幻想郷の地下深く、地上を追い出された妖怪達の集う街・旧都。
人間の里に勝るとも劣らない賑わいを見せるその奥の、忘れ去られた妖怪達ですら近寄る事の少ない屋敷、
その窓に映る、小柄な少女の影。
「…………」
地霊殿の主、古明地さとりは、幾度も窓辺に佇んでは、見えない空を見上げていた。
地霊異変の後、地下と地上の境は薄くなり、地上の人間や地下の妖怪の出入りが多くなった。
当然地上の妖怪に良い顔はされないものの、それら以上の存在によって規律は保たれている為、
これといった大きな問題にはなっていない。
それは異変の当事者でもある火焔猫燐や霊烏路空も同じで、二匹もよく地上に出入りしていた。
しかし、その主であるさとりは、ただの一度も地上に出た事は無かった。
「さとり様?」
その背中に声をかける、赤毛に黒猫の耳の映える妖怪。
「ああ、お燐。戻ってきていたのね」
さとりのペットであるお燐は、この日も地上に出ては、観光気分で色々と見て回ってきたのだと言う。
「はい。といってもこの後すぐに戻りますけど」
「そう、お疲れ様」
お燐は心から地上を楽しんでいる様だ、とさとりには分かった。
それが彼女の能力であり、彼女が地上から、他の人妖から距離を置く理由だった。
さとりは言葉を持つ者に忌み嫌われ、言葉を持たぬ者に懐かれる、
多くの人妖の住む地上は、彼女にとって非情に居辛い場所であるからだ。
「今度、また地上の事を聞かせて欲しいわね」
だから彼女は、伝聞で地上を楽しむ。
それがさとりが嫌われる事が無く、地上の人妖とも衝突しない一番の方法だった。
「……はい」
―――――
ふと、さとりはお燐の心の変化を感じ取った。
「…私は地上には行きません、その理由はあなたも分かるでしょう、お燐」
その心が言葉で伝えられる前に、先んじて釘を刺す。
地上との行き来が容易になってからというものの、お燐とお空の心には常にその言葉が有った。
「……はい、ですが…」
先手を取られ、萎縮するお燐。
しかし、この時はある種の自信を持って、さとりに進言した。
「…地上の巫女なら、きっと大丈夫です」
地上の巫女、博麗神社の紅白の巫女。
その名前を聞いて、さとりの表情が一瞬固まった。
「今日は地上の神社で、巫女と話して来ました。
あの紅白の巫女は、さとり様との勝負の事を楽しそうに話していたんです」
心を読まれる事に恐れを感じていない、という様に。
「で、ですからあの巫女なら、さとり様の事を……」
受け入れてくれるかもしれない。
お燐の言葉も心も、嫌味一つ無い純粋なもので、何よりさとりに可能性を教えたいという思いが、さとりには嬉しかった。
そして、その相手があの巫女だという事が、さらにさとりの興味を地上へと向けさせていた。
さとりの能力を前に一歩も引かず、それどころかその状況を楽しんでさえいる。
そんな相手を、忘れられるはずがない。
「私の知ってる地上への道の一つに、地上の神社近くの温泉への道が有ります。
そこからなら、他の妖怪に出会う事も少ないはずです」
―――――
「……ありがとう、お燐」
お燐の心配を受け、僅かに顔をほころばせるさとり。
それに、もう一度だけ話してみたいと思い続けていた人とまた会えるという事が、さとりには嬉しかった。
数日後
「………」
さとりは、意を決して博麗神社へと足を運んだ。
お供一人連れず、いち地下の妖怪として来たつもりであった。
「…眩しい」
地上に着き最初に目にしたのは、本物の空に本物の太陽、澄んだ空気に、心地良い風、
周囲を木々に囲まれ、その一方に件の神社が見える。
どこまでも暗くない世界が、さとりの目の前に拡がった。
「…なんとなく気配がしたから来てみれば、また地下の妖怪かしら?」
自然に見惚れているさとりに、後ろから声がかかる。
「…!」
さとりにとって、地上の人妖との接触は極力避けたかった事である。
さとりの能力は、知る者にしてみれば厄介なものでしかないからだ。
「って、あんた確か……」
だが、声を掛けた少女はその中の唯一の例外だった。
同時に、さとりが地上に来た目的の人物だった。
「霊……夢?」
博麗神社の巫女、博麗霊夢。
さとりの能力を知り、それでいてそれを楽しみさえする、稀有な人間である。
「…ついにあんたまで出てきたのね、地下も暢気になったものだわ」
ただ、さとりが地上に来た事は霊夢にとって面倒な事である。
ただでさえお燐とお空の襲来が有り、地下と地上の妖怪の間で騒動になりやすい。
その上、さとりの能力は今や幻想郷の一部に知れ渡る所となっており、余計にややこしい事になるからだ。
「……攻撃して来ないのですか?」
しかし、霊夢の心はその事だけで、攻撃的な意思は持っていなかった。
「あんたが異変を起こしたり面倒事を起こさなければ、攻撃する理由が無いもの」
その返事にさとりは驚いた。何より、それが本気で思っていた事だからだった。
「…………」
「…そうね、今は丁度誰も居ないし、神社に来ても大丈夫よ」
さとりが言葉を紡げないでいる内に、霊夢がさとりを神社に迎え入れようと戻っていった。
「………」
予想外の展開に、さとりは神社の裏の森にただ一人立ち尽くしていた。
「…さて」
霊夢とさとり、二人しか居ない神社の縁側で、霊夢が一言。
それきり、一言も喋らないままお茶を飲み始めてしまった。
「…私のペットがご迷惑をおかけしている様で」
さとりは霊夢の心の言葉に耳を傾け、さとりは言葉で返す。
「……鬼は仲良くしていますか、それは良かったです」
勿論、この二人以外にはこの会話は成立していない様に見える、
傍から見れば、かなり奇妙な光景だろう。
「やっぱりあんたの能力は便利よね。
こうやってお茶を飲みながら会話が出来るんだもの」
「………」
延々地下の妖怪の愚痴を直接読み取らせて、霊夢がようやく湯飲みを置いた。
さとりにとって、ここまで自分の能力を行使したのは初めての事だった。
「霊夢は、私の能力が怖くないのね」
長い間恐れ続けられ、避けられてきたさとりの能力を、いとも簡単に楽しんでしまう、
そんな霊夢が、さとりには信じられなかった。
「その言葉は嘘を吐く奴に言いなさい。
読まれて困る心を持っている人が、あんたを嫌うのよ」
「…普通、心を読まれては困ると思いますけど」
「神社を壊されるよりよっぽどマシよ」
霊夢はそう言い放ち、過去に起こった面倒事をさとりの眼に読ませ始めた。
「……苦労してきたのですね」
「だから、それに比べれば心を読まれるくらいなんともないわ。
ちゃんと対策も出来るし」
「対策?」
「そうよ。例えば…」
そのまま霊夢は押し黙り、さとりは霊夢の心を読み始める。
霊夢の心に映った弾幕は接近している霊夢の横から放たれ、一つとして彼女に届いていない。
つまり、弾幕勝負で勝てる事が無いのだ。
「…ふふ、面白い対策ですね」
あんまりな対策に、さとりが小さく噴出す。
「そう、案外なんとかなるものよ」
霊夢はまたお茶を一口すすり、さとりもそれに続いて一口飲む。
同時に深く息を吐き、
「…それに、あんたは妖怪にしては優しいと思うわ」
突然の霊夢の言葉に、さとりは言葉を失う。
「だって、そうでなければ地霊殿の主なんて勤めていないもの、私はそう思ってる」
さとりが地霊殿の主として居た事は、ただ全ての利害が一致していたからである、
それを優しいからと表現されたのは、初めてだった。
「…そうですか、あの子達が……」
そう話す霊夢の心に、微かにお燐とお空の心が見えた。
きっと二匹が話したのだろう。
「……ありがとうございます、霊夢…」
それでも、霊夢の嘘偽り無い言葉が、さとりには嬉しかった。
霊夢の一言は、さとりにとって何よりも大きく、彼女の心に染み入った。
「……そろそろあんたは戻った方が良いわ」
「………え?」
唐突に、霊夢がさとりに帰る様に促す。
気が付けば、空は微かに赤みが差し始めていた。
「…そうですか、それなら私は戻ります」
夜ともなればこの神社に人妖が集まる、
そんな所にさとりの様な存在が居れば、大変な混乱になるだろう。
「………霊夢」
しかし、さとりはまだ物足りない。
話すだけで幸せになれたこの時間が終ってしまうのが、惜しい。
無理矢理押しかけてきただけの自分に、次が有るとも思えない。
だから、本当は戻りたくない。
けれど、戻らなければならない。
もっと―――。
「――また来なさい、さとり」
霊夢が先に告げた言葉に、さとりの心が驚き跳ねた。
まるで、さとりである自分が心を読まれたかのように、霊夢の言葉はさとりの心そのものだった。
さとりが言葉を返せないでいる内に、霊夢は神社の奥の方に入っていってしまい、
とうとう心の読める範囲から出て行ってしまった。
地霊殿へと戻る穴の途中、さとりは霊夢の言葉を何度も反芻していた。
自分の能力を恐れず平等に接し、正直な気持ちで話し、一緒に時を過ごし、
そして、自分の事を優しいと言ってくれた。
「~~~~~~~!!」
自分を肯定してくれている言葉の一つ一つを思い出す度に、心臓の鼓動が早くなっていくのを感じる。
あれほど毎日思い続けていた相手が、今はこんなにも近い。
さとりは、経験した事の無い初めての感情が湧き上がるのを感じ、家路を急いだ。
落ち着いて、今の感情をしっかりと分かりたい、覚えておきたい。
今は一先ず戻り、気持ちの高揚を抑えて、それから考える事にした。
『また、霊夢に会いに行きたい―――』
ただ一つ心に決めて、さとりは地霊殿へと帰っていく。
「…………」
この道に足を踏み入れたのは、これで何回目になるだろうか。
地下と地上を結ぶ穴の一つ、地霊殿に最も近く、博麗神社に最も近い穴。
いつ造られたとも知れぬ長い穴の入り口で、さとりは立ち止まっていた。
―――また来なさい、さとり
あの時霊夢に言われた言葉が、片時も耳から離れない。
「~~~~~~~~!」
それを思い出すだけで、昂揚とも取れるような感覚がさとりには感じられていた。
地上に出たいとは、自分で強く思っている。
それは、この前の事で確信できていた。
しかし、今回は前回の様に上手く行くとは限らない。
他の人妖、とりわけ地下の妖怪に詳しい者に出会う事は、相当厄介な事になってしまう。
いくら霊夢の保証が有るとはいえ、霊夢の保証しか無いのと同じ事だからだ。
「…………」
そう迷う事幾数回、さとりはこの日も決心が付かず、地霊殿に戻ろうと踵を返す。
「あれ、さとり様?」
それを止めたのは、同じく地上に向かおうとしていたさとりのペットの一羽、霊烏路空だった。
「お空…?」
黒い大きな翼に白いマント、緑が基調のいつもの服装なのはともかく、
片手には制御棒をしっかりと装着しており、地上に向かうにしては物々しい装備である。
さとりは念の為目的を探ってみるも、あの時の様な大それた目的なんてものは無く、
単純に食べ物に釣られて地上に向かっているだけのようである。
「さとり様も、地上に行こうとしているの?」
興味の対象が変わってしまったからか、それ以上の事は読み取れなかった。
しかし、地上に行かせても問題は起こさ無さそうでは有る、
ならば、止める必要は無い。
「ええ。いってらっしゃい、おく」
自分は地霊殿に居よう、とりあえず今だけは。
そう見送ろうとした矢先、
「なら、さとり様も一緒に行きましょう!」
「……え?」
理由も、目的も、何一つ聞く間も無く、
さとりの身体をしっかりと抱えて、お空は勢い良く地上へと飛び立って行った。
「お、お空っ!?」
「さとり様も博麗神社に行くのでしょう? だったら一緒に行きましょうよ!」
きっぱりとお空は言い放ち、さとりを抱える力も地上へと向かう速度も緩め様とはしなかった。
事実、さとりは一度は地上に向かおうとこの道に来ているので、お空の言葉も間違いではない、
その上、お空の言葉に他意は全く無い。だからこそ、面倒なのではあるが。
「………ありがとう、お空」
「うにゅ?」
「なんでもありません、ただの独り言です」
それと同時に、さとりは少しだけ感謝もしていた。
暫く飛び続けて、ようやく二人は地上へとたどり着いた。
やっとお空の腕から開放され、地に足を着くさとり。
数日前にも来ていたとはいえ、やはり地上は落ち着かない、
だが、来てしまったからには目的がちゃんと有る。
「…不思議なものね」
初めて会った時は、ただ珍しい人間の客だとしか見ていなかった。
それが今では、地下の妖怪であるさとり自身が自ら地上に出向いてまで、会いたいとまで思うようになってしまっている。
その事実が不思議であり、また、新しい楽しみでもあった。
「…そういえば、お空も博麗神社に?」
ふと、さとりは穴でのお空の言葉を思い出す。
反応次第では、神社に霊夢以外の誰かが居る事になり、さとりにも警戒が必要になる。
極力、面倒事は避けたかった。
「えっと、今日は……」
「お空、もう来てたのか!」
お空が答える前に、さとりが返答を視る前に、霊夢ではない誰かの声と一緒に飛来してきた。
その誰かが二人の前に着地し、乗っていた箒を持ち替える。
「貴女は……」
「げっ、お前は確か……さとり!?」
黒い三角帽子に覚えの有る箒と金髪、声、口調。
あの時、霊夢とは別に地霊殿にやってきた人間、霧雨魔理沙だった。
「魔理沙っ!」
その次の瞬間、さとりの傍に居た筈のお空が、魔理沙に飛びついていた。
まるで懐かしい友人に会う様な行動だが、お空の興味はその手に持っていたものだろう、
小さめのかごに入った卵や茸、果物といった地上の食べ物に、お空は夢中の様だ。
魔理沙も、お空の突進をしっかりと受け流し、満更でもない様子で受け入れている。
「…ちゃんとご飯は食べさせてあげてるのに」
自分のペットが餌付けされているという事態に、良い顔をしないさとり、
お空自身がそれを喜んでいるので、あまり多くは言えないのではあるが。
「で、ついにさとりも地上デビューしたのか」
「…言い方は引っ掛かりますが、そういう事になります」
お空をあやしつつ、初めて見る地上でのさとりの姿に魔理沙は僅かに驚いている。
「……お前はあまり出てこない方が良い」
やはり、さとりの能力を知っての事だろう。
魔理沙の声が真剣なそれになり、
お空が魔理沙とさとりの様子の変化に、キョロキョロと辺りを見回して戸惑っていた。
「それはお前も分かってるんじゃないか?」
「ええ、分かっています」
魔理沙の言葉は刺々しさを含み、さとりに投げかけられる。
だが、さとりは魔理沙の心から、恐れでも嫌悪でもなく、別のものを視ていた。
「…騒がしいと思って来てみたら、魔理沙にお空に…さとりか」
その横からまた別の声が聞こえ、その場に居た三人がそちらの方を向く。
いつもの紅白の巫女装束を纏った博麗霊夢が、のんびりと三人を順番に見ていた。
それから、さとりの方へと視線が向けられ、
「いらっしゃい、さとり。またお茶でも飲みに来たの?」
さとりを神社へと向かえ入れようと、そう言い放った。
「「…………」」
霊夢の言葉に唖然としたのは、予想外の言葉に吃驚していたさとりと、
普段の対応と全く違う霊夢に、驚きを隠せないでいた魔理沙。
「…まあ、ここで立ち話もあれだ、神社でじっくり話し合おうぜ」
「え……ええ、そうしましょう」
「?、?、?」
何となく釈然としないままの二人と、状況が飲み込めていない一羽は、
霊夢に誘われるがままに、神社へと歩いていった。
「なあ、霊夢」
その日、博麗神社の縁側にて、巫女と魔法使いと妖怪とカラスが並んでお茶を飲む。
「どうしたの? 今更ツッコミは無しよ」
幻想郷でも一際珍しいが、博麗神社ではそうでもない光景が、そこに在った。
「いや、何か霊夢はさとりが地上に出る事を知ってたような感じだったからさ」
「ああ、それは前に一度神社に来たからよ」
「……割と一大事だと思うんだが」
のんびりとお茶を啜りながら話を進める魔理沙と霊夢、
その横で、お空が退屈そうに温泉卵をほおばりながら足をじたばたさせている。
「私は別に構わないもの。能力を悪用して異変を起こしたりしなければ、だけど」
「妖怪退治はどうしたんだ? 迷惑な妖怪退治は」
「あんたの方がよっぽど退治される必要が有るんじゃないかしら。
少なくとも、さとりは幻想郷に害を及ぼしてないもの」
次々と飛び出てくる自分に関しての話題に、不安を隠せないさとり。
「…心を読まれるのは少しばかり気持ち良くないが、確かに悪い奴じゃないしな」
「いつも嘘ばかり吐いてるから怖いんじゃないの、魔理沙は」
「……まあ、減るもんじゃないし、私は別に構わないぜ」
半分くらい当たっていたのか、魔理沙少し言葉を濁す、
だが、その言葉は嘘ではないと、さとりには視えた。
「さて。事情も飲み込めた事だし、お空、また手伝ってくれるか?」
「ええ、いいわよ」
話も終わり、魔理沙は箒を、お空は制御棒を持ち、境内の方へと歩いて行った。
「お空はよくこちらに来ている様ですけど、何をしているのですか?」
さとりは地上でのお空の行動は今まで聞いた事は無く、この日が初めてになる。
霊夢は大きく溜息を吐いて、
「魔理沙の魔法の研究の手伝い、という名の弾幕ごっこね。
マスタースパークやメガフレアが飛び交うから、結界を張るのが面倒なのよ」
「ああ……私のペット迷惑をおかけします」
「別にさとりが謝る事でもないわよ、原因はあいつなんだし」
そう言いつつ、魔理沙の方を見やる。
丁度、制御棒の構造を観察していた魔理沙が一つくしゃみをする。
「…不安でした」
二人だけの神社の縁側で、さとりがぽつりと言葉を漏らす。
「私達地下の妖怪……それも、私の様な妖怪が地上にも居られるようになれるのか。
…ですが、思っていたよりも地上は暢気な所ですね」
「まあ、暢気よね」
ワイワイドンドン騒いでいる魔理沙とお空を眺めつつ、二人はお茶を啜る。
不思議と落ち着く暖かさが身体に染み渡り、ほうと息を吐く。
ただひたすらに、安らぐ。
さとりは、これまでに無い充足感で満たされていた。
地上という穏やかな風と光を感じられる所に居るからだろうか、
それとも、霊夢の傍に居て、こうして話し合えているからだろうか。
「……霊夢」
――どちらも、必要だ。
「……その………。
また、地上に来ても良いでしょうか……?」
だから、さとりは自らその一歩を踏み出す。
地上と地下の垣根を、完全に乗り越える様に。
「…この前も言ったじゃない」
さとりの境遇をどの様に受け止めたのか、霊夢は迷う間も無く、
次の言葉を続ける。
「さとりの様な手間のかからない妖怪なら、いつでも来て良いわよ」
霊夢のあっけない一言が、さとりにとっての最高の一言であった。
「……はい!」
静かに、はっきりと、さとりは心の中で喜ぶ。
僅かとはいえ、地上に、霊夢に近づけた、
さとりには、それだけで十二分に嬉しかった。
「ごきげんよう、霊夢」
その時、誰かの声と共に、何も無い場所に空間の裂け目が現れた。
「紫?」
霊夢がその空間を見て、さとりに聞き覚えの有る名前を呼ぶ。
地下において、霊夢と交信していた地上の妖怪の事だろう。
「妖怪退治はどうしたのよ、まさか面倒だなんて言わないわよね?」
明らかな敵意を含んだ台詞を聞いて、さとりが恐る恐る紫の心を読む、
あの時の言葉通りの考えならば、それは地上の妖怪らしい妖怪なのだろう。
「……そうですか」
だが、さとりの視た心には、妖怪のそれとは違うものが有った。
「なるほど、確かに会話要らずの様ね」
嫌悪ではなく、忌避の感情。
紫は、己自身の為ではなく、この地上の為に、さとりを退治させようとしていた。
「別に退治する様な妖怪なんて居ないけど」
「……そこに居るじゃない、貴女の目の前に」
畳んだ傘をさとりの方に向け、紫が言い放つ。
さとりの目の前の傘から、異常なまでの霊力が滲み出てさとりを狙っているのが、微かに感じ取れた。
その奥の本体から視て取れる感情も、明らかなる敵意。
「…また地下との関係を悪化させる気?」
「その妖怪は特に危険よ。今すぐに地下に戻ってもらうか、――退治しなさい」
「私には、今の紫の方が危険だと思うわ。
地上と地下の境は、紫にどうこう出来る問題じゃない。
それに、幻想郷に被害が出ないのであれば、私の出る幕じゃないわ」
強大な力の前に全く臆さず、堂々と言い返す霊夢、
その会話の内容はさとりには理解出来ない部分が多かったが、
霊夢の心に視えた思考は、「さとりを受け入れる」事だけだった。
「弾幕勝負なら加勢するぜ、霊夢。 「迷惑な妖怪退治」の退治だ」
「さとり様、大丈夫ですか!?」
今にも戦いが始まりそうな緊張の中、境内の方から魔理沙とお空が高速で飛び込んで来た。
何処から話を聞いていたのか、霊夢が状況を説明する前に霊夢達に加勢し、
紫の前に立ちはだかった。
「……流石に全員を相手にするのは不利ですわね。
ここは大人しく引き下がりましょう」
流石に状況の不利は読んだか、戦意は落ち着いた様だ。
「………」
しかし、さとりにしてみれば、途轍もない力の差でもって、その存在を拒否されている。
紫に魔力を向けられてからは、何も言えないまま、霊夢に身を寄せている事しか出来なかった。
「それにしても、なんで魔理沙はこっち側に付くのよ」
「お空の力は研究に役立つんだ。それに、地下にはまだ未知の領域が多い。
こんな美味しい状況を手放すなんて勿体無いじゃないか」
「まあ、そんな所でしょうね」
「さとり様、怪我は無いですか?」
「……ええ、大丈夫よお空」
お空の心配を受けながら、さとりはぼんやりと霊夢を見つめていた。
どうしてあれほどまでに自分の事を庇ってくれているのか、
霊夢が何を考えて、あのような行動をしたのか、分からない。
その理由を知る為に、再び霊夢の心を視るさとり。
「…貴女、霊夢の事が気になるの?」
不意の紫の耳打ちは、さとりの安堵を大きく掻き乱した。
「な……、どっ、どうしてそう……!?」
何故、紫はその答えに至ったのか、今ならまだ考えている事が分かるかもしれない。
この考えが何によるものなのか分からないまま、即座に紫の思考を覗き見るさとり。
「~~~~~~~~!!!?」
直後、その選択を後悔する羽目になったのだが。
「あら、やっぱり図星だったのね」
「な、ど、どうしてそんな事……というより、これは流石に行き過ぎてますっ!」
さとりの読み取った心には、霊夢とさとりによるあられもない求愛行動がはっきりと見えてしまっていた。
まるで官能小説の主役にでもされた気分のさとりは、あまりの羞恥に真っ赤になった顔を両手で覆ったまま動かなくなる。
「否定はしないのね」
「う………」
勝ち誇った顔で、紫はもう一度さとりの耳元で囁く。
「これが「心を読まれる」という事よ、覚えておきなさい」
それだけ呟いて、紫はまたあの空間を呼び出し、その中へと消えていってしまった。
それから、流れのまま地下へと戻る事になったさとりとお空。
帰り道、さとりが思い浮かべるのは、霊夢の事と、紫の言葉。
結局霊夢の心は分からず終いではあったが、この心は読まないでおきたい、
何故か、その方が良いと、紫の言葉が告げていた。
そして、久しく心に視た、圧倒的なまでの嫌悪感。
自分の事をそう見る者が居るのは理解しているつもりだったが、その認識が軽かったようだ。
地上でも旧都でも、あの様に扱われる事の方が多いはずなのに、
さとりを受け入れて、共にお茶を飲んでいる人と居ると、その認識が薄れていってしまっている気さえする。
それは、さとりにとってこの上ない幸せでもあった。
「霊夢の傍に居られるなら……」
地上という新しい場所と、そこに在る霊夢という心地良い居場所、
さとりが心惹かれるのに、疑問も不安も何一つとして立ちはだかる事は無かった。
「…それでは、後は任せましたよ、お空、お燐」
「「はい。行ってらっしゃい、さとり様」」
その日、さとりは地霊伝の事をペット達に任せ、地上へと出かけた。
それを見送るペットの烏と猫は、主の様子に何処と無く違和感を覚えていた。
ここ数日、さとりは地霊殿でも明るく過ごしている事が多くなった。
鬼や天狗程に騒がしくはないものの、その雰囲気はとても柔らかくなり、
さとりと顔を合わせたペットの中には、別人とさえ疑うものさえ居る。
元々の性格も有ってか、怨霊達から恐れられる事も少なくなった。
その変化を、お燐もお空も喜んで受け入れていた、
二匹にとって、主としての威厳なんて飾りでしかないからだ。
そして、さとりは躊躇う事無く地上へと向かっていく。
地上へ行く事に抵抗が無くなり、お燐やお空と同じく地上と地下を自由に行き来している、
もちろん、地上の妖怪の一部には良い顔をされてはいないが。
しかし、さとりはその理由に疑問が有った。
何故、いち妖怪に博麗の巫女がそこまで肩入れをするのか、
霊夢は一度もその事について話さず、思わず、さとりは把握出来ていなかった。
もちろん、さとりから質問をするという事の代償も、覚悟しておかなければならない。
「霊夢……」
さとり自身の気持ちも心に留めつつ、霊夢への言葉を探していく。
この時ほど、さとりは自分の能力で悩んだ事は無かった。
「あら。いらっしゃい、さとり」
神社に着いたさとりを、霊夢は笑顔で迎え入れる。
既に何度か経験してはいるものの、『人が受け入れてくれている』という事実は、
さとりにとっては想像しなかった事であり、また、幸せな事だった。
そして、迎えられるままに縁側に二人並んで座り、霊夢がお茶を淹れて、二人は湯飲みを手に取る。
「…霊夢」
この時も、さとりが視る霊夢の心の中は、目の前の景色そのものであり、
霊夢自身の考えは、殆ど視る事が出来なかった。
「何?」
妹のこいしとは違う、読めていても読めない心を、霊夢は持っている。
それだけで不安になってしまうのは、さとり自身の気持ちのせいだろうか。
霊夢の心だけでなく、自分の心も分からない。
さとりとして経験の無い不安が、棘の様にさとりに突き刺さる。
「何故、この前は私の事を庇う様な事を言ったのですか?
どう繕おうとも私は地下の妖怪なのだから、あの妖怪の言う事は正しいというのに」
相手の心を読む能力とはいえ、心に思ってない事までは読み取れない。
それを自分から引きずり出そうものなら、相当な反発を覚悟しなければならない。
それでも、さとりは知りたかった。
他でもない、霊夢の心をもっと知りたかったからというだけの理由で。
どう返されても恨みは無い、全ての原因は自分に有る。
さとりは、不安を押し隠して霊夢を真っ直ぐに見つめ、返事を待った。
「――そうね」
霊夢は、手に持っていた湯飲みを置いてさとりに向き直り、
「あなたと飲むお茶が好きだから、かもしれないわ」
勿体つける素振りも無く、あっさりと答えた。
「……そうですか、やっと分かりました」
霊夢の言葉に、さとりは、深く疑ってしまった自分を恥じた。
霊夢は誰とでも平等に接し、博麗の巫女の役割を果たす、
その中で、さとりと飲むお茶を事を好きだと言う、ただそれだけの事。
だからこそ、こんなに幸せを感じられるのだろう。
特別な理由なんて無い、心を読む必要も無い、ただ有るがままの関係が、霊夢との間で繋がっている。
さとりは漸く、霊夢の心も、自分の心も、視る事が出来た
「…そういえば、この前は貰い損ねちゃったから、今度はあなたがお茶を入れてくれないかしら」
それなら、変なしがらみは一切考えずに、ただ一緒に居る幸せを感じて居よう。
それが、今のさとりが最も望む、地上と地下の始めの距離。
「……はい!」
この時、さとりは初めて、霊夢の心に映る景色を愛おしく想った。
「……また来たわね」
「風……ですか?」
突然、境内に不自然な風が吹き、風に乗る様に何かが勢い良く縁側に舞い降りて来た。
「毎度お馴染み射命丸です、何か面白いネタは有りませんかね?」
「無い」
「いやいや、そちらに居る見慣れない方は……って」
毎度の如く霊夢が一蹴しようとするも、文の目線は既にさとりを捉えていた。
そして、少しの間考え込んだ後何かを思い出した様に、
「あやややや!? ど、どうして貴女が神社に!?」
盛大に驚いていた。
「どうしました、文さん?」
その後ろから、ひょっこりと霊夢に似た巫女服を着た少女が現れる。
「あら? そちらの方は……初めまして、風祝の東風谷早苗といいます」
文と共にやって来た早苗は、何の疑問も抱かないままさとりに挨拶をする。
幻想郷に来て日も浅い早苗は、地下と地上の関係など知る由も無く、
さとりの事を、ただの妖怪の一人としか認識していなかった、からなのだろう。
「………」
しかし、さとりは警戒を緩めようとはしない。
早苗も勿論、文の事や力は、地霊殿で十分に思い知らされていた、
その上、今回はその本人が目の前に居て、心の中でさとりを警戒しているのも視えた。
紫との事を考えれば、下手に出れば同じ事になってしまう可能性を、さとりは危惧していた。
「……?」
ただならないさとりの様子に首をかしげる早苗。
さとりの能力や経緯を知らない早苗からすれば、少し臆病な妖怪なだけにも見えただろう。
「さとり……フルネームは分かりかねますが、相手の心を読む能力を持っています。
その為、他の妖怪からは避けられてると聞いてますが…」
文が記憶を頼りに解説しながら、目の前のさとりと見比べる。
しかし、今のさとりは妖怪の伝聞どころか、地霊殿で見たさとりともイメージがかけ離れている。
「それに、この組み合わせというのも珍しいものですねぇ。
何かネタの匂いがしてきましたよ」
「迷惑だからやめなさいな、下手したらあんたが異変の黒幕になるわよ」
「わ、それは勘弁して欲しいですねぇ」
「そういう事。
ところで、あんた等は何しに来たの? まさか、地下の妖怪退治?」
「いえ、ただのネタ探しです」
「そう……ネタ探しね、ご苦労様」
単なるネタ探しという言葉の陰で、微かに口元が緩んだのを、霊夢は見逃さなかった。
つまりは、そういう事なのだろう。
「……」
そして、さとりはより明確に文の心をを読み取っていた。
その上で、霊夢とは違う何かを感じ、唖然としている。
「…さとりさん?」
そんなさとりに、早苗だけが気付いた。
ちらちらと霊夢を見ては、すぐに文の方に向き直る、
そんな事を、さとりは何度も繰り返し、何かを考え込む様にして、また始めから繰り返す。
「………あっ」
そして、早苗はある考えにたどり着いた。
「次は何処に取材に行くつもり?」
「そうですねぇ…、湖と人里辺りなんかに行こうと考えてます、ネタの匂い的に」
「まんまじゃないの……」
さとりの能力は、相手の心を読む能力、
そのさとりは、文から何の心を読み取ったか、
そして、先程から落ち着かないさとりの仕草の向かう先。
「……♪」
何となく、早苗の中で予想がついた。
「さとりさん、ちょっと良いですか?」
「…なんでしょう」
その予想を纏めて形として思い浮かべ、さとりに呼びかける。
そして、さとりの意識が早苗に向いた時には、さとりは早苗の心を読み取ってしまっていた。
「えっ……!? あ………」
この時、さとりが早苗から読み取った心は、さとりの心そのものだった。
文の心と、文の心が与えたさとりの心の変化が、早苗の心に映し出されている。
まるで、さとりの心が早苗にそのまま読まれてしまったかの様に。
「………~~~~~~~!」
――そして、その中でさとりは、自分の心の中の霊夢の存在が少しずつ大きくなってきている事までも、見透かされていた。
ただ、霊夢と一緒に居るだけで―――
霊夢と一緒に居られれば―――
霊夢の傍に―――
その時の気持ちを思い出す度に、不思議な高揚感に包まれる。
霊夢を意識していると、何故か身体が熱くなる。
さとりの中での、理解出来ないまま膨れ上がる幸福感が、たまらなく心地良く、
また、どうしようもない程に不安な気持ちにさせられる。
わけが分からないまま、さとりは呆然としていた。
ただ、霊夢の事が、
「―――それが、好きという気持ちなんですよ」
唐突に、さとりの耳元で小さく囁かれた早苗の一言が、さとりの意識を一気に引き戻す。
「さて。 そろそろ行きましょうか、文さん」
「あ、ああ、そうですね、行きましょうか」
「はいはい、お幸せに」
満足げな早苗に引っ張られるまま、文は少し開けた場所まで移動し、
直後に吹いた強い風と共に、二人はあっさりと飛び立って行ってしまった。
「………」
その直前に、さとりが早苗から読み取った心からは、たった一つの事しか見えなかった。
それは、今の自分とあまりにもそっくりなものであり、
さとりが心で理解する理由としては、十分過ぎるものだった。
「……ふふふ」
「どうしたの、早苗?」
「いえ、私達にもあんな頃が有ったのですね……と」
「?」
「何でもありません。 さ、行きましょう」
さとりは、霊夢の事が好き。
これが、早苗に気付かされ、さとり自身が理解した、さとりの心。
「全く、あの二人も相変わらずねぇ」
「そ、そうなんですか……?」
そして、さとりは霊夢とどう接して良いか分からなくなってしまった。
「そうよ。 本人達は控えていると思ってるみたいだけど、割と堂々としているのよね」
霊夢と共に時間を過ごしている時の幸せが、『好き』だという
そうして霊夢の事を意識する度に、顔が熱くなるのが分かる。
例え眼を閉じて耳を塞ごうと、第三の眼が霊夢の心を見る。
「な、なるほど………」
さとりは、霊夢のそばに居る限り、自身の気持ちを意識し続けなくてはならなかった。
「さとり?」
「はっ、はいっ!」
「……どうしたの? さっきから妙に落ち着かないみたいだけど」
霊夢が、さとりの顔を見つめている。
他者からはともかく、さとりにはそうとしか見れなかった。
「…なんでもありません」
咄嗟に顔を伏せ、霊夢の視界から逃げる。
それでも、真っ赤になってしまった顔は霊夢に見られてしまっただろう。
「…私にはさとりの心は読めないから、何が有ったかなんて分からないわ」
霊夢は、笑顔で不安そうに言葉を続ける。
この時、さとりは言葉とは違う思考を、霊夢の中に見ていた。
「だから、さとりが言ってくれなきゃ、ね」
――多分、読まれてしまった。
――それも、一番読まれたくない相手に。
心が読めないから分からないなどと言いながら、さとりの見た霊夢の心は確信に満ちていた。
それでもさとりが嫌な気持ちになれないのは、霊夢があまりにも優しい笑顔だったからか。
「……嘘、ですよね」
顔を伏せたまま、さとりが霊夢に聞く。
「あら、私の考えは合ってるのかしら?」
それに対しても、霊夢は笑顔で澱み無く答えた。
「……反則です、こんなの………」
俯いたさとりの頬に、微かに涙が見える。
その涙の理由さえも、あっという間に霊夢の心に見えてしまっていた。
「…さとり」
今にも声をあげて泣き出してしまいそうなさとりを、霊夢が包み込む。
「…大丈夫、もっと心を読んで」
さとりに届いたのは、この気持ちのきっかけとなった言葉。
そして、さとりが見たのは、さとり自身の不安と、それをかき消す霊夢の心。
霊夢の心からの気持ちが、さとりの心に答えてくれていた。
止め処無く溢れる感情の涙が、霊夢の服を濡らす。
ただ一つの感情が、さとりの心を満たす。
霊夢の心が、満たしてくれている。
霊夢の胸の中で、さとりは心からの幸せを感じていた。
「さとりが地上に慣れた後」
も書いてくれますよね?
是非とも続きを読んでみたいとです
ところで誤字報告。
途中から博麗の麗の字が「霊」になってるね。
文の台詞で 簡便→勘弁
さとりさん可愛いなぁ……
それにしても自分たちを例にしてさりげなく諭す早苗さんマジ姐御
続きが見てみたいです!
これがさとれいむというものなのか……!