☆彡
幻想郷にある人間の里で「牛の首」の噂が広まった後の事、外の世界は猛暑日が連日のように続く夏の盛りだった。
噂を流布していた首謀者の二ツ岩マミゾウは、同じく首謀者の封獣ぬえを連れて外の世界を軽トラックで疾走していた。
いぶし銀の軽トラックは田園地帯を南北に貫く県道をひた走っている。水田には青々とした若い稲穂が夏の涼風にそよいでいた。
「あっはっは、風が気持ちいい。マミゾウさん、もっとスピード出してよ!」
助手席の窓を全開にして、鴉の濡れ羽色のショートヘアーを靡かせているぬえは愉快そうに流れゆく景色を眺めていた。その横顔は、遠足を楽しむ子供のような快活な笑みに溢れている。
「高速道路じゃないんじゃ、そんなスピードが出せるわけないじゃろう」
前方の信号が赤になっている事を視認したマミゾウはブレーキを踏みながら苦笑して応えた。咥え煙草の灰を車内の灰皿に落とし、ふぅーと吹き上げた紫煙が夏空へ消えてゆく。
化け狸と鵺の妖獣コンビが外の世界に来た目的は、「牛の首」の噂を広めた後の反省会と称して、越後の「牛の角突き」を観に行くことだった。
無論、「反省会」とは便宜的な呼称だ。ふたりにとっては祝勝会でも懇親会でも感傷旅行でも、観光に出掛けられるなら何でも良かったのだ。
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O市М町の「むじなの穴」を通じて幻想郷から外の世界にやって来たふたりは、狸の獣耳・尻尾や鵺の羽根を隠して人間に化けていた。両者とも化けるのは得意な妖怪だ。
マミゾウは空色の丁シャツにジーンズ、履物はスニーカーとピクニックに行くような出で立ち。ぬえは半袖の黒いワンピースに漆黒のニーソックス、真紅のパンプスといつもの格好だ。
マミゾウらを乗せた軽トラックは国道との交叉点を直進し、O市の中心街へ進んだ。マミゾウはその道中にあるスーパーマーケットの駐車場に車を停め、手土産と食糧を買い出した。
「マミゾウさん、おやつ買ってよ!」
「ふぉっふぉ、三百円以内で1つだけじゃぞ」
ぬえとマミゾウの会話はまるで祖母と孫のような遣り取りだ。しかし、ぬえが買い物カゴに放り入れたのは、あまり子供らしくないビーフジャーキーだった。
「おや、こりゃあ酒の肴じゃろう。チョコレートやビスケットじゃなくて良いのか?」
「だって、闘牛を観戦しながら牛肉を食べるなんてオツなものでしょ!」
ニカッと悪戯な笑みを浮かべるぬえ。そんな小柄な娘にマミゾウはやれやれと言った表情を浮かべ、命蓮寺や部下の狸たちに配る饅頭を買い求めた。
スーパーを出て、S川に架かるA橋を渡り、O駅前を左折して旧国道へ合流する。最初の信号を右斜め前に曲がれば、「越後 牛の角突き街道」への近道だ。
手狭な近道から、片側1車線の街道へ右折で合流する。マニュアルミッションの軽トラックはエンジンの唸りを上げながら、山へ続く坂道を登ってゆく。
やがて稲荷大社の千本鳥居のような赤いスノーシェッドを抜けると、牛がぶつかり合う絵の看板が見えた。左向きの矢印が闘牛場への経路を案内していたが、マミゾウはそのまま道なりに直進した。
「あれ? 左へ曲がるんじゃないの?」
「ふぉっふぉ、越後の『牛の角突き』は2ヵ所で開催されていてのぅ。今日はY村での開催じゃ」
小首を傾げて尋ねるぬえに、マミゾウはアクセルを踏んで車を加速しながら回答した。シャワシャワシャワと蝉時雨が深緑の映える里山に響いていた。
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軽トラックは更に勾配が高まる坂道を走り、N市へ突入した。かつてのK郡Y村、現在のN市Y地域だ。
九十九折りの坂道からは、山を切り拓いた棚池や棚田が眼下に広がる。幻想郷では見慣れた光景、少女が見た原風景だ。
時刻は午前11時に差し掛かろうとしている。高らかに晴れ渡った空から降り注ぐ陽光が、ジリジリと気温を上昇させていた。
トイレ休憩のため、マミゾウが軽トラックを旧村役場の駐車場に停めた。ふたりが車を降りると、太陽の輻射熱で立ち込める地面からの熱気に顔を顰めた。
「うへぇ、コンクリートの地面は暑いねぇ…あれ、お寺じゃないのに鐘があるよ?」
周囲を見渡したぬえが発見したのは、出入口の側に鎮座している鐘撞の場所だった。
「これは震災からの復興を願って鋳造された『希望の鐘』じゃよ。お前さんも一発打ち鳴らすと良い」
「そう? それじゃあ一発…」
マミゾウに勧められ、ぬえは嬉々として鐘の前に進み出ると、撞き棒の綱を掴んで思いっきり打ち鳴らした。
ごぉぉぉぉぉぉぉん―――――
鐘の音が里山に響き渡る。それは地元の住民にとっては祈りの響きなのだろう。命蓮寺の鐘楼での動作と同じく、ぬえは恭しく合掌してから撞き場を退出した。
「ふぉっふぉ、命蓮寺に帰依してお前さんもたいぶ『寺の小僧』らしくなってきたようじゃのぅ」
「まぁ、修行というよりは条件反射みたいなものだけどね。諸行無常の響きなんて妖怪には理解できないわ」
旧村役場に隣接した施設でトイレを済ませ、水槽で飼育されている錦鯉をしばし観察してからぬえとマミゾウが外へ出た。
と同時に、防災無線からけたたましいサイレンが吹鳴された。事情を知らないぬえは飛び上がって身構えた。
「な、何?! 泥棒!?」
「ふぉっふぉ、そう狼狽えるな。午前11時半に鳴らされる『昼の合図』じゃよ。寺の鐘と同じ役目じゃ」
目を丸くしているぬえの頭をぽんぽんと軽く撫でながら、マミゾウは目を細めて柔和な表情でぬえを落ち着かせた。
不意に驚かされたのが気恥ずかしかったのか、ぬえは少し頬を膨らませてそっぽを向いた。色白の頬も幾分か紅潮している。
そんな遣り取りをしながら、ふたりは軽トラックに乗り込んだ。旧村役場を去り、Hトンネルを抜けて最初の丁字路を右折して闘牛場へ向かう。
県道から闘牛場へ入る細い道を登りきった後、駐車場へ向けて下り坂になる。アルバイトの学生の誘導員に促されて、敷地の一区画にマミゾウは軽トラックを停めた。
「あっはっは、やっと着いたぁ~。あれが闘牛場ね?」
ドアを蹴飛ばすように勢いよく開けてぬえは軽トラックから降りると、ブナの茂る丘のような小高い場所を指さしてマミゾウに尋ねた。
「そうじゃ、ここから急な坂道を歩いてやっと到着じゃ。ほれ、ぬえも荷物を持たんかい」
「へぇ~い」
エンジンを切って軽トラックを施錠したマミゾウは、荷台のクーラーボックスから弁当や飲み物の入った袋を二つ取り出し、片方をぬえへ手渡した。
ぬえは暑さで気だるそうな返事をしたが、その容貌は期待に満ちた笑みがこぼれていた。闘牛場へ続く歩道には観光客が妖怪ふたり組と同じ目的地へ足を進めている。
肩を並べて観光客に紛れる妖獣コンビは、仲の良い親子か姉妹にも見えた。登り坂の峠で歩道は分岐している。真っ直ぐは車道に沿って県道へ戻るルートで、闘牛場へは左側の坂を更に上る。
急勾配で1車線分の幅の坂道は、右側に階段と擁壁が備え付けられている。そして、その擁壁には牛を抑え込む武士のような男の姿が大きな石板として刻まれていた。
「小文吾…? 聞いたことない名前ね」
「ふぉっふぉ、それはそうじゃ。この男は犬田小文吾、『南総里見八犬伝』に登場する八犬士の一人じゃ」
マミゾウはそう言って石板の内容をぬえに解説しながら階段を上って行った。石板は階段を上るにつれて時系列に村の歴史を紹介している。
ぬえはそんなマミゾウの解説に「ふぅん」とは「へぇえ」とか適当な相槌を打ちながら階段を軽快に上って行った。
ちなみに、闘牛場には喫煙場所が設けられているものの、観客席は禁煙だ。そのため、マミゾウは煙草を軽トラックへ置いてきた。
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「いらっしゃいませ! 大人1名と子供1名ですか?」
坂道の左側に天幕が張られていて、入場料を支払う受付が設けられていた。若い女性の「もぎり」がマミゾウとぬえに明るく挨拶した。
どうやら女性は、ぬえを高校生未満の子供と看做したらしい。ぬえは少し憮然とした表情を浮かべたが、マミゾウは相方の意を介さず頷いた。
「うむ、この子は中学生じゃからのぅ。大人1枚で頼む」
悪びれず、むしろ愉快そうに微笑みながらマミゾウは財布から2千円紙幣を取り出して入場料を支払った。Y地域の入場料は一律2千円で、ピッタリだった。
「はい、ちょうど頂きます。こちらの取り組み表をお持ちください」
紙幣を手提げ金庫に仕舞い、「もぎり」の女性はマミゾウとぬえに半券と取り組み表を渡して入場を促した。
入場して正面にドーム状の闘牛場が鎮座している。ブナ林の木漏れ日が目映い観客席には、既に多くの観客が席を確保していた。
「むぅ~、子供扱いされたのは何だか不満だわ。千年の歴史があるという闘牛より、私の方が年上なのに…」
「ふぉっふぉ、そうヘソを曲げるでない。ほれ、屋台で何か奢ってやろう」
不服そうなぬえの頭を撫でながらマミゾウが提案すると、さっきまで焼き餅のように膨れていたぬえの頬はパッと綻んで笑顔になった。そんな現金なぬえをマミゾウが可笑しそうに見つめている。
マミゾウの提案に従い、受付を済ませたふたりはまず腹ごしらえとして軽食ブースの出店している区域へ足を運んだ。
「いらっしゃいませ! 美味しい牛串焼きはいかがですか!」
目に留まったのは地元の和牛を使った串焼きだ。コンロで重々と焼ける牛肉の音と、煙とともに立ち昇る香ばしさが食欲をそそる。
「あっはっは。闘牛を観ながら牛串焼きって、ビーフジャーキーを買った私よりも良い趣味しているわね」
「ならば、その良い趣味に興じてみるかのぅ…おぅ、兄ちゃん。牛串焼き2つ頼む」
「へい、まいど!」
マミゾウの注文を受けた屋台の青年は、手際よく焼きていた牛肉に塩胡椒を振りかけ、串焼き2本を油紙に包んで代金と引き換えにマミゾウへ手渡した。
他の屋台でも焼きそばや牛モツ煮込み、ビーフカレー等が販売されている。時刻は正午を過ぎ、観客が思い思いの食事を楽しもうと屋台は賑わっていた。
ふたりは闘牛場の最前列の通路から階段を数歩上って、屋根が設置されていない北側の最前列に陣取った。楕円形の観客席は南側にドーム状の屋根があり、東西に高楼のような二階席が設けられている。
夏の日差しが照り付けるため、観客は屋根のある南側や日陰となっている二階席下の東西に集中していた。ふたりが座った席も例外なく日光で加熱されていたが、受付で借りたマットを敷いて凌いだ。
「あちち、これじゃあ私の色白の肌が焼けちゃうよ~」
「ふぉっふぉ、お前さんは友人から借りた『日傘』があっただろうに。車に置いてきたのか?」
唇を尖らせて暑さに苦言を呈するぬえに冷えた炭酸飲料の缶を渡しながら、マミゾウは焦げ茶色の髪を揺らして不思議そうに尋ねた。
「…だって、小傘の作った傘だよ? 『わちきとお揃いだね!』って嬉しそうに言うから、渋々受け取ったけど」
そう言ってぬえは苦笑いした。ぬえに懐いている多々良小傘は、蒼と紅のオッドアイが特徴の唐傘お化けの妖怪だ。
相棒、あるいは本体というべき傘は茄子色で長い舌が伸びた、お化け屋敷の小道具のようなデザインだ。そんな傘でも一応は受け取っておくぬえは、友達思いな妖怪なのだろうとマミゾウは思った。
ぬえの返答にマミゾウは納得した表情で頷きながら、スーパーマーケットで買って来たおにぎりと惣菜を座席に広げた。座席はベンチ式で弁当を広げやすい構造だ。
「さて、今回の『牛の首』反省会…まぁ名称はどうでも良い。取り敢えずお前さんとの小旅行に乾杯じゃ」
「うん、ありがとねマミゾウさん。乾杯!」
ぬえは炭酸飲料の缶をマミゾウの持っているお茶の缶に軽く突き合わせて乾杯した。ブナ林に爽やかな夏の風がそよいだ。
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「さぁ、間もなく取り組み開始でございます! 勢子の皆さんは場内へお集まりください!」
午後1時。場内アナウンスが放送されると、地元の男衆がぞろぞろと東側の門扉を開けて闘牛場へ入って来た。入場時には清酒を口に含み、塩を抓んで身体を清めている。
男衆は入って来た門扉の側で円陣を組んだ。彼らが「牛の角突き」の取り組みを仕切る「勢子」と呼ばれる男たちだ。闘牛場も酒と塩で清められ、聖地となっていた。
「それでは本日の取り組み、第一回は―――」
配布された取り組み表に記載された対戦が読み上げられ、勢子らは一回ごとに拍手をして組み合わせを了承する。全十二回の取り組みが承認され、闘牛場に大きな拍手が響いた。
「へえ、ああやって取り組みを決めているのね」
「昔はその場の牛の顔ぶれを見て決めていたそうだが、今は一週間ほど前の審議会で決めておるそうじゃ」
一旦解散して闘牛場から引き上げる勢子の後ろ姿を見ながらぬえが呟き、マミゾウが補足で説明を付け加えた。
「大変長らくお待たせしました。これより取り組みを開始します! 第一回―――」
司会を兼ねた勢子の告知で、いよいよ取り組みが開始される。勢子が入って来た東側の門扉は閉じられ、代わりに西側の門扉が開放された。
闘牛場の屋根付きの観客席の裏手に、十数頭の牛が繋留されている。取り組みが始まるまで観光客の衆目に晒されていても、彼らは泰然として大人しく出番を待っているのだ。
勢子に牽かれて入場してきたのは、小柄な黒毛の若牛だった。闘牛場へ来るのも初めてなのか、きょとんとした表情で周囲を見渡している。
続いて入場してきた牛も、ほぼ同じ体格の黒毛の若牛だ。勢子は両牛を3歳と紹介した。人間に例えると中学生くらいの年齢だという。
人間の眼で一見すると見分けがつかないが、先に入場した牛の尾には白い紐、後から入場した牛の尾には赤い紐が目印として結ばれていた。
「随分と可愛い牛ね。あんな仔牛ちゃんでも闘えるのかしら?」
「うむ、序盤は『芝均し』と言うて、若牛のデビュー戦に当てられているんじゃ。まぁ、闘いより場の雰囲気に慣れさせるのが目的じゃから、温かく見守ろう」
マミゾウがそう言い終わると同時に西側の門扉が閉じられ、場内では勢子が牛を対峙するように引き寄せた。牛の鼻に通した手綱を勢子が握ったまま、闘いが始まる。
3歳の若牛でも体重は600㎏を超える。両牛はしばし見合った後、恐る恐る頭を突き合せた。しかし、白い印の黒牛はすぐに飽きたのか、相手の首に凭れ掛かってしまった。
赤い印の黒牛はくすぐったそうに身体を捩って引き離そうとするが、白い印の黒牛も負けじと身体を寄せる。
そんな微笑ましいじゃれ合いに、観客からは温かい視線が注がれている。5~6分ほど牛を闘わせてから、勢子は手綱を引っ張って両牛を引き離した。
越後の「牛の角突き」は必ず引き分けにさせ、勝敗を決めない。酷使して牛を傷つけることを避ける為であり、また牛同士の闘いだけでなく牛と勢子(人間)との闘いも魅力の一つだからだ。
「さぁ、只今 勢子の判断で引き分けと致しました! 皆様、ひとつ盛大な拍手をお願いします!」
司会の高らかな呼び掛けで、会場からは拍手が起こった。しかし、その鳴り方は今一つ盛り上がっていない物足りなさを如実に表していた。
「う~ん…牛が遊んでいて、いまいち闘牛の感じがしなくてつまらないわねぇ…」
「ふぉっふぉ、大相撲で言えば『序の口』じゃ。面白いのは中盤からじゃよ」
不服そうに拍手するぬえを宥めつつ、マミゾウは取り組み表を広げて注目の対戦を見繕った。闘いを終えた牛は勢子によって場内を一周引き回された後、西側の門扉から退場した。
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マミゾウの言った通り、序盤の対戦は闘牛場の雰囲気に慣れさせる為の、牛の鼻に綱が通ったままの対戦だった。鼻は牛にとって「急所」であり、そこを抑えていれば容易に制御できるのだ。
Y地域では闘牛の生産は行っておらず、牛の出身地は大半が岩手県だ。他にも沖縄・徳之島(鹿児島)・宇和島(愛媛)・隠岐の島(島根)から導入される。いずれも闘牛の盛んな地域だ。
場数を踏んだ若牛は闘うことを覚え、徐々に力強さが増す。闘う牛は凡て「玉付き」と俗に呼ばれる、去勢されていない雄牛だ。食肉牛のように去勢してしまうと、牛は闘わなくなる。
牛の股間を指し示しながらマミゾウがそう解説すると、ぬえは心なしか顔を赤らめて素っ気ない返事をした。案外、初心な乙女心の持ち主なのだ。
「さぁ、ここからはいよいよ綱を取った対戦となって参ります! 第四回―――」
司会者が力を込めてアナウンスすると、西側の門扉から勢子に連れられた黒牛が跳ね馬のごとく跳び上がって入場した。その威勢の良さに、客席からどよめきが起こった。
ぶもおぉぉぉぉ! ぶもおぉぉぉぉ!! ぶもおぉぉぉぉ!!!
牛は入場するや否や、臼歯の並ぶ口を大きく開けて地響きのような啼き声を出した。「どう声」という、牛が気合いを入れている時の啼き声だ。
「うひゃぁ、あいつ気合いが入っているね」
やっと前座から抜け出せたぬえがワクワクした表情で牛を見つめる。黒牛はどう声を出し終えた後、場内の中央でどっしりと佇んで対戦相手を待ち構えている。
「この『どう声』を場内で出せて牛は一人前じゃと言われておる。ほれ、後から来る牛は変わった毛色をしとるぞ」
マミゾウに言われてぬえが視線を西側の門扉に移すと、赤い地毛に白い毛が混じる牛が姿を現した。先ほどの牛と違って堂々と大地を踏みしめるように入場したが、その眼光は爛々と耀いている。
「あれは『かす毛牛』と呼ばれておってのぅ。昔から『かす毛牛で喧嘩しない牛は居ない』と伝えられているほど精気盛んな種類の牛なんじゃよ」
「へぇ~、なんだか合成獣(キメラ)みたいで親近感が湧くわね。私はあいつの方を応援しよう!」
マミゾウに教えられたぬえはかす毛牛の方を贔屓にしたようだ。年齢は黒牛が5歳、かす毛牛が6歳。勢子は牛の鼻先で結ばれた綱を解き、引き抜ける状態で両牛を対峙させた。
「ヨシタぁぁ~!! ヨシタぁぁ~!!」
勢子が牛を鼓舞する掛け声を出しながら綱を引き抜き、天高らかに放り投げた。その瞬間、解き放たれた牛が正面衝突して闘いの火蓋が切って落とされた。
先に攻撃を仕掛けたのは黒牛の方だった。前方に伸びた槍のような角で抉るようにして、相手の額に掘り込む強烈な一撃を撃ち込んだのだ。
「ハタキ」という、ボクシングのパンチのような打ち技だ。牛の角がぶつかり合う、頭蓋骨が軋むような鈍い音が闘牛場に木霊して観客は息を呑んだ。
だが、かす毛牛も怯むことなく首を小刻みに振り、相手の攻撃をいなした。そして横に広く伸びた角を下から突き上げるように相手の角へ仕掛けた。
ゴッ、ゴツン、ゴツン―――――!!
二度三度、ハタキによる応酬が続いた。牛の闘いは先に相手の首根っこへ切り込んだ方が優位になる。鎬を削る角突き合いが一瞬、黒牛が首を振ったことで間が空いた。
その瞬間をかす毛牛は見逃さなかった。後ろ脚の血管が浮き出るほどに力を滾らせて地面を蹴り、体重900㎏超の巨体が驚くほど俊敏に黒牛の首に向けて突進した。
「うおおぉぉぉ! いっけえぇぇ!!」
客席から歓声が上がり、かす毛牛を応援していたぬえも腰を浮かして雄叫びを上げた。マミゾウも掛けている眼鏡の位置を直して、前のめりで闘いに見入っている。
しかし黒牛も眼を離さず、すぐに首を返して反応した。かす毛牛の角が首筋に掛かりながらも、相手の首を奪おうと果敢に切り込む。
その鬩ぎ合いは「まくりあい」と呼ばれる状態で、牛は風車の羽のように中央で転回した。乾いた土埃が場内に立ち込め、牛を取り囲んでいる勢子の掛け声も一段と強まる。
「ヨシタぁぁ~!! ヨシタぁぁ~!!」
「良くやった」という意味の「ヨシタぁー」と野太い勢子の掛け声が深緑のブナ林に響き渡る。両牛の角が掛け合い、膠着しそうになった所で勢子のリーダーが手を挙げた。
それを合図に取り囲んでいた勢子が牛の後方へ取り付き、肩にかけていた綱を後ろ足へ引っ掛けた。輪の部分を左肩に掛け、牛の脚に抱き着いて右手に持った綱の端を左手に持ち替えて引くことで輪が締まるのだ。
それから綱を勢子が引っ張るのだが、闘いを止めようとしない牛の踏ん張りに苦闘している。やっとの思いで牛を引き離し、別の勢子が牛の鼻を掴んだ。牛の鼻先は綱を通すために穴が穿たれている。
牛を抑止した勢子たちは汗だくで息を切らしている。5~6人で引っ張っても動じない牛の馬力(牛力?)は独りでは手に負えないだろう。勢子の連携も大きな見所だった。
「さあ、両者とも綱が伸びました! ひとつ盛大な拍手をお願いいたします!」
客席からは両牛の敢闘を讃える拍手が鳴り響いた。それは序盤よりも高らかに、観客の興奮の度合いを示す大きな拍手だった。勢子も疲れた表情に誇らしさを滲ませ、客席へ会釈した。
「あぁ~、面白い。やっぱ雄牛の闘いは血沸き肉躍るね!」
「うむ、暑さで牛の動きは鈍るもんじゃが、見事な角突きじゃ」
額に玉のような汗を浮かべ、ぬえは炭酸飲料を呷って一息つく。マミゾウも買って来たビーフジャーキーを煙草代わりに齧りながら、ハンカチで頬を伝う汗を拭った。
闘いが終わっても鼻息を荒げている両牛は、鋭い眼差しで互いに眼を離さない。そんな雄牛の鼻に通した手綱を苦労して引き回しているのは、「牛持ち」と呼ばれる牛のオーナーだ。
Y地域の闘牛は約50頭。闘牛場から程近い牛舎で飼育されているが、牛持ちは県内外に居る。遠方からも足繁く通う牛持ちと地元の住民との交流はY地域の観光交流を下支えしている。
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それから最終回までの八回の取り組みは、それぞれ牛の個性と実力が発揮された対戦だった。
「ヨシタぁぁ~!! ヨシタぁぁ~!!」
勢子の掛け声に感化されたのか、ぬえは取り組み毎に贔屓の牛を定めて、観客席から勢子と同じように牛の闘いを鼓舞していた。
「ふぉっふぉ、勢子らの真似で叫ぶとは、まるで響子のようじゃのぅ」
マミゾウがぬえの様子を見て可笑しそうに語った。響子とは、命蓮寺の門前を掃除している山彦の妖怪・幽谷響子のことだ。
「えへへ、だって黙って観ているより応援した方が面白いんだもん。ヨシタぁぁ~!!」
そう言ってぬえは楽しそうに応援を続投した。7~8歳の中堅の牛同士が一直線にぶつかり合う闘い、最年長14歳の老牛の胸を借りる6歳牛の取り組みなど、見所は盛りだくさんだった。
入退場する際、牛には黒・白・赤の三色の綱で編まれた「面綱」と呼ばれる化粧回しみたいな飾りが顔に掛けられる。それが牛の正装なのだ。
「さぁ、いよいよ本日の最終回でございます! 第十二回―――」
時計の針は午後3時を指している。太陽が西へ傾いてきたが、闘牛場は夏の日差しと闘いの余韻で熱気が冷めてはいない。
ぶもおおぉぉぉぉ!! ぶもおおぉぉぉぉ!!! ぶもおおぉぉぉぉ!!!!
最後の取り組みに満を持して入場したのは、体重1トン超の巨躯を誇る赤毛の牛だった。闘牛場へ入るやいなや「どう声」を発し、前脚を屈して角で地面を掘る、首を地面に擦りつける仕草をした。
この仕草は「まま掘り」と呼ばれ、牛が場内に自分の匂いを擦りつけて「此処は自分の領域だ」と主張するためだと言う。同時に、地面に押し付けることで首や肩も鍛えるストレッチの役目も果たしているようだ。
後から入場した牛も、相手に見劣りしない大きさの赤牛だ。左角の先端が4分の1ほど欠けている。年間十回以上開催される「牛の角突き」で、角を折ってしまう牛も稀にいる。
折れた牛の角は再生しない。この赤牛のように先端だけなら闘技を続けられるが、折れた箇所が悪いと引退を余儀なくされる。勢子はそこも慎重に見極めて牛を闘わせるのだ。
「さぁ、横綱級の対決だね! ヨシタぁぁ~!!」
すっかり夢中になったぬえは身を乗り出して注視していた。マミゾウも扇子で自身に風を送りつつ、その様子を眩しそうな表情で眺めている。
面綱を外され、鼻の手綱を緩められた両牛は勢子に促されるまでもなく臨戦態勢になっていた……のだが、何故か両牛とも突き合せようとした頭を上げ、互いに見合ってしまった。
猛牛の激しいぶつかり合いを期待していた観衆からは、牛の予想外の動きにどっと笑い声が起こった。「ねりを踏む」という動作で、相手を睨んで威嚇する心理戦だ。
「ふぉっふぉ、流石は歴戦の横綱牛じゃ。これは凄まじい闘いとなるじゃろう」
妖獣として牛の心理を読んだマミゾウは不敵な笑みを浮かべた。その予想どおり、牽制していた角折れ牛がボクシングのフックのような鋭い攻撃を仕掛け、拮抗が崩れた。
赤牛も動じることなく、「カケ」と呼ばれる自分の角で相手の角を掛ける基本の技で、角折れ牛の攻撃を真正面から受け止めた。相撲の「がっぷり四つ」の体勢だ。
両牛のボルテージは徐々に上昇していき、目の周りが赤く充血している。赤牛に見られる、興奮の度合いを示す特徴だ。角や脚の捌き方を一歩でも間違えれば切り込まれる、緊迫した闘いが繰り広げられた。
「ヨシタぁぁ~!! ヨシタぁぁ~!! ヨシタぁぁ~!!!」
勢子も声を張り上げ、牛の闘いを囃し立てる。1トン超の肉体がぶつかり合う衝撃と迫力が、観客席にも伝わって来る。赤牛が頭を低くして下から攻めようとするが、角折れ牛が全体重を掛けて防いだ。
「首を預ける」という防御の姿勢は、風に揺れる柳の枝のように柔軟で強靭な牛の首回りの筋力があってこそ為せる技だ。首を預けた角折れ牛が、逆に赤牛を押し返す。
そして、角折れ牛が一瞬の隙を突いて赤牛の首に角を引っ掛け、一気呵成に柵際まで押し込んだ。それはマミゾウとぬえの座る席の真ん前だった。
「うおおおおおお!! すっげええええ!!!」
「これは…滅多にお目に掛かれぬ取り組みじゃ」
ぬえは眼前に迫り来る牛に感嘆の声をあげる。マミゾウは固唾を呑んで状況を見守ったが、内心ではかなり高揚していた。眼鏡の奥に光る眼差しは真剣だ。
鋼線の張られた柵に赤牛の巨体がぶつかり、牛の蹴り上げた土が観客席に降り掛かった。カメラを構えていた中年男性が、慌てて転がるように避難した。
ぶもおおぉぉぉぉ!! ぶもおおぉぉぉぉ!!!
攻め込まれた赤牛が激しく慟哭した。並みの牛ならここで戦意を喪失し、相手に尻を向けて敗走するだろう。しかし、赤牛は闘いの経験豊富な猛牛だ。
敢えて相手の突き出す角の前へ飛び出し、柵際から相手の横へ突破する。そして前脚を強く蹴り込み、怒濤の反撃を仕掛けた。その見事な切り返しに、観衆は歓喜の声をあげた。
牛同士の闘いが最高潮に達したとき、今度は牛と勢子との闘いに移行する。油断すれば興奮した牛の闘いに巻き込まれ、負傷してしまう。
牛の後ろ脚に綱を掛け、6人で引っ張って牛の動きを制止させる。それでも1トン超の牛を止めるのは容易ではない。ベテランの勢子が牛の鼻先へ躍り出て、鼻を掴んだ。
引き分けとされ、全ての取り組みが終了した。闘牛場は割れんばかりの拍手が鳴り響き、勢子は観客へ深々と頭を下げた。ぬえとマミゾウも惜しみなく拍手していた。
「これにて、本日の取り組みはすべて終了しました! 本日はご来場いただき、誠にありがとうございました!!」
勢子の挨拶に応えるかのように拍手は一層の万雷となり、ブナ林に木魂した。観客は席を立ち、ぞろぞろと闘牛場を去っていく。妖怪コンビも満足げな表情で人混みに紛れた。
「あぁ~、愉しかった! ねぇ、マミゾウさん。今度はフランやこいしも一緒に誘おうよ!」
ぬえは懇意にしている友人のフランドール・スカーレットと古明地こいしの名前を挙げながら、次回も「牛の角突き」観戦に訪れたいとリクエストした。
「ふぉっふぉ、あのふたりも連れて来ると世話を焼くのは儂ひとりじゃ重荷じゃのぅ…マイクロバスでも手配するか」
冗談めいた独り言をつぶやきながら、マミゾウはぬえの楽しそうな横顔を見て喜ばしく思っていた。その後、「牛の角突き」に妖怪の御一行様がやって来るのは、もう少し後の話だった。
【完】
幻想郷にある人間の里で「牛の首」の噂が広まった後の事、外の世界は猛暑日が連日のように続く夏の盛りだった。
噂を流布していた首謀者の二ツ岩マミゾウは、同じく首謀者の封獣ぬえを連れて外の世界を軽トラックで疾走していた。
いぶし銀の軽トラックは田園地帯を南北に貫く県道をひた走っている。水田には青々とした若い稲穂が夏の涼風にそよいでいた。
「あっはっは、風が気持ちいい。マミゾウさん、もっとスピード出してよ!」
助手席の窓を全開にして、鴉の濡れ羽色のショートヘアーを靡かせているぬえは愉快そうに流れゆく景色を眺めていた。その横顔は、遠足を楽しむ子供のような快活な笑みに溢れている。
「高速道路じゃないんじゃ、そんなスピードが出せるわけないじゃろう」
前方の信号が赤になっている事を視認したマミゾウはブレーキを踏みながら苦笑して応えた。咥え煙草の灰を車内の灰皿に落とし、ふぅーと吹き上げた紫煙が夏空へ消えてゆく。
化け狸と鵺の妖獣コンビが外の世界に来た目的は、「牛の首」の噂を広めた後の反省会と称して、越後の「牛の角突き」を観に行くことだった。
無論、「反省会」とは便宜的な呼称だ。ふたりにとっては祝勝会でも懇親会でも感傷旅行でも、観光に出掛けられるなら何でも良かったのだ。
☆彡
O市М町の「むじなの穴」を通じて幻想郷から外の世界にやって来たふたりは、狸の獣耳・尻尾や鵺の羽根を隠して人間に化けていた。両者とも化けるのは得意な妖怪だ。
マミゾウは空色の丁シャツにジーンズ、履物はスニーカーとピクニックに行くような出で立ち。ぬえは半袖の黒いワンピースに漆黒のニーソックス、真紅のパンプスといつもの格好だ。
マミゾウらを乗せた軽トラックは国道との交叉点を直進し、O市の中心街へ進んだ。マミゾウはその道中にあるスーパーマーケットの駐車場に車を停め、手土産と食糧を買い出した。
「マミゾウさん、おやつ買ってよ!」
「ふぉっふぉ、三百円以内で1つだけじゃぞ」
ぬえとマミゾウの会話はまるで祖母と孫のような遣り取りだ。しかし、ぬえが買い物カゴに放り入れたのは、あまり子供らしくないビーフジャーキーだった。
「おや、こりゃあ酒の肴じゃろう。チョコレートやビスケットじゃなくて良いのか?」
「だって、闘牛を観戦しながら牛肉を食べるなんてオツなものでしょ!」
ニカッと悪戯な笑みを浮かべるぬえ。そんな小柄な娘にマミゾウはやれやれと言った表情を浮かべ、命蓮寺や部下の狸たちに配る饅頭を買い求めた。
スーパーを出て、S川に架かるA橋を渡り、O駅前を左折して旧国道へ合流する。最初の信号を右斜め前に曲がれば、「越後 牛の角突き街道」への近道だ。
手狭な近道から、片側1車線の街道へ右折で合流する。マニュアルミッションの軽トラックはエンジンの唸りを上げながら、山へ続く坂道を登ってゆく。
やがて稲荷大社の千本鳥居のような赤いスノーシェッドを抜けると、牛がぶつかり合う絵の看板が見えた。左向きの矢印が闘牛場への経路を案内していたが、マミゾウはそのまま道なりに直進した。
「あれ? 左へ曲がるんじゃないの?」
「ふぉっふぉ、越後の『牛の角突き』は2ヵ所で開催されていてのぅ。今日はY村での開催じゃ」
小首を傾げて尋ねるぬえに、マミゾウはアクセルを踏んで車を加速しながら回答した。シャワシャワシャワと蝉時雨が深緑の映える里山に響いていた。
☆彡
軽トラックは更に勾配が高まる坂道を走り、N市へ突入した。かつてのK郡Y村、現在のN市Y地域だ。
九十九折りの坂道からは、山を切り拓いた棚池や棚田が眼下に広がる。幻想郷では見慣れた光景、少女が見た原風景だ。
時刻は午前11時に差し掛かろうとしている。高らかに晴れ渡った空から降り注ぐ陽光が、ジリジリと気温を上昇させていた。
トイレ休憩のため、マミゾウが軽トラックを旧村役場の駐車場に停めた。ふたりが車を降りると、太陽の輻射熱で立ち込める地面からの熱気に顔を顰めた。
「うへぇ、コンクリートの地面は暑いねぇ…あれ、お寺じゃないのに鐘があるよ?」
周囲を見渡したぬえが発見したのは、出入口の側に鎮座している鐘撞の場所だった。
「これは震災からの復興を願って鋳造された『希望の鐘』じゃよ。お前さんも一発打ち鳴らすと良い」
「そう? それじゃあ一発…」
マミゾウに勧められ、ぬえは嬉々として鐘の前に進み出ると、撞き棒の綱を掴んで思いっきり打ち鳴らした。
ごぉぉぉぉぉぉぉん―――――
鐘の音が里山に響き渡る。それは地元の住民にとっては祈りの響きなのだろう。命蓮寺の鐘楼での動作と同じく、ぬえは恭しく合掌してから撞き場を退出した。
「ふぉっふぉ、命蓮寺に帰依してお前さんもたいぶ『寺の小僧』らしくなってきたようじゃのぅ」
「まぁ、修行というよりは条件反射みたいなものだけどね。諸行無常の響きなんて妖怪には理解できないわ」
旧村役場に隣接した施設でトイレを済ませ、水槽で飼育されている錦鯉をしばし観察してからぬえとマミゾウが外へ出た。
と同時に、防災無線からけたたましいサイレンが吹鳴された。事情を知らないぬえは飛び上がって身構えた。
「な、何?! 泥棒!?」
「ふぉっふぉ、そう狼狽えるな。午前11時半に鳴らされる『昼の合図』じゃよ。寺の鐘と同じ役目じゃ」
目を丸くしているぬえの頭をぽんぽんと軽く撫でながら、マミゾウは目を細めて柔和な表情でぬえを落ち着かせた。
不意に驚かされたのが気恥ずかしかったのか、ぬえは少し頬を膨らませてそっぽを向いた。色白の頬も幾分か紅潮している。
そんな遣り取りをしながら、ふたりは軽トラックに乗り込んだ。旧村役場を去り、Hトンネルを抜けて最初の丁字路を右折して闘牛場へ向かう。
県道から闘牛場へ入る細い道を登りきった後、駐車場へ向けて下り坂になる。アルバイトの学生の誘導員に促されて、敷地の一区画にマミゾウは軽トラックを停めた。
「あっはっは、やっと着いたぁ~。あれが闘牛場ね?」
ドアを蹴飛ばすように勢いよく開けてぬえは軽トラックから降りると、ブナの茂る丘のような小高い場所を指さしてマミゾウに尋ねた。
「そうじゃ、ここから急な坂道を歩いてやっと到着じゃ。ほれ、ぬえも荷物を持たんかい」
「へぇ~い」
エンジンを切って軽トラックを施錠したマミゾウは、荷台のクーラーボックスから弁当や飲み物の入った袋を二つ取り出し、片方をぬえへ手渡した。
ぬえは暑さで気だるそうな返事をしたが、その容貌は期待に満ちた笑みがこぼれていた。闘牛場へ続く歩道には観光客が妖怪ふたり組と同じ目的地へ足を進めている。
肩を並べて観光客に紛れる妖獣コンビは、仲の良い親子か姉妹にも見えた。登り坂の峠で歩道は分岐している。真っ直ぐは車道に沿って県道へ戻るルートで、闘牛場へは左側の坂を更に上る。
急勾配で1車線分の幅の坂道は、右側に階段と擁壁が備え付けられている。そして、その擁壁には牛を抑え込む武士のような男の姿が大きな石板として刻まれていた。
「小文吾…? 聞いたことない名前ね」
「ふぉっふぉ、それはそうじゃ。この男は犬田小文吾、『南総里見八犬伝』に登場する八犬士の一人じゃ」
マミゾウはそう言って石板の内容をぬえに解説しながら階段を上って行った。石板は階段を上るにつれて時系列に村の歴史を紹介している。
ぬえはそんなマミゾウの解説に「ふぅん」とは「へぇえ」とか適当な相槌を打ちながら階段を軽快に上って行った。
ちなみに、闘牛場には喫煙場所が設けられているものの、観客席は禁煙だ。そのため、マミゾウは煙草を軽トラックへ置いてきた。
☆彡
「いらっしゃいませ! 大人1名と子供1名ですか?」
坂道の左側に天幕が張られていて、入場料を支払う受付が設けられていた。若い女性の「もぎり」がマミゾウとぬえに明るく挨拶した。
どうやら女性は、ぬえを高校生未満の子供と看做したらしい。ぬえは少し憮然とした表情を浮かべたが、マミゾウは相方の意を介さず頷いた。
「うむ、この子は中学生じゃからのぅ。大人1枚で頼む」
悪びれず、むしろ愉快そうに微笑みながらマミゾウは財布から2千円紙幣を取り出して入場料を支払った。Y地域の入場料は一律2千円で、ピッタリだった。
「はい、ちょうど頂きます。こちらの取り組み表をお持ちください」
紙幣を手提げ金庫に仕舞い、「もぎり」の女性はマミゾウとぬえに半券と取り組み表を渡して入場を促した。
入場して正面にドーム状の闘牛場が鎮座している。ブナ林の木漏れ日が目映い観客席には、既に多くの観客が席を確保していた。
「むぅ~、子供扱いされたのは何だか不満だわ。千年の歴史があるという闘牛より、私の方が年上なのに…」
「ふぉっふぉ、そうヘソを曲げるでない。ほれ、屋台で何か奢ってやろう」
不服そうなぬえの頭を撫でながらマミゾウが提案すると、さっきまで焼き餅のように膨れていたぬえの頬はパッと綻んで笑顔になった。そんな現金なぬえをマミゾウが可笑しそうに見つめている。
マミゾウの提案に従い、受付を済ませたふたりはまず腹ごしらえとして軽食ブースの出店している区域へ足を運んだ。
「いらっしゃいませ! 美味しい牛串焼きはいかがですか!」
目に留まったのは地元の和牛を使った串焼きだ。コンロで重々と焼ける牛肉の音と、煙とともに立ち昇る香ばしさが食欲をそそる。
「あっはっは。闘牛を観ながら牛串焼きって、ビーフジャーキーを買った私よりも良い趣味しているわね」
「ならば、その良い趣味に興じてみるかのぅ…おぅ、兄ちゃん。牛串焼き2つ頼む」
「へい、まいど!」
マミゾウの注文を受けた屋台の青年は、手際よく焼きていた牛肉に塩胡椒を振りかけ、串焼き2本を油紙に包んで代金と引き換えにマミゾウへ手渡した。
他の屋台でも焼きそばや牛モツ煮込み、ビーフカレー等が販売されている。時刻は正午を過ぎ、観客が思い思いの食事を楽しもうと屋台は賑わっていた。
ふたりは闘牛場の最前列の通路から階段を数歩上って、屋根が設置されていない北側の最前列に陣取った。楕円形の観客席は南側にドーム状の屋根があり、東西に高楼のような二階席が設けられている。
夏の日差しが照り付けるため、観客は屋根のある南側や日陰となっている二階席下の東西に集中していた。ふたりが座った席も例外なく日光で加熱されていたが、受付で借りたマットを敷いて凌いだ。
「あちち、これじゃあ私の色白の肌が焼けちゃうよ~」
「ふぉっふぉ、お前さんは友人から借りた『日傘』があっただろうに。車に置いてきたのか?」
唇を尖らせて暑さに苦言を呈するぬえに冷えた炭酸飲料の缶を渡しながら、マミゾウは焦げ茶色の髪を揺らして不思議そうに尋ねた。
「…だって、小傘の作った傘だよ? 『わちきとお揃いだね!』って嬉しそうに言うから、渋々受け取ったけど」
そう言ってぬえは苦笑いした。ぬえに懐いている多々良小傘は、蒼と紅のオッドアイが特徴の唐傘お化けの妖怪だ。
相棒、あるいは本体というべき傘は茄子色で長い舌が伸びた、お化け屋敷の小道具のようなデザインだ。そんな傘でも一応は受け取っておくぬえは、友達思いな妖怪なのだろうとマミゾウは思った。
ぬえの返答にマミゾウは納得した表情で頷きながら、スーパーマーケットで買って来たおにぎりと惣菜を座席に広げた。座席はベンチ式で弁当を広げやすい構造だ。
「さて、今回の『牛の首』反省会…まぁ名称はどうでも良い。取り敢えずお前さんとの小旅行に乾杯じゃ」
「うん、ありがとねマミゾウさん。乾杯!」
ぬえは炭酸飲料の缶をマミゾウの持っているお茶の缶に軽く突き合わせて乾杯した。ブナ林に爽やかな夏の風がそよいだ。
☆彡
「さぁ、間もなく取り組み開始でございます! 勢子の皆さんは場内へお集まりください!」
午後1時。場内アナウンスが放送されると、地元の男衆がぞろぞろと東側の門扉を開けて闘牛場へ入って来た。入場時には清酒を口に含み、塩を抓んで身体を清めている。
男衆は入って来た門扉の側で円陣を組んだ。彼らが「牛の角突き」の取り組みを仕切る「勢子」と呼ばれる男たちだ。闘牛場も酒と塩で清められ、聖地となっていた。
「それでは本日の取り組み、第一回は―――」
配布された取り組み表に記載された対戦が読み上げられ、勢子らは一回ごとに拍手をして組み合わせを了承する。全十二回の取り組みが承認され、闘牛場に大きな拍手が響いた。
「へえ、ああやって取り組みを決めているのね」
「昔はその場の牛の顔ぶれを見て決めていたそうだが、今は一週間ほど前の審議会で決めておるそうじゃ」
一旦解散して闘牛場から引き上げる勢子の後ろ姿を見ながらぬえが呟き、マミゾウが補足で説明を付け加えた。
「大変長らくお待たせしました。これより取り組みを開始します! 第一回―――」
司会を兼ねた勢子の告知で、いよいよ取り組みが開始される。勢子が入って来た東側の門扉は閉じられ、代わりに西側の門扉が開放された。
闘牛場の屋根付きの観客席の裏手に、十数頭の牛が繋留されている。取り組みが始まるまで観光客の衆目に晒されていても、彼らは泰然として大人しく出番を待っているのだ。
勢子に牽かれて入場してきたのは、小柄な黒毛の若牛だった。闘牛場へ来るのも初めてなのか、きょとんとした表情で周囲を見渡している。
続いて入場してきた牛も、ほぼ同じ体格の黒毛の若牛だ。勢子は両牛を3歳と紹介した。人間に例えると中学生くらいの年齢だという。
人間の眼で一見すると見分けがつかないが、先に入場した牛の尾には白い紐、後から入場した牛の尾には赤い紐が目印として結ばれていた。
「随分と可愛い牛ね。あんな仔牛ちゃんでも闘えるのかしら?」
「うむ、序盤は『芝均し』と言うて、若牛のデビュー戦に当てられているんじゃ。まぁ、闘いより場の雰囲気に慣れさせるのが目的じゃから、温かく見守ろう」
マミゾウがそう言い終わると同時に西側の門扉が閉じられ、場内では勢子が牛を対峙するように引き寄せた。牛の鼻に通した手綱を勢子が握ったまま、闘いが始まる。
3歳の若牛でも体重は600㎏を超える。両牛はしばし見合った後、恐る恐る頭を突き合せた。しかし、白い印の黒牛はすぐに飽きたのか、相手の首に凭れ掛かってしまった。
赤い印の黒牛はくすぐったそうに身体を捩って引き離そうとするが、白い印の黒牛も負けじと身体を寄せる。
そんな微笑ましいじゃれ合いに、観客からは温かい視線が注がれている。5~6分ほど牛を闘わせてから、勢子は手綱を引っ張って両牛を引き離した。
越後の「牛の角突き」は必ず引き分けにさせ、勝敗を決めない。酷使して牛を傷つけることを避ける為であり、また牛同士の闘いだけでなく牛と勢子(人間)との闘いも魅力の一つだからだ。
「さぁ、只今 勢子の判断で引き分けと致しました! 皆様、ひとつ盛大な拍手をお願いします!」
司会の高らかな呼び掛けで、会場からは拍手が起こった。しかし、その鳴り方は今一つ盛り上がっていない物足りなさを如実に表していた。
「う~ん…牛が遊んでいて、いまいち闘牛の感じがしなくてつまらないわねぇ…」
「ふぉっふぉ、大相撲で言えば『序の口』じゃ。面白いのは中盤からじゃよ」
不服そうに拍手するぬえを宥めつつ、マミゾウは取り組み表を広げて注目の対戦を見繕った。闘いを終えた牛は勢子によって場内を一周引き回された後、西側の門扉から退場した。
☆彡
マミゾウの言った通り、序盤の対戦は闘牛場の雰囲気に慣れさせる為の、牛の鼻に綱が通ったままの対戦だった。鼻は牛にとって「急所」であり、そこを抑えていれば容易に制御できるのだ。
Y地域では闘牛の生産は行っておらず、牛の出身地は大半が岩手県だ。他にも沖縄・徳之島(鹿児島)・宇和島(愛媛)・隠岐の島(島根)から導入される。いずれも闘牛の盛んな地域だ。
場数を踏んだ若牛は闘うことを覚え、徐々に力強さが増す。闘う牛は凡て「玉付き」と俗に呼ばれる、去勢されていない雄牛だ。食肉牛のように去勢してしまうと、牛は闘わなくなる。
牛の股間を指し示しながらマミゾウがそう解説すると、ぬえは心なしか顔を赤らめて素っ気ない返事をした。案外、初心な乙女心の持ち主なのだ。
「さぁ、ここからはいよいよ綱を取った対戦となって参ります! 第四回―――」
司会者が力を込めてアナウンスすると、西側の門扉から勢子に連れられた黒牛が跳ね馬のごとく跳び上がって入場した。その威勢の良さに、客席からどよめきが起こった。
ぶもおぉぉぉぉ! ぶもおぉぉぉぉ!! ぶもおぉぉぉぉ!!!
牛は入場するや否や、臼歯の並ぶ口を大きく開けて地響きのような啼き声を出した。「どう声」という、牛が気合いを入れている時の啼き声だ。
「うひゃぁ、あいつ気合いが入っているね」
やっと前座から抜け出せたぬえがワクワクした表情で牛を見つめる。黒牛はどう声を出し終えた後、場内の中央でどっしりと佇んで対戦相手を待ち構えている。
「この『どう声』を場内で出せて牛は一人前じゃと言われておる。ほれ、後から来る牛は変わった毛色をしとるぞ」
マミゾウに言われてぬえが視線を西側の門扉に移すと、赤い地毛に白い毛が混じる牛が姿を現した。先ほどの牛と違って堂々と大地を踏みしめるように入場したが、その眼光は爛々と耀いている。
「あれは『かす毛牛』と呼ばれておってのぅ。昔から『かす毛牛で喧嘩しない牛は居ない』と伝えられているほど精気盛んな種類の牛なんじゃよ」
「へぇ~、なんだか合成獣(キメラ)みたいで親近感が湧くわね。私はあいつの方を応援しよう!」
マミゾウに教えられたぬえはかす毛牛の方を贔屓にしたようだ。年齢は黒牛が5歳、かす毛牛が6歳。勢子は牛の鼻先で結ばれた綱を解き、引き抜ける状態で両牛を対峙させた。
「ヨシタぁぁ~!! ヨシタぁぁ~!!」
勢子が牛を鼓舞する掛け声を出しながら綱を引き抜き、天高らかに放り投げた。その瞬間、解き放たれた牛が正面衝突して闘いの火蓋が切って落とされた。
先に攻撃を仕掛けたのは黒牛の方だった。前方に伸びた槍のような角で抉るようにして、相手の額に掘り込む強烈な一撃を撃ち込んだのだ。
「ハタキ」という、ボクシングのパンチのような打ち技だ。牛の角がぶつかり合う、頭蓋骨が軋むような鈍い音が闘牛場に木霊して観客は息を呑んだ。
だが、かす毛牛も怯むことなく首を小刻みに振り、相手の攻撃をいなした。そして横に広く伸びた角を下から突き上げるように相手の角へ仕掛けた。
ゴッ、ゴツン、ゴツン―――――!!
二度三度、ハタキによる応酬が続いた。牛の闘いは先に相手の首根っこへ切り込んだ方が優位になる。鎬を削る角突き合いが一瞬、黒牛が首を振ったことで間が空いた。
その瞬間をかす毛牛は見逃さなかった。後ろ脚の血管が浮き出るほどに力を滾らせて地面を蹴り、体重900㎏超の巨体が驚くほど俊敏に黒牛の首に向けて突進した。
「うおおぉぉぉ! いっけえぇぇ!!」
客席から歓声が上がり、かす毛牛を応援していたぬえも腰を浮かして雄叫びを上げた。マミゾウも掛けている眼鏡の位置を直して、前のめりで闘いに見入っている。
しかし黒牛も眼を離さず、すぐに首を返して反応した。かす毛牛の角が首筋に掛かりながらも、相手の首を奪おうと果敢に切り込む。
その鬩ぎ合いは「まくりあい」と呼ばれる状態で、牛は風車の羽のように中央で転回した。乾いた土埃が場内に立ち込め、牛を取り囲んでいる勢子の掛け声も一段と強まる。
「ヨシタぁぁ~!! ヨシタぁぁ~!!」
「良くやった」という意味の「ヨシタぁー」と野太い勢子の掛け声が深緑のブナ林に響き渡る。両牛の角が掛け合い、膠着しそうになった所で勢子のリーダーが手を挙げた。
それを合図に取り囲んでいた勢子が牛の後方へ取り付き、肩にかけていた綱を後ろ足へ引っ掛けた。輪の部分を左肩に掛け、牛の脚に抱き着いて右手に持った綱の端を左手に持ち替えて引くことで輪が締まるのだ。
それから綱を勢子が引っ張るのだが、闘いを止めようとしない牛の踏ん張りに苦闘している。やっとの思いで牛を引き離し、別の勢子が牛の鼻を掴んだ。牛の鼻先は綱を通すために穴が穿たれている。
牛を抑止した勢子たちは汗だくで息を切らしている。5~6人で引っ張っても動じない牛の馬力(牛力?)は独りでは手に負えないだろう。勢子の連携も大きな見所だった。
「さあ、両者とも綱が伸びました! ひとつ盛大な拍手をお願いいたします!」
客席からは両牛の敢闘を讃える拍手が鳴り響いた。それは序盤よりも高らかに、観客の興奮の度合いを示す大きな拍手だった。勢子も疲れた表情に誇らしさを滲ませ、客席へ会釈した。
「あぁ~、面白い。やっぱ雄牛の闘いは血沸き肉躍るね!」
「うむ、暑さで牛の動きは鈍るもんじゃが、見事な角突きじゃ」
額に玉のような汗を浮かべ、ぬえは炭酸飲料を呷って一息つく。マミゾウも買って来たビーフジャーキーを煙草代わりに齧りながら、ハンカチで頬を伝う汗を拭った。
闘いが終わっても鼻息を荒げている両牛は、鋭い眼差しで互いに眼を離さない。そんな雄牛の鼻に通した手綱を苦労して引き回しているのは、「牛持ち」と呼ばれる牛のオーナーだ。
Y地域の闘牛は約50頭。闘牛場から程近い牛舎で飼育されているが、牛持ちは県内外に居る。遠方からも足繁く通う牛持ちと地元の住民との交流はY地域の観光交流を下支えしている。
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それから最終回までの八回の取り組みは、それぞれ牛の個性と実力が発揮された対戦だった。
「ヨシタぁぁ~!! ヨシタぁぁ~!!」
勢子の掛け声に感化されたのか、ぬえは取り組み毎に贔屓の牛を定めて、観客席から勢子と同じように牛の闘いを鼓舞していた。
「ふぉっふぉ、勢子らの真似で叫ぶとは、まるで響子のようじゃのぅ」
マミゾウがぬえの様子を見て可笑しそうに語った。響子とは、命蓮寺の門前を掃除している山彦の妖怪・幽谷響子のことだ。
「えへへ、だって黙って観ているより応援した方が面白いんだもん。ヨシタぁぁ~!!」
そう言ってぬえは楽しそうに応援を続投した。7~8歳の中堅の牛同士が一直線にぶつかり合う闘い、最年長14歳の老牛の胸を借りる6歳牛の取り組みなど、見所は盛りだくさんだった。
入退場する際、牛には黒・白・赤の三色の綱で編まれた「面綱」と呼ばれる化粧回しみたいな飾りが顔に掛けられる。それが牛の正装なのだ。
「さぁ、いよいよ本日の最終回でございます! 第十二回―――」
時計の針は午後3時を指している。太陽が西へ傾いてきたが、闘牛場は夏の日差しと闘いの余韻で熱気が冷めてはいない。
ぶもおおぉぉぉぉ!! ぶもおおぉぉぉぉ!!! ぶもおおぉぉぉぉ!!!!
最後の取り組みに満を持して入場したのは、体重1トン超の巨躯を誇る赤毛の牛だった。闘牛場へ入るやいなや「どう声」を発し、前脚を屈して角で地面を掘る、首を地面に擦りつける仕草をした。
この仕草は「まま掘り」と呼ばれ、牛が場内に自分の匂いを擦りつけて「此処は自分の領域だ」と主張するためだと言う。同時に、地面に押し付けることで首や肩も鍛えるストレッチの役目も果たしているようだ。
後から入場した牛も、相手に見劣りしない大きさの赤牛だ。左角の先端が4分の1ほど欠けている。年間十回以上開催される「牛の角突き」で、角を折ってしまう牛も稀にいる。
折れた牛の角は再生しない。この赤牛のように先端だけなら闘技を続けられるが、折れた箇所が悪いと引退を余儀なくされる。勢子はそこも慎重に見極めて牛を闘わせるのだ。
「さぁ、横綱級の対決だね! ヨシタぁぁ~!!」
すっかり夢中になったぬえは身を乗り出して注視していた。マミゾウも扇子で自身に風を送りつつ、その様子を眩しそうな表情で眺めている。
面綱を外され、鼻の手綱を緩められた両牛は勢子に促されるまでもなく臨戦態勢になっていた……のだが、何故か両牛とも突き合せようとした頭を上げ、互いに見合ってしまった。
猛牛の激しいぶつかり合いを期待していた観衆からは、牛の予想外の動きにどっと笑い声が起こった。「ねりを踏む」という動作で、相手を睨んで威嚇する心理戦だ。
「ふぉっふぉ、流石は歴戦の横綱牛じゃ。これは凄まじい闘いとなるじゃろう」
妖獣として牛の心理を読んだマミゾウは不敵な笑みを浮かべた。その予想どおり、牽制していた角折れ牛がボクシングのフックのような鋭い攻撃を仕掛け、拮抗が崩れた。
赤牛も動じることなく、「カケ」と呼ばれる自分の角で相手の角を掛ける基本の技で、角折れ牛の攻撃を真正面から受け止めた。相撲の「がっぷり四つ」の体勢だ。
両牛のボルテージは徐々に上昇していき、目の周りが赤く充血している。赤牛に見られる、興奮の度合いを示す特徴だ。角や脚の捌き方を一歩でも間違えれば切り込まれる、緊迫した闘いが繰り広げられた。
「ヨシタぁぁ~!! ヨシタぁぁ~!! ヨシタぁぁ~!!!」
勢子も声を張り上げ、牛の闘いを囃し立てる。1トン超の肉体がぶつかり合う衝撃と迫力が、観客席にも伝わって来る。赤牛が頭を低くして下から攻めようとするが、角折れ牛が全体重を掛けて防いだ。
「首を預ける」という防御の姿勢は、風に揺れる柳の枝のように柔軟で強靭な牛の首回りの筋力があってこそ為せる技だ。首を預けた角折れ牛が、逆に赤牛を押し返す。
そして、角折れ牛が一瞬の隙を突いて赤牛の首に角を引っ掛け、一気呵成に柵際まで押し込んだ。それはマミゾウとぬえの座る席の真ん前だった。
「うおおおおおお!! すっげええええ!!!」
「これは…滅多にお目に掛かれぬ取り組みじゃ」
ぬえは眼前に迫り来る牛に感嘆の声をあげる。マミゾウは固唾を呑んで状況を見守ったが、内心ではかなり高揚していた。眼鏡の奥に光る眼差しは真剣だ。
鋼線の張られた柵に赤牛の巨体がぶつかり、牛の蹴り上げた土が観客席に降り掛かった。カメラを構えていた中年男性が、慌てて転がるように避難した。
ぶもおおぉぉぉぉ!! ぶもおおぉぉぉぉ!!!
攻め込まれた赤牛が激しく慟哭した。並みの牛ならここで戦意を喪失し、相手に尻を向けて敗走するだろう。しかし、赤牛は闘いの経験豊富な猛牛だ。
敢えて相手の突き出す角の前へ飛び出し、柵際から相手の横へ突破する。そして前脚を強く蹴り込み、怒濤の反撃を仕掛けた。その見事な切り返しに、観衆は歓喜の声をあげた。
牛同士の闘いが最高潮に達したとき、今度は牛と勢子との闘いに移行する。油断すれば興奮した牛の闘いに巻き込まれ、負傷してしまう。
牛の後ろ脚に綱を掛け、6人で引っ張って牛の動きを制止させる。それでも1トン超の牛を止めるのは容易ではない。ベテランの勢子が牛の鼻先へ躍り出て、鼻を掴んだ。
引き分けとされ、全ての取り組みが終了した。闘牛場は割れんばかりの拍手が鳴り響き、勢子は観客へ深々と頭を下げた。ぬえとマミゾウも惜しみなく拍手していた。
「これにて、本日の取り組みはすべて終了しました! 本日はご来場いただき、誠にありがとうございました!!」
勢子の挨拶に応えるかのように拍手は一層の万雷となり、ブナ林に木魂した。観客は席を立ち、ぞろぞろと闘牛場を去っていく。妖怪コンビも満足げな表情で人混みに紛れた。
「あぁ~、愉しかった! ねぇ、マミゾウさん。今度はフランやこいしも一緒に誘おうよ!」
ぬえは懇意にしている友人のフランドール・スカーレットと古明地こいしの名前を挙げながら、次回も「牛の角突き」観戦に訪れたいとリクエストした。
「ふぉっふぉ、あのふたりも連れて来ると世話を焼くのは儂ひとりじゃ重荷じゃのぅ…マイクロバスでも手配するか」
冗談めいた独り言をつぶやきながら、マミゾウはぬえの楽しそうな横顔を見て喜ばしく思っていた。その後、「牛の角突き」に妖怪の御一行様がやって来るのは、もう少し後の話だった。
【完】