怒号と共に、それは猛牛の突進のような強圧さで衝突してきた。
ドスッ、という肉を打つ音が辺りに響き渡り、全身の骨が砕けてしまうような衝撃が全身に突き抜ける。四つんばいの体勢では衝撃を吸収しきれず、博麗霊夢は仰向けに弾き飛ばされた。
体勢を立て直す暇もなかった。猿のような鋭敏さで立ち上がった風祝――東風谷早苗は、神速の身のこなしで霊夢の背後に回って視界から消えた。どこにいった……? 首をめぐらし、敵を発見しようとした瞬間、背後から衝撃が飛んできて、霊夢は為すすべなくその場に蹴倒された。
「ぐあッ……!」
意図せず苦悶の声が漏れたのと同時に、そのまま背中の肩甲骨の真ん中を踏みつけられる。ぐえっというカエルのような声が自分の耳に聞こえたのと同時に、霊夢の身体は容赦なく地面に押しつけられた。何をするつもりだ――? 相次ぐ衝撃に頭が機能不全に陥り、霊夢に対応を遅らせたことが仇となった。次の瞬間、早苗は霊夢の両腕を掴むや、万力のような力で上に引き絞っていた。
「むぉぉぉぉぉん!」
早苗が獣の如く咆哮すると、背中、肩、腕が等しく軋んだ。限界を超えて伸ばされた筋が発熱し、霊夢は絶叫した。
地面と足に挟まれた肺が押し潰され、酸素を渇望する頭がじりじりと発熱する。と同時に、限界を超える負荷をかけられた上半身に激痛が走った。
「私の肩が……!」
思わず苦悶の声を漏らした霊夢の耳朶を、「ギブ?!」という早苗の声が打ち据える。その声に少しばかり正気を取り戻し、必死の思いで霊夢は「まだまだ……!」と首を振った。
こんなやつに負けてたまるか。いざというときは意地だけが全身を苛む苦痛を紛らわせ、胸の中に燃え滾る闘志を呼び起こすことを霊夢は知っていた。歯を食いしばった霊夢は、なんとか酸素だけでも肺に入れなければと身体を持ち上げようとする。抵抗しなければ。ほんの少しだけでもいい、酸素を……!
そう思った瞬間、両腕が今までに倍する力で絞り上げられた。
「ギブアーップ!!」
万力のような力で両腕が引き絞られ、神経が焼き切れるような痛みに霊夢は絶叫した。それでも「ノー、ノー!」と意地だけで呟き続ける霊夢の頭に、早苗の絶叫が引導を渡すように降ってくる。
「早くしないと……腕が壊れちゃいますよ……!」
腕が、肩が、脳が、全身がもうやめてくださいと懇願する声を聞いたような気がした。
限界だ。酸欠でぼうっと発熱する頭が意識を手放そうとする寸前、霊夢は苦痛から逃れたい一心でガクガクと頷いてしまっていた。
ギブアップ。
途端に全身に圧し掛かっていた質量が消失し、両腕が自由になった。押し潰されていた肺に新鮮な酸素がどうどうと流れ込み、肩の激痛が急速に薄らいでいく感覚の中で、脳髄が発熱し、全身に燃えるような快感が走った。
「イった……」
場違いな言葉が、霊夢の唇から転がり出て行った。大量に分泌されたアドレナリンのせいか、それとも酸欠の脳が見せた幻覚か。脳髄を焦がすような恍惚が霊夢の全身を駆け巡る。その絶頂の波に霊夢が身体を震わせた瞬間、穿いていたスカートが無理やり剥ぎ取られる感覚が伝わり、数秒にも満たない至福の時間は終わりを告げた。
「ああっ! 酷い……!」
必死の抗議を柳に風と受け流した早苗は、剥ぎ取った勝利の証しを誇示するように突き出して見せた。
「結構すぐ脱げるんですね」
「……っ、仕方ないわね」
端正な顔を余裕の笑みにほころばせた早苗は、額ににじみ出た汗の球を拭おうともしない。
霊夢は歯を食いしばった。何て奴、こんな激闘を戦い抜いてなお、笑っているなんて。2Pカラー、自分二号、蔑みこそすれ、見上げることなど有り得なかった存在の、一体どこにこんな余裕が隠されていたのか……。
くだらない。霊夢は手で床を叩き、余計な思索の時間を終わらせた。
「さすがは風神・雷神に仕える身だけはあるわね……」
「ふふ……このスカートはバッグで持ち帰らせていただきます」
そう言って、早苗は持っていたスカートを投げ捨てた。
すぐにその妄想をブチ壊して、私の2Pキャラに戻してやろう。自分とあなたの間には、永遠に埋まらない差があると教えてやる。
「それで、どうします?」
「もう一戦よ」
その返答に、早苗がふっ、と噴き出す気配が伝わった。
「もう一回ですか?」
もう勝負はついたのでは? そう言いたげな早苗に、霊夢は反駁した。
「あんまり粋がらないで。準備が出来てなかっただけよ」
早苗が笑みを深くし、「いいでしょう」とその場に膝を突いて四つんばいになった。
試合続行。その意志さえ伝われば、二人の間にそれ以上の言葉は不要だった。不屈の闘志、熱に浮かされ、戦士と化した身体が、その超越的な感応を可能にしていた。
霊夢は早苗の華奢な肩に手をかけると、耳元に囁くように聞いた。
「いい?」
こくり、と早苗が頷く。
瞬間、いや、それはほとんど同時だった。全身の筋肉が膨張し、霊夢は全身全霊を込めて早苗の身体を押し倒した。
「ビビるわぁ……!」
早苗が苦悶の声を上げる。すかさず霊夢は早苗の細い腰に手を回すと、体重を乗せて二度、三度とがむしゃらに猛攻をかけた。委細構わぬ怒涛の攻撃に、早苗の身体がこらえきれずに床に崩れ落ちる。
肉体と肉体の激突の隙間に生まれた千載一遇のチャンスを、霊夢は見逃さなかった。すかさず早苗の腰に回していた手をスカートに伸ばすと、一息にずり下げた。
「これで……同点っ!」
有無を言わさず、膝下まで群青色のスカートを引き下げると、なめまかしい両足が出てきた。構わず足首まで引き抜くと、霊夢は素早く地面を蹴って早苗から離れた。
同点だ。霊夢は剥ぎ取ったスカートを振り回し、「あら、どうしたの?」と余裕の問いを投げつけてみた。
自分の腰を一瞥し、事態の進展を悟った早苗がこちらを振り返る。
鳶色の瞳の中に、悔しさだけではない感情の揺らぎを見つけて、意図せずに霊夢は噴き出した。
「もしかしてアレ? 私の見せかけだけで凄く怖がってるのね?」
図星を指されたらいしことは、少しだけ顰められた眉根が語っていた。早苗の端正な顔が強張り、悔しさに食いしばられた歯がギリ、と小さな音を立てる。まだ戦意を喪失していない目を確かめた霊夢は、無言で右手を差し出すと、早苗に向かってちょいちょいと手招きして見せた。
「さぁ、行くわよ」
その言葉に、早苗も負けじと右手を差し出してきた。立ち上がった早苗の細身が殺気を放ち始めると、再び戦いの緊張が博麗神社の境内に満ち満ちた。
この戦いの中で何倍も大きくなったように感じられる早苗の手が、霊夢の掌と組み合わさる。じっとりと汗ばんだ掌の熱が戦いの喜びを伝え、霊夢に口の端を持ち上げさせた。
「あなた、そんなに私と戦いたいの?」
早苗は唇を真一文字に結び、無言を貫いている。
余計な応答は不要だと教える目に、素直に霊夢も口を閉じる気になった。
右手を組み合わせたまま、じりじりと焼け付くような時間が流れた。
肉食獣の如く慎重に歩を運びながら、早苗の殺気が薄れる瞬間を待つ。ほんの数秒、ほんの一瞬の間でいい。この重苦しい殺気が薄れる瞬間が、きっとある。
永遠にも感じられる数秒が流れ過ぎた一瞬、早苗の視線が足元に落ちた。本人すら意識していないほどの一瞬だったが、霊夢はそれを見逃さなかった。
好機。霊夢はバネ仕掛けの俊敏さで間合いを詰めると、自分の右手で早苗の腕を掬い上げた。一瞬で肘関節が極められ、早苗の右腕が曲がらない方向に曲がった。
「よっこら……あぁーッ!!」
絶叫が、すでに春めいた博麗神社の空気を引き裂いた――。
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「ぐぅ……重い……!」
「ほら、ガンバレガンバレ」
背中にどっかりと腰を下ろした魔理沙に励まされ、霊夢はどうにか身体を持ち上げた。
フン! フン! という荒い鼻息と共に、霊夢は正確な上下運動を繰り返している。上半身に巻いたサラシはすでにじっとりと汗に濡れ、全身から流れ出た汗の球は神社の石畳の上にいくつもの水滴の痕を残している。
もう暦は三月を半ばまで過ぎ、閑静な境内にも春の足音が着々と近づいてくる気配がしているとはいえ、この時期の風はまだまだ冷える。それなのに、何が哀しくてうら若い乙女が昼前から腕立て伏せなんかしてるのか。
見れば見るほど頓珍漢な光景だったが、魔理沙は致し方なく協力していた。
そもそも、こんな勤勉な霊夢は見たことがないと言う方もいるだろう。暢気という言葉が服を着て歩いているのが博麗霊夢という少女であるのは間違いない。確かに、筋トレなんて三日もたたずに放り出していて何らの不思議もないのだった。
「四百……八十一……! 四百八十二……! 四百八十……さん……!」
しかし、今回の霊夢は勤勉だった。
このところ……正確には一月ほど、霊夢はずっとこんな調子だった。
来る日も来る日も、こうだった。
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現在、幻想郷ではレスリングが大流行中であった。
朝起きてもレスリング、昼寝していてもレスリング、夜寝る先に立ってもレスリングだった。
人間の里の店先には米や芋の変わりにプロテインが。道具屋の前には鍋釜ではなく鉄アレイが。 飯屋には蕎麦や丼ものではなく餡掛け炒飯が並べられるようになり――しかもそれは飛ぶように売れた。ちょっと奮発して香霖堂まで行けば、レスリングに好適なスパッツやブリーフパンツ、ケツワレサポーターまでもが手に入る。物的にはなにひとつ不自由しない環境が整備されたことで、レスリングブームは急速に人々の間に浸透していった。一体どういうルートでこれらが幻想郷にやってくるのかは全く持って不明なのだが、気にする者もいなかった。
ルールは特になく、試合開始は常にフルコンタクト。道ですれ違ったとき、仕事をしているとき、食事をしているとき、トイレで用を足しているとき。相手と目が合って、相手がそれに応えればレスリングが開始され、どちらかが試合続行不能になるまで続けられた。それはルールというよりも、そうしなければ一度火がついたレスラーの闘争本能が治まらない故の一種の知恵だったのだが、その結果、毎日毎日どこそこの誰々が夜通し戦い抜いたという武勇伝が耳目を騒がせるようになった。
来るべきそのときに備え、大人から子供、妖怪たちも毎日身体を鍛え、プロテインを貪り、ガチムチ兄貴ならぬガチムチ姉貴が我が物顔で往来を闊歩するようになった。すでに激しい運動をすることが適わない老翁たちでさえも、あぁレスリングがしたい、死ぬ前に餡掛け炒飯が食べたいなどとと呟いているという有様だった。
とにかく、こうした背景によって幻想郷にはにわかレスラーが量産されていったのである。
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直接の始まりは、ちょうど一月前の昼下がりだった。
紅魔館から本を強奪し、悠々と博麗神社へ足を伸ばした魔理沙が見たものは、一心不乱に神社の石段を兎跳びで駆け上がる霊夢の後姿だった。
あのグータラ巫女、まさかダイエットだぜ? 当たりをつけ、からかってやろうと降下してきた魔理沙に向けられたのは、しかして「弾幕はもう古い。これからはレスリングの時代よ!」というまさかの宣言だった。
いつもは流行など追いかけぬ霊夢だったのだが、今回ばかりは何か感応するものがあったらしい。事実、霊夢は自分の言葉が嘘でないと証明するかのように、その日から一心不乱に肉体の研鑽に努め始めたのだった。
どうせ三日もすれば飽きるぜ、三日坊主ならぬ三日巫女だぜ……とたかをくくり、分社の相談にやってきた早苗と一緒に大笑いして眺めていたのも今は昔。そのうち霊夢は、毎日のように分社の交渉にやってくる早苗に対して「私が負けたら分社を認める」という条件の下、毎日レスリングをけしかけるようになったのだった。早苗も早苗で、クソ真面目が身上と言われる人となりを体現するかのように、その誘いに快く応じてしまったのがいけなかった。
それからの日々は特段語るべきこともない。早苗はパンツまで剥ぎ取られた挙句、霊夢に頚動脈を圧迫されてオトされているのが日課となり、霊夢は毎日毎日筋トレに励むようになったのだ。
幻想郷の人々は知らず知らずのうちに戦いを欲していたのだ、と魔理沙は思う。幻想郷が結界によって外の世界と隔絶されてから、はや百年が経つ。そのうち新たにスペルカードルールなるものが考案され、際限ない暴力の拡大が抑制される一方、妖怪同士の暴力行使ですら弾幕戦の発明によってあまねく鎮まることになった。結果、幻想郷の中は年に数回起こる異変をのぞいて、平和が常態になった。妖怪は牙を失い、人間は気兼ねなく惰眠を貪るの生活。結界の中の百年は、そのまま絶対的な平和の歴史でもあったのだ。
しかし本来、妖怪に負けず劣らず人間という生物も業深き生き物である。己の中に眠る闘争本能や暴力衝動を抑えられない人間は、知らず知らずのうちに憤懣を蓄積させていったのではないか。それがたまたま今回、レスリングという形でもって発露した――魔理沙はそう考えていた。紫や永琳辺りに言ったら失笑を食らいかねない突飛な意見であることはわかっていたが、近場で見ているうちにはそうとしか思えないのだ。
というのも、何を隠そう、魔理沙自身もレスリングブームの恩恵を蒙る一人だったのである。
森から取ってきた何の変哲もない食用キノコに『プロテインキノコ』などという名前をつけて売り出せば、効力の有無に関わらず飛ぶように売れるのである。すでに数百個を売り上げ、あと半年は食うに困らないほどの儲けを出していたのだった。
霊夢の情熱を否定することは自分のシノギを否定することにもなる。それゆえ、霊夢のしていることを闇雲に否定する気にもなれず、今もこうして霊夢のワークアウトにつき合っているのだった。
「四百……きゅうじゅう……きゅう……! ……五百!」
ぶはあっ、と熱い呼気をいっせいに噴き出して、霊夢は胡坐をかいた身体を後ろ手で支えた。
「お疲れさんだぜ」
霊夢の背中から降りて声をかけた魔理沙に、突き出された親指と額に光る汗の珠のきらめきが応えた。
魔理沙は、あらためて霊夢の身体を見てみた。いい具合に筋肉がつき始めている。
前言撤回だ、と魔理沙は首を振った。
やっぱこりゃ大問題だぜ。ビジュアル的に。
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「ぐおお……! はっ、離せ……!」
バンバン、と早苗の腕が石畳をタップする音が、境内に響き渡る。
霊夢の両腕にしっかりとホールドされた端正な顔が、見る見るうちに不気味な赤に変色してゆく。
「これで……十二勝ゼロ敗よ……!」
十数秒後、早苗の全裸体がゆっくりと動きをやめ、弛緩していった。両腕が力を失い、やがて重力法則に従ってだらりと垂れ下がると、早苗の唇の端からつっ、とよだれが流れ落ちた。それを見た霊夢が手を離すと、気絶した早苗の身体が石畳に崩れ落ちた。
霊夢は勝ち誇ったように早苗の身体に足を乗せ、勝利の笑顔を魔理沙に向けた。
おーい、大事なところをそんなにおっぴろげんなだぜ。
魔理沙は自分の心の中の独白が霊夢に伝わるのを期待したが、無駄だった。霊夢は誰にともなく二の腕の力こぶを誇示し、心底嬉しそうに自らの肉体を誇示している。
それにしても、と魔理沙は思った。このところの霊夢の肉体の変化には目を見張るものがある。
乳白色の肌には太い血管が這い回り、筋肉が描き出す陰影は日増しに濃さを増してきている。太ももなぞはすでに魔理沙の胴体の半分ぐらいの太さにはなっており、後二十日もすれば腹筋は見事な六つに割れたものになるだろう。今はまだダンサー系の理想的なボディライン、と言える程度のものだが、このままのペースで特訓が続けられれば、数ヵ月後には確実に……。
「何? 私の顔になんかついてる?」
ついてるのは筋肉だ。律儀に突っ込んでから、魔理沙は首を横に振った。
いかんいかん、危ない危ない危ない。一体何を考えてるんだ私は。「い、いや……なんでもないんだぜ」と言葉を濁して顔を背けた魔理沙は、不意に人の気配を感じて顔を上げた。
「……来たか」
まず最初に石段を登って現れたのは、魔理沙の膝丈にも満たない身長の西洋人形だった。体中を華やかに飾りつけられた西洋人形は、それ自体意思があるかのようにぴんと立ち、危なっかしい足取りでこちらに歩いてくる。
数秒後、その人形の後を追うようにして、見慣れた金髪頭が姿を現した。
「よぉ、悪い悪い。取り込み中だったかだぜ?」
「あなたに呼び出されること自体が取り込みよ……こんな石段登らせて」
そう言って、アリス・マーガトロイドは拳ひとつ分ほど低い魔理沙の顔をやぶにらみににらみつけた。
「まぁそう怒るなよ。悪かったと思ってるんだぜ」と苦笑しつつ足労をねぎらった魔理沙にこりともせず、アリスは「で、霊夢がおかしくなったってどういうこと?」とぶっきらぼうに問うた。
魔理沙はくい、と顎で境内の奥をしゃくった。怪訝な顔で示された方向を見たアリスの目に、困惑とも驚愕とも取れない複雑な色が浮かんだ。
「どう思うんだぜ?」
「医者が必要ね」
「まぁそう言うなだぜ」
にべもなくそっけない一言を投げつけたアリスに、魔理沙は頭を掻いた。
「頼むぜオイ。医者が要るっていうのはわかるけど、その前に説得ぐらいはしたいだろ?」
アリスは答えない。それどころか、こんな奴のために私を……という露骨な怒りを隠そうともしないアリスの目は、一秒経過するごとに冷たさを増していっているのがわかる。
関わり合いになる前に帰らせろ、と訴えるアリスの無言の抗議に、魔理沙は弁護の言葉を並べ立てた。
「なぁ頼むぜ。レスリングは今流行のスポーツだけど、さすがに主人公の霊夢から弾幕を捨てちまったらシリーズが続けられないぜ」
「そんなの私には関係ないでしょ?」
いや、ちょっとは関係あるだろう。さすがの魔理沙もムッとして口をつぐむと、アリスは太いため息をついた。
「帰る」
一言言い捨てると、アリスはさっさと踵を返してしまった。「お、おい! そこをなんとか頼むんだぜ!」と魔理沙は去り行く手首を掴むと、我武者羅に引き止めた。
「ち、ちょっ、離して!」
「なぁ頼むんだぜ! こんなアホな頼みはお前以外に頼めないんだぜ!」
「とにかく私は関係ない! というか関係したくない!」
「関係大アリだろ! 今度異変が起こったらあんな筋肉ダルマが解決することになるんだぜ! あんな筋肉ダルマが空飛ぶんだぜ? それでもいいんか! そんな奴と一緒に異変解決することになったらどうすんだぜ!」
必死の説得に、アリスがぐっと詰まった。確かに、あんなのと並んで非編解決なんてさせられた日にはたまらない。暑苦しくて汗臭くて、おちおち弾幕避けなんかしていられないだろう。
がっちりと掴んだ手首にかかる負荷が急になくなり、アリスがため息をついた。魔理沙が懇願するように手を合わせると、アリスは力なく首を振った。
「……説得すればいいのね?」
「おう、頼んだぜ」
「ひとつ貸しよ。後で覚えておきなさい」
最後の最後で恐ろしい一言を言い捨てて、アリスはしゃなりしゃなりと霊夢に向かって歩き出した。
「霊夢!」と魔理沙がその後ろから声を上げると、それに反応した霊夢が派手に相好を崩した。
「おっ、魔理沙とアリスじゃない。久しぶりね、最近どうなん?」
サラシとドロワーズ一枚という頼りない装備にもかかわらず、こいつのこの明け透けな笑顔はなんなのか。今更ながらに半ば呆れた魔理沙に構わず、アリスはにこりともしない顔で「どうしたもこうしたもないわ」とぶっきらぼうに応じた。
「アンタ、さっきから一体何やってるのよ。何か変なものでも食べたんじゃないの?」
「お、おい……」
いきなり本質に迫る一言に肝を冷やした魔理沙だったが、杞憂に終わった。友人の気遣いにも関わらず、霊夢はあからさまなトゲも意に介さないように「ハハッ、仕方ないね」とさわやかな笑顔を崩さない。
「それにしてもアリス、アンタいつからいたのよ? いやぁ今の試合は見せたかったわ。早苗もなかなか強くなったもんね。さすがの私もドロワーズの中に手を突っ込まれたときはもうどうしようかと……」
「魔理沙から聞いたわよ。あなた最近、早苗と裸で取っ組み合いばっかりしてるらしいじゃない。萃夢想じゃあるまいし、一体どういう風の吹き回しなのかしら」
えっ、という風に目を丸くした霊夢は、自分の身体を一通り見渡してみてから言った。
「どういう風の吹き回しって、見りゃわかるじゃない。レスリングよ」
アリスのその言葉に、霊夢は顔色ひとつ変えずにキョトンとしてみせた。「見てわからないから質問してるんじゃない」というアリスの苛立ちの言葉にも、霊夢は表情を変えない。
「まぁいいわ。とにかく、あなたは金輪際、レスリングは禁止よ」
「あぁん? なんで?」
口を尖らせた霊夢に、アリスはほとほと困ったという風に額に手をやった。
「どうしてもこうしたもないの。第一、今のあなた、説明して理解するわけ?」
「レスリングこそ弾幕に代わる今最もナウい競技じゃない。魔物退治のエキスパートである博麗神社の巫女なら、いざってときのために身体を鍛えておくのは当然でしょ?」
「ほら、やっぱり理解してないじゃない」
その言葉に、珍しく霊夢がむっとする。
「だってそういう競技なんだもん。最初はちゃんと着てたわよ。でも脱がされたの。見せかけだけで超ビビってるな?」
「そういうことじゃない。話を聞きなさい」
「何よさっきから。異変解決のために巫女が裸になる……何の問題ですか?」
「そういうことじゃなくて……」
「あ、わかった。アンタ私の肉体があんまりにも美しいから嫉妬してるんでしょ? この歪みねぇ肉体を作るのに一体幾日かかったかと……」
「そういうことじゃないって言ってるでしょ!」
ついに堪忍袋の緒が切れたという感じで叫んだアリスの足元に、いつの間にか西洋人形が軍隊よろしく整列していた。「お、おいおい……」と止めに入ろうとする魔理沙に構わず、アリスはトン、と地面を蹴ると、重力から解き放たれたかのようにふわりと浮き上がった。
「言ってもわからないなら、身体に教えるしかなさそうね」
分からず屋には弾幕戦……幻想郷の鉄の規律を遵守し、それを今履行すると明確に宣言したアリスに、魔理沙は改めて目頭を揉んだ。もう滅茶苦茶だ。
博麗神社の境内に薄く堆積する砂粒が渦を巻き、風が吹き抜け、ごう……という風の音と共に枯葉が巻き上がると、人形たちも同じようにふわりと浮き上がる。生暖かい風の勢いが徐々に強くなってゆくと、境内に転がったままの早苗の長髪も風に弄われる塵のひとつになった。
魔理沙は慌てて全裸で気絶している早苗を抱きかかえると、そばに捨てられていたスカートで裸体を覆い、邪魔にならない位置に引っ張っていった。もうこうなったらどうにでもなれ、とやけっぱちに呟いて、魔理沙は「死なない程度にやるんだぜ!」と大声を出しておいた。
その声を聞いたのか聞いていないのか、アリスは何もない空間に手をかざした。同時に、アリスの周囲にいくつもの光球が出現し、ジジジ……と空間を焦がすかのような音を立てて、その数はあっという間に数十個まで増えていった。
「さぁ、遠慮は無用よ。全力で……」
言いかけた瞬間だった。霊夢の身体が猫科の生物のように動き、アリスの足に飛びつくと、体重そのままに思い切り下に引っ張った。
「なっ……!」
アリスが短い悲鳴を上げたのと、あ、と魔理沙が声を出したのとほぼ同時だった。
不意を疲れてバランスを崩したアリスの細身が傾いだと思った瞬間、光球は消え、ゴツ、という鈍い音が発した。
後頭部を痛打し、目を白黒させているアリスに馬乗りになった霊夢は、「そういうことなら、喜んで」と唇の端を持ち上げて見せた。
「ちょ、や、やめなさい! 一体何を……!」
「へい、構わねぇ、殺すぞ」
叫ぶが早いか、霊夢はアリスの身体に飛びつくと、いとも簡単にうつ伏せにひっくり返した。「や、やめなさい! あなた麗しのレディーになんてことを……!」と絶叫するアリスの背中にどっかりと腰を下ろした霊夢は、じたばたと暴れる両足を抱えるや、その足を掴んだまま思い切り反り返った。
「ああああああ! あっ、あなた、どういうつもり……ああーっ!」
キレイな逆海老固めが極まり、アリスが悲鳴を上げる。霊夢は「どうよ! どうだっ!」と威勢のいい掛け声と共に、ますます力を込めてアリスの身体を曲がらない方向にひん曲げる。
「こっ、こんなことをして……! ぶっ、無事に済むと……ぐおおおおおお!!」
アリスの必死の抗議は、霊夢の更なる攻撃によって阻まれた。霊夢はアリスの両足を離すと、アリスの首にするりと腕を回し、ヘッドロックを決めたままぐいと引っ張りあげた。 ヨロヨロと立ち上がったアリスが霊夢の両腕を外そうともがいたが、霊夢のたくましい両腕がそれを許さない。
「まっ、魔理沙! とっ、止めて……! 止めなさい……!」
アリスの要請にも、魔理沙は動くことができなかった。
右手で頭をロックしたまま、霊夢が中腰の状態で身動きが取れなくなっているアリスのスカートの中に手を伸ばした。パァン、という乾いた音が発した。霊夢がアリスの尻を思い切り叩いたのだった。「痛ぁ!」と悲鳴を上げたアリスに構わず、霊夢はスカートの中のパンツをしっかりと掴み取る。
「おっ、お願い、止め……あっ、ああ……いやぁあぁぁあぁ!!」
霊夢のたくましい二の腕が膨張したかと思った瞬間、アリスが穿いていた純白のパンツがぐいと引っ張り上げられ、引きちぎれんばかりに伸び上がった。
さらに霊夢が力を込めて引っ張ると、アリスの身体が冗談のように宙に浮き上がった。
「ああっ! あああーっ! いやぁぁぁぁぁあああああ誰か止めてええええええ!」
聞くに堪えない悲鳴の中に、ミチミチ……という布の千切れる音が混じったのを魔理沙は聞き逃さなかった。
おまけとばかりに霊夢がさらにパンツを引き上げると、ブチッ……という不気味な音が発し、アリスの身体がべちゃりと地面に叩き落された。
「はっ……はっ……あはは、勝利ぃ~! 結構すぐ脱げるんだね! 仕方ないね!」
霊夢が鬨の声を上げ、手にした布切れをぱたぱたと振り回した。
それが無残に引きちぎれたパンツであるという理解が遅れたのは、単にその布切れが丸まっていたからではないだろう。幼馴染と言える人間が、同じく友達と呼べるような関係の乙女の股座に手を突っ込み、そこからパンツを奪い取るという異常事態を目にした頭が処理過剰を起こし、機能を停止してしまったのだった。
数秒経って、止まっていた頭の回転がゆっくりと通常運転に戻ってくると、魔理沙はやっと口を閉じることができた。長時間開きっぱなしだったらしい口に砂の味が広がり、ジャリ、という身の毛もよだつ音がしたが、却って馬鹿になった頭を回すのに効果を発揮したようだった。
「あっ、アリス……」
名前を呼んで見ても、スカートのすそを押さえたままうつ伏せになった身体は微動だにしなかった。
魔理沙はアリスの傍に駆け寄ると、「だっ、大丈夫か……?」と問うてみた。
アリスの身体が、うっ……うっ……という嗚咽と共に震えていた。「アリス……」と魔理沙が肩をゆすると、アリスが呟くように言った。
「もう……お嫁にいけない……」
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空を飛ぶ影が、月の真ん中を横切ってゆく。
いくつもの木立を飛び越え、川を横切り、風に吹かれながら飛んでゆく箒は、しかし風と呼ぶには相応しくない、ふらふらとやたら危なっかしい飛び方で飛んでゆく。箒にまたがった魔法使い――霧雨魔理沙は、じんじんと痛む頬をさすりつつ、自分の家があるはずの魔法の森を目指して飛んでいた。
数十分も飛び続けると、こんもりとした森の形が見えてくる。名も知らぬ巨樹たちが枝葉を広げて、日中でも日の光りが届かぬ原生林は、今は影そのものとなってとっぷりと闇に沈んでいる。魔理沙は闇夜に目を光らせ、枝と枝のわずかな隙間に降下して行った。
地面に足がつくと、魔理沙はその場にへたり込みそうになった。今まで跨っていた箒を杖代わりについて何とか身体を支えた後、魔理沙はふらふらと歩き始めた。
頬がヒリヒリと痛むのは、アリスに思い切りひっぱたかれたからだった。なんで私を殴るんだぜと文句もつけたくなったが、もうお嫁にいけないと泣きじゃくるアリスを見れば引っ込めなければならない不満だった。箒で家まで送ると精一杯の謝意を示した魔理沙に、アリスはしばらく誰とも会いたくないと放心状態で告げ、裾を気にしながらフラフラとどこかに行ってしまった。
霊夢は霊夢で、さっぱりと目を覚まさない早苗を担ぎ上げて守矢神社へ行ってしまい、結局、魔理沙だけがぽつねんと博麗神社に残されたのだった。
大体、と魔理沙は思った。アリスのやつ、説得しろとは言ったが、弾幕遊びで勝負をつけろとは言ってないぜ。あんなにえっちぃ声出して騒ぎやがって、人が来たらどうするんだぜ。あの現場を見られたら100%勘違いされるぜ。まったく、あんなことになるなら、いっそ自分が最初からレスリングをしておけば……。
刹那、「ずいぶんお疲れのようね」という声が背後に発し、魔理沙は三センチほど飛び上がった。
慌てて後ろを振り返ると、夜の闇がグググ……と歪み、魔理沙が見ている前でパックリと裂けた。裂け目は徐々に大きくなって行き、中から少女と言って差し支えのない顔が覗いたのを見た魔理沙は、大げさに顔をしかめた。
「やっぱり紫か……」
「あら、なによその顔。私と出会うのがそんなに嫌なのかしら」
この幻想郷最強最古の物の怪にして、風変わりなスキマ妖怪――八雲紫は、闇夜にもはっきり浮かび上がる白い顔でくすくすと笑声を漏らした。
冗談じゃない、と魔理沙は心中に毒づいた。疲れてるときには一番会いたくない、胡散臭い奴。「分かってるじゃないか、とにかく、明日にしてほしいんだぜ」と言ってさっさと踵を返した魔理沙に、紫は「お待ちなさい」と引き止める声を出した。
「なんだよ。妖怪は違うのかもしれないけど、人間はもう寝る時間なんだぜ」
「さっきのことなんだけど、あなたのお友達の人形使いがここを通ったの」
魔理沙の嫌味など聞いていないという言うように、紫は勝手に話し始めた。「あぁ……」と曖昧に応じた魔理沙に、紫は次の言葉を続けた。
「どういうことかわからないけど、彼女、ちょっと様子が変だったように思うのだけど」
「泣いてたって?」
「いえ、スキップしてたわ」
スキップ、どういうことだ。「なんでだぜ」と不満な声を出した魔理沙に、紫は「さぁ?」と涼しげに応じる。
「私も尋ねてみたの。けれど彼女、私と顔を合わせた途端にスカートの裾を気にしながら逃げて行ったわ」
暗闇にぬらぬらと光る両目が好奇に光っているのを見て、魔理沙はこのスキマ妖怪が自分に何を求めているのか理解した。
「……別に、何かあったわけじゃないぜ。あいつがもうヨメにいけないって泣くもんだから、『もしそうなったら、私がヨメに貰ってやるぜ』って言っただけだぜ」
「あぁ、なるほど」
話の要諦は喋らなかったはずだが、何を得心したのか、紫は妙に納得した表情で頷いた。魔理沙が器用に片眉だけひそめると、スキマ妖怪は続けた。
「けど彼女、よっぽど憔悴してたわ。あなた、もしかして何かしたんじゃないでしょうね?」
「何かってなんだ?」
「そりゃ、夜這いとえっちぃこととか」
「誰にだ?」
「彼女によ」
「なんでだ?」
「だから、それを聞いてるんじゃない」
「何をだ?」
「……ムカつくわぁ、本当に」
「お互い様だ」
珍しく表情を曇らせた紫はそれでも次の瞬間には薄笑いを浮かべ、「それにしても、最近不吉な噂を聞くのよねぇ」と話を変える一言を発した。
「なんだ、まだ続くのか?」
「最近、博麗神社の巫女が狂った、とか」
意外ともやっぱりとも思える言葉に、魔理沙の胸が冷たくさざめいた。
大きく嘆息した魔理沙に合点が行ったのか、紫は「事実なのね?」と確信的な問いをよこす。その視線には答えず、魔理沙は「……誰から聞いた?」と水を向けてみた。
「幻想郷のあちこちで聞いてるわ。何でも、守矢神社の風祝を裸に剥いて強姦したとか」
「……お前、それ本気にしてないよな?」
紫は無言だった。どこでどう尾ひれがついたものか。人間が垂れ流す噂のいい加減さにしばし絶句した魔理沙は、返答を求めて無言を押し通す紫に力なく首を振った。
「確かに裸に剥いたのは事実だけど、強姦はしてない。多分」
「多分?」
「もういいか?」
「よくないわよ」
ムッとした声で頬を膨らませる紫に、かといっていちいち事の仔細を話す義理があるわけでもない。否、これ以上余計な情報を提供して、霧雨魔法店の店主が共犯などという噂を立てられた日には堪らない。
魔理沙は「本人に直接聞いてみてほしいぜ」とそっけない声で応じ、今度こそ紫に背を向けた。
「待ちなさい」
ぐ、と肩を掴まれ、魔理沙は歩みを止めた。見ると、空間の裂け目から白い手が伸び、無遠慮にも自分の肩を掴んでいる。
こいつは一体何がしたいんだ。魔理沙はくるりと振り返ると、「だから知らないって言ってんるだぜ……!」と少し声を荒げた。
「霊夢がレスリングにハマって、アリスのパンツをムリヤリ剥ぎ取ったなんて友達の私の口から言えるわけないだろっ!」
自分でも意図しなかった大声が森の木立を震わせ、驚いたカラスが闇夜に一斉に飛び立った。
森全体が揺れたかのようだった。一瞬、すべての音が途絶え、紫の目がキラリと光った。
「レスリング、ですって……」
ちょっと信じられないという風に紫は表情を緩めた紫は、ふっと笑声を漏らした。
「そう、やっぱりそうなのね。……ちょうどいいわ」
紫の独白には、どこか楽しげな響きがあった。
なんだこいつ、と魔理沙が思った刹那、「それじゃ、ごめんあそばせ」とワザとらしい挨拶を残して、紫はそそくさと隙間の中に消えていった。
八雲紫が博麗神社の巫女に裸に剥かれて強姦されたらしいという噂を魔理沙が聞いたのは、その夜から三日後のことだった。
*****************************
「レスリングがしたいわ、咲夜」
館の主――レミリア・スカーレットはそう言いつつ、カップを傾けた。薄暗い紅魔館の高い天井にその甲高い声はよく響いた。
このところ、下々の間で流行っているレスリングに、レミリアもすっかりと“お熱”を上げていた。
毎日日傘を差してあちこちに出かけて行っては下々がレスリングに興じているのを観戦したり、香霖堂からレスリングの模様が撮影されている“げいびでお”なる活動写真を取り寄せて一日中鑑賞したりしていた。現在も、純白のテーブルクロスの上にはスコーンの替わりにとんがりコーンが、ケーキの替わりにアップルパイが、紅茶のカップの中には林檎コーヒーなる未知の液体が入っていた。
「かしこまりましたお嬢様。では早速私がお相手に」
答えたのは、隣に立つ完全で瀟洒なメイド――十六夜咲夜だった。両手を前に出し、何かを揉みしだくように指をわしわしと動かすメイドに、レミリアは「やめろ」と低い声を出した。
「いくら私がカリスマでも、人間のあなたに相手は務まらないわ。潰さないようにアリを踏むのは力の加減が難しいんですもの」
「なんでもします。鍛えろとおっしゃるなら鍛えます。触れと言うなら喜んで触ります。どんなにガチムチにでもなります。ですから是非是非お相手させてください」
再び指をわしわしとさせ始めた咲夜に「やめろつってんだろ」と低く応じて、レミリアは嘆息した。
「私は吸血鬼よ。カリスマの私の相手にふさわしい相手を探してきて欲しいの」
「ですから私が……」
「次言ったら肩パンするから」
レミリアの肩パンは痛かった。一発喰らったら思い出が十個ぐらい消えてしまうほどに痛かった。瀟洒という言葉が服を着て歩いているような咲夜も、さすがに口を閉じるほかなくなった。
「ならばウチの美鈴などはいかがでしょう。彼女はすでにレスリングに取り憑かれたマシーンと化していますし」
瀟洒なメイドが答えると、レミリアは「あの子はねぇ」と苦笑して見せた。
確かに、咲夜が言った通りだった。一ヶ月前からレスリングの輩と化していた美鈴は、もともと拳法の使い手である蓄積があったせいなのか、技の飲み込み、ガッツ共に申し分ない。さらに加えて身長も膂力もそれなりにあるために、そのレスリングの上達ぶりには目を見張るものがあった。
ちょっとの間逡巡して、結局レミリアは「ダメ」と首を振った。
「あの子はダメだわ。いくらなんでも紅魔館の可愛い僕にカリスマの私がレスリングをけしかけるわけにはいかないもの」
「ですから私が手取りナニ取り」
パァン、という景気のいい音が発して、咲夜の口から鮮血が迸った。びちっ、と自分の太ももに降り注いだ血を指で掬って舐めてから、レミリアはため息をついた。
「どこかに私の相手が務まる猛者はいないかしらねぇ」
言ってみてから、レミリアは咲夜を見下ろした。咲夜は口から出た血を拭っている最中で、レミリアの視線に気づいていない。
ほっ、とレミリアがカリスマため息をついた瞬間、「ならば、私が」という別の声が紅魔館の空気を微震させ、レミリアは顔を上げた。
「何奴……?!」
咲夜が振り返り、ナイフを構えるのをレミリアが制した。
「これはこれは……」と牙をちろりと覗かせて嗤ったレミリアの前に、紅白の巫女服をまとった影――博麗霊夢が現れた。
「珍しいわね、霊夢。ちょっと見ないうちにずいぶん体が逞しくなったこと」
「そうね。相変わらず広い屋敷で嫌になるわ、ここは。アンタこそ、つい最近は岩に隠れとったのか?」
余裕の笑みで答えた霊夢に、いつもは瀟洒な咲夜が顔を険しくした。「霊夢、ここに何をしに来たの……!」と敵に応じる声を出した咲夜に、霊夢はこともなげに言ってのけた。
「何って、決まってるじゃない。レミリア・スカーレットとレスリングをしに来たのよ」
霊夢が言うと、場違いな沈黙が紅魔館を支配した。
まず最初に沈黙を破ったのは、レミリアだった。
レスリングですって? 馬鹿にするように吹き出すと、レミリアはそれから暫くの間高笑いを続けた。たっぷり一分近くも嗤い続けたレミリアは、今度は子供に言って聞かせる声を出した。
「ねぇ霊夢、落ち着いて聞きなさい。いかにあなたが博麗神社の主とは言えど、あなたは人間よ。そのことを忘れたのかしら?」
紅魔館の当主に相応しい余裕の問いにも、霊夢はわずかに笑みを深くしただけだった。
「あっそう。それが何の問題ですか?」
「だからなに、ですって。いいわ、じゃあ教えてあげましょう。吸血鬼である私が本気を出したら、あなたなど一捻りだと……」
そこでレミリアが喋るのを止めたのは、霊夢の手に握られた物体の存在に気づいたからだった。陰になっていてよく見えない。あれはなんだ……と目を凝らした瞬間、レミリアの紅い瞳が見開かれた。
「あぁコレね。ちょっとした戦利品よ」
今更気づいた、という体だった。霊夢は手に握った“それ”を自分の前に持ってくると、一気に空中に放り投げた。
「こっ、これは……!?」
咲夜が声を上げた。
桜の花びらの如くひらひらと空中を舞ったのは、パンツだった。それも一枚や二枚ではない。十数枚のパンツが空を飛び、きりもみ回転し、その中の一枚が頭に落ちてくる。反射的にそれを取り上げてみて、咲夜は瞠目した。
この黄色と黒のスパッツ、これは確か……。
「これは……美鈴のスパッツ……!? 霊夢、お前、美鈴(他人)のモノを……!?」
「美鈴? 知らないわね。あ、あの邪魔な門番のことかしら。あいつだったら、かるーく揉んでやったけど」
揉んでやった。その言葉に、咲夜は息を呑んだ。まさか、そんな馬鹿な。いくらサボり癖がひどいといえど、美鈴は本気で闘り合ったら咲夜ですら無傷ではすまない猛者である。互いの能力を使わず、文字通り裸一貫で勝利をもぎ取らねばならぬレスリングとなれば尚更のことで、普通の妖怪ではまず勝ち目はないだろう。
それなのに。咲夜は毒のように苦い唾を飲み込んだ。あの美鈴に、ただの人間である霊夢が勝っただと――?
絶句している咲夜の足元に、次々と違うパンツが着地した。目だけ動かしてそれを捉えた咲夜の身体に次々と衝撃が走った。
この派手なレースのフリルつきのパンツは、確か小悪魔のものだったはずだ。
今窓際に引っかかった縞々はパチュリー・ノーレッジのもの。
そして今霊夢が手に握り締めている紫色の布切れは、八雲紫のパンツではなかったか……。
「あなた……ま、まさか、あの八雲紫を……!?」
そんな馬鹿な。咲夜はその想像を必死に振り払った。あの幻想郷最強の妖怪がノーパンだなんて。取り乱した声を発したメイドに、霊夢も負けじと瀟洒に答えた。
「なんてことなかったわ。ちょっと腋見せたらヘロヘロになったのよ」
「そっ、そんな……有り得ない! 有り得ないわ……!」
思わず後ずさった咲夜の背中に「咲夜、外して頂戴」という声が突き刺さり、咲夜は弾かれたように振り返った。
「……今のあなた、ずいぶんと調子に乗っているようね……」
そう言ったレミリアの手に握られていたのは、どことなく幼さを感じさせる、熊の柄のパンツだった。
あれは……咲夜は目を剥いた。あれは、自分が何度も洗濯したパンツだ。お気に入りだから丁寧に洗ってほしいと言うので、咲夜はそれを洗濯機ではなく洗濯板で洗濯していた。丁寧に丁寧に、指を赤切れさせて、何度も何度も――。
あれは、まさか妹様の下着――。
あの妹様ですら。正気を失い、五百年に渡って幽閉されなければならなかった最強の吸血鬼。直接激突すればレミリアでさえ躊躇いなく血煙にしてしまうだろう魔物――フランドール・スカーレットですら、霊夢の手にかかってパンツを奪い取られたというのか――。
その理解がゆっくりやってきた瞬間、あまりの異常事態に体が反応し、咲夜はたまらず嘔吐した。
うえっ、げえっと咳き込んでいる咲夜に構わず、レミリアはゆっくりと立ち上がった。
「可愛いフラン……痛かったでしょう? 苦しかったでしょう? あんな人間の小娘に、殴られ絞められ犯され……どんな気持ちだったかしら……?」
瞬間、レミリアの手に握られたくまのパンツが音を立てて引きちぎられた。否、それは引きちぎられたのではなかった。レミリアが発する瘴気と殺気にパンツの布地が耐え切れず、爆散したのだった。
レミリアの身体から発せられた禍々しきオーラが渦を巻き、大気を灼き焦がし、空間を歪ませ始める。そんなレミリアに、あろうことか霊夢は左手を差し出すと、ちょいちょいと動かしてみせた。
レミリアの紅い瞳がギラリと輝き、吸血鬼に相応しい酷薄な笑みが浮かんだ。その顔はすでに普段のレミリアではなく、己が内に巣食う獣を解き放ちつつある何者かのものだった。数百年ぶりに解き放たれつつある吸血鬼の力を受け、紅魔館全体がまるで歓喜するように鳴動し始めると、咲夜は立ち上がることすらできずにそれを見守るしかなくなった。
レミリアは服の首元に手を突っ込むと、不気味に微笑んで見せた。
「いいわ、私の相手として不足はないようね。ならば私が、今度こそあなたに引導を渡してあげるわ……!」
瞬間、レミリアは自らが着ていた衣服を一息に引き裂いた。
中から現れたのは、スクール水着によく似た真紅のレスリングユニフォームであった。
それを見た咲夜の鼻が爆発し、ブシャ、という音とともに、吐瀉物にまみれた咲夜の顔から血煙が上がった。
同時に、目の前に立っていたレミリアの姿がコマ落しよろしく、忽然と消失したのを、咲夜は見なかった。
次の瞬間。否、それはレミリアが消えたのと全く同時だった。肉体と肉体が激突する轟音が轟き、紅魔館のガラス窓がガタガタと鳴動した。ズン、という重い衝撃がその後に続き、すべてを圧する衝撃波が紅魔館の通路に荒れ狂った。
血圧低下によって朦朧とする意識の中で、咲夜はいくつもの怒声を聞いた。しかしそんな修羅の中にあっても、咲夜の顔は奇妙に穏やかだった。嗚呼、お嬢様。最期にいいモノが見れて、咲夜めは幸せでございました――。
しかしその独白すら、その後に連続した怒声と衝撃波の渦に飲み込まれ、跡形もなく消し飛ばされていった。
*****************************
ブルータス、お前もぜ。
『文々。新聞』の一面を堂々と飾ったその記事を見て、魔理沙は嘆息した。
紫はともかくレミリアでさえ負けるとは。魔理沙は頭の中にあるレミリアとフランドール、咲夜の顔に次々とバツ印をつけた。
早苗、アリス、紫、そしてレミリアやフランドール……。幻想郷最強の種族である吸血鬼やスキマ妖怪でさえ敗北したならば、もうこれ以上強い奴はそうはいない。いいところ萃香や神奈子ぐらいなもんか。萃香や神奈子にはまだバツ印はついていないが、あと三日もすればめぼしい猛者の顔はバツ印だらけになるだろう。魔理沙はもう一度嘆息した。
一体どうしちまったんだ、霊夢は。いかな霊夢が天才といえど、吸血鬼とタイマンして勝つなんて、ネズミがゾウと戦って勝つようなものだ。それなのに勝った。なぜ……。
よく考えてみれば、不思議な話だった。テーブルに足を乗せ、椅子をガタガタと揺らしながら考えてみたものの、生来魔法以外のことについてあれこれ考えることは得意ではない。魔理沙は考えるのを諦め、わからんぜ……と嘆息した。
「今日はやけに物憂げだね」
魔理沙が珍しく真剣な表情で思い悩んでいるのを、店主は目ざとく見つけたようだった。それまで店に並ぶガラクタの一部と化していた店主――森近霖之助は、そう言って眼鏡のブリッジを押し上げた。
「うるせぇ馬鹿。人が考えてるのを邪魔するのは感心しないぜ」
「ずいぶん……ご挨拶だな。ここは僕の店だと……いうことを、忘れてもらっては……困る」
「私の家じゃモノなんか考えられないんだよ」
「だったら……アリスの家にでも、行けば……クッ……いいじゃないか」
「……香霖、それしながら話すのはやめてくれだぜ」
そう言って、魔理沙は霖之助を見た。
香霖堂の店主は褌一丁になり、黙々とダンベル体操をしていた。なんとまぁ、しばらく見ないうちにあのヒョロヒョロもやしがいつの間にか結構な体格になっているではないか。そういえばこいつもにわかレスラーになってたっけ。
「フフフ……だってレスリング用品を扱う僕が……ヒョロヒョロじゃあ……示しが……つかないじゃ……ないか」
「香霖なんて永遠にヒョロヒョロなくらいが丁度いいんだぜ」
「それは……ほめ言葉かな……。まぁどっちにしても……今の僕には……当てはまらない……言葉だな。ンフフ……」
魔理沙は顔を引きつらせてから、テーブルに突っ伏し、畳んだ腕に顔をうずめた。
「大体、なんなんだ皆して。いくら流行りだからって、レスリングレスリングって……」
「みんなレスリングが好きなのさ。流行り廃りは関係ない」
「それ、本気で言ってるのか? 大体、みんなが皆レスリングにハマってるわけじゃないぜ」
「そりゃそうさ。しかし、僕が見るところ、幻想郷の9割5分はレスリングにハマってるね」
「冗談」
魔理沙が手をひらひらさせると、「冗談じゃないさ。僕の店に来る客は先月の十倍にはなってるし」と霖之助が返してきて、魔理沙は苦笑した。
「まさかな。まだあんな頭のおかしい競技にハマってないヤツなんてごまんといる」
「どうかな」
「アリスはともかく、あのおカタい閻魔様はにわかレスラーを忌々しげに見てるだろうぜ」
「四季映姫のことを言ってるなら、彼女は一ヶ月前から香霖堂の優良顧客になってるよ」
その発言に、魔理沙は驚いた。
「まさか……あのカタブツまで来てるのか?」
「あの格好と外見に口ヒゲで変装してやってくるなんて、いかにも彼女らしいといえば彼女らしいけどね。彼女の贔屓はソイビーンズのプロテインだ」
愉快そうに笑いながらダンベルを上げ下げする霖之助を見て、魔理沙はやるせなくなってテーブルに額を押しつけた。もうどいつもこいつも変態だらけか。もういやだこんな生活。いくらプロテインキノコが飛ぶように売れても、これじゃあ自分までおかしくなりそうだ。
大体、なんでみんな寄ってたかってレスリングなんかしなくちゃいけないんだ。魔理沙はぽつりとひとりごちた。
筋トレなんてつらいだけだぜ。レスリングなんて苦しくてつらいだけだぜ。それなのに、なんでみんなそんなに楽しそうなんだ……。
そこまで考えたとき、霖之助が呟いた。
「それにしても……霊夢は……それほど……強くなったのか……ふぅ……。一度、お手合わせ……したいな……ククク」
その言葉に思索を邪魔されて、魔理沙は不機嫌に言った。
「香霖、ダーク香霖になってるぜ」
「ダークじゃない。武者震いだ」
「へぇそうかい」
こいつとも話が通じない。呆れ果てた魔理沙が欠伸をした瞬間だった。揺らしていた椅子が大きく傾き、魔理沙はあっ……と声を上げた。
しまった、油断したぜ……。
瞬間、天井近くまで積み上げられていたガラクタが崩れる音がして、魔理沙は椅子ごと道具の山に倒れ込んだ。
「あまり僕の店を荒らさないでくれないか」
霖之助の涼しげな声が響く。どこかに強打したらしい頭と尻がじんじんと痛んだ。
魔理沙は顔の上のガラクタを忌々しげに除けつつ、返事を返さなかった。今日は厄日だな……そう心中にひとりごちた魔理沙は、そこでふと手を止めた。
ガラクタの山の中に埋まっていた空箱に目が留まり、魔理沙は半ば発掘するようにしてその箱を取り上げてみた。造りだけは立派な桐の箱だった。ずいぶん古いものらしく、箱の表面は重ねた年季相応に黒ずみ、ひび割れている。蓋を見てみると、太い筆に墨で書かれた文字はかすれて消えかかっていたが「允二外道」と書いてあるのが何とか見えた。
「まさにげどう……なんだこりゃ」
魔理沙は眉をひそめて、紐を解き、箱を開けてみた。箱の中は空っぽだった。
「香霖、これは何が入ってたんだ?」
魔理沙がそれを持ち上げて示すと、香霖はダンベルを上下させながらこちらをちら、と伺った。
「ああ、それか。僕にもわからずじまいだった」
「わからないって……」
霖之助は『物の名前と使用方法がわかる程度の能力』という、どうにも胡散臭い能力を持っていた。その霖之助に限って物の用途がわからないなんてことがあるはずがない。まさか炒飯の食べ過ぎで頭までおかしくなったのか、と思った魔理沙に、「厳密に言うと、それにはモノが入ってたわけじゃない」という返答が返ってきた。
モノじゃない……? 視線で問うと、霖之助は額に浮き出た汗を手ぬぐいで拭いつつ言った。
「モノというよりも呪具、いやもっと正確に言えば、生き物に近いんだろうな、アレは。とにかく僕の能力でも使用用途がわからなかった以上、アレは道具やモノじゃない。僕もそれを見つけたときは混乱したけど、せっかくだからそこに置いておいた」
生き物だと? 魔理沙はもう一度空の箱を見てみた。言われてみれば、箱からはその呪具とやらを封じるのに相応しい面構えをしているではないか。何だか気味が悪い。
「一ヶ月ぐらい前、それの中身を霊夢が持って行ったんだよ」
そう言われて、魔理沙は目を剥いた。
「マジか?」
「ああ。何かの呪具だって言ったら、供養でもするつもりなのか持っていってしまった」
箱を見ると値札がついており、60、と太い筆で書かれている。こんな薄気味悪い商品に60とは少し割高だと魔理沙も思う。まぁ、あの貧乏巫女のことだから、当然カネは払わなかったのだろう。あのド貧乏巫女め、巫女の癖に阿漕なやつ。
それにしても……と魔理沙は箱の中を見た。その呪具とやらがどんな形をしていたのであれ、そんな薄気味悪いものを持っていくなんて、酔狂を通り越してもの狂いじゃないか。ここんところの霊夢は本当にどうかしてるぜ。それとも、なにかソソられるものがあったのだろうか……。
「霊夢のやつ、レスリングのしすぎで頭がおかしくなったんじゃないのか? ま、私にはどうでもいい話だけど」
霊夢も自分も物好きなんだな。力なく笑ってしまってから、魔理沙は立ち上がった。
「今日は帰るぜ」と言った魔理沙に、「ちょっと待った」という声が掛けられて、魔理沙は振り向いた。
「魔理沙。今日はこれからどうするんだい?」
「どうするんだって、メシでもおごってくれるのか?」
「いや。そうじゃない。このまま家に帰るのかと聞いてるんだ」
「もちろん」
魔理沙が頷くと、霖之助は意味ありげな含み笑いを漏らした。
「なぁ魔理沙、君は本当にレスリングが嫌いなのか?」
だぜ? と魔理沙は顔をしかめた。
「何を突然言うんだよ」
「いいから質問に答えてくれないか」
なんだこいつ、今日はやけにしつこいな。
魔理沙は苦笑しつつ「わかりきってるはずだぜ、そんなの」と言って、店から出て行こうとした。
「いや、違うね。これから魔理沙は、博麗神社に行くつもりじゃないのか? 霊夢の試合を観に」
その言葉に、魔理沙は再び立ち止まってしまった。
「冗談言うな。なんで私があんな気持ち悪いものを……」
「本当は、したくてしたくてたまらないんじゃないのか、レスリング」
そうなんだろう? とでも言いたげな問いだった。
魔理沙はすぅ、と息を吐いてから、努めて繕った声を出した。
「そんなわけ……ないぜ」
即答、というには、あまりに間が空きすぎた。そう思ったのは霖之助も同じだったらしい。
霖之助は片手にダンベル、片手に湯飲みという格好で器用に茶を啜りながら、こちらの言葉を待っている。
「お前、頭がどうかしちゃったんじゃないか? 私は魔法使いだ。魔法使いは派手に魔法を使うから魔法使いなんだぜ。それを今更、レスリングなんか……」
「魔法使いがレスリングをしてはいけないという法はない。……それに、今の魔女は筋トレをしながら魔法を研究するものなのかい?」
その言葉に、魔理沙ははっとして霖之助を振り返った。バレていたのか? そう目で聞いてみても霖之助は答えず、代わりにフッと笑声を漏らした。
「ダンベルやプロテイン……占めて十一個、二週間前から行方不明なんだ。なくなっているのはわかっていたし、誰が持っていたのかもわかってる。勝手に持っていくにしても、僕の目を盗んで持っていくとは、魔理沙らしくないね」
霖之助はもう一度茶を啜ると、話を変える声を出した。
「魔理沙はウソをつく努力をしているだけじゃないのか。理性や恥が手伝って、自分の本当の気持ちを偽っている。それが証拠に、今の魔理沙はひどく窮屈そうに見えるけどな」
「……いい加減にするんだぜ、香霖。しつこいぞ」
「僕には人の心を読む能力なんてない。けれど、魔理沙が今、何を考え、何をしたいのか、それぐらいはわかるのさ」
お互い、隠し事は出来ないはず。そう教える霖之助の声に、魔理沙は思わず耳をふさぎたくなった。
震える手で胸を押さえ、魔理沙は頭の中に必死に呟いた。
憧れていない。霊夢のあのボディラインなんかに。女であんなムキムキなんてヒくぜ。気持ち悪いんだぜ。
戦いたくなんてない。心行くまで闘ったりするのは馬鹿馬鹿しいぜ。
レスリングなんかしたくないぜ。したくない、したくない、したくない……。
何度呟いてみても、図星をつかれた魔理沙の胸の高鳴りは止まらない。それどころか、自分の中で押さえつけていたものが一気に溢れ出し、全身の細胞という細胞を励起させて、魔理沙の中の何かを突き崩そうとする。
その様を見た霖之助は、静かに言った。
「なにも恥ずかしいことはない。らしくないことはやめて、自分が思う通りにレスリングすればいいんじゃないのか」
「……やめてくれよ」
「霊夢とレスリングをしたい。心行くまま身体を絡ませてパンツを奪い合いたい。そんな願いを抱いても、バチなんて当たらないと――」
「香霖! いい加減にしてくれよっ!」
その瞬間、魔理沙が大声を出した。
口を閉じた霖之助は、まるでそれを予期していたかのように動じなかった。
しばし、沈黙が流れた。永遠に感じられる数分の後、先に沈黙を破ったのは魔理沙だった。
「――香霖」
「なんだい?」
いつもの口調で、霖之助が答えた。褌一丁で。
振り返った魔理沙の目は、今まで霖之助が見てきた中で、一番哀しげな目だった。
「それ以上、虐めないでほしいぜ……」
そう言って、魔理沙は駆け出していった。バン、と扉を押し開け、その数秒後には機上の上の人ならぬ箒上の人となった魔理沙の後姿を見送ってから、霖之助はバツが悪そうに頭をかいた。
沈黙が戻った。再び、薄暗い店の中に一人残された霖之助は、すっかりと温くなった茶の残りを飲み干した。
それからたっぷり十分ほどの時間をかけて、霖之助はきっちり一千回のダンベル運動を終えた。全身に吹き出た汗を手ぬぐいで拭き取ってから立ち上がる。
「さてと。外出するのは久しぶりだな」
誰もいない店内に一人ごちて、霖之助は外に出た。
調べたいことがあった。紅魔館の地下、ヴワル魔法図書館ならば、自分が望むとおりの情報があるだろう。霖之助が空を見上げると、すでに空は暗くなり始めていた。
*****************************
「馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿、なんでこんなに馬鹿なんだよ、私はっ――!」
自分の頭を叩きながら、魔理沙は何度も何度も呟いた。すっかり日も暮れた博麗神社の鳥居の影に座って、魔理沙は一人静かに慟哭する。
筋肉なんて気持ち悪い。戦いたくなんてない。レスリングなんてしたくない。それなのに、そのはずなのに、そうでなければならないはずなのに――!
自分の中の自分を抑えきれない。箒に乗っているときも、茶を飲んでいても、魔法の研究をしているときも、レスリングのことが離れない。霊夢と戦っているのが自分だったら、という想像が頭を離れない。霊夢とパンツの剥ぎ取り合いをしたいという下賎な想像が頭から離れない。
そして、今もだ。今、自分が何をしにきたのか、魔理沙以上に理解している者はいないだろう。
魔理沙は、レスリングを観に来たのだ。
ここ博麗神社で、霊夢が筋トレをしていることを願って。
誰かが霊夢に勝負を挑みに来ていることを願って。
激闘が幕を開けていることを願って。
「馬鹿だ、馬鹿だっ、私は――!」
魔理沙は自分を抱きしめるようにした。いくら偽っても、いくらごまかしても、一向にこの衝動は消えてくれない。
ごぅ、と音を立てて夜風が吹き、魔理沙の横を吹き抜けていった。
こんなことなら、最初から意地を張るんじゃなかった。こんなくだらない偏見もプライドもかなぐり捨てて、霊夢とレスリングをするのだった――!
「何やってるのよ、魔理沙」
不意に、そんな言葉が夜のしじまを騒がせた。魔理沙が驚いて顔を上げると、そこにはずいぶん久しぶりに見たような、しかし嫌というほど見知った顔がいた。
「アリス……?」
「馬鹿ねぇあんたは。今頃ここに来て一人で泣いてるんじゃないかと思ったわ」
アリスは苦笑とも泣き笑いともつかぬ顔で腰に手を当てた。その表情の真意を掴みかねていると、アリスの隣の空間が歪み、裂けて、中から涼やかな声が聞こえてきた。
「ええ、全くお馬鹿さんね」
全身を紫色のレスリングユニフォームに包んだ紫が、スキマから顔を出した。魔理沙は呆気に取られたまま、両者の顔に視線を往復させてから、「紫もかよ……」と力なく呟いた。
「あなた、自分だけが賢いフリをしているらしいけど、そんなのバレバレだわ。本当はレスリングがしたくてたまりませんって顔に書いてあるんですもの」
「……そんなわけ……!」
「そうね、相変わらず魔理沙はわかりやすいわ」
また別の声が発して、魔理沙は振り返った。そこには、微笑む十六夜咲夜の瀟洒な立ち姿と、ぶすくれた表情で視線を逸らすレミリア・スカーレットの顔があった。咲夜の両の鼻の穴にティッシュが詰め込まれているのは気になったが、魔理沙はそれを問質すより先に、別のことを問うてみた。
「レミリア……咲夜……! どうしてここに……?」
「リターンマッチ、よ」
魔理沙の問いに、ぶすくれた顔で返したのはレミリアだった。
「なんだって……」と聞き返した魔理沙に、咲夜が瀟洒に答える。
「一週間も前、私たちは霊夢にコテンパンに負けちゃってね。お嬢様がどうしてもリターン・マッチをしたいっていうもんだから……」
パァン! と音がして、レミリアの拳が咲夜の右肩を打った。その瞬間、咲夜の鼻に詰まっていたちり紙のネジがスポンと飛び出て、草むらの影に見えなくなった。
「余計なことは喋らんでよろしい。……それで、霧雨魔理沙」
カリスマ的な声を出したレミリアに、魔理沙は「……なんだぜ?」と問うのが精一杯だった。レミリアの紅い瞳がこちらをまっすぐに見つめ、魔理沙はその場を逃げ出したい衝動に駆られた。
「今晩の勝負は、あなたがするの。あなたが霊夢と戦うのよ」
全く予想外の言葉が発せられ、魔理沙は目を見開いた。「なっ、なんで私が……!」と狼狽した魔理沙に、笑みを消した咲夜が答える。
「魔理沙。正直に言って今の霊夢は敵なしよ。聞いてるしょう? 仮に霊夢一人に対して私たちが全員でかかっても、返り討ちに合うでしょうね」
「そっ、そんな馬鹿な……! 第一、それが私と何の関係が……!」
「おっと、これを見てもそう言ってられるかな」
また別の声がそれに答え、魔理沙は声がした方に顔をやった。
「神奈子……諏訪子、早苗まで……!」
「久しぶりですね、魔理沙さん。この間はずいぶんお世話になって……」
そう言って申し訳なさそうに微笑んだ早苗の横に八坂神奈子と守矢諏訪子の顔もあった。
どういうわけか、早苗の顔には絆創膏が二つ、貼り付いていた。その横で居心地悪そうに目線を逸らしている神奈子にも、その隣ですましている諏訪子の顔にも、同様の傷が体のあちこちにあるのを魔理沙は見逃さなかった。
「まさか、霊夢にか?」
「ご名答、だね。タイマンで私が負けるのなんて数千年ぶり。もっと詳しく言えば神奈子以来かな」
苦笑した諏訪子には、それでもいつものオーラがない。敗北がよっぽど応えたのだろう、その隣にいる神奈子も同様だった。軍神としてのカリスマを著しく傷つけられた後遺症だろうか。ハァ、と太いため息をついた神奈子は、「見ての通りさ」と呟いて魔理沙を見た。
「神である私たちですらこんな有様だ。霊夢は明日には永遠亭や白玉楼に乗り込んで幻想郷の頂点に立つだろうね。幻想郷のパワーバランスはめちゃくちゃだ。人間が素手で妖怪を征服するっていう、通常起こりっこないことが起こるんだ。……そうなれば霊夢はもはや人間ではなくなる。人間でも妖怪でもない、レスリングによって生かされる怪物になっちまうだろうさ」
神奈子の放った言葉は、まるちり紙のようにふわふわと魔理沙の頭の中を浮遊した。「この異変を解決するのは、やっぱり主人公様でないと、ね?」と続けた、どこか他人事の咲夜の声も、実感が伴わない戯言としか思えなかった。喉にたまった生唾を飲み下し、「そんな……」と絶望的な反駁を口にした魔理沙の耳に、「本当に馬鹿ねぇ、あなたは」という涼しげな声が聞こえ、魔理沙は口を閉じた。
「まだ自分にウソをつくわけ? 滑稽ね」
口調こそいつもの紫のものだったが、こちらを見据えて動かない瞳は真剣で、触れれば切れそうな殺気が満ち満ちていた。
「自分がしたいことがわかっているくせにそれを押し殺す。それは確かに狭い人間の世界じゃ必要な能力でしょうね。けれどあなたの場合、その自制心の強さは却って哀れだわ。したいならしたいと言わなければ、何も掴めやしないのよ?」
いつも胡散臭い言葉しか吐かないスキマ妖怪の、一体どこからこんな繊細な言葉が出てくるのか。しかしその声はがらんどうの魔理沙の頭に反響し、心の水面に波紋を広げた。そんなこと、言われなくてもわかってるぜ。歯を食い縛り、つばを掴んで帽子を引き下げてみても何も解決しやしない。魔理沙は救いを求めるようにアリスを見た。そんな魔理沙の様子を叱るかのように、アリスは大仰なしぐさで腰に手を当ててため息混じりに言った。
「まったく、アンタのせいで一週間前はとんでもないことになったわ」
「そっ、それは……すまん」
「けれどね魔理沙。私の体験とあんたがどうしたいかは別よ。あんたが望めば、手を貸してやらないことはないわ」
魔理沙を励ますとも、退路を断つとも言える発言だった。なんなんだ、この展開。魔理沙は聞いてみものの、答える声などない。いっそのことここから逃げ出してしまえたらどんなにいいだろう……魔理沙がそう思った、その瞬間だった。
「誰よ! こんな時間にうるさいわね!」
そこにいた全員が弾かれたように顔を上げた。スパァン! と物凄い勢いで社殿の襖が開かれ、そこから白い顔が姿を現した。
「霊夢……!?」
自分でも驚くほど大きな声が出た。その声に応えたのは、「魔理沙……魔理沙なの?」という霊夢の声だった。
一瞬、間があった。どう言い訳したらいいんだぜ……と、この期に及んで霊夢の視線から逃れるように身体をよじった魔理沙に、霊夢の声が届いた。
「……これはこれは、揃いも揃ってリターンマッチをしにきたってわけ?」
呆れたような霊夢の声に、そこにいた全員が不敵な笑みを漏らす。
「半分、正解ね。この前はコテンパンにやられた私たちだけど、おあいにく様。今夜の私たちには、秘密兵器がいるのよ」
そう答えたのはアリスだ。秘密兵器、というのが自分を指しているのだと気がついて、魔理沙は戸惑う目を霊夢に向けた。一瞬の間があって、霊夢が返してきた言葉は、果たして「……そう、確かに秘密兵器だわ」という声だった。
「さ、魔理沙。なら早速始めましょう」
そう言って、霊夢は縁側から裸足で石畳に降り立つと、すたすたと歩いてきた。
こっちにこないでほしいぜ。
そうだ、忘れ物だ。私はただ忘れ物のバッグを取りに来ただけで、こいつらとは何の関係もない。
来ないでくれ、あっちにいってくれ――! そう言って顔を背けようとした魔理沙の手に、力強い指の感覚が伝わった。
「あんた、何を怖がってるのよ」
その声は、今までかけられたどんな言葉よりも重く、魔理沙の胸を打った。
よろよろと立ち上がった魔理沙の手を引き、霊夢は無言で進んでいく。手首を掴む霊夢の手が熱い。まるで燃えているようだった。
一歩踏み出すごとに、魔理沙の中の何かがとめどなく溢れ出してきて、魔理沙の中のちっぽけな意地を洗い流してゆく。急になくし物が見つかったような安堵感が胸を満たし、ほのかに心臓が発熱する。そうだ、自分は何を怖がっていたんだろう。そう思った瞬間、行け、という自分の声が頭の中に響き渡り、魔理沙は歯を食いしばった。
霊夢の手を握り返すと、その手に流れる血潮の熱さが魔理沙の手にもはっきりと伝わった。
「――なぁ霊夢」
その問いに、霊夢は振り返らずに「何?」とそっけなく応じる。
魔理沙はニヤ、と笑い、霊夢の手を握る力を強くした。
「戦ってる最中は、敵から目を離さないほうがいいぜ――」
瞬間、霊夢が振り返ろうとした。
もう迷わない。魔理沙は霊夢の身体を思い切り引き寄せると、霊夢のうなじに手を回し、腰を落として身体を捻った。
霊夢の体が弧を描き、神社の境内に叩きつけられる。綺麗な炒飯返しが決まり、一同は驚きの声を上げた。
魔理沙がそのまま霊夢の肩に手を回してホールドしようとした刹那、霊夢はその前にすばやく身をひねって魔理沙から離れた。
「やっとその気になったみたいね。――歪みねぇな」
霊夢が微笑する。魔理沙も微笑を返すと、自分の服の首元に両手を突っ込み、あらん限りの力で引き裂いた。黒白のエプロンが裂け、中からサラシとスパッツに包まれた魔理沙の裸体が姿を現した。
瞬間、どよめきが爆発的な歓声に変わった。一夜限りの激戦の火蓋が切って落とされ、春が近づいた博麗神社の空気を沸騰させた。
*****************************
「覚悟アリ、上等だわ」
霊夢が、バンザイをするかのように両手を挙げた。一瞬その意図を測りかねて身構えた魔理沙に、霊夢が笑みを深くする。一瞬の間をおいて、魔理沙も霊夢の手に自分の両手を合わせた。
まずは力比べ。いいだろう、受けて立つぜ。そう微笑した魔理沙に、霊夢は笑みを深くする。
「いくわよ――」
霊夢がそう言った瞬間、全身の筋肉が膨張し、二人は全力で激突した。ミシミシ……と手首の骨が軋み、全身を流れる血潮が沸騰する。
負けじと足を踏ん張り、「ぐおぉ……!」とうめき声を上げた魔理沙は、全身の力を総動員して踏み込んだ。
と、ついに霊夢の腕が後退し始めた。必死に抗う霊夢の腕を、少しずつではあるが魔理沙の腕が圧倒しはじめる。驚いたのはギャラリーだけではなかったらしい。驚愕に目を見開いた霊夢が、食い縛った歯の間から声を漏らした。
「馬鹿な……!」
「へへっ……! 鍛えてたのは……お前だけじゃないんだぜ……!」
魔理沙がさらに力を込めると、霊夢はその負荷から逃れようとするかのように身を捩った。させない、とばかりに腕の力を強くすると、ついに霊夢が膝をついた。
力の均衡が崩れ始める。魔理沙はまたさらに一歩を踏み出し、体重を乗せて霊夢の腕を圧した。霊夢は両目をあらん限り見開き、魔理沙の強力に抗おうと必死の形相になっている。
「どうした霊夢……!? これじゃ……準備運動にもならんぜ……!」
言った瞬間、霊夢の目がギラリと光り、魔理沙ははっとした。しまった、喋りすぎた……と思った刹那、霊夢の頭が啄木鳥のように動き、額が魔理沙のみぞおちにめり込んだ。
「ぐふっ……!」
くぐもった悲鳴が喉を突いて出て、今度は魔理沙が膝をつく。
すかさず霊夢は背後に回りこむと、四つんばいになって咳き込んでいる魔理沙を背中から抱きしめるようにする。抗う暇も身構える暇もなく、霊夢は魔理沙の胸部を両腕で思い切り締め上げ始めた。
「ぐああぁぁ……!」
自分のものでないような悲鳴が漏れた。万力のような力で胸部を締め上げられ、肋骨ごと肺が押し潰される激痛が脳髄を掻き回す。
たまらず地面に両手をついた魔理沙に、「相変わらず詰めが甘いのね」という霊夢のささやきが聞こえた。その声は笑っている……? 魔理沙がそう思った瞬間、自分の胸部を締め上げる力が一層強くなり、死にかけのカエルの声を腹の底から搾り出させた。
どうする、どうやって抜け出す……? 酸素の供給が滞り、酸素を喰らい尽くしつつある脳が灼熱する。回らない頭で両腕から抜け出す方策を考えた魔理沙は、無我夢中で背後に手を回して霊夢の後頭部を掴んだ。
「なっ……?!」
「このっ……うおおらぁぁぁぁ……!」
魔理沙の上腕二等筋が、背筋が体に残っていた酸素を食い尽くして燃え上がる。
霊夢は咄嗟に身体を翻そうとしたようだったが、すでにそのときには魔理沙が彼女を投げ飛ばしていた。
しゃがんだ状態からの背負い投げ、いわゆる半炒飯返しが決まり、霊夢が吹き飛ばされる。瞬間、魔理沙の胸を押し潰していた両腕が離れ、肺に新鮮な空気がどうどうと流れ込んできた。
突然流れ込んできた酸素に咳き込んでしまった魔理沙の視界の端で、霊夢が立ち上がろうと手をつく。させるか。魔理沙は肉食獣の瞬発力で霊夢の右腕を取ると、わき腹と首筋に両足をかけてつっぱり、彼女の右腕を思い切り伸ばした。
「ぎゅうううう……!」
「うう……!」
てっきり苦悶の声を漏らすかと思ったが、霊夢が漏らした声はそれだけだった。筋肉、関節、骨、すべてが完全に極められているにもかかわらず、霊夢は唇を噛み締めてその激痛に耐えている。魔理沙がさらに力を込めてみても結果は同じで、声ひとつ漏らす気配がない。
これじゃダメだ。魔理沙は咄嗟の判断で霊夢の腕を放し、つっぱっていた足をどけた。休む暇を与えず、半ば衝突するようにして腰に組みついた魔理沙は、逃げようと暴れる霊夢の腕に自分の両腕を絡ませると、自分の身体ごと仰向けに寝転がした。
返す刀で両足を出した魔理沙は、暴れる霊夢の両足に自らの足を絡め、磔よろしく大の字に広げた。
「このっ……!」
霊夢が反射的に身体を捩って逃げようとしたが、まるで蛇のように絡みついた魔理沙の腕が外れることはなかった。そのまま魔理沙が身体をぐっと反らすと、大股開きにさせられた状態の霊夢の五体が締め上げられる。
両手両足が完全に極められ、今度こそ霊夢が絶叫した。
「ぐわああああああ!」
「おおらぁぁぁぁっ!」
京都名物・大文字固め。そこには京都府の存在を知っているものなど誰一人としていないはずだったが、霊夢のあられもない姿を見せられたギャラリーの声援が一層高まり、熱に浮かされた二人の頭を蹴飛ばすようにした。
「こっ……このぉ……! ……うぐあああああ!」
「どうだ霊夢……! これが私のレスリングだ、どうだっ!」
体が細胞の一個一個にいたるまで発熱し、凶暴な快感が全身を閃光のように駆け巡った。解き放たれた闘争本能が 霊夢は全身を押さえつける魔理沙の四肢から逃れようと身体をひねったが、さしもの霊夢も五体を締め上げられて逃れられる道理はない。
「ギブか?! ギブアップしろ!」
「まだまだ……!」
「へっ……しぶといな、さすがは霊夢だぜ……! じゃあこれならどうだっ!」
そう言って、魔理沙は四肢にかける負荷をさらに強くした。ギシッ……と霊夢の骨が軋むような振動が魔理沙の身体に直接伝わり、それに応じて悲鳴も一層強くなる。
「あああ……あああああっ!」
「早くギブアップしないと……全身がバラバラになるぜ……!」
それでも霊夢は歯を食い縛って「ノー……!」と搾り出したが、魔理沙はその意地を認めなかった。「ギブアップ!?」と魔理沙が再度問うと、程なくして霊夢の首がガクガクと前後した。
ギブアップ。魔理沙は全身の力を抜くと、ぐったりと脱力した霊夢の肢体を突き飛ばすようにして除けた。ゼイゼイと荒い息を吐きつつ、魔理沙はいまだに立ち上がることが出来ない霊夢のスカートに手を突っ込むと、一気にずり降ろした。
「ああっ、ひどい……!」
霊夢の抗議にもお構いなしに、魔理沙はスカートを足首までずり下ろした。闇夜にぼうっと浮かび上がる白い両脚が晒され、赤いスパッツがあらわになった。
「なんだぁ、幻想郷最強はこの程度なのか、がっかりだぜ」
魔理沙はそう言ってスカートを取り上げ、鼻元に近づけてスーハーと匂いを嗅いだ。濃厚な霊夢の匂いが鼻粘膜を甘く刺激し、魔理沙は我知らず口元を緩めた。その屈辱的な辱めに、霊夢がぐっと奥歯を噛み締めて魔理沙を見る。
試合の行く末を固唾を呑んで見守っていたギャラリーが、そこでドッと声を上げた。今までの試合では考えられないスピードで奪い取られた霊夢のスカートに、誰もが言葉を失っていたのだった。
パワー、スピード、テクニック、スタミナ。どれをとっても魔理沙の実力は霊夢と互角、いやそれ以上だった。今まで頑なにレスリングを拒んでいた霧雨魔理沙の、どこにこんなポテンシャルが隠されていたのか。誰もがその様子に熱狂し、拳を握り締めて魔理沙の名を呼んだ。
それを一瞥した霊夢は、巫女服の上を脱ぎつつ、呆れたように言った。
「……へぇ、初心者のくせにずいぶん人気なのね」
「へへ、お前を倒せるのは私しかいないからな」
「そうかもしれないわ」
笑われるかとも思ったが、意外にも霊夢はそれを肯定して見せる。どこかでこのことを予期していたと言わんばかりの物言いに、魔理沙は苦笑を浮かべた。
「でも、まだまだダメね。あいつらに切り札があるなら、私にも切り札があるわ」
上半身の巫女服を投げ捨てて霊夢が言う。その余裕の言葉に魔理沙が眉を顰めると、霊夢は唇の端をもたげるだけの微笑を返した。
切り札。余裕の笑みと共に発せられたその言葉に何かしらぞっとするものを感じた魔理沙だったが、その怖気の根源がなんなのかは明確に言語化できず、魔理沙は眉を顰める代わりに軽口を叩くことにした。
「へっ、じゃあその切り札とやらを見せてもらおうか」
「言われなくてもそうするわ」
涼しい声で返してきた霊夢だったが、次の瞬間、霊夢が取った行動は、いかな魔理沙といえども理解不能だった。
霊夢はスパッツに手を突っ込むと、もったいぶった手つきでそれを降ろし始めたのだった。
「お、おいおい……!」
「勘違いしないでよね。別に勝負を投げるわけじゃないわ。……むしろ、あんたなら全力でやっても大丈夫かなと思ってね」
そう言ってスパッツに両手を差し込んだ霊夢は、そこから膝を曲げずに、一息にスパッツをずり下ろした。なんだ、新しいケツワレサポーターでも手に入れたのだろうか。暢気にもそんなことを想像した魔理沙だったが、しかしそこから現れたのは、魔理沙が生まれて始めて目にするモノだった。
「……な、なんだよ、そいつは……」
呻いた魔理沙にも答えず、霊夢は代わりに凶暴な笑みを浮かべた。途端に、むんと濃くなった殺気が魔理沙の肌を粟立たせ、頭の中の警報センサーが得体の知れない危険を感じ取った。
気温が一気に二、三度低下し、ザッ……と何か冷たいものが横を吹き抜ける。ヤバい、何が何だかわからんが、こいつはヤバいぞ……異常事態を察した足が主人の命令を待たずに後ずさろうとした瞬間、数段低くなった霊夢の声が魔理沙の耳に聞こえた。
「ちょっと気味悪くてね。できれば使いたくなかったんだけど……頼むから死んだりしないでよ、魔理沙?」
霊夢が言い終わるのと同時だった。閃光のように発した衝撃波が魔理沙の視界を真っ白に染め上げ、ゴ、という鈍い音が全身に突き抜けた。
魔理沙は派手に吹き飛ばされた。
*****************************
ズドン、という臓腑を揺さぶる音が発し、魔理沙の体が冗談のように吹き飛んだ。
何が起こったのか理解できた者は一人もいなかった。それまで試合の経過を手に汗握って見ていたギャラリーですら、目の前で起こった事態に瞠目し、あっと声を上げるのが精一杯だった。
「一体何が……咲夜!」
「わかりません……時を止める間もないほどの一瞬でした。一体何が……!」
咲夜の混乱は最もだった。霊夢が腕を魔理沙に向かって素早く振り抜かれたところまでは誰もが見ていたが、その先はまるでフィルムのコマ落としの要領だった。両者の間には一間ほどの距離があったにもかかわらず、まるで見えない拳が宙を飛んだかのように魔理沙は吹き飛んでいたのだから。
ズシャ、という鈍い音がして、モノと化した魔理沙の体が叩きつけられる。霊夢はゆっくりと身体を開き、残虐な笑みを浮かべた。
「なによあの霊夢……まるで獣じゃない……!」
思わず、という風に神奈子が呟いたが、“それ”は獣と表象するには余りにも凄惨すぎる存在だった。
獣ではない、ましてや妖怪でも在り得ない。二本足で立ち、はっきりとした悦びの表情を浮かべて立ち尽くす霊夢は、まさに「人間」という動物の、ありのままの姿そのものだった。この地球上で誰よりも狡猾で、誰よりも残虐な「人間」という生物の本性。その全てを剥き出しにし、傲然と立ち尽くす姿――その姿が、それを見ていた者に言いようのない嫌悪感と畏怖を感じさせたのだった。
誰もが言葉を失い、境内が水を打ったように静かになった、そのときだった。魔理沙が「ぐ……」と身体を折り、激しく咳き込む音が誰の耳にも届いた。
「魔理沙……」と思わず駆け出そうとしたアリスだったが、すぐさまそれをレミリアが引きとめた。
「何を……!」
「馬鹿ね。魔理沙はまだギブアップしていないわ。……手出しは彼女への辱めと知りなさい」
そう言ったレミリアの眼がアリスを離れ、魔理沙に注がれる。
霊夢は理性の光りが消えた双眸をぬらりと光らせ、ゆっくりと魔理沙に歩み寄っていった。そして、いまだに立ち上がれない魔理沙の両手首を掴むや、まるで重さを感じていないかのようにぐいと引き立たせた。
「魔理沙……!」
アリスが言い終わらないうちに、霊夢はぐっと腕を折り曲げると、魔理沙の身体めがけて肘を振り下ろした。再び臓腑を揺るがす轟音が発し、不可視の衝撃弾を受け止めた魔理沙の体がくの字に折れ曲がる。ぐふっ、というくぐもった声は、呻いた魔理沙の耳にすら届かなかっただろう。次々に轟音が連続し、完全に気を失っているらしい魔理沙の身体が痙攣するように動く。
まさに外道。贔屓目に言っても死にかけの人間をいたぶる霊夢は、時に笑い声さえ上げながら魔理沙の身体を玩具にしている――それは妖怪たちの目にもあまりに酸鼻極まる光景だった。誰もが顔を強張らせ、思わず目を背けた、そのときだった。
「なっ、何アレ……!」
半ば悲鳴のような早苗の声が発して、全員が顔を上げた。「どうした?」と声を上げた諏訪子に、早苗は霊夢を指差すと「霊夢さんの下腹部に何かが……!」と震える声を発した。
全員の目が、今度は霊夢に注がれる。
霊夢が穿いたドロワーズの下腹部――というよりは股間に近い位置に、何かがべったりと貼りついている。あれは一体なんだ? 全員が目を凝らした瞬間、“それ”は月明かりの青白い光りにはっきりと浮かび上がった。
それは赤子のそれとしか言い表すことの出来ない、不気味な嘲笑を浮かべた顔だった。
ざわ、と人垣が揺れ、その場にいた全員が目を剥いた。
「なによアレ……赤ん坊の顔……?!」
思わず、という風なレミリアの声に「フェアリーバースト……」という独白が重なり、全員が声を発した方向に視線を移した。
紫だった。紫は顔を扇子で隠す様にしていたが、その顔はどことなく強張っているようにも見えた。あるいは月明かりの元でなければ、紫の額に滲み出た冷や汗の球がはっきりと見て取れたに違いない。
「なるほど、あんなものが持ち込まれていたなんて……霊夢がやたら強かったのも納得だわ」
奇妙に静かな声だった。一体何を得心したというんだ、一体アレはなんなんだ。百もの問いを含んだ視線が向けられていたが、そんな視線を全身で受け止めた紫が発したのは「勝負アリ、ね。あれでは魔理沙に勝ち目はない」という冷静な一言だった。
「神速の腕の一閃によって衝撃波を発生させる技……か。想像以上だな」
そのときだった。ここにはいない男の声が背後から発せられ、全員が驚いて後ろを振り返った。見ると、博麗神社の長い石段を登ってくる人影がある。月明りに照らされ、影の形が徐々にはっきりしてきたとき、一番最初に声を上げたのはアリスだった。
「あなた、香霖堂の……!」
「お、これは珍しい。みなさんお揃いなのか」
その声に、森近霖之助は無表情に応じた。
霖之助は、どういうわけか褌一丁だった。なんだコイツ、と言いたげな一同の視線など意に介さないように、霖之助は実にのんびりとした所作で夜空を見上げる。
「いやはや、ずいぶん時間が経っちゃったな。本当ならもうちょっと早く来る予定だったんだけど、これを紅魔館の大図書館から探り当てたときには夕方だった。――門番と図書館の主を説得する時間がなければ、日没までにはここに来れたのにな」
霖之助は暢気に言うと、手にした分厚い革張りの本を指で弾いた。手にあったのは、ボロという言葉ではまだ足りない、古紙の寄せ集めと言った方がしっくりくるような古本だった。あちこち手垢と日焼けで煤け、表紙などは半分千切れかかっている。何度も壊れ、破け、その度に補修されてきた壮絶な歴史を一目で物語っているようだった。
数百年分、もしくは数千年分の歴史を蓄積している表紙の瑕を愛おしそうに眺めた霖之助は、それを褌の中に押し込んだ。
「うわ、ちょ……」
「お嬢様、私が後で返しておきますから……」
嫌そうに顔を歪めたレミリアの肩を叩いて、咲夜が言う。「そういう意味じゃないのに……」と言ったレミリアに構わず、霖之助は霊夢と魔理沙を見やってから、表情を険しくした。
「やれやれ、ひどく魔理沙を虐めてくれるな。直接見て確信した。あれはやはり、“アカサン”だ」
「アカサン……!?」
なんだそりゃ、というように言った神奈子を一瞥し、「いくら太古の昔から生きている神といえど、あれを知っている人間は限られてるから知らなくて仕方ない」と続けた霖之助は、すました顔で眼鏡を押し上げた。
「あなた、アレがどういうものか知っていたの?」
誰もが頭の上にクエスチョンマークを浮かべている中で、唯一話の筋を理解した上でそう問うたのは紫の声だった。霖之助は紫の方は見ずに「まさか」と言下に否定した。
「アレがあんなに危険なものだと知っていたなら、僕はその足で地霊殿の焼却炉にでも放り込んでいたよ」
霖之助はそう言うと、「今から数千年、いやもっと前の話だ」と前置きしてから、話し始めた。
*****************************
「世界に人や妖怪が現れる遥か以前、“外の世界”に存在していた国、シンニッポリ……。そこの生態系の頂点に君臨し、高度な文明を築いていた種族がいた。あの赤ん坊はその彼ら――『森の妖精』たちが作った呪具だ」
外の世界、シンニッポリ、『森の妖精』……そこにいた誰もが霖之助の声を反芻し、しばらくして理解を諦めたかのように困惑した視線を霖之助に戻した。
全員の声を代表したかのように諏訪子が聞いた。
「妖精って、チルノとか大妖精みたいな?」
「妖精とは名ばかりさ。妖精というより……そうだな、鬼に近い種族だ。もっとも、今この地上に存在している鬼たちとは比較にならないほど、強力な存在だったようだけど。……彼らは後世に様々な言葉で表象され、歴史にその名を残している。あるときはアダム、あるときは唯一神マッラー、またあるときは創造主その人、あるいは――」
全員が息を飲んだ。そこで霖之助もおもむろに言葉を区切った。
「彼らがシンニッポリを治めていたとき、外の世界は清く、秩序正しかったという。それは彼らが哲学と呼ばれる学問を推奨し、自らの肉体を限界まで鍛えていたからだと言われているが……。それはともかく、彼らは決闘を行うとき、あの赤ん坊の顔を身につけて戦ったと言われている」
そこにいた全員が息を呑む気配が伝わる。
「あれはいわば聖戦の証。彼ら『森の妖精』の闘争心の記憶が染みこんでいるんだ」
「そっ、それじゃあ、霊夢は……!」
思わずという風に霖之助の言葉を遮った早苗に、レミリアが変わりに答えた。
「あの赤ん坊の顔に闘争本能を刺激され、暴走している――そういうことね?」
「さすがは吸血鬼のお嬢様。その通り……いや、そうとしか考えられない」
そう言って霖之助は霊夢を見た。霊夢の目からはすでに理性の光が消え、ぐったりとして動かない魔理沙をいたぶっている様は、すでにレスリングというよりも殺し合いのそれだった。
「霊夢がレスリングに没頭し始めたのも、全部が全部そうじゃないだろうがアカサンのせいだろう。無論、霊夢に『森の妖精』の加護がある限り、魔理沙に勝ち目はない」
「どうにかならないんですか! これじゃあ反則じゃない……!」
滅多に自分から発言することのない咲夜が、珍しく激情した様子で霖之助に詰め寄る。瀟洒で完璧なメイドのやり場のない熱情――いまや全員の願いと化しつつある言葉を受け止めても、しかし依然として霖之助の表情は動かなかった。
「とにかく、今の霊夢は鬼の腕力と天狗の素早さ、そして吸血鬼の残虐性を併せ持っている。僕らが束になっても勝てる相手じゃない。その闘争本能が鎮まるまで、徹底的に破壊の限りを尽くすだけだ。幻想郷は森の妖精の力の前に為す術なく滅ぶだろう」
「そんな……! 彼女、やっと自分の心に素直になれたのに……これじゃああんまりだわ……!」
どうにかならないのか。その思いを不器用に伝えた咲夜は、その願いが叶わぬ願いだと知って歯を食い縛る。
これでは敗北どころか、魔理沙は二度とレスリングが出来ない身体になってしまう。どうにかならないのか……!? 誰もが焦燥を露にして拳を握り締めた、そのときだった。
「しかし、僕らが束になれば、少なくとも試合をイーブンに戻すことは出来るかもしれない」
その言葉に、全員が弾かれたように顔を上げた。霖之助の眼鏡の奥の瞳は、ほんの少しではあるが笑っていた。
「そこで皆さんに提案がある。――僕の思いつきに、つき合ってみる気はあるかい?」
今の笑顔と同じ、ほんの少しの可能性。ゼロに等しいその可能性にすべてを賭けてみないか。そう提案する声だった。一瞬、呆けたように霖之助の顔を見返した咲夜は、「それはもちろん……!」と言い掛けて、そこではっと口をつぐんだ。
「お嬢様――」
「聞き返さなくて結構よ、咲夜」
レミリアは憮然と言うと、「香霖堂、勝ち目はあるのね?」と言って霖之助の顔を見上げるようにした。霖之助はその瞳をまっすぐに見返した。
「魔理沙は、唯一残された僕らの希望だ。霊夢の動きを数分でも止めることができれば、あとは魔理沙の実力と爆発力がすべてを決する」
「面白い、私は乗った」
威勢よく言い放ったのは、神奈子だった。すぐさま隣にいた諏訪子と早苗が「私も乗った!」「私もです!」と賛同し、アリスも「やるしかないわね」と賛同する声を出した。
霖之助はその宣言に頷き、それからちら、と横を伺った。
「それで、君はどうなんだ? 八雲紫」
紫はその言葉に無言を通したが、やがて太いため息をつき、額に手を当てて首を振った。
「……アカサン、あんなものが幻想郷に持ち込まれていたら危険ね」
イエス、と霖之助は受け取った。「決まりだ」と呟いた霖之助は、コキコキと首を回しながら薄く笑った。
「やれやれ、僕も子離れしないとな。――いくらレスリングといえど、魔理沙が負けるのが面白くないなんて、過保護にもほどがある」
その一言に、その場にいた者たちの間から苦笑が漏れた。過保護であることなど重々承知だ、と唱和する失笑だった。
そこにいた全員が、これから数秒後、あるいは一瞬後に訪れるだろう未来を想像していた。
おそらく、今までの敗北の中では一番無残になるものだろう。その予感は、全員の胸の中にあった。
無残にも霊夢にパンツを剥ぎ取られ、無様に裸体を晒すことになるかもしれない。
せっかく作ったチャンスを掴み切れなった魔理沙は、霊夢を仕留め損なうかもしれない。
しかし――今やひとつになった全員の心のどこかが、そうはならないと反駁していた。
なぜなら、魔理沙はきっと勝つから。自分たちがこじ開けた未来への扉に飛び込み、その先にある栄光の未来をきっと掴み取ってくれるだろうから。自分たちが出来るのは、その可能性を信じることだけだから。魔理沙が勝てば、自分たちのしたことは無駄にはなり得ないから――。
互いの呼吸、血流、心臓の拍動までが一体化し、響き合い、壮大な交響曲のように絡み合ってゆく。
それは幻想郷に真のパンツレスラーの魂が生まれ、青白い火花を出しながら燃え上がった瞬間であった。
「待ってろ、魔理沙――!」
霖之助の言葉と共に、パンツレスラーたちは一斉に地面を蹴った――。
*****************************
ぐわっ、と闇が裂け、魔理沙は起き上がった。途端に、全身の骨が砕けたような激痛が全身を突き抜け、魔理沙は盛大に呻き声を上げた。それでも必死に四つんばいになると、魔理沙はもはやどこが痛むのかもわからない身体で周囲の状況確認に努めた。
頭上には満天の星が輝き、月明かりに照らし出された闇はどこまでも透き通っていた。こりゃあの世じゃなくて現実世界か。激痛に 理解がやってきた刹那、「……魔理沙、おはよう」という聞き馴れた声が背後に発し、魔理沙は痛みも忘れて振り返った。
「香霖……なんでここに……!?」
「おっと、何やってるんだ、なんて……聞かないでくれよ……」
そんなこと言っても、と魔理沙は思った。実際に何をやってるんだ、こいつら。
魔理沙の目に映ったのは、全身を隙間なく押さえ込まれ、うつ伏せに組み敷かれている霊夢の鬼の形相だった。
右手を咲夜と紫が、左手を神奈子が。右足にアリスと諏訪子が、左足には早苗とレミリアが、それぞれ全身で組みついてしっかりと押さえ込んでいる。そして「ぐおおお……!!」とうめき声を上げる霊夢に背中側から圧し掛かり、首をがっちりとホールドしているのは霖之助だった。
想像外の事態を目の当たりにした脳が処理過剰を起こし、魔理沙はぽかんと口を開ける羽目になった。
「なに……やってるんだ……? みんな……」
「馬鹿たれ……! 見りゃ……わかるだろ……!」
神奈子が鼻息を荒くし、額に青筋を浮かべながら答える。「いや、全然わからん……」と馬鹿正直に首を振った魔理沙に、「バカ……アンタのためよ……!」というアリスの言葉が投げつけられた。
「はっ、離せ……! 離しなさぁい……!」
霊夢が発したうめき声に、右腕に取り付いた咲夜と紫が口々に答えた。
「できない相談ね……!」
「可愛い可愛い私の霊夢……でも今は大人しくしていてもらうわよ……!」
必死に身を捩り、まとわりつく腕を振りほどこうとする両の足を、諏訪子とレミリア、早苗がさらに力を込めて締め上げた。
「まり、さ……魔理沙! 何してるの……!」
「今私たちが霊夢さんを抑えています……! はっ、早くアカサンを……股間の赤ん坊を……!」
「何ボケーッと突っ立ってるのよ……! かっ、カリスマの私に、はっ、恥をかかせないで……!」
よってたかって叱咤された脳が、きしむ音を上げながら再び動き出した。
ああなるほど、そういうことか。よくわかったぜ。
こいつら、私にレスリングをさせようとしているのか。
そう理解した瞬間だった。ボロ雑巾同然の身体に不思議な力が沸き起こるのを魔理沙は感じた。
あぁ、こいつらバカだなぁ。
バカだけど、今のお前らは最高にまぶしいぜ、この野郎。
胸の辺りから発した熱は、ほんの数秒で炎のような熱さになった。その熱は心臓が送り出す血流に乗り、指先にまであまねく行き渡って、傷ついた身体を優しく癒してゆく。
立てる。まだ闘える。その確信が何の疑いもなく胸に立ち上り、魔理沙は上半身を起こした。痛みに抗い、もうやめてくださいと懇願する自分をも脇に押しのけて、魔理沙はその場に立ち上がった。
よろめきながらも立ち上がった魔理沙を見て、霊夢が瞠目する。
内臓から骨から散々痛めつけたはずなのに、何故立ち上がれる……!? 修羅の形相を浮かべる顔は、無言の内にそう語っていた。その羅刹の表情に股間の赤ん坊の顔の顔を重ね合わせた魔理沙は、我知らず笑みをこぼした。
「へっ、残念だったな、赤ん坊……。ズルするのは、ここまでにしようぜ」
瞠目した霊夢の顔は、見なかった。
魔理沙は地面を蹴ると、霊夢の身体に取りついた。足を固めるアリスやレミリアの頭を踏んづけるようにして霊夢の股間に手を伸ばした魔理沙は、下から掬い上げるようにして赤ん坊の顔を鷲づかみにした。
グチャ、という生物の体が破壊される生音が伝わり、霊夢の股間に貼りついた赤ん坊の顔に魔理沙の指先がめり込んだ。
「ア゛――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――ッ!!」
霊夢の絶叫が夜の空気を引き裂き、あらゆるものをビリビリと振動させた。
途端に手足に纏わりついた身体を跳ね除けようとする力も倍増したようだったが、誰一人として力を緩めるものはいなかった。その悲鳴は霊夢のものではない。股間に貼りつき、霊夢の身体を支配しているあの赤ん坊が上げさせているのだと、魔理沙は知っていたのだ。
この野郎、よくも好き勝手にいたぶってくれたな……腕の筋肉がここぞとばかりに膨張し、五本の指を赤ん坊の顔にさらにめり込ませると、魔理沙は有無を言わさずにドロワーズを引き剥がしにかかった。
ミチミチ……という音と共に、霊夢が穿いたドロワーズが縫い目から裂け始める。それを見た魔理沙は倍する力を指に込め、がむしゃらに赤ん坊の顔を引っ張った。赤ん坊の顔に五本の指がさらにめり込み、牛乳ともカルピスともつかない粘液が顔の破口から流れ始めた。
「オオオォォ……! ま、魔理沙ァ……! こんなことをして許されると……!」
霖之助の両腕の下から、霊夢の声で赤ん坊が呻いた。
やかましい、黙れよ……! 奥歯が砕けるほどに歯を食い縛る。魔理沙は霊夢の尻に足をかけてつっぱると、全身全霊を込めて赤ん坊の顔を引っ張った。
「おらぁぁぁぁあああぁぁあ!!」
「あああぁぁぁあぁあぁああ!!」
怒号と絶叫が渦を巻いた刹那、布が引き裂ける音がそれに混じった。グチャ、という音と共に赤ん坊の顔が引きちぎれたのと同時に、霊夢の尻を包んでいたドロワーズが体から引き剥がされた。
「や、やった……!」
誰かが叫んだ瞬間だった。霊夢の左腕を極めていた神奈子が弾き飛ばされた。咲夜と紫も宙を舞い、受身を取る暇もなく地面に叩きつけられた。
「このぉっ……!」
霊夢の頭がバネ仕掛けのように動いた刹那、ゴリッという固いもの同士が衝突する音が発し、霖之助の鼻柱に霊夢の後頭部がめり込んだ。パッと鼻血が散り、途端に首を絞めていた霖之助の両腕が緩む。右足、左足に取り付いていた早苗やアリスも霊夢の強力をこらえきれずに弾き飛ばされ、霊夢の五体が自由になった。
「アカサンが……私の切り札が……!」
霊夢が悲鳴にも似た声を上げ、魔理沙の手に握られたドロワーズに手を伸ばす。魔理沙はドロワーズを境内の横の草むらに投げると、霊夢は反射的にドロワーズの消えていった方向に手を伸ばした。
させるか。魔理沙は地面を蹴り、立ち上がろうとする霊夢の腰に突進するようにして組みついた。
不意を突かれた霊夢がバランスを崩し、手をつくことも出来ずに地面に倒れ込んだ。「離して……!」と取り乱したように叫んだ声に構わず、魔理沙は霊夢の首に手を伸ばした。
するり、と霊夢の首に魔理沙の腕が絡みついた。霊夢は慌てその両腕を引き剥がそうともがいたが、そのときには魔理沙の腕は完全に首に食い込んでいた。
魔理沙は膝立ちになると、そのままの格好で霊夢を立ち上がらせた。「うぐ……!」とうめいた霊夢が、どす黒く変色した顔で魔理沙の顔を見上げる。
「なっ、何をする気よ……!?」
「決まってるだろ……! お前を、倒すんだぜ!」
その宣言に、霊夢が瞠目する気配が伝わった。
こいつを倒すためにはこれしかない。そんな声を、魔理沙は確かに聞いていた。
魔理沙もそれに異論はなかった……いや、どこかで予見してすらいた。非才の自分が当代一の天才巫女と呼ばれる霊夢との勝負に勝つには、己が命を削るしかないことを。
この技だけは死んでも決める。そう心に固く誓った魔理沙は、恐怖心も何もかもかなぐり捨てて、霊夢の頭をロックしたまま走り出した。
一歩踏み出すごとに、恐怖感も増した。
徐々に上がってゆくスピードの中、魔理沙は自分が死に向かって走っていることを自覚していた。
馬鹿だとわかっていた。
無茶であることもわかっていた。
しかしそれ以上に、霊夢に勝ちたいという思いは、その他のすべての感情を圧して胸の中に立ち上っていた。
今ここで決める。魔理沙はもう一度誓った。幻想郷やこの世界がまだ不定形に海を漂っていた太古の昔。使用者の命を喰らう代わりに幾多の猛者たちをマットに沈めてきた最終奥義、妖精超特急(フェアリー・エクスプレス)を――!
引きずられるようにして走る霊夢は、進行方向に何があるのかを見て瞠目する。
視線の先にあったのは、博麗神社の大鳥居だった。
過去、如何なる暴風雨にも揺らぐことがなかった大鳥居。それは境内で繰り広げられている喧騒にも動じず、いつもと変わらぬ様子で佇立していた。その鳥居の太い柱が猛スピードで迫ってくる光景を見た霊夢は、魔理沙が何をしようとしているのかやっと理解したようだった。
「あんた……私を倒すのと引き換えに死ぬ気なの……!?」
「お前を倒して死ぬなら、それでもいいぜ……! 最後までつき合ってくれよ、霊夢……!」
「やっ、やめなさい……! やめっ……!」
「これが霧雨式妖精超特急、マスターエクスプレスだぜぇっ!!」
瞬間、魔理沙の怒声と霊夢の悲鳴が交錯した。
事態の行方を見守っていたギャラリーが声を上げる暇もなかった。全員が息を飲んだのと同時に、二人の体が猛スピードで鳥居に吸い込まれていった。
*****************************
それはあたかも、物質同士の対消滅を思わせる光景だった。
不安定で、互い以外には寄る辺を持たない物質同士が融合し、再びひとつになってゆく。その場にいた誰もが、臨界に達した二人の身体が発熱し、溶け合ってゆく様を幻視した刹那のことだった。
すべてを圧する光りが世界中を白一色に染め上げ、続いて、ドン! という衝撃音が大気を揺るがした。
途端に、二人を中心として生じた衝撃波が音速の突風となって荒れ狂った。対消滅によって生じた莫大
なエネルギーはその力を余すところなく拡散させ、砂粒や枯葉を巻き上げながら膨大なエネルギーの波を博麗神社内に押し広げていった。
社殿の障子紙が破れ、固定されていないものは例外なく吹き飛ばされた。神社を囲む針葉樹の木立がざわざわと揺れる一方、空の賽銭箱が地面を転がり、拝殿の鈴までもが千切れ飛んでゆく。
その場にいたものですら、身構える暇もなかった。ぶわんと空気がたわんだと思った瞬間、博麗神社にいた全員が見えない拳に張り倒されたかのように地面に叩きつけられた。
受身の姿勢を取ることができた者は少数で、その場にいたほとんどがモノと化して境内を転がった。何とか決着を見届けようとした者も、やがて吹きつけてきた砂粒混じりの突風に視界を潰されていく。
「何が起こったのよ……!」
そう呟いたのはアリスだったのか、それとも紫だったのか。
吹きつけた突風に打ち据えられ、神社の拝殿近くまで吹き飛ばされた霖之助は、その勢いのまま拝殿の柱に後頭部を強打した。ゴ、という音と共に視界が暗くなり、意識までもが飛びかける。思わず前傾姿勢になってうずくまった霖之助は、たっぷり十秒ほどうめき声を上げる羽目になった。
そのときだった。ギシッ……という耳障りな音が馬鹿になった耳に聞こえ、霖之助は弾かれたように顔を上げた。もうもうと土煙が上がる中、博麗神社の大鳥居は不気味にその身を打ち震わせ、霖之助の目の前で大きく傾いでゆく。
メキメキ……という断末魔の悲鳴が、それを見ていた全員の耳に聞こえた。やがてその身を大きく傾がせた大鳥居は、ゴォン、という臓腑を揺さぶる音と共に砂煙の中に姿を消していった。
しばらく何が起こったのか理解しきれず、何度も打撃を喰らった頭が馬鹿になったのではないかと心配した霖之助だったが、そうではなかった。土煙を呆然と見つめた霖之助の喉だけがかすかに上下し、そこからしわぶきのような呟きが漏れた。
「終わったのか……」
呟いてみても、誰も返事を返さなかった。
咲夜ですら、茫然自失の状態で鳥居が消えていった方向を見ている。時を止める間もなかったのだろうことは、呆けたように開かれた口が物語っていた。
その隣でへたり込んでいる紫も同様だった。豪奢な金髪はすでに土埃に塗れ、あちこち解れて凄惨なものとなっていた。その隣で唖然としているレミリアの顔はすっかり煤けてしまっており、カリスマの片鱗すら見つからない有様だった。
アリス、早苗、神奈子、諏訪子と視線を移動させ、全員が同じような状態になっていることを漫然と理解した霖之助は、もうもうと立ち上る土煙に視線を戻した。
二人分の命を吸い込んだ土煙は、徐々にその勢いを弱めつつあった。痺れた喉がもう一度だけ動き、頭の中に浮かんだたった三文字の言葉を呻かせた。
「魔理沙……」
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魔理沙がはっと目を開けると、暗闇の中にいた。
暫くあたりを見回すと、ギリリと全身が痛んだ。神経を磨り潰すような激痛に呻いた魔理沙は、唯一動かせる口で、あぁ、と嘆息した。
「私は死んだんだぜ……」
急に、可笑しさがこみ上げた。
自分は勝ったのだろうか、負けたのだろうか。彼岸に来てしまえばそれすらわからないのに。今更のようにその事実に気がつく自分の迂闊さに、とめどなく笑いがこみ上げてくる。
霊夢はどうなったんだろう。その想像が頭に浮かんできて、魔理沙は笑うのをやめた。あー……、悪いことにつき合わせちゃったな。そう思った途端、今更ながらに罪悪感が込み上げてきたが、魔理沙はそれ以上考えるのをやめた。
魔理沙の頭は生来の暢気者気質を取り戻しつつあった。気心知れたあいつのことだ。酒でも振舞えば許してくれるだろう。四季映姫が迎えに来て、あいつと直接顔を合わせるまでは楽観を決め込もうと決めて、魔理沙は寝転んだ。
勝利の陶酔とも、疲労とも違う眠気が全身を満たしていた。とても気分がいい。まるで雲の上に寝転がっているようだった。あんな激闘の後だし、身体は無意識に睡眠を欲しているとしても不思議はない。
少し寝るか。そうひとりごちて、魔理沙は目を閉じた。
――寝るのか? だらしねぇな?――
不意に、男の声が聞こえた。だらしねぇ……? その妙な言い回しに、魔理沙は片目だけを開けた。
声の主はいなかった。痛む身体を叱咤して魔理沙が起き上がると、また男の声が聞こえた。
――お前は人の子。人は生まれながらにして、他者と衝突し、戦い合うという宿命を背負っている。時に人は争いに疲れ、今のお前のように己が身の破滅を願うこともある。それは宿命だから仕方ないね――。
魔理沙はうつ伏せになって目を閉じた。うるせー、そんなもん知るか。私は疲れているから眠りたいんだぜ……そう心の中に呟くと、今度は別の男の声が聞こえた。
――だが、そんな宿命を背負っていても打ち破ることが出来る。救いがないなら、自分自身が救いとなればいい。かつて我々は絶望の果てにそれに気づき、この地でレスリングを創始したのだ――。
魔理沙が無言を貫くと、また別の男の声が聞こえた。
――戦うことは、やっぱり怖ぇ。しかし、それでも我々は戦い続けた。肉体と肉体の激突の果てに望む明日が来ると信じた。パンツを剥ぎ取ったその手で、滅びとは違う別の未来が掴めるのだと信じた。しかし、そのときは全てが遅かった。我々は世界を変えることが出来ず、やがて生きる意味を失った――。
小難しい話に、柱に強か打ちつけた頭が痛んだ。なんだこいつら、やたらに哲学的な話をしやがるぜ。魔理沙が顔を上げると、また別の男の声がした。
――結果的に我々は滅びの道を辿った。歴史の敗者として消滅し、人々の記憶からも永遠に忘れされられたのだ。しかし、お前は違う。お前は勝利したのだ――。
その言葉に、魔理沙は身体に不思議な力が沸き起こるのを感じた。なんだと……? と問い返すと、声は続けた。
――お前は博麗霊夢に勝利した。我らが遺した旧世界の残滓をも打ち破り、閉塞の果てに生まれた新世界へと飛翔した。『Girl's next door』……そう呼んでいいだろう。試練は乗り越えられ、この世界は新生の時を迎えた。宇宙誕生の歓喜と放埓……その再現は使いきれぬほどの自由と安寧を意味してもいる――。
――勝利を手に入れたお前にもはや自分を縛る枷は何もない。お前が望めば世界はそれに応えるだろう。お前が願えば何にでもなることができるだろう。悪魔にでも、天使にでも、たとえ蟹にでも――。
まるで一篇の詩を聞いている気分だった。「試したってのか、私たちを……?」と尋ねても、問いが返ってくることはなかった。その代わりに、再び最初の男の声がした。
――お前のような気高き心、折れぬ闘志が備わった者ならば、我々が見たものとは違う形の未来を……もっと健やかな世界を築いてゆくことが出来るだろう。己を戒め、他者を許容し、素直に賛美することができるような、歪みねぇ世界を――。
一つ一つの言葉が、傷ついた細胞を癒していっているかのようだった。ボロ雑巾になった身体が不思議な力に包まれ、力が戻ってくるのがはっきりと知覚できる。それは逞しい腕に抱かれる感覚にも似て、身体の全てを預けてしまいたい大らかさに満ちていた。
あんたたちは一体誰なんだ? なぜ私たちを試した? なぜ試さずにはいられなかった? それが人だから? それが未来へと繋がる唯一の方法だと知っていたから――?
問うて見ても返事が返ってこないことはわかっていながらも、魔理沙が口を開こうとした瞬間だった。まるでそれを悟ったかのように男の声が押し被され、魔理沙は口を閉じた。
――さぁ、もう戻りなさい。そして、自分が望む理想を信じるのだ。それはとても歪みねぇこと……いくら願っても手に入らぬ、我々ですら掴むことが叶わなかった未来、絶対勝者だけに許される安寧――お前はそれを掴んだ。だからここにいてはならない……――。
その言葉は、楽園からの追放宣言のように感じられた。「待ってくれよ……!」とわけもなく狼狽した魔理沙が手を伸ばした瞬間、魔理沙の指先が触れたところの闇が真一文字に裂け、柔らかな光りが世界に満ち溢れた。
あまりのまぶしさに、魔理沙は手で顔を覆った。
白一色に染められた視界に、屈強な男たちの影を見た気がしたが、それも一瞬のことだった。次の瞬間にはその影ですら飲み込まれ、光の中に別れを告げるように男の声が響いた。
――ありがとう、小さなパンツレスラー。我々が掴めなかった未来の姿を見せてくれた、偉大なレスラーよ――。
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眠りの薄皮が裂けるように、魔理沙の意識が身体に戻ってきた。
徐々に焦点が合ってくると、心配そうにこちらを覗き込む無数の瞳が目に入った。
「ここは……?」
血と土埃にかさついた魔理沙の唇がそんな呟きを漏らすと、「気がついたのかい?」という懐かしい声がした。
煤と血で汚れた顔が霖之助らしいとわかるまでにずいぶん時間がかかった。視界がひどくぼやけている上に、霖之助の顔にあるはずの眼鏡がない。にっ、という感じで笑いかけた霖之助に「ああ……香霖か……」と気が抜けたように呟いた瞬間、こちらを覗き込む一人の顔からぼろぼろと涙が零れ落ちた。
「魔理沙……! 馬鹿! 死んだかと思ったわ……!」
そう言ってわっと泣き出し、自分の胸に顔を埋めたのはアリスらしい。疲れきった右腕が動き、アリスの頭を撫でたところで、魔理沙はやっと身体を起こすことができた。
「あ……霊夢は……?」
魔理沙が呟くと、不機嫌そうなレミリアが顎をしゃくった。その瞳が妙に充血していたのは気のせいだっただろうか。「おい、霊夢……?」と魔理沙が言うと、その隣に座り込んでいる咲夜が首を振った。
「命に別状はないようですけれど、気絶しています。まったく……無茶するわね、魔理沙」
「本当に馬鹿ね。私の大事な霊夢が死んだかと思ったわ」
本当に不機嫌そうに呟いた紫の傍で、咲夜が笑った。普段よりも数倍明るい笑顔だった。魔理沙はよろよろと立ち上がると、数メートル離れた位置に伸びている霊夢のそばに腰を下ろした。
なんとまぁ、暢気な寝顔だろう。煤で汚れた顔には額から派手に出血した跡があったが、あの激突の衝撃を思えば軽症だったと言えるかもしれない。ドロワーズまで剥ぎ取られた霊夢の下半身をかろうじて隠しているのは、諏訪子が被っている帽子だった。
魔理沙は、その頬を平手で叩いた。
「おい、起きろ霊夢」
声を掛けると、霊夢の瞼が震えた。暫く経ってから目を開けた霊夢の顔は、数秒の間目をせわしなく動かしてから、突然狼狽した声を出した。
「私のアカサンは……!?」
「無駄だ。もうこの通り、使い物にはならない」
そう言ったのは霖之助だった。霖之助は手にしていたドロワーズをちょっと掲げるようにして霊夢に見せた。
魔理沙の指が食い込んだ赤ん坊の顔は上半分が綺麗にちぎり取られ、生々しい断面を霊夢に見せつけている。もう半分はさっきの衝突の際にどこかへ行ってしまった。そしておそらく、もう二度と発見されることはないのだろう。
「……負けたのね、私」
身体が痛むのか、少し顔をしかめた霊夢の口から出てきたのはそんな呟きだった。魔理沙が苦笑しつつ「いや、ほとんど引き分けだろ、これは」と返すと、そこで初めて霊夢の表情が変化した。
「……鳥居も壊れちゃったし、パンツは破れちゃったし、どうしてくれんのよ……」
「そっ、そりゃ仕方ねぇだろ……?」
「仕方なくないわよ、ばか」
そう言ったものの、霊夢の目は笑っていた。魔理沙もそこでやっと詰めていた息を吐き出すことができた。あれだけの攻撃を喰らってそれだけ言えりゃ御の字か。
そのときだった。ちかっと視界の端に何かが光り、魔理沙は顔をしかめた。
見ると、地平線から太陽が顔を出していた。暴力的とも言える輝きが幻想郷に満ち、魔理沙と霊夢を照らし出すと、さわやかな朝の空気が全身を心地よく冷やしてゆく。
「綺麗ですね……」
「こんな夜明け、久しぶりだなぁ……」
「あーあ、今更眠たくなっちゃった」
肩を寄せ合い、口々に言ったのは守矢神社の面々だった。なんだか気恥ずかしいような気分になり、魔理沙は朝日から逃れるように霊夢に視線を移した。
曙光に照らし出され、霊夢の顔にもさわやかな笑顔が浮かんでいた。魔理沙はそれを確認して、昇ってくる朝日に視線を戻した。
こうして、幻想郷に新しい一日がやってきた。
*****************************
それから三ヶ月が過ぎた、真夏の夜のことだった。
「それで、魔理沙。今日は言わなきゃいけないことがあるの」
急に改まった口調で霊夢が言い、魔理沙は思わず茶を噴出しそうになった。あの後、永遠亭に担ぎ込まれた両者の怪我はひどいものだった。一体どうすればこんなになるんだ、と八意永琳にしこたま大目玉を食らったのも今は昔。全身の筋肉や骨、あらゆる内臓器官が本人たちの自覚のないままズタズタになっており、普通なら歩くことはおろか立っているのですら不可能に近かったのだという。おかしいわね、死体が歩いてるみたい、と首を傾げた永琳にうそ寒い笑顔を返した二人は、それから半年間の絶対安静を申し渡されたのだった。
トレーニングはおろか、弾幕戦ですらご無沙汰している霊夢の体からはすっかりと筋肉も落ち、形だけはすっかりと元の霊夢に戻っていた。霊夢の額にはまだ絆創膏が貼りついているものの、蓬莱の薬が効力を発揮しているのか、傷跡が残る心配もないとのことだった。
てっきり、自分が破壊してしまった鳥居の修理費でも請求してくるのかと思ったが、次に霊夢が言ったのは全く予想外の一言だった。
「あの……その、わっ、私、初めてなの」
「……はぁ?」
思わずそう言った魔理沙は、霊夢の顔を穴が開くほど見つめた。霊夢の顔はどういうわけか赤くなっている。
これは何かがおかしいぞ……そう思った魔理沙に、霊夢はもじもじと続けた。
「私も負けちゃったんだから、ケジメをつけなきゃね。そっ、それはわかってるんだけど……その、どうしても、相手が魔理沙となると、どっ、どうしても言っておかなくちゃいけない気がして……」
「だぜ……?」
次に霊夢が取った行動は、魔理沙を瞠目させた。
霊夢は巫女服の裾をするりとはだけると、輝くように白い肌を魔理沙に向かって晒したのだった。
血圧が急上昇し、魔理沙は縁側に置いた湯飲みを蹴飛ばしながら後ずさった。
「ばっ、馬鹿! お前突然、なにやってんだぜ……!」
魔理沙が顔を背けると、霊夢は四つんばいになったまま魔理沙に近づいてきて、「あら、知らなかったの?」と魅惑的に囁いた。
「レスリングに負けたら、最後は炒飯……。レスリングのルールでは、勝った方が負けた方の体を好きに出来るのよ」
その言葉に、魔理沙は全身の血が逆流する思いを味わった。そんなルールあったのか。道理でみんな炒飯炒飯言ってると思った、と回らない頭で考えた瞬間、霊夢に圧し掛かられ、魔理沙はいとも簡単に組み敷かれた。
全身に力が入らない。高熱にフニャフニャになった頭が「だぜ……だぜ……!」と繰り返すと、霊夢が少しだけ小首を傾げてみせた。
「イヤ?」
ほのかに紅潮し、目を潤ませた霊夢はやたら扇情的で、とても理性を楯に抗えるものではなかった。イヤなわけないだろう、むしろ大歓迎……いや違うやっぱイヤだ。いやいやイヤじゃないんだけどダメだ、とぶんぶん首を振った魔理沙に、「そう、なんだ……」という失望の声が降って来て、魔理沙は顔を戻した。
終わりではなかった。
霊夢が、にこっという感じで笑いかけてきた。
「でも大丈夫。最後には必ず悦くなるから……」
ああああああああ!!
魔理沙は絶叫しようとしたが、喉に力が入らない。あひっ、あひぃという情けない空気が漏れただけだった。抗おうにも、茹でダコのように火照った体が言うことを聞かない。
「魔理沙ここ初めてなの? 力抜いてよ……(迫真)」
目を閉じた霊夢の顔が、ゆっくりと魔理沙に向かって落ちてくる。
こんな淫乱な霊夢見たことないぜ。淫乱霊夢、略して淫夢。これがホントの真夏の夜の淫夢……。
体が強張り、オーバーヒートを起こした頭が何も考えられなくなった。ビクン、ビクンと魔理沙の体が痙攣し、霊夢の柔らかな手が魔理沙のスカートの中に侵入してきて――。
ザァァァ……という長雨のような音が聞こえてきた。
おや? と思った瞬間、顔にかかるしぶきの感覚が、魔理沙の意識を現実世界に引き戻した。
ありゃ、霊夢はどこいった……? 思わず目を瞬き、状況の整理に努めた魔理沙は、そこでやっと自分がシャワーを浴びているのだと気がついた。
どこからが虚構で、どこからが現実だったのか。
本当に、全ては幻だったのだろうか。
骨抜きにされた頭ではすぐにはわからず、とりあえず魔理沙は最低限わかったことを口にすることにした。
「夢、か――」
了
ドスッ、という肉を打つ音が辺りに響き渡り、全身の骨が砕けてしまうような衝撃が全身に突き抜ける。四つんばいの体勢では衝撃を吸収しきれず、博麗霊夢は仰向けに弾き飛ばされた。
体勢を立て直す暇もなかった。猿のような鋭敏さで立ち上がった風祝――東風谷早苗は、神速の身のこなしで霊夢の背後に回って視界から消えた。どこにいった……? 首をめぐらし、敵を発見しようとした瞬間、背後から衝撃が飛んできて、霊夢は為すすべなくその場に蹴倒された。
「ぐあッ……!」
意図せず苦悶の声が漏れたのと同時に、そのまま背中の肩甲骨の真ん中を踏みつけられる。ぐえっというカエルのような声が自分の耳に聞こえたのと同時に、霊夢の身体は容赦なく地面に押しつけられた。何をするつもりだ――? 相次ぐ衝撃に頭が機能不全に陥り、霊夢に対応を遅らせたことが仇となった。次の瞬間、早苗は霊夢の両腕を掴むや、万力のような力で上に引き絞っていた。
「むぉぉぉぉぉん!」
早苗が獣の如く咆哮すると、背中、肩、腕が等しく軋んだ。限界を超えて伸ばされた筋が発熱し、霊夢は絶叫した。
地面と足に挟まれた肺が押し潰され、酸素を渇望する頭がじりじりと発熱する。と同時に、限界を超える負荷をかけられた上半身に激痛が走った。
「私の肩が……!」
思わず苦悶の声を漏らした霊夢の耳朶を、「ギブ?!」という早苗の声が打ち据える。その声に少しばかり正気を取り戻し、必死の思いで霊夢は「まだまだ……!」と首を振った。
こんなやつに負けてたまるか。いざというときは意地だけが全身を苛む苦痛を紛らわせ、胸の中に燃え滾る闘志を呼び起こすことを霊夢は知っていた。歯を食いしばった霊夢は、なんとか酸素だけでも肺に入れなければと身体を持ち上げようとする。抵抗しなければ。ほんの少しだけでもいい、酸素を……!
そう思った瞬間、両腕が今までに倍する力で絞り上げられた。
「ギブアーップ!!」
万力のような力で両腕が引き絞られ、神経が焼き切れるような痛みに霊夢は絶叫した。それでも「ノー、ノー!」と意地だけで呟き続ける霊夢の頭に、早苗の絶叫が引導を渡すように降ってくる。
「早くしないと……腕が壊れちゃいますよ……!」
腕が、肩が、脳が、全身がもうやめてくださいと懇願する声を聞いたような気がした。
限界だ。酸欠でぼうっと発熱する頭が意識を手放そうとする寸前、霊夢は苦痛から逃れたい一心でガクガクと頷いてしまっていた。
ギブアップ。
途端に全身に圧し掛かっていた質量が消失し、両腕が自由になった。押し潰されていた肺に新鮮な酸素がどうどうと流れ込み、肩の激痛が急速に薄らいでいく感覚の中で、脳髄が発熱し、全身に燃えるような快感が走った。
「イった……」
場違いな言葉が、霊夢の唇から転がり出て行った。大量に分泌されたアドレナリンのせいか、それとも酸欠の脳が見せた幻覚か。脳髄を焦がすような恍惚が霊夢の全身を駆け巡る。その絶頂の波に霊夢が身体を震わせた瞬間、穿いていたスカートが無理やり剥ぎ取られる感覚が伝わり、数秒にも満たない至福の時間は終わりを告げた。
「ああっ! 酷い……!」
必死の抗議を柳に風と受け流した早苗は、剥ぎ取った勝利の証しを誇示するように突き出して見せた。
「結構すぐ脱げるんですね」
「……っ、仕方ないわね」
端正な顔を余裕の笑みにほころばせた早苗は、額ににじみ出た汗の球を拭おうともしない。
霊夢は歯を食いしばった。何て奴、こんな激闘を戦い抜いてなお、笑っているなんて。2Pカラー、自分二号、蔑みこそすれ、見上げることなど有り得なかった存在の、一体どこにこんな余裕が隠されていたのか……。
くだらない。霊夢は手で床を叩き、余計な思索の時間を終わらせた。
「さすがは風神・雷神に仕える身だけはあるわね……」
「ふふ……このスカートはバッグで持ち帰らせていただきます」
そう言って、早苗は持っていたスカートを投げ捨てた。
すぐにその妄想をブチ壊して、私の2Pキャラに戻してやろう。自分とあなたの間には、永遠に埋まらない差があると教えてやる。
「それで、どうします?」
「もう一戦よ」
その返答に、早苗がふっ、と噴き出す気配が伝わった。
「もう一回ですか?」
もう勝負はついたのでは? そう言いたげな早苗に、霊夢は反駁した。
「あんまり粋がらないで。準備が出来てなかっただけよ」
早苗が笑みを深くし、「いいでしょう」とその場に膝を突いて四つんばいになった。
試合続行。その意志さえ伝われば、二人の間にそれ以上の言葉は不要だった。不屈の闘志、熱に浮かされ、戦士と化した身体が、その超越的な感応を可能にしていた。
霊夢は早苗の華奢な肩に手をかけると、耳元に囁くように聞いた。
「いい?」
こくり、と早苗が頷く。
瞬間、いや、それはほとんど同時だった。全身の筋肉が膨張し、霊夢は全身全霊を込めて早苗の身体を押し倒した。
「ビビるわぁ……!」
早苗が苦悶の声を上げる。すかさず霊夢は早苗の細い腰に手を回すと、体重を乗せて二度、三度とがむしゃらに猛攻をかけた。委細構わぬ怒涛の攻撃に、早苗の身体がこらえきれずに床に崩れ落ちる。
肉体と肉体の激突の隙間に生まれた千載一遇のチャンスを、霊夢は見逃さなかった。すかさず早苗の腰に回していた手をスカートに伸ばすと、一息にずり下げた。
「これで……同点っ!」
有無を言わさず、膝下まで群青色のスカートを引き下げると、なめまかしい両足が出てきた。構わず足首まで引き抜くと、霊夢は素早く地面を蹴って早苗から離れた。
同点だ。霊夢は剥ぎ取ったスカートを振り回し、「あら、どうしたの?」と余裕の問いを投げつけてみた。
自分の腰を一瞥し、事態の進展を悟った早苗がこちらを振り返る。
鳶色の瞳の中に、悔しさだけではない感情の揺らぎを見つけて、意図せずに霊夢は噴き出した。
「もしかしてアレ? 私の見せかけだけで凄く怖がってるのね?」
図星を指されたらいしことは、少しだけ顰められた眉根が語っていた。早苗の端正な顔が強張り、悔しさに食いしばられた歯がギリ、と小さな音を立てる。まだ戦意を喪失していない目を確かめた霊夢は、無言で右手を差し出すと、早苗に向かってちょいちょいと手招きして見せた。
「さぁ、行くわよ」
その言葉に、早苗も負けじと右手を差し出してきた。立ち上がった早苗の細身が殺気を放ち始めると、再び戦いの緊張が博麗神社の境内に満ち満ちた。
この戦いの中で何倍も大きくなったように感じられる早苗の手が、霊夢の掌と組み合わさる。じっとりと汗ばんだ掌の熱が戦いの喜びを伝え、霊夢に口の端を持ち上げさせた。
「あなた、そんなに私と戦いたいの?」
早苗は唇を真一文字に結び、無言を貫いている。
余計な応答は不要だと教える目に、素直に霊夢も口を閉じる気になった。
右手を組み合わせたまま、じりじりと焼け付くような時間が流れた。
肉食獣の如く慎重に歩を運びながら、早苗の殺気が薄れる瞬間を待つ。ほんの数秒、ほんの一瞬の間でいい。この重苦しい殺気が薄れる瞬間が、きっとある。
永遠にも感じられる数秒が流れ過ぎた一瞬、早苗の視線が足元に落ちた。本人すら意識していないほどの一瞬だったが、霊夢はそれを見逃さなかった。
好機。霊夢はバネ仕掛けの俊敏さで間合いを詰めると、自分の右手で早苗の腕を掬い上げた。一瞬で肘関節が極められ、早苗の右腕が曲がらない方向に曲がった。
「よっこら……あぁーッ!!」
絶叫が、すでに春めいた博麗神社の空気を引き裂いた――。
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「ぐぅ……重い……!」
「ほら、ガンバレガンバレ」
背中にどっかりと腰を下ろした魔理沙に励まされ、霊夢はどうにか身体を持ち上げた。
フン! フン! という荒い鼻息と共に、霊夢は正確な上下運動を繰り返している。上半身に巻いたサラシはすでにじっとりと汗に濡れ、全身から流れ出た汗の球は神社の石畳の上にいくつもの水滴の痕を残している。
もう暦は三月を半ばまで過ぎ、閑静な境内にも春の足音が着々と近づいてくる気配がしているとはいえ、この時期の風はまだまだ冷える。それなのに、何が哀しくてうら若い乙女が昼前から腕立て伏せなんかしてるのか。
見れば見るほど頓珍漢な光景だったが、魔理沙は致し方なく協力していた。
そもそも、こんな勤勉な霊夢は見たことがないと言う方もいるだろう。暢気という言葉が服を着て歩いているのが博麗霊夢という少女であるのは間違いない。確かに、筋トレなんて三日もたたずに放り出していて何らの不思議もないのだった。
「四百……八十一……! 四百八十二……! 四百八十……さん……!」
しかし、今回の霊夢は勤勉だった。
このところ……正確には一月ほど、霊夢はずっとこんな調子だった。
来る日も来る日も、こうだった。
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現在、幻想郷ではレスリングが大流行中であった。
朝起きてもレスリング、昼寝していてもレスリング、夜寝る先に立ってもレスリングだった。
人間の里の店先には米や芋の変わりにプロテインが。道具屋の前には鍋釜ではなく鉄アレイが。 飯屋には蕎麦や丼ものではなく餡掛け炒飯が並べられるようになり――しかもそれは飛ぶように売れた。ちょっと奮発して香霖堂まで行けば、レスリングに好適なスパッツやブリーフパンツ、ケツワレサポーターまでもが手に入る。物的にはなにひとつ不自由しない環境が整備されたことで、レスリングブームは急速に人々の間に浸透していった。一体どういうルートでこれらが幻想郷にやってくるのかは全く持って不明なのだが、気にする者もいなかった。
ルールは特になく、試合開始は常にフルコンタクト。道ですれ違ったとき、仕事をしているとき、食事をしているとき、トイレで用を足しているとき。相手と目が合って、相手がそれに応えればレスリングが開始され、どちらかが試合続行不能になるまで続けられた。それはルールというよりも、そうしなければ一度火がついたレスラーの闘争本能が治まらない故の一種の知恵だったのだが、その結果、毎日毎日どこそこの誰々が夜通し戦い抜いたという武勇伝が耳目を騒がせるようになった。
来るべきそのときに備え、大人から子供、妖怪たちも毎日身体を鍛え、プロテインを貪り、ガチムチ兄貴ならぬガチムチ姉貴が我が物顔で往来を闊歩するようになった。すでに激しい運動をすることが適わない老翁たちでさえも、あぁレスリングがしたい、死ぬ前に餡掛け炒飯が食べたいなどとと呟いているという有様だった。
とにかく、こうした背景によって幻想郷にはにわかレスラーが量産されていったのである。
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直接の始まりは、ちょうど一月前の昼下がりだった。
紅魔館から本を強奪し、悠々と博麗神社へ足を伸ばした魔理沙が見たものは、一心不乱に神社の石段を兎跳びで駆け上がる霊夢の後姿だった。
あのグータラ巫女、まさかダイエットだぜ? 当たりをつけ、からかってやろうと降下してきた魔理沙に向けられたのは、しかして「弾幕はもう古い。これからはレスリングの時代よ!」というまさかの宣言だった。
いつもは流行など追いかけぬ霊夢だったのだが、今回ばかりは何か感応するものがあったらしい。事実、霊夢は自分の言葉が嘘でないと証明するかのように、その日から一心不乱に肉体の研鑽に努め始めたのだった。
どうせ三日もすれば飽きるぜ、三日坊主ならぬ三日巫女だぜ……とたかをくくり、分社の相談にやってきた早苗と一緒に大笑いして眺めていたのも今は昔。そのうち霊夢は、毎日のように分社の交渉にやってくる早苗に対して「私が負けたら分社を認める」という条件の下、毎日レスリングをけしかけるようになったのだった。早苗も早苗で、クソ真面目が身上と言われる人となりを体現するかのように、その誘いに快く応じてしまったのがいけなかった。
それからの日々は特段語るべきこともない。早苗はパンツまで剥ぎ取られた挙句、霊夢に頚動脈を圧迫されてオトされているのが日課となり、霊夢は毎日毎日筋トレに励むようになったのだ。
幻想郷の人々は知らず知らずのうちに戦いを欲していたのだ、と魔理沙は思う。幻想郷が結界によって外の世界と隔絶されてから、はや百年が経つ。そのうち新たにスペルカードルールなるものが考案され、際限ない暴力の拡大が抑制される一方、妖怪同士の暴力行使ですら弾幕戦の発明によってあまねく鎮まることになった。結果、幻想郷の中は年に数回起こる異変をのぞいて、平和が常態になった。妖怪は牙を失い、人間は気兼ねなく惰眠を貪るの生活。結界の中の百年は、そのまま絶対的な平和の歴史でもあったのだ。
しかし本来、妖怪に負けず劣らず人間という生物も業深き生き物である。己の中に眠る闘争本能や暴力衝動を抑えられない人間は、知らず知らずのうちに憤懣を蓄積させていったのではないか。それがたまたま今回、レスリングという形でもって発露した――魔理沙はそう考えていた。紫や永琳辺りに言ったら失笑を食らいかねない突飛な意見であることはわかっていたが、近場で見ているうちにはそうとしか思えないのだ。
というのも、何を隠そう、魔理沙自身もレスリングブームの恩恵を蒙る一人だったのである。
森から取ってきた何の変哲もない食用キノコに『プロテインキノコ』などという名前をつけて売り出せば、効力の有無に関わらず飛ぶように売れるのである。すでに数百個を売り上げ、あと半年は食うに困らないほどの儲けを出していたのだった。
霊夢の情熱を否定することは自分のシノギを否定することにもなる。それゆえ、霊夢のしていることを闇雲に否定する気にもなれず、今もこうして霊夢のワークアウトにつき合っているのだった。
「四百……きゅうじゅう……きゅう……! ……五百!」
ぶはあっ、と熱い呼気をいっせいに噴き出して、霊夢は胡坐をかいた身体を後ろ手で支えた。
「お疲れさんだぜ」
霊夢の背中から降りて声をかけた魔理沙に、突き出された親指と額に光る汗の珠のきらめきが応えた。
魔理沙は、あらためて霊夢の身体を見てみた。いい具合に筋肉がつき始めている。
前言撤回だ、と魔理沙は首を振った。
やっぱこりゃ大問題だぜ。ビジュアル的に。
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「ぐおお……! はっ、離せ……!」
バンバン、と早苗の腕が石畳をタップする音が、境内に響き渡る。
霊夢の両腕にしっかりとホールドされた端正な顔が、見る見るうちに不気味な赤に変色してゆく。
「これで……十二勝ゼロ敗よ……!」
十数秒後、早苗の全裸体がゆっくりと動きをやめ、弛緩していった。両腕が力を失い、やがて重力法則に従ってだらりと垂れ下がると、早苗の唇の端からつっ、とよだれが流れ落ちた。それを見た霊夢が手を離すと、気絶した早苗の身体が石畳に崩れ落ちた。
霊夢は勝ち誇ったように早苗の身体に足を乗せ、勝利の笑顔を魔理沙に向けた。
おーい、大事なところをそんなにおっぴろげんなだぜ。
魔理沙は自分の心の中の独白が霊夢に伝わるのを期待したが、無駄だった。霊夢は誰にともなく二の腕の力こぶを誇示し、心底嬉しそうに自らの肉体を誇示している。
それにしても、と魔理沙は思った。このところの霊夢の肉体の変化には目を見張るものがある。
乳白色の肌には太い血管が這い回り、筋肉が描き出す陰影は日増しに濃さを増してきている。太ももなぞはすでに魔理沙の胴体の半分ぐらいの太さにはなっており、後二十日もすれば腹筋は見事な六つに割れたものになるだろう。今はまだダンサー系の理想的なボディライン、と言える程度のものだが、このままのペースで特訓が続けられれば、数ヵ月後には確実に……。
「何? 私の顔になんかついてる?」
ついてるのは筋肉だ。律儀に突っ込んでから、魔理沙は首を横に振った。
いかんいかん、危ない危ない危ない。一体何を考えてるんだ私は。「い、いや……なんでもないんだぜ」と言葉を濁して顔を背けた魔理沙は、不意に人の気配を感じて顔を上げた。
「……来たか」
まず最初に石段を登って現れたのは、魔理沙の膝丈にも満たない身長の西洋人形だった。体中を華やかに飾りつけられた西洋人形は、それ自体意思があるかのようにぴんと立ち、危なっかしい足取りでこちらに歩いてくる。
数秒後、その人形の後を追うようにして、見慣れた金髪頭が姿を現した。
「よぉ、悪い悪い。取り込み中だったかだぜ?」
「あなたに呼び出されること自体が取り込みよ……こんな石段登らせて」
そう言って、アリス・マーガトロイドは拳ひとつ分ほど低い魔理沙の顔をやぶにらみににらみつけた。
「まぁそう怒るなよ。悪かったと思ってるんだぜ」と苦笑しつつ足労をねぎらった魔理沙にこりともせず、アリスは「で、霊夢がおかしくなったってどういうこと?」とぶっきらぼうに問うた。
魔理沙はくい、と顎で境内の奥をしゃくった。怪訝な顔で示された方向を見たアリスの目に、困惑とも驚愕とも取れない複雑な色が浮かんだ。
「どう思うんだぜ?」
「医者が必要ね」
「まぁそう言うなだぜ」
にべもなくそっけない一言を投げつけたアリスに、魔理沙は頭を掻いた。
「頼むぜオイ。医者が要るっていうのはわかるけど、その前に説得ぐらいはしたいだろ?」
アリスは答えない。それどころか、こんな奴のために私を……という露骨な怒りを隠そうともしないアリスの目は、一秒経過するごとに冷たさを増していっているのがわかる。
関わり合いになる前に帰らせろ、と訴えるアリスの無言の抗議に、魔理沙は弁護の言葉を並べ立てた。
「なぁ頼むぜ。レスリングは今流行のスポーツだけど、さすがに主人公の霊夢から弾幕を捨てちまったらシリーズが続けられないぜ」
「そんなの私には関係ないでしょ?」
いや、ちょっとは関係あるだろう。さすがの魔理沙もムッとして口をつぐむと、アリスは太いため息をついた。
「帰る」
一言言い捨てると、アリスはさっさと踵を返してしまった。「お、おい! そこをなんとか頼むんだぜ!」と魔理沙は去り行く手首を掴むと、我武者羅に引き止めた。
「ち、ちょっ、離して!」
「なぁ頼むんだぜ! こんなアホな頼みはお前以外に頼めないんだぜ!」
「とにかく私は関係ない! というか関係したくない!」
「関係大アリだろ! 今度異変が起こったらあんな筋肉ダルマが解決することになるんだぜ! あんな筋肉ダルマが空飛ぶんだぜ? それでもいいんか! そんな奴と一緒に異変解決することになったらどうすんだぜ!」
必死の説得に、アリスがぐっと詰まった。確かに、あんなのと並んで非編解決なんてさせられた日にはたまらない。暑苦しくて汗臭くて、おちおち弾幕避けなんかしていられないだろう。
がっちりと掴んだ手首にかかる負荷が急になくなり、アリスがため息をついた。魔理沙が懇願するように手を合わせると、アリスは力なく首を振った。
「……説得すればいいのね?」
「おう、頼んだぜ」
「ひとつ貸しよ。後で覚えておきなさい」
最後の最後で恐ろしい一言を言い捨てて、アリスはしゃなりしゃなりと霊夢に向かって歩き出した。
「霊夢!」と魔理沙がその後ろから声を上げると、それに反応した霊夢が派手に相好を崩した。
「おっ、魔理沙とアリスじゃない。久しぶりね、最近どうなん?」
サラシとドロワーズ一枚という頼りない装備にもかかわらず、こいつのこの明け透けな笑顔はなんなのか。今更ながらに半ば呆れた魔理沙に構わず、アリスはにこりともしない顔で「どうしたもこうしたもないわ」とぶっきらぼうに応じた。
「アンタ、さっきから一体何やってるのよ。何か変なものでも食べたんじゃないの?」
「お、おい……」
いきなり本質に迫る一言に肝を冷やした魔理沙だったが、杞憂に終わった。友人の気遣いにも関わらず、霊夢はあからさまなトゲも意に介さないように「ハハッ、仕方ないね」とさわやかな笑顔を崩さない。
「それにしてもアリス、アンタいつからいたのよ? いやぁ今の試合は見せたかったわ。早苗もなかなか強くなったもんね。さすがの私もドロワーズの中に手を突っ込まれたときはもうどうしようかと……」
「魔理沙から聞いたわよ。あなた最近、早苗と裸で取っ組み合いばっかりしてるらしいじゃない。萃夢想じゃあるまいし、一体どういう風の吹き回しなのかしら」
えっ、という風に目を丸くした霊夢は、自分の身体を一通り見渡してみてから言った。
「どういう風の吹き回しって、見りゃわかるじゃない。レスリングよ」
アリスのその言葉に、霊夢は顔色ひとつ変えずにキョトンとしてみせた。「見てわからないから質問してるんじゃない」というアリスの苛立ちの言葉にも、霊夢は表情を変えない。
「まぁいいわ。とにかく、あなたは金輪際、レスリングは禁止よ」
「あぁん? なんで?」
口を尖らせた霊夢に、アリスはほとほと困ったという風に額に手をやった。
「どうしてもこうしたもないの。第一、今のあなた、説明して理解するわけ?」
「レスリングこそ弾幕に代わる今最もナウい競技じゃない。魔物退治のエキスパートである博麗神社の巫女なら、いざってときのために身体を鍛えておくのは当然でしょ?」
「ほら、やっぱり理解してないじゃない」
その言葉に、珍しく霊夢がむっとする。
「だってそういう競技なんだもん。最初はちゃんと着てたわよ。でも脱がされたの。見せかけだけで超ビビってるな?」
「そういうことじゃない。話を聞きなさい」
「何よさっきから。異変解決のために巫女が裸になる……何の問題ですか?」
「そういうことじゃなくて……」
「あ、わかった。アンタ私の肉体があんまりにも美しいから嫉妬してるんでしょ? この歪みねぇ肉体を作るのに一体幾日かかったかと……」
「そういうことじゃないって言ってるでしょ!」
ついに堪忍袋の緒が切れたという感じで叫んだアリスの足元に、いつの間にか西洋人形が軍隊よろしく整列していた。「お、おいおい……」と止めに入ろうとする魔理沙に構わず、アリスはトン、と地面を蹴ると、重力から解き放たれたかのようにふわりと浮き上がった。
「言ってもわからないなら、身体に教えるしかなさそうね」
分からず屋には弾幕戦……幻想郷の鉄の規律を遵守し、それを今履行すると明確に宣言したアリスに、魔理沙は改めて目頭を揉んだ。もう滅茶苦茶だ。
博麗神社の境内に薄く堆積する砂粒が渦を巻き、風が吹き抜け、ごう……という風の音と共に枯葉が巻き上がると、人形たちも同じようにふわりと浮き上がる。生暖かい風の勢いが徐々に強くなってゆくと、境内に転がったままの早苗の長髪も風に弄われる塵のひとつになった。
魔理沙は慌てて全裸で気絶している早苗を抱きかかえると、そばに捨てられていたスカートで裸体を覆い、邪魔にならない位置に引っ張っていった。もうこうなったらどうにでもなれ、とやけっぱちに呟いて、魔理沙は「死なない程度にやるんだぜ!」と大声を出しておいた。
その声を聞いたのか聞いていないのか、アリスは何もない空間に手をかざした。同時に、アリスの周囲にいくつもの光球が出現し、ジジジ……と空間を焦がすかのような音を立てて、その数はあっという間に数十個まで増えていった。
「さぁ、遠慮は無用よ。全力で……」
言いかけた瞬間だった。霊夢の身体が猫科の生物のように動き、アリスの足に飛びつくと、体重そのままに思い切り下に引っ張った。
「なっ……!」
アリスが短い悲鳴を上げたのと、あ、と魔理沙が声を出したのとほぼ同時だった。
不意を疲れてバランスを崩したアリスの細身が傾いだと思った瞬間、光球は消え、ゴツ、という鈍い音が発した。
後頭部を痛打し、目を白黒させているアリスに馬乗りになった霊夢は、「そういうことなら、喜んで」と唇の端を持ち上げて見せた。
「ちょ、や、やめなさい! 一体何を……!」
「へい、構わねぇ、殺すぞ」
叫ぶが早いか、霊夢はアリスの身体に飛びつくと、いとも簡単にうつ伏せにひっくり返した。「や、やめなさい! あなた麗しのレディーになんてことを……!」と絶叫するアリスの背中にどっかりと腰を下ろした霊夢は、じたばたと暴れる両足を抱えるや、その足を掴んだまま思い切り反り返った。
「ああああああ! あっ、あなた、どういうつもり……ああーっ!」
キレイな逆海老固めが極まり、アリスが悲鳴を上げる。霊夢は「どうよ! どうだっ!」と威勢のいい掛け声と共に、ますます力を込めてアリスの身体を曲がらない方向にひん曲げる。
「こっ、こんなことをして……! ぶっ、無事に済むと……ぐおおおおおお!!」
アリスの必死の抗議は、霊夢の更なる攻撃によって阻まれた。霊夢はアリスの両足を離すと、アリスの首にするりと腕を回し、ヘッドロックを決めたままぐいと引っ張りあげた。 ヨロヨロと立ち上がったアリスが霊夢の両腕を外そうともがいたが、霊夢のたくましい両腕がそれを許さない。
「まっ、魔理沙! とっ、止めて……! 止めなさい……!」
アリスの要請にも、魔理沙は動くことができなかった。
右手で頭をロックしたまま、霊夢が中腰の状態で身動きが取れなくなっているアリスのスカートの中に手を伸ばした。パァン、という乾いた音が発した。霊夢がアリスの尻を思い切り叩いたのだった。「痛ぁ!」と悲鳴を上げたアリスに構わず、霊夢はスカートの中のパンツをしっかりと掴み取る。
「おっ、お願い、止め……あっ、ああ……いやぁあぁぁあぁ!!」
霊夢のたくましい二の腕が膨張したかと思った瞬間、アリスが穿いていた純白のパンツがぐいと引っ張り上げられ、引きちぎれんばかりに伸び上がった。
さらに霊夢が力を込めて引っ張ると、アリスの身体が冗談のように宙に浮き上がった。
「ああっ! あああーっ! いやぁぁぁぁぁあああああ誰か止めてええええええ!」
聞くに堪えない悲鳴の中に、ミチミチ……という布の千切れる音が混じったのを魔理沙は聞き逃さなかった。
おまけとばかりに霊夢がさらにパンツを引き上げると、ブチッ……という不気味な音が発し、アリスの身体がべちゃりと地面に叩き落された。
「はっ……はっ……あはは、勝利ぃ~! 結構すぐ脱げるんだね! 仕方ないね!」
霊夢が鬨の声を上げ、手にした布切れをぱたぱたと振り回した。
それが無残に引きちぎれたパンツであるという理解が遅れたのは、単にその布切れが丸まっていたからではないだろう。幼馴染と言える人間が、同じく友達と呼べるような関係の乙女の股座に手を突っ込み、そこからパンツを奪い取るという異常事態を目にした頭が処理過剰を起こし、機能を停止してしまったのだった。
数秒経って、止まっていた頭の回転がゆっくりと通常運転に戻ってくると、魔理沙はやっと口を閉じることができた。長時間開きっぱなしだったらしい口に砂の味が広がり、ジャリ、という身の毛もよだつ音がしたが、却って馬鹿になった頭を回すのに効果を発揮したようだった。
「あっ、アリス……」
名前を呼んで見ても、スカートのすそを押さえたままうつ伏せになった身体は微動だにしなかった。
魔理沙はアリスの傍に駆け寄ると、「だっ、大丈夫か……?」と問うてみた。
アリスの身体が、うっ……うっ……という嗚咽と共に震えていた。「アリス……」と魔理沙が肩をゆすると、アリスが呟くように言った。
「もう……お嫁にいけない……」
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空を飛ぶ影が、月の真ん中を横切ってゆく。
いくつもの木立を飛び越え、川を横切り、風に吹かれながら飛んでゆく箒は、しかし風と呼ぶには相応しくない、ふらふらとやたら危なっかしい飛び方で飛んでゆく。箒にまたがった魔法使い――霧雨魔理沙は、じんじんと痛む頬をさすりつつ、自分の家があるはずの魔法の森を目指して飛んでいた。
数十分も飛び続けると、こんもりとした森の形が見えてくる。名も知らぬ巨樹たちが枝葉を広げて、日中でも日の光りが届かぬ原生林は、今は影そのものとなってとっぷりと闇に沈んでいる。魔理沙は闇夜に目を光らせ、枝と枝のわずかな隙間に降下して行った。
地面に足がつくと、魔理沙はその場にへたり込みそうになった。今まで跨っていた箒を杖代わりについて何とか身体を支えた後、魔理沙はふらふらと歩き始めた。
頬がヒリヒリと痛むのは、アリスに思い切りひっぱたかれたからだった。なんで私を殴るんだぜと文句もつけたくなったが、もうお嫁にいけないと泣きじゃくるアリスを見れば引っ込めなければならない不満だった。箒で家まで送ると精一杯の謝意を示した魔理沙に、アリスはしばらく誰とも会いたくないと放心状態で告げ、裾を気にしながらフラフラとどこかに行ってしまった。
霊夢は霊夢で、さっぱりと目を覚まさない早苗を担ぎ上げて守矢神社へ行ってしまい、結局、魔理沙だけがぽつねんと博麗神社に残されたのだった。
大体、と魔理沙は思った。アリスのやつ、説得しろとは言ったが、弾幕遊びで勝負をつけろとは言ってないぜ。あんなにえっちぃ声出して騒ぎやがって、人が来たらどうするんだぜ。あの現場を見られたら100%勘違いされるぜ。まったく、あんなことになるなら、いっそ自分が最初からレスリングをしておけば……。
刹那、「ずいぶんお疲れのようね」という声が背後に発し、魔理沙は三センチほど飛び上がった。
慌てて後ろを振り返ると、夜の闇がグググ……と歪み、魔理沙が見ている前でパックリと裂けた。裂け目は徐々に大きくなって行き、中から少女と言って差し支えのない顔が覗いたのを見た魔理沙は、大げさに顔をしかめた。
「やっぱり紫か……」
「あら、なによその顔。私と出会うのがそんなに嫌なのかしら」
この幻想郷最強最古の物の怪にして、風変わりなスキマ妖怪――八雲紫は、闇夜にもはっきり浮かび上がる白い顔でくすくすと笑声を漏らした。
冗談じゃない、と魔理沙は心中に毒づいた。疲れてるときには一番会いたくない、胡散臭い奴。「分かってるじゃないか、とにかく、明日にしてほしいんだぜ」と言ってさっさと踵を返した魔理沙に、紫は「お待ちなさい」と引き止める声を出した。
「なんだよ。妖怪は違うのかもしれないけど、人間はもう寝る時間なんだぜ」
「さっきのことなんだけど、あなたのお友達の人形使いがここを通ったの」
魔理沙の嫌味など聞いていないという言うように、紫は勝手に話し始めた。「あぁ……」と曖昧に応じた魔理沙に、紫は次の言葉を続けた。
「どういうことかわからないけど、彼女、ちょっと様子が変だったように思うのだけど」
「泣いてたって?」
「いえ、スキップしてたわ」
スキップ、どういうことだ。「なんでだぜ」と不満な声を出した魔理沙に、紫は「さぁ?」と涼しげに応じる。
「私も尋ねてみたの。けれど彼女、私と顔を合わせた途端にスカートの裾を気にしながら逃げて行ったわ」
暗闇にぬらぬらと光る両目が好奇に光っているのを見て、魔理沙はこのスキマ妖怪が自分に何を求めているのか理解した。
「……別に、何かあったわけじゃないぜ。あいつがもうヨメにいけないって泣くもんだから、『もしそうなったら、私がヨメに貰ってやるぜ』って言っただけだぜ」
「あぁ、なるほど」
話の要諦は喋らなかったはずだが、何を得心したのか、紫は妙に納得した表情で頷いた。魔理沙が器用に片眉だけひそめると、スキマ妖怪は続けた。
「けど彼女、よっぽど憔悴してたわ。あなた、もしかして何かしたんじゃないでしょうね?」
「何かってなんだ?」
「そりゃ、夜這いとえっちぃこととか」
「誰にだ?」
「彼女によ」
「なんでだ?」
「だから、それを聞いてるんじゃない」
「何をだ?」
「……ムカつくわぁ、本当に」
「お互い様だ」
珍しく表情を曇らせた紫はそれでも次の瞬間には薄笑いを浮かべ、「それにしても、最近不吉な噂を聞くのよねぇ」と話を変える一言を発した。
「なんだ、まだ続くのか?」
「最近、博麗神社の巫女が狂った、とか」
意外ともやっぱりとも思える言葉に、魔理沙の胸が冷たくさざめいた。
大きく嘆息した魔理沙に合点が行ったのか、紫は「事実なのね?」と確信的な問いをよこす。その視線には答えず、魔理沙は「……誰から聞いた?」と水を向けてみた。
「幻想郷のあちこちで聞いてるわ。何でも、守矢神社の風祝を裸に剥いて強姦したとか」
「……お前、それ本気にしてないよな?」
紫は無言だった。どこでどう尾ひれがついたものか。人間が垂れ流す噂のいい加減さにしばし絶句した魔理沙は、返答を求めて無言を押し通す紫に力なく首を振った。
「確かに裸に剥いたのは事実だけど、強姦はしてない。多分」
「多分?」
「もういいか?」
「よくないわよ」
ムッとした声で頬を膨らませる紫に、かといっていちいち事の仔細を話す義理があるわけでもない。否、これ以上余計な情報を提供して、霧雨魔法店の店主が共犯などという噂を立てられた日には堪らない。
魔理沙は「本人に直接聞いてみてほしいぜ」とそっけない声で応じ、今度こそ紫に背を向けた。
「待ちなさい」
ぐ、と肩を掴まれ、魔理沙は歩みを止めた。見ると、空間の裂け目から白い手が伸び、無遠慮にも自分の肩を掴んでいる。
こいつは一体何がしたいんだ。魔理沙はくるりと振り返ると、「だから知らないって言ってんるだぜ……!」と少し声を荒げた。
「霊夢がレスリングにハマって、アリスのパンツをムリヤリ剥ぎ取ったなんて友達の私の口から言えるわけないだろっ!」
自分でも意図しなかった大声が森の木立を震わせ、驚いたカラスが闇夜に一斉に飛び立った。
森全体が揺れたかのようだった。一瞬、すべての音が途絶え、紫の目がキラリと光った。
「レスリング、ですって……」
ちょっと信じられないという風に紫は表情を緩めた紫は、ふっと笑声を漏らした。
「そう、やっぱりそうなのね。……ちょうどいいわ」
紫の独白には、どこか楽しげな響きがあった。
なんだこいつ、と魔理沙が思った刹那、「それじゃ、ごめんあそばせ」とワザとらしい挨拶を残して、紫はそそくさと隙間の中に消えていった。
八雲紫が博麗神社の巫女に裸に剥かれて強姦されたらしいという噂を魔理沙が聞いたのは、その夜から三日後のことだった。
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「レスリングがしたいわ、咲夜」
館の主――レミリア・スカーレットはそう言いつつ、カップを傾けた。薄暗い紅魔館の高い天井にその甲高い声はよく響いた。
このところ、下々の間で流行っているレスリングに、レミリアもすっかりと“お熱”を上げていた。
毎日日傘を差してあちこちに出かけて行っては下々がレスリングに興じているのを観戦したり、香霖堂からレスリングの模様が撮影されている“げいびでお”なる活動写真を取り寄せて一日中鑑賞したりしていた。現在も、純白のテーブルクロスの上にはスコーンの替わりにとんがりコーンが、ケーキの替わりにアップルパイが、紅茶のカップの中には林檎コーヒーなる未知の液体が入っていた。
「かしこまりましたお嬢様。では早速私がお相手に」
答えたのは、隣に立つ完全で瀟洒なメイド――十六夜咲夜だった。両手を前に出し、何かを揉みしだくように指をわしわしと動かすメイドに、レミリアは「やめろ」と低い声を出した。
「いくら私がカリスマでも、人間のあなたに相手は務まらないわ。潰さないようにアリを踏むのは力の加減が難しいんですもの」
「なんでもします。鍛えろとおっしゃるなら鍛えます。触れと言うなら喜んで触ります。どんなにガチムチにでもなります。ですから是非是非お相手させてください」
再び指をわしわしとさせ始めた咲夜に「やめろつってんだろ」と低く応じて、レミリアは嘆息した。
「私は吸血鬼よ。カリスマの私の相手にふさわしい相手を探してきて欲しいの」
「ですから私が……」
「次言ったら肩パンするから」
レミリアの肩パンは痛かった。一発喰らったら思い出が十個ぐらい消えてしまうほどに痛かった。瀟洒という言葉が服を着て歩いているような咲夜も、さすがに口を閉じるほかなくなった。
「ならばウチの美鈴などはいかがでしょう。彼女はすでにレスリングに取り憑かれたマシーンと化していますし」
瀟洒なメイドが答えると、レミリアは「あの子はねぇ」と苦笑して見せた。
確かに、咲夜が言った通りだった。一ヶ月前からレスリングの輩と化していた美鈴は、もともと拳法の使い手である蓄積があったせいなのか、技の飲み込み、ガッツ共に申し分ない。さらに加えて身長も膂力もそれなりにあるために、そのレスリングの上達ぶりには目を見張るものがあった。
ちょっとの間逡巡して、結局レミリアは「ダメ」と首を振った。
「あの子はダメだわ。いくらなんでも紅魔館の可愛い僕にカリスマの私がレスリングをけしかけるわけにはいかないもの」
「ですから私が手取りナニ取り」
パァン、という景気のいい音が発して、咲夜の口から鮮血が迸った。びちっ、と自分の太ももに降り注いだ血を指で掬って舐めてから、レミリアはため息をついた。
「どこかに私の相手が務まる猛者はいないかしらねぇ」
言ってみてから、レミリアは咲夜を見下ろした。咲夜は口から出た血を拭っている最中で、レミリアの視線に気づいていない。
ほっ、とレミリアがカリスマため息をついた瞬間、「ならば、私が」という別の声が紅魔館の空気を微震させ、レミリアは顔を上げた。
「何奴……?!」
咲夜が振り返り、ナイフを構えるのをレミリアが制した。
「これはこれは……」と牙をちろりと覗かせて嗤ったレミリアの前に、紅白の巫女服をまとった影――博麗霊夢が現れた。
「珍しいわね、霊夢。ちょっと見ないうちにずいぶん体が逞しくなったこと」
「そうね。相変わらず広い屋敷で嫌になるわ、ここは。アンタこそ、つい最近は岩に隠れとったのか?」
余裕の笑みで答えた霊夢に、いつもは瀟洒な咲夜が顔を険しくした。「霊夢、ここに何をしに来たの……!」と敵に応じる声を出した咲夜に、霊夢はこともなげに言ってのけた。
「何って、決まってるじゃない。レミリア・スカーレットとレスリングをしに来たのよ」
霊夢が言うと、場違いな沈黙が紅魔館を支配した。
まず最初に沈黙を破ったのは、レミリアだった。
レスリングですって? 馬鹿にするように吹き出すと、レミリアはそれから暫くの間高笑いを続けた。たっぷり一分近くも嗤い続けたレミリアは、今度は子供に言って聞かせる声を出した。
「ねぇ霊夢、落ち着いて聞きなさい。いかにあなたが博麗神社の主とは言えど、あなたは人間よ。そのことを忘れたのかしら?」
紅魔館の当主に相応しい余裕の問いにも、霊夢はわずかに笑みを深くしただけだった。
「あっそう。それが何の問題ですか?」
「だからなに、ですって。いいわ、じゃあ教えてあげましょう。吸血鬼である私が本気を出したら、あなたなど一捻りだと……」
そこでレミリアが喋るのを止めたのは、霊夢の手に握られた物体の存在に気づいたからだった。陰になっていてよく見えない。あれはなんだ……と目を凝らした瞬間、レミリアの紅い瞳が見開かれた。
「あぁコレね。ちょっとした戦利品よ」
今更気づいた、という体だった。霊夢は手に握った“それ”を自分の前に持ってくると、一気に空中に放り投げた。
「こっ、これは……!?」
咲夜が声を上げた。
桜の花びらの如くひらひらと空中を舞ったのは、パンツだった。それも一枚や二枚ではない。十数枚のパンツが空を飛び、きりもみ回転し、その中の一枚が頭に落ちてくる。反射的にそれを取り上げてみて、咲夜は瞠目した。
この黄色と黒のスパッツ、これは確か……。
「これは……美鈴のスパッツ……!? 霊夢、お前、美鈴(他人)のモノを……!?」
「美鈴? 知らないわね。あ、あの邪魔な門番のことかしら。あいつだったら、かるーく揉んでやったけど」
揉んでやった。その言葉に、咲夜は息を呑んだ。まさか、そんな馬鹿な。いくらサボり癖がひどいといえど、美鈴は本気で闘り合ったら咲夜ですら無傷ではすまない猛者である。互いの能力を使わず、文字通り裸一貫で勝利をもぎ取らねばならぬレスリングとなれば尚更のことで、普通の妖怪ではまず勝ち目はないだろう。
それなのに。咲夜は毒のように苦い唾を飲み込んだ。あの美鈴に、ただの人間である霊夢が勝っただと――?
絶句している咲夜の足元に、次々と違うパンツが着地した。目だけ動かしてそれを捉えた咲夜の身体に次々と衝撃が走った。
この派手なレースのフリルつきのパンツは、確か小悪魔のものだったはずだ。
今窓際に引っかかった縞々はパチュリー・ノーレッジのもの。
そして今霊夢が手に握り締めている紫色の布切れは、八雲紫のパンツではなかったか……。
「あなた……ま、まさか、あの八雲紫を……!?」
そんな馬鹿な。咲夜はその想像を必死に振り払った。あの幻想郷最強の妖怪がノーパンだなんて。取り乱した声を発したメイドに、霊夢も負けじと瀟洒に答えた。
「なんてことなかったわ。ちょっと腋見せたらヘロヘロになったのよ」
「そっ、そんな……有り得ない! 有り得ないわ……!」
思わず後ずさった咲夜の背中に「咲夜、外して頂戴」という声が突き刺さり、咲夜は弾かれたように振り返った。
「……今のあなた、ずいぶんと調子に乗っているようね……」
そう言ったレミリアの手に握られていたのは、どことなく幼さを感じさせる、熊の柄のパンツだった。
あれは……咲夜は目を剥いた。あれは、自分が何度も洗濯したパンツだ。お気に入りだから丁寧に洗ってほしいと言うので、咲夜はそれを洗濯機ではなく洗濯板で洗濯していた。丁寧に丁寧に、指を赤切れさせて、何度も何度も――。
あれは、まさか妹様の下着――。
あの妹様ですら。正気を失い、五百年に渡って幽閉されなければならなかった最強の吸血鬼。直接激突すればレミリアでさえ躊躇いなく血煙にしてしまうだろう魔物――フランドール・スカーレットですら、霊夢の手にかかってパンツを奪い取られたというのか――。
その理解がゆっくりやってきた瞬間、あまりの異常事態に体が反応し、咲夜はたまらず嘔吐した。
うえっ、げえっと咳き込んでいる咲夜に構わず、レミリアはゆっくりと立ち上がった。
「可愛いフラン……痛かったでしょう? 苦しかったでしょう? あんな人間の小娘に、殴られ絞められ犯され……どんな気持ちだったかしら……?」
瞬間、レミリアの手に握られたくまのパンツが音を立てて引きちぎられた。否、それは引きちぎられたのではなかった。レミリアが発する瘴気と殺気にパンツの布地が耐え切れず、爆散したのだった。
レミリアの身体から発せられた禍々しきオーラが渦を巻き、大気を灼き焦がし、空間を歪ませ始める。そんなレミリアに、あろうことか霊夢は左手を差し出すと、ちょいちょいと動かしてみせた。
レミリアの紅い瞳がギラリと輝き、吸血鬼に相応しい酷薄な笑みが浮かんだ。その顔はすでに普段のレミリアではなく、己が内に巣食う獣を解き放ちつつある何者かのものだった。数百年ぶりに解き放たれつつある吸血鬼の力を受け、紅魔館全体がまるで歓喜するように鳴動し始めると、咲夜は立ち上がることすらできずにそれを見守るしかなくなった。
レミリアは服の首元に手を突っ込むと、不気味に微笑んで見せた。
「いいわ、私の相手として不足はないようね。ならば私が、今度こそあなたに引導を渡してあげるわ……!」
瞬間、レミリアは自らが着ていた衣服を一息に引き裂いた。
中から現れたのは、スクール水着によく似た真紅のレスリングユニフォームであった。
それを見た咲夜の鼻が爆発し、ブシャ、という音とともに、吐瀉物にまみれた咲夜の顔から血煙が上がった。
同時に、目の前に立っていたレミリアの姿がコマ落しよろしく、忽然と消失したのを、咲夜は見なかった。
次の瞬間。否、それはレミリアが消えたのと全く同時だった。肉体と肉体が激突する轟音が轟き、紅魔館のガラス窓がガタガタと鳴動した。ズン、という重い衝撃がその後に続き、すべてを圧する衝撃波が紅魔館の通路に荒れ狂った。
血圧低下によって朦朧とする意識の中で、咲夜はいくつもの怒声を聞いた。しかしそんな修羅の中にあっても、咲夜の顔は奇妙に穏やかだった。嗚呼、お嬢様。最期にいいモノが見れて、咲夜めは幸せでございました――。
しかしその独白すら、その後に連続した怒声と衝撃波の渦に飲み込まれ、跡形もなく消し飛ばされていった。
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ブルータス、お前もぜ。
『文々。新聞』の一面を堂々と飾ったその記事を見て、魔理沙は嘆息した。
紫はともかくレミリアでさえ負けるとは。魔理沙は頭の中にあるレミリアとフランドール、咲夜の顔に次々とバツ印をつけた。
早苗、アリス、紫、そしてレミリアやフランドール……。幻想郷最強の種族である吸血鬼やスキマ妖怪でさえ敗北したならば、もうこれ以上強い奴はそうはいない。いいところ萃香や神奈子ぐらいなもんか。萃香や神奈子にはまだバツ印はついていないが、あと三日もすればめぼしい猛者の顔はバツ印だらけになるだろう。魔理沙はもう一度嘆息した。
一体どうしちまったんだ、霊夢は。いかな霊夢が天才といえど、吸血鬼とタイマンして勝つなんて、ネズミがゾウと戦って勝つようなものだ。それなのに勝った。なぜ……。
よく考えてみれば、不思議な話だった。テーブルに足を乗せ、椅子をガタガタと揺らしながら考えてみたものの、生来魔法以外のことについてあれこれ考えることは得意ではない。魔理沙は考えるのを諦め、わからんぜ……と嘆息した。
「今日はやけに物憂げだね」
魔理沙が珍しく真剣な表情で思い悩んでいるのを、店主は目ざとく見つけたようだった。それまで店に並ぶガラクタの一部と化していた店主――森近霖之助は、そう言って眼鏡のブリッジを押し上げた。
「うるせぇ馬鹿。人が考えてるのを邪魔するのは感心しないぜ」
「ずいぶん……ご挨拶だな。ここは僕の店だと……いうことを、忘れてもらっては……困る」
「私の家じゃモノなんか考えられないんだよ」
「だったら……アリスの家にでも、行けば……クッ……いいじゃないか」
「……香霖、それしながら話すのはやめてくれだぜ」
そう言って、魔理沙は霖之助を見た。
香霖堂の店主は褌一丁になり、黙々とダンベル体操をしていた。なんとまぁ、しばらく見ないうちにあのヒョロヒョロもやしがいつの間にか結構な体格になっているではないか。そういえばこいつもにわかレスラーになってたっけ。
「フフフ……だってレスリング用品を扱う僕が……ヒョロヒョロじゃあ……示しが……つかないじゃ……ないか」
「香霖なんて永遠にヒョロヒョロなくらいが丁度いいんだぜ」
「それは……ほめ言葉かな……。まぁどっちにしても……今の僕には……当てはまらない……言葉だな。ンフフ……」
魔理沙は顔を引きつらせてから、テーブルに突っ伏し、畳んだ腕に顔をうずめた。
「大体、なんなんだ皆して。いくら流行りだからって、レスリングレスリングって……」
「みんなレスリングが好きなのさ。流行り廃りは関係ない」
「それ、本気で言ってるのか? 大体、みんなが皆レスリングにハマってるわけじゃないぜ」
「そりゃそうさ。しかし、僕が見るところ、幻想郷の9割5分はレスリングにハマってるね」
「冗談」
魔理沙が手をひらひらさせると、「冗談じゃないさ。僕の店に来る客は先月の十倍にはなってるし」と霖之助が返してきて、魔理沙は苦笑した。
「まさかな。まだあんな頭のおかしい競技にハマってないヤツなんてごまんといる」
「どうかな」
「アリスはともかく、あのおカタい閻魔様はにわかレスラーを忌々しげに見てるだろうぜ」
「四季映姫のことを言ってるなら、彼女は一ヶ月前から香霖堂の優良顧客になってるよ」
その発言に、魔理沙は驚いた。
「まさか……あのカタブツまで来てるのか?」
「あの格好と外見に口ヒゲで変装してやってくるなんて、いかにも彼女らしいといえば彼女らしいけどね。彼女の贔屓はソイビーンズのプロテインだ」
愉快そうに笑いながらダンベルを上げ下げする霖之助を見て、魔理沙はやるせなくなってテーブルに額を押しつけた。もうどいつもこいつも変態だらけか。もういやだこんな生活。いくらプロテインキノコが飛ぶように売れても、これじゃあ自分までおかしくなりそうだ。
大体、なんでみんな寄ってたかってレスリングなんかしなくちゃいけないんだ。魔理沙はぽつりとひとりごちた。
筋トレなんてつらいだけだぜ。レスリングなんて苦しくてつらいだけだぜ。それなのに、なんでみんなそんなに楽しそうなんだ……。
そこまで考えたとき、霖之助が呟いた。
「それにしても……霊夢は……それほど……強くなったのか……ふぅ……。一度、お手合わせ……したいな……ククク」
その言葉に思索を邪魔されて、魔理沙は不機嫌に言った。
「香霖、ダーク香霖になってるぜ」
「ダークじゃない。武者震いだ」
「へぇそうかい」
こいつとも話が通じない。呆れ果てた魔理沙が欠伸をした瞬間だった。揺らしていた椅子が大きく傾き、魔理沙はあっ……と声を上げた。
しまった、油断したぜ……。
瞬間、天井近くまで積み上げられていたガラクタが崩れる音がして、魔理沙は椅子ごと道具の山に倒れ込んだ。
「あまり僕の店を荒らさないでくれないか」
霖之助の涼しげな声が響く。どこかに強打したらしい頭と尻がじんじんと痛んだ。
魔理沙は顔の上のガラクタを忌々しげに除けつつ、返事を返さなかった。今日は厄日だな……そう心中にひとりごちた魔理沙は、そこでふと手を止めた。
ガラクタの山の中に埋まっていた空箱に目が留まり、魔理沙は半ば発掘するようにしてその箱を取り上げてみた。造りだけは立派な桐の箱だった。ずいぶん古いものらしく、箱の表面は重ねた年季相応に黒ずみ、ひび割れている。蓋を見てみると、太い筆に墨で書かれた文字はかすれて消えかかっていたが「允二外道」と書いてあるのが何とか見えた。
「まさにげどう……なんだこりゃ」
魔理沙は眉をひそめて、紐を解き、箱を開けてみた。箱の中は空っぽだった。
「香霖、これは何が入ってたんだ?」
魔理沙がそれを持ち上げて示すと、香霖はダンベルを上下させながらこちらをちら、と伺った。
「ああ、それか。僕にもわからずじまいだった」
「わからないって……」
霖之助は『物の名前と使用方法がわかる程度の能力』という、どうにも胡散臭い能力を持っていた。その霖之助に限って物の用途がわからないなんてことがあるはずがない。まさか炒飯の食べ過ぎで頭までおかしくなったのか、と思った魔理沙に、「厳密に言うと、それにはモノが入ってたわけじゃない」という返答が返ってきた。
モノじゃない……? 視線で問うと、霖之助は額に浮き出た汗を手ぬぐいで拭いつつ言った。
「モノというよりも呪具、いやもっと正確に言えば、生き物に近いんだろうな、アレは。とにかく僕の能力でも使用用途がわからなかった以上、アレは道具やモノじゃない。僕もそれを見つけたときは混乱したけど、せっかくだからそこに置いておいた」
生き物だと? 魔理沙はもう一度空の箱を見てみた。言われてみれば、箱からはその呪具とやらを封じるのに相応しい面構えをしているではないか。何だか気味が悪い。
「一ヶ月ぐらい前、それの中身を霊夢が持って行ったんだよ」
そう言われて、魔理沙は目を剥いた。
「マジか?」
「ああ。何かの呪具だって言ったら、供養でもするつもりなのか持っていってしまった」
箱を見ると値札がついており、60、と太い筆で書かれている。こんな薄気味悪い商品に60とは少し割高だと魔理沙も思う。まぁ、あの貧乏巫女のことだから、当然カネは払わなかったのだろう。あのド貧乏巫女め、巫女の癖に阿漕なやつ。
それにしても……と魔理沙は箱の中を見た。その呪具とやらがどんな形をしていたのであれ、そんな薄気味悪いものを持っていくなんて、酔狂を通り越してもの狂いじゃないか。ここんところの霊夢は本当にどうかしてるぜ。それとも、なにかソソられるものがあったのだろうか……。
「霊夢のやつ、レスリングのしすぎで頭がおかしくなったんじゃないのか? ま、私にはどうでもいい話だけど」
霊夢も自分も物好きなんだな。力なく笑ってしまってから、魔理沙は立ち上がった。
「今日は帰るぜ」と言った魔理沙に、「ちょっと待った」という声が掛けられて、魔理沙は振り向いた。
「魔理沙。今日はこれからどうするんだい?」
「どうするんだって、メシでもおごってくれるのか?」
「いや。そうじゃない。このまま家に帰るのかと聞いてるんだ」
「もちろん」
魔理沙が頷くと、霖之助は意味ありげな含み笑いを漏らした。
「なぁ魔理沙、君は本当にレスリングが嫌いなのか?」
だぜ? と魔理沙は顔をしかめた。
「何を突然言うんだよ」
「いいから質問に答えてくれないか」
なんだこいつ、今日はやけにしつこいな。
魔理沙は苦笑しつつ「わかりきってるはずだぜ、そんなの」と言って、店から出て行こうとした。
「いや、違うね。これから魔理沙は、博麗神社に行くつもりじゃないのか? 霊夢の試合を観に」
その言葉に、魔理沙は再び立ち止まってしまった。
「冗談言うな。なんで私があんな気持ち悪いものを……」
「本当は、したくてしたくてたまらないんじゃないのか、レスリング」
そうなんだろう? とでも言いたげな問いだった。
魔理沙はすぅ、と息を吐いてから、努めて繕った声を出した。
「そんなわけ……ないぜ」
即答、というには、あまりに間が空きすぎた。そう思ったのは霖之助も同じだったらしい。
霖之助は片手にダンベル、片手に湯飲みという格好で器用に茶を啜りながら、こちらの言葉を待っている。
「お前、頭がどうかしちゃったんじゃないか? 私は魔法使いだ。魔法使いは派手に魔法を使うから魔法使いなんだぜ。それを今更、レスリングなんか……」
「魔法使いがレスリングをしてはいけないという法はない。……それに、今の魔女は筋トレをしながら魔法を研究するものなのかい?」
その言葉に、魔理沙ははっとして霖之助を振り返った。バレていたのか? そう目で聞いてみても霖之助は答えず、代わりにフッと笑声を漏らした。
「ダンベルやプロテイン……占めて十一個、二週間前から行方不明なんだ。なくなっているのはわかっていたし、誰が持っていたのかもわかってる。勝手に持っていくにしても、僕の目を盗んで持っていくとは、魔理沙らしくないね」
霖之助はもう一度茶を啜ると、話を変える声を出した。
「魔理沙はウソをつく努力をしているだけじゃないのか。理性や恥が手伝って、自分の本当の気持ちを偽っている。それが証拠に、今の魔理沙はひどく窮屈そうに見えるけどな」
「……いい加減にするんだぜ、香霖。しつこいぞ」
「僕には人の心を読む能力なんてない。けれど、魔理沙が今、何を考え、何をしたいのか、それぐらいはわかるのさ」
お互い、隠し事は出来ないはず。そう教える霖之助の声に、魔理沙は思わず耳をふさぎたくなった。
震える手で胸を押さえ、魔理沙は頭の中に必死に呟いた。
憧れていない。霊夢のあのボディラインなんかに。女であんなムキムキなんてヒくぜ。気持ち悪いんだぜ。
戦いたくなんてない。心行くまで闘ったりするのは馬鹿馬鹿しいぜ。
レスリングなんかしたくないぜ。したくない、したくない、したくない……。
何度呟いてみても、図星をつかれた魔理沙の胸の高鳴りは止まらない。それどころか、自分の中で押さえつけていたものが一気に溢れ出し、全身の細胞という細胞を励起させて、魔理沙の中の何かを突き崩そうとする。
その様を見た霖之助は、静かに言った。
「なにも恥ずかしいことはない。らしくないことはやめて、自分が思う通りにレスリングすればいいんじゃないのか」
「……やめてくれよ」
「霊夢とレスリングをしたい。心行くまま身体を絡ませてパンツを奪い合いたい。そんな願いを抱いても、バチなんて当たらないと――」
「香霖! いい加減にしてくれよっ!」
その瞬間、魔理沙が大声を出した。
口を閉じた霖之助は、まるでそれを予期していたかのように動じなかった。
しばし、沈黙が流れた。永遠に感じられる数分の後、先に沈黙を破ったのは魔理沙だった。
「――香霖」
「なんだい?」
いつもの口調で、霖之助が答えた。褌一丁で。
振り返った魔理沙の目は、今まで霖之助が見てきた中で、一番哀しげな目だった。
「それ以上、虐めないでほしいぜ……」
そう言って、魔理沙は駆け出していった。バン、と扉を押し開け、その数秒後には機上の上の人ならぬ箒上の人となった魔理沙の後姿を見送ってから、霖之助はバツが悪そうに頭をかいた。
沈黙が戻った。再び、薄暗い店の中に一人残された霖之助は、すっかりと温くなった茶の残りを飲み干した。
それからたっぷり十分ほどの時間をかけて、霖之助はきっちり一千回のダンベル運動を終えた。全身に吹き出た汗を手ぬぐいで拭き取ってから立ち上がる。
「さてと。外出するのは久しぶりだな」
誰もいない店内に一人ごちて、霖之助は外に出た。
調べたいことがあった。紅魔館の地下、ヴワル魔法図書館ならば、自分が望むとおりの情報があるだろう。霖之助が空を見上げると、すでに空は暗くなり始めていた。
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「馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿、なんでこんなに馬鹿なんだよ、私はっ――!」
自分の頭を叩きながら、魔理沙は何度も何度も呟いた。すっかり日も暮れた博麗神社の鳥居の影に座って、魔理沙は一人静かに慟哭する。
筋肉なんて気持ち悪い。戦いたくなんてない。レスリングなんてしたくない。それなのに、そのはずなのに、そうでなければならないはずなのに――!
自分の中の自分を抑えきれない。箒に乗っているときも、茶を飲んでいても、魔法の研究をしているときも、レスリングのことが離れない。霊夢と戦っているのが自分だったら、という想像が頭を離れない。霊夢とパンツの剥ぎ取り合いをしたいという下賎な想像が頭から離れない。
そして、今もだ。今、自分が何をしにきたのか、魔理沙以上に理解している者はいないだろう。
魔理沙は、レスリングを観に来たのだ。
ここ博麗神社で、霊夢が筋トレをしていることを願って。
誰かが霊夢に勝負を挑みに来ていることを願って。
激闘が幕を開けていることを願って。
「馬鹿だ、馬鹿だっ、私は――!」
魔理沙は自分を抱きしめるようにした。いくら偽っても、いくらごまかしても、一向にこの衝動は消えてくれない。
ごぅ、と音を立てて夜風が吹き、魔理沙の横を吹き抜けていった。
こんなことなら、最初から意地を張るんじゃなかった。こんなくだらない偏見もプライドもかなぐり捨てて、霊夢とレスリングをするのだった――!
「何やってるのよ、魔理沙」
不意に、そんな言葉が夜のしじまを騒がせた。魔理沙が驚いて顔を上げると、そこにはずいぶん久しぶりに見たような、しかし嫌というほど見知った顔がいた。
「アリス……?」
「馬鹿ねぇあんたは。今頃ここに来て一人で泣いてるんじゃないかと思ったわ」
アリスは苦笑とも泣き笑いともつかぬ顔で腰に手を当てた。その表情の真意を掴みかねていると、アリスの隣の空間が歪み、裂けて、中から涼やかな声が聞こえてきた。
「ええ、全くお馬鹿さんね」
全身を紫色のレスリングユニフォームに包んだ紫が、スキマから顔を出した。魔理沙は呆気に取られたまま、両者の顔に視線を往復させてから、「紫もかよ……」と力なく呟いた。
「あなた、自分だけが賢いフリをしているらしいけど、そんなのバレバレだわ。本当はレスリングがしたくてたまりませんって顔に書いてあるんですもの」
「……そんなわけ……!」
「そうね、相変わらず魔理沙はわかりやすいわ」
また別の声が発して、魔理沙は振り返った。そこには、微笑む十六夜咲夜の瀟洒な立ち姿と、ぶすくれた表情で視線を逸らすレミリア・スカーレットの顔があった。咲夜の両の鼻の穴にティッシュが詰め込まれているのは気になったが、魔理沙はそれを問質すより先に、別のことを問うてみた。
「レミリア……咲夜……! どうしてここに……?」
「リターンマッチ、よ」
魔理沙の問いに、ぶすくれた顔で返したのはレミリアだった。
「なんだって……」と聞き返した魔理沙に、咲夜が瀟洒に答える。
「一週間も前、私たちは霊夢にコテンパンに負けちゃってね。お嬢様がどうしてもリターン・マッチをしたいっていうもんだから……」
パァン! と音がして、レミリアの拳が咲夜の右肩を打った。その瞬間、咲夜の鼻に詰まっていたちり紙のネジがスポンと飛び出て、草むらの影に見えなくなった。
「余計なことは喋らんでよろしい。……それで、霧雨魔理沙」
カリスマ的な声を出したレミリアに、魔理沙は「……なんだぜ?」と問うのが精一杯だった。レミリアの紅い瞳がこちらをまっすぐに見つめ、魔理沙はその場を逃げ出したい衝動に駆られた。
「今晩の勝負は、あなたがするの。あなたが霊夢と戦うのよ」
全く予想外の言葉が発せられ、魔理沙は目を見開いた。「なっ、なんで私が……!」と狼狽した魔理沙に、笑みを消した咲夜が答える。
「魔理沙。正直に言って今の霊夢は敵なしよ。聞いてるしょう? 仮に霊夢一人に対して私たちが全員でかかっても、返り討ちに合うでしょうね」
「そっ、そんな馬鹿な……! 第一、それが私と何の関係が……!」
「おっと、これを見てもそう言ってられるかな」
また別の声がそれに答え、魔理沙は声がした方に顔をやった。
「神奈子……諏訪子、早苗まで……!」
「久しぶりですね、魔理沙さん。この間はずいぶんお世話になって……」
そう言って申し訳なさそうに微笑んだ早苗の横に八坂神奈子と守矢諏訪子の顔もあった。
どういうわけか、早苗の顔には絆創膏が二つ、貼り付いていた。その横で居心地悪そうに目線を逸らしている神奈子にも、その隣ですましている諏訪子の顔にも、同様の傷が体のあちこちにあるのを魔理沙は見逃さなかった。
「まさか、霊夢にか?」
「ご名答、だね。タイマンで私が負けるのなんて数千年ぶり。もっと詳しく言えば神奈子以来かな」
苦笑した諏訪子には、それでもいつものオーラがない。敗北がよっぽど応えたのだろう、その隣にいる神奈子も同様だった。軍神としてのカリスマを著しく傷つけられた後遺症だろうか。ハァ、と太いため息をついた神奈子は、「見ての通りさ」と呟いて魔理沙を見た。
「神である私たちですらこんな有様だ。霊夢は明日には永遠亭や白玉楼に乗り込んで幻想郷の頂点に立つだろうね。幻想郷のパワーバランスはめちゃくちゃだ。人間が素手で妖怪を征服するっていう、通常起こりっこないことが起こるんだ。……そうなれば霊夢はもはや人間ではなくなる。人間でも妖怪でもない、レスリングによって生かされる怪物になっちまうだろうさ」
神奈子の放った言葉は、まるちり紙のようにふわふわと魔理沙の頭の中を浮遊した。「この異変を解決するのは、やっぱり主人公様でないと、ね?」と続けた、どこか他人事の咲夜の声も、実感が伴わない戯言としか思えなかった。喉にたまった生唾を飲み下し、「そんな……」と絶望的な反駁を口にした魔理沙の耳に、「本当に馬鹿ねぇ、あなたは」という涼しげな声が聞こえ、魔理沙は口を閉じた。
「まだ自分にウソをつくわけ? 滑稽ね」
口調こそいつもの紫のものだったが、こちらを見据えて動かない瞳は真剣で、触れれば切れそうな殺気が満ち満ちていた。
「自分がしたいことがわかっているくせにそれを押し殺す。それは確かに狭い人間の世界じゃ必要な能力でしょうね。けれどあなたの場合、その自制心の強さは却って哀れだわ。したいならしたいと言わなければ、何も掴めやしないのよ?」
いつも胡散臭い言葉しか吐かないスキマ妖怪の、一体どこからこんな繊細な言葉が出てくるのか。しかしその声はがらんどうの魔理沙の頭に反響し、心の水面に波紋を広げた。そんなこと、言われなくてもわかってるぜ。歯を食い縛り、つばを掴んで帽子を引き下げてみても何も解決しやしない。魔理沙は救いを求めるようにアリスを見た。そんな魔理沙の様子を叱るかのように、アリスは大仰なしぐさで腰に手を当ててため息混じりに言った。
「まったく、アンタのせいで一週間前はとんでもないことになったわ」
「そっ、それは……すまん」
「けれどね魔理沙。私の体験とあんたがどうしたいかは別よ。あんたが望めば、手を貸してやらないことはないわ」
魔理沙を励ますとも、退路を断つとも言える発言だった。なんなんだ、この展開。魔理沙は聞いてみものの、答える声などない。いっそのことここから逃げ出してしまえたらどんなにいいだろう……魔理沙がそう思った、その瞬間だった。
「誰よ! こんな時間にうるさいわね!」
そこにいた全員が弾かれたように顔を上げた。スパァン! と物凄い勢いで社殿の襖が開かれ、そこから白い顔が姿を現した。
「霊夢……!?」
自分でも驚くほど大きな声が出た。その声に応えたのは、「魔理沙……魔理沙なの?」という霊夢の声だった。
一瞬、間があった。どう言い訳したらいいんだぜ……と、この期に及んで霊夢の視線から逃れるように身体をよじった魔理沙に、霊夢の声が届いた。
「……これはこれは、揃いも揃ってリターンマッチをしにきたってわけ?」
呆れたような霊夢の声に、そこにいた全員が不敵な笑みを漏らす。
「半分、正解ね。この前はコテンパンにやられた私たちだけど、おあいにく様。今夜の私たちには、秘密兵器がいるのよ」
そう答えたのはアリスだ。秘密兵器、というのが自分を指しているのだと気がついて、魔理沙は戸惑う目を霊夢に向けた。一瞬の間があって、霊夢が返してきた言葉は、果たして「……そう、確かに秘密兵器だわ」という声だった。
「さ、魔理沙。なら早速始めましょう」
そう言って、霊夢は縁側から裸足で石畳に降り立つと、すたすたと歩いてきた。
こっちにこないでほしいぜ。
そうだ、忘れ物だ。私はただ忘れ物のバッグを取りに来ただけで、こいつらとは何の関係もない。
来ないでくれ、あっちにいってくれ――! そう言って顔を背けようとした魔理沙の手に、力強い指の感覚が伝わった。
「あんた、何を怖がってるのよ」
その声は、今までかけられたどんな言葉よりも重く、魔理沙の胸を打った。
よろよろと立ち上がった魔理沙の手を引き、霊夢は無言で進んでいく。手首を掴む霊夢の手が熱い。まるで燃えているようだった。
一歩踏み出すごとに、魔理沙の中の何かがとめどなく溢れ出してきて、魔理沙の中のちっぽけな意地を洗い流してゆく。急になくし物が見つかったような安堵感が胸を満たし、ほのかに心臓が発熱する。そうだ、自分は何を怖がっていたんだろう。そう思った瞬間、行け、という自分の声が頭の中に響き渡り、魔理沙は歯を食いしばった。
霊夢の手を握り返すと、その手に流れる血潮の熱さが魔理沙の手にもはっきりと伝わった。
「――なぁ霊夢」
その問いに、霊夢は振り返らずに「何?」とそっけなく応じる。
魔理沙はニヤ、と笑い、霊夢の手を握る力を強くした。
「戦ってる最中は、敵から目を離さないほうがいいぜ――」
瞬間、霊夢が振り返ろうとした。
もう迷わない。魔理沙は霊夢の身体を思い切り引き寄せると、霊夢のうなじに手を回し、腰を落として身体を捻った。
霊夢の体が弧を描き、神社の境内に叩きつけられる。綺麗な炒飯返しが決まり、一同は驚きの声を上げた。
魔理沙がそのまま霊夢の肩に手を回してホールドしようとした刹那、霊夢はその前にすばやく身をひねって魔理沙から離れた。
「やっとその気になったみたいね。――歪みねぇな」
霊夢が微笑する。魔理沙も微笑を返すと、自分の服の首元に両手を突っ込み、あらん限りの力で引き裂いた。黒白のエプロンが裂け、中からサラシとスパッツに包まれた魔理沙の裸体が姿を現した。
瞬間、どよめきが爆発的な歓声に変わった。一夜限りの激戦の火蓋が切って落とされ、春が近づいた博麗神社の空気を沸騰させた。
*****************************
「覚悟アリ、上等だわ」
霊夢が、バンザイをするかのように両手を挙げた。一瞬その意図を測りかねて身構えた魔理沙に、霊夢が笑みを深くする。一瞬の間をおいて、魔理沙も霊夢の手に自分の両手を合わせた。
まずは力比べ。いいだろう、受けて立つぜ。そう微笑した魔理沙に、霊夢は笑みを深くする。
「いくわよ――」
霊夢がそう言った瞬間、全身の筋肉が膨張し、二人は全力で激突した。ミシミシ……と手首の骨が軋み、全身を流れる血潮が沸騰する。
負けじと足を踏ん張り、「ぐおぉ……!」とうめき声を上げた魔理沙は、全身の力を総動員して踏み込んだ。
と、ついに霊夢の腕が後退し始めた。必死に抗う霊夢の腕を、少しずつではあるが魔理沙の腕が圧倒しはじめる。驚いたのはギャラリーだけではなかったらしい。驚愕に目を見開いた霊夢が、食い縛った歯の間から声を漏らした。
「馬鹿な……!」
「へへっ……! 鍛えてたのは……お前だけじゃないんだぜ……!」
魔理沙がさらに力を込めると、霊夢はその負荷から逃れようとするかのように身を捩った。させない、とばかりに腕の力を強くすると、ついに霊夢が膝をついた。
力の均衡が崩れ始める。魔理沙はまたさらに一歩を踏み出し、体重を乗せて霊夢の腕を圧した。霊夢は両目をあらん限り見開き、魔理沙の強力に抗おうと必死の形相になっている。
「どうした霊夢……!? これじゃ……準備運動にもならんぜ……!」
言った瞬間、霊夢の目がギラリと光り、魔理沙ははっとした。しまった、喋りすぎた……と思った刹那、霊夢の頭が啄木鳥のように動き、額が魔理沙のみぞおちにめり込んだ。
「ぐふっ……!」
くぐもった悲鳴が喉を突いて出て、今度は魔理沙が膝をつく。
すかさず霊夢は背後に回りこむと、四つんばいになって咳き込んでいる魔理沙を背中から抱きしめるようにする。抗う暇も身構える暇もなく、霊夢は魔理沙の胸部を両腕で思い切り締め上げ始めた。
「ぐああぁぁ……!」
自分のものでないような悲鳴が漏れた。万力のような力で胸部を締め上げられ、肋骨ごと肺が押し潰される激痛が脳髄を掻き回す。
たまらず地面に両手をついた魔理沙に、「相変わらず詰めが甘いのね」という霊夢のささやきが聞こえた。その声は笑っている……? 魔理沙がそう思った瞬間、自分の胸部を締め上げる力が一層強くなり、死にかけのカエルの声を腹の底から搾り出させた。
どうする、どうやって抜け出す……? 酸素の供給が滞り、酸素を喰らい尽くしつつある脳が灼熱する。回らない頭で両腕から抜け出す方策を考えた魔理沙は、無我夢中で背後に手を回して霊夢の後頭部を掴んだ。
「なっ……?!」
「このっ……うおおらぁぁぁぁ……!」
魔理沙の上腕二等筋が、背筋が体に残っていた酸素を食い尽くして燃え上がる。
霊夢は咄嗟に身体を翻そうとしたようだったが、すでにそのときには魔理沙が彼女を投げ飛ばしていた。
しゃがんだ状態からの背負い投げ、いわゆる半炒飯返しが決まり、霊夢が吹き飛ばされる。瞬間、魔理沙の胸を押し潰していた両腕が離れ、肺に新鮮な空気がどうどうと流れ込んできた。
突然流れ込んできた酸素に咳き込んでしまった魔理沙の視界の端で、霊夢が立ち上がろうと手をつく。させるか。魔理沙は肉食獣の瞬発力で霊夢の右腕を取ると、わき腹と首筋に両足をかけてつっぱり、彼女の右腕を思い切り伸ばした。
「ぎゅうううう……!」
「うう……!」
てっきり苦悶の声を漏らすかと思ったが、霊夢が漏らした声はそれだけだった。筋肉、関節、骨、すべてが完全に極められているにもかかわらず、霊夢は唇を噛み締めてその激痛に耐えている。魔理沙がさらに力を込めてみても結果は同じで、声ひとつ漏らす気配がない。
これじゃダメだ。魔理沙は咄嗟の判断で霊夢の腕を放し、つっぱっていた足をどけた。休む暇を与えず、半ば衝突するようにして腰に組みついた魔理沙は、逃げようと暴れる霊夢の腕に自分の両腕を絡ませると、自分の身体ごと仰向けに寝転がした。
返す刀で両足を出した魔理沙は、暴れる霊夢の両足に自らの足を絡め、磔よろしく大の字に広げた。
「このっ……!」
霊夢が反射的に身体を捩って逃げようとしたが、まるで蛇のように絡みついた魔理沙の腕が外れることはなかった。そのまま魔理沙が身体をぐっと反らすと、大股開きにさせられた状態の霊夢の五体が締め上げられる。
両手両足が完全に極められ、今度こそ霊夢が絶叫した。
「ぐわああああああ!」
「おおらぁぁぁぁっ!」
京都名物・大文字固め。そこには京都府の存在を知っているものなど誰一人としていないはずだったが、霊夢のあられもない姿を見せられたギャラリーの声援が一層高まり、熱に浮かされた二人の頭を蹴飛ばすようにした。
「こっ……このぉ……! ……うぐあああああ!」
「どうだ霊夢……! これが私のレスリングだ、どうだっ!」
体が細胞の一個一個にいたるまで発熱し、凶暴な快感が全身を閃光のように駆け巡った。解き放たれた闘争本能が 霊夢は全身を押さえつける魔理沙の四肢から逃れようと身体をひねったが、さしもの霊夢も五体を締め上げられて逃れられる道理はない。
「ギブか?! ギブアップしろ!」
「まだまだ……!」
「へっ……しぶといな、さすがは霊夢だぜ……! じゃあこれならどうだっ!」
そう言って、魔理沙は四肢にかける負荷をさらに強くした。ギシッ……と霊夢の骨が軋むような振動が魔理沙の身体に直接伝わり、それに応じて悲鳴も一層強くなる。
「あああ……あああああっ!」
「早くギブアップしないと……全身がバラバラになるぜ……!」
それでも霊夢は歯を食い縛って「ノー……!」と搾り出したが、魔理沙はその意地を認めなかった。「ギブアップ!?」と魔理沙が再度問うと、程なくして霊夢の首がガクガクと前後した。
ギブアップ。魔理沙は全身の力を抜くと、ぐったりと脱力した霊夢の肢体を突き飛ばすようにして除けた。ゼイゼイと荒い息を吐きつつ、魔理沙はいまだに立ち上がることが出来ない霊夢のスカートに手を突っ込むと、一気にずり降ろした。
「ああっ、ひどい……!」
霊夢の抗議にもお構いなしに、魔理沙はスカートを足首までずり下ろした。闇夜にぼうっと浮かび上がる白い両脚が晒され、赤いスパッツがあらわになった。
「なんだぁ、幻想郷最強はこの程度なのか、がっかりだぜ」
魔理沙はそう言ってスカートを取り上げ、鼻元に近づけてスーハーと匂いを嗅いだ。濃厚な霊夢の匂いが鼻粘膜を甘く刺激し、魔理沙は我知らず口元を緩めた。その屈辱的な辱めに、霊夢がぐっと奥歯を噛み締めて魔理沙を見る。
試合の行く末を固唾を呑んで見守っていたギャラリーが、そこでドッと声を上げた。今までの試合では考えられないスピードで奪い取られた霊夢のスカートに、誰もが言葉を失っていたのだった。
パワー、スピード、テクニック、スタミナ。どれをとっても魔理沙の実力は霊夢と互角、いやそれ以上だった。今まで頑なにレスリングを拒んでいた霧雨魔理沙の、どこにこんなポテンシャルが隠されていたのか。誰もがその様子に熱狂し、拳を握り締めて魔理沙の名を呼んだ。
それを一瞥した霊夢は、巫女服の上を脱ぎつつ、呆れたように言った。
「……へぇ、初心者のくせにずいぶん人気なのね」
「へへ、お前を倒せるのは私しかいないからな」
「そうかもしれないわ」
笑われるかとも思ったが、意外にも霊夢はそれを肯定して見せる。どこかでこのことを予期していたと言わんばかりの物言いに、魔理沙は苦笑を浮かべた。
「でも、まだまだダメね。あいつらに切り札があるなら、私にも切り札があるわ」
上半身の巫女服を投げ捨てて霊夢が言う。その余裕の言葉に魔理沙が眉を顰めると、霊夢は唇の端をもたげるだけの微笑を返した。
切り札。余裕の笑みと共に発せられたその言葉に何かしらぞっとするものを感じた魔理沙だったが、その怖気の根源がなんなのかは明確に言語化できず、魔理沙は眉を顰める代わりに軽口を叩くことにした。
「へっ、じゃあその切り札とやらを見せてもらおうか」
「言われなくてもそうするわ」
涼しい声で返してきた霊夢だったが、次の瞬間、霊夢が取った行動は、いかな魔理沙といえども理解不能だった。
霊夢はスパッツに手を突っ込むと、もったいぶった手つきでそれを降ろし始めたのだった。
「お、おいおい……!」
「勘違いしないでよね。別に勝負を投げるわけじゃないわ。……むしろ、あんたなら全力でやっても大丈夫かなと思ってね」
そう言ってスパッツに両手を差し込んだ霊夢は、そこから膝を曲げずに、一息にスパッツをずり下ろした。なんだ、新しいケツワレサポーターでも手に入れたのだろうか。暢気にもそんなことを想像した魔理沙だったが、しかしそこから現れたのは、魔理沙が生まれて始めて目にするモノだった。
「……な、なんだよ、そいつは……」
呻いた魔理沙にも答えず、霊夢は代わりに凶暴な笑みを浮かべた。途端に、むんと濃くなった殺気が魔理沙の肌を粟立たせ、頭の中の警報センサーが得体の知れない危険を感じ取った。
気温が一気に二、三度低下し、ザッ……と何か冷たいものが横を吹き抜ける。ヤバい、何が何だかわからんが、こいつはヤバいぞ……異常事態を察した足が主人の命令を待たずに後ずさろうとした瞬間、数段低くなった霊夢の声が魔理沙の耳に聞こえた。
「ちょっと気味悪くてね。できれば使いたくなかったんだけど……頼むから死んだりしないでよ、魔理沙?」
霊夢が言い終わるのと同時だった。閃光のように発した衝撃波が魔理沙の視界を真っ白に染め上げ、ゴ、という鈍い音が全身に突き抜けた。
魔理沙は派手に吹き飛ばされた。
*****************************
ズドン、という臓腑を揺さぶる音が発し、魔理沙の体が冗談のように吹き飛んだ。
何が起こったのか理解できた者は一人もいなかった。それまで試合の経過を手に汗握って見ていたギャラリーですら、目の前で起こった事態に瞠目し、あっと声を上げるのが精一杯だった。
「一体何が……咲夜!」
「わかりません……時を止める間もないほどの一瞬でした。一体何が……!」
咲夜の混乱は最もだった。霊夢が腕を魔理沙に向かって素早く振り抜かれたところまでは誰もが見ていたが、その先はまるでフィルムのコマ落としの要領だった。両者の間には一間ほどの距離があったにもかかわらず、まるで見えない拳が宙を飛んだかのように魔理沙は吹き飛んでいたのだから。
ズシャ、という鈍い音がして、モノと化した魔理沙の体が叩きつけられる。霊夢はゆっくりと身体を開き、残虐な笑みを浮かべた。
「なによあの霊夢……まるで獣じゃない……!」
思わず、という風に神奈子が呟いたが、“それ”は獣と表象するには余りにも凄惨すぎる存在だった。
獣ではない、ましてや妖怪でも在り得ない。二本足で立ち、はっきりとした悦びの表情を浮かべて立ち尽くす霊夢は、まさに「人間」という動物の、ありのままの姿そのものだった。この地球上で誰よりも狡猾で、誰よりも残虐な「人間」という生物の本性。その全てを剥き出しにし、傲然と立ち尽くす姿――その姿が、それを見ていた者に言いようのない嫌悪感と畏怖を感じさせたのだった。
誰もが言葉を失い、境内が水を打ったように静かになった、そのときだった。魔理沙が「ぐ……」と身体を折り、激しく咳き込む音が誰の耳にも届いた。
「魔理沙……」と思わず駆け出そうとしたアリスだったが、すぐさまそれをレミリアが引きとめた。
「何を……!」
「馬鹿ね。魔理沙はまだギブアップしていないわ。……手出しは彼女への辱めと知りなさい」
そう言ったレミリアの眼がアリスを離れ、魔理沙に注がれる。
霊夢は理性の光りが消えた双眸をぬらりと光らせ、ゆっくりと魔理沙に歩み寄っていった。そして、いまだに立ち上がれない魔理沙の両手首を掴むや、まるで重さを感じていないかのようにぐいと引き立たせた。
「魔理沙……!」
アリスが言い終わらないうちに、霊夢はぐっと腕を折り曲げると、魔理沙の身体めがけて肘を振り下ろした。再び臓腑を揺るがす轟音が発し、不可視の衝撃弾を受け止めた魔理沙の体がくの字に折れ曲がる。ぐふっ、というくぐもった声は、呻いた魔理沙の耳にすら届かなかっただろう。次々に轟音が連続し、完全に気を失っているらしい魔理沙の身体が痙攣するように動く。
まさに外道。贔屓目に言っても死にかけの人間をいたぶる霊夢は、時に笑い声さえ上げながら魔理沙の身体を玩具にしている――それは妖怪たちの目にもあまりに酸鼻極まる光景だった。誰もが顔を強張らせ、思わず目を背けた、そのときだった。
「なっ、何アレ……!」
半ば悲鳴のような早苗の声が発して、全員が顔を上げた。「どうした?」と声を上げた諏訪子に、早苗は霊夢を指差すと「霊夢さんの下腹部に何かが……!」と震える声を発した。
全員の目が、今度は霊夢に注がれる。
霊夢が穿いたドロワーズの下腹部――というよりは股間に近い位置に、何かがべったりと貼りついている。あれは一体なんだ? 全員が目を凝らした瞬間、“それ”は月明かりの青白い光りにはっきりと浮かび上がった。
それは赤子のそれとしか言い表すことの出来ない、不気味な嘲笑を浮かべた顔だった。
ざわ、と人垣が揺れ、その場にいた全員が目を剥いた。
「なによアレ……赤ん坊の顔……?!」
思わず、という風なレミリアの声に「フェアリーバースト……」という独白が重なり、全員が声を発した方向に視線を移した。
紫だった。紫は顔を扇子で隠す様にしていたが、その顔はどことなく強張っているようにも見えた。あるいは月明かりの元でなければ、紫の額に滲み出た冷や汗の球がはっきりと見て取れたに違いない。
「なるほど、あんなものが持ち込まれていたなんて……霊夢がやたら強かったのも納得だわ」
奇妙に静かな声だった。一体何を得心したというんだ、一体アレはなんなんだ。百もの問いを含んだ視線が向けられていたが、そんな視線を全身で受け止めた紫が発したのは「勝負アリ、ね。あれでは魔理沙に勝ち目はない」という冷静な一言だった。
「神速の腕の一閃によって衝撃波を発生させる技……か。想像以上だな」
そのときだった。ここにはいない男の声が背後から発せられ、全員が驚いて後ろを振り返った。見ると、博麗神社の長い石段を登ってくる人影がある。月明りに照らされ、影の形が徐々にはっきりしてきたとき、一番最初に声を上げたのはアリスだった。
「あなた、香霖堂の……!」
「お、これは珍しい。みなさんお揃いなのか」
その声に、森近霖之助は無表情に応じた。
霖之助は、どういうわけか褌一丁だった。なんだコイツ、と言いたげな一同の視線など意に介さないように、霖之助は実にのんびりとした所作で夜空を見上げる。
「いやはや、ずいぶん時間が経っちゃったな。本当ならもうちょっと早く来る予定だったんだけど、これを紅魔館の大図書館から探り当てたときには夕方だった。――門番と図書館の主を説得する時間がなければ、日没までにはここに来れたのにな」
霖之助は暢気に言うと、手にした分厚い革張りの本を指で弾いた。手にあったのは、ボロという言葉ではまだ足りない、古紙の寄せ集めと言った方がしっくりくるような古本だった。あちこち手垢と日焼けで煤け、表紙などは半分千切れかかっている。何度も壊れ、破け、その度に補修されてきた壮絶な歴史を一目で物語っているようだった。
数百年分、もしくは数千年分の歴史を蓄積している表紙の瑕を愛おしそうに眺めた霖之助は、それを褌の中に押し込んだ。
「うわ、ちょ……」
「お嬢様、私が後で返しておきますから……」
嫌そうに顔を歪めたレミリアの肩を叩いて、咲夜が言う。「そういう意味じゃないのに……」と言ったレミリアに構わず、霖之助は霊夢と魔理沙を見やってから、表情を険しくした。
「やれやれ、ひどく魔理沙を虐めてくれるな。直接見て確信した。あれはやはり、“アカサン”だ」
「アカサン……!?」
なんだそりゃ、というように言った神奈子を一瞥し、「いくら太古の昔から生きている神といえど、あれを知っている人間は限られてるから知らなくて仕方ない」と続けた霖之助は、すました顔で眼鏡を押し上げた。
「あなた、アレがどういうものか知っていたの?」
誰もが頭の上にクエスチョンマークを浮かべている中で、唯一話の筋を理解した上でそう問うたのは紫の声だった。霖之助は紫の方は見ずに「まさか」と言下に否定した。
「アレがあんなに危険なものだと知っていたなら、僕はその足で地霊殿の焼却炉にでも放り込んでいたよ」
霖之助はそう言うと、「今から数千年、いやもっと前の話だ」と前置きしてから、話し始めた。
*****************************
「世界に人や妖怪が現れる遥か以前、“外の世界”に存在していた国、シンニッポリ……。そこの生態系の頂点に君臨し、高度な文明を築いていた種族がいた。あの赤ん坊はその彼ら――『森の妖精』たちが作った呪具だ」
外の世界、シンニッポリ、『森の妖精』……そこにいた誰もが霖之助の声を反芻し、しばらくして理解を諦めたかのように困惑した視線を霖之助に戻した。
全員の声を代表したかのように諏訪子が聞いた。
「妖精って、チルノとか大妖精みたいな?」
「妖精とは名ばかりさ。妖精というより……そうだな、鬼に近い種族だ。もっとも、今この地上に存在している鬼たちとは比較にならないほど、強力な存在だったようだけど。……彼らは後世に様々な言葉で表象され、歴史にその名を残している。あるときはアダム、あるときは唯一神マッラー、またあるときは創造主その人、あるいは――」
全員が息を飲んだ。そこで霖之助もおもむろに言葉を区切った。
「彼らがシンニッポリを治めていたとき、外の世界は清く、秩序正しかったという。それは彼らが哲学と呼ばれる学問を推奨し、自らの肉体を限界まで鍛えていたからだと言われているが……。それはともかく、彼らは決闘を行うとき、あの赤ん坊の顔を身につけて戦ったと言われている」
そこにいた全員が息を呑む気配が伝わる。
「あれはいわば聖戦の証。彼ら『森の妖精』の闘争心の記憶が染みこんでいるんだ」
「そっ、それじゃあ、霊夢は……!」
思わずという風に霖之助の言葉を遮った早苗に、レミリアが変わりに答えた。
「あの赤ん坊の顔に闘争本能を刺激され、暴走している――そういうことね?」
「さすがは吸血鬼のお嬢様。その通り……いや、そうとしか考えられない」
そう言って霖之助は霊夢を見た。霊夢の目からはすでに理性の光が消え、ぐったりとして動かない魔理沙をいたぶっている様は、すでにレスリングというよりも殺し合いのそれだった。
「霊夢がレスリングに没頭し始めたのも、全部が全部そうじゃないだろうがアカサンのせいだろう。無論、霊夢に『森の妖精』の加護がある限り、魔理沙に勝ち目はない」
「どうにかならないんですか! これじゃあ反則じゃない……!」
滅多に自分から発言することのない咲夜が、珍しく激情した様子で霖之助に詰め寄る。瀟洒で完璧なメイドのやり場のない熱情――いまや全員の願いと化しつつある言葉を受け止めても、しかし依然として霖之助の表情は動かなかった。
「とにかく、今の霊夢は鬼の腕力と天狗の素早さ、そして吸血鬼の残虐性を併せ持っている。僕らが束になっても勝てる相手じゃない。その闘争本能が鎮まるまで、徹底的に破壊の限りを尽くすだけだ。幻想郷は森の妖精の力の前に為す術なく滅ぶだろう」
「そんな……! 彼女、やっと自分の心に素直になれたのに……これじゃああんまりだわ……!」
どうにかならないのか。その思いを不器用に伝えた咲夜は、その願いが叶わぬ願いだと知って歯を食い縛る。
これでは敗北どころか、魔理沙は二度とレスリングが出来ない身体になってしまう。どうにかならないのか……!? 誰もが焦燥を露にして拳を握り締めた、そのときだった。
「しかし、僕らが束になれば、少なくとも試合をイーブンに戻すことは出来るかもしれない」
その言葉に、全員が弾かれたように顔を上げた。霖之助の眼鏡の奥の瞳は、ほんの少しではあるが笑っていた。
「そこで皆さんに提案がある。――僕の思いつきに、つき合ってみる気はあるかい?」
今の笑顔と同じ、ほんの少しの可能性。ゼロに等しいその可能性にすべてを賭けてみないか。そう提案する声だった。一瞬、呆けたように霖之助の顔を見返した咲夜は、「それはもちろん……!」と言い掛けて、そこではっと口をつぐんだ。
「お嬢様――」
「聞き返さなくて結構よ、咲夜」
レミリアは憮然と言うと、「香霖堂、勝ち目はあるのね?」と言って霖之助の顔を見上げるようにした。霖之助はその瞳をまっすぐに見返した。
「魔理沙は、唯一残された僕らの希望だ。霊夢の動きを数分でも止めることができれば、あとは魔理沙の実力と爆発力がすべてを決する」
「面白い、私は乗った」
威勢よく言い放ったのは、神奈子だった。すぐさま隣にいた諏訪子と早苗が「私も乗った!」「私もです!」と賛同し、アリスも「やるしかないわね」と賛同する声を出した。
霖之助はその宣言に頷き、それからちら、と横を伺った。
「それで、君はどうなんだ? 八雲紫」
紫はその言葉に無言を通したが、やがて太いため息をつき、額に手を当てて首を振った。
「……アカサン、あんなものが幻想郷に持ち込まれていたら危険ね」
イエス、と霖之助は受け取った。「決まりだ」と呟いた霖之助は、コキコキと首を回しながら薄く笑った。
「やれやれ、僕も子離れしないとな。――いくらレスリングといえど、魔理沙が負けるのが面白くないなんて、過保護にもほどがある」
その一言に、その場にいた者たちの間から苦笑が漏れた。過保護であることなど重々承知だ、と唱和する失笑だった。
そこにいた全員が、これから数秒後、あるいは一瞬後に訪れるだろう未来を想像していた。
おそらく、今までの敗北の中では一番無残になるものだろう。その予感は、全員の胸の中にあった。
無残にも霊夢にパンツを剥ぎ取られ、無様に裸体を晒すことになるかもしれない。
せっかく作ったチャンスを掴み切れなった魔理沙は、霊夢を仕留め損なうかもしれない。
しかし――今やひとつになった全員の心のどこかが、そうはならないと反駁していた。
なぜなら、魔理沙はきっと勝つから。自分たちがこじ開けた未来への扉に飛び込み、その先にある栄光の未来をきっと掴み取ってくれるだろうから。自分たちが出来るのは、その可能性を信じることだけだから。魔理沙が勝てば、自分たちのしたことは無駄にはなり得ないから――。
互いの呼吸、血流、心臓の拍動までが一体化し、響き合い、壮大な交響曲のように絡み合ってゆく。
それは幻想郷に真のパンツレスラーの魂が生まれ、青白い火花を出しながら燃え上がった瞬間であった。
「待ってろ、魔理沙――!」
霖之助の言葉と共に、パンツレスラーたちは一斉に地面を蹴った――。
*****************************
ぐわっ、と闇が裂け、魔理沙は起き上がった。途端に、全身の骨が砕けたような激痛が全身を突き抜け、魔理沙は盛大に呻き声を上げた。それでも必死に四つんばいになると、魔理沙はもはやどこが痛むのかもわからない身体で周囲の状況確認に努めた。
頭上には満天の星が輝き、月明かりに照らし出された闇はどこまでも透き通っていた。こりゃあの世じゃなくて現実世界か。激痛に 理解がやってきた刹那、「……魔理沙、おはよう」という聞き馴れた声が背後に発し、魔理沙は痛みも忘れて振り返った。
「香霖……なんでここに……!?」
「おっと、何やってるんだ、なんて……聞かないでくれよ……」
そんなこと言っても、と魔理沙は思った。実際に何をやってるんだ、こいつら。
魔理沙の目に映ったのは、全身を隙間なく押さえ込まれ、うつ伏せに組み敷かれている霊夢の鬼の形相だった。
右手を咲夜と紫が、左手を神奈子が。右足にアリスと諏訪子が、左足には早苗とレミリアが、それぞれ全身で組みついてしっかりと押さえ込んでいる。そして「ぐおおお……!!」とうめき声を上げる霊夢に背中側から圧し掛かり、首をがっちりとホールドしているのは霖之助だった。
想像外の事態を目の当たりにした脳が処理過剰を起こし、魔理沙はぽかんと口を開ける羽目になった。
「なに……やってるんだ……? みんな……」
「馬鹿たれ……! 見りゃ……わかるだろ……!」
神奈子が鼻息を荒くし、額に青筋を浮かべながら答える。「いや、全然わからん……」と馬鹿正直に首を振った魔理沙に、「バカ……アンタのためよ……!」というアリスの言葉が投げつけられた。
「はっ、離せ……! 離しなさぁい……!」
霊夢が発したうめき声に、右腕に取り付いた咲夜と紫が口々に答えた。
「できない相談ね……!」
「可愛い可愛い私の霊夢……でも今は大人しくしていてもらうわよ……!」
必死に身を捩り、まとわりつく腕を振りほどこうとする両の足を、諏訪子とレミリア、早苗がさらに力を込めて締め上げた。
「まり、さ……魔理沙! 何してるの……!」
「今私たちが霊夢さんを抑えています……! はっ、早くアカサンを……股間の赤ん坊を……!」
「何ボケーッと突っ立ってるのよ……! かっ、カリスマの私に、はっ、恥をかかせないで……!」
よってたかって叱咤された脳が、きしむ音を上げながら再び動き出した。
ああなるほど、そういうことか。よくわかったぜ。
こいつら、私にレスリングをさせようとしているのか。
そう理解した瞬間だった。ボロ雑巾同然の身体に不思議な力が沸き起こるのを魔理沙は感じた。
あぁ、こいつらバカだなぁ。
バカだけど、今のお前らは最高にまぶしいぜ、この野郎。
胸の辺りから発した熱は、ほんの数秒で炎のような熱さになった。その熱は心臓が送り出す血流に乗り、指先にまであまねく行き渡って、傷ついた身体を優しく癒してゆく。
立てる。まだ闘える。その確信が何の疑いもなく胸に立ち上り、魔理沙は上半身を起こした。痛みに抗い、もうやめてくださいと懇願する自分をも脇に押しのけて、魔理沙はその場に立ち上がった。
よろめきながらも立ち上がった魔理沙を見て、霊夢が瞠目する。
内臓から骨から散々痛めつけたはずなのに、何故立ち上がれる……!? 修羅の形相を浮かべる顔は、無言の内にそう語っていた。その羅刹の表情に股間の赤ん坊の顔の顔を重ね合わせた魔理沙は、我知らず笑みをこぼした。
「へっ、残念だったな、赤ん坊……。ズルするのは、ここまでにしようぜ」
瞠目した霊夢の顔は、見なかった。
魔理沙は地面を蹴ると、霊夢の身体に取りついた。足を固めるアリスやレミリアの頭を踏んづけるようにして霊夢の股間に手を伸ばした魔理沙は、下から掬い上げるようにして赤ん坊の顔を鷲づかみにした。
グチャ、という生物の体が破壊される生音が伝わり、霊夢の股間に貼りついた赤ん坊の顔に魔理沙の指先がめり込んだ。
「ア゛――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――ッ!!」
霊夢の絶叫が夜の空気を引き裂き、あらゆるものをビリビリと振動させた。
途端に手足に纏わりついた身体を跳ね除けようとする力も倍増したようだったが、誰一人として力を緩めるものはいなかった。その悲鳴は霊夢のものではない。股間に貼りつき、霊夢の身体を支配しているあの赤ん坊が上げさせているのだと、魔理沙は知っていたのだ。
この野郎、よくも好き勝手にいたぶってくれたな……腕の筋肉がここぞとばかりに膨張し、五本の指を赤ん坊の顔にさらにめり込ませると、魔理沙は有無を言わさずにドロワーズを引き剥がしにかかった。
ミチミチ……という音と共に、霊夢が穿いたドロワーズが縫い目から裂け始める。それを見た魔理沙は倍する力を指に込め、がむしゃらに赤ん坊の顔を引っ張った。赤ん坊の顔に五本の指がさらにめり込み、牛乳ともカルピスともつかない粘液が顔の破口から流れ始めた。
「オオオォォ……! ま、魔理沙ァ……! こんなことをして許されると……!」
霖之助の両腕の下から、霊夢の声で赤ん坊が呻いた。
やかましい、黙れよ……! 奥歯が砕けるほどに歯を食い縛る。魔理沙は霊夢の尻に足をかけてつっぱると、全身全霊を込めて赤ん坊の顔を引っ張った。
「おらぁぁぁぁあああぁぁあ!!」
「あああぁぁぁあぁあぁああ!!」
怒号と絶叫が渦を巻いた刹那、布が引き裂ける音がそれに混じった。グチャ、という音と共に赤ん坊の顔が引きちぎれたのと同時に、霊夢の尻を包んでいたドロワーズが体から引き剥がされた。
「や、やった……!」
誰かが叫んだ瞬間だった。霊夢の左腕を極めていた神奈子が弾き飛ばされた。咲夜と紫も宙を舞い、受身を取る暇もなく地面に叩きつけられた。
「このぉっ……!」
霊夢の頭がバネ仕掛けのように動いた刹那、ゴリッという固いもの同士が衝突する音が発し、霖之助の鼻柱に霊夢の後頭部がめり込んだ。パッと鼻血が散り、途端に首を絞めていた霖之助の両腕が緩む。右足、左足に取り付いていた早苗やアリスも霊夢の強力をこらえきれずに弾き飛ばされ、霊夢の五体が自由になった。
「アカサンが……私の切り札が……!」
霊夢が悲鳴にも似た声を上げ、魔理沙の手に握られたドロワーズに手を伸ばす。魔理沙はドロワーズを境内の横の草むらに投げると、霊夢は反射的にドロワーズの消えていった方向に手を伸ばした。
させるか。魔理沙は地面を蹴り、立ち上がろうとする霊夢の腰に突進するようにして組みついた。
不意を突かれた霊夢がバランスを崩し、手をつくことも出来ずに地面に倒れ込んだ。「離して……!」と取り乱したように叫んだ声に構わず、魔理沙は霊夢の首に手を伸ばした。
するり、と霊夢の首に魔理沙の腕が絡みついた。霊夢は慌てその両腕を引き剥がそうともがいたが、そのときには魔理沙の腕は完全に首に食い込んでいた。
魔理沙は膝立ちになると、そのままの格好で霊夢を立ち上がらせた。「うぐ……!」とうめいた霊夢が、どす黒く変色した顔で魔理沙の顔を見上げる。
「なっ、何をする気よ……!?」
「決まってるだろ……! お前を、倒すんだぜ!」
その宣言に、霊夢が瞠目する気配が伝わった。
こいつを倒すためにはこれしかない。そんな声を、魔理沙は確かに聞いていた。
魔理沙もそれに異論はなかった……いや、どこかで予見してすらいた。非才の自分が当代一の天才巫女と呼ばれる霊夢との勝負に勝つには、己が命を削るしかないことを。
この技だけは死んでも決める。そう心に固く誓った魔理沙は、恐怖心も何もかもかなぐり捨てて、霊夢の頭をロックしたまま走り出した。
一歩踏み出すごとに、恐怖感も増した。
徐々に上がってゆくスピードの中、魔理沙は自分が死に向かって走っていることを自覚していた。
馬鹿だとわかっていた。
無茶であることもわかっていた。
しかしそれ以上に、霊夢に勝ちたいという思いは、その他のすべての感情を圧して胸の中に立ち上っていた。
今ここで決める。魔理沙はもう一度誓った。幻想郷やこの世界がまだ不定形に海を漂っていた太古の昔。使用者の命を喰らう代わりに幾多の猛者たちをマットに沈めてきた最終奥義、妖精超特急(フェアリー・エクスプレス)を――!
引きずられるようにして走る霊夢は、進行方向に何があるのかを見て瞠目する。
視線の先にあったのは、博麗神社の大鳥居だった。
過去、如何なる暴風雨にも揺らぐことがなかった大鳥居。それは境内で繰り広げられている喧騒にも動じず、いつもと変わらぬ様子で佇立していた。その鳥居の太い柱が猛スピードで迫ってくる光景を見た霊夢は、魔理沙が何をしようとしているのかやっと理解したようだった。
「あんた……私を倒すのと引き換えに死ぬ気なの……!?」
「お前を倒して死ぬなら、それでもいいぜ……! 最後までつき合ってくれよ、霊夢……!」
「やっ、やめなさい……! やめっ……!」
「これが霧雨式妖精超特急、マスターエクスプレスだぜぇっ!!」
瞬間、魔理沙の怒声と霊夢の悲鳴が交錯した。
事態の行方を見守っていたギャラリーが声を上げる暇もなかった。全員が息を飲んだのと同時に、二人の体が猛スピードで鳥居に吸い込まれていった。
*****************************
それはあたかも、物質同士の対消滅を思わせる光景だった。
不安定で、互い以外には寄る辺を持たない物質同士が融合し、再びひとつになってゆく。その場にいた誰もが、臨界に達した二人の身体が発熱し、溶け合ってゆく様を幻視した刹那のことだった。
すべてを圧する光りが世界中を白一色に染め上げ、続いて、ドン! という衝撃音が大気を揺るがした。
途端に、二人を中心として生じた衝撃波が音速の突風となって荒れ狂った。対消滅によって生じた莫大
なエネルギーはその力を余すところなく拡散させ、砂粒や枯葉を巻き上げながら膨大なエネルギーの波を博麗神社内に押し広げていった。
社殿の障子紙が破れ、固定されていないものは例外なく吹き飛ばされた。神社を囲む針葉樹の木立がざわざわと揺れる一方、空の賽銭箱が地面を転がり、拝殿の鈴までもが千切れ飛んでゆく。
その場にいたものですら、身構える暇もなかった。ぶわんと空気がたわんだと思った瞬間、博麗神社にいた全員が見えない拳に張り倒されたかのように地面に叩きつけられた。
受身の姿勢を取ることができた者は少数で、その場にいたほとんどがモノと化して境内を転がった。何とか決着を見届けようとした者も、やがて吹きつけてきた砂粒混じりの突風に視界を潰されていく。
「何が起こったのよ……!」
そう呟いたのはアリスだったのか、それとも紫だったのか。
吹きつけた突風に打ち据えられ、神社の拝殿近くまで吹き飛ばされた霖之助は、その勢いのまま拝殿の柱に後頭部を強打した。ゴ、という音と共に視界が暗くなり、意識までもが飛びかける。思わず前傾姿勢になってうずくまった霖之助は、たっぷり十秒ほどうめき声を上げる羽目になった。
そのときだった。ギシッ……という耳障りな音が馬鹿になった耳に聞こえ、霖之助は弾かれたように顔を上げた。もうもうと土煙が上がる中、博麗神社の大鳥居は不気味にその身を打ち震わせ、霖之助の目の前で大きく傾いでゆく。
メキメキ……という断末魔の悲鳴が、それを見ていた全員の耳に聞こえた。やがてその身を大きく傾がせた大鳥居は、ゴォン、という臓腑を揺さぶる音と共に砂煙の中に姿を消していった。
しばらく何が起こったのか理解しきれず、何度も打撃を喰らった頭が馬鹿になったのではないかと心配した霖之助だったが、そうではなかった。土煙を呆然と見つめた霖之助の喉だけがかすかに上下し、そこからしわぶきのような呟きが漏れた。
「終わったのか……」
呟いてみても、誰も返事を返さなかった。
咲夜ですら、茫然自失の状態で鳥居が消えていった方向を見ている。時を止める間もなかったのだろうことは、呆けたように開かれた口が物語っていた。
その隣でへたり込んでいる紫も同様だった。豪奢な金髪はすでに土埃に塗れ、あちこち解れて凄惨なものとなっていた。その隣で唖然としているレミリアの顔はすっかり煤けてしまっており、カリスマの片鱗すら見つからない有様だった。
アリス、早苗、神奈子、諏訪子と視線を移動させ、全員が同じような状態になっていることを漫然と理解した霖之助は、もうもうと立ち上る土煙に視線を戻した。
二人分の命を吸い込んだ土煙は、徐々にその勢いを弱めつつあった。痺れた喉がもう一度だけ動き、頭の中に浮かんだたった三文字の言葉を呻かせた。
「魔理沙……」
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魔理沙がはっと目を開けると、暗闇の中にいた。
暫くあたりを見回すと、ギリリと全身が痛んだ。神経を磨り潰すような激痛に呻いた魔理沙は、唯一動かせる口で、あぁ、と嘆息した。
「私は死んだんだぜ……」
急に、可笑しさがこみ上げた。
自分は勝ったのだろうか、負けたのだろうか。彼岸に来てしまえばそれすらわからないのに。今更のようにその事実に気がつく自分の迂闊さに、とめどなく笑いがこみ上げてくる。
霊夢はどうなったんだろう。その想像が頭に浮かんできて、魔理沙は笑うのをやめた。あー……、悪いことにつき合わせちゃったな。そう思った途端、今更ながらに罪悪感が込み上げてきたが、魔理沙はそれ以上考えるのをやめた。
魔理沙の頭は生来の暢気者気質を取り戻しつつあった。気心知れたあいつのことだ。酒でも振舞えば許してくれるだろう。四季映姫が迎えに来て、あいつと直接顔を合わせるまでは楽観を決め込もうと決めて、魔理沙は寝転んだ。
勝利の陶酔とも、疲労とも違う眠気が全身を満たしていた。とても気分がいい。まるで雲の上に寝転がっているようだった。あんな激闘の後だし、身体は無意識に睡眠を欲しているとしても不思議はない。
少し寝るか。そうひとりごちて、魔理沙は目を閉じた。
――寝るのか? だらしねぇな?――
不意に、男の声が聞こえた。だらしねぇ……? その妙な言い回しに、魔理沙は片目だけを開けた。
声の主はいなかった。痛む身体を叱咤して魔理沙が起き上がると、また男の声が聞こえた。
――お前は人の子。人は生まれながらにして、他者と衝突し、戦い合うという宿命を背負っている。時に人は争いに疲れ、今のお前のように己が身の破滅を願うこともある。それは宿命だから仕方ないね――。
魔理沙はうつ伏せになって目を閉じた。うるせー、そんなもん知るか。私は疲れているから眠りたいんだぜ……そう心の中に呟くと、今度は別の男の声が聞こえた。
――だが、そんな宿命を背負っていても打ち破ることが出来る。救いがないなら、自分自身が救いとなればいい。かつて我々は絶望の果てにそれに気づき、この地でレスリングを創始したのだ――。
魔理沙が無言を貫くと、また別の男の声が聞こえた。
――戦うことは、やっぱり怖ぇ。しかし、それでも我々は戦い続けた。肉体と肉体の激突の果てに望む明日が来ると信じた。パンツを剥ぎ取ったその手で、滅びとは違う別の未来が掴めるのだと信じた。しかし、そのときは全てが遅かった。我々は世界を変えることが出来ず、やがて生きる意味を失った――。
小難しい話に、柱に強か打ちつけた頭が痛んだ。なんだこいつら、やたらに哲学的な話をしやがるぜ。魔理沙が顔を上げると、また別の男の声がした。
――結果的に我々は滅びの道を辿った。歴史の敗者として消滅し、人々の記憶からも永遠に忘れされられたのだ。しかし、お前は違う。お前は勝利したのだ――。
その言葉に、魔理沙は身体に不思議な力が沸き起こるのを感じた。なんだと……? と問い返すと、声は続けた。
――お前は博麗霊夢に勝利した。我らが遺した旧世界の残滓をも打ち破り、閉塞の果てに生まれた新世界へと飛翔した。『Girl's next door』……そう呼んでいいだろう。試練は乗り越えられ、この世界は新生の時を迎えた。宇宙誕生の歓喜と放埓……その再現は使いきれぬほどの自由と安寧を意味してもいる――。
――勝利を手に入れたお前にもはや自分を縛る枷は何もない。お前が望めば世界はそれに応えるだろう。お前が願えば何にでもなることができるだろう。悪魔にでも、天使にでも、たとえ蟹にでも――。
まるで一篇の詩を聞いている気分だった。「試したってのか、私たちを……?」と尋ねても、問いが返ってくることはなかった。その代わりに、再び最初の男の声がした。
――お前のような気高き心、折れぬ闘志が備わった者ならば、我々が見たものとは違う形の未来を……もっと健やかな世界を築いてゆくことが出来るだろう。己を戒め、他者を許容し、素直に賛美することができるような、歪みねぇ世界を――。
一つ一つの言葉が、傷ついた細胞を癒していっているかのようだった。ボロ雑巾になった身体が不思議な力に包まれ、力が戻ってくるのがはっきりと知覚できる。それは逞しい腕に抱かれる感覚にも似て、身体の全てを預けてしまいたい大らかさに満ちていた。
あんたたちは一体誰なんだ? なぜ私たちを試した? なぜ試さずにはいられなかった? それが人だから? それが未来へと繋がる唯一の方法だと知っていたから――?
問うて見ても返事が返ってこないことはわかっていながらも、魔理沙が口を開こうとした瞬間だった。まるでそれを悟ったかのように男の声が押し被され、魔理沙は口を閉じた。
――さぁ、もう戻りなさい。そして、自分が望む理想を信じるのだ。それはとても歪みねぇこと……いくら願っても手に入らぬ、我々ですら掴むことが叶わなかった未来、絶対勝者だけに許される安寧――お前はそれを掴んだ。だからここにいてはならない……――。
その言葉は、楽園からの追放宣言のように感じられた。「待ってくれよ……!」とわけもなく狼狽した魔理沙が手を伸ばした瞬間、魔理沙の指先が触れたところの闇が真一文字に裂け、柔らかな光りが世界に満ち溢れた。
あまりのまぶしさに、魔理沙は手で顔を覆った。
白一色に染められた視界に、屈強な男たちの影を見た気がしたが、それも一瞬のことだった。次の瞬間にはその影ですら飲み込まれ、光の中に別れを告げるように男の声が響いた。
――ありがとう、小さなパンツレスラー。我々が掴めなかった未来の姿を見せてくれた、偉大なレスラーよ――。
*****************************
眠りの薄皮が裂けるように、魔理沙の意識が身体に戻ってきた。
徐々に焦点が合ってくると、心配そうにこちらを覗き込む無数の瞳が目に入った。
「ここは……?」
血と土埃にかさついた魔理沙の唇がそんな呟きを漏らすと、「気がついたのかい?」という懐かしい声がした。
煤と血で汚れた顔が霖之助らしいとわかるまでにずいぶん時間がかかった。視界がひどくぼやけている上に、霖之助の顔にあるはずの眼鏡がない。にっ、という感じで笑いかけた霖之助に「ああ……香霖か……」と気が抜けたように呟いた瞬間、こちらを覗き込む一人の顔からぼろぼろと涙が零れ落ちた。
「魔理沙……! 馬鹿! 死んだかと思ったわ……!」
そう言ってわっと泣き出し、自分の胸に顔を埋めたのはアリスらしい。疲れきった右腕が動き、アリスの頭を撫でたところで、魔理沙はやっと身体を起こすことができた。
「あ……霊夢は……?」
魔理沙が呟くと、不機嫌そうなレミリアが顎をしゃくった。その瞳が妙に充血していたのは気のせいだっただろうか。「おい、霊夢……?」と魔理沙が言うと、その隣に座り込んでいる咲夜が首を振った。
「命に別状はないようですけれど、気絶しています。まったく……無茶するわね、魔理沙」
「本当に馬鹿ね。私の大事な霊夢が死んだかと思ったわ」
本当に不機嫌そうに呟いた紫の傍で、咲夜が笑った。普段よりも数倍明るい笑顔だった。魔理沙はよろよろと立ち上がると、数メートル離れた位置に伸びている霊夢のそばに腰を下ろした。
なんとまぁ、暢気な寝顔だろう。煤で汚れた顔には額から派手に出血した跡があったが、あの激突の衝撃を思えば軽症だったと言えるかもしれない。ドロワーズまで剥ぎ取られた霊夢の下半身をかろうじて隠しているのは、諏訪子が被っている帽子だった。
魔理沙は、その頬を平手で叩いた。
「おい、起きろ霊夢」
声を掛けると、霊夢の瞼が震えた。暫く経ってから目を開けた霊夢の顔は、数秒の間目をせわしなく動かしてから、突然狼狽した声を出した。
「私のアカサンは……!?」
「無駄だ。もうこの通り、使い物にはならない」
そう言ったのは霖之助だった。霖之助は手にしていたドロワーズをちょっと掲げるようにして霊夢に見せた。
魔理沙の指が食い込んだ赤ん坊の顔は上半分が綺麗にちぎり取られ、生々しい断面を霊夢に見せつけている。もう半分はさっきの衝突の際にどこかへ行ってしまった。そしておそらく、もう二度と発見されることはないのだろう。
「……負けたのね、私」
身体が痛むのか、少し顔をしかめた霊夢の口から出てきたのはそんな呟きだった。魔理沙が苦笑しつつ「いや、ほとんど引き分けだろ、これは」と返すと、そこで初めて霊夢の表情が変化した。
「……鳥居も壊れちゃったし、パンツは破れちゃったし、どうしてくれんのよ……」
「そっ、そりゃ仕方ねぇだろ……?」
「仕方なくないわよ、ばか」
そう言ったものの、霊夢の目は笑っていた。魔理沙もそこでやっと詰めていた息を吐き出すことができた。あれだけの攻撃を喰らってそれだけ言えりゃ御の字か。
そのときだった。ちかっと視界の端に何かが光り、魔理沙は顔をしかめた。
見ると、地平線から太陽が顔を出していた。暴力的とも言える輝きが幻想郷に満ち、魔理沙と霊夢を照らし出すと、さわやかな朝の空気が全身を心地よく冷やしてゆく。
「綺麗ですね……」
「こんな夜明け、久しぶりだなぁ……」
「あーあ、今更眠たくなっちゃった」
肩を寄せ合い、口々に言ったのは守矢神社の面々だった。なんだか気恥ずかしいような気分になり、魔理沙は朝日から逃れるように霊夢に視線を移した。
曙光に照らし出され、霊夢の顔にもさわやかな笑顔が浮かんでいた。魔理沙はそれを確認して、昇ってくる朝日に視線を戻した。
こうして、幻想郷に新しい一日がやってきた。
*****************************
それから三ヶ月が過ぎた、真夏の夜のことだった。
「それで、魔理沙。今日は言わなきゃいけないことがあるの」
急に改まった口調で霊夢が言い、魔理沙は思わず茶を噴出しそうになった。あの後、永遠亭に担ぎ込まれた両者の怪我はひどいものだった。一体どうすればこんなになるんだ、と八意永琳にしこたま大目玉を食らったのも今は昔。全身の筋肉や骨、あらゆる内臓器官が本人たちの自覚のないままズタズタになっており、普通なら歩くことはおろか立っているのですら不可能に近かったのだという。おかしいわね、死体が歩いてるみたい、と首を傾げた永琳にうそ寒い笑顔を返した二人は、それから半年間の絶対安静を申し渡されたのだった。
トレーニングはおろか、弾幕戦ですらご無沙汰している霊夢の体からはすっかりと筋肉も落ち、形だけはすっかりと元の霊夢に戻っていた。霊夢の額にはまだ絆創膏が貼りついているものの、蓬莱の薬が効力を発揮しているのか、傷跡が残る心配もないとのことだった。
てっきり、自分が破壊してしまった鳥居の修理費でも請求してくるのかと思ったが、次に霊夢が言ったのは全く予想外の一言だった。
「あの……その、わっ、私、初めてなの」
「……はぁ?」
思わずそう言った魔理沙は、霊夢の顔を穴が開くほど見つめた。霊夢の顔はどういうわけか赤くなっている。
これは何かがおかしいぞ……そう思った魔理沙に、霊夢はもじもじと続けた。
「私も負けちゃったんだから、ケジメをつけなきゃね。そっ、それはわかってるんだけど……その、どうしても、相手が魔理沙となると、どっ、どうしても言っておかなくちゃいけない気がして……」
「だぜ……?」
次に霊夢が取った行動は、魔理沙を瞠目させた。
霊夢は巫女服の裾をするりとはだけると、輝くように白い肌を魔理沙に向かって晒したのだった。
血圧が急上昇し、魔理沙は縁側に置いた湯飲みを蹴飛ばしながら後ずさった。
「ばっ、馬鹿! お前突然、なにやってんだぜ……!」
魔理沙が顔を背けると、霊夢は四つんばいになったまま魔理沙に近づいてきて、「あら、知らなかったの?」と魅惑的に囁いた。
「レスリングに負けたら、最後は炒飯……。レスリングのルールでは、勝った方が負けた方の体を好きに出来るのよ」
その言葉に、魔理沙は全身の血が逆流する思いを味わった。そんなルールあったのか。道理でみんな炒飯炒飯言ってると思った、と回らない頭で考えた瞬間、霊夢に圧し掛かられ、魔理沙はいとも簡単に組み敷かれた。
全身に力が入らない。高熱にフニャフニャになった頭が「だぜ……だぜ……!」と繰り返すと、霊夢が少しだけ小首を傾げてみせた。
「イヤ?」
ほのかに紅潮し、目を潤ませた霊夢はやたら扇情的で、とても理性を楯に抗えるものではなかった。イヤなわけないだろう、むしろ大歓迎……いや違うやっぱイヤだ。いやいやイヤじゃないんだけどダメだ、とぶんぶん首を振った魔理沙に、「そう、なんだ……」という失望の声が降って来て、魔理沙は顔を戻した。
終わりではなかった。
霊夢が、にこっという感じで笑いかけてきた。
「でも大丈夫。最後には必ず悦くなるから……」
ああああああああ!!
魔理沙は絶叫しようとしたが、喉に力が入らない。あひっ、あひぃという情けない空気が漏れただけだった。抗おうにも、茹でダコのように火照った体が言うことを聞かない。
「魔理沙ここ初めてなの? 力抜いてよ……(迫真)」
目を閉じた霊夢の顔が、ゆっくりと魔理沙に向かって落ちてくる。
こんな淫乱な霊夢見たことないぜ。淫乱霊夢、略して淫夢。これがホントの真夏の夜の淫夢……。
体が強張り、オーバーヒートを起こした頭が何も考えられなくなった。ビクン、ビクンと魔理沙の体が痙攣し、霊夢の柔らかな手が魔理沙のスカートの中に侵入してきて――。
ザァァァ……という長雨のような音が聞こえてきた。
おや? と思った瞬間、顔にかかるしぶきの感覚が、魔理沙の意識を現実世界に引き戻した。
ありゃ、霊夢はどこいった……? 思わず目を瞬き、状況の整理に努めた魔理沙は、そこでやっと自分がシャワーを浴びているのだと気がついた。
どこからが虚構で、どこからが現実だったのか。
本当に、全ては幻だったのだろうか。
骨抜きにされた頭ではすぐにはわからず、とりあえず魔理沙は最低限わかったことを口にすることにした。
「夢、か――」
了
最後まで汚れ役をやりきった霊夢に拍手。
>>スクール水着によく似た真紅のレスリングユニフォーム
kwsk
夢オチ・・・?仕方ないね。
本格的ないい話になってるってどういうことなの……
しかし一番驚いたのは、こうして最後まで読んでしまったという事実。
どういうことなの・・・
仕方ないね
どのようなネタを用いようと、結局は作者の腕次第なんだけど仕方ないね。
とりあえず冒頭の早苗さんとアリスのエロさは異常
本格的とありますが戦闘描写にやたらと人名がでてくるし必要以上にダラけている感じがした。本格的というならそういうところに気を使って欲しかったね。
それに長い上に最後は夢おちという。結局主題はなんだったのかという。長いだけ?
みたいな感じがした。
>ネタニマジレスかっこわるいのかもしれないかもですが やっちゃいます
分かってるならやめとけよ…、だらしねぇな!
じゃ、こっちもマジレスして、まずその本格的と言う言葉の意味を知ってからそういうことは言おうか。
それじゃ説得力も無いよ。
…とまあここまではどうでもいいとして、読んでてすごくガチムチパンツレスリングを愛されているのが伝わってきました。
歪みねぇ作品をありがとう。
「ンフフ」←オマエ、神主だろwww
バカらしいと思いながらも最後までテンション上がりっぱなしだった。
ちょっと病院行ってくる。
いや、もう、凄いね、カオスとか、そういう次元じゃなかった、っていうか、もう、凄い、としか言えないね、うん
ご指摘のあった「パチュリー、ヴッ!」はもちろん考えましたが構成上入れることができませんでした。仕方ないね