気付くと僕は、外れ者の聖地へと分別回収されていた。僕はただただ、訪れた結末を思いながらぼんやりとそこに横たわっていた。
幻想郷は僕を受け入れた。なんてことだ。
それは驚くほどに残酷で、無慈悲な話だった。
仕方なく僕は、そこで生きるための術を、雪に埋もれていた僕を助け出してくれたその人に教わり、幻想郷という場を理解しようと努めた。
踊る妖精。原色の景色。歌う異端に、踊り爆ぜ合う美しい力と力。
幻想郷は、想像を絶する程に退屈な場所だった。
いいだろう。退屈は嫌いじゃない。
幻想郷を、受け入れよう。
僕は別段落胆せずましてや悲観なんて微塵もあるわけもなく、その現実を受け入れ、しかしだからといって何をするでもなくそこにただ存在し始めた。
異端な存在を受け入れる、世界の最果て。
狂気に愛され狂気を愛した少女。
どこか現実とずれているようにただ漠然とそこに存在しているはずだった、世界のために存在する少女。
現象を裁き、輪廻という無垢の苦痛を世界という無二において枷る神。
世界を愛し、世界と共に守り回る妙齢の妖怪。
そして、世界の全てを等価と見なし、そこに存在しながら当たり前のように影響を与えるしかなかったこの僕。
最後の一人はともかく、これだけの面々が押し込められた世界、しかしその世界はまるで正常みたいに、まるで常識みたいにゆっくりと確かに何事もなく今日も日が昇り沈む。
誰が歌おうが踊ろうが、世界は僅かも動かない。
そんな破綻しながらも冗談みたいに幻想みたいにゆるりゆるりと回る世界、それが幻想郷だった。
そんな世界で、一つのせこい道具屋を開いているのが僕なのだが、これはそんなどうでもいい世界をただ漠然と眺める僕が日常と呼ぶ循環の断片をつらつらと語った、物語と言うにはあまりにも具体性の無いただの記録だ。
酒の肴にもならないこの記録、ふとした気紛れのような気の迷いでも起こったら、手に取ってみるのも良いかもしれない。
『幻想境界』
境界。
この世の全てには境界というものがある。
例えば一人の人間。
世界との明確な境界があるからこそそこに存在でき、世界と隔絶されているからこそ、それに意思が宿る。例えば誰かと接するにも、そこに境界が生まれる。たとえそれが全てを受け入れようとも、一と一の間の境界を拭い去ることはできない。仮にその一の全てを余すことなく、感覚を越えた理解を持ってして知ることができたとしても、境界という絶無には微塵の影響も与えることもできない。
だから、もし境界を操る能力なんてものがあるとしたら、それは一人の人間と人間を同一にしてしまうことさえも可能な、あまりにも巫山戯た能力だ。
水面が在るから湖は存在し、稜線が在るから、山が空が存在する。
境界が在るからこそ世界は平和で、今日も殺伐と回り続ける。
理論的創造と破壊。しかしその能力の真髄は、創造よりも破壊よりも、もっとえげつのないものだと、僕は思う。
そんな巫山戯た能力を有する妖怪、それが、八雲 紫だ。
昼下がり、店内に流れる穏やかな雰囲気には特に気を止めず、僕は読書に勤しんでいた。
ルイス・キャロル作『What the Tortoise Said to Achilles. 』。
無関心に無感動にそれを読んでいると、鈴がカランカランと店内に鳴り響き、扉が開いた。
「こんにちは」
微笑み挨拶して店内に入ってきたのは、八雲 紫だった。
「いらっしゃい」
僕は本に栞を閉じて彼女を迎えたが、よくよく考えると、彼女のために読書を中断する理由が無い。僕は再び本を開いた。
「つれないわね。せっかく来てあげたのに」
「べつに頼んでないよ」
「そう」
彼女は別段気分を害した様子もなく、店をぐるりと見渡した。
「なにかお探しで」
本に視線を落したまま尋ねると、彼女は僕の前までつかつかと歩み寄り、本を引っ手繰った。
「魔道書を探しているの」
「それは魔道書じゃないけど」
「知ってるわよ」
ちらりと表紙を見て、栞も挟まず本を閉じて突き返してきた。
「名前を言えば、探してくれるのかしら?」
「無理だよ」
「サービス精神の欠片も無い店ね」
彼女はため息を吐いたが、しかしそんなことは今更だった。
「そうかもしれない」
突き返された本を手に取り暗記していたページを開き、店の奥を指差した。
「魔道書はあっちだ」
「サービス精神の欠片も無い店ね」
「そうかもしれない」
もう一度ため息を吐き、適度に整頓しているつもりの商品を跨ぎながら、店の奥へと消えていった。
「私が商品を盗むとは思わないの?」
店の奥から声がした。
「信じてるよ」
「そう」
彼女は笑った。
僕は整然と並んだ活字に視線を向けながらしかし、視界にはそれが映っていなかった。思考の海に意識を沈め、目の前の景色は消え失せていた。
境界を操る能力。その絶対の力を持ってしても、彼女は世界を変えるどころか、近代兵器にさえ敗れ去ってしまった。
しかしそれは、彼女の性格故だろう。
彼女は度を越した争いを、嫌いはしないが自分からは決して仕掛けることはない。彼女は緩い遊びが好きなのだ。
理論的創造と破壊。この世の全ての現象は理論で語ることができるし理論で語れぬものは無いというのが持論なのだが、だから境界を操る能力というのは僕が考え得る限りの最上の能力だ。
そして境界を操ることができるということは、この世の全ての現象を理論で完膚なきまでに理解し解き明かし語れるということだ。そんな彼女が、近代兵器ごときに後れをとるだろうか?
それとも彼女の理論解明には限界があり、すなわちそれが力の限界であるのか。あるいは生み出せるエネルギーの限界の問題なのか。
もちろんこれは僕の勝手な解釈であって実際どうなのかは全く分からないが、しかし、そんなことにはまったく興味が持てない。どうでもよかった。
「ん、あったわ」
彼女の内に響くような良く通る声で、僕は現実に引き戻された。
上機嫌で奥から出てきた彼女の胸には、一冊の古くぼろぼろで分厚い魔道書が抱かれていた。
「やっぱり逢うべき時に逢うものね。正直これがここにあるなんて期待してなかったけど」
カウンターに置かれた本は、その衝撃だけでばらばらになってしまいそうだった。表紙には、奇妙な文字と、おそらく魔法陣だと思われる図形が記してある。
「アポロンの書か」
「あら、分かるの?」
彼女は驚いた風に言った。
「いや、僕にはさっぱり分からなかったよ」
「これが読めるだけでも大したものだと思うわ」
手を叩いて賞賛されたが、嬉しくもなんともなかった。
「ふうん。噂に聞いた地獄鴉か」
少し考え、ぽつりと漏らした。
「……ご明答よ。すごいわ」
一層高らかに拍手され、まるで難しい問題を解いた寺子屋の生徒を教師が褒め称えるような口調で賞賛されたが、しかし彼女の瞳の奥は少しも笑っていなかった。
「本当にあなたの洞察力は大したものね。さすがに少し驚いたわ。感服するわ」
「どうも」
想像くらい、普通につきそうなものだが。
幻想とは、忘れ去られた過去だ。思い馳せる未来ではない。
噂に聞いた話しだと、最近こちらにやってきた神が地底の鴉に八咫烏の力を与え、その力を利用して産業革命を起こそうとしているとか。
幻想郷を覆う結界の一つに、現と幻の境界結界がある。しかしこのまま幻想郷で工業化が進むと、もし外の世界が核融合の術を手にしてしまえば、少なからず現と幻の境界が揺らぐ。
アポローンとは太陽神、また八咫烏の上位神とされている。アポロンの書とはおそらく、アポローンの力の術が記された書物。それを使って地獄鴉を鎮めるつもりか。
「まったく、どんな理由があったかしらないけど、軽薄だとしか思えない馬鹿な行動はやめてほしいわぁー」
仕方なさそうにため息を吐く彼女は、相当御立腹な様子だ。現と幻の境界結界は彼女が創ったと言われているし、そうでなくとも彼女は幻想郷を深く愛している。
「じゃあ、これを頂くわ」
微笑む彼女。だめだ、と言える雰囲気ではないな。
「構わない」
どうせ僕が持っていても意味は無いし。
「お代はこれでお願い」
言って、人差し指をついっと振り下ろすと、空間が裂けてスキマが出現した。そこから、いかにも曰くありげな古い壺を取り出した。
「これは?」
「月の都から頂戴した、千年物の超々古酒」
「……中身は無いようだけど」
「月の都から頂戴した、千年物の超々古酒、が入っていた壺よ」
「ただの壺じゃないか」
「芳醇な香りが楽しめるわ」
「…………」
まあいいか。どうせ僕が持っていても意味は無いし。
「ありがとう」
彼女は礼を言って、目の前に大きなスキマを出現させた。
しげしげと、月で作られた壺を眺め回す。立ち去ろうとする彼女に、僕は前々から思っていた疑問を口にした。
「月の都を創造したのは、君かい?」
片足をスキマに踏み出していた彼女は、ぶふっと噴き出した。
「月の都を、私が?」
くっくっく、と小刻みに震えながら笑っている。目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「残念、その仮説は、地球が平面というくらい間違っているわ」
「そうか」
彼女は袖で涙を拭い、しかしまだ震えながら笑っていた。
「あなたは本当に面白いわね」
「そうかな?僕はそうは思わない」
それは、僕の数少ない確信の一つだ。
「そう」
「ただ、月の都も循環の一つだと思ったんだ。いや、この場合は境界か」
「ふむ」
彼女は笑うのをやめ、いつもの笑みを浮かべ、スキマの向こうを遠く見ながら頷いた。
「しかし本当に面白い仮説ね。あるいは、私が知らないだけで、本当は地上の賢者が作り出したものなのかもしれないわね」
「創造の賢者か?」
「可能性としてはね」
「そうか」
しばらく無言が続き、そして去り際、彼女はまたけたけたと愉快そうに笑った。
「やっぱりあなたは面白いわね。また来るわ」
ひらひらと振る左手もスキマに引っ込み、彼女は消えた。
彼女の反応は演技だったかもしれないし、本当だったかもしれない。
月に現と幻の境界を作り、それぞれの世界に異なった姿を見せることで境界を強固にするという仮説も、月の民が霊的な術も機械的な術も所有しているのは、地上での現と幻、外と内の二つの性質を兼ね備えているためという仮説も、その技術が地上よりも大幅に進歩しているのは、外の世界の人間達に間違っても月の幻、裏側に在る都が見つからないように、間違っても現と幻が混じり合わないようにするためだという仮説も、しかし。
どうでもよかった。
僕は月の壺をガラクタ類の棚に並べ、読んでいた本に再び意識を落とした。
『色即絶無』
審判。
咎人と名付けられた異端を、罪という無比の力を持ってして、まるで世界の代理のように裁き命運を決定する、有無を言わさぬ問答無用の残虐。
彼女には、咎人どころか全ての者の徹頭徹尾を細大漏らさず裁き、命運どころか運命さえも決定する、まるで神のような権限がある。
そのはず、彼女は神だから。
――神は、人間よりも生物的に上位に位置する生命体なのだろうか?
神は人を喰らうのか?
それとも、世界の定式なんてものに影響を受けないほどの次元に、神は存在しているのだろうか?
分からない。
興味が無い。
どうでもいい。
ただそこで見下ろしていてくれ。
無縁塚。
世界の歪み、みたいな場所だろうか。
歴然と世界の根本として存在する境界、しかしそれが綻ぶという有り得ない事態によって、その場の全てがあやふやで不確かなものになってしまった。現象も幻想も世界の全てという全てが崩壊し、しかしそれが当たり前かのようにそこに平然と存在している。外の世界の物がよく流れ着く場所なのだが、ここに立ち入れば、意識どころか存在すらも消えかねない。世界の常識がここでは一切通用しない。ここは、崩壊した世界が常識として存在しているのだ。
しかしこの僕にとって、それは然したる問題ではなかった。世界の全てを、それは自分さえも全てとし等価と見なす僕にとって、世界の崩壊如き、別段大したことではない。そんな僕がこの場所に影響を受けるわけがなかった。
いつものように外から流れ着いた様々な物を拾い集めていると、前方から、あまり会いたくない顔が近づいてきた。思わず内心でため息を吐く。
「相変わらず、貴方はこんなところでも平然としていますね」
相変わらずの常時説教口調で現れたのは、閻魔、四季映姫だった。
彼女は僕の前で立ち止まるなり、早速説教を始めた。
「貴方はあまりに世界に無関心すぎる。全てに平等と言えば聞こえはいいが、しかしそれは一切を放棄しているというだけ。そう、貴方はあまりにも生を蔑ろにしすぎる」
「そうか」
もっともらしく頷き、辺りを見渡す。目ぼしいものはもう無いようだし、そろそろ切り上げるか。
「ここに来て少しは変化があったようですが、しかし今のまま自分の存在さえも見つめることができないまま亡くなれば、貴方は川を渡れないかもしれない」
「そうか」
頷く。
「じゃあ、僕はこれで」
「待ちなさい」
びっと両手を僕の顔の前に突き出し、彼女は説教を続けた。
「今の貴方にできる善行はただ一つ、それは世界をもっと愛しむことです」
「心掛けよう」
「貴方はこれまでに罪を犯しすぎた。貴方は覚えていないだろうけれど。このままでは貴方は川を渡ることができても、裁きを受け、地獄に落ちるでしょう」
「そうか」
頷くと、彼女は大きなため息を吐いた。
「死後の生活を良い物にしようという考えが、人生を善い物にする唯一の方法。しかし貴方にはその方法さえも、無関心に無感動ですね」
「無感動、ではないさ」
天国。
苦痛も悲しみも苦しみも欲望も穢れも存在しないそこは、果たして楽園か?
答えは否。僕はそう回答する。
苦痛も悲しみも苦しみも欲望も穢れも無い存在?そんなものは、ただの抜け殻だ。存在しているだけのそれに、なんの価値も無い。
地獄。
苦痛が悲しみが苦しみが欲望が穢れが、それだけしか存在しないそこは、果たして苦界か?
答えは否。僕はそう回答する。
苦痛が悲しみが苦しみが欲望が穢れが、それだけが有る存在?そんなもの、大したことはない。輪廻という無限の苦悶と比べれば、全然、大したことが無い。大差が無い。
現世。
苦痛が悲しみが苦しみが欲望が穢れが、それと対極のものまで存在するそこは、果たして楽園か?苦界か?
どちらでもいい。興味が無い。
「僕はもう行くよ」
「……後悔した時には、いつだってもう遅いのです」
「それも一興」
回収した道具やなにやらが入った袋を背負い、そこに佇む閻魔を残して、僕はそこを後にしようとした。
ふと、思いつきのような興味が湧いて、彼女の背へと話しかけた。
「仕事だから、人を無限の苦悶に陥れる神、君は、自分で自分を裁くとしたら、有罪かい?無罪かい?」
「…………」
彼女はしばらく黙り、
「分かりません」
答えた。
僕は苦笑して、そこを後にした。
『エニグマティクドール』
生まれながらに抜きん出た能力を持った、才能という異能に愛された子。
いわゆる天才。
それは、生まれながらに異端であるということに他ならない。
天才ではあるが、他がそれを認め、皆と上手く協調し調和している者だっているだろう?
その者は、断じて天才ではない。
適度にほどほどな能力があっただけだ。
頭一つ抜きん出た能力に、勘違いをしているだけだ。
異端は決して凡才とは混じり合えない。
凡才というと、そのことを拒絶してしまうであろう嫌なイメージが先行するが、それは標準、一般という意味だ。それをなぜ拒絶しようというのだ?
劣等感?
馬鹿馬鹿しい。
劣等感ごときで、異端という修羅の道を歩もうというのか?
馬鹿馬鹿しい。
あまりにも、馬鹿馬鹿しい。
ありふれた、ありきたりの、何でもない、当たり前の適当でいいじゃないか。
もし異端を羨望し全てを捨てて修羅の道を歩み、それでも異端を望み願い渇望するような奴がいたならば、そいつはお終いまで狂っている。
そこまで狂乱できるというのは、もはやそれ自体が才能だ。
――さて、しかし。偶然に、あるいは必然に、天才にも凡才にもなれなかった者というのも、存在する。
凡才と言うにはあまりにも特異で、天才というほどには異端でない。
しかし凡才から見ればその者は、行きつくところまで行きついてしまった異端でしか無い。
凡才と協調し調和することは望めない。
特異でありながら、異端にすらなれなかった。
そんな存在が在ったとするなら、いったいどんな苦悩を抱え、いったいどんな幸せを想いそして抱かれるのだろうか?
しかし、たとえそんな存在があったとしても。
その存在がなにに苦しみなにを愛しむかなんて。
そんなことは分からないし。
そんなこと、どうでもいい。
とは、言えないのだった。
僕はそれを無視することができなかった。おそらく生まれて初めて、無視することができなかった。
誰かと深く関わったことが初めてだったのか。それともあの子があの子だったからか。分からない。しかし、無視するという考え自体が浮かばなかった。
だからこそ僕は誰とも深く関わろうとしなかったのか。薄らぼんやりと浮かぶ記憶を見返しながらそんなことを想ったこともあったが、しかしなんの感慨も湧かなかった。
それこそ、どうでもいい。
「よっ」
カランカランという鈴の音に顔を上げてみると、魔理沙が片手を上げていつもの笑みを浮かべながら立っていた。
「ああ」
僕はそれだけ言って、読んでいた本に視線を戻す。
ウィリアム・シェイクスピア作『Coriolanus』。
すると魔理沙はつかつかと大股でこちらに歩み寄り、本を乱暴に引っ手繰った。
「よっ」
「……八卦炉のメンテかい?」
「いや、ただ遊びに来ただけだ」
言って魔理沙は、本をポケットに仕舞った。おい。
「客人が来てるのに、その相手をしないで本を読み耽るとはいただけないぜ」
「客人、ねぇ」
ため息を吐く。そんな僕を無視して魔理沙は、さっそく店内を物色し始めた。僕は当然、暇だ。
「物色している間はべつに本を読んでいても……」
「ん?これ、なんだ?」
棚の上に置いてあった、左目と胸、心臓部分に釘で穿たれたような跡がある半壊の人形を手に取り、しげしげと観察しながら彼女は尋ねた。
「アリスが喜びそうな人形だな」
人形を手渡される。半壊してはいるがしかし、繊細で美しい人形。
ああ、これは。
「エニグマティクドールだ」
「なんだそりゃ?」
「僕も詳しくは知らない。スキマ妖怪が置いていった人形だ」
「あいつか」
魔理沙は顔をしかめた。最近、なぜか彼女の話題になると顔をしかめる。いやそれは八雲 紫があんなのであるから元からなのだが、最近は特に。なにかあったのだろうか?
「八雲 紫が言うには、事実と共に忘れ去られた人形らしい」
「なんだそりゃ?」
「そうであったことを、その人形と一緒に忘れたんだと」
「ふーん?わけ分からん」
僕もよく分からない。これは想像であるけれど、おそらく、この人形を傷付けた理由、動機と共にこの人形が忘れ去られた、ということではないだろうか?
「理由、動機ってなんだよ」
「例えば想いとか」
「なんの?」
「狂気じみた想い、とかかな?分からない」
「ふーん」
魔理沙は人形を取り、目を細めてそれを眺めた。
「狂気、ねえ」
信仰、嫉妬、憎しみ、他にもいくらでも上げられそうだ。
「事実と共に忘れ去られた人形……。想いと一緒に忘れ去られた人形……」
彼女はぽつりとなにかを想うように呟き、人形を棚の上に戻した。
棚の上の人形を、彼女はしばらくじっと見つめていた。
「……魔道書は入ってないのか?」
やがてこちらに振り向き、何事もなかったかのようにいつもの調子で話す彼女だったが、しかしどこか無理をしているような雰囲気があった。
「最近入ったけど、八雲 紫が持っていった」
「またあいつか。私のことごとくを邪魔してくれるな、あいつは……」
苦々しげに言って、カウンターにひょいと腰かけた。
しばらく無言の時が流れた。
やがて、彼女は静かな調子で話し始めた。
「なあ香霖」
「なんだい?」
「しばらく前、吸血鬼の妹と会ったんだ」
「レミリア・スカーレットの妹か」
「そう」
確か、気が触れているので地下に監禁されているとか。
「フランドール・スカーレットっていうんだけどな。そいつは、気が触れていたんじゃない。狂気に犯されていたんだ」
「…………」
僕は、黙って聞いている。
「気が触れることと狂気に犯されることの違い。傍から見れば一緒だけど、それはまったくもって意味が違う。なあ香霖、あいつは、私がそうなっていたかもしれない可能性なんだよ」
「…………」
「そんなこと言われたら本人は嫌だろうけどさ、私にはそう見えたんだよ」
「…………」
「それで、そいつと弾幕勝負してさ。当然、私が勝ったわけだ。それで、周りと遊んだりだべったりもしてみろよ、とか私は言ってさ。そしたらフランドールはそれから、少しずつだけど周りと関係しようとしだしたんだ」
「…………」
「私はそれは、素敵なことだと思うぜ。そうやって楽しく喧しくやっていくのは。私は自分がしたことが傲慢だとも思わないし、間違いだとも思わない。フランドールも傍から見て、幸せそうに見えるしな。まあそれはあの門番が頑張ったからだけど」
「門番?」
「紅魔館の門番だよ。まあとにかく、フランドールは徐々にだが、狂気が薄れてきてるんだ。そこは私と真逆だな。時間と共に狂気が増幅していた私と、な。そんなあいつを見ると、自分のしたことが少しだけれど大きな変化になって嬉しいな、とか思うわけだ。あいつが誰かと笑い合っているのを見ると、私は嬉しいよ。なあ香霖」
「なんだい?」
「私は、霊夢とかアリスとか、他の連中とかと遊んだりだべったりしてるのが、楽しくてたまらないよ。もしかしたらこれが幸せなんじゃないかと思えるくらい、楽しくてたまらない」
「そうか」
「それでも、私は魅魔様のことが忘れられないよ」
「……そうか」
魅魔。
親と絶縁した魔理沙を育て、生きるための様々を教えた、流離う悪霊。
「魅魔様の隣にまた在ることができるのなら、今の全てを捧げたっていいと思ってる。いくらでもこの心を狂気に犯されてもいいと思ってる。狂ってもいい、それでも魅魔様の隣にいたいと思ってるんだ。そんなことになったら、魅魔様の隣にはいられないと分かっていても」
「…………」
「二度と魅魔様と会えないことを分かっていても」
「…………」
「なあ香霖、狂気と一緒に魅魔様を忘れることができない私は、決意することができない覚悟することもできない、ただのマザコンか?私は間違っているのか?」
「…………。僕には、分からない」
本当に分からないのだから、そう答えるほかなかった。
こういうとき、どういった返答が適切なのだろうか。それができない僕は、ただの木偶か?
まったく、己の無力を嘆くときが来るとは、昔の自分が知ったらなんと言うだろうか。
「こんなんだから、魅魔様に捨てられたのかな……」
まるで一滴の涙のように零れ落ちたその言葉に、僕は思わず魔理沙の横顔を窺った。しかし魔理沙は、ただ悲しそうに微笑んでいるだけだった。
「それは違うよ、魔理沙。彼女が世界をどう想っていようと、魔理沙をどう想っていようと、彼女は悪霊だ。傍にいるだけで、君の狂気を加速させる。だから、君を想って、おそらく君を愛しんで、彼女は姿を消したんだよ」
そんな当たり前の分かり切った事実を口にするしか、僕にはできなかった。
僕の胸の内を、なにかがのた打ち回っている。なんだろう。知りたくないし分かりたくもなかったが、しかし無視していい類の感情ではないだろう。
無様な。
まったく、己に失望する時が来ようとは。昔の自分が知ったらなんと言うだろうか。
「…………」
「…………」
また、しばらく無言の時が流れた。
「魔理沙」
やがて、僕は彼女に声をかけた。
「ん?」
振り向く魔理沙。僕はまた少し黙り、そして。
「愚痴くらい、いつでも聞くよ。我慢できなくなるくらい我慢できなくなったら、いつでも。勝手かもしれないけど、僕は君と、それなりには親しい気でいるからさ。……それから」
「それから?」
それから。
「本返せ」
…………。
なんだそりゃ。
自分に呆れかえる。
魔理沙はきょとんとして、しかしやがてけらけらと、いつものように笑いだした。
「ほらよ」
本をカウンターに置いて、「よっと」という声と共に、ひらりとカウンターから飛び降りた。
「じゃ、お言葉に甘えて、いつでもまたくるぜ。じゃーな」
「ああ」
いつもの笑顔で去っていく魔理沙を見送り、僕はカウンターに置いてある本を手に取り、さっきまで読んだページを開いた。
「…………」
本を、閉じる。
時々、本当に時々、魔理沙は真剣な悩みを僕に相談する。
僕の返答は、いつもこんな感じだ。
それでも。
それでも、僕は彼女に、少しでもなにかを与えることができるだろうか?
少しでも、彼女の痛みを、苦しみを、苦悶を、悲痛を、苦渋を、悲哀を、悲傷を、和らげることができているだろうか?
和らげることしかできないけれど。
「大変ね」
どこかからか、幻聴でない程確かな、妖艶な声が聞こえた。顔をしかめる。
ため息を吐く。
生きるのは、疲れる。
『楽園の巫女』
人柱。
なにかのために犠牲になりなさい。
無残な宣告。あの巫女ならなんと答えるだろうか?想像する。
「三食昼寝付き、お茶飲み放題なら」
カランカランと鈴が鳴り、扉が開いた。
入ってきたのは、博麗 霊夢だった。
「いらっしゃい」
「こんにちは、霖之助さん」
幻想郷の巫女。幻想郷に代々、この世界のために存在する存在。
選ばれし者。
人柱。
「今日はなにをお探しで?」
「お茶の補充に」
僕が左奥にあると言う前に、彼女はお茶を求めていつもの場所へと消えていった。
僕は読んでいた本に視線を戻した。
オスカー・ワイルド作『The Picture of Dorian Gray』。
「霖之助さん、ここにあるので全部ですか?」
奥からがさごそという音に紛れて、声が聞こえた。あまり荒らしてほしくないのだけれど。
「ああ。そこにあるので全部だ」
「うーむ」
がさごそという音は、それでも続いた。僕は小さく笑った。
ふわふわと、まるで幻想のようにそこに存在する彼女。
しかし、決して不確かではない。
そこに鮮明に、存在する。
彼女は多くの者に好かれ、好まれる。
彼女はそのことをどう想うでもなく、そこに存在する。
これは僕の想像だけれど。
ただそこに存在する。周りの者は彼女を慕い、歩み寄る。
それなのに彼女は、その誰にも決定的な影響を与えず、自然に、無意識に立ち回る。
これも僕の想像でしかないが。本当は意図しているものなのかもしれない。
とにかく、彼女は絶妙に立ち回っている。周りの誰にも影響を与えないが、周りの誰もが幸せそうだ。
僕は、彼女みたいになりたかったのかもしれない。
彼女みたいに、なりたかったのだろう。
なれなかったけど。
「結局これだけしかなかった」
目の前から発せられた声に、僕は思考の内からはっと目覚めた。
カウンターには、お茶の缶が七つ。
「……十分だと思うけど」
「四日は持つかしらね」
君はいったい、一日どれだけお茶を飲んでいるのだ。
「じゃ、これもらいます」
「お代は」
「ツケで」
「これで君からのツケは、百八十四回目だよ」
「もうすぐ二百の大台ね」
百回で十分大台だ。
「一括で払うわ」
「いつ?」
「千回までには」
「あ、そう」
まったく、噂で聞く魔理沙の素行と似たり寄ったりじゃないか。
僕はお茶缶を彼女に押しやろうとしたが、そこでふと、気紛れのような問い掛けを口にした。
「君は幻想郷の巫女だ」
「はい?」
「君の存在は幻想郷に不可欠、君が在るから幻想郷が在る。この役は、誰でもいいというわけではない」
「…………」
「人柱として存在する君は、自身の存在について、どう考えている?」
彼女はうーんと少しの間考え、そして、
微笑んだ。
「あいにく私は、毎日お茶を飲んだりなんだりで、忙しいのよ。自身の存在を考える前に、まず一杯のお茶を飲むわ」
「それから?」
「それから、お茶を飲むのに忙しくて、そんな小難しい問答のことは忘れてしまうでしょうね」
「…………。そうか」
お茶缶を彼女に渡す。彼女はそれを持参していた袋に詰めた。
「それじゃ、お茶が切れたり気紛れだったりで、また来ます」
「はいはい」
鈴の音が鳴り、そして静まり返った店内で、しばらく僕は扉を見つめたまま、何事かを考えていた。
そして。
「お茶でも飲むか」
缶は全て巫女に持ってかれてしまったから、ティーバックのお茶で我慢するか。
立ち上がり、がさごそとそこらを探る。
無い。
どこやったっけ?
散々探した揚句、ティーバックはカウンターの引き出しに入っていた。
真の客観たりえてない霖之助の立ち位置。その半端さこそが、霖之助の優しさなんでしょうか。
こういう文章好きです
新しい解釈だなぁと甚だ関心するばかりであります。
果たして彼の書物の意図する所とは……ううむ、とやあらん、かくあらん。
映姫の話が特に考えさせられました
周りは非難するだろうけど。