。今すぐにでもこの舞台をたたんでしまいたいとさえ思ってしまう。けれどそういう思いを押しつぶそうとするように子どもたちの声が背後から聞こえてくる。

「うまくいくのかしら」

 ひとりごとが自然に口をついて出た。目を開くと上海が私を見つめているのが見えて、私はまた瞼を下ろして視界を黒に染める。視覚と聴覚と触覚を自分の意識から遮断して、とりあえずは自分の心を落ち着けようとした。そしてこの状況をどうすればいいのか冷静に考える。

 上海の動きに変更を加えるか。けれどもう劇が始まるまで時間がなく、今からプログラムを組み替えるのには無理がある。たとえ組み替えられたとしてもそれをテストする時間は間違いなく残っていないだろう。変更後の動きがうまくいく保証もなく、変更しても失敗する可能性がある。
 あるいは上海たちの動きを最後だけ止めてしまい、ナレーションの私がアドリブでごまかすか。けれどそれも実際に劇としてはかなり無理がある。最後の最後で人形が動かないというのは画にならない。クライマックスが盛り上がらなければ話にならない。

 しばらく考えて私はひとつの結論を出した。当初の予定通りの動きでいく。それが私にとって一番いい結果をもたらすと思った。半ば強行突破ではあるが、それ以外にまともなものはないように思った。
 ふと私の瞼の裏に小さな卵のようなものが見えた。表面はなめらかに鈍い光を放って、殻は少し押せば簡単に壊れてしまいそうなほど脆かった。けれどその映像はすぐに私の前から消え、また暗闇が戻ってきた。

 私は目を開き、五感をすべて自分の中に引き戻した。自分の意識の世界の中に夏の祭が鮮やかに蘇った。ただ目をつむる前とあとでは何かが変わっているような気がした。映像や暑さや匂い、それはもとのままなのに何かが変わっている。
 けれど私はそれを気にしないことにし、人形たちを見回して言った。

「最初の予定通りにいくわ。いい? うまくやってちょうだいね」

 人形たちはうなずかない。みんな私を見て黙って立っているだけだった。けれど私はうまくいくと思った。うまくいくと思い込んだ。


 太陽が山の縁に隠れ、博麗神社は闇に染まりはじめた。まわりの屋台の明かりがちらほらと点き、幻想的な光の玉を闇に浮かびあがらせる。その不思議な光景は真理の象徴に思えた。少しのあいだ、自分の胸の扉が開放されているような奇妙な感覚がして、私は慌てて扉を閉じた。それから私は一つ呼吸をして、舞台を照らして裏側から表に出た。

 子どもたちの拍手の中で私は舞台の前に立ち、地べたに座っている子どもたちを見下ろす。それから形式的に三十度のお辞儀をして、子どもたちを見回しながら挨拶を始めた。

「今日は私の人形劇に来てくれて、どうもありがとう」

 私が見ている光景はほとんどが毎年見ていた光景だった。地べたに座る子どもたち、背後に立つ親。その背景に光を灯している二、三の屋台と紫闇の空。ただその観客たちの一番右端に、いつもと異なるものがあった。見覚えのある、人間ではない子どもが二人。

 レミリア?

 危うく声に出すところだった。けれど私はそれを押しとどめ、何事も無かったかのように先を続けた。

「知っている人もいるかもしれないけれど、自己紹介をします。私はアリス・マーガトロイドです」

 魔理沙が言っていたことをぼんやりと思い出した。「悪魔が来るぜ」――たしかにレミリアもいる。けれどレミリアの隣にもう一人、金髪で七色の羽根を持つ少女がレミリアの隣にいた。そしてレミリアの腕にしがみつくようにして、顔をこちらに向けている。
 私はその少女を知らない。魔理沙が言っていたのはレミリアのことだけでなく、あの少女のこともあったのだ、と私はそのとき気づいた。だとすれば彼女も吸血鬼の一人で、あのようにしてレミリアにしがみついているということは親戚か何かなのだろう。私はそう思った。

「今日の劇のタイトルは『門をくぐる花嫁』です。なんとなく想像がつくかもしれないけど、少年と少女の恋の物語。まだみんなには少し早いかもしれないけど、とてもいい話です」

 挨拶を続けながら私はレミリアに何度か視線を送る。レミリアは傘をさしたまま行儀のいい姿勢で立っている。紅魔館の主らしい態度をとろうとしているように見えた。そういえば、と私は思う。咲夜は彼女のそばにいないのかしら。
 私の挨拶に続けて舞台を鑑賞するときの注意などを話していった。そのあいだに今度はレミリアにしがみつく金髪の少女に視線を送った。彼女はいつまでもレミリアの腕を離す気配がなかった。けれどその目はじっと私と私の舞台に固定されたままだった。初めておもちゃを見るときのような輝きを持つ、そんな子どもらしい目だった。

 突然、私は胸の奥に鈍い疼きを感じた。もう少しで話が不自然なところで止まってしまうほどだった。私はさりげなく胸に手をあててその疼きを鎮めようとしたが、自分の手のひらでは届かなかった。眠っていた魔物が目覚めて身体を震わせているような感覚だった。
 私は、今度ははっきりとレミリアとその隣の少女に目を向けた。胸の疼きは強くなる。どうして、と私は思う。仲むつまじいはずのその光景に、なぜ疼きなんて覚えなくてはならないのだろう。
 レミリアはときどき隣の少女に視線を一瞬だけ送っていた。そして隣の少女はずっとこっちを見ている。すれ違う視線。もしかしたらそのすれ違いが疼きの原因なのかと私はそのとき思った。本当はそうではなかったのだけれど――そのときは、そうなのではないかと私は断定した。

「それでは、どうぞごゆっくりとお楽しみください」

 私の挨拶はなんとか無事に終わった。私がまた形式的なお辞儀をすると、子どもたちの小さな拍手が再び響く。遠くで金髪の少女がレミリアの手を引っ張るようにして座り込んだのが見えた。レミリアは戸惑うような表情をしながら、それでも金髪の少女の隣に腰を下ろす。二人はふつうに見ているぶんには可愛らしい姉妹だった。けれど私はすれ違う視線を知っている。胸の疼きは止まらない。
 私は舞台の裏に戻り、人形たちと台本の準備をする。そこから見える幻想郷の山は、夕日に浮かぶひとつの影絵のようだった。なんとなく思う。影が映し出すのは、あるときから進まなくなった時の欠片なのではないかと。そしてまた私は現実に私は戻る。台本を持って私は再び舞台の表に出ていく。

「私たちの知らない時、私たちの知らない場所。この国かもしれないし、どこか遠くの知らない国かもしれない。でも、あるお城に美しいお姫さまがいたというのは事実です」

 私が冒頭のナレーションを始めると、舞台の端からきらびやかなドレスを着た蓬莱人形が現れてゆっくりと中央部に歩みを進めていく。子どもたちはその蓬莱の動きにため息をつき、歓声をあげ、手を叩いて喜ぶ。そのさざめきがおさまるまで私は口を閉じて待つ。舞台の端から次に登場する上海が私を見つめている。また舞台が沈黙に包まれたところで、私は口を開く。

「お姫さまは言いました。『ああ、お姫さまという生活もいいけれど、何もすることがなくて退屈だわ。何か楽しいことが起きないかしら』。彼女はまだ一歩もお城の外に出たことがないのです」

 蓬莱は悩ましげに舞台を右へ左へあてもなくさまよう。そのあいだ、他の人形たちが舞台の端から「窓」の小道具を持って舞台に置き、また裏方へ去っていく。私はそれを確認して、台本の裏で指を曲げた。蓬莱が体を「窓」に向け、まるで窓がそこに最初からあったように近づき、「窓」を手で押して開ける。私はまたそこで台本を読む。

「お姫さまは外を見て思いました。『お城の外は楽しそうだわ。一度でいいから外に行ってみたい。でも、お父さまはそれを許してくれない。誰か私を連れ出してくれないかしら?』」

 そこですかさず少年の格好をした上海人形が舞台の端から現れ、蓬莱の視線の先に到達し、そこで優雅な踊りを見せる。子どもたちが息を呑むのを私は感じた。ただ、なぜだか私は上海の踊りに微妙な違和感を覚えた。気のせいなのだろうか。少年の服の端の揺れがいつもよりも激しくないように見えた。

「『あら、あの少年は誰かしら?』とお姫さまは思いました。とても踊りが上手で、綺麗な少年です。お城の前の広場で踊っているその姿を、お姫さまはずっと見つめています。その踊りはお姫さまが今まで見たどんな踊りよりも美しく、のびやかでした」

 上海の踊りが終わると、上海は蓬莱の方に視線を向ける。蓬莱はその視線に驚いたようにして、さっと「窓」から離れる。上海は蓬莱が離れたあとでも「窓」を見つめつづけていた。

 そうして美しい少年とお姫さまはお互いを知る。お姫さまは「窓」から少年の姿を何度も見て、とうとうお城を抜け出して少年の目の前でその踊りを見る。しかしそのときのお姫さまの格好は庶民と変わらないもので、少年はそれがお姫さまだと気づかない。二人は秘密の出会いを繰り返して、お互いに恋をする。
 だが、その少年は町の小さな商人の息子だった。そして少年はとあるきっかけで自分が恋をした少女がお姫さまだと知ってしまう。その当時、身分違いの恋は許されていなかった。少年はお姫さまとの出会いを拒むようになっていく。お姫さまはその少年の冷たさにも負けず、ただひたすらに少年と会いたいと願う。
 そんな少年が変わるきっかけがお姫さまの抱擁だった。少年はお姫さまの一途さに胸を打たれ、自分も自分に正直になることを誓う。だが二人の関係はそれぞれに家族に知られてしまい、猛烈な反対を受ける。少年は命さえ狙われてしまうことになる。

 このストーリーが展開していくにつれて、子どもたちの目がだんだん舞台から離れなくなっていくのが目に見えてわかった。誰も言葉を口にせず、何も話さない人形たちの動きと私の言葉が生み出す世界にとりこまれている。すべてが私の考えているとおりになっていく。レミリアと隣の金髪の少女もじっと舞台を見つめて、そこから目が離せなくなっている。

 ただ、そこでひとつの不安が生まれる。はたしてクライマックスのシーンで失敗してもいいのだろうか? あまりにも子どもたちと悪魔たちの視線は純粋で強かった。私はその視線を裏切ることができなくなってしまった。リハーサルの動きのままでいくという決断が、あるいは間違っていたのかもしれない、とちらりと思う。

 それに私にはもうひとつずっと抱えていた不安があった。上海人形だ。
 蓬莱人形を抱えきれないことに加えて、どうしても気になるような動きがいくつか劇中にあった。この劇を演じているのが人間なら不思議ではないが、これは人形劇だ。人形の動きが変わるということはありえない。けれど上海の動きがときどき抑えめになることがあった。踊りもそうだし、お姫さまから逃げるときの上海のスピードも明らかに練習のときより遅くなっていた。
 私の思いどおりに動いてくれない。なのにクライマックスは近づいてくる。成功するのかどうか私は不安になり、それと同時に苛立ちもする。人形には私の言うとおりにやれ、と命令したはずなのに。上海だけどうしてこんなふうに動くのだろうか。
 しかし今更どうにもできない。私は上海を信じることしかできない。クライマックスで蓬莱人形を抱え、そしてそのまま舞台の端へ無事に消えてくれることを祈ることしかできない。だけど、と同時に思う。私ははたして今の上海を信じていいのだろうか?

 そうしているうちにクライマックスのシーンが来た。人形たちが用意した「門」の下に二人が立っている。二人を捕まえようとする追っ手から逃げるうちに町の門まで来てしまったのだ。たまたま門番はこの二人に対しては協力的で、そのようなエピソードも途中で入れていた。
 門の下で上海と蓬莱が見つめあう。上海の手には花束がある。私がそこで台本の台詞を読みあげる。

「『もうここには僕たちの場所はないよ』と少年は言いました。『僕たちはここにいても生きていくことができない』」

 上海が私の言葉に合わせて微妙にうなずくような動作をする。それも予定にはなかった動きだった。

「『どうするの?』とお姫様が聞きます。遠くから二人を捕まえようとする人たちがやってくる音がしています。もう二人には時間がありません」

 しばしの間、そのあと上海が両腕を大きく振る。私はそこで声を大きくして台詞を言う。

「少年は言いました。『ここを出よう。僕たちは新しい世界で生きるんだ!』」

 私は思わず観客から目を離し、視線を舞台上の二人の人形に向けてしまった。そして私は信じられないものを見る。今までの不安と苛立ちがすべてそこに集約され、私の中のいろいろなものを壊していった。

 上海は突然蓬莱の手を握り、花束を蓬莱に手渡して蓬莱を光ある眼で見つめた。次の瞬間、上海は蓬莱の手を握ったまま、蓬莱を引っぱるようにして私と反対の舞台の端に走りはじめた。「門」をくぐり、私があっと声を出す間もなく、上海は舞台の外に出ていってしまった。それはまるで、本当にお姫さまの手を引いて出て行く少年のような姿だった。

 私はその光景を呆然と見つめていた。自分の考えていたものとはまったく違う結論がそこにはあった。舞台を見ていた子どもたちから拍手がわき起こったが、私にはその拍手の音も耳に入っていなかった。何が起きたのか私にはわからない。
 舞台の端から出ていった上海が振り返り、私を見た。私を観察するような視線。私が何を考えているのか探ろうとする目。私はそれをはっきりと感じ、そこでようやく我に返った。

「こうして二人は生まれた町を出て、新しい世界に飛び出しました。これからどんなことが起こるのか、二人には知る由もありません。楽しいことがあるかもしれない、悲しいことがあるかもしれない。それでも二人は前に進んでいくことを決意したのです。これからも二人は生きていきますが、物語はここで終わります」

 私は締めの台詞を一気に吐いて、私は小さく頭を下げる。割れるような拍手が起こり、しばらく鳴りやまなかった。私はずっと頭を下げたまま、ただ黙ってそれを聞いている。笑顔は浮かばなかった。浮かぶはずもなかった。その原因はひとつしかない。
 上海人形。

 拍手が終わり、私が礼を述べて舞台裏に戻ると、劇に出たすべての人形はそこで動かずに待っていた。私は今度は遠慮なしに舞台の柱に寄りかかって腕を組み、大きなため息をついた。それは安堵のため息と同時に苛立ちだった。私は上海に視線を向ける。上海はずっと私を見ている。私は目を閉じてその視線から逃げた。
 たしかに劇は成功した。しかも上海の機転によって救われたようなものだった。私の当初の予定のままでは、すべてを台無しにする可能性が大きかった。頭では理解できる。けれど納得はできなかった。
 私の当初の予定でよかったのだと強く感じた。それが私にとっての最善で、思いどおりにいくはずだったのだ。それをある意味では上海が邪魔した。結果的には成功に見えたからよかったものの、それはただの偶然に過ぎない。
 もう一度私はため息をつき、額に手をあてた。




#4

 祭りは夕闇から夜の闇に包まれているが、にぎやかな気配は一向におさまる様子はなかった。ずいぶん長い時間やっていたつもりだったが、そうでもなかったらしい。
 子どもたちが帰ったのを見計らって私はまた舞台の表に出た。人間の子どもたちは別の屋台に行っていたが、二人ほどそこに残っている子どもがいた。レミリアとその隣の少女だ。レミリアは立って歩き出そうとしているのだが、金髪の少女がレミリアのスカートをしっかりとつかんで離さない。その目はずっと私が立っている舞台をとらえている。
 私は安堵の息をついてその二人の元へ行った。レミリアが私を見て慌てて腕組みをして胸を張る。

「なによ、子ども騙しの人形師さん」

 私はそれとなくレミリアのツボを突く。

「楽しんでくれたようで私も嬉しいわ」

 レミリアはそう言われて少し顔を赤らめながら顔をそむけたが、横目のまま舞台を見つめている。

「ふん、あんな子どもっぽい劇なんて見ていられなかったわよ」

 私は思わず吹き出しそうになり、必死でそれをこらえた。劇をやっている最中のレミリアの目を思い出すと自然と笑いがこみあげてきた。彼女は始まってから終わるまで一度たりとも舞台から目を離さなかった。目が舞台に吸い込まれていくように。
 それに台本を作った時点では、この話を子ども向けにしたつもりはなかった。大人の鑑賞にもたえられるように、それに自分の身のまわりの人からの目もある。ある意味それは私の意地だ。

「とても面白かった」

 金髪の少女が立ち上がって、レミリアの手を握って私に言った。私は少し驚いて一歩後ろに下がる。少女は私からレミリアに視線を向け、上目遣いでレミリアにねだるように言った。

「ねえ、お姉さま。面白かったでしょう?」

 その少女の言葉を聞いて、私はようやく二人の関係を理解することができた。お姉さま――ということは、この金髪の少女はレミリアの妹ということになる。姉であるレミリアはわずかに目を見開き、それから咳払いをひとつした。

「ええ、子ども向けのわりには意外と良かったわよ」
「お姉さまもそう思ってくれたの。嬉しい」

 少女はそう言って子猫のようにレミリアにしがみつく。そしてそのまま首を私に向けて、暗闇の中に輝く目で私に呼びかけた。

「人形師さん」
「アリス、でいいわよ」
「じゃあ、アリス。私はフラン。フランドール・スカーレットよ」

 私はうなずく。フランドールは顎を引いて私を上目遣いで見る。そういう目つきが得意なのかもしれない。レミリアがフランドールを不安げに見つめている。

「今日が初めての劇じゃないのよね。ほかにももっと楽しい劇があるんでしょう?」

 私は少し考えてからうなずいて答えた。

「台本は家にあるけど、そのための衣装とかセットとか、そういうものはもうないの。だからやろうと思ってもあまり綺麗な劇じゃないわ」
「できないの?」
「できないというわけじゃないけれど、あまり楽しいものじゃないかもしれないわ」
「できるのね?」
「できるけど……でも、どうして?」

 フランドールは口の端を少し持ち上げて笑みを浮かべた。

「私、ほかの劇も見てみたいの」

 フランドールの言葉に私は少しのあいだ言葉を探した。しかしどう答えればいいのか、はっきりとした答えが見つからなかった。しかたなく、「できるのはできるけど、私の気が進まないの」と私は答えた。

「でも私、見たいの」
「だから――」

 私はそのときフランドールの目の中に異様な光が輝きはじめるのを見た。それはさっきまでの目の輝きとは明らかに違う、もっと鋭い煌めき。私は言葉を失ってレミリアに視線を向けた。レミリアは何も言わず、黙って私からもフランドールからも目をそらした。

「ねえ、アリス。私にまた劇をやってちょうだい」

 フランドールの「お願い」は続く。私はどの言葉も選ぶことができなくなった。そこで初めてレミリアが口を開いた。

「アリス、私からもお願いするわ」

 そう言ってレミリアは私を冷たく見据える。私はレミリアがフランドールの「お願い」を止めるものだと思っていて、その言葉には虚を突かれた。わずかな空白をおいて私は言葉を口にする。

「けれど――」

 レミリアは私の言葉をさえぎって叩きつけるように言った。

「そこまで断るなら、運命を操作してでもあなたにやらせるわよ」

 提灯の明かりが私たちのそばを通りすぎて、暗闇に染められた私たちの顔を照らしだした。フランドールの顔は光に染められて明るく、レミリアの顔はフランドールの薄い影に染まる。
 私には首を縦に振る以外の選択肢は無かった。けれどその選択が正しいのかはまったくわからなかった。私はゆっくりと口を開いて言った。

「わかったわ。でも今日は台本がないから、後日あらためてやらせてちょうだい」

 フランドールの目の鋭い光が急激に失われ、また純粋な光が戻ってきた。顔には満面の笑みが浮かんだ。レミリアはフランドールの顔を見て、それからまた私に向き直って言う。

「決まりね。では、今度は紅魔館でやってもらいましょうか。それなりの準備は私たちもするわ。細かいことは手紙かなにかで伝えるわね」

 レミリアの薄い影は顔に染みついてとれない。フランドールがレミリアにまたしがみついた。
 レミリアは私に別れの言葉も言わず、背を向けて私から離れていった。フランドールもレミリアにひっついたまま行ってしまった。私は二人の背中を見つめながらため息をついた。

 厄介ごとに巻き込まれてしまったわ、と私は思った。レミリアに妹がいるとは思わなかったし、そもそもレミリアがこの祭りに来るとは思わなかった。あるいは妹にせがまれてここまで来たのだろうか?
 ためらいがちに言った魔理沙の言葉を思い出す。「悪魔が来るぜ」。まさに魔理沙の言ったとおり、とんでもない悪魔がやってきてしまった。それも二人も。
 祭りはずっと盛り上がっている。私の気持ちはどんどん悪い方にいってしまう。

 人形劇から始まった綻びが、そして悪魔が引き寄せた運命が、何もかも壊してしまう。誰もが傷つく。風景は歪められる。そうした破壊が起こることをレミリアはその目で見ていたのかもしれない。何が起きるのかを知っていたのかもしれない。
 けれど彼女は私に何も語らなかったし、これから先も語ることはないと思う。彼女は私に教えるわけにはいかなかったのだ。
 でも今になってふと思う。それでよかったのではないかと。いつかは誰もが何かを壊さなくてはいけない。その運命は人から教えられるものではなく、自分自身の目で見なくてはならないのだと。




#5

 鮮血の色をした建物が緑の森の向こうに見えてきた。館の目の前には澄んだ湖が広がっている。紅霧異変のとき魔理沙は私のようにして紅魔館まで行ったのだろう。それにしても、と私は思う。この緑の森の中でこの赤い館というのは似つかわしくない。そして今日はその赤が一層強くなっているように思えた。空は鼠色をした雲で覆われているのに、館の赤い屋根が太陽で照らされているように、あるいはそれ自体から光が出ているようにさえ思える。
 もうすぐ雨が降る。そういう気配を私の肌が感じとった。傘を持ってくればよかった、と私は少し後悔した。劇のための人形を何人か連れてきているので、あまり雨に濡らしたくない。でも雨が降ったら雨除けの魔法をかければいいか、とすぐに思い直す。

 もう一度私はぶ厚い雲の下の紅魔館を眺めた。夏なのに妙に低い気温のせいか、私は小さい震えが体に起きるのを感じる。悪寒かもしれない。たぶん私はあまり紅魔館に行きたくはないのだろう。でも今更紅魔館に行かないわけにもいかない。フランドールが私の劇を待っている。
 私はその悪寒を振りきるようにして、紅魔館に向けて急降下をかけた。


 紅髪の門番が私に手をあげて着地を待っていた。私が地面に降りると私に近づく。

「アリスさん、おひさしぶりですねえ」

 いつもの朗らかな笑顔で私の手を握り、私もいつものことだからほどほどに手を握り返す。美鈴は眠そうな眼で言った。

「もう夏は嫌ですよ。暑いしむしむしするし、ゆっくり寝ることもできない」
「寝ちゃだめでしょ」

 私は呆れながら美鈴に返す。美鈴は軽く笑って私の手を離し、門のもとまで歩いてそれを開いた。

「どうぞお通りください。それにしても、ここによく来る方でちゃんと私が門を開くのはアリスさんだけですね。あとはだめですよ。魔理沙は箒で門を突っきるし、霊夢は空を飛んで門を無視するし」
「あの二人がおかしいのよ」
「ですねえ」

 私は門をくぐり、美鈴に振り向きながら声をかけた。

「じゃあ門番がんばってね。大変だとは思うけど」

 美鈴は私に向かって胸を張る。

「任せてくださいよ」

 そして美鈴は門を閉じ、外に向きなおった。その背中に眠気が充満しているのが私にはわかった。あと十分もしないうちにうたた寝をするかしらね、と私は心の中でくすっと笑った。私は紅魔館に顔を向けて、違う世界に入っていく。

 玄関の扉の前では咲夜が綺麗な姿勢で私のことを待っていた。私は軽く手をあげて咲夜に手を振る。咲夜は綺麗な微笑を浮かべ、私に応えた。私が近づくと咲夜は綺麗なお辞儀をして言った。

「アリスさん、お待ちしていました。ようこそ紅魔館へ」
「そんな言葉遣いをしなくてもいいのよ、いつも言ってるけど。そこまであなたと私の親交が浅いとは思ってないわ」
「ここでは私はお嬢さまの従者で、ここのメイド長ですから」

 咲夜は人形のような美しい微笑を崩さない。

「これでもまだくだけている方です。あなたのような礼儀ある人にはこのような態度でないといけない」

 私が魔理沙は、と尋ねると、咲夜は困ったような顔をして言った。

「魔理沙は例外です。あれは礼儀というものをわきまえていませんから」

 ひどい言われようね、と私は苦笑した。咲夜もそうでしょう、というふうに笑った。それから咲夜はこほんとひとつ咳払いをして言った。

「さて、そろそろ行きましょう。妹さまがお待ちかねです」
「そうね」

 咲夜の先導に従って私はあとについていった。咲夜がドアを開けると雲に覆われているせいか、少し暗い紅魔館が見えた。私と咲夜はドアをくぐり、大きなホールを抜けて右に折れ、長い長い廊下を進んでいく。数少ない廊下の窓からは今にも雨がふりそうな黒い雲が見えた。
 それにしても、咲夜は私が今まで一度も通ったことのない通路を進んでいた。私は咲夜の背中に問いかけた。

「ねえ、どこに行くの?」

 まっすぐと伸ばされた背中を向けたまま、咲夜は私に答えた。

「地下室へ」
「図書館の近く、ではないのよね?」
「ええ、その通りです」
「レミリアは?」

 咲夜は顔さえ向けないまま答えた。

「今は昼ですから、お嬢さまはお休み中です」
「ああ、吸血鬼だから。でも、フランドールの方はどうなの?」

 すこしばかり私たちの足音だけが響く時間があり、そのあとに咲夜が答えた。

「妹さまはあまり時間にとらわれない方です」

 声から色が失われていた。私はその答えにどう返せばいいのかわからず、そのまま口の中で言葉にならない声を出した。私と咲夜の会話はそこで途切れてしまった。私たちは黙って咲夜が引き伸ばした途方もなく長い廊下を歩きつづけた。

 その途中、向こうから誰かが非常にゆったりとした足どりで歩いてくるのが見えた。パチュリーだった。すれ違うとき咲夜は立ち止まり、丁寧にパチュリーに一礼した。パチュリーも咲夜の横で立ち止まった。私が声をかける前にパチュリーが私に話しかけてきた。

「なにをそんなに固くなっているのかしら?」

 私はその質問を無視して、パチュリーに問いかける。

「今日は図書館にいないのね」
「ええ、少しやらなければならないことがありそうだから」

 パチュリーはいつものような力のない目つきで言う。けれどその目は私ではなく、私の背後に浮かぶ人形たちに向いているようだった。私はそれ以上パチュリーに問いかけることはしなかった。

「じゃあ、また。私もやらなければならないことがあるから」

 私が咲夜にうなずきかけると咲夜はまた歩みを進めた。私がパチュリーの横を通り過ぎるとき、彼女は私にしか聞こえないような声でつぶやいた。

「気をつけて」

 私は後ろを振り返り、彼女の言葉の真意を尋ねようとした。けれどパチュリーはゆったりとした歩調で私から去っていた。少しのあいだ私はパチュリーの後ろ姿を見ていたが、咲夜の足音が遠くなっていくのに気がついて慌ててあとを追いかけた。
 どうして私の不安を大きくさせるようなことを言うのだろう、と私は思った。もともとパチュリーには偏屈なところがあるのは知っていたが、あんな警告のような言葉は初めてだった。「妹さま」のところに行くのにそこまでの危険があるのだろうか?

「ここから先は階段ですから足元にお気をつけください」

 咲夜の言葉で私は現実に戻る。目の前には長く深い下りの階段があった。階段の先に何があるのかは見えなかった。明かりも最初の十段ほどにしか射し込んでおらず、あとはときどきランプが置いてあるだけだった。
 咲夜が先に階段を下っていく。ヒールの音がやけに大きく響き、棘のように私の胸をつつく。私も咲夜にしたがって長い階段を下りはじめた。

 長い時間をかけて下っていくと、少しずつ階段の先にあるものが見えてきた。それはとても大きな扉のようだった。咲夜が私の視線に気がついて言う。

「あれが妹さまのいる部屋です」

 扉の前に着くと、それが異様に重く固い鋼鉄の扉だとわかった。どこかの本で読んだことがある、と私は思った。そうだ、冥界の扉に似ているからだろう。ケルベロスはそこにいないが。
 扉に圧倒されている私を尻目に、咲夜は重い扉を音もなく開けていく。


 半開きになった扉の向こうにフランドールが見えた。彼女は扉が開いたことにも、私たちが見ていることにも気づいていないようだ。フランドールは赤い服を着た人形で遊んでいた。私はその光景に一瞬、胸の内がえぐられるような感触を覚えた。
 咲夜が先に扉の隙間を抜けて入り、私もあとから部屋に入った。そこでフランドールは私たちに気づいたらしい。人形を放り出して私に走り寄り、そのまま飛び込むようにして私に抱きついて弾む声でいった。

「おねえちゃん」

 この前は「アリス」と呼んでいたはずなのに、いつのまにか呼び方が変わっていた。私はフランドールに抱きつかれるままに咲夜を見る。咲夜は色のない微笑を浮かべたまま言う。

「妹さま、アリス・マーガトロイドさまです」
「わかってるよ、そんなこと」

 フランドールは私を見上げてまま言う。

「来てくれて嬉しい」

 何の穢れもない顔で言ったその言葉に、私は少しひるんだ。けれど適当な言葉を見つけてフランドールに応える。

「私もまた会えて嬉しいわ」
「ほんとう?」

 フランドールは私の体にまわした腕に力を込める。おそらくは嬉しさの表現なのだろう。そしてフランドールは扉の横に立っている咲夜に視線を移して言った。

「じゃあ、咲夜は下がって」

 咲夜はためらいの表情を浮かべて言った。「しかし――」。その言葉はフランドールに遮られた。

「私はおねえちゃんと二人がいいの」

 少しの間があき、それから咲夜は丁寧に頭を下げながら言った。

「かしこまりました。それでは二人でごゆっくりお過ごしください」

 そのまま咲夜は鉄の扉を閉めて行ってしまった。この部屋に私とフランドールの二人が残る。私が咲夜の出ていった扉を見つめていると、フランドールが私の服を引っ張り、「これで二人きりになったね」と言った。私は曖昧にうなずいてまわりを見回した。
 そこは真四角の無機質な部屋だった。およそ住むひとの感情は染みついていない。ただそれが空間として存在しているだけのようだった。部屋は真四角で、壁はただ白く、床は正方形のこげ茶タイルで敷きつめられているだけ。部屋にあるものと言ったら、さっきフランドールが放り投げた赤い人形だけだった。それなのに部屋は紅魔館のホールほどの大きさがあった。部屋の光景は私に檻を想起させた。

 私は薄気味悪くなり、フランドールを引き離しながら彼女に言った。

「じゃあ、早速人形劇をやりましょうか」

 フランドールは目を輝かせたまま「うん」とうなずいた。そして私のすぐ前で床に座り込んで私の動作を黙って見つめた。私はその視線に迫られるようにして人形劇の準備を始めた。人形たちも配置につきはじめる。
 ただ早く人形劇を終わらせてしまおう、と私は思った。この気味が悪い部屋、それからこのフランドールもよくわからない。どうしてこんな部屋にいるのだろう。どうして妹さまと呼ばれていながらレミリアと同じところにいなかったのだろう。このフランドールには何か問題があるのではないか、と私は推測した。
 けれどフランドールはおとなしく私の劇の準備が終わるまで待っていた。そして私はそのフランドールの様子を意外だと思った。もしかしたらそれは今だけなのかもしれないが、どちらにしても私はとにかく早く劇を終わらせた方がいい。

 劇の準備といっても大したことはない。衣装もセットももう無くなっているのだから、それはもう準備する必要がない、というよりできない。人形を配置につかせ、私は台本を取り出してページを開くだけだった。主人公の上海人形が私の隣に立ち、出番を待っていた。
 そして観客が一人しかいない劇が始まる。
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コメント



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22.70名前が無い程度の能力削除
惹きつけられました。
まだ中、下を読んでないのでこの点数ですが
導入として魅力的な話だと思います。
24.90ずわいがに削除
やばい、怖い。このドキドキは期待や興奮ではなく、不安や焦燥感によるものですね。
続き、読めるかな……。