突然だが、朝の紅魔館という物は静かである。
主人である吸血鬼は眠っている時間であるし、その従者達も主人の生活時間帯に生活リズムを合わせるよう教育されている。
よって朝の紅魔館は、眠っている時間をほとんど見かけないと言われるメイド長、門番隊、そもそも眠らない居候以外は全ての者が眠りについているのである。
だが、今朝はどうも様子が違った。
陽が顔を出し始めている時間帯であるにも関わらず、人気の無い紅魔館の廊下をひたひたと歩く小柄な影が一ついるのだ。
「うー……」
枕を両腕に抱きながら、ファンシーな蝙蝠の絵柄が刺繍されたパジャマと帽子を身に着けているその人物は、不安そうな声を上げながら廊下を歩いていた。
紅魔館の主であるレミリア・スカーレットその人……いや、妖怪である。
吸血鬼である彼女が、このような朝早くに起きている事は非常に珍しいことである。
序に言えば、自室以外で彼女が一人で居ることも滅多にない事だ。
何故彼女が朝早くに一人で廊下を歩いているのか。
その真意は彼女以外に知る者はいない。
「うー……一体トイレは何処にあるのよ」
……まぁ、つまりはそうゆう事である。
数時間前に自室で眠りについていた彼女ではあったが、寝る前に紅茶を飲みすぎたのだろう。
誰にでも経験があるであろう、睡眠中突如沸いた尿意によって彼女は眼を覚ましてしまったのである。
そのまま尿意を無視して眠ってしまっても良かったのだが、どうも彼女はそれを嫌がったようである。
彼女くらいの齢ならば、尿意くらい無視して眠りにつくことも出来たであろうが、とある光景を思い出したレミリアはそのまま眠ることを拒否したのである。
どんな光景かと問われると、晴れの日の庭で染みができたシーツがゆらゆら揺れる様を思い浮かべてもらえば差し支えないだろう。
彼女はそれを"思い出していた"。つまりは未だに経験があるのだろう。何時とは言わないが。
そんなわけで、彼女は現在トイレを求めて館内をさ迷い歩いているのである。
とは言え、既に何百年と住んでいる館である。さ迷うと言う表現は少々大げさかと思うかもしれない。
レミリア自身も、数分もあれば終わるだろうと高を括って部屋から出てきた。
しかし、今回はどうも様子がおかしかったのだ。
歩けど歩けど、見えてくるのは見慣れない廊下であったのだ。
見た目そのものは普段見慣れたそれである。
しかし、その廊下の構造は明らかにレミリアの知る物ではなかった。
まるで、廊下を捻じ曲げて別々の場所とくっつけたかのような……。
それもそのはず、実際この廊下は彼女の従者によって空間を捻じ曲げられているのだから。
昨夜、レミリアが眠りについた後、彼女の親友に呼ばれた咲夜は、本を仕舞う場所がなくなってきたから図書館の空間をもっと広くするよう命じられたのである。
実際自身の能力でそれができる咲夜は、さっそくその仕事に取り掛かることにした。
そして、どうせ空間を広げるなら館全体の空間を広くしよう、咲夜はそう考えたのである。
主人であるレミリアには、起きてから説明と案内をすれば問題ない。
そう考えた咲夜は自身の能力を使って館内の空間操作に乗り出したのである。
結果として広がった廊下は、その構造をレミリアの記憶とはまったく違った物へと変貌を遂げたのである。
「ここ、どこ……?」
レミリアは枕を抱きしめる腕に一層力を込めて呟く。
記憶に一致しない廊下を記憶を頼りに進んだため、彼女はすっかり迷子になってしまっていたのだ。
廊下にメイド妖精を始めとした従者は誰一人いない。
先ほども述べた通り、主人に合わせて生活時間帯を変えているからである。
つまり全員眠っているのである。おそらく起きているであろう咲夜の姿も今は見当たらない。
「さ、さくやぁ……」
段々不安になってきたレミリアは、自分が最も信頼する従者の名前を呟いた。
その様子に、普段のカリスマ溢れる彼女の存在感は微塵も感じられない。
どう見ても、今の彼女の雰囲気は、か弱い少女のそれである。
「どうしよう……」
自分の館で迷子になる。笑い話にもならない。
だがそこら辺の部屋に入ってメイド妖精達を起こすのは、彼女のプライドが許さない。
同じ理由で窓から出て門番達を呼ぶのもだめ。その前に紅魔館は窓が少ない為窓を見つけるのも一苦労。
そして図書館にいるであろう親友は、自分の館で迷子になったなどと言えば何年それをネタに弄られるかわかったものではない。
第一、図書館までの道がわからない。わかれば苦労しない。
ちなみに、自室までの道のりはとっくにわからなくなっている。
行くあてはない。道もわからない。
そして下手に歩いてもますます迷うだけである。
「うー……さくやぁ……」
もうどうしようもない。
今のレミリアにできる事は、枕を抱きしめながら従者の名を呼ぶことだけであった。
因みに涙目と涙声のオプション付きである。誰も見ていないのが勿体無い。
と、その時であった。
『キー!キー!』
「うー!?」
突如レミリアの頭上を蝙蝠の群れが飛んでいった。
館内に住み着いている蝙蝠たちである。この紅魔館に吸血鬼が住むようになる以前から住んでいるようだ。
それを見たレミリアは驚きのあまりに変な声を出してしまった。
自分の眷属を見て驚く吸血鬼と言うのも変な話ではあるが、今の彼女は極限状態に近いのであるから無理はない。
ともかく突然飛んできた蝙蝠は、彼女の僅かに残った精神力を完全に奪い取るのには十分だった。
結果として彼女は、その場にへたり込み、抱きしめた枕に顔を埋め、遂に泣き出してしまった。
「ふぇえ……。もういやだぁ……」
どれくらい泣いていただろうか。
枕は涙ですっかり濡れてしまっていた。
スンスンと嗚咽を漏らすレミリアは未だに動けない。
最早彼女の精神状態は極限状態を超えてしまっていた。
そのせいで、レミリアは背後から忍び寄る足音と影に気づくことができなかった。
その影は、レミリアのすぐ背後で立ち止まると、突然レミリアに抱きついてきた。
「うぁ!?」
当然レミリアは驚いた。
驚いて回された両腕を振りほどこうと暴れるが、どうやっても解けない。
極限状態とは言え、吸血鬼である自分が腕力で負けている。
レミリアはそれでも必死に暴れたが、やはり彼女を掴んだ腕はレミリアを放そうとしない。
そして、レミリアを掴んだ腕の主は、抱きしめる力を更に込め、徐に言った。
「お姉さま捕まえたー」
その声は、レミリアにとってとても馴染み深い声だった。
この館で彼女と腕力で互角に渡り合える唯一の存在の物。
そして、世界でただ一人彼女をお姉さまと呼ぶ存在。
それに気がついたレミリアは、回された腕に自分の手を添え、尋ねた。
「フラン……?」
「お姉さま、こんな時間に何をしてるの?」
声は質問に答えずそう言った。
だがそれだけでレミリアには十分だった。
こんな時間に何をしているか、とはむしろフランに聞きたいレミリアであるが、今の彼女にそんな余裕はなかった。
それに、長い間地下に幽閉されていた彼女である。普通の生活リズムを求めるほうがおかしいと言う物である。
ともかく、迷子で不安になっているところにやってきた妹。
レミリアには、そんな妹がとてつもなく頼りに見える存在に見えてしまった。
普段絶対に頼らない存在であるフランが、である。
「ふ、フランー……」
「え、お、お姉さま?」
恥もプライドもかなぐり捨て、レミリアはフランに抱きついた。
安心して緊張の糸が切れてしまったのだろう。
レミリアはフランに抱きついたまま、再び泣き出してしまった。
フランも、普段気丈に振舞っている姉が突然抱きついて泣き出した物だから、困惑を隠さずにはいられなかった。
しばらく困惑していたフランだったが、このまま廊下で泣かせておくのも拙いと判断したのだろう。
泣きじゃくるレミリアを抱きかかえ、地下の自室へと戻っていった。
館が突然広くなっていたので探検しようと思い地下から出てきたのだが、地下から出るや否やおかしな拾い物をしたものである。
ともかく、地下の自室にレミリアを連れて来たフランは、未だに泣きじゃくる姉を自分のベッドに寝かせた。
「さて……あれ?」
そのまま館内の探検に戻ろうと思い、ベッドから離れようとしたフランの歩みは、突如引っ張られた裾に阻まれ止った。
見ると、レミリアが涙目になりながらフランの服の裾を掴んでいたのである。
「お姉さま……?」
「行っちゃやだ……」
館内の探検に戻ろうと思っていたフランは困ってしまった。
しかしながら、普段姉のこのような姿は滅多に見れる物ではない。
それに、自分が甘えられるという体験が初めてであったフランは、その姉の姿がとても可愛く魅力的な物に見えてしまった。
結局、フランは溜息を一つして姉と一緒に毛布の中にもぐりこんで行った。
フランが毛布の中に潜り込むや否や、レミリアはフランを求めるように胸元に抱きつき、顔を埋めた。
それを見たフランは、溜息をもう一度すると、やれやれと言った調子でレミリアの頭を撫で始めた。
フランの胸に顔を埋めるレミリアの顔は、この上なく安心しきった物であった。
「まったく、しょうがないなぁお姉さまは……」
半分呆れたように言うフラン。
だが、その顔は何処までも姉に対する愛情に染まっていたのだった。
因みに次の日、紅魔館の庭で染みができたフランのシーツがゆらゆらと揺れる事になるのだがそれはまた別のお話。
忠誠心がだだもれだぜ
うむ。可愛いは正義!
カリスマブレイクは良いものだ。