Coolier - 新生・東方創想話ジェネリック

萃香製造工場の秘密

2021/11/15 05:41:38
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侵域する。22世紀風に再解釈されたわたしは自動小銃を抱え込んで、スタイルなら、アクセシビリティに特化する。紅白模様は迷彩柄へと置き換えられ、あの子の悲しみは分割されること……細分化し全体を失うこと。あるいは、集積、統合され、偏差的な部分を削ぎ落とされてしまうこと。22世紀において萃香はもはや工場生産品であり、彼女の疎蜜は単に規格の問題でしかない。グローブの中のわたしの手は汗で湿っている。コンテナの陰に座り込んで自動小銃を抱え込む。萃香がわたしを見つける。わたしは自動小銃の銃口を彼女に向ける。22世紀において弾を撃つことは、そっくりそのまま、終わらせることだった。戦闘はとても簡素化されている。引き金を、ひとつ、引く。それで決着がつく。わたしの前の萃香はあまりに萃香だから、わたしはきっと撃てない。わぁ、と萃香がわたしを見て驚く。その音に引き寄せられて集まってくる。大小様々なたくさんの萃香。規格化された萃香はひとつの大きさのグループに対して、すべてが同じ大きさだった。



模造桜が降る。
海に囲まれたこの町には長い長いベルトコンベアーがある。
あの工場からこの海まで一直線に伸びている。
からからと音を立てながら朝も夜も止まることなく回り続ける。
コンベアーの上では萃香たちが眠っている。眠りながら運ばれるのだ。やがて萃香たちは埠頭倉庫に辿り着き、箱詰めされて、輸出船に乗って遠い国へと旅に出る。
眠りながらコンベアーを行進する萃香たちは夢を見ると言われている。
宴会の夢。
たくさんの人たちが神社の境内により集まりどんちゃん騒ぎをしている、そんな夢だ。楽しい夢だよ、と萃香は教えてくれた。みんながあつまるんだ。馴染みの友だちや知らない人たちやもう二度と会えないと思ってた人たち。みんなが帰ってきてそこで宴会をやる。どこどこどこどこと何か祭り囃子のようなものが聞こえている。提灯の暖かい光が、風に、ふらりふらと揺れている。たくさんの人影。そんな記憶の断片だけを今も憶えていると萃香は言う。いつも聞こえるんだ。祭り囃子。遠くでね。どこどこどこどこ。鳴ってる。心音みたいに、鳴ってるの。だからいつもちょっと寂しいの。どこか、すぐ近いところでみんなが集まって宴会をやってるのに、わたしは遠いところにいる。そんな気がするからさ。
そうやって萃香は寂しそうに笑った。
錆の匂いがする。
いや、潮の匂いだったんだろうか。
それは海に囲まれたこの町で曖昧に混じり合い、わたしにはもう違いがわからない。
海を知らない。
海の匂いを知らない。
海を見たことがない。
小さな砂浜で座り、こうして海を目の当たりにしているのにそんなふうに思った。
埠頭倉庫沿い。
小さな萃香が、あどけない笑顔を浮かべて、子供のような――ふら、ふら、ふらふら、揺れながら波打ち際で貝殻を探していた。

「萃香。あんまり海に近づいちゃだめよ、あんた溶けちゃうから」

うん、わかってるわかってる!って萃香は波打ち際をはしゃぎながら……絶対わかってないじゃん。危なかっしく波打ち際とつなひきしながら、萃香は貝殻を拾った。ピンクのポシェットに貝殻、またひとつ放り込んで。ポケットの中の食べかけのハーシーズ・チョコレート。かじると甘い味がした。ギンガミ風の色した海の前。浜辺に捨てられたポルノ雑誌のページを潮風がめくる。錆色のラバースーツを着込んだ女が笑ってる。キャプションが、こう。『港の空の色は、空きチャンネルに合わせたTVの色だった……。ふたりでつくった小さな砂のお城がわたしの隣で風にさらさらと鳴っていた。
ぱちん。
砂粒のそのひとつがわたしの前で弾ける。
反射的に閉じた目をもう一度開くと、灰色の海を背景に萃香が手を振っていた。

「ねえ、霊夢、見てよ!」

萃香が手をふる、その先に、白い貝殻。
大きな大きな二枚貝の半身。
あーあ、あんなにはしゃいじゃって。そんなにはしゃいでたら波に足元掬われるわよ。ほら気をつけてよ、ふらふらふらと風の子みたいに萃香は揺れて、寄せる波をぎりぎりで避けて、片足立ちで腕を振りながら「貝殻、貝殻、こんなに大きくて……!」
ばか、転んだ。
わたしは駆け出している。砂粒を思い切り蹴り上げ、ロケットのように飛び出して、海の中に尻餅をついた萃香を、大きな波が浚いあげてしまう、その狭間に、わたしは、萃香の足が融解するような錯覚を覚えた。萃香の驚いた表情。じん、と鳴る。頭の中で。アドレナリンが流れ出し、鋭敏になる。感受性がばらばらになる。ひとつの神経パルスを高速化するために他のすべてが滞る。踏みしめる砂粒の一粒一粒が、足の重みで沈みこむその波形を感じるうちに、20歩走る。イメージの向こう側で萃香が溶けてしまう。白い蛋白質のどろどろ。ひとりで泣くわたしの部屋に甲高い音が響く。「ぴんぽーん」ドアの向こう側にダンボール箱が置いてある。わたしはそれを開く。もちろんその中には萃香が折り畳まれているのだ。箱から出てきた小さな萃香は笑った。「はじめまして!」あわてて、海の中に腕を差し伸べた。
クロームの腕。
萃香を掴んだ。
そのまま引っ張り上げ、砂浜に打ち上げる。
脱力感がどっとやってきて、わたしはぺたんと砂浜に座った。
萃香がわたしをじっと見る。
それからわたしの腕を指差した。
溶けてた。

「れいむ、れいむ、白いの出てるよ……」
「大丈夫よ。シリコーンが溶けてるだけだもん」

濡れた萃香のポシェットからシリコーンスプレーを取り出して、缶の中の液化シリコーンを義碗と二の腕の隙間に吹き付ける。ついでに萃香の全身にもかけてやる。あわわわわと萃香は情けない声をあげてた。それからしょげた顔で砂粒を指でいじりながら。

「ごめんね、霊夢」
「べつに……謝らなくていいわ。一生さ」
「れいむ怒ってる?」
「ううん」

萃香の頭をぽんぽんとわたしは叩いた。

「おっきい貝殻は?」
「なくしちゃった」
「そっか」

じゃあ、また今度探しに来ようね。
わたしは萃香を抱きかかえた。
細いコンベアーに乗って帰った。
埠頭倉庫行きの巨大コンベアーではたくさんの萃香が運ばれる。
萃香たちはみな眠っている。
宴会の夢を、きっと、見る。
わたしの萃香は工場で作られた規格品の萃香だった。
わたしの抱えた腕の中で眠るかわいい小さな小さな萃香。
海に囲まれたこの町では、巨大な工場によって萃香がつくられる。
そのために生まれた島の上にある町。
月の光がコンベアーを流れるわたしたちを照らしている。
小さな萃香は微睡んで。
むむぅ……。れいむ? ねえ、れいむ。
あら、起きたの?
ねてないよ、わたし。
寝てたわ。
ねてない。
そうね。チョコ食べる?
いらない。ひぃぃいああ。
眠いの?
ねむくないよ。
寝てていいわ。すぐに着くから。
ひぃぁああ。……ん。ぜんぜん眠くないのに。
あくびの終わり。
わたしの胸に萃香がほっぺたを寄せた。
歌をうたってあげようと思ったけれど、それが思い出せなかった。
子供の頃は誰かが微睡んだわたしに歌をうたってくれたのに。
でも、90年も昔のことだもんね。
だから代わりに萃香の頭を撫でていた。
萃香はもういちどあくびをした。
わたしはもう夢を見ない。
月の光がここで溶けるように、夢は消えてしまった。わたしの中にあったはずの記憶は分解し再解釈され、新しい名前を与えられ、この22世紀に顕現し他にはどこにも存在しない。
どこにも。
夢の続きに生きている少女はもう夢を見ないだろう。きっと。
でも――ねえ、萃香は、どんな夢を見ているの?



你好!
たぶん、それがちょうどよかったんだろう。
中華製異変解決半机器人のわたしには。
萃香はぴったりの女の子だった。
資本主義のその精神を象るには。
単に増えること、遍くこと。集積し、ひたすらに巨大になり、さらにそのもとへ集まること。資本主義の精神は分裂症のように二面性を持っている。たとえば、大量生産は資本主義の根本を成しているが、それを価値づけるのは貴重性である。単純な論理。大量生産品が遍くから、オーダーメイドに価値が与えられる。今やファッション、音楽――ブランドは資本主義の根幹をなしていた。生産、消費、それを拡大させる規格化は、人々に孤独をもたらす。わたしたちは固有でありたがる。資本主義下において基本的に人々は孤独であり、それがまた人々を光るロゴの基に集らせるのだ。
密と疎、それこそが、資本主義のだった。
だから、わたしにちょうどよかったんだろう。
中国共産党生まれのわたしのスタイルは、反資本主義的、あるいは、反萃香ということになる。わたしがこの22世紀に存在する理由は萃香を滅ぼすこと以外には、何もない。わたしは萃香――萃香製造工場を滅ぼすために、ゲル・蛋白と幻想DNAの間の子どもとして再び生まれた。転生。それはとてもわたしにしっくりくる概念だった。わたしは資本主義が到来する前の日本(今は地図にない国……)で生き、ほとんど完全な形で保存されていた。転生によって代から代へと移り変わる博霊の巫女という概念は、的に前代の情報を保存しようとする。だからわたしは残っていた。こうして復元できる形で。異変解決、というわたしに与えられていた役割も軍事作戦を決行するのにはきっと適していた。わたしは、するだろう。成否は別にしても。きっと萃香を滅ぼすのをためらわないんだろう。感傷なら、ある。こんなにたくさん。でも、わたしはそれを成してしまう。異変解決はわたしの仕事だった。90年前にだって、それを行うためだけに生まれたのだ。
それだから、わたしの記憶がすべて22世紀風に解釈された今にだって、それは何も変わらない。
90年前の幻想郷で育ち、ゲル・蛋白の中に転生したわたしは、22世紀に適応したわけじゃない。ただ、すべてを、22世紀風に解釈するようになっただけだ。古い人間は決して新時代に適応できない。身体で憶えたあらゆる感覚は90年先でも未だ有効で、少しだけずれている。それが問題だった。だから彼らはわたしたちを再教育しない。わたしたちが彼らを90年前のやり方で解釈するように、22世紀風のやり方でそうするだけだ。これは認識の問題だった。たとえば、わたしが破壊しようとするあの工場は、ほんとうの意味で萃香を生産しているわけではない。まあ、なにか似たようなものを……。それを、わたしは資本主義のテーゼと重ね合わせて、萃香で解釈する。わたしの使命は異変解決だけど、それは彼らに言わせれば軍事工作だということになる。ここまで理解しても、わたしはそれを正しく認識することができない。わたしたちの身体感覚はあまりに強く、死体が垂れ流す腐敗液のように壁や床に染み付き、決して消えることがない。ゾンビー。まあ、そうね。わたしは自分をゾンビーだとして差し支えがなにもない。



モニターの中では魔理沙が喋っている。
暑い日だった。カーテンの隙間から潮風が入り込む。湾岸そばのわたしのこの閉ざされた小さなアパートメントにはコンピューターと萃香と小さな自動小銃と冷蔵庫と調整の聞かない水道とぼろいキッチンの他になにもない。必要すらない。異変解決がわたしのすべてです。
一方で、魔理沙は星になった。
インターネット・スターに。
それだってやっぱりちょうどよかったんだろう。22世紀において、すでに星はわたしたちの手の届かない存在ではない。20世紀の終わりには人類は月まで到達した。(そのあとのことは知らんけど)魔理沙の不思議な親しみやすさ、共感の集め方(ああ、わたしは魔理沙なんだな……)それでいて魔理沙は憧れにさえなりえる。魔理沙の微妙さは、共感と憧憬のせめぎあいにある。わたしたちはがんばれば魔理沙になれると思う。魔理沙のようになりたいと思う。魔理沙は決して理解できない存在ではない。みんなの魔理沙に関する280通りの解釈。魔理沙は手の届く星だ。だから、みんなは愛した。
モニターの中では魔理沙が喋っている。今では魔理沙の放送を全世界の数百万人の人が同時期に見ている。魔理沙の部屋は生活感のある、わたしのよく知った、あの魔法の森の家のようだった。もちろん、これは22世紀風に解釈された魔理沙、ということになる。魔理沙は本当は魔理沙ではない。魔理沙はとうの昔にこの世界にいないし、幻想郷という土地のことを誰も知らない。わたしはこの世界を90年前の姿によって解釈するから、それを、魔理沙だと思うだけのことだった。
魔理沙のそばに萃香がいた。わたしの萃香、というふうにそれを紹介する。今や萃香は海を越えてマーケットに流通し世界中の人が愛用する”何か”である。ゲル・蛋白によって作られた何かだ。ゲル・蛋白は塩素分解するからシリコーン・スプレーの保護なしでは海にさえ触れることができない。でも、それが何か、というのは、22世紀を理解できないわたしには決してわからない。
わたしの助手なのぜ。いつもお酒を飲んでばっかでちっとも役に立たないんだけど、けっこうかわいいとこもあってさ。
わたしに向かって魔理沙が笑った。モニターの向こうで……。
借家の小さな部屋でわたしはそれを見ていた。いつもの魔法使いの白黒の服を着て、今日は新しい魔法を紹介するのぜ、って。部屋を暗くした。そして八卦炉の中から星を取り出してみせた。本物の星だった。わたしたちが地上から見るスケールそのまま小さなきらきら光る星。魔理沙はその星を食べてみた。光った。星が? 魔理沙が……。赤に、黄色に、緑に、移り変わりながら……花火? みたいに発光する。魔理沙は笑い出す。あははははっ、と狂ったみたいに笑っている。ピンク、白、赤に、魔理沙が。笑った。わたしは泣き出してしまう。涙がとまらなくなってしまう。わたしが泣いてるのを見て萃香がそばに寄ってくる。わたしの顔を不思議そうな顔で覗いて言うんだ。

「霊夢、泣いてるの?」
「うん」
「なんで?なんで? なんで、霊夢は泣いてるわけ?」
「わかんない。わかんないけど……」
「悲しいの?」
「ううん。嬉しいんだと思う」
「どうして?」
「また会えたから」

モニターの向こうで魔理沙が発光している。
萃香は見つめた。

「誰、あれ?」
「魔理沙」
「魔理沙って誰なの?」
「わたしの大切な人」
「泣かないでよ」
「どうして?」
「わたし、嫌だ」
「萃香には関係ないでしょう?」
「霊夢が泣いてるとなぜかわたしも悲しいよ」
「ごめんね」

わたしは萃香を膝の上に乗せて後ろから抱きしめた。
小さな小さな萃香だった。
ゲル・蛋白のやわらかい感触。
モニターの向こうでは魔理沙が笑っている。
懐かしい、昔からよく知っている魔理沙の笑顔だった。
涙がとまらない。
この涙に含まれる塩分がわたしの身体を溶かしてしまえばいいのに、とわたしは思った。でも、それはゲル・蛋白を分解するにはあまりに弱すぎて、わたしを伝い、萃香に触れて、溶けない。
潮風。
わたしの決して知らない、わからない海の匂い。
わたしたちの身体が涙よりはまだ強いこと、それはきっと正しい力だから、わたしは萃香をきつく抱きしめた。



夜に目覚めるとベッドの上でフランドール・スカーレットが萃香を組み敷いていた。
萃香のはだけた首元に歯を立てる。
甘い吐息。
制止しようと思ったが、身体が動かない。
いや、そもそも、それがなかったのだ。
なんだか幽霊にでもなったかのような気分。
わたしはフランドールと萃香がベッドの上で揺れているのを少し離れたところから眺めていて、声を出そうとしても言葉は口にした瞬間に月の光に溶けてしまい、わたしの神経はもはやどこにも繋がっておらず、ただこうして思考だけがここにある。
フランドールがちらとわたしの方を見た。

「あ、霊夢起きちゃったんだ」
「あんた、何してるの?」

くすくすとフランはおもしろそうに笑った。

「見てわからない? 霊夢ってうぶなのね。かわいい」
「やめなさいって言ってるの」
「どうして? わたしは奥手な霊夢の代わりにしてあげてるんだよ。霊夢はあの子にしてみたかったんでしょ、こうやって……」

フランドールが萃香の首元に舌を這わせる。
んんっ、と萃香が声にならない声をあげた。

「離れなさいよ、じゃないと……」
「あれれ、妬いてるの? 霊夢はこうやってしてみたかったんだもんね? 頭の中で何度も
、なめたり、かじったり。あの子はチョコレートじゃないんだよ? ふふ、味を、教えてほしい?」
「やめなさいってば!」
「そんな大声出しちゃだめ。あの子に聞こえちゃうよ?」
「聞こえるわけない」
「どうして?」
「だって――」

フランは存在しないじゃない。

「ぴんぽーん! 大正解!」

22世紀風に解釈されたフランドール・スカーレットはわたしの分裂した精神だった。
わたしの狂気の換喩でもある。
それだってやっぱりちょうどよかったんだろう。
分裂した人格、孤独と狂気のあいの子。
わたしの狂気を象徴するのにフランはお誂え向きの女の子だった。
きっとフランドールはもうこの世界には存在しない。

モニター向こうの魔理沙や工場からベルトコンベアーで運ばれる萃香たちのように。

「消えてよ。あんたはもういないはずでしょ?」
「ちがうわ。最初からどこにもいないの。わたしは霊夢の頭の中にだけいるんだから。かわいそうなわたしだよ」
「じゃあ、消えてよ」
「いいよ!」

すると、フランドールは消えてしまう。
わたしはベッドの上にいて、下には萃香がいる。
ばらばらになった表情でわたしを見た。
涙目。
わたしは萃香の頬に手を触れた。

「ごめんね」
「?」

それからちゃんと服を着せてやって、隣に座らせた。
スプリングのきしみ。
開け放った窓からは工場の唸り声が聞こえてくる。
ぶるるるるるると震えてた。
この町では夜も朝も止まることなく工場が動いている。無数の煙を上げながら今も萃香を作り続けている。海は灰色で、空も灰色。べつになんだってよかったんだろう、誰だってよかったんだろう、それがちょうどぴったり収まる形をしていれば。そうやって隙間を埋めることができれば。

「ね、ねえ、れいむ?」
「うん。なに」
「どうして急にやめちゃうの?」
「そんなのしたくないもの、わたし」
「……ひどい」
「そうじゃなくてね、萃香のこと大切にしたいのよ」
「言い訳じゃん。雑誌に書いてあったもん、してくれないのは、愛がないからだって」
「そんなん信じないでよ。じゃあいつかわたしも雑誌に書くわ。大切にしてるからしないんだって」
「誰も読まないよ?」

わたしは萃香を抱きしめる。

「ほんとはやり方がわかんないのよ。ゾンビーのわたしには。90年前にやらないままで終わっちゃったから。これから先、ずっと、そうだわ」
「ふうん。わたし、90年前の霊夢に会いたいな。会って、いろんなことをしてみたい。90年前に霊夢はわたしを愛してた?」
「もちろん」

霊夢のうそつき。
少し離れたところで、またフランがいじわるそうな顔でそんなことを呟いた。

「消えてよ」

わたしが言うと、フランドールは笑ったのだ。

「じゃ、再見、再見」

今度こそ本当に消えてしまった。
わたしはため息。
冷凍庫の中の冷たいチョコレートを萃香とふたりで食べた。
チョコレートの味は、昔からちゃんとよく知っている安心の甘い味だった。



埠頭倉庫のそばにはゴミ捨て場がある。
ゴミ捨て場といってもイリーガルなやつ。
つまりは、不法投棄場ということになる。
テトラポットのコンクリ。
その上にいろんなものが落ちている。
食べ物を包装する小さなゴミや繋がらない電話、洗濯バサミがいっぱいくっついた網とか、冷蔵庫や炊飯器、あるいは戦闘機の破片のみたいな変なモノまで――。
もちろん萃香だって捨ててある。
まだちゃんと生きている(?)ような萃香だっている。
テトラポットの上に座ったり寝転んだりしながら、何をするでもなく、ふらふらと揺れている。ころん、と時々急に息絶えたように転ぶからわたしはびっくりしてしまう。でも、見ていると、しばらくしたあとでまた起き出して、ととと、とテトラポットからテトラポットへバランスを取って歩き出す。わたしのことをふいに見て、じっと眺めて、こんなふうに呟くのだった。

「海」

そうして、潮風の吹く方に向かって歩いていくのだ。
後ろから追いかけて、テトラポットの段々に足をとられて転びそうになり、わたしは大きな声で萃香を呼び止める。

「やめなさいよう。そっちは危ないってぇ」

くるりと萃香は振り向いて。
こんなことを聞くのだった。

「お前はだれ?」
「霊夢」
「霊夢はなに?」
「昔のともだち」
「わかんない」

そしてまた海へ向かって歩きはじめる。

「だからやめなさいってばあ」

萃香が再び振り向く。

「なにか用?」
「そっちは危ないわ」
「どうして」
「溶けちゃうもの」
「あははっ」
「別に冗談じゃないわ」
「なにが溶けるの?」
「萃香の身体が」
「試してみようか」
「やめて」
「試してみなきゃわからないさ」
「じゃあわたしがやるわ」

わたしは腕を海の中に差し込んだ。
海水に触れた部分から皮膚が溶けて白いゲル状の塊になって海へと流れ出す。
しゅうぅしゅうううう、と遠い汽船の音みたいに鳴っていた。
やがて、全部がなくなってしまった。

「あ、なくなった、なくなった」
「言ったでしょ、溶けるのよ」
「わたしも?」
「そう、だから海に近づいちゃだめなの」
「腕、大丈夫?」
「いいのよ。わたしの身体じゃないもの。借りてるだけ。返さなくていいしね」
「ふうん」
「そうだ、チョコレートあるけど、食べる?」
「いらない」

片方の腕だけだとポシェットからチョコレートを取れなくて萃香に取ってもらった。
萃香はそれをじっと眺めて。
少しかじった。
甘いね。
なくした腕はあとで医者に行って、クロームのやつを作ってもらった。
馴染むまでにはずいぶん時間がかかった。
その間に、萃香に12回に会い、6回会えなくて、19枚のチョコレートを食べて、3度クロームの腕で海に触れ、189の言葉を教えた。
いつしか一緒に暮らした。
そんなふうにして萃香に出会った。



埠頭倉庫のそばの浜辺にはいろんなものが流れ着く。
いろんなゴミたち。
その中には萃香もいる。
捨てられた萃香、あるいは最初から誰の手にも渡ることなく終わってしまった萃香たち。
埠頭倉庫そば、ゴミ捨て場を、萃香製造工場の秘密を探してわたしは彷徨い歩く。
たくさんの萃香たちに出会う。

「おはよう! ここは埠頭倉庫そばのゴミ捨て場だよ」
「何か珍しいニュースはある?」
「そうだな。この前、GAMEBOYを拾ったんだ。スイッチをかちりとやると画面が光る。消して、つけて、消して、つけて、遊んでるよ」

「おはよう! ――さんを知ってる?」
「ごめんね。知らないわ」
「しくしく」

「わたしは海の向こうに行く予定です」
「よかったね」
「うん!」

「わたしは復讐をしてやるんだ。わたしを捨てた連中に!」
「ほどほどにね」
「お前も殺してやる!」

「ああ、お酒が飲みたい。お酒が飲みたい。あ、お酒持ってない?」
「ごめんね。持ってないの」
「ああ、お酒が飲みたい。お酒が飲みたい」

「なあ、なあ、アルコールは身体に毒なんだ! ”アルコール依存症とうつ病の合併は頻度が高く、アルコール依存症にうつ症状が見られる場合やうつ病が先で後から依存症になる場合などいくつかのパターンに分かれます。アルコールと自殺も強い関係があり、自殺した人のうち1/3の割合で直前の飲酒が認められます”」
「ためになるわ」
「でも、お酒が飲みたい。お酒が飲みたい」

「魔理沙に会ってみたいなあ。スーパースターなんだ。きっと間近で見たらあまりの眩しさに立ってられないかもなあ」
「わたし、会ったことあるわよ」
「え、どうだった? やっぱ、やめとく。イメージ壊れたらやだもんな」

「おもしろいジョークがあるんだよ。聞きたい?」
「ええ」
「わたしはお酒を飲む時、お酒でわるんだ。これがほんとの萃香割ってね。あははっ。どう?」

「よく近くにいた萃香を、最近見ないんだ」
「どうしたのかしら。心配ね」
「そういえば海の向こうに行くと行ってたなあ。今頃は外の世界にいるのかな」

この場所ではたくさんのゴミたちがいろんなことを喋る。
二二世紀に生まれたわたしにはその意味はきっとわからない。



萃香製造工場には秘密がある。
秘密を解き明かすこともわたしの使命です。
異変の原因を解き明かし、それをとっちめること。
でも、今は、異変の謎どころか、そもそもこれがどんな異変なのか、そんなことすらわからない。
あてもなく埠頭市場をさまよっていた。
魚の香りが充満している。
海産物は嫌いだった。
昔から嫌いだったのか、こうしてゲル・蛋白に閉じ込められたせいでそう思うのか、それはもうわからないことだった。
市場の端の方、あまり人の寄り付かないその場所で、妖精を見つけた。
妖精たちの集団だった。
集団の中心にはチルノがいる。
チルノがこんなことを喋っている。

「あたいたちは勝利したんだ!」
「大妖精様、それは何に対する勝利なのですか?」
「それはあたいたちがさいきょーだから!」
「大妖精様、それは結果に対する因果です。わたしが知りたいのは結果の対象なのです」
「い、いんが……たいしょう?」
「わたしたちはすでに勝利を勝ち得た。これはわたしたちにおける共通の認識です。そこにはもちろん大妖精様の教えがあってのことだとは理解しています。すでにこうして勝利したという結果がある以上、その因果は問題になりません。わたしたちはたしかに勝利した。しかし何に対して勝利したのでしょう?」
「そ、それは、あたいたちがさいきょーだから……」
「ですから、それは結果の因果です」
「い、いんが……あたいはさいきょー……」

チルノの横に立つ妖精がチルノになにか耳打ちした。
チルノがまた演説をぶつ。

「チルノちゃんこう言えばいいの、あ、これは言わなくていいからね……この国はあらゆるもので溢れている。ほしいものならなんでも手に入れることができるし、知りたいことはどんなことでも知ることができる。それはつまり際限がないってことだ! 手に入れれば入れるほど新しいものが欲しくなるし、知れば知るほど知りたくなる。それはつまり永遠に手に入れることができないってことだ! あたいたちは知らない。最先端も欲求もなにひとつ知らない! だからあたいたちはいつも満ちている。あたいたちこそが真に富んでいるということなのだ! いわばこれは物質社会に対するあたいたちの勝利なのよ!」
「でも、わたしたち、何も知らないんですよ。じゃあそもそも勝利も富裕も知らないじゃないですか」

妖精がなにかまたチルノに耳打ちした。
ぱきん。
次の瞬間、その妖精は氷づけにされてしまった。
チルノがまた話しだす。

「あたいは神様を見たんだ。神様は巨大な人の形をしてた。小さな同じ神様が集まってさらに大きな同じ形の神様になったんだ。これは啓示なのよ。あたいたちがそれぞれの欲求や意志を固有の存在ではなくて、同一の理念のもとより集まるべきなんだっていう。そしてあたいたちが同じく持つことができる意志とはつまり何も知らない、ということだけ! あたいたちは何も知らない! 知ってはいけない! 疑問を抱いてはいけない! そして勝利するんだ!」

チルノがそう言って、あたいたちはさいきょーと手を掲げると、周りの妖精たちも手を上げて、さいきょー!さいきょー!と唱和する。そのあとはその手の集団にお決まりのカンパや署名なんかがあって、お開きとなった。わたしは物陰に潜んでそれを眺めていた。少ししたあとで周囲の人だかりが消え去り、チルノともうひとりの妖精だけが残り、ふたりは集めた資金を持って歩き出す。わたしはあとを追った。べつに彼らの集団に興味があるわけじゃなかった。この国じゃどこでも見かけることのできるような集まりだった。わたしが興味を持ったのはむしろチルノのした神様の話。わたしにはひとつの直感があった。彼らの神様のモチーフは、なんだか萃香のように見える。それは22世紀風に解釈された萃香だ。わたしがそれを萃香に解釈することにはきっと意味がある。
彼らのねぐらは埠頭市場から少し遠いところにあった。巨大なビル群。空を飛ぶ飛行船には、CM。魔理沙が喋っている。「退屈な貴方の暮らしに格別の刺激をお届けするのは、霧雨印のスター・キャンディーだぜ!」中央都市はいつも怒っているようにわたしには見える。密集し聳え立つビルの一本一本がすべて血統書つきのペルシャ猫の長い毛で、それが逆立っている。
階数は覚えた。
チルノの暮らすマンションの前で座って待っていた。通り過ぎる人々が訝しんだ視線をわたしに向けては遠すぎる。でも、心配することはない。わたしはこの22世紀に存在しない。しばらくするとチルノのそばにいた妖精がエントランスから姿を現した。わたしを見て一瞬顔をしかめた。そして他の人々と同じように流れの中に消えてしまう。わたしはエントランスの前で、チルノの部屋がある階の数字を押してそのあとに01から順に数字を入力していく。
こんにちは。いつもお世話になってます。
あの、なんですか……。
本日は新製品のご紹介に参りました。これはとっても素晴らしくて、あの魔理沙も愛用している……。
そういうの結構で……。
ぷちん。
8番目で、当たった。あいつの声がした。
お前、だれ。
大妖精様に頼まれごとしたのよ。
大妖精様はあたいだ。
ううん、ちがうでしょ。大妖精は隣の子。わたしは知ってるの。
お前、大ちゃんのこと知ってるの?
もちろん。よくあんたとうちに遊びに来たわ。
あたいは知らない。
だって――チルノは忘れちゃうでしょ。ねえ、大妖精の頼みなの、話があって、部屋にいれてよ。
がちゃり。
当たった。
エレベーター乗って、チルノの部屋に行った。扉は空いている。玄関のところにチルノが立ってた。広い部屋だ。それに白い。まるで雪の日のように真っ白だった。わたしは後ろ手で扉と鍵を閉じて、拳銃をチルノに突きつけた。

「お、おまえっ、なんなのっ。あたい、あたい、お前のことなんかっ」
「静かにして、じゃないと撃つから」
「助けてっ!」

サイレンサーが鳴る。
赤い血。
チルノの肩で、咲いていた。

「ううぅ……」
「わたしは嘘を言わないわ。だから貴方も嘘をつかないでよ。じゃないと……」
「う、う、な、なんのつもりなのさ」
「神様のことを教えて。貴方の話してた」
「あ、あたい、知らない……」
「知ってるわ。それが貴方の教義なのよね。でも、神様を見た。忘れたとは言わせないわ。どこで? どうやって会ったの?」
「あたい、ほんとに知らないんだよ。神様になんか会ったこともない」
「嘘を言わないで。お願いだから……。わたし、わたし……あんたをこれ以上傷つけたくないの。信じられないけど、友だちだったのよ、わたしたち」
「お前のことなんかあたい知らない! き、きっと忘れちゃったんだ。大ちゃんは言うんだよ。あたいはびょーきなんだ。なんでも忘れちゃうんだよ。だから忘れたんだ。神様のこともお前のことも」
「そうね、きっとわたしも……」

わたしは引き金にそっと手をかける。
ばんっ。
わたしがそれを撃つ前に、大きな音をたてて部屋のドアが開いた。
大妖精が立っていた。
食材の入った買い物袋を抱えていた。
わたしの手の中ピストルとチルノの惨状を見て、小さくため息をついた。買い物袋をゆっくりと靴棚の上に置いて、靴を脱ぎ、チルノのところに歩いて傷を確かめた。
それからやっとわたしの方を見て、言った。

「その子は本当に何も知らないですよ。神様を見たのはわたしです。それからあの教義をつくりあげたのも。お金が必要だったんです。この子の病気を治すのに。お金は集まったけど、残念ながらこの国じゃいいお医者さんが見つからないですね」

そして、向けられた銃口をじっと眺めて、少し笑った。

「アンティークですね、それ。クラシックでもいいけど」
「旧式でも殺傷能力はとうの昔に臨界点に到達してるわ」
「ちがいますよ。その義手の話です。言ったじゃないですか、この国にはいいお医者さんがいないんです。でも、もう少しマシなところもわたしは知ってます。この子の怪我くらいだったら一日で何もなかったところまでリカバリできますよ。そうだ、この子を病院に運ぶのを手伝ってくれませんか? 知りたい話はあとで聞かせます。道中でもいいですけど」

言うやいなや大妖精がチルノの肩から手を回してを抱えるのでわたしは足を持った。マンションのエントランスには巨大なリムジンが止まっていた。座席にチルノをそっと寝かせると車が走り出す。外は暗くなっている。闇の中で中央都市のネオンが光の線になって短絡し繋がりながら幾何学模様を描き出していた。たいへんですよね、こういう生き方って。大妖精が言った。窓から目を離して大妖精を見ると、チルノの震える手を握ってた。彼女の言葉はわたしに向けられたものだったのか、それとも自分たちについて言及したものだったのか、わたしには最後までわからなかった。



病室はアルコールの透明な匂いがしていた。
わたしのアパートメントの部屋は潮風の匂いがする。
シナプスの発火が嗅覚細胞を呼び起こし、ここでそれらが混じり合ってしまう。
部屋に萃香はいなかった。
ひとりで海にでも遊びに行ったんだろうか。
長い置き手紙を書いてから、少し考えてそれを綺麗に折りたたんでポケットしまった。消えゆく者が残されたものに、置いていくべき言葉はない。あるいはあれだけ書いてもそれを見つけられなかっただけなのかもね。
だから、ひとりで出た。持っていくべきものはほとんどない。
去り際に切らずに来たコンピュータの中で魔理沙が喋ってるのが聞こえてきた。
やっぱり、とり残されたものに、ちょうどいい言葉は存在しない。きっと。
第3埠頭。
その手間から8番目の倉庫の奥に秘密の地下通路がある。それを通って大妖精は神様を見たのだ。潮と錆とカビの匂いがする。膝下まである海水が何重にも吹き付けたシリコーン・スプレーを少しずつ溶かしていく。一歩歩くたびにひとつ剥がれていく。剥がれて溶け出して、どろどろの液体になって漂う。消えてしまう。だから海水は白く濁っていた。まるで白飛びした写真の空みたいな乳白色だった。
ペンライトであたりを照らすと、夜に眼が光る。
それがわたしを見つめていた。
たくさんの鬼の眼。
溶け出している。海水にやられて、どろどろになった萃香だったものたち。
反響。
萃香たちの声がぐらくらと揺れる。
なあなあ、お前は、どこに行くの。
そっちは危険だよ。
お前、お酒、持ってない?
わたし、やられちゃったの。
おうちに帰りたかっただけなんだ。
ああ、お酒が飲みたいなあ。
見て見て、わたしの角みんなより少し長いんだ。
ピストル、貸してよ。
あーあ、おうちに帰りたかっただけななのになあ。
どのくらい歩いたんだろう、やがて水位が下がり、足首あたりまで浸かるくらいになったとき、萃香がわたしの前に立っていた。完全な萃香。海に溶け出していない萃香。それがわたしの少し前歩いている。こつこつと鳴る足音に振り返り、萃香はわたしを見て、言った。

「霊夢?」
「貴方、わたしがわかるの?」
「そりゃそうだよ。霊夢もおうちに帰りに来たの」
「わたしは……もう終わらせようと思って」
「そうだよなあ。ここはわたしたちの生きる世界じゃないもんね。はやく帰らなきゃ、幻想郷に」

幻想郷。
1世紀半ぶりに聞こえた懐かしい響き。
わたしは足を止めてしまう。しゅううう、とシリコーン・スプレーの溶ける音がする。

「幻想郷?」
「そうだよ、霊夢も幻想郷に帰るんでしょ?」
「まだ、あるの?」
「何言ってるんだよ。もうなくなっちゃったんだろ。だから、いちから創るんだ。わたしとわたしとわたしとわたしと……霊夢で?」

萃香と並んで歩いた。
これが萃香なんだろうか。わたしのことを知っている本当の萃香。わたしが殺すべき、この異変の原因なんだろうか。でも……。わたしにはわからない。わからないから萃香のあとに続いて歩いていた。少しずつ深いところに降りている。一度上がって降りたせいだろうか、ここには海水は入り込んで来ない。やがて広い場所に出た。コンクリートで囲まれた大きな部屋。天井はどこまでも高く続いていて、ここからじゃ見えない。
そして、そこには萃香がいた。
大きな大きな萃香。
中央都市のビルディングのような巨大でどこまでも高く聳え立つ萃香。わたしの前を歩く萃香はそのままどこまでも歩き続け、やがて巨大な萃香の足元へとぶつかり、ぐにゅうとそのままその中に入っていくように見えた。あるいは巨大な萃香に取り込まれてしまったように。小さな萃香が巨大な萃香の足元にくっついて腫瘍のように膨らみ、そして、はじめからそんなものはいなかったように、消えた。底から見上げてもあの巨大な萃香の下半身さえ見通すことができない。
やあ、霊夢、と萃香が言った。
大きな萃香じゃない。そのそばにわたしよりほんの少しだけ小さい萃香が立っている。
ピストルを抜いた。
わたしはもう理解ってた。それは直感のようなものだったんだろうか、あるいは馴染みの感覚、ノスタルジー、心の底からわきあがる懐かしさ一途に、わたしはピストルの引き金に手をかけている。萃香は笑った。

「なあ、霊夢、わかってるでしょ。弾幕ごっこじゃなきゃ、鬼に人間は勝てないよ」
「そうね。これは弾幕ごっこじゃない。だから一瞬で終わるわ」
「つまらなくなったよね」

震える手。
思い出が、耳に馴染むこの声が、懐かしい言葉が、今度はわたしの手を止めてしまう。

「実を言うとさ、霊夢がここに来るのは知ってたんだ。わたしを殺そうとしてることもさ」
「じゃあ、どうして?」
「どうして、素直に会ったのか? そんなの決まってるじゃん。だって、わたしたちは――」
「べつに旧友じゃない」
「言いたいことわかるんだ。霊夢だもんね。ああ、霊夢に会えてわたし、嬉しいよ。ずっとここでひとりで、寂しかったんだ」

わたしも、そう……って、言えなかったな。
どうしてだったんだろう?
わたしだって、この22世紀でひとりで、何もわからず知らず、ここで生きていくことなんてできなかったはずなのに。
それを言ったなら、わたしたちはきっと、そうしていたのに。
代わりにわたしが言ったのはこんなことだった。

「萃香はここで何をしてるの?」
「幻想郷をもう一度いちからつくろうとしてるんだ」
「どうやって、そんなことが……」
「わたしを使ってさ。つまり、わたしはその力によってどこまでも細分化することができる。たとえば分子とかそういうレヴェルまでさ。微細化したわたしを材料にして幻想郷をつくるそういう計画なんだ。もちろん今のわたしのままじゃそんなの夢のまた夢だよ。だから信仰を集める必要があるんだ。とってもたくさんのやつ。ひとつ土地ができるくらいの信仰。わたしたち妖怪の類は信仰によって力を得るからね」
「この22世紀に鬼を信じる人間がいるとは思えないけど」
「そうだね。だから形を変える必要があった。それが肝要なとこなんだ。22世紀ではなにが信仰を集めると思う?」
「コンピュータの中のスター?」
「それもそうだね。でもそれだってこの時代じゃとても細分化されてる。変化のスピードも速い。だから、わたしがなろうとしたのはコンピュータそのものさ。つまり、ハードだね。普遍で不変だからハードなんだよ。霊夢も知ってるでしょ? 今や世界のみんながわたしを持ってる」
「萃香を……」

22世紀風に再解釈された萃香。
わたしは幻想郷のすべてを22世紀風に解釈したけれど、萃香だけは、そっくりそのまま萃香そのものだったのだ。萃香は程度の能力を使って自分を分割し、便利なハードとして世界に売り込んだ。今じゃ、この世界の多くの人々が萃香を持ってる。わたしだって……。

「そして役目を終えたわたしたちはやがてここに戻ってくる。集めた信仰を持ってさ、幻想郷の礎になるんだ」
「でも、あんた、溶けてた……」

地下水路で、埠頭のゴミ捨て場で。

「そうだよ。もちろんわたしを分割して世界のみんなに配ろうなんてできないよ。だから、そのへんはこの時代の技術を利用してる。あれはゲル・蛋白でできた出来の悪い模造のわたしなんだ。多くのわたしがそうさ。でもときどき本物を混ぜる。特に影響力のある人間のもとにはね。本物のわたしはいつでも最先端、高機能さ。鬼ひとりそっくりそのまま。この時代でもまだ人間はつくれないものね。それが模造のわたしたちを価値付ける。最初がいちは難しかったな。でも、今じゃだいぶ信仰を増えた、こんなに大きくなった、だから本物のわたしをたくさん出荷できる」

萃香が言うと、巨大な萃香から、ぽとん、と何かが落ちた。
ぽとん、ぽとん、ぽとんぽとんぽとんぽとん、雨のように、それが降ってくる。
萃香たちが。

「出荷の時間だね」

巨大な萃香の裏の壁には、穴が空いていた。そこに萃香たちは歩いてく。
そこからベルトコンベアがどこまで遠く伸びている。
それが、萃香製造工場の秘密。
巨大な本物の萃香から分割され海へと旅立つ無数の萃香たち。そして彼女たちはいつかまたここに戻ってきて、さらに萃香を大きくさせる。いつか幻想郷をもう一度創り出すために。途方もない話ねとわたしは思う。いったいここまで来るのにどれくらいかかったのか。そして幻想郷を蘇らせるのにあとどれだけかかるんだろうか。

「みんなはどこに行ったの? 幻想郷にいたみんなは」
「それはわかんないな。ずいぶん探したよ。でも見つからなかった。彼女たちもまた信仰や恐怖を集めることによって生きていたからね。この世界じゃ彼女たちの居場所もないのかもしれない。実際、わたしもはじめの頃はとても小さいところからはじめたんだ」

はじめて萃香が寂しそうな顔をした。
そうだ、萃香はきっと今でもあの場所をあそこにいた人々を愛しているんだろう。
だからこそ幻想郷をもう一度やり直そうとしているんだから。
彼女たちを微細な分子からもう一度つくって?
それも悪くないのかもしれないね。少なくともわたしたちのためじゃないこの場所で生きていくよりは、ずっと。
ねえ、霊夢。
萃香が言った。
霊夢に会えて、わたし、ほんとにほんとに嬉しいんだよ。
泣きそうな顔……笑った?
きっと崩れてしまうんだろう。
気持ちを露わにしたら、今までひとりで孤独に生きて耐えてきたものが溢れ出して、壊れてしまうんだろう。
だから、萃香はかすかに微笑んだだけだった。

「ねえ、霊夢、わたしと二人でもう一度やり直そうよ」

たぶん、それが、最期だった。
わたしが萃香と一緒にもう一度やり直すための。
そうね、って、わたし言えなかったなあ。
幻想郷を再建する夢。
その夢と同じくらい巨大な萃香。
それは生きている。
呼吸すると、膨らむ。
揺れている。
それは、巨大な萃香で、生きていて、わたしが死んで、いつか幻想郷がなくなってしまったあの頃からずっと生き続けてきた夢だ。

「ねえ、萃香、わたし、この国でいろんなものを見たわ。病院の白い部屋、ポルノ雑誌、海の匂い、チョコレート、ピストル、中央都市のネオンの光。なんだかすべてが嘘みたいで、ここはわたしの生きる場所じゃないってずっと思ってた」
「じゃあ……」
「でもね、萃香、わたしは幻想時代の生き残りじゃないわ。もう、死んだの」

わたしと萃香はこんなにも隔たっている。
手を伸ばせば触れられる距離にいるのに、まるで思い出の中の萃香を見るみたいに、こんなにも遠い。わたしと萃香の孤独はまったく違ってしまっている。この世界がわたしたちにそぐわないように、わたしにとって幻想郷は同じくらい遠い。わたしには使命がある。わたしは正当な異変解決をするために生まれた幻想郷の巫女であり、工作活動をするためにこの世界に転生した違法なテロリストであり、それらの因果がわたし自身をこの22世紀に顕現させ、本当はわたし自身はもうどこにもいない。空っぽ。この世界でわたしはすでに死んでいる。
ゾンビーのわたしは夢を見ない。
その権利はとうの昔に放棄した。
このゾンビーのわたしはすでに死んでしまったわたしの見る夢だ。
夢の中で、夢を見たくはない。そんなことをしていたら際限がない。
だから、もう終わらせてしまいたい。
衝動――わたしの中の空白がわたしを自身をそこに引きずり込むように、空っぽの中に返っていくように――ピストルの引き金に、

そっと、

フランドールが触れた。

「殺しちゃだめ……」
「どうして……?」
「殺したらあの子の元に帰れなくなっちゃうよ」
「なんて言った?」
「この仕事が終わったら霊夢は殺される。この時代に存在しなかったようになる。はじめからそうだったように。そんなの霊夢にだってわかるはずよ。わたしたちは一意なんだから。そしたら残されたあの子はどうなるの?」
「でも、わたし、知らないわ……。…作法。だって、異変解決がわたしのすべてなの。それ以外なんてわからない……」
「ほんとに、そう? あるでしょ、きっと……今の霊夢にだって、それが……記憶が……きれぎれでも」

泣きそうな顔。
今にも崩れてしまいそうな顔で、フランドールは、銃身を握りしめた。
揺れる。
わたしをふたつの眼でじっと見つめていた。
どうして、フランがそんなに泣きそうな顔をするの?
だって、これはわたしの悲しみで寂しさでわたしの憂愁で、フランはぜんぜん他人じゃない。なのに、そんな、今にも壊れてしまいそうな悲しそうな顔をしないでよ。笑ってよ。いつもみたいに馬鹿にするような声で、遠くから、わたしの困惑をつまらない憂愁を笑ってくれればいいのに。わたしは決めたから、ここに転生したその日から、わたしの運命は決まっていたから、むかしの友だちを殺してしまうことだって悲しくはないのに、フランが泣いたら、悲しいみたいだ。だから、まるでわたしが今にも泣いてしまいそうだっていうふうに、わたしが今にも壊れてしまいそうだっていふうに、そんな、泣かないで。それって共感かなぁ…? わたしはこの22世紀でこんなに空っぽだから、フランが泣いたら、きっとわたしも泣いてしまうわ。だから、泣かないで。いつまでも他人でいて。いつもみたいにその遠い嘲笑ひとつで、わたしが今までしたすべてのこれからする全部の行いを、そぐわない場所に生まれた半机器人の、誰にも共感されない哀れなエラーだって教えてよ。
震える声。
フランドールの、わたしの。

「霊夢にだってあるでしょ?……楽しかったこととか何もないけど気分の良い日とか…思い出が………きれぎれでも」
「でも、わたし、本当に思い出せない」

どこどこどこどこと遠いところで祭り囃子のような音が聞こえる……。
…心音…? 少しずつ近くなって、わたしは音のする方へ降りていく、一世紀半近く蹴って、暗がりを歩くように記憶を辿る…理解る、と思う……ずっとむかしわたしはその土地で生まれて育った、神社の境内…夕暮れだろうか、あれは魔理沙…? 口元が動き、ねえ、あんたなんて言ったの、ねぇ……聞こえないまま、昔の友だちたちの顔を視線でなぞりながら、理解る、理解る、理解る、それがわかる、たわいない会話、暮らしの中の小さな喜び、それがわたしにもあったんだろう、でもそれはここからじゃあんまりにも遠くて……どこどこどこどこどこどこと鳴って聞こえている………その音は祭り囃子の音だった、夕闇に提灯の明かりが影になって、口元……ああ、魔理沙、あんたなんて言ったっけ? ディティールが夕闇に溶けてしまう、わたしはそれを思い出せない。22世紀がわたしの場所ではないのと同じくらいに、その土地はわたしから遠く離れている……だから祭り囃子は遠くで鳴っている。少し離れたところに宴会の灯りがある。遠い笑い声。ここは暗くて、わたしはひとりで、でも小さな影がすぐそばに…それが…………、

模造の萃香?



あんた、ここでなにしてるの?
みんなが集まりそうなんだ。宴会が向こうでやってる…。
だったらあんたも行けばいいじゃない。
だめなんだ。今日は約束があってさ。待ってるの。
誰を?
霊夢…。
霊夢ならあそこにいるわ…宴会やってるところ…そう、たしかにいたの……理解る、ちゃんとわかる…思い出せないけど。
でも、それは、わたしが待ってる霊夢じゃない。
ちがいがわかるの?
機能だもん。でも、ひみつ…秘密だよ。わたしのIDの認識機能は企業秘密さ。顔パターンでも指紋でも声紋でもなくて、わたしの第六感に……。だから、待ってる。
たぶん戻って来ないわよ。
でも、霊夢を待つのはわたしの機能だもん。
悲しい話ね。
ねえ、ねえ、霊夢の機能は?
わたし……わたしはあんた……わたしの機能はたくさんのあんたの中からたったひとりのあんたを見つけること…。見つけて殺すこと………。
ふうん…じゃあ間違えないでね。
でも、きっとわたし間違えちゃうわ。あんたみたいに優れた認識機能はないもの。
悲しい話だね。
ふふ、そうね。
ああ──見て、花火が上がったよ。
ずいぶん派手にやるのね。
ここからじゃあんま見えないなあ。ねえ、向こうに見に行こうよ。
いいの? ここで待ってなきゃなんでしょ?
少しくらい離れても平気さ。それに……。
でも、わたし…行けないわ。
どうして?
そこはわたしのいる場所じゃないから。そこにはもっと適したわたしがいるもの。だから、あんた一人で行ってきなよ。
じゃあ、わたしもここで待ってる。
わたしのことはいいから。
いいんだ別に。そんなに見たいわけじゃない。それにひとりで待つのは寂しいもんなあ。
うん…。
あ、上がった?上がった?
わかんない。
上がったよ、音がするもん。
見えないわ。
ほら、また………!
そうかな、そうかも。
それ、何?
チョコレート。知らないの?
うん。
食べてみる?
うん。ずいぶんハイカラなもの食べるんだねえ。この土地では見たことないよ。
あ、そっか……。
どんな味がするの?
そっか、わたし、知らないのよ。食べたことないもの…。
じゃあ、わたしが食べてどんな味だったか教えてあげる。
うん。
ぱきり。
どんな味がする?
あまぁい……。
ふふ、おいしいでしょ。わたし、それがずっと昔から好きだったんだ。
食べたことないのに?
食べたことないのに。
へんなの。
あ、花火。
どこ?
あそこ、右の角。高いところ…。
……。 見えた!
 


鳴ってる………。どこか遠いところで祭り囃子のような、花火が鳴ってる、どこか遠いところね、花火が鳴ってる、シリコーン・スプレーが溶けだす音がする、祭り囃子が聞こえる……誰かがわたしを呼んでいる…かちり……撃鉄が先に覚醒めた……霊夢、れいむ、れいむ……誰かがわたしを…

呼んでいる。

「霊夢! 霊夢、ねえ、霊夢! …もういいじゃない。霊夢はがんばったわ。あの子が霊夢を待ってる。あの子には霊夢が必要なんだよ。幻想郷の巫女の博麗霊夢じゃない、工作員の※※※※※※じゃない、貴方よ、貴方、貴方のことを待ってるの。ねえ、あの子の元に帰ろう?」
「帰ってどうするの…?。 戻ってあの場所でどうやって暮せばいいの? この土地でどうやって生きればいい? なにひとつわからないこの場所でわたしはどうやって生きればいいの?」
「霊夢、聞いたよね? 問えば答えを知るのに……知ったらそれを、する、のに…」
「でも、他にわからないの。ねえ……フランドール……わたしはどうすればいい?」

泣きそうな表情……フランの。腫れている、と思う。真っ赤だ…熟れた果実みたいに指先でつついたらそのままぱちんと弾けてしまいそうなくらいに膨らんで、彼女の眼が、彼女の塩水で満ち満ちた瞳孔が…今にも崩れてしまいそうな顔…視線をぶつければ、その衝撃だけでばらばらに分解してしまいそうなぎりぎりの顔……。
目で触れたら、それが壊れた。
笑った。

「簡単よ。狂っちゃえばいいのよ。ね、大丈夫、わたしが壊してあげる…」

フランドールが開いた手のひらの上には小さな赤と白のビー玉があった。
フランがその手を握りしめた時、わたしは狂った。
完璧に。
22世紀の女の子に、なった。



衛星軌道上で、それが、空中分解した。小さな人工衛星。テレビのニュースでそれを見ていた。小惑星の微小なかけらがその人工衛星の羽にぶつかり、そこから積分を重ねるように崩壊がはじまった。端の部分から崩壊の波が広がって、ぱらぱらと砕け散り、巨大なものがそれを構成する粒子に分解されていくみたいに、溶け出すみたいに、暗い宇宙でそれが崩れた。すべてが、かろうじてそれぞれがそれぞれの一部だったと認められるくらいにまで細分化してしまったあとで、人工衛星の部品が虚空を四方に向けて漂っていた。最後の屑が定点カメラの端から消えてしまうと、そこには、もはや何一つ存在していなくて、現象の記憶だけがかすかな名残として浮かんでいた。
あれからのことはだいたいそんな感じに起こった。ひどく部分的で、ぶれぶれで、スロウでね。ピストルが落ちた。ベルトコンベアに乗って去るわたしを萃香は追ってこなかった。呼び声さえ聞かなかった。たぶん萃香の新しい幻想郷にわたしは必須ではなかったんだろう。きっと、そこには別のわたしがいるんだろう。暮らしのかすかな微動に泣いたり笑ったりする、たしかなディティールを持ったわたしが。それがどういうことなのかはわからない。悲しめばいいのか寂しがればいいのか皮肉っぽく思えばいいのか、そんなことすら今はわからなかった。だからやっぱりわたしはそこには必要なかったんだろう。感情ひとつさえ選べない空っぽのわたしは。帰り際、無数の萃香たちと一緒に巨大なベルトコンベアに座り込んで海に向かいひたすらに流れながら、眼をつむっていた。ひとりの萃香がわたしに声をかけた。なあ、お前、わたしたちとちがうな。お前はどこに行くの? わたしは少し眼を開き、不思議そうな顔でわたしを見つめる萃香に視線を返して、わからないわ、と言った。どこに行けばいいのかわからないの。萃香はきょとんとした顔をして、それから、アメリカ、って、言った。わたしはアメリカに行くんだ、ニューヨーク、向こうじゃ象が空飛ぶんだって。うん、とわたしは肯いた。それはきっといいところよ、って。萃香は笑った。次に記憶が繋がったとき、わたしは人波の中を歩いていた。ネオンの光…。ホログラムの笑み。パープルの太陽が人々の肌を同じ色で灼いていた。巨大なモニターではニュースがやっていて、エウロパ第三移民がインタビューにこう答えている。「今や地球での生活はあらゆる意味で”おとぎ話”です」次には埠頭倉庫そばのアパートの部屋。ゆるんだ蛇口からぽたぽたとシンクに打ち付ける水滴の音、つけっぱなしのコンピューターの中で喋り続けている※※※のこと、シーツに残ったかすかなくぼみ、シリコーン・スプレーで内壁に記されたの『霊夢を探しに行くね』の文字列、この場所に残された萃香のすべての名残、そのどこかの時点でわたしは生まれてはじめて夢を見た。宴会の夢。冷たい風に当たりながら石段に座っていると隣に萃香が現れて、珍しいね霊夢が酔うなんてさ、と微笑んだ。隣、いい? わたしはかすかに肯いた。あーあ、ずいぶんやられちゃったみたいね。わたしの隣に座った萃香はわたしの顔を覗いてそれからわたしの背に手を当てた。でも、大丈夫、すぐによくなる、よくなる。そのままずっと背中をさすってくれていた。そして夢の終わりはフェアリー・アヘイブンと呼ばれる宗教団体のこと、外科手術と新しいID、彼らがわたしに提供する隠れ家のこと、持っていくべきものなんて何もないからすぐに移れると思うわとわたしは言った、新しい部屋には寝具がなかったから冷たい床の上にわたしは眠った。その小さな部屋にはひとつだけ小さな上付きの窓があって、そこから月が見えた。真っ白い透明な丸い月。なんとなく降りかかる光に手を触れてみたら、それが濡れている、と思った。でも、それもひとときのことで、わたしはすぐに深い眠りの中に落ちていった。今度は夢は見なかった。



そのあとのことを覚えていない。
気がつけばわたしはこのアパートの部屋に寝ていて、眼を覚ますと午後だった。それからのことはフェアリー・アヘイブンという宗教団体を主催する女が説明してくれた。わたしは病院で(アルコールの匂いがする)長い整形手術を受けて新しいIDを手に入れた。包帯がとれるまでには時間がかかった。その間ずっと部屋の中で過ごしていた。三日に一度その女がやってきて食糧をもってきてくれた。それを食べ、水を飲み、また眠った。他にすべきことは何もなかった。そのようにして、数週間が経ち、新しい皮膚も身体も馴染んだ頃、包帯を剥がして、鏡の前に立つと知らない女が立っていた。それはたしかにわたしのものじゃない身体だったが、違和感は覚えなかった。鏡の向こうに、見知った顔を見ることができたのは、ずいぶん昔のことだった。もう一世紀半も昔の記憶だ。それから洗面所を後にすると、部屋に彼女が立っていた。食料品の入った紙袋を両手で抱えている。わたしの顔を見て、(少し?)微笑んだ。

「とれたんですね、いいじゃないですか、それ。なんだか――どこかで会ったような気がします」
「そうね」
「ある種の最大公約数的な顔なんです。みんながどこかで会ったように思うような。まあ、流行りでもあるし」
「そっちのほうがここに馴染めるから?」
「それは貴方次第ですよ。なんだってそうじゃないですか?」
「そうかもね」

それから彼女はわたしに背を向けて食料品を冷蔵庫の中に突っ込みはじめた。その背中に向けてわたしは声をかける。彼女は振り向かずに答えた。

「どうしてなの?」
「なにがですか?」
「どうして、わたしにここまでしてくれるわけ。わたしは貴方の友だちを傷つけたのに」

一定のリズムを刻んでいる。紙袋に手を突っ込む、その中のものを掴む、冷蔵庫の中に放り込む。喋る。彼女の喋り方にはどこか不思議な抑揚がある。

「あの子が許してるからわたしも許すんです」
「大妖精様は、寛大なのね」
「ふふ、そうですね。それにあの子は忘れちゃうから」

ぱたん。
冷蔵庫の扉に閉まった。彼女はやっと振り向いて、笑った。

「貴方はこの町の人じゃないですね。すごく遠いところから来たみたい……」
「どうして?」
「わたし、そういうのわかるんです。そういうのわかんなきゃあの子のこと、こんなに特別にできないですよ」
「うん
「ねえ、今度はわたしのことを祀り上げるつもり?」
「まさか。もう懲りました。数年も前に」

それから彼女は冷蔵庫の横のシンクに水を出した。それに手を浸し、赤い色した知らない果実を2つ洗って、ひとつをわたしに投げる。それからひとつをかじってみせた。大丈夫、甘いですよ。甘いものは苦手ですか? わたしは手の中の果実を眺めてみる。首を振る。彼女の八重歯は偽物――ホログラムの八重歯だった。甘い、味がする。

「あの、よかったら、わたしたちに外の世界の言葉を教えてくれせまんか?」
「言葉?」
「ええ。貴方は大陸の言葉を知っているでしょ。外の国なら、もっと優れた医者がいると聞きます。だから、わたしとあの子に……」
「あの子に? ……でも、忘れちゃうんでしょう?」
「そうですね、きっと覚えても忘れてしまう。でもわたしたち必死にやりたいんです。この世界では必死にやらなきゃ何も手に入れることができないから」

わたしは何も言わなかった。
それを彼女は肯定を受け取ったようだった。じゃあ、お願いしますね、そう言って部屋を出ていこうとする。帰り際、アパートのドアに手をかけて、ふと思い出した、ってみたいに振り返って、言った。

「そういえば、見つかりましたよ」
「見つかった?」
「貴方の言っていた人形のこと――」
「萃香のこと?」
「恩を着せるつもりはないですけど、見つけるのは大変だったんです。だってみんな同じように見えるし、こんなにもありふれている。実際に規格化されていますからね。砂場の中からひとつの砂粒を見つけるようなものです。それでも細かいヴァージョンの違いはあるし、もちろんレコードもある。貴方の話を元に製造年代を絞って、思い出を個体にかけて偏差して、でも、実際は地道な作業ですね。ローラー作戦です。まあ、わたしがしたわけじゃないですけど。だから、半分だと思っててくださいね。信頼の率。それが、貴方の言う、あの子だっていう……」
「うん。ありがとう」
「べつにいいですけど。不思議ですね。今は人形が壊れたらみんな新しいのを買いますよ。少し前のそれが貴重で珍しい時代だったら別だったんでしょうが」
「人形……萃香のことを今はそう呼ぶのね。でも、わたしはあの子じゃないとだめなのよ」

肩をすくめて彼女は微笑んだ。

「ま、今じゃあかえってそういうのも珍しくないですよ」

ぱたん。
アパートのドアが閉まると、わたしはひとり。午後の光が部屋に憂い。知らない果実は甘い味がする。振り返ると、フランドール・スカーレットが赤い果実に歯を立てた。

「甘いね、これ」
「あんた、消えたんじゃないの」
「どうして、そんなこと言うの。わたし泣いちゃうよ」

フランドールはくすくす笑ってそんなことを言う。

「あはは、おかしい。その顔さ。まるで霊夢みたいだね。昔のさ。わからない?」
「わからない、わかるわけない……。だって、貴方はあのときわたしを壊したでしょ。だから、わたしにはもう古い時代のことはわからない。なのに、どうして」
「霊夢はもう霊夢じゃないからわたしのことだってわからないし見えるはずないってこと?」

気がつけばフランドールはわたしのすぐそばにいる。下からわたしの顔を見上げて、それに、触れた。指で。ほっぺたに、鼻梁に、眉間に、まぶたに。愛おしそうになぞりながら。くすくすと笑っている。ふふ、れいむ、れいむ……こんなに霊夢みたいでさあ…。ぴんっ、とわたしのおでこを弾いた。

「ね、ちがうよ。わたしが、”博麗霊夢”なのよ。ずっとさ。それはわかるでしょ? だって、わたしは貴方の正気だもん」
「でも、22世紀風に解釈されたフランはわたしの頭の中の狂気で……」
「そこまで言えば、ばかな霊夢にだってわからない? 狂ったのは最初から霊夢のほうだもん。だからわたしが霊夢さ。22世紀風に解釈された※※※がほんとは※※※じゃないように、あの妖精が※※※じゃないように、22世紀風に解釈された貴方はほんとはあらゆる意味で霊夢じゃないんだよ? ただ、そう見えるってだけのことでね」

たぶん、それが、ちょうどよかったんだろう。
それにフランドールの言う名前がわたしにはもうわからない。
予め狂ってしまったわたしには。

「じゃあ、わたしは誰?」
「さあ…。でも、それはこれからゆっくり考えればいいわ。霊夢には時間があるんだから。わたしには………どうかなぁ」
「フラン?」
「ねえ、霊夢、貴方の中にわたしがいることを”覚えて”おいてね。きっと役に立つ」
「なんの……」
「古いやり方が必要なときにはさ」

わたしが言葉を返す前にフランドールはわたしの口を覆った。
甘い味で。
わたしたちの間で、赤い血、みたいな果実の液が弾ける。
それから笑った。

「すぐにわかるよ」

またね、さよなら、と手を振っていた。



また眠った。
夜がやってきた。上付きの窓に月が落ちてくる。光はスピードを持っている。それが時間の単位で、わたしの上でとてもとてもとてもスロウに走る。夢は見ない。ここにいる。うなされている。ない悪夢を見ている。それはイメージを伴わない悪夢だった。悪夢を悪夢をたらしめる精神と身体の不調和だけがここにはあり、まるであくびのはじまり際、空気の足らない感じ、それが永遠に続いて、いつまでたってもあくびが出ないときような気分。誰かが丸くなったわたしの背中を撫でている。光が落ちてくる。暖かいものが触れている。光は熱を持っている。それがわたしに触れている。光はたしかな質感を持って、わたしの背に触れて、それをあやす。光が触れている。光、真っ暗な部屋、わたしは眼を醒ます。

「あ、れいむ、起きちゃった……?」
「萃香……?」
「悪い夢を見てたの? ずいぶんうなされたよ」

月が雲に覆われて、少しずつ暗闇が部屋に満ちていく。だから半身を起き上がり、座って見た、わたしは萃香が見えなかった。

「ねえ、萃香…貴方、わたしがすぐに認識るの………? わたしは…顔…肌の色……。だって、こんなに変わっちゃったのに…」
「あたりまえだろ。わたしのID認識は最先端だよ? 霊夢は霊夢。絶対に間違えないもん」

光が濡れている。少しずつ消えていく窓から差し込む月の光がかすかな筋になって垂れながら濡れている。
それに、萃香が、触れた。
泣かないで、ねえ、泣かないでね、霊夢が泣いてるとわたし……。
月の光が完全に消滅してしまう前、その姿がほんとに見えなくなってしまうその前に、わたしは萃香を抱きしめた。
模造の萃香。
認識る、認識る、わかる、触れている間は…わかる、いるのが、たしかにこれがあの萃香だってことが。でも明日にはわからなくなってしまうだろうか。明日にはたとえばこの萃香が本物の萃香が秘密を知ったわたしを滅ぼすために送り込んだ萃香だってことになってわたしに角を向けるだろうか。明日にはわたしがわたしだったことを忘れて萃香のこともわからなくなってしまうだろうか。認識る、認識る、わかる……忘れてしまう、牙を立てたいと思う。萃香の身体ぜんぶに牙をたてて、穴をあけて、そこに紐をつないで、わたしのすべての空孔と結びつけてしまいたいと思う。空っぽ…空孔ならこんなにも、わたしにありあまってるから。
月の光が消えた。
光の最後のひとひらに触れて、わたしは見つけた。
萃香の肩の上に。
その名残を。
あの子がそこに残した傷跡を。
萃香が言った。

「ねえ…れいむ…。明かりをつけて……わたし、真っ暗に、眠れない…」
「心配することないわ。わたしたちは吸血鬼だもん」

萃香の肩にわたしは歯を立てる。
シリコーン・スプレーの苦い味がした。

おしまい

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