あの日の事を、今でも鮮明に覚えている。
あれは、お爺様がまだ生きておられた頃の事だ。
あの頃の私は今よりもずうっと小さくて、トコトコとお爺様の後を追いかけては転んでしまう、そんなドジな子供だった。
楼観剣と白楼剣を背に差せるはずも無く、それでも何時かお爺様の様に立派な剣士になる事を夢見ていた、そんな昔の事――……
白玉楼の座敷にて向かい合う私とお爺様。
お爺様は私に色々な事を教えてくれた。
剣の扱い方。庭木の世話の方法。お掃除の仕方。
幽々子様の朝食の作り方。幽々子様の昼食の作り方。幽々子様のおやつの作り方。
幽々子様の夕食の作り方。幽々子様の夜食の作り方。幽々子様の非常食の作り方。
その他にも、沢山の事を――
『妖夢や妖夢。今日は、爺様が特別な授業をして進ぜよう。心して聞くのじゃぞ』
『はい! お爺様!』
『良い返事じゃ。それでこそ我が孫』
お爺様は……とても、厳しい方だった。
魂魄の名を継ぐと言う事の意味。その重み。
そして、西行寺家に仕えられると言う事のありがたさを、幼少期の私に何時も語ってくれた。
お爺様の言葉には、何時も重みが感じられた。
厳しいけれど、その厳しさは根底に孫への愛情があっての事。
躾と言う字は身を美しくすると書くが、正しくお爺様のやっていた事は躾そのものだったのだろう。
『ときに妖夢、お前さんは今までにお酒を飲んだ事があるかな?』
『お酒、ですか? ……いえ。妖夢は今まで生きていて、一度もお酒を飲んだ事はありません』
『ほっほっほ。半分幽霊なのに『今まで生きていて』と言うのは少々滑稽じゃが……成程のぅ。
それは良かった。実はな、今日の授業はそのお酒についてなのじゃ。
妖夢はお酒を飲んだ事が無いらしいが、それは本当に幸せな事じゃて』
『そうなのですか?』
『うむ……妖夢はまだ子供じゃからなぁ。
子供がお酒を飲むのは、絶対にしてはならない事。しっかりと覚えておくのじゃぞ』
『はい! 妖夢はしっかり覚えておきます!』
『うむ……ちなみに、子供がお酒を飲むとどうなるか、妖夢に一応教えておくとしよう』
『な、何が起こるんですか……?』
『子供がお酒を飲むと、のぅ』
そして、お爺様は私の顔に自分の顔を近づけると、ぼそりと一言呟いたのだ。
『 』
◇ ◆ ◇
「……夢、か……」
懐かしい夢を見た物だ、と独り言を呟きながら私は布団から起き上がる。
場所は、冥界のお屋敷白玉楼。
畳の香りが漂う白玉楼の座間にて、私――魂魄妖夢の一日が始まろうとしていた。
時刻は早朝。
窓の外からは雨粒が地面に当たっては弾ける音が聞こえている。
天気が良くないと言う事か。
庭木の手入れはどうやら明日になりそうだ。
「……懐かしい夢を見たな」
あくびを噛み殺しながら、私は寝巻きから普段着へと着替えを行う。
腰の帯をするりと解くと、浴衣にも似た寝巻きはあっけなく床へと落ちてしまう。
姿見に映る自分の肢体は……少なくとも、幼い子供の物ではない。
以前、幽々子様は私の体を見て均整の取れた肉付きだと評しておられた。
剣を振るい、主にとっての障害を切り払うのが我が役目なれば、それには十分値するのだろう。
けれども、大人の物かと問われるならば、
「まだまだ未熟、ですよね……」
肯定する事は、到底不可能だ。
胸もあまり膨らんでいなければ、背もまだまだ低い。せいぜいなだらかな起伏と表現するのが精一杯。
剣士として必須であろう腕の筋肉も満足には付いてはいない。
姿見に映るのは、未熟な少女の肉体だ。
先代の庭師――お爺様には、まだまだ到底及ばぬ未成熟な肉体。
それが、私。
魂魄妖夢の現状。
「……はぁ……早く大人になりたいな……」
姿見の中の自分の隣に、ふと幽々子様の姿を想像してしまう。
豊かに膨らんだ胸と、柔らかな体の輪郭。
物腰柔らかでありながら、その表情にはどこか知的な雰囲気も備えている。
口元に微かな笑みを浮かべる想像の幽々子様は、女性の私から見ても十二分に魅力的な存在だ。
ほんのりと漂うのは、所謂大人の女性の色気と言う物なのだろうか。
幽々子様をお守りするべき立場だと言うのに、私よりも幽々子様の方がずっと大人びた外見をしている。
これでは本末転倒ではなかろうか――そんな考えがどうしても頭を過ぎってしまう。
可能ならば、今すぐにでも成長したい。
けれど、それは適わぬ願いなのだ。
半分が人間で半分が幽霊のこの体は、成長速度も人間の半分なのだから。
少なくとも、あと十数年はこのまま。
今でも、私の肉体は未成熟なのだから……そんなゆったりとした成長速度が、時に苛立ちを感じさせてくれたりもする。
「まぁ、適わない事を願ってもしょうがない」
若草色の普段着に袖を通すと、私は髪型を整える。
寝癖は……出来ていないな。
主の前に出ると言うのに、身だしなみが乱れているのは絶対にあってはならない事。
黒いリボンを軽く巻き、服に皺が寄っていないかを厳しくチェック。
……よし、OKだ。
「では、本日も頑張りますか」
◇ ◆ ◇
「ねーねー妖夢ー。美味しいお酒が手に入ったんだけど、一緒に飲んでみないかしら?」
「お、お酒……ですか?」
「ええ。お酒よー。ほら、妖夢ってば神社で宴会があってもいーっつも私の晩酌をしているからお酒をあまり飲む機会が無いでしょう?
だから、たまの休日くらい一緒にどうかなと思って。雨が降ってるんだから、今日は臨時休日でしょう?」
「確かにそうなりますが……でも」
幽々子様のお誘いを受けて、一瞬口ごもってしまう。
主の心遣い。本来ならば、受けるべきなのだろう。
だが――……
「たまには二人きりでゆったり過ごすのも悪くは無いと思うんだけど。どうかしら?
紫がね、マヨヒガのお酒を持って来てくれたのよー」
能天気に語りかける幽々子様を前に、私は今日の予定を振り返る。
今日の私が休みなのは本当の事だ。
庭木のお世話は雨で不可能。幽々子様の剣のお稽古も、庭が使えない以上当然お休みとなる。
お使いで屋敷を出る事も無いだろうから、今日一日は本当に暇だと言う事になる。
たまの休日、まったりと過ごすのも悪くは無いのだが。
「申し訳御座いません。幽々子様のそのお気持ちだけで結構です」
私は、軽く頭を下げて幽々子様からのお誘いをお断りする事にした。
頭を下げた事で、銀の前髪が私の視界を一瞬覆い隠す。
頭を上げた時、幽々子様は気分を悪くされないかと心配したのだが、
「あら、そう? それじゃあ、お酒は私一人で頂くとするわねー」
どうやら、その様な事は無かったらしい。
余りにも懐が広くて普段は何を考えているのか分からない幽々子様だが、その性格がこう言う時にはありがたく感じる。
器が広いとでも言うべきか。
「はい。幽々子様お一人でお楽しみ頂ければ――本当に、申し訳御座いません」
「はいはいっと。別にそんなに真剣に謝らなくっても良いのに」
「お気持ちだけ頂いておきます」
立ち上がりながらお酒の話を切り上げると、私はお昼ごはんの支度をしに台所へと足を進めた。
いくらお休みを頂いていると言っても食事の準備は私がしなければならない。担当の幽霊達は、こんな時に限って全員出払っているのだ。
幽々子様にお任せしてしまうと、生姜焼き(と言う名の炭)やら魚の刺身(と言う名のブツ切り)が食卓に並ぶ事になるのだから。
◇ ◆ ◇
お昼ごはんの準備をしながら思うのは、先程の幽々子様との会話の事。
お酒を勧められたけれども、私は断ってしまった。
幽々子様は気にはしていない様子だったのだが、ご好意を無駄にしてしまった事への申し訳なさがちくりと私の胸を痛めている。
こう言う時、多少無理をしてでもお酒を頂くのが従者としての務めなのではないだろうか――そんな考えがふと浮かぶのだ。
主の心遣いの為ならば、自分を曲げる事も必要なのではないかと、そんな考えが浮かんでしまう。
けれども、私はお酒を飲んではいけない。
昔、お爺様と『お酒は大人になってから』と約束をしたのだから。
そう言えば、今朝見た夢は丁度その時の事だったか……
お爺様は、子供がお酒を飲んではいけない――もしもその禁を破れば、恐ろしい事が起こると教えてくれた。
だから、私はお酒を飲んだりしない。
少なくとも、肉体が大人になりきっていない内は。絶対にだ。
追想するのは、今朝の夢の続き。
お爺様が語ってくれた恐ろしい事を聞いた後の、私とお爺様とのお話の事。
『――そ、そんなに恐ろしい事が起こるんですか!?』
『ああ。本当じゃ。じゃが、爺様はお酒を飲んでも平気じゃろう?
それは、爺様がとっくに大人になっているからなのじゃよ。爺様はしわくちゃで、立派なおじいちゃんじゃからな』
『成程……大人になれば、お酒を飲んでも大丈夫なのですね!』
『ああ。その通りじゃ。何時か、妖夢が立派な大人になった時に爺様と一緒にお酒が飲めると楽しいのう』
『はい! 妖夢がお爺様のお酌をします!』
『はっはっは! それは楽しみじゃ! それまでは、成仏出来ぬ。
妖夢と一緒にお酒を飲む……爺様との約束じゃな!』
そう言って笑うお爺様は、とてもとても楽しそうな表情をしていた。
――けど、その約束は守られなかった。
私が大人になるよりも早くにお爺様が亡くなってしまわれたからだ。
私が大人になるのが、余りにも遅過ぎたから。
しょうがない事なのかもしれない。
お爺様とて不死ではないのだから。
死は万物に訪れる摂理。別れもまた、当然の事。
大切なのは残された者がどうするか。
せめて、あの頃よりも少しでも前に進む――成長する事が、お爺様に対する礼儀なのだろう。
約束を果せなかったお爺様に対する、せめてものお詫び。
あの頃と比べると、私の身体は大きく成長している……と、言えるのだろうか。
あの頃の自分にとって大き過ぎて到底持つ事が適わなかった二振りの剣は、今や私の相棒だ。
白玉楼のお庭の手入れを任され、幽々子様の剣術指南役と言う大役をも任され――それでも、私はかつてのお爺様の足元にも及ばない。
だから、もっと頑張らなければ。
早く成長して、もっと強くなって、立派になって、かつてのお爺様に少しでも近付かなければ。
もっと強く。もっと疾く。もっと鋭く。
もっと――
「……っ…………うっ…………」
気付けば、足元には水溜りが出来ていた。
何故、私は泣いているのだろうか?
そんなのは決まっている。
涙が流れるのは、私が弱いからだ。
弱さは忌むべき事。
強さこそが求められるべき物。
弱さは、私には不要なのだ。
魂魄の名を継いだからには、弱くてはならない。
二振りの剣を継いだからには、強くあろうとしなければならない。
幽々子様の世話役を任されたからには――強くなければならない。
なのに、私は未だに未熟なままだ。
分かっている。
そんな事は百も承知。
剣を振るう度に、脳裏に浮かぶお爺様の剣閃を思い出しては無意識に比較をしてしまう。
お爺様ならば片腕で軽々と扱っていた楼観剣は、私には長過ぎて両腕でなければ使いこなせない。
私は、相棒である剣にすら振り回されている始末。
だから、必死に修練を積んで、一歩でもお爺様に――
「……うぁぁっ……だめ、なんだ……そんなのじゃあ……」
そんなのでは遅過ぎる。
私は今すぐにでも強くなりたい。
なのに、それは適わなぬ事――……
「違うっ……私は、弱くなんかっ…………っ……うっ、あ、あぁっ…………」
涙が止まらない。
どうしてだ? どうして私は泣いている?
強い剣士に涙は不要の筈ではないか。
お爺様は私の前で泣いていたか? 否。一度も涙を流した事は無い。
私は、こんな所でもお爺様に劣っていて――……
「妖夢ー? よーむってばぁー!
居ないのー? ねーねー妖夢ー!」
突然聞こえた幽々子様の声に、しゃくりあげていた嗚咽を無理やりに飲み込んで止める。
お爺様に『決して、幽々子様の前で涙を流してはならない』と教わったからだ。
目が晴れているのはしょうがない。涙を拭うだけで今は精一杯だ。
何とか誤魔化すしかないだろう。
小走りで幽々子様の元へと向かい、遅れた事を詫びなければならないのだから。
「妖夢ってばー!」
トタトタと足音を立てて居間と向かうと、頬を膨らませている西行寺幽々子様が居た。
見ると、盃の中に水を注いでいる。
……いや、水ではない。お酒だ。
先程仰っておられたお酒なのだろう。
「は……はいっ! 幽々子様、一体何の御用で――」
「はい。お酒」
「……へっ?」
「へっじゃないわよ。お酒よお酒。呑みなさい」
「私がですか?」
「妖夢以外に誰が居るのよ」
「…………ですが、私はお酒を飲んではならないと」
お爺様と、約束をしていて――
「そんなのどうだって良いから、呑みなさいっ!」
「ふぁっ!? む、もごっ!?」
していたのだが、幽々子様に無理やり押し倒されてしまった。
若干目が据わっている幽々子様は、私の身体を片手で畳に押さえ付けるとそのまま離してくれない。
私と幽々子様の体格差は、そのまま子供と大人の体格差に言い換える事が出来るのだ。
つまり、大人が子供を押さえつけているのも同じである。脱出出来る筈も無い。
「にゃ、ぐっ……ゆゆこ、様、何をっ!」
「良いからっ! 呑めって言ってるのよ!」
何だこれは。屋敷内暴力か。あるいはパワーハラスメントか。
幽々子様が酔った勢いで奇妙な行動を取る事は過去に何度もあったが、今の幽々子様はその様な状態ではない。
となれば、これは何事なのだ。理解が出来ない。
「い、嫌ですっ! 私はっ――私は、お爺様と約束、をっ……」
「だぁかーらぁー! 妖夢は、私の酒が呑めないってのぉ!?
今の妖夢の主人は誰? 私でしょうが! あーもう、こうしてやるっ!」
「……!」
刹那、幽々子様の唇が私の唇に重ねられていた。
唇と唇を通じて、ほろ苦い液体が私の口内へと侵入している。
苦くて、辛くて、ほんの少しだけ甘い水。
これは……お酒?
「んーっ! んんーっ!」
「……………………」
幽々子様は、私を離してくれない。
酔った勢いなのか、あるいは何かの考えがあっての事なのか……とにかく、私の口腔へ直にお酒を流している。
コクンコクンと喉が鳴るにつれて、私の口内がお酒と幽々子様の唾液で満たされてしまう。
駄目なのに……お爺様に、呑んではいけないと言われていたのに……
何故か、涙が零れてしまう。
自由を奪われて、お爺様との約束を砕かれて、あまつさえ唇まで――……
どうしてだ? どうしてこんな事にっ……
「……っ、ぷはぁっ。ふー、すっきりしたー」
幽々子様は……ご満足なさられたのだろうか。
私から唇を離すと、そのままゆっくりと、ゆっくりと私の身体を畳に寝かせる。
唇と唇の間にはぬらぬらと輝く唾液の糸が結ばれていて。
それが、今まであった事が夢でも何でもない、現実なのだと言う事を私に教えてくれた。
「……一体、何のおつもりですか?」
束縛から解放された私は、畳の上で半身を起こしながら幽々子様を咎める。
いくら何でも、さっきの行為は酷過ぎる。
酔った勢いなのか、あるいは……
場合によっては、如何に相手が主君と言えどもそれ相応の対応が必要となる。
だが、幽々子様は一向に悪びれる気配が無い。
それどころか、にこやかに笑いながら一言だけ、
「だって、妖夢は大人じゃない」
と、言われたのだ。
「……は?」
「妖夢は大人なの。だから、お酒を呑んでも大丈夫」
「い、いえ。私は未だ未熟者で――」
「じゃあ、お酒を呑んで何か体調に変化が出た? 出ていないでしょう?」
指摘されて、ハッと気が付いた。
確かにそうだ。
お爺様に言われた体の変化は、未だに起こっていない。
これは、一体……?
あたふたとしている私に対して、幽々子様は囁く。
「それはね。妖夢が大人になったからなのよ。半人前じゃなくて、一人前」
「いちにんまえ、ですか?」
「ええ。子供じゃなくて、もう大人なのよ。妖夢は立派な大人」
そう言うと、幽々子様は私をそっと抱き締めてくれた。
幽々子様の抱擁は暖かくて、優しくて……ほんのりと、桜の香りがした。
まるで、母親の腕の中で抱かれている様な……そんな、気分になれる。
「だから……何時までも妖忌の教えを引き摺ったり、自分を過小評価するのは止めなさい。
一人前なんだから、これからは自分で考えて、必要な事を取り入れなさい。
何もかもを漫然と学んだ少女の頃はもうお終い。お酒だって呑める様になったんだから」
幽々子様に髪を撫でられるのがくすぐったくて……恥かしくて……
でも、もっと撫でていて欲しいと願ってしまう。
「一人で自分の未熟な腕前を嘆いて、泣いたりするのはもうお終い。分かったわね?」
言葉は、何も言えなかった。
ただ、コクリと一度頷くだけ。
それだけで幽々子様は分かって下さるお方だから。
何時しか、雨が降る音も鳴り止んでいた。
お日様が出て、庭が乾いたならば私の仕事が始まるのだろう。
けれども……今日くらいは。
もう少し、このままで居たい。
一人前になれたのだから、お休みくらいは自分の我侭で決めていたい。
お昼ごはんの準備は……また、後で良いかな。
◇ ◆ ◇
その夜、夢の続きを見た。
夢の中のお爺様は相変わらず厳しい表情で、私にお酒についての諸注意をしている。
けれども、それももうお終いだ。
私は、お爺様の教えから卒業しなければならないのだから。
だから……ごめんなさい。お爺様。
妖夢は今夜、お爺様の元を離れて一人の庭師として西行寺の家に仕えます。
『お爺様! 妖夢はもう、子供じゃありません!』
『……ほほう? それはどう言う事なのかな?』
『言葉のの通りです。妖夢は一人前だから、お爺様の教えはもう必要ありません。これからは一人で考えて、成長して行きます』
お爺様は……ほんの少しだけ、寂しそうな顔をしていた。
何時もの厳しさを含んだ目元には、ほんの少しだけの寂しさと――そして、満足気な笑みが浮かんでいる。
『……よしよし。ようやく、孫の心強い言葉が聞けたわい……これで爺様の教える事はお終いじゃな』
『はい! 今までありがとうございました!』
小さな私はぺこりとお辞儀をすると、少しだけずれてしまったリボンを慌てて整える。
お爺様もまた、私と同じく一礼をする。
一人前の庭師と庭師。
師匠と弟子が交す、最初で最後の一礼。
魂魄の名を継ぐと言うは、つまりはこう言う事だったのかもしれない。
古きの教えから学び、自ら考えてその教えを進化させる。
先代よりも、より強くなる為に。
そして、私とお爺様は最後の言葉を交す。
『お別れじゃな』
『……はい』
私は一人前になれた。
これからは一人で考えて、己のすべき事をし、学ぶべき事を学ばねばならないのだ。
だから、もう私にお爺様は必要無い。
『妖夢……寂しくなったら、何時でも爺様を呼ぶのじゃよ。爺様は何時でも妖夢を支えているからな』
『はい! 妖夢は優しいお爺様の事が大好きです!』
『……クッ、ハハハ! うむ! 爺様も妖夢の事が大好きじゃよ!』
強いお爺様に、湿っぽい別れは必要無い。
必要なのは、元気で、逞しい、笑顔の別れだ。
ごつごつとした岩の様な手の平が、私の頭を優しく撫でてくれた。
お爺様に撫でられるのはこれがきっと最初で最後の事だ。
厳しいお爺様が最後に見せてくれたのは、優しい一面だった。
私は……何処から取り出したのだろう。
盃と酒瓶を取り出すと、何時の間にか盃を酒で満たしていた。
『妖夢はいちにんまえの庭師なんです! だから、お爺様と一緒にお酒だって呑めます!』
そして、私は盃をお爺様へと差し出す。
生前では叶えられなかったお爺様との約束。
一緒にお酒を呑むと言う約束を、叶える為に。
お爺様は無言で盃を取ると、そのままグイと一息で呑み干す。
別れを惜しんで少しずつ呑む様な事はしない。お爺様とはつまり、そう言う方なのだ。
そして、お爺様は酒瓶の中身で空になった盃を満たすと私に差し出す。
大丈夫だ。今の私になら、呑める。だって、私は一人前なのだから。
私は無言でその盃を受け取ると、お爺様と同じく一息でそれを呑み干していた。
ほんのりと苦くて、甘いその液体は――何故だろうか。
ほんの僅かに、塩辛い味がした。
『………………』
『………………』
言葉の無い時間。
目と目だけで語り合う時間が、どれ程過ぎただろうか。
五分か。十分か。あるいは一時間……はたまたはそれ以上か。
やがて、私とお爺様は背中と背中を向け合うと、それぞれの道へと歩き始める。
今までありがとうございました。お爺様。
そして……願わくば、私を何処かから見守っていて下さい。
半人前の自分とは、今日でお別れです。
これから――妖夢は、お爺様を追い越せる様、頑張ります。
◇ ◆ ◇
「……夢……か…………」
目が覚めた後、私は何時もの様に布団から起き上がる。
時刻は昨日と同じく早朝。
けれども、雨は降っていないらしい。
寝巻きから普段着へと着替えを行うべく、姿見の前へ立つ。
「……ん?」
どうしてだろうか。
昨日の自分とは、何も変わっていない筈なのに――……
姿見の中の自分が、昨日よりも大人びている様に見えた。
あれは、お爺様がまだ生きておられた頃の事だ。
あの頃の私は今よりもずうっと小さくて、トコトコとお爺様の後を追いかけては転んでしまう、そんなドジな子供だった。
楼観剣と白楼剣を背に差せるはずも無く、それでも何時かお爺様の様に立派な剣士になる事を夢見ていた、そんな昔の事――……
白玉楼の座敷にて向かい合う私とお爺様。
お爺様は私に色々な事を教えてくれた。
剣の扱い方。庭木の世話の方法。お掃除の仕方。
幽々子様の朝食の作り方。幽々子様の昼食の作り方。幽々子様のおやつの作り方。
幽々子様の夕食の作り方。幽々子様の夜食の作り方。幽々子様の非常食の作り方。
その他にも、沢山の事を――
『妖夢や妖夢。今日は、爺様が特別な授業をして進ぜよう。心して聞くのじゃぞ』
『はい! お爺様!』
『良い返事じゃ。それでこそ我が孫』
お爺様は……とても、厳しい方だった。
魂魄の名を継ぐと言う事の意味。その重み。
そして、西行寺家に仕えられると言う事のありがたさを、幼少期の私に何時も語ってくれた。
お爺様の言葉には、何時も重みが感じられた。
厳しいけれど、その厳しさは根底に孫への愛情があっての事。
躾と言う字は身を美しくすると書くが、正しくお爺様のやっていた事は躾そのものだったのだろう。
『ときに妖夢、お前さんは今までにお酒を飲んだ事があるかな?』
『お酒、ですか? ……いえ。妖夢は今まで生きていて、一度もお酒を飲んだ事はありません』
『ほっほっほ。半分幽霊なのに『今まで生きていて』と言うのは少々滑稽じゃが……成程のぅ。
それは良かった。実はな、今日の授業はそのお酒についてなのじゃ。
妖夢はお酒を飲んだ事が無いらしいが、それは本当に幸せな事じゃて』
『そうなのですか?』
『うむ……妖夢はまだ子供じゃからなぁ。
子供がお酒を飲むのは、絶対にしてはならない事。しっかりと覚えておくのじゃぞ』
『はい! 妖夢はしっかり覚えておきます!』
『うむ……ちなみに、子供がお酒を飲むとどうなるか、妖夢に一応教えておくとしよう』
『な、何が起こるんですか……?』
『子供がお酒を飲むと、のぅ』
そして、お爺様は私の顔に自分の顔を近づけると、ぼそりと一言呟いたのだ。
『 』
◇ ◆ ◇
「……夢、か……」
懐かしい夢を見た物だ、と独り言を呟きながら私は布団から起き上がる。
場所は、冥界のお屋敷白玉楼。
畳の香りが漂う白玉楼の座間にて、私――魂魄妖夢の一日が始まろうとしていた。
時刻は早朝。
窓の外からは雨粒が地面に当たっては弾ける音が聞こえている。
天気が良くないと言う事か。
庭木の手入れはどうやら明日になりそうだ。
「……懐かしい夢を見たな」
あくびを噛み殺しながら、私は寝巻きから普段着へと着替えを行う。
腰の帯をするりと解くと、浴衣にも似た寝巻きはあっけなく床へと落ちてしまう。
姿見に映る自分の肢体は……少なくとも、幼い子供の物ではない。
以前、幽々子様は私の体を見て均整の取れた肉付きだと評しておられた。
剣を振るい、主にとっての障害を切り払うのが我が役目なれば、それには十分値するのだろう。
けれども、大人の物かと問われるならば、
「まだまだ未熟、ですよね……」
肯定する事は、到底不可能だ。
胸もあまり膨らんでいなければ、背もまだまだ低い。せいぜいなだらかな起伏と表現するのが精一杯。
剣士として必須であろう腕の筋肉も満足には付いてはいない。
姿見に映るのは、未熟な少女の肉体だ。
先代の庭師――お爺様には、まだまだ到底及ばぬ未成熟な肉体。
それが、私。
魂魄妖夢の現状。
「……はぁ……早く大人になりたいな……」
姿見の中の自分の隣に、ふと幽々子様の姿を想像してしまう。
豊かに膨らんだ胸と、柔らかな体の輪郭。
物腰柔らかでありながら、その表情にはどこか知的な雰囲気も備えている。
口元に微かな笑みを浮かべる想像の幽々子様は、女性の私から見ても十二分に魅力的な存在だ。
ほんのりと漂うのは、所謂大人の女性の色気と言う物なのだろうか。
幽々子様をお守りするべき立場だと言うのに、私よりも幽々子様の方がずっと大人びた外見をしている。
これでは本末転倒ではなかろうか――そんな考えがどうしても頭を過ぎってしまう。
可能ならば、今すぐにでも成長したい。
けれど、それは適わぬ願いなのだ。
半分が人間で半分が幽霊のこの体は、成長速度も人間の半分なのだから。
少なくとも、あと十数年はこのまま。
今でも、私の肉体は未成熟なのだから……そんなゆったりとした成長速度が、時に苛立ちを感じさせてくれたりもする。
「まぁ、適わない事を願ってもしょうがない」
若草色の普段着に袖を通すと、私は髪型を整える。
寝癖は……出来ていないな。
主の前に出ると言うのに、身だしなみが乱れているのは絶対にあってはならない事。
黒いリボンを軽く巻き、服に皺が寄っていないかを厳しくチェック。
……よし、OKだ。
「では、本日も頑張りますか」
◇ ◆ ◇
「ねーねー妖夢ー。美味しいお酒が手に入ったんだけど、一緒に飲んでみないかしら?」
「お、お酒……ですか?」
「ええ。お酒よー。ほら、妖夢ってば神社で宴会があってもいーっつも私の晩酌をしているからお酒をあまり飲む機会が無いでしょう?
だから、たまの休日くらい一緒にどうかなと思って。雨が降ってるんだから、今日は臨時休日でしょう?」
「確かにそうなりますが……でも」
幽々子様のお誘いを受けて、一瞬口ごもってしまう。
主の心遣い。本来ならば、受けるべきなのだろう。
だが――……
「たまには二人きりでゆったり過ごすのも悪くは無いと思うんだけど。どうかしら?
紫がね、マヨヒガのお酒を持って来てくれたのよー」
能天気に語りかける幽々子様を前に、私は今日の予定を振り返る。
今日の私が休みなのは本当の事だ。
庭木のお世話は雨で不可能。幽々子様の剣のお稽古も、庭が使えない以上当然お休みとなる。
お使いで屋敷を出る事も無いだろうから、今日一日は本当に暇だと言う事になる。
たまの休日、まったりと過ごすのも悪くは無いのだが。
「申し訳御座いません。幽々子様のそのお気持ちだけで結構です」
私は、軽く頭を下げて幽々子様からのお誘いをお断りする事にした。
頭を下げた事で、銀の前髪が私の視界を一瞬覆い隠す。
頭を上げた時、幽々子様は気分を悪くされないかと心配したのだが、
「あら、そう? それじゃあ、お酒は私一人で頂くとするわねー」
どうやら、その様な事は無かったらしい。
余りにも懐が広くて普段は何を考えているのか分からない幽々子様だが、その性格がこう言う時にはありがたく感じる。
器が広いとでも言うべきか。
「はい。幽々子様お一人でお楽しみ頂ければ――本当に、申し訳御座いません」
「はいはいっと。別にそんなに真剣に謝らなくっても良いのに」
「お気持ちだけ頂いておきます」
立ち上がりながらお酒の話を切り上げると、私はお昼ごはんの支度をしに台所へと足を進めた。
いくらお休みを頂いていると言っても食事の準備は私がしなければならない。担当の幽霊達は、こんな時に限って全員出払っているのだ。
幽々子様にお任せしてしまうと、生姜焼き(と言う名の炭)やら魚の刺身(と言う名のブツ切り)が食卓に並ぶ事になるのだから。
◇ ◆ ◇
お昼ごはんの準備をしながら思うのは、先程の幽々子様との会話の事。
お酒を勧められたけれども、私は断ってしまった。
幽々子様は気にはしていない様子だったのだが、ご好意を無駄にしてしまった事への申し訳なさがちくりと私の胸を痛めている。
こう言う時、多少無理をしてでもお酒を頂くのが従者としての務めなのではないだろうか――そんな考えがふと浮かぶのだ。
主の心遣いの為ならば、自分を曲げる事も必要なのではないかと、そんな考えが浮かんでしまう。
けれども、私はお酒を飲んではいけない。
昔、お爺様と『お酒は大人になってから』と約束をしたのだから。
そう言えば、今朝見た夢は丁度その時の事だったか……
お爺様は、子供がお酒を飲んではいけない――もしもその禁を破れば、恐ろしい事が起こると教えてくれた。
だから、私はお酒を飲んだりしない。
少なくとも、肉体が大人になりきっていない内は。絶対にだ。
追想するのは、今朝の夢の続き。
お爺様が語ってくれた恐ろしい事を聞いた後の、私とお爺様とのお話の事。
『――そ、そんなに恐ろしい事が起こるんですか!?』
『ああ。本当じゃ。じゃが、爺様はお酒を飲んでも平気じゃろう?
それは、爺様がとっくに大人になっているからなのじゃよ。爺様はしわくちゃで、立派なおじいちゃんじゃからな』
『成程……大人になれば、お酒を飲んでも大丈夫なのですね!』
『ああ。その通りじゃ。何時か、妖夢が立派な大人になった時に爺様と一緒にお酒が飲めると楽しいのう』
『はい! 妖夢がお爺様のお酌をします!』
『はっはっは! それは楽しみじゃ! それまでは、成仏出来ぬ。
妖夢と一緒にお酒を飲む……爺様との約束じゃな!』
そう言って笑うお爺様は、とてもとても楽しそうな表情をしていた。
――けど、その約束は守られなかった。
私が大人になるよりも早くにお爺様が亡くなってしまわれたからだ。
私が大人になるのが、余りにも遅過ぎたから。
しょうがない事なのかもしれない。
お爺様とて不死ではないのだから。
死は万物に訪れる摂理。別れもまた、当然の事。
大切なのは残された者がどうするか。
せめて、あの頃よりも少しでも前に進む――成長する事が、お爺様に対する礼儀なのだろう。
約束を果せなかったお爺様に対する、せめてものお詫び。
あの頃と比べると、私の身体は大きく成長している……と、言えるのだろうか。
あの頃の自分にとって大き過ぎて到底持つ事が適わなかった二振りの剣は、今や私の相棒だ。
白玉楼のお庭の手入れを任され、幽々子様の剣術指南役と言う大役をも任され――それでも、私はかつてのお爺様の足元にも及ばない。
だから、もっと頑張らなければ。
早く成長して、もっと強くなって、立派になって、かつてのお爺様に少しでも近付かなければ。
もっと強く。もっと疾く。もっと鋭く。
もっと――
「……っ…………うっ…………」
気付けば、足元には水溜りが出来ていた。
何故、私は泣いているのだろうか?
そんなのは決まっている。
涙が流れるのは、私が弱いからだ。
弱さは忌むべき事。
強さこそが求められるべき物。
弱さは、私には不要なのだ。
魂魄の名を継いだからには、弱くてはならない。
二振りの剣を継いだからには、強くあろうとしなければならない。
幽々子様の世話役を任されたからには――強くなければならない。
なのに、私は未だに未熟なままだ。
分かっている。
そんな事は百も承知。
剣を振るう度に、脳裏に浮かぶお爺様の剣閃を思い出しては無意識に比較をしてしまう。
お爺様ならば片腕で軽々と扱っていた楼観剣は、私には長過ぎて両腕でなければ使いこなせない。
私は、相棒である剣にすら振り回されている始末。
だから、必死に修練を積んで、一歩でもお爺様に――
「……うぁぁっ……だめ、なんだ……そんなのじゃあ……」
そんなのでは遅過ぎる。
私は今すぐにでも強くなりたい。
なのに、それは適わなぬ事――……
「違うっ……私は、弱くなんかっ…………っ……うっ、あ、あぁっ…………」
涙が止まらない。
どうしてだ? どうして私は泣いている?
強い剣士に涙は不要の筈ではないか。
お爺様は私の前で泣いていたか? 否。一度も涙を流した事は無い。
私は、こんな所でもお爺様に劣っていて――……
「妖夢ー? よーむってばぁー!
居ないのー? ねーねー妖夢ー!」
突然聞こえた幽々子様の声に、しゃくりあげていた嗚咽を無理やりに飲み込んで止める。
お爺様に『決して、幽々子様の前で涙を流してはならない』と教わったからだ。
目が晴れているのはしょうがない。涙を拭うだけで今は精一杯だ。
何とか誤魔化すしかないだろう。
小走りで幽々子様の元へと向かい、遅れた事を詫びなければならないのだから。
「妖夢ってばー!」
トタトタと足音を立てて居間と向かうと、頬を膨らませている西行寺幽々子様が居た。
見ると、盃の中に水を注いでいる。
……いや、水ではない。お酒だ。
先程仰っておられたお酒なのだろう。
「は……はいっ! 幽々子様、一体何の御用で――」
「はい。お酒」
「……へっ?」
「へっじゃないわよ。お酒よお酒。呑みなさい」
「私がですか?」
「妖夢以外に誰が居るのよ」
「…………ですが、私はお酒を飲んではならないと」
お爺様と、約束をしていて――
「そんなのどうだって良いから、呑みなさいっ!」
「ふぁっ!? む、もごっ!?」
していたのだが、幽々子様に無理やり押し倒されてしまった。
若干目が据わっている幽々子様は、私の身体を片手で畳に押さえ付けるとそのまま離してくれない。
私と幽々子様の体格差は、そのまま子供と大人の体格差に言い換える事が出来るのだ。
つまり、大人が子供を押さえつけているのも同じである。脱出出来る筈も無い。
「にゃ、ぐっ……ゆゆこ、様、何をっ!」
「良いからっ! 呑めって言ってるのよ!」
何だこれは。屋敷内暴力か。あるいはパワーハラスメントか。
幽々子様が酔った勢いで奇妙な行動を取る事は過去に何度もあったが、今の幽々子様はその様な状態ではない。
となれば、これは何事なのだ。理解が出来ない。
「い、嫌ですっ! 私はっ――私は、お爺様と約束、をっ……」
「だぁかーらぁー! 妖夢は、私の酒が呑めないってのぉ!?
今の妖夢の主人は誰? 私でしょうが! あーもう、こうしてやるっ!」
「……!」
刹那、幽々子様の唇が私の唇に重ねられていた。
唇と唇を通じて、ほろ苦い液体が私の口内へと侵入している。
苦くて、辛くて、ほんの少しだけ甘い水。
これは……お酒?
「んーっ! んんーっ!」
「……………………」
幽々子様は、私を離してくれない。
酔った勢いなのか、あるいは何かの考えがあっての事なのか……とにかく、私の口腔へ直にお酒を流している。
コクンコクンと喉が鳴るにつれて、私の口内がお酒と幽々子様の唾液で満たされてしまう。
駄目なのに……お爺様に、呑んではいけないと言われていたのに……
何故か、涙が零れてしまう。
自由を奪われて、お爺様との約束を砕かれて、あまつさえ唇まで――……
どうしてだ? どうしてこんな事にっ……
「……っ、ぷはぁっ。ふー、すっきりしたー」
幽々子様は……ご満足なさられたのだろうか。
私から唇を離すと、そのままゆっくりと、ゆっくりと私の身体を畳に寝かせる。
唇と唇の間にはぬらぬらと輝く唾液の糸が結ばれていて。
それが、今まであった事が夢でも何でもない、現実なのだと言う事を私に教えてくれた。
「……一体、何のおつもりですか?」
束縛から解放された私は、畳の上で半身を起こしながら幽々子様を咎める。
いくら何でも、さっきの行為は酷過ぎる。
酔った勢いなのか、あるいは……
場合によっては、如何に相手が主君と言えどもそれ相応の対応が必要となる。
だが、幽々子様は一向に悪びれる気配が無い。
それどころか、にこやかに笑いながら一言だけ、
「だって、妖夢は大人じゃない」
と、言われたのだ。
「……は?」
「妖夢は大人なの。だから、お酒を呑んでも大丈夫」
「い、いえ。私は未だ未熟者で――」
「じゃあ、お酒を呑んで何か体調に変化が出た? 出ていないでしょう?」
指摘されて、ハッと気が付いた。
確かにそうだ。
お爺様に言われた体の変化は、未だに起こっていない。
これは、一体……?
あたふたとしている私に対して、幽々子様は囁く。
「それはね。妖夢が大人になったからなのよ。半人前じゃなくて、一人前」
「いちにんまえ、ですか?」
「ええ。子供じゃなくて、もう大人なのよ。妖夢は立派な大人」
そう言うと、幽々子様は私をそっと抱き締めてくれた。
幽々子様の抱擁は暖かくて、優しくて……ほんのりと、桜の香りがした。
まるで、母親の腕の中で抱かれている様な……そんな、気分になれる。
「だから……何時までも妖忌の教えを引き摺ったり、自分を過小評価するのは止めなさい。
一人前なんだから、これからは自分で考えて、必要な事を取り入れなさい。
何もかもを漫然と学んだ少女の頃はもうお終い。お酒だって呑める様になったんだから」
幽々子様に髪を撫でられるのがくすぐったくて……恥かしくて……
でも、もっと撫でていて欲しいと願ってしまう。
「一人で自分の未熟な腕前を嘆いて、泣いたりするのはもうお終い。分かったわね?」
言葉は、何も言えなかった。
ただ、コクリと一度頷くだけ。
それだけで幽々子様は分かって下さるお方だから。
何時しか、雨が降る音も鳴り止んでいた。
お日様が出て、庭が乾いたならば私の仕事が始まるのだろう。
けれども……今日くらいは。
もう少し、このままで居たい。
一人前になれたのだから、お休みくらいは自分の我侭で決めていたい。
お昼ごはんの準備は……また、後で良いかな。
◇ ◆ ◇
その夜、夢の続きを見た。
夢の中のお爺様は相変わらず厳しい表情で、私にお酒についての諸注意をしている。
けれども、それももうお終いだ。
私は、お爺様の教えから卒業しなければならないのだから。
だから……ごめんなさい。お爺様。
妖夢は今夜、お爺様の元を離れて一人の庭師として西行寺の家に仕えます。
『お爺様! 妖夢はもう、子供じゃありません!』
『……ほほう? それはどう言う事なのかな?』
『言葉のの通りです。妖夢は一人前だから、お爺様の教えはもう必要ありません。これからは一人で考えて、成長して行きます』
お爺様は……ほんの少しだけ、寂しそうな顔をしていた。
何時もの厳しさを含んだ目元には、ほんの少しだけの寂しさと――そして、満足気な笑みが浮かんでいる。
『……よしよし。ようやく、孫の心強い言葉が聞けたわい……これで爺様の教える事はお終いじゃな』
『はい! 今までありがとうございました!』
小さな私はぺこりとお辞儀をすると、少しだけずれてしまったリボンを慌てて整える。
お爺様もまた、私と同じく一礼をする。
一人前の庭師と庭師。
師匠と弟子が交す、最初で最後の一礼。
魂魄の名を継ぐと言うは、つまりはこう言う事だったのかもしれない。
古きの教えから学び、自ら考えてその教えを進化させる。
先代よりも、より強くなる為に。
そして、私とお爺様は最後の言葉を交す。
『お別れじゃな』
『……はい』
私は一人前になれた。
これからは一人で考えて、己のすべき事をし、学ぶべき事を学ばねばならないのだ。
だから、もう私にお爺様は必要無い。
『妖夢……寂しくなったら、何時でも爺様を呼ぶのじゃよ。爺様は何時でも妖夢を支えているからな』
『はい! 妖夢は優しいお爺様の事が大好きです!』
『……クッ、ハハハ! うむ! 爺様も妖夢の事が大好きじゃよ!』
強いお爺様に、湿っぽい別れは必要無い。
必要なのは、元気で、逞しい、笑顔の別れだ。
ごつごつとした岩の様な手の平が、私の頭を優しく撫でてくれた。
お爺様に撫でられるのはこれがきっと最初で最後の事だ。
厳しいお爺様が最後に見せてくれたのは、優しい一面だった。
私は……何処から取り出したのだろう。
盃と酒瓶を取り出すと、何時の間にか盃を酒で満たしていた。
『妖夢はいちにんまえの庭師なんです! だから、お爺様と一緒にお酒だって呑めます!』
そして、私は盃をお爺様へと差し出す。
生前では叶えられなかったお爺様との約束。
一緒にお酒を呑むと言う約束を、叶える為に。
お爺様は無言で盃を取ると、そのままグイと一息で呑み干す。
別れを惜しんで少しずつ呑む様な事はしない。お爺様とはつまり、そう言う方なのだ。
そして、お爺様は酒瓶の中身で空になった盃を満たすと私に差し出す。
大丈夫だ。今の私になら、呑める。だって、私は一人前なのだから。
私は無言でその盃を受け取ると、お爺様と同じく一息でそれを呑み干していた。
ほんのりと苦くて、甘いその液体は――何故だろうか。
ほんの僅かに、塩辛い味がした。
『………………』
『………………』
言葉の無い時間。
目と目だけで語り合う時間が、どれ程過ぎただろうか。
五分か。十分か。あるいは一時間……はたまたはそれ以上か。
やがて、私とお爺様は背中と背中を向け合うと、それぞれの道へと歩き始める。
今までありがとうございました。お爺様。
そして……願わくば、私を何処かから見守っていて下さい。
半人前の自分とは、今日でお別れです。
これから――妖夢は、お爺様を追い越せる様、頑張ります。
◇ ◆ ◇
「……夢……か…………」
目が覚めた後、私は何時もの様に布団から起き上がる。
時刻は昨日と同じく早朝。
けれども、雨は降っていないらしい。
寝巻きから普段着へと着替えを行うべく、姿見の前へ立つ。
「……ん?」
どうしてだろうか。
昨日の自分とは、何も変わっていない筈なのに――……
姿見の中の自分が、昨日よりも大人びている様に見えた。
クレしんだっけ?
あるいは別れ
最後の夢でグッときたわ
それにしても幽々子様も少々強引に事を運びましたねぇ。
まぁでも、本人がちゃあんとけじめをつけれたことに満足してるようですし、良かったですね。
ちなみに五歳ぐらいの時にうっかり焼酎飲んじゃった俺は心臓バックバクになって怖かったです