妬ましいものは、うんと沢山ある。
ひとの臓腑を惹き付ける美酒、生まれ立ての妖精の無垢な顔、小芝居の役者の熱演、六辺の整った雪の結晶、盛り下がらない宴、拾われる泥石。活気と熱気と元気。
誰からも慈しまれるもの。誰かに愛でられるもの。
光を視ると、私の緑の瞳は陰に焼ける。眩しくて、手の届かないものに思えて。
「私らがこっちに移住する前、置き土産に植えた山桜の苗。一本生長し過ぎて、山腹に倒れかけてるんだって。攫ってこない? 地獄の花見も乙だと思うよ」
数日前、鬼の四天王・星熊勇儀の発案で桜の地底移植計画が始まった。山の神々との相談を経て、桜花を賭けたスペルカード戦の約束が取り付けられた。旧都の広場に鬼の手で穴が掘られ、妖怪の山と似た質の土が用意された。腐葉土や天然材料の栄養剤も。
地上と地下を繋ぐ私の許にも、鬼の遣いが来た。桜を攫う一行を大人しく見守るよう、頼まれた。地底世界で鬼の権力はほぼ絶対だ、逆らえるはずがない。邪魔してやりたいが了解した。移植記念の宴会に来ないかと誘われた。渋々承諾した。早めに帰ればいい。
弥生吉日の今宵、地下代表の鬼や妖怪達は賑々しく上に出発した。愉快そうなのが妬ましい。私は無様な敗北を祈りながら、無言で見送った。
行列のしんがりに一点、彼女がいた。私を眺めて、口元を言葉の形に動かした。
「負ければいいと願っているようですが、多分勝ちますよ。皆、花見酒を心底楽しみにしていますから」
他の妖怪から距離を取って、彼女は浮いていった。
言う通りになった。数刻後、彼らは山桜の古樹を得て帰ってきた。私の守護する縦穴を、騒いで通っていく。尖った耳で会話を聞くに、圧勝だったそうだ。次々繰り出される神の弾幕を、反射神経と力業でねじ伏せたという。
先頭の勇儀が、十人で手を繋いでも囲めないほどの巨木を片手で軽々と運んでいた。根のあった部分は土ごと柔らかい布で覆われている。枝は短く切り落とされている。旧都に着けばすぐに植えられるだろう。
節をつけて唄われるは、さくらの可憐な美しさ。儚い花弁を浮かべて呑む酒の、粋な美味しさ。
花をつける前から、大した慕われようだ。
瞳が熱い。端から焦げる。力自慢の鬼、群れ戯れる妖怪、人気者の桜。視界に入る何もかもが、妬ましい。地下道の果ての家に戻って、不貞寝してやろうか。祝いの宴はすっぽかして。
否、ひとつだけ嫉妬を感じないものがあった。桜隊の最後尾、はぐれたようについてくる人影。前を進む妖達は、彼女を振り返っては遠ざかる。見てはいけない怪物を見てしまったかのように。彼女に気にした様子はない。白木蓮を一枝抱いて、巡る風に乗っている。岩壁の椅子に腰掛ける私を認めて、
「何もかも妬ましいけれど、私に関しては羨みも憎みもしない、ですか。貴方らしいですね」
「読んでいちいち口に出すのやめたら。余計嫌われるわよ」
「何処を視たのか指摘しないと、不気味がられるものですから」
「指摘しても不気味ね」
彼女――覚り妖怪・古明地さとりは霞のように微笑んだ。
地底一の嫌われ者と呼ばれることも多いさとりだが、私は酷く疎んじてはいない。髪のほつれやスカートについた皺と同程度の嫌さだ。
彼女を恐れるのは、虚偽ややましさを隠したがるご清潔な面々。私は最初から暗い嫉妬に狂っているので、内面を読まれても怖くない。何処を掬い視ようが病みは病みだ。
さとりの立場や牢獄のような住居、第三の瞳は、ちっとも妬ましくない。輝く側にない。ある意味目に優しい。
「宴に出ないのですか。星熊さんに欠席と伝えましょうか」
「行くわよ。少しなら」
彼女と並んで、けたたましい百鬼桜夜行の後を追った。お酒の一杯も貰って消えれば文句はあるまい。
金髪と霧紫の髪が、地の上下を循環する春風にそよいだ。
そういえば、どうして彼女はあいつらに同行していたのだろう。地霊殿の怨霊管理の仕事を放って。花は拾い物か、盗んだのか。
「何故同行したか? ペットを通じて、山の神とは縁があるもので。星熊さんに、スペルカード戦の仲介を依頼されました。貴方の縦穴とは別のルートを使って、守矢神社と連絡を取っていました。怨霊はペットに任せてあります」
「ご説明どうも」
「それからこの花は、神社の方からの挨拶と感謝の品です。ペットを無断で核利用されて花一枝では、安いと思いますが」
「でも貰うのね」
「白木蓮に罪はありません」
薄空色の上着に、小鳥の羽のような花びらを擦り付けた。女性的な、甘やかな香りが漂った。彼女はともかく、この白い花は妬ましい。色香でひとを虜にする。赤子のように、大切そうに抱えられている。
「正直ですね、貴方の目は」
「読みやすくて楽でしょう」
「おくう並みです」
先の間欠泉騒ぎの一因の、頭が空っぽの地獄鴉か。一緒にするな。引っ叩こうとしたら、素早く横にかわされた。
「褒めたつもりなのですが」
「わかりやすい褒め言葉を遣いなさい。ひねくれ者」
「割とまともに褒めています」
十人中十一人が違うと言うだろう。普段屋敷に籠もっている所為で、さとりの対人能力は劣化しつつあるのではないか。かと言って外に出れば避けられるだろうし、可哀想に。橋姫に憐れまれる奴なんて、そうそういない。
彼女は私の憐憫に応えず、
「貴方の目に映る世界は、とても綺麗です」
理解困難な賛美を続けた。妬みにまみれた緑の廃墟の、何が美しいのだか。私の目は、嫉妬の炎を盛らせることしか知らない。
縦穴の終点の先で、大歓声と拍手が沸き起こった。土の壁にひびが入りそうだ。降り立てば、地の底の住民達が桜の大樹の姿に喜んでいた。直立した樹は、二階建ての長屋より数段高い。旧都の広場のいい目印だ。開花前からこの喝采、咲けばさぞや愛されることだろう。
二つの眼が焼ける、妬ましい。根腐れして枯れればいいのに。
爪を噛む私の隣で、さとりは日向の猫のように笑っていた。自分を厭う集団が、酒だ祭りだとさざめくのを見て。己と切り離された幸せを、まるで己のことのように。不思議な嫌われ者だ。
さとりの三つの瞳には、この世界はどんな風に映っているのだろう。疑問を念じるより早く、彼女が手を引いた。
「今日のお酒は天然酒虫で造った極上品だそうです。多目に貰ってきてください」
「私は貴方のペットじゃないわ。こき使わないで」
「私が行くと、折角の賑わいに水を差すでしょう」
嫌悪の地獄か、霊酒の極楽か。一般の地底妖怪からはさして感謝もされないのに、地霊殿の主として依頼を拒めるのに、勇儀と協力して。彼女の視界と思惑は、計り知れない。
幾らか、興味を持った。
歴史ある桜を迎えた広場は、大宴会場と化した。旧都はいつも酒臭いけれど、今夜は更に凄まじい。吸う息吐く息酒精が混じる。いるだけで酔い潰れそうだ。
桜の樹の下で、酒虫製の特上酒が振る舞われた。少量の水を原料に大量の酒を生み出す、鬼の技術と願望の生物・酒虫。天然物を用いた酒は殊に貴重らしく、鬼でもなかなか味わえない。それがふんだんに、ありとあらゆる者に提供されている。かつて妖怪の山に生きた彼らにとって、山桜は郷愁や宴の記憶を呼び起こす宝物なのだろう。だから嬉しくて、誰彼構わず酒を浴びせかける。地底に移り住んだ妖怪達も、花樹と絶品酒に浮かれ遊ぶ。
瓢箪二本分の酒を手にした頃には、髪も襟飾りもスカートも酒飛沫で濡れていた。素焼きの猪口を二枚忌々しく握り締め、さとりの所に向かった。桜と群衆から遠く離れた仮設のござに、彼女は小さく座っていた。
「あんた私が濡れると知ってて送り込んだんじゃないでしょうね、ですか? まさか。お疲れ様です」
「貴方淡々と嘘吐くわね、閻魔は上司じゃないの?」
酒入り瓢箪を転がすと、さとりは一本を左の白木蓮の側に、もう一本を右の空いた側に置いた。藁編みの面を叩いて、私を右に座らせた。猪口を酒で満たし、差し出してくれる。
「そっちに置いた瓢箪はどうするのか? 持って帰ります。ペットの留守番の労をねぎらいませんと」
「私の労は瓢箪半分程度ってことね」
「欲しければもっと貰ってくればいいでしょう」
この覚り妖怪、妬ましくも怖くもないが嫌らしい。流石は地霊殿の女王様、他人をこき使うことに慣れている。酒気を言い訳に蹴りを入れてもばちは当たるまい。性根を数寸真っ直ぐにすれば、浅い友人くらい作れるのではないだろうか。
「誰にでもこういう態度という訳ではありません。相手が貴方なので」
「頭空っぽでやりやすいのね。ありがたくないわ」
鬼自慢の酒はぬるい旨口、私達の暮らす地下世界のような奥深さがあった。解き明かせない甘味が、複雑に渦を巻いている。相応の重みがあるのに、二杯三杯と空けたくなった。喉を過ぎる瞬間の、温かいくすぐったさがたまらない。余韻も上々、実に妬ましい。
さとりと交互に、褐色の瓢箪を傾けた。
穴倉や小屋から出てきた妖怪達が、桜と酒に群がった。私達の傍も通っていった。ある者はさとりの左胸の瞳に恐れおののき、あからさまに避けていった。ある者ははっきり「げっ」と呻いた。指を差す幼い妖もいた。傍を行く先輩妖怪が咎めた。馬鹿、読まれるぞ。
静かに呑みたい私としては、いい人払いだ。さとりがどう感じているのかは知らないけれど。傷付いているのか、諦めたのか、慣れたのか。彼女の妹は、嫌われたくなくて覚りの瞳を閉ざしたという。たまに縦穴を無邪気に遊泳しているのを見かける。彼女も同じ道を辿る可能性はある。
読心の力を捨てない限り、さとりにとってこの世は地獄なのではないだろうか。私の心の問いに、彼女は否と首を振った。
「強がり」
瓢箪を持ち上げた。軽い。空だった。私が思案ししみじみ呑んでいる間に、空けられた。逆さにしても露一滴零れない。何て呑み相手だ。こいつには二度と酒を分けるものか。
「怒らないで、貰いに行っては? なくなりますよ」
「そっちの奴分捕るわよ、強欲妖怪」
さとりは花枝と瓢箪を胸に抱え、丸く寝転がった。遠方の大騒ぎを、火照った笑顔で見詰めている。おかしな妖女だ。うるさくて面白そうで、関われなくて妬ましいだけだろうに。
お代わりを取りに行く気は起きなかった。やっと乾いてきた髪と服を、また台無しにされるかもしれない。楽しそうな連中と宴会の主役の桜を、間近で見たくない。遠巻きに眺めるのも嫌なのに。
緑の怪物が、瞳の奥で燃え蠢いている。気に入らないなら壊せばいいと。いけない。鬼相手に喧嘩を売っても、叩きのめされて終わりだ。
矛先を向けるなら、この生意気な女。刺々しく訊ねた。
「本当は輪の中に入りたいのでしょう。こんなに離れた場所で呑んで。貴方を疎む小鬼も妖怪も、殺したいほど妬ましいでしょうに」
「私を煽っても、桜の枝を折るような真似はしませんよ」
「いいのよ、私の憂さ晴らし。酒の分付き合いなさい」
私より暗がりにいて、嫌われている哀れな妖怪。彼女の口から、「妬ましい」の一言を引きずり出してやりたかった。酒が甘露なら、嫉妬は絡みつく蜜の味だ。
自分より好かれる弱い妖怪が、妬ましいのでしょう。
傲慢に生きる鬼共が、妬ましいのでしょう。
力を捨てて奔放に生きる妹が、妬ましいのでしょう。
命令のままに飼われるペット達が、妬ましいのでしょう。
貴方の目に映るのは、醜い心情。読めるがゆえにぶつけられるのは、憎しみと恐怖。行き着く先は孤独と絶望。何も視えない全ての者が、妬ましいのでしょう。
妬ましいのでしょう。
私の数々の質問に、彼女はいいえと答えた。機械的にではなく、人間味を持って。妹やペットが関わると、幾分響きを低めて。
「面白くないわね」
「煽っても何にもならないと言ったでしょう」
全くだ。私が疲れて腹立たしくなる一方だ。
行き場のない嫉妬の念は、牡丹雪のように降り積もる。緑に燃えても融けやしない。
鬼と妖の親愛を一身に受ける山桜が、妬ましくて仕方がない。既に夢幻の五弁花を咲かせて、光を散らせているように視える。いつの日かあった山景の復活に、鬼が大盃をかざす。魅了するかのように、桜は雨を舞わせる。
私もああ在りたい。愛されたい。望んでも叶わない。私は嫉妬狂い、恋したものは逃げていく。陰で妬まなければ生きられない。
眉間に皺を寄せていると、
「ひとつ、非常に妬ましいものがありました」
さとりが手を軽く打ち合わせた。眠たそうな藤色の瞳に、笑みが滲む。
「何」
「貴方の目です」
呆れて言葉が出なかった。
わからない。こんな屈折した瞳の、何処がいいのだか。
「貴方の目に映る幻想郷は、とても魅力的です。貴方を通じて視た山桜は、現実のものより華麗でした」
夢見がちと馬鹿にされているのだろうか。
「けなしていませんよ」
千を妬み、万を妬んで幾星霜。己を妬まれたのは、初めてだ。感動も喜びも湧かなかった。さとりが一層奇妙に思えた。
桜は視たくない。横になって、訊いてみた。先刻問えなかった、気になることがあった。ねえ、
「貴方の三つの瞳には、この世界はどんな風に映っているの。地獄? 極楽? 神様に見捨てられた感じ?」
何故彼女は当たり前の幸福を妬まず、私の目に嫉妬するのだろう。
自分を嫌悪する者の歓声を、自分のことのように笑えるのだろう。
さとりは跳ねがちな髪を撫で付け、星も雲もない赤茶の天蓋を仰いだ。存外酔っているので、余計なことまで喋るかもしれませんが。そう注意して、声を成した。
「幼い頃の私なら、貴方の呪詛に乗って嫉妬に狂っていたでしょう。自分より好かれる弱い妖怪も、鬼も、視えない者は誰でも妬ましかった。私に原因はないのに、嫌われる。苦痛でした。神様は嫌いでしたね。今もあまり信じていませんけれど」
閻魔様に殴られても知らない。
「地底に移ってからも、状況は変わらず。力を消し去りたいという欲求と、怨霊管理の義務の間で悩んでいました。懊悩の最中、妹が覚りの道を捨てました。自暴自棄になりかけました。これを切ろうとしたこともありました」
これ、と真っ赤な導線を引いて見せた。
「そんなとき、確か、冬でしたね。一人の妖怪が、旧都の外れで二又尻尾の黒猫を睨んでいました。今にも食い殺しそうなおっかない形相で」
「怖いわね。餓えた奴は何するかわからないわ」
「妬ましいとぼやきながら」
よし多分私じゃない。さとりは酔い過ぎているのだ。聞き流そう。
「一見みすぼらしい、逝きかけの子猫を、彼女は妬んでいました。磨けば光る、びろうどのような毛並みで人を誘っている。鳴き声がよく聴くと愛らしくて耳に残る。妬ましい妬ましい。彼女の目を通じて視た黒猫は、大変素敵でした。気がついたときには地霊殿に連れ帰っていました。心が視えることは、必ずしも不幸なことではない。視えなければわからないものもある。深く教えられた夜でした」
「その黒猫、今も飼ってる?」
「お燐ですよ。灼熱地獄跡で元気に死体運びをしています。彼女は私に擦り寄ってきました。言葉の通じない動物には、私の力はありがたかったようです。私は初めて愛されました。覚りの身には大きな、大きな幸せでした。私は地霊殿に次々動物を連れてきて、ペットにしました」
瓢箪一本酒を持ち帰るわけだ。放任主義を気取るようで、さとりはペットに優しい。
「ペット達は時に私の目を恐れ、屋敷の中を逃げました。それでも心の片隅に、いつも温かい感情を持っていてくれました。生者は醜さや暗さだけでできているのではない、辛かったら明るい面を視ればいい。大分年を取ってから、簡単な生き方を悟りました。悟って、余裕が生まれました。ペットの成長や幸福を、自分のことのように喜べました。地霊殿の外で暮らす人々の、日々の幸も」
覚りの紅い瞳を、さとりは両手で包んだ。
「私の目には、嘘偽りが映りません。嫌は嫌、いいはいい、幸せは、幸せ。それは貴重で、嬉しいことです。私の視界は、私の世界。目を向ければ、誰かが喜んでいる。相手が私でなくてもいい。皆の光る心を、私は視て自分のものにしているのです。もう、視えない者を妬むことはありません」
他者の精神を視透かす、覚り妖怪らしい、さとりらしい答えだった。
三つの瞳の向こうでは、桜の宴が激しく繰り広げられている。合唱あり踊りあり腕比べあり、弾幕も飛び交う何でもありのお祭り。花に集う者は妬ましいまでに盛り上がっていた。彼女は宴会風景を視界に収め、自分のものにしていた。
私は全身で伸びをした。手足を引っ張ると、心地いい。疲れも取れる。
「私が嫉妬に狂わせるには、遅かったのね」
「でも、貴方の目は羨ましいですよ。私は貴方のように、物事を妬ましいほど良くは視られないので」
「良く視てるのかしらね」
自分ではわからない。羨んで憧れて、妬むばかりだ。
堅いものを折る音がした。鼻先に、白い花の枝が押し付けられた。誘うような、色っぽい薫香。私には出せない魅力だ、妬ける。
さとりは憎々しげな私の顔を覗き見て、
「とっても良く視てます。それは、あげます。お酒のお礼に」
「どうも。途中でへし折るかもしれないわよ」
「ご自由に。それと、お願いです。また、桜、視てくれませんか」
嫌な頼みをしてきた。他人の好感や幸せを糧にしたいのなら、嫌がらせをやめればいいのに。
霞む声に、欠伸を噛み殺す音が混じる。瞼を下ろしては上げていた。
「寝たら蹴飛ばすから」
伸びの勢いで身体を起こして、宴の中心を見遣った。
何度視ても、頭に来る桜だ。
移植用に枝先を切られたのに、落ち込んでいない。元からそこにいたかのように、凛と澄ましている。
春の息遣いを感じる。精霊の一人や二人、潜んでいるのではないか。
鬼共は何としても枝葉を伸ばして、蕾を綻ばせるだろう。ますます美しくなる。観衆を興奮させる。そのうち地底の象徴になるかもしれない。妬ましい侵入者め。
「あんたはあんたで、言った先から寝るし」
折り曲げた膝を蹴り上げた。さとりは二つの目を閉じて、熟睡していた。頬を抓っても、耳元で猫の鳴き声を模しても起きない。胸元の拳大の赤瞳のみ、覚醒している。花見提灯の明かりを、爛々と受けている。私の心は、視えているのかいないのか。安心し切って、眠りこけて。今巫女や魔法使いが襲ってきたら、真っ先にやられるぞ。
ペットや放浪妹の迎えを期待したが、半刻待てども来なかった。放って帰るのも寝覚めが悪い。
「手のかかる女王様ね」
左肩に担いだ。小柄な娘で助かった。旧都を突っ切って地霊殿まで、何とか持ちそうだ。瓢箪と二枝の白木蓮も、忘れず右腕に挟んだ。ござと猪口は置いておいても平気だろう。誰かが持ち去ってくれる。
転ばないよう、落とさないよう、確実に歩き始めた。
巨大桜の横を抜けるとき、呑み比べ中の勇儀に声をかけられた。結構な距離を三度の跳躍で詰め、私達の前に降り立つ。酒をなみなみ注いだ大盃を、人差し指一本で支えていた。樽単位で呑んでいるはずなのに、顔色も足取りもしっかりしている。
「あー、さとり潰れたか。桜攫いの功労者なのに、あいつらの前で褒めも讃えもしてないや」
「そういうのは苦手かもしれないわ」
「パルスィには重いだろ。私に任せなよ、運んでく」
「気持ちだけ頂くわ。貴方は好きに遊んでて。その方がさとりは嬉しいみたい」
よろめく手を振って、土道を踏みしめた。
天然酒虫の酒が、美味しくて妬ましい。
未開の桜を肴にした宴が、騒々しくて妬ましい。
鬼の腕力が妬ましい。
物言わずひとを捕らえる、古の山桜が妬ましい。
嫉妬を歩みに変えた。
「ああ、それと」
私より暗がりにいて、嫌われている哀れなさとり。
「貴方の視る世界も、瞳も、相当に妬ましいわ」
双眸は痛まなかった。
私の緑眼で、意味を宿すものもあるのかもしれない。
華奢なシルエットの洋館の、正面の鐘を鳴らした。
「お帰りなさいさとり様、あんまり帰りが遅いんで迎えに行こうかと」
「凄く遅い」
二又尻尾の黒猫娘が、扉を開け放った。
ひとの臓腑を惹き付ける美酒、生まれ立ての妖精の無垢な顔、小芝居の役者の熱演、六辺の整った雪の結晶、盛り下がらない宴、拾われる泥石。活気と熱気と元気。
誰からも慈しまれるもの。誰かに愛でられるもの。
光を視ると、私の緑の瞳は陰に焼ける。眩しくて、手の届かないものに思えて。
「私らがこっちに移住する前、置き土産に植えた山桜の苗。一本生長し過ぎて、山腹に倒れかけてるんだって。攫ってこない? 地獄の花見も乙だと思うよ」
数日前、鬼の四天王・星熊勇儀の発案で桜の地底移植計画が始まった。山の神々との相談を経て、桜花を賭けたスペルカード戦の約束が取り付けられた。旧都の広場に鬼の手で穴が掘られ、妖怪の山と似た質の土が用意された。腐葉土や天然材料の栄養剤も。
地上と地下を繋ぐ私の許にも、鬼の遣いが来た。桜を攫う一行を大人しく見守るよう、頼まれた。地底世界で鬼の権力はほぼ絶対だ、逆らえるはずがない。邪魔してやりたいが了解した。移植記念の宴会に来ないかと誘われた。渋々承諾した。早めに帰ればいい。
弥生吉日の今宵、地下代表の鬼や妖怪達は賑々しく上に出発した。愉快そうなのが妬ましい。私は無様な敗北を祈りながら、無言で見送った。
行列のしんがりに一点、彼女がいた。私を眺めて、口元を言葉の形に動かした。
「負ければいいと願っているようですが、多分勝ちますよ。皆、花見酒を心底楽しみにしていますから」
他の妖怪から距離を取って、彼女は浮いていった。
言う通りになった。数刻後、彼らは山桜の古樹を得て帰ってきた。私の守護する縦穴を、騒いで通っていく。尖った耳で会話を聞くに、圧勝だったそうだ。次々繰り出される神の弾幕を、反射神経と力業でねじ伏せたという。
先頭の勇儀が、十人で手を繋いでも囲めないほどの巨木を片手で軽々と運んでいた。根のあった部分は土ごと柔らかい布で覆われている。枝は短く切り落とされている。旧都に着けばすぐに植えられるだろう。
節をつけて唄われるは、さくらの可憐な美しさ。儚い花弁を浮かべて呑む酒の、粋な美味しさ。
花をつける前から、大した慕われようだ。
瞳が熱い。端から焦げる。力自慢の鬼、群れ戯れる妖怪、人気者の桜。視界に入る何もかもが、妬ましい。地下道の果ての家に戻って、不貞寝してやろうか。祝いの宴はすっぽかして。
否、ひとつだけ嫉妬を感じないものがあった。桜隊の最後尾、はぐれたようについてくる人影。前を進む妖達は、彼女を振り返っては遠ざかる。見てはいけない怪物を見てしまったかのように。彼女に気にした様子はない。白木蓮を一枝抱いて、巡る風に乗っている。岩壁の椅子に腰掛ける私を認めて、
「何もかも妬ましいけれど、私に関しては羨みも憎みもしない、ですか。貴方らしいですね」
「読んでいちいち口に出すのやめたら。余計嫌われるわよ」
「何処を視たのか指摘しないと、不気味がられるものですから」
「指摘しても不気味ね」
彼女――覚り妖怪・古明地さとりは霞のように微笑んだ。
地底一の嫌われ者と呼ばれることも多いさとりだが、私は酷く疎んじてはいない。髪のほつれやスカートについた皺と同程度の嫌さだ。
彼女を恐れるのは、虚偽ややましさを隠したがるご清潔な面々。私は最初から暗い嫉妬に狂っているので、内面を読まれても怖くない。何処を掬い視ようが病みは病みだ。
さとりの立場や牢獄のような住居、第三の瞳は、ちっとも妬ましくない。輝く側にない。ある意味目に優しい。
「宴に出ないのですか。星熊さんに欠席と伝えましょうか」
「行くわよ。少しなら」
彼女と並んで、けたたましい百鬼桜夜行の後を追った。お酒の一杯も貰って消えれば文句はあるまい。
金髪と霧紫の髪が、地の上下を循環する春風にそよいだ。
そういえば、どうして彼女はあいつらに同行していたのだろう。地霊殿の怨霊管理の仕事を放って。花は拾い物か、盗んだのか。
「何故同行したか? ペットを通じて、山の神とは縁があるもので。星熊さんに、スペルカード戦の仲介を依頼されました。貴方の縦穴とは別のルートを使って、守矢神社と連絡を取っていました。怨霊はペットに任せてあります」
「ご説明どうも」
「それからこの花は、神社の方からの挨拶と感謝の品です。ペットを無断で核利用されて花一枝では、安いと思いますが」
「でも貰うのね」
「白木蓮に罪はありません」
薄空色の上着に、小鳥の羽のような花びらを擦り付けた。女性的な、甘やかな香りが漂った。彼女はともかく、この白い花は妬ましい。色香でひとを虜にする。赤子のように、大切そうに抱えられている。
「正直ですね、貴方の目は」
「読みやすくて楽でしょう」
「おくう並みです」
先の間欠泉騒ぎの一因の、頭が空っぽの地獄鴉か。一緒にするな。引っ叩こうとしたら、素早く横にかわされた。
「褒めたつもりなのですが」
「わかりやすい褒め言葉を遣いなさい。ひねくれ者」
「割とまともに褒めています」
十人中十一人が違うと言うだろう。普段屋敷に籠もっている所為で、さとりの対人能力は劣化しつつあるのではないか。かと言って外に出れば避けられるだろうし、可哀想に。橋姫に憐れまれる奴なんて、そうそういない。
彼女は私の憐憫に応えず、
「貴方の目に映る世界は、とても綺麗です」
理解困難な賛美を続けた。妬みにまみれた緑の廃墟の、何が美しいのだか。私の目は、嫉妬の炎を盛らせることしか知らない。
縦穴の終点の先で、大歓声と拍手が沸き起こった。土の壁にひびが入りそうだ。降り立てば、地の底の住民達が桜の大樹の姿に喜んでいた。直立した樹は、二階建ての長屋より数段高い。旧都の広場のいい目印だ。開花前からこの喝采、咲けばさぞや愛されることだろう。
二つの眼が焼ける、妬ましい。根腐れして枯れればいいのに。
爪を噛む私の隣で、さとりは日向の猫のように笑っていた。自分を厭う集団が、酒だ祭りだとさざめくのを見て。己と切り離された幸せを、まるで己のことのように。不思議な嫌われ者だ。
さとりの三つの瞳には、この世界はどんな風に映っているのだろう。疑問を念じるより早く、彼女が手を引いた。
「今日のお酒は天然酒虫で造った極上品だそうです。多目に貰ってきてください」
「私は貴方のペットじゃないわ。こき使わないで」
「私が行くと、折角の賑わいに水を差すでしょう」
嫌悪の地獄か、霊酒の極楽か。一般の地底妖怪からはさして感謝もされないのに、地霊殿の主として依頼を拒めるのに、勇儀と協力して。彼女の視界と思惑は、計り知れない。
幾らか、興味を持った。
歴史ある桜を迎えた広場は、大宴会場と化した。旧都はいつも酒臭いけれど、今夜は更に凄まじい。吸う息吐く息酒精が混じる。いるだけで酔い潰れそうだ。
桜の樹の下で、酒虫製の特上酒が振る舞われた。少量の水を原料に大量の酒を生み出す、鬼の技術と願望の生物・酒虫。天然物を用いた酒は殊に貴重らしく、鬼でもなかなか味わえない。それがふんだんに、ありとあらゆる者に提供されている。かつて妖怪の山に生きた彼らにとって、山桜は郷愁や宴の記憶を呼び起こす宝物なのだろう。だから嬉しくて、誰彼構わず酒を浴びせかける。地底に移り住んだ妖怪達も、花樹と絶品酒に浮かれ遊ぶ。
瓢箪二本分の酒を手にした頃には、髪も襟飾りもスカートも酒飛沫で濡れていた。素焼きの猪口を二枚忌々しく握り締め、さとりの所に向かった。桜と群衆から遠く離れた仮設のござに、彼女は小さく座っていた。
「あんた私が濡れると知ってて送り込んだんじゃないでしょうね、ですか? まさか。お疲れ様です」
「貴方淡々と嘘吐くわね、閻魔は上司じゃないの?」
酒入り瓢箪を転がすと、さとりは一本を左の白木蓮の側に、もう一本を右の空いた側に置いた。藁編みの面を叩いて、私を右に座らせた。猪口を酒で満たし、差し出してくれる。
「そっちに置いた瓢箪はどうするのか? 持って帰ります。ペットの留守番の労をねぎらいませんと」
「私の労は瓢箪半分程度ってことね」
「欲しければもっと貰ってくればいいでしょう」
この覚り妖怪、妬ましくも怖くもないが嫌らしい。流石は地霊殿の女王様、他人をこき使うことに慣れている。酒気を言い訳に蹴りを入れてもばちは当たるまい。性根を数寸真っ直ぐにすれば、浅い友人くらい作れるのではないだろうか。
「誰にでもこういう態度という訳ではありません。相手が貴方なので」
「頭空っぽでやりやすいのね。ありがたくないわ」
鬼自慢の酒はぬるい旨口、私達の暮らす地下世界のような奥深さがあった。解き明かせない甘味が、複雑に渦を巻いている。相応の重みがあるのに、二杯三杯と空けたくなった。喉を過ぎる瞬間の、温かいくすぐったさがたまらない。余韻も上々、実に妬ましい。
さとりと交互に、褐色の瓢箪を傾けた。
穴倉や小屋から出てきた妖怪達が、桜と酒に群がった。私達の傍も通っていった。ある者はさとりの左胸の瞳に恐れおののき、あからさまに避けていった。ある者ははっきり「げっ」と呻いた。指を差す幼い妖もいた。傍を行く先輩妖怪が咎めた。馬鹿、読まれるぞ。
静かに呑みたい私としては、いい人払いだ。さとりがどう感じているのかは知らないけれど。傷付いているのか、諦めたのか、慣れたのか。彼女の妹は、嫌われたくなくて覚りの瞳を閉ざしたという。たまに縦穴を無邪気に遊泳しているのを見かける。彼女も同じ道を辿る可能性はある。
読心の力を捨てない限り、さとりにとってこの世は地獄なのではないだろうか。私の心の問いに、彼女は否と首を振った。
「強がり」
瓢箪を持ち上げた。軽い。空だった。私が思案ししみじみ呑んでいる間に、空けられた。逆さにしても露一滴零れない。何て呑み相手だ。こいつには二度と酒を分けるものか。
「怒らないで、貰いに行っては? なくなりますよ」
「そっちの奴分捕るわよ、強欲妖怪」
さとりは花枝と瓢箪を胸に抱え、丸く寝転がった。遠方の大騒ぎを、火照った笑顔で見詰めている。おかしな妖女だ。うるさくて面白そうで、関われなくて妬ましいだけだろうに。
お代わりを取りに行く気は起きなかった。やっと乾いてきた髪と服を、また台無しにされるかもしれない。楽しそうな連中と宴会の主役の桜を、間近で見たくない。遠巻きに眺めるのも嫌なのに。
緑の怪物が、瞳の奥で燃え蠢いている。気に入らないなら壊せばいいと。いけない。鬼相手に喧嘩を売っても、叩きのめされて終わりだ。
矛先を向けるなら、この生意気な女。刺々しく訊ねた。
「本当は輪の中に入りたいのでしょう。こんなに離れた場所で呑んで。貴方を疎む小鬼も妖怪も、殺したいほど妬ましいでしょうに」
「私を煽っても、桜の枝を折るような真似はしませんよ」
「いいのよ、私の憂さ晴らし。酒の分付き合いなさい」
私より暗がりにいて、嫌われている哀れな妖怪。彼女の口から、「妬ましい」の一言を引きずり出してやりたかった。酒が甘露なら、嫉妬は絡みつく蜜の味だ。
自分より好かれる弱い妖怪が、妬ましいのでしょう。
傲慢に生きる鬼共が、妬ましいのでしょう。
力を捨てて奔放に生きる妹が、妬ましいのでしょう。
命令のままに飼われるペット達が、妬ましいのでしょう。
貴方の目に映るのは、醜い心情。読めるがゆえにぶつけられるのは、憎しみと恐怖。行き着く先は孤独と絶望。何も視えない全ての者が、妬ましいのでしょう。
妬ましいのでしょう。
私の数々の質問に、彼女はいいえと答えた。機械的にではなく、人間味を持って。妹やペットが関わると、幾分響きを低めて。
「面白くないわね」
「煽っても何にもならないと言ったでしょう」
全くだ。私が疲れて腹立たしくなる一方だ。
行き場のない嫉妬の念は、牡丹雪のように降り積もる。緑に燃えても融けやしない。
鬼と妖の親愛を一身に受ける山桜が、妬ましくて仕方がない。既に夢幻の五弁花を咲かせて、光を散らせているように視える。いつの日かあった山景の復活に、鬼が大盃をかざす。魅了するかのように、桜は雨を舞わせる。
私もああ在りたい。愛されたい。望んでも叶わない。私は嫉妬狂い、恋したものは逃げていく。陰で妬まなければ生きられない。
眉間に皺を寄せていると、
「ひとつ、非常に妬ましいものがありました」
さとりが手を軽く打ち合わせた。眠たそうな藤色の瞳に、笑みが滲む。
「何」
「貴方の目です」
呆れて言葉が出なかった。
わからない。こんな屈折した瞳の、何処がいいのだか。
「貴方の目に映る幻想郷は、とても魅力的です。貴方を通じて視た山桜は、現実のものより華麗でした」
夢見がちと馬鹿にされているのだろうか。
「けなしていませんよ」
千を妬み、万を妬んで幾星霜。己を妬まれたのは、初めてだ。感動も喜びも湧かなかった。さとりが一層奇妙に思えた。
桜は視たくない。横になって、訊いてみた。先刻問えなかった、気になることがあった。ねえ、
「貴方の三つの瞳には、この世界はどんな風に映っているの。地獄? 極楽? 神様に見捨てられた感じ?」
何故彼女は当たり前の幸福を妬まず、私の目に嫉妬するのだろう。
自分を嫌悪する者の歓声を、自分のことのように笑えるのだろう。
さとりは跳ねがちな髪を撫で付け、星も雲もない赤茶の天蓋を仰いだ。存外酔っているので、余計なことまで喋るかもしれませんが。そう注意して、声を成した。
「幼い頃の私なら、貴方の呪詛に乗って嫉妬に狂っていたでしょう。自分より好かれる弱い妖怪も、鬼も、視えない者は誰でも妬ましかった。私に原因はないのに、嫌われる。苦痛でした。神様は嫌いでしたね。今もあまり信じていませんけれど」
閻魔様に殴られても知らない。
「地底に移ってからも、状況は変わらず。力を消し去りたいという欲求と、怨霊管理の義務の間で悩んでいました。懊悩の最中、妹が覚りの道を捨てました。自暴自棄になりかけました。これを切ろうとしたこともありました」
これ、と真っ赤な導線を引いて見せた。
「そんなとき、確か、冬でしたね。一人の妖怪が、旧都の外れで二又尻尾の黒猫を睨んでいました。今にも食い殺しそうなおっかない形相で」
「怖いわね。餓えた奴は何するかわからないわ」
「妬ましいとぼやきながら」
よし多分私じゃない。さとりは酔い過ぎているのだ。聞き流そう。
「一見みすぼらしい、逝きかけの子猫を、彼女は妬んでいました。磨けば光る、びろうどのような毛並みで人を誘っている。鳴き声がよく聴くと愛らしくて耳に残る。妬ましい妬ましい。彼女の目を通じて視た黒猫は、大変素敵でした。気がついたときには地霊殿に連れ帰っていました。心が視えることは、必ずしも不幸なことではない。視えなければわからないものもある。深く教えられた夜でした」
「その黒猫、今も飼ってる?」
「お燐ですよ。灼熱地獄跡で元気に死体運びをしています。彼女は私に擦り寄ってきました。言葉の通じない動物には、私の力はありがたかったようです。私は初めて愛されました。覚りの身には大きな、大きな幸せでした。私は地霊殿に次々動物を連れてきて、ペットにしました」
瓢箪一本酒を持ち帰るわけだ。放任主義を気取るようで、さとりはペットに優しい。
「ペット達は時に私の目を恐れ、屋敷の中を逃げました。それでも心の片隅に、いつも温かい感情を持っていてくれました。生者は醜さや暗さだけでできているのではない、辛かったら明るい面を視ればいい。大分年を取ってから、簡単な生き方を悟りました。悟って、余裕が生まれました。ペットの成長や幸福を、自分のことのように喜べました。地霊殿の外で暮らす人々の、日々の幸も」
覚りの紅い瞳を、さとりは両手で包んだ。
「私の目には、嘘偽りが映りません。嫌は嫌、いいはいい、幸せは、幸せ。それは貴重で、嬉しいことです。私の視界は、私の世界。目を向ければ、誰かが喜んでいる。相手が私でなくてもいい。皆の光る心を、私は視て自分のものにしているのです。もう、視えない者を妬むことはありません」
他者の精神を視透かす、覚り妖怪らしい、さとりらしい答えだった。
三つの瞳の向こうでは、桜の宴が激しく繰り広げられている。合唱あり踊りあり腕比べあり、弾幕も飛び交う何でもありのお祭り。花に集う者は妬ましいまでに盛り上がっていた。彼女は宴会風景を視界に収め、自分のものにしていた。
私は全身で伸びをした。手足を引っ張ると、心地いい。疲れも取れる。
「私が嫉妬に狂わせるには、遅かったのね」
「でも、貴方の目は羨ましいですよ。私は貴方のように、物事を妬ましいほど良くは視られないので」
「良く視てるのかしらね」
自分ではわからない。羨んで憧れて、妬むばかりだ。
堅いものを折る音がした。鼻先に、白い花の枝が押し付けられた。誘うような、色っぽい薫香。私には出せない魅力だ、妬ける。
さとりは憎々しげな私の顔を覗き見て、
「とっても良く視てます。それは、あげます。お酒のお礼に」
「どうも。途中でへし折るかもしれないわよ」
「ご自由に。それと、お願いです。また、桜、視てくれませんか」
嫌な頼みをしてきた。他人の好感や幸せを糧にしたいのなら、嫌がらせをやめればいいのに。
霞む声に、欠伸を噛み殺す音が混じる。瞼を下ろしては上げていた。
「寝たら蹴飛ばすから」
伸びの勢いで身体を起こして、宴の中心を見遣った。
何度視ても、頭に来る桜だ。
移植用に枝先を切られたのに、落ち込んでいない。元からそこにいたかのように、凛と澄ましている。
春の息遣いを感じる。精霊の一人や二人、潜んでいるのではないか。
鬼共は何としても枝葉を伸ばして、蕾を綻ばせるだろう。ますます美しくなる。観衆を興奮させる。そのうち地底の象徴になるかもしれない。妬ましい侵入者め。
「あんたはあんたで、言った先から寝るし」
折り曲げた膝を蹴り上げた。さとりは二つの目を閉じて、熟睡していた。頬を抓っても、耳元で猫の鳴き声を模しても起きない。胸元の拳大の赤瞳のみ、覚醒している。花見提灯の明かりを、爛々と受けている。私の心は、視えているのかいないのか。安心し切って、眠りこけて。今巫女や魔法使いが襲ってきたら、真っ先にやられるぞ。
ペットや放浪妹の迎えを期待したが、半刻待てども来なかった。放って帰るのも寝覚めが悪い。
「手のかかる女王様ね」
左肩に担いだ。小柄な娘で助かった。旧都を突っ切って地霊殿まで、何とか持ちそうだ。瓢箪と二枝の白木蓮も、忘れず右腕に挟んだ。ござと猪口は置いておいても平気だろう。誰かが持ち去ってくれる。
転ばないよう、落とさないよう、確実に歩き始めた。
巨大桜の横を抜けるとき、呑み比べ中の勇儀に声をかけられた。結構な距離を三度の跳躍で詰め、私達の前に降り立つ。酒をなみなみ注いだ大盃を、人差し指一本で支えていた。樽単位で呑んでいるはずなのに、顔色も足取りもしっかりしている。
「あー、さとり潰れたか。桜攫いの功労者なのに、あいつらの前で褒めも讃えもしてないや」
「そういうのは苦手かもしれないわ」
「パルスィには重いだろ。私に任せなよ、運んでく」
「気持ちだけ頂くわ。貴方は好きに遊んでて。その方がさとりは嬉しいみたい」
よろめく手を振って、土道を踏みしめた。
天然酒虫の酒が、美味しくて妬ましい。
未開の桜を肴にした宴が、騒々しくて妬ましい。
鬼の腕力が妬ましい。
物言わずひとを捕らえる、古の山桜が妬ましい。
嫉妬を歩みに変えた。
「ああ、それと」
私より暗がりにいて、嫌われている哀れなさとり。
「貴方の視る世界も、瞳も、相当に妬ましいわ」
双眸は痛まなかった。
私の緑眼で、意味を宿すものもあるのかもしれない。
華奢なシルエットの洋館の、正面の鐘を鳴らした。
「お帰りなさいさとり様、あんまり帰りが遅いんで迎えに行こうかと」
「凄く遅い」
二又尻尾の黒猫娘が、扉を開け放った。
ただそれだけだけでニヤニヤしてしまう
パルスィの話だから。
いつもすてきな作品ありがとうございます。
「普通の幸せ」というのは縁のないものかもしれませんが、
それでも幸せを感じて生きて欲しいですね。
でも、この二人は儚げな不幸の中にいる方が、より映えて
美しいとも思ってしまう…w
パルスィにもさとりみたいな世界の見方に気付いてほしいなぁ、なんて。
そりゃあパルスイには美しいものがより美しく見えるんでしょうね
さとりの達観の仕方が前向きで諦めの色がないのが、好きです
あなたの書くさとりは、信頼できます。
だから他者の幸せも自分のことのように喜ぶことができる。
えも言われぬ妖艶な雰囲気を持った文章でした。流石です。素晴らしい。
風情ある文章で、楽しめました。
そんな世界を綺麗に切り取り描くあなた。
妬ましいわ。
いいお話でした
さとりに語らせ過ぎたかな、と少し悩んでいました。お言葉を読んで、ほっとしました。皆様の温かさが妬ましいです。
>いい雰囲気
ありがとうございます。桜の咲く前の、柔らかい高揚感が出せていると良いなと思います。
>この二人の世界は不思議と優しげ
二人とも、特別な視界を持っています。瞳には悪いものも視えますが、綺麗なものも沢山視えるでしょう。
両者の性格も好きです。
>いつもすてきな作品ありがとうございます
此方こそ、お読みくださりありがとうございます。お楽しみいただけると幸いです。
>普通の幸せ
>儚げな不幸
どちらも好物です。幸せと不幸せは、遠いようで近いのかもしれません。こう、お菓子の隠し味に塩を入れると甘くなるような感じで。たとえが変てこでしょうか。
>パルスィにもさとりみたいな世界の見方に気付いてほしい
橋姫の形や在り方が変わりそうですね。お話の最後に、少し気付けたかもしれません。
>あなたの書くさとりは、信頼できます
信頼できると言われたのは初めてです。勲章のようで嬉しいです。
人の心を視通すのは難しいです。生身の人間も、作られたキャラクターも。
どんな物にも美点を見いだす、素晴らしいことですね。今度はさとりを通して、それがパルスィに伝わっていけば彼女の心から嫉妬の炎が消えてゆくのかも知れないですね。
とても綺麗なお話が読めて幸せです。
……いや、ホントにちゃんとこの作品を読んだ上でそう言っているのですよ割とマジで。
パルスィの目を通して見える世界を、私も見てみたい。
素敵でした。