Coolier - 新生・東方創想話ジェネリック

ハイカラさんが通る 一つ目

2019/08/04 06:29:29
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   灰色の季節


 人里近くの桜並木はこのところ大盛況で、今日だって、シートやなんかがたくさん敷かれて、舞い散る桜の中、人々は賑やかさを担っている。真昼の陽射しでなんだか白みがかって、まるで楽しいだけの夢みたいな光景だ。
 僕に言わせれば、それは馬鹿騒ぎで、奴らは烏合の衆だった。僕は桜を見てはしゃいだりなんかしない。大人が思うほど、僕は子供じゃないんだ。寺子屋の、なにもわかっちゃいないアホ共とだってもう少しでおさらばできる。僕にとってこの桜並木はただの通り道、帰路だった。
 ああ、寺子屋といえば、あの、風見鶏の、パープリンの、忌々しい、左だ。今日だって、あいつは僕に謝らなきゃいけないことがあるはずなのに、それを無視して、馴れ馴れしく声をかけてきやがった。声をかけられて着いていく僕も間抜けだった。でも、人が死ぬところを見に行かないか、なんて言われて、断ったら、後で馬鹿にされるに決まってる!
 左、あいつは卑怯だ。いざ、流行り病で死にかけの爺さんを目の当たりにしたら、そそくさビビって一人だけ逃げやがった。なにが、これは見世物じゃないな、だ。言い出したのは自分のくせに、かっこつけやがって。
 けれど不思議なのは、今現在視界に映るすべてのものが、なんだか僕のせいに思えることだ。白んだ陽射しも、桜の木々も、舞い散る淡桃の花弁も、楽しそうな人々も、賑やかな喧騒も、屋台の匂いも、捨てられた串に群がる蟻達も、目付きの悪い犬も、なんだかすべてが、僕のせいに思える。
 僕はきっと、そんな景観の、どんな箇所も担えていない。そんな気がする。団子でも買ったら、僕も少しは、格好がつくかもしれないが、有象無象に迎合する理由なんかはどこにもないんだ。
 そんな、漠然とした感慨に足を取られながら歩いていると、不意に、視界の端、妙な女が目についた。女を妙と言わしめたのは、女の赤い髪の色と、持ち物だった。服もこのあたりじゃ見慣れないものだったかもしれないが、そこらへんに関しては、僕はあまり自身がない。
 女は片手に酒瓶を提げて、もう片手には盃を持っていた。盃にちびりと口をつけるその仕草は、桜並木じゃありふれた、見飽きた仕草だけれども、女は一人だったのだ。女の、陰気だけれど、そうと言い切れない表情や雰囲気も、僕にはどうも、気になった。
 だからといって声をかけるなんてことはせず、僕は止めていた足を動かして、通り過ぎようとしたのだが、女の方から声をかけてきた。
「なんだ、あんた。あたいが見えるのかい」
 なんて、奇怪な言葉を投げかけられた時点で、僕はそそくさ逃げるべきだったのかもしれない。しかし、僕の口は殆ど勝手に動いて、「そりゃ、見える」とかなんとか、吐き出してしまった。
 女は僕の言葉にさして反応を示さず、へぇ、と息を吐くのみで、桜やなんかを眺め続けた。そもそも、女は端から僕の方なんか見ちゃいなかった。女はずっと、どこかを見ていた。けれど、舞い散る花弁を見てるのか、往来のど真中に一本だけ生えた大樹を見てるのか、はたまた行き交う人々を見ているのか、あまり、判然としなかった。とにかく、女が二の句を放つ様子もないので、僕は気まずく一礼をして、歩きはじめようと考えたのだが、そこでまた、女が口を開いた。
「今年の桜は、妙な色をしているねえ」
 妙なのは自身の放った言葉ではないか、女から、意外とおしゃべりな気配を感じながら、僕も口を開く。いよいよもって女との会話が始まってしまうけれど、一つ言えるのは、僕も意外とおしゃべりなのだ、ということだ。
「そんなことないと思うけど。例年通り、ただの薄い、桃色じゃないか」
「あんた意外と、目が悪いんだね。若いってのに」
「だから眼鏡をかけてるんだけど」
「あ? ああ、ほんとだ」
 女はそのとき、初めて僕の顔をみた。ああ、ここらへんで、彼女のことはお姉さん、と呼び替えるべきかもしれない。年功序列はアホらしいけど、礼節ってのは重要なんだ。
「じゃあ、あたいの目がおかしいのかな。いやでも、この酒もさ、なんだか以前と味が違うんだよ。随分薄口になっちまった」
「そのお酒、売れ方がずっと変わらないから、味が変わったなんてこと、ないと思うけど」
 お姉さんは眉を顰めて、右上辺りの虚空に揺れ落ちる花弁を睨みながら、「あれぇ」とか、「妙だな」系の言葉を発音した後、僕に向き直った。
「なんだい。じゃあみんな、あたいのせいだって言いたいのかい」
 唇を尖らせて真面目くさって言うもんだから、僕は思わず吹き出してしまった。するとお姉さんも冗談めかして笑うから、僕たちは少しの間、笑いあった。
「お姉さんは、里の人じゃないね。だって、里の中でみたことないもの」
「ああ。でも仕事でね、しばらくはここらへんに住むことになったんだ」
「仕事?」
 僕が問いかけると、お姉さんは何かハッとして口を切った。
「ああ! 今日はこれから仕事だったんだ! いやあ、天気が良かったもんで花見しに出てきたんだが、すっかり忘れちまってたよ」
「お姉さん、抜けてるね」
 うるさいやい、と笑って、お姉さんは歩き始めた。かと思えば立ち止まって、僕に向き直って、口を切る。
「あんた、ええと。流行病に罹って死にかけてる爺さんとか、知らないか?」
「……それなら、稗田邸裏の横町だね。こぢんまりした庭に松が生えてて、一人で暮らしてる。……お姉さん、医者?」
 あの爺さんが一番激しく咳き込んでからどうなったか、僕は知らない。恐ろしくて逃げてきた。でも、お姉さんが行くなら、きっと大丈夫だろう。根拠はないが、そう思えた。
「医者。まぁ、そんなところかな。……ありがとね。それじゃ、あたいは行くよ」
 あんな、昼間っから酒を飲んでるような赤い髪のひとが、本当に医者なのだろうか。また歩き出したお姉さんの背中を眺めながら、そんなことを考えていると、「ああ、そうだ」とお姉さんが振り向いた。
「あんた。今後町中であたいを見かけても、声をかけないでおくれよ。あんまりね、好きじゃないんだ。そういうの」
 声をかけてきたのは自分のくせに、よく言うな。それじゃ、と笑いながら酒瓶を掲げて、お姉さんは歩き出す。不意に、どうしても聞きたいことが浮かんで、僕はお姉さんを引き止めた。
「ねえ。お姉さんの桜はさ、どんな色してるってわけ」
 お姉さんは振り向くこともなく、「は、い、い、ろ」と発音して、今度こそ、行ってしまった。
 去っていくお姉さんの背中を、随分見つめていたけれど、僕はどうにも、白んだ陽光にしたって、桜の木々にしたって、舞い散る淡桃の花弁にしたって、楽しそうな人々にしたって、賑やかな喧騒にしたって、屋台の匂いにしたって、捨てられた串に群がる蟻達にしたって、目付きの悪い犬にしたって、なんだかすべてが、お姉さんの背中を彩っている気がした。お姉さんのせいな気がした。何故かはわからないが、そんな気が、したのだ。
 声をかけるな。お姉さんにはそう言われたけど、僕はきっと、それを守ることはしないだろう。だって、あのお姉さんと親しくなるのは、クラスのアホどもやパープリンの左なんかと仲良くするよりも、ずっと有意義な気がするから。
 そうして、僕はとりわけ軽い足取りで、地面の上で行われる馬鹿げた酔宴の幾つもを、見送った。

 恐らく樹脂とかビニルとか、床の感触はそんな感じ。キッチンの小窓には川が流れて、川の流れはキッチンにせせらぎってやつを運び込む。昨今はコンロ程度ならどんな家にだってあるから、四角いフライパンの中で、卵は四角くなっている。
 とはいえ、このキッチンにコンロがあるのは意外だった。こんな川沿いの、打ち捨てられた小屋めいた長屋にも、憎き河童どもの侵略の魔の手が伸びているとは。有難がる奴もいるけど、僕はどうにも、好きになれない。
「なあ、あんた。いい加減にお友達と仲直りしなよ。こう毎日来られると、どうも落ち着かないね、あたいはさ」
 畳張りの居間からお姉さんが声を上げる。
「僕が来ないとお姉さん、料理だって掃除だって、ろくにしないくせに。それに、あんなやつ、もう友達でもなんでもないんだって、何度も言ってるじゃないか」
 言いながら、僕は卵焼きをお姉さんの前まで運ぶ。お姉さんはなにやらずっと、手紙を書いていた。それは、なにも今日に限った話ではなく、僕が里で、飲み屋の暖簾越しにお姉さんを見つけた日からずっと、お姉さんは手紙を書き続けている様子だった。
 僕が初めてお姉さんの部屋に入ったとき、四、五畳の部屋にはお姉さん宛の手紙が溢れていた。そんな部屋の中で黙々と手紙を書き続けるお姉さんを見て、こんな量の文通をする相手がいるのか、と、そのとき僕はそう尋ねた。しかしお姉さんから返ってきたのは、「手紙が届くんだ」という、いまひとつ要領を得ない返答で、結局、お姉さんの書く手紙も、お姉さんに届いた手紙も、どういった内容の手紙なのか、知ることはできなかった。最も、散乱した手紙の内容を読んでしまえばよかったのだが、僕にそこまでの勇気はなく、出来たのは、大量の手紙の、掃除を兼ねた処分、それくらいだった。
 僕が卵焼きを低くて四角いテーブルに置こうとすると、お姉さんは、「頼んでもいないのに」とかなんとか言いながら、机の上の手紙をどける。封筒の飽和した机になんとか皿を乗っければ、お姉さんは筆を置いて、手を合わせた後、卵焼きへと親の仇のように醤油をかけた。
「あんたの料理、味が薄いんだよ」
 眉をひそめる僕を尻目に、お姉さんが言い訳めいた言葉を吐き出す。それにしたって、この量はかけすぎだと思う。
 お姉さんが食べてる間、畳に座って、壁にもたれて、本を読んでいた。すると、箸を動かすお姉さんが不意に口を切る。
「あんた、あれだろ? 浮浪者と少年の奇妙な友情劇、みたいなのを、あたいに期待してるんだろ」
「お姉さんは浮浪者じゃないでしょ」
 じゃああんた、あたいの身元がわかるのかい、とかなんとか、お姉さんは自身を浮浪者の立場へと貶めて続ける。たしかに、僕は未だお姉さんの名前すら知らない。
「それで、あんた。あたいによく言うよな、『お姉さん、たまには外に出た方がいいんじゃない』なんてさ。それってあれだろ? 外に出てあたいと歩いてるところを、誰かに見られたいんだ。同級生やなんかにさ」
「なんでそんなこと」
「なんでって、決まってる。噂されたいんだ。『あいつ、あやしい大人と仲よさげに歩いてたぞ』なんて。あんたみたところパッとしないからね、みんなの気を引きたいんだろ? それで、いざ直接指摘されたら、はにかむんだ。『あはは、みられちゃったか』なんてさ。いやあ、あんたは恥ずかしいやつだよ」
 お姉さんの言うことは的外れだ。どうして僕がクラスのアホどもの気を引かなくちゃならないのか。そもそも、奇妙なユウジョウゲキを期待しているのはお姉さんの方なのではないか。そうじゃなければ普通、里で会った見ず知らずの少年を部屋に入れたりしない。僕のことを本ばかり読んでいる内気な少年に、人との温もりを求める孤独な少年に当てはめようとしているのは、きっとお姉さんの方だ。
「お姉さんこそ、恥ずかしいひとだよ」
「まあ、あたいが言いたいのはさ。本ばっか読んでないで、子供は子供らしく外で遊べって話だよ。お友達と仲直りして、さっさと子供らしく振る舞えって、そういう話」
 お姉さんは箸を食べ終わった皿の上に置いて、勝手に話を締めくくった。大人は、いつもこんな具合に話を逸らす。
 お姉さんの卑劣さに内心憤っていると、お姉さんは皿を片付けることもなく、手紙を書くのを再開した。卑怯だ、なんて口に出せばまた馬鹿にされるだろうから、僕は平静を装って、本に目を落としていたけど、正直、文字が頭に入らなかった。
 そんな沈黙がしばらく続いて、不意に、筆を手に持ったまま、お姉さんが口を開いた。
「あれ、あんた。苗字はなんていったか」
「門。……僕宛の手紙?」
 本からお姉さんに視線を移すと、お姉さんはやはり手紙の上に筆を構えて、手を止めていた。どうやら僕宛の手紙であることは間違いないらしいけど、僕はここにいるんだから、言いたいことがあるなら直接言ってくれればいいのに。
「門、門。……ちょいとあんた。嘘ついちゃいけないな。お姉さん、そういうのはわかるんだよ。あんた、ほんとはなんて姓なんだい」
 姓に嘘もなにも無いと思うけれど、偶然、僕には門以外のもう一つの苗字、その心当たりがあった。しかし、お姉さんにそれがわかるのはどうも不可解だ。
「……左。前の苗字が左だったんだ。門は新しいお父さんの名前でさ。……おかしい話だよ! 稗田邸の左っ側にある家はみんな左なんてさ!」
「やっぱりね。こういうときに姓を聞かれたら普通、元々のやつを答えるもんなんだよ。頼むよ、まったく。左、左ね。よし……」
 僕の言葉の後半部分をほとんど無視して、お姉さんは手紙に筆を落とす。僕はお姉さんの言うように、僕が間違っていたとは到底思えるはずもなかった。姓は現在のものを名乗るのが普通なのではないか。僕はなんだか居た堪れなくなって、お姉さんに問いかける。
「それ、何処に出す手紙なの」
「ええと、この手紙は……あれ、どこだったかなあ」
「僕に苗字を聞いたってことは、僕の家に出すんじゃないの。でも、僕の家はいま門だから、それじゃあ届かないと思うよ、きっと」
「いや、あんたの家じゃないよ。……あれ、でもほんと。どこに出すんだったかな。あんたの苗字を聞いたなら、普通、あんたの家に出すもんだけど。でも、それは絶対に違うんだよ。とすると一体、この手紙はどこに出す手紙なのか。……あれ、なんで、わかんないんだろ」
 お姉さんはそこまで言って、僕の方を向いては照れるように笑った。お姉さんは本当にわからなさそうにはにかむものだから、僕もつい、笑ってしまう。
「お姉さん、抜けてるね」
 うるさいやい、なんて言って、お姉さんは腕を伸ばして、諦めたように仰向けに寝転がっては、また、笑った。

 目の悪い犬が吠える。惣菜屋の婆さんは誰かに向けて怒鳴っている。雨は降っていないが晴れでもない。晴天と雨雲の狭間に位置するのは鈴奈庵って名前の貸本屋だった。
 僕が手にとった本は、
『超ひも理論とは』『カオス理論の実証』
『善悪の彼岸』『罪と罰』
 こうだ。ああ、痺れるなあ。小鈴さんも、僕に一目置かざるを得ないだろう。
 おっと、小鈴さんに“お固い頭でっかち”だなんて思われないよう、これも借りておこう。アガサクリスQの新刊。
 読書をただの娯楽だと考えている品性のひの字も解せないアホの左が好む本を借りるのは癪だけど、小鈴さんにとってそういう“ギャップ”は、僕の魅力の一つと映るに違いない。
 ほらみたことか。彼女、僕の選んだ本を見て目を輝かせてる。あー、このままいけば小鈴さんとお付き合いできる日は近いかも知らん。左のやつ、さぞ悔しがるだろうなぁ。
 貸本屋を出れば目の悪い犬が僕をめがけて吠える。ここらへんは躾のなってない犬ばかりだ。僕は目一杯力を入れて犬を睨みつける。まさか僕にびびっているだなんて考えやしないが、何故か犬はこうすると、いつも黙った。
 犬の睨めば黙ることはよしとして、問題はいつもここから始まる。目を離した瞬間に、やつは僕に飛びかかってくるのだ。つまりここからはじまるのは持久戦。視線を差し合う膠着状態だった。
「おい。犬と睨めっこして楽しいのか?」
 二、三分の緊張の時を打ち破ったのは馴れ馴れしく、そして頭の悪そうな声だった。左だ。
「左お前、馴れ馴れしいな。話しかけるなって言っただろ」
「おいおい、まだ怒ってるのかよ。たかだがあんなことで」
 聞いているだけで頭の悪くなる左の声に犬は逃げた。畜生に倣うのは癪だけど、僕もとっとと帰ってしまおう。
「なあ門。あの爺さん、結局――」
「――うるさい! 話しかけるなって、言ってるだろ!」
 僕が怒声を上げてしまった原因が、アホの左にあるのか、それともあの、流行病の爺さんにあるのか、僕にはどうも、判然としなかった。

 家に帰ると、家の前で暴動が起きていた。夕日の橙が暴力的に橙だったから、家の前の人混みは、きっと暴動に違いなかった。しかし、そんな人集りを青ざめた顔で愕然と見つめている父さんを見つけたとき、夕日の橙に押し止められていた僕の焦燥が、胸中、躍動を開始した。
 少し震える足を操作して父さんの隣まで行くと、僕が尋ねるまでもなく、父さんはやおら口を開いた。曰く、母さんが死んだらしい。
 僕は矢庭に地面を蹴って、玄関を潜ろうとしたけれど、周りの、父さんの友人やなんかに邪魔されて、家に入ることは叶わなかった。僕は大人たちに押さえつけられながらでかい声で疑問符を叫んでいたと思う。そんな僕に父さんがゆっくりと近付いてきて、父さんは僕の顔をしっかりと両手で押さえて、静かに、でも確かに、口を開いた。
 母さんは、流行病で死んだらしい。

 大人たちが僕を押さえつけるのに飽きた頃、僕は走った。お姉さんの住む長屋は桜並木沿いの川辺にある。だから、橙の世界も、桜の木々も、舞い散る淡桃の花弁も、爺さんが死んだのも、母さんが死んだのも、屋台の匂いも、捨てられた串に群がる蟻達も、目付きの悪い犬も、それら全てが、お姉さんのせいに思えた。
 玄関を潜ると、そこには夕陽に彩られた壁と畳があるのみで、お姉さんの姿は見当たらなかった。窓から差し込む橙は徐々に色調を落として、終いには紺色になった。
 月明かりが妙に明るく思えた頃に、玄関の戸が開いて、お姉さんが帰ってきた。
「ちょいと、あんた。勝手に他所様の家に上り込むなんて、なに考えてんだい」
 お姉さんの声色がいつも通りの軽さで、僕は胃が痛くなった。
「……どこに行ってたのさ」
「どこって。……ああ! さっきあんたの母さんと会ったよ。里を歩いてたら、偶然さ」
「嘘つくなよ。母さんは死んだんだ。お姉さんのせいで」
「死んだ? なに言ってんだい。さっき会ってきたって、言ったばかりじゃないか」
「――とぼけるなよ! 母さんは流行病で死んだんだ! お姉さん、医者だろ! お姉さんがちゃんと薬を飲ませてたら、母さんが死ぬこと、なかったじゃないか。あんたのせいだ。あの、爺さんにしたって、みんな、あんたのせいだよ!」
「流行病? ち、違うよ! あんたの母さんは自分で首括って……あれ? 違う、あたいはさっきあんたの母さんと会ったばかりなんだ。ああ、違う! 違うんだよ! あたいに、手紙が届くんだよ、手紙が届くんだ」

 それから暫く、お姉さんは頭を抱えて、手紙が届くんだ、と、それを繰り言にした。その時の僕が、そんな様子のお姉さんにかけられる言葉といえば、「あんたのせいだ」なんて言葉で、お姉さんから返ってくるのは、「あたいのせいじゃない」なんて言葉と、「出ていっておくれ」という言葉のみだった。
 僕は家に帰るのが嫌でたまらなく、夜が白むまで里を徘徊した。そのときの発見といえば、鈴奈庵の開店の早さだ。詳しい時間はわからないが、道に人の歩かないことから、相当に早い時間だったと思う。
 僕はそのとき、鈴奈庵で借りた本を持ったままでいたから、大人たちに押さえつけられた際、本を土で汚してしまったことを詫びるついでに、それらの本を返却しようと考えて、鈴奈庵に入った。
 入って、まず本を汚してしまったことを詫びると、小鈴さんは笑って許してくれた。だからついでに、僕は小鈴さんに告白をした。
 ――小鈴さん、僕と付き合ってはくれませんか。母さんが死んだんです。
 こんな具合に。
 当然、断られたので、僕はアガサクリスQの新刊以外を返却して、貸本屋を後にした。



 あれから、しばらくの時間が流れた。母さんの居ない生活にもすぐ慣れた、というより、料理や家事全般は、元々僕の仕事だったから、あまり、変わりはなかったかもしれない。
 今日は寺子屋を卒業する日で、卒業式の終わった僕は気まぐれに、お姉さんの家に出向いた。里の白昼は相変わらずに平和で、川辺のせせらぎにしたって春だった。けれど、お姉さんの家に着いても、お姉さんの姿は見当たらず、どうやら、どこかへ引っ越してしまったようだった。
 代わりに、長屋に備え付けのテーブルの上には一枚、封筒が置かれていて、それはどうも、僕宛の手紙だった。僕はいま、長屋を出て川辺を離れ、桜並木の端に座って、その手紙を眺めている。

 ――拝啓、左くんへ。
 あたいはどうやら、あんたにいろいろ、謝らなくちゃいけないらしい。何故ってそれは、あんたにいろいろ、嘘をついていたから。
 まず、あたいの名前は小野塚小町。種族は死神。医者じゃない。
 あんたが、お姉さん医者か、なんて聞くもんだから、あたいもうっかりその気になっちまってたよ。いや、どうも、最近はぼんやりしちまっていてね。春だからかな。まあ、あんたの言う通り、あたいはどっか抜けてんだな。
 死神、なんて言われてもピンと来ないだろうから、まあ、あたいの今やってる仕事は引率、舟渡しってやつさ。死んだやつを舟に乗っけて、例の川を渡らせるんだ。これもなかなか大変な仕事でね。やれ死にたくないだの、降ろさないでくれだの、人殺しだの、やつら的外れなことばかり言うんだよ。
 でも、あんたの母さんはまともだったね。舟を降りるまでずっと、あんたのことを心配していたよ。
 あの子は本ばかり読んで運動なんて全然やらないから、私みたいに病気で死んでしまうんじゃないか。なんて言ってね。
 とにかく、あんたもっと外で遊ぶことだよ。お友達と仲直りしてさ。舟を降りたがらなかったり、往生際の悪い的外れなやつってのは大概、本ばっか読んで死んだやつなんだ。
 あんたと次に会うのは暫く先になるとは思うが、そのときにさ、恨み言ばっかり聞かせないでおくれよ。出来れば、あんたには笑って舟を降りてほしいって、そう思ってるんだ。
 まあ、それじゃあね。

 手紙に書かれている内容の真偽は概ね分からずじまいで、お姉さんは未だ、奇妙なユウジョウゲキを僕に期待しているのではないかと邪推してしまう。
 けれど、一つ明らかに不自然な箇所がある。
 それは、首を吊って死んだ母さんが、遺言の一つも残さずに死んだ母さんが、果たして僕のことを心配するなんて、有り得るのだろうか。ただ一つ分かったのは、今現在視界に映るすべてのものに、理由なんて無いということ。
 白んだ陽射しも、桜の木々も、舞い散る淡桃の花弁も、楽しそうな人々も、賑やかな喧騒も、屋台の匂いも、捨てられた串に群がる蟻達も、目付きの悪い犬も、それらすべて、誰のせいでもない。
 往来のど真ん中に立つ桜の大樹はつけた花弁の殆どを散らせて、春の宙を彩っている。行き交う人々も、立ち止まって眺めている人も、座って酒をやってる大人たちも、みんな、一様に桜を眺めている。
 僕がそろそろ行ってしまおうと思い立ち上がると、不意に、側方から声をかけるやつがいた。
「門じゃないか。お前が花見なんて、意外だな」
 聞いた瞬間、知能指数が下がったことから察するに、声の主は左だろう。僕は向き直ることもせず歩き始める。
「左、お前こそなにしてるんだよ。式が終わったら親の店手伝いに行くなんとか、言ってたじゃないか」
 いやあ退屈でさ、なんて宣って、左は勝手に僕の隣を歩く。
「……なあ門。お前、アガサクリスQの新刊読んだか? 今回は凄かったぞ。まさか犯人が……」
 僕は頭を引っ叩いて左を黙らせた。こいつは本当に学習能力のないやつで、何度言っても、新刊の内容を聞きもしないのに教えてくれる。ぶち殺してやりたくなる。
「左。そんなことよりさ、僕、少し前に変なお姉さんと仲良くなったんだよ」
「なんで俺に紹介しないんだ? お前、やってることおかしいぞ」
 僕は左を無視して続ける。
「それでさ、そのお姉さんが変っていうのも、この、桜があるだろ? この桜がさ、灰色に見えるって言うんだよ」
 言いながら、桜の大樹に首を向けると、左も僕に続いた。
「左、あの桜。お前には何色に見えるよ」
「何色って、そりゃ桜色だろ。灰色に見えるだなんてその女、ちょっとおかしいぜ。やっぱ、紹介してもらわなくていいや」
 左の軽薄な言葉に、僕は思わず笑ってしまった。何故なら、僕の視界の端にはお姉さんが立っていた。お姉さんは僕に気付いていない様子で、初めて会ったときと同じように、盃を構えて、桜の舞う宙を見上げている。お姉さんあんた、酷い言われようだよ。

「そんなことより門よ。俺、面白い遊び考えたんだよ。……河童の倉庫のさ、トルエンを盗りに行くんだ。……まあ、臆病なお前はきっとついてこないだろうけどさ」
「いいよ、行こうじゃないか」
「え」
「左、言い出しっぺはお前だからな。今更冗談でした、じゃ済まさないぞ」
「いや、で、でも」
「まずは腹ごしらえだ、団子を買うぞ! 何やってんだ、さっさと走れよ!」
「あーちくしょう! 俺、まだ死にたくないよぉ!」

 左より先に駆け出した経験はこれまでなかったけど、思いのほか気持ちがいいもんだ。振り返ってみると、心底嫌そうな顔をして追いかけてくる左がいて、視界のもっと奥、端の方にはやはり、お姉さんが立っていた。お姉さんは相変わらずにぼんやりと宙を見上げているから、僕は一つ、心の中でお姉さんに尋ねてみた。

 お姉さんの桜は、相変わずの色ってわけ。

 なんてさ。


   蔦巻くところ


 私は是非曲直庁の指令で賽の河原に来ていた。
 川の両脇は藪に囲まれており、川辺に敷かれた大小歪な石ころの隙間からは妙な草花が蔦を伸ばしている。
 私は大きく息を吸い込んだ。すると、むせ返るほどの自然の臭気が肺一杯に広がる。それを短く吐き出し、空を見上げた。
 空、とはいえ、賽の河原の空には雲すらなければ太陽も無い。なんにも無い深い灰色が広がっているのみである。
 本来なら賽の河原での業務は木っ端の鬼たちの仕事なのだが、堕落した鬼の無断欠勤により穴が空いた。その埋め合わせが私に回ってきたというわけだ。
 是非曲直庁所属の鬼たちは堕落している。
 是非曲直庁はその昔、地獄を管理下に置くため、地獄の制圧を始めた。その際、地獄の主な戦力は鬼だったらしい、が、鬼たちは元来の楽観的、或いは刹那的な気質から統率を乱し、是非曲直庁の制圧をやすやすと許した。
 しかし反発する鬼も居た。或者は地獄から逃れ、或者は是非曲直庁の制圧に抗い敗れ、或者は何処かへ身を隠した。
 ともかく、大多数の鬼は殺されるくらいならば、と、是非曲直庁へ寝返った。
 そういった経緯や鬼元来の気質から、直丁への勤務、業務を全うにこなす鬼は少なかった。
 そんな鬼たちはこの“河原に赴き積んである石を小突く”業務すら面倒らしい。
 とはいえ、かくいう私も賽の河原での業務が苦手だった。
 遠方に視界を遣り目を凝らせど、灰色がどこまでも延々と続いていて。蔦を巻く草花や灰色の空は、私を陰鬱な気分に至らせるのに十分だった。
 されど、業務は業務と、私は歩みを続けた。
 草履を履いた私のつま先に当たる川辺の石ころ達が私の陰鬱な気分に拍車をかける。
 しかし、私はこの気分が特に嫌いというわけではなかった。
 死神などという種族に生まれ、是非曲直庁に所属し、こんな業務にあたる暮らし続けていると、こういった“陰鬱さ”が、感情の基盤と化してくる。それを長く続けると、この陰鬱さにどことない安心感を覚えるようになる。
 それを人里の酒場等で人に話すと、それはいわゆる異常な“鬱”の状態なのではないかと問われることがある。
 しかし、これは人間でいうところの“鬱”の状態とは少し違う。私はこの世の諸行無常を楽観的な視点を以て享受している。私にとって正常な状態というのは、世の無常を程よく楽しみ、程よく憂うことを差す。
 私にとって陰鬱さというのはただそれだけのことだった。人より少し、元来の気質的に楽観主義が過ぎるだけなのかもしれないが、ともかくとして、私にとって陰鬱な気分というものを否定的に捉えてはいなかった。
 しばらく歩くと、少し遠くの方に濃い灰色の靄を見つけた。
 灰色い靄は人間の子供の体を曖昧に縁取っている。靄は屈んで、石を積み上げているようだ。すでに高く積まれた石は新たな石を積み上げるたびポロポロと崩れる。しかしそれでも、靄は石を拾い集めては積む。それをやめることはなかった。
 私は深く息を吸い込み、短く吐き出して、靄に近づいた。
 近づくと、靄は私に気がついたようで、ちょうど“頭”の部分をこちらに向けてくる。
 頭の部分には黒い発疹のような斑点が無数に浮かんでおり、そのうちの一つが歪に形を変えた。靄は斑点の一つはどうやら口の形に変えたようで、口を模した斑点で私に声をかけてきた。
「おねえちゃん。みて。わたし、こんなに石を高く積めたんだ!」
 その声は甲高い少女の声だった。
 私はその声を無視し、足元に積み上げられた石を大鎌の柄で小突き、崩した。
 すると、靄は無数の黒い斑点をきょとん、と、させて私を見つめるのだった。
 きょとん、とした視線も無視して、私は踵を返し賽の河原の出口へと向かった。
 しばらく歩き、出口付近まで来た。ふと、背後から視線を感じ振り向くと、そこには靄が立っていた。先程と全く同じ、きょとん、とした視線を、私に向けている。
 付いてきたのか。全く。
 靄の足元には、私が先程崩したまんまの石がこれ見よがしに散らばっている。
 私は一つ息を吐き、少女を曖昧に縁取る靄に向けて言葉を発した。
「付いてきちゃあいけないよ。そのくらいのことはわかっているんだろう」
 すると、靄は口を模した斑点を三日月のように広げて、また石を積み始めるのだった。
 そうして、私は賽の河原を後にした。

 それから数日が経ち、私は人里に来ていた。
 私にとっての所謂“通常勤務”のためだった。
 私は木造の小さな住居に群がる喪服を着た人々を遠巻きに見ていた。
 そんな私に、声をかけてくる人物があった。
「あのぅ、私は死んでしまったのでしょうか。いや、恐らくはそうなのだろうけど、彼らに声をかけても反応がないものでねぇ」
 おずおずといった調子で声をかけてきた人物は、あちらで執り行われている葬儀の主役。老年夫婦の片割れらしい男性だった。
 執り行われている葬儀の最中、棺桶に引っ付いて、そこから離れずにしくしくと泣きじゃくる老婦人を見つけていたので、それが分かった。
「あぁ、あんたは死んだんだよ。ご愁傷様、とでも言っておこうか。まぁ、とにかく、私はあんたを連れて行かなきゃいけないんだよ。どこに連れて行かれるかは、概ね、察しが付くだろうがね」
 私がそう云うと、老人はやっぱりか、といった様子で頭を垂れた。
「はぁ、ではあなたが噂に聞く“死神”というものなのですね。こうなっては、仕方ありませんなぁ」
「……まぁ、付いておいでよ」
「あぁ、少しだけ待ってください」
 私が歩き始めると、老人は何か思い出した様子で声を上げた。
 老人は棺桶に引っ付いて離れない夫人に近づいていき、何やら謝罪の言葉を一言二言述べている様子だった。よくあることだ。
 長引かなければ良いのだが。そんなことを浮かべる自分に、少し気分が沈むのを感じた。
 意外にもすんなりと、老人は戻ってきた。
「終わったかい?」
 尋ねると、老人は静かに頷き、私に先行して歩き始めた。
 死人は自分の向かうべき場所をなんとなく察しているのである。
 少し沈んだ気分を振り払うように頭を振り、私は自身の業務を開始した。業務というのは当然、死者を“あの世まで引率する事”だ。
 私は老人の歩みより幾分早い歩調で歩き始めた。老人はときたま私に追いていかれぬよう、早足になって後を付いて来る。
 死者より早い歩調で引率すること。私の業務における規則の一つだ。
 私は時たま早足になる老人を見て“犬の散歩”という言葉を浮かべた。
 私はまた、そんな自分の思考を恨んだ。
 本来悲しむべきことも、この仕事をしていると、その悲しみにも慣れてきてしまう。
 結局のところ他人の生き死にに同情などする余地などない。と、頭が勝手に整理をつけてしまうのだ。その結果、あらぬ比喩が脳裏に浮かび、張り付く。
 私は息を深くため、短く吐いた後、自身の歩調を早めた。
 老人は殆ど駆け足になって、私に追従した。

 三途の川にて、私は、私と老人を載せた小舟をゆっくりと漕いでいた。
 中有の道を抜け、この川に至るまで、老人は一言も言葉を発することはなかった。
 おかげさまで、私は何も考えずに、ぼーっとしたまま業務をこなせていた。
 今回、川の幅はそれほどなく、私の業務はとりわけ楽な部類に入るだろう。
 それでも、私は胸中に湧き上がる陰鬱な気分をどうにか手放すまいと努めていた。具体的に云えば、賽の河原のこと等を頭に浮かべていた。死者を悼む気持ちを自身の日常の中に埋没させないためである。それは、世の無常を程よく楽しみ、程よく悲しむ、そのためには欠かせないことだった。
 私は半ば機械的に、賽の河原の景観やそこに在る“もの”を想像しては、眉を顰めた。
 すると、唐突に老人が口を開いた。
「いやぁ、私はね、それほど自分の人生をしっかりと考えて生きてきたわけじゃあないんですよ」
 どうやら老人は身の上話を始めたいらしい。これも、まぁ珍しいことではない。
 三途の川には小さな風すら吹くことはない。無風の川を、小舟がゆっくりと進んでいく。
「いやそのぅ、棺桶の前で泣いていた婦人がいたでしょう」
「あぁ、あんたが何か声をかけにいった婦人かい?」
「あぁ、実はあれは私の女房なんですよ」
「へぇ、そうかい」
 もちろん私はそれを知っていたが、あえて素っ気なく応えた。それも、業務の規則、その一つだ。
 私は元来話し好きの気質がある。しかし、規則は規則だ。自分にそう言い聞かせ、老人に悟られぬ程度に深く息をため、短く吐いた。
「女房と私は割合若い内に結婚しましてね。いやぁ、当時は何も考えずに結婚しましたよ。多分女房も同じだったんじゃあないですかねぇ。二人して、幸せになろう、なんてことを曖昧に考えていましたよ」
 へぇ、そうかい。と、私は揺れる三途の川面をぼんやりと見つめながら相槌を打つ。
「それでも、私達夫婦の生活は、なかなかに幸せというものからはかけ離れていました。いえ、仲が悪かったとか、特別貧しかったとか、そういうわけではないのですが」
「女房は、子供を欲しがっていたんですよ。そりゃあもちろん、私も子供が欲しかった。まぁ、よくある話で、子宝に恵まれない夫婦、というやつですよ」
 私とって老人の話は現在に至るまで、徹頭徹尾よくある話他ならなかった。
「それでも四十手前の頃、我々夫婦も子供を授かりましてね」
「へぇ、よかったじゃないか」
 私は老人の葬儀の様子を思い出しながら、相槌を打った。
「えぇ、えぇ。夫婦揃って、大喜びでしたよ。あぁ、ようやく幸せになれた、なんてねぇ。報われたような気持ちでしたよ。女房も私も、生まれてきた娘を一所懸命可愛がりました」
 私は話を聞きながら、やはり老人の葬儀を思い出していたが、どうしても記憶の中に老人の娘らしき人物を見つけられなかった。
 あぁ、そういう話か。老人は、私に何か、懺悔でもしようという腹積もりなのだ。
 それもまぁ、よくある話で。
「なかなかやんちゃな娘でしてね、お人形遊びなんかより、外で遊ぶのが好きな子でしたよ。……娘は体が弱くてね、医者の先生からも外で遊ぶのを止められるほどだったんですよ。外に出られず、そんな娘に、女房はたくさんの人形を買い与えました。退屈そうに人形で遊んでる娘が不憫でねぇ。それでも、娘は時たま、私や女房に内緒で外に出ようとするんです。しかし私は仕事の都合上、いつも家にいるものでね、娘が内緒で外に出ようとするところを発見してしまったんですよ。それ以来私は、女房やお医者さんには内緒で、娘を外に連れ出して、遊んでやりました」
 小舟はそろそろ岸に到着しようとしていた。
「……私が娘を連れ出すようになってから間もなく、娘は死んでしまいました。それからというもの、私は自分を責めない日はありませんでした」
「……私はやはり、地獄へ送られるのでしょうか」
 私は老人の話を聞く最中、老人に対して同情の念が浮かぶのを感じたが、老人の最後の一言を聞いた瞬間、私の頭の中には“不徳”の二文字が浮かぶのだった。
「さぁ、わたしにはわからないなぁ」
 先の葬儀、棺桶の中の老人が縊死体であることを、私は知っていた。
 そうして小舟は、岸へとたどり着くのだった。

 それから数週間が経ち、私はまたしても三途の川にて自身の業務をこなしていた。
 小舟の上には私と、どこか見覚えのある老婦人が乗っていた。
「おどろきましたよ。まさか本当に“死神”さんがいらっしゃるなんて。三途の川も話で聞いたとおりの場所ときたものだから。驚いちゃった」
 老婦人は、ふふふ、と上品に笑う。
「ははは。話で聞いたとおりかい。驚いてもらえて何よりだよ。それとも、驚かせてしまってすまないと言ったほうがいいかな」
「いいのよ。それに、そこまで驚いてるわけじゃないの。覚悟してこうしたんだから」
 私が業務を開始するべく人里に赴いた際、老婦人は縊死体となった自身の体を物珍しそうに見物していていた。私はそんな老婦人に声をかけ、引率を開始したのである。
「でもやっぱり、私は地獄に落ちるんでしょうねぇ。自分で死んじゃうと、そういうことになっているんでしょう?」
 かくいう老婦人の顔に不安の色は見受けられなかった。
「さぁ、私にはわからないよ」
 私は、相変わらず何も映さぬ川面を見やり、いつもどおりの返答をした。
「まぁ、気を使ってくださらなくてもいいのよ。私、それなりに自分の人生に満足してるんだもの」
「へぇ、そうかい」
「えぇ、若いうちに結婚してね、子供だってできたの。女の子でね。お人形遊びが好きな子だったわぁ。主人は外で遊ばせたがってたみたいだけど。もともと体の弱い子でねぇ、私がお人形を買ってやると、それはもう喜んだんだから」
 ……。
「でもね、そのうちに娘は死んじゃったのよ。まだ十いくつだったのに、ふふふ。先立たれちゃったの。それでもね、私は自分の人生に満足してるの。幸せだったって言えること、たくさんあったのよ」
「そうかい。それは、よかったねぇ」
 今回も川の幅は狭く、小舟はもうすぐに岸に到着しようとしていた。
 私は一つ息を吐き、小舟を岸につけるのだった。

……。

 またしても鬼の無断欠勤により勤務体制に穴が空いた。やはり埋め合わせは私に回ってきて、私はまたしても賽の河原に来ていた。
 川辺は藪に囲まれており、敷き詰められた石の隙間からは草花が疎らに蔦を伸ばしている。
 空を見やれど、そこにはやはり何もない。太陽もなければ雲すら浮かばぬ空を見て、私はまた、深く息を溜める。
 肺いっぱいにむせ返るほどの草花の臭気が広がり、それを短く吐き出した。
 草履を履いた私のつま先にコツコツと当たる石を多少不快に感じつつ歩みを進めると、そのうちに濃い灰色の靄が少し先の方に見えてきた。
 靄は曖昧に人間の子供の形を縁取っている。
 靄の“頭”の部分には発疹のような黒い斑点が無数に浮かんでおり、私が近づくと、靄はその無数の黒い斑点で私の方を見据えるのだった。
「おねえちゃん。まってたよ。みて!こんなに石を高くつめたの」
 靄は斑点の一部を口の形に変化させ、甲高い少女の声で私に話しかけてくる。
 私はそれを無視して、足元に積まれた石を大鎌の柄でこつん、と小突き、崩した。
 すると、靄は無数の黒い斑点をきょとん、とさせて、私にその視線を向けてきた。
 私はその視線を無視して、踵を返し、賽の河原の出口へと向かった。
 出口へと向かう最中、靄はやはり私に付いてきているようで、敷き詰められた石を踏みしめて歩く私に、しきりに声をかけてくる。
「ねぇ。みて」
「おねえちゃん。みて」
「ねぇ。聞こえてるんでしょ」
「ねぇほら。石。みて」
「みてってば」
 その声はやはり甲高い少女の声だったが、靄が言葉を発するにつれ、それはだんだんと無機質な、男とも女ともとれぬ声へと変わっていった。
「おねえちゃん。みて」
「みて。石」
「おい」
「石。みて」
 ああ、まったく、いやになるよ。

「無視してんじゃねぇよ」

 私は振り向いて、靄に鎌を振り下ろした。

 その後、私は謹慎を受けた。
 賽の河原では積まれた石を崩す以外の干渉は禁じられている。それを破ったことが謹慎の理由だった。
 しかしながら、思いもよらぬ久々の休暇を手に入れた私は、人里に在る行きつけの飲み屋に来ていた。
「なぁ聞いてくれるかい。ひどいんだよ、うちの上司はさぁ」
 昼も半ばにして、私は酒を飲み、管を巻いているというわけである。こんなに有意義な休日の使い方はない。私は上機嫌で話し続けた。
「だいたいさ、空いた穴を埋めるために慣れない仕事をしてさぁ、それをちょっとばかりミスったからって、謹慎だなんて、おかしい話だろう?人使いが荒いとか、もはやそういう問題じゃあなくなってきてるよ、なぁ、そうは思わないかい」
「あぁ、そうだねぇ」
 そう答えるのはこの飲み屋の看板娘だった。というのも、それは、初めて会った頃の話で、かつての看板娘も、今では専ら婆さんだ。
「しかし、婆さんもしばらく見ないうちにまた老け込んじまったねぇ」
「ふふふ。小町ちゃんは変わらないわねぇ」
「えー?」
「小町ちゃん、店に来る度におんなじこと言ってるんだもの」
「ははは、そうだったかな。そいつは悪いね。それよりさけを追加だよ。今日は飲むぞぉ」
「昼間っから顔を赤くして、景気のいいこと」
「休日が少なくてねぇ、金ばっかり溜まっていけないよ。全く。婆さん、今日はとことん話を聞いてもらうからね、覚悟しておくれよ」
「はいはい。いくらでも聞きますよ」
 そうして私は、酒をかっくらい、普段の鬱憤を晴らすように管を巻き続けた。

 婆さんの顔には死相が浮かんでいたが、私はそれを見なかったことにした。


  鵺似、有、塩味。


 外に出ると、雑木林の中だった。冷たい空気を吸い込めば少し悲しくなったから、きっと、冬の終わりだろう。
 木々の間、遠く山の端を照らす月は、なんとも言えない笑みを浮かべて、薄い雲を纏っている。あたしは嘘を宙に浮かべて、嘘の上に、両手をついて座り込んだ。
 そこから山がよく見えた。所々に溶け残った雪を月明かりが優しく照らしていた。綺麗な景色とは言い難いけど、こんな夜にはぴったりだ。
 ああ、あたしの座るこの嘘は、人からどんな風に見えるのだろう。一つ息を吸い込めば、悲しいような、寂しいような。ただ言えるのは、なにが悲しく、寂しいのか、判然としないこと。それがいっとう悲しく、寂しかった。
 だから、嘘についたこの両手を、少しずらして滑らせて、ここから転げ落ちたなら、なにかが変わる。そんなふうに、思った。

   序

 地底の空気は重い。閉塞感で満ちてる。岩肌に生えた苔も気色悪い。影が落ちて、どこもかしこも紺色だ。でも、この空気がなんとなく落ち着くのは、元来の私ってやつに、起因してるんだろうね。
 旧都へと向かう裏道は、片側の端にロープが張られてるだけの断崖で、どうも、不安になる。落ちて死んだやつも少なくないはず。岩肌も、こんなに湿ってるわけだし。当然、裸足で歩けばひたひたって音が鳴るわけだけど、その音を鳴らしてるのは私じゃない。隣を歩く、釣瓶落しだ。
 思えば、こうして自由に出歩くってのも新鮮だ。閉じ込められてる間はこうはいかなかった。目の裏側、だだっ広い牢屋と一緒に浮かぶのは一輪と雲山と船。あー、思い出すだけで、胃がムカムカしてくる。だけど、吹き出した間欠泉に乗って地上に出たときの爽快感を思い出せば、忌々しい記憶もそれほど悪くないような気がしてくるから不思議なもんだ。あのときの一輪の顔ったら見ものだったな。聖のところへ行こうなんて、悪い夢から覚めたと思えば、また次の夢を見始めた。寝ても覚めても仏々仏々。どうにも、乗り気になれないね。あんな船は、壊れたまんま、直らなけりゃいいんだ。
「ねえ水蜜。わたし最近、考えてるんだけどさ」
 キスメの声はいつ聞いても無作為だ。どーせなんも考えちゃいないから、その点、耳にやさしい。
「人間が人間を食べていいのってさ、どんなときだと思う?」
 決まってる。善良だったって邪悪だったって関係ない。殺したけりゃ殺せばいい。そうでなきゃ、わざわざ地底に戻ってきたりしない。
「うーん、どうだろう。難しいな」
 しかし心とは難しいもので、どういうわけか、口が動く。恥ずかしいやつだね、私もさ。
「やっぱり、あれじゃないかな。皿の上のそれを、人肉だと知らなかったとき」
 我ながら腹が立つ。地底に降りてからずっと、こんな調子だ。一輪のせいだ。あいつが、仏々仏々、うわ言みたいに繰り返すから。
「えーと、じゃあアレ? 水蜜は人が人を食べるのは、通常許されないことって思ってるわけ?」
「いや、そういうわけでもないよ。ただ、それを話すとちょっと難しい話になるんだけど」
 あー、なんだかな。
「難しい話? じゃあ、いいや」

 なんか、やなかんじ。

   序々

 キスメが無作為で助かった。無作為なんてのも上品な言葉かな。単純とか、バカとかのほうが、それっぽい気もする。ときたま眉間に皺作って、なにか睨んでるように見えるけど、その実なんも見ちゃいない。込み入った話になったら面倒がって話をやめる。だからかな。キスメが友達多いのって。なんていうか、一緒にいると安心するから。
「わたしはご飯食べてくるけど、水蜜はどうするの?」
 気づけば旧都の目抜き通りだ。相変わらずに汚い。入口付近は特に。ザ・貧困層のメッカって感じ。老いも若いも正体不明の惣菜を求めて、うようよとしてる。
「あー、私はちょっと」
 しかしすでに慣れ親しんだ汚さだ。何がどうあっても、あんな牢獄より酷い場所はない。でも、目的地はここじゃない。
「わかった! 水蜜ってば、またあの男のとこに行くんでしょ! もう、どこがいいのさ、あんなのの!」
「いやぁ、ははは。みんな言ってるじゃん。いいやつだって」
「えー。たしかに、みんないい人だって言ってるけどさー。でも、ヒトだよ? せっかく地底に落ちてきた人間は殺していいことになってるのにさ。水蜜さえいいって言ってくれれば、わたし、いますぐにでも頭かちわりに行くのに」
 地底に落とされるような人間がいいやつなわけがない。折り目正しい好青年? 姿勢も正しく顔も良いとくれば、色情狂に違いないね。即席の恋をするにはぴったりだ。抱かれて抱いて暴いて殺す。想像するだけで溺れ死にそうになる。キスメになんか渡してたまるか。
「悪い癖だな、誰彼構わず殺そうとするの」
「水蜜だっていちおー妖怪でしょー? ないの? 誰でもいいから殺したい、って思うこと」
「ないわけじゃないけどさ」
「もう! いいよわかった。じゃあ殺してもいいよって思ったら、すぐに言ってよね」
 約束だよ、なんて付け加えて、キスメはひたひた走っていった。友達多いし、待ち合わせでもあったのだろう。さて、私はどうしたものか。

 旧都の路地は黴臭い。お誂え向きに湿ってる。道を縁取る旧びた木板も、ところどころに水の張った地面も、ぬらぬらと照っている。男の住居はそんな入り組んだ路地にあった。
「左くん、いる?」
 ノックをして呼びかければ応答があり、二、三分経って慌ただしく戸が開く。とすれば紋切り型の、醜悪な美辞麗句だ。お次に私のおててに手をかける。気持ちが悪いので気付かないふりでやんわりと拒んで、路地を抜ける。そうすればまた、目抜き通りだ。
「焼き魚がいいな」
 男の質問に答えながら通りを歩く。飯代はそれ目的と思われないよう、奢らせたり、奢らせなかったりだ。もっとも私は金なんて持っちゃいないから、よくキスメに借りる羽目になる。あいつも、どこからせしめたか、幾分金を持っていた。金といえば怪訝なのは男だ。人間のくせに、随分と持ってやがる。どうせ遊郭あたりのバカな女からせしめた金なんだろうけど、それにしたって随分だ。思えば、家にしたってそうだな。人間があんな立派な家に住めるのだろうか。ああ、それも、バカな女の家かもしれない。家に誘われるときと、誘われないときがあるから、なるほどそういうわけだったか。
 そういや、誘われないときは手すら繋ごうとしない。逆に繋いだ日は絶対誘われた。ああ、なんて露骨なんだろう。同意のサインってわけだ。道理で、手を繋いだ日に家に行けばやけに積極的だった。でもダメだな。焦れて襲ってくるぐらいじゃないと。そうして初めて本性を暴けるんだ。そのときに下手くそ、とか、馬鹿な顔、とかなんとか言って、そのあと優しく抱いて、溺れさせる。なにもわからなさそうに脈打って、死んでいくってわけ。自分で言うのもなんだけど、こんなに美しい殺し方ってのもなかなかない。娯楽の頂点みたいなたのしみだと思う。いやあ、やっぱり、楽しみだなぁ!
 水を差すように男が口を開く。入る店を見つけたらしい。曰く、ここは美味しいんだよ。どうして男ってのは見栄を張ろうとするのか。男はきっと、入ったこともない店を美味しいと宣った。間抜けだよね、ここは以前、キスメと入ったんだ。腰が抜けるほど不味かった。なんだか米が妙に不味い。おかずはそれなりにいけるんだけど。それにしても、ああ、見ものだな。食ったらこいつ、どんな顔するのかな。

 あれおかしいな。意外と美味そうにしてやがる。焼き魚定食は最低だ、食べれば必ず顔にでる不味さだ。なのに、パクパクパクパク、随分と流暢に食べる。私の口から、ほとんど初めて、興味本位の質問が飛び出せば、即座に後悔した。曰く、母親の味に似てるとかなんとか。口元を綻ばせたりなんかして、嘘をついてる様子はない。聞かなきゃよかったと、そう思う。今にも、自分のこさえたまだるっこしい手順を飛ばして、こいつを殺してやりたくなった。
 あー。私は人が飯を食べてるところを見るのが嫌いだ。パクパクパクパク、不味い飯頬張りやがって。なんていうんだろう、人が生きようとする醜い意志、三大欲求? 結局は、性交渉と変わらない。こいつは性欲を解消するのとおんなじに飯を食らってる。人間なんて米と汁、少しの野菜で露命を繋ぐように生きてりゃいい。それ以上は欲深い。ましてや大盛りなんて! あーやっぱり、私はいますぐにでも、こいつを殺してやりたいのだ。

 半ば強引に殺意を回復させているうちに皿は空いて、会計の段となった。苛立ちの募るやり取りを交わし折半で店を出れば、通りを行き交う往来がぐちゃぐちゃとする。
 ふと、考える。こんなにたくさん人がいるなら、一人ぐらい居なくなったってバレやしないだろう。考えてるうちに、行き交う往来に、こちらを見つめる視線に気づいた。一つは笑顔で手を振るキスメのものに違いないが、もう一つある。知らないやつだった。妖怪だ。奇妙な羽を持っている。キスメと違って、そいつの笑顔は笑顔というより薄ら笑み、含意って額縁にぴったりとはまる薄ら笑みだ。妙に、不愉快だった。
 誰だろ、あいつ。
 不快な視線の主に睨み返していると、男が口を開く。よかったら家に来ない? 行くわけがない。即座に拒否し、半ば追い返すように男と別れた。キスメたちはどうやら歩きだしてしまったらしい。でも、まだ遠くには言っていないはず。奇妙な羽、気色の悪い笑みが気になって、気づけば早足で往来を縫った。

 通りの人混みをかき分けれて進めば、背中はすぐに見えてきた。二人の話し声が聞こえてくる。
「そうだ、ぬえ。わたし最近、考えてることがあってさ」
「へー。考え事なんて、珍しいじゃん」
「えー。そんなことないよ。まぁ、それでね。人間が人間を食べていいのって、どんなときかなー、って」
 ぬえ、ってのか。何か腥い口調だ。褒め言葉に変換すれば軽妙ってところかな。でもやっぱり、いかがわしさが濃い。
「そりゃ、やっぱりアレでしょ。皿の上に載せられたそれを、人肉だと知らなかったとき」
「え、うそ! ……じゃあさ、じゃあさ。ぬえは人が人を食べることは、通常許されないことだ、って思ってるんだ?」
 ぬえ、ぬえ、鵺。知ってるぞ。
 頭は猿似、欲妊み。誰でも襲える便利な手足、虎に似て。中途半端に化ける胴、おまけ程度に尾を蛇似。結局あんたは何組か。正体不明の化物也。其れ即ち、鵺っちゅう妖怪。
 なるほどね。やつはなかなかどうして、鵺そのものだ。
「いや、そういうわけじゃないけど。ただその話をすると、ちょっと難しく――」
「あはは! すごい! ぬえってば、水蜜と一緒のこと言ってる!」
「え? ああ。じゃあそいつはきっと」
「あ、水蜜!」
 ああちくしょう。キスメめ、いいところで気が付きやがった。
「今ちょうどね、水蜜のはなしをしてたんだよ。ね、ぬえ」
「あー……あんたさっきの……」
 怪訝そうな面持ちは一寸と持続しない。やつはすぐに合点がいった様子で目を細める。口元も緩んで目も細めば、全身舐め回されてるような心持ちになる。口内、正体不明の化け物味がした。
「水蜜っていったよね? ねえ、水蜜。あたしたち、なかなか気が合いそうじゃん」
 うう、きもちわる。なんだろ。
「そうかな」
 あー、わかった。こいつ、敵。

   一 鵺似 有、塩味。

 洞窟の外で猫が恋人を取り合っている。吹き込む風は生暖かく、私の足元を舐めていく。
「ダウト」
 キスメの住居だ。岩壁には白いロープが張り巡らされて棚代わりの桶が括られている。何から何まで桶だ。テーブルだけは普通かと思いきや、よく見りゃ桶だ。キング桶って感じ。いや、桶キング?
 対面睨めば鵺が腰を下ろしてやがる。視線を逃がしゃあでましたキスメ。鵺の一声でテーブルの上、疎らに重ねられたトランプが、すべて私のものとなる。アホか。なにからなにまでキスメの提案だ。せっかくだし三人で遊んでみようよ、だとか、トランプぐらいしかないけど、だとか。なんにせよこれは三人でやるゲームじゃない。互いの手札が判然とする時点でおかしいんだ。私も私で、どうして参加しちゃったんだろ。ばか!
「A。それで、水蜜。さっき一緒に居たあの男だけど。あれ、どうするつもり?」
 私のKを暴いた鵺は相変わらず、ニヤニヤ、ニヤニヤと、実に不愉快だ。愉しそうにしやがって。
「2。水蜜はね、あの男と仲良くしてるんだよ。いいやつだからってさ! 変だよね、人間なのに!」
 キスメは無作為だ。こういうときに好き勝手喋られるとヒヤヒヤする。こんなつまらない遊びに、私がどうして参加したと思ってるんだ。拒否しないために参加したんだぞ、私は。
「3。それよりこのゲームさ、全然、終わる気配がしないんだけど。ほんとに三人でやる用のゲームなわけ? ほかに、もっとこう、ないもんかな」
「4。まあまあ、おしゃべりの手慰みにはちょうどいいじゃん。なんかさ、トモダチ、って、感じがしてさぁ……で、どうなの、あの男のことは」
 なんてわざとらしい口調なんだろう。どうやったらこんないかがわしい喋り方に至ってしまうのか。詐欺師の子なのか? かわいそーなやつ。
「5。まぁ、でも。わたし、水蜜のことちょっとわかるかも。なんかさ、まわりの子たちがいいやつって言ってると、いいやつなんだ! って思ってさ、仲良くしたく、なるよねー。なるなる」
 あまりにもな薄っぺらさにキスメの顔を思わず見やれば、キスメのおめめは手札のカードに釘付けとなっていた。ゲームに集中してくれるのは結構だけど、ほんとにアガれると思ってんのか? かわいそーなやつ。
「6。キスメは適当だなぁ。だけど、概ねそんなところだよ。あの人間と付き合うのはさ」
 えー。って言葉、この声で聞くのはもう何度目だろうか。キスメのそういうバカっぽい発音を考えるだけで心が凪ぐ。船に乗せりゃ航路も凪ぐかも。さて、概ねなんてのは便利な言葉だが、鵺のやつはどうでるかな。
「7。概ね、なんてまた上手にはぐらかすね。なんだろ、後ろめたいことがあるのかな。だからそんなに、隠したがるって、そういうこと?」
 やっぱりやなやつ。他人に自分を決めつけられるってのはどうも不愉快だ。人間に恋する純真なやつなんて思われたくないし、人殺しをやめられない純粋なやつとも思われたくない。特にこのニヤケヅラには、私のこと、なんもわかってほしくない。気持ち悪いもん。
「8。後ろめたいこと? なにそれ、ちょー聞きたい!」
 キスメのおめめは手札にくっついたまんまだ。
「あっ! そういえばさぁ! そういう鵺はなんで地底にいるのさ! だって、鵺ってあれでしょ? 大妖怪ってやつでしょ? なんで、そんな大妖怪ともあろう鵺様がさ、地底なんかで私達とトランプなんかしてるわけ? そっちのほうが気になるよ! なぁ、キスメ! ……ああ、9。ごめんごめん」
 地底にいる以上なんかあるのはお互い様でしょ。キスメともそんなに深い仲っていうふうにも見えないし、降りてきたのは最近なんだろうけどさ、私よりよっぽど不可解だよね。なぁ、キスメ!
「いやぁ、あたしはほら。気まぐれってやつ? 10。ほらキスメ、あたしもうすぐアガっちゃうよ」
 えー、うそくさ。そんなんでいいのかな。私にはあんだけしつこく詮索しといてさ。なんだろ、こっちの反応を伺ってるんだろうな。納得した顔しといてやるか、ふむふむ、って具合に、頷いたりなんかして。キスメはどうでるかな、追求してくれたら面白いんだけど、そうはいかないかな。
「ふふーん、ぬえはあと二枚でしょ? J! 残念でしたー! わたし、あと一枚だもんねー!」
 楽しそうでなによりだ。どうしようかな。ちょっと露骨な気もするけど、いいや。確認の一手といこう。
「Q。気まぐれねえ。じゃあ普段は地上なんかにも出るんだ? 私さ、こないだ一瞬地上にでてみたんだけど、すごいね。あの、湖のそばの、青い館はさ。あんなに目立つ建物、はじめてみたよ」
 あーちょっと。露骨すぎたな、やっぱり。目立つ建物、の部分が殊にまずかった。含意ありありって感じで、失敗したな、どうも。でも、これに対する返答で、鵺がどんなやつか、ってのが、だいたい掴めるはずだ。やっぱ、鵺だから、尻尾は蛇なのかな。ひー、おそろし。
「あー……。あれはたしかに、目立つな、目立つ。……K」
 あれ、意外。適当に誤魔化しゃいいものを、こんな素直に応えるなんて。とりあえず二つだ。一つ、鵺は地上にあんまり出ない。一つ、他人に、地上に出てると思わせたい。やっぱ、尻尾は蛇だね。結論、正体不明を気取りたいだけの、なにもかもが中途半端な妖怪。決まり。
「A!あがりー!」
 鵺の舌打ちが忌々しげで、心が踊る。タイミングを見計らおう。あー、今だ。
  「ダウト」
「……ダウト」
 ばっちり決まった。私の手元にAが三枚、もう一枚は鵺が持ってる。キスメのAは必然アウト。ゲームはさておき、なかなかに愉快だ。
「ふぁいなるあんさー?」
 あら地底住まいの桶妖怪にしては難しい言葉知っておりますな。感心しちゃうね、ふっふーんなんて指振っちゃって。カード捲れば恥かくぞ、ほらいまに。
「あ?」
「あれっ」
 鵺と声が重なっちゃった。はずかし。いやでも、どういうことだろ。
「残念でしたー! わたしは嘘なんかつかないよーだ!」
 テーブルの上、捲られたカードはAだ。
「ダウトはね、こっからが楽しいんだよ! 二人になると全然終わんなくてさ、ザ・泥仕合って感じで!」
 おかしい。ほんと、どういうこと? まず、私がAを四枚持ってて、一回全部鵺に渡って、それから三枚戻ってきたから、私に三、鵺に一、で合計四枚。キスメのAに対してダウトを発音したってことは、鵺の手元には確実に一枚あるはずだ。私が間違って切っちゃったかな。いや、ある。三枚ある。じゃあ、キスメのAが間違っているのでは? うーん、何度見てもAだ、そりゃ、見間違えるはずがない。とすれば、私の目がおかしいのかな。でも、鵺も驚いてるから、やっぱりAで、間違いない。
「ちぇっ、もういいよ。二人でやったってしょーもないじゃん」
 鵺が顔の横でパッと手を広げた。はらはら、はらはら、手札が落ちる。
「あーっ! ぬえ、カードバラまかないでよー!」
 キスメがせっせとカードを拾う。鵺がばらまいた二枚のカード、中には間違いなくAの姿があった。とするとやっぱり、キスメのAはありえない。えー、不思議。不可思議。不可解だなあ!
「ぬえってば大人気ないんだから! まったく! 水蜜も見てないで、なんか言ってよー!」
「あ、ああ、ごめんごめん。こら! ダメだぞ!」
 鵺は無視をする。頬杖をついて、なにやら、考え込んでいる。

「……あれぇ? なに、水蜜。ニヤニヤしちゃって。わたしに負けて、そんなにうれしい?」
「……いや、そういうわけじゃあ」
「……」
「じゃあなにが楽しくて笑ってるのさ!」
「別に、笑ってないったら」
「……」
「笑ってるじゃん笑ってるー!」
「うるさいな、はやくカード拾わないと、汚れちゃうぞ」
「……」
 鵺を除いて、私とキスメはえらく騒がしかった。キスメが喚けば喚くほど、鵺の沈黙は際立った。なに、考えてんだろ。鵺の表情は真剣そのものだ。なんだろ、拗ねてるようにも見えなくない。なんにせよ、まあ。いいだろう。今日のところは、こんなもんだ。

 旧都を離れ地底の深部へ下ると、道幅は広がり、天井も高くなる。その代わりに地底の何もなさが際立って、閉塞感はことさら増していく。しばらく歩けば寝床がある。
 キスメとやつとの憂いの夕食を終えたらもう、寝床に戻って眠るだけ。本当はほかに行きたい場所があったのだが、そこにいけばまた変なやつと会ってしまいそうで、やめた。
 広い空洞に響く私の足音は、私に孤独を与え続ける。となれば必然、脳裏に浮かぶのは連中のことだ。
 閉じ込められている間も、一輪は聖への帰依を止めなかった。何年も、何年も、聖を解放するとか、そんなことを譫言のように呟き続けていた。ああ、叫んでいたかもしれない。居ない神に祈る囚人ほど哀れな者はない。私は、一輪が喚けば喚くほど、聖の復活が現実から遠のいていくのを感じたっけ。何年続いたかな。覚えてすらいないが、とにかく間欠泉が噴き出した。
 地上に出て、一輪に連れられて星のとこに向かった。寺は荒れ果ててたし、星だってくたびれてた。鼠にしたってそうだったな。でも、一輪のやつ、そこでも喚いた。連中にはそれがどうにも効いたらしい。みんな、瞳を輝かせて聖の解放を謳い始めた。鼠は恐らく主人の回復を喜んでいただけだろうが、ともかく。私が地底に戻ると言ったときの、あいつの冷ややかな視線。あれはどうにも、辛辣だったな。実際。
 ああ、それにしても。
 鵺だ。あの、いけ好かない鵺。夕食を食べに洞穴を出れば態度は一変。胡散臭さの消えた口調はやたらに胡散臭かった。急に、友達みたいな話を振ってきたり、ああも不快なことはそうそうないね。しかも結局、話は遠回しになったばっかりで、それまでとさして変わりもない。やつの話す内容の殆ど詮索、情報収集に終始した。あー、適当に打った相槌のいくつかが不安になってきた。
 ああいうやつに、右往左往なんて言葉が似合う。正体不明なんかよりずっと、そっちのほうがそれらしい。あの場にキスメが居なかったら、刃傷沙汰になったんじゃないか。

「おっとっと」

 地面に生えた細い蔦に足を取られて、一寸、立ち止まり、耳を澄ました。
 おかしい。足を止めたはずなのに、足音が依然響いている。気がついた途端、足音が止まる。奇妙さを感じ振り返れど、そこには何もない空洞が延々と広がっているのみだった。
 ああ、もしや。
 嫌な予感が胸中に渦を巻くのを感じる。向き直ると、あまり見たくないものがそこにあった。
「ばあ!」
 私の眼前でおどけるそれは、一寸の沈黙の後やおら照れ臭そうに後頭部を掻いて、私と数歩距離を取る。
「……おねえちゃんは、あんまり驚いてくれないね」
 せっかく、こいつと会わないよう直帰したのに、結局会うんじゃ意味がない。
「おねえちゃん、今日は血の池地獄、行かないの? ……あ、待ってよおねえちゃん! 無視しないでよー」
「ねえ、今日ずっとおねえちゃんをつけてたんだけど」
 ああ、始まった。
「おねえちゃん、なんであの男の人と、仲良くするの?」
「みんないいやつだって言ってる」
「あなたはどう思ってるの?」
「うるさい」
「なんでそんなに冷たくするの」
「きらいなんだ」
「友達になりたいだけなのに」
「なりたくない」
「あの、ぬえってひともきらいなの?」
「そうだよ」
「あのひと、おねえちゃんになにかひどいことしたの?」
「……」
「あのひとも、おねえちゃんと友達になりたいんだよ」
「なりたくない」
「キスメちゃんとは友達なのに?」
「関係ないだろ。それにキスメは……」
「……キスメちゃんは、なに?」

 ああもう。
「うるさいな、あっちいけよ」

「あっちってどっち? ……あー! 待ってってばー!」

 そいつを無視して歩けば崩れた岩壁があり、無造作に転がる岩どもの前に虎柄のロープが張られている。私はそれを潜り、崩れた岩壁の隙間を進む。
「あっ、おねえちゃんダメだよ。そっちは怖い妖怪がいるって、昔、お姉ちゃんが言ってたの」
「私がその、怖い妖怪だよ」
 言いながら隙間を進んで、空間に出る。振り向くと、隙間の向こうにやつはおらず、どうやらやっと、諦めてくれたようだ。

 ともかくとして、この空間、私の寝床。広い空洞のすみに、編んだ藁が二、三枚。重ねて、敷かれている。藁を編んだのは、たしか私だ。そう、閉じ込められて間もない頃、子ネズミどもが藁を一本一本運んできたんだった。あー、そのころの一輪といえば酷いものだった。錯乱というか、なんというか。膝を抱えて腕に顔半分を埋め、壁やら床を睨むばかりだった。だから、私が仕方なく、子ネズミどもが一本ずつ運んでくる焦れったい藁を編み、寝床を作った。そういや、子ネズミどもはときたま、それと一緒に果物やなんかを運んできたな。一輪はそれに頓着することもなく岩を睨み続けてたっけ。私も、食事を摂ろうなんて気分にはなれなかった。けど、何もしない一輪の代わりに藁を編む対価として、不味い果実に噛り付いた。あー、子ネズミどもが来なくなったのは、いつ頃だったか。長い間来ていた気もするけど、来なくなってからの時間のほうが、よっぽど長かった気もする。会った時に確認すればよかったな。概ね、それらは星の指示だったんだろうし。まあでも、久々の対面で見たあの、呪いめいた疲弊の表情を鑑みるに、差し入れのストップは道理だな。けれど、それにしたってあの鼠。あいつはどうも、好きになれない。
 とにかく、一輪らが去ったおかげで、やつらの寝床は私のものとなった。薄っぺらな藁を何枚重ねたところであまり変わりはないが、まあ、以前より寝心地はいい。虚ろに仏々と唱えるやつもいないし。快眠には程遠いけど、随分マシになったかな。
 身を横たえようと藁に寄ると、その上に、なにやら手紙が置いてあった。手に取るまでもなく、その手紙は子ネズミどもが運んできたものだと理解する。
 手紙を拾い上げ折り目を開くと、そこにはただ一言、
『近々会いに行く』
 とだけ綴られており、胸中、樟脳味の倦怠が湧き上がった。
 手紙の主は言うまでもなく鼠で、その用事はおそらく船が直るとか、そこらへんの話だろう。ああ、果たして誰が会いにくるというのか。一輪はいやだ。あいつのことは嫌いじゃないが、あいつの、聖に対する恋慕に似た戯言を聞かされるのには、もう飽き飽きしてる。かといって星。あいつに来られても、困る。あいつは、なんというか、馬鹿みたいに真っ直ぐだ。しかし最悪なのはあの鼠だ。あいつのことは、どうも読めない。聖に対する尊敬も感じられなければ、毘沙門天に対してもそう変わらない。単純に星のことを好いてるのかと考えたこともあったが、あの鼠がそこまで純とも考えられない。
 でもきっと、なんとなく。鼠が来るに、違いない。
 私はため息を吐いて藁の上に身を横たえて、目を瞑った。
 十中八九、船の修理ないしは今後の計画の話になる。その際、私はどうしよう。私は人を殺したくてたまらないんだ。じゃないと、連中と別れて、地底に降ったりしない。しかし、船はきっともうじき直ってしまう。
 あー、あの男を殺そう。そうすれば、もういらんことを考える必要もなくなる。妖怪は、人だけ殺してりゃいい。しかしそうなると、怪訝なのは鵺だ。去り際、あいつはやたら左のことを知りたがった。あいつのことだ。きっとなにかしてくるに違いない。邪魔立てするってんなら、殺してやろうかな。
 あー、それがいいや。男も、鵺も、見つけ次第殺してしまおう。
 でも、もし鵺を殺したとして、それがキスメにバレたらどうなるかな。キスメ、あいつはきっと怒るに違いない。なんで友達を殺したの、なんて。キスメ、あいつは卑怯だ。馬鹿だから、卑怯だ。私は、人殺しを悪いとも思わないあいつが、大嫌いだ。

   二

 カレー。ない方がマシ味の飯を出すこの店には、カレーという食べ物があるらしい。珍しいもの好きの有象無象は、寄ってたかってそれを食べたがる。私は違う。しかしキスメは私を叩き起こして、この店まで連れてきた。無理やり。
「ねえほら、とっぴんぐだって。水蜜どうする?」
「私は、いいよ。何もなしで」
 品書きと言う名のボロ切れに釘付けとなって、キスメは私に問いかける。
「えび、ふらい。エビフライだって、わたしはこれをつけるよ」
「いいんじゃないか」
 特にこれといって添え物に惹かれることもなく、椅子に座って、じっと、カレーを待つ。そもそもキスメの金でものを食べるわけだから、添え物を望むのは傲慢というものだ。
「わ、もうきた。なにこれ! おいしそーじゃん!」
「こんなのがおいしいのかねぇ」
 そもそも、人間以外の我々が普通の飯を食らう時点で傲慢だ。我々は飯を食わずとも慎ましく、人さえ殺していれば生きていける。それをカレーライス? トッピング? 馬鹿げてる。
「どれさっそく、いただきまーす! ……水蜜、どうしたの?」
 しかし、添え物の有る無しでこうも見栄えが変わるものか。キスメの皿に盛られたカレーは、私の皿のそれよりも、なんだかとても豪勢に思えた。あー、欲深きは罪。欲深きは罪なのだ。私はキスメのそういった、浅ましい、無作為な、強欲さが、大嫌いだ。なにが、エビフライだ。なにがエビフライだ!
「……あのさ」
「だめ! あげないよ。そんなに物欲しそうな目するくらいなら、はじめから頼んでおけばよかったじゃん!」
 ああ、ちくしょう!

 どうしたって美味しいカレーライスの余韻を憎みながら店を出れば、通りは相変わらず塵芥どもで溢れかえっている。そんな中、キスメはどこへ行くともなく歩いて行くから、私は仕方なくキスメに追従した。
 大衆と苔と黴臭さに慣れるということはなく、眉間あたりに力を込めて歩きながら、私はキスメと別れるための口実を練っていた。そりゃそうだ。やることがないにしたって、私はキスメの本当の友達なんかじゃない。キスメがどう思ってるかなんて知らないが、私は、こいつを友達だなんて思っちゃいないのだから。
 ちょうどいい口実の浮かんだ頃に釣瓶落としの歩く背中に声をかけると、口実を切り出す前に、キスメは私に嘯いた。曰く、腹ごなしに少し歩こう、なんて。それから尚、私がキスメに追従する理由といえば、ずばりそれが、私にとって有益だからだ。キスメの、「少し歩こう」は、いつも私の知らない場所を教えてくれる。この地底とは、キスメと違って、長い付き合いになる。知らないことは少ない方がいいに決まってる。
 だから、人混みの中、私はキスメの背中を追った。
 しばらく通りを歩いていると、私はどうにも、キスメの機嫌をとってやらなくてはいけないような気がしてきた。それは、利用するのならある程度の信頼関係を築くべきであるという、打算的な腹積もりから出た軽薄な言葉だった。
「なあキスメ。ええと、最近は、どうよ」
「どうって。そりゃ、バリバリだよ」
 通りには露店を張ってる商人が数多にのさばっている。露店にはどこもぽつぽつと客らしきダニどもが群がっていたが、視界の遠く奥の方、その中でもいっとう景気の良さそうな露店があった。なにを売ってるかは知らないが、キスメはおそらく、そこに向かってるのだろう。
「はは。バリバリってなにさ」
「バリバリっていったら、そりゃもうあれだよ。ぱっかーん! 頭蓋骨陥没! バリバリっていうか、パカパカ? なんて! あはは! ……水蜜?」
 聞かなきゃよかったな。

 例の露店に近付くと、露店は思うよりずっと賑わって、長蛇の列が出来ていた。唇を結んだ私を尻目に、キスメは、「ここだよ、ここ」なんて言って最後尾に並ぶから、仕方なく、私もキスメの背後についた。
「私はいらないよ。お面なんて」
「え! 水蜜、まさか知らないの!」
 露店の正体はお面屋だった。ブルーシートの上にはさまざまな面が平積みにされており、水垢どもはそれらを買い求めるために群れをなしている。なんだってんだ。
「食い物か?」
「え、どういう意味? ……いや、水蜜の譫言は置いといてさ。地底にはね、毎年、お面の日っていうのがあるんだよ。その日はみんなお面をつけるの。その日がね、近々来るってわけ」
 譫言て。あー、選ぶほどの言葉すら持ってないってわけだ。つくづく嫌になる。……でも、もしそうじゃなかったとしたらどうしよう。いや、別に、それはそれで、構わないけど。
「なるほどね。祭りやなんかだ。だとしたって、私はいらないよ。お面は」
「ダメだよ! お面つけてないと、殺されちゃうよ! まったく、鬼みたいなこと言わないでよね。水蜜なんてひょろっちいんだから、お面つけなかったら狙われて、すぐに殺戮のカモにされちゃうんだから」
 殺戮て。

 キスメの話によれば、その物騒な『お面の日』という祭りは、年に一度、地底に住む人外どものガス抜きのために敢行される催しらしい。他にも地上から降りてきた人間の数の調整だとか、参加しなければ死ぬ祭りに参加しないほどの横着者――言い換えればアホ――を炙り出すという名目もあるとかなんとか。まあ結局、地底で隠居を決め込んだとしても空腹には抗えない人外達のための徳政令だ。
 基本的には、面をつけてないやつは無条件に殺してもいい、それだけが『お面の日』のルールだそうだが、対象がもし人間なら、そいつが面をつけてたとしても暴力を行使してもいいらしい。相手を間違うとえらい目に遭うとかなんとか言ってたが、まあ、旧っても地獄ってわけだ。
「ほんとに買わなくてよかったの?」
「いいんだよ」
 側頭に面をつけたキスメはようわからん困り顔で私に尋ねる。
 結局、お面は買わなかった。祭りなんてものには端から興味はないし、参加する気もない。要は外に出なけりゃいいんだ。
「……ふうん。すごいね、水蜜。狙われたって大丈夫な自信があるってことでしょ。ひきかえ、わたしはこそこそお面をつけて、こそこそ人間を探して、こそこそ不意をついて殺すわけじゃん。なんだか自分が、恥ずかしくなってきたな」
 そんなことで卑屈になられたって、困る。適当な言葉を探すにしたって、通りを離れた私の視界には水気を帯びた岩しか映らない。
「わたし、正直言うとさ。水蜜って、人を殺せない臆病者なのかもって、疑ってたんだ。でも、なんか見直しちゃった。見直したっていうか、尊敬するっていうか。すごいよね、鬼みたい。だって、お面をつけないってことは、襲ってくるやつ全員殺すってことでしょ? すごいよ、ほんと」
 キスメは珍しく、どこか思い詰めたような表情で訥々と語る。口を開けば、誰々を殺したとか、こうやって殺したとか、そんなことばかりを楽しそうに語るやつが、友人の蛮勇一つでこうもしょんぼりするものだろうか。もしかするとキスメは、普段嘘をついていて、本当は、誰一人殺しちゃいないのではなかろうか。だから、こんなにしょぼれくれて。
 馬鹿馬鹿しい。仮にそうだったとしても、それがなんだってんだ。キスメとトモダチになろうってのか? 馬鹿げてる。化け物に友達なんていらない。化け物は化け物らしく、人を殺すことだけ考えてりゃいいんだ。
「よおキスメ。そんなに褒めてくれるなよ。どうだ、ここはひとつ。お面の日は私と二人で歩いてさ、人間どもの頭をバカバカかち割ってやろうじゃないか。お前が怖がるなら、そのときは私もお面をつけるよ。それにさ、こそこそ不意をついて殺すのは、正面切ってやるよりも、よっぽど愉快じゃないか。何も知らないまま死んでいく人間ほど愉快なものはないよ。お前のやり方はなんも間違っちゃいないよ。なあ、キスメ」
「そ、そうかな。えへへ」
 ああ、そうだよ。
「とりあえず、なんか甘いもんでも食べようよ。お面はさ、後で勝手に買っておくからさ」
「いいね、行こっか。オススメのとこがあるんだ!」
 まあ、お前の金で食うんだけどな。いつか返すよ、いつか。

 地底には一つ公園があるらしい。その公園は、なんでも四方がフェンス囲まれていて、どこから入ればいいか知るものはいないという、風変わりな公園だ。加えて、フェンスには『夜間進入禁止』の看板が括り付けられていると来た。ちょい待てや、まずどう入ればいいかもわからないのに、夜間進入禁止て。それに、地底じゃ昼も夜も判然としないじゃありませんか、私の問いかけにキスメは首を傾げて答えた。
 ――それも、そうなんだけどね。でももっと不思議なのはさ、夜間進入禁止、なんて言うわりに、一日中、絶えることなく照明がついてるんだよ。
 あーもーなんにもわかりません。嫌がらせ?
 私が無様なまでに混乱しているうちに、キスメの言う『オススメのとこ』に辿り着いた。その店は旧都の閑散とした路地に在った。ちなみに件の公園もこの近くにあるとかなんとか。そのせいで、店に着くまでの道中の話題が意味不明な公園に染め上げられ、私は無様に混乱を晒してしまったというわけだ。あっ! 思い出すだけで混乱しちゃう! 忘れろ、忘れろ!
 店は地上やなんかでいうところの甘味処で、店頭には様々な甘味の名が貼り連ねられていた。しかし、この店にしたって風変わりな箇所がある。というのも、客席が路上にあるのだ。人通りの少ない広めの路上には、いくつもの丸い卓が設置され、それぞれの卓は二、三の椅子に囲まれていた。どうやら、店頭で甘味を注文し、路上に設置されたいずれかの卓でそれを待つらしい。
「飲み物はどうする? って言っても、ソーダしかないんだけどね! しかも、みんな同じ味!」
「ええ? じゃあこの、『赤』とか、『青』とか、『緑』とかってのは、一体なんなんだよ」
「それは色だよ。ソーダ水の色。みんな同じだから、好きな色を選ぶといいよ。あっ、でも、赤はやめといた方がいいね。みんな同じはずなんだけど、赤だけは妙にまずいんだ」
 甘いもんでも食べに行こう、なんて言ったのはどいつだ? おまえが余計なこと言ったせいで、それから私は、妙にあべこべな世界に迷い込んでしまったんだ。許さんぞ。
 しかし、色ねえ。なんだっていいけど、赤がまずいって話だ。最近どうも、まずいものを出す店に縁がある。そのせいか、まずいまずいと言われると、どんなもんか、気になってしまうようになった。
「じゃあ、赤にしようかな」
「げー! 水蜜がゲテモノ食いになっちゃった。蛮勇〜」
 『蛮勇〜』?

 注文を終え席に着く。キスメは何故か、私の正面ではなく、隣に座った。何の気なしに周りを見渡せど、路上に設置されたいくつもの卓が、そこそこの客に埋められているのがわかるのみだ。
「なんで隣に座るんだよ」
「水蜜、向かい合ってお喋りするの、苦手なんじゃないかと思って」
 そうこうしているうちに、店のやつが甘味とソーダを運んできた。注文通り、ソーダは赤い。キスメのは緑だ。
「おい、こんなもんほんとに食べられるのか」
「大丈夫だよ、お菓子だもん。おいしいよ」
 キスメの言う通り、運ばれてきたのはお菓子だった。しかしその『お菓子』をお菓子たらしめる要素は品書きに書かれた『お菓子』という名前のみに思える。奇天烈なお菓子を前にして、思わず、赤いソーダに口をつけた。
 ソーダの味は至極普通だ。普通すぎて、特に何も言うことがない。すると、先程のキスメの発言が非常に気掛かりとなってきた。
 ――げー! 水蜜がゲテモノ食いになっちゃった!
 こんな普通のソーダ水をゲテモノ呼ばわりするキスメの味蕾を、私は果たして信用してもよいのだろうか。疑念は、キスメのソーダ水と同じ、緑色をしている。
「よっしゃ、食べよ食べよ。おいしいんだよ、これ! いただきまーす!」
「……いただきます」
 さて、そろそろ皿の上の未確認物体を直視しなければならないらしい。まず、形状についてだが、率直に言って、それはオムレツそのものだった。いささか平べったいレモンと言ってもいいだろう。問題は色と目玉だ。私の視覚に異常がないのなら、その色はピンクで、ピンクの中には二つ、丸い目玉が埋め込まれていた。よくよく見れば口のような切れ込みも入っているから、ますます自分の視覚に自信がなくなる。
 皿の横にはスプーンとフォークと箸とナイフが置かれており、私がそれらを睨みつけていると、キスメは、「どうしたの?」なんて口を開く。どうしたの? じゃないよぉ。こわいよぉ。
 ビビっていても仕方ない。キスメは箸でそれを摘んでいる。私はフォークとナイフを選ぶ。
 う、動きゃしないだろうな。
 恐る恐るに不思議な感触の物体を切り、切れ端をフォークで口に運んだ。
「どう? おいしいでしょ! なんかさ、プリンみたいな、ケーキみたいな味がするでしょ?」
「……まあ、悪くないかな」
 悪くなかった。悪くはなかったが、私はキスメのいう、プリンというのも、ケーキというのもよく分からなかった。なんだろう、私の味蕾に言わせれば、それはやけに塩味の効いたメロンのような、或いは、バナナのような……。

 しばらく、正体不明のお菓子に舌鼓を打っていると、不意に、キスメがあっと声をあげた。それは中々にでかい声量で、ともすれば、私は小さく悲鳴を上げてしまったかもしれない。続けざまに、キスメは他所の席を指差して大きく、「ほら見て!」なんて声をあげるから、キスメに指をさされた人物もこちらに気付き、席を立ち、ニヤニヤと歩み寄ってきた。
「おお、奇遇だね水蜜! それにキスメも。……あ? なんだ、この変なお菓子。一口ちょうだいよ。……なんだこれ、バナナのような、メロンのような。それにしても、やけにしょっぱいな」
 そいつは、近くなり私の皿の上の正体不明をつまんでは、今度は元々座ってた席に振り向いて、「おおい、こっちこっち」なんて手招きをする。
 おずおず、といった具合に遅れてやってきた間抜けは例の男で、後頭部を掻く男の腕に抱き着くアホは鵺だった。
「えー! ぬえまでその男の人と遊んでんの! なんだろ、わたしが、ズレてるってやつなのかな。妖怪ってふつー、人間なんかと……」
 当の人間を前にゴニョゴニョと続けるキスメをよそに、私はいやらしく細む鵺の瞳から目を逸らしては、不の快感と対峙した。

 それから数分経って、鵺と左はどこかへ消えた。数分間に交わされた会話といえば、奇妙なもので、おどろおどろしく白々しい、友人同士の会話だった。
 それは鵺の提案だった。簡単な話だ。
 ――今度、三人で遊ぼうよ。キスメはイヤでしょ? だからさ、あたしと、このヒトと、水蜜の、三人でさぁ。
 そう言って、ヤツはその場凌ぎの相槌を打つ私を眺め、満足そうに去っていった。集合場所はアホの、男の家に決まった。
 会話において拒絶は常に明確な感情として顕現する。だから私はヤツの誘いを拒むことはできなかった。しかし、重要なのはそこじゃない。あいつが、どの程度私を把握しているか、それだけが重要だった。
 けれど、よくよく考えればヤツの提案は万能だ。私がもし、人間に焦がれる純真な人外であったとしても、人殺しをやめられない純粋な人外であったとしても、ヤツの行動はどちらにせよ、実に不愉快だった。恐らく男は指定した日時、指定した場所で、鵺の手により肉か裸になっているだろう。その現場を見てしまった私の表情を眺めては、鵺は私を決めつけて、嘲笑おうと、そう考えているに違いない。
「――どしたの? 水蜜。今日はやけにぼーっとするね。ほら、お菓子まだ残ってるよ」
 拒絶は常に明確な感情だ。私は約束を守らなきゃいけない。
「残り、おまえにやるよ」
「ほんと! やったー! ……あれー? やっぱり全然、プリンじゃん。ケーキじゃん」
 キスメはソーダの緑に口をつける。底には妙に緑が凝って、私の脳裏で化け物の瞳が点滅する。不愉快なのはいつも目玉だ。管に繋がった醜悪な目玉、鵺の腥い目玉、ピンクに埋まった奇妙な目玉!
「それとさ、キスメ。あいつ、もう殺していいよ」
「え」
 キスメの、キョトンとした目玉。
「あ、あいつって、さっきの、あの人間? え、いいの? で、でもさ。殺していいってことは、あの人間ともう仲良くしないって、きらいになったってことでしょ? そしたらさ、ふつー、自分で殺しちゃおうって思うんじゃないの? ほんとに、ほんとにわたしが殺していいの?」
「いいんだよ」
「でも、なんで? どうして自分で殺しちゃおうって、ならないのさ!」
 バカだなキスメは。私が殺しちゃ意味ないだろ。鵺は私を船幽霊だって、知ってんだから。
「それはさ、あれだよ。……恋ってやつだよ」
「こ、恋……」
 恋だってさ。アホらし。

 数日経って、鵺との約束の日が来た。私は物陰から鵺が男の家へと入っていくのを確認して、その後、鵺に続いた。玄関をあけ放ち呆然とした鵺の表情は一寸と持続せず、次の瞬間には得心のいった笑みを浮かべるから、とても不愉快だった。
 玄関の奥の、変わり果てた男を見るのは私もこのときが初めてだった。男は頭頂の綺麗に陥没した髑髏となって、廊下の上に鎮座していた。廊下に首が〝すわってる〟ってのは、どうもシュールに思えた。
 キスメの仕事に間違いはないのだろうが、どことなくシュールな髑髏に、私は大胆にも泣き縋りついた。それはもはや鵺に対する当てつけ他ならず、私は内心で、鵺は顔で、とにかく、笑いあった。不思議なことに、雨が降っていた気がする。鵺がそれをキスメの仕業だと分かっていようがいまいが、もうこうなったら関係がなくなった。私の泣き声と鵺の笑い声は、明確な感情の発露だった。

 どう思うよ、聖。

   三

「ねえおねえちゃん、恋ってなあに」
「うるさいな」
「あの男の人に、恋をしたから殺したの?」
「殺してないよ、私は。あいつが悪いんだ」
「変なの! えー、わたしもしてみようかな、恋」
「勝手にしろよ」
「どうしたらいいの?」
「他人と寝りゃいいんだよ」
「うえー。ほんとー?」
「ほんとだよ、ほんと。おまえならたぶん、金ももらえる」
「お金? こいし、きらいだな、お金って。稼ぐのも、使うのも。仏頂面で、代わり映えがなくって。まるでお姉ちゃんみたい」

「でもね! こいし、好きだよ、お金! ほらみて、じゃじゃーん! お金があるから、おねえちゃんにプレゼントを買えました!」
 うわ、いらね。

 夢の内容は世界平和で、起き抜けにはいつも通りの藁の匂い。私は懐かしい声に覚醒した。
 しかしだからといって目を開けるのも、上体を起こして伸びをするのも億劫だった。だから、私は丸めた体のまま一つ深く呼吸をして、そのまま眠ろうと考えた。
「やあやあ、起きなよ。せっかく久々の再会じゃないか。それにしても君、この枕元のこれはパップラドンカルメじゃないか。こういうの、地べたに置いとくもんじゃないよ。不衛生だし、なにより逃げられ……あれ。お面だね、これ。パップラドンカルメのお面だ。はは」
 機嫌良さそうだな。こいつのこういう、耳に直接すっと入ってくる声は、嫌いじゃない。喋り方も、なんとなく聞いてて心地いい。しかし喋る内容がすべてを台無しにする。
「パッ、え? なに? ……知ってんの。これ」
 寝入りをやめるかやめまいか、目を瞑ったまま、判然としない頭のままに問いかける。パ、え、なに、なんだっけ?
「うん。アンアイデンティファイド・スイート・オブジェクト。君こそ、なんでこんな面持ってるのさ。あはは、ぴったりだね」
 あんあいで、すいーと? なんだこいつ。あーもう。
「お、やっと起きたね。ほら、私に地底を案内してくれよ。美味い店とか、この、お面を買った店とかさ」
 上体を起こして両掌底で目を擦れども、そいつとの久々の対面は叶わなかった。そいつはその顔を件の面で覆っていたからだ。まあ、面を付けたそいつと相対する私という構図は、対面のその言葉以外にしっくりくるものは見当たらない。ただ言えるのは、面の上から飛び出た人間以外を強調するわざとらしい齧歯類の耳は、何よりも雄弁にそいつの正体を語っている。
「知らないよ。それ、貰い物なんだ」
「へえ、もうそんなお友達が。意外とやるじゃないか」
 うるさいな。

 私と話す時のナズーリンはいつもこんな感じの、上機嫌というか、諧謔的というか、どこかとぼけた調子だった。というよりも、私はこいつが星以外と話しているところをほとんど見たことがない。ナズーリンはいつも、私が一人になったときを見計らって声をかけた。多人数でお喋り、なんてのが似合うタイプには見えないから、きっと、一輪や聖なんかとも、どっかでそんな風に話していることだろう。ともかくとして、私の抱くこいつのイメージは、〝星か、それ以外か〟というものだった。それはもちろん良い印象ではない。
 旧都の目抜き通りへ出るに至っても、案内をしてやろうなんて気は起きなかったが仕方がない。この憂いの散歩道の終点へ辿り着くまで、鼠は本題を切り出すつもりがないらしい。
 隣を歩くやつの表情は読めない。それも当然だ。なにを考えてるのか、未だその顔を未確認お菓子物体の面で覆っている。案内してくれ、なんて言葉といい、付けっ放しの面といい、些か、はしゃぎすぎではなかろうか。聞こえないのか? 往来の嘲笑が。私の幻聴なのか? 立派な耳は飾り物か? 私の聴覚過敏なのか?
「おい、いつまでそんな面つけてるんだよ。外せよ」
「お。こことかいいんじゃないか。ほら、カレーだってさ。君、好きだろ、カレー」
 適当言いやがって。こないだが初めてだぞ、食べたの。私が言葉を組み立てているうちに、ナズーリンは直角に進路を変え店の暖簾へと進む。仕方なく追従する私にしても私だが、最近、昼食は毎日ここだ。解釈によっては晩飯まで。
 一つため息を吐いて、カレーの匂いと鼠を追った。

「なんだい君のそれは。美味いのかい?」
 カレーを指して鼠が言う。エビフライを米ごと切断するスプーンの動きを止めたのは当惑に付随した苛立ちだった。
「君はあれだね。私が焼き魚定食を注文したことを疑問に思ってるんだろう。鼠はね、焼き魚が好きなんだよ。なぜチーズじゃないのか、今度はそんな顔をしているよ。説明してあげよう。ほんとをいえば、鼠は、チーズも焼き魚も好きじゃない。チーズと焼き魚には、どちらにもコニインというアルカロイドが含まれているんだ。鼠はね、そのコニインが好きなのさ。同種の物質が含まれているから、鼠はチーズと焼き魚を食べる。はは、わかったかい? そうそう、同種の物質といえば、ジョンとヨーコは同一人物なんだ。同じ映像に映ってるじゃないかって? 影武者だよ、どっちもね」
 店内の有象無象が鼠の妙な話に目を丸くしてこちらを見ている。中でもとりわけてアホな顔をした男は、口を唖然のアの字にして、まじまじとこちらを見つめていた。私に言わせりゃアホのアの字だ。見てんじゃねえぞ!
 ナズーリンは未だ面をつけている。オムレツのような、レモンのような形、ピンク色の、目玉の丸い、諧謔的な笑みを浮かべた、面をつけている。私はそいつを前に目を瞑り、溜息を吐いた。顔を上げれば、一瞬前まで焼き魚や米などで満たされていたやつの皿は忽然と空になっているからタチが悪い。アの字の男はますます目を丸くした。
「いやあ、ここのご飯は美味しいね。米がいいよ、いい感じに不味くてさ。なんていうのかな、ほら。故郷の味ってやつ? 母さんの味ってやつだよ。はは。ああ、懐かしいね」
 不思議と、嫌な気がしなかった。
「いいから、さっさと本題に入れよ」
 やつは面に隠れた顎に手を当て、とぼけた様子で店の店主に〝おかわり〟を唱えた。
「本題ねえ、はて。本題っていうのはあれかい? 君が、聖を好きで、連中も、聖が好きでって、そういう話かい? それともあれかい? 身に纏う程度の帰属意識すら持てない君の、内省的でよねよねっとした、水垢みたいな話がしたいのかい? いやだな、飲食店だよ、ここはさぁ。ああ、平気さ平気だよ。君は君が思うほど望まれちゃいない。みんな、君のことなんて居て当然だと思ってるんだからさ。雲のおっさんだけは君のこと、蛇蝎の如く嫌ってるみたいだけどね」
 ここまでふざけられても怒りが湧いてこないのはどういうわけだろう。私はこいつを好いているということもない。むしろ苦手だと思ってるぐらいなのに。それにしても雲山のやつ、私のこと嫌いなのか。なんか、ショックだな、ちょっとだけ。
「船の話だよ。連れ戻しに来たんだろ? 私が来ないと、あんたのご主人が悲しむから」
「な、な、な。なんでそこで、ご主人が出て来るんだよう。か、関係ないよう。どうだっていいよう、ご、ご主人なんてさあ」
 迅速に届けられた〝おかわり〟を面の下に運びながら、鼠はわざとらしく言葉を紡ぐ。どやって食ってんだ、どうやって喋ってんだ。どうなってんだよ、おまえはよ!
「で、船は? もう直ったのか」
「え、船かい? ああ、あれはね。……あれは、もうダメだよ。動かないね、もう二度と。それに動いたとしても、君はもう舵取りにはなれないよ。だって君、人を殺した」
 言葉に思わず目を逸らした。けれど、すぐに向き直って口を開く。
「まあね」
 非常に軽い声色だった。そしてすぐに、目を逸らしたことを後悔する。奴の皿はまたしても、空になっていた。
「よし、もう出ようか。甘いものが食べたいね。案内してくれよ。……あれ? まだ半分も残ってるじゃないか。君、食べるの遅いね。意外とさ」
 なんだこいつ。

 地底道中膝栗毛、言い換えればそれは悪夢のような時間だった。悪夢を悪夢たらしめる要因は鼠の食欲がその全てを担っていた。流石は毘沙門天の犬、金を持っていた。瞬きと同時に消える奴の食い物は私を都度打ちのめしてくれた。
 何時間経っただろうか、丸一日遊び通していた気がする。寝床に戻ったいまなお、ナズーリンの片手にはソーダ水と〝お菓子〟――ソフトクリーム版。ソフトクリーム版ってなんだ? 私が悪いのか? ――が握り込まれている。
「おい、そろそろ面を外せよ。一日中付けっ放しで、風呂入った後の指みたいになってるんじゃないか? おまえの顔」
「いやだよ。私はね、人にものを食べてるところを見られたくないんだ。これを食べ終われば、外してやらんこともない」
 面の下にそれを運びながらナズーリンは言う。もの口に入れながらどうやって喋ってんのかな。もの口に入れて喋んなって教わってこなかったのかな。なによりその面、私のだぞ。
 あんまり見ないでくれよ、十回目のそれを聞き終わった頃、私は観念してやつの手元から視線を外した。直後、今度は別種の後悔が私を襲う。面を乱雑に被せられた私の視界は遮られ、一瞬、何も見えなくなる。私はすぐに面の内側から目玉の部分を見つけることができた。面についた目玉、黒目は半透明となっており、そこから覗く地底の岩群は輪をかけて暗かった。
「やめろよ。つばくさいよ、これ」
「はは、狸の獣臭ってやつさ。……でもちょっと、恥ずかしいな。そういうこと、わざわざ言わないでくれよ。カッコつけようって思ってやってるんだからさ」
 何年振りかは覚えていない。久々に見るやつの顔は、口調って額縁にぴったりとはまる。瞳は相変わらずに凪いでいた。
「お前は鼠だろ」
「そう変わりはないよ。生き物ってのは基本的に卑近なのさ。狸も鼠も、猿に虎、それに蛇だって。ヒトなんかもそうだね。ヒトのことを言うとご主人は怒るんだけど、はは。我々は動物であって動物でなし、なんて理念はどんな生き物にだって根差してる。だから多種族を食らうのさ。でもね、共食いをしない生き物の方が珍しいって、知ってたかい? つまり、生き物はみんな嘘をつく。と、そういう話だよ。……分かるかい? 私はいま本当のことを話してる」
 調音白けたやつの声で、今日の出来事の全てが嘘になる。あー、なんか、やなかんじ。
「直ったのか」
「ああ、直った。計画の実行は二週間後。船は夜明けと共に月を追う。舵取りは君だよ。村紗水蜜」

「私は連中ほど、君らほどお人好しじゃない。だからほんとは、君のことなんてどうだっていいんだ。君の好きにしたらいいと思う。ただ、連中はね。みんな、君を買い出しに行ったくらいなものだと思っててさ、それで、君があんまりに帰らないから、そろそろソワソワし始めてるよ。雲山は半身を失くしたみたいに心配してる。さあ、何でもいいから聞かせておくれよ。私は連中にそれを伝えなきゃいけない。ほら、何でもいい。嘘でもいいから、なにか言え」
 面の中で、私の声はくぐもった。
「わかった。じゃ、みんなにはそう伝えておくよ。それじゃあね」

 未確認お菓子物体。たしか、アンアイデンティファイド、すいーとなんちゃら。ピンクの、オムレツの、レモンの、正体不明の面。そんな、間抜けな面越しの暗さに取り残された私の視界は、ぬらぬらと、湿った地底の岩肌を映す。天を仰げど岩ばかり。滴り落ちる水滴に気付いたのはこのときだった。音が急に気になりだして、一向に眠れない夜が来た。やつの置き忘れたソーダ水は赤い。
 さて、このとき私はなんと言ったでしょうか! なんてな。
 答え合わせは、永久に来ない。

   四

 今日は女を犯した。遊郭の、馬鹿そうなやつに声をかけた。部屋の中は夾竹桃が香って、女はなにもわからなさそうに喘ぐから、すぐに、私のとこにも鎌鼬がやってきて、なにもわからなくさせられた。そんな透明な白い判然とした混迷の渦中に女を殺した。殺したかった。
 店を出ると、遊郭の通りにはいてもいなくてもよさそうなやつが群れを成していた。こんなに人がたくさんいるなら、やっぱり一人ぐらい減ったって、バレやしないんじゃないかと、そう思った。
 血の池地獄は封鎖されていた。当てもなく旧都をさまようと、通りの外れの掲示板に、『血の池地獄、埋め立て反対!』なんて弱者の泣き言が綴られていて、思わず笑ってしまった。
 遊郭の近辺では夜になると灯りが踊る。夜は正常に鋭さを増して、狂ったように提灯が回った。妖しい緑橙桃も混ざって、子供の落書きの様な夜だった。私は、そんな厭らしい喧騒の中に、それらしい空席を見つけて、座り込んで、また、笑った。
 聖白蓮。それが、私にかかった、清らかな呪いの名前。

   五

 お面の日がやってきた!
 通りには屋台と人が踊って、私の脳では、月の笑う夜空の下、橙に照らされた祭りの喧騒ばかりが点滅する! あれ、船幽霊に脳とかあるのかな。頭かち割って確認してみたい。
「キスメ、私、もの食ってるところ見られるの、嫌いなんだよ。ちょっとそっち向いてろよ」
「なにさ、急に。別に水蜜のことなんて見てないじゃん! もう、わかったよ。……こう?」
 私は手に持ったクレープを面の下に運ぶ。この日のために練習したんだ。あの手品はもう鼠の専売特許なんかじゃない。
「おいキスメ、ちょっと、こっち見てみろよ」
「なにさー、見るなって言ったり見ろって言ったり、今日の水蜜、なんかへ……え! クレープ、どこやっちゃったの!」
 わたしもやりたいわたしにも教えて、なんて言って、キスメは自分のクレープを私に渡して――駄洒落!――例の手品の再現を要求する。教えて、と言うだけでなく見て盗もうというキスメの心意気は実に愉快だ。あはは、励めよ。そして体得するんだ。
「おいおいキスメ、言っただろ? 私はもの食ってるところ人に見られんの、嫌いなんだよ。あんまり、こっちを見ないでくれ」
「水蜜のいじわる! もういいよ。クレープ返して」
 一度人にあげたものを、後になって、「やっぱり返して」なんて、些か我儘が過ぎるのではなかろうか。それは不誠実というものだ。キスメは今回のクレープを文字通り、取り返しがつくもの、と考えて私に譲渡し、そして、やっぱり返して、を発音したのかもしれない。けれど、それは大間違いである。なぜなら、人に何かを託すというのは、本来目に見えないところでのやり取りなのだから。一方が一方を信頼し、託す。一方も一方を信頼し、受け取る。物のやり取りは常に、目には見えない信頼のやり取りなのである。心のやり取りなのである。それをこの釣瓶落としは……はて。船幽霊の心とは一体どこにあるのだろう。なんにせよ、一度頭をかち割ってみる必要がある。
 そんなことを考えているうちに、クレープはこの手から掠め取られていってしまった。キスメには覆水盆に返らずの意味を教えてやらなくちゃいけないらしい。
「よしキスメ、次はしょっぱいものが食べたいよ。案内してくれ」
「別に、いいけどさ。たこ焼きとかでいい?」
 地底でタコなんか獲れるのか。私のそれでいいに、キスメは面倒そうにお返事したのち、小声でぶつくさとした。曰く、全然人殺さないじゃん、とかなんとか。
 お面の日。地底は私の予想より何倍も平和だった。目抜き通りから路地、旧都の外れに至るまで何らかの露店や屋台に埋め尽くされて、店の数だけ人だかりがあった。普段遊郭で働いてそうな若い女衆はいい匂いのする浴衣を着込んで、男は、まあ、普段とあまり変わらない。ただみんな、様々に面を被っている。面を被ったものの中には当然人間も紛れているのだろう。現に、あからさまに人間らしきやつらとはチラホラすれ違っている。ただ、誰もそんなことは気にも留めずに、屋台で団子やなんかを買い込んで、酒を飲んで、歩いている。もしかすると、みな、友人との交遊の最中に不思議なほど鎌首をもたげる性欲を隠すみたいに、すれ違う人間達に内心で舌舐めずりをしているのかもしれないが、少なくとも。私の、黒目の面越しの、薄暗い視界に映る橙の喧騒は、平和に思えた。
「まあ待てよ。人を殺すならまず腹ごしらえ、常識じゃないか」
「聞いたことないよ、そんな常識。まるっきり逆じゃん。人を殺すのは、お腹が減るのとおんなじだもん」
 この華やかな橙の裏に、死に至らしめる暴力が跋扈しているとは、思えなかった。また、私の脳でイメージが蠢く。イメージはヒル状となって、脳の表面を這いずり回る。洗うにしたって、やはり頭をかち割らなきゃいけない。洗うための水は桶で汲もう。
「なあキスメ。いい加減さ、嘘つくのやめろよ。前に、私のことを、人なんか殺せない臆病者だなんて言ってたけど。それはさ、お前の方だろ」
「え? な、なにさ、急に。なんで、急にそんなこと言うのさ! やっぱり変だよ。今日の水蜜、なんか変!」
「誤魔化すなよ。だってさ、お前、ひょろっちいもん。この日に備えて真っ先にお面買いに行くような臆病者が何言ったってさ、信じらんないね。実際」
「そ、それはさぁ! たしかに、そうだけど、妖怪らしくないかもしれないけど! 水蜜とこうやって屋台まわったりできるかも、って思ったら、楽しみだったから……水蜜だって、さっきまで楽しそうにしてたじゃん! アイス食べてさ、クレープ食べてさ! 仲良くやってたじゃん! なのに、なんで急に、そんなこと言うのさー!」
「おいおい、いまそんな話してたか? してないだろ。お前はいっつもそうだよ、キスメ。自分の話したくないことになるとそうやって話をずらすか、『難しい話? じゃあいいや』なんて言って逃げる。私がいま話してるのはさ、お前のそういう、卑怯で浅ましくて臆病なところだよ」
「……ひどいよ。わけわかんない、ひどいよ水蜜! ひどい!」
 キスメは走ってどっかに行った。去り際、私に投げつけるために外された面の裏っ側、もしかすると泣いていたかもしれない。私が思うのは、人殺しなんて、もはやそんな大層なものでもないということ。それは、すこし汚れた自分を演出するための、煙草やなんかとさして変わらないもので、それはただの娯楽なんだと、なんとはなしにわかっていた。矜恃とか、誇りとか、そういうのとはちょっと無縁で、だから、キスメは泣いた。けれど、私はそうじゃない。そんなことでは泣けないし、殊勝に生きたら消えてしまう。
 もし聖に逢えたなら、問いただすことができるだろうか。生きようとすれば消えてしまう悪霊を、何故生かしておいたのか。ふと、屋台のひとつを軽蔑する。長方形の淀みのなか、誰にも掬われることのない、醜く肥大した、金魚が泳いだ。

 キスメの話していた公園は、本当にフェンスに囲まれていて、どこにも入口が見当たらない。夜間侵入禁止の看板も、切れる気配のない照明もあった。私はキスメの話を嘘だと思っていたが、どうやら本当らしい。しかしまだ、キスメの話を疑う余地はある。入口が無いはずの公園には、何故か、人がいた。一人、妙な女だ。髪の色も、尖った耳も、人間のそれじゃない。女はベンチに座ってなにやらつまらなさそうな冊子を眺めている。女のもっとも妙な箇所は、顔。面をつけていなかった。無表情に雑誌を眺める女の顔、絵画とすれば、我関せず、なんて額縁がはまる。けれども、重要なのは女じゃない。女が、どこから公園に入ったかだ。まさか、よじ登ったということはないだろう。だって、スカートだし? 妖怪と言えども、女の子だし?
 しかし、外周を何度か回ってみても、入口らしきところは見当たらなかった。じゃあ、キスメの話がほんとってこと? 入口なんかなくて、ベンチの女は、よじ登ったってこと? スカートで? ひゃー!
 どうも、この公園を考えると、調子が狂う。フェンスに囲まれた赤土と生垣は、不自然なほどに、自然に思える。まるでこの地底の喧騒やいやらしさから切り離されて、別の空間のように凪いでいる。女の我関せずといった表情に日が差しているようにもみえる。あり得ないことではあるが、公園には、空があって、昼陽夕景星月が、普通に流れているように思えた。
 あー私も、あの女みたく、面なぞつけず、我関せずでいればよかった。好きでもないやつらと無意味に馴れ合わずに、ねぐらでじっとしていればよかったんだ。後悔先に立たずってのは嫌な言葉だ。一番鬱陶しいタイミングに現れやがる。キスメの話は本当だった。公園に入口は無い。どうしたって見つからない。だけど男は生きていた! 遊郭で、女と歩いていやがった! キスメの話は嘘だ。キスメは無作為なんかじゃない。キスメは、人も殺せない臆病さを隠して、他人に無作為なやつと思われるように振る舞う、本当の臆病者だった!
 なら、あの骸はなんだ。鵺と見つけたあの骸、廊下に〝すわる〟シュールな骸。誰の骸だ、誰が殺した。綺麗に頭が凹んでいた。決まってる、キスメが殺したんだ! キスメは無作為なんかじゃない、臆病でもない。あいつは人を殺すのが下手で、それを恥ずかしがるような、妖怪らしい妖怪じゃないか! あー、それが私と、なんの関係があるってんだ!
「ねえねえ、おねえちゃん!」
 ああ、鬱陶しいなぁ!

「ひどいよ、おねえちゃん。なんでキスメちゃんにあんなこと言ったのさ」
 旧地獄百景まで歩けば、血の池はたしかに封鎖されていた。封鎖されていた血の池のみならず、見渡す限りすべての地獄に虎柄のロープが張られている。怪訝なのは新歓楽街建設予定地なんて看板と、ロープの前、面をつけてつんのめった有象無象だ。
「こいし、おねえちゃんのこと、ほんとにわかんない! キスメちゃんと仲良くしたと思ったら傷つけるようなこと言ったり、ぬえって人のこと、嫌いなのかと思ったら普通にお喋りしてたり、私のこと、急に無視し始めたりしてさー!」
 有象無象はなにやら思い思いにヤジを飛ばす。それは、掲示板で読んだ通りの泣き言だ。我々の地獄を奪うな、だとか、景観を乱すな、だとか、言葉は違えど、言ってることはおんなじだ。結局のところは弱者の泣き言。ロープの前で堂々と胡座を組む一角の鬼にゃ響かない。まず鬼は面なぞつけちゃいない。キスメの言う通りだ、自信満々を通り越して、有象無象を呆れるような目つきで舐めている。
「あー。お前ら、ネオンって知ってるか」
 不意に、鬼が口を開いた。瞬間、有象無象は聴衆に変わる。どいつもこいつも面の内側で、ごちゃごちゃ、ごちゃごちゃと、なにやら不服そうに発音する。鬼は聴衆の誰一人にも頓着せずに、口を動かす。
「ネオンだよ。ネオンライト。あたしはね、こないだ古明地のところで観させてもらったんだけど。いや、ありゃあ発明だね。提灯なんかとは大違いだよ」
 鬼が喋る。聴衆が野次を飛ばす。
「わかるかい? あたしが作ったようなもんだから、あたしが言うのもなんだけどね、あんな、時化た遊郭なんざ、もう時代遅れなのさ。この歓楽街はよっぽど賑やかになるよ、煌びやかになるよ。店も、宿も、たくさん出来る。ネオンが光って、常世の国さ。あんたらだって働き口が見つかるし、持ち家ってわけにゃいかないが、宿もある。毎日毎日血の池に落ちてさ、望んだ通りの悪夢を見て、路上で眠るような暮らしとはおさらばできるんだよ。働いて、金をもらって、浴びるように酒を飲んで、宿で眠る。世のため人のためってやつだな。いいじゃないか、いいところへゆけるよ」
 鬼が喋る。聴衆が野次を飛ばす。
「もうね。冥福の前借りなんざ時代遅れなのさ。そのお面にしたってそうだ。今日日人死になんて聞きゃしない。え、そうだろう。現に面を外したあたしにとっかかってくるやつも、いやしないじゃないか。時代は変わるんだよ。地底も地底で、前に進もうとしてる。それを、なんだい揃いも揃って……ええ? 血の池だけでもって、そりゃあ無理だよ。ここは一番はじめに埋めるんだ。建設が終わるまでの間、事務所が立つんだから。となりに簡易宿泊所も建つし、ほんと。どうしてそう、後ろ向きなものに対してだけ前向きなんだろうねぇ。死してなおここに居座ろうってわけかい? なんだかなあ、それだけ気概があるなら、普通に前に進みゃいいじゃないか。まあとにかく、文句があるならいくらでも相手してやるよ。そのために、あたしはここに座ってんだから」
 鬼は喋る。
 聴衆は、調音白けつつ、なんとか喚いた。欲しいものの手に入らないことを知って、なお諦めのつかない子供のような声だった。
「ねえ、血の池地獄がなくなるの、そんなにいやなの?」
 何を言っても、面の内側からじゃ嘘になりそうな気がした。だから黙って、最初からそこにいなかった気になって、私は、血の池地獄をあとにした。

「ねえ! なんで無視するの! いい加減、聞いてくれてもいいと思うんですけど!」
 今日は珍しく寝床まで付いて来やがった。会った時から一貫して、「謝りたいことがある」とかなんとか。だったら態度を改めるとか、いろいろ、あると思うんだけど、化け物にそこまで要求するのは酷なのかもしれない。それに、謝られる筋合いだってない。もし、普段の態度を謝りたいって話なら、謝らせてなんかやるものか。許す許さない以前に、関わり合いになりたくないんだ。こっちは。
「謝りたいってんなら、無駄なことごちゃごちゃ言ってるうちにさ、謝りゃいいじゃないか。ほんとに悪いと思ってんのか? なんだか知らないけどさ」
 聞くや否や目玉の化け物はしゅんとして、纏った布切れ、腹のあたりをきゅっと握る。あーあー、少女らしく振舞っちゃって、こいつもどうも、胡散臭くてしかたない。たまにいるんだ。一瞬で、なんとなくわかっちまうやつが。わかってるくせして、なんも知らないふりで、嫌な質問ばっかりしてくるやつ。わからないんです興味があるんです他意はありません。そういう手合いは一番タチが悪い。手に負えない。
「それは、その。そうだったかも。……でもそれは、おねえちゃんがお面つけてくれてたりして、嬉しくて、無視したりして、寂しくて……」
「面を返してくれって話か? おう返すよ。返すからいますぐ出てけ。寝床までずかずか上がり込んできやがって。色情狂でももうちょっとマシだよ」
 ごめんなさい。面も受け取らず、うなだれて、そのまま出て行った。

 あー。
 水滴の、音が聞こえる。

 連中。
 鼠。
 キスメ。
 鬼。
 目玉の怪物。
 公園の女。
 どの顔も、鮮明に浮かぶ。
 解せないのは鵺。
 連想に割り込んできやがるわりに、顔が見えない。
 あー、なんて。
 不愉快な一日だった。
 忌々しいから面をつけたまま眠ってやった。
 嘘だ。
 寝苦しいからすぐ外した。
 聖の顔を、忘れたことに気がついた。
 ごめんなさい、か。どうだかな。
 私は誰に、謝ろう。


   六

 今日は髪を切った。









   七

 カレー。無い方がマシ味の料理を出すこの店も、これでもう食い納めだ。エビフライを三尾つけた。鼠と飯を食ったあの日以降、隣の席の、アホ面の男によく気がつくようになった。アホ面はまた目を丸くして、私のカレーを覗き込む。羨ましいか。あげないぞ。
 不味い飯というのも、食べ続ければなんとはなしに愛着が湧いてくる。はじめの頃はわざわざ高い金を払っていい米なんかを食べたものだが、いまとなってはこの米が、妙にしっくり来るようになった。そして、なによりエビフライ。カレーはやはり――。
「お。髪切った? なに、失恋? そういうことなら、聞いてあげるよあたしがさぁ。じゃあ、向かいに失礼するよ」
 ――とりわけてご機嫌な連想を不愉快な声が遮った。そいつは対面、大盛りのカレーをわざとらしく音を立て置き、ゆっくりと向かいの席についた。そいつのカレーには三尾、エビフライが乗っかっている。何から何まで腹の立つやつ。顔も見たくない、声だけでわかる。鵺だ。
「失恋? 私が? なんで。どっからそういう、貧困な発想が湧いてくるわけ? 大妖怪の脳ってみんな、そういうふうにできてんのかな」
 やつが一笑洩らして、カレーを運ぶ。食う前に手を合わせるとか、そういうこと教えられてこなかったのかな。大妖怪なのに。
「なんでって、だって、髪切ってるからさ。まあいいや。……ねえ。答え合わせをしようよ」
 この、なんていうのかな。隣の席の他人とさ、見えない友情が芽生え始めてるわけ。こっちは。お、こいつは今日もエビフライなのか。しかも三尾だ。なんかいいことあったのかな。なんて考えてるわけ、あのアホ面は。対して私も、うわ、こいつ今日も焼き魚定かよ。しかもご飯大盛り。なんだろう、味云々の前にセンスがないよね。もう四日連続じゃん。なんてことをさ、考えてるわけじゃん。それをこの鵺は空気も読まずにぶち壊す気満々で、なんちゅう話を切り出しやがる。隣の席のアホ面に、よく知りもしないこの他人に、嫌われちまったらどうするんだよ。
「答え合わせ? ああ、あれね。キスメだよ、犯人は。私が頼んだんだ、あの男を殺してくれって」
 鵺がまた笑う。口元に寄せたスプーンを離して笑った。何がそんなに面白いのか知らないが、笑顔は意外とかわいい。なんとはなしに爽やかな笑みで、非常に不愉快だ。隣のアホ面はやはり目を丸くして、こちらを見ている。見てんじゃねえぞ!
「そんなことじゃないよ。もっと、こうさ。内省的で、よねよねっとした……そう。あんたの話だよ、ムラサ」
 うわ、きもちわる。なんで知ってんだ。
「ねえ、普通さぁ。名前隠すにしたって、下の方を隠すもんじゃないの? なんで、ムラサ、じゃなくて、ミナミツ、って名乗ってるのさ。ねえ、なんで? 教えてよ、ムラサ」
 せっかく三尾つけたんだ。冷めたらもったいない。少し、カレーを食べることに専念しないといけない。スプーンで、エビフライを米ごと刻む感触は妙に小気味良い。直線に切り分けられた米の断面も、規則的に、角を削るように失われていく嵩もおんなじだ。飯を食うときってのは、無言が一番で、適した話題が二番。それ以外は存在しない。
「知ってるんだろ? 回りくどいのはよせよ。話したいことがあるなら勝手に喋ってろ。あんま、口を大きく開けるなよ。皿はでかいんだ」
 問題は、こいつがどこまで知ってるかだ。だけど、それはあくまで問題であって、今となっちゃ重要じゃない。どこまで知ってようが知ってまいが、カレーを食って、店を出る。それだけだ。
「ああ。ごめんね、聞いたんだよ。ムラサ、あんた尼なんだって? いやあ驚いたよ。なんでも聖白蓮とか云うブチギレに帰依したとかなんとか。あのさぁ、純粋に興味があるんだけど、ムラサって読経とかどうしてたの? だって消えちゃうじゃん。あれ、無関係のあたしでさえも耳障りに思うのに、船幽霊が読経なんて。いや、度胸があるよねぇ。あ、ダジャレ言っちった。違うんだよ、悪気はないんだ。ごめんよムラサ」
 身振り手振りやなんかで、やつが一瞬右を向いた瞬間に、例の手品を見舞ってやった。気持ちよく話しているところ、不意に対面の皿が空けば多少の狼狽も道理だ。まごまごして、水を飲んではカレーを運び、また水を飲んで見せる。あー、いい気味だ。隣の男がさらに目を丸くしていた。よかったな、タネがわかって。
「あれ、水蜜、カレー、いつの間に……ま、まあいいや。それでさ、ムラサ。あたし、やっとあんたのことがわかったんだよ。いままでずっと、決めあぐねてたんだけどね。その話を聞いてわかったんだ。ムラサあんたは、正体不明を気取りたいだけの、なにもかもが中途半端な悪霊だ。な、そうだろ!」
 隣の男が首を傾げつつ何もわからなさそうに二、三頷く。なんだろう。今まで他人だったやつと急に距離が縮まるってのは、なんだかとても面映い。でも、残念だな。私のこと知ってくれたのは嬉しいけど、もうこの店に来ることはない。おまえのアホ面ももう見納めだ。鵺が居なきゃ告白したりしたかもしれない。だけど、鵺が居なきゃ、距離が縮まることもなかった。感謝と侮蔑、どっちを取るつもりもない。
「なあヌエ。その、ブチギレなんだけどもね。近々復活するんだよ。だから私も、近々出てく」
 キョトンとしやがる。それはキスメの顔だぞ、お前がしていい顔じゃない。
「え、いつ?」
「なんで教えてもらえると思ってんのさ。どうしても知りたきゃキスメに聞きなよ」
「え、キスメ、知ってんの」

「そりゃそうだろ。キスメはトモダチなんだから。それじゃあね」

 しょっぱいものを食べると、甘いものが食べたくなる。人並みの欲の容器だ。しかしそれは、際限なく続くからタチが悪い。一つのもので満足できないから、人間ままならない。妖怪はその点、人間の何倍も欲深い。妖怪だからと、割り切っている。
 私は例の甘味処へ行こうと考えたが、定食屋の付近をしばし歩いて、結局ねぐらに戻った。清算なんてのは、明日をまっとうに生きようとする者だけに絡みつく生理だ。ねぐらには面がある。貰い物と、そうじゃないやつで、合計二つ。一度返すと言ったからには、それを守らなきゃいけない気もするが、そんな気はもうさらさらない。人を溺れさせられない船幽霊も、船に乗らない船幽霊も、どちらにしたって、もはやただの悪霊だ。私は連中のところには戻らないと、そう決めた。

  終 1

  うん。いまね、水蜜と仲直りしたところ。でも、ぬえが言ってた通りに、水蜜、出て行っちゃうんだって。そりゃ、寂しいけどさ。でも、プレゼントあげられたし、二度と会えないなんて、言ってなかったし、そこまで寂しくないよ。だってなにより、友達だもん。
 え? なんで喧嘩してたの、って。それは、その。あれは、喧嘩とかじゃなくて、なんというか。水蜜がね、わたしのこと、卑怯だって、臆病者だって言ったの。急にそんなこと言われてさ。わたし、驚いちゃって、ショックでさぁ。
 でも、水蜜の言うこと、間違ってなかったから、恥ずかしくて、悔しくて、えへへ。ねえ、こいし。わたしさ、人を殺すの、下手なんだ。ほんとだよ。いままで、たくさん殺してきた、みたいなこと言ってきたけど、あれね、嘘なの。だってさ、恥ずかしいじゃん。妖怪のくせに、人殺しが下手だなんて。水蜜に頼まれた殺しも、結局失敗しちゃってさ。代わりに、昔一回だけ上手に出来た骸骨を置いて、誤魔化したんだよ。笑えるでしょー。
 でもね、わたし、もっと上手になろうって決めたんだ。嘘を嘘じゃなくすればいいんだって、気づいたの。だからね、いつか水蜜にも教えてあげられるくらい、上手になろう、って、決めたんだ。あ。ここだけの話なんだけどね、その。……水蜜って、人殺せないんだって。なんか、尼? なんだってさ。な、内緒だからね。誰かに言っちゃダメだよ。
 え、知ってたの? なんで?
 え、しかもぬえに喋っちゃったって。えー。なにさ、せっかく、わたしだけの水蜜の秘密だったのに。ちぇ、つまんないの。
 へえ、それで、謝りたいんだ。なるほどね! そういうことなら、まだ間に合うんじゃないかな。水蜜、いったんねぐらに戻って、身支度やなんかをして、それから出て行くらしいから。急げばきっと間に合うよ。
 大丈夫だって。きっと、許してもらえるよ。だって水蜜、優しいもん。誰かに冷たくしたりなんて、しないよ、絶対。なにより、わたしのはじめての、上の名前がない仲間だしね!
 そうだ。こいしも、なにかプレゼントを持ってってあげなよ。水蜜、泣いて喜んでくれたんだから。え、もうあげたの? ふうん、そっか。
 あ、わたし? わたしはねぇ。コツコツ頑張って集めたトランプを、すべてみんなぜんぶ、水蜜に、あげちゃいましたー。えへへ。

 あ、それからね。水蜜にお願いされたことがあってさ。こいしには関係ないかもしれないけど、いちおー、言っておくね。なんか、水蜜が仲良くしてた男の人、いるじゃん? そう、わたしが殺し損ねたやつ! なんでもね、あの人、やっぱり殺さないでくれ、だってさ。他の人はいくらでも殺していいけど、あいつだけは見かけても放っておいてやってくれ、なんてさ。変だよね。殺してくれって言ったのに、やっぱり殺さないでくれ、なんてさ。だからね、わたし聞いたんだ。なんで? って。そしたらさ、またでたよ。
 それは、その。恋ってやつだよ。
 なんて言ってさー! くー! かっこいーよねー! クールだよね、飄々としてるよね、オトナだよねー!
 いやあ、わたしもさ、なんだかよくわかんないけど、してみようかな、なんて思ってさ! 恋!

 あ。それからね。そのあとにあの、お菓子屋さんに行ったんだ。うん、お菓子食べたの。途中で取り替えっこして食べたんだけど、やっぱり、水蜜の言うバナナ? っていうのはわかんなかったんだ。あれは絶対プリン味だよ。水蜜はさ、いいやつなんだけど、味蕾だけは信用できないね。やっぱり。
 でもね、話はここからなんだよ。お菓子が三分の一くらいに減ったころ、水蜜がさ、例の手品のタネを教えてくれたんだ。しかも、実演で! でもね、ひどいんだよそれが! わたし、思わず怒っちゃったもん! ああ、でも、そのあと急に、なんか寂しくなっちゃって。ちょっとだけ、泣いちゃって……。
 ああ、水蜜出て行っちゃうんだよね。思い出したら、また泣けてくるよ。およよ。

 あ、ごめんごめん! 急いでるんだよね! もう、わたしなんて無視してさっさと行っちゃえばよかったのに! ……って、あれ? もういないじゃん。いつの間にいなくなっちゃったんだろ。てゆーか、誰と話してたんだっけ。えー。わたしひとりで喋ってたってこと?
 うわあ、はずかしー。
 えへへ。

   終 2

  あー、落ちる。背中に衝撃。腐葉土、水気を帯びて弾ければ、あたしはきっと泥まみれ。不快な冷たさに背中が濡れて、仰向けの視界、縁を囲むように木の枝と葉、中心に、夜空。星々がさんざめく。頭上から、声をかけられた。
「おうどうしたよ。大妖怪ともあろうぬえ様が、腰掛けから手を滑らせて落ちるなんて」
「……うるさいな」
 後頭部を柔い地面にねじ込ませて見上げることもない。それは水蜜、村紗水蜜の声だ。
「なあ、答えあわせをしようよ」
「いいよ。いまさら。あんたに友達がいないってことは、よくわかったから。キスメ、なんにも知らないじゃないか」
 頭頂、視界の外で水蜜が笑う。なんだよ、たのしそうにしやがって。こっちは全然、そんな気分じゃないんだ。
「ハハ、そんなんじゃないよ。前に、キスメとトランプをやったろ? ほら、ダウトってゲームさ。覚えてないかな」
「やったっけ。……ああ、キスメがイカサマしたやつか。それが、なんだっての。いまさらさぁ」
 水蜜はまた笑って、あたしの腹の上に何かを放った。軽い衝撃のあと、それは腹の上でバラバラと散らばりそうになるから、焦ってまとめる。その感触でわかったことは、腹の上に放ったそれが、束になったカード。トランプだってこと。
「それがさ、キスメ、イカサマしたわけじゃないんだよ。私たち、はなから騙されてたんだ」
 まとめたトランプを眼前で広げれば、薄暗闇の中、微かな月明かりに、トランプ特有の、さまざまな柄が判った。
「あ? なんだこれ、あはは! ひどいよ、これ。あー、なるほどね、イカサマはしてないけど、いやでも、これはひどいよ。ひどすぎる、はは!」
「だろ? しかも、これをくれるときのキスメのセリフときたらさぁ。わたしが集めた五十二枚を、水蜜にあげちゃう。だってさ! いや、買えよ!って。私、おもわず笑っちゃいそうになって、堪えながら受け取ったんだよ」
 五十二枚のトランプ、内訳はめちゃくちゃだ。Jは六枚、5は三枚、Kに至っては七枚ある。あれだけ悩まされたAも、数ある混沌の中の一つだったというわけだ。
 あー、それにしたって、虚しくなる。
「……はい。返すよ、これ」
「いいよ。それ、おまえにやるよ」
 トランプごと後方に差し出した腕が辛くなってきても、水蜜はトランプを受け取らない。面倒になってそのまま脱力すれば、腕は泥濘に沈み込む。トランプだって、泥にまみれる。あーあ、もったいない。でも、いらないね。こんな、バラバラのトランプなんて。
「じゃあ、私は行くよ。明日人を迎えにいく用事があってね、それが、朝早いんだよ。ああ船で行くんだけどもね。でかい船さ。その船がまた遠くてさぁ、一つ向こうの森の中だ。そこに戻っていっかい寝ることを考えると、相当急がなきゃいけない。だから、もう行く」
「……あっそ」
 水蜜の足音はあたしを置いて、そのまま遠ざかっていく。音が聞こえなくなるまでの間、ずっと夜空を見ていた。星がさんざめく黒い空、イメージではその中に、劇色の円盤のいくつもが見える。円盤は不規則に揺らめいて、静粛な夜空をかき乱す。これがイメージではなく現実だったら、どれだけ素晴らしいだろう。足音が消えて立ち上がれば、泥まみれの背中が冷えた。
 月を探せば未だ、月は山の端にあった。半月となって、山へ隠れようとしている。不意に風が吹いた。木の葉が不快にざわめいて、否応無しに心が凪いだ。体を舐める風は泥のそれより暖かく、春の気配がした。放っておけば、朝が来てしまいそうだったから、あたしは思わず、駆け出していた。

 ストップ。
 一仕事する前に、腹ごしらえしとこーかな。
 そうしよ。
 なに、食べようかな。
 どうしよ。
 いやいや、決まってる。

 エビフライにはやはり――。

   終 3

「あー、たぶん。もうしばらくすれば、地上に寺ができるよ。でっかいやつがね。そしたらさ、覚えてたらでいいよ。その、寺に来てくれ。私はそこにいるからさ、面を取りに来てよ。そうしたら、友達になろう。私もね、冷たくしすぎたから。謝りたいんだ、いろいろね」
「えー。いまじゃだめ? もう謝ってるみたいなもんじゃん! それに、お面はおねえちゃんにあげたんだもん。返さなくて、いいよ」
「いいよ、取りに来いって。こんなもん持ってたら、いつまでも鼠にからかわれるんだから」

 そんな、話し声で目が覚めた。それは紛れもなく村紗の声だったから、私はすこし驚く。てっきりもう帰ってこないものだと考えていたが、どうやら杞憂で済んだらしい。しかし、怪訝なのはもうひとつの方の話し声だ。村紗の周辺は常にネズミたちに報告をさせていたから、殆ど漏らさず把握している。しかし、いままでの情報から推察しようにも、村紗と話している声の正体がわからない。とすれば間違いない、こいつがAだ。
 ネズミから報告を受けていた人物は四人。キスメにぬえ、それとあの男。そして、もう一人がA。明瞭なはずのネズミの報告が不明瞭になるのは、いつもAのときだった。不穏さを感じていないでもなかったが、まあ。今の話を聞く限り、とりわけ注意することもないだろう。なにより、村紗は戻ってきた。なんにせよ、戻ってきたなら、それでいい。

 ああ。安心した。これでやっと、計画を実行できる。
 あーあー。夜空なんか眺めて。星に地底のお友達でも探してるのかい。いい気なもんだ。忙しかったんだぞ、こっちは。聖がいなけりゃ、ただでさえ生活能力の低いやつらなんだ。ご主人なんて、殊にさぁ。要の雲山だって、君のせいでほとんどカタワになっていたんだから。私がどれだけ気苦労したか。
 ああ、ダメだ。夜明けは近いというのに、どうしても眠たい。

 おお、そうだそうだ……君も、少しでも眠るといい。ほら、眠ってしまえ。なにをうろうろしてるんだ。布団はごちゃごちゃしてるけど、そこにそれらしい空席があるだろう。ほら、そこに、身を横たえてしまえ……そうだ、それでいい。
 ああ、よかった。なんにせよ。
 安心したよ、村紗水蜜。


「まったく、心配したんだから。行けたら行く、なんて、子供みたいなこと言って! それで、結局今の今までまで帰らなくて、もうどれだけ心配したことやら。わかってんでしょうね、村紗! 眠いだのなんだの言って、手を抜いたりしたら読むからね、経を、即座に!」
 経を、即座に! か、いい言葉だけれども、もうすこしいい目覚め方をしたかった。あれから一寸も経っていないはずなのに、舷窓には東の空の混沌が映っている。紺に橙と緑が爆ぜて、出来の悪いヘアカラーの様相だ。そんな空にはなにやらキラキラとした粒が舞う。遠くて確認は難しいが、心当たりならある。
「大丈夫だって。わかってるよ、夜明けとともに月を追う、だろ? 空だって凪いでるし、船も機関室以外問題ない。それに、今日の私はバリバリなんだから」
「はは、バリバリってなによ。……え、機関室以外?」
 バリバリねえ。なんだかな、そういう言葉は一輪の方が似合いそうだ。バタバタドタドタ、機関室まで駆けていく。うるさくて仕方ない。諦めて、私も起きるとしよう。
「……おお。村紗じゃないか。久しぶりだね、計画は覚えてるかい? ああ、覚えてるならいいよ。船は夜明けとともに船を追う。はは、シンプルで、かっこいいだろう。私が考えたんだぞ。そうだ、向こうで誰かに計画を話してはいないだろうね。外部の妨害は二、三視野に入れてるけども、妨害があったとして、それで手一杯だからね。困るよ、話されちゃ」
 ああ懐かしの、じとっとした目つきだ。どうも誤魔化せないらしい。
「ようやく起きてきて、他に話すことないのかよ。なにが〝連中にはそう伝えておくよ〟だ。宣いやがって。なにが行けたら行く、だ。人を約束を守れないガキみたいにするな」
「人て。悪霊じゃないですか」
「悪霊て。村紗水蜜やぞ」
 やっぱり、悪くないな。この感じ。あっ! ご主人にみられてんじゃん! は、はずかしー!
「――ちょっと村紗! なに、あれ! 飛倉が、ば、ば、ば、バラバラになって……ま、まさか知ってたんじゃないでしょうね! あー、絶対知ってた! 知ってました、みたいな顔してるもの!」
 あーあー、相変わらず、ひどいやつだよ。村紗水蜜。一輪が可愛そうじゃないか。どれ、一芝居打ってやろう。知らなかったふりというのは、とりわけて、如何なる状況でも自分へと有利に働く。
「村紗、君、喋ったな! ああ、誰だ。決まってる、よりにもよって、あの妖怪……ああ!」
 ほら、こうすると、超速理解した感じがでて、すごくかっこいい。ああ、ご主人から視線を感じる。尊敬の念というやつだね。いやはや。
「……いいさ、そこらに散らばってるのはあれ、飛倉の破片だろう? 現に船は飛んでるし、バラバラだって問題ないなら、いい。私があれを集めてくるよ」
 そして冷静さを取り戻し、あまりある知性をアピールだ。ああ! あまりにも頼もしすぎるよぉ、私。それにしても、なんだ。ご主人は。やけにこっちをみているな。さすがにちょっと、気になってきたぞ。
「計画に変更なしだ。このまま入り口まで向かって、そしたらご主人の出番さ、宝塔を使い……なんだご主人! さっきからじろじろ見て! まったく、人が気持ちよく喋ってるところに水を差すもんじゃあ……あっ!」
 終わった! ご主人のどこにも、宝塔が見当たらない! ああ、なるほどその視線。その怯えた表情……ああ、いやだ! そんな表情で近づいて来るな、こっちに来るな。耳打ちなんてしないでくれ! き、聞きたくない!
「な、ナズ、どうしましょう……。な、なくして、なくして! しまいました……」
 ああ! このバカ! バーカ!
「お、ナズーリンキックだ。縁起いいなあ」
 うるさいぞ村紗! ああ、みんなおまえのせいだ。ど、どうしよう。とりあえず、私が探しに行かなきゃいけないのか? あ、焦りが露呈するのはいやだ。どうにか自然に出ていける方法はないものか!
「な、なによ。どういうこと? 星も、雲山まで、青ざめちゃって。そ、そうよ村紗! あんたでしょ! あんたが喋ったとかなんとかって……だ、誰になにを喋ったわけ! いますぐくわしく聞かせなさい! この怪しい雲行きの原因を、いますぐ吐け!」
 ああ、いい感じに騒がしくなってきたぞ。今のうちにスルッと外に出てしまおう。
「一輪、あ、あとよろしく。私、破片集めてくるから、じゃ、じゃあね……」
 ああ、ご主人! 裾を掴むな! 離せ、このバカ!
「ちょっとナズーリン! 待ちなさいよ、どういうことなのこれ! なんか、わたしだけわかってないみたいな――」

 村紗、何か言え! 君が悪いんだから、どうにか、私を助けろ!

「――計画実行の時が来た! 船は夜明けとともに月を追う。面舵いっぱい、全速前進! 安心しろよ一輪。船に後光が差す頃にゃ、聖輦船は字の如く、その役割を果たしていることだろうよ」

 そうして、私は一輪の白黒する目を盗んで外に出た。恐ろしそうな表情で裾を掴むご主人を思いだせば腹が立つ。あれほど宝塔を持って外に出るなと言ったのに、どうして言いつけを守らないのか。ああ、けれど、肌身離さず持っておけと言った覚えもある。かといって、それが私の過失かといえば、そうは思えない。
 まあ、しかし。散らばった飛倉に関しては、村紗に任せてもいいだろう。計画に鵺を担ぎ込んだとはいえ、船には一輪もご主人も、それに雲山だっているんだ。三人の眼前で破片を見過ごすことなんてできやしない。なにより、実行の口火を切る村紗の顔に、嘘は見えなかった。成功させたいのか、失敗させたいのか、右往左往してまるでわからないヤツの行動も、夜明けの空を見れば納得できた。
 東の空は爆ぜている。紺に橙と緑が混ざって、出来の悪いヘアカラーの様相だ。振り向けば西の空は紺一色、暗闇が溶けかけの月を守るように満ちている。しかし空は凪いでいた。ぜんぶをひっくるめて、春一番の風に凪ぐ。半球状のパノラマすべてを視界に収めることなんて、常に叶わない願いだから、右往左往してまるで読めない村紗の心だって、そういうのも、アリだと思えた。
 ああ、それにしてもあの台詞。村紗の言った後光のくだり。私はあれが言いたくてこの計画を練ったのに! どうも、連中に関われば損ばかりする、気苦労ばかりする。不意に浮かぶのは村紗の嘘、曰く、恋とかなんとか。
 あー、行けたら行く、なんて誤魔化してなんかやらずに、村紗の言った本当を、みんなに伝えりゃよかった。なにが恋だ! 聖が復活すれば、私はやっぱり損をする。宝塔なんて見つからなければいい、鵺がすべてをめちゃくちゃにすればいい。なんて、思うけれど。
 空に散らばって輝く破片は、まるで、航路を指し示しているようで。まるで、この航海を祝福しているように思えて。なんだかどうも。すべてがきっとうまくいく、そんなふうに、思えてしまう。

 宝塔をみつけて戻ったら、もう一発ぐらい蹴ってやろうと。

   終 4

  お寺の中、リビングは意外とフローリング。テーブルだって背が高いし、椅子もそれと丁度いい感じの高さになってる。
「さあ、状況をまとめようか。この寺にはどうやら、ひらがなも読めないやつがいるらしい。それじゃあ、まずはご主人、頼んだよ」
 ネズミのひとが声を上げると、トラのひとがおずおずと前に出る。こいし、ちょっと大変なことしちゃったかも。
「はい……。私、ちゃんと書いておいたんです。パッケージに、とらまるって。楽しみにしてました……お勤めが終わったら食べようと思って……」
「そこまでだ。ありがとうご主人。下がっていいぞ。……このように、ご主人はパッケージに自分の名前を記しておいたことを、たしかに記憶している。問題は次だ。ご主人が勤めから戻ると、それは冷蔵庫から忽然と姿を消していた。となればもちろん、その時間に寺にいた君たちの中の誰か。犯人はこの中にいる」
 椅子に座ったみんな、思い思いにざわざわとする。そしたらまた、ネズミのひとが声を開いた。たのもしー。
「一斉に喋るんじゃない。学級裁判をやってるんじゃないんだぞ。聖が勤めから戻る前に決着をつけようと私を呼んだんだろう? なら、私のいうことを聞いてもらうぞ。……挙手制だ。この場は挙手制を採用する。挙手した者から私が選び、選ばれた者だけが発言する。異議は認めないぞ。いいな」
 これで、みんないうこと聞くから不思議だよね。しーんとしちゃって、でも、みんなして手をあげてるから、なんか可笑しい。
「村紗」
「はい。……私はぬえが怪しいと思います。理由はバカだからです」
「なにを!」
 えー? そういうの、アリ? うちのペットたちでも、もうすこしマシだなあ。
「ぬえ、黙れ。挙手してれば当ててやる。順番だ、順番。……じゃあ、一輪」
「はい。……私はむしろ、そういうふうに真っ先に誰かを指す村紗が怪しいと思います。ちなみに私は食べてません、雲山と一緒に読経してたし」
「真っ先に保身に走って、よく言うよ。ふたりでこっそり食べたんじゃないの、共犯でさぁ」
 うう、おねえちゃんはなんでこう、怪しまれるようなことばっかり言うんだろ。食べてないなら、黙ってればいいのに。
「村紗、黙れ。次喋ったら問答無用で犯人だからな。……じゃあ、ご主人」
「はい。……私はもちろん犯人じゃないです! 被害者ですから! なんか、ぬえがさっきからじろじろみてくるんです、自分で食べたの忘れてんじゃないの? って感じの目で……。だから、どっちかって言うとぬえが怪しいと思うんです、私は!」
 だから、って言うのも、なんだかなあ。お寺のひとってみんなこーなの? 基準がすこしズレてると思うんですけど!
「よし、じゃあぬえ。被害者から直接の疑いがかかったぞ、どうなんだ」
「はい。……寅丸の言うことはお門違いだと思います。まず私怨でもの言うのはどうかと思うし、何よりあたしは、そんな、プリンの容器なんて見たことないもん。なんかさー、雲山あたりが間違って食べちゃったんじゃないのー? さっきからずっと黙ってて、いちばん怪しいよねえ」
「ちょっと! 雲山は私と一緒にいたって言ってるでしょ!」
「どうだか」
「な、なによー!」
 うわあ。ネズミのひとが言う学級裁判っていうのが、なんとなくわかったかも。それってきっと、子供の喧嘩を指す言葉なんだろうね。たのしくなってきたかも!
「ふたりとも、黙れ。困ったな、堂々巡りじゃないか。ん? ああ、村紗。いいよ、そんなに必死に手をあげなくても。じゃあ村紗。喋っていいぞ」
「はい。……なんだろ、さっきはぬえのこと怪しいとか言っちゃったけど、ここまでみんな否定するとなると、なんかさ。犯人、この中にはいないんじゃないかって思うんだよね」
 さすがおねえちゃん! するどい! でも、ひどくない? 食べていいって言ったの、おねえちゃんなのに……でも、あれ? ほんとにそうだったっけ? なんか、違う気がしてきた。もっといえば、わたし、食べてないかも!
「なるほど、この場にいない者の仕業ということか。となると、あの狸か。……ぬえ、あれと親しい君の意見を聞こう。どう思う。やったか、あの狸は」
「はい。……うーん、違うんじゃないかな。だって、エビフライですら見慣れてなくて、怖がって食べないんだよ、あの人。プリンなんて、どうしても食べないと思うけど」
 えー、意外。あのひと、新しいモノ好きだと思ってたのに。なんとなく。
「なるほど。となると、残るのは本当の部外者の線だな。そうだな、そいつを仮にAとしよう。だが、あり得るだろうか。そうすると、Aは一輪と雲山が読経をするお堂の前を見つからずに通って寺に侵入し、その後、村紗とぬえ、それにご主人の誰にも見つからずにプリンを奪った。そういうことになる。だって、誰もみていないんだろう? しかしAにそれが可能なら、プリンだけじゃなく、もっといろんなものをわんさか盗られてるはずじゃないか。来るときに宝物庫を覗いてみたが、減ってるものはなにもない。やっぱりすこし無理筋だな、部外者説は」
 そうだよそうだよ。わたし、わざわざ入り込んで、プリンだけ食べるなんて、そんな不毛なことしないもん! あれ、でも、じゃあわたしは何しに来たんだっけ? 思い出せないけど、いいや! 犯人がわからなきゃ、もう帰れないもんね!
「じゃあやっぱり最初に言った通り、ぬえが怪しいよ」
「だから、あたしはさっき言ったじゃん! プリンの容器なんてみなかった、って!」
 またはじまった! はやくしないと、えらいひと帰ってきちゃうよー。
「黙れ! ふたりとも。……まったく。ぬえ、君、プリンの容器をほんとにみなかったんだろうな。ああ、わかってるさ。疑ってるわけじゃない。ただ念のため、容器の特徴を確認しておこうと思ってね」

 それ、意味あるのかな。このネズミのひとも、大概へん!

「……ご主人。確認だが、プリンの容器というのは、こう。丸くて、プラスチックで、底に、プッチンするための突起のあるやつか?」
「はい、そうです。間違いありません。その容器に、たしかに私の名前があったはずなんです。とらまる、って……」
 あれじゃない? ひらがなだとかわいいから、かわいいプリンの容器との親和性が上がって、製品の名前だと勘違いされて、それで、食べられちゃったていう。そういうあれ。こいし、イイ線いっちゃってるかも。でも結局、誰が食べたわけさ!
「ありがとうご主人。……さて、容器について確認したことで、一つ、或ることが明らかとなった。……わからないかい? わからないだろうね。じゃあ、君たちに教えてあげよう。あのプリンを食べたのはね、私だよ。言われて思い出した。昨日食べたんだ、あれ。私が。美味しそうで、つい」

 一同驚愕! 一生のうち一回は使ってみたい言葉番付首位の言葉を、こんなところで使えるなんて!

   終 5

  明朝。寝床の襖を開ければ、縁側から東の空がみえる。天気が悪い。紺色く、意味もなく湿って、意味もなく曇っている。縁側にはヤツが居た。座って、足をぶらぶらとさせて、庭を見ている。
「おはよ、はやいね。あ、そうだ。あんたさ、人のもん勝手に食べたらダメだよ。よくもまあ、そんな行儀悪いことができるよな、よくないよ」
「うるさいな。あんたの仕業でしょ。……まあ、なんでもいいけど。プリンなんてまた買えばいいだけじゃないか、よくもまあ、あそこまで騒げるもんだよね」
 朝の鳥が群れになって、空を横切る。相変わらず、口の減らないやつ。
「どうせ朝の読経もサボるくせに、こんな早起きしてどうすんのさ」
「あんただって、どうせサボるんでしょ? 耳に毒だのなんだの言って」
 庭の蓮池に、蛙が鳴いた。すこし、雨の匂いがする。いまにも降ってきそうだ。
「ねえ、あんた。いつまでここにいるのさ」
「あんたこそ」
 蓮池の向こう、生垣に、紫陽花が咲き乱れている。青いのも、赤いのも、両方あるけど、中間は無い。
「あのさ。……実はね、恥ずかしいこと言うようだけども。あんたが居なくなるなら、一緒に付いて行こうかな、なんて、思ってんだよ」
「居なくなるなら、って、なにそれ。居なくならないよ、そうそうは」
 あー。
 降ってきやがった。
「続くかな」
「さあね」

「……えー。蓮池を、囲む地面はさみだれて、草履の裏は、泥まみれ。……どう?」

「はは、全然ダメだよ。しょっぱいね」


   『鵺似 有、塩味。』 完。


   誰もがそれをやめられない!


 その空間は黒だった。地面はピンクと赤が混ざり、妙にざらざらと、ラメのような粒が散りばめられている。夜と形容するにはあまりにも虚しい空には一つ、人面の月が浮かんでいて、月は優しく微笑んで、悲鳴を上げる三人を見下ろしていた。
「ああ! にとりさん、早く言ってくださいよ。にとりさんが吐かないと、私達の足、本当に!」
「わ、私はにとりさんの考えてること、なんとなく分かってますから! 白狼天狗はハナが利きます! だから、いまさら言われたって、おどろかないし、笑わないし、だってなにより知ってたし!」
「えっと、その、わたし、だって、そんな!」
 錆びた拘束椅子に身体の自由を奪われた文と椛は必死でにとりに懇願する。二人の顔は青ざめて、にとりの頬のみが紅潮していた。
 三人の太腿の上に、けたたましい駆動音が在った。原理は不明だが、凄まじい速度で回転する丸鋸は、拘束椅子に備え付けられた機能の一部だった。
「ああ、にとりさん! 早く、早く!」
「に、にとりさん! 言ってください! 後生だから!」
 目に涙を浮かべ、紅潮した顔をぶるぶると震わせて、にとりは意を決して口を開く。
「あー! わたしは、わたしは二人が! 二人のことが――」



   序



「もう一軒! もう一軒いきましょうよ! ねぇいいじゃないですか、ね! もう一軒いきましょうってばー」
 虫も寝静まる丑三つに、射命丸文は、木へと陽気に語りかける。少し離れたところには水銀灯が立っており、薄青の灯は文の醜態を引き気味で見つめる河城にとり、犬走椛両名の頭のてっぺんを、淡く、照らしていた。
「にとりさん、文さんたらあんなことになってますけど、どうしましょう」
「いいよいいよ、ほっとけって。あいつは構って欲しくてあんなふうに愛想振りまいてるだけなんだから」
 にとりの口元には煙草が咥えられており、朱く燃える先端から白紫の煙が立ち上っている。煙は水銀の灯に曖昧に溶け、群がる蛾達は煙に噎せるようにはためいて、破裂音を奏でていた。
「あれぇ。にとりさん、煙草なんて吸ってましたっけ」
「最近始めたんだ。そうそう、それで、ちょっと考えたことがあってね」
 え、なんですか。と、興味ありげな椛に対し、にとりは自信満々の顔つきで語る。
「射命丸。あの酔っぱらいに似てるものはないかをさ、考えてたんだ。それで考えついたのが、これ」
 にとりは言いながら、組んだ腕の片方、人差し指と中指に煙草を挟む左手をゆらゆらと振った。しかし椛はにとりの言わんとするところを今ひとつ解せず、期待の混じった微笑を貼り付けて、首を傾ける。にとりはすかさずふふんと笑って、左手を揺らしたまま、言う。
「煙草だよ、煙草。射命丸、あいつはね、タバコのフィルターと似てるんだ」
 椛は相変わらずに首を傾けたままでいる。
「煙草ってさ、タールとか、ニコチンとかさ、そういうのを摂取するために吸うもんだろう? 煙を吸うためにあるんだよ。だけどさ、フィルターはそれを邪魔してる。椛、わたしが言いたいこと、わかる?」
 椛はゆらゆら上下する烟草の朱い先端に夢中になりながら、「はい、なんとなく」とぼんやり答えた。
「つまり、つまりね。わたしが言いたいのは、射命丸、あいつはいらないってこと!」
 椛はぼんやりしたまま、「おおー」と、小さな朱燃の軌道を追い続ける。
「今日だってさ、わたしと椛だけで飲もうって話だったのに、あいつが飛び込んできただろう? そしたらこのざまだよ。毎回だ、毎回。あいつが来るといっつもメチャクチャ。わたしたちも子供じゃないんだし、もうちょっと落ち着いて呑みたいもんだよ、ほんと」
 つまり、にとりは椛をタールやニコチンといった、有害物質に擬えたわけだが、当の椛はそれに気がつくこともなく、にとりの口元に落ち着いた、朱い光を見つめていた。
 一人の友人をこき下ろすためにもうひとりを毒に擬えるにとりにしても、それに気づかない椛にしても、ほんとを言えば酔っていた。木々に絡む文と同等に、酩酊していた。文は酔えば、二人の気を引くべく、酔った上で泥酔したふりをする癖があり、にとりは酔えば、タールに類似した気分を愛し、椛は酔えば、頭の片隅に浮かぶ世界の破滅を待ち望んだ。
「ねぇもう一軒! もう一軒行きたいんですよお私はー」
 幸福の到達点めいて聞こし召した文の声で、椛はやっと朱燃の呪縛から解き放たれた。木に縋り付き駄々をこねる友人を一瞥し、椛は言う。
「たしかに。あの人と一緒にいると、気が触れそうになることがあります」
 煙草を用いて三人の関係をそれぞれ通釈するならば、煙草を始めたばかりの、タールやニコチンが、自分の身の丈を伸ばしてくれるものと疑わないにとりにとって、椛はタール、文はフィルターだった。素面ならば煙を有害物質と断じて曲げない椛にとっては、にとりはフィルター、文が毒だ。そして、文にとって、二人はおしゃぶりだった。ただ、これはあくまでも、三人が出来上がったときにのみ浮かび上がる関係性で、素面ならばこの限りにはない。しかし、こと最近において、三人は酒の抜けることのない生活を送っていた。
たまに仕事をするにしても、それは酔いの気まぐれ他ならず、文は適当なデマを書き連ねては、違期に憤懣する印刷部に平謝りをし、にとりは技術者という肩書に纏わる職人の外套を隠れ蓑に納期を伸ばした。
 椛も椛で哨戒の職務が在ったが、それは特に椛でなければ不可能な仕事というわけではなく、誰がそこにいてもいい、寧ろ、誰もいなくてもいいような仕事だったため、最近の椛は殆ど、その職務を放棄していた。
 人生に対し上納するべき真っ当さの納期を悟らない三人では無かったが、直面するのはあんまりに辛いので、三人とも、酒を飲んでは騙し騙しに生きていた。
「にとりさん。私、眠たくなってきちゃいましたよ」
「ああわたしも。お、ちょうどよくふかふかしてる場所があるぞ。なんてお誂え向きなんだろうなあ」
 にとりと椛は水銀灯の隣の、ゴミ捨て場の袋の山に飛び込んだ。
「なんだか落ち着くな。うわあ! 落ち着いたら嫌なこと思い出しちゃったよ」
 にとりは、「あー! あー!」と声を上げ、点滅する納期の二文字をかき消した。それは三人に共通する発作だった。少し離れてにとりの発作を耳にした文も、すかさず共鳴するように声を上げた。
「あはは。終わりですよ、終わり」
 自由の味を知ったばかりの椛にとっても、にとりの発作は辛辣だった。三人のかっ喰らう酒はいつも自由の味がした。自由はいつだって、発狂と、平熱と、身の破滅の味をしていた。しかし、三人は三人とも、酒を飲む事をやめなかった。二人が飲めば一人も来た、一人が飲めば二人が来た。三人は互いに、まるで何かに惹きつけられるように集まっては、酒を飲んだ。
 ゴミに埋もれて叫ぶにとりを目掛けて、「わー!」と文が飛び込んだ。
「うわ! やめろ、触るな。気持ち悪いんだよお!」
 にとりが本気で嫌がると、文はまた、「わー!」と叫んで、椛の胸に飛び込んだ。
「あはは。終わりですよ、終わり」
 椛は文の頭を木魚にして般若心経を唱え続けて、そのうちに眠った。
 頭部へと規則的に訪れる衝撃に、文は無意識に、母の胎内を想った。
 二人が寝静まってからしばらく叫び続けたにとりだったが、急に、辺りの静けさが鮮明に感じられ、声を引っ込めた。それから間もなく、にとりも眠りに落ちたのだった。
 水銀灯はぼんやりと淡く、青白く。コンクリートの低い塀に囲まれた、ゴミ捨て場を照らす。
 寝息と、蛾の爆ぜる音。そして、夜風に靡く木々の音が、妙に静かな夜だった。



   一 誰もがそれをやめられない!


 そこは、天狗の寮の前だった。冷たく透き通った空に浮かぶ肥えた雲は、穏やかな白昼を讃えている。姫街道はたてはゴミ置き場でもみくちゃになった三人の前で、額に手を当て、ため息を吐く。ああ、椛とにとりがこうなったのも、みんな文のせいよ。ふたりとも、ちょっと前まではおとなしくて、いいこだったのに。はたては暫し考えて、大きく息を吸い込んだ。
「起きろ! このアル中妖怪共!」
 三人は急な怒声に各々呻いて、目を擦り、頭を抱えるように耳を塞ぎ、冷えた体温に涙目となった。
「あんたら揃って仕事サボってんの、あたし知ってるんだからね。そんなんじゃそのうちほんとにクビになるわよ」
 三人が自身の職務をおざなりに飲めば、寮で生活する天狗達から小言を聞かされるのははたてだった。あの三人をどうにかしてくれ。ゴミと一緒に回収されてしまえばいい、等々。はたてには、三人をどうにかしてやりたい友人らしい気持ちと、ゴミと一緒に回収されればいいという、半ばあきらめに似た気持ちが在った。それでも諦めずに、こうしてゴミに塗れる三人を叱責するのは、やはりはたてにとって三人は友人であるためだ。
 しかし三人は、そんなはたての想いなぞには頓着することもなく、起き抜けに、怒声と冷たい外気に苛まれる己の悲運に涙することで精一杯だった。
「ほら立ちなさい! 立て! 立った、立ったわね。そしたらとっとと仕事をしなさい。文は部屋に戻って原稿を書く! 椛は哨戒に行く! ほらにとりも!」
 起き抜けのぼんやりとした三人の頭では、その怒声の内容も、声の主も判然としなかった。自分たちはただただ理不尽に起こされ、不条理に怒鳴られている。
「こわ……」
 三人は寒さに耐えるよう、やおら肘を抱いて、それぞれ今際の際の命乞いめいた情けなさで呟きながら、おもむろに歩き始める。
「あ、こら! あんたらどこ行くのよ!」
 背後から聞こえる謎の怒声と、空の青さに怯えながら、三人は「こわ……」と繰り返し、宿酔に足を取られつつ、歩き続けるのだった。

「今日はどこに行きましょうか。昨日の店でもいいんですけど、多分まだ開いてませんよね」
「えー、わたしはいやだな。開いてたとしても。あの店さ、酔ってるときは気にしなかったんだけど、知り合いがいたんだよね。昨日」
「部屋はどうですか? 誰かの」
 三人は里にあるちょっとした広場で作戦会議をしていた。相変わらずに青い空の下、そこには子供達のはしゃぐ声が響いている。にとりと椛はベンチに座り、文は立っていた。にとりの右手は左肘で挟まれており、左手には缶ビールが握られている。文の左手はジーンズのポッケに突っ込まれていたが、右手にはやはり缶ビールがあった。椛にしても大差はない。強いて挙げるとすれば、椛は二人と違い、一本の缶ビールを両手で握っているという点のみだ。
「部屋! 椛さん変なこと言わないでくださいよ。どこに昼間っから働きもせず寮で騒げる天狗がいるんですか。椛さんも同じとこに住んでるのに、よくもまぁそんな提案ができますね」
「うーん。わたしもいやだな、部屋は。仕事道具だらけで、どうしても目につくだろうから」
 椛はうーんと唸って、口を開く。
「やっぱりそうですよね。でも私、早くどこかに行きたいんですよ、こうして空が明るいと、どうも落ち着かなくて」
 たしかに、と腕を組み、にとりと文は考える。椛の言うことは二人にも分かった。昼間っから酒を飲む至福は、三人の中から随分前に消えていた。
 ――ときに、夜の視界はとても狭い。もし自分の目の前に鏡があったとしても、自身の表情がわからないほどに、暗い。それでも朝になれば鏡には、明瞭に、映し出される。たとえ自身がどんな表情をしていたとしても、どれだけ気分と裏腹な顔をしていたとしても、朝がくれば必然、映し出されてしまうのだ。それはとても残酷な話である。しかし、これは酒を飲めば目の潰れることを知っている三人には、まったく、関係のない話であった。
「――そうだ! 地底ですよ、地底に行きましょう。このところ全然行ってなかったものだから、すっかり忘れてましたけど。やぁ、あそこは常夜の国ですよ」
 朗らかな文の声に、そりゃあいい! と二人は立ち上がった。
「そうと決まれば早速行こう! あの子供達を見てると、なんだか死にたくなってくるんだなあ、わたしは」
「地底といったらお肉ですね、お肉。ああ、楽しみです」
 三人は勢いよく缶ビールを空にして、ベンチの隣のゴミ箱に放って、すぐに歩き始めた。
 数歩進むと、不意に、にとりの足にボールがぶつかった。にとりは、なんだこれ、とボールを拾い上げ、やおら地面に弾ませる。なんだか面白いぞ、と夢中になって繰り返すにとりをよそに、二人は上機嫌で『おお牧場はみどり』を朗らかに歌っている。三人はもはや夢中だった。遠い背後でボールを返せと叫ぶ子供の声に気づけないほどに夢中でいた。地底に着くまでの間、空の青さを忘れるためには、何かに夢中にならなければいけないと、三人は無意識下に悟っていたのだ。
 にとりに訪れた空前の鞠つきブームは広場を出る前に――跳ねたボールを取り逃した瞬間に。――終焉を迎えた。にとりは茂みの方へと転がっていくボールを暫しつまらなさそうに見つめ、ボールが茂みへすっかり隠れてしまったころ、すっと前に向き直っては、元気よく、「ホイ!」と口を切った。

 おお牧場はみどり 草の海 風が吹くよ
 おお牧場はみどり よく茂ったものだ ホイ
 雪が解けて 川となって
 山を下り 谷を走る
 野をよこぎり 畑うるおし
 よびかけるよ わたしに ホイ

 おお聞け歌の声 若人らが歌うのか
 おお聞け歌の声 晴れた空のもと ホイ
 雪が解けて 川となって
 山を下り 谷を走る
 野をよこぎり 畑うるおし
 よびかけるよ わたしに ホイ

 三人の『おお牧場はみどり』は地底深く、旧都の繁華街その入口付近へ至るまで続いた。昼間っから陽気なやつらもいたもんだ。馬鹿みたいに陽気なやつらだ、此処に何のようがあるってんだ。地底に住む酒浸りの有象無象が向ける怪訝な眼差しに気づくこともなく、三人はニコニコと、これからについて話し合っていた。
「やあ、ずっと歌ってたおかげか、意外と早く着きましたね。おわー! どうしましょう! みてくださいよ、この場末の感じ! 中繁盛ってところでしょうか、うんうん。いやあ! 楽しみですねぇ!」
 文は感動が剰ったか、自らの頭を両掌で押さえつけながら揚々と謳う。
「ほんとほんと。そこかしこにぶら下がる提灯が祭りみたいで、まさしく常夜だね」
 腕を組んで頷くにとりの言う通り、繁華街のそこかしこはロープが伸びて、ロープには提灯やら何やらが吊り下げられ、薄暗い地底を橙に彩っている。
 看板にまみれたぼろの直方体に囲まれた通りの狭さと暗さ、そして賑やかさは、にとりと文にとっては克明に夜だった。しかし、昂揚する二人をよそに、椛はどこで買ったかプラスチックのコップに注がれた小麦色の炭酸にちびりと口を付け、おもむろに口を開いた。
「でも、なんでしょうね。確かにここは落ち着くんですけど、でも、なんというか。……歌が悪かったのかな」
 場に似つかわしくない椛の訥々とした語り口に、二人は笑顔のまま首を傾げる。
「あの、なんというか。……ここは薄暗くても、結局、外は明るいわけじゃないですか。広場を出てからまだあんまり経ってないし、ここも文さんの言う通り、まだ中繁盛だし。やっぱり、その、昼を感じるんですよ。外に居たときよりなにか、地底に潜ってからの方が、よっぽど。壁一枚隔てて晴天、みたいな。映画館を出れば真っ昼間、的な。私はどうも、裏恐ろしい気分になってきましたよ」
 椛の話を聞いた瞬間、笑顔な二人の視覚野にも、青く透き通る空のイメージが鮮明に映し出された。おまえが口にしなければ私は平気だったのに、と思わない文とにとりではなかったが、結局、二人は「たしかに」と頷いては腕を組んで唸りをあげた。
「うーん。でも、そんなこと言ったってさ。さっさと酒を飲みたいことには変わりないんだよな」
「そうなんですけどね。でも、椛の言う通り、私もどうも裏恐ろしい気分になってきましたね。これじゃあ飲むにしたって、宿題やってないのに遊ぶ、みたいな気持ちで、十分に楽しめない気がするんですよ」
 コップをちびりちびりとやる椛をよそに、二人は「うーん」と、振り出しに戻った。無論、二人が納期や何やらを放ったらかしておきながら“宿題やってないのに遊ぶ”ような気分になっていないのは、先程飲んだ缶ビールのおかげである。
 椛のやる麦酒が三分の一程度となったころ、文が「そうだ!」と口を切った。
「映画ですよ! 映画。椛がさっき言ってましたけど、“映画館を出れば昼”が恐ろしいのは、映画館を出て、実際に外が昼だからじゃあないですか! 映画館を出て暗かったら? それはもう夜ですよ、夜! ああ、我ながら感心します。自分のインテリジェンスが恐ろしいですよ」
 椛とにとりは酷く感心した様子で、天才、天才、と文へ称揚の拍手を送った。酔っぱらいを納得させるのは信憑性や論理性ではなく、酔っぱらい特有の自信満々な態度のみだった。
 話がまとまるが早いか三人は映画館を探した。酒を扱う露店を三つほど梯子して、三人はようやっと目的の看板の前に立つ。
 建物の左辺りには地下の劇場へと繋がる階段があり、階段隣の外壁には様々な映画のポスターが貼り出された看板が在った。
「『遊泳監視録ムラサ』……これとかどうですか、あんまり面白くなさそうですよ」
「そうかな、ポスターみる限りだと、けっこう面白そうなんだけど」
 三人には映画館を探す中で交わされた或る取り決めがあった。それは、暗いシーンが多めで、かつ、いっとうつまらない映画を観よう、という取り決めである。映画を観るとして、それがつまらない映画ならば、実際に観賞している時間よりも、体感では長く感じる。とすれば必然、外に出たときの“夜度”も増すだろう。これも、文の発案だった。
 しかし実のところ、外は既に夕暮れていた。三人が映画を見終わる頃には実際に、世界には緞帳が落ちているだろう。三人は地底の暗さの中で、その事実に気が付けないまま、つまらなさそうな映画を探した。
「あ、これとかどうですか。『とにかく明るい殺人事件』だなんて。ふふ、ありえないですよ、そんなの。ね、これにしませんか」
 椛が口を開くと二人は即断した。こんなタイトルの映画が面白いはずがない。さっそく階段を降りようと、三人は一段目に脚を踏み出す。
 そのとき、にとりがハッと、何かを思い出したように口を開いた。
「そういえばさ、劇場内はお酒飲めるのかな。飲めるにしても飲めないにしても、入る前に一杯買っといたほうがいい気がしてきた」
「それなら大丈夫ですよ。看板に書いてあったんですけど、館内飲酒オーケーらしいです。それに、中にお酒も売ってるとかなんとか」
「ほんと? よかった」
 椛の言葉ににとりは胸を撫で下ろした。文も文で「よかったよかった」と嘯いて、揚々と階段を下る。
「あと、野次もオーケーだとか」
「ああ、いいですねえ」
 地下へと続く階段は暗く、狭く。三人は一列になってゆっくりと一段一段を踏みしめた。これからつまらない映画を観ようという、三人の心は踊っている。文の後ろを歩くにとりは胸ポケットの煙草にぼんやりと思いを馳せ、文は階段の暗さと狭さに、無意識下で母の胎内を察した。一番後ろを歩く椛は、曖昧な笑みを貼り付けたまま、どこから取り出したか、缶ビールに口を付けた。

『おいおいつまらなさすぎるぞ! 返せよ、金を。返せよ、金を!』
『もう死ねよ! 死になよ、死んでしまえよ!』
『誰だよこの映画を作ったのは! 何の病気に罹ればこんなのが作れるんだよ!』

 暗い劇場の、大きな四角い明りに照らされた観客達の顔は、皆一様に赤らんでいた。観客達はみなそれぞれ、モニターに缶を投げるなり、悲鳴に似た悪口雑言を投げるなり、前の席の背もたれを蹴りつけるなりしていた。
 館内の売店で酒とつまみを買い込んだ三人も周りの観客に倣い、各々非行に走った。
 文は永い新聞記者の経験に物を言わせて、秀逸かつ醜悪な野次を飛ばした。背丈の短いにとりは、前の席に座った長身の男、そいつのもたれかかる背もたれを執拗に蹴りつけた。椛は曖昧に笑いながら、狼の駆けるようなピッチで飲み続け、開いた缶をコンスタントに、また淡々と、モニターへと放り続けた。
 パンフレットに書かれたその映画のあらすじは、或る里で幼い少女が薬売りに任命され、蔓延る鬱病患者に抗うつ薬を処方していく、というものだった。しかしその実、少女が抗うつ薬を処方するシーンは一度として登場せず、鬱病を甘えと断じて曲げない少女が鬱病患者を結果的に殺す、という内容だった。これが筋書き通りにさらさらと流れるのであるならば或いは、シーンの一つ一つも酷く単調で、間延びしていた。ところどころに挟まれる意図の読めないお色気シーンや抽象的な会話もまた、映画のつまらなさに拍車をかけていた。
 ともすれば、三人はますますご満悦、酸いと甘いの甘いが此処だ、といった表情で野次を飛ばし、席を蹴り、缶を放り続けた。

 三人が映画館を出れば、そこには夜が在った。街はいっそう橙に、猥雑な、無秩序な、騒がしい喧騒が跋扈している。それは紛れもなく、三人の望んだ夜だった。
 酒とつまみが有ったとはいえ、退屈な映画と窮屈な座椅子から抜け出した解放感と、街らしい夜の息遣いに、三人は心地よさげに伸びをする。夜だ夜だ、やっと夜だ、とはしゃいでは、つまらない映画という新鮮な肴を消化すべく、三人はすぐさま店へと駆け込んだ。

 個室に通された三人は和気あいあいと、映画の悪口を交えながら酒を飲む。他の個室から聞こえてくる下品な笑い声や、あまりにも楽しそう“すぎる”話し声、それらの喧騒は、居酒屋という舞台において、これ以上ないバック・グラウンド・ミュージックだった。
「それにしても、これは絶品ですね。なんのお肉なんでしょうか」
 文は表面の白い肉の断片を口に運びながら、目を丸くして言った。座席は座布団が敷かれており、にとりは胡座をかいて、膝に肘を乗せては煙草をふかし、文に答える。
「品書きにはとりわさって書いてあったんだろ? じゃあ、とりわさの肉だよ」
「え、とりわさ。そんな動物、聞いたことありませんね」
 文は何故か感嘆混じりにあむあむとした。
「でも、名前を聞く限り、かわいい動物なんでしょうね。ふふ、だって、とりわさって。ふふ、あははは」
 椛はすっかり出来上がった様子で、テーブルに突っ伏して笑い転げた。
 それから三人は腕を組んで、とりわさとは如何なる動物か、それについて議論をした。名前からしてかわいい動物に違いない。いや、でもそういうやつが意外と強かったりする。毒を持ってたりする。しかし動きは鈍く、天敵は空を飛ぶ、でっかくて素早い動物に違いない。ともすれば、草食に違いない。こうも臭みがなく、あっさりとした味とすれば、普段はシソあたりを食しているのだ。
 根拠の欠如を知ることもなく、みな真剣に、とりわさの生態を解き明かしていった。最終的に出た結論は、とりわさはとても可哀想な動物である、というもので、場の空気はやおら湿った。なにかに優しくしたい酔っぱらいはどこにでもいて、この三人ならば、その結論は当然の帰結であったと言えよう。
 三人の優しさは地球の裏側にまで到達し、その後リデュース、リユース、リサイクルの輪を描く。三人はループに気がつくこともなく地球を慰め続けたが、文が不意に、かわいそうといえば、と口を切った。
「あの映画ですよ、主役の女の子」
 主役は幼い少女が務めていた。二人はすぐさま腕を組み、文の発言の意図を慮る。
「作中では、最終的に村八分の憂き目にあってましたね」
 椛の言葉に文は「いやほんと」と、つまらない映画をこき下ろした。
「ほんと。あんな映画に出演させられて、かわいそうったらないね。わたしが親だったら監督を殺してるよ」
 実のところ、にとりはあの映画を楽しんでいた。前列の背の高い男に遮られ、映像は断片的にしか記憶していなかったが、それでも面白い映画であったと考えていた。しかし、文と椛の論調の辛辣さに、にとりは煙草をふかして合わせる他になかった。
「まあ、いろいろありますがね。一番はアレですよ。あの映画、妙にお色気シーンが多かった。水を浴びて透けたり、鬱病患者に迫られたり、年端もいかない少女があんな目にあうなんて。ああ。私はなにか、興奮してきましたよ」
 文の言葉に二人は困ったように腕を組む。
「う、うーん」
 酔宴に、色を持ち込むのはいつも文だった。

 所変わって、三人はネオン街を歩いている。
 楽園。ラッキーバニー。鳳仙花。キスショット。原色の妖光はそれぞれの店名を朧に照らしていた。
「レボリューション。天文学の世界じゃ公転を指す。つまり一回りして戻ることを指すんだ。知ってた?」
「へぇ。あ、天文学といえば。地球はあと四十億年したらアンドロメダ銀河に衝突されるらしいですよ。恐ろしいですねぇ」
「へえ。あ、でもでも。天狗も河童も、それほど長生きではないんですって、はは! 知ってました?」
「へぇ~」
 三人の期待と昂揚は、突けば爆ぜてしまいそうなほどに不確かだった。誰もが「よそうか」の一声を胸に秘め、当たり障りのないやり取りで平静を装う。
「寺子屋の、子供の話でさ。母親が水商売をしてる子供がいたんだよ。授業参観の日、その母親が、きらっきらした服着て、授業を観にきてさ。その子が恥ずかしさのあまり言ったんだと、立つ場所間違えてんじゃねえ! って!」
「へえ。それ、今度記事のネタにしていいですか」
「え。う、うん。いいけど。で、でも、人から聞いた話だからなあ」
「いいんじゃないですか、別に。文さんの新聞読んでる人なんて、もうどこにもいませんよ。きっと。あはは」
 三人が発狂を介さずに仕事の話が出来るのは、頭が別のことで一杯になっている場合のみだ。各々、そこらにのさばる貸し春屋や、店先の招き猫達に気をやっては、チラチラと目を泳がせている。
 みな、不確かな昂揚を突かれるのを待ってるのだ。平常より少し大きめの話し声で、三人は色めく通りを闊歩する。しかし、三人に声を掛ける者はおらず、招き猫達は、まるで、三人が見えていないかのように振る舞った。あたりから聞こえる他人たちの「おにいさん、どうですか」や、「今日はそんなつもりなかったんだけど……いくら?」といった間の悪いやり取りにやきもきしながら、三人はネオン街を往く。
 そうしてしばらくすると、三人は終ぞ声のかからぬまま、とうとうネオンの切れ目に辿り着いてしまった。少量の落胆と、下心を街に見透かされたような面映さを抱えながら、三人は、これでよかったのかもしれない、と息をつく。というのも、三人がこういった色街を、下心を持って練り歩くのはこれが初めてではなかった。三人は、これまで何度も、キャッチに捕まり、あれよあれよと個室に入れられ、商品を待った。しかし三人は、肝心の事が始まるその瞬間、みな一様に恐れをなして個室を飛び出しては、逃げ出した。三人はその度に、公園のベンチに座り、肘を抱えて、震えながら黙って酒をやる。誰も何を言うことのない奇妙な時間は、三人にとっては日常の一部だった。
 ネオンの切れ目、背後に色めく喧騒を感じながら、文はなにかきまりの悪そうに、いやあ、と発声しては頬を掻く。喧騒にすら下心を見透かされたようで、どこか気恥ずかしい三人は、ようやく、胸中に秘めっぱなしの「よそうか」の四字を吐いてしまおうと考えた。
「こんばんは! どうですか、可愛い子、いますよー!」
 そのときだった。どこから現れたかその妖怪は文たちに声をかけた。妖怪はカマーベストに蝶ネクタイ、一本足の看板と、見るからにらしい風体をしている。不意を突かれた三人の心拍数は急上昇した。
 声の震えを堪えながら、文は言う。
「えっと。どうですか、とは、どういった……」
「やだな“おにいさん”。どういう気持ちでここを歩いてたの?」
 カマーベストの妖怪は、翡翠の色とも浅葱の色ともつかぬ、癖のある髪を揺らしながら、けたけたと笑う。三人の気を引いたのは妖怪の放った“おにいさん”という言葉と、その妖怪の身体的特徴だった。
「も、椛。この客引き女の子だよ。それに、こんな小柄な……」
「ええ、ええ!」
 対応をする文の背後で、椛とにとりは声を潜めた。
「ええと、じゃあその。……なんてお店なんですか」
 平静を繕う文の内心も、二人と同様に驚きと期待で満ちていた。というのも、三人は三人とも、多少なりとも少女性愛の気があったのだ。文はマゾヒズムから、椛はサディズムから、にとりは屈折した自己愛から、少女を好んだ。
「デマイゴってお店なんだけど、最近オープンしたの。喫茶だよ」
 三人の視線は妖怪の、少女らしい身体に釘付けだった。胸の前で構えた立て看板の向こう、カマーベストの向こう、シャツの向こうの、僅かな膨らみ、伴うシャツの撓みを、三人は見逃さなかった。
「喫茶? ええと、どんな喫茶なんですかね」
 文の言葉に対する返答がどうあれ、三人の肚は既に決まっていた。各々、自室のベッドの下に『ミネハハ』を隠している三人が、この妖怪に着いていかないことは有り得ない。
「んとね。なんていうんだろ、ハプニングなお店?」
「行くよ、行くからさ。連れてってよ」
 堪えきれなくなったにとりが文の背後から割り込む。妖怪は、にとりの言葉に「よかった。じゃあ行こっか」と微笑んで、三人の引率を開始した。
 ネオン街の入り組んだ路地に入り、一寸歩くと、歩きながら、妖怪が口を切る。
「着くまでお話しようよ。おにいさんたちは何やってる人なの?」
「私は新聞記者をしています」
 店に着いたとして、客引きが客の対応をするケースは稀だが、三人にはどうしても、あわよくばの気持ちがあった。であれば、文の即答も必然である。「え、記者! すごい」等の美辞麗句に文は、いやあ、と頭を掻く。文の気分の良さと引き換えに煩悶したのはにとりだ。
 にとりは技師で、組織の中でもそれなりに重要な仕事を任されていたが、それでも技師という肩書は、新聞記者という肩書のそれには遠く及ばない、矮小なものに思えた。しかし、あわよくばを望むのはにとりも同じだ。この妖怪と思しき少女に、どうにかよく思われたい。にとりが頭を捻っていると、少女が口を開いた。
「じゃあ、そっちのおにいさんは、なにしてるひと?」
「えっと、わたしは。なんといったらいいか。そうだな。社会イノベーションに、携わっているよ」
「え、すごい!」
 にとりは心でガッツポーズをした。おにいさん、という呼称が気にならなくもなかったが、今となってはそれも逆に、客あしらいと客、という関係を明確に示唆しているようで、その関係性はにとりの“あわよくば”を殊更刺激した。
 それから、文とにとりはいい気分のまま、一番うしろを歩く椛に気をやった。客引きの少女は椛にも同じことを尋ねるに違いない。山の犬っころ風情がどう答えたものか。二人が腕を組みしめしめとやっていると、少女が例の質問を繰り出した。
「じゃあ、そっちのおにいさんは?」
「私は公務員です」
 椛は然として言い放った。文とにとりは驚愕した。初対面の他人とはいえ、こいつは、こうも平然と嘘を吐けるものか。少女の「え! すっごーい! 幻想郷にも居るんだ、公務員」といった嬌声の中、二人は驚きを隠すよう曖昧に笑いながら、顎に手を添えて椛の脳の仕組みを慮った。
 しかし、言及すべきは文とにとりの、今となっては名ばかりの、腐りかけの肩書を臆面もなく口にできるメンタリティだ。その点では、椛は二人よりも“まとも”であると言える。
 屋と屋の狭間にはフェンスが張られ、フェンスの向こうには大きなゴミ箱があった。ゴミ箱から溢れたゴミはフェンスの網目に飽和して、害獣達は夜食にありつく。そんな路地を歩く三人が考えるのは、ハプニングな喫茶とはなんぞや、そればかりだった。
 そんな光景をいくつか通り抜けたころ、少女は立ち止まり、看板を掲げ、言った。
「着いたよ! ここが『喫茶デマイゴ』でーす! ちょっとボロっちいけど、中はきれいだから安心してね」
少女の言う通り店はボロく、木製の看板には大きく「胎」という文字が達筆に綴られたていた。みるからに怪しいが、そう考える者はこの場にはいなかった。酔いか、欲か。はたまた客引きの、妖怪少女の妖力か。
「なんだか、雰囲気のある店構えですねぇ! どれさっそく……」
「あ、まてよ射命丸。わたしが先に入るんだぞ」
 文とにとりは能天気に店の扉を開け、店内へと消えた。扉が閉まると同時に、扉の向こうから二人の悲鳴が響く。
 暫し、沈黙。
「……ほら、ふたりとも行っちゃったよ。さ、おにいさんも早く入って入って」
 残った椛を急かすように、少女が言う。
 椛はアルコールに溺れた頭で、なにか不思議なことが起こっているぞ、と、自身の置かれた状況を僅かに悟った。
「ええと」
 しかし椛には空気の急変に適応出来るほどの器用さは無かった。とりあえず、とりあえずで、店の扉を開ける。そして、椛はすべてを悟った。
 扉の開けると、そこには闇が在った。そこにあるはずの壁も、床も、視えないほどに、そこは漆黒に塗りつぶされていた。視線をくまなく泳がせど、文の姿も、にとりの姿も見当たらない。
 ああこれは。騙されたのだ。床の見えないことから察するに、二人は落ちていったのだろう。二人とも、能天気に、勇み足で踏み込んだものだから。
 深く広い闇を眼前に、椛はおもむろに口を開く。
「あの、すみません」
「なあに?」
 少女の声は椛の耳元、あまりにも耳元に響いた。背後に、いる。触れられていないけれど、ぴったりと、背中にくっついている。
 椛は本能で、もう逃れられないことを悟った。
「……お名前、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「こいしはね、こいしっていうんだよ」
 椛の背中に衝撃が走った。バランスを崩し前のめりに足を踏み出す。しかし、椛の予想通り床を踏みしめることはなく、足は暗く広がる虚空を切った。
「三名様ごあんなーい!」
 そのまま、落ちていく。どこまでも、落ちていく。椛は全てを諦めて、あの世で二人に再会した際、自分のみが知った少女の名を、自慢してやろうと、そう考えた。

 永遠のような落下の最中、椛の視界、その遠くに、不意に月が現れた。月は人面を持ち、微笑んで、何かを優しく見下ろしている。椛は月の視線を追って、落ちながらも、なんとか下方を見やる。すると、そこにはピンクと赤の混じった、ドギツい原色の地面が在った。地面には文とにとりが立ち、無事に、何かを話し合っている様子だった。
「あれぇ」
 落下の衝撃というものは然程無く、椛は想像以上のふわりとした着地に素っ頓狂な声を上げた。
「困りましたねぇ。私は怪しいと思ってたんですよ。店の名前にしたって、デマに違期と、なんだか当てつけみたいで、嫌な感じがしてたんですよ」
「よく言うよ。客引きの子にあれだけ鼻の下伸ばしといて。だいたい、お前が悪いんだからな射命丸。お前と飲むといっつもこうだよ。調子乗って色街なんか歩いてさ、それで、失敗するんだ。いっつもこうだ」
 予想を上回りピンピンしている二人を見て、椛も調子を取り戻した。酔っ払いなぞそんなものである。
「ねえねえ聞いてくださいよ。私、あの子に名前、教えてもらったんですよ」
 二人は椛の言葉に「え。まじ」系の言葉を発音し、なんだよ椛だけ、といった具合にむにゃむにゃとした。自分にも教えてくれとは言えない押しの弱さが、いつもの色街での失敗を生んでいる、ということに、気がつく日は遠い。
『いらっしゃい! デマイゴへようこそ!』
 突如、空間に声が響く。三人が声の主を判別するのに時間はかからず、椛は一寸のうちに嬉々として「あ、こいしちゃんだ」と嘯いた。二人は突如降ってきた声を警戒しつつも、横目に、椛の口から発せられた少女の名を心に認める。
「やい。こいしとやら! わたしたちはただ楽しく飲みたかっただけなのに、こんな目に遭わされるなんて! いくらその、かわいいからって、許されることと許されないことがあるんだぞ!」
 にとりは、見つけ次第ぎったんぎったんにしてやる、と息巻いて虚空に叫ぶ。文と椛は「いくらかわいいからって」の部分のみ復唱した。こんな状況に落とされてなお点数稼ぎをやめられない愛嬌が、三人を酔っ払いたらしめる要素のうちの一つだ。
『あれ、なんかそっちの声が聞こえにくいな。まぁいいや。お店のシステムは至ってシンプル。飲み放題食べ放題のオールフリー、ずばり無料です! そこらへんのもの、すべて勝手に飲み食いしてくれてかまいませーん!』
 三人は目を丸くして、「え、まじ」を呟いた。しかしにとりは頭を振って、邪念を払う。
「やいやい! そんなこと言ったって、わたしは騙されないからな! だいいち、食べ物や飲み物なんて、どこにもないじゃないか!」
 にとりの喚いてる間、文と椛はなんとはなしに辺りを見やった。だがにとりの言う通り、見えるのはドギツい色の地面のみで、空間にはただただ闇が広がっている。文はそんな地面を見て浮かんだ「ピンクの肉」という謎の言葉に苦笑した。それが自身の無意識下に蔦を巻く、胎内回帰の願望に起因している事実に、文が気がつく日は、きっと、永遠に来ない。
『うーん。店を出るまで何も見つけられない、ってお客さん、意外に、けっこういるんだよね。でも大丈夫! そんなひとたちのために、こいしはなんと! ウェルカムドリンクを用意しておりまーす!』
 こいしと名乗る妖怪が「じゃじゃーん!」と声を上げると、三人の目の前にぱっと、テーブルが現れた。ちょうど、プロレスや野球などによく見る「実況席」のようなテーブルだった。テーブルの上には缶ビールがあった。ラベルには「胎」という文字が達者に踊っており、また、ラベルは冷冷しく汗をかいている。
 缶ビールは文と椛の目を輝かせた。懐疑的に、語気を荒げていたにとりでさえも、それを見れば、他の二人と同様に、否応なしに、瞳を輝かせてしまう。
「み、見たことないラベルですね。地酒でしょうか」
「ひ、冷えてる?」
「ひ、冷えてます、冷えてます」
 ちょうど三人分の缶ビールをそれぞれ手に持ち、手に伝わる冷たさを確かめるよう、目を丸くして、じいっとそれを見つめる。にとりは目を細めて缶をしげしげと舐めるように見、口を開いた。
「これ、ほんとに、飲んでもいいの?」
『え? ごめんね。もっかい言ってくれる?』
「飲んでもいいの!」
『え?』
「これは! 本当に! 飲んでもお金、取られないのかって聞いてるの!」
 ときに、三人の財政状況についてだが、所持金は、椛、にとり、文の順。給料は、文、にとり、椛の順。吝嗇家は、にとり、文、椛の順だった。要するに、文は給料のかわりに浪費が恐ろしく激しく、椛はその逆だった。
 にとりはそれなりの給料で、それなりの出費だが、恐ろしくケチという性質を持っていた。ともすれば、臆面もなく「これは無料か」といった内容を叫べるのも、何ら不自然ではない。三人で店で飲む度に、にとりが何かと理由を付けて三等分の支払いを渋るために、いつしか文と椛の間には「四、四、二」という不文律が出来上がっていた。
『もー! おにいさんってば疑り深いんだから! 大丈夫だって、それはタダだし、それに! 今後どんなにたくさんの食べ物や飲み物が出てきても、それは全部、おにいさんたちの好きにしていいの。そういうシステムなんだから』
 それでも、にとりは目を細め、むむむと缶を見つめることをやめかった。しかし、文と椛はこいしが話終わるが早いか、プルタブを引き放ち、上を向き、中身を胃の中へと勢いよく降下させていた。
 二人が「これ、おいしい」系の驚嘆を口にすると、ようやく、にとりも堪えきれずにプルタブを引く。そうして三人は、一寸の間に、それを飲み終える。
「あれ。ゴミ箱が見当たりませんね」
 文の一声に椛とにとりは一どきにゴミ箱を探し始める。
「ほんとだ。ゴミ箱、ないですね」
「え。それじゃあどうするのさ、この缶! まさかポイ捨てなんて、とんでもないぞ!」
 それは三人の習性だった。しかし、そんな習性に頓着する様子もなく、虚空からこいしの声が響く。
『飲んだ? ……飲んだね、おにいさんたち。……それじゃあ。肝心なこと、今から説明するから、よく聞いてね』
 缶は、と威勢よく文が叫ぶ。椛は文に同調し、にとりも、胸中にさんざめく「やっぱり騙された」の感慨をなんとか堪え、二人に続いた。
『缶はテーブルに戻しといて!』
 大人しく缶を置く。にとりもそうした。
『じゃあ、説明するね。これからちょっとすると、地面が狭まって、道になります。道というか、迷路というか、なんというか。まあ、道の形は重要じゃなくてね、重要なのは出口についてなんだけど……お燐どうしたの? え、お姉ちゃんが呼んでる? それ、今じゃないとだめ? あーわかった! わかったから、引っ張らないでよー。…………』
 三人の間に、否、世界に沈黙が訪れた。永遠のような沈黙を、虚空に浮かぶ月が優しく微笑み、見守っていた。
「文さん、あの、私ちょっと」
 椛が言いかけたその瞬間、世界が唸った。それは、地鳴りのような、電話のベルのような、はたまたサイレンのような、或いは赤子の鳴き声のような、怪音であった。
 世界はフラッシュの様相で七色に点滅し、地面はアメーバの如く蠢いた。鯨飲に見る悪夢に似た光景に、三人を驚いた猫のように身を固める。
 赤、緑、白、黄、ピンク、橙。
 地面はアメーバに似て、蠢く。
 赤、白、緑、黒、ピンク、黒、黄。
 アメーバに似て、増殖する。
 ピンク、黄、白、緑、黒、黄、白。
 月は点滅のさなかに、百面相を、する。
 赤緑黒黒白黄黒。
 黒白白黒赤黄黒。緑、白黒、白白黒白黒白白白黒黒白、黒。
 そのまま、世界が固まった。
 月さえも消えた黒の世界には、三人の、きょろきょろと遊泳し続ける、目玉のみが浮かんでいた。



二 喫茶デマイゴ



 その空間は黒だった。地面はピンクと赤が混ざり、妙にざらざらと、ラメのような粒が散りばめられている。夜と形容するにはあまりにも虚しい空には一つ、人面の月が浮かんでいた。月は優しく微笑んで、壁のない迷宮をあてもなく歩く三人を見下ろしている。
「なんだったんでしょうね。あの点滅。相変わらず暗いままですし、月だって浮かんで、結局、地面以外は元通りじゃないですか」
「こいしちゃんとやらも、手の混んだことするもんだよ、全く。出口について、さっぱり聞けないまんまだし」
「それにしても、壁がないと不安ですね。踏み外したらどうなるんでしょう」
 道の両端は暗闇に飲まれ、暗闇は三人を手招きするかのように、深かった。「もしかすると、落ちればここから出られるかも」にとりが呟いたが、そんな恐ろしいことを試そうと思う者はおらず、相槌は苦笑に溶けた。
 そういえば。文がふと口を切る。
「椛さん、点滅の前に、なにか言いかけてませんでしたか?」
 ああそういえば、と、にとりも続く。椛は少し困ったように笑いながら答える。
「ああ、ええと。その、気のせいかもしれないので」
「いいですよ。どうせ出口も見当たらないわけですし、話題になればそれで」
 文の言葉に、椛は自信なさげに頬をかいた。
「いや、その。なんていうか、あの缶ビールを飲んでから、なんだか、変じゃないですか?」
「缶ビールって、点滅の前に飲んだやつ? うーん、変か。たしかに。言われてみれば、なんだか懐かしい感じがするんだよね。さっきから」
 にとりの言う“懐かしい感じ”は、文にもわかった。文も「たしかに」と嘯き、椛に話の続きを促した。
「ですよね。お二人も薄々気付いてるかもしれませんが、その。……お酒抜けてませんか、私たち」
「あ、言われてみれば! ぜんぜん酔ってないよ、わたし」
「ほんとですね。でも、どうしてでしょう。地底であれほど飲んで、さっき、缶ビールを飲んだばかりなのに」
 三人は歩きながら、唸っては頭を捻る。
「うーん、でもなあ。だからどうした、って話なんだよね。結局、ここから抜け出すにはどうしたらいいか、ってとこなんだよね、問題は」
「うーん」
 三人はただ歩く。歩けば、足音のみが、三人の何も浮かばぬ脳裏を叩く。暗い世界の静寂は、足音によって殊更際立ち、三人の聴覚は従って過敏になった。足音以外の音がすれば、それを聞き逃す者はこの場にはいない。
 だから、誰もが一瞬にして、背後から迫る“それ”に気付いた。
 三人の背後に突如響いたその音は、発生と同時に、三人へと急接近した。それはまるで、濡れ雑巾を高速で、何度も、地面に叩きつけたかのような音だった。
 発生と同時に振り向き、音の正体を確認した椛は瞬時に駆け出し、二人にもそれを知らせるように声を上げた。椛の慌てた大音声に驚いた二人が振り向くと、二人の視界に、奇妙な動物が映った。
「わ、わわわ! や、やばいよ射命丸! なんだよ、あれ!」
「し、知りません! 私、知りません!」
 動物は四足だった。姿形は犬、狼等に類似していたが、他がまるで違った。動物に体毛は無く、ところどころは外皮もない。ぬらぬらと水気を帯びた皮膚は爛れて、そこかしこに肉が覗いている。何より特徴的なのはその四足だった。足はぶよぶよと、犬狼の姿形に似つかわしくない太さで、腐った象の足に酷似していた。その足で、動物は俊敏に、三人へと迫る。四足の一本一本が躍動すれば、地面に体液が弾けた。爆ぜた飛沫がにとりと文の頬を濡らしたとき、犬は一つ吠声を上げた。
「いいから、早く走って!」
 椛が叫ぶと、二人は短い悲鳴を上げて一目散に駆け出した。動物はBowともquackともつかぬ奇妙な声で吠え、三人を追い立てる。
「な、なんですか、あの犬! 椛のお友達ですか!」
「射命丸お前、あれが犬に見えるのか! どうかしてるよ!」
「ふざけたこと言ってないで、ちゃんと着いてきてくださいよ! こんな迷路みたいな場所でバラバラになったら、一巻の終わりですから!」
 先頭を走る椛の視界には、混乱に似て絡まって散乱した道がある。進めども曲がれども、いつ行き止まりに遭うかもしれない、行き止まりのあるかどうかもしれない道は、即ち迷宮だった。椛に遅れぬよう、二人も必死に食らいつく。しかし、奇妙な動物は無慈悲にも、追跡をやめることはない。
 しばらく走り、背丈の短いにとりが息を切らし始めたころ、にとりの消耗とは裏腹に、椛は多少状況に慣れて、走りながらに口を開いた。
「変じゃないですか。向こう、全然疲れてる様子でもないのに、追ってくるスピードが、全然、変わらないのは」
 にとりは息を切らして、なんとか疑問符を吐き出す。文も文で大変だった。
「なにを、冷静に、喋っちゃってるんですか。こちとら、さっきからなんだか走りにくくて、もう、大変だってのに!」
「そうなんですよ。私はにとりさんと文さんに合わせて、走る速度を少し落としたんです。でも、向こうとの間隔が変わらない。あの動物、こっちの速度に合わせて付いてきてるみたいなんです」
 椛はにとりの消耗にも、文の異常にも気付いていた。背丈の短いにとりの消耗は必然として、椛が見澄ましたのは文の異常だった。
 いくらこのところ酒浸りとはいえ、そこまで運動神経が鈍っていることもないはず。椛が後ろを走る文を振り返り見やると、直ぐに異常が判った。文の踏みしめる地面のみが、ぶよぶよと、肉の様相を呈していたのだ。ピンクと赤の色合いも相まって、踏みしめるたびに足の沈む地面は、何かの肉のようだった。
「それがどうしたってんですか! 止まったら向こうも止まってくれるって、そういう話じゃないですよね! こちとらもう、足元がぶよぶよしてて、走りにくくて、疲れちゃって! ああ!」
 当然、地面の異常には文自身も気が付いた。のみならず、文は薄っすらと、自身の踏みしめる地面“のみが”肉と化す理由も、なんとはなしに察していた。素面ならば、三人の中で一番勘の冴えるのは文だった。文がそれを言い出さない理由は三つ。考えが未だ憶測であること。必死の二人が聞く耳を持たぬこと。仮に考えが真実であったならば、糾弾は免れない、ということ。必死な振りをして、その実、既に文の心には余裕があった。これたぶん平気、無問題。しかし、必死な振りをしなければならない理由もまた、存在していた。繰り返しにはなるが、必死な二人に真実を話せば、仮にその憶測が真実であったならば、必然に、糾弾される。文はただ、それのみを恐れていたのである。
「でも、このままだとどうなるとも分かりません。こうなったら、私が一か八かで……」
 椛の動かす口を、息絶え絶えのにとりが、大声で遮った。
「わたし、もうつかれた!」
 にとりは言い終わると同時に勢いよく、前のめりに転倒した。それは、故意ではなく偶然の、本当の転倒ではあったが、なんとも、律儀で潔い転倒である。
「にとりさん!」
 文と椛は同時に叫んだが、救いに動いたのは椛のみだった。椛は咄嗟に倒れたにとりへ覆いかぶさり、身を挺した。
「にとりさん、大丈夫ですか!」
 にとりは転倒の衝撃を堪え、覆いかぶさる身体の隙間に目を開いた。
「あ、わわ! 椛ぃ!」
 視界には迫りくる怪物が在った。椛の背後に迫る怪物が、BowともQuackともつかぬ音で、大きく吠える! ああ、喰われる! そのように、ギュッと目を瞑り体を硬める二人を、文は、「ああ、これはまずいぞ」といった心持ちで、寒々と、白々しく、見かえしていた。
「……あれ?」
 恐る恐る、にとりはまぶたを開く。椛もにとりに続いて、やはり同じく、「あれ?」と発生した。間近に迫っていた怪物の姿が見当たらず、二人はぐるりと視線をまわす。
「わ、わー! 二人とも、た、たすけてー! 助けてくださいよー!」
 怪物は、やや大根気味に叫ぶ文を、付かず離れず緩やかに追いかけていた。二人はすくと立ち上がり、緩やかなペースの怪物に続いた。
「椛、これどういうこと?」
「さあ。でもあそこに、何か知ってそうな人がいますね」
 二人は、文の体力が尽きるまで、怪物に続くことを決めた。
「た、たすけてー! たべられちゃいますよー! ……って、ああっ!」
 這々の体ならぬジョギングの体で棒を読みつつ、文はふと振り向いた。
「椛さん、なんで犬と一緒に追ってきてるんですか! やっぱりお友達だったんですね、ひどい!」
「にとりさん、文さんがなにか言ってますよ」
 憮然とする椛をにとりがたしなめる。
「いいよいいよ。放っておこうよ、あいつはああいう奴なんだから」
「にとりさんまで! あ、あんまりですよぅ!」
 文はひぃひぃと息を切らしながら、犬に追われる。犬はどこか上機嫌で文を追う。文の必死の逃亡は、にとりにとっても、椛にとっても、そろそろ見飽きた光景だった。侮辱と文のしつこさに耐えかねた椛が不意に、
「ワン!」
 と叫んだ。
「ひっ」
 急な大音声に短く悲鳴を上げたのはにとりだった。隣にいる白狼が急にワンと叫べば、河童だって驚く。しかしそれ以上に驚いたのは天狗だった。天狗は驚きのあまり声すらあげずに、足を縺れさせて転倒した。
 追って吠えたのは怪物だった。尻尾を振って文に飛びかかる怪物の姿は、もはや犬と形容しても差し支えがない。
「あ、やめて! ちょっと、くすぐった……やめてくださいよう」
 犬は転倒した疲労困憊の文にじゃれつき、その顔面を無遠慮に、嬉々として舐め回した。見た目こそ醜悪ではあったが、尻尾の振り方や上下する鼻先は、愛玩動物のそれと遜色がない。
「おうおう射命丸。これはどういうことなんだ? そのワンちゃんはお前のお友達かなぁ?」
 疲労とくすぐったさに弄ばれる文に対し、にとりは「上手いこと言ってやった!」の顔で言い放つ。当然、それは本来であれば椛の台詞なので、椛はにとりに同調しつつも、幾許かの不条理さに眉を顰めた。文は話すかわりに犬をどけてくれと要求。対する二人は無視で応答。文にとっての次善の案は、呼吸の整うまで待ってくれ、というもので、にとりと椛はこれまた無視をすることで、文の要求を飲み込んだ。
「ああ、じゃあそろそろ話しますがね」
 犬に乗っかられっぱなし、舐められっぱなしの文が口を切る。二人は仰向けの文を見下ろしながら腕を組む。
「話すと言っても、全部憶測にはなってしまいますが、こうなっては仕方ありませんからね。……結論から言えば、この水棲めいた四足のワンちゃんは私の、その、欲求です。たぶん、酔っ払ったときの。あ、黙って聞いてくれるんですね。なんだか恥ずかしいなあ。いて、蹴らないでくださいよ」
「じゃあ、そうですね。わかったことをお話します。といっても、わかったのは先程言ったこの犬の正体程度なもので、他はあんまり分かってません。この世界もよく分からないし、出口についても、もちろんわかりません。いて、蹴らないでくださいね。しょうがないじゃないですか。わからないものはわからない」
 じゃれつく犬の顔を撫でながら、文は淡々と語る。
「わかっていることのみを話すように」
 文のみが何かを知っていて、それを二人に説明する際、文はいつもこんな調子だった。遠回りを介さず話せないものか、二人は七味程度の苛立ちを感じながら、説明を促す。
「私が思ったのはですね、あのウェルカムドリンクの、缶ビールですよ。アレが怪しい。私はアレを飲んで酔いが覚めたというよりは、アレを飲んで、世界に酔いを“吸われた”と考えているんです。そして、その酔いに含まれた欲求が、世界に影響を与える。私の足元のみがぶよぶよしたのも、この水棲めいた……河童めかしたこの犬も、そうであるなら、説明がつきます。世界の点滅は、それに付随する手続きか何かだったのではないでしょうか。根拠としては、こいしちゃんの発言です。覚えてますか?」
――『うーん。店を出るまで何も見つけられない、ってお客さん、意外に、けっこういるんだよね。でも大丈夫! そんなひとたちのために、こいしはなんと! ウェルカムドリンクを用意しておりまーす!』
「――着眼すべきは、『意外に』。この点です。何を持ってして『意外』だったのか、そこが重要なんですよ。まず、こいしちゃんの指す『お客さん』とは、どんな人物を指すでしょう? ここが私の言う通り『酔いに含まれた欲求が具現化する世界』だったとしたら、答えは一つですね。酒飲みですよ、こいしちゃんは酒飲みを相手に、商売をしているんです」
「ではその酒飲みが何を持って、こいしちゃんに『意外』と言わしめたのか、重要なのはそこですね。……ときに、世間一般の考える“酒飲みの欲求”とは何でしょう。そう、お酒ですね。酒飲みは世間一般では、ひたすらにお酒を求めているから、酒飲みなんですよ。さあここで、こいしちゃんの『意外』が、どういう気持から出た言葉なのか、わかってきますね」
 たしかに、と二人は首を傾げる。
「私たち、あの点滅の後に、一本でもお酒を見ましたか? 見てませんよね。ずばり、そこなんですよ。私たち酔っぱらいの欲求が具現化されるはずなのに、『意外にも』、お酒は一本も見つからないんです。まあ、実際は私たちにウェルカムドリンクを飲ませるための方便という側面もあったんでしょうけど、仮説を立てるなら、あれはそういった背景の元から出た発言と取るのが平和ですね。おーよしよし、よしよしよし」
 文はやり切ったかのような表情で犬と戯れ始めた。にとりは今ひとつ解せなかった様子で、椛に耳打ちをする。
「椛、なんの話だっけ。わたし、途中から聴覚が故障しちゃったんだ」
「ええと、つまりこの世界は『酔いに含まれる欲求を具現化する世界』で、あのワンちゃんは文さんの『欲求』って話ですね。たぶん」
 椛が言い終わるが早いかハッとして、にとりは腕を捲って文に吠える。
「やい射命丸! おまえ、全然なんにもわかってないじゃないか! わたしはてっきり、お前が全部の黒幕で、どうすれば出られるか、とか、そういうことが聞けるかと思ってたのに。それに、どうしておまえの欲求で、そんな犬っころに脅かされなきゃいけないのさ!」
「それは、そのう。言いたくないなあ」
 お前のせいで恐ろしい目に遭った。吐け。文の眼前、ヤンキーの座位で凄むにとりをよそに、椛はふと、何かに気が付いたように、慌てて、口を切った。
「その、いいじゃないですか、にとりさん。文さんも言いたくないって、言ってることですし。何より、私もあんまり聞きたくないというか、考えただけで鳥肌が立つというか、気色が悪いと言うか」
 吐かねばこいつは死を免れぬ。にとりは椛をたしなめて、文に言い放つ。
「こないださ、凄い物を考えついたんだ。わたし、これでも技師だからさ。それは、椅子なんだけどね。ただの椅子じゃ、ないんだよ。座った瞬間、椅子は拷問器具に変わるのさ。一瞬で全身を拘束してしまうんだ。そして、腰から下を切り落とさんとする丸鋸がね、迫るんだよ。刃が肉に接触するまで十五分。上半分から下半分がさよならするまで十五分。計三十分の小さな冥府だよ。射命丸。長話を聞かせてくれたお礼にさ、お前の長い脚で、試させてくれよ。椅子の、座り心地ってやつをさ」
 犬も文もくうんと鳴いた。人を舐めた鳴き声に血管の危機を感じたにとりが文の首に手をかけると、文は観念したように口を開き、椛は耳を両掌でパタパタとし、「あー、あー」と発声し、聴覚を支配した。
「それじゃあ、その、白状しますがね!……私の足元だけぶよぶよしたのも、この河童めかした犬にしても、そのう。なんていうんですかね。私が、二人に、ええと。……甘えたかったからというか、甘えられたかったというか。構ってほしかった、というか……!」
 極力平静を装い発声した文だったが、だんだんと声が震え、結局は恥ずかしさに涙ぐんだ。椛は「あー! あー!」と叫び続けていたが、間近で聞いてしまったにとりは自分の愚かしさを悔やんだ。文は酔うと、酔った上で泥酔したフリをする癖があり。木と語らう等をして、二人の気をひく。文のそういった〝甘えたがり〟の性質は、椛もにとりも、薄々気が付いていたことではあった。しかし、カミングアウトなぞ行われるべきでないこともまた、確かだった。
 しかし、三人の羞恥とは裏腹に、カミングアウトは脱出への足がかりとなった。文が言い終わると同時に、犬が消え、かわりに、道の端に扉が現れたのだ。それを把握しない三人では無かったが、赤面に硬直に咆哮と、感情の着地点を見失った三人が扉の出現に言及するのは、ちょうど、十五分が経過した頃だった。
「これは、あれかな。出口ってやつかな」
「でも、こうして離れて見ると、普通に裏側が見えるのが怪訝ですね。なんたらドアみたいです。あ、なんたらドアだったら、即ち出口となりますね。早速誰か、開けましょうよ」
「しかし、開けたらさっきみたいなワンちゃんが飛び出してきて、今度は本当に食べられてしまうかもしれません。何にせよ、警戒するに越したことはありませんよ、文さん」
 何事もなかった、という共通認識で結ばれた三人は扉に向き直り、腕を組んだ。こうなるとじゃんけんへの発展は必然で、にとりはチョキを出し、文と椛はグーを出す。にとりは「ちぇっ」と嘯いて、恐る恐るに、扉を開けた。
「あっ」
 にとりは思わず声をあげる。扉の向こうに広がるのは、にとりにとって、どこか見覚えのある景色だった。どうしましたか、と文が割り込む。
「……扉の向こうは、部屋、みたいですね」
 部屋? と、今度は椛が割り込んだ。
「……ほんとですね、部屋です。にとりさん、もしかして知ってる部屋ですか?」
 扉の向こうには部屋があった。大きな棚も、低いテーブルも、壁に打ち付けられたハンガーすらも、全てが地面と同じ質感、同じドギツいピンクで構築されていたが、三人にはそれが部屋と判った。とりわけてにとりには、その実感が、判然たる克明さで訪れた。
「ううん、しらない。しらない部屋だね」
 紛れもなく、にとりの部屋だった。二人がそれを解さないのは、二人の脳内に在る“にとりの部屋”が、“ガラクタゴミ屋敷”へと改名していた為である。
 にとりの脳裏に懸念が浮かんだ。この世界が文の言う通りに『酔った際の欲求が具現化される世界』だとして、文の場合は河童めかした犬の出現という形でそれが成った。では、自分の場合は。今はまだ何も起きていないが、これから何かが起こる、そのように想像するだけで、にとりは裏恐ろしい気持ちになった。
「ダメですね。棚は空っぽで何も入ってません。椛、そっちはどうですか?」
「冷蔵庫も空です。つまんないの」
 部屋に入るなり物色を始める二人に、勇者かお前ら、とツッコミたいにとりだったが、それ以上の、今にも自身の部屋とバレてしまいそうな焦燥に、にとりは扉の前で立ちすくみ、部屋に入れずにいた。
 扉の外でもじもじしてる河童を見れば、当然二人は声をかける。
 どうかしましたか。
 瞬間、にとりは奇策を思い付いた。それは素早い行動だった。威風堂々扉を潜り、手始めに低いテーブルを蹴り飛ばす。文と椛の目が白黒とする。二人の目が白黒しているうちに、にとりは棚を投げ倒した。櫓投げだ。とどめに冷蔵庫の扉を開け、勢いよく閉めて、にとりのターンは終了した。
「こういう家具の裏にさ、ヒントが隠れているものだよ。往々にしてさ!」
 ぽかんとしていた二人はやおら、たしかに、と発声し、家具をひっくり返し始めた。そろそろひっくり返せるものが無くなった頃、椛が部屋を見渡し「あれ」と口を切る。
「なんか、このぐちゃぐちゃした感じ、見覚えがあるような」
 にとりの策は裏目に出た。
 二人の記憶に眠る、かつての綺麗な部屋が呼び覚まされる前に、見る影もなく荒らしてやろう。そう考えたにとりだったが、もはや、にとりの〝綺麗な部屋〟など、二人にとっては故人だったのだ。――先ほど、二人の中でにとりの部屋は“ガラクタゴミ屋敷”に改名していた、と記述したが、“ガラクタゴミ屋敷”これは正しくいえば“綺麗な部屋”の“戒名”だったのだ。改名ならぬ、戒名なのである。――実際と違い、すべてが地面と同じドギツいピンクの物質で構成されてはいたが、部屋の荒れ具合は、それだけで、にとりの部屋を想起させるには十分だった。
「言われてみればたしかに。どことなく、にとりさんのお家と似てますね」
「うちは、もっとせまいよ」
 でもこの棚。椛が口を開く。
「この棚、にとりさんが布団被せて、いつも椅子にしてるやつですよね。ほらこの座り心地、身に覚えがあります」
 わたしにはないよ。にとりが発音するのと同時に、荒れた部屋に、忽然と、三つの椅子が現れた。革張りの、高級そうな椅子だった。それはにとりにとっても見慣れぬ椅子であったため、にとりはしめた!と口を切る。
「ほら、こんな椅子はわたしの部屋にはないぞ! 二人も座ってみたらどうだ、そしたらきっと、ここがわたしの部屋とは関係のないことがわかるから」
 にとりが口を動かしてる最中、椅子の革は盛り上がり、破け、裂け目から錆びた金属が飛び出して駆動した。にとりが言い切る頃には、椅子はすっかり拘束の、拷問器具に姿を変え、にとりの体は施された機構にしっかりと拘束されていた。
「ほら、座りなよ。二人とも。ね。座ろうよ、三人で」
 そんなにとりがなんだか不憫で、二人は椅子に腰を落ち着けた。椅子は機械的に駆動し、二人の身体を拘束する。
「にとりさん。この椅子は、にとりさんのどういった欲求なんですか」
「大丈夫ですよ。聞いても照れたりしませんから、言ってみてください」
 先程、文が自身の酔った際の欲求を打ち明け、犬が消えたことを、三人は把握していた。打ち明ければ、椅子は消え、きっと次の扉が開かれる。それをわからないにとりではなかったが、口をついたのは誤魔化しだった。
「い、いやあ。なんていうのかな。この、椅子はさ。わたしが造ろうと思ってたけど、どうしても完成させられなかった椅子なんだよね。こんなふうに、身体を拘束するところまでは実現させられてたんだけど、その先がどうも。だからこの椅子の正体は言うなれば、まあ、技師としての〝完成への飢え〟ってやつかな。あはは。しかしこの不思議な世界でも、構想を実現させることは不可能らしいや。わたしほど優秀な技師になると、ときどき、どうしても実現不可能なものを思いついてしまう。なんとも、ああ、かなしいね」
 にとりが格好付け終わると、三人の腿の付け根上あたりの虚空に、ぽわんと、丸鋸が現れた。初めは宙に浮いていた丸鋸だったが、一寸すると、丸鋸と、椅子を繋ぎ止める機構がぼんやりと浮かび上がった。半透明の機構は次第に実体を帯び、終には現実に、三人の視界に確かな物として顕現した。
「にとりさん。この、動けば下半分を切断してしまいそうな丸鋸は、にとりさんのどういった欲求なんですか」
「大丈夫ですよ。聞いても照れたりしませんから、言ってみてください」
 丸鋸の出現に合わせて、にとりはこの椅子の正体を確信した。しかし、それを打ち明けられるかどうかは、また別の問題である。
「しらんし」
 にとりの薄情な一声と同時に、丸鋸が駆動を開始した。軸ごと削りとってしまいそうな回転に伴う轟音は、とりわけて、薄情な駆動音であったといえる。

 十四分が経過した。

 丸鋸は十四分かけて、ゆっくりと、確実に三人の太腿の付け根に接近した。回転する刃は今にも肉に食い込まんとしている。
「ああ! にとりさん、早く言ってくださいよ。にとりさんが吐かないと、私達の足、本当に!」
 はじめ四、五分の間は極めて冷静だった文も、今では見る影もなく慌てふためいて、にとりに打ち明けるよう叫ぶ。文の思うよりずっと、にとりは強情だった。
「わ、私はにとりさんの考えてること、なんとなく分かってますから! 白狼天狗はハナが利きます! だから、いまさら言われたって、おどろかないし、笑わないし、だってなにより知ってたし!」
 七、八分頃までは、急ぐことはない、言いたくなるまで待ちましょう、と、回答を急かす文を嗜めていた椛にしても、今となっては文と同様に、動かぬ体でのたうって、顔面を青白く染めていた。
「えっと、その、わたし、だって、そんな!」
 錆びた拘束椅子に身体の自由を奪われた文と椛は必死でにとりに懇願する。二人の顔は青ざめて、にとりの頬のみが紅潮していた。
「ああ、にとりさん! 早く、早く!」
「に、にとりさん! 言ってください! 後生だから!」
 目に涙を浮かべ、紅潮した顔をぶるぶると震わせて、にとりは意を決して口を開いた。
「あー! わたしは、わたしは二人が! 二人のことが羨ましいんだ! 妬ましいんだ! 自分の短い背丈が、嫌で仕方がないんだよお!」
 ぱっと、椅子が消える。文と椛は尻もちをついて、そのままへなへなと、地面に倒れ込む。二人とも、どっと冷や汗をかいた。二人をよそに、にとりは体育の座位で俯いて、両腕に顔を埋めていた。
 死ぬかと思った。息を切らして出所不明の涙を拭う文を一瞥し、椛はにとりに声をかける。
「あの、にとりさん。なんていうか、その」
「いいよ! ほっといて!」
 にとりが酔うと煙草を吸うのは、謂わば、自身の子供じみた性質の裏返しだった。自覚のあるなしに関係なく、にとりには大人という言葉への憧れがあったことを、文はともかく、椛は知っていた。
 二人に自身のコンプレックスを知られてしまったにとりの胸中は、恥ずかしさと後悔で一杯だった。これまで、二人の前で自身のやってきた“大人めかした”言動、ないしは行動が、全て仇となって咲き乱れた。
 ――『煙草だよ、煙草。射命丸、あいつはね、タバコのフィルターと似てるんだ』――。
「あー!」
 にとりは声を出さずにはいられなかった。思い出したくないことは、それを一番思い出したくない状況で思い起こされる。恥とは往々にして、そんなものである。
 死ぬかと思った、と繰り返し続ける文の右方で、椛はにとりを慰め続けた。にとりにとって、椛の優しさが余計に辛辣だったことは、言うまでもない。
 そうこうしているうちに、部屋の天井が、ダンボールか何かを開封するのと同じようにして、開いた。四つに分かれた天井はそのまま壁を引き剥がし、地面と同化する。にとりは恥ずかしさから両腕に顔を埋め、文は未だ消化しきれぬ焦燥を、地面にうつ伏せとなって吐き出している。よって、周囲の変化に気が付いたのは椛のみだった。
 部屋に散乱していたはずの家具も、気付けば消えている。椛が辺りを見渡すと、そこには広大な地面があった。地面はピンクが大凡の割合を締め、赤はどこか見覚えのある形状で、ぶちまけられていた。椛は、広いピンクの海と、赤く染まった所々に、或るパターンを見出した。
 ああ、これは世界だ。と、すれば。
 椛は静かに、空と呼ぶには虚しすぎる暗闇を仰ぐ。そこには、巨大な人面の月が在った。月は今までの温厚な笑みとは打って変わって、目玉をひん剥き、歯を思いっきり食いしばって、椛達に接近していた。今なお接近を続ける月は、あと数秒もしたら、椛達の身体を、世界ごと破壊してしまうだろう。しかし、月の接近には音が無かった。
 椛を除いた二人は、未だ各々の感情を消化し続け、月に気がつく様子がない。――これまで三人が人面というあからさまに稀有な特徴を持った月に一度も言及しなかった要因は、間違いなく、接近という“見せ場”でさえも無音で迫るその謙虚さにあると考える。彼の顔はどこぞの機関車に酷似していた。哀れみは、誰の心にでも存在する。――地面に描かれた世界地図、接近する月。椛は瞬時に、それらが自分の欲求であることを悟った。
「私、みんな無くなっちゃえばいいのにって、ときどき思うんです」
 落ち込んだにとりの頭を撫でながら、椛はするりと呟いた。
「え?」
 声を揃えて、二人が顔をあげる。しかし、その頃には月はすっかりと消え、宙には相変わらずの闇が在った。月さえも消えた深い黒は、宇宙と同じ色をしている。そんな黒い虚空の下、なんでもありません、と笑う椛の瞳に、二人は宇宙を見出した。
『おつかれさまでした! 途中からだけど、おにいさんたちのこと、ちゃんと見てたよー』
 突如、世界に声が響く。三人は瞬時に声の主を察して「あ、こいしちゃんだ」と嘯いた。
「ね、ね。どうだった? ハプニングだったよね? 楽しかったでしょ?」
 うつ伏せにへたり込んでいた文はすっと立ち上がり、頭を撫でられっぱなしのにとりは椛の手を素早く振り払った。椛も二人に合わせてしゃんとした。三人とも、自分たちの遊んでいるところを親に見られたような気持ちになっていた。
「おつかれさま、ってことは、これで全部おしまいですか」
『うん、おしまい! もしかして、ものたりなかった?』
 いえ、とんでも。げんなりして、文は首の裏をかく。にとりもすっかり居直って、「いくらただとはいえ、こんな目に合うなんて。むしろこっちが何か貰いたいぐらいだよ」と文に合わせた。椛が出口について訪ねようと口を開きかけたが、こいしが遮った。
『ふっふーん。実はね、報酬はちゃんと用意してあるのです。なんだと思う? ね、なんだと思う?』
「報酬だって。射命丸、何がいい?」
「謝罪ですかね」
 椛が出口について訪ねようと口を開きかけたが、またしてもこいしが遮った。
『正解は……出てからのお楽しみでーす。がーん! ショック! ……じゃあ、最初にできなかった、出口についての説明をするね。ここには出口っていう出口はないんだけど、出る方法があるの。けっこう、簡単だよ。自分の酔っ払っちゃったときの欲求を、十回唱えればいいの。ね、簡単でしょ?』
 三人は三人とも言いたいことがあり、銘々に口を開きかけていたが、こいしの、最後の一言を聞いた途端、各々開いた口が塞がらなくなった。
『どこかはわかんないけど、三人とも同じ場所には出るはずだから。それじゃあね!』
 またのご来店をお待ちしてます、もう戻ってきちゃだめだよ。と、支離滅裂な二言を残して、こいしはそのまま、二度と戻らなかった。
 ちょっとした時間が過ぎたが、その中で、三人が協議し決定した事項があった。
「耳、ちゃんと塞ぎましたか?」
「はは、馬鹿だなこいつ。ちゃんと塞いでたら聞こえるはずないだろ」
「あー! にとりさん! 誰が馬鹿ですか誰が」
「あ! ミイラ取りがミイラだ! やっぱりちゃんと塞いでなかったんだな。射命丸、お前ほど卑劣なやつは見たことがないよ」
 それは、椛の欲求をいまひとつ聞き逃してしまった二人が提案した紳士協定だった。自分たちが打ち明けたからって、椛までそれをすることはない。という体で結ばれた協定だったが、ミイラ二匹の狼藉に、椛の血管の危機を感じていた。――そして、三匹目だ!――。
「ふたりとも! ちゃんと耳塞いでてくださいよ。そっちが言い出したことなんだから、お願いしますよ。もう」
 椛が何か物騒なことを呟いていたことだけは察していた二人だったが、どうしても、はっきりと耳にしておきたかったのだ。
「だいいち、お二人だって、また聞かれるのも、聞くのも、恥ずかしいくせに」
 しかし椛の指摘も最もだったので、二人はしっかりと耳を塞ぎ、頷いて、準備万端の合図を出した。合図を互いに示し合わせて、いよいよ以て口を開く。
「私は二人に構ってほしい……私は二人に……」
「わたしは長い脚がほしい……わたしは長い……」
 声は頭蓋骨にこだまして、各々の聴覚に響き渡った。文とにとりは、ふと、椛の口元に目線を遣る。
「……。……。……」
 二人は、どうしても気になった。これほどまでに魅力的な椛の唇を、二人はこれまで見たことがなかった。二人して、ゆっくりと、耳元から手のひらを離す。
「……界滅亡、世界滅亡、世界滅……。…………」
 二人はそっと、耳をふさいだ。
目を瞑り、それぞれ十回唱え終えた三人の視覚野に、世界の暗闇がなだれ込んだ。それが紛れもなく意識の暗転を示唆していることを、三人は直感で察した。
「あれ」
 瞬間、感じた肌寒さに口を開いたのはにとりだった。目を開けると、見慣れているような、久しいような、景観。視界には雑多な店々が連なり、そのどれもが、出入り口を閉ざして、沈黙している。にとりの隣で伸びていた文も、目を覚ます。上体を起こせば、がさごそと、文は背中の後ろに雑然たるビニール袋の気配を感じた。椛も、少し遅れて上体を起こした。静まり返った場末の通りは、椛に白々とした早朝を想わせた。
 しかし空はない。そこは地底だった。地底の、用途の読めない木製の電柱の脇、低いコンクリートの塀の中、三人は捨て子の様相でゴミ袋に塗れていた。髪はぼさぼさ、服はしわくちゃ、目の下には、不足した睡眠に隈がよって、三人は見るからに、ネオン街から投棄された捨て子他ならなかった。
 街の静けさと肌寒さは、夜に甘えていた三人を突き放し、朝を思わせた。各々、おもむろに肘を抱く。
「あれ。ポケットに、なにか」
 言いながら、文は胸ポケットをまさぐった。にとりも椛も、「え、ポケット」と発音し、各々の服に付いた、いろんなポケットをまさぐる。三人はポケットから、同じタイミングでそれを取り出した。
 それは、小さなメモ用紙と、やたらに太い判子だった。小さなメモ用紙には、「ご利用ありがとうございました。他のお店がライターとかをあげてるのをみて、こいしも、粗品を用意したのです。それが、こいしの言っていた、報酬というやつです」と、上下どちらとも区別のつかぬ位置からのメッセージが走り書きされていた。三人は、数時間前にみたはずの、けれど、もはやどこか懐かしくなった“こいしちゃん”の顔を思い浮かべて、苦笑した。苦笑のままに、三人は、やたらと太い判子をみやった。印面には、文字ではなく、何か形が刻まれており、よくよく見ると、それはどうやら、唇の形をしていた。
 文はすかさず判子を握って、疲れにすっかり気怠くなった腕を動かし、隣の、にとりの頬を突いた。
「やめろよ」
 にとりはそれを避けることはしなかったが、代わりに、頬にくっついたまま離れない文の判子を、やにわに振り払って、弾き飛ばした。飛ばされ、地面に転がっていく判子を無意識に追いかける文を見、椛は疲れからか、自分の役目を奪われたような気になって、ぼんやりとした。頬にべったりとキスマークを付けたにとりは、椛の頬へと、自分が文にされたのと同じように、判子を押し付ける。椛が即座に報復をしたので、それは、ちょっとした戦争に発展した。判子を拾って戻ってきた文も乱入したので、三人の顔、またその周辺は、キスマークだらけとなった。疲労から、三人はそれを無感動にやり遂げた。
 要するに三人は、労働明けに気分を良くしたどこぞの馬の骨から、「おつかれさまです」の声をもらったり、朝早い露天商の、「昨夜は随分お楽しみだったようで」なんて邪推を投げつけられたり、早起きの、真っ当な商売人の、不愉快そうな視線を浴びたりしながら、帰路を辿ったわけである。帰路を歩く疲れ切った三人の頭は回らず、触覚と、聴覚だけが過敏になって、地面を踏みしめる感触と音のみが、意識のそばを、白々しく滑っていった。
 しかし、三人の心には所謂“やりきった”ような感慨もあったため、銘々に、格好をつけて闊歩した。文は、片手をお尻のポケットに入れ、その肘で、もう片手を脇腹あたりに挟み、少しだけ方をすくめ、また、背筋を曲げて、歩いた。にとりは、両手を外套のポケットに突っ込んで、文よりもっとわざとらしく、背筋を曲げて歩いた。椛は背筋こそ伸びていたが、腕を組んで、なにか、しきりに、右上や左上の虚空へ視線を泳がせていた。それがそれぞれの、持ちうる限りの美意識、というやつだったのかどうかは知れないが、ともかくとして。他人とすれ違う際には、どこからともなく、間抜けな鳥が、鳴いたそうな。



   三 盲担TTE



あれから暫くが経って、季節はすっかり冷え込んで、外套を羽織っても外出の憚られる寒さとなった。三人はこのところ、毎日、椛の部屋で呑んでいた。呑む、というには些かに落ち着きの欠けた酒宴ではあったが、外の薄暗い寒さと暖かい明りが灯る部屋の、冬特有の対比は、飲酒をとりわけ穏やかな、優しい行いへと変えていた。しかし、それは対外的な視点からの見解であって、三人が実際穏やかに飲んでいるかどうかは、また別問題である。
「えー、なんでしたっけね。わたしは、ふたりのながいあしが、うらやましいんだーっ、でしたっけ? ねぇ、にとりさん」
「射命丸おまえ、うるさいぞ。飲みすぎて脳が腐ったんじゃないか」
 文はへべれけの体でにとりに絡む。元来、椛の部屋、天狗の寮で騒ぐことに禁忌感を抱いていた文だったが、冬の寒さと協議した結果、外出は否決され、誰かの部屋で呑むことが決定した。それから三人で話し合ったが、集う場所は結局、椛の部屋に決まった。椛の部屋にはストーブがあったのだ。
「にとりさん、無視しましょう。無視」
「あ! 危険思想がなんか言ってますよ、にとりさん!」
 危険思想、その言葉に、にとりは思わず腹を抱えて笑う。デマイゴでの出来事は、今となっては酔っ払いの、格好の肴と化していた。
「私、文さんほど恥ずかしい人を知りません。かまってほしいんだなぁって思われながら、ひとを詰るのは楽しいですか」
「たのしいですよ。だって、お酒飲んでたら、なんだってたのしいに決まってるじゃないですか」
 椛は目を丸くして、やおら腕を組み、しばしの黙考のあと、「たしかに」と、なにもわかっていなさそうに、はにかんだ。にとりは煙草をふかして、二人に対しおもむろに、「酒は悪ふざけに似ている」などと意味ありげな言葉を意味深に呟いてみせる。とどのつまり、三人とも既に出来上がっていた。
 意味深な呟きに、二人はきょとんとして、にとりのほうを向く。
「ちょっと考えたんだけどね。この酒というやつと、何か似ているものはないかなって」
 にとりは言いながら、胡座に肘をついた片方、人差し指と中指の間に挟んだ煙草をゆらゆらと動かした。二人は興味ありげに、先端の朱燃を追う。
「えー、お酒とかけまして、悪ふざけととく。その心は。……どちらも度が過ぎれば“きつい”でしょう」
 あ、いつもとちがう! にとりの「ちょっと考えたんだけどね」を幾度となく拝聴してきた椛は、にとりの語り口の変化に感動しながら手を打った。傍ら、文は既に興味を失った様子で、なにやら手元の、巨大な物体を弄り回す。
 ストーブはときたま酸欠気味に埃を吐いて、明るい部屋を暖めた。カーテンの向こうの、薄暗い銀世界には雪がちらついて、寮前の枯れた木々に揺れ落ちている。
「お、射命丸。けっこうな大きさになったじゃないか、それ」
「ええ、ええ。だんだんそれっぽくなってきました」
 にとりもにとりで、床の上、なにか作業をしながら文のそれを見やった。二人と同様に、椛も“それ”のと似た、巨大な物体を弄っている。
「でも、お二人とも、結局それは何を作ってるんですか。いまだにみえてこないんですよね、私には」
「え! わかりませんか! いやあ、その見る目の無さはやっぱり犬ですね」
 言葉とは裏腹に、文は、よくぞ聞いてくれた、とでも言いたげな、とてもうれしそうな表情をみせた。巨大なそれは柱の形状をしており、全体、ビールの空き缶という素材で構成されていた。空き缶で作られた柱を掲げて、文は口を開く。
「木ですよ、木。時期ですからね、ツリーを作っているんですよ。ほら、枝だって」
 言いながら、文は柱の上部先端付近を指す。そこには連なったプルタブが幾つもくっつけられており、プルタブはとりわけて貧相な、枝の役割を担っていた。
「木か。お前らしくてなかなかいいじゃないか。きっと、話し相手にもなるだろうし」
「にとりさんのそれはなんですか?」
 椛がにとりに問いかける。にとりは、床の至るところに空き缶やなんやを配置して、なにかを作っている様子だった。床のそれらは、二人が手洗に行く際などによく躓くので、にとりのみが知る薬剤等で、今ではしっかりと固定されている。
「よくぞ聞いてくれた! これはね、村を作ってるんだよ。わたしの村だよ」
 え、村ですか。 文と椛は同時に発音して、各々作業の手を止め、にとりに近寄った。二人がよくよく床を見やれば、置かれている空き缶は、どうやらにとりの持ち込んだ手道具で形を整えられており、言われてみると建物らしき形状をしている物がちらほらとあった。興味有りげな二人の反応に、にとりはもう話したくてたまらない気持ちで喋りだす。
「うん。この大きいやつがね、みんなの寮で、こっちが、みんなの工場なんだ。村のみんな、大体は寮に住んで、この工場で働いているんだ。みんなで助け合って、毎日元気に働くよ。けど、この村には主人公がいて、主人公だけ、こっちの小さい家で、恋人と二人で暮らしてるんだ。あ、このプルタブが主人公で、このプルタブが主人公の恋人。こいつはね、みんなと同じ工場で働いてるんだけど、生まれが特殊でね。みんなと仲は悪くないんだけど、みんなとは別々に暮らしてる。はじめは一人で暮らしてたんだけど、いつだったか恋人ができたんだ。だから、それからはもう寂しくなかったよ。でも、二人で過ごせるのは夜だけ。朝が来たら働きに行かなきゃいけないから。ああ、かなしいなあ。だからそんなとき、わたしはこの工場を灰皿にするんだ」
 にとりは空き缶で出来た工場に、咥えていた煙草をぐりぐりと押し付けた。
「でもね、この工場には煙草の灰が必要だから。これも、わるいことではないんだよ。必要なこと」
 みんな、幸せになるといいですね。にとりが平常より深く酩酊していることを察した二人はにとりの頭を撫でながら言った。しかし、にとりは本気で嫌がって、触るな、と二人の腕を振り払う。酔っ払いとは難しいものである。
「椛の、その大きくて丸いのはなんですか」
「これは、地球ってやつですよ」
 三人は退屈だった。というのも、当然である。働きもせず酒を飲めば、必然、話題というのは底をつく。外で飲むのをやめたとすれば、かえって話題の消費は早まる。三人に残っていたのは、もはやくたくたに擦り倒されたデマイゴのみだった。三人は話題のなさに、仕方なく、デマイゴでの出来事を嘯く。すると、デマイゴでの常ならぬ、非日常な体験が僅かばかりに蘇る。そんな体験の残滓は、殊更三人の退屈さを助長させた。退屈さを埋めるよう刺激を求めて、酒の量ばかりが増えていき、気付けば、大量の空き缶に埋め尽くされた部屋があった。そうして、三人はそんな部屋を見つめては、おもむろに、工作に打ち込み始めたのだ。文とにとりはもはや、椛の部屋に住んでいた。たまに帰ることがあっても、それは、空き缶工作の材料を持ち込むための一時帰宅に他ならず、椛の部屋からは日がな一日、絶えず空き缶の、ガラガラとした音が響いた。
「へぇ、地球。……あ、そうだ。私、部屋からツリーの飾り付けをもってきますよ。もうずっと前に買ったやつを、何処かに仕舞っておいたんですよね、たしか」
「射命丸、ついでに酒を買ってきてくれよ。ほら、もう無くなりそうじゃないか」
「だめですよ、にとりさん。次の買い出しは文さんじゃなくてにとりさんじゃないですか。こういう決めごとを破るところから、堕落というのが始まるんです」
「やだよ。さむいもん。……みんなで行くんなら、考えてやらなくもないぞ」
 三人は流れる時間を忘れ、工作の日々にのめり込んだ。しかし、奇行から得た幸福な日常というのは、そんなに長くは続かない。隣室の、文と椛の同僚たちも、それを許さない。
 幸福というのはトカゲのようなもので、三人が得たのは、トカゲの切った尻尾だった。尻尾はすぐに乾燥して、干からびて、価値を見出すのも難しい、雑然とした塵の類へと成り下がる。
「お、もうこんなに積もってますよ。雪」
「さ、さむいよ。冬だからって、毎年降ることないのになぁ」
「雪が降ったら冬なんですよ、にとりさん」
 降り積もった雪に静まり返る世界の中、三人の笑い声がよく響いた。
 三人が今なお遠ざかり続けるトカゲの本体に気がつくには、きっと、時間がかかるに違いない。代わりといってはなんだが、三人の、その手に握り込んだそれが干からびるまで、それほどの時間は要さなかった。



四 ほーこーとぅどろっぷ



「え! クビですか!」
 白昼。
 納期を超過し原稿を提出した文に、上司が言い渡したのは解雇通告、寮で日がな騒ぐ文の存在に感づいた同僚たちの密告により、文は即日クビとなった。退職金もその場で手渡され、同時に寮から出ていくように通告を受ける。
「で、でも部屋には家具とか、荷物とか……」
 聞けば部屋は既に片付けられているようで、次の入居者も決まっていた。家具や荷物は寮備え付けの倉庫にまとめられているらしく、住居が決まり次第受け取りに来るよう指示をされる。文はとりあえず大量の缶ビールを買い込んで、椛の部屋に帰ることにした。
「え! クビですか!」
 解雇通告を受けた際の文と同じ言葉を発音し、椛は笑い転げた。にとりにしても、腹を抱えて、酸欠の予感に身悶えをする。
「あは、あはは! ひえぇ、おもしろすぎる。さすが、射命丸はいいネタを持ってくるなあ! あははは! だめだ、止まんないや!」
 自身が部屋の床に創造した村が壊れていくのを気にもとめず、にとりは笑い転げる。椛も椛で、自身の創造した地球をばんばん叩きながら笑い続けていた。そんな二人に、文は少し不服そうに唇を尖らせつつも、とりわけて平静な態度で、缶ビールをビニールから取り出し、冷蔵庫へと仕舞っている。
「急に、急におもしろい話持ってこないでくださいよ、もう。文さんたら! はー、おもしろい。はー、それでこれからどうするんですか、文さん。あ、まずはお家探しですよね。寮だって、結局追い出されたみたいなものですし」
 息も絶え絶えに、椛が文に問いかける。にとりも文の、今後の動向が気になるらしく、珍しく文のほうを向いて、その口が開くのを待ち望んだ。二人の視線を受ける文は、やおら缶ビールのプルタブを引き放って、ちびりと口をつけた。
「いやあ。なんというか。今後をどうこうっていうのは、そうですね。今はあんまり考えてない、というか。まぁ、上には内緒で、このまま椛の部屋に居座ればいいかな、みたいな。退職金もけっこう貰いましたし、しばらくはそういうこと、考えなくてもいいかな、的な。このツリーも、まだ未完成ですし」
 突然の解雇に文も流石にダメージを受けていた様子で、その語り口は訥々としていた。しかし、重要なのは語り口よりも内容である。文の放った言葉のすべてが、椛とにとりに衝撃を与えた。衝撃によって二人の胸中に浮かんだ感慨を言葉にしたなら、それは紛れもなく、「やべえな」の四字だった。ぐいっと勢いよく缶を空け、空き缶工作を再開する文を見、二人はゴミ掃除を開始した。
「あっ、二人とも! なにしてるんですか、もったいないじゃありませんか! せっかく作ったのに」
「ゴミ掃除だよゴミ掃除! 射命丸、お前のそれも捨てるからな!」
 い、いやですよ! にとりの言葉に、文は自作のツリーを守るように抱きかかえた。せっかくここまで作ったのに、とか、これにどれだけの時間とお金が、とか、狂人めいた言葉を吐きながら、文はツリーを処分せんとするにとりの手を防ぐ。
「文さん、もうやめましょう」
「椛さんまでどうしたんですか、急に! ふたりとも、ちょっと変ですよ!」
 椛が説得を試みるも、アルコールとニセ埋没費用効果に憑かれた文の耳はただの穴だった。文があんまり頑なにツリーを守るので、そのうち、二人はツリーの奪取を諦め、にとりは自身の身支度を始めて、椛は文の荷物をまとめ始めた。
「ちょ、ちょっと。椛さん、私の荷物をまとめて、どうしようってんですか。にとりさんまで、身支度始めちゃって。な、なんだか、もうお開きみたいな雰囲気が……」
「その通り。もうお開きだよ、射命丸。わたしは帰って真面目に働くとするよ。お前みたいにクビになっちゃ、かなわないからな」
「文さん、ごめんなさい。私もちょっと、真面目に働こうと思って……」
 椛は言いながら、まとめ終わった荷物を文に差し出す。文は空き缶のツリーを抱えたまま、愕然と立ち尽くした。
「じゃあ椛、わたしは帰るからさ。迷惑かけたね。……ほら射命丸。そんなゴミいつまでも抱えてないで、お前もとっとと出ていくことだな。それで、さっさと仕事をみつけてしまえよ。あんまり長居されちゃ、椛だって……まあいいや、それじゃ」
「ご、ゴミって」
 ふたりだって、あんなに夢中になってたはずなのに。文はアルコールに溺れた頭で、楽しかった日々を想った。しかし、二人の手腕により素早く解体、処分されたかつての村と地球は、今では数枚のゴミ袋に収まってしまっている。文はどうも、なにか判然としない気持ちで、抱えた空き缶のツリーとゴミ袋を交互にしてみつめていた。
「……じゃあ、荷物はとりあえず置いておきますね。私、今からもう、哨戒に行こうと思うんです」
「あっ、待って」
 文が不意に口を開いた。それは、文にとっても不意の言葉で、先に続く言葉は一つも思い浮かんでいなかった。椛がじっと二の句を待つので、文は必死に視線を動かして、言葉を探す。咄嗟に目についたのは、床に置かれた自身の荷物で、文は咄嗟に、それを拾い上げる。
「荷物、いいですよ。私も、帰りますから。ああ、帰る部屋はありませんが、とにかく、いいです。いやぁ、なんだか迷惑をおかけして……」
 口をついた言葉も、咄嗟に浮かんだ言葉だった。実際、これからどうするのか、何も浮かばないままに、文は玄関のドアノブを捻った。
「あ、文さん。お家が見つかるまではうちに居ていいですから! 見つからなかったら、帰ってきてくださいね。いつでも、開けておきますから!」
「あ、ありがとうございます。……それじゃあ」
 寮の階段を降る文の骨身に、冷たい風が染み込んだ。ああ、これからどうしよう。文の胸中は、その一言に満ちていた。
 それから、文は暫し里を徘徊して、ちょっとした広場のベンチに腰を落ち着けた。荷物をベンチに、空き缶のツリーをベンチの傍にもたれさせ、両手には、里で買ってしまった缶ビールが握られていた。
 広場の向こうでは子供たちがなにやら玉遊びをしていて、青空の下、子供たちの嬌声がひどく響いた。文は未開封の缶を見つめ、黙考する。
 考えてみれば、当然のことだった。日がな椛の部屋で騒いだなら、寮に住む同僚たちがそれに気付かないわけがない。
 しかし文は、そんな、解雇となった直接的な要因よりも、自身のこれまでとこれからについて、漠然と思考を巡らせた。にとりと椛は、真面目に働くという。しれっと椛の部屋に戻って、いつもどおりに酒をやろうと考えなくもなかった文だったが、冷静になれば、それが、してはいけないことだとすぐにわかった。つまるところ、二人のところへは暫く行けない。となると、住居はどうしたものか。目下の指標としては、当面の住居の確保、それが重要である。しかし、二人のところへは行けないし、僅かばかりの退職金では、どうも。ああ、どうしたものか。
 不意に、文の足元になにかがぶつかった。視線を遣ると、そこには白と黒の球体があり、文の胸には、どことない感傷が滲んだ。
 ――すみませーん! ボールとってください!
 奇妙なオブジェクトを広場に持ち込んでは缶ビールを握りしめる大人に臆することのない少年の将来は有望だった。文はベンチに座ったまま、腰をうんと曲げてボールを拾い上げ、緩く投げ返す。二、三弾んで、心許なく転がるボールは無事、子供たちのもとにたどり着いた。
 ――ありがとうございます!
 文は、矢庭に缶ビールを開け放ち、中身を胃袋へ流し込んだ。ああ、もう、どうでもいいかも。そんな感じの、破れかぶれな感慨が、文の脳裏に、浮かんでいた。
 一方、にとりと椛の日々は目まぐるしく流れた。久々の労働に目を回しているうちに、道の端で汚れていく初雪の上に、また新たな雪が覆いかぶさる。思いのほか姿を見せない文の様子がそろそろ気になりだした頃、二人は合った休日に集まって、結局、酒をやるようになった。慰みのない労働には耐えきれない、というよりも、酒を楽しむために働くのだということを、二人はわかっていた。しかし、どうにも楽しめなかった。仕事を再開したにとりの部屋は整然とし、酒宴会場である椛の部屋にも、空き缶が溜まることはなかった。冬にしては、明るい陽射しが多かった。二人の部屋は小ざっぱりとして、白昼、平熱の風が吹き抜けて、カーテンを揺らす。休日の白球をその手に掴めば、二人はただただ、カーテンの挙動を追った。
 そうしてそれからは、そんな、小ざっぱりとした日々が、暫く続いた。
 休日、休日とは言ったものの、厳密に言えば、二人に休日は無い。椛の場合、それは非番で、にとりの場合は、毎日が平日にも休日にもなり得た。
 にとりの仕事は、河童たちの製品作製の工程を最適化する、マニュアルの作成、ないしは改訂だった。にとりの技師という肩書は伊達ではなく、工程の最適化は、全てにとり一人に任されていて、にとりはその業務の全てを自室で行ってもよい権利があった。しかし、河童たちの生産効率はにとりのやる気に左右されるのだから、それは重要な仕事である。だから、にとりが久々に新しいマニュアルを提出したときには、河童全員が喜んだ。やっと河城が戻ってきた! ヨッ、谷ガッパのにとり! みなが、にとりをもてはやした。にとりが耳にした噂によれば、自身があと少しサボり続けていたならば、代役が立てられていたという話だ。代役は後のことを考えて、経験の浅い、若い河童から選出される予定だったようだが、若く繊細な河童の中には、誰も、そんな大役を引き受けたがる者はいない。なのでますます、このところのにとりは持て囃されていた。
 以前のゴミ屋敷と比べて、ずっと整然とした部屋の中、にとりは機械を前に、ぼんやりとする。期待に応えよう、なんて、そんなやる気とは裏腹に、自身の心が空転しているのを、にとりは確かに感じていた。
 なんだかな。仕事も今ひとつ、身が入らない。そんな折、不意に玄関のチャイムが鳴る。
 あまりいい気分では無かった。最近、にとりはいろんな後輩と仲良くしていたが、なかでも一人、後輩よりも後輩らしい、あまりにも後輩然とした河童がいた。その河童はやたらめったらにとりを褒めた。にとりのことをこれでもか、というほどに褒め倒した。それは憧れと尊敬の入り混じった眼差しと一緒の色をした言葉で、悪い気がしないでもないにとりだったが、どうも、キラキラと輝く瞳を見ると、いたたまれない気分になってしまう。
 おおかた、そいつがまた、訪ねてきたのだろう。あまり浮かない心で、にとりは玄関の戸を開ける。
「あれ、椛じゃないか」
 少し照れたように、「どうも」とはにかんで、椛は玄関の戸をくぐった。
「にとりさん。お酒持ってきたんですよ、よかったらどうですか?」
「おお、いいね。ちょうど行き詰まってたとこだったから」
 二人は酒を飲んだ。冬の明るい陽射しは縁側から差し込んで、嘘っぽく部屋を照らしている。そろそろ寒くなってきたね、の一声で換気は終わって、縁側の大窓は閉じられる。それでも、窓の向こうの遠い空には、鈍白の陽が青空にまぎれて光るので、二人はそれを、何の気なしに眺め続けた。
「それにしても。いいの、椛。今日、非番じゃなかったよね」
「いいんですよ。どうせ、やることなんてなんにもないし」
空回りしているのは、椛も同じだった。やる気を出して足を踏み出せど、椛の仕事は、誰がいてもいなくても変わらない、やりがいのないもののままだった。やる気のあるなしに問わず、山中をぼーっと散歩しているなら、友人のところへ遊びにいってしまっても、なんら問題はない。誰も困らない。実際、椛の不在に気がつくものは少なかったし、気付いていたとしても、気にもとめない者ばかりだった。それは、なにも椛に限った話ではなく、誰も、哨戒という職務をまっとうにこなす者はいなかったのだ。
「最近、射命丸はどうしてるのかな。もっと、こう。すぐに訪ねてきてさ、いつもの調子で、くるもんだと思ってたんだけど」
 にとりは灰皿に灰を落としながら、「まぁ、忙しくしてたんだけどね」と続ける。
「ああ、そうだ。ちょっと考えたことがあってさ」
 にとりのそれは、酔った際によく出る言葉だったが、今回は然程酔っていない。前よりずっと落ち着いた口調や、煙草でわざとらしく身振り手振りをしないことから、椛にもそれがわかった。にとりは口元に烟草を構えつつ言う。
「前まではさ、仕事が嫌で、たまらなくて、毎日飲んでたわけだけど。最近じゃあ、何のために飲んでるのかよくわからないんだよね。仕事もそれほど嫌じゃないし、かと言って、打ち込めるほど楽しいかといえばそうじゃない。ああ、なんだろう。椛、わたしのいいたいこと、わかる?」
 椛はじっと、缶ビールを見つめて、うーん、と唸る。一寸の沈黙のあと、にとりはおもむろに口を開く。
「なんだかね。わたしもわかんないんだけどさ、まぁ。次は何を嫌いになれば、酒を楽しくやれるのか、って。そういう話だよ」
 そこまで言って、にとりが煙を吸い込むので、椛はなんとはなしに、煙草をくわえるにとりの横顔を眺めた。なんだか、随分と大人びた顔をしているな、椛の胸中に浮かんだのは、そんな感慨だった。
「にとりさん。なんだか、似合ってますね、煙草」
「あんまり、うれしくないなあ」
 それからは、静かな時間が流れた。
 日暮れ、椛はにとりの部屋をでて、家路を辿る。寮への家路は即ち職場への家路で、椛が考えるのは仕事と、自分のことだった。枯れ木と、土の混じった雪が、椛に変わらない冬を教えていた。
 山道は、目を瞑ってでも歩けるほどに、歩き慣れた道だ。いまこうして、本当に目を瞑っても、何にぶつかることもなく、歩き続けることが出来る。でも、それがなんになるというのだろう。あの二人は、きっと、仕事が嫌で、嫌でたまらなくて、お酒を飲んでいたのだろう。でも、私は。楽な仕事だし、隊のみんなのことも好きだ。だけど、楽しい仕事ではなかった。あの二人の仕事は、私のと違って、誰にでも出来る仕事ではないから、きっと、私なんかよりずっと、嫌で、嫌でたまらなくて、お酒を飲んだに違いない。
 下を向いて、腕を組んで、考え続ける。道なんかみえてやしなかったが、椛は岐路を曲がって、寮まで遠回りする道を選んだ。
 私は、何が嫌で、お酒を飲んでいたのだろう。
 三人の中で、椛は唯一酔えなかった。いくら飲んでも、素面でいた。二人と違い、現実的な問題を忘れ、個人の本質に根ざしたコンプレックスに執心することなど、出来なかった。二人と違い、椛には、忘れたいほどに嫌なことなど、なにもなかった。椛はそれが、たまらなく嫌だった。それでも、椛はやり甲斐のない仕事にしがみついた。しがみつけば、しがみつくほどに、自身の何もなさが浮き彫りになった。二人と遊んでいるときは楽しかった。けれど、一人になれば、よりいっそう、世界の破滅が恋しくなった。しかしそれでも、椛は自身の何もなさを浮き彫りにするだけの仕事も、缶ビールも、手放せないままでいる。
「あれ」
 椛は随分と、寮から離れてしまっていた。
 考えたところで結局、何が変わるわけでもない。仕事はやめられないし、二人ともずっと一緒にいたい。遠回りして、考えることこそ、遠回りで、寄り道だ。意味なんてないんだ。ああ、隕石でも、落ちればいいのに。
 椛は寂しく笑って、寮への帰路を辿った。
 それから三人は、にとりと椛でさえも、集まることをしなくなった。文は結局、妙なプライドと捨て鉢の心から誰に頼ることもできず、ちょっとした広場のちょっとした主となり、にとりは仕事と空転を続けて、椛は何もせず、ぼんやりと破滅を待ち望む。そんな生活が、しばらく続く。



   五 このままじゃ帰れない!



 さて、三人が各々悩んでいる間、その時間を埋める必要がある。そこで、時は遡り、三人がデマイゴから脱出した直後の話だ。
 三人が地底を出ると、外は紛れもなく朝だった。それは早朝で、薄暗くはあったが、それでも真冬の鈍い陽は、霧の向こうに確かに存在していた。戻りましょうか、そう口を開いたのは、やはり犬走椛だった。
「こんなに外が明るいと、寮につくまでに死んじゃいますよ」
 雑木林、地底への入り口である洞穴の前、文とにとりは腕を組んで、「たしかに」を発音する。
「でもそんなこと言ったってさ。わたし、もうへとへとだよ。戻ったところで、酒をやれるような体力はないし、それにきっと、お店だって閉まってる」
「それは、たしかにそうなんですけどね。でも、椛の言う通り、朝なんですよ。空の明るさも恐ろしいですけど、なにより今の時間は、みなが起きて働き始める時間なんです。そういう方々と鉢合わせになることが、私は一番恐ろしいですけどね」
 今度は、三人輪になって、腕を組み、唸る。
 ――このとき、三人は素面ではあったが、デマイゴでの出来事に疲弊していて、誰一人、まともに考える頭を持ったものはいなかった。加えて、髪はぼさぼさ、服はしわくちゃ、おまけにこいしから貰った“判子”で戯れたために、顔から首元付近にはキスマークが氾濫している。そんな姿で三人が各々の同僚と鉢合わせれば、一体どうなってしまうだろう。きっと殺される。
「――そうだ! とりあえず、今日は地底で眠りましょうよ。あそこは日雇労働者の天国で、たしか安宿が腐るほどあるとか。きっと宿で缶ビールぐらいは売ってるはずですから、それを飲んで、眠ってしまいましょうよ」
 文の提案に、二人は「そりゃあいい!」と声を上げた。はしゃぐための酒を飲める体力は無かったが、眠るための酒ならば、三人には未だ魅力的に思えた。
「そうと決まればさっそく戻ろう! ああ、なんだかワクワクしてきちゃった。お酒飲んでも眠れなかったらどうしようかなあ!」
「ふふ、大丈夫ですよにとりさん。これだけ疲れてるんですもん。きっと、一杯で寝ちゃいますよ」
 椛が嗜めてもにとりの気持ちが鎮まることはなかった。にとりの大脳辺縁系は睡眠不足が剰ってぐるぐるに空転していたのだ。それは、他の二人にも言えることだが、真っ先に所謂深夜テンションに突入したのはにとりだったというわけだ。
「歌をうたっていこうよ、歌を!」
 にとりの提案にあまり乗り気になれない二人だったが、歌い始めればたちまち例のテンションに突入した。林では鳥や虫達が起床して、朗らかに日の始まりを歌っていたが、三人が選んだのは、日の終りの歌だった。鳥や虫たちは目を丸くして、再度洞穴へ潜ってゆく三人を見送った。

 夕空はれて 秋風吹き
 月影落ちて 鈴虫鳴く
 思えば通し 故郷の空
 ああ わが父母 いかにおわす

 澄みゆく水に 秋萩垂れ
 玉なす露は 芒に満つ
 思えば似たり 故郷の野辺
 ああ わが兄弟 たれと遊ぶ

 三人の言語中枢は疲労に焼き切れそうになりながらも、なんとか地底までもった。とすれば、明けの地底には「故郷の空」が響き渡る。朝だってのになんて歌をうたいやがる。あいつら昨日も来てたぞ。嫌がらせみたいなやつらだ。地底の住民達は怪訝そうに一瞥をくれ、通り過ぎていったが、三人がそれに気がつくことはない。三人の視覚と聴覚は生きていたが、他は死んでいたため、既に目は節穴に、耳はただの穴と化していたのである。
「あー、ここまで来ればあと少しですよ。たしか、繁華街を抜けて、ちょっとした裏道に入れば、宿はごろごろ転がってるとかなんとか」
 三人はほぼ無意識に道を折れ、適当な裏路地を徘徊した。そのうちに宿の看板を見つけたが、その路地はどうも、三人にとって見覚えのある路地だった。
「お、宿だって。宿の看板があるよ。ほら」
「やっと見つかりましたか。随分歩きましたね」
「そうでもないですよ。それよりお二人とも、このお店って……」
 椛が指した指の先にはボロい面構えの店があり、その店の大きな木製の看板には「胎」という文字が達筆に踊っていた。
「うわ! この宿、デマイゴの隣じゃないか!」
「ちょっと、嫌ですね。ほかを探しますか?」
 文が提案をするも、みな渋い顔をする。三人が考えあぐねていると、不意に、椛がなにかに気付いた。
「……なにか聴こえませんか」
 耳を澄ませば、物音があった。それは間違いなくデマイゴから響いてくる音で、デマイゴから響くというだけで、三人にとってそれは怪音他ならなかった。
 それはどたどたや、ばたばたといった音色と似て、きっと何者かが、のたうつ音だった。
「なんだろうね」
「……ちょっと、確かめてみましょうか」
 三人は恐る恐るに、デマイゴの扉へと近づく。すると、入り口に声が漏れてきた。
 ――……ぼれ……る……お……れる……!
 扉から漏れる声に恐怖する三人だったが、それでも気になって、どうしようもなく気になって、扉を開けて、声と物音の正体を確かめたかった。とすれば、無言のじゃんけんは必然で、文と椛はグーを出し、にとりはチョキを出す。にとりは口内に舌打ちを溶かして、ゆっくりと、僅かに扉を開けた。
「ああ、これはみないほうがいいね」
 僅かに開いた隙間はにとりに独占され、他の二人はやきもきした。加えて、意味深な「みないほうがいい」である。文と椛がそれを堪えられるはずもなく、僅かな隙間は二人の手により解放され、音の正体が三人の視界に現れた。
「お、溺れる、溺れる! 溺れてしまうよぉ!」
 そこには、床の上をのたうつ女の姿があった。女は苦しそうに顔を歪めて、全身をがむしゃらに動かしては、酸素を求めている様子だった。
 ああ、見なければよかった! 三人がそう思ったのには二、三の理由があった。まず、そこにあるのは何の変哲もない床と壁、実況席のようなテーブルと、その上に置かれた「胎」の空き缶。溺れると悶え苦しむ女の言葉を肯定する材料である水は、どこにも見当たらなかった。続いて、女の容姿だ。女はなにやら“セーラー”を纏っていて、場末の色街の感と相まって、セーラーを着た女の苦悶の空間は、三人に、なにかそういった変態的な行為を彷彿とさせた。こいしのいないことから、これは放置等に類したそういうアレなのではないか。三人は無意識下で想像しては、顔を赤らめる。しかし、三人には女が幻覚を見ているであろうことも察していた。席の上の缶、そのプルタブは開け放たれて、中身の無いことをありありと語っている。三人は女の、ある種の滑稽さに、自分たちの姿を重ねていたのだ。
 ああ、自分たちも、こんなふうだったに違いない。
 思い出されたのは数刻前の、こいしの言葉だった。
 ――『おつかれさまでした! 途中からだけど、おにいさんたちのこと、ちゃんと見てたよー』
 ――三人は湧き上がる羞恥にピリオドを打つように、勢いよく、扉を閉めた。バン! という音と同時に、扉の向こうから悲鳴が響いたが、三人はそれを聞かなかったことにして、扉から離れた。
「宿に、行きましょうか」
「そうだね」
 恥ずかしさから逃げるよう宿に駆け込むと、受付にはこいしの姿があった。ああ、この子に全部見られていた。あの、セーラーの女のような醜態を、全部! 三人は脳髄に翡翠の色とも浅葱の色ともつかぬ衝撃に卒倒してしまいそうだったが、こいしがそれを許さなかった。
「あれ? おにいさんたち戻ってきたの? てっきり、帰ったものだとばかり思ってたのに」
 文とにとりは醜態の観測者の出現に脳をかき乱され応対どころの話ではなかったが、椛は違った。椛はこういうときに居直れる強さがあった。
「ここ、宿ですよね。一泊したいんですけど、三人。今から泊まれますか」
「うん、いいよ」
 文とにとりは仰天した。二人は羞恥から逃れるためならば、また、どこにあるとも知れない宿を探すことを厭わない所存でいたのだ。それをこの白狼天狗は! しかし、ここで日和ってしまってはメンツが立たないと、二人は椛に負けじと言葉を紡いだ。あのとき慌ててましたよね、焦ってましたよね。二人は、友人にいつかその言葉を吐かれることを嫌ったのだ。
「あ、ああ。こいしちゃんじゃないですか。さっきぶりですね。い、いやあ、宿なんかもやってらっしゃるとは、手広いですねぇ。さすが、さすが……なんでしょうね」
「えへへ、そうでもないよ」
 当たり障りのない文の言葉は、友人たちに対し、自分は平静であることをアピールするための言葉としては及第点だった。
「あ、ああ! そういやさっき、デマイゴで、床をのたうってる女のひとを見たんだけど。も、もしかして、わ、わたしたちもあんなふうだったのかな」
「うん、あんなふうだったよ」
 ああこの河童は! なんてことを聞いてくれるんだ! にとりの場合は大失敗、赤点もいいとこだった。にとりのそれが、紛れもなく羞恥を引きずっての発言であることを二人は察した。そして、こいしの肯定は平静へと這い上がらんとする三人を再び羞恥の渦へ引きずり下ろした。
「部屋は別々がいい? うちは一部屋にみんな入れちゃっても問題ないんだけど、どうする?」
 ――あ、ええと。……一緒でお願いします。
 通常、こんなに恥ずかしくては各々別の部屋に宿泊するのが常軌というものだが、三人はそれをしなかった。三人はこのあとに“おわりの会”を控えていて、今日の出来事や現在の恥ずかしさを、その際の肴として消化しようと考えていた。つまるところ、受付の横に陳列された缶ビールが、三人を繋ぎ止めたのだ。
「はい、じゃあこれ。部屋の鍵ね」
「ありがとうございます。あの、あと、そこのビールを買いたいんですけどね」
「いいよ。何本にする?」
 鍵を受け取った文は二人に向き直って、「どうしますか?」を発音する。暫しごにょごにょと話し合って、文は再びこいしに向き直る。
「ワンケースおねがいします」
「え! ワンケース! ……まあ、いっか。こいし、何も言わない。じゃあ、ちょっと待っててね、ケースごと持ってきちゃうから」
 三人はケースを受け取るが早いか部屋に入って、缶の一本を空けた。部屋は畳約三畳ほどの広さで、小さなテーブルが一つ置かれていた。端のほうに布団が一組たたまれていたが、気にも留めずに、三人は二本目を開ける。ワンケース、即ち一人八本の至福は、三人の脳皺一本一本に染み渡った。
「あー、これだけ疲れて飲むお酒ほど、美味しいものはありませんね」
「ほんとほんと! それにしても疲れたよ、今日は。いろいろあったよね、ほんとに、いろいろ」
「ゴミ捨て場で起きて、里の広場で飲んで、地底に下りて、映画館で飲んで、お店で飲んで、こいしちゃんと会って……ああ、あそこの出来事も、今思えば、ちょっと楽しかったかも」
 回想する椛に、文とにとりは「そんなわけ!」と嘯いて笑った。それからというもの、三人は狭い部屋で、昨日起きてからの出来事を和やかに消化することに努めた。その日の出来事をその日のうちに、肴にして、消化する時間が、陽光から逃げ続ける三人にとっての至福だった。
 ――でもやっぱり、こいしちゃんは――たぶん、わたしのことを一番――。
 ――いや、私の欲求が――きっと彼女は――母性愛ってやつが――。
 ――そんなことより――彼女の――無料よりこわいものって――。
 ――危険思想――わたしね、ちょっと考えたんだけど――椛――危険思想――。
 ――。――――。
 三人の酔宴は、三人が眠りに落ちるまで続いた。
 と、結べればよかったのだが、そうはいかなかった。部屋には既に二十を超える空き缶が散乱しており、三人は銘々、目をギラつかせて、最後の一本に口をつけていた。
「だいたい、なんで私達があんな目に遭わなきゃいけないんですか。あのセーラー服の女の人みたいな姿を、どうして他人に見られなきゃいけないんですか! しかも、自分のコンプレックスの打ち明けまでさせられて、災難ったらないですよ。なんだかもう、苛々してしまって仕方ありませんよ、私は」
「ほんとだよ! こいしちゃんはかわいいけど、残酷だよな。残酷。目的が見えないもの! なんのために他人の醜態を眺めるような生業に手を染めてるわけさ、しかも、無料で! 考えれば考えるほど、あの子の性格が捻じくれて見えるよ。もう、いやだ、わたしは」
「許せませんね」
 疲弊した三人の身体に、悪い酒が入った! 一、二杯で眠りにつければよかったものを、初め、一杯、二杯、三杯と、殆ど一瞬で飲み乾した所為で、酒が眠気を呼び寄せることはなく、逆に、三人の大脳辺縁系を覚醒させたのだ。文、にとり、椛と一巡して、再度文が口を開く。
「今度、はたてを連れてきましょうよ。それで、私たちは「胎」の缶ビールを飲まずに、はたての醜態を眺めるんです。どうですか、面白そうだとは思いませんか」
「射命丸、おまえは天才だよ。あの人を人柱に立てることによって、わたしたちの羞恥を薄めようって、そういう腹積もりだな。射命丸、おまえは天才だよ!」
「私は、基本的に、文さんには常に、黙っててほしいと考えてるんですけど。でもやっぱり、ここまで一緒にいてよかったです。やっぱり、文さんは、ひと味ちがう」
 そうと決まれば! と文が口を切る。曰く、はたてを辱める計画の実行は明日で、明日のために今日は眠って、英気を養おうという話だった。にとりもそれがいいやと同調したが、椛は違った。椛の口から放たれた、訥々とした語り口を予感させる「でも」は空き缶だらけの空間に浮いて、場を支配した。
「でも。……なんでしょう、私、どうも目が冴えちゃって。お酒の所為で、逆に、目が冴えちゃって。……つまり、眠れないと思うんですよ。実際、こんなに盛り上がった気分のままでは」
 二人はハッとして、腕を組み、「たしかに」を発声する。
「うーん。そんなこといったってさ。みんな、疲れてるのはたしかだろう? もう今日の出来事も消化し終わったし、これ以上起きてたって、仕方ないから、眠ってしまうほかないと思うんだけどな。わたしは」
「それは、そうなんですけどね。しかし、椛の言うこともわかるんですよ。たしかに今、気分は盛り上がってて、とてもじゃないけど、このまま眠れるような状態ではありませんし。なにより、明日の計画が楽しみすぎて、もう、ワクワクしちゃって。余計に、眠れませんよね」
 三人はやおら唸りをあげて、考え込んだ。三人の心にはなにか、焦燥があった。それは言うなれば、“宿題やってないのに眠る”的焦燥だった。紛れもなく疲労と酒がもたらした偽の焦燥ではあったが、自分の心に気が付いてしまった文の口切りを止める者はいない。
「わかってしまいましたよ、私! この眠いのに眠れない状態の原因が! 要するにこれは、宿題をやっていないのに眠る、的な焦燥なんですよ。そりゃ、眠れるはずがありません。だって、やり残しがあるんですから!」
 にとりと椛は「天才、天才」と手を叩いて、文に称揚の拍手を送った。
「そうと決まればさっそく行こうよ! あ、でも……。わたし、あの人とあんまり仲良くないから、なんだろう。どうしようかな」
「……そういえば、私も。はたてさんは、文さんのご友人ですもんね。私たちが誘ったら、不審に思われるかも……」
 にとりと椛にとって、はたては友人の友人だった。今更になって怖気づく二人に対して、文は朗らかに口を開く。
「任せてくださいよ! 二人はデマイゴの前で待っててください。すぐに連れてきてやりますから!」
 言うが早いか、文はバタバタと部屋を飛び出していった。取り残された二人は、「やっぱりあいつ、頼りになるな」と感心して、残った酒に口をつける。
 それから、二時間ほどが経過した。部屋は通り沿いに窓が付いていたので、二人は何度か窓の外を見やったが、未だ、文の姿は見えないままでいた。
「あいつ、手間取ってるみたいだな。ふぁーぁ。わたし、眠くなってきちゃったよ」
「ええ、私も。それに、なんだかどうでもよくなってきました」
 寝よっか、という軽薄な一声を同時に発して、二人は床についた。一組の布団は二人で眠るのにちょうどいい大きさだった。
「射命丸が出ていってくれてよかったね」
「ええ。……あっ、にとりさん。いま思い出しました」
「何を?」
「とりわさって、鳥肉ですよ」
「ああ……」
 そうして、二人は眠った。
 一方、文は職場の、会議室前の長椅子に座り、腕を組んでは、ひたすらに貧乏揺すりをしていた。寮に戻りはたてにはすぐ会えた文だったが、その後が辛辣だった。会話を再現するなら、こうだ。
 ――うわ、文。なによその顔。どこで遊んできたらそんなふうになるわけ。
 ――はたてさん、ちょっといいお店を見つけたんですよ。行きませんか、今から。
 ――なに言ってんのよ、これから会議なの。行くにしても、会議が終わってからでいい? すぐに終わるとは思うけど。
 ――待ちますよ。
 会議はすぐには終わらなかった。会議室前、通路には既に夕暮れが差し込んで、通路に舞う埃を感傷的な橙で照らしている。文は腕を組み、寝不足の目を血走らせて、はたてを待った。あともう少しで終わるだろう、あともう少しで終わるだろうと繰り返し、気付けば夕暮れていたので、文はもう引き返せなかった。だから、ひたすらに待った。
 ……。…………。
「なによこの店。閉まってるじゃない。それに、なんだかいかがわしい感じがするし。どうせならもう少しまともな店に連れてきて欲しかったわ。それじゃあね」
 路地の向こう、繁華街は再び色めいて、猥雑で、無秩序な、騒がしい喧騒が跋扈していた。文とはたての立つ路地は裏路地然として物静かなものだったが、はたてはつまらなさそうな面持ちで路地を出て、通りの人混みに帰っていった。取り残された文はもはや、疲労が剰り、無意識のみで動いていた。やけに鮮明な視覚を操作して、文はきょろきょろと、にとりと椛の姿を探す。当然、二人は眠っているので、見つかるはずがない。文はそうそうに諦めて、宿に戻り、眠ってしまおうと脚を動かした。
 宿に入り、受付を見やる。こいしも、どこかに行ってしまっている。だからといって、何の感慨を浮かべることもなく、文はそのまま部屋へと歩く。部屋の戸を開けた瞬間に、文は、にとりと椛の、健やかな寝息と寝顔を知覚した。しかし、だからといって、何の感慨を浮かべることもなく。文はそのまま、二人の間に体をねじ込んでは、その空間に、無意識下で母の胎内を察し、眠った。
目を覚ました二人は酒を飲んで文の起きるのを待ち、文も目を覚ましたら酒をやった。二人が反故を文に謝罪することはなかったが、文も二人を恨むことはしなかった。つまるところ、三人はやはり“三人”で、諍いはあれど軋轢はなかった。しかし現在、そんな三人が疎遠になっている。それを気にするのは当人たち程度なものと思っていたが、どうやらそうではないらしい。要するに、そろそろなにか、現在の三人にも進展があったようだ。目を覚ました三人の話にはまだ続きがあったのだが、それはまた、別の機会となる。



   六 de 迷子



「どうしたのよ三人とも、らしくないじゃない! ほら飲みなさい、飲みなさいよ。飲まんかい!」
 酔った姫海棠はたての酌は、即ち暴君の酌。テーブルの上に煮える鍋を中心に、射命丸文、犬走椛、河城にとりの三人は、萎縮していた。
 姫海棠はたてがこの“仲直りの会”を企画したきっかけは、射命丸文の存在だった。はたては里へ生活用品やなんやを買い出しに行った際、或る噂を聞きつけたのだ。曰く、「向こうのちょっとした広場に主がいる」。興味本位でちょっとした広場に赴くと、そこには少年たちとちょっとした賭けに勤しむ文の姿があった。賭けの内容は“時間内に卵を立たせられたら十円。一回五円”というみみっちいもので、はたてはすぐに文を広場から連れ出した。はたてが事情を聞くと文は泣きながら「二人が冷たいんです」と語り、これは重症だと判断し企画したのがこの“仲直りの会”である。
 しかし実際のところ、文が泣いたのは久々に友人と会話が出来た喜びからであり、二人に冷たくされたのが悲しかったわけではない。加えて、文は二人に冷たくされたなどと思ってすらいなかった。はたてに優しくされたのが思いの外嬉しく、泣いてしまい、焦って捻り出した言葉が「二人に冷たくされた」の一言だったのだ。
 要するに、文はあまりこういった会合を望んではいなかった。二人には二人の生活、仕事があって、自分はその日常を阻害すべきではないと、少々卑屈になって考えていた。しかし実際、実現してしまった仲直りの会は、文、にとり、椛の三人に、克明に、気まずさを与えた。文に対し幾許かの申し訳無さを抱えていたにとりと椛が多少緊張しながら会に出向くと、そこには物言わぬ文の姿があった。文は友人たちとの久々の再開が嬉しいのと、緊張するのと、気まずいのとで、二人と会っても、何も言えなかったのだ。とすれば、にとりと椛はもっと気まずくなった。やっぱり、怒ってるのかな。ちょっとは、優しくしてやればよかったかな。気まずい空気の中、飲み慣れていないはたてはえげつないピッチで酒をやった。よって生まれたのが、暴君と、暴君に傅く三人組、という構図である。
「だいたい、クビになったぐらいでなによ。え、文! なに、クビになったら人生終わりなの。違うでしょ、断じて」
「いやあ、仰る通りで……」
 はじめこそ、喋らない三人の会話を取り持つべく努めていたはたてだったが、如何せん、飲み方を知らなかった。あんたら、好きでしょ。と用意した酒は思いのほか口当たりがよく、場の妙な雰囲気とその口当たりの良さから、三人がちびりと口を一度つける度に、はたては一杯やってしまった。何より、はたての性質がそういった鯨飲の一因を担ったことは言うまでもない。はたてはもともと酔い易い性質もあって、所謂“一杯飲むと止まれないタイプ”の酔っぱらいだった。
 ――文に聞いたわ。喧嘩したんだって?
 ――まあ、私に任せておきなさいって。これでも文とは長い付き合いだし、きっと仲直りさせてあげるわよ。
 ――……あんたらがおとなしいと、私まで、なんだか調子でないのよね。
 いまやはたての良心は死に絶え、酔っぱらいを酔っ払いたらしめるだめな部分のみが生きさらばえて、三人を苦しめ続ける。
「こら、そっちの二人も! そっちの二人も悪いのよ、ほんと。ちょっと前までは二人とも、おとなしくていい子だったのに、文に引っ張られて酒浸りになってから、どうもよくないわ。意思が弱いのよ、意思が」
「お、お恥ずかしい限りで……」
 椛は気まずそうに答えた。
 辛辣なのはにとりだった。文や椛がはたての暴力と似た言葉に頬を掻くのを見ると、なんだか、悲しくて、悔しくてたまらなかった。
 ――あらにとりじゃない。あ、椛まで。二人とも、今日は休み? そっか。いいわね、休日に友達と遊んで息抜きだなんて、健全で。え、私? いいのよ、気を使って誘ってくれなくても。にとりが人見知りなのは知ってるし、それになにより仕事だし。いいの、ほんと、気にしないで。それじゃあね、良い休日を。
 普段は、あんなにも善良なのに。酒を飲んだからといって、こうも辛辣な急変が許されていいのだろうか。いや、よくない。許されない。
「はたて! ……さん! ちょっと言わせてもらうけどさー!」
 にとりが堪えきれずに口を切ると、文が慌てて遮った。
「あ、あー! なんだか具合が悪くなりました、急に! ちょっと風に当たりたいと思うのですが、誰かついてきてくれやしませんかねえ! ねえ、にとりさん!」
 文はにとりの手を引いて、廊下を抜け、玄関の戸を開けた。
 冬らしく冷たい風が、ストーブと不協和な酔宴に火照った二人の身体をすり抜ける。 「……わかってるよ、射命丸。はたて、さんは酔ってるだけで、普段はいい人だって」
「やあ、その、なんというか。どうも、すみませんね。やっぱり、発端は私ですから……」
「いいよ。……わたしこそ、悪かったよ。最近、ちょっと冷たくしちゃってさ。……実はね、わたしも一昨日、クビになったんだ」
「え、それは、その。なんと言ったらいいか……」
 いいよいいよ、笑ってよ。にとりははにかんで、遠い空に視線を投げる。文も困ったように笑いながら、にとりと同じ様にした。二人の視界に映る冬の空は、紺色に冷たく、多い雲が広大さを語っていた。
 にとりは二日前のことを思い出す。改訂したマニュアルを提出した次の日のことだった。不如意な空転の日々から生まれたそのマニュアルの出来は酷いもので、誰がみても手抜き仕事と判ってしまうほどに滅茶苦茶だった。当然、河童達はそのマニュアルに騒ぎ立てる。各所から、にとりに対する幻滅や失望の声が響いたが、もちろん擁護する声もあり、中でもいっとうにとりを擁護したのは例の後輩河童だった。にとりさん、風邪でもひいたんすか。それとも、天才特有のスランプってやつですか。後輩の河童はにとりを気遣うように、また、心配するように、にとりに対し声をかけた。しかし、にとりの口から出たのは軽薄な言葉だった。
――別に。スランプとかそんなんじゃないよ。おもしろくなかっただけ。元々ね、好きでやってるわけじゃないんだもん。河童に生まれて、なんとなく得意だったから、こうなっただけでさ。
 その言葉はにとりが空転の果てに頃に導き出した答えだったが、真実ではない。夜明け前に見つけ出した答えは信じてはいけないという諺が何処かの国にあり、幻想郷に生きるにとりがそれを知るはずもなく、やはり、にとりがその答えを見つけ出したのは夜明け前だった。
 にとりの放った言葉が真実であれどうであれ、それは後輩河童を幻滅させるには十分な言葉だった。工場の通路、気まずい沈黙の中、自分の吐いた言葉に居た堪れなくなったにとりが視線を泳がせると、まずい人物と目があった。その日はちょうど、山のお上が工場の視察に来ていたのだ。にとりの属する河童の組織なぞ、結局のところは山の下請けのようなもので、いくらにとりが河童の組織で重要なポジションを担っていたとしても、お上連中には関係のない話だった。
 にとりの言葉を聞いた山の天狗は、顔をしかめ、腕を組み、右手人差し指で二の腕をとんとんと叩いては、目を細め、にとりの顔をじっと見つめる。
 それが、まずかった。不如意な空転の日々に伴う破滅願望めいた破壊の衝動と、みなの期待を裏切ってしまった無力感と、自分を慕ってくれた後輩を幻滅させてしまった自身のどうしようもなさの果てに、天狗の“言葉次第では許してやらんこともない”的目つきをみてしまったにとりは、もう破れなかぶれな気分になった。
 ――やい! なんだよ、偉そうに睨みつけやがって! いいよ、わかってるさ。言われる前にこっちが言ってやる。こんな仕事、やめてやるよ! やめてやるからさー!
 吐き捨てて去っていくにとりの背中を、場に残された後輩河童と天狗は唖然とした面持ちで見つめていた。後輩河童の受けたショックは言わずもがな、しかし、天狗も同等に驚いていた。それもそのはず、お上にとって下請けの一個人などもはや個人ではない、ではないが、その天狗はにとりのことを知っていた。にとりがどれほど優秀で、みなから慕われているかを知っていたのだ。そのにとりがスランプというから視察を兼ねて来てみれば、にとりがらしくもなく愚痴を吐いており、なんと声をかけたらいいものかと、腕を組み考えていたら、あの台詞である。天狗は、それはもう驚いた。
 しかし、そんな天狗の心を知らずに、にとりは今もこうして、はたての部屋の玄関前、手すりを掴んで空を眺める。
「あー。私もさ、戻ったら飲んじゃおうかな。酔えばさ、どうせ楽しいし」
「それがいいかもしれませんね。私もそうしようかな」
「じゃあ、戻ろっか。いつまでも椛一人にしてたら、かわいそうだし」
「どうでしょうね。はたてさん、ああなったらすぐに寝ちゃいますから。戻ったらもう眠ってたりして」
 かもね、と嘯いて、にとりは玄関の扉を開けた。

 ……。

「あたし、やっぱり、怒らせちゃったかなあ。にとりのこと」
「大丈夫ですよ。にとりさん、八つ当たり以外でひとに怒ったりしないんです。きっと、仕事とかで、なにか嫌なことがあっただけだと思います」
 一方、文とにとりが玄関前で話している間、椛はしゅんとしたはたてを慰めていた。ストーブはときたま不健康そうに埃を吐いて、鍋は炬燵の上でグツグツと煮え立っている。
「違うのよ、あたし。こんな、ああ、ちょっと飲みすぎちゃったな」
「わかってます、大丈夫ですよ。はたてさんが飲みすぎるのはいつものことですから。みんな、きっとわかってます」
 椛は話しながら猪口をちびちびとやっていたが、やはり酔えないままでいた。
「あたしね、みんなに、三人にね。仲直りして、元気になって、また、昔みたいに頑張ってほしかっただけなの。ほんとよ。こんな、こんなつもりじゃあ……」
 はたてはそのまま寝息を立て始めた。はたてのやさしい善良さも、酔った際のどうしようもなさも、しっかりと理解していた椛だったが、どうしても、はたての言葉が響くことはなかった。なんだか、自身がはたての計らいで久々に二人と会って、飲んでいる、という実感が、どうしても湧かなかった。山でぼんやりと散歩しているのと、地続きな感じがした。はたての用意したそこそこに値の張る酒や肉を啄んでも、なんだか味がわからなかった。そんな折、二人が戻ってきたようで、廊下の向こう、玄関の扉の開く音がする。そのまま足音が近づいて、リビングの戸が開け放たれる。
「ごめんごめん。……あっ。射命丸の言ったとおりだ。はたてさん、寝ちゃってるよ」
「やっぱりですね。そろそろ頃合いかなと思ってはいましたが」
 にとりの「布団どこだっけ」に、文は「廊下出てすぐ右」と返す。勝手知ったる他人の家とは、よく言ったものである。文はそのまま炬燵に入って、自身の皿と、にとりの皿に鍋をよそった。椛は自身の皿から既によそってある野菜を咀嚼して、はたてのため、炬燵の横に布団を敷くにとりを待った。
 にとりははたてを炬燵からずるずると引っ張り出して、布団に寝かせ、その後ようやく、炬燵に脚を潜り込ませた。
 みなのお猪口に酒を注ぎ終えた文が、おずおずと口を開く。
「じゃあ、乾杯しましょうか」
「うん、そうしよっか。なんだか、はたてさんに申し訳ない気もするけど」
「そうですね。ふふ、でも、仕方ないですよ」
 乾杯、と猪口を掲げて、三人はぐっと、猪口の中身を飲み乾した。そうして生まれた沈黙の輪郭を、煮立つ鍋の音が粛々と縁取る。
「いやあ、なんというか」
 気まずそうに口を切ったのは文だった。にとりも椛も、文の言わんとするところがわかった。三人は今になってようやく、ほんとうに、久々に再会したような気持ちになったのだ。
「どうだ、射命丸。わたしたちに会えて嬉しいだろう。あのときは随分と冷たくしてやったからな」
「文さん、はたてさんに聞きましたよ。公園で暮らしてたらしいですね。お風呂とかどうされてたんですか」
 ええと、なんというか。歯切れ悪く、文が言う。
「里の、大衆浴場を、使ってましたね。はい……」
 ああ、妥当だな、普通だな、と、にとりが鍋をつつきながら相槌を打つ。椛も椛で、次から次へと絶えることなく、文に質問を繰り出した。文も質問の度にええと、と、どこか乗り切れない様子で口を動かす。
 そんな時間がしばらく続いたが、やはり盛り上がるはずもなく。三人は諦めたように鍋に蓋をして、口を閉ざした。誰かが目盛りを切に合わせると、煮立つ鍋は静まって、場ははたての穏やかな寝息に支配された。
 二人に会えたのは嬉しいけれど、なんだか二人とも、元気がない。それに、再就職の目処だって、結局ない。なにより、やっぱりなんだか、なにもどうだっていいように思える。
 文は未だに、クビになったあの日、椛の家を出たときの気持ちのままでいた。
 にとりにしても、頭の中は辞めた仕事のことばかりで、聞くところによると、自分の後釜が決まったらしく、そこに据えられたのはあの後輩河童という話だった。ああ、わたしは、きっと恨まれているに違いない。考えるのは、そればかりだった。
 椛は気分の乗らない様子の二人を見、二人がなにか悩んでいることを察する。二人はきっと、仕事とか、そういうことで悩んでいるに違いない。それに比べて自分は、悩むような仕事もなければ、甘えたかったり、背の低さを厭ったり、そういった二人のようなコンプレックスすら、自分の中に見当たらない。私には、本当になにもないんだ。と、やや卑屈になって、白けてしまっていた。それを自覚しないわけでもないので、余計に、椛の気分はさめざめとした。
 長い沈黙を打ち破ったのは、三つの大きなため息だった。どうも、だめだ。みな、そんな感慨がそれぞれの胸に渦巻いていることを、瞬時に悟った。
「いやあ、どうも、ダメですね。なんというか、おもしろくない。こんなに良いお酒と鍋をただでやれるというのに、なんとも、乗り切れないでいますね、私は」
「わたしも。なんだかな。どうしても、楽しめない。久々に三人で、ああ、それとはたてさんと飲めるっていうのに、ぜんぜん。なんだかつまんないよ」
「私は、その。お二人と会えたのは嬉しいんですけど。ええと、なんというか。……はい、私もあんまり、よくない気分です。……あはは、どうしたら、いいんでしょうね……」
 椛の言葉に、二人は腕を組んで考える。腕を組み悩む二人を、椛は申し訳なさそうに見つめるのみでいた。しかし、いくら二人が考えても、部屋にははたての寝息が響くのみで、いつものように、誰かが名案を叫ぶことはない。にとりは諦めたように、組んだ腕を解き放って、そのまま仰向けに倒れ込んだ。
「あーあ。だめだ、なんにも思い付かないや……ほんと、どうしたらいいんだろうね。わたしたち」
 文は諦めたように、ですね、と嘯くのみだったが、椛は違った。椛は、にとりの放った“わたしたち”の部分が、どうにも嬉しくなった。それはそれで、諦めに似た気持だったかもしれないが、とにかく、椛は腕を組んで唸った。
「お、椛がまだ考えてくれてますよ。にとりさん」
「ほんとだ。頑張れ椛、なにか名案を出してくれ」
 出たか! まだか! いや、出たか! おっとまだ出ない! 二人は徐々に悪乗りを始めたが、それでも、椛は必死に頭を捻った。
「さあゼッケン一番、椛選手考えております。にとりさん、雰囲気いかがでしょうか」
「とても力強く考えていると思いますよ。というのは椛選手目を瞑っております。加えて眉も潜めているというのは、実に印象が深いですね」
「ありがとうございます。さあ引き続き、椛選手頭を捻っております。ゼッケン二番三番と大きく差を広げていますね。いい雰囲気です。うーんうーんと唸っては、おっと、ここで息継ぎが入りました。さて引き続いて唸りをあげます。うーん、うーん」
 にとりが文のそれっぽさに苦笑していると、椛があっ! と声をあげた。
「おっとぉ! ここにきてようやく何かを思いついたようです! さて次の問題はどのように口を切るかといったところですが果たして――」
「だまれよ射命丸。ひとの話は黙って聴くもんだぞ」
 勝手に盛り上がる文が止まることはなかった。にとりが肩をすくめて首を降り、椛に開口を促す。椛は文の矢継ぎ早に紡がれる無意味な言葉の数々に開口のタイミングをしばらく図って、そのうちにあきらめ、少し大きな声で話し始めた。
 ――切るか、切るか! 口を、いま切るか! 切ったぁ!
「こいしちゃんのお店に、あの、デマイゴに行ってみるというのは、どうでしょうか。あそこは、酔ったときの欲求を具現化する場所という話でしたよね。いま、私達はお酒を飲んだから、酔えてないけど、酔ってはいるはずなんです。みんな、どうしたらいいかわからないけど、きっと、何かはしたいはずなんです。あそこに行けば、その何かがわかるかもしれないって、思うんです。だから、行ってみませんか。ダメだったらダメだったで、しかたないですけど。でも、どうせ、何がしたいかわからないなら、何かしてたほうが……文さん! 私の話、ちゃんと聞いてくださいよ!」
 椛が二人に何かを提案するのは、殆どこれが始めてだった。はじめての提案は思いの外恥ずかしく、自分の言っていることがズレているのではないかと、喋りながら、心配でたまらなかった。だから、悪乗りで実況を続ける文は、誰かに八つ当たりをしたいほどの羞恥のやり場としては、絶好の的だったというわけだ。
「そんな、怒ることないじゃありませんか。ちゃんと聞いてますって。さっそく行きましょうよ、あのお店。どうせ、何がしたいかわからないなら、何かしてたほうがマシ。椛の言うとおりだと思いました」
「こいつ、ずるいよな。あれだけくっちゃべっといて、わたしの台詞まで取るんだから」
言いながらせっせと外套を着込む二人を見、椛は思わずはにかんだ。そんな椛を、二人はきょとんと見つめては、椛にも外出の準備を促す。
「どうした椛、早く行こうよ」
「ええ、いま、いま準備します」
 にとりがさっさと玄関に向かうので、椛も続いて玄関に向かった。靴紐を結ぶべく屈む二人に、リビングから、文が声をかける。
「ああ、にとりさん。このストーブはつけっぱなしで大丈夫なんですか」
「だめに決まってるだろ。消して、はたてさんにはしっかりと布団をかけてさしあげろ」
言い終えて、にとりと椛は玄関を出る。今まで暖かい部屋にいた二人は冬の寒さに身体をぶるりと震わせて、残された文を待つ。
「うう、わかっちゃいたけど、やっぱり寒いね。それに、見てよ。中途半端に積もったもんだから、土と混じってべちゃべちゃだ。悪路だよ悪路。ああ、いやだなぁ」
 にとりは肩をすくめて両手をポケットに突っ込み、目線のみで手すりの向こう、寮前の雑木林を見下ろし指し示した。
「わ、ほんと」
 椛は日中の哨戒の際、その悪路に気付きもしなかったことを思って笑った。それから、二人がとりとめもなく気温の話なんかをしていると、戸締まりを終えた文が玄関から出てくる。
「おうおう、遅いぞ射命丸。ほら、さっさと行こうじゃないか」
「あはは。すみませんね、あとこれだけ」
 なにか気力に満ちたにとりの声に苦笑しながら、文ははたての部屋の鍵を電気メーターの裏に隠す。
 そのとき、玄関前に冬の風が吹き込んだ。
「あれ」
 瞬間、電気メーターの扉を閉める文の手が止まる。
「どうしましたか、文さん。なにか、忘れ物でも?」
「え、ええと……」
 冷たい風が吹き、文の胸中に浮かんだのは漠然とした不安だった。椛の言う通り、ストーブでも消し忘れたかもしれない。しかし、それはない。電源を消したことも覚えているし、眠るはたてにしっかりと布団をかぶせてやったのは文自身だ。何より、電気メーターも、ガスメーターも、動いていない。
「んん? 電気もガスも、ちゃんと止まってるじゃないか」
 にとりが目ざとく覗き込んで、文に言う。文はますます不可解だった。戸締まりに問題がないのなら、自分は何が不安なのだろう。
「そう……ですね。なんでしょう……。ああいや! 外が思ったより寒くて、びっくりしただけです、きっと! さ、行きましょうか、ふたりとも」
 その正体をつかめないまま、文は言う。二人は、なんだ、と笑っては、口を切る。
「よっしゃ。じゃあさ、歌はどうする?」
「えー。せっかくだから、お喋りしながら行きましょうよ、にとりさん」
 椛が嗜めると、にとりは、椛がそう言うなら、と諦めた。文と椛は元気の良いにとりに苦笑しながら、地底に向かった。
 地底への道中は、楽しいばかりの時間だった。三人は自身の“これから”など忘れ、思いつくままに話をした。“これから”なんて、デマイゴに着けばおのずと結論が出る、確証はなかったが、誰もがそう信じて、自由気ままに口を動かした。その中には自身の仕事についての話だってあった。文は上層部の“わかってなさ”なんかをこき下ろし、にとりはやけに懐いてくる後輩に手を焼いてることを話し、椛は哨戒部隊全体のやる気の無さを語って、談笑に花を咲かせた。椛がにとりの失業を知ったのも、ちょうどそのタイミングだった。椛は流石に驚いた様子で「どうして辞めちゃったんですか」を発声したが、にとりから返ってきたのは、なんとなく、とか、勢いで、とか、それらの類の、どこか照れくさそうな返答だったために、椛は余計に驚いて、腕を組み黙考した後、なにかを諦めるように二、三頷いた。
 それから、とりわけて盛り上がった話題の中に、文の創った“木”の話もあった。なんでも、広場に集う子供のなかに、やたらと“木”を欲しがる子供がいたらしく、子供は貯金全額を提示し賭けを挑んできたという。もはや木を手放すことに何の感慨も抱かなかった文は、どうせなら、と賭けに乗り、大敗した。賭けの内容は文の得意な“次に通る人物の性別当てゲーム”で、子供は十連単を的中せしめたという。文は「私がまだ記者だったら記事にしていた」と話を締めて、二人から見事失笑を買った。
 地底の繁華街、有象無象の喧騒とすれ違いながら、三人は話して、笑って、歩き続けた。
 そんな話を笑って出来るぐらいなので、もしかすると、店の前に着く頃には三人とも、自身のやりたいことなどわかっていたのかもしれない。しかし、三人はそれでも、結論の待つ店まで歩いた。繁華街を抜け、色街を抜け、路地から裏路地へと渡り歩いた。
 しばらく歩いて、三人はようやく、店まで辿り着く。店の面構え、木製の大看板には大きく「胎」という文字が達筆に綴られたており、そのボロさだって、以前のままだった。
 しかし、二、三の変化はあったようだ。
「えーと、『○月○日を持ちまして、喫茶《バー》デマイゴは、閉店させていただきます。ごめんね。』……あちゃあ、閉まってますよ」
 店の前には、こいしの掲げていた一本足の看板が突き立てられており、看板には閉店を知らせる告知文が張られていた。その日付をとうに過ぎた現在は、三人にちょっとした落胆を植え付ける。
「あーあ。せっかく歩いてきたのに、なんだかな。……あ、隣の宿は? こいしちゃん、そっちにはまだいるかも」
「ええと、あー。こっちも閉まってますね」
 にとりはふうん、と呟いて、腕を組んだ。
「そっか、どっちも閉まっちゃったのか。となると、いよいよこいしちゃんが何のためにこんなお店をやってたか、わからずじまいになっちゃうね」
「ほんと。なんだったんでしょうね。……椛さん、どうかしましたか?」
 先程から押し黙って眉を潜める椛に、文が問いかけた。椛はなにか集中している様子で、静かに口を開く。
「……なにか、なにか聞こえます」
 椛の言葉に、二人は思わず呼吸を潜めた。
「……ええと、お店から、みたいですね」
 椛の言葉を聞いた二人はもうワクワクして、デマイゴの扉の前に近づいた。椛も優しく微笑みながら二人を追って、扉の前に立った。三人にとってもはや“これから”の結論などは明らかとなっていた。だから、扉の向こうを知ろうという行動は、もしかしたらこいしに会えるかも、という期待からの行動だった。こいしに会う、というその行為は、三人にとって、これまでとこれからの一区切りとして、ちょうどいいものと思えたのだ。文もにとりも椛も、同じように、扉にぴったりと聞き耳を立てる。
 ――……ぼ……れる……お……ぼれる……。
「あっ」
 声を上げたのは文だった。二人も遅れて、あれ、この声は、と口を開く。
「あの、セーラー服の女だよ。あの女、店が閉まってるのに、まだ来てるんだ」
「でも、普通、入れないんじゃないですか。閉店してたら、鍵くらいかかってるはずじゃあ……もしかすると、中にこいしちゃんもいるかもしれません」
 椛の言葉に、にとりはそれもそうだね、とはしゃいで、勢いよく扉を開け放った。椛も、それを止めるともなく、にとりと一緒になって扉を開けた。文は何か不安げに、待って、と発声したが、二人の「こいしちゃん、こんばんは!」といった元気の良い声に、文の不安げなそれはかき消されてしまった。

「あれ、おにいさんたち、ひさしぶり。……こいし、閉店って看板、置き忘れちゃったかな。……まあ、いいや。あれから、元気だった? おにいさんたち」
 三人の視界には、二度目の来店の際と殆ど同じ光景が映った。何の変哲もない床と壁、実況席のようなテーブルと、その上に置かれた「胎」の空き缶。床をのたうつ女は相変わらずセーラー服を着て、「溺れる、溺れる」と喚いている。ただ違うのは、部屋の隅にこいしの存在があったことだ。こいしは座り心地のよさそうな、革張りのロッキングチェアに腰をかけ、手には、なにかカップを握っていた。
 意気揚々と扉を開け放ったにとりと椛だったが、こいしの思いのほか落ち着いた態度に、すこし反省をして、「あ、その。急に、すみません」系の言葉を発音して、頭の後ろをかいた。
「別に、いいよ。でも、もう来ちゃダメだよって、言ったよねー?」
 こいしは冗談めかして、笑いながら三人に問いかけた。たしかに、三人とも、覚えがあった。デマイゴから脱出する際に、こいしはたしか、そんなことを言っていた気がする。椛は床でのたうつ女をチラと見やって、気まずそうに口を開いた。
「その、すみません。私たち、今日……」
 椛が言いよどんでる隙に、にとりも、ごめんよ、と呟いた。背後で文がなにか、壮絶に不安げな表情をしていたが、二人がそれに気づくことはない。
「あはは、うそうそ。こいし、おにいさんたちにまた会えて、とっても嬉しいよ。……えっと、別に、来てもいいんだけどね。こいしが来ちゃダメっていったのは、おにいさんたちはきっと、もう来ても意味、ないだろうなーって思ったからなの。だってほら、現に落ちずに、床に足をつけて、立ってる」
 にとりと椛は、やっぱり、と互いの顔を見合ってはにかんだ。二人は道中、自身の“これから”をなんとはなく悟っていた。それは、不確かな、急に湧いてくるやる気のように、ふわふわとした感慨だったが、こいしの言葉で、二人は自身の出した結論が、正しいものであることを確信できた。
 一方で、文は未だ、凄まじく不安げに佇んで、何かを凝視していた。文の視線の先にあったのは、はたての部屋を出る際に感じた漠然とした不安の正体だった。にとりと椛は先程から静かな文を不審に思い振り返り、ようやく、不安げな文を発見した。二人とも、そのまま文の視線を追う。
「ああ、その、セーラー服のひとはね。……常連さんなの。そのひとは、やっちゃいけないことをやらないように、やっちゃいけないことをして、ここに来るんだけど。まだ、迷子のままでいたいみたい。……こいしね、お姉ちゃんに言われて、このお店を閉めることにしたんだけど、このひとが自分のしたいことを見つけられるまでは、お店を開けてようって思って。それで、今日もここで、待ってたんだ」
 こいしは両手で、口元にマグカップを構えながら、のたうつ女を憐れむように見つめながら、訥々と語った。
 ――ああ! 溺れる、おぼれる、溺れちゃうよぉ! ひじり、ひじり、私溺れちゃう! 溺れてしまうよぉ!
 にとりと椛は、これまで女のことをすこし不調和なBGM程度にしか感じていなかったが、こいしの話を聞くと、たちまち、女がどうにも哀れに思えた。二人は女をどうにか救ってやれないものかと、やおら女に近づいた。しかし、こいしがそれを制止する。
「待って! そのひと、放っておいてあげてくれないかな。そのひとね、お友達、いっぱいいるんだよ。頼れる仲間の人達がね、いっぱいいるの。でも、そのひとはいま、そういう人達に頼らないで、ここにいる。だから、そっとしておいてあげて。ね」
 自分たちの取ろうとした行動が、自分たちが進むべき道を見つけられたのだから、このセーラー服の女にも見つけられるはずだ、という、そこそこに傲慢な優しさであったことを、二人は悟った。そういうことなら、しかたない。
「こいしちゃん、それじゃあ、わたしたちは帰るよ。事情は、よくわかんないけど、そのひと、幸せになれるといいね。それじゃ」
 椛もにとりに合わせて、ありがとうございました、と一礼し、扉の外へと向き直った。しかし、文は未だ女を見つめたまま、じっと、動かずにいる。
「文さん、しかたないですよ。心配なのはわかりますけど、私達にはなにもできることはないし、するべきでもないんです。ほら、行きましょうよ」
 しかし、文は不安げな表情を崩すこともなく、女を見つめ続ける。
「おい文、あのひとは見世物じゃないんだ。いつまでも見てたら、悪いじゃないか。それに、わたしたちは明日から、やることってもんがあるだろう」
 ――文の不安げな硬直は、女への哀れみから生まれた行動ではなかった。文は床で喚きのたうつ女を見て、暖かいはたての部屋を出て、冷たい外界の風に曝されたときの不安、その正体を察してしまったのだ。
 文の視界に、自分の欲求の世界で解を出さずにいつまでものたうつ女の姿は、まるで赤子のように映った。文はふと、自身が昔、暇つぶしに書いた記事を思い出す。
 産声をあげる生物はみな一様に胎内回帰という願望があり、悲鳴に似た産声は、狭く薄暗い、懊悩と似て不確かに安心な母の胎から放り出された不安によるものらしい。
 ああ、ともすれば、このセーラー服の女は、胎を出れば迷子になると知って、出れば二度とは戻れないと知って、胎から出るのが恐ろしいんだ。恐ろしくて、いつまでものたうっているのだ。
 けれど、それは自分自身にも言えることなのではないだろうか。にとりと椛の、二人の言うこともわかる。けれど、自分は今現在、確かな不安を感じていて、それはきっと、この女のように、迷子でいたい願望の表れに違いない。しかし、現に落ちなかった。こいしが言うには、自分はもう、迷子ではないという。
 文は再度女を見つめる。女は以前、誰かの名前を叫んでは、見えない水に咽喉を脅かされ続けている。すると、哀れみでもない、嫌悪でもない、不思議な感慨が、文の胸に浮かんだ。
「おい射命丸。いい加減にしろよな、どうにも、おまえは空気の読めないところがある」
 にとりは、すこし不機嫌そうに文の肩を叩く。そうしてようやく、文が静かに口を切った。
「にとりさん、椛。私が、働き始めたとして、暇な日はまた、前みたいに、一緒に飲んでくれますか」
 にとりは一瞬ハッとして、文の肩を再度優しく叩いてから、少々照れくさそうに口を開く。
「わたしは、べつに、構わないぞ。あんまりひどかったら、途中で帰ってしまうけどな」
 椛も笑いながら口を開く。
「文さんこそ、ちゃんと付き合ってくださいね」
 二人の言葉に文は照れくさそうに腕を組んで、片手を額に当て、しばし悶えたが、いずれ、吹っ切れたように顔を上げて、言った。
「こいしさん。ビールはありますか、その、普通のじゃなくて、胎のやつ」
 こいしは微笑んで、懐から一本缶を取り出した。
「あ、わたしも、一本もらえないかな」
「わ、私も!」
 二人の言葉にも、こいしはにこにこと微笑んで、懐から缶をひとつ、またひとつ取り出す。懐の膨らんでいる様子もなかったのに、あまりにささっと、自然に現れる缶ビールは三人にとって手品のように映った。実際、手品なのかもしれない。
 三人はのたうつ女を跨いで、こいしに近づき、缶ビールを受け取る。三人はやにわにプルタブを引き放っては、口をつける。
「待ったぁ!」
 こいしは声をあげるのと同時に立ち上がり、三人を制止する。三人は然程困惑することもなく、缶ビールを構えながら、こいしの二の句を待った。
「……さて。ここが運命の分かれ道だよ。そのお酒が無味無臭の、ただの水なら、おにいさんたちはもう、迷子じゃない。でもね、もし、少しでも美味しかったり、まずかったりしたら、おにいさんたちはやっぱり、まだ迷子なの」
 こいしは言いながら、懐からもう一本、缶を取り出し、プルタブを開け放った。
「さあショータイムです。はたして、おにいさんたちは本当に、もう迷子ではないのでしょうか。それともやっぱり、まだ迷子なのでしょうか。ふふ、じゃあ、僭越ながら、こいしが音頭を取らせていただきます。いくよー!」

「せーの、かんぱーい!」

 乾杯! と声を重ねて、三人は缶を口元に構え、天井を仰いだ! こいしも、三人と同じようにして、缶の中身を、食道の奥へと流し込む。それを飲み干すのは一瞬だった。みな、酒飲み特有の感嘆詞を吐いて、次々に口を切る。
「ああ! 全然、美味しくも、まずくもありません! 水です、ただの水。あはは!」
「ほんと! こんなものであんな目にあったなんて、信じられないくらいに、ただの水だよ! なんだよ、これー!」
「あはは、ほんと、なんなんでしょうね! でも、なんだか嬉しいです。いま、楽しいです、私!」
 笑い合う三人に、こいしも笑って、口を開く。
「おめでとう! おにいさんたち、よかったね。えへへ、なんだか、こいしまで嬉しいな。……さあさあ、三人とも! もう、ここに用はないでしょ? そしたらはやく、帰んなきゃ! ほらほら、出てくでてく。だいたい、他のお客さんが入ってるときは、絶対、入っちゃダメってルールだったんだから!」
 三人は笑うこいしに押されながら、笑いながら、出口までよたよたとした。三人とも、なんだか少しだけ寂しかったが、別に、これがこいしとの永別になるわけでもない、と笑って、各々、こいしに別れを告げる。
「こいしちゃん、ありがとね! わたしさ、あれ以来、こいしちゃんのことあんまり好きじゃなかったんだけど、やっぱり好きだなー! なんて! えへへ、また地底で会ったら、そのときは一緒に飲もうよ」
 にとりのプラスマイナスゼロぐらいの言葉にこいしは微笑んで「ありがとー」を発音した。続けて、椛が口を開く。
「あっ、にとりさん、なんかずるい! 私も、こいしちゃんのこと可愛いなーって思ってるんですよ。最初に名前知ったのも、私だったし。なんて! いや、ほんとにありがとうございました。……ちなみに、私たちの中で、誰がいちばんアリだと思いますか?」
 椛のマイナス二ぐらいの言葉に、こいしは笑いながら「もちろん、公務員のおにいさん」と発音する。あからさまにショックを受けるにとりと、小さくガッツポーズをする椛に苦笑して、最後に、文が口を開いた。
「ほんと、ありがとうございました。いやあ、お世話になりましたね、実際。他の二人は知りませんが、私はここに来なかったらたぶん、これからも、ちょっとした広場の、ちょっとした主を続けていたでしょうね。なんて! いえほんと、ありがとうございました」
 文が「それでは」と締めれば、にとりも椛も、元気よく「それじゃあ」と手を振った。
「うん、じゃあね。今度こそほんとに、ここに戻ってきちゃダメだからね。とゆーか、次来たときにはもう、きっと、本当に閉まっちゃってるだろうから。だから、ええと、なんだろ。……みんな、やっぱりちゃんと、大人なんだもんね。えへへ、それじゃあね!」
 こいしが手を振って、三人は扉の外へと向き直り、名残惜しそうに振り返りながら手を降って、歩き始めた。にとりと椛は扉から離れてそこそこに、完全に前へと向き直って、各々“やりきった”際の、いつものポーズを取る。にとりは両手をポケットに突っ込んで、すこし、背筋を曲げる。椛は腕を組んで、胸中の感慨を噛みしめるように眉を顰め、右左上方の虚空にきょろきょろと視線を泳がせた。
 最後まで振り返っていたのは文だった。こいしとの別れの名残り惜しさもあったが、文は何より、セーラー服の女がどうにも気になったのだ。
 今この女をデマイゴから、胎の世界から無理矢理に引き摺りだすなんて無責任なことはできない。ただ、いずれあいつが胎から這い出たときに、迷子だからといって先達が泣いていたら、あいつはまた、胎へ還りたがるに違いない。私一人がそれをしたところで、なにも変わらないかもしれないが、せめて私は、堂々と背筋を伸ばして歩いてやろう。そして、二人と笑い合ってるところを、見せつけてやる。世界は海のように広大で、行く宛の検討さえつかなくて、泳げなかった頃に戻ることも、容易じゃない。それは不安で、寂しいことかもしれないが、たまに楽しいことがあれば、それだけで笑えるんだ、ってところを、見せつけてやらなきゃいけない。
 以上、それらの感慨を、文は無意識下に察した。文本人からすれば、やけにセーラー服の女が気になっていたら、やけに爽やかな気分になってきた、というわけなので、自身の気分の推移が非常に不可解だった。
「そうと決まれば、私、すぐ帰って、明日の準備をしないと。ええと、お二人は、どうですか」
「私も、椛とおんなじですよ。今日はゆっくり休んで、明日からに備えます」
「わたしだって、もちろんそうだよ! えへへ、じゃあさ、なにか歌って帰ろうよ。わたしさ、正直言うと、歌って歩くの、好きなんだよね!」
 知ってましたを発音しながらも、文と椛は立ち止まって、腕を組み、やおら唸りをあげ始める。にとりはそんな二人にはしゃいで、我先に! とでも言いたげに、腕を組んで、二人に続いた。
 しばしの黙考の果て、三人は同時に、あっ、と声をあげる。
「私、いいのが思いつきましたよ。うってつけのやつが。いやあ、恐いですね、自分のインテリジェンスがおそろしい」
「おい待てよ射命丸。わたしだって、とびきりのを思い出したぞ。いいよ、じゃあ、せーので戦わせようよ。わたしのと、おまえのをさ」
「ちょっと。私も混ぜてくださいよ。なんて、ふふ。もしかすると、三人とも同じの、考えてたりして。そうだったら、たのしいですよね」
 文もにとりも、なんだか椛の言う通りな気がしたが、共感を表面には出さず、勝負の体を繕った。しかしやっぱり、三人のうちだれもが、きっと、同じ歌を選んでいるであろうことを察していた。さて、いよいよ勝負の幕が開く。

「せーのっ」




 ぞうさん ぞうさん
 おはなが どこまでも
 野をこえ 山こえ 谷こえて
 はるかな まちまで ぼくたちの 松を
 いろどる 楓や蔦は
 山のふもとの 裾もよう

 ぞうさん ぞうさん
 だれが どこまでも
 列車のひびきを おいかけて
 リズムに あわせて ぼくたちも 赤や
 黄色の いろさまざまに
 水の上にも 織るにしき




 明くる朝、目を覚ました三人は銘々に行動に移った。椛は辞表を手に取り、荷造りの済んだ部屋から飛び出して、にとりは河童の上司と共に、山のお上への謝罪に赴いた。文はその朝、久々に、机に座った。机は以前とまったく変わらない座り心地で、文を迎えた。各々、それは気持ちのいい朝だった。


 それからまた、時が流れた。
「なんだかな。……はたてさんも、遠慮せず来ればよかったのに。『いいから、三人で行ってきなさい』なんて言ってさ。わたしやっぱり、あの人のことよくわかんないよ」
「まあまあにとりさん。はたてさんははたてさんなりに、気を使ってくれたんですよ。私ははたてのそういうところ、けっこう好きなんですけどね……まぁ、いないひとを褒めたってはじまりません。さっそく、始めましょうか」
「うう、なんだか照れちゃいます……。いや、やっぱり恥ずかしいですよ、就職が決まった程度のことで、祝われるなんて」
 そこは地底の居酒屋だった。特に、三人が選んだ、というわけではないが、奇遇にも、そこは以前つまらない映画を観た後に利用した店と、同じ店だ。店には暮れも早々に喧騒が響き渡り、他の個室から聞こえてくる下品な笑い声や、あまりにも楽しそう“すぎる”話し声といったそれらの喧騒は、三人の個室にまで筒抜けになっている。しかし、そんな喧騒や、店の、橙の照明たちは、これから始まる久々のたのしみを、三人に殊更感じさせるばかりだった。
「いえいえ、これは椛の就職を祝うばかりの会ではありませんよ。私だって、祝ってもらわなくては困りますからね!」
 文は結局、すぐに記者に戻ることをしなかった。いくら永い間務めたとはいえ、怠惰が原因の解職だ。そう簡単に、戻れるはずがない。仮に戻れたとしても、メンツが立たない。
 そう考えた文は、なにか、自身の経験にものを言わせて、エッセイなぞを書くことにした。娯楽の少ない里でならなにを書いても売れるに違いない、エッセイとかが簡単そうだ、私ならば、何を書いたとしても面白くなるにきまっている。などといった傲慢さの数々を腹積もりに、文は数ヶ月かけてエッセイを書いた。そして、今日はその出版記念の会でもあるというわけだ。
「うーん。出版に就職、それに比べると、わたしのはちょっと見劣りするかもしれないけど。でも、わたしだって頑張ったし、祝ってほしいから、祝ってね」
 にとりは今日が、復職後の初給料日だった。にとりはあれから、仕事に無事戻れたが、同じ仕事に戻る、ということはしなかった。にとりのやっていたマニュアルの作製、改訂の仕事には、例の、後輩河童が就いていたためである。しかし、まるっきり別の仕事を始めたわけでもない。にとりは、経験の浅い後輩河童の指導役の座に就いたのだった。
 後輩河童はやはり後輩よりも後輩らしく、後輩然として、知ってて当然のことを当然のように知らなかったため、復職後のにとりは随分と難儀したものだ。しかし、とりわけて、にとりにとってその日々は、明るく、楽しく、健全な、労働の日々だったといえるだろう。
「そんな! 私ですよ、いちばんどうしようもないのは! だって、とりあえずやってみようって思って始めてみることにしただけで、人生これに決めた! とか、そういうわけじゃないですから」
 哨戒を辞めた椛の前には、本当の自由が広がっていた。自分に合った仕事、自分が本当にやりたいこと。すべてが未定であったために、椛の視界に広がったのはあまりにも広大な世界だった。備え付けの家具だらけの寮を出て、二人と違い潤沢に蓄えた貯金で貸家を選び、家具だってなんだって、自分で選ぶ。もちろん仕事にしてもそうだ。いままで趣味という趣味も持たなかったので、趣味を持ってみるのもいい。貯金があるから、何もせず、ぼんやりするにしたって何にしたって、椛の自由だった。
「あ! 来てしまいましたよ、とりあえずの、生が。愛想振りまき合うのもこのへんにして、やってしまいましょう!」
「ちがいないね!」
「はい!」

――三人のこの物語にも、いよいよ一段落がつこうとしている。義務というわけでもないが、どうしたって、このあたりで締めなければならないようだ。
 しかし。
 どうにも、締め方というものが思い浮かばない。不誠実かつやぶから棒ではあるが、例のエッセイの最後のページを引用する、という形で、締めさせていただきたく思う。


  しかしそれでも、みな、やつの尻尾を手放せない。手の中で
  尻尾が干からびたなら、また、やつの本体を探しては、追い
  かけてしまうだろう。
  それはきっと、猫の毛繕いそのものなのだ。毛玉を吐くとわ
  かっていてもやめられない、動物じみた習性から、自分の届
  く範囲しか繕えない仕方なさまで、そのものなのである。
  非行として吸い始めたタバコを、気付いたら手放せなくなっ
  ているのと同じように。
  泳げなかった頃には二度と、戻れないのと同じように。
  月が落ちれば、陽が昇るのと同じように。
  きっと、世界中の誰もがそれを、やめられないままでいる。


 ――との、ことである。文の言わんとするところというのは、つまるところ……ああここで、乾杯の時間だ!




「――それでは、私の出版、にとりさんの復職ないしは初給料日、椛の自由に基づく再就職を祝って――」





 ――乾杯!












   エピローグ


 そこは、天狗の寮の前だった。冷たく透き通った空に浮かぶ肥えた雲は、穏やかな白昼を讃えている。
 ――姫街道はたてはゴミ置き場でもみくちゃになった三人の前で、額に手を当て、ため息を吐く。せっかくまともに働きはじめたと思ったら、こうよ! にとりも椛がこうなったのは、どうやら、文だけのせいじゃないようね。ああ、こんなことになるなら、気なんて使わずに、昨日、着いていくべきだったわ。
 はたては暫し考えて、大きく息を吸い込んだ。
「起き……っ」
 言いかけて、はたては口を止めた。胸中に浮かんだ感慨を表すならば、それは間違いなく、あほらし、の四字だった。
 はたてはそのまま、ゴミ捨て場を素通りして、職場への道を歩く。付き合いきれないわ、と、思わずそんな言葉を溢しながら、早足で歩く。雑木林に囲まれた道に積もっていた冬の雪は、いつの間にかすっかり溶けて、木々の間を春一番の風が吹き抜けていく。緑に色づき始めた木々がざわざわと揺れて、はたては或ることに気が付き、無性に腹が立った。
「付き合いきれないわ、なんて。……誰に頼まれたわけでもないくせに。あたしって、あー、もう……」
 はたてはちょっとした自己嫌悪に陥った。主な要因は、にとりが未だに、はたてに対し心を開かないことにあるのかもしれない。
 少し落ち込みながら歩いていると、不意に、はたてに声をかける者があった。
「ね、おにいさん。いいの、あのひとたちのこと、放っておいて」
 はたてが振り向くと、そこには見知らぬ少女が立っていた。
 少女は鴉色の帽子に、薄黄のリボンをつけており、服も、リボンと似た色のものを身に着けていた。緑のスカートには薄く、なにやら面妖な、花の模様があった。
「あ、あなた誰よ。いいのよ、あいつらのことは、もう放って置くって決めたんだから。それに、あたしはおにいさんじゃなくておねえさん!」
 はたての言葉に、少女は腕を組んで首を傾げた。
「うーん。おにいさんがそう言うなら、それはそれで、いいんだけどね。……でも、今回はあのひとたち、悪くないんだよ」
「……どういうこと?」
「こいしがね、『ただの居酒屋』なんて始めちゃったから、いけないの」
 言いながら、こいしははたてに近づいて、はいこれ、となにやらチラシを手渡した。
 はたては手渡されたチラシを注視する。
「『新オープン! 古明地こいしのただの居酒屋。なんと、ただです!』……え。ただなの」
「うん、ただだよ」
「へぇ……今度あたしも行ってみようかしら……。じゃなくて! 仮にただだったとしても、自制できないんじゃおんなじよ! 結局あいつら、意思が弱いの、意思が! ……って、あれ?」
 はたてがチラシから顔をあげると、少女の姿が消えていた。はたてにとって、それはまるで、自身の心を見透かされたような面映さだった。
「ああ、もう!」
 はたては殆ど走っているといっても過言ではない早歩きで、今まで歩いてきた道を引き返した。
 木々に囲まれた、青い空の下、大きく息を吸い込んで、勢いよく吐き出す。
「こら! 起きなさい、この、アル中妖怪ども!」





   『誰もがそれをやめられない!』 完。




   おまけ
   遊泳監視録ムラサ

 偽造通貨生産工場取り押さえの件で名を馳せた河城カンパニーが、市民プールを設営した。市のない幻想郷でなぜ市民プールなのか、そんなことを尋ねる者はおらず、人間も妖怪も夏のプール開きを心待ちにしていた。さて、河城カンパニーがこのプールを運営するにあたって、博麗の巫女の信用に足るスポンサーが必要だったわけだが、そこで名乗りを上げたのが宗教法人命蓮寺だった。悪名高い妖怪の更生活動にも熱心な命蓮寺は〝件の〟河城カンパニーが市民の為のプールを運営すると聞いて、諸手を挙げて支援することを決めたのだ。河城カンパニーがスポンサーに求めたのはもちろん、博麗の巫女の信用に足る〝善良なイメージ〟だった。そこで、河城カンパニーがスポンサーである命蓮寺に要求したのは、プールで遊ぶ子供達の安全を守る〝監視員〟。そして命蓮寺から抜擢された監視員は、かの船幽霊〝村紗水蜜〟だ。プール開きを眼前に迎えた今、村紗水蜜の物語が始まる。

 遊泳監視録ムラサ


(どうして私がやらなきゃいかんのかな。ぬえにでもやらせりゃよかったのに)
 村紗は河城カンパニーが設営した市民プール、その事務所の入り口に立っていた。村紗は憮然とした表情で、世に蔓延る不平不満を憂いている。
(監視員やるにしたって、何も寝食ここで取る必要ないじゃないか。あーあ、みんな今頃カレーでも食ってるんだろうな。私を差し置いて)
 プールから少し離れると、コンテナのような簡易住居が在った。村紗は夏の間、ここに寝泊まりをしなければならない。
 辺りで喚き散らす蝉の声がそろそろ鬱陶しくなってきた村紗は、意を決して事務所の扉を開いた。
「やあ。待ってたよ、村紗水蜜さん。今日から一ヶ月ほど、よろしくね」
 そこに待っていたのは河城カンパニー代表取締役、河城にとりと、その取り巻き数名だった。
「私は夏の間、工場の視察で忙しくてね。なかなか現場には居ないと思うが、仕事の詳細はモブ達が教えてくれるよ」
 河城にとりが、おい、の一声をあげると、取り巻き達が大きな声で返事をする。なかなかの元気の良さである。
「モブAです。にとりさんが不在の間、現場責任者を任されています。一ヶ月間、よろしくお願いします」
 モブAは可愛らしい黒髪のおかっぱ頭をうやうやしく村紗に向けて下げてみせる。それからB、C、と、似たような挨拶が続いたが、村紗は記憶の必要なしと判断して、聴覚を遮断した。聴覚遮断はスポンサーとしての必須スキルでもある。みなも留意するように。
「基本的にはこのモブAが村紗さんを全面的に補佐してくれると思うから、何卒仲良くしてやってくれ。じゃあ村紗さん、私は工場へ行くから。改めて、よろしく頼むよ」
 そう言って、河城にとりは事務所の中の階段を降りて行く。
(大物めいた喋り口調しやがって、こちとらスポンサー様やぞ)
 河城にとりを内心毒づいて、村紗は心身の安定を図る。河城にとりが去ると同時にモブ達もどこかへ散らばっていき、部屋に残ったのはモブAと村紗のみとなった。
(しゃーない、挨拶してやるか)
 村紗が口を開こうとしたその時、モブAがおもむろに懐に手を忍ばせた。村紗は咄嗟に身構えたが、モブAが懐から取り出したのは何の変哲もない、ただのスタローンめいたサングラスだった。
「あー……」
 モブAはスタローンめいたサングラスをかけると、気怠そうに声をあげつつ、村紗に近づいた。思いの外サングラスの似合うモブAに、村紗の胸は少しキュンとした。
「改めまして……、今日からテメェの教育係を務めるモブAだ。よろしく」
 極めて輩然として、モブAは言い放った。村紗は面食らう。しかしスポンサーが舐められては立場がおかしなことになると瞬時に考え、すぐに冷静さを取り戻す。
「よろしく」
「あー?」
「よろしく」
「声が小さくて聞こえねェよ、声張れや声」
 村紗は少し腹が立ったので、顔を近づけて凄むモブAにチュッとした。モブAは暫し感情の着地点を探している様子だったが、程なくして何事もなかったようにプールの説明を始めるのだ。
「いいか?これが今日から一ヶ月間、テメェが座る監視席だ。テメェはここから子供達を見下ろして、安全を保全する、わかったか」
「わかった」
「あー?」
「わかった」
「あぁー?」
 村紗は少し腹が立ったので、なんすか、と聞き返した。夏の暑さと自分の置かれた境遇を憂いテンションの下がった村紗にとって、なんですか、のでを抜くのが消化に良い反抗だった。
「わかった、じゃあねェだろうが!監視業務未経験のお前みたいなワカメに、わかるわけがねーんだよ。今から俺が直々に監視業務のなんたるかを叩き込んでやる」
 村紗は憮然とする。村紗は〝ワカメ〟と呼ばれることと、〝俺〟という一人称を女性が使うことを嫌っていたのだ。村紗が他に嫌うものといえば、般若心経のサビの部分ぐらいだった。ノッてきた一輪の調子っぱずれの大声を思い出すだけで、村紗は成仏してしまいそうになる。
 それはそれとして、モブAの業務説明はとても丁寧だったので、村紗は素直に説明を聞いてあげることにした。
「わかったか?」
「わかった」
「ならいい。あと一時間もすればプール開きだ。気合入れろよ」

 そうして、村紗の監視員として初めての業務が始まった。夏の日差しの下、子供達は透き通る水の中ではしゃぎまくっている。村紗は子供達がぎゃーぎゃーと喚く様を、向こうの監視席から響く怒号をBGMに、ぼんやりと眺めていた。何事もなく正午を過ぎ、プールの解放時間も折り返しに差し掛かったところで、モブAが村紗に近づき声をかけた。
「おうワカメ。俺はこれから工場を見に行かなきゃならねえ。後半は一人でこなすことになるが、しっかりやってくれよ」
「わかった」
 モブAは頼んだぞと言い残して、その場をあとにした。それから、村紗は子供達の戯れるプールを、暖かい日差しの中、穏やかな眼差しで眺めていた。
(うーん、プールサイドはなかなか涼しくていいな。子供達のはしゃぐ声も、なんだか和むぞ)
 子供達の死体のように浮く遊びや、帽子を取り合う遊びを微笑ましく感じながら、村紗は穏やかな時間は過ぎていった。
 ……。
 …………。
「おいワカメ!テメェ人の説明聞いてたのかよ!死体ごっこはすぐに注意しろってあれほど言っただろうが」
「だって」
 夕刻。藍がかった空の下、事務所にて、村紗は叱られていた。なんということだ。村紗は失敗してしまったのだ。
「だってじゃねえんだよ、だってじゃよぉ。言っただろ、死体ごっこは伝播するって!一人始めればみんな真似し始めるんだよ!どうすんだよ一人死んじまったじゃねえかよ」
「だって、妖精だったから、大丈夫かなって」
 溺れ死んだ一人とは妖精だった。厳密には一匹かもしれないが、だからといって見過ごしていい命ではない。しかし村紗も反省はしていた。していたが、その反省が、反省慣れしていない村紗を言い訳がましくさせる。
「それに、まさか死ぬまで続けると思わなかったんだもん」
「お前、チルノだぞ!あいつはやるんだよ、そのまさかを平気でな。昔運営してたプールでもあいつは何度も死んだよ。ああ、今回死んだのが大妖精とかだったらな、俺もここまで厳しく言わないが、チルノに死なれるはまずいんだよ」
「なんでさ」
「……クレームが来ンだよ」
「どっから」
「レティホワイトロックからだよ!」
「保護者でもないのに?」
「保護者でもないのに、だ。しかしレティホワイトロックにはチルノの保護者というイメージがどういうわけか付きまとってる。そしてチルノがプールで一回休みになると、どういうわけか、レティホワイトロックは保護者面してクレームを寄越すんだ。うちのチルノちゃんが溺れたそうで、やっぱり夏って最低ですね。いい加減夏を冬にしてはいかがでしょうか。なんて気グルめいたクレームをな」
「へぇ」
「へぇじゃねえんだよワカメ!……まあ、起きちまったことは仕方ねぇ。明日、俺が手本を見せてやるから、しっかり頼むぞ」
「うっす」
 監視員生活始めての夜。村紗は命蓮寺で煮込まれているであろうカレーを夢想して眠った。

「コラそこー!死体ごっこはすぐにやめろー」
 村紗とは反対側のプールサイドの監視席で、モブAが子供達の危険な遊びを注意している。
「どうせ大人になったら生きてるか死んでるか判然としない人生を送ることになるんだ、地に足つけてられんのも今のうちだぞー」
「はいそこー!人の帽子を奪うなー。お前にとってその帽子がどれほどの価値があるのか、頭冷やして考えろー」
「ほらそこ飛び込むなー!飛ぶならせめて周りに迷惑をかけないように飛べー。お前がかけた迷惑の責任を取らされる親族の気持ちも考えろよー」
 モブAの手腕はまさに見事だ。あんなにはしゃいでいた子供達が今ではすっかり落ち着いて、水面に映る自分の顔を、項垂れて、虚ろな瞳で見つめている。モブAは得意げな表情で村紗に近づき口を開いた。
「わかったか?監視業務ってのはこうするんだよ」
「うーん」
「はっはっは。まあ、お前もじきに分かるさ。安心安全とは斯くして保たれるってな」
「うーん」
「じゃ、手本は見せたからな。俺はまた工場に行ってくる……なんだか雨漏りがひどいって話でな。ま、手本通りにこなせば、まず間違いは起こらねえはずだ。それじゃ、頼んだぜ」
「うーん」
 モブAは相変わらずの輩口調でそう言い残し、そそくさと事務所へ引っ込んで行った。村紗は水に浸かり項垂れる子供達を眺めながら、サングラスの購入を検討し続けた。実に悠長だが、悠長な時間というものは人生でそうなんども味わえるものではない。みなも留意するように。
 正午を過ぎて、子供達はすっかり元の調子を取り戻して水の中で戯れている。市民プールを泳ぐ者は殆どおらず、大抵は、水を掛け合ったり、帽子を巡って追いかけっこなどをする子供ばかりでいた。そこかしこでザバザバと上がる水飛沫に陽が反射して、煌めく。そんな折、プールの端の方で一際大きな飛沫が上がった。帽子の取り合いや水の掛け合い程度なら見過ごせる村紗だったが、今回のそれを見逃すわけにはいかなかった。実質的に、村紗の初仕事である。
「こ、こらそこー。飛び込みはやめるんだー」
 飛び込んだ子供はすぐにプールサイドによじ登り、再度プールへと飛び込んだ。どうやら飛び込んだ子供には仲間がいるらしく、その中の頭から触覚を生やした子と羽を生やした子が村紗を嘲るように口を開く。
「おいミスティア、聞いたかよ『こ、こ、こらそこぉ。と、飛び込みはぁ、やめるんだぁ』なんて言って、あいつ、どっか怪我でもしてんのかな」
「ふふふ、ほんとねリグル。あんなのでチルノが止まるわけないじゃない。今回の監視員は生っちょろいわね」
 当人たちにしてみれば、それは遊びの最中の悪ノリかもしれなかった。しかし、曲がりなりにも仕事中の村紗水蜜にとってその口振りは死ぬほど腹が立った。村紗は瞳を潤ませながら、チルノの飛び込みを意地でもやめさせようと決意した。
(ちくしょうバカにしやがって。こちとら初仕事やぞ)
 勇敢さを讃えよ。水に飛び込み、プールサイドへ上がっては水に飛び込む、という狂気のルーティンを繰り返す奇跡のルーパーの元へと、村紗はしっかりと向かっていく。虫と鳥は怯むこともなく村紗を待ち構える。そんな二人には目もくれず、村紗はチルノに声をかけた。
「こら。飛び込むなって言ってるだろうが」
 チルノは未だ親の仇のように飛び込みを繰り返している。
 虫と鳥は村紗の言葉を真似して村紗を茶化す。村紗は涙をこらえながら言葉を紡ぐ。
「こ、こら!やめないとアレしちゃうぞ!で、出入り禁止にしちゃうんだからな」
 自分にそんな権限があっただろうか?
 村紗が胸中に疑問符を浮かべている間にも、チルノはルーティンを繰り返し続ける。
「あーあー情けないなセーラー服のおねえさん。目に涙浮かべてるよ」
「リグルったら、あんまりいじめたらかわいそうよ。それより見て、チルノのフォーム。だんだん綺麗になっていく」
「ほんとだ。まるで彭勃だな」
 子供の悪ノリの残酷さを噛み締めながら、村紗は泣いた。チルノの飛び込みのフォームは確かに綺麗になっていく。
「おいおいチルノ絶好調じゃないか。最早彭勃通り越して胡佳だな」
「いいえ、胡佳通り越して馬渕よしのだわ」
「グレゴリーローガニスに届くのも時間の問題か?」
 チルノのフォームはどんどん綺麗になっていく。気付けば他の子供達もチルノの周りに集まり、
『グレッグ!グレッグ!』
 と囃し立て始めた。そんなチルノに触発されて、
「あいつがグレゴリーなら僕はパトリシアマコーミック!」
 などと、飛び込みを始める子供もいた。市民プールは熱狂に包まれる。

『グレッグ!グレッグ!』
『パット!パット!』
『グレッグ!グレッグ!』
『パット!パット!』

 狂熱の躍動する市民プール。そのプールサイドで、村紗は震えながら泣いた。しかしその刹那、村紗の頭の中に、命蓮寺の面々が浮かび上がる。
 そうだ、私は命蓮寺の代表としてここにいるんだ。ここで泣いてちゃ、みんなに顔向けが出来ない。
 実際はセーラー服がそれっぽいからという理由で抜擢された村紗だったが、それでも村紗は覚悟を決めて、懐から底の抜けた柄杓を取り出し構えた。
「ははは、無理だよセーラー服のおねえさん。この熱狂が聞こえないの?こうしているうちにもチルノのフォームはどんどん綺麗になっていく。今のチルノを止められるやつなんて、何処にももいないのさ」
 チルノは今にも次の飛び込みを始めちゃいそうだ。
『グレッグ!グレッグ!』
『パット!パット!』
 チルノが満を辞して水面へと飛び込む。今までで一番に綺麗なフォームだ。同時に、村紗も柄杓を振り下ろす。村紗のその手は震えていたが、しかし確かに、力強く、柄杓は振り下ろされた!
 瞬間、チルノが飛び込むはずの水面に〝穴〟が空く! それはまさに、モーゼの起こした奇跡さながらだ! チルノはそのまま突如開いた〝穴〟へと飛び込んでいく! 穴の底! それはすなわちプールの底。ゴツ、という嫌な音と共にチルノは消滅した。
 市民プールが、静寂に包まれる。向こうで金髪の妖怪と事の成り行きを見守っていた大妖精はしゅんとして、チルノのリスポーン地点へと一人ぽつんと帰って行った。向こうでパットの名を掲げて飛び込みをしていた人間の子供は普通に引いていた。おおなんということだろう。無数の視線が、村紗に突き刺さる。
「……これは、その」
「……ええと、私じゃなくて」
(そうだ!)
「……これは、守矢神社の東風谷早苗の起こした奇跡です。……はたまた、天罰か。みんな、東風谷早苗は知ってるだろう?そうともそうとも。な?有名だな?〝開海「モーゼの奇跡」〟。水に穴開けるなんてことが出来るのは、神様くらいだよなぁ?」
 静寂より静かな市民プール。ぽつり、ぽつりと雨のように、次第に声が降り始める。
「……守矢」
「……なんだ、守矢神社か。守矢神社の、東風谷早苗か」
 誰かの呟いたその一言を口火にして、子供達の声が、わっ、と湧き出した。
「なんだ!守矢神社の仕業か!」
「びっくりしたなあ!あのセーラー服のおねえさんを一瞬でも疑ってしまった自分が恥ずかしいや」
「やっぱり守矢は最低だな!信者をやめてしまおうと」
「やっぱ仏教だよ、仏教」
「私、家に帰ったら般若心経を読む!」
「仏教最強!」
 ああ、聖、みんな。見ているか?私の活躍を。そんなことを考えながら、村紗は泣いていた。
 ……。
 …………。
「テメェこらワカメ!人の話聞いてたのかよ!死んじまったじゃねえかチルノがよぉ!」
 プールの解放時間を終えた事務所に怒号が響く。あれから村紗はずっと泣いていた。なんだかもうわけがわからなくて、それが悲しかった。
「それにお前、能力使ったらしいな?書いてあるだろうが規則によぉ!プールでは人妖問わず、その能力の使用を禁ずってよぉ!お前、人間の子に話聞いたら普通に引いてたからな」
「のみならず、だ!お前そこで守矢の名前だしたらしいじゃねえか。どうしてくれんだよ、ただでさえ偽造通貨工場の件で微妙な時期だってのに」
「あーそれにまたチルノだ!またチルノ!クレームが来るよぅ、もう嫌だよぉ。怖いんだよぉ、レティホワイトロックがぁ」
 怒りのあまり情緒の安定が乱れたモブAがなんだか可笑しくて、村紗はもう何が何だかわからなかった。意味不明の涙が、嗚咽と共に村紗の頰を濡らしていく。
「あーもう!わかってんだろうなワカメ!もうお前がクレーム処理しろよワカメ!夏を寄越せと迫られるあの意味不明の恐怖はお前が引き受けろよ!泣いてんじゃねーよワカメがよぉ!泣きたいのはこっちなんだよ」
「ご、ごめんっ、なさっ、いぃ」
「あーもう泣くなよ!泣くなってぇ!わ、私まで……う、うぅ、うあぁぁ……」
 二人の泣き声が事務所に響き渡った。十二秒程経つと二人の胸中には、あれ、私はどうして泣いてるんだろう、という気持ちが起こった。それから二人は感情の着地点が見つからないまま一分ほど泣いて、何事もなかったように話を再開する。懸命の字は、こういう事象を指して使う。みなも留意するように。
「レティホワイトロックがなにさ。そんなに怖がることないじゃないか」
「わかってねえなワカメは。レティホワイトロックが夏を狙えば、春と秋が黙ってるわけねえだろ。そして今度はそいつらがうちにクレームを寄越すんだ。夏を寄越せってな」
「……ワカメっていうな」
「あ?」
「ワカメっていうな」
「あぁー?」
 顔を近づけて凄むモブAに村紗はすかさずチュッとした。モブAもすかさず村紗の頬を張った。
「あいつら、俺たち河童が縁日やらプールやらで夏の行事に事欠かねえからって、俺たちを夏扱いしやがるんだ。もちろん、初めのうちは奴らの矛先は河童に向く。しかし次第に、奴らの矛先は互いを向き始める。そうなると山の天狗が記事を書くんだ。『春秋冬、夏争奪戦争勃発。各地で冷害不作花粉症の被害。火種はあの河城カンパニーか』なんてな。それで、前のプールは潰れたんだ」
「へぇ」
「まあ、起きちまったもんは仕方ねぇ。それより気をつけないといけねえのはリグルだ」
「わたし、あの子きらい」
 リグルの顔を思い出すと、村紗は脳細胞が死んで行くのを感じた。リグルの声を思い出すと、村紗のふくらはぎが攣った。
「あの子、これ以上悪さするわけ?」
「おいおい、そんなこともしらねえのかよ。リグルっていったら、悪質なマッチポンプの害虫駆除業者で知られる、リグルナイトバグだろうが。その悪質極まりない手法で奴はどんどん同業他社を潰して回った。そうして付いた渾名は〝ムシキング〟。明日のプール開きには、うちのプールもフナムシだらけだろうよ」
「私、あの子こわい」
「俺もだよ。あいつには前の前のプールを潰されたんだ。それで、学んだ教訓がこれさ」
 モブAは事務所の金庫から札束を取り出した。
「リグルが手を差し出したら現金を乗せろ、河城カンパニーの社訓にまでなった。生憎、俺は明日の監視業務には参加できねえ。工場に行くんでな。だからワカ村紗、お前がやるんだ。できそうか?」
「ちょっと嫌だけど、やるよ」
「よし、頼んだぞ。じゃあ俺は工場に行く」
「あれ、工場に行くのは明日じゃないの?」
「ああ、今日はすぐに行って戻ってくるよ。にとりさんに今日のことを報告しなきゃいけねえからな。安心しろ、にとりさんは心の広いお人だ。そう簡単に首斬りにしたりしねえよ」
 村紗はそろそろ自分のスポンサーという立場を忘れかけていたが、にとりの名前が出たことによりどうにか踏み止まれた。それはさておき、村紗にはかねてから気になっていたことがあった。
「工場工場って言ってるけど、何の工場なのさ。また偽造通貨?」
 途端に、モブAが深刻な顔をした。
「……そんなこと、あるわけないだろ。こないだの一件で、にとりさん、ひいては俺たちは心を入れ替えたんだ。偽造通貨生産工場は全て取り壊した。もうこの地上のどこにも、そんな工場は存在しねえよ」
「そっか。ごめん」
「いいってことよ。ただ、周りにはもう少し信用して欲しいところだがな。ま、過ぎたことだ。悩んでも仕方ないさ。今出来ることを出来る限りやる、これも河城カンパニーの社訓だ。ははは。村紗、明日はよろしく頼むぞ」
「うん、そこそこ頑張る」
 そう言って、モブAは事務所内の階段を降りていった。
 監視員生活二日目の夜。村紗は命蓮寺で煮込まれているであろう二日目のカレーを夢想して眠った。
 明くる日、村紗はまだ客のない市民プール、その監視席に座っていた。妙に白んだ景色の中、モブAの言った通り、プールのそこらにはフナムシがひしめいている。そうこうしているうちに、プールに入場する者があった。他でもない、リグルナイトバグである。リグルは貼り付けたような微笑を浮かべて村紗に近付いた。村紗は監視席を降りてリグルを待ち構える。村紗の前まで来ると、リグルは出し抜けにその掌を村紗へと差し出した。村紗は半ば無感動に、リグルの掌に札束を置くのだった。
 それから、リグルは泳いだ。フナムシのいなくなった、まだリグル以外の誰もいないプールを、クロールで泳いだ。夏休みの宿題が終わった後のような達成感と、スポーツ選手の爽やかな笑みを足して二で割った様な笑顔を浮かべ、リグルはクロールで泳ぎ続けた。泳ぐリグルの二の腕や、しっとりと濡れた髪や表情に、村紗は一種少年的な艶かしさを感じて、変な気持ちになってゆく。自分にとって〝生意気〟にしか感じられなかったリグルナイトバグの〝中性〟に、村紗は悶々としながら、リグル以外に誰も居ないプールの監視を続けた。
 時刻はとんで、正午。いつの間にかリグルは消え、代わりにプールには蝉の声の中子供達のはしゃぐ声が疎らに響いていた。景色は依然として妙に白んでいたが、誰も気にする様子はなく、村紗もあまり気に留めることをしない。村紗は白んだ景色のよりも、蝉の声が気になった。――蝉とは夏に死ぬ虫である――。
「みーんみーん、うるさいなぁ。蝉」
「蝉なんて鳴いてないじゃねえか」
「そんなことないでしょ、ほら――あれ?」
(なんとなく返答したけど、モブAは今日工場のはずじゃあ)
 村紗はモブAの声がした方向を見やる。しかしどこにも、モブAの姿を見つけることはできなかった。村紗はちょっと寂しくなる。泣きそうになった。
 そんな折、プールの子供達が俄かに騒めき始める。チルノが現れたのだ。チルノはプールサイドから静かに入水し、フチに沿うようにゆっくりと、しかし力強く歩き始めた。
「おい、あれみろよ」
「あれは確か昨日の……」
「今日は随分静かじゃないか」
「まさか生きてたとは」
 子供達が各々チルノの登場に反応する最中、プールの中歩み続けるチルノに背後から近付く者が在った。先日の、パトリシアマコーミックである。
「おいグレッグ!まさか無事だったとは」
 チルノはそんな呼びかけを無視して、歩みを続けた。しかし、チルノの背中は雄弁に、ある一言を語っている。
〝あたいについて来い〟
 パットは震えた。わなわなと、その口を開く。
「お、おいみんな!グレッグ、いや、チルノに続け!」
 なんだなんだ、と騒めく市民プール。チルノはプールにムーブメントを巻き起こした。チルノは流れを創ったのだ。
(まあ、流れるプールくらい放っといてもならいいかな)
 村紗はチルノを先頭に歩き続ける行列を静観した。プールサイドで、大妖精はそんなチルノの英雄的行軍を心配そうに眺めていたが、隣にいたルーミアはそれほどでもなかった。
 暫くすると、プールには最早、ちょっとした渦巻きが出来上がっていた。流れるプールの中を流されている子供もちらほらいる。村紗がそろそろ止めなきゃいかんな、と思い始めた頃、村紗の視界に蝙蝠とメイドが映った。
「日光とちょっとした流水の対策はしてきたけど、これは流石に無理ね。残念だけど、今日は諦めましょう。ね、フラン」
「お姉様は臆病だなぁ。あんなに特訓したじゃない。このくらいの流れなら何ともないよ。ねえ、咲夜?」
「ええ、お嬢様に不可能はございませんわ」
 刹那、村紗の視界に映る全てが動きを止めた。正確には〝咲夜〟と呼ばれるメイド以外の動きが、完全に止まったのである。あのメイドの仕業だな。どういうわけか、村紗は止まった時の中でそれを理解した。咲夜が「しらんけど」と呟いて、再び時間は動き出す。
「ほらお姉様?咲夜もこう言ってるし、ちょっと入ってみてよ」
「無理よフラン。流水どころじゃなく渦巻いてるもの。こんなところに入ったら、残機が減るだけじゃ済まないわっ、て、のわぁっ!」
 蝙蝠妹が姉蝙蝠を突き飛ばした。村紗とっさにメガホンを構えた。
「場内での危険行為はおやめくだ――

 瞬間、再度時間が止まった。またしても村紗は止まった時の中を認識することが出来た。
(今度はなんだろう)
 村紗が訝しんでいると、メイドが気怠そうにプールの出口へと一人歩き出した。メイドの姿が見えなくなって、不意に時間が動き出す。

――さーい!」
 時すでに遅し。姉蝙蝠もといレミリア・スカーレットは勢いよく流れるプールへと着水した。レミリアがプールへ落ちるが早いか、市民プールは眩い光に包まれる。一間遅れて、轟音。そして爆風。
 気が付けばプールの底には大きな穴が開いている。村紗の口も、子供達の口も大きくあんぐりと開いていた。プールの底に開いた穴から、河城にとりの姿が見えた。河城にとりは「あ、やべ」と呟いて、流れ込む水と共に姿をくらました。そう、プールの地下には偽造通貨生産工場が在った。
 逃げ遅れた河童たちは予想外の事態に慌てふためいては水に飲まれていく。子供達も底に開いた穴へと、偽造通貨生産工場へと流れ込む。先頭はやはりチルノだった。それを眺めていた大妖精は、穴の底を確認することもなく、しゅんとして、チルノのリスポーン地点へと項垂れて歩き始めた。ルーミアは笑顔で手を振った。
 村紗はモブAの姿を探そうと必死だったが、けたたましい蝉の声がそれの邪魔をした。村紗の聴覚を、蝉の鳴き声が攫っていく。

 場面はとんで、木々の中。村紗とモブAは横並びになって木立の間の均された道の上を歩いている。
「サングラスは?」
「あれはプールの時だけしかしないんだ」
 ぽかぽかとした陽光の中、二人は仲良く歩き続ける。
「口調も、プールの時だけ?」
「……口調はちょっと、素かもしれない」
「そうなんだ」
「そうだよ」
 相変わらず、景色は白い。村紗は並んで歩く自分とモブAを、俯瞰しているような、変な気持ちになった。
「ねえ、私のほっぺた。ぶったよね」
「そうだっけ」
「そうだよ」
 ふふ、と笑った村紗は、どことない幸せに包まれた。村紗はまた、モブAにねぇ、と語りかけるも、モブAの声がそれを遮る。
「なぁ村紗。私な、そろそろ――」
 急に、村紗の頭の中で蝉の声が響いた。
「蝉がうるさくて、聞こえないよ」
「村紗、私――」
 頭の中の蝉の声が、どんどん大きくなっていく。
「聞こえないったら。もういっかい、もういっかい」
「――――。」
 そのうち、蝉の声以外なにも聞こえなくなって。村紗の世界を、白い光が塗り潰したような、暗転したような。




「……うーん……んん……」
 気が付くと、村紗は布団の上に横たわっていた。村紗が瞼をうっすら開けると、傍から声が降ってくる。
「おはよう村紗。どう、少しは熱下がった?」
「……蝉が……うるさ……」
「まだ言ってるし。今何月だと思ってるのよ。蝉なんてまだまだ土の中よ」
 あれ、一輪の声だ。何故。村紗は判然としないまま口を開く。
「ええ……?なに、いま……いま何時?……夕方?」
 村紗はここでようやく夢から覚めた。ぼんやりとした視界に映る障子は、薄暗い光をろ過している。
「明け方よ。まだみんな寝てるわ」
「ああ、そうか。……看病してくれてたの?悪いね」
「いいのよ。村紗のおかげで退屈しなかったわ。笑ったり、泣いたり、喚いたり。ふふ、誰よ〝グレッグ〟って」
 自分の寝言を指摘された村紗は少々バツの悪そうに答えた。
「ああグレッグ、グレッグはたしか……あれ?ダメだ忘れてら」
 村紗の夢の記憶は既に曖昧になっていたのだ。
「えー。じゃあそうだ!モブ江って誰よ。そのモブ江って人のこと、一番呼んでたわ」
 夢に出てきた彼女の名前を間違われたことが妙に引っかかり、村紗は一輪が尋ね終わるより早く口を開いた。
「モブ江じゃない!モブ江じゃなくて……なんだっけ」
 村紗の言葉に、一輪はくすくすと笑う。
「やっぱりまだ熱があるんじゃない?まだ寝てたらいいわよ。朝の読経も休むって、姐さんには言っておいてあげる」
 一輪の看病もあってか、村紗の体に気怠さは欠けらも残っていない。村紗は布団の中で伸びをして、一輪に答える。
「……いやいい。もう大丈夫そう。悪かったね、看病なんてさせてさ」
 そう言うと、一輪はいいったら、大丈夫そうなら安心したわ、と言い残してお堂へと去ってゆく。今日のお堂の掃除は一輪が当番の日だったのである。村紗の胸中にて、看病してくれたこともあるし、お返しに掃除を手伝ってやろうかなという気が起きたが、村紗はすぐにそれを、病み上がりだし、と掃き捨てた。
 上体を起こして、戸を見やる。戸に貼られた障子はやはり鈍い朝焼けを薄暗く遮っている。村紗は伸びをする気力もないままに立ち上がり、何か冷たいものが飲みたいと、冷蔵庫に向かう。縁側を伝い居間にある台所へ進む。外は薄っすらと明るかったが、太陽はまだ見当たらない。朝の新鮮な空気が村紗の肺に心地よい冷たさを運んだ。庭を見やると、小さな池がぼんやりと紺色の空を仰いでおり、その傍には紫陽花が綺麗に咲いていた。お堂の前を通る際、村紗は片手を上げ、床に雑巾をかける一輪に軽く礼をして通り過ぎた。居間を抜け台所に入り冷蔵庫の戸を開ける。冷蔵庫には作り置きの麦茶が在ったので、村紗はそれをコップにも注がず滝飲みにした。これをやると命蓮寺の面々に注意されることは承知の村紗だったが、それも、病みあがりだし、と掃き捨てた。
 空になった麦茶の容器をシンクに投げ、冷蔵庫を閉めようと手を伸ばしたその時、村紗の視界に気になるものが映った。
(おお、冷蔵庫にこんなものが。これはアレだな、病人の私を労わるつもりで誰かが買ってきてくれたんだろう)
 それはプリンだった。村紗は蓋を開け、大きく開けた口の上にプリンの容器を逆さまにし、容器の底をプッチンしてプリンを一飲みにする。これをやると命蓮寺の面々に勿体ながられる村紗だったが、病みあがりだし、とそれも即座に掃き捨てた。同時に、台所の隅のゴミ箱に向かって空になったプリンの容器も投げ捨てる。プリンの容器がゴミ箱に収まる瞬間、容器に何やらひらがなで名前が書かれているのを見つけた。村紗はそれを自分の名前だと疑わなかったが、代わりに「ひらがなて、村紗水蜜やぞ」と奇っ怪な台詞を吐いて、上機嫌で寝室に戻った。
 二度寝をする際、村紗は布団の中で、台所に在った鍋の中身(カレー)を思い出した。それは、いい気分で眠りに落ちた。
 次に目を覚ますと、空はすっかり明るくなっていた。しかし村紗が時計を見やると、時間は三十分ほどしか経過しておらず、それはちょうど朝の読経の時刻である。村紗はぐんと伸びをして、障子の張られた戸を開き外を見やる。空はさっぱりと晴れており、青々とした空には白くて大きな雲が疎らに浮かんでいた。
 そんな空を見て、村紗は今朝見た夢に想いを馳せる。夢の中の暑い夏や、名前も思い出せない少女のことが妙に恋しく感じられて、思いもよらず、照れるようにはにかんだ。
 ふいに、寝室の前をどたどたと一輪が通り過ぎる。村紗は慌てる一輪を引き止めて、一緒にお堂へと向かうことにした。
 縁側を伝いお堂に入ると、聖白蓮は既に倍を構えており、今にも磬子を鳴らしそうだ。聖の後方に、命蓮寺の面々は既に静粛として座っており、一輪はその中にちょうどいい隙間を見つけて、そそくさと其処に座った。お堂、といえども境内の堂は小さく、せいぜいちょっと広い仏間程度なものだ。床に関しては畳である。しかし、堂の戸は開け放たれていて、気持ちのいい日の光が涼やかな風とともに差し込んでいた。
 そんな空間に、聖をはじめとした面々が座っている。その中に幽谷響子の姿を見つけた村紗は、響子の隣に座り、響子に小声で話しかけた。
「よぉ、来てるなちんちくりん。最近は熱心じゃないか」
 響子は笑顔で答える。
「あ、村紗さん。おはよーございます! へへ、最近はお経も最後までちゃんと読めるようになったんですよ」
「ほお、それはそれは」
「それより村紗さん、熱はもう大丈夫なんですか?」
「なんだ響子まで知ってるのか。ええ、ええ、お恥ずかしながら、今朝良くなりましたよ」
「よかった!ぬえさんから聞いて、心配してたんですから。ああ、そうだ村紗さん。私が今朝ここに来たとき、ぬえさんがなにか泣きながら出て行っちゃったんですけど。なんでも、プリンがどうとか」
「ああ、そりゃあ……」
 瞬間、磬子の音が鳴り響く。村紗と響子は慌てて両掌を合わして目を瞑った。響子は注意を恐れての行動だったが、村紗は違う。村紗にとって読経の時間は修行よりも修行めいていた。気を抜くと、成仏してしまう為である。お堂に向かう最中一輪の放った、
「病みあがりで読経に参加するなんて、村紗もなかなか度胸があるわね」
 なんて言葉を思い出そうものなら、村紗は忽ち経に滅されてしまう。村紗が気張ると、聖白蓮が徐に口を開いた。
「ぶっせつまーかーはんにゃーはーらーみーたーしんーぎょー」
 再度、磬子が倍によって打ち鳴らされる。

『かんじーざいぼーさーぎょうしんはんにゃーはーらーみーたー』
……。
 読経の最中、村紗はなんとはなしに、自身の見た夢について思い返していた。
(うーんなにか、楽しいやつが居た気がするぞ)
 村紗は夢に出て来た少女に想いを馳せた。
『ふーじょうふーめつふーくーふーじょうふーそーふーげん』
(おおよそ、儚さとは無縁の奴だった気もするけど、今思い返せば、どことなく儚げに思えるのはあのおかっぱのせいかもしれないな)
 村紗は既に輪郭の曖昧になった彼女を薄っすらと思い浮かべては、幾許の寂しさを感じた。
『むーげんかいないしーむーいーしきかいむーむーみょうやく』
(ああ、意外と覚えてるぞ、私。たしかサングラスを……かけてなかったかな。どうだろう)
 村紗は夢の内容を殆ど忘れていたが、一つだけ覚えていることがあった。夢の中で自身とその少女は、ちゅーをする仲だったという事だ。そんな記憶が、村紗の中の少女像を妙に甘ったるくさせ、村紗を回想に執着させるのだった。
『はんにゃーはーらーみーたーこーしんむーけーげーむーけーげーこむーくふー』
(せめて名前だけでも思い出してやれたら、なんだか奴も救われるような気がするんだけどなあ)
 そんな村紗の聴覚に、不意に蝉の声が響いた。村紗は驚いて、咄嗟に堂から庭を見やった。
 しかし、そこに在ったのは、青い空を映した小さな池と、元気良く咲く紫陽花のみだった。気付くと、蝉の声も消えている。その時、村紗の頭の中で彼女の名前が思い出されたが、村紗の中に浮かんだ彼女の名は、到底名前と呼べる代物ではなかった。
(ま、所詮は夢ってことだな)
 それでも村紗は彼女の名を浮かべながら紫陽花を見やり、記憶の中の彼女に、哀れむような、思いやるような微笑みを贈ってみせた。
『ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてーはらそうぎゃーてーぼーじーそわかー』
「あ、やべ」
 村紗は消滅した。経が途切れ、聖は振り向くことなく、
「どうしましたか?」
 などと皆に尋ねる。
 サビの部分を邪魔され少し不満そうな一輪が口を開く。
「姐さん、村紗が消えました」
「まあ」
 聖はやはり振り向くことなく、口を開いた。
「それでは、消えてしまった村紗の為にも、今度はもっと元気良く唱えましょう」
 皆元気よく、はーい、と応えた。
「んっんー。それでは」
「ぶっせつまーかーはんにゃーはーらーみーたーしんぎょー」
 チーン、と磬子が鳴り響く。
「元気よくー、せーのっ」

『かんじーざいぼーさーぎょうしんはんにゃーはーらーみーたじーしょーけんごーうんかいくー……』

 さっぱりとした五月の空の下。
 元気のよい命蓮寺のお経は、いつまでも、どこまでも、響いてゆくのだった。


   おまけ2
   †神意†

   曇りのち雨

 煙草の煙がそのまま雲になったような空の下、古明地こいしは神を探していた。
 探している、といっても、彼女は人里の往来を行く人々の中に彼女にとって神らしき人物を見つけ「あなたかみさま?」と声をかける程度なものだった。彼女が声をかけた人物の中には妖怪もいれば非人間的人間も在った。しかし、彼らは古明地こいしの問いかけに「はい、私は神です」と答えることはしなかった。
 彼女の問いかけは問いかけられた側からすれば素っ頓狂で、ちんぷんかんぷんなものに聞こえた。よもや古明地こいしが本当に、この世の凡ゆる因果に説明をつけてくれる神を探しているとは露とも思わなかった。当然といえば当然だが、彼らの返答は古明地こいしを打ちのめした。
 ――ああ、つまんないの。
 古明地こいしが人里を離れ、森の入り口周辺をふらつき始めたころ、ぽつぽつと雨が降ってきた。降り始めの雨は透明で、腕や顔に冷たく小さな感触が当たらなければ気付くことも出来ないほどだった。しかし、乾燥した土や草木に雨が染み込み、それまで忘れられていたものを思い出すかのように自然の香りを醸し始める。
 古明地こいしは退屈と共に降り出した雨に、噎せるような雨の匂いに、やはり神の存在を感じずにはいられなくなった。
 どこかに神はいないものか。
 辺りに目を配ると、茂みがガサガサと音を立て揺れ動いているのを見つけた。目を凝らすと、茂みをかき分けて道へ出ようとする者が在った。
 ――もしかして、かみさまかも!
 古明地こいしは胸を高鳴らせて、その者が茂みから出てくるのを待った。
 一寸の間、茂みはガサガサと音を立てて古明地こいしの心を急かした。
 そうしてその者は茂みをかき分け、いよいよもって古明地こいしの前に姿を現した。古明地こいしは直ぐに駆け寄って、問いかける。
「ねえ、あなたかみさま?」
 その者は古明地こいしの問いかけに一瞬キョトンとした表情を見せたが、直後自嘲めいた息を一つ吐いてこう言った。
「まあ、神様といえば、神様だけど」
 古明地こいしは目を輝かせた。
「ほんと! じゃあ、あなたが全部を決めてるの? この雨も、あなたが降らせたんだ!」
 古明地こいしと向かい合う者――依神紫苑はまた一つ自嘲めいた息を溢して答えた。
「ええ、そうね。そういうことに、なるのでしょうね」
 もちろん、そういうことにはならない。一介の貧乏神風情に決定付けられる事象などは殆どない。ましてや天候を操るなど、依神紫苑にはもちろん不可能だった。
「ねえ、じゃあかみさまのいろんなお話聞かせてよ。どこか、雨宿りできるところまで歩いてさ。あ、雨は止めなくていいよ。だってかみさま、必要だから雨を降らせたんでしょう? ほら、早く行こうよ。それで、いっぱいお話聞かせてもらうんだ」
「……ええ。私なんかの話でよければ、いくらでも」
 依神紫苑。
 彼女はこの数日何も口にしていなかった。空腹のせいで睡眠もままならなかった。飢餓状態に伴うフィロソフィー・ハイが、彼女に一種の万能感、或いは錯覚を与えていた。
 ――万物に与えられる幸、不幸の因果は、ともすれば私に在るのかもしれない。
 依神紫苑は空腹と目眩と出所不明の昂揚をもって、古明地こいしの後に続いた。
 やおら勢いを増す雨すらも、古明地こいしにとっては賛美の伴奏のように聞こえていた。
 ――ああ、なんて楽しみなのかしら! まさか、かみさまのお話が聞けるなんて!
 古明地こいしはワクワクして、後ろをひたひたと歩くかみさまの語るおはなしを想像しながら、歩きはじめた。



   鈴仙が来ない

 人里に〝レストラン〟が出来た。妖怪の山の企業努力により実現した出店は、人妖問わず様々な者を惹きつけた。レストランは開店から連日長蛇の列が出来ていて、店の中は常に満席だった。
 人々が目に新しい洋風な食事を摂りつつ、思い思いの会話に興じるレストラン。十六夜咲夜と魂魄妖夢はその中の一つのテーブルに着き、黙々と、テーブルに置かれたコーヒーにちびちびと口をつけていた。
 そう、鈴仙を待ちながら。

「……。」

「……。」

 …………。
 二人には、共通の話題が無かった。仮にあったとしても、それを考えることも出来ないほどに互いは互いにとって〝友人の友人〟だった。とはいえ、これまで二人は何度となく会話を交わしていた。鈴仙、咲夜、妖夢の三人で集まっている際ならば、二人は問題なく会話が出来た。
 それもそのはず、三人で集まった際会話における第一声、話題の提供をしていたのは鈴仙・優曇華院・イナバ他ならなかったのだ。三人は休日、よく集まり、いろんな場所へ出かけた。湖畔へキャンプに行ったことさえある仲だった。しかし、三人で集まろうと最初に声をかけたのも鈴仙だった。そもそも、鈴仙が声をかけなければ、三人が集まることはない。今回、話題のレストランへ行くことにしたって、鈴仙の発案によるものだった。三人の中で比較的〝空気の読まない〟傾向があった鈴仙だが、咲夜と妖夢にとっては鎹のような存在だった。
 咲夜と妖夢はその事を、今になって、痛感していた。

「……。」

「……。」

 …………。
 二人は互いを嫌いあっているということはない。二人して、何か喋らねければと考えてはいた。比較的引っ込み思案な妖夢でさえも頭をひねって、何か丁度いい話題を考えていたし、咲夜も妖夢が頭をひねっていることを感じ、丁度いい話題を必死に思案していた。
 しかし、二人の思考を邪魔するものがあった。それは、二人にとって、この場にある唯一の共通の話題だった。

 ――鈴仙が、来ない。

 二人してそれを口に出さないのには理由があった。二人とも、それを口に出したら、これまで三人の関係の中にて埋没していた事実が表層へ浮き彫りになってしまうことを恐れていたのだ。
 〝二人の関係は鈴仙の存在で持っている。〟
 〝鈴仙さん来ないですね/来ないわね〟この台詞を吐いた瞬間、二人はその事実を認めざるを得なくなる。
 私たちはそれなりに仲の良い友人である。それが、二人にとっての共通認識だった。これまでは。

「……。」

「……。」

 …………。

「……あの!」
 先に口を開いたのは妖夢だった。しかし、妖夢の頭には何も思い付いていない。あるのは〝鈴仙が来ない〟その文字だけだった。

「……いえ、なんでも、ないです……」
 妖夢は何も言えなかった。元来の優柔不断とも引っ込み思案ともとれるその習性とともに生きてきた彼女に、この状況を打破する名案は、浮かぶはずもなかった。

「……そう」
 平静を繕っている咲夜だが、内心ではかなり焦っていた。妖夢が開きかけた口を閉じた事により〝私達の関係は鈴仙でもっている〟という事実が切迫してきた空気を感じたのだ。

 …………。

 ――この間を打破するのは私以外にいない。

 咲夜は鈴仙の話題の切り出し方を思い出した。鈴仙はよく、最近買った小物なんかを持ち寄り、それを提示して話題を切り出す。最近買ったもの、最近買ったもの……。咲夜は思考の果てに、懐からおもむろにナイフを取り出し、それをテーブルの上にゆっくりとのせた。

「……これ、私のナイフなんだけど……」

「あぁ……」

「……最近、新調して……オーダーメイド……」

「おぉ……」

 …………。

 咲夜は時を止めて頭を抱えた。それは失策だった。とりとめのない話題を切り出し、会話が続かないのは〝友人の友人〟感を助長させたのみだった。取り敢えず、テーブルの上のナイフを仕舞おう。そう決意したところで、時はまた動き出す。

「……。」
 咲夜は無言でナイフを仕舞った。妖夢は混乱していた。

 ――私も何か出さなければ。

 脳内はしどろもどろで混沌としていたが、妖夢はできる限りの平静を繕って、ゆっくりと椅子に置いた白楼剣に手を伸ばした。そして、咲夜に見えるようおもむろにそれを構えて、ゆっくりと鞘を抜いた。

「……これ、白楼剣っていって……」

「あー……」

「……えっと……人の迷いを断ち切れる……」

「へぇ……」

 …………。
 妖夢はテーブルの下に片手を伸ばし、半霊を揉みくちゃにした。それはやはり失策だった。何より妖夢は恥ずかしかった。この妙な間が、恥ずかしくてたまらなかった。
 ――ああ、早く鈴仙さんが来てくれたら。

 ――ねえ聞いてよ! ばんきちゃんったら酷いんだから!――。

 二人の沈黙の中、なにかよく通る声が響いた。それは、二人の座る席の後方に位置するテーブルから響く会話だった。

 ――姫、私ね、今日だってばんきちゃんのこと誘ったのよ! それで、ばんきちゃんは行けたら行く、なんて言うからさ、不安だったんだけど、当日になったら案の定! やっぱ行かない、なんて言ってさ! じゃあ行かないで一人で何するつもり?って聞いたらさ、わかんない、だらだらしてる、とか言ってくれちゃって! 腹立つったらないわ、正直!

 うーん、ばんきちゃんはマイペースよね、少しだけ。

 少しじゃないわ、マイペースすぎるのよ。こないだもひどかったわ。二人で遊んでる時、お洋服の話になったの。それで、新しい帽子が欲しいなーって私が言ったの。そしたらさ、ばんきちゃんたら本かなんかを読んでてね、あーとかおーとか言って、全然聞いてないんだから!

 それはちょっと、たしかにマイペースすぎるかも。

 しかも、終わりじゃないのよこの話! それから二週間ぐらい経った頃ね、また二人で遊ぶことになって、私は新しく買った帽子をかぶってばんきちゃんのとこに向かったわけ。それでね、まあお茶飲みながら普通に話してたんだけど、ばんきちゃんが急に、あ、そうだ、なんて言うの。なんだろうなーと思って、なに?って聞いたら、なんて言ったと思う? こないだの帽子の話なんだけどさ、ですって! もう、信じられないわ!

 わー、すっごいマイペース。ちょっと引く――。

 咲夜と妖夢はゾッとした。鈴仙が、もし、彼女らの友人のようにマイペースだったら。思い当たる節はいくつもあった。二人にとって鈴仙はやはり〝比較的空気の読まない人〟だった。
 
 二人の間の沈黙が、一層重たくなる。

 しかし鈴仙は、未だ来ない。



   ひとつめの宴会

 射命丸文が宴会を企画した。今年はもう春になるが、去年の忘年会からそれらしい宴会は一つもなく、皆も何となくソレを待っていた。射命丸文が企画したのは花見だった。しかし、山のお偉方や知人止まりの同僚達と宴会の際まで顔を合わせたくなかった射命丸文は、知る人ぞ知る花見のスポットを用意し、内々だけの宴会にする、予定だった。
 妖怪の山からも人里からも離れた侘しい広場にて、それなりに実った桜の葉の下、ブルーシートの上に集まったのは射命丸文を除き四人。
 犬走椛。姫海棠はたて。河城にとり。星熊勇儀。
 そのうちの三名は急性アルコール中毒で既に事切れていた。ブルーシートの上、はたまた地面の上に横たわる友人の無残な姿を、射命丸文は尋常ではない嘔気と共に見つめていた。
 ああ、どうしてこんなことに。
 考えるまでもなく、星熊勇儀の仕業ではあったが、射命丸文はもっと根本的な事柄に対し悔恨の念を送っていた。
 なぜ、今日に限って鬼に見つかるのか。
 射命丸文は神を呪っていた。
 それなりの場所に、それなりの風が吹いて、それなりの桜吹雪が舞う。今の射命丸文には、そんなそれなりの綺麗な光景すらも、神が与えたもうた皮肉のような嫌味のように映った。
 皮肉といえば射命丸文の胸ポケットだった。彼女の胸ポケットには鬼さえコロリと眠らせる睡眠薬が在った。それは、射命丸文が家を出る際、本当に戯れに胸ポケットに忍ばせた代物だった。
 誰かにこっそり飲ませれば、なにかひと笑い取れるのではないか。
 河童と天狗二匹が吐瀉物に塗れ転がるこの惨状は、自分が抱いた邪な感情に対する罰のようにも思えた。何より文は、その睡眠薬を星熊勇儀の盃に盛ってやろうと、何度も考えた。かつて鬼が山にいた頃、射命丸文は星熊勇儀と殆ど面識がなく、今日が久々の再会だった。射命丸文は考えたのだ。
 ――どうせ名前も顔も覚えていないだろうから、ここで薬を盛ったとしても、後腐れはないのではなかろうか。
 しかし、射命丸文には確証が無かった。星熊勇儀が自分達のことを完全に忘れている、その確証が。
 星熊勇儀が花見に乱入してからというもの、射命丸文は何度も確認を試みた。

 ――いやぁそれにしても、お久しぶりですねぇ。私達のこと、覚えていますか? あはは。

 あー? 別にいいだろ、そんなこと。どうだって。それより呑もうじゃないか、さあほら、注いでもらおうか。

 あはは。それもそうですよね、注がせていただきます。あははは――。

 射命丸文の試みは悉く失敗に終わった。切り札の睡眠薬は射命丸文の胸ポケットに眠ったまま、一人、また一人と吐瀉物に沈んでいった。
 比較的酒の強い文は自分の体質と、友人達の酒の弱さを呪った。

「なんだよやつら、酔いつぶれちまって。河童はともかくとして、あの二匹は天狗だろう? 情けないったらないね、まったく」

「いやぁ、仰る通りで、あはは……」

「しかし。お前はなかなか見込みがあるな。いい飲みっぷりじゃないか。気に入ったよ」

「そ、そうですかねぇ。恐縮です……」

「そうだ。今度はサシでやろうじゃないか。なあ……」

「え、そりゃあもう。勇儀さんが仰るならば、喜んで……どうされましたか?」

「……いや、実のところ、お前の名前を思い出せなくてな。……というか、天狗共が呑んでる、と思って参加させてもらっただけで、ほんとは顔も覚えてなかったんだよ、今日は。黙ってて悪かった、すまない。だから、ちょっと、名前を教えてもらえないか? 酒席で会った奴の事は大概忘れてしまうんだが、お前、ペン持ってるだろ? 名前書いて、渡してくれ。そうすれば忘れずに済むから」

「ええ、喜んで!」

 射命丸文はやはり神を呪った。神はどうして、自分にこれほど残酷な選択を強いるのか。彼女は吐瀉物の海に転がる友人達を眺めて考えた。
 そうしていると、ひらひらと舞う桜の一枚が、姫海棠はたての顔の上に落ちた。

「どうぞ。私、こういうものです」

「んん? 〝かかしねんぽう ひめかいどうはたて〟か。わかった、ありがとう。じゃあ、 はたて、桜の散らないうちに山に行って、お前を尋ねるとするよ。ああ、楽しみだなあ。よおし酒を注いでくれ、今日は呑むぞぉ」

「ははあ、仰せのままに!」

 射命丸文は星熊勇儀の盃に、目にも留まらぬ早業で睡眠薬を盛った。盃に一口でも口をつければ、鬼だろうと何だろうと忽ちコロリだ。ああ、やっと解放される! 文は昂ぶる気持ちを堪えつつ、星熊勇儀に盃を返した。

「ああ、ありがとう。……んん? なんか、変な味が……。あ、ああ眠い! お前、盃になにか盛ったな……! くそ、鬼を嵌めたな……! 姫海棠はたて、名前は覚えたぞ……覚えておけ……ぐう」

 射命丸文は席を立ち、家路につくことにした。
 帰りしな振り向くと、犬走椛、姫海棠はたて、河城にとり、星熊勇儀が、ブルーシートの上、ぐちゃぐちゃに重なり合って眠っていた。その光景は、まさに宴会そのものだった。みな、楽しく呑み、酔いつぶれ、なにも考えず幸せそうな顔で眠る。舞い散る桜の花びらが、そんな架空の宴会の後を縁取っていた。
 射命丸文は悲しくなって、泣きながら家路を辿ったのだった。



   教師として

 上白沢慧音は寺子屋での業務を終え、帰宅の為資料を纏め、残っている子供がいないか、教室以外にも幾つかある事務室や用具入れ等を確認して回っていた。
 ――しかし今日は我ながら、なかなか良い授業をしてしまったな。
 慧音は上機嫌に、童謡なぞを口ずさみながら、寺子屋をチェックして回る。
 今日、慧音は教え子達の中でもとりわけ幼い子供達に対して道徳の授業を行った。幾つかの童話等を読み聞かせたり、感想の浮かんだものに手を挙げさせたりしたが、中でも反応が良かったのが〝金の斧〟という寓話だった。木こりが泉に斧を落とすと、ヘルメスという神が現れ、あなたが落としたのは、という質問をし、正直に答えた木こりの正直さが報われる、というその寓話は、子供達に正直であることの美徳を伝えてくれたように慧音は感じた。
 ――みんな、良い子に育ってくれるに違いない。
 ここ最近天狗の新聞で、貧困から窃盗などの非行に走る子供達が取り沙汰されていたが、慧音は今日の自分の授業が、子供達を非行から遠ざけた、と、そこまで大げさではないが、良い影響を与えたことには違いないと確信していた。
「教師冥利に尽きるとはこのことだな……と、ん?」
 上機嫌が余って独り言を口走らせながら教室のチェックをしていた慧音だったが、教室の机の上に幾つかの〝忘れ物〟を発見した。
「なんだ忘れ物か。……筆箱と……筆箱と……筆箱だ。全部筆箱だ。まったく、弱ったな」
 筆箱を忘れたことに気付いた子供が戻ってくるかもしれない。慧音は教室で、そんな子供達をしばらく待つことにした。
 ……。
「なんだ、この筆箱は、なになに〝象が踏んでもこわれない〟……おお、高そうだな。どれちょっと、踏んでみようかな」
「こっちはどうだろう、うーん……。まあ、割合ふつうの筆箱だな。うん、ふつうだ。ふつーすぎて、特になにもいうことがない」
「最後のは……おお、ぼろっちいなあ。もう、もはやただの布だもの。ああ、こういうの見てると、ちょっと心が痛くなるな。いやいや教師として、子供達は平等に見なければいけないな、うん。いや、にしても、ぼろっちいな」
 待っている間の暇つぶしに、慧音は忘れ物の筆箱三つを観察していた。しかし一つ、問題があった。

「それにしても、誰が誰の筆箱なのか、さっぱりわからないぞ」

 慧音が腕を組みそんなことを呟くと、不意に、教室の扉がガタガタと音を立て、開いた。
「先生ごめんなさい、わすれものをしちゃって」
 継ぎ接ぎだらけの衣服を着た、背の低い、痩せた少年だった。
「あ、ああ、入ってこい。ちょうど忘れ物を見つけてな。待っていたところだよ」
 慧音が言うと、少年は、よかった、見つかった、と喜びながら、少し駆け足になって、筆箱三つが並べられた教卓まで近付いた。
「まったくダメじゃないか。忘れ物なんてしちゃあ、物は大事にしないとな。……ああ、でも。先生はどの筆箱がお前のかわからないんだ。嘘ついて他のやつの筆箱を持っていったらダメだぞ。これと、これと、これ。さあ、お前の筆箱はどれだ?」
 慧音は教卓に並べられた筆箱、高そうなのと、ふつうなのと、ぼろっちいのを順番に指差して、少年に尋ねた。すると、少年はどこか悲しげに押し黙ってしまった。
「どうした? ……もしかして、この中に無いのか?」

「……ううん」

「あるんだろ? じゃあほら、どれがお前の筆箱なんだ? 先生お前に筆箱渡したら今日は帰るからさ、ほら、早く先生を帰らせてくれよ。なんてな、ははは」

「……じゃあ、これ」
 そう言って少年が指差したのは、高そうなのとふつうなのの間に挟まれた、一番ぼろっちい筆箱だった。
 ――しまった! 配慮に欠けていた!
 慧音は後悔した。しかし、極力教師然と堂々とした笑顔を崩さずに、ぼろっちい筆箱に手を伸ばし、それを少年に渡した。
「おお、よかったじゃないか。見つかって。いや、なかなか大事に使ってるみたいじゃないか、その筆箱。もう、忘れたりしたらダメだぞ。物は大事に、な!」

「……。」

 受け取った筆箱を胸あたりに両手で抱えた少年が、じっと、慧音を見つめる。
 まさか。
 慧音の頭に過ったのは今日の授業、その最中に聞かせた寓話〝金の斧〟他ならなかった。
 「いや、渡すことはできないぞ。これらは他のやつのものだからな」なんて言葉が慧音の喉元まで込み上げたが、慧音はすんでのところでそれを堪えた。
 ――この子にそんなつもりがなかったら、私はどうするつもりなんだ!

「……。」

 しかし、少年は尚も慧音を見つめ続ける。
 ――ああ、やっぱり欲しいのかな、正直さに対する報酬が! どうしよう、いや、私はヘルメスじゃない。高そうな筆箱は金の斧じゃないし、フツーの筆箱だって銀の斧なんかじゃ断じてない。ただ、この子の身なりといい筆箱といい……この子からすればこれらの筆箱は、金の斧、また銀の斧に、見えるのかもしれない……ああ! 私は何を考えているんだ! 教師たるもの、教師たるもの……。

「なあ「先生」
 慧音の言葉を、少年が遮った。

「先生、僕、先生の考えてることわかるよ。おはなしはおはなしであって、現実とは違うってことでしょ? いいんだ、僕。この筆箱、お母さんに作ってもらって、とっても大事にしてるんだもん。だからね、先生は気にしないで。金の斧も銀の斧も、僕は全然欲しくないから。ちっとも欲しくないんだから」
 少年はそう言って、すたすたと教室を去っていった。
 教室に残された慧音は、教育というものの難しさを、一人、噛み締めていた。



   鈴仙が来ない

 座りっぱなしで痛む関節が、咲夜と妖夢に過ぎた時間の長さを教えていた。
 ――だからさー! ばんきちゃんはそういうところが――あの時にしたって――首がまわらないのはあんたのぐうたらが――だいたい人里で働いてる時点で――。

「……。」

「……。」

 …………。

 咲夜と妖夢は、特に何か取り決めを行ったわけではないが、二人とも無意識のうちに、同じ事柄に集中していた。
 ――夏に二人で虫取りにいったときだって!――付き合いが悪いのよ付き合いがー!――。

 交わされている、というにはあまりにも一方的すぎる〝ばんきちゃん〟への不満打ち明け大会に、二人は耳を澄ましていた。二人は隣のテーブルに座る妖怪二匹とも、二匹の語る〝ばんきちゃん〟とも面識はなかったが、もはや二匹の人柄も、この場に存在しない〝ばんきちゃん〟の人柄すらも、概ね把握してしまっていた。
 初めは二人とも、狼の妖怪の余りある声量で発せられるソレを聞いていないふりをしていた。従者としての振る舞いが染み付いているということもあったが、何より人として、二人は聞き耳を立てるという行為に良いイメージは抱いていなかった。そして互いが互いに、聞き耳を立てていることを勘付かれたくなかった。

「……。」

「……。」

 …………。
 しかし、二人には話題がなかった。鈴仙を待ち兼ねて注文した食事も摂り終えてしまった二人の間に残ったのは、筒抜けの、赤裸々な、隣のテーブルから響く声のみだった。
 ――絶対家に居るはずなのにノックを無視したりして!――来ないって言ってたのに急に行くって言ったり!――自由すぎるのよ、行動が!――。
 そんな声に、初めに反応を示したのは咲夜だった。隣席の〝かげろうちゃん〟と呼ばれるその妖怪の話は概ね〝ばんきちゃん〟への不満に終始していたが、当の本人である〝かげろうちゃん〟の行動も、疑問点が多かった。
 ――でも、影狼ちゃんも深夜三時にいきなり尋ねるなんて――。
 〝かげろうちゃん〟から〝姫〟と呼ばれるその妖怪は割合〝ばんきちゃん〟擁護派だった。咲夜も初めは〝かげろうちゃん〟の語る〝ばんきちゃん〟のマイペースさに引いていたが、〝姫〟の合いの手が入るたびに、咲夜は〝かげろうちゃん〟の人格にも難があることに気がつき、とうとう首を傾げるに至ったのだ。
 咲夜が腕を組み怪訝そうな面持ちで首を傾げると、妖夢は咲夜に同調するよう、やおら二度頷いた。それから二人は公然と、聞き耳を立てる事が可能となった。聞き耳を立てるのは鈴仙が来ない所為であって、私達のやじ馬根性に由来するものではない。それが、二人にとっての謂わば免罪符、暗黙の了解と為ったのだ。
 ――まあ、私も悪いところはあるんだけどね。だけどそれでも、ばんきちゃんのアレは異常よ。日常生活をまともに送れてるのが不思議なくらい、マイペースすぎるんだもの。

 うーん、本人に悪気がないのが憎めないところよね。

 そう! 悪気がないの、一切無い! え、憎めないかしら。私は憎たらしくってしょうがないと思うんだけど。

 でも、友達でしょう?

 そりゃあ、そうよ。友達よ。でも、友達だから言ってるんじゃない。そんなんじゃ友達失くすわよ、って。

 影狼ちゃん、ばんきちゃんと友達やめちゃうの?

 ……やめないけど! やめないけど、よ! ……ああ、もう。まあ、喋ることも無くなってきたし、ご飯も食べ終わっちゃったし、そろそろ帰りましょっか。

 そうね。……ああ、ばんきちゃんも来ればよかったのに。カレー、すっごく美味しかったね、影狼ちゃん。

 洋食食べに来てまでカレーってのも、どうかと思ったけど、まあ、美味しかったわね。

 カレーは洋食でしょ?

 そりゃ、そうなんだけど――。

 二匹の妖怪が帰り支度を始めたことを受け、咲夜と妖夢の間には妙な緊張が走った。二人同時に、すっかり冷たくなったホットコーヒーにちびりと口をつける。

「……。」

「……。」

 …………。

「……ねぇ、私たちもそろそろ……」
 咲夜が口を開いた、その時だった。
 ――あー! 姫、入り口! 入り口みて! ばんきちゃん、いまさら来た!

 ほんと! もう帰ろうとしてたところなのに、いまさら!――。

 妖夢は何か得心のいった様子で、また徐に二度頷いた。咲夜も感じたことは同じだった。
 ――いやーごめんごめん。なんか、来たくなっちゃった。

 来たくなっちゃった、じゃないわよ! こちとらもう帰るところだったのよ!

 影狼ちゃん、まあまあ。ほら、ばんきちゃんも座って。とりあえずなにか注文したら? 何にする?

 いやあ、ごめんごめん。えーっと、洋食でしょ? なんか、肉系のやつがいいなあ。

 あー? だったらほら、ハンバーグとか、あるけど。

 うーん……。やっぱ、カレーで――。

「……私たちも、もう少しだけ、待ってみましょうか」

「……そうですね!」

 咲夜と妖夢は今日初めて、互いの心が快く繋がったのを感じた。二人は少し微笑みながら、コーヒーに口をつける。
「あのー、申し訳ないんスけどー」
 しかしそこに、臨時雇われと思しき黒髪の河童が現れた。
「困るんスよね。出店早々、コーヒーだけで粘られるっていうのは。外の行列を見て、痛みませんか、心。まあ、なにか注文してもらっても、よろしいでしょうか」
 咲夜と妖夢は不意に冷水を浴びせられた気がして、ウェイトレスの声にしゃんと応えることが出来なかった。二人して、いや、あの、えっと、等々、それらに類する言葉をあむあむとさせた。しかし、しっかりと発声するタイミングというのは、不思議と揃った。

「「じゃあ、カレーで」」

「はい、カレーが二つっスね」
 黒髪の河童が気怠げに去って行くのを見送った二人は、顔を見合わせて、ふふ、と笑った。
 二人はなんだか、今にも鈴仙が来るような気がして、ワクワクし始めた。そうして、二人の会話はこれまででは考えられないほど弾んだ。二人は楽しく談笑を交わしながら、朗らかな心持ちで、注文したカレーと共に、鈴仙を待つのだった。

 それから三時間が経過した。

 鈴仙は、未だ来ない。


   ユカリノシキのラン

 「それじゃあ、行ってきます」
 八雲藍が夕飯の買い出しへ赴くべく声を上げると、橙が「いってらっしゃい」と声を上げる。八雲藍はそんな〝いつも通り〟にそこはかとない充足を感じ、靴を履き、片手に買い物袋を認め、上り口の戸に手をかける。ここまでが八雲藍にとってのいつも通り、まさに平穏というものだった。
「待って、藍。私も行くわ」
 そんな平穏を打ち壊すように声を上げたのは八雲紫だった。藍は主人の聞き慣れぬ発言に、されど聞き流すことも出来ぬその発言に、紫色の倦怠めいた衝撃を受けた。
「紫さま、なんでまた、急にそんな」
「たまにはいいじゃない。まさかダメなの」
「いえ別に……紫さまが仰るなら、私は特に……」
 藍は多少の狼狽を敢えて前面に押し出しつつ、むにゃむにゃと主人の言葉に従う旨を述べた。むにゃむにゃとした煮え切らない発声は、正直面倒なのでいやです、の意が含まれていたが、八雲紫は含意に気付くこともなく、それじゃちょっと待ってて、と外出の支度を始めるのだった。
 ――ああ、紫さまはどういうつもりなのか。まあ概ね、最近橙の紫さまを見る目が紫さまをちょっとした〝その気〟にさせたのだろうけど、どうだか。橙は存外聡いから、間の読めないよく寝てる人、って印象はあんまり、変わらないのではないか。むしろ、そんな印象を助長させるだけなのではないか。だいいち、行動がいつも突発的すぎてなあ。買い物についてくるにしたって、だったら初めから支度をしておけばよかったものを、私がもう出るって時に支度を始めるんだもの。……いやいや、主人に対し失礼過ぎるな、私。……それにしても、遅いな。支度にどれほど時間をかけるつもりなのか。そういうところが橙の印象を……いやいや、失礼だぞ、私。私も少し、しゃんとしなきゃな。
 待ち兼ねた藍が一度靴を脱ぎ居間に戻った瞬間、八雲紫の〝支度〟は完了した。橙は〝主人の主人〟の間の悪さを横目に観察していたが、言葉を発することはしなかった。
「それじゃ、行ってきます」
「橙。ちゃんとお留守番してるのよ」
 二人の声に橙が「はーい」と答え、ようやっと、上り口の戸が開かれた。
 ――八百屋に行くのにあんなにめかしこんで、あの人はどういうつもりなんだろう。
 橙の〝主人の主人〟に対する印象は、また一つ低層へ下った。

 …………。
 里の往来は中繁盛といった具合で、多すぎもしなければ少なすぎもしない、ひどくそれらしい塩梅で人々が行き交っている。その往来の中を、藍と紫も歩いていた。
 藍には隣を歩く主人について、その気合の入った風態以外にもう一つ懸念があった。
 ――この人が居たら、八百屋の店主に〝おまけ〟をして貰えないかもしれない。
 藍は無意識の内に統計を取る癖があった。八百屋の店主が〝おまけ〟をくれる確率についても、やはり無意識下で統計を取っていた。
 八百屋の店主がおまけをくれるのは、基本的に客の少ない場合だった。藍以外の客が多い場合――人目の多い場合は、少ない場合と比べると、おまけをくれる確率は半減する。そしてもう一つ、確率が低減する条件が在った。同行人が居る場合だ。同行人が居る場合、店主がおまけをくれる確率は低減に留まらず、むしろゼロになる。藍が橙と共に八百屋を訪れた際、店主がおまけをくれたことは一度もなかった。藍は八百屋が近付いた今になって、紫の同行によりおまけを貰えなくなる可能性に気がついてしまったのだ。
 八雲家において半ば主婦としての役割を担ってきた藍としては、貰えるおまけを貰えないというのはちょっとした問題だった。そう、ちょっとした問題。主人の同行を拒否するには足らない、ちょっとした問題。――しかし藍個人としては由々しい問題だった。おまけの内容は往々にして、彼女の好物である油揚げだった。油揚げでさえなければ、今現在、藍がこうも悶々とすることもなかっただろう。
「……あの、紫さま」
「なにかしら」
「……いえ、なんでもありません」
 ――おまけ欲しさに主人を帰らせるなんて間違っている!
 藍の良心は喉元までこみ上げた「ちょっと、帰ってもらえます?」の言葉を押し留めた。
 しかし、飲み込むには足りず。
 藍は八百屋に着くまでの間、悶々と、油揚げの誘惑に揺れ続けた。

 …………。

「ちょっと、帰ってもらえます?」
 八百屋に到着するや否や、藍は誘惑に敗北した。紫は藍の言葉を聞くと、なにかショックを受けた様子で、やおらスキマを開きのこのこと自宅へ帰っていったが、藍にはそんなことはどうでもよかった。
 ――乾坤一擲、おまけを貰える確率をゼロから五分五分へと押し上げたのだ。私は今日どうしても、油揚げが食べたい。
 八百屋にはそこそこの客がうようよしていた。藍の統計から言えば、おまけの確率は五分と五分。藍は持参した買い物袋をぎゅっと握り、どこか威勢良く、八百屋へと飛び込んでいった。

「コレと、ソレと、アレをください。あとソレも。ああ! あとアレももらっちゃおうかな!」
 藍には一つ考えがあった。たくさん買い物をすれば、五分と五分の確率を上回れるのではないか。普段必要以上の買い物をしない藍に、その作戦の効果の程は分からなかったが、藍はどうしても、おまけが欲しかった。否、貰わなければならなかった。その為に、自身の主人を帰らせたのだ。貰わないわけにはいかなかった。
「お、今日はたくさん買ってくれるねえ!」
 ――きた!
 藍は続く言葉を瞬時に予想する。
 ――『じゃあ、おまけもいっぱいつけちゃおうかな!』……こうだ。こう続くに、違いない。

「あら? 今日はお嬢ちゃんは一緒じゃないのかい」
「あ、ああ、橙には、今日はお留守番をしてもらってます」
「ふうん、そうかい……」
 店主の予想外の発言に、藍は狼狽した。しかし、もう藍に出来ることは何一つ無い。あとはただ、買い物袋に品物を詰めてくれる店主を見つめることしか出来ない。
 品物を詰め終わった店主が藍に買い物袋を渡す。
「はい、毎度! 〝おまけ〟しといたから、帰ったらお嬢ちゃんにあげてやりな。きっと、喜ぶよ」
「あ、ありがとうございます!」
 藍は店を出て、臆面も恥じらいもなく、買い物袋を検めた。
 ――橙にあげると喜ぶもの、そんなものは一つだ。それは、油揚げに違いない。
 藍は買い物袋を漁った。
 その場で五分ほど、漁り続けた。

 油揚げは無かった。
 代わりにあったのは、藍にとってはようわからん洋菓子。飴玉とか、チョコだとか、そこらへんのものだった。

 藍は飴玉を一つ舌の上に転がした。悲しい味がした。
 悲しくて、悲しくて、藍は家に着くまでに、おまけの洋菓子を残らず食べ尽くしてしまったほどだ。
 結局、家に着いた藍に残ったのは、主人との軋轢と、主人間の軋轢に震える、橙の慄然とした表情のみだった。

 その日の夕飯も、やはり。
 とても、悲しい味がした。


   赤蛮奇が来た!


「いやー、不思議だよなあ。妙に、変だなあ」
 今泉影狼は、席に着いてからというもの延々と話し続ける赤蛮奇の、どこか間延びした口調に辟易としていた。
「姫もカレーを食べていたなんてな、私はそれを知らないのに、偶然、同じものを注文したわけだ。や、不思議だなあ。妙に、気が合うんだよなあ」
 影狼は眉間にしわを寄せ、頬杖をつきそっぽを見ていた。
 ――それは、あんたが姫の好物がカレーだってこと、知ってただけのことでしょうに!
 赤蛮奇の大袈裟な論調に、わかさぎ姫もでまんざらでもなさそうに、ほんと、不思議ねえ、なんてはにかむものだから、影狼は救われなかった。
 赤蛮奇とわかさぎ姫は殆どデキていた。影狼がそのことに気がついたのは約一年前。影狼はそれからずっと、二人の煮え切らないぐずぐずのジャムのような関係に、辟易とする日々を送っていた。
 本人の居ない間に、影狼がわかさぎ姫の前で赤蛮奇の性格的問題を指摘し続けるのは、かつて影狼がわかさぎ姫に恋心を抱いていた頃の名残でもあった。されど赤蛮奇の間の悪さ、自由奔放さは確かにあまりある問題ではあったので、わかさぎ姫が赤蛮奇に抱くイメージを是正するために、というのもあった。
 しかし、そんな赤蛮奇も影狼にとっては〝仲の良い〟友人だった。仲の良い友人が、自分なりのペースをもって歩む道程を真剣に阻むことは、〝友人思い〟の影狼には難しいことだった。
 ――でも、こんなてきとーろくろ首の、どこがいいのやら。
 わかさぎ姫は遅れてやってきた間の悪い赤蛮奇を責めることも無く、ただひたすらに繰り出される赤蛮奇の〝なんか、妙に気が合うよね〟に、はにかみながら同調している。わかさぎ姫は多少、蚊帳の外の影狼を気遣うような素振りを見せてはいたが、当の影狼にとっては、それが逆に辛辣でもあった。
 影狼の瞳に映るわかさぎ姫の表情は、なんだかんだ言っても〝まんざらではなさそう〟だったし、それは〝止めないでほしい〟という表情にも見えた。実際、わかさぎ姫は、陽炎に申し訳ないのと、止めてほしくないので、半分半分の心持ちだった。
 なので影狼は二人の煮え切らないやり取りを聞き流す他出来ず、ただただ頬杖をつき、辟易とした面持ちで、右方の虚空を眺めていた。
 ――しかしそれにしても、ほんと。ムカムカしてくるわ。ばんきちゃんのアプローチは相変わらずズレにズレまくってるし、わかさぎ姫はわかさぎ姫で、まんざらでもなさそうだし。とっとと付き合ってくれたなら、この惚気も多少マシな気分で聞けるんだけど。
 赤蛮奇はカレーにパクつきながら、今度は「なんか、妙に目が合うようね」なんてことをわかさぎ姫に宣っている。わかさぎ姫はやはりまんざらではなかった。
 爪切りで爪を切って、僅かに繋がった爪がぷらぷらとしたなら、誰だって、それを放っておくことはしない。影狼はいっそ、とっとと〝二匹と一匹〟になって仕舞えばいいと考えていた。
「いやあ、最近なんだか、目が合うんだよなあ。なんでだろうなあ」
「ど、どうしてかしらねぇ……不思議ねぇ……」
 ――たんに、目が合うまで見つめてるからでしょ!
 影狼が内心で二人のやり取りに突っ込みを入れた、その時だった。

「なあ影狼、なんでだと思う?」

 ――あ?

 それは、影狼にとって衝撃だった。赤蛮奇はこれまで影狼の眼前で、何度もこういった惚気を展開してきたが、影狼に意見を求めたことはなかった。影狼はいつも蚊帳の外だったのだ。不意の「なんでだと思う?」の一言で蚊帳の内側へ引き摺り込まれた影狼は、酷く狼狽した。

「なんで、って、そんなの……」

「……そんなの?」

 わかさぎ姫はおずおずと、影狼に発言を促す。
 ついにこの時がやってきた。赤蛮奇とわかさぎ姫は、いよいよもって二人の関係の進展、そのきっかけを、今泉影狼に求めたのだ。
 二人が影狼に求めている言葉を、影狼は理解していた。
 もう、付き合ったらいいじゃない。二人はこの言葉を私に求めているのだ。
 ――だからってそれを私に言えっての! たまったもんじゃないわ!
 影狼は憤った。この一年近く地獄のような惚気に耐え、挙句二人の関係の〝裁定者〟に祭り上げられるなど、影狼には堪えきれなかった。

「そんなの、私に分かるわけないでしょ」

 ……。

 影狼が裁定者の鉄槌を下さなかったことにより、三人のテーブルの上は混沌で溢れかえった。

「うーん、影狼もわかんないなら、私にはやっぱり、わかんないんだなあ。姫、わかる?」

「私もちょっと、影狼ちゃんにわかんないなら、その、わかんないかも、しれない」

「だよなあ、影狼にわかんないんだもんなあ。わかるわけないよなあ」

「影狼ちゃんにわかんないなら、ねえ。その、わかるはず、ないものね……」

 二人はどういう気持ちで喋っているんだろう。影狼には分からなかった。ただ影狼にわかるのは、二人は未だ、自身に二人の関係の裁定を委ねようとしていることのみだった。
「なあ影狼、やっぱりわかんないかな? どう思う?」
「でも、ばんきちゃん。影狼ちゃんはさっき、わかんないって……」
「いやでもさ、なんか、やっぱり分かってるんじゃないかなって思って、影狼なら」
「そ、そうなの?」
「うん、なんとなく。そんな気がする」
「いえ、でも……」

「……ああ! もう! いい加減付き合ったらいいじゃない!」

 影狼は堪えきれず、裁定者の役割を果たし、その役割からとっとと解放されることを選んだ。
「……えっ、そんな、付き合うだなんて! な、なあ姫。影狼はこんなこと言ってるけど……」
「か、影狼ちゃんたら、急に、何言い出すのよ、そんな、急に!」
「……。」
 役割から解放された影狼は、スッとした心持ちで頬杖をつき、右方の虚空を見つめていた。
 ――やってたらいいわ。私は言うべきことは言ったし、もう、あとは二人で、勝手にやってたらいいわ。

「いやでも……姫。影狼の言う通り、ちょっと、ちょっとだけ付き合ってみるっていうのも、その、アリなんじゃないか」
「ば、ばんきちゃん……」
「姫、その、どうだろう。ほんと、ちょっと、ちょっとだけ」
「……ちょっとだけって、どのくらい?」
「えっ、と、どうだろう。この秋いっぱいとか、そこらへん? いやでも、もし、もし姫がいいなら……」
「ばんきちゃん……」
 こうして、赤蛮奇とわかさぎ姫は結ばれた。しかし、二人は気付いていなかった。今までの表面的な馴れ合いの中に埋没していたさまざまな問題。住む場所の違い。本質的な価値観の違い、それに伴う互いへの苛立ち。種族の違い。同性のジレンマ。現在、二人の思考にはただ、一条の光が在った。
 愛さえあれば大丈夫。
 これからの二人は、これからの二人にのみ作られていく。

 ――また、影狼にも二人の痴話喧嘩の都度、裁定者の役割を担わされる未来があったが、役割から解放されたばかりの、半ば全てがどうでもいいような、投げやりな気持ちで頬杖をつき欠伸を噛み殺す影狼には、そんな未来を、知る由もなかった。




   鈴仙は来なかった

 雲ひとつ無い黒い空に、星が疎らに散らばっていた。閉店したレストランの外、その入り口そばに二人は立ち、黒く広い空に浮かぶ、美しい星々を眺めていた。
「星って、こんなに明るかったのね」
「……本当。きれいです」
 薄く欠けた月の鈍い光よりも、散らばった星々の方がずっと明るい夜だった。咲夜と妖夢は今日、レストランの開店九時から閉店の二時まで、ずっと、鈴仙を待っていた。しかし、鈴仙は来なかった。なぜ、来ないのか。二人はその理由を考えることは、もう、しなかった。
 外は少し肌寒く、妖夢は薄ら白い息を吐いた。
「……この季節になると、そろそろ冷えるわね」
 咲夜は自身の両の手を擦り合わせながらも妖夢を気遣った。妖夢は「いえ、慣れてますから」と微笑んで、両掌を吐息で暖める。
 気付けば、二人はまともに会話を交わせるようになっていた。互いに、それがいつからかは分からなかったが、二人の間に、気まずい沈黙はもう無い。
 テーブルとドリンクバーとレストルームを行き来することのみに終始した一日ではあったが、二人は、どこか心地よい疲労感に包まれていた。
 妖夢は、幼い頃、主人とその友人達の宴会に初めて連れていかれた時のことを思い出す。酒などはまだ呑めず、大人達のよくわからない会話や、笑い声といった喧騒の中、眠気に耐え、やっと外に出たときの感覚が、妖夢の胸中を過ぎった。
「この夜の匂い。……なんだか、小さい頃のこと、思い出しますね」
 同意を求められた咲夜は、微笑みながら頷き、応える。
「……ええ、そうね」
 咲夜に、そんな経験はなかった。しかし、心地よい疲労のせいか、咲夜は、自身にもそんな小さい頃の思い出があったような錯覚がしたのだ。
 咲夜は星空を見上げる。そこには、やはり眩い星々が在った。星々の中に、咲夜は一瞬、鈴仙の顔を見たような気がしたが、それこそ本当に錯覚だった。それでも、咲夜は一つ確かなものを見つけた。それは、本当に僅かかもしれないが、魂魄妖夢との〝友人の友人〟以外の関係、そのとっかかりだった。
 咲夜は薄く微笑みを浮かべながら、妖夢に問いかける。
「……ねえ。今度二人で、どこかに行かない?」
 妖夢はゆっくりと、頷きながら、応える。
「……ちょっと、いやです」
 妖夢はちょっといやだった。
 咲夜も冷静になって考えると、同じくちょっといやだった。
 何せ咲夜と妖夢には話題が無い。否、無いわけではないのだろう。ただ二人は、鈴仙ほどお喋りが得意ではなかった、と、いうのも少し違うかもしれない。二人に共通する話題はたしかに有った。
 ――鈴仙・優曇華院・イナバ。
 二人にとって共通の話題といえば、それだった。けれど、咲夜と鈴仙が会う際は、当然、妖夢もいるし、妖夢と鈴仙が会った際にも、当然、咲夜がいた。互いに全容を把握している会話を交わすというのも中々妙な気がして、二人は鈴仙をダシに会話をすることは出来なかった。無論、鈴仙がなぜ来ないのか、なんて言葉を口に出すのは、その何倍も有り得ないことだった。
「じゃあ、また、鈴仙を待ちましょうか」
「はい。……今度、鈴仙さんが声をかけてくれるのは、いつになるのでしょうね」
「……さあ、いつになることやら」
 二人はまた、ふふ、と笑った。
「それじゃ、帰りましょうか。一人で帰れる?」
「はい、大丈夫です。咲夜さんこそ、風邪をひかないよう、お大事に」
 では、と妖夢がレストランを去るのを見送って、咲夜も歩き始める。それは静かな夜だった。人の気配も無ければ、風も無い。ただ少しだけひんやりと、空気が肺を湿らせた。
 帰り道、咲夜と妖夢は今日を辿った。不思議と、悪い気分ではなかった。ただ少しだけ、妙だった。
 ――どうしてこうも、清々しい気分なのか。
 二人にとって、それだけが妙だった。されど二人はそのまま、妙に清々しい気分のまま、家路を辿るのだった。


 鈴仙は来なかった。
 朝、目が覚めると休日は終わり、咲夜と妖夢は瞬く間に日常に戻った。
 咲夜は吸血鬼の主人や、降り積もるタスクや埃の山々と。
 妖夢は腹ぺこの主人や、積み重なっていく食器や食材の山々と。
 二人は、小さな幸福と、小さな不仕合わせが星のように散りばめられた日常を、ゆっくりと、また、忙しなく、送り続けた。

 そう。

 鈴仙を、待ちながら。



   神意の雨

 夜半。
 昼から降り続く陰鬱な雨はやおらその勢いを増し、草木生い茂る森の中を湿らせていた。
 静かな森の中、雨はじんわりと、森の静寂を縁取っている。森の中には一つ、柔らかな灯りが灯っていた。それは屋台の灯りだった。屋台では、網の上に八目鰻が焼かれていたが、煙と香りは雨に溶け、小さな灯りだけが屋台の輪郭を曖昧に縁取っていた。
 そんな、柔らかく心許ない灯りの中に、二つの影が在った。
 影は幾分情緒無く、朗らかに会話を交わしていた。
「なんだ。貴女、神様じゃなかったのね」
「そう、私はただの貧乏神。あなたの探してる神様とは、ちょっと違ったかもしれない」
 古明地こいしと依神紫苑。二人は何度かの雨宿りを経て、ようやっと、腰の落ち着ける屋台を見つけ、言葉を交わしていた。
 ようやく〝神様のおはなし〟が聞ける。期待に胸を躍らせたこいしが紫苑から告げられたのは、〝あのときはちょっとどうかしてたの、ごめんね〟系の、謝罪とも、開き直りともつかぬ文句だった。やっと神様を見つけた、と胸を躍らせていたこいしにとって辛辣な貧乏神のカミングアウトは、こいしを子供らしく憤らせるには十分だった。
「あーあ。こいし、騙されたんだ。全部を決めてる神様だ、って言うから、ご飯だって食べさせてあげたのに」
「ごめんね」
「お酒だって、のませてあげたのに」
「ごめん」
 八目鰻と日本酒で空腹を満たして心の落ち着いた紫苑は、日中こいしと出会った際の自身の言動を、多少後悔していた。
「あーあ。やっぱり、神様なんていないのかな……」
 紫苑は思うところがあった。
「神様ってさ、いないから、いるんじゃないかな」
「……よくわかんない」
 紫苑の思うところはこいしには伝わらず、ただただこいしの遣る瀬無さを助長させるのみだった。
 そして一人。
 二人のやり取りに憤ってる者が在った。
 ――早く帰ってくれないかな。
 屋台の店主、ミスティア・ローレライである。
 ミスティアは今日の雨天に客足の減ることを確信し、暮れもそこそこに店を閉めようと考えていた。そこにやってきたのが古明地こいし、依神紫苑の二人だった。それから二人はこの夜中まで居座っていた。ミスティアとしてはたまったものではない。
 ミスティアも何もしなかったわけではないが、お客さん相手に〝帰ってくれ〟と言えるほど豪胆ではないミスティアにできたことといえば、二人分の茶漬けを提供することぐらいだった。茶漬けを完食した二人は「しょっぱいものを食べたら甘いものが食べたくなる」と言い、ミスティアに八橋を要求した。ミスティアは引いた。
 しかし、何も二人が普通のお客で、普通の会話をするのであればミスティアもそういった手段を講じることもなかっただろう。ミスティアに茶漬けを出させる要因となったのは二人の会話だった。
 ――神様がどうのこうのって、馬鹿げてる!
 ミスティアは神様が嫌いだった。原因は間違いなくかつてミスティアが組んでいたバンド、その解散理由にあった。バンドメンバーが宗教にハマったのだ。ライブ当日、読経があるから、と土壇場キャンセルされたことが、解散の直接的な原因となった。
「その、神様なんてみつけて、どうするつもり?」
 紫苑がこいしに問いかける。
「……お姉ちゃんに、カレーを作ってもらうの」
「そんなの、神様じゃなくてそのお姉ちゃんに頼んだらいいのに。私だって、妹に頼まれたなら、いくらでも作るもの。……お金さえあれば」
「帰れないんだもん」
「どうして?」
「だって、こんなに雨が、降ってるもん」
 屋台の侘しい灯りの外で、雨は既に泥濘と化した地面を、また、草木を、打ち続けている。
「雨が止んでから、帰ったらいいじゃない」
「帰れないの!」
「……どうして?」
「……帰りたく、ないんだもん」
「……そう」

 三人は神を探していた。

 古明地こいしは、なんでも出来る、雨だって止ませられる、絶対的な神を。
 依神紫苑は、自身の貧困に、不可逆的なケリをつけてくれる神を。
 ミスティア・ローレライは、二人を帰してくれる神、……かつてのバンドメンバーとの仲を再び取り持ってくれる神を。

 しかし、屋台の灯りの外側では粛々と、雨が降り続けるのみだった。


   「緑の瞳に映る恋~青春パンク編」

   序


「あたしが思うに、やっぱりさ、優しいとか顔が良いとかよりさ、誠実なのが一番だよ」
「ああー、そこね、そこ大事だね」
 薄暗い洞穴の中、地面には椅子替わりの桶がいくつか置かれている。壁には数多に組み込まれて太くなった蜘蛛の糸が張り巡らされており、その蜘蛛の糸には所々に棚の役割を果たす桶がぶら下がっていた。三、四つの椅子に囲まれたテーブルは桶ではなかったが、らしく御誂え向きに古びていた。
 私はそんな椅子のうちの一つに腰をかけ、友人である土蜘蛛と釣瓶落としの〝いつもの〟話を黙って聞いていた。二人の話題といったらいつもこれで、初めはとりとめのない近状などを交わしていても、気がつけばいつもこうなる。
「パルスィは?恋人に求めるもの」
「……別に。私は特に無いかな」
 私はこういった話が苦手なわけでは無いが、だからといって好んでもいなかった。
 天気の話の方がまだ楽しめる。それぐらいだ。
「さすが、パルスィは大人だよねー」
「大人というか、冷めてるというか。まあ、人それぞれだからね」
 土蜘蛛、黒谷ヤマメは私が先程のような返答をすると、いつも決まって「人それぞれ」と発する。私はその言葉がどこか憐憫を含んでるような気がして、いつも得も言われぬ理不尽さを感じるのだった。人それぞれならば、人それぞれを強調する必要はないのではないか。結局、大人やら冷めてるやら言いながら、ヤマメやキスメのような経験豊富な者から見れば私はただの生娘に映るのかもしれない。
 確かに、私はまともに恋というものをしたことがない。しかしだからといって、それを知らないわけでもない。私は知った上で、それを取るに足らないものと考えていた。
「でもさでもさ、誠実さとか、心も大事だけどさ。結局はあれだよね」
「間違いないね。あはは」
 二人の話が形状やら面積やら角度やらの、所謂肉体的接触についての話に移行するのもいつものことだった。こうなるともう私は蚊帳の外で、いつ消えても二人は気がつかない。
 しかし、二人の知らぬ間に私が消えると、後日二人は私に対してあんまりに申し訳なさそうにするので、しばらくは黙って聞いていた。されど二人の経験談を交えて語られる赤裸々な、一糸纏わぬ汚れなき会話は延々と続き、私はいよいよ辟易として、そっと席を立つのだった。
 洞穴を出て、旧都の方角へと歩く。なぜあんな話を大声で話せるのか。私はふと、以前キスメに言われた一言を思い出した。
 ――もしかしてパルスィ、こういう話好きじゃなかったり、する?
 好きではなかった。しかし嫌いというほど、私はそういった話に対して潔癖じゃないし〝綺麗で清潔なもの〟でもない。なので、その場では嫌いではない、とそんな具合に返答をした。なにより、私が私自身を〝綺麗で清潔なもの〟と考えていると、二人にそんなふうに思われるのが嫌だったのだ。
 だったら、私も話に混ざればいいのだけれど。
 気付けば目の前まで来ていた橋の手すりに肘をついた。
「ああ、妬ましい」
 そうして、私の口からは、半ば口癖と化したいつものそれが意味もなく溢れていた。
 橋の上から眺める川は、今日も汚濁に淀んでいる。ガラクタやら骨やら肉やらが大量に流れていくその川は、もはや川と形容するには汚れすぎていた。私はそんな川を眺めながら、薄っすら生臭さのある空気を肺いっぱいに吸い込んで、吐き出した。
 頭上に開いた地底で唯一の大きな風穴から覗く遠い空は、淀んだ灰色をしている。私は特に何を考えるわけでもなく、しばらくの間橋の欄干に肘をついて、ぼんやりとしていた。

 いつまでそうしていたかは分からないが、気がつくと私は旧都の目抜き通りを歩いていた。通りの入り口付近は情けない妖怪や鬼の為に、また似たような鬼や妖怪たちが八百屋総菜屋等それらに類する店を営み連ねていた。その連なりの中に青果店も在ったが、その青果店はとりわけ高級な部類の店で、あまり客は入らない。老いさらばえた人外達、持ち合わせの無さそうな若いのが安いコロッケや安い野菜に群がる中に、人の寄らぬ青果店がぽつん、とあるわけだ。その青果店は〝古明地の〟を始めとして地霊殿の連中が贔屓にしているらしいが、私はその青果店にも総菜屋にも用はなかった。
 目抜き通りを進むと、立ち並ぶ店の面構えがどんどんあやしくなってくる。妙に安い衣類や、用途の分からないガラクタなどが剥き出しになって店先に陳列され始めるのだ。その中にあるタイトルの貼られていないビデオ――VHSというらしい。私はこれを再生する機械を持っている。――を見かけるたびに私は少し興味を惹かれるが、やはりタイトルの分からないものを買う気にはなれなかった。というのも、私はたまに映画を観る。本当にごく稀にだが、殊興味を惹かれたものをこの旧都で探し回って購入する。現在こうしてここを歩いているのも、それに付随する理由が在ったからだ。付随というよりも、本来はそちらが主たる〝趣味〟だった。
 私はあやしく立ち並ぶ店の一つに入っていった。店内には楽器を演奏する人間の描かれたポスターやらよくわからん楽譜やらが乱雑にごった返している。しけた木製の棚にはレコードや、これまたよくわからない円盤の入った薄い箱――CD‐ROMというらしいが、私はこれを再生する機械を見たことがない。――が並べられている。
 私はそれらには目もくれず、狭い店内の端の方の狭いスペースに向かい、新たに入荷されていた〝それ〟の二冊を手に取り、店主に小銭を数枚投げて店を出た。
 それから私は通りの外れにある公園へ向かった。その公園はどの公衆の為にどの機関が設けた広場かはわからないけれど、少なからず地霊殿の管理する所ではないという。
 公園はフェンスによって真四角に囲まれていて、入り口の傍のフェンスには『夜間進入禁止』の看板が貼り付けられていたが、昼も夜もないこの地底でこんな看板は意味を成していない。挙句、公園に設置された照明も一日中休むことなく照らされているので、私はその看板を見るたびにちぐはぐな印象を感じずにはいられなかった。公園はそこそこの広さを有している。地面は赤茶の土だったが、生意気にもフェンスの内側を沿うように草木が茂っていた。公園の中心から東西南北の四方にベンチが設置されていて、私はそのうちの一つに腰を下ろした。
 公園の入り口に自転車が置かれていたのが気になったが、理由はすぐにわかった。私の座った向かいのベンチに若い男女が仲睦まじく座り、談笑をしていたのだ。この地底で地上でもまだ珍しい自転車を見るなんて、と思っていたけど、若い男女なら納得できる。おおよそ、地上の男女が自転車に二人乗りをする姿に憧れたのだろう。地底に住むやつにしてはなかなか健全で、うん。なかなかよろしい。
 私はそんなことを考えながら道中買ったソーダ水に口をつけた。ソーダ水は薄く赤く、そして甘かった。おそらく赤くて甘い何かを割ったものなのだろう。品書きにはソーダ水としか書かれておらず、未だに何が入っているのかわからないままでいた。未だに、というのも私は存外これが気に入っていて、この公園に来るときはいつもこれを買って来るのだった。
 私はソーダ水を口から離して、脇に置いた。いよいよという気分で店で買った二冊のそれを眼前に持ってくる。
「おおー」
 二冊の〝洋画のパンフレット〟を交互にみやり、私の口からは思わずそんな声が漏れ出ていた。しかし、私はそれほど感動しているわけでもなかった。これは半ば無理やり趣味を探した結果、気づけば習慣と化した趣味であり、同時にこの感嘆も習慣の一部なのだ。パンフレットは薄いビニールで梱包されていて、ビニールが照明の光を反射してテカテカとしている。よく見るとパンフレットには小さく折り目がついてしまっていた。袋にも入れず手で持ってきてしまったせいだろう。私は何度か同じ過ちを繰り返しては、家に帰りパンフレットにアイロンをかけながら、やっぱり袋をもらっておけばよかったかなと、反省するのだった。
 パンフレットは白いくたびれたシャツをきた白人の少女が石のブロックに座っているものと、これまた白人の金髪の青年がイヤフォンを付けてなにやら踊っているような場面を切り取った絵が描かれているものの二冊だった。奇遇にも二冊のパンフレットに書かれたタイトルはピンク色で、〝F〟から始まるものだったが、あとはごちゃっとしていて読み取れなかった。実を言えば私は英語が読めないのだ。それでも、パンフレットを開いて映画の内容を想像するのは楽しかったし、表紙の一枚絵を眺めるのも面白かった。早速ビニールの梱包を開いて中を見てしまおう、私がそう考えたときだった。
 私の視界の端に、不思議なものが映ったのである。
 視界の端の〝不思議なもの〟に視線を移し注視すると、それは奇妙な光景だった。先の向かいのベンチに座る若い男女が〝A〟をしているではないか。私にとって、それはとても奇妙な光景だった。果たして私が向かいのベンチに座っていることに気がついていないのだろうか。しかしよくよく考えてみれば、あの二人は盲目のアベックなのかもしれない。私は自分の浅慮を恥じた。そういうことなら、仕方ない。むしろ悪いのは私の方だ。
 私が盲目の二人に対し申し訳なく思いつつ席を立ったそのとき。
 〝A〟をしている男と〝目があった〟。瞬間、私は猛烈に腹が立って、彼奴等の停めていたママチャリを出来るだけ大きい音が鳴るように蹴飛ばし持ち主達が恐れ慄き公園から立ち退く様を妄想、しつつ公園を後にした。実際にそんなことはしない。
 公園を出て、私は家路を辿る。目抜き通りへ抜けて、通りを出れば、橋を渡る。そうした帰路の最中、私は所謂恋愛について考えていた。
 かつて恋愛は、私の空想の世界において赤いイメージを保っていたが、いつのまにかその色はくすんでいた。時としてそれは、限りなく黒に近い緑色の汚濁に塗れて見えることさえあった。連想の流れの中で、恋愛なんて綺麗なものじゃない、なんて、そのような〝よく聞く言葉〟が私の脳裏を何度も過ぎった。
 しかし、趣味でパンフレットを集める最中に私が気付いたのは、恋愛映画の多さだった。私はパンフレットのみを集めるだけで、それ自体はあまり観たことはなかったけれど、恋愛映画の多さの理由は分かった。単純に、それを観る人間が多いからだろう。パンフレットに描かれる男女や、切り抜かれたシーンはどれも綺麗で、なんとはないロマンを感じた。だから、それを観る大勢の人間が期待しているのは〝綺麗な恋〟なのだと思う。それがどうして、実際色恋に絡まった人物は口を揃えて「きれいなもんじゃない」なんて言って、意味ありげな微笑を浮かべるのだろう? 私には、その理由はなんとなく、色恋の色にあるように思えた。
 そも恋愛の付属品のように扱われている肉体的接触は、果たして必要があるのだろうか。別に、それ自体を否定するわけでもない。経験はないが、それ自体は汚いものではないのだろう。きっと、恋人同士で抱き合って眠るのは、恐らく幸せなことに違いない。では一体、何が恋愛を綺麗さから遠ざけるのだろう。
 ああ、もしかすると、あの目かもしれない。先程公園で目が合った、男のあの視線。あの視線が、私を辟易とさせるのみならず、色恋沙汰の行間に曖昧に突き刺さる、魚の骨なのかもしれない。
 こんなことを考えていると、自分の自画像がコウノトリやキャベツ畑で彩られていく気がして、とても馬鹿馬鹿しい気分になった。しかしそれでも、〝綺麗なものではない〟と分かっているのなら、せめてそれを出来る限り綺麗にしようとは思えないのだろうか? これほど多くの人や妖怪がいたのなら、綺麗なだけの恋が一つぐらいあってもいいじゃないか、と、私の思考はそのように、遊泳を続けたのだった。
 我があばら家に着く頃に、私が導き出したのは〝私に恋愛は解せない〟という結論だった。も、どーでもいーや。そもそもどーでもいい。そんな投げやりな心で弾みをつけて、私は自宅の戸を開けた。
 家について木板を踏みつけ、部屋への敷居をまたぐ。褪せた畳は日頃清掃をしていても、どこか汚れた印象があった。部屋の隅の方に置きっ放しのアイロン台にて、慎重にパンフレットについてしまった折り目を伸ばした。無事折り目の伸びたパンフレットはどこかパリッとした感触を帯びて、私にそれを開くのを躊躇わせた。このまま仕舞ってしまおうか。悩んでいるうちにお腹が空いたことに気がついたので、ご飯を食べてから決めることにした。

 なんだかんだで、私はベッドの上にて二冊のパンフレットを開き、それを交互に眺めている。英語は読めないが、何とはない異国の情緒に想いを馳せるのは楽しかった。
「こっちの映画と、こっちの映画は、同じ国が舞台なのかな」
 それすらわからなかったけど、どちらのパンフレットの映画も観たことがない私にとって表紙に描かれた青年と少女はどこかお似合いな気がして、でっちあげたキャラクターや関係を二人に当てはめては空想に耽った。そのうちに眠気がやってきたので、私はパンフレットを閉じて、専用の棚に仕舞って眠ることにした。
 棚の中には今まで集めたパンフレットが色ごとに分けられていて、赤っぽいの、緑っぽいの、白っぽいの、黒っぽいの等々、それぞれが割合整然と並べられている。灰色などの中間色にはいつも悩まされるのだが、今回買ったパンフレットの二冊はどちらも明確に白か黒で区分できた。くたびれたシャツを着た少女の描かれた白いパンフレットは白っぽいところに重ねて積んで、踊る青年の描かれた黒いパンフレットは同じように黒っぽいところに重ねた。そうしてその日、私はようやくすっきりした気持ちになって、眠りについたのだった。

「トランプぐらいしかないけど」
「ダウトやろうよ、ダウト」
 数日経って、私はまた洞穴の中の桶に腰を下ろしていた。それぞれの席には互いが軽く向かい合うようにヤマメとキスメが座っている。
「三人でやったって仕方ないでしょ」
「わたしは意外と、楽しいと思うけどなー」
 ダウト、と呼ばれるゲームのルールを知らなかった私は黙って二人の会話を聞いていた。別に、ヤマメやキスメと遊ぶのが面白くないわけではない。この前勝手に帰ってしまったことも別段問題にならなかったことを、私は安心しているくらいだ。ただ、私にとって最近の二人はどこか違和感があった。なにかイヤに上機嫌なのだ。今日なんて、二人は上機嫌に手を繋いで私の家の前までやってきたほどである。そんな上機嫌な二人に対して「ルールを知らない」などと言おうものなら、面倒なことになる気がして、私は極力余計な口を挟まないように努めているわけだ。
「ポーカーは?」
「いいね。なに賭ける?」
「命」
「物騒だよー」
 ポーカーは知っていた。映画で見たことがある。なんなら一度、やってみたくてたまらなかったくらいだ。あの映画は、何回か見返したっけ。まあそれでも、パンフレットを眺めてた時が一番楽しかったけれど。
「わたしは桶を賭けるよ」
「じゃあ、あたしは糸を賭けよう。パルスィは?」
 二人してずるかった。キスメはまだいいとして、ヤマメに関してはノーリスクじゃないか。そりゃ、何かしら負荷はあるのかもしれないけど。
 私は仕方なく現金を賭けることにした。悲しいかなわたしにはそれ以外の持ち合わせがなかったのだ。
「さっすが、パルスィは大人だなあ」
「クールだね、飄々としてるね」
 二人して私の金をもう手にしたような笑みを浮かべている。私はポーカーの経験こそないが、しかし何がどうして自信はあった。見てろ、桶と糸を全て掠め取ってやる。いらないけど。
「お、パルスィが何だか自信ありげな感じだ」
「わたしは負ける気がしないよ」
 キスメの自信たっぷりな発言で多少怖気付いた私は或ることに気づいた。私は、三人でやるポーカーを知らなかった。特に信心の持たない私だったが、この時ばかりは心の中で祈ってしまった。ああ猿田彦よ。どうか私の財布を……。

「ぐえー。もう糸でないよう」
「わたしの桶がすっからかんだよう。まあ、元々何も入ってないけど」
 勝負は私の圧勝だった。桶と糸が、私の傍に積み重なっている。三人のルールは案外すぐに解ったし、入る手によってコロコロ変わる二人の表情はもはや私を呆れさせた。神に祈るまでもなかったかな。私は先程猿田彦の膝下に置いてきた信心が何となく惜しくなって、心の中でそれをさっと取り返しては懐に収める様をイメージしてみたりした。
「うう、パルスィはこういうの強いんだなあ」
「ほんと。私たちの手、全部読まれてるみたいだったね」
 勝負の最中、二人をよく観察――今となっては、〝よく観察〟するまでもなかったな、と思う。――して気付いたことがある。二人の席が、やたら、近い。最初は、なにか二人で談合して私の現金を奪う策略かと考えたのだが、一寸経つと、どうやらそうではないと分かった。そうしてすぐに、二人の席の近さこそが、最近の二人に対して私が抱く違和感の正体なのではないか、と、そう思い至った。
「ポーカーはもうだめだな、他のゲームをやろう」
「わたしはポーカー以外なら、誰にも負ける気がしないよ」
 キスメの自信をポーカー同様に砕いてやることにも興味のあった私だが、一先ずは気になる二人の席の近さについて、遠回しに尋ねてみることにした。
 すると二人は「あれ?」といった顔を互いに向き合わせたのち、私に向き直って「あれ?」と言葉を紡ぎ始めた。
「言ってなかっけ? あたしたち、付き合ってみることにしたんだ」
「うん。話してるうちに〝ふぃーりんぐ〟が合うんじゃないかって。ね?」
「ねー」
 二人があんまりさらっと述べるものだから、私の中のあらゆる思考に先立って「なんとなく、ずるいな」という感慨だけが湧き上がった。
 その後出来る限りの平静を繕って、いつも通りに二人と別れた私は一人、旧都へと歩き始めた。二人と別れて旧都へ向かうのも、半ば習慣のようなもので、旧都へ向かう最中、あれこれと考え事をするのも、いつもの癖と云っても過言ではないだろう。

 ヤマメとキスメが付き合い始めたからといって、二人にしてみれば、私はひとりの友達であることに変わりはないのだろう。私にとってもそれは同じで、二人は私の友人であることに変わりはない。でも、或いはだから、私からすれば、二人はなんとなくずるかった。もちろん、どちらか一方が羨ましいとか、妬ましいとか、そんな気持ちはない。もともと〝いつもの三人組〟というわけでもなかったけど、こんな風に急に、明確に、二人と一人となってしまったのが、私にとって寂しかったし、面倒だった。
 しかし実際、それほど寂しかったわけでもなければ、面倒だったわけでもない。……とは言ってみたものの、本当のところは私にも分からなかった。私は何にしたって、いつもこうだった。
 例えば昔、なにかの記念日に――私の誕生日だった記憶があるが、私は自身の誕生日を覚えていない。――ヤマメとキスメが盛大にサプライズパーティーを開いてくれたことがあった。クラッカーを鳴らされたとき、飛び上がるほど嬉しかったけど、飛び上がるのはなにかが違う気がして、私はそこまで驚いていないフリをした。実際、そこまで驚いてなかったのかもしれない。
 そうして始まったサプライズパーティーの中には、二人のサプライズが幾つも潜んでいた。洞穴の装飾だとか、プレゼントだとか。それは嬉しかったし、私自身ちゃんと喜べていたと思う。しかしパーティーの最後、二人がひた隠しにしてきた〝サプライズケーキ〟がいよいよもって飛び出してきた瞬間だ。私はそのとき嬉しさの反面で、やっぱりな、なんて感慨を抱いていた。二人に礼を言う最中、頭の中に「まあ正直、あるだろうなーとは思ってたよ」なんて言葉が浮かんで、その言葉が喉元までせり上げてきたのを、私は必死に堪えた。私は自分が信じられなかった。私のためにそこまでしてくれた二人に対して、こうもひどい言葉が浮かぶものかと、自分を責めずにはいられなかった。しかしまた、自分を責める私の思考の隣に、それを冷笑する自分がいたことも確かだったのである。私はいつもそうだった。
 旧都へと向かう私の脳内はぐちゃぐちゃしていて、終いには〝経験豊富〟と自称する二人の〝色々〟を想像し始めていた。ときに、昔、世話になった年長者の妖怪から結婚報告の葉書が届いたことがある。その人から意中の相手がいるという話を何度か聞いていた私は素直に祝福したものだ。しかしそれからちょっとも経たないうちに、今度は子供が出来たという報告の葉書を貰った。本来、それだって祝福すべきことではあるのだけれど、私はどうしても、侮蔑に似た邪な感情を抑えきれなかったのを覚えている。私は今まさに、ヤマメとキスメに対しその時と同じ感情を抱いている。
 そうして次第に、私の空想の中に在る恋というものの色は、くすんだ赤から限りなく黒に近い緑に塗れていくのだった。

 ときに、集中力がそれほど持続しないのは、人間も妖怪も同じらしい。私は疲れた頭をふらふらさせながら旧都の目抜き通りにやってきた。いつもの店に向かうべく通りを歩いて、例のお高い青果店に差し掛かったときだ。私の視界に、子供の妖怪が映った。それは二人組で、少年と少女というにはまだ幼い、男の子と女の子だ。男の子と女の子は青果店の前に立ち、二人で財布の中身をひっくり返して、小さな掌の上で小銭の枚数を確認し合っていた。ああ青果店に用があるに違いない。私は咄嗟に自身の財布に手をかけたが、瞬間自分の取ろうとしている行動に劇しい偽善の臭気を感じて、すぐに財布にかけた手を引っ込めた。
 そうこうしているうちに、男の子と女の子は不安そうな面持ちで青果店へと入っていく。この青果店は春夏秋冬の影響を受けないこの地底で、年がら年中品揃えの変わらない店で有名だった。いつでも多様な果物が旬の姿で売られているらしく、その果物はどれも信じられないほどの高値だという。そんな店が旧都の貧困層のメッカである目抜き通り、そこの中心部に紛れ込んでいるのだから、不審がる者は多かった。地底の木っ端達は、この青果店は外の世界と何かしらの方法で繋がっているのではないかと噂をしている。ちなみに地底の若い奴ら曰く、旧都七不思議の一つらしい。
 私はそんな青果店の敷居を勇敢に跨いだあの子達が何だか微笑ましく感じて、しばし成り行きを見守ることにした。半分は、心配だったのもある。こうしているうちに、今にもあの子達が泣きだしてしまいそうな顔で店から出てくるのではないかと、ひやひやしながらことを待った。
 程なくして、男の子と女の子は嬉しそうに笑い合いながら堂々と店から出てきた。立派な果物のおまけ付きだった。ああよかった。気付けば、私はその子達に声をかけてしまっていた。
「や。立派なメロンだね。そっちはイチゴかい?うん、どっちも色がいいな。美味しそうだ」
 急に声をかけられて驚いたのか、女の子はいかにも気の弱そうに男の子の背後に隠れてしまった。男の子は警戒したのか手に持ったメロンを大事そうに隠すように抱えて口を開いた。
「あげないよ」
 その声は男の子の不安そうな表情に反して力強い声をしていた。男の子が私へと向ける懐疑的な眼差しに、慌てて弁明を始めた。
「ああいや、取ろうだなんて……」
 ……。
 しどろもどろになった弁明に、男の子は「ふぅん」と答えるのみだったが、多少警戒は解けた様子だ。しかし、私はここでようやく自身の不審者らしさに気がついた。また自身に抱かれているであろう印象を取り繕うべく言葉を紡いだ。
「えっと。二人は兄弟かな、仲が良さそうだけど」
 私の思いつく限りの当たり障りのない質問に、男の子は一瞬ギクリ、という表情をした。すると瞬間、それまで男の子の背に隠れていた女の子がひょっこり顔を出しては、溌剌として口を開いた。
「付き合ってるの!」
 嬉しそうに言ってのける女の子を尻目に、男の子は何だかバツの悪そうにはにかんでいる。
「果物買おうって、二人でお小遣い貯めてね、今日は折半なの」
「へぇ、折半なの」
「うん。イチゴとメロンをね、二人でひとりじめにするんだ」
 女の子は嬉しそうに語った。男の子は終始照れたようにそっぽを向いていた。私にとってそんな小さな恋人達は、とても微笑ましかった。やっぱり、あの時、自身の財布を取り出さなくてよかったな、と思う。私は二人に当たり障りなく別れを告げて、また歩き始めた。
 いつもの店に新たなパンフレットは入荷されていなかった。なんだかんだで三日に一回は訪問するのだが、新しいものが入荷されるのは一ヶ月に一度が関の山だった。それほど落胆することもなく、私は公園に向かった。道中赤いソーダ水を買って、公園に入った。入り口に駐輪されていた自転車は不穏だったけど、私は気にせず、そのまま自分の定位置のベンチへ歩いた。そうして、私は例のアベックの〝A〟を眺めているというわけだ。
 しかし、私の心は凪いでいた。地底に流れる風はいつも通り重く澱んでいたけれど、私の心には清々しい風がそよいでいたのである。それというのも、あの子達のお陰だった。あの子達はきっと今頃、綺麗なだけの恋の渦中にて、メロンとイチゴを二人で独り占めにしているに違いない。そんな二人を思うと、向こうのベンチに座り〝A〟を営むアベックも、かつてあの子達のように純粋だったのだろうと思えた。そしてAを続ける二人は、その純粋さと地続きの地平にいるのだろう。それを思えば、以前あのアベックに感じた嫌悪感が、その行為よりもよっぽど汚れたものに思えたのだ。
 私はソーダ水に口をつけて、二人のAを穏やかな気持ちで眺めていた。時々、男と目が合うのが気になるけれど、二人の行為はきっと、とても綺麗な感情の上に成り立っているのだ。
 おや。少し様子が変わってきたぞ。男が女の体をゆっくりとさすっている。女の方は怪我でもしているのだろうか。
 おや。男の手が女の懐へと入っていってしまった。なんだろう。男の手が、女の胸元を、まさぐっている。
 ああ!Bだ!
 私は途端に猛烈な不愉快さを感じて、思わず彼奴等の停めていたママチャリを出来るだけ大きい音が鳴るように蹴飛ばして持ち主達が恐れ慄く様を無視するように公園を後にした。公園を出る際、胸中で二度と来るなと二人に向けて叫んだが、実際に公園を出て行くのは私だったので、なんだかチグハグな気持ちになった。
 公園を出て旧都の路地を歩いていると、私はすぐに後悔した。何が何でもやりすぎたのではないか。そもそも、今回はあちらが先客だったわけだし、それを察知していたのにも関わらず、ずかずかと二人の空間に侵入した私に非があるのではないか。そんな心の反面で、私は自分の中にムカムカとした感情も覚えていた。あの二人に対しての得も言われぬ怒りもあったが、なによりも、あの二人の行為に、行為の最中私に向けられた男の視線に絡みついた欲望に、私の心は荒らされていた。
 空想の中の恋のイメージは、もはやくすんだ赤や黒に近い緑なんて通り越して、ドブに塗れていた。その色は、橋の上から見下ろす川に酷似していて、川の水は今にも溢れそうなほど嵩を増して、私は胸が詰まるのを感じた。右手に握るソーダ水の入った容器はイヤにぬるかった。私は気の抜けた、ただ甘いだけの赤い何かで割られた水を飲み干して、或る場所へ向かった。

 そこには沢山の人がいた。とはいえ、その場に集まるのはどこか訳あり顔のやつばかりで、真に真っ当な者は誰一人いないような気がした。橙や薄紅の提灯が照らす通りに立ち並ぶ店の店先には、美しくもあやしい着物を着た少女らが艶かしく座り込んでいる。店と店に挟まれた通りはごちゃごちゃとしていて、道行く者はみな互いに肩をぶつけながら歩いて行く。しかし、肩がぶつかったところで謝罪する者はいなかった、それどころか、誰もそれを気に留めていないのである。ここに集まる者は一様に、緩い共犯意識めいた線で繋がれて、この通りを歩いていた。
 ここは遊郭だった。私はそんな共犯意識を他人で割ったような人混みに紛れて、通りをうろついていた。ここには何もなかった。恋もなければ、凡ゆる諍いもない。口論、盗難、恋、暴力。ここでそれらが行われようと、誰一人それらを気に留めない。誰一人、それらを認知しない。綺麗ではないけど、汚くもない。ここは究極的に、何もない場所だった。響く喧騒はどこか虚しく、空虚だった。
 そんな喧騒の中を曖昧に泳いでいると心地がよかった。あってもなくてもいいような場所に、いてもいなくてもいいような人々の流れに紛れ込むのは、とても落ち着いた。
 店先の少女達の中には妖怪もいたし、人間もいたし、両方のなりそこないもいた。酔いさらばえた老人や、かろうじて青年を保っている男が、少女達に声をかけては店の中へと消えて行く。店の中で行われるであろう行為はもはや公然に判明していて、それは恋愛の上に行われるそれよりも、ずっと清潔なものに思えた。
 しかし、私はそれをするわけでもなく、ただ彷徨い続けた。そんな最中に、ここでは少し珍しいものを見かけた。人混みの中で腕を組んで歩く男女の番いだった。それは恐らく恋だった。ここでは誰も気に留めないそれが、今日の私にはそこはかとなく目について、思わず立ち止まって眺めてしまう。腕を組んだ番いはこちらへ向かって歩いてくる。男の方はどこか公園のBの青年と似ていたけれど、それよりもずっと端正な顔立ちをしていた。男よりも、私の目を引いたのは女の方だった。女というには幼い体つきで、その線の細さは心許なさがあり、女というよりは少女と言った方が正鵠に近いだろう。なにより少女は人間らしかった。少女には妖怪的な身体的特徴は見受けられず、どこを見ても、その体は人間であることを示していた。
 この地底において人間の少女というのは珍しく、とりわけこの遊郭で稀に見かける程度なもので、皆一様に高かった。そんな人間の少女が、この場所で男と腕を組んで歩いている。私はやはり、その光景に恋の気配を感じずにはいられなかったのである。気がつくと、番いは私の殆ど眼前に迫って来ていた。私はじっと立ち止まってそれを眺めていたものだから、慌てて視線を逸らして擦れ違おうと身体を動かした。その瞬間、番いの男の方が信じられないものを見てしまったような慌てぶりで、そそくさと踵を返す。組んだ腕は解き放たれ、少女も青い着物を揺らしながら、慌てて男の後を追った。何が起こったのだろう。私が不思議に感じて首を傾げると、不意に背後から声がした。
「困るんだよなぁ、ああいうの」
 振り返ると、星熊勇儀がそこに居た。ああ、やっぱり会ってしまった。
「別にいいじゃないあのくらい。見逃してあげたらいいのに」
「地底にルールはないけど秩序はあるんだよ。特にこの場所では、それを守ってもらわないと困る」
 この遊郭は星熊勇儀の管轄だった。というより、勇儀本人がこの場所を創ったのだ。
「いや、別に私だって駆け落ちしてどっかに消えちまおうってやつらを止めやしないよ、邪魔だってしない。ただ、あの男はなぁ」
 勇儀はそこで言葉を止めたけど、勇儀の言わんとすることは何となく解ったので、私は特に追及はしなかった。そんなことよりも、私はこの星熊勇儀とまたも出会ってしまったことを悔やんでいた。
「そんなことより。お前はまたこんな場所に来て。また〝悩み事〟か?」
 私は勇儀に〝悩み事〟を打ち明けたことは一度としてなかった。しかし、私がここに来るたびに、勇儀は私の胸中を見透かしたように声をかけて来た。
「別に」
「別にってな。お前、そんな顔して別にはないだろう。なんで来た? そもそも、お前はこういうところは嫌いなんだろう? こういう、色恋に溢れた場所は」
「そんな沙汰、ここにはないでしょ」
 私が言葉を返すと、勇儀は笑って、わざとらしい口調で答えた。
「何を言うか。こんなに恋に溢れている場所はないぞ。偶然同じ空間に居合わせた男女が、偶然恋に落ちて、一夜の果てに恋が散る。そんな奇跡的な光景が当たり前のように溢れているのがこの場所なんだから」
「それは外の世界の言葉遊びでしょ。それも、オヤジくさいやつ」
「ははは。そんなオヤジくさい場所を、お前はまた冷やかしにきてると」
「はあ」
 私はなんだか馬鹿らしくなってきて、ここを出ようと考えた。
「まあ、すぐに出て行けとは言わないが。そんな可愛い顔して歩いてたら、色々間違われても文句言えないんだからな。ほどほどにしておくといいぞ」
 私は勇儀に返事をしてから、しばらくは通りに居残った。勇儀の言う通りにした、なんて思われるのが、ちょっと癪だったからだ。尤も、そんなことを思うやつは、ここにはいるはずもなかったけれど。
 気付けば私はまた公園にいた。いつものベンチに座って、赤茶色の土を踏み締める自分の靴をぼんやりと眺めていた。入り口の自転車は消えていて、同じく、Bのアベックも見当たらなかった。靴をぼんやりと眺めていると、私はなんだか、やっと落ち着いた気がして、大きく息を吐いた。
 暫しぼーっとしていると、私の脳裏には何故か遊郭で見た人間の少女が浮かんでいた。綺麗な青い着物のあの少女。線の細い華奢な体つき、心許なさのあるあの幼い顔立ちは、誰かと似ている気がしたのだ。例えばそう、目と鼻の先の、古明地こいしなんかとよく似て……うわあ!
 いつのまにか、私の目の前に顔があって。
「あはは。びっくりした? どーも、お久しぶりです。古明地こいしです」
 古明地こいしは笑いながら、屈んだ姿勢をやおら伸ばして、そこに立っていた。地底の風に靡いた彼女の髪は、翡翠の色とも、浅葱の色ともとれぬ色をして、揺れた。公園は、なんとなく、夕暮れの色をしているような、そんな気がした。


   一 緑の瞳に映る恋 〜青春パンク編


「実は今日、こいしはずっとあなたの後をつけていたのです」
 古明地こいしと初めに会ったのは、確か、まだこの公園にブランコがあった頃だった。
「あなたは今日、友達が気付いたら付き合っていて、果物を買う可愛い恋人達と出会って、公園で自転車を蹴飛ばして、あやしい場所のあやしいカップルを眺めました」
 古明地こいしはそのブランコに座って、一人でゆらゆら揺れていて。
「そうしてあなたはまた、この公園に戻って来ました。そのときにはもう、自転車はなくなっていて、公園にはあなた一人だけが取り残されました」
 その時も、昼も夜もないこの地底の、照明に照らされただけの公園が、何故か夕暮れめいて見えたのを覚えている。
「あなたは一人、赤土を踏み締める自分の靴をぼんやり眺めていました」
 その際に、私はこいしと何か話したっけ。声をかけた気もするけれど、何もなかったような気もする。
「果たして靴を眺めて何を考えていたのでしょう。……もしかして〜」
 それから、こいしはよく私の前に現れるようになった。ヤマメやキスメと遊んでいるときなんかにも現れて、子供みたいにはしゃいでは帰っていった。でも、こいしはたまに、よくわからないことを言うこともあって。だから、私にとって古明地こいしは〝よくわからない子供のようなやつ〟或いは〝古明地の〟妹という、やはりよくわからない存在だった。
「もしかして〜……羨ましくてたまらない!私も恋人欲しいなー!みたいなこと、考えてたんでしょう? ね、そうでしょ?」
「ちがう。そうじゃない」
 私は極めて冷静に答えた。だって、違うんだから。
「えー! そんなこといってさー、ほんとは考えてたんじゃないのー? あまーい運命に受動態でいたいフリしてさー、狙ってたんじゃないのー? 狙って、公園とかあやしい場所を練り歩いてたんじゃないのー?」
 こいしは無邪気に、可笑しそうに私に問いかける。たまにこういう日があった。こういう日のこいしはしつこいし、面倒だ。も、帰りたいな、私。
「ええ。そう、その通りよ。それじゃあね」
「待ったぁ!」
 ああ、上機嫌だ、ハイテンションだ、面倒くさいなあ。
「じゃあさ、じゃあさ」
「なによ」

「こいし、今日からあなたの恋人になってあげる」
「あ?」

「それじゃ、先にお家で待ってるから、早く帰ってきてね」
 ああ急がなきゃ間に合わないよう。そう言って、こいしはその場を走り去った。家を教えたことはなかったけれど、私は心の中で神に祈った。ああどうか、彼女の言う〝お家〟が私の家じゃありませんように。

「あら?」
 公園を出ると、今最も会いたくないやつがいた。そいつは果物のたくさん入ったバスケットを下げていて、買い物帰り風の出で立ちでそこに立っていた。ちなみに、バナナがやけに多かった。たくさんの黄色いそれは、妙に私の不安を煽る。
「……みてたの?」
 私が言うと、そいつはきょとん、とした顔をした。私はしまった、と思った。
「……いま、視ました。こいしがご迷惑をお掛けしたようで、私から謝罪します。うちのこいしが、ごめんなさい」
 今最も会いたくないやつランキング1位、古明地さとりは、そう言って、ゆっくりと頭を下げた。私は今にも逃げ出したかった。普段さとりに覗かれる分には気にしない。でも、今日だけは視られたくないものが、たくさんありすぎた。さとりは頭をゆっくりと上げて、徐に口を開いた。
「まあ、そんな。あなたが気にすることないじゃないですか。悪いのは、こいしなんですから」
 ああ、もう。
「だけど、私はこいしが心配で……。水橋さん、あなたなら安心してあの子を預けられます。良ければ、こいしが飽きるまで、どうか付き合ってやってはもらえないでしょうか」
 さっきまでご迷惑をお掛けして、なんて言っておいて、今度はそんなことを言うなんて、ああ、変な姉妹だなあ。帰りたいなあ。
「ええ、ええ。もし、あなたのお家にこいしが居たら、でいいんです。居なかったら、それはもう、思う存分放っておいてあげてください」
 居なかったら、無論そうするつもりだったけれど、いざ帰ってこいしが居たら。そのことについては恐ろしくて考えていなかったのに、古明地さとりは有難くも私にそれを想像する余地をくれた。
「それじゃあ、私はこれで失礼します。あぁ、橋姫の子のあなたなら、私も安心です。しばらくの間、こいしはあなたの傍にいるでしょう。こいしの所在が掴めているだけで、ふらふらされるよりはずっと、安心できます。水橋さん、本当にありがとうございます。それでは」
 今まで私は、彼女のことをを周りが言うほど嫌ってはいなかった。彼女が嫌われ者と呼ばれることの理由自体、いまひとつピンとこなかったほどだ。しかし、今回で古明地さとりに対する評価は変わった。やはり、嫌われる者にはそれなりに、嫌われる理由があるのだと、私は思った。

 路地から目抜き通りへ、通りを抜けて橋を渡って、暫し歩き。とうとう私は我があばら家の前まで辿り着いてしまった。帰り道、古明地の姉妹について考えた。私は古明地の姉を、やはりそこまで嫌いになれないこと、古明地の妹は、ちょっと嫌いになりそうなこと。楽しい思索の旅ではなかったが、家路への足取りを鈍らせるには十分だった。部屋の中の時計を見ればきっと、いつもならもう晩を食べ終わった時間だろう。時計を見るまでもなく、私の胃袋がその時刻を告げている。
 ああ、なぜ自宅に帰るのにここまで怯えなきゃいけないのだろう。私は恐る恐る、我が家の戸をノックした。物音を聞き逃さないように、耳を澄ます。
 ……。
 何も、聞こえない。
 私は心の中でガッツポーズをして、今までの恐れをかき消すように勢いよく戸を開けて、勇み足で上り口への敷居を跨いだ。狭い廊下の先に目をやれど、そこにはどこか安心する、いつもの薄暗い闇が在った。よかった、部屋の電気も付いていない。やはり、古明地こいしの云う〝お家〟とは、彼女の自宅、地霊殿を指していたのだろう。私は地霊殿で私を待ち続けるこいしを想像して、少し胸が痛んだが、それを上回る安心感が胸のうちに湧き上がった。
 ほっ、として、靴を脱ぐ。少し屈んで、下方へ視線を落とす。私の履いている靴の右方に、見慣れない靴があった。私の履くそれよりもサイズの小さなその靴は、私に翡翠の色とも浅葱の色ともつかぬ衝撃を与えた。
「おかえりなさい」
「うわあ!」
 突然背後から聞こえた声に、私は情けない悲鳴をあげる他為すすべがなかった。幻聴を祈って振り向くと、悲しいかな、やはり古明地こいしが立っていた。それはもう、ニコニコしてた。
「遅かったね。はやく帰ってきてねって言ったでしょー? もう。帰ってこないんじゃないかって、心配だったんだから」
「ご、ごめん。や、ちがう、ごめんじゃない。えっと、なに? 待ってたって、何処で」
「ここで」
 私はもう若干混乱して、状況のわりには当たり障りのないことを問いかけてしまった。その当たり障りのない問いかけに、古明地こいしはさらりと三文字で答えるものだから、私はそのまま、流されるように会話を続けてしまう。
「だって、家に居なかったじゃない。電気だって、消えてたし」
「ノックの音が聞こえたから、驚かせようと思ってこっそり外に出たの。えへへ」
「だって、上り口は……」
「裏口があるでしょ。……自分の家だよねー?」
「あ、あぁ……」
「あのね、ご飯を作って待ってたの。まだあったかいと思うから、はやく食べちゃおうよ」
 客観的な視点から言えば、私は可哀想なほどに混乱していた。古明地こいしの、私を驚かせようという企みは悔しいけれど大成功だった。古明地こいしはそんな、哀れなほどに狼狽する私の手を引いて、はやくはやく、と急かすように部屋へと導いた。殆ど腰砕けの様相で、かろうじて二本の足でのたのたと這う私に対して、古明地こいしは朗らかに言葉を投げてきた。
「あはは。思ったより驚いてくれたみたいで嬉しいな。なんかもう、電気つけただけで驚いちゃいそうな感じ」
「あ、あるか。そんな、小動物みたいなこと。それより」
「じゃあ、電気つけるねー」
 古明地こいしは私の言葉を遮って、カチッ、と紐を引っ張った。一寸の間をおいて、チカ、チカ、と光が点滅して、三回目あたりで点滅は途切れた。
 明るい光が部屋を照らして、私は絶句した。
「あ! やっぱり驚いてる。ね、ね、どう? カラージャービル? ピーターラビット? ジュウシマツ?」
「私の……私の部屋……」
 家具の配置が、全て変えられていた。唯一そのままだったのはベッドのみで、テーブルも、アイロン台も、衣装タンスも、身鏡も、全てが未知の座標に鎮座していた。私はハッとして、パンフレットを入れた棚の姿を焦って探した。そのとき私は頭の片隅で、小さい頃に火遊びをして家を燃やしそうになったときのことを思い出していた。頭の片隅から炎は燃え広がった。それは紛れもなく焦燥で、私は灼熱の焦燥感に焼かれながら目をキョロキョロさせて棚を探す。左、ない。右、ない。後方、は廊下だ! 正面、ない! いや、あった! よかった……。
 正面に置かれたベッドの脇に、棚はあった。瞬間、燃え広がった焦燥の炎に冷水が注がれて、私は全身の力がへなへなと抜けていくのを感じた。
 部屋に電気がついてから五秒も経っていないはずだったが、体感ではその何十倍の時間が経ったように思えた。脱力する私を尻目に、古明地こいしはあっけらかんと口を開いた。
「家具は使いやすいように動かしておきました! それより、ご飯も用意したんだから、冷めないうちに」
「あ、ありがと……」
 棚が無事だった安心感のあまり錯覚を起こした私の口からは、あろうことか感謝の言葉が零れていた。そのまま流されるように食卓を挟んで、こいしと向かい合うように座り込んだ。すでにテーブルに並べられていた古明地こいしお手製の料理は彼女のイメージからは想像ができないほどの純和風なラインナップをしていて、それはそれで驚きだった。
「いただきます」
「いただきます……」
 棚を無事でいさせてくれた上に、ご飯まで用意してくれるなんて。錯覚に支配されたままに、私は箸を動かした。味は感じられなかったけれど、多分、美味しかったのだと思う。

「ごちそうさま」
「お粗末様でした! ……あ、お皿洗うね」
「いいよ、後で」
「でも」
「いいから座って」
「すぐ洗わないと、落ちにくいんだよ」
「私が洗うから、いいってば。それよりほら、座って」
 ご飯を食べている最中に冷静さを取り戻した私は、彼女と色々と話さなくてはならないと考えた。しかし、なにから話せばいいのかは、未だまとまらないままでいる。彼女、古明地こいしに部屋を綺麗に荒らされたこと、古明地こいしが私の恋人をやるということ、人の家の食材を無断で使用したこと、私の頭は滅茶苦茶に荒らされていた。
「えっと、まず。そうね」
「なんですかー」
「ええと」
「なんですかー」
 どこか間の抜けた口調で問い詰めてくる彼女に少量の苛立ちを覚えつつも、私は必死に言葉を紡いだ。
「まず、そうだ。人ん家の食べ物、勝手に使うのはよくないわね」
「美味しかった?」
「味がしなかったわ」
「え、ほんとに? もしかしてこいし、舌がおかしいのかな」
「いや、まぁ」
 おかしいのは舌ではなく別の箇所ではないか。そんな気持ちを押さえ込んで、私は言葉を続ける。
「とにかく、それはよくないし。これもよくない」
 私は言いながら、部屋を見回した。
「えー、だって。ベッドの傍にいろいろあった方が便利でしょ? それに、棚のパンフレットは、よく取り出すみたいだし」
 私はまたハッとして、立ち上がるが早いかパンフレットの棚に駆け寄って、開けた。
「ああ!」
 私はまた、古明地こいし驚かされた。棚の中で色ごとに整頓されているはずのパンフレットが、ぐちゃぐちゃな色の順序で積まれていたのだ。
「パンフレットはアルファベット順に並べ替えておきました。えへへ」
「あんた、あんたね……」
 悪びれもせず笑う彼女を見ると、なんだか怒るに怒れずに、私は正体不明のため息を吐いた。ため息の原因、その心当たりが無数にあって、どれが私にため息をつかせたのだろう。そんなことを考えながら、私はまた彼女と向かい合うようにテーブルの前に座った。
「人の家の冷蔵庫、棚。開けちゃダメでしょ」
「なんで? 勇者はみんなやってるよ」
「あんた勇者?」
「ううん。こいしはこいし」
 そういやこいつ、以前は自分のことを名前で呼んでいただろうか。思えば普通に〝わたし〟と呼称していたような気がするけど。円滑に進まない会話の中で、私の思考は唐突に、そっぽを向いたのだった。それは多分、彼女との会話を早々に投げ出してしまいたい心の表れだったかもしれない。されど私は気を取り直して、私は彼女に向き直る。
「そもそも、人の家に勝手に入ったらダメなの。そういうの、泥棒っていうのよ」
「ここ地底だし、何もとってないし。そもそも恋人なんだもん」
「地底にはルールはないけれど秩序はあるのよ。……恋人じゃないし」
 どこかで聞いた台詞が私の口から飛び出して、私は赤面した。こいしは今日、私の後をつけていたという。そんなこいしがもしその台詞が勇儀のものだと気付いていたなら、ああ。私はなんて恥ずかしいやつなんだろう。
「それ、誰の言葉なの」
 来た! ああ、恥ずかしい。恥ずかしいなあ!
「さっきからアレがダメとかこれはダメとか言ってるけど、あなた自身はどう思ってるの? 常識ではダメなことかもしれないけどー、ほんとはそれくらいのこと、あなた自身は許せたりして」
 恥ずかしさに悶えていて、あんまり聞いてなかったけどどうやらバレてないらしい。よかった。
「よくわかんないけど、私自身あんたが勝手に家に入ったからって、あんたをどうこうしよう、とまでは思わないわよ。知り合いの妹だしね」
「こーいーびーとー」
「恋人じゃない」
「ほんきでいってるなら、こいしは実家に帰ろうと思うんですけど」
「帰ればいいわ。ただし、明日ね。今日はもう遅いし、仕方ないから泊めてあげる」
「ほんと? やった」

 そうして私は皿洗いなどの雑事を終わらせて、あとは寝るだけの状態に至った。こいしにはお風呂も貸してやったし、予備の歯ブラシもくれてやった。こいしはその時、お泊まりセット――私はこの〝お泊まりセット〟という言葉が嫌いだ。――持ってきてるから、歯ブラシもタオルもいらないよ、なんて言っていたけれど、面倒だから歯ブラシもタオルもくれてやった。
「それじゃあ私は寝るから」
 あんたは向こうの部屋で寝なさいよ。と、付け加えて、私はベッドに潜る。向こうの部屋というのも、私の家は小さいながらに二部屋あった。一つは私が暮らすこの部屋、もう一つは私がかつて夜の闇を恐れるほどに幼かった頃、寝室としていた部屋だ。その部屋はそれから何年も使っていなかったし、もう入ろうとも思わなかった。理由はぼんやりと浮かんでいるが、深く考えたことはない。私はそんな部屋を、招かれざる客の寝室に当てがおうというのだ。押入れの布団や床は多少埃をかぶっているかもしれないけれど、そこは我慢してもらわないと困る。確証はないが私はきっと、一人じゃないと眠れないタイプの橋姫なのだから。
「えー、やだ。あの部屋埃っぽいんだもん」
 ベッドに入って早々に視覚を遮断した私の聴覚に聞くと疲れる声が響く。耳にも瞼があればいいのに。
「入ったの?」
「うん。あの部屋ずっと使ってないんでしょー? 埃が絨毯みたいになってたよ」
「……じゃあ布団だけ持ってきて。この部屋で寝ていいから」
 少し忍びなくなったので、私は仕方なく妥協することにした。しかし、そんな忍びなさや諦めの感慨は取るに足らないもので、私の心を真に占めた感情は、彼女に対する得も言われぬ怒りだった。というのも、私にとってあの部屋は何年も使っていない、それこそ取るに足らない、あってもなくてもいいような部屋だ。本来なら誰が勝手に入ろうが気にならないはずの部屋。それがどういうわけか、彼女が無断であの部屋の戸を開いた事実が、彼女が今日起こしたどんな行動よりもずっと、私の心をかき乱したのだ。
「嫌だよー。部屋は少し掃除したけど、押入れは開けなかったんだもん。布団も埃被ってるに決まってるもん」
「……掃除まで」
 腹の中で、怒りがむくむくと嘶くのを感じた。
「……わかった。ちょっと見てくるから、大人しく待ってて」
「はーい」
 けれど、それを彼女にぶつけるのは、何か違う気がした。何故なら、恐らくこの怒りの原因は、彼女の行動ではなく、私が何年もあの部屋の戸を開けなかった、その理由にあるような気がしてならなかったからだ。
 狭い廊下を歩いてすぐに角を折れる。数歩進むと裏口がある。この裏口こそ、彼女が今日私を驚かせるべく利用した扉だ。そんな裏口の手前に、かつての寝室、その戸が待ち構えていた。ああ、ここに入るのは何年振りになるだろう。そんなことをぼんやり考えながら、開き戸に手をかけた。
 戸は意外なほどに軽く、さー、と音を立てて、開いた。
 そこにはかつての寝室が、かつての姿を保ったままでいた。照明から垂れる紐に括られた小さなぬいぐるみ。眠る前に本を読むために設置された花柄のついた小さなライト。そして、匂いまでもが、昔のままで其処にあった。彼女、古明地こいしは〝少し〟と言っていたが、本当は〝かなり〟掃除してくれたらしい。だって本来はもっと、埃をかぶって、黴が生えて、見る影もなくなってるはずだったのだから。
 胸中に湧いた感情を横目に、私は白々と押入れの中を確認して、部屋に戻った。
……。
「ね、結構綺麗だったでしょ? こいし結構、頑張りました」
「ええそうね。お礼にあんた、今日はベッドを使っていいわよ」
「ほんとに! じゃあ添い寝だね、恋人みたいだね」
 はしゃぐこいしを無視して、私は食卓前の座布団を枕にして寝転がった。私はもう、なんだか疲れてしまって、なんでもいいから眠ってしまいたい気分になっていた。
「え、床に寝るのー? ……わかった、あなたがどうしても添い寝したくないなら、今日はこいしが床で寝ます」
「そう」
 招かれざる客とはいえ、あくまでお客の彼女を床に寝かせるのは如何なものか。私はそんな葛藤すらも、もうどうでもよくて、やおらベッドの布団に潜り込んで目を閉じた。
 それからしばらく、私はベッドの横に彼女の気配を感じ続けた。きっと、何か言いたいことがあるに違いないけど。ああ、めんどくさいなあ。
「……なに」
 目を瞑ったまま問いかけると、一寸間をおいて、こいしが徐に口を開いた。
「……今日はこいし、あなたに悪いことしちゃったかも。ごめんなさい」
「もう、いいわ」
 たしかに私の疲れている原因は、彼女が作ったものかもしれない。でも、もうよかった。無論、どうでも。
「うん。……おやすみなさい」
「ええ、おやすみ」

「……とみせかけて〜」
 えい! とこいしが私の布団に潜り込んできた。けど、今日はもういい。何も言わない。面倒だから。彼女は、
「えへへー」
 なんて笑いながら私の腕にしがみついてくるけど、それもどうでもいい。今日はもう、疲れすぎていた。
「……あんた、明日は帰りなさいよ」
「はーい」
 そうして私は眠りに落ちた。
 その日私は、赤青黄色、黒白緑、翡翠に浅葱と、それらをぐちゃぐちゃに混ぜたような、酷くカラフルな夢を見た。言うまでもなく、悪夢だった。


   二


 翌日、古明地こいしは帰らなかった。
 次の日もその次の日も帰らなかった。
 地上に雨が降って地底の川が氾濫しても帰らなかったし、間欠泉地下センターが爆発しても帰らなかった。
 私はそんな日々の中、驚くことに、古明地こいしを地霊殿へ返送することを諦め始めていたのだった。

「ごちそうさまでした」
「はい、お粗末さまで」
 あれから、食事は私が作っている。どこか間の抜けた印象を保有する彼女の作る食事が意外にも美味しいのが癪だったのもあるけれど、一番の理由は他にあった。今でこそ慣れてしまったけど、冷蔵庫を漁られるのが我慢ならなかったのである。
「胡瓜のお漬物、そろそろしょっぱすぎると思うんですけど」
「お漬物の味が濃ければ他のおかずが少なくて済むでしょ」
「ほんとはしょっぱいのが好きなだけなんじゃないの? なんでも濃いもん、味」
「さあどうでしょうね。あんたに帰って欲しくて、味付けを濃くしてるのかもよ」
「帰りませーん」
「帰ってよ」
 ……なんて言ったものの、私の適応力は心とは裏腹に、彼女いる生活に適応し始めていた。もちろん、隙あらば帰って欲しいと願っているのも事実だ。
「恋人が恋人の家に居るのがそんなにおかしいことでしょうか」
「まず恋人じゃないけど。恋人だったとしてもおかしいわ。恋人が帰って欲しいと願っていたなら、その気持ちを受け入れるのも恋人として大事なことじゃないかしら」
「それは誰が言ってるの」
「私でしょ」
「ほんとにー?」
「ほんともなにも、私の口から出た言葉は全部私のものよ。当然じゃない」
「えー」
 こんなふうに、彼女は相変わらずに妙な問いかけをしてくることが多々あった。しかし私はそれにも慣れて、深く考えずに返答することも出来るようになったから驚いた。始めのうちは、それは誰の言葉なのさ、などと問いかけられようものなら、その度に私は混乱していた。私の口から出た言葉が私の物でないのなら、果たして誰の所有する言葉になるのだろう。なんてちんぷんかんぷんな思索の旅を繰り広げては疲労したものだ。
「そうだおねえちゃん、わたし、そろそろ退屈で死んじゃいそうなんだけど」
「退屈で死ねるくらいなら地底の奴らはこんなに長生きしてないわよ。ほんと、暇なら帰ったらいいじゃない」
 古明地こいしは気づけば私を〝おねえちゃん〟と呼び始めていた。しかしこれも紆余曲折があったのだ。無論、彼女の中で。私にはない。
 始めは〝あなた〟だった。次に〝パルスィ〟、その次に〝水橋さん〟ここまではまあよかった。しかし彼女の中でなにが起こったのか〝貴殿〟、〝水橋殿〟と迷走を始めた。それから〝パル公〟〝ぱっつぁん〟〝八〟と推移し、ある日唐突に〝おねえちゃん〟に落ち着いたというわけだ。というわけとは、どういうわけなのか。考えたらキリがない、というより霧だらけなので、私はそれから彼女の口から発せられる言葉については深く考えないことにしたのである。
 ちなみに彼女自身の呼称も〝こいし〟から〝わたし〟に変わり落ち着いた。中間に〝あたい〟〝あーし〟〝拙者〟等があったが、もう思い返すのはやめにする。――ただ〝拙者〟からは少々似合いの雰囲気を感じたのだが、残念なことに聞けたのは一度きりだった。――。
「だいたいおねえちゃんさ、私が居るのに全然構ってくれないで、いつも通りに公園行ったり、いつも通りにパンフレット見に行ったり、いつも通りに過ごすんだもん。しかも、それにすら連れて行ってくれないじゃん。一緒に寝るときだって、触るなー、なんて言って。しょーじきわたし、ほんとに恋人だって思われてるのか、不安で仕方ないんですけど」
「知らないわ、そんなの」
 こいしを連れて行ってやってもよかったのだが、そんなことをすればこいつは〝恋人として〟調子付くに違いない。私は一つの線引きとして、彼女の同行を拒み続けていた。それに、一緒に歩いて居るところを知り合いにでも見られたら、きっと面倒なことが起こるに違いななった。特にあの二人、ヤマメとキスメに見られるのは、なんとなく嫌だった。
 一方で、私にとって古明地こいしが手のかかる妹味を帯びてきたのも事実だった。それは彼女が私を〝おねえちゃん〟なんて呼ぶせいもあったのだろうけど、とにかく私は、彼女に対してそんな印象を抱き始めていたのだ。
 もっとも、そんな感慨を白々と俯瞰する自分も在った。こんなに面倒見の悪い姉があってはならない。私は自分が彼女に対して〝手のかかる妹〟なんて印象を抱き始めていることを、どこか滑稽に感じずにはいられなかった。血すら繋がっていないのに、一方通行の無意味な師弟関係を主張する、寒気のするキャラ付けじみた幼稚な気色。
 すると途端に、彼女となんでもない会話を交わすことすら滑稽に思えて、都度私は辟易として一人出かけに行くのだった。
「私、また出かけてくるから」
「えー、また急に行っちゃうんだ。……ね、今日はついて行って、いい?」
「だめ」
「もー! わたし、グレちゃうんだからねー!」
 内容の割には楽しそうに喚く彼女の声を背に、私は家を出る。このように、私は彼女、古明地こいしとの日々をやり過ごしていた。

 そんなある日のことだった。
 目が覚めて朝食を取り終えると、彼女が出し抜けに言い放つ。
「おねえちゃんが全然デートに連れて行ってくれないので、今日はわたしがおねえちゃんをデートに連れて行こーと思います」
 私は瞬時に樟脳味の倦怠を感じて、はあ、それで? などと相槌を打ったが、実際のところ返答に興味もなかったし、そもそもどんな返答が返ってきたところでそれに行こうという気はなかった。
 こいしは過剰に勿体つけた後にようやっと口を開いた。
「秘湯巡りを、敢行しようと思います」
「秘湯巡り」
 彼女の口から放たれた言葉はデート、という単語とはかけ離れ、鄙びた浅梔子色の響きを纏っていた。悲しいかな私にとってその鄙びた色、率直に言えば枯れたおっさんの陽気さと似たその色は、多少なりとも魅力的な色をしていた。
「浴衣も用意したのです」
「ゆ、浴衣」
 おねえちゃんのはこっちね。と差し出された浴衣を、私はおずおずと広げてしまった。それは卯の花の様な色をした着物で、朱色の小さな水玉で、朝顔の柄が可愛らしく結ばれている。帯は鮮やかな血液色をしていた。私は自分がこれを着た姿を想像しては、すぐにそれをかき消した。されど霧散したイメージはまた直ぐに集まって肖像を成す。私がそれをまたかき消していると、今度は頭の片隅で着合わせる為の靴を記憶の中に探し始めていた。
「ね。行こうよ。いいでしょ?」
「い、いや、えっと」
「お願いお願い」
「う、うーん」
「一生に一回のお願い! 五生(?)だから」
 ……。
「ま、まあ、温泉ぐらいなら。行ってやらん、ことも、ないけど」
「やったー! じゃ、早速準備するね!」
「お、おうよ」
 一生に一回のお願いであれば仕方ない。私は彼女の提案を魅力的に感じてしまった悔しさを遠くへ追いやるように、そんなことを考えながら、そそくさと出発の準備をした。ああ、滑稽だ。

「ね、ね。手を繋ごうよ」
「イヤ」
 彼女の案内に連れられて、私は地底の深部まで来ていた。広い空洞になっている地底の深部、その空気はジメジメとした水気を孕み、地面は湿気でぬらぬらとした光沢を帯びていた。一応、程度に慣らされた岩とも土ともつかぬ地面は硬く、ぬかるんでいるということも無い。お陰で足元が泥に汚れることもなく、比較的軽い足取りで歩くことができた。しかし、地面はところどころ蔓が這っていて、気をぬくと足を取られそうになる。それで転びなどすれば、着物は汚れてしまうし彼女の前で醜態を晒すことになる。結局私は、そこそこの注意を払いながら地底の深部を歩いていた。
「ねえ、あんた。これどこまで歩くのよ」
「えっとねー。うん、多分もう少しかな」
 ここに降りてから暫く歩いたけれど、今のところそれらしい秘湯は見当たらなかった。私は彼女のアバウトな言葉に、多少不安を感じながらも彼女の後を追う。しかしながら、いつも殆ど決まった場所しか歩かない私の瞳に、見慣れぬ空洞の風景は新鮮さをもって映えていた。
 水気の多い空気はやはり重たい気もしたけれど、しかし人の入らない場所だからだろうか、いつも居る地底の空気と比べると、そこには幾許かの清涼さが在った。広い空洞のお陰で、そこまでの暑さも感じない。どこかひんやりとした空気を、私は彼女に気付かれぬ程度に深く吸って、吐いた。すると、多少の心地よさが私の体を吹き抜けていった。
 それから、少し遅れて彼女も大きく深呼吸をし、口を開いた。
「うーん、ここまで来ると空気もさすがに綺麗だね。でも、なんでなんだろう」
「さあ」
「さあ、って! 会話が全然続かないよー」
「いいじゃない、別に黙って歩けば」
「つまんないじゃん」
 そんなこともないわ、なんて言葉が浮かんだけれど、それは言わないことにした。私は秘湯を探して広い空洞を歩くのが、不思議と楽しくなってきたのである。もっとも、これで彼女さえいなければ、もっと穏やかに楽しめるに違いないけど。

「イソカジカ」
「カガミダイ」
「イノコ」
「コイ」
「イカナゴ」
「ゴンズイ」
「なにそれー!」
「魚よ。髭のある、ナマズみたいな」
「えー。い、い……イノシシ!」
「魚じゃないじゃない」
「魚だもん!」
「イノシシは魚じゃないわ」
「イノシシって魚がいるのー!」
「どうだか」
 彼女からしりとりをしようと持ちかけられた際、私はもちろん断った。しかし、すると彼女は一人しりとりを始めた。あんまりしつこく続けているものだから、私は鬱陶しくなって、仕方なく一緒にやってやることにしたのだ。それにしても、イノシシなんて魚がいるはずもない。水槽が空っぽになったからって、山から使者を差し向けて来るとはとんだ卑怯者だ。――後日調べたらイノシシという魚は、いた。――。
「いるのいるの! おねえちゃんが知らないだけでしょー」
「はいはい。わかったわ。じゃあ、シマダイ」
「また〝イ〟だ! う、うーん」
「イルカは哺乳類よ」
「知ってますー! うーん、うーん」
「勝負あったわね。時間制限を設けなかったのが悔やまれるわ。精々悩みなさい」
「く、くやしいー。絶対思い出してやる」
 古明地こいしはイから始まる魚をぶつぶつと呟きながら思索をしているようだ。しかし残念ながら、イトマキフグやインヒシャ、イノミーダイ等のメジャーどころは既に私が潰していた。彼女はもう、詰んでいるのだ。
 それにしても、肝心の秘湯はあれから未だに見つかっていない。秘湯巡り、なんていうものだから、もっとわんさか湧いているものだと考えていたのだが、こいしはいつまで経っても、もう少しだよ、多分、と答えるのみだった。こいつ、秘湯巡りだなんて言っておいて、本当は何も考えずにここに来ただけなのではないか。古明地こいしならばあり得そうな可能性を嗅ぎつけてしまった私の心は、隣で魚の名前を呟き続ける彼女を恨み始めた。
「あ!」
「ひっ」
 唐突に叫ぶ彼女に驚いて、私は情けない声を上げてしまった。一体なんだというのだろう。
「アネモネ。アネモネだよ!」
「アネモネはたしか花でしょ。まさか今度は花を魚だなんて言い出すんじゃないでしょうね」
 まったく彼女にも困ったものだ。ヤマメやキスメも卑怯だったけど、ババ抜きに麻雀を持ち込んだりはしなかった。山の使者が通ったからって、今度は野草を摘んでくるとは。――後日調べたら、クラウン・アネモネフィッシュというのがいるらしいが、だったら始めは〝ク〟じゃなければいけない。私の勝ちだ。――。
 そういえば最近、あの二人に会ってない。私は二人のことを考えて、少し寂しくなった。
「違うよ、見て! なんでこんなところに咲いてるんだろう」
「あら……」
 こいしの指差す先を見やると、そこには彼女の言う通り、一輪のアネモネがひっそりと咲いていた。それは白く、小さな花だったけれど、まるで作り物のような強さを持って、しっかりと花弁を広げていた。
「こんなところに咲くなんて。おねえちゃん、ほら見て」
「み、見てるったら」
 こいしは私の袖を引っ張って、私の体を花の近くへと引き寄せる。同時に、彼女の体と私の体の、距離も縮まった。
「でも、季節外れだよね。まあ地底じゃ季節なんて関係ないけど。あ、地底だから余計不可解だよ。なんで咲いたんだろう。しかも一輪だけ」
 こいしは繁々とアネモネを見つめては、なんでかな、どうしてかな、と呟いてる。あまり花に詳しくない私にとっても、地底の深くに一輪咲いたそれは不可解だった。しかし、私がそれを見て感じたのはそんな不可解さよりも、その花の綺麗さだった。どこかのっぺりとした深い白の花弁に囲まれた花冠は鮮やかに黒く。白い花弁と黒の花冠は素晴らしいモノトーン味の美しさを織り成していた。
「綺麗だね。綺麗すぎてなんか、作り物みたい。あはは」
 彼女はそう笑って、
「行こっか」
 と歩きだした。
 私も一寸の間をおいて、彼女の後を追うように歩き始めた。しかし、私はなんだか、あの白いアネモネに後ろ髪を引かれるような気持ちで、見えなくなるまでに何度も、振り返ってしまったのだった。

 その後、結局秘湯は見つからず、自宅に戻った私は彼女を連れて、旧都の大衆浴場へ赴くはめになった。
 大衆浴場に向かうまで、こいしは何度も、手を繋ごう、と口を開いたが、私はもちろん、その一切を聞き入れることはしなかった。


   三


 それからまたしばらく経って、私は古明地こいしと一緒に外を出歩けるほどには、彼女の居る生活を受け入れ始めていた。旧都を歩いている際にも、彼女は相変わらず手を繋ごうとしてくる。おねえちゃん、おねえちゃん、と呼びかけながら私の手を強引に掴もうとする彼女の姿は、私により〝手のかかる妹〟のような印象を与えた。無論、掴まれた手は振り払ったが。しかしそんな中で、彼女の押しに負けて、一度だけ、彼女と手を繋いだことがあった。言うまでもなく、私は白々しい気分になった。そもそも恋人ですらないし、もし本当に恋人であったとしても、周囲に恋人である事を知らしめるように手を繋いで歩くのは、やはり何か違うような気がした。その後、私はまた考え込んだ。その日特に私を悩ませたのは、古明地こいしは一体どういうつもりなのか、というものだった。彼女は自身を私の恋人と言って聞かないけれど、本当に私に好意を抱いているとは考えられない。もちろん根拠はないけれど、好意を持たれるきっかけのようなものも見当たらなかった。果たして、古明地こいしは何を考えているのだろう。されどそんな疑問は、彼女の居る騒がしい日々に、すぐさま押し流されていってしまった。
 古明地こいしが私の家に居着いてから一ヶ月ほど経ったが、例の店に、新たなパンフレットが入荷されることはなかったし、部屋の家具の配置もこいし流に荒らされたままでいる。ついさっき、私はこいしと始めて口論らしい口論をした。それは、家具の配置と、棚の中に、アルファベット順に並べられたパンフレットから始まった口論だった。
 例の店から帰ってきた私は、なんとはなしにパンフレットの棚を開いて、アルファベット順に並べられたそれを見やった。やはり色がぐちゃぐちゃで、私は溜息を吐く。何度か色ごとに仕分け直したこともあったのだが、私が少し目を離すと、パンフレットはアルファベット順に並べ替えられているのだ。それ自体は、もう慣れたし、若干の諦めも感じていたから、問題ではなかった。こいしはパンフレットに折り目をつけたことも無かったし、読む時だって、私にちゃんと許可を取ってから読んだ。だから、私は彼女のパンフレットの扱いについては、一種信頼めいた安心感を抱いていた。もちろん、あまり触ってほしくないことに、違いはなかったけれど。
 私はそこで、彼女がまたしてもパンフレットの配置を弄ったことを、家具の配置の件も交えて非難した。それはもはや〝いつものこと〟で、私がそれを非難しては彼女がそれを右から左へ聞き流す、それがいつもの流れだった。しかし、彼女は今日、珍しく〝つっかかってきた〟のだ。今にして思えば、それは彼女のいつも通りのおふざけだったのかもしれない。彼女はパンフレットの並びについて、別にいいじゃん、そのくらい、的なことを彼女特有のセンスを用いて私に放った記憶があるが、詳細はあまりよく思い出せない。たしか、私のこだわりが強い、とか、イドとかスーパーエゴだとか、私の解せない言葉で、私の性格についての言及を織り交ぜながら、彼女はそれを語った。
 それの何が私の神経を逆撫でたのかは分からないが、とにかく私は腹が立って、彼女をしつこく叱責してしまった。そこまで怒る必要があったのだろうか。私は自身のとった行動に疑問を感じている。ああ、私はどうしてこうも自分がわからないのだろう。とにかく、彼女は、こいしはその時出て行ったきり、帰ってこない。
 そのまま、時間は流れて夜になった。昼も夜もない地底だが、部屋に時計くらいはある。私は秒針を眺めながらぼんやりと、私と、それから彼女のことについて考えていたが、思考はまとまらず、結局何一つ思考という思考は出来ていなかったように思える。ただ、そこに在ったのは感傷のみだった。私はそんな感傷に突き動かされるままに、かつての寝室の戸を開けた。疎ましく感じていた彼女を心配して感傷に苛まれ、かつての寝室の戸を開ける私の姿は、なんだか安っぽい映画のワンシーンに思えて。私はやはり、そんな自分を滑稽に感じずにはいられなかった。
 かつての寝室は、古明地こいしの掃除の為に、やはり昔のままの姿で、其処に在った。照明から垂れる紐に括られた小さなぬいぐるみ。眠る前に本を読むために設置された花柄のついた小さなライト。そして、匂いまでもが、昔のままだった。
 私は白々と押入れを開けて、重たくなった布団を取り出し、敷いた。
 掛け布団の上、腕を枕にうつ伏せに横たわる。布団は湿気って、埃っぽくて、少し黴くさいような、埃くさいような。その匂いが妙に懐かしくて、そのとき私の目からは無感動に涙が溢れていた。埃のせいに違いなかったけれど、私はそんな自分を俯瞰すると、ますます自身から視点が離れていくのを感じた。遠くの方から、私を眺めている感覚。私はそんな感覚の中、何も感じないまま、気がつけば眠りに落ちていた。
 それは短い眠りだったけど、私はとても長いあいだ、眠っていたように感じる。気付けば私は、きちんと布団に入って眠っていたらしい。湿気った布団は重たく、私の体を優しく押し潰さんとしている。目を開けると、目の前には花柄のついた小さなライトスタンドがあって、私は今更、自分がかつての寝室で眠ったことを思い出した。
「ね、布団、入ってもいい」
「ええ、いいわ」
 布団の隣には、古明地こいしが座っていた。私は背を向けていたけど、気配がした。彼女は布団に潜り込んで、私の背中にぴっとりくっつく。
「えっと、ごめんね。こいし、ちょっとふざけすぎちゃったかも」
「いいわ、もう」
 彼女はまた〝こいし〟だった。何故かはわからないけれど、私はそれがなんだか悲しいような、哀れなような気がして、なるべく柔らかい口調で、彼女に返答するように努めた。怒りはもうまったくなかったし、そもそもこいしが出て行ってから、私はずっと後悔していた。
「えへへ、よかった。……ねえ、おねえちゃん。その、こっち向いて」
「ん」
 私が寝返りを打って向き直ると、こいしは私の胸に寄りすがるように体を寄せて、えへへ、と笑う。
 今回のことは、私もこいしに謝らなきゃいけない気もしたけど、それをするのは、やめにした。その代わり、すこしだけやさしくしてやろう。そんな一種傲慢なことを考えると、私がまた、自嘲めいた笑いを零した。
「ねえ、こいしのこと、抱きしめて。恥ずかしかったら、こいしが眠ってからでもいいからさ。……そうだ。こいしね、今日はおねえちゃんに悪いなーって思ってさ。人里でパンフレットの映画を探してきたの。おねえちゃんが私と会ったとき、公園で持ってた、あの新しいやつ。ふたつとも見つけてきたから、今度二人で一緒にみようよ」
 こいしが言っているのは、あの〝F〟から始まる二つの映画のことだろう。地底じゃ、探しても見つからなかったのに。
「イヤ。私、映画は一人で観るって決めてるの。それに私、ほんとに気になった映画しか、探したりしないんだから」
 私がそう言うと、こいしは、そっか、つまんないの、と笑って、そのまま眠ってしまったようだった。
 私に体を密着させて、こいしはすーすーと寝息を立てている。私はそんなこいしの体を、そっと抱きしめてみる。殆ど初めて触れたこいしの体は暖かく、柔らかかった。そして何より、心許ないほどに、小さかった。背中に腕を回すと、そこから心音が伝わって来るほど、こいしの線はか細くて。でも、その心音が果たしてこいしのものだったかどうかは定かではない。
 そうしていると、次第に、どういうわけか。この細い体を、心もとない小さな体を、めちゃくちゃにしてやりたいような気が起きた。思いっきり、折れてしまいそうなほど抱きしめてやりたいような気もしたし、くすぐって、静かな眠りから覚ましてやりたい気もした。その刹那、或いはおもむろに、私の中にまた一つ、感慨が湧いた。
 その感慨は言葉としてではなく、ぼんやりとした靄として私の脳内、或いは私を俯瞰する私の視界を占拠した。白む視界の中、私は彼女と抱き合っている。その格好はやはり、ひどく滑稽に見えるのだった。
 瞬間。あのときの、古明地さとりとの会話を思い出す。

『それじゃあ、私はこれで失礼します。あぁ、橋姫の子のあなたなら、私も安心です。』

 ああ、私はやっぱり、橋姫の子だった。

「ん、んん……。あれ……おねえちゃん、まだ起きてるの。……そうだ、言い忘れてた。……おやすみなさい」

「ええ、おやすみ」

 そのまま、私は朝が来るまで、かつての寝室の匂いを懐かしんでいた。


   四


 目が覚めると、こいしは隣にいなかった。こいしを探すわけでもなく、私はふらふらといつもの部屋へと歩く。軋む廊下はらしくぎいぎいと音を立てる。部屋に入って時計を見やれば、針は正午を指していた。いつもなら、私はきっかり六時に起きる。割合寝過ぎてしまったが、まあ、たまにはこんな目覚めも悪くない。
 一風呂浴びて部屋に戻ると、ちょうど、こいしが帰ってきた。
「おはようおねえちゃん! 今日は自転車を買ってきました! ね、今日は二人で里に行こうよ。あ、おねえちゃんお風呂入ってたの? わたしもすぐ入ってくるから、その間に準備しててね」
 彼女は嵐のように捲し立てると、廊下をどたどた言わせて風呂へ飛び込みに行ってしまった。
「自転車」
 私は半ば狐につままれたようや気分になり、ふらふらと家の戸口を出た。戸口の前には、真新しい自転車が一台、我が物顔でそこに在った。
「自転車だ」
 時刻は無論正午だったが、私はそのとき、たしかに朝の気配を感じた。

「あはは! 楽しいね、おねえちゃん。景色がどんどん流れていくよ」
「そりゃ、あんたは楽しいでしょうよ。これ、疲れるったらないわ」
 昼下がり。私は久々に地上に出て、彼女を乗せた自転車のペダルを漕いでいる。自転車に乗るのは初めてだったが、地底を出る頃にはもう慣れた。地上の空は馬鹿みたいに広く、阿保みたいに青かった。雲ひとつない空の下、木々は僅かにその葉を朱く染め始めている。
「うーん! 空気が澄んでるね、暑くもなければ寒くもない。でもちょっと肌寒い。〝ザ・秋〟だね、おねえちゃん」
「そうかしら、まだ木の葉が緑色よ」
 気がつけば夏は終わっていたらしい、地底に住んでると、時間感覚も、季節感も狂う。まあ、私はあまり地上には出ないので、あまり関係ない話だけど。無論、私は根暗じゃなければ、人が苦手ということもない。こともないが、今日は助かった。今日の人里は、人通りが少なくて、妙に静かだった。
 されど、通りを行く人々こそ少なかったが、それでも一人一人の怪訝そうな視線は私たちに突き刺さった。しかし、私はそれほど悪い気はしなかった。ああ、ともすれば、あの公園の〝あの〟アベックも、こんな気持ちだったのかもしれない。
 いやいや違うな、まず前提が違う。私はこいつと付き合っているわけでもないし、あのアベックのようにいやらしいことはしていない。久々に地上に出たせいで、私はどうかしてる。
「うーん、風がゆっくり吹いてて、気持ちいいなー。ね、おねえちゃん。自転車で里を走ってると〝街〟を感じない?なんか、ハイカラでさ」
 こいつは急に何を言うのだろう。
「感じないわよ、こんなど田舎。そんなスクーターブームのときの若者みたいなこと言って、ますます田舎くさいわ」
「スクーターブームって、なあに」
 以前、ヤマメとキスメと遊んだ時に、洞穴に落ちてた雑誌を読んだことがあった。曰く外の世界には〝スクーターブーム〟なるものがあって、その渦中、若者は皆一様に〝スクーターに乗って都会を走ると〝街〟を感じる〟と主張したそうな。
「さあ、私もよく知らないわ」
 里には、穏やかな風が吹いていた。

 自転車で走っていると、すぐに里を抜けてしまった。帰ろうかとも思ったが、こいしが楽しそうだっから、そのまま少し走り続けた。緩やかにせせらぐ川沿いだったり、柳の立ち並ぶ小道だったり、色んな景観の中ををゆっくりと走り抜けた。
 見知らぬ寺の階段の前、小さいながらに風情のある墓地の前で、なにやらこいしが私を引き止めた。
「なによ」
 こいしはじっと、墓地の方を見つめていた。墓地の向こうの高いところに寺の屋根が見えていたけれど、彼女があんなものを注視するはずもない。私は墓地に何かがあるのだろうと考え、暮石の一つ一つへ目を遣った。そうして私は、暮石の一つに黄色い蝶がとまっているのを見つけた。おそらく彼女は、あれを見ているのだろう。
「なに、蝶がそんなに珍しい?」
「え?」
 こいしは蝶を見るのに夢中になっていたようで、なにやらハッとした様子で私に答えた。私は蝶を指差して、
「あの蝶がそんなに珍しいかって聞いてるの」
 と言った。
「あ、ああ、うん。結構、珍しい蝶なんだよ。外の世界ではそんなに珍しくもないみたいだけど、キチョウっていってね、秋のキチョウは模様が違うの。ほら、前翅表の黒い縁取りが夏のキチョウと比べて少ないし、代わりに裏の黒い斑点が目立ってるでしょ? ……あ、見えるわけないよね、ここからじゃ」
「あんた、意外と物知りよね」
 私が言うと、こいしはえへへ……と気まずそうに笑った。
 意外と言えば、彼女は意外と金を持ってる。浴衣にしたって、自転車にしたって、映画のビデオにしたって、どれもそんなに安いものではないはずだ。彼女は一体どこからそんな金を工面しているのだろう。私が一瞬そんな方向へ思考をとばすと、こいしはおもむろに、
「せっかくだから、近くに行って見てみようよ」
 と言った。
 私は自転車をその場に停めて、こいしと一緒に墓地へと入った。
 しかし、当然と言えば当然だけど、キチョウは私たちが近づくと、ひらひらと宙へ逃げてしまった。私たちはぼんやりと、それを見送ったのち、地底への帰路に着くのだった。

 それからまたしばらく経った。あれからあの寝室には入らなかったけれど、私とこいしは夜抱き合って眠るようになった。私はその都度、彼女をめちゃくちゃにしてやりたい気が起きて辟易としたし、また、優しい気持ちにもなった。きっかけは、間違いなくあの夜にこいしの体に触れたことだ。私はやっぱり、そんな自分を白々と滑稽に感じながら日々を過ごした。
 そんなある日のことだった。私は、こいしにどうしても話したいことがあって、彼女を公園に誘った。何度もやめようと考えたが、私はそもそも〝綺麗で清潔なもの〟ではない、と自分に言い聞かせて、納得した。自分から彼女を誘うのは初めてだったので、少し緊張したのだが。しかしこいしは、然程驚いた様子もなく、
「ちょうどよかった、私も話したいことがあるの」
 と言って、準備を始めた。
 公園に向かう道中、私は例のソーダ水を買った。こいしにも買ってやろうと考えたが、こいしはそれを断った。これ、嫌い。とのことだった。
 公園の入り口は、あいも変わらず『夜間侵入禁止』の看板が貼られており、フェンスの内側には生意気に緑が茂っていた。
 いつものベンチに腰を下ろして、私は彼女に語りかける。
「あのさ」
 その言葉を、彼女、古明地こいしは、
「おねえちゃんに重大発表!」
 と、遮った。
 こいしはベンチから立って、私の顔の前に立った。私はふと、こいしにここで驚かされたことを思い出す。
 そしてこいしは朗らかに、その口を開いた。
「わたし、おねえちゃんの恋人をやめます!」
 瞬間、地底に鈍い風が吹いて。地底の風に靡いた彼女の髪は、翡翠の色とも、浅葱の色ともとれぬ色をして揺れた。公園はなんとなく、夕暮れの色をしているような、そんな気がした。
「理由はいろいろあるんだけどね。でも、おねえちゃん、つまんなさそうだったから。私と手を繋いで歩いてくれても、私を抱きしめてくれてるときも、おねえちゃん、上の空って感じで、なんかつまんなさそうだった。わたしね、別に、お互いが同じ気持ちである必要もないって、思ってたんだけど、でもやっぱり、わたしは同じ気持ちの方がいいなーって、思ったの」
 こいしは朗らかに喋り続ける。その朗らかさの裏に、なにか空元気めいた感情を察したけれど、私はやっぱり、ただなんとなく、ずるいな、と思った。
 なにより、彼女が彼女なりに、恋についての解を持っていることが、私には辛辣だったような気もする。
「でもね、でもね。べつに、おねえちゃんが嫌いだからやめるんじゃないよ。おねえちゃんと一緒にいるのは楽しかったし、面白かったもん。……でもね、わたし、ほかにやりたいことが出来ちゃったの!」
 彼女は一寸間を置いて、言い放った。
「わたし、僧侶になる!」
 宇宙みたいだな、と私は思った。
 気がつくと、古明地こいしは私の前から姿を消していた。あれ、私は、なにを話そうと思ってたんだっけ。忘れてしまった気もすれば、元から考えなしにここへ来た気もする。とにかく私に分かったのは、私はやはり、滑稽だということだった。

「あら?」
 公園を出ると、今最も会いたくないやつがいた。そいつは果物のたくさん入ったバスケットを下げていて、買い物帰り風の出で立ちでそこに立っていた。やっぱり、バナナがやけに多かった。たくさんの黄色いそれは、妙に私の不快を煽る。
「……みてたの?」
 私が言うと、そいつはきょとん、とした顔をした。あー、しまった。
「……いま、視ました。こいしがご迷惑をお掛けしたようで、私から謝罪します。うちのこいしが、ごめんなさい」
 今最も会いたくないやつランキング二ヶ月連続1位に輝いた古明地さとりは、そう言って、ゆっくりと頭を下げた。私は今にもこいつの瞳を潰してやりたい気になった。
「まあ、そんな。あなたが気にすることないじゃないですか。悪いのは、こいしなんですから」
 ああ、もう。
「だけど、本当に感謝しています。やっぱりあなたを信じて正解でした。こいしを一ヶ月も保護してくれた上に、次に彼女が向かった場所まで教えてくれるなんて」
 教えたつもりはなかったが、どうやら全部読まれるらしい。も、帰りたいな、わたし。
「ええ、ええ。こいしが寺に向かったのは分かりました。ああ、でもどうしましょう。こいしが頭を丸めてしまったら。でも、それはそれで可愛いかもしれませんね」
 さとりとの一方的すぎる会話の中で、私はこの姉妹に共通する要素を見つけた。
「それじゃあ、私はこれで失礼します。あぁ、なにかお礼をしなくてはいけませんね。ごめんなさい、ちょうど良いものを持ち合わせがていないので、これを一房差し上げます。後日、きちんとお礼をさせていただきますね。えっ、もう十分だ? そうでしたか、失礼しました。それじゃあ水橋さん、重ね重ね、本当にありがとうございました。それでは」
 この姉妹に共通していることは、紛れも無く。二人とも、まったく悪意がないことだった。
 古明地さとりに手渡された一房のバナナは重く、右手に握るソーダ水はイヤにぬるかった。
 そして、不快なまでに黄色いバナナも、赤い何かで割られたソーダ水も、イヤというほど甘かった。カブトムシか、私は。


   エピローグ


 それからまたまた、しばらくが経った。あれからの私の日常はめまぐるしかった。とはいっても、自分でそうなるように仕向けたのだが。
 先ず私は、遊郭に行った。遊郭に行って、古明地こいし似の、例の彼女を買った。しかし、部屋に入っても私はなにをするでもなく、彼女と会話を交わすのみだった。
 彼女は驚くほどふつーの人間だった。
『お話だけして帰る人、結構いるよ』
 みたいなふつーの会話をした。以前彼女が一緒に歩いていた男について尋ねたい気持ちも起こったが、私はそれを聞くことをしなかった。あの男はどうにも〝モテそう〟だったから。帰りしな、彼女は、
『どうせなら、キスぐらいしていく?』
 なんて提案をしたが、私はそれを断った。理由は特にない。
 それから、こいしの置いていったものについて。
 まず、着物は売った。自転車は〝B〟のアベックにくれてやった。前に自転車を蹴り飛ばしてしまったお詫びに、と言ったら、彼奴等は怯えながらそれを受け取った。そして、部屋だが、部屋は元に戻すのが億劫で、そのままにしてある。無論、棚の中のパンフレットは色ごとに並べて、重ねられている。
 それから、〝F〟から始まる例の映画を二つとも観た。やはり二つとも、パンフレットを見てたときが一番楽しかった。
 ヤマメとキスメは別れたらしく、私の心の平穏は、二人の席の近さと同時に戻った。
 地底の深部にも行った。あの白いアネモネを探しに行ったわけだ。広い空洞のなか小さな花を探すのは骨が折れそうだ、そも枯れてしまっているのではないか、と覚悟して深部に降ったが、意外なほどにそれはすぐ見つかった。やはり、アネモネは作り物のような美しさでそこに在った。私はそれを摘んで自宅に戻り、キスメに貰った桶に土を入れて、植えた。その際に気付いたことだが、作り物のような美しさを放つその花は、まさに造り物だったのだ。私は悔しくなって、自分で同じぐらい綺麗な白い花を咲かせてやろうと、地上に種を買いに行った。妙な威圧感を放つ妖怪から、一年中どこでも育つアネモネの種を買って、それを育てた。しかし、ようやく咲いたアネモネの色は、驚くほどに紅かった。
 それから私は、少し汚れてやろうかな、とタバコなぞを始めてみた。それが、今現在である。私は地底の橋の欄干に肘をついて、淀んだ川を眺めているというわけだ。
 地上はもう冬らしく、地底もそれなりに冷え込んできて、私はマフラーなぞを巻いてるし、ニットなぞすら被っていた。長年、地底は季節の影響など受けない、と主張ししてきた私だったが、あれは嘘だ。夏は暑いし、冬は寒い。
 橋の上から眺める川は、今日も汚濁に淀んでいる。ガラクタやら骨やら肉やらが大量に流れていくその川は、もはや川と形容するには汚れすぎていた。私はそんな川に、自宅から持ってきた〝F〟から始まるビデオを二つとも投げ捨てた。ぐらぐら揺れながら川に落下したビデオ二本は、すぐに汚濁に紛れて見えなくなった。とても心がスッとしたので、吸っていたタバコも箱ごと川へ投げ捨てた。やはり、とても心がスッとした。それからしばらく、私は欄干に肘をついたまま、ぼんやりと川を眺め続けた。
「ああ、妬ましい」
 気付けば私の口からは半ば口癖と化したいつものそれが意味もなく溢れていた。
 頭上に開いた地底で唯一の大きな風穴から覗く空は、ひたすら高く、遠く。冬空らしい淀んだ灰色をしている。そんな真冬の鈍い陽が私の真上に昇る頃、私は一つため息を吐いて、いつもの店に向かうのだった。
さいごまで読んでくれて本当にありがとうございます。
こだい
コメント



1.名前が無い程度の能力削除
これだけの文章を記すエナジーは感服する
2.名前が無い程度の能力削除
妖怪の山に恨みでもあるのかと言うレベルの濃さの長編(?)が混じってて笑いました
全体的に心の機微が生々しい辺りが妙に印象に残りますし、時には笑いました
椛の懊悩は特にこちらにダメージを与えてきますし、最後には希望が見出されて割と読後感さわやかだったのも良かったです
こいしちゃんは通してトリックスターやな
むしろ会話が無さそうなのは咲夜と鈴仙では無いかと思いつつ結局鈴仙来ないのかよとか
そんな感じです

>「え! クビですか!」
マジで寝耳に水だったんやなと言う、強大な妖怪らしからぬ驚愕度合いと、クビと言う単語の響きの合わせ技で一番笑ったセリフです