We needed a Change.
かつて一度だけ姉さんに甘えてしまったことがある。捨てられた子猫みたいに無防備にね。まだ私たちがいっしょに暮らしていて世の中に対して今よりずっと正直でいられた時分のことだ。正直というのは自分を飾らないということ。猫なで声で金づるを招き寄せるくらいなら舌を噛んで死んでやるくらいに私は思っていた。それである日ガード下の飲み屋で酔っぱらったおっさん連中に声をかけられながら働いている姉さんを見かけたときこれはもうプライドがどうこう云ってる場合じゃないぞと私は自分に云い聞かせたんだ。
生まれて初めて手に入ったまとまった金。私は近場の酒屋に飛びこんで缶ビールや肴を買い物袋が一杯になるまで買った。服屋に行って姉さんのために新しいパーカーとスカートを二着ずつ仕入れた。それで重い足を引きずりながら当時住んでたアパートに帰り着いたんだ。
おかえり、女苑。
そのとき姉さんは水色の花柄のエプロンを身につけていた。右手には包丁を持っていた。指に巻いた絆創膏がひとつ増えていた。私が黙って買い物袋を胸の高さまで持ち上げると姉さんは笑みを浮かべるより先に眼を丸くして驚いた。
どうしたのそれ。
買ってきたの。見れば分かんでしょ。
お金はどうしたの。
心配しなくても借金じゃないよ。真っ当な手段で稼いだの。服もあるよ。姉さんの、新しい服。
あら嬉しい。姉さんは少しも笑わずにそう答えた。プー太郎の妹がこんな素敵なプレゼントを用意してくれるなんて。
姉さんはまな板に包丁を置いてお気に入りの黒猫のぬいぐるみを手に取ると私に顔を近づけてきた。私は首飾りの宝石を右手で握りしめてから胸に押しつけた。姉さんは云った。
……正直に話して。女苑。あんたの考える真っ当な手段って何のこと。
自分の本分に従っただけよ。金持ちを引っかけて。食事をおごってもらって。手をつなぎながら遊んで。お酒を少し飲んで。お駄賃を頂戴して。それでさようなら。なんも難しいことなんてなかったわ。
――疫病神だもの。
私はその先に続く言葉を飲みこんだ。
……女苑。
姉さんは黒猫を胸に引き寄せた。ぬいぐるみは私と姉さんの間に立ちはだかる壁のようにちっぽけな身体をさらしている。私の眉がぴくりと微生物のように動くのが分かった。そして手を伸ばして姉さんの手からぬいぐるみを取り上げると網戸のそばに置いた。外から蛙の鳴き声が飛びこんできた。蒸し暑い初夏の夜だった。その郊外のアパートは竹林と田園のそばに建っていて夏になると蚊が大挙して部屋に押し寄せてくる。そして刺されて血を吸われるのは決まって姉さんじゃなくて私のほうだった。
姉さんの分まで。
姉さんのために。
うざったい蚊の襲撃を我慢して。汗ばんだ男の手のひらの感触を我慢して。肩に食いこむ買い物袋の重みを我慢してきたんだ。
私は姉さんの手を取った。姉さんはうつむいた。ただでさえ猫背なのでうつむいてしまうとサイズの合っていないパーカーの口から今にも折れそうなほど細い鎖骨が覗いた。私は唾を飲みこんだ。そして云った。
……これからは家事なんてしなくていい。怪我ばっかしてて眼が離せないから。
でも。女苑。
便利な時代なんだからさ。金さえあれば料理も洗濯も他の人間や機械に任せられるもの。
この期に及んでも姉さんはまだ困惑した表情を崩さなかった。
――でも女苑。明日から私なにすれば好いのよ。
何もしなくて好いよ。私はそう云ってから云い直した。姉さんのしたいことをすれば好いんだよ。
私のしたいこと。
ええ。
姉さんはしばらく考えてから呟いた。
……じゃあ、お腹いっぱい食べたい。あとお酒を少しだけ。
よしきた。
私は買い物袋を再び持ち上げた。
その夜。私は眠れなかった。アルコールが頭のなかをガラガラとかき回す様子を変に冷えきった気持ちで眺めていた。ひとつしかないベッドで私たちは背中合わせに横になっていた。さっきから姉さんの寝息が聞こえず自分の心臓の音ばかりが鼓膜の裏を這いまわっている。そこに時計の秒針の音が加わる。私はなんども姿勢を変えてどうにかしつこい意識を手放そうとしていた。
……眠れないの。女苑。
姉さんが呟いた。私はもがくのを止めた。
姉さんも?
ええ。なんだか寝つけないの。変だよね。
別に変じゃない。
ねえ女苑。
なに。
さっき云ってくれたことだけど。本当に好いの?
だからなにが。
私――。姉さんの吐息を背中に感じた。彼女はいつの間にか身体をこちらに向けていた。私、楽になっても好いの?
ええ。もちろん。私は答えた。なに遠慮してんのよ。貧乏神は貧乏神らしく家でじっとしていれば好いのよ。
女苑は平気なの。
見ての通りよ。私は大丈夫だから。ねえさ――。
眼を開けたとき姉さんの左手が私のお腹に回されていた。私が思わず身体を浮かせると今度は右手が回りこんだ。そうして姉さんは私の身体を引き寄せた。私よりも身長が高くて髪もずっと長い姉さん。そんな彼女に抱きしめられると私の身体はかまくらの中に放りこまれたみたいにすっぽりと包まれてしまう。あるいは羊水の中で浮かんでいる赤子のように。今度は姉さんの息遣いがちゃんと聴こえた。心臓の音さえも。それで姉さんは腕に力を込めて云ったんだ。
……強がらなくて好いんだよ。女苑。――私の前で意地なんて張らないで。
私はしばらく答えを返さなかった。こんな夜なのに姉さんに抱きしめられても不思議と暑苦しさを覚えなかった。むしろ寒気さえ感じていた。私の身体は震え出した。姉さんの指が持ち上がって私の頬に触れた。そしてようやく私は自分が泣いているのに気づいたんだ。
……姉さん。ごめん。わたし最後までうまく隠し通せると思ってたのに。
いいよ。話して。
取り返しのつかないことをしちゃったんだって気持ちが消えてくれないの。お酒を飲んでも。たらふく食べても。間違ったことをしたんだって想いが頭から離れてくれなくて。――でも他にできることが思いつかなかったのよ。
――頑張ったんだね。ありがとう。
一分。二分。三分と経って私の嗚咽が止んでしまうと姉さんは私のお腹に回していた腕を引っこめた。私はもうしばらくそのままでいたくて振り返ろうとした。そのとき首筋に蜂から刺されたみたいな鋭い痛みが走った。私は思わず飛び起きた。
――何すんのよこのバカ姉っ。
姉さんはごめんと謝ってから云った。
女苑が愛らしくて。つい残したくなったの。
なにを。
爪痕。
……なんだって?
つめあと。
私は立ち上がって電灯の紐を引っ張った。姉さんは私の首に刺しこんだ薬指の爪を唇に寄せて微笑んでいた。暑さとお酒のためか頬に朱が差していた。私は乱れた息を整えながら声を荒げて云った。
姉さん。布団から出てって。別のとこで寝て。
嫌だ。
じゃあ私が出てく。
女苑。
なによ。
すぐに戻ってきてね。
私は答えずに部屋から出た。小走りでアパートの階段を駆け下りふらついた足取りで蛙の合唱が喧(かまびす)しい夜道を当てもなく歩いた。煙草を吸おうとパッケージから取り出したが指先の感覚が覚束なくて落としてしまった。新品の煙草は転がって田んぼの灌漑にぽちゃりと沈んだ。私は夜空を仰ぎ見た。そして震える唇から溜め息になりきらない息吹を吐き出したんだ。
過去に一度だけ姉さんに甘えてしまったことがある。まだ姉さんが姉としての威厳を湛えていて。私が妹らしい可愛げって奴を捨てきれていなかった時分のことだ。あれから暇をもてあました姉さんはどんどんロクデナシになり無気力になりすっかり私と立場が逆転したときにはすでに手遅れになっていた。最初は小さなひびから始まりやがて大きな亀裂になりとうとう決壊してしまったダムのようだった。溜めていた真水をなくして空っぽになってしまった姉さんはそれからずっと私から離れることなく付き従うようになった。私のせいで姉さんは本当にだらしなくなってしまった。それで私は甘えることを止めたんだ。
私は吸い終えた煙草を携帯灰皿に入れてから蕎麦屋の軒先を出た。そして初夏の陽光のもとを歩き出した。姉さんは右手でお腹をさすりながら左手をほっぺに当てて先ほどのかけそばの余韻に浸っているようすだった。
あぁ……。ありがとね。女苑。美味しかった。
あんなぼやけたコシの代物でよく満足できるわね。おもちゃみたいな味だった。
そう? 味つけの濃いものを食べすぎて舌が麻痺してるんじゃない?
麻痺してんのは姉さんでしょ。
私は振り向きながらそう云った。頬に当てられた姉さんの左手。その薬指が上唇をなぞっていた。私は顔を戻した。サングラスを引き下げて目元を隠した。そして首筋をさすった。
どうしたの。女苑。
なんでもないよ。
姉さんは後ろから私の肩にそっと手を置いた。口から低い声が漏れた。囁くような音だった。
……また消えちゃってるね、爪痕。
なにを、――痛っ。
私は腕を振り回したが姉さんはすり抜けるようにして攻撃をかわす。
それが消えちゃうまでに、また私に楽させてちょうだいね。女苑。
私は腕を組んで仁王立ちした。でも首の後ろでひりひりと熱を上げている患いから想いをそらせずにいた。
姉さんは本当に、ほんとうに貧乏神の鑑だよ。
黙って首を振る姉さん。次の瞬間には微笑みを浮かべていた。そして身体をふよふよと浮かせて屋根の向こうに消えてしまった。私は虚空に伸ばしかけた右手を下ろしてうつむいた。そしてブーツで地面を蹴った。乾いた気候に未舗装の道。舞い上げられた砂ぼこりが姉さんの後を追うように宙を舞った。それらが軒先にたどり着かないままに空の色に紛れて消えてしまうさまを私はじっと睨んでいたんだ。
~ おしまい ~
面白かったです
苦労人女苑ちゃん……負い目を感じるなら疫病神の生き方も大変そうですねぇ
しかし貧乏神に魅了されるあたり実に疫病神
水玉エプロンの姉さん儚げで可憐そう
ガード下の飲み屋で働く姉さん儚げで可哀想
でも魔性なんだなあ…エロいわ!
女苑ちゃんのすれてない頃と、姉さんがダメになっちゃった
頃にマーキングされる傷のエロさよ。薬指てのがまたエロいわ!
エロいわ!
姉さんの切羽詰まった状況で、一念発起したけど結局
疫病神になりきれなくて、慣れてなくて
傷付いてしまう女苑ちゃんが悲しいですね。可愛いですが
そらお姉ちゃんも、うっかり魔性発揮したくなりますわな
で 現在は妹が保護者役やらなきゃいけない状況で
ぶーたれたり、こきつかってくるけど、面倒見てくれる
優しい妹に魔性発揮して薬指マーキングなんですね。エロいわ!
妹さんの方はきっといつかのかまくらだっこを望んでるだろうに…
なんていうかもうえっちで哀しくて愛おしい姉妹ですね…