昭和1X年(194X年)、東南アジア某島。夜の密林を、日本軍の歩兵部隊が行軍していた。
隊列は辛うじて整然としていたが、歩く兵の表情は疲労が色濃く、足取りも重い。
補給は先細り、敵軍の攻撃は苛烈を極め、部隊は遠く離れた街へ撤退する道中であった。
その隊列の後方で、ある上等兵がぼんやりとしてよろめいた拍子に、足を滑らせ道端の古井戸へ転落してしまった。
月明りすら無い闇夜、しかも同僚は疲弊していて上等兵の転落に気づく余裕などない。
上等兵が落伍したことなど誰も知らず、部隊は黙々と密林の道を進んでいってしまった。
一方、転落した上等兵は強かに打ち付けた背中や肩に走る鈍痛に顔を顰めながら、よろよろと立ち上がった。
鉄兜を被った頭を擦りながら、上等兵は自身の身体の状況を確認する。足腰は問題なく、骨折もしていない。
背嚢を置いて腕を伸ばしてみたが、井戸の縁には届かない。よじ登ろうにも取っ掛かりがなく、手詰まりだった。
「はぁ、不運だった。こんな密林で俺の一生は終わるのか…」
背嚢に腰を下ろし、上等兵は頭を抱えて暗涙に咽ぶばかりだった。その脳裡に、故郷の懐かしい光景が浮かぶ。
黄金色に実る稲穂、畦道に咲く緋色の曼珠沙華。そして、尋常小学校へ続く坂道に建つお堂で見守るお地蔵様…
「あぁ、お地蔵様。どうかお助け下さい…」
子供のころ見守ってくれていたお地蔵様の優しい笑みを思い浮かべ、上等兵は血マメと皸だらけの手を合わせて祈った。
その時、上等兵の頭上を明かりが差した。井戸の底を照らすのは、白色の和紙で作られた提灯だった。
無論、提灯が独りでに浮遊しているはずはない。提灯を掲げていたのは、黒髪をおさげに結った少女だった。
「大丈夫? この縄を使って登れる?」
少女は京人形みたいに可愛らしく整った色白な容貌で、鈴を転がすような声は上等兵の聞き慣れた母国語だった。
安堵した上等兵は背嚢を背負うと、井戸の縁から降ろされた縄をよじ登って古井戸から脱出することができた。
井戸の傍らに落としていた三八式歩兵銃を拾い上げ、上等兵は助けてくれた少女に礼を述べる。
「ありがとう、君の名前は…」
「ついてきて」
ねずみ色の洋服を着て大きな笠を被った少女は上等兵の質問には答えず、提灯で前方を照らしながら歩き始めた。
悪路にも関わらず、現役軍人の上等兵が速足で歩いても草鞋を履いた少女とはなかなか差が縮まらない。
やがて、道は密林を抜けて開けた場所へ出た。ここから部隊の駐留する街までは目と鼻の先だ。
「ここまで来れば大丈夫…」
そう言って少女は振り返り、優しく微笑んだ。提灯の淡い光に照らされたその笑みが、上等兵の故郷のお地蔵様と重なる。
子供のころ、登下校を見守っていたお地蔵様。その時、上等兵は眼前に佇む少女がお地蔵様の化身であると唐突に悟った。
「あなたは、坂のお地蔵様ではありませんか…?」
自身に起きた奇跡的な体験に上等兵は目を見開き、銃と背嚢を地面に置いて深々と平伏した。
「助けていただき、ありがとうございます! 必ず生きて故郷に帰り、お礼に参ります!」
井戸の底で流した冷たい涙ではなく、感涙にむせび泣きながら上等兵は湧き上がる感謝の言葉を叫んだ。
そうして上等兵が頭を上げると、そこに少女の姿はなかった。上等兵は荷物を担ぎなおし、駆け足で部隊へ戻った。
上等兵は上官に仔細を報告した後、故郷の家族へ手紙を書いてお地蔵様にお礼参りするよう頼んだ。
その手紙を受け取った家族は非常に感動し、戦時下で手入れの行き届いていないお堂を修復して丁重に参拝した。
そのお堂には、だれが持ってきたか分からない白い提灯が一つ、置いてあったそうだ。【完】
隊列は辛うじて整然としていたが、歩く兵の表情は疲労が色濃く、足取りも重い。
補給は先細り、敵軍の攻撃は苛烈を極め、部隊は遠く離れた街へ撤退する道中であった。
その隊列の後方で、ある上等兵がぼんやりとしてよろめいた拍子に、足を滑らせ道端の古井戸へ転落してしまった。
月明りすら無い闇夜、しかも同僚は疲弊していて上等兵の転落に気づく余裕などない。
上等兵が落伍したことなど誰も知らず、部隊は黙々と密林の道を進んでいってしまった。
一方、転落した上等兵は強かに打ち付けた背中や肩に走る鈍痛に顔を顰めながら、よろよろと立ち上がった。
鉄兜を被った頭を擦りながら、上等兵は自身の身体の状況を確認する。足腰は問題なく、骨折もしていない。
背嚢を置いて腕を伸ばしてみたが、井戸の縁には届かない。よじ登ろうにも取っ掛かりがなく、手詰まりだった。
「はぁ、不運だった。こんな密林で俺の一生は終わるのか…」
背嚢に腰を下ろし、上等兵は頭を抱えて暗涙に咽ぶばかりだった。その脳裡に、故郷の懐かしい光景が浮かぶ。
黄金色に実る稲穂、畦道に咲く緋色の曼珠沙華。そして、尋常小学校へ続く坂道に建つお堂で見守るお地蔵様…
「あぁ、お地蔵様。どうかお助け下さい…」
子供のころ見守ってくれていたお地蔵様の優しい笑みを思い浮かべ、上等兵は血マメと皸だらけの手を合わせて祈った。
その時、上等兵の頭上を明かりが差した。井戸の底を照らすのは、白色の和紙で作られた提灯だった。
無論、提灯が独りでに浮遊しているはずはない。提灯を掲げていたのは、黒髪をおさげに結った少女だった。
「大丈夫? この縄を使って登れる?」
少女は京人形みたいに可愛らしく整った色白な容貌で、鈴を転がすような声は上等兵の聞き慣れた母国語だった。
安堵した上等兵は背嚢を背負うと、井戸の縁から降ろされた縄をよじ登って古井戸から脱出することができた。
井戸の傍らに落としていた三八式歩兵銃を拾い上げ、上等兵は助けてくれた少女に礼を述べる。
「ありがとう、君の名前は…」
「ついてきて」
ねずみ色の洋服を着て大きな笠を被った少女は上等兵の質問には答えず、提灯で前方を照らしながら歩き始めた。
悪路にも関わらず、現役軍人の上等兵が速足で歩いても草鞋を履いた少女とはなかなか差が縮まらない。
やがて、道は密林を抜けて開けた場所へ出た。ここから部隊の駐留する街までは目と鼻の先だ。
「ここまで来れば大丈夫…」
そう言って少女は振り返り、優しく微笑んだ。提灯の淡い光に照らされたその笑みが、上等兵の故郷のお地蔵様と重なる。
子供のころ、登下校を見守っていたお地蔵様。その時、上等兵は眼前に佇む少女がお地蔵様の化身であると唐突に悟った。
「あなたは、坂のお地蔵様ではありませんか…?」
自身に起きた奇跡的な体験に上等兵は目を見開き、銃と背嚢を地面に置いて深々と平伏した。
「助けていただき、ありがとうございます! 必ず生きて故郷に帰り、お礼に参ります!」
井戸の底で流した冷たい涙ではなく、感涙にむせび泣きながら上等兵は湧き上がる感謝の言葉を叫んだ。
そうして上等兵が頭を上げると、そこに少女の姿はなかった。上等兵は荷物を担ぎなおし、駆け足で部隊へ戻った。
上等兵は上官に仔細を報告した後、故郷の家族へ手紙を書いてお地蔵様にお礼参りするよう頼んだ。
その手紙を受け取った家族は非常に感動し、戦時下で手入れの行き届いていないお堂を修復して丁重に参拝した。
そのお堂には、だれが持ってきたか分からない白い提灯が一つ、置いてあったそうだ。【完】