守矢の祝子が姉に挨拶したいと言うから、庵の場所だけ教えてあたしは人里へ遊びに行った。早苗がひとり会いに行ったところで、どうせ結果は見えているし、それは多分あたしが一緒にいても変わらないから。
騒がしいからという理由で収穫祭にすら来ないあたしの姉は、あたしよりずーっと身勝手でわがままで、好き嫌いの激しい偏屈だ。いつのまにか、そうなっていた。
相手が妖怪だろうが神だろうが幽霊だろうが、いちど良くない印象を持ってしまえばちょっとやそっとでは崩れず、のらくらと避け続ける。さらには食わず嫌いもするから、さきの騒ぎで調子に乗って大暴れしたあの祝子にきっと簡単には会ってやらないだろう。なにしろ今や姉に会うのにはかの隙間妖怪ですら梃子摺るのだから。
本当に面倒くさい姉だ、秋静葉という奴は。姉妹神でなければあたしは関わりたくない相手だし、それはむこうも同じだろう。
人間の女の子がひとり、あたしに話しかけてきたのは、そんなときだった。
「おいものかみさま」
あたしのエプロンを掴んでまっすぐ瞳を見つめてくる。
「……確かにあたしは芋神ね。でも穣子って呼んでほしいな」
「いもりこさま」
「…………はぁい、なんですかぁ」
女の子はつっかえながら用件を述べた。
「あのね、あのね、いもりこさまは、モミジのかみさま、しってますか?」
「モミジ? うん、知ってるけど」
「おばばがね、モミジのかみさまに、あいたいです」
「神様に?」
「うん。イマワのキワにあいたいって」
「待ってなさい今すぐ連れてくるから」
言うまでもないけれど、あたしは多分に人間びいきです。
庵でなにやらごそごそしていた静葉の首根っこを掴んで飛ぶようにして(っていうか飛んで)人里へ向かう。
なんでだか丸くなった静葉があたしを呼ばわった。
「穣子、穣子、どうしたの騒々しい」
「説明はあとで。というか自力で飛んでよ」
「服をきちんと着る暇さえくれたらそうするわ」
静葉の服は前側がきれいに開いていた。手で押さえた隙間から白い肌がのぞいて、うっかり直視したら妙な気分になりそうだった。視線を上に逸らすと、飾りの乗った髪は少し濡れているようだった。
仕方がないから釦をとめてやることにする。普段はここまで甘やかさないんだけど。
「そもそも、なんで着替えてたのよ?」
「滝壺に落ちたから」
「はぁ?」
思いっきり怪訝な顔をしてやると唇を尖らせて拗ねた。
すっかり機嫌を損ねた静葉の腕を引っ張って飛ぶ。空いた手で髪を押さえながら、道すがら静葉が口を開いたのは一度きりだった。
「人里へ行くの?」
「そうよ」
静葉は、そう、と応えたきり、女の子のところへ着くまでずっと黙っていた。
女の子に連れられて来た家、その縁側に、『おばば』は座っていた。静かに湯呑みを傾ける姿はどこぞの紅白を彷彿とさせる。
……イマワのキワ云々はどうした。
「おばばー、きたー」
女の子が『おばば』にじゃれつく。『おばば』は皺くちゃの手で女の子の頭を撫でてあげると、掠れたような、けれど暖かい老人特有の声で、おや誰が来たんだい、と女の子に訊ねた。
女の子はにこにこ顔で、
「モミジのかみさま!」
『おばば』が振り向くと同時に静葉が動いた。『おばば』の傍らまで歩み寄って膝をつく。あたしが見る限り、珍しい光景だった。怠惰で無精で偏屈な姉が自分から誰かのところへ行くなんて、少し前はあった気がするけど、今は。
『おばば』は静葉の姿を見るなり驚いたような表情で息を呑む。
「覚えていらっしゃいますか」
一度お会いしたことがあるのです、と『おばば』は言った。やっぱりあたしは驚いた。スキマも苦労する静葉とのエンカウントに、人間が一度で成功するなんて。
静葉はさらに驚くことに『おばば』の手をとった。妹であるあたしですらほとんど聞かないくらいの優しい声で、
「ええ、もちろん。いつか山菜を採りに山へ迷い込んだ娘ね?」
いったいあたしは、今日だけで何度驚かされればいいというの。静葉の顔は見えないけど、微笑んでいることくらいは分かる。『おばば』は感動しきりで静葉を拝んでいる。
静葉はあたしを振り向いてにっこりした。あたしは女の子を連れて外に出た。
表に出てしばらく女の子と遊んでいると、『おばば』との昔話を終えたらしい静葉が出てきた。
静葉は女の子の頭を一度だけ撫でて笑いかけた。あたしとおなじ稲穂色の髪を揺らして浮き上がる。
「帰るわよ」
「あ、うん」
じゃあね、女の子に手を振ると、無邪気な笑みが返ってきた。なんとなくいい気分であたしも飛ぶ。
そういえば静葉の頭に髪飾りがない。どうしたのか訊くと、『おばば』に与えてしまったらしい。どうせただの葉っぱなのだから、と。
「この世の名残に、ね」
「どしたの、静葉?」
静葉が物騒なことを呟いた。『おばば』がそう言ったのだろうか。
まだまだ死にそうにはなかった、あの老人は、静葉と何を話したのだろう。根性の曲がった自称『人恋し神様』と、どんなふうに笑い合ったのだろう。少し知りたい気もすれば、そうでもない気もする。
「いいえ。……ねえ、いもりこ」
「さりげなく採用してんじゃないわよ。なに?」
「眠るときって、何を感じるものなのかしら」
「なによ、急に」
静葉は答えなかった。あたしの声すら届いているか知れない。
「わたしはね、分からないの」
「はあ」
「寂しさと終焉の象徴なのに。滝に身を投げても、まったく」
「……頼むからさ、あたしにも分かるように話してよ」
静葉はただ淡く微笑んで、それでもあたしを見ることもしないから、あたしは静葉の横顔を馬鹿みたいに眺めるしかできない。
そんなのはもう慣れてる。いつだって自分の問いかけにあたしを入れようとしないんだ。あたしを通して他の誰かに尋ねているみたいに。
「いもりこは、ばかね」
「んなっ……!」
なんて身勝手なの、この姉は!
突っ込みたいところはたくさんある。勝手に話し始めたくせにあたしに理解させないこととか、いもりこって呼ぶなとか、そりゃあもう大量に!
でも、それができない理由がひとつあるから、あたしは黙って静葉を眺めるしかできない。――こういうときの静葉は、たいていは栄養の足りてない芋の葉みたいに、褪せた色の表情を浮かべるから。
でも、今回ばっかりは黙っててやらない。いつまでも馬鹿な妹扱いされ続けるのは癪だし、どうせわからないわよーみたいな顔で自分は一人なんだー的な雰囲気かもしだすのも、いい加減気に入らない。なにより毎度毎度バカにされちゃあ豊穣神がすたるってもんよ。
「……あたしは!」
ちょっと驚いた顔の静葉を睨む勢いで言葉を紡ぐ。
「あたしは、そりゃあ、小難しいことは分かんないですよ。でもさ、分からせようとしないでしょ、静葉は。いっつも一人で完結して、自分とばっか対話して、隣にいるのはあたしでしょ?」
「……穣子?」
「本気で不思議そうな顔でこっち見ないでよ勢いが削げるでしょ! ていうか殺げた! 静葉なんてもう知らない!」
静葉のばかー、なんて我ながら子供っぽい置き台詞とともに全力で飛び去る。背中に静葉の呼ぶ声が聞こえた気がするけど無視だ。
ああもう、なんでこんなに熱くなってるんだろう、あたし。
「――で、逃げちゃったんですか」
「……そんな感じ」
行く場所がなくて転がり込んだあたしを、守矢の祝子は呆れ顔で迎えた。一晩経ってから、忙しく箒を動かす傍らに浮いて、語り聞かせたのは過日の愚痴。
「つまり、庵に行っても静葉さまがいらっしゃらなかったのは穣子さまのせいだ、と」
「あー、それはそうとも言えない」
「はい?」
「静葉、あんまり人間と会おうとしないのよ」
早苗は首を傾げた。
「ですが、先ほどのお話ではおばあさんに」
「んー……それがねぇ、あたしにも分かんないのよ」
くるくる回ってみたりひっくり返ってみたり、悩んでますっていう格好を探してみる。うまいこと見つからなくて諦めた。
その間も早苗は思案顔で箒を繰る。
「そのおばあさんが原因なんじゃないでしょうか」
「なにが?」
「静葉さまの人間嫌いです」
「あー……ううん、でもさ、人間嫌いの原因になるくらいの相手なら、会ったりしないと思うんだ」
「そうですよねー……」
ふたりして黙りこんでしまった。早苗がふぅとため息を吐く。
「お、青色吐息?」
「いえ、ちょっと憂鬱で」
「?」
「人里で昨夜、お通夜があったらしくて。そうでなくても最近あんまりついてないのに……よくないことって重なりますよね」
――いもりこは、ばかね
静葉の声が頭の中に反響した。
…ところで話は変わりますが、作者様の名前見て、沈黙の艦隊を想起したのは自分だけかしら?