※この作品は、作品集101「自分の心は騙せない #1」の続編となります。
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暗い空に浮かぶのは見慣れない青い星。地平線はどこまでも続く黄色い砂漠。吹き抜ける風はなく、大気には臭いすら感じられない。
後ろを振り向くと、真っ黒な海。こちらも果てが無い。風は無いのに何故か水面は泡立ち、静かな波の音だけが測ったように同じリズムを刻んでいる。
「まるで、死んでるみたい。……これが、月?」
てゐは、誰もいない世界でぼそりと呟いた。
いったい、どこへ向かえばいいのだろう。
てゐは、変化の無い世界に困惑しながら考える。
どこに進むのにも足がかりが必要だ。このような変化の無い場所で当てもなく歩き回るほど愚かではない。ましてやてゐは地上の兎。土地勘の無い異世界に足を踏み入れたとあっては、いくら慎重を重ねても良いくらいだ。
てゐはそう思い、もう一度周りを観察する。そして今度は、遠く、はるか北西の空が微かに霞んでいることを発見した。
「んあ? なんだろ、あれ」
じっくりと霞んで見える遠くの空を見つめる。よく見えない。目を細めて、一生懸命見る。やっぱり、よくは見えない。
ただ、北西の空の、地上に面した一部分だけが確実に霞んで見える。
「……砂煙か、何かかな。ま、他に当てがあるわけでもないし、行ってみるか」
てゐは小さく呟くと、小さな荷物を担ぎなおした。
――早く、会いに行こう!
ここには、大国さまがいるのだ。殺風景な場所ではあるが、じっとしていられるわけもない。
「待ってろ、月の民! 私は、何があろうとも大国さまのところまでたどり着いてみせる!」
てゐは、不安な気持ちを投げ捨てるかのようにその場で一度大きく跳ねると、北西の空へと第一歩を踏み出した。
てゐには、一つの幸運と二つの不幸があった。
最初の不幸は、月の都への道を知らなかったこと。これは、永琳に教えてもらうわけにもいかなかったのだから、仕方の無いことかもしれない。ただ、そのためにてゐは、何の道標もなく月を彷徨わなければならなくなった。
幸運だったのは、月に来て道標を見つけたこと。てゐの見た標は、確かに砂煙。それも、命ある者が立てた砂煙だった。
何もない月面で命のいる場所を見つけたのは幸運以外の何者でも無い。これを見つけられなかったとしたら、何日も、いや運が悪ければ永遠に月で彷徨うはめになったかもしれない。
最後の不幸は、向かった先が今現在月面上で一番危険な場所であったこと。
その場所では、戦争が起きていた。
「道は爾きに在り、而るにこれを遠きに求む」
――それが、師匠の口癖でした。
自分の心は騙せない #2
目一杯弓を引き絞り、番えた矢を射る。
狙うは八坂神奈子の額の中央。もちろん、射抜けるとは思えない。これは、鏑矢代わりだ。
古来より葦原中国では、戦の前に鏑矢を撃ちあう、矢合わせという儀式がある。これは、弾幕ごっこではなく本気の神遊び。その意志をこめる。
しかし、神奈子の眉間を狙って射た矢は目標を外し、群青色の髪の毛を掠めて飛び去っていった。
まるで、自ら神奈子から逃げたように。神奈子の神威を畏れたかのように。
「ふん、矢合わせか。月の賢者もずいぶんと風流な……」
神奈子が腕を組んだまま、不敵に言葉を紡ぐ。
だが私は最後まで聞かない。すぐに二の矢を放つ。
結果はまるで同じ。神奈子の眉間を貫くように飛んだ矢は、その直前にふわりと目標を避け、満月の夜空に吸い込まれていく。
「……おいおい、矢合わせっていうのは鏑矢を打ち合うものだぞ。私が返す前に二の矢を撃ってどうする。
前言撤回だ。月の賢者殿は儀礼も解らぬ無粋者だな」
「宣戦は布告したわ。ぼうっとしているほうが悪い」
神奈子は靡く髪に手をまわし、ぼりぼりと首の後ろを掻く。
「ふん、本気というわけか。いいだろう、そういうのは嫌いじゃない」
――なるほど、風ね。
私は考える。
射った矢は狙い違わず神奈子の眉間に飛び、直前で目標を違えた。それはまるで、突風に煽られた凧のように。
おそらく、周囲に風を纏い軌道を強引に変えているのだろう。神奈子が靡かせている蒼い髪もそれを裏付けている。
――ふん。さしずめ風神様の神徳、ってところかしら。
八坂神奈子は山坂の神であり、湖の神であり、軍神であり、そして風雨の神でもある。風を操るなど造作も無いといったところだろう。
「単発の矢では通らないということね。ならば、数で攻めればどうかしら」
私は神奈子の纏う風の壁を探るように周囲に無数の弾幕を作り出し、射出する。
しかし、届かない。
全ての弾は風に流され、虚空へと消えていく。
発射点が同じであれば、確かに同じ風を吹かせるだけで弾幕を吹き流すことは可能だ。
彼女はまったく同じように風を吹かし、無数の弾から身を守ったのだ。
「……なかなか厄介ね」
私は呟く。
「攻撃が軽いんだよ。そんな弾では、何発撃っても私には届かない」
神奈子が嘯く。
それは、彼女の言うとおりだ。
弾を押し流すとはいえ、所詮は風。重い攻撃であれば貫くことは難しく無い。
魔理沙のマスタースパークやレミリアの神槍のような突破力に優れた武器があれば、風の衣など紙切れのように切り裂けるはずだ。
もちろん、私にもレーザーを撃つことはできるが、それは補助的な手段。風の壁を貫けても、神奈子に致命的なダメージを与えるには至らない。
私の戦闘は、膨大な弾数や光の網で敵の行動を封じ誘導し、少しずつ追い詰めとどめを刺す、いわば詰め将棋のようなものだ。一撃必殺のスペルなどという、偶然に頼ったコストパフォーマンスのような攻撃は好きではない。それは、運否天賦に過ぎる。
しかし、私のその戦闘方法はこの風の壁に対してはひどく相性が悪いと言わねばならないだろう。通常弾を無視できる相手をレーザーだけで追い詰めることは、私にもできない。
それに、厄介なのは風の壁だけでは無い。
私の勝利条件は、月への道が閉ざされる前、すなわち、夜明けまでに月に行き、てゐを連れ戻すこと。
神奈子が四方に突き刺した御柱が造り出す結界は強力だ。勝利を成し遂げるためには、神奈子を倒すか、御柱を壊し月への穴に転がり込むことが必要になる。
もちろん、時が経つほどてゐは先に進むだろう。連れ戻しにくくなる。
だから、この神遊びに時間をかけるわけにはいかない。
神奈子は湖の神だ。そして今、彼女は四方を御柱で固めた水面の上、天蓋に座している。それはまるで、この地を諏訪の大社に見立てたかのように。
神奈子は風の神だ。そして、彼女の纏った風の衣に対して、私の持つスペルは非常に相性が悪い。
神奈子は軍神である。そして今は戦いの真っ最中。
神には多面性がある。そして彼女は、その多面性の全てを使い、私に相対している。
「ふふ……」
私は笑い、神奈子が飛ばした隙間の大きい弾幕を避けた。
……が、避けたはずの弾は不自然に軌道を変え、私の右腿を貫く。
「何がおかしいのか知らんが、油断はしないほうがいい」
弾を追いかけるように襲い来た突風に帽子を飛ばされる。
なるほど、風は防御のみに使うわけではないのだ。
神奈子の放つ弾は手を抜いているかのように薄い。だが、その軌道は不自然にうねり、思いもよらぬ方向から私を襲う。
私はそれを避けようとするが、全てを避けるには至らない。一発二発と、次第に私を掠める弾が増えていく。
だが、私は笑いを止められない。
湖の神、風の神、山坂の神、戦いの神。神奈子はなんと多くの面を持っているのだろうか。……なんと、器用貧乏なことか。
多面性は、よくわからない伝承が交じり合うことで生まれる。「この雨を降らす神と、この戦う神はたぶん同じ神なんだろう」などという、いびつな由緒から生まれるのだ。
私は単なる知恵の神だ。他の何者でも無い。
歪められた由緒など持ってはいない。ただ、純粋に知恵の象徴なのだ。
神威を競うのに多面性は必要か? 断じて否だ。一の純粋な概念は凡百の曖昧さに優る。私は、この戦いでそれを証明して見せよう。
スペルカードを取り出し、そっと呪言を紡ぐ。
――神脳「オモイカネブレイン」。
私の目の前に、透明な合成樹脂で塗り固められた球体が現れる。樹脂に護られているのは人の脳を模した赤黒い物質。その物質は、まるで生きているかのように脈動を続けている。
これは、人が想う知恵の形を表現した自動演算装置だ。正確な情報を科学的に調査し、形而上学的に思索し、宗教的信念をもって答えを断ずる。
神奈子の結界は強力?
風と相性が悪い?
てゐを連れ戻すためには時間が少ない?
与えられた試練は確かに難題だ。少しずつ、丁寧に解いていかなければならない。
だが、構うものか。まずは、その風の壁を攻略してみせよう。
なに、知恵比べは必要ない。簡単な演算だけで十分だ。
道は爾きに在り、而るにこれを遠きに求む。
答えはすぐ近くにある。遠回りは必要ない。
神奈子の弾幕は止まらない。
私はオモイカネブレインをその場に残し、降り注ぐ弾を避ける。なに、大丈夫だ。多少の弾幕ぐらいなら、オモイカネブレインは壊れない。
強風に押され、よろめく。よろめいた先に弾。寸での所で回避する。
演算を開始する。
まずは、この風を読もう。
風を構成するのに必要な要素を考える。
すなわち、気圧、温度、前段までの気流、障害物の位置と形状、そして神奈子の思考。
外界にある演算装置は、例え最新鋭のものでも星体が二桁を超えた場合単純な引力演算を行うのにすら梃子摺るという。ましてや、構成要素が無数にある気流の演算であれば早々に答えを導けるわけもない。
だが、私は知恵の化身。全ての知識を持つと謳われる、思考の極致。そして傍らにあるのは、外界の演算装置の能力を遙かに凌駕する補助思考装置、オモイカネブレイン。
ならば言おう。このようなものは単純な物理演算と。
降り注ぐ弾が流れ来る。
軌道を演算し、避ける。
避けたはずの弾が風に流され、私の頬を掠める。
こちらの動きに対する神奈子の思考を考慮していなかった。修正。
弾が流れ来る。
避ける。追いかけてくる。
予想して避ける。今度は問題なく避ける。
こちらから弾を撃つ。
風に流され虚空に消える。
更に弾を撃つ。気流を計算し、直接狙撃を一発。「それを避ける風を起こした場合に当たる」軌道に一発。計二発。
風が変わり、やはり当たらない。
一点からの狙撃では無理か。
オモイカネブレインを利用し、別地点からレーザーを飛ばす。この演算装置は四本のレーザーと毎秒百二十発程度の弾を飛ばす機能がある。
神奈子がはじめて身体を動かし、避ける。
やはり風ではレーザーを曲げることは出来ない。いや、精密に言えば曲げられるのであろうが、その軌道変更は極小として除外できる。
神奈子の弾幕が厚みを増す。
しかし、もうそれは当たらない。
こちらを狙う弾の軌道については、全ての演算を終わらせている。
もう一度レーザーを撃ち、神奈子の行動範囲を制限する。そして私から弾幕。
だが、今度はそれだけでは終わらせない。オモイカネブレインより、別地点からの支援射撃。
神奈子の纏う風が揺らぐ。
刹那の間に変化し続ける気流。
私は、その気流の全てを演算する。
今は神奈子もその場で座しているわけでは無い。
制限された移動範囲の中、小刻みに動き、的を絞らせない。
私は、その回避思考の全てを演算する。
もちろん神奈子からの反撃も止まりはしない。
最初の探るような弾幕の薄さは今は無い。ただただ分厚い弾の雨が風に乗り私に降り注ぐ。
だが、私はその軌道の全てを演算する。
――無数の弾が虚空に消えていき。
いつしか、私の撃った一発の弾が揺らぐ風を捕らえ、神奈子の肩を切り裂いた。
「……っ!」
神奈子の顔に初めて焦燥の色が浮かぶ。
レーザーを避けるように上昇すると、更なる弾をこちらに撃ってくる。
だがもう、捉えた。
レーザーの軌道を修正し、こちらの弾幕を風に乗せる。
気流の変化さえも演算し終えた弾幕は、避ける神奈子を逃しはしない。
二発三発と、神奈子を捉える数が増える。
「ええい、うっとうしい!」
神奈子が叫び、オモイカネブレインに弾幕を集中する。
なるほど、彼女がダメージを受けるのは、オモイカネブレインを用いた二方向からの射撃のせいである。オモイカネブレインさえ破壊すれば、私の射撃が通る道理は無い。
オモイカネブレインが被弾し、やがて動きを止める。
だが、それも想定済だ。
「……神脳『オモイカネブレイン』」
私は焦ることなく、次なる演算装置を召喚する。
既に攻略は完了している。
今となっては、状況は逆転していた。
私の攻撃は面白いように当たり、彼女の攻撃はまったく当たらない。
時折彼女は思い出したようにオモイカネブレインを破壊するが、それは何の意味も成さない。新しい演算装置を呼び出せばいいだけだからだ。
神奈子は、いつしか風の操り方を変えていた。
今は、先ほどまでのように弾を風で流そうとはしていない。ただ、先ほどより強く周囲に風を纏わせているだけ。
おそらく、被弾しないでいるのは無理だと考え、ダメージの軽減に努めているのだろう。私の弾幕は風に阻まれ、思うようにダメージを与えることはできていない。風神の神徳は未だその効力を失ってはいない。
……だが、それだけでは、単に敗北までの時間を長引かせているだけだ。彼女の攻撃は当たらず、私の攻撃は少しずつでも彼女の体力を削っているのだから。
「……そろそろ諦めたらどうかしら?
このまま戦っても、あなたが勝てるとは思えないわ」
私は彼女に通達する。
敗北を認めるなら、そのまま月に行きてゐを連れ戻すだけだ。
だが、神奈子はまだ敗北を認めはしなかった。
私の弾が切り裂いた無数の裂傷から血をにじませ、されど一歩たりとも退きはしないという決意の表情をもって、私の視線を跳ね返してきた。
「……軽いな」
呟くような声で、彼女は言った。
「は? 今何を言ったのかしら」
「先ほども言っただろう、軽いと。
お前は軽いんだよ。攻撃も、考えも。
大方、風を読みきることが何より重要だとでも思っていたのだろう。
だが、生憎そんな小細工では私は折れないし、お前の攻撃で私を落とすことは出来ない」
「…………」
私は下唇を噛み、彼女を見つめる。神奈子は私を怒らせようとしている。冷静に処理しなければならない。
「……そして、何より軽いのは信仰だ。
お前たち月の民は、地上から離れ人間と直接関わることを止めた。
そこにあるのは、上辺だけの付き合いでしかない。信仰とはそのようなものではない」
……なるほど、彼女はまだ敗北を認める気はないようだ。
それならば、これ以上妄言を聞いてやる必要もあるまい。
私は再び、弾幕を発生させる。
私とオモイカネブレインより射出される無数の弾が、神奈子の頬を、肩を、手足を切り刻んでいく。
「無駄だと言っているだろう。
私の氏子たちは、私の神殿を作るのに命さえも賭ける」
顔を、身体を血に染めながら、神奈子は右手を振りかざす。
天空が歪む。
そこから現れたのは御柱。
彼女の言う、諏訪の武神の信仰の象徴。
「……だから私は、どんなに困難でも彼らの信仰に報いることを厭わない。
たとえ自分の血を流しても、彼らと共に戦うのだ。
それが信仰だ! 信仰とは決して馴れ合うものではない!」
神奈子の叫びに答えるかのように御柱が空気を切り裂き、オモイカネブレインを貫いた。
「何のつもり? それだけ大見得を切っておいて、やることは同じなの?」
私は直ちに新しいオモイカネブレインを呼び出す。
オモイカネブレインに残数があるとでも考えているのだろうか。 生憎、これは無数に造り出すことができる。
作り出したオモイカネブレインは、すぐさま次の御柱に潰された。
私は一瞬言葉を無くす。
オモイカネブレインが潰されるのは想定内。しかし、作り出したその瞬間、私の目の前で、それは潰された。
目の前に現れた巨大な柱に、それが起こした風圧に、威圧感にひるまずにはいられない。一歩後ろに下がる。
なるほど、確かに重い。私には、このような攻撃方法は無い。
次のオモイカネブレインを呼び出すのを一旦取りやめ、神奈子を仰ぎ見る。
神奈子の背後では、無数の御柱が撃ち出される準備を待っていた。
……式年遷宮・式年造営という言葉をご存知だろうか。
式年遷宮とは、一定の年ごとに神のおわす社殿を建て直すことである。それは、氏子たちに多大な金銭的負荷を強いる、信仰を試す儀式である。
天上神天照を祀る伊勢の神宮は、これを二十年に一度行っている。大国主尊を祀る出雲の大社では六十年に一度。
諏訪に祀られる武神は、古くから式年遷宮でなく式年造営、すなわち、一定の年ごとに社殿を増築するよう氏子らに命じている。
その期間はなんと七年に一度。葦原中国にあまねく信仰を広げる伊勢の神宮でも二十年の間隔を要するものを、たったの七年の間隔で行おうというのだ。諏訪の氏子たちの財力が持つわけもない。
だから、武神と氏子は約定した。金銭の代わりに、血を賭して信仰をささげることを。それからは、氏子自らの手で諏訪の大木を切り出し、木落し坂から共に落ち、神社の四方にそれを突き立てた。御柱を高く突き立てることを、造営に見立てたのだ。
これが諏訪大社の式年造営。現在に至るまで多くの死傷者を生んできた天下の奇祭、御柱祭である。
今。その信仰の象徴たる御柱を背に、八坂神奈子が吼える。
「……これが私の培ってきた信仰だ。
八意永琳、今こそ私の神威にひれ伏すがいい!」
轟音を響かせ、御柱が地面に落ちる。
演算は簡単だ。
風に舞う弾幕と異なり、その軌道はただの直線。ぶれることもなくただ突き進む、愚直な軌道。
その軌道は私を狙ってはいなかった。だが、当たれば致命傷。私は余裕をもって避ける。
風圧が私を押し出し、重心を崩される。
追撃は止まらない。
よろめいた私の前に、次の巨柱が落ちる。
まだまだ余裕。踏みとどまり、次の風圧を耐える。
続けて右に巨柱が落ちる。
風圧に負け、左側に身体が流れる。
左に御柱。
追撃は止まらない。
ここに来て、彼女のやろうとしていることがわかる。
このスペルは知っていた。
巨柱を無数に放ち、移動範囲を狭める彼女を象徴するスペル。
私の移動範囲はどんどん狭まる。
何回めかの攻撃を避け後ずさりすると、背中が御柱に触れた。突き立った柱に当たったのだ。
私は安全に避けるための空間を探す。
視界に入るのは無数の御柱。轟音と風圧が私の思考回路から余裕をそぎ落としていく。
まずい。
私は焦燥し、天を見上げる。突き立った御柱が壁となり、覗ける天蓋はもう狭い。
このスペルカードは、御柱で移動範囲を狭めた上で、通常弾をばらまき相手を弄ぶものだ。
しかし、これは実戦。単なる弾幕ごっこではない。
彼女が移動範囲を狭めるだけで終わらせなかったらどうする? 御柱だけで空間を零にしたらどうなる?
私には解る。
彼女は、それをやろうとしている。
「エクスパンデッド…………」
彼女は、彼女自身を象徴するスペルカードの真名を紡ぐ。
左右が御柱に塞がれる。安心して逃れられる空間はもう無い。
見上げる天井はもはや、底から見た井戸の穴のように狭い。
そこに見えるのはただ神奈子の顔だけ。不敵に哂う、諏訪の軍神の血にまみれた顔だけ。
私にはもう余裕が無い。
四方には御柱の壁。出来ることはただ、天上を仰ぎ見るだけ。その身に神威が下るのを待つだけ。
「……やめろっ!」
焦燥した声だけが絞り出される。だが、神奈子は止めない。止めやしない。
「……――オンバシラァアアアアア!」
神奈子の右手が振り下ろされ、神奈子の顔が視界から消えた。
代わりに視界を埋めるのは巨大な樅の柱。
今、最後の御柱が空気を切り裂き。がりがりと暴れ狂いながら巨柱の壁の隙間に分け入り。
そして、私の身体を磨り潰した。
▽
私は月から逃げてきた兎である。
月にいたころは、レイセンと呼ばれていた。今では、優曇華院とかイナバとか呼ばれている。この変な名前は、師匠と姫さまがつけた。
正直に言って初めは鈴仙と呼んでくれと思っていたが、もう慣れてしまった。ちなみに鈴仙というのは、レイセンという名前に当て字したものだ。自分の名前なのだが、色々ややこしい。
この永遠亭に逃げ込んだ日から、もう数十年が過ぎた。
月に住んでいたころの事はあんまり思い出したく無い。永遠亭のみんなも、わざわざ私に昔のことを聞こうともしなかったので、私は嫌な思い出を忘れて毎日を過ごしていた。
地上では、逃げずにやっていこうと思っていたし、それはある程度できていたと思う。
一生懸命師匠の言うことを聞いて、朝から晩まで働いて。
時には姫さまの相手をしたり、てゐのいたずらに手を焼いたり。
永遠亭の兎たちは、あんまり私に慣れてはくれなかったし、里の人たちや妖怪たちとの付き合いもあまり得意ではなかったけど、それでも、私は不幸ではなかった。
やはり、新しい生活に夢中になったおかげで、月のことを思い出さずに済んでいたからだと思う。
でも、あの日。
先月の例月祭が終わって数日たったあの日、てゐが私のところに来て、言ったんだ。
「月に行きたい。協力して欲しい」って。
私は、何を言っているんだろうと思った。
なんでわざわざあんな所に行くのかと。
てゐは、月に行きたいと理由をあれこれ言っていたが、私は真剣に聞いてはいなかった。
聞きたくなかったんだ。月の話なんて。
だけど、それから毎日てゐは私の所にやってきた。
正直に言うと、ちょっとうざかったので、師匠に告げ口してやろうかとも思った。
でも、私はてゐとの関係を崩したくなかったし、せっかく慣れてきた永遠亭の生活も壊したくなかったから、告げ口をするわけにもいかなかった。
で、どうすればいいか考えたあげく。
結局、てゐに月の話をすることにしたんだ。私が月から逃げた理由。それを言えば、てゐが諦めると思って。
てゐは私よりもずっと年上だと聞いたことがあるけれど、月に行きたいだなんておかしなことを言うあたりは、やっぱり子供みたい。
だから、お姉さんになったつもりで、思い出したくなかった月の思い出を話してあげることにしたんだ。
「てゐ。月には、私たちのいる場所なんて無いんだよ」
私は言った。
……昔、私が月にいたころ。あのころは、地上人が攻めに来るということで、兎たちが戦闘の訓練に狩りだされていた。
毎日の訓練は厳しかったけど、きちんとやれば主である依姫さまに褒めてもらえるし、そこまで文句があるわけではなかった。
地上人との戦闘は怖かったけど、月の都を護るためなら仕方がないことなのかなとも思ってた。それは、誰かがやらなければならないことだし。
私は、きちんと依姫さまの言うことを聞いていればいいんだと思っていた。
それで、毎日きちんと訓練して。いつの間にやら兎たちの部隊を纏めるリーダーにまでなっていた。
それがおかしくなったのは、あの日のこと。
私は毎日の訓練で、自分の能力の使い方を少しずつ覚えていっていた。
私の能力は、あらゆる波長を操るというもの。依姫さまは、うまく使えるようになれば本当に強い力だとおっしゃっていたけど、私にはなかなか上手く扱うことができなかった。
だけどその日は、初めて自分の姿を消すことに成功したんだ。他の人に届く光の波長を弄って。
それは、ずっと依姫さまに言われて練習していたこと。だから私は嬉しくなって、依姫さまのお屋敷に忍び込んでみた。依姫さまの前で姿を現したら、びっくりして、その後褒めてもらえると思って。今考えると、浮かれていたんだと思う。
……で、首尾よく依姫さまたちのお屋敷に忍び込んだら、お屋敷の人の声が聞こえてきた。
それは、戦闘の話だった。
地上人が攻めてきたら、戦いは避けられない。死人も出るだろう、ということだった。
それはわかる。
私は誰かを殺したことなんてなかったけど、戦いになったら死人が出ることもあるだろうと頭の中で覚悟していた。
でも、その後の話は違っていた。
人が死んだら、穢れが蔓延する。地上人を殺したら、その兎はもう月の都に入れるわけにはいかない、って、そう言っていた。
死人を片付ける役目の兎も、月の都に戻すわけにはいかないだろうと。
それでも、月の民が穢れるよりはいいと、お屋敷の人たちは言っていた。「玉兎とはよく言ったものだな」って笑っていた。
私はそのとき、初めて気がついた。
月の兎は、使い捨てなんだって。
私はびっくりして、一目散にお屋敷を抜け出した。もう、依姫さまに訓練の成果を見せようとは思わなかった。
お屋敷の人たちの話を聞いたと知られたらどうしようって、私は思った。
ここまで、てゐに話した。
本当は、もうちょっと続きがある。
でも、それを全部言ってしまうと、てゐに嫌われてしまうかもしれないから、伏せておいた。もう二度と、自分の居場所をなくしたくなかったから。
だから、心の中だけでその後のことを思い出す。
……それからは、優しい依姫さまと顔をあわせることもできなくなった。心の中では私を使い捨てと思ってるんだな、と考えると怖くなって。
聞き間違いかもしれない、何かの勘違いかもしれないとも思ったけど、本当はどうなのかって聞くことは出来なかった。
部下の兎ともうまく話せなくなった。あの子たちのことを考える余裕もなくて、指示もうまくいかなくて。
だんだんと、私の居場所は無くなっていった。うまくいかないことをどうすることもできなくて。
それを全部、月の人のせいだと考えた。それで、居場所がなくなった月から、逃げた。
部下の兎たちを捨ててきたのは悪かったと思う。
あの後、地上人との戦闘が始まったはず。きっと、あの子たちは地上人に殺されるか、月の民に殺されるかしたに違いなかった。
でも、仕方が無い。
私には、何も出来なかったのだから。
「……だから、月に行っては駄目。
てゐみたいな地上の兎は、きっと穢れがどうのって言われて殺されちゃうわ」
そう教えてあげれば、きっとてゐは諦めるだろうと思っていた。
でも、てゐは思いもよらぬことを言った。
「兎が、殺されるの!?
だったら、やっぱり行かないと。何とかしないと!」
私は呆気にとられててゐの顔を見た。
てゐは、月の民の恐ろしさをわかっていないのだろうか。師匠を見れば、自分が敵わないことなんてすぐにわかりそうなものなのに。
もし解っているのなら、なんでそんな死にに行くようなことを言ったんだろうか。
「てゐが行ったって、何もできないわよ……
馬鹿なこと言わないで、月へ行くのは諦めなさい」
「じゃあ鈴仙は、月の兎がどうなってもいいの!?」
てゐは声を張り上げた。これでは埒が明かない。
私はなんとか説得しようと思ったけど、言葉に詰まってしまった。
答えが見つからなかったからだ。
月の兎がどうなってもいいなんて訳は無い。一緒に過ごした、私の仲間たちだ。しかし、私は月に仲間たちを助けに行こうなどと、考えたことは無かった。
ただ、月のことを忘れ、いや、忘れるように努力しながら毎日を過ごしてきただけ。
それは仕方が無いことだと思う。私に出来ることなど何もないのだから。
でも、どうしてだろう。てゐに返す言葉は見つからなかった。
「私は、絶対に月に行く。なぜなら……」
てゐは言葉を続けた。
もう何度めかになる説明。大国さまがいるから月に行かないといけない、地上の兎が月にいるはずだ、という、繰り返し。
私は月に大国さまがいるなんて聞いたことが無い。てゐの勘違いだと思う。
だけど、私にはそれを彼女に納得させられる言葉がなくて。月の兎を助けなければいけないというてゐに反対することもできなくて。
結局、てゐに協力することを約束させられた。
それでも、そのときは思ってた。
私が協力したとしても、てゐの計画はどうせ失敗する。師匠が、きっとてゐのことを止めてくれるって。
▽
そうそう、姫さまの話をする前に、師匠の話もしておかなければならない。
私の師匠は八意永琳。月の都を造ったと言われる、なんというかすごい人だ。私の前の主である、依姫さま豊姫さまの師匠でもあるらしい。
てゐに協力する、とは言ったけど、師匠に逆らうなんて私にとってはとんでもないこと。私の力が通じるかどうかも、本当のところよくはわかっていなかった。
てゐの計画は簡単なもの。姫さまが大国さまの毒を飲んだと師匠に思わせることができれば、師匠は月への扉を開くはずだ、ということ。
私の役目は、波長を操って姫さまが毒を飲んだように見せることだった。だから、師匠に力が通じなければ、計画は何の意味も持たない。
私は、多分通じないんだろうなと思って、ためしに研究室で師匠の波長を弄ってみた。
でも、私の予想は外れた。
師匠は、私に波長を弄られたことにまったく気がついていないようだった。研究に没頭していたせいもあったかもしれない。
もしくは、私が考えている以上に私の能力は強いのかもしれない。依姫さまも師匠も、私の能力は高く評価してくれていた。
ともあれ、師匠の波長を弄ることには成功した。
姫さまがてゐのところに来たのは、私が師匠の波長を弄った次の日だった。
姫さまはてゐに反対するかと思っていたけど、実際にはまったくそんなことはなかった。
私がてゐに呼ばれた時には、もう姫さまがいて、てゐと意気投合してるみたいだった。姫さまは私と同じで月の恐ろしさがわかってるはずなのに、なんでそんなことになるのか私には解らなかった。
だから、聞いてみた。
「姫さままで、てゐの悪ふざけに乗っかるんですか? 月には接触しないほうがいいなんてこと、姫さまなら分かるはずなのに」
「あら、イナバも乗っかってるんじゃなかったの? あの子が月に行くこと、反対なの?」
「もちろん反対です。だって、月に行ったって、殺されちゃうだけです」
「じゃあなんで、あの子に協力しているの?」
私は言葉に詰まった。特に重い理由などないのだ。
てゐを説得できなかったから、協力してるだけ。師匠や姫さまに、てゐを止める役目をしてもらいたいだけ。
「そ、それは、てゐの勢いに押されただけで……」
私は反論した。自分でも歯切れが悪かったと思う。
「それじゃ、私と同じね」
姫さまはにっこりと笑った。
「あの子、止めても諦めないわよ。思いつきで言ってるわけじゃないもの」
「それでも、月に行くだなんて……。師匠も反対するはずです」
「そうねえ。永琳は確かに反対するでしょうね」
「じゃあ、なんで!」
姫さまは、私を観察するようにじっと見つめてきた。
「どうしてもしたいことがあって、それが譲れないものなら、私には止められないわ。
私が月を出た経緯は、聞いたことあるんでしょう?」
それは聞いたことがある。
姫さまは、地上に来たいがために、蓬莱の薬を飲んだのだ。ただ、地上に来たいという想いだけで、知りもしない異世界へ。
「でも、月に行ったら、きっと殺されてしまいます……」
「無駄死にはいけないことね。でも、どうしてもやりたいことがあるなら、それから逃げてただ生きているだけっていうのも意味が無いことだと思うわ」
「……っ! 死んだら終わりじゃないですか! てゐは姫さまと違って、不死身じゃないんです!」
「…………」
「……あっ…… すいません!私、そんなつもりじゃ……」
私は叫び、それから言ってはいけないことを言ったと気づき、謝った。
姫さまは怒りはしなかった。
その代わりに、自分の話をしてくれた。
「イナバ、あなたの言いたいことは分かるわ。あの子が心配なんでしょう?
月が危険な場所だってことも分かってる。私だって、千年もの間、月から隠れ続けていたんだもの」
「……だったら、なんで……」
「私は、隠れるのを止めたのよ。
いくら月より地上のほうがよかったとはいえ、永琳と二人だけで隠れ住むなんて、月で幽閉されるのとなんの変わりもないわ。
地上の因幡や、妹紅が迷い込んできたときは嬉しかったわね。変わらない毎日に、変化が起きて。
ううん、迷い込んだんじゃないのかもしれない。
ずっと続く退屈が嫌だったから、知らず知らずのうちに私自身が永遠の魔法に綻びを作ってしまったのかもしれない」
私はじっと耳を傾けた。私がここに迷い込んだのも、私がここにいることを許してくれたのも、姫さまが変化を願ったせいなのかもと考えながら。
「変化の無い生活っていうのは、面白くないわ。
変化が無いというのは、成長しないということ。
あの子に目標があって、それを叶えようとしているのならば、そこに変化が起こるはずだもの。
だから、私はそれを肯定したわ」
「でも、てゐが月に行ったら、姫さまにも危険が及ぶんじゃないかと思います」
「そういうこともあるかもしれないわね。
私はともかく、永琳の弟子である兎が月に行ったらひと悶着あるかもしれない。
でも、私は大丈夫。怖がっていたら、前に進めないもの。
それに、ちょっといい格好したかったのよ、私を慕ってくれたあの子に。
だから、ケツは拭いてやるから思う存分やってみろって言ってやったわ」
何か変な映画でも見たんだろう。姫さまは下品な言葉を口にするとくすくすと笑った。
「ところでイナバ。私、あなたに聞きたいことがあるの」
「……なんでしょう」
「あなたには、あの子みたいにやりたいことは無いの?
永琳の弟子をしてるのはいいけど、命に限りがあるあなたでは、永琳に追いつけるとは思えないわ。
ずっと永琳の弟子のままで終わるつもり?」
「それは……」
私は言葉を失った。
私には、人生を賭ける夢などなかったから。
ただ、私はまだ未熟だから、師となる人の言うことを聞いていればいいと思っていた。
人のために働くことが、何より間違わないことだと考えていた。
「……あら、やりたいこと、何もないの?」
「…………」
「ふうん、まあいいわ。
やりたいことがないのなら、私から命令するわ。
てゐに協力すること。
これは、永遠亭の主からの命令よ」
私は流されるままだった。
年長者の言うことはきちんと護らなくてはならない。
しばらく考えた後、私はうなずいた。
▽
私は、姫さまの言った台詞を何度も反芻した。
自分に、やりたいことはあるのだろうか。
師匠の言うことを聞いてるだけで、自分が何になりたいとか、そういうことを考えたことがあっただろうか。
幻想郷には、私のほかにも師匠を持つ者がいる。
たとえば、白玉楼の妖夢。彼女は、師匠と同じく剣の道を究めようとしている。
八雲家の橙も同じようなものかもしれない。主である八雲藍と同じように、式を使おうと勉強していると聞いた。
だが、彼女たちと私とでは、大きな違いがある。
妖夢の師は彼女の祖父だと言う。橙は八雲藍と同じ妖獣だ。二人とも、師と同じ種族であり、師を超えることは究極的には不可能とはいえない。
だが、私は違う。
私の師ははるか昔から生き、これからも永久に生き続ける蓬莱人。私より早く死ぬことは有り得ない。
私は、生きている間に師を超えることはできるだろうか?
それは、とても難しいことだと思う。そして、それができなかった場合、私の生きてきた意味とは何になるのだろうか。最後まで助手だった、それでいいのだろうか。
主の手助けをする人生というのを軽んじているわけではない。
紅魔館の咲夜や守矢神社の早苗は、私と同じように主よりも先に死ぬのだろう。それは私と似ているように見える。
けれども、それでも彼女たちと私とではやはり違う。
彼女たちは主を超えようと思ってるわけではなく、主とは別の生き方を選び、別の立ち位置から主を助けているのだ。
咲夜はメイドとして主の世話をする。早苗は主の代わりに里に赴き神社を守り、信仰を得る。
私はそうではない。
師匠の言うことを守って、師匠と同じように薬のことを勉強しているだけ。
……ああ、人里へ薬を売りに行くのは違うかな。あれは、師匠の助けになってると思うし、師匠のやらないことでもある。
でも、それにしたって何か違うと思う。そもそも、私は薬を売りに行くのはあまり好きではないし、それを誇りに思ってるわけでもない。
私は空虚なんだ。
自分が薄いから、他の人に流されるんだ。
てゐのことだってそう。なんて言われたって、てゐを月に行かせるのはどこか納得いかない。
でも、私にはそれが上手く言えない。姫さまやてゐに言われると、自分が間違えてるような気がしてくる。
それは多分、自分の意見が無いせいなんだ。
以前、閻魔さまに言われたことを思い出す。
私は自分勝手すぎる、今のまま過去の罪を清算せずにいると地獄に落ちるということだった。
自分勝手ではないと思う。だから、人のいうことをきちんと守り、人のためになるように生きているつもりだ。
だけど、そのこと自体が、楽なほうに逃げてただけなのかもしれない。
自分で考えることから逃げ、人の言うとおりに生きるという、楽な生き方へ。
それから私は、てゐや姫さまに言われたとおり師匠に一芝居をうち、しばらくの間守矢の神社にお世話になることになった。
私の予想に反してゐの作戦はうまくいったようで、師匠は月への扉を開きそうだと言う。
永遠亭は、私だけを置き去りにしてどんどん変わっていった。
▽
「てゐ、本当に行くの?」
兎たちがついたお餅を荷物袋に押し込んでいるてゐに、話しかけた。
「うん、行くよ。
鈴仙、今までありがとね」
てゐは迷いもなく、そう言って笑った。
てゐの計画は上手くいっているようだ。
師匠は、姫さまが大国さまの薬を飲んで倒れたと考え、月への道を開くらしい。
大国さまが本当に月にいたのも驚きだし、あの師匠がてゐの計画に嵌ったのも驚きである。
しかし私は、それよりも、てゐがいなくなってしまうことに動揺していた。
私が永遠亭に来てから、もう数十年が経つ。
私と、師匠と、姫さまと、てゐ。それに、たくさんの兎たち。
楽しく暮らしてきたつもりだ。
それが、今壊れようとしている。
「あ、あのね、てゐ……」
私は、今にも行ってしまいそうなてゐに呼びかける。
「なあに、鈴仙」
てゐは微笑んで振り返る。
「……えと、あの……」
私は言葉に詰まる。
何を言うべきだろうか。
行かないで欲しいって言うつもりなんだろうか。月は危険だから止めろと言うつもりなんだろうか。いや、それは無理だ。てゐの決意は固い。
じゃあ、なんて。
「変な鈴仙。あはは、私がいなくなると寂しい?」
悪戯を思いついたときのような笑み。てゐのこの笑顔ももう見られなくなるかもしれないと思うと、怖くなってくる。
「……私は寂しいよ。
永遠亭のみんなは、私の家族だもの。あはは、こんなこと言うなんて似合わないね、私」
てゐが続ける。私だって寂しい。
私は、てゐを引きとめようとでもいうかのように右手を伸ばす。
「……でも、行くよ。そう決めたんだから。
大丈夫、きっと帰ってくる。それまで、兎たちをよろしくね」
最後にてゐはそう言うと、私の下を去っていった。
私は伸ばした手をそっと降ろした。
がっくりと腰を落とす。
てゐと暮らした日々を思い出す。
てゐは月に行って、無事に帰ってこれるだろうか。
そんなことはあるまい。月はてゐにとって異郷の地。月の都まで行くことすら難しい。都まで行けたとしても、地上の兎などすぐに始末されるに違いない。
霊夢やレミリアたちは、月に行って確かに無事に帰ってきた。でも、あれは相当に運がよかったのだ。もし、てゐが同じように月の使者に負けたとしても、あの子はそのまま逃げ帰ろうとしないだろう。大国さまに会いに行くと言い張り続け、地上に戻るのを拒否し、それできっと、最後には殺されてしまうのだ。
もしも、私がついていけば……
そうも思う。
私は月のことを知っているし、姿を隠す能力も持っている。
てゐの計画が実を結ぶ可能性も上がるには違いない。
でも、月は怖い。
逃げ出した私を見つけたら、依姫さまは、豊姫さまは、仲間の兎たちはどうするだろうか。
それに、てゐは私についてきて欲しいとは言わなかった。足手まといだと思ったのだろうか。それとも、彼女自身の戦いに私を巻き込みたくなかったからだろうか。
「……行っちゃったわね」
私の下に、姫さまが近づいてきた。
私は、顔を上げた。
「姫さま……」
「あらあら、ひどい顔しちゃって」
私は、いつのまにか泣きはらしてしまった目をこする。
姫さまは、私の隣に腰を下ろし、頭をそっと撫でてくれた。
「姫さま、私……どうしたらいいか、わからなくって」
姫さまは無言。ただ、私の言葉を聞くだけ。
「姫さまは、私がやりたいことは何か、っておっしゃってましたよね。
でも私、わからないんです。
何をやりたいか、何をやるべきなのか。
今度のことだって、自分がどうするべきかわからなくて、てゐや姫さまの言うとおりにしたけど。
でも、なんだかこれじゃいけないような気がして……」
「…………」
「……私は、他の人に言われたとおり動くだけで、自分では何もしてこなかった。
私が自分で判断したことなんて、月から逃げてきたことくらい。それでも、それも、閻魔さまから怒られちゃって……
やっぱり、依姫さまたちの言うことを聞いて、月にいたほうがよかったんでしょうか。
自分で判断したほうがいいのか、言うことを聞いたほうがいいのか、それすらも解らなくって……」
「……イナバ、永琳の口癖って覚えてる?」
姫さまは、優しそうに微笑み、私をじっと見ていた。
私は少し考えて、小さく頷いた。
「『道は爾きに在り、而るにこれを遠きに求む』。
それが、師匠の口癖でした」
「意味は覚えてる?」
「……進むべき道は遠いところではなく、近くにある。そういう意味だと思います」
姫さまが頷く。
「そうね、その通り。
だけど私もね、その進むべき道っていうのが何かわからない。
あなたと同じで、自分が何をやるべきかわかってないのよ」
「……姫さまも?」
「ふふっ、おかしいわね。
あなたは自分のやるべきことがわからないって言うけど、私は、そんなあなたや永琳がうらやましかった。
永遠亭が外に開けて、あなたや永琳はすぐに薬売りという仕事を見つけ、幻想郷に溶け込んでいったでしょ。
でも、私はまだこの地上で何をしていいのかわかっていない。
だから、とりあえず自分のやりたいことを見つけるのが今の目標なの」
私は姫さまの言葉にじっと耳を傾ける。そこに、答えがあるような気がして。
「だけど、私は思うのよ。
自分のやりたいことは他のなんでもない、自分の心から生まれるものだって。
だから、やりたいことをやろうと思ってる。まあ、今のところやってることっていったら盆栽弄りくらいだけど」
「盆栽って、あの月の木ですか?」
「そうよ。あなたと同じ名前だったわね、優曇華の木。
木を育ててみたかったから、その心に従ってみたのよ。
ねえ、イナバ。
あなた、自分で判断したのは月から逃げたことくらいって言っていたわよね」
「はい、言いました……」
「その判断はきっと、あなたにとって大事なものだったのだと思うわ。
あなたは私と同じように、本当にやりたいことは見つけてないのかもしれない。
でもきっと、心の奥の方から、『逃げなきゃ』って答えが出てきたのよ。
それが間違えてたかどうかはわからない。
だけど、判断しないと間違えることもできないんだと思う。
私は蓬莱の薬を飲んだ。誰もが間違えだと言うかもしれないけど、それは私にとって大切な判断だった」
姫さまは私が泣き止むのを待って、そっと頭から手をどけた。
そして、もう一度私に聞いてきた。
「間違えてもいいじゃない。人生の目標が見つからなくても焦らなくてもいいじゃない。
多分、そんな高尚なものじゃないわよ。間違えながら進めばいいの。道はきっと、近くにあるんだから。
胸に手を当てて、心の声を聞いてみなさい。自分の心を騙しては駄目よ」
私は言われた通り、自分の胸に手を当てる。
どくんどくんと自分の鼓動を感じる。知らず知らず、またぼろぼろと涙が毀れてくる。今度は姫さまは頭を撫でてはくれない。
私の答えを待っているんだ。
「わた、私は……」
声を絞り出す。
私がしたいことは何なのか、どうするべきなのか。
それは、てゐや姫さまや師匠が望んでいることと違うのかもしれない。
でも、私の心は、悲鳴をあげながらひとつの答えを搾り出そうとしている。
「……私は、てゐを死なせたくない。
本当は、すぐにてゐを連れ戻したい。でも、てゐには自分の道があって……」
姫さまは、ただ黙って聞いている。
私に道を指し示してはくれない。
「……私が月に行けば、きっと、てゐの助けになると思うんです。
に、逃げ出した月にも、ちゃんと向かい合わないようにって思うし、姫さまや師匠が月に行くより、目立たない兎のほうが、きっと……」
「……それが、あなたのやりたいことなの?」
「で、でも、怖くって……私!」
今、姫さまに「それは止めろ」と言われたら、きっと私は言うことを聞いてしまうだろう。
「月に行け」と言われたら、私は月に向かうだろう。
でも、姫さまは何も言わない。
月は怖い。兎のことなんて道具としてしか考えてない人たちが住むところ。私が見捨ててきた、昔の仲間たちがいるところ。
でも、一番怖いのは自分で判断すること。
間違えてたらどうしよう。私は間違えたくない。
私の心臓が、儚く鼓動を刻む。とても自信なさそうに。
「間違えてもいいわ。でも、判断から逃げては駄目」
姫さまが私の心をわかってるかのように追い討ちをかける。
私はぎゅっと拳を握る。
逃げることはたやすい。でも、ずっと逃げ続けるわけにはいかない。
それが解ってるから、私は唇を噛む。心の声を聞く。
私は永遠亭が好きなんだ。
だから、てゐがいないと嫌なんだ。
てゐは、また戻ってくると言っていた。
それを今、一番助けてあげることができるのは、私なんだ。
私の役目はなんだろう。私にしかできないことって何?
答えはもう出ている。私の心が教えてくれている。
あとは、決めるだけ。
私自身が、決めるだけ。
「……姫さま、私、月に行きます」
姫さまに決意を伝える。
姫さまはじっとそれを聞き、「私が反対しても?」と言ってきた。
私はぼろぼろと涙を零しながら、「それでも行きます」と言い切った。
口に出してみると、不思議と迷いは無くなっていた。
心を隠して、逃げ出さなくてよかった。判断が間違えてるか合ってるかはわからない。でも、矛盾しているかもしれないけど、判断したという事実は間違えてない。
姫さまは、厳しい目をふっと緩め、また私の頭を撫でてくれた。
「わかったわ。それがあなたの判断なのね。
……ならば、これを持っていきなさい」
姫さまが、鈍く輝く衣を取り出し、私に手渡してくれる。
「……これは? なんでこれが、ここに……」
それは、月の衣。見間違えもしない、私が月から逃げてきたときに持っていた、月と地上とを行き来するための道具。
無くしたものとばかり思っていたのに。
「永琳がずっと保管してたのを、ちょっとちょろまかしてきちゃった。
月から帰ってくるのに、必要でしょ?」
姫さまが得意げに笑う。悪戯に成功したときのてゐのような笑顔。なんとも可愛らしい。
私は、それを受け取ると、ぎゅっと握り締めた。
「それじゃ、行くわよ。永琳たちのところへ」
もう、悩むのは終わった。
後は月に行って、てゐの手助けをして、そしてここに戻ってくるだけ。てゐと二人で、この衣を使って。
私は、姫さまの顔を見て力強く「はい!」と頷いた。
▽
「…………蘇生、『ライジングゲーム』」
私は蘇生する。
神奈子の御柱は、私の身体を完膚なきまで破壊した。
だが、私は蓬莱人。殺されても、立ち上がることができる。
御柱の林をかきわけ、再び戦場に顔を出す。
天空は何も変わらない。十五夜の満月を背に、神奈子がじっとこっちを睨めつけている。
「蓬莱の薬か。面倒なものだな」
私は神奈子の視線を跳ね返し、再びオモイカネブレインを呼び出す。
だが、それは神奈子の御柱によってすぐに消え去る。先ほどまでの繰り返しだ。
「しかし、神の座を降りたお前は怖くは無い。いくら不死身であろうが、蘇るたびに潰してくれよう」
神奈子は右手を掲げ、無数の御柱を顕現させる。
またあれを落とすつもりだ。
私は急いで走る。最初に神奈子が落とした四本の御柱、神域を形作る巨柱の一本へ。
神奈子はこの御柱を壊すわけにはいかない。影に身を隠せば、やり過ごすことはできよう。
轟音を響かせ、御柱が落ちる。
私は突風に煽られながら走る。あと少し。
「エクスパンデッド…………」
天上で神奈子の声。
私はなんとか、目当ての柱の影に隠れる。
「……オンバシラァァアア!!」
直後に降り注ぐ御柱の雨。
神域の柱があっても委細構いはしないようだ。
御柱の突き立った林の中、新しい柱が次々と捩じ込まれる。柱の影に身を潜め、少しでも当たる可能性を低くするように身を縮める。
地を揺るがすような轟音と突風が収まると、目の前に隙間の無い御柱の壁ができていた。
すり潰されずに済んだが、目当ての神殿の柱もびくともしていない。
「私の柱は、そう簡単に折れたりはしない。残念だったな」
「……強引に柱を落とすだけなんて、美しさに欠けるわね」
減らず口を叩いてみる。
だが、結局のところ、柱の影に隠れても駄目らしい。
神域の柱を折ることはできず、降り注ぐ御柱を避けられたも偶然に近い。
――ならば、上か。
ともかく、神奈子に向かって飛ぶ。御柱にはさまれる前に。
私はそう決意すると、大地を蹴った。
「無駄だ」
神奈子の準備は既に万端。再び、御柱の雨が降り注ぐ。
行動範囲が狭められるのは上空でも変わらない。
切れ目無く注ぐ御柱の雨は、狭まる壁に似ている。遠方から近方へ順に射出される御柱は、着実に私の空間を奪っていく。
私は一本の柱を蹴り、すり潰されないよう強引に軌道を修正する。
あと少し。
「エクスパンデッド…………」
うるさい。もう何度も聞いた。
背中に衝撃が走る。落下中の御柱に当たったのだ。
そのまま背中に重心をかける。一人ぶんの隙間を強引に作る。
「……オンバシラァァアア!!」
神奈子の死刑宣告が夜空に響き、最後の空間を埋める一本が撃ち出される。
もう神奈子は目の前。
隙間はある。一人ぶんには足りないか。しかし、半身ぶん開いていれば十分だ。
がりがりと私の半身が削れていく。
構わない、すぐに治せる。
「たどり着く!」
私は吼え、天に飛ぶのを止めない。
右半身は血だらけ。感覚も無い。
だが、たどり着いた。
私は最後の御柱を強引に潜り抜け、左手で神奈子の胴を掴む。
神奈子は両の手を組み合わせ、高々と腕を掲げる。
「無駄だと言ったはずだ!」
衝撃。
神奈子が振り下ろした石槌のような両腕が背中を打ち、身体が逆くの字に折れる。
掴んだ左手は引き剥がされ、私は耐え切れず地面に落下した。
肺の中の空気が全て吐き出される。
苦しい。
だが、空気を全て吐き出してもまだ吐き気は収まらない。ごふっと血を吐く。
「残念だが、私は接近戦も苦手じゃない」
追い打ってきたのは神奈子の声。
力士の始祖とも言われる諏訪の武神を名乗る者の声。
私は苦しくて息ができない。声を紡ぐこともできない。
だから、代わりに心の中で呟く。
――頭は弱いようだけどね。
無理やりに弾幕を展開して、神奈子に撃ち出す。
神奈子は余裕を持って避けようとして、しかしことごとくそれに被弾した。
「……っ!?」
神奈子が身体を動かそうとして、気づく。
その胴に絡みつくのは糸。無数に突き刺さった御柱に絡みついた、か細い糸。
私は、なんとか呼吸を回復させ、休む間もなく宙に上がる。地上で追撃を受けたらまずい。
「……その糸はフェムトファイバー。認識できない細さの繊維で組まれた紐。
私を近づけたのが誤算だったわね。あなたはもう、身動きできない」
私が神奈子に絡み付けたのは、遠い昔から土着の神を封印するのに用いてきた須臾の糸。
その糸は、神奈子が作った神域の柱にも絡み付いている。
もはや、彼女の動きは封じた。
地上を走ったのも、御柱に向かったのも、全てはこの須臾の糸を結びつけるため。神奈子に向かって飛んだのも、もちろんこの須臾の糸を結びつけるためだ。
今の彼女は、蜘蛛の糸に絡めとられた哀れな秋の虫に過ぎない。
私は、身体の損傷部分を高速で復元させながら、神奈子に向かって飛ぶ。
追撃してきた彼女の右拳をかわし、脇腹に膝を入れる。
続けて振り回してきた左腕が届く前に再び距離をとる。
距離を離していると御柱が飛んでくる。近づいたままだと捕まえられる。だから距離を出し入れする。身動きが取れない彼女では、それに抗う術は無い。
神奈子が弾幕を放つ。
来ることは予想している。問題なく避け、彼女の懐に飛び込む。
私を捕まえようとする両腕をかいくぐり、顎に肘を入れる。苦しげな神奈子の顔が見える。
その場に留まりはしない。すぐに斜め上に飛ぶ。神奈子が追いすがってくる。だが、すぐに糸に引っ張られ、私を捕まえることはできない。
後はもう一方的。
私は冷徹に彼女を観察し、着実にヒット&アウェイを繰り返す。
神奈子は何もできない。ただ体力を削られていくだけ。
――だが。
私は考える。だが、いつまでもこのまま攻撃を受け続けるわけもないだろう。
彼女はいつか、耐え切れずに御柱を引き抜くはず。池の四方を囲む御柱さえ抜かれれば、月へ行くことができる。その機を逃しさえしなければ、てゐを追いかけることもできよう。
私は、てゐが月で面倒に巻き込まれないうちに連れ戻す必要があるのだ。月では、再び戦争が始まっているはずだ。下手に動き回らせるわけにはいかない。
「この……いい加減にしろっ!」
何度目かの接近攻撃が終わると、その時は訪れた。
神奈子が雄叫びをあげ、突き刺さった御柱が宙に浮き上がる。絡みついたフェムトファイバーが緩む。神奈子は自由になった身体を使い、近づいた私を打ち落とす。
私は打ち落とされるがまま、水面に落下する。
水面を一回、二回と跳ね、膝立ちになってすべる。そして、右手と右足、左の膝とつまさきを水面につけた、走行前の短距離走者のような姿勢を作る。
池から神奈子の神通力が薄れるのを感じる。神域は崩壊した。未だ突き刺さっている御柱はただの柱。結界を支えていた柱は引き抜かれた。
そのまま飛ぶ。水面を走るように穴に向かう。私が開いた、月への入り口に。
だが、あと一歩で届かない。
急降下した神奈子が、私の突進を穴の前で受け止める。
捕まってはまずい。
私は、襟首に伸ばされた彼女の右手を振り切ると、もう一度距離をとる。
大きく呼吸をひとつ。次はどう攻めようか考える。
その時だった。鈴仙の声が聞こえたのは。
▽
「師匠! 大丈夫ですか!?」
視界に広がるのは水面を埋め尽くす御柱の墓場。
満月の光の下、師匠と、神奈子さんが対峙している。
銀髪を煌めさせて神奈子さんを睨みつける師匠、それを待ち受ける血だらけの神奈子さん。二人とも満身創痍。だけど、私にはとても神々しく見える。
神奈子さんは、てゐに協力している。てゐの姿が見えないところを見ると、もう月に行ったのだろう。今はきっと、師匠を足止めしている最中だ。
てゐが神奈子さんに頼んだのは2つ。自分が月に行くのを助けることと、他の人を月に行かせないこと。
なるべく永遠亭と月との接触が無いように、自分が大国さまに会いにいくのを邪魔されないように、ということなんだろう。だがそれは、私自身の月行きをも邪魔されることを示している。
「イナバ、いいからあの池の穴に走りなさい! きっと、あそこが月へ行く扉よ」
「で、でも、師匠が…… 戦いをなんとかしないと」
「あなたがやらなければならないことは、てゐを追いかけることでしょ?
後のことは私に任せて。お尻は拭いてあげるから、思う存分やってきなさい」
姫さまの顔を見て、強く頷く。
そうだ。私は早くてゐのところに行かなければならないんだ。
助走をつけ、強く土を蹴る。
そして私は穴まで全力で飛び、――神奈子さんに横殴りに吹っ飛ばされた。
「何のつもりだ!」
「何やってるの、うどんげ!」
吹っ飛ばされた私に、神奈子さんと師匠の声が飛んでくる。
よく考えれば当たり前だ。
突然戦いの最中に割り込んだら、こうなるに決まってる。
姫さまの顔を見る。
ちょっと呆れたような顔をして、こっちを見ている。
「いや、工夫もなく行ってもしょうがないじゃない……
そりゃ、すぐに走れって言った私も悪かったかもしれないけど……」
「そ、そうですよね」
けほっと息を吐き出して、思わず相槌を打つ。
嗚呼、なんでこう格好がつかないんだろう、私は。
――でも、おかげで緊張は解けた。
私がやることは、ただ穴まで走ることじゃない。
姫さまは、「ただ走るんじゃなくて、能力を使うなりしなさい」というつもりで工夫しろと言ったのかもしれないけど、私はもうひとつやることを忘れていた。
それは、話すこと。
私がなんで月に行くのか、二人に話すこと。
それが、この騒動に巻き込まれた二人への礼儀。もしも最後に話すのを忘れて、そのまま月から帰って来れなかったら、私はどんなに後悔するだろう。お世話になった師匠に、何も言わず別れてしまうなんて。
大きく息を吸い込む。
殴られたお腹が痛いけど、嫌な気分じゃない。
「お師匠さま! 神奈子さん!」
二人に向かって、叫ぶ。
二人はもう戦いを続けようとはせず、こちらを見る。
「私は、月に行きます。
色々考えましたが、やっぱりてゐを一人だけにするのは心配で……
……それに、師匠が行くより私のほうが目立たないし、土地勘もあると思うんです。
だから私はてゐの手助けをして、そして二人で帰って来ます!」
二人から注目されて、なんとも言えない圧力を感じる。
それでも、もう物怖じはしない。逃げずに、言い切る。
「……姫さまに何か吹き込まれたの?
あんなに月を怖がっていたのに、なんで今になってそんなことを言うのかしら」
師匠がそっと、私に問いかけてきた。
私はぎゅっと拳を握り締め、大きくかぶりを振る。
「違います。姫さまは手助けしてくれたけど、これは私が決めたんです。
私はずっと逃げてきました。自分で考えることから。何かを壊してしまうのを恐れて、変化を恐れて、何もしてこなかったんです。
でも、もう逃げません。
てゐを連れ戻したい。また、みんなで仲良く暮らしたい。だから、月へ行きたいんです。そう、自分で決めたんです!」
「ふむ……」
師匠が少し考える。そして、もうひとつ質問をしてきた。
「……『道は爾きに在り、而るにこれを遠きに求む』。
あなたはこの言葉、覚えているかしら」
「覚えています」
「では、道とは何?」
「……私は馬鹿だから、道が何かは解りません。多分、師匠の求める答えは未だ理解できていないと思います」
「あなたの今考えてる道を聞かせてくれればいい」
「……わかりました」
息を吸い、思い出す。
厳しくも優しかった師匠の指導。ばたばたと走り回っていたてゐの笑顔。いつも見守ってくれていた姫さま。
私の心が教えてくれる。私の道はここにある。
「私の道は、私の心の中にあります。
それがどこに繋がって、私が遠い未来にどこにたどり着くのかはわかりません。
でもきっと、今は。
今の私の道は、一番近くに。ここ、永遠亭と共にあります」
進むべき道は遠いところではなく、近くにある。
色々と迷って遠回りするべきではない。
悩むのは悪いことではない。だけど、流されて違う方向に進むのはよくないことだ。
だから、自分で判断する。逃げずに、踏み出してみる。
「……わかったわ。行きなさい」
師匠は、そんな私に小さく頷いた。
神奈子さんの方を見る。彼女は小さく首をすくめて、しょうがない奴だと言わんばかりにため息をついた。
「お前の決めたことだ。てゐとの約束は違えるが、止めはしない」
「あ……ありがとうございます!」
大きな声でお礼を。
「それと、その薬を半分持っていけ。
お前なら、それが何なのかわかるはずだ」
神奈子さんが、地面を指差す。
今まで気がつかなかったが、そこには薬が置かれていた。
見たことがある。てゐの使っていた薬草だ。
私は師匠の方を見る。師匠は黙って頷いた。
小走りに近づき、薬草を拾い上げる。
拾い上げた瞬間わかった。
これは薬ではない。いや、薬ではあるのだが、魔法や奇跡といったものに近い。
師匠が、大国さまの薬が何か解らなかったというのも、こうして手にとってみると理解できる。これは見ただけではわからない。
薬草には、波が届いていた。私は見上げる。欠けるところが無い完全な満月から、その波は届いている。
これはたぶん、お守りなんだ。
お守りには神が宿ると聞いたことがある。これはきっと、大国さまがてゐに渡したお守り。だから、こんなに長い間効果を失わない。大国さまが生きて、てゐのことを想っている限り、てゐに小さな奇跡を与えてくれるんだ。
神は無限に自分を分けられる。だから、きっと月からこの薬へと波が繋がっている。
私は月を見上げる。
この薬があれば、大国さまのいる場所がわかる。
「……あ、うどんげ。
大国主尊のいる場所だけど……」
師匠が声をかけてきた。
私はくすりと微笑む。
「それなら大丈夫です。
私、わかりましたから」
師匠が不思議そうな顔をして私を見る。私はもう一度くすりと笑う。
薬を握り締める。
そして、月への穴に向かう。
私の右手には、てゐの薬がある。左腕に抱えた荷物には、姫さまから預かった月の衣がある。私の心には、師匠の言葉がある。
私は一人で行くんじゃない。永遠亭のみんなと一緒に行くんだ。
閻魔さまの言葉を思い出す。私は自分勝手だ、って言っていたっけか。
でも、今度は自分勝手じゃない。ちゃんと皆に言うことができた。逃げずに向かい合うことができた。
「……それでは、行ってまいります!
お師匠さま、姫さま、神奈子さま、ありがとうございました!」
私は最後にそう言うと、月への道に飛び込んだ。
▽
「……それで、どうするんだ? まだやるかい?」
神奈子が腕を組んだまま、私に問いかけてきた。
鈴仙の一件で、完全に毒気が抜けた表情をしている。
「もちろん、やるわよ」
私はしかし、攻撃の態勢を崩さない。
月は死地なのは変わっていない。二人の弟子を月にやったまま、地上でじっと待っているわけにはいかない。
だが、そんな私に思わぬところから横槍が入った。
「やめときなさいよ、永琳」
「……っ 姫さま?」
「イナバが月へ行ったのはね、あなたを月に行かせないためでもあるのよ。
今更永琳が月に行って、しかも大国主尊と接触なんて持ってみなさい。月の都は大慌て。下手すれば戦争が起こるわよ」
輝夜はわかっていない。
私の考えが正しければ、もう戦争は起こっているのだ。
だが、私が行けば余計に状況が複雑になるのは確かでもある。だから、すぐに答えを出すことができない。
「姫さま、大国主尊のことをご存知なんですか?」
「ううん、知らないわ。永琳が教えてくれなかったから。
もちろん昔話でのことは知っているけど、月にいることなんて知らなかった」
「だったら、なんで接触したらまずいなんて……」
「よく知らなくても、それくらいわかるわよ。私も知らないってことは、月の都でも秘密のことなんでしょ?
そんな神様とあなたが接触したら、やっぱり大事じゃない」
「それはその通りですが、しかし……」
「……永琳?」
輝夜が諭すように私を見つめる。
「イナバたちが心配なのはわかるわ。
でも、彼女たちは自分の意思で、一番よいと思う道を選んだのよ。
いつまでもあなたが手を焼いてちゃ成長しない。そういうのはね、永琳。親馬鹿って言うのよ」
まさか、輝夜に諭される日が来るとは思わなかった。
弟子は、知らないうちに成長する。輝夜も然り。鈴仙も然り。
「……まあ、それでも追いかけたほうがいいと言うのなら、私も協力するわ。
永琳がそこまで言うのなら、そっちのほうが正しいんでしょうし、永琳がここまでやられてるのも面白くないし」
輝夜はそう言うと、神奈子を睨みつけた。
神奈子は首の後ろをぽりぽりと掻くと、「おいおい、私が八意永琳を止めることにお前も了承していたじゃないか。いくらなんでも、そりゃ無体だ」と言った。
まあ、確かにそうだ。
神奈子は何の得もないのにこんなところで身体を張ってるのだ。信仰に答えるのはいいが、私が見ても貧乏くじを引いているように見える。
私はくすりと笑うと、折れることにした。
「……わかったわ。鈴仙に任せましょう。神奈子も悪かったわね、うちのてゐのために」
「まあいいさ。久しぶりに暴れられたしね」
神奈子が小さく首をすくめる。
「ふふっ、じゃあこれで一件落着ね。
あなたも疲れたでしょうし、一休みしましょう」
輝夜がにこやかに笑うと、拍子をひとつ打つ。
「そうですわね。私も少し疲れました」
「んー、でも、お茶を入れる人も今はいないわねえ。小腹も空いたし。兎たちも、夜が明けたら戻ってくるとは思うのだけど」
「粥くらいなら作ってやるぞ」
神奈子が横槍を入れてきた。
「あら、あなたも一緒に来るつもりなの?」
「まあ、いいじゃないか。
たまには古い話でもしながら一杯くらい付き合え」
それもいいかもしれない。
たまには、昔話でもしながら夜が明けるまで杯を傾けてみるのもいいだろう。
人と共に生き、信仰に殉じた地上の神と。
「それもそうね。では、歓迎するわ。私たちの永遠亭に」
私はそう言い、彼女を招き入れた。
▽
縁側に座り、外を眺める。
池には激闘の痕を示す御柱の柱。夜の底はもう薄紫に色づいている。中秋の満月は終わろうとしている。先ほどまで一緒にいた諏訪の武神は、今しがた屋敷を去った。
空を仰ぎ、月へ行った二人の弟子の事を考える。
知らぬうちに変わるものだ。私は、長い永遠の檻の中で、変化を忘れてしまっていたのかもしれない。
私は、隣に座っている輝夜に声をかけた。
「それにしても輝夜。
鈴仙になんて声をかけたの? あの子が、自分から月に行きたいだなんて」
輝夜は杯を傾けると、静かに微笑んだ。
「別に、何も。
ただあの子って、人の言うことを優先して自分を殺すところがあるじゃない。
だから、ちょっとだけ焚きつけようと思ったの。
悪戯因幡に振り回されているうちに、あの子も何か変わるかもしれない」
「あら、色々考えているのね」
私は意外に思う。輝夜がそんなことを考えてるとは思いもよらなかった。
私は鈴仙に、自分自身で考えることを教えてきたつもりだったけれど、なるほど他人を使って意識を変えさせるというのも手だ。
「別に、そんなに深く考えていたわけじゃないわよ。
ただ、永琳は昔のことを後悔していないって言ってたじゃない。
だから、思ったのよ。
鈴仙にとってのてゐが、永琳にとっての私のようであったらいいなって」
私は驚いて輝夜の顔を見る。
たぶん、呆けた表情をしているんだろう。
確かに私は、輝夜に振り回されることで変わった。後悔してるわけでも無い。
だが、そうか。
輝夜は、私と地上に住んだことを後悔していないのだ。だから、同じように鈴仙やてゐを焚きつけることができたのだ。
私が輝夜と歩んだ道は、他の誰かに言わせれば茨の道だろう。でも、それを後悔していない輝夜だからこそ言える。てゐや鈴仙に、思った道を進んでみろと。
私にはそれが言えなかった。なぜなら、輝夜に蓬莱の薬を飲ませてしまったことを、まだ後悔しているから。
地上に住むようになったことはもちろん後悔はしていない。だが、輝夜を蓬莱人にしてしまったことは、未だ私の心に棘として刺さっている。
「……敵わないわね、あなたには」
私は小さく呻く。
私は、輝夜のように達観できない。
今でも、てゐを、鈴仙を月に行かせてよかったのかと考えてしまう。
頭では解る。私が行くより、鈴仙が行ったほうがいい。
だが、鈴仙の手に余る事態が待ち受けていることは十分に有り得る。その時、鈴仙はどうするだろうか。逃げ出したりしないだろうか。
いや、逃げ出すならまだいい。もしも死んでしまったら。
輝夜は茨の道でもいいと言うかもしれない。鈴仙に後悔は無いかもしれない。でも、やはり死んでしまったらお仕舞いだと思う。あの子は、私とは違って命に限りがあるのだから。
「あら、まだ難しい顔をしているのね。
お酒が足りないのかしら。ちょっと待って、取っておきのを持ってきてあげるから」
輝夜がそう言うと、席を立った。
気を使わせてしまったか。
――それにしても。
私は明け行く空を見上げ、月の都を思う。
私が設計した、神々の都。月の兎。穢れを恐れた月夜見の意向に答えるために造った、罪を購うための生物。神話の時代から想定された、壊れることの無い永久のシステム。ぐるぐると思考は回る。
――でも、それを壊すのは、あの子たちかも知れないわね。
そっと呟く。
変わることの無い永遠など無いのかもしれない。
「……永琳! ちょっと来て、永琳!!」
屋敷の奥の方から聞こえてきた声が、私の思考を中断させる。
「何よ大声出したりして。今行くわ」
杯をその場に置き、私はそっと立ち上がった。
おそらく、輝夜は取っておきのお酒とやらを取りに戻ったのだろう。声は輝夜の部屋から聞こえてきていた。
輝夜の部屋に足を踏み入れる。
当の輝夜は夜明け前の弱くなった月光を浴び、蔀戸の側で私を手招きしていた。
「ほら、これ見て」
彼女の指差したところを見る。机の上、小さな鉢の中を見て、私ははっと息を飲んだ。
この屋敷にかけられた永遠の魔法が解かれてから、もう四年になる。この盆栽は、その時から輝夜が世話をしていたもの。三千年に一度だけ花を咲かせる、月だけに存在する幻の植物。
それは優曇華の木。今その木は、小さな蕾をつけていた。
「……うまく育てたわね」
私は、ぽつりと輝夜に言った。
「いいえ、私は時々気分に任せて水をあげたり、つついてみたりしただけ。
育てたのは永琳。ずっと面倒を見てきたじゃない」
私は、この盆栽を育てたことなど無い。これは、輝夜が一人で始めたこと。
だけど、彼女が言いたいことが何なのかはわかる。だから、私は答える。
「……そうかしら。だったら、いいのだけれど」
「いやね、そうに決まってるじゃない。
あなたがどんなに大切に育ててきたか、私は見てきたつもりよ」
優曇華の木は月の植物だが、月では決して育たない。穢れのある地上で、初めて美しい実をつける。
それは、月と地上の縮図のように見える。
月は永遠がある代わりに変化が無い。地上はその逆。その理由は、地上に蔓延る穢れにある。
穢れとは悪しきものだろうか。その答えは、変化が悪しきものであるかという問いに似ている。
「ねえ、永琳。
人は変わるものなのよ」
私は頷き、そっと蕾に指を伸ばす。
あの子たちが心配なのは変わらない。だが、案じすぎるのは止めよう。あの子たちは、もう自分の道を歩んでいるのだから。
珊瑚のような枝がつけた小さな蕾は、すぐに落ちてしまいそうに儚く、しかし月の光を浴びてきらきらと輝いていた。
続きます
まあそれは、十人十色の解釈のある東方ですから仕方のないことだと思います。
私の中の永琳は、もっともっとデキるヒトですよw
でもそんなこと関係なしに面白かったです。
次回以降も楽しみにしています。
あと殺しあっている(少なくとも永琳は肉体を殺されている)実戦なのに、弾幕ごっこチックなのは少し違和感がありました。
スペルカードとかは真剣味に欠けるかな。
キャラ間のやりとりなど、他がよかっただけに、バトルが少々もったいなかったです。
前作からグイグイ引き込まれています。
てゐや鈴仙が、これからどんな道を辿るのか・・・
次回も期待しています!!
能力自体の発動に名前は必要ありませんが……職業病みたいなものでしょうか(笑)。
意外と祭り(神遊ビ)の光景が目に浮かぶものですね。ちょっとした映画のようでした。
今回は某くーるあんどくりえいと様の名曲がうかびましたね。
遊びに誘っても生返事。今日も上の空なの、どうして?
不安な気持ちを吐き出せばいい。大丈夫さ。一人にさせないぜ。
家族で、友達って素敵ですよね。
どれだけ遠く離れても、原始的なフェムトファイバー、絆は切れないのです。
次回も期待しています
二人と対照的に迷いのない輝夜も素晴らしい。
次回も期待しています。
続きを期待して待ってます!
この神奈子の設定が好きです
カリスマ神奈子様はやはりいいですね!
続き期待してます
前回はご祝儀が強すぎたと思い、時間を置いて評価させていただきました。
まず、やはり文章としては面白いです。
これは娯楽作品として最も重要なことですが、今回も満足でした。
設定については、これは人それぞれでしょうから、全ての人を満足させることは出来ません。
しかし、私にとってはかなり理想に近いものでした。
では、なぜ 80点なのか。
それは最後の戦いの描写に、微妙な違和感があったからです。
別にどちらが強いとか、そういうことにはあまり興味がないのですが。
神々の戦いにしては、いささか俗ぽかったような印象を受けるのです。
これも緒戦は読者の好みと言ってしまえばそれまでなのですが、
例えば神奈子と諏訪子の、鉄の輪と藤の蔓の伝説のような、
ある意味抽象的な表現などでも良かったような気もします。
今回のように力が拮抗していれば、その描写はさらに難しいものとなるのだろうとも思いますが。
長々と書いてしまいましたが、この作品はとても面白いです。
次回作が発表される日を、私は楽しみに待っています。