1
少し昔の話をしようか。
というのも、単に私がふと、そのことを思い出したからなのだけれど。
私が本当に、思い出すのも嫌なくらい馬鹿な餓鬼だった頃の話だが、思い出してしまったものはしょうがない。
だから、笑わないで聞いてくれると嬉しいな。お前に言っているんだぞ、今の私よ。苦笑いもなしだ。
それでは。
☆
私が生まれて間もない頃は、世界はそれは酷いものだった。
幼心に映る景色の空はいつも厚い灰色に曇っていたし、地面は大概の時期は真っ白一色に塗りたくったような雪に覆われていて、屋敷の中は常に薄暗く、使用人達もその雰囲気に合わせてくれてるような陰気さで。
そして我が領地へ尋ねてくるお客といえば、生気を失くした人形か、十字架や鍋を掲げて熱狂的な憎しみを被った、どっちが化け物だかわからないような奴らばかりだった。
唯一曇りない夜空だけが私のお気に入りで、暇があれば何もしないで、私は星と月だけを見上げて過ごしていたものだ。
今思えば、それも仕方ない、というよりは、それこそが私の、血吸い鬼の生きるべき世界であったのだろうけれど、幼い私はうんざりだった。
花のような千変万化の色彩に囲まれ、抜けるような青空と太陽の下で灰化したいなどとまでは思わなかったが、この世が夜だけならばいいのにと、星を見ながら小さく願っていた。
そう、あの時の世界の全ては靄がかかったような灰色で、幼い私はその世界をどうしても好きになれなかった。
☆
私の世界に靄がかかる理由は、もう一つあった。
我が愛しの、これまた幼い妹君のことだった。
閉じ込められたのか、それとも閉じこもったのか、今となってはどうでもいいが、私の五歳下の妹は物心もついてから、外に一度も出ない内に、屋敷の地下へ幽居の身となっていた。
そしてそれを、幼い私は……ああ、馬鹿なことだ、何とも全く、申し開きようもないほどに馬鹿だった私は、妹が地下から出て来なくなったのは、そうなってしまったのは、きっとこの世界が嫌になってしまったからなのだろうと考えたのだ。
私と同じように、こんな掃溜めのような世界にうんざりして、それならばいっそ耳と目を閉じ、世界から逃げ出してしまおうとしたのだと、そういう理由なのだと、馬鹿な私は何故だろうか、そういう結論に至ってしまった。
果たして結局、今だってあの子が甘んじてその幽居を現在においても受け入れている理由の全てを、私には計り知れないのだけれど。
それにしたって、世界を嫌ったことが理由の全てだなんて思うほど、私ももう幼くもない。
まあ、つまりは、どうしようもなく馬鹿だった私がその時には存在して、同時に途方もないほど、起こす行動だってそれに見合っていたのだというだけだ。
そうだ、私は、世界を嫌った妹に、外に出てきて欲しかった。
自分ですら愛せない世界へ、それでもそこから逃げ出して欲しくなくて、私は必死で考えた末に、それを行った。
何を行ったんだ?
何だったろうか。
思い出したくもないけれど、いいさ、思い出してあげようじゃないか。
私は、妹に外に出てきてもらうために、暇があれば地下へ行き、妹と私を隔てる扉の前へ座り込んで、その内側へいるだろう妹へ必死に話して聞かせていた。
私自身の住んでいる世界が、いかに素晴らしくて、楽しくて、そこへ出て来ないのがどれだけの損であるかを、耽美に語って聞かせていたのだ。
自分でも愛せない、灰色で、血と戦火に覆われて、冷たくて、狂ったような月が上る夜だけが救いであるような、そんな世界を、私は。
必死で脚色して、馬鹿みたいな楽しさを装って、誑し込むような声色で、私は、妹が耳を塞いでいないことを祈りながら、ずっと語り続けていた。
かの如く、救いようのない馬鹿だったのだ、私は。
☆
ある時、一人屋敷の庭に出て、私は降り積もった雪を丸めて固めると、どこか目標も定めずに思いっきり投げつけた。
雪玉は屋敷を囲う、檻のような塀にぶつかって、弾けた。
それを見て、白い息を吐くと、私は灰色の空を見上げる。
あの子に、ここにいて欲しかった。
こんな世界でも私は、二人でいれば、あの子に語って聞かせるそれのように楽しいものになるんじゃないだろうかと、淡く思っていた。
2
ふいに微睡みは醒めた。
薄く開いた目には、薄暗くはあるが、確かな光が映り込む。
光の反射が世界を見せる。最小限の光だけを取り入れる窓が作る、影の世界。飾られた花。白くクロスを敷いた卓。それを前に椅子に座って腕を組んで、眠たそうな顔をしている私がいるのだろうか。
欠伸をすると同時に、横で扉が開く音がした。
向けた視線の先で、紅い髪が揺れていた。
☆
「死んだ方がいいな、私は……」
机に両肘をつけて、頭を抱えながらそうこぼすと、紅髪の従者は呆れたような顔を向けてきた。
「死んでしまいたい……」
向けられる表情に構わず続けると、今度は声でそれを表す。
「また妹君のことですか?」
「……何でわかる?」
ぎろりと眼だけを向ける私の前で、溜息をついて、従者は茶の準備を進めながら、
「何故って、お嬢様がそこまで、傍から見てて笑えるほど弱気になることっていうのは、あの方に関すること以外ございませんからねぇ」
そう言って、くすくすと笑う。
そうされて、いい気をしている私ではない。顔を思いっきり顰めるようにして無言で返してやる。
だが、従者はそれに構わず続けた。
「本当に、それ以外でしたら恐れを知らず、恐れを与え、冷静で、勇敢な、尊敬できる主ですのに」
「そんなに立派なもんじゃあないよ、私は」
今度溜息をつくのは私だった。背中がむず痒いし、甘受する気にもなれない褒め言葉だ。
「……大分、独りよがりに落ち込んでるみたいですね。普段なら、『当たり前だろう、何を言ってるんだ』みたいな顔をしてくれるのに」
「そこまで傲慢かしら」
「美点ですよ」
笑ってそう言うと、従者はカップを差し出して私の目の前に置いた。
「それで、一体何をお悩みで?」
その問いかけを紅茶と共に飲みこんで、私は一息をつく。
「……小さい頃、私は馬鹿だったなぁってことを思い出してただけだよ」
吐き出した息と共に、
「そのせいで、あの子を随分と傷つけていたんだろうな」
自嘲の笑いを込めて、私は顔を両手で覆いながら呟いた。
涙なんて出るそぶりすらなかったけれど、泣けるなら泣いてもいい気分だった。
「傷つけたことを、後悔しているんですか?」
「どうだろうね」
本当のところ、よくわからなかった。後悔しているなら、忘れるはずがない。今になって自分の罪に気づくことを、そう呼んでいいのだろうか。
「単に自分に呆れているだけよ」
今更取り戻せるものでもないし。無理して取り戻さなければならないような、現在の姉妹関係でもなかった。
それでも、そんなことしか出来なかった自分を恥じ入る気持ちから抜け出せないのは、やはり後悔と言ってもいいのかもしれない。
「立ち直れそうにないですか」
「しばらくは塞ぎ込んでいたいよ」
紅茶を啜りながら弱々しく応える私に、従者は苦笑を漏らす。
「そうされてもねぇ、こちらとしても困りますよ。館の主がそんなんじゃあ、示しがつきません。立ち直ってください」
「どうやってよ」
「幸いにして、後悔を取り除く簡単な方法があるんですから、実行すればいい」
「……つまり?」
「単純ですよ、謝ってくればいいじゃないですか」
従者は何でもないことのようにそう言った。
「……出来るかな」
我ながら、それを想像するだけでほとほと情けない声が出た。
あの子のことを思うと私は、どこまでも弱気になれるようだった。
「地球の表と裏ほどに離れているわけじゃないでしょうに」
呆れたようにそういう彼女だったが、私にとってはあの地下室の扉は、ともすればそんな距離よりも強くあちらとこちらを隔てているようにも感じていた。
だが、それでもこれまで一度たりともあの子に会わなかったわけではない。定期的に、おっかなびっくり私は妹を尋ねていたのだ。
何度かなけなしの勇気を振り絞ってそれを踏み越えてきたことを思えば、やはり簡単なことのようにも思えてきた。
あの子とどれくらい話をしていないだろうか。久しぶりに尋ねるには、丁度いい口実かもしれない。いや、それにしても謝罪はないな。
「情けないお嬢様なんて、価値が薄くなりますよ」
悶々と悩んでいると、従者はそう続けてきた。
「どれくらいかしら?」
「図書館の魔女くらいには」
「最下層だね……」
溜息をついて私は、それを最後の一押しとすることにした。あの子に会いに行こう、そして謝ってしまおう。
そうして私は、許されたいのだろうか、怒られたいのだろうか。どちらにしても気分が幾分でも晴れるなら、そんな自分勝手も私らしい。
どうせ落ちるとこまで落ちてる気分だ、これ以上何かして、落ちようもなかった。
踏ん切りをつけるように紅茶を一気に飲み干すと、静かにカップを置く。それを見て、くすりと笑う従者。
「あら、カップが空いておりますね。お茶のおかわりは?」
こんなタイミングで尋ねてくることに、私は彼女のお節介さを少し鬱陶しく感じながらも、それを汲んでやる。
「あの子と飲むよ」
「では、そのように準備しておきます」
一礼と共に、静かに紅髪の従者の姿は消えていた。
誰もいなくなってから、私はまた深く息を吐いた。
3
「珍しいね」
妹は、言葉とは裏腹にどうでもよさそうな声で言う。
「一緒にお茶でも飲まないか、だなんて。お姉さまが?」
「何か不都合でもあるかい?」
「さあね。に、したって、こんな薄暗い地下までやって来て……」
対面で座る私達。妹は首をがくっと後ろにやるようにして、天井を見上げた。
「薄暗い所こそ吸血鬼の好む場所だろうに」
「そう? お姉さまは陽の下に憧れていると思ったけれど」
「そうでもないさ、私は夜が一番好きだよ」
私は思い出した記憶の中の、いっつも見上げていた星空を静かに頭の中で描いた。
同時に、酷く落ち込みたくなる、ここに来た理由も思い出してしまう。そのせいで少し表情を曇らせると、私の顔など見てもいないだろうに、妹が何かに勘付いたような表情になるのがわかった。
妹は、こうしてたまに向き合うようになってから気づいたことだが、私に関して妙に聡いようだ。
というよりは、私がわかりやす過ぎるのだろうか。従者にも、友にも、私のその時の心というのは得てして読まれやすかった。
それに関して特に不満に思うところがあるわけではない。心を隠したがるほど臆病ではないのだと、自分でそう決めつけてそのように振舞っていたが、妹の前に出るとどうも私は違うようだった。
この子の前だと私は自分の心を見せたくはなかった。私自身よくわからない心を、この子の前では抱いてしまうからだ。
形のないものを見せて何になるというのだろう、いっそ強烈に塗り潰したような、気が狂うほどの好意だけを抱けていたら、毎日この子に会いに来れるだろうに。
とにかく、妹はこの時も、私の何か形になっていない心の一端を掴んだらしい。
ぐるんと勢いよく天井を見ていた首を元に戻すと、濡れたように真っ赤な瞳で私を見つめた。
「で、今日は何でここに来たの?」
「……謝りに来たのよ」
隠す理由はなかった。どこかで切り出さなければいけない話だ。遅いか、早いか。まあ思っていたより、随分と早かったけれど。
私は注いだ紅茶を妹の前に差し出し、自分の前にも置いてから、その視線と組み合った。
「謝る、ねえ……お姉さまが私に謝らなきゃいけないことだなんて、数え切れないほど思い当たり過ぎて、どの理由で来たのかわからないわ」
「あげつらってくれたらば、全てに対して話し合おうと思うけど」
「やだなあ、そんな真面目な顔で。冗談だよ、半分は」
半分は本気ということだろうか。妹はくすくすと笑う。私はとにかくばつの悪い表情を続けるしかない。
それから少しの間を置いて、妹がぐびりと、紅茶を流し込むように傾けてから切り出す。
「まあ、それじゃあ、話し合おうか。今日持ってきたお姉さまの罪について」
「言えた義理ではないけれど、怒らないで聞いてくれると助かるな」
「どんな理由にしろ、怒るようなものなら、お姉さまがこの部屋に入って来た途端にグシャグシャにしてるわ。私が忘れているか、覚えていても怒っていないのなら、その程度の理由だってことだよ」
妹は、きん、と、カップを右手の指で軽く弾くと、次にくるんと手を少し離してからきゅっと握った。
同時にカップが破裂して、ソーサーに、残っていた茶が流れ出た。
「あら、失礼。まだ残っていたのに、勿体なかったね」
「いいカップだったろうに、美鈴が泣くよ」
「それは素敵ね。美鈴の泣くところ、見てみたいな」
他愛無くそう交わしながらも、妹の視線はまったくブレずに私を見つめ続けていた。
だから、私も顔を引き締めて向かい合う。
「では、どうぞ、お姉さま」
「ああ、すまないね、フランドール」
そして私は話し始めた。
☆
それから、私は精一杯語った。
私の記憶を、私の愚かしさを、私の罪を。
淡々と、言い訳など入れないように、事実だけを述べられるように、意識して私は語り続けた。
この子を騙し続けていたことを、この子のことなど本気で考えていなかったことを、どこかでこの子を頼っていたことを。
そうして、ようやく話し終えた最後に、私は卓に頭を擦りつけんばかりに深く下げた。
「ごめんなさい、フラン」
そうし終えて、頭を上げた私が見た妹の顔は、何だか呆気に取られているというような、意外そうな色を少し混ぜているようだった。
「ふーん……そんなこと気にしてたんだ、お姉さまは」
「そんなことって……」
「ああ、そうじゃないの。まあ、馬鹿なお姉さまではあるなとは思ったよ。客観的に見れば確かに酷い」
思わず顔を顰める私に、妹は苦笑しながら。
「でも、それにしたってねえ……ああ、そうだ、ふふ」
それから妹は、ふっと少し難しそうな顔になってみたり、かと思えば突然嬉しそうに笑ってみたりと、落ち着きなく表情を変えながら何かを考え始めた。。
あまり想定していなかった反応に、私は訝しげな顔を向けることしかできない。
もっと何かこう、苛烈に怒るとか、静かに私を軽蔑するとか、そういう負の感情を向けられることを覚悟していたのに。
自分の心が、渾身の力で当たって行こうとしたのを華麗に逸らされて、そのまま見当違いの方向へ走って行っているような気がして、ひどく落ち着かない気分を抱えたまま私は妹を見続けるしかなかった。
どれくらい私達はお互いに落ち着いていなかったのだろうか、長いような短いような時間が経って後、ようやく何か結論を出せたのか、妹は顔を普段の皮肉っぽい笑顔に固定し、今度は視線を和らげて私を見ながら口を開く。
「ねえ、お姉さま。色々と考えてみたのだけれど、正直言ってそれ、私にとっては全然怒れる理由じゃなかったの。ひどいわ、期待してたのよ、私がかんかんに火照ったポットのように怒って、お姉さまに飛び掛かれることをね」
「私としては、そうされても仕方のない覚悟でここに来ていたのだけれど」
「駄目よ、全然駄目だった。いつかまた、そういう理由を思い出してくれることを期待しているわ」
「……努力するよ」
「ええ、お願いね。それでね、今回の件については、謝罪なんてされても全然私の気持ちは晴れないの。困るだけよ? 嬉しいけれど、心の中のどうでもいい場所に放り込んでおくわ」
渾身の謝罪が今まさに放り捨てられたのを見て、私はひどく情けない顔になったのだろう。
妹はそれを見て、我慢しきれなくなったように声を出して笑うと、さらに続けた。
「だから、謝罪の他にももう一つくださらないかしら、お姉さま」
「私にあげられるものならば、何なりと」
「もう、そんな不貞腐れたような顔しないで。可愛い顔が台無しだよ」
「これくらいで崩れるようなものなんて持っていないよ。それで、何が欲しいんだい?」
「ああ、そうね。そう、私が欲しいのはね……」
真っ直ぐな視線と共に、それを放つ。
「お姉さまが語る、今の世界よ」
はっとしたようになる私の前で、妹は静かに笑う。
「今度は、嘘も、希望も混ぜないで、私に世界を伝えて欲しいな」
☆
大分に驚きはしたが、私は正直、それについて全く異論はなかった。嘘で塗り固めた世界を伝えた贖罪に、今私が生きる真実の世界について話すのは、全くもって理に適っていると思えた。
しかし、いざ話す段になってみると、私は言葉に詰まった。
なるべくならば、嘘を混ぜずに自分の世界の良さを伝えたかった。それには、私自身が今の世界を素晴らしいと思っている必要がある。
だが、私はそれに対して、今向き合ってみる限り自信を持ってそう思っているのかどうか怪しいところであった。
それでも、私は半ば強迫めいた感情と共に、詰まりながらもそれを語ることを決め込んでいた。
とにかく、この子に伝えてみたかったのだ、私の今生きている世界を。罪悪感も、後悔も、謝罪も、ここに来るまでに抱いていた何もかもを込めて。
そして、私は私自身に問いかけるように、妹に語り始めた。
☆
「今の私の住んでいる世界は……良いと思うよ」
「うん」
「何がとは、上手く言えないけれど。光が入るんだ、この館に窓は少ないけれど、陽が出ているなら薄明るく照らしてくれてる」
「やっぱり、お陽様好きなんだ」
「どうだろうね、火傷はするし、そうでもないよ。でも、光が作る影は好きだわね。それに」
「それに?」
「庭が綺麗だ。美鈴や他のメイド達が頑張ってくれてる。花は好きだと言えるかもしれないわ」
「私の部屋にはないけれどね。すぐ壊しちゃうから無駄だけど」
「今度美鈴に届けさせるよ。地下もいいよ。薄暗くて、黴臭いけれど、そんな雰囲気も好き。友人も好むところだし」
「そうね、あの魔女はお姉さまより吸血鬼らしいかも」
「館の外も、いい所だよ。大きい湖も、深い森も、焼けるような夕暮れも、この郷は全てが何だか懐かしい。肌に合う感じだね」
「うん……」
「ねえ、上手く伝わってるかしら……? まあ、私は……今の世界は嫌いじゃないよ。悪くない。随分色んなところを回って、ようやく落ち着いた場所だけど、ここで良かったと思えている」
☆
そう語り終えると、私は急に恥ずかしくなって、誤魔化すように笑った。
しどろもどろで、支離滅裂で、とてもじゃないけど上手く語れたとは思えない。
けれど、妹はそれを聞いて満足したように頷いた。
「そっか……」
そして、静かに笑ってこう言った。
「今度の世界はさ、お姉さま、自分で思っているより気に入ってるみたいだね。伝わったよ、ちゃんと」
慈しむような瞳で。
「良かったね、お姉さま」
それは嫌味でも皮肉でもなく、フランドールの素直な気持ちだった。少なくとも、私はそう感じた。
この子は、私の世界が幾分か昔より幸せになったことに対して、本当に、純粋に良かったと思っているのだと。
それと同時に、私は気づいた。気づいたというよりは、自分勝手な仮説だが。
もしかしたら、この子は。
そう思った瞬間、またフランドールが口を開いた。
「ねえ、お姉さま。本当にね、お姉さまが私に嘘の世界を伝えていたことについては、私は何とも思ってないのよ」
それどころか、少しは感謝しているの、と続けて。
「だって、お姉さまの思惑が真の所どうあれ、ずっと必死で、私と世界を繋げようとしてくれてたんだものね。あの時、唯一それをしてくれたのは、貴方だけだったから。
うんざりするような世界でも、私とそれを引き離そうとしないで、ずっと引っ張り上げようとしてくれた。一緒に生きようと言ってくれた。
それに応えなかったんだから、きっと、謝るべきは私の方だった。でも、お姉さまだって半分以上は自分のためだったんだから、おあいこだよね」
フランドールが笑う。素敵な笑顔で。
「だから私は謝るんじゃなくて、これだけ言うよ。伝えてくれて、ありがとう、って」
☆
それを受け止めて、私は一瞬泣きそうになったけれど、意地で飲みこんだ。
代わりに、言うべき言葉がある。
やはり、私の想像は当たっていたんだろう。この子はずっと、世界を嘘で飾って語る私のことを、心配してくれていたのだ。
外に出られない自分へ世界の素晴らしさを語ることを、酷い仕打ちだと思わずに、逆に自分を外へ連れ出そうと必死だったのだと思ってくれていた。
それが嘘だと気づいていて、そんな風に語らなければならないような世界に生きている姉のことを、想ってくれていたのだ。
それに対する私があの時に抱いていたのは、そんな上等な気持ちじゃなかった。独りよがりで、自分勝手で、あの子の事情など考えずに、ただ一緒に居て欲しくて、世界に出てきて欲しかっただけだ。
それなのに……。
「ねえ、フラン」
私はようやく声を出す。力を抜けば崩れそうになる顔を必死で笑顔に作り変えて、震える声を隠しきれずに、それでもこの子に今、言いたいことがあった。
「この世界は、本当に素晴らしいよ。今度は嘘じゃなく、そう言える。だから、私と――」
一緒に外に出て、生きてくれないか。
そう続けるつもりだった。それは、こうして向き合うようになってから幾度となく思ってきたこと。
しかし、ここまで強く思ったのは始めてだった。この気持ちがあるなら、たとえこの子が外に出ることでどんな不都合が巻き起ころうが、全て排して生きていけると確信していた。
だが、
「……駄目だよ、まだ駄目」
フランドールは、静かにそう遮った。一瞬だけ悲しそうな顔をして。
「――だって、お姉さまの言葉はまだまだ拙くて、私の心はそんな世界には動かされないのだもの」
次に皮肉っぽい、いつもの笑顔に立ち戻ると、そう告げる。
「そうだね、いつかもっとこの世界をお姉さまが愛せて、それを余すことなく私に伝えられたなら、その時は一緒に外に出てあげる」
そんな世界ならきっと、私だって閉じこもってなんていられないだろうから、そう言って、差し伸べた私の手に一度だけ触れて。
「待ってるよ、お姉さま」
互いの手はまた、繋げなかった。
4
屋根の上に座り込んで、夜空を見上げていた。
我が館の屋根はそれこそ馬鹿みたいに大きかったが、その中から見晴らしのよさそうな場所を適当に選んで、足を投げ出し手をついて座っていた。
星と月を見上げるのも、今ではもう少なくなった。それでもやっぱり、私はその行為が生まれつき好きなのだろう。
もう何時間こうしているのか、それでも飽きずに私は続けていた。
「美鈴」
そして、ふいにそう呟いた。
「お呼びで?」
呟いて、瞬きの間に、鈴の鳴る音が静かに響くと、その紅髪の従者が自分の傍に立っていた。
いつもそうだった。どういう理屈かはまるでわからないが、この従者はどんな小さな呟きだろうと、それを放ったすぐ後には私の傍に立っているのだ。
私は美鈴の存在だけをそこに感じながら、夜空から視線を外さずにぽつりぽつりと語り始める。
「なあ、美鈴」
「はい」
「私はさ、きっと愛していたんだよ。酷い世界だった、灰色で、退屈で、味気なくて、それでもやっぱりどこかであの世界が好きだったんだ。
幼い私は、今の私が思うほど、馬鹿じゃなかったのかもしれない。今では忘れてしまった感情があの頃にはあって、それはどこかにちゃんと正しさを持っていたから、私はあんな行動をしたのかもしれない。
今ではそう思えるよ。ほんの少し、フランと話しただけでさ。……なんとも勝手な話だよなぁ」
そんな私の言葉に、美鈴は一言、そうですか、とだけ相槌を打った。
踏み込むでもなく、突き放すでもなく、何とも絶妙な距離感での返しだったので、気を良くした私は静かに笑って続けてやる。
「愛しているよ、美鈴。お前も、お前と旅した世界も、あの魔女と知り合った世界も、あの魔女も。この館に住まう全員だって愛しているさ。何より、あの子のいるこの世界を愛している」
「……ありがとうございます」
そう言って顔を向けてやれば、珍しく照れたような表情で美鈴は頬をかいていた。私はそれを見て満足すると、視線を戻して。
「けどね、あの子はそれじゃあまだまだ足りないんだってさ」
私は夜空に手を伸ばす。何かを掴むように、それを広げて。
「だから私は、もっとこの世界を愛してみるよ」
まだまだ、この世界に、私の愛する余地があるのなら。そんなものに、出会えるのなら。
そしたら、この手は、掴めるのかもしれない。
「ねえ、フランドール」
いつか、あの子に伝えられるだろうか。
この世界の素晴らしさを。
この夜空に上る、紅い月の美しさを。
少し昔の話をしようか。
というのも、単に私がふと、そのことを思い出したからなのだけれど。
私が本当に、思い出すのも嫌なくらい馬鹿な餓鬼だった頃の話だが、思い出してしまったものはしょうがない。
だから、笑わないで聞いてくれると嬉しいな。お前に言っているんだぞ、今の私よ。苦笑いもなしだ。
それでは。
☆
私が生まれて間もない頃は、世界はそれは酷いものだった。
幼心に映る景色の空はいつも厚い灰色に曇っていたし、地面は大概の時期は真っ白一色に塗りたくったような雪に覆われていて、屋敷の中は常に薄暗く、使用人達もその雰囲気に合わせてくれてるような陰気さで。
そして我が領地へ尋ねてくるお客といえば、生気を失くした人形か、十字架や鍋を掲げて熱狂的な憎しみを被った、どっちが化け物だかわからないような奴らばかりだった。
唯一曇りない夜空だけが私のお気に入りで、暇があれば何もしないで、私は星と月だけを見上げて過ごしていたものだ。
今思えば、それも仕方ない、というよりは、それこそが私の、血吸い鬼の生きるべき世界であったのだろうけれど、幼い私はうんざりだった。
花のような千変万化の色彩に囲まれ、抜けるような青空と太陽の下で灰化したいなどとまでは思わなかったが、この世が夜だけならばいいのにと、星を見ながら小さく願っていた。
そう、あの時の世界の全ては靄がかかったような灰色で、幼い私はその世界をどうしても好きになれなかった。
☆
私の世界に靄がかかる理由は、もう一つあった。
我が愛しの、これまた幼い妹君のことだった。
閉じ込められたのか、それとも閉じこもったのか、今となってはどうでもいいが、私の五歳下の妹は物心もついてから、外に一度も出ない内に、屋敷の地下へ幽居の身となっていた。
そしてそれを、幼い私は……ああ、馬鹿なことだ、何とも全く、申し開きようもないほどに馬鹿だった私は、妹が地下から出て来なくなったのは、そうなってしまったのは、きっとこの世界が嫌になってしまったからなのだろうと考えたのだ。
私と同じように、こんな掃溜めのような世界にうんざりして、それならばいっそ耳と目を閉じ、世界から逃げ出してしまおうとしたのだと、そういう理由なのだと、馬鹿な私は何故だろうか、そういう結論に至ってしまった。
果たして結局、今だってあの子が甘んじてその幽居を現在においても受け入れている理由の全てを、私には計り知れないのだけれど。
それにしたって、世界を嫌ったことが理由の全てだなんて思うほど、私ももう幼くもない。
まあ、つまりは、どうしようもなく馬鹿だった私がその時には存在して、同時に途方もないほど、起こす行動だってそれに見合っていたのだというだけだ。
そうだ、私は、世界を嫌った妹に、外に出てきて欲しかった。
自分ですら愛せない世界へ、それでもそこから逃げ出して欲しくなくて、私は必死で考えた末に、それを行った。
何を行ったんだ?
何だったろうか。
思い出したくもないけれど、いいさ、思い出してあげようじゃないか。
私は、妹に外に出てきてもらうために、暇があれば地下へ行き、妹と私を隔てる扉の前へ座り込んで、その内側へいるだろう妹へ必死に話して聞かせていた。
私自身の住んでいる世界が、いかに素晴らしくて、楽しくて、そこへ出て来ないのがどれだけの損であるかを、耽美に語って聞かせていたのだ。
自分でも愛せない、灰色で、血と戦火に覆われて、冷たくて、狂ったような月が上る夜だけが救いであるような、そんな世界を、私は。
必死で脚色して、馬鹿みたいな楽しさを装って、誑し込むような声色で、私は、妹が耳を塞いでいないことを祈りながら、ずっと語り続けていた。
かの如く、救いようのない馬鹿だったのだ、私は。
☆
ある時、一人屋敷の庭に出て、私は降り積もった雪を丸めて固めると、どこか目標も定めずに思いっきり投げつけた。
雪玉は屋敷を囲う、檻のような塀にぶつかって、弾けた。
それを見て、白い息を吐くと、私は灰色の空を見上げる。
あの子に、ここにいて欲しかった。
こんな世界でも私は、二人でいれば、あの子に語って聞かせるそれのように楽しいものになるんじゃないだろうかと、淡く思っていた。
2
ふいに微睡みは醒めた。
薄く開いた目には、薄暗くはあるが、確かな光が映り込む。
光の反射が世界を見せる。最小限の光だけを取り入れる窓が作る、影の世界。飾られた花。白くクロスを敷いた卓。それを前に椅子に座って腕を組んで、眠たそうな顔をしている私がいるのだろうか。
欠伸をすると同時に、横で扉が開く音がした。
向けた視線の先で、紅い髪が揺れていた。
☆
「死んだ方がいいな、私は……」
机に両肘をつけて、頭を抱えながらそうこぼすと、紅髪の従者は呆れたような顔を向けてきた。
「死んでしまいたい……」
向けられる表情に構わず続けると、今度は声でそれを表す。
「また妹君のことですか?」
「……何でわかる?」
ぎろりと眼だけを向ける私の前で、溜息をついて、従者は茶の準備を進めながら、
「何故って、お嬢様がそこまで、傍から見てて笑えるほど弱気になることっていうのは、あの方に関すること以外ございませんからねぇ」
そう言って、くすくすと笑う。
そうされて、いい気をしている私ではない。顔を思いっきり顰めるようにして無言で返してやる。
だが、従者はそれに構わず続けた。
「本当に、それ以外でしたら恐れを知らず、恐れを与え、冷静で、勇敢な、尊敬できる主ですのに」
「そんなに立派なもんじゃあないよ、私は」
今度溜息をつくのは私だった。背中がむず痒いし、甘受する気にもなれない褒め言葉だ。
「……大分、独りよがりに落ち込んでるみたいですね。普段なら、『当たり前だろう、何を言ってるんだ』みたいな顔をしてくれるのに」
「そこまで傲慢かしら」
「美点ですよ」
笑ってそう言うと、従者はカップを差し出して私の目の前に置いた。
「それで、一体何をお悩みで?」
その問いかけを紅茶と共に飲みこんで、私は一息をつく。
「……小さい頃、私は馬鹿だったなぁってことを思い出してただけだよ」
吐き出した息と共に、
「そのせいで、あの子を随分と傷つけていたんだろうな」
自嘲の笑いを込めて、私は顔を両手で覆いながら呟いた。
涙なんて出るそぶりすらなかったけれど、泣けるなら泣いてもいい気分だった。
「傷つけたことを、後悔しているんですか?」
「どうだろうね」
本当のところ、よくわからなかった。後悔しているなら、忘れるはずがない。今になって自分の罪に気づくことを、そう呼んでいいのだろうか。
「単に自分に呆れているだけよ」
今更取り戻せるものでもないし。無理して取り戻さなければならないような、現在の姉妹関係でもなかった。
それでも、そんなことしか出来なかった自分を恥じ入る気持ちから抜け出せないのは、やはり後悔と言ってもいいのかもしれない。
「立ち直れそうにないですか」
「しばらくは塞ぎ込んでいたいよ」
紅茶を啜りながら弱々しく応える私に、従者は苦笑を漏らす。
「そうされてもねぇ、こちらとしても困りますよ。館の主がそんなんじゃあ、示しがつきません。立ち直ってください」
「どうやってよ」
「幸いにして、後悔を取り除く簡単な方法があるんですから、実行すればいい」
「……つまり?」
「単純ですよ、謝ってくればいいじゃないですか」
従者は何でもないことのようにそう言った。
「……出来るかな」
我ながら、それを想像するだけでほとほと情けない声が出た。
あの子のことを思うと私は、どこまでも弱気になれるようだった。
「地球の表と裏ほどに離れているわけじゃないでしょうに」
呆れたようにそういう彼女だったが、私にとってはあの地下室の扉は、ともすればそんな距離よりも強くあちらとこちらを隔てているようにも感じていた。
だが、それでもこれまで一度たりともあの子に会わなかったわけではない。定期的に、おっかなびっくり私は妹を尋ねていたのだ。
何度かなけなしの勇気を振り絞ってそれを踏み越えてきたことを思えば、やはり簡単なことのようにも思えてきた。
あの子とどれくらい話をしていないだろうか。久しぶりに尋ねるには、丁度いい口実かもしれない。いや、それにしても謝罪はないな。
「情けないお嬢様なんて、価値が薄くなりますよ」
悶々と悩んでいると、従者はそう続けてきた。
「どれくらいかしら?」
「図書館の魔女くらいには」
「最下層だね……」
溜息をついて私は、それを最後の一押しとすることにした。あの子に会いに行こう、そして謝ってしまおう。
そうして私は、許されたいのだろうか、怒られたいのだろうか。どちらにしても気分が幾分でも晴れるなら、そんな自分勝手も私らしい。
どうせ落ちるとこまで落ちてる気分だ、これ以上何かして、落ちようもなかった。
踏ん切りをつけるように紅茶を一気に飲み干すと、静かにカップを置く。それを見て、くすりと笑う従者。
「あら、カップが空いておりますね。お茶のおかわりは?」
こんなタイミングで尋ねてくることに、私は彼女のお節介さを少し鬱陶しく感じながらも、それを汲んでやる。
「あの子と飲むよ」
「では、そのように準備しておきます」
一礼と共に、静かに紅髪の従者の姿は消えていた。
誰もいなくなってから、私はまた深く息を吐いた。
3
「珍しいね」
妹は、言葉とは裏腹にどうでもよさそうな声で言う。
「一緒にお茶でも飲まないか、だなんて。お姉さまが?」
「何か不都合でもあるかい?」
「さあね。に、したって、こんな薄暗い地下までやって来て……」
対面で座る私達。妹は首をがくっと後ろにやるようにして、天井を見上げた。
「薄暗い所こそ吸血鬼の好む場所だろうに」
「そう? お姉さまは陽の下に憧れていると思ったけれど」
「そうでもないさ、私は夜が一番好きだよ」
私は思い出した記憶の中の、いっつも見上げていた星空を静かに頭の中で描いた。
同時に、酷く落ち込みたくなる、ここに来た理由も思い出してしまう。そのせいで少し表情を曇らせると、私の顔など見てもいないだろうに、妹が何かに勘付いたような表情になるのがわかった。
妹は、こうしてたまに向き合うようになってから気づいたことだが、私に関して妙に聡いようだ。
というよりは、私がわかりやす過ぎるのだろうか。従者にも、友にも、私のその時の心というのは得てして読まれやすかった。
それに関して特に不満に思うところがあるわけではない。心を隠したがるほど臆病ではないのだと、自分でそう決めつけてそのように振舞っていたが、妹の前に出るとどうも私は違うようだった。
この子の前だと私は自分の心を見せたくはなかった。私自身よくわからない心を、この子の前では抱いてしまうからだ。
形のないものを見せて何になるというのだろう、いっそ強烈に塗り潰したような、気が狂うほどの好意だけを抱けていたら、毎日この子に会いに来れるだろうに。
とにかく、妹はこの時も、私の何か形になっていない心の一端を掴んだらしい。
ぐるんと勢いよく天井を見ていた首を元に戻すと、濡れたように真っ赤な瞳で私を見つめた。
「で、今日は何でここに来たの?」
「……謝りに来たのよ」
隠す理由はなかった。どこかで切り出さなければいけない話だ。遅いか、早いか。まあ思っていたより、随分と早かったけれど。
私は注いだ紅茶を妹の前に差し出し、自分の前にも置いてから、その視線と組み合った。
「謝る、ねえ……お姉さまが私に謝らなきゃいけないことだなんて、数え切れないほど思い当たり過ぎて、どの理由で来たのかわからないわ」
「あげつらってくれたらば、全てに対して話し合おうと思うけど」
「やだなあ、そんな真面目な顔で。冗談だよ、半分は」
半分は本気ということだろうか。妹はくすくすと笑う。私はとにかくばつの悪い表情を続けるしかない。
それから少しの間を置いて、妹がぐびりと、紅茶を流し込むように傾けてから切り出す。
「まあ、それじゃあ、話し合おうか。今日持ってきたお姉さまの罪について」
「言えた義理ではないけれど、怒らないで聞いてくれると助かるな」
「どんな理由にしろ、怒るようなものなら、お姉さまがこの部屋に入って来た途端にグシャグシャにしてるわ。私が忘れているか、覚えていても怒っていないのなら、その程度の理由だってことだよ」
妹は、きん、と、カップを右手の指で軽く弾くと、次にくるんと手を少し離してからきゅっと握った。
同時にカップが破裂して、ソーサーに、残っていた茶が流れ出た。
「あら、失礼。まだ残っていたのに、勿体なかったね」
「いいカップだったろうに、美鈴が泣くよ」
「それは素敵ね。美鈴の泣くところ、見てみたいな」
他愛無くそう交わしながらも、妹の視線はまったくブレずに私を見つめ続けていた。
だから、私も顔を引き締めて向かい合う。
「では、どうぞ、お姉さま」
「ああ、すまないね、フランドール」
そして私は話し始めた。
☆
それから、私は精一杯語った。
私の記憶を、私の愚かしさを、私の罪を。
淡々と、言い訳など入れないように、事実だけを述べられるように、意識して私は語り続けた。
この子を騙し続けていたことを、この子のことなど本気で考えていなかったことを、どこかでこの子を頼っていたことを。
そうして、ようやく話し終えた最後に、私は卓に頭を擦りつけんばかりに深く下げた。
「ごめんなさい、フラン」
そうし終えて、頭を上げた私が見た妹の顔は、何だか呆気に取られているというような、意外そうな色を少し混ぜているようだった。
「ふーん……そんなこと気にしてたんだ、お姉さまは」
「そんなことって……」
「ああ、そうじゃないの。まあ、馬鹿なお姉さまではあるなとは思ったよ。客観的に見れば確かに酷い」
思わず顔を顰める私に、妹は苦笑しながら。
「でも、それにしたってねえ……ああ、そうだ、ふふ」
それから妹は、ふっと少し難しそうな顔になってみたり、かと思えば突然嬉しそうに笑ってみたりと、落ち着きなく表情を変えながら何かを考え始めた。。
あまり想定していなかった反応に、私は訝しげな顔を向けることしかできない。
もっと何かこう、苛烈に怒るとか、静かに私を軽蔑するとか、そういう負の感情を向けられることを覚悟していたのに。
自分の心が、渾身の力で当たって行こうとしたのを華麗に逸らされて、そのまま見当違いの方向へ走って行っているような気がして、ひどく落ち着かない気分を抱えたまま私は妹を見続けるしかなかった。
どれくらい私達はお互いに落ち着いていなかったのだろうか、長いような短いような時間が経って後、ようやく何か結論を出せたのか、妹は顔を普段の皮肉っぽい笑顔に固定し、今度は視線を和らげて私を見ながら口を開く。
「ねえ、お姉さま。色々と考えてみたのだけれど、正直言ってそれ、私にとっては全然怒れる理由じゃなかったの。ひどいわ、期待してたのよ、私がかんかんに火照ったポットのように怒って、お姉さまに飛び掛かれることをね」
「私としては、そうされても仕方のない覚悟でここに来ていたのだけれど」
「駄目よ、全然駄目だった。いつかまた、そういう理由を思い出してくれることを期待しているわ」
「……努力するよ」
「ええ、お願いね。それでね、今回の件については、謝罪なんてされても全然私の気持ちは晴れないの。困るだけよ? 嬉しいけれど、心の中のどうでもいい場所に放り込んでおくわ」
渾身の謝罪が今まさに放り捨てられたのを見て、私はひどく情けない顔になったのだろう。
妹はそれを見て、我慢しきれなくなったように声を出して笑うと、さらに続けた。
「だから、謝罪の他にももう一つくださらないかしら、お姉さま」
「私にあげられるものならば、何なりと」
「もう、そんな不貞腐れたような顔しないで。可愛い顔が台無しだよ」
「これくらいで崩れるようなものなんて持っていないよ。それで、何が欲しいんだい?」
「ああ、そうね。そう、私が欲しいのはね……」
真っ直ぐな視線と共に、それを放つ。
「お姉さまが語る、今の世界よ」
はっとしたようになる私の前で、妹は静かに笑う。
「今度は、嘘も、希望も混ぜないで、私に世界を伝えて欲しいな」
☆
大分に驚きはしたが、私は正直、それについて全く異論はなかった。嘘で塗り固めた世界を伝えた贖罪に、今私が生きる真実の世界について話すのは、全くもって理に適っていると思えた。
しかし、いざ話す段になってみると、私は言葉に詰まった。
なるべくならば、嘘を混ぜずに自分の世界の良さを伝えたかった。それには、私自身が今の世界を素晴らしいと思っている必要がある。
だが、私はそれに対して、今向き合ってみる限り自信を持ってそう思っているのかどうか怪しいところであった。
それでも、私は半ば強迫めいた感情と共に、詰まりながらもそれを語ることを決め込んでいた。
とにかく、この子に伝えてみたかったのだ、私の今生きている世界を。罪悪感も、後悔も、謝罪も、ここに来るまでに抱いていた何もかもを込めて。
そして、私は私自身に問いかけるように、妹に語り始めた。
☆
「今の私の住んでいる世界は……良いと思うよ」
「うん」
「何がとは、上手く言えないけれど。光が入るんだ、この館に窓は少ないけれど、陽が出ているなら薄明るく照らしてくれてる」
「やっぱり、お陽様好きなんだ」
「どうだろうね、火傷はするし、そうでもないよ。でも、光が作る影は好きだわね。それに」
「それに?」
「庭が綺麗だ。美鈴や他のメイド達が頑張ってくれてる。花は好きだと言えるかもしれないわ」
「私の部屋にはないけれどね。すぐ壊しちゃうから無駄だけど」
「今度美鈴に届けさせるよ。地下もいいよ。薄暗くて、黴臭いけれど、そんな雰囲気も好き。友人も好むところだし」
「そうね、あの魔女はお姉さまより吸血鬼らしいかも」
「館の外も、いい所だよ。大きい湖も、深い森も、焼けるような夕暮れも、この郷は全てが何だか懐かしい。肌に合う感じだね」
「うん……」
「ねえ、上手く伝わってるかしら……? まあ、私は……今の世界は嫌いじゃないよ。悪くない。随分色んなところを回って、ようやく落ち着いた場所だけど、ここで良かったと思えている」
☆
そう語り終えると、私は急に恥ずかしくなって、誤魔化すように笑った。
しどろもどろで、支離滅裂で、とてもじゃないけど上手く語れたとは思えない。
けれど、妹はそれを聞いて満足したように頷いた。
「そっか……」
そして、静かに笑ってこう言った。
「今度の世界はさ、お姉さま、自分で思っているより気に入ってるみたいだね。伝わったよ、ちゃんと」
慈しむような瞳で。
「良かったね、お姉さま」
それは嫌味でも皮肉でもなく、フランドールの素直な気持ちだった。少なくとも、私はそう感じた。
この子は、私の世界が幾分か昔より幸せになったことに対して、本当に、純粋に良かったと思っているのだと。
それと同時に、私は気づいた。気づいたというよりは、自分勝手な仮説だが。
もしかしたら、この子は。
そう思った瞬間、またフランドールが口を開いた。
「ねえ、お姉さま。本当にね、お姉さまが私に嘘の世界を伝えていたことについては、私は何とも思ってないのよ」
それどころか、少しは感謝しているの、と続けて。
「だって、お姉さまの思惑が真の所どうあれ、ずっと必死で、私と世界を繋げようとしてくれてたんだものね。あの時、唯一それをしてくれたのは、貴方だけだったから。
うんざりするような世界でも、私とそれを引き離そうとしないで、ずっと引っ張り上げようとしてくれた。一緒に生きようと言ってくれた。
それに応えなかったんだから、きっと、謝るべきは私の方だった。でも、お姉さまだって半分以上は自分のためだったんだから、おあいこだよね」
フランドールが笑う。素敵な笑顔で。
「だから私は謝るんじゃなくて、これだけ言うよ。伝えてくれて、ありがとう、って」
☆
それを受け止めて、私は一瞬泣きそうになったけれど、意地で飲みこんだ。
代わりに、言うべき言葉がある。
やはり、私の想像は当たっていたんだろう。この子はずっと、世界を嘘で飾って語る私のことを、心配してくれていたのだ。
外に出られない自分へ世界の素晴らしさを語ることを、酷い仕打ちだと思わずに、逆に自分を外へ連れ出そうと必死だったのだと思ってくれていた。
それが嘘だと気づいていて、そんな風に語らなければならないような世界に生きている姉のことを、想ってくれていたのだ。
それに対する私があの時に抱いていたのは、そんな上等な気持ちじゃなかった。独りよがりで、自分勝手で、あの子の事情など考えずに、ただ一緒に居て欲しくて、世界に出てきて欲しかっただけだ。
それなのに……。
「ねえ、フラン」
私はようやく声を出す。力を抜けば崩れそうになる顔を必死で笑顔に作り変えて、震える声を隠しきれずに、それでもこの子に今、言いたいことがあった。
「この世界は、本当に素晴らしいよ。今度は嘘じゃなく、そう言える。だから、私と――」
一緒に外に出て、生きてくれないか。
そう続けるつもりだった。それは、こうして向き合うようになってから幾度となく思ってきたこと。
しかし、ここまで強く思ったのは始めてだった。この気持ちがあるなら、たとえこの子が外に出ることでどんな不都合が巻き起ころうが、全て排して生きていけると確信していた。
だが、
「……駄目だよ、まだ駄目」
フランドールは、静かにそう遮った。一瞬だけ悲しそうな顔をして。
「――だって、お姉さまの言葉はまだまだ拙くて、私の心はそんな世界には動かされないのだもの」
次に皮肉っぽい、いつもの笑顔に立ち戻ると、そう告げる。
「そうだね、いつかもっとこの世界をお姉さまが愛せて、それを余すことなく私に伝えられたなら、その時は一緒に外に出てあげる」
そんな世界ならきっと、私だって閉じこもってなんていられないだろうから、そう言って、差し伸べた私の手に一度だけ触れて。
「待ってるよ、お姉さま」
互いの手はまた、繋げなかった。
4
屋根の上に座り込んで、夜空を見上げていた。
我が館の屋根はそれこそ馬鹿みたいに大きかったが、その中から見晴らしのよさそうな場所を適当に選んで、足を投げ出し手をついて座っていた。
星と月を見上げるのも、今ではもう少なくなった。それでもやっぱり、私はその行為が生まれつき好きなのだろう。
もう何時間こうしているのか、それでも飽きずに私は続けていた。
「美鈴」
そして、ふいにそう呟いた。
「お呼びで?」
呟いて、瞬きの間に、鈴の鳴る音が静かに響くと、その紅髪の従者が自分の傍に立っていた。
いつもそうだった。どういう理屈かはまるでわからないが、この従者はどんな小さな呟きだろうと、それを放ったすぐ後には私の傍に立っているのだ。
私は美鈴の存在だけをそこに感じながら、夜空から視線を外さずにぽつりぽつりと語り始める。
「なあ、美鈴」
「はい」
「私はさ、きっと愛していたんだよ。酷い世界だった、灰色で、退屈で、味気なくて、それでもやっぱりどこかであの世界が好きだったんだ。
幼い私は、今の私が思うほど、馬鹿じゃなかったのかもしれない。今では忘れてしまった感情があの頃にはあって、それはどこかにちゃんと正しさを持っていたから、私はあんな行動をしたのかもしれない。
今ではそう思えるよ。ほんの少し、フランと話しただけでさ。……なんとも勝手な話だよなぁ」
そんな私の言葉に、美鈴は一言、そうですか、とだけ相槌を打った。
踏み込むでもなく、突き放すでもなく、何とも絶妙な距離感での返しだったので、気を良くした私は静かに笑って続けてやる。
「愛しているよ、美鈴。お前も、お前と旅した世界も、あの魔女と知り合った世界も、あの魔女も。この館に住まう全員だって愛しているさ。何より、あの子のいるこの世界を愛している」
「……ありがとうございます」
そう言って顔を向けてやれば、珍しく照れたような表情で美鈴は頬をかいていた。私はそれを見て満足すると、視線を戻して。
「けどね、あの子はそれじゃあまだまだ足りないんだってさ」
私は夜空に手を伸ばす。何かを掴むように、それを広げて。
「だから私は、もっとこの世界を愛してみるよ」
まだまだ、この世界に、私の愛する余地があるのなら。そんなものに、出会えるのなら。
そしたら、この手は、掴めるのかもしれない。
「ねえ、フランドール」
いつか、あの子に伝えられるだろうか。
この世界の素晴らしさを。
この夜空に上る、紅い月の美しさを。
いい言葉だ…
大好きだ
甘い姉妹愛と主従愛にあふれた幻想的なシチュエーションがいいですね
またのちゅっちゅを心待ちにしています。
深読みかもしれんけれども、手が繋がらなかったところに姉への愛がこもりにこもっている気がして、そこが良かった。
そして、後書きのちゅっちゅ論は私の胸にかつてない響きをもたらしてくれました。
世にある姉妹ちゅっちゅは全て素晴らしい!
自分の中にあるスカーレット姉妹像に、すっぽりと嵌った感じと言いますか。とにかくこの話がコレ以上なく気に入りました。
次回作お待ちしております。
姉妹特にレミフラちゅっちゅは最高だ!
貴方についていきます。
素晴らしい姉妹ちゅっちゅでした
この言葉を胸に再度読み返すと、また違った感慨がありますね
なんて素晴らしい姉妹ちゅっちゅだろう
愛ってこういうものですよね。
そしてあとがきにも感動。
フランドールが心の底から願うことは何なのか。どんな世界なら彼女の心は動くのか。
それが見えないというより無いように感じてしまいました。
自ら閉じこもることを選び続けている、独りよがりで自分勝手なその理由がきちんと描かれていたら
文句なしの満点だったんですが……
とりあえず、とっても良かったです。
レミリアの苦悩、フランの距離の取り方のどちらもが。
自分が世界を愛せないのに、他人に世界の良さを伝えることなんて出来ませんしね。
伝えれる日はいつくるのか