結界に閉ざされた幻想郷の、さらにその空の彼方。死者の魂の行く果ての冥界に、花の季節を除いては、生身のまま訪れる者は少ない。
行けども続く冷たい石の階段、奥には人魂をその身に集わす亡霊の姫。血の通った身をもつ者には、桜の彩りなしにはあまりに寂しく暗い場であった。
冥界にたたずむ幽霊の住処、白玉楼では庭師の魂魄妖夢が樹木の剪定をしていた。生命の息吹の乏しい屋敷に木々が色彩を与えるためのこの仕事は、彼女の重要な日課である。
仕事を一通り終え、しばし息をつこうとした彼女は門前に気配があることに気がつく。来客である。しかし、桜の葉も落ちて久しいこの時期、それも花見客用に開かれた裏門ではなく正門から訪ねる客などそういるものではない。しかも、屋敷の数少ない訪問客である八雲紫が正門を通って入ることはまずない。境界を操る彼女は神出鬼没。いつの間にか客間に現れ、主の西行寺幽々子と何やら世間話をはじめている。時おり説教と幽霊管理の話に来る閻魔はつい先日これからしばらく仕事続きだということで、言いたいことを端から述べた挙句に帰っていった。だとすれば、門前に立つ者はそれ以外の者。物盗りか、刺客か。いや、それもない。わざわざ冥界に入ってまで物を盗もうとする物好きもなければ、霊の住処に討ち入る理由のある者もない。そうした者があるとすれば、異変あらばところかまわず押しかけて来る連中くらいである。とはいえ、今回ばかりはその連中が騒ぎ立てる事態などありそうにない。まして、その連中は行儀よく正門に立ってこちらが現れるのを待つ類の者ではない。では何者か。自然、門を開ける妖夢に緊張が走る。
開けてみると、立っていたのは小柄な少女だった。紫の髪に、じっとりとこちらを見つめる赤みがかったやはり紫の瞳。胸には眼球を模した細工のようなものを提げている。はじめて見る顔である。
「誰だろう、ですって?そうね、私もあなたを知らないわ。
あなた、新しい庭師?ずっと前からここにいる?そう…」
一方的に話を進める少女を妖夢は怪訝に見つめる。背の丈は自分と変わらない。むしろ向こうの方が少し小さいくらいではないか。それに、身は小さくとも屈強な鬼や吸血鬼のような猛々しさもなく、見るからに華奢で弱々しげな風貌である。にもかかわらず、自分は目の前の少女に圧倒されている… 妖夢が客人の前でこうした思いにふけっている自身に気づいたとき、少女は突然切り出した。
「妖忌さんのご血縁の方かしら? お孫さん… お弟子さんでもあるのね。
ごめんなさいね、さっきからわたしが話してばかりで。
これも種族の癖みたいなものだから、どうか気になさらないで」
「祖父を、魂魄妖忌をご存知なんですか? あっ、いえ、その… 失礼しました…」
初対面の客人に思わず尋ねてしまう無礼に赤面する妖夢に、客人の少女は静かな声でやわらげに語りかける。
「長らく行く方が知れないようでは、無理もないわね。
随分前… 妖忌さんがまだいらした頃、何度かこちらを伺ったことがあるの。
いまの白玉楼の様子も分かったことですし、ご主人を呼んでいただけないかしら。
わたしは古明地さとり、怨霊のことでお話がしたい。それだけ言えば伝わるわ」
言づてしたところ、幽々子は「通してさしあげて」の一言だった。
茶と菓子をもって客間に入ると、少女は上座に座していた。紫が休んでいる間、白玉楼に言づてに来る八雲藍は当然下座に置かれる。妖夢が幽々子の上に座る者を目にするのは、紫と閻魔のほかにはなかった。しかも、紫が襟を正して幽々子と対面するのは改まった用件のあるときに限られており、また改まった話しかしない閻魔もだいたいは門前で長々と己の思うところを述べては、せわしげに帰ってゆく。それゆえ、実際に彼女らが幽々子の上に座るのを、妖夢は数えるほどしか見ていない。
この少女は少なくとも何者かの従者などではない。おそらくは我が主と同格の大妖怪である。それも、昔なじみが顔を合わせに来たのではない。自分のあずかり知らぬ重大な懸案をもって訪ねたのだ。門を開けたときとは別種の、しかしより強い緊張を妖夢は感じる。事を済ますと、妖夢は即座に客間を立ち去り、喉の奥に詰まっていた固い息を吐いた。
「あなたがわざわざ来られるなんて、随分と久しぶりよね」
「そうね… それにしても可愛らしい方が従者になったようね。
冥界は変わらないだろうと思って伺ったのだけれど、長らくご無沙汰していれば、
いろいろと移ろゆくものね…
あなた方は悪趣味に感じるようだけど… 事の次第は先ほど聞かせていただいたわ」
「妖夢の心に、ね。
あなたが最後に見えたのは六十年前の花の異変。地上に霊があふれないよう、あなたに力添えを頼んだとき… あの頃にはまだ妖忌もいたわね。
あのときはこれで暫く一安心、と思いきや、先の花の異変では怠け者の死神のせいでそれも無駄になってしまったのだけど… 怨霊が地底で抑えられたことには感謝するわ」
「礼には及びませんわ。わたしは地霊殿の主として当然のことをしたまで。
それより、そろそろ本題に入るべきようですね」
心を読まずともさとりには分かる。滅多に地霊殿の外に出向かない彼女が、白玉楼にまで足を運ぶからにはそれなりの理由がある。その一事だけで、幽々子は事が深刻であることを察知している。それゆえに、早いうちに用件を切り出さなければならないことは明白である。
「先日鴉に持たせた手紙の通り、
このごろ地底に怨霊でない霊魂が現れるようになったことについて、ご相談申し上げたいのです」
「……ええ、そうね。その代わりうちの幽霊は少しずつだけど、減っているわ。
地上の死者の数そのものは変わっていないようだから、ここしばらく案じてはいたのだけど」
「その原因として考えられるのは、…そう、幽明の結界の破れ。
さすがはあなた、察しがよろしいようですね」
「真っ先に思い当たるものはほかにないもの。
幽霊のうち地底に残る怨霊に縁あるものがその呼び声に惹かれて地底に集うようになった… そうでしょう?」
幽々子が攻守逆転とばかりに、さとりの意図を明かす。
そもそも怨霊とは幽霊とともに霊魂の一類型をなし、その本質的な違いは死の間際に遺した怨恨の相対的な大きさのほかにはない。霊魂のうち、善行を積み救済に値すると判断されたものが天界に行き、そうでないものは冥界で転生を待つ幽霊となるか、地獄で罪をあがなう死霊となる。そうした死霊のなかでも死してなお深き怨恨を抱くものが怨霊と呼ばれ、かつて灼熱地獄であった地底には依然そうした霊魂が集まっている。
幽霊と怨霊は同じ霊魂である以上、本来ならば互いに呼び合い、相集うこともあるはずである。しかし、その声が届くことはなく、届いたとしても互いに集い会うことはできない。幽明の結界がそれを阻むからである。その例外としてごくまれに、強大な力をもった幽霊が冥界を抜け出し、地底に行くことはこれまでに何度かあった。ところが、今回は西行妖の異変で結界そのものが弱まり、その隙をついてごく普通の幽霊までもが冥界を離れ、地底の怨霊の中に紛れ込むようになったということである。
「いつもみたいに逃げた霊が一つや二つならすぐにでも呼び寄せられるのだけど、幾百の幽霊を一度に呼び戻すとなると、地底は少し遠すぎるわね…
だからといって、一つずつ帰すのではきりがないし…」
「やはりそうですか… 何かよい手だてがあればよいのですが…」
互いに沈黙のまま、時間だけが経過する。重たい空気の中で、幽々子が先に口を開く。
「この話、しばらくわたしに預けてくださらないかしら」
「そうですか。これについてはあなたに一任というわけにも参りませんから、
わたしのほうでも、またしばらく考えさせていただきます。
それでは本日のところはこれで…」
お暇します、の言葉が口から出る先に、意識を読んでしても気付きえない、幽々子の一言が不意をついた。
「さとりさん、がっつくようで悪いのだけど…
そのお菓子、手をつけていないようだったら余っている分、私にくださらない?
大好物なの、それ」
「…あなたには敵いそうにありませんね」
さとりが茶菓子に少し賞味するだけで満足し、持ち帰りをすすめたところで持て余してしまうことを、以前の訪問で幽々子は感づいていた。
「どこかの吸血鬼もそうだけど、体が小さいと自然に食も細くなるのかしらね。
私からすれば、もったいない話だわ」
二人が話している最中、これまた幽々子自身の意識の表面にのぼる間もなく、幽々子の前に置かれた茶菓子はすっかり無くなっていた。
客を送り、緊張を解かれた妖夢は、幽々子の下に送迎を終えた旨を伝えに馳せ参じる。
「あの客は何者? そうね、妖夢はまだ知らなかったかしら。
なぜわたしが妖忌の孫だと分かった? どうしていつも図星をつかれる?
あら、質問は一度に一つずつするものよ」
幽々子が返した言葉に、妖夢は心臓をつままれた思いになる。
「だって妖夢の顔にそう書いてあるもの。心を読まなくたって分かるわ」
「えっ…」
思わず声をあげる。客人を訝しげに思う気持ちが顔にまで表れていたのではないか、もしかすると、あの客に無礼な従者だと思われ、我が主人にもそう告げられたのではないか… そうした念に駆られ、妖夢はますます動揺する。いつものように自分の思惑通り、素直に驚いてくれる従者の姿を幽々子は微笑みを浮かべながら一通り見つめたあと、種明かしをはじめた。
「心を読む妖怪、ですか…」
「そう。人にも物の怪にも嫌われ、鬼とともに最初に地底に隠れた妖怪。
紫がいうには、鬼と覚は気質が正反対で、特にお互い避けあっていたみたいね。
鬼からすれば、覚は付き合いが悪くて嫌味ばかり言う薄気味悪い連中、
覚からすれば、鬼は何かとあれば乱痴気騒ぎに喧嘩沙汰の野蛮な連中。
そんな二つの種族がいまや地底で一緒になるなんて皮肉な話だ、って。
もっとも、同じ地底に住んでるからといって、ほとんど交流はないみたいだけど。」
「あの鬼が避ける妖怪だなんて…
失礼ながら、あの方はそれほど強そうなふうにはお見受けしませんでしたけれど…」
「確かに覚が鬼と喧嘩したところで、束になっても敵わないわね。
その気になれば鬼は覚をすぐにでも絶やすことができるはず。
でも、鬼は覚と決して争い事を起こしたくないの。そのわけは二つ。
一つは記憶の古傷を呼び起こし、心をさいなむ力。
もう一つは数多の怨霊を従わせて相手を祟り、魂を奪う力。
さしもの鬼も心と魂までは力で守れないから、地底のつりあいが保たれているようね」
「はあ…」
人妖から忌み嫌われ、地上から追い出された妖怪が棲むという地底。漠然とは知っていたけれども、なにもかも耳新しい話に妖夢は間の抜けた感嘆の声を漏らすばかりであった。しかも、そうした地底の妖怪が自分の主と同じように霊魂をつかさどり、時にはこの白玉楼に赴いていたとなると、ただただ己の無知と世の中の広さを思い知らされる次第である。
「そうだわ、妖夢。今度のお仕事、あなたに少し手伝ってほしいの。いいかしら?」
「今度のお仕事、って もしかして…」
これだけ地底と怨霊の話を聞かされた後にこう切り出されては、悪い予感しかしない。
「大丈夫よ。わたしとさとりさんがいれば、何も心配することはないわ」
再び幽々子が微笑みを浮かべる。こうなっては、従者として主の言葉に絶大な信頼を置かざるをえなかった。
「お手紙は拝見しました。
今回は致し方ないとはいえ、地上にはまだ私を嫌う妖怪がいくらでもいる以上、
そちらの妖怪の力をお借りするのは本意ではなかったのですが…」
小さな陰陽玉から声が聞こえる。なんでも、この度の責任は結界の修復に手を抜いてほころびをつくってしまった紫にあるということで幽々子が紫に作らせたという。これを使えば、もう一つの珠をもった相手と距離を隔てていても会話ができるという代物である。
「あら、地上も随分と変わったものよ。
そのうち、あなたのところの鴉や猫ちゃんも、日向ぼっこに来るようにもなるかもしれないわ」
「わたしには、そうは思えないのですけどね…
それで、今日はそちらの可愛い庭師さんが手伝ってくださるそうね。
では妖夢さん、今からお願いできるかしら?」
「っ… はい、それではっ…!」
またしてもあの幼げな少女の声で、可愛いなどと言われてしまった。しかし、妖夢の心中は恐れと不安で波立っており、そうした言葉を気にする余裕はなかった。
今回の任は、妖夢の半霊が地底に潜り、地霊殿をさまよう幽霊たちを呼び戻すというものであった。本来ならば幽々子自身が地底に赴けば話は早いのだが、地上の妖怪の立ち入りが禁じられる地底にあっては、いくら霊とはいえ、人の形をした幽々子が地底に入れば何かと角が立つおそれがあることは否めず、かといって冥界の幽霊を遣わしたとしても、かえって地底の霊たちに引き摺られてしまうかもしれない。そこで、妖夢の半霊が地底の幽霊たちを説得して地上まで案内し、幽々子がそのまま冥界に連れ帰るというわけである。
地底の妖怪が迷い込んだ霊体に手出しをすることはない。怨霊もさとりやその飼い猫が抑えている限り勝手なふるまいはできない。それに、幸いにもこの度冥界を出た幽霊にはさほど力あるものはいないというから、いざとなればさとりが幽霊の心を読んで彼女に怖れをなさせれば、霊たちはそのまま半霊につき従って地上に出てきてくれるだろう。先に言われたとおり、何も心配することはないはずである。それでも地底につながるほの暗い洞穴の口を見れば、背筋が凍え身が震える思いになる。だが、主のため、冥界のためには我が侭も言ってはいられない。覚悟を決めて、妖夢はその半身を洞穴の中に飛び込ませた。
暗く湿った空気の感触。さらに潜れば妖怪の気配。額に冷たい汗が流れる。高鳴る心音はおさまりそうにない。
「妖夢さん、今どんなところにいるのかしら。地底からでは心は読めないの。
どんな感じがするか、聞かせていただけないかしら?」
さとりの声である。恐怖に呑まれかけていた妖夢はこの声に少しばかり安堵するも、その言葉はたどたどしかった。
「あの… 暗くて気味の悪いところで… まるでお化けが出そうな…」
「お化け… 釣瓶落としや土蜘蛛かしら? まだ深くは進んでいないようですね。
そろそろ地底界の入り口だと思うわ。
それにしても妖夢さん、あまり怖がらなくてもよいのですよ?」
そうは言っても、怖いものは怖い。地底の感覚は、まさしく幼い頃から想像しては怯えていたお化けの世界のそれである。できることなら、今すぐにでも逃げ戻りたい。その思いを必死でこらえて進んでいるところに、二つの緑色の光が脳裏をかすめる。
「いま、緑の光が…」
「きっと橋姫の眼ね。その光を見失わなければ、すぐに旧都に着くと思うわ」
言葉の通り、暗闇からやがて視界が開けてくる。鬼たちの棲む地底の都市、旧灼熱地獄の旧都である。にぎわしい祭囃子、街のざわめき、笑い声… 妖夢もよく知る、鬼の宴の様子そのものである。
陽気な旧都も過ぎればつかの間、見るからに重苦しく、息の詰まる洋館に至る。地霊殿。怨念を抱いた死者の霊と、怨霊さえ恐れ怯む妖怪の居城。下を見れば、なにやらうずくまる人の形が見える。人…?
「ひっ…!」
「きっとわたしの妹の仕業だわ。
あの子、時々こうして気に入った死体を玄関に飾っておくみたいなの。置き物のつもりかしら?
ごめんなさいね、あとで片付けさせるわ」
頓狂な声を上げてしまった。さとりの穏やかなふるまいに慣れて忘れかけてしまっていたが、覚も人を襲う妖怪、それも人里に時おり現れる野良のような生ぬるいものではなく、鬼と並んで人々の恐怖を一身に集めた妖怪である。そうした覚である彼女たちからすれば、人の死体をもてあそぶことなど、人間が野辺の草花を飾りにすることと何ら違いはないのだろう。再び妖夢に戦慄が走るが、怨霊の住処はすでに目と鼻の先。気を取り直して進むほかにない。そこにはさとりが待つはずである。
「あら、いらっしゃい。ようこそ、地霊殿へ。
…挨拶はいいわね。さっそく取り掛かりましょう」
見れば無数の怨霊、鳥やけもの、あかあかと燃え盛る炎。そのなかに、本来冥界にあるべき青白い霊の光、幽霊たちの姿も見える。
「妖夢さん、紹介するわ。
この子が怨霊を見てくれているお燐、向こうの子が火を見てくれているお空。
見た目は頼りないかもしれないけど… いつもこの子たちに仕事を任せているから、力になれると思うわ」
「はい…」
そうは答えたものの、猫や鴉がこれだけたくさんいては、どれがどれだか分からない。もっとも、飼い主からすれば姿かたちはそれぞれ全く違うようだが… しかし、この飼い猫と鴉が頼りになるのは間違いないようで、さとりが指示を与えたところ、すぐに炎はおさまり、怨霊たちは水が低きに流れるように黒猫の周りに引き寄せられていった。そうなれば、この場にただようのは冥界から逃げた幽霊のみである。妖夢は、幽霊たちに語りかける。帰ろう… ここはあなたがたの居るべき場所ではない… 帰ろう… 我が家へ…冥界へ…
しかし、幽霊は応じない。たとえ転生できなくとも、それが道理に背くことであろうとも、この旧灼熱地獄にとどまるという。なぜ… なぜそうまでして、この地であえて責め苦を受けようとするのか… なぜ…
しばらくして、さとりが口を開く。
「やむをえませんね。あれしかないわ。幽々子さん、構いませんね?」
「…ええ」
さとりが、重たげな瞼を持ち上げ、両眼をかっと見開く。幽霊たちはもがき、のたうち、やがてはその場から這いずり出ようととするものが現れる。
「お燐、お空。開けなさい」
扉が開いた途端に、あがき苦しんでいた幽霊たちが外をめがけて大挙し、妖夢の半霊がそれを追う。最後の幽霊が去るや否や、扉は再び閉ざされる。幽霊たちが押し寄せ、幽霊最後の抵抗を試みるが、もう遅い。霊たちはやがて諦め、妖夢の半霊の導くままに地上への帰路についた。
「お疲れ様でした。妖夢さん、本当に感謝するわ。
幽々子さん… あなたの幽霊を苦しめて、本当にすみませんね。
そうした手前でこういうのも恐縮だけど… あとは頼みます」
「…気になさらないで。
霊魂をつかさどる身としては、ときに非情な方策も必要。そういうことでしょう?」
「…そうね。ましてわたしは覚。怨霊をも恐れ怯む妖怪。
鳥やけものたちと過ごすようになって、その本分を忘れてしまうところだったわ。
それでは、結界の管理人によろしく…」
通信が途絶えた。幽々子は立ち上がり、従者の手をとる。
「行きましょう、妖夢…
……あら、あなた泣いてるの?」
知らずのうちに溢れていた涙がいつの間にかこぼれ、とめどなく流れていた。
かの幽霊たちは、伊達や酔狂で地底に飛び込み、好きこのんで責め苦を受けにいったわけではない。
ある幽霊は怨霊たちのうめきのなかに夫の声を聞きつけて地底に潜り、別の幽霊は火車に連れ去られた我が子を求めて地獄の跡をさまよっていた。まだ地底が灼熱地獄だった頃に怨霊となった者を探して冥界を出た古株の幽霊もいた。数百年の別離の果てに互いの声を聞きつけ、たぎる業火を焼かれてまで合間見えるに至った者たちを再び永久に裂くことを、世の定めとして淡々と受け入れるには、妖夢は幼すぎた。感受性が強すぎた。沈着を取り繕っていても、ついに溢れる感情を内にとどめることはできなかった。この思いを洗い流すために、涙が必要だったのである。
見苦しい姿を主に見られたと思い妖夢は赤面したが、すぐに顔をあげて、
「参りましょう」
と、なるたけ溌剌とした声で主に応えた。
白玉楼に帰着したのち、妖夢は幽々子に休養を命じられ、湯を浴びたあと、そのまま床に就いた。まだ日は高かったが、妖夢は昏々と眠った。
夢の中で、妖夢は川辺に集う蛍の群れを見た。
子供が蛍を捕まえようとして川辺に駆けこんだところ、その子もまた蛍になっていた。
妖夢も群れに加わろうとして蛍のなかに近寄ろうとしたが、足を進めれど蛍の群れには一向にたどり着けず、いつの間にか蛍はいなくなり、川辺には妖夢一人が取り残された。
後日、白玉楼に再び訪問者があった。今度の客は幻想郷の閻魔、四季映姫ヤマザナドゥであった。
「西行寺幽々子さんはいらっしゃるかしら。
手短に済むお話ですから、こちらに呼んでいただけるだけで結構です」
渋る主を連れて、妖夢は再び門前に立った。いつものように「手短に」終わる話だろうと思い、妖夢が庭仕事に戻ろうとすると、閻魔は彼女にも話があるという。
心中で深く息を吐いた後、妖夢が身構えて門に立つと、閻魔は思いもよらぬ言葉を口にした。
「本日こちらに伺ったのは、ほかでもありません。先日の幽霊送還の件について、お礼申し上げるためです。
幽霊と怨霊の混在は、人妖の霊魂における秩序の根本を乱し、ひいてはあらゆる衆生の魂を惑わしかねない由々しき事態です。
本来私どもが先に動くべきところを、以前の花の異変で対処が遅れ、申し訳ありませんでした。
お二方とも、本当にご苦労様でした」
不意を突かれる幽々子と妖夢。幽々子はとりあえず説教でなかったことを安堵しているようだが、妖夢はこの礼を素直に受け止めることはできなかった。先の言葉の通り、自分は幻想郷の自然の道理に従い、怨霊のなかに紛れ込んだ幽霊を連れて帰った。しかし、親が子を、妻が夫を思い慕うのもまた自然の情ゆえである。未来永劫に別たれた霊魂の声は今でも耳から離れない。やり場のない思いが、妖夢の胸に去来する。そうした妖夢をまっすぐ見つめて、映姫は言葉を続ける。
「妖夢さん、特にあなたにとっては辛い仕事であったとお見受けします。
未だ互いに思慕の情が消えぬ霊魂を引き離す世の道理については、わだかまる念もおありでしょう。
ですが、愛別離苦は四苦八苦の一つ。人の執着が生む苦しみです。
避けられぬ別れの苦しみに魂をとらわれては、やがて妄執が生まれ、人は罪を犯します。
どうか己の為したことに誇りをもってください。
そう、あなたは少し魂のことわりを知らなさすぎる」
そこまで言って一息つくと、映姫は、今回の件については八雲紫にも一言ある。もし近々あなたのところを訪れるようであれば、ご一報願いたいのですが…
それを期待するのも無駄でしょう、という含みを残して彼女は去って行った。
今頃、紫様は閻魔様の訪問を察知して、さっそくどこかに逃げ隠れていらっしゃるのだろう。
博麗神社の縁側でお茶を飲んでおられるのかもしれないし、もしかするとそろそろ白玉楼にお見えになる頃かもしれない。
そうなれば、幽々子様を連れてまたどこかに行かれてしまい、わたしは留守番を命じられるのだろう。
そう思ってふと屋敷を眺めると、そこではいつものように霊たちがせわしくあちこち行き来している。
魂のことわり… 先の話を聞いても、妖夢にはまだ十分には理解できない。
おそらく主に伺ったところで、いつものように話をはぐらかされ、その未熟さを笑われることは目に見えている。
しばし霊たちの往来を眺めたあと、剪定ばさみを手に取り、妖夢は再び己の持ち場に戻っていた。
いや、しかしこうしてみると幻想郷の秩序ってどんどん崩れていってるんですね。
どこかの神に仕えてそうな作者名ですね。
ふと幻想郷で死んだ者の魂の行方なんかを考え出したところ、霊に縁あるキャラクター同士で一つ書いてみようと思うに至りました。
幻想郷の秩序については執筆中意識はしなかったのですが、確かに作品を重ねるごとに緩くなっているのに気づきますね。
原作では幽明の境は薄れたまま放置され、あるいは実際にお燐・お空が博麗神社で温泉玉子を食べるようになったり…
棲み分けと力の均衡の下での秩序が再び混沌に帰してゆく過程こそ、東方Projectの魅力の一つではないかという気もしてきました。
作者名は中東欧・ロシアが好きなので、それらしい感じにしてみました。特に深い意味はありません(笑)
終始、どこか重苦しい雰囲気が漂う中で、
それでも何か明るさの様な物を感じさせる終わり方、
そういった雰囲気の変化を上手に感じさせる情景描写のよい作品でございました。
ただ、ちょっと会話文が(雰囲気でなく)重いテンポに感じられました
冥界と地底に漂う死の影や原作のエンディングのような楽天的かつ淡々とした雰囲気は、執筆中に意識した部分でもあります。
同時に、自分は登場人物にどうしても設定等を語らせたがる傾向があるようで、そのせいでぎこちない会話文になってしまったようです。
ご指摘いただき幸いに存じます。謹んで次回以降の参考とさせていただきます。