Coolier - 新生・東方創想話ジェネリック

ハイカラさんが通る 四つ目(終)

2019/08/04 07:00:38
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   コンディショナーインシャンプーとシェパード

「どうしたのよ三人とも、らしくないじゃない! ほら飲みなさい、飲みなさいよ。飲まんかい!」
 酔った姫海棠はたての酌は、即ち暴君の酌。テーブルの上に煮える鍋を中心に、射命丸文、犬走椛、河城にとりの三人は、萎縮していた。
 事の発端は、射命丸文の失業だった。失業の理由は怠惰。大まかな経緯といえば、まず、文はアルコールにのめりこみ、椛とにとりを酒の海へと引きずり込んだ。そして、失業を窒息に擬えるならば、いの一番に溺れ死んだのは文だった。しかし文は失業してなお、酒瓶片手に二人の住居を訪ねることをやめなかった。文に引っ張られ仕事をサボり気味だった二人も、落ちぶれた元新聞記者をいざ目にすれば流石に焦り、自身の職務に打ち込んだ。職を失ってなお酒浸りの文を前に、浮かんだ二人の感慨は、やべえな、の四字だった。二人がそんな感慨を抱いて働けば、無論、文は孤立した。そのうち三人の関係が疎遠になり、にとりがクビとなった頃に、ようやく姫海棠はたてが動いたのだ。
『あんたら最近集まってないみたいだけど、喧嘩でもしたの?』
『まあ、私に任せておきなさいって。これでも文とは長い付き合いだし、きっと仲直りさせてあげるわよ』
『……あんたらがおとなしいと、私まで、なんだか調子出ないのよね』
 文は内心で放っておいてくれと叫び、にとりは自身の失業の事実に発狂し、椛は我関せずに決め込もうと考えた。しかし、実現してしまった〝仲直りの会〟は出口王仁三郎の予言通り混迷を極めた。
「だいたいさー、クビになったぐらいでなんだって言うのよ。仕事なくしたら死ぬわけ? 情けないわ、ほんと! 情けないわ、ほんと」
 傍迷惑な極論だった。はたての顔の赤らみは、部屋の隅から熱気を放つストーブと、炬燵のせいのみではない。
「やあ、おっしゃる通りで……」
 久々に二人と会える、そんな喜びを微かに胸に秘め出席した文だったが、今となっては酔いどれの暴君に傅くことに精一杯だった。にとりと椛は、かつて蔑ろにしてしまった友人のそんな姿を見、憐れみと、僅かばかりの申し訳なさが浮かんだ。職のある椛はその感慨のみに酒をちびりちびりとやっていたが、にとりはそうはいかなかった。
 にとりの胸には文に対する憐れみと、申し訳なさと、世界に対する破壊の衝動があった。
 ふざけやがって、こちとら無職。なりたてホヤホヤの無職やぞ。
 無論、恥ずかしさから失業の事実を誰にも打ち明けていないにとりが、その怒りを表沙汰にすることはなかった。はたてがにとりにとって友人の友人であったことも、にとりの怒りを抑制する一因を担っていたことは言うまでもない。しかし、にとりは今日、酔えずにいた。
「こら、そっちの二人も! そっちの二人も悪いのよ、ほんと。ちょっと前までは二人とも、大人しくていい子だったのに、文に引っ張られて酒浸りになってから、どうもよくないわ。意思が弱いのよ、意思が」
「いやあ、その、お恥ずかしい限りで……」
 頬を掻きながら曖昧に笑う椛を眺めると、にとりの胸中で怒りが嘶いた。にとりは憮然とした面持ちで、普段のはたてを回想する。
『あら椛じゃない。あ、にとりまで。二人とも、今日は休み? そっか。いいわね、休日に友達と遊んで息抜きだなんて、健全で。え、私? いいのよ、気を使って誘ってくれなくても。にとりが人見知りなのは知ってるし、それになにより仕事だし。いいの、ほんと、気にしないで。それじゃあね、良い休日を』
 普段は、あんなにも善良なのに。酒を飲んだからといって、こうも辛辣な急変が許されていいのだろうか。いや、よくない。許されない。
 にとりの怒りは失望と失業と義憤と破壊衝動の入り混じった、複雑かつ不確定な性質を持ってその胸中に顕現した。
「はたて! ……さん! ちょっと言わせてもらうけどさー!」
 にとりが堪えきれずに口を切ると、文が慌てて遮った。
「あ、あー! なんだか具合が、急に具合が妙な具合に! ちょっと風に当たりたいと思うのですが、誰かついてきてくれやしませんかねえ! ねえ、にとりさん!」
 文はにとりの手を引いて、廊下を抜け、玄関の戸を開けた。
 冬らしく冷たい風が、ストーブと不協和な酔宴に火照った二人の身体をすり抜ける。
「……わかってるよ、射命丸。はたて、さんは酔ってるだけで、普段はいい人だって」
「やあ、その、なんというか。どうも、すみませんね。やっぱり、発端は私ですから……」
「いいよ。……わたしこそ、悪かったよ。最近、ちょっと冷たくしちゃってさ。実はね、わたしも一昨日、クビになったんだ」
「え、それは、その。なんと言ったらいいか……」
 いいよいいよ、笑ってよ。にとりははにかんで、遠い空に視線を投げる。文も困ったように笑いながら、にとりと同じ様にした。二人の視界に映る冬の空は、紺色に冷たく、多い雲が広大さを語っていた。二人にとってそんな空は、どこか暖かかった。
「部屋に戻ったらさ、わたしもちょっと、飲んじゃおうかな。酔っ払っちゃえば、どーせ楽しいし」
「いいかもしれませんね。私も、そうしようかな。椛もあれで、随分酔ってる様ですし。もしかすると二人とも、部屋に戻ったら寝てたりして」
「かもね」
 二人はゆっくりと玄関の戸を開け、落ち着いた歩調で部屋に戻った。すると二人の予想通り、椛とはたてはテーブルの上に両腕を組み、その上に頬をつけ、なにやら微睡みながら話している様子だった。
「……シャンプーは……で、リンスは……」
「へえ。私はねえ……」
 二人はテーブルの前に座って、椛とはたての間で交わされる、奇妙なほど女子らしい会話を聞きながら、気恥ずかしげに微笑んだ。泥酔した女子の女子らしい会話を聞くことほど、気恥ずかしいものはない。
「シャンプーは……で、コンディショナーは……」
 そのように、はたてがむにゃむにゃと言葉を紡いだ瞬間、椛はなにか信じられない言葉を耳にしたかのような形相で、はっと両掌をテーブルの上に伸ばした。椛は目を見開いてはたてを見つめ、何か言いたげに、しかし、酔いが剰ったか、言葉の出てこない様子で、口をパクパクとさせている。
「なによ、どしたの、椛ったら……」
 はたては眠たげに、やおら両腕に顔を埋める。
 にとりと文には、椛の不可解な行動の意図が判った。言わんとするところも、察していた。
『椛さん今なんて言いました?』
『なんか、コンディショナア、とか聞こえたんだけど』
『え。だから、コンディショナーを使って……って』
『あーにとりさん聞きました? これはアウトですね。罪ですよ、罪。リンスインシャンプーを一生使えない罪』
『はは、間違いないね。コンディショナーインシャンプーなら使っていいけどさ! はは!』
 それは古い記憶であったが、二人はその際の、コンディショナーの一言でこうも辛辣ないわれを受けるものか、といった、椛の本当に悔しそうな顔を、鮮明に記憶していた。
 つまり椛は、はたてのコンディショナーの一言でその際に受けた悔しさを想起し、『今なんて言いました?』を自身の手で再現したがっていた。
 しかしそんなことをすれば、微睡むはたての暴君が揺り起こされるに違いない。酔いの諍いは酔いに任せて煙に巻く、それに限ると、にとりと文は酒を煽って、口を開いた。
「そういえば、リンスインシャンプーとは言いますけど、コンディショナーインシャンプーとは言いませんよね」
「ほんとだ。ふしぎだなあ」
 二人の言葉に椛ははたてを見つめたまま、きょとん、とし、一寸の沈黙を経て、「たしかに」と姿勢を崩した。そして、はたてはすうすうと、寝息を立て始める。
「あとさ。警察の犬って言葉あるじゃん。本やなんかでよくみるやつ。あれさ、別に、意味はわかるんだけどね。わたしはどうしても、シェパードやなんかを想像しちゃうね」
 続けざまににとりが語る。椛は「たしかに」と感嘆混じりに呟き、また眠たげに、テーブルに両腕を組み、その上に頬をつけた。
「ああ、犬といえば私」
 椛はそのまま、むにゃむにゃとに口を開く。
「私、犬飼いたいなーと思って、里に見に行ったんですよ。そしたら、こーんなに小さい犬と、こーんなに大きい犬が、おんなじぐらいの値段だったんです。私、迷っちゃって、相談したんです。哨戒の同僚に。そしたら、ペットをグラム換算するなー! って、怒られちゃって。そういうことを、考えてたわけじゃあ、ないのになぁ、って……」
 話し終わると、椛は力尽きた様にすうすうと、寝息を立て始めた。保温に目盛りを合わされた鍋の具が、再度くつくつと音を立てる。
「寝ちゃいましたね、二人とも」
「わたしたちはもうちょっと起きてようよ。さっき全然食べなかったから、お酒も鍋も、こんなに残ってるし」
「……そうですね。そうしましょっか」
 はたての用意した四人分の鍋と酒の残りはちょうどよく二人分ほどだった。意外にも肉の多い鍋の中身を見やり、二人は微笑んで、目盛りを加熱まで回す。
「あれ。ストーブ、いつのまにか切れちゃってますね」
「いいよいいよ、鍋食べるし。寒くなったら布団持ってきてさ、そのまま寝ちゃおうよ」
 にとりの「布団どこだっけ」に文は「廊下出てすぐ右」と答える。勝手知ったる他人の家とは、よく言ったものである。
「あー! それにしても、明日からどうしようかな。わたし」
「いいからいいから、明日考えましょうよ。今日は呑んで、ほら」
「そうだね。……なあ、射命丸はどっちがいい? 小さい犬と大きい犬」
「私は、やっぱり大きい犬ですかね」
「わたしも。なんかさ、別に食おうだなんて考えちゃいないけど、小さいのと大きいので同じ値段なら、やっぱり大きい方が得な気がするんだよね」
「ですね。それに、小さい犬はあれ、間違って踏んじゃったら一発でアウトじゃないですか。恐ろしくてとってもじゃないですよ、私は」

 でも結局さ――たしかにね――やっぱり、コンディショナーって呼び方はどうも――。
 ――リンスインシャンプーって――結局リンスって言っちゃって――。
 ――寺子屋の子供にさ――水商売をやってる親が――。
 ――ほんとですか――記事にしたいなあ――。

 ――。――――。


 朝、はたては部屋の、身を切るような寒さに目を覚ました。寒さに堪えながら身を起こし、三人が眠っているのを確認して、鳴る三分前の目覚まし時計をオフにする。
「勝手に人の家の布団使ってくれて。風邪ひかれるよりかはマシだけどさ」
 テーブルの上、空になった鍋を流し台に置き、水を張り、洗剤を混ぜる。はたてはまた、テーブルの上から食器を運び、鍋の傍ら、それらを洗った。
「おはようございます。お皿、私が洗いますよ」
「あ、起こしちゃった? ごめんね」
 食器洗いの音に目覚めた椛は、いいんです、目がさめるから、と、はたてからスポンジを受け取った。はたては仕方なく、椛の洗った食器をかたす役を引き受ける。
「目がさめるって、なにか用事でもあるの? 昨日よく飲むものだから、てっきり非番かと思ってたんだけど」
「ええ。辞表を出しに行くんです」
 椛は皿を泡だてながら言った。
「お、ついに辞めるのね」
「はい」
 椛は哨戒の仕事をしていたが、いつしかその仕事は、椛がいてもいなくても、なんら差し支えのない、やり甲斐のないものと化していた。辞めるか辞めまいか、椛は何度か、はたてに相談をしていた。
「そっかそっか。椛も、とうとう文の仲間入りってわけね。あ、二人はもう知ってるの?」
「いえ、まだ。二人ともあれで気にする方だから、言わないままでいいかなって思ってます。そうだ、にとりさんもお仕事クビになったみたいですよ。部隊の仲間から聞きました。ほら、三日前の爆発事故」
 え、うそ。と驚きつつも、食器をかたし終えたはたては、昼過ぎに起床するであろう文とにとりの朝食の準備を始める。はたてが味噌汁を作るようなので、椛は炊飯器に残った白米を握ることにした。
「なるほど、たしかにねえ。なんだかんだいって、すぐに次の仕事見つかりそうだもんね、あの二人は」
「あー、なんかちょっと、傷付きました。私」
「あはは、ごめんごめん」
 笑いながら、二人は朝食を作り終えた。
「椛。私、もう行かなきゃないわ。打ち合わせでさ、あとのこと頼める?」
「あ。私もすぐ出ますけど、いいですよ。先に出てください。鍵はガスメーターの裏で良いんでしたっけ?」
 いいのよ、二人がどうせ開けっぱなしで出て行くから、とはたては髪をくくる。
「シャワー浴びる時間考えてなかったわ。まあ、昼で終わりだし、帰ってきたらでいっか」
 言いながら、はたては「じゃああとよろしく!」と慌ただしく出て行った。残された椛は幾許かの申し訳なさを感じながらシャワーを借りる。
 シャワーを浴びている際、椛が手に取ったボトルには、製品の名前と『コンディショナー』という文字が刻まれており、椛はそれが、どうも可笑しくて、つい笑ってしまった。
 シャワーを出て部屋に戻ると、椛は冬の寒さを辛辣に感じた。閉じたカーテンの向こうには、もしかすると雪が降っているかもしれない。ぼんやりと考えながら、椛は寝相の悪い二人に布団をかけ直した。
「よし!」
 椛は、二人のためにストーブを付けてやろうとも考えたが、生憎灯油が切れていた。火の元や諸々をチェックしながら、椛はよし、よし、と指をさして確認する。
 そして、もういちど「よし!」と大きく息を吸い込んで、椛は快活に、玄関の戸を開けた。雪はちらちらと降っていたが、それは青白く、快活な、気持ちの良い空だった。


   ストロベリー・オンザ・ホールケーキ

 悪夢に短い悲鳴を上げて、私は目を覚ました。
 夢は赤い胴体に緑の手足を持った大きな蜘蛛の怪物に追われるという内容だったけれど、赤くて緑色という部分が、目を覚ました私にはどうにも可笑しくて、つい笑ってしまう。
 ぼんやりしながら笑っていると、頭にずいぶんと血が登っていることに気がついた。私はどうやら滅茶苦茶に出鱈目なフォルムで眠っていたらしい。腰から上半分をベッドから投げ出して、頭の天辺を地面にスレスレにしながらぼんやり笑っている自分の姿を想像すると酷く滑稽で、また笑えた。
 気合でベッドの上に這い上がり、足元の方でぐちゃぐちゃになった毛布を手繰り寄せる。すっかり冷えた部屋の空気はアルコールの臭いが混ざって、緩い倦怠感を抱かせた。
 部屋を見渡せばそこはもう混沌で、ソファやテーブルは空き缶に埋め尽くされていて、床はようわからん菓子の包み紙にまみれている。
 昨夜のことを思い出そうと頭をひねれど、今ひとつ何も浮かばない。ただ一つ言えるのは、部屋の混沌は、私の脳内の混沌が実体化したものだということのみだ。
 クリスマス、きらいじゃないけどすきじゃない。やっぱりきらい。でもちょっとすき。
 昨日、つまりクリスマス・イブに、私はそんな気持ちで昼間っから酒を飲んでいた。私が思い出せるのはそこまでだけど、部屋の惨状を見れば判る。この量の空き缶とお菓子の包みは、私一人でこさえられるものではない。きっと昨夜、私は天狗二人と馬鹿騒ぎをしたのだろう。
 毛布に包まりながら窓を見る。カーテンの隙間から僅かに漏れる冬の陽は部屋に舞う埃を照らしていて、それはまるで穏やかな午後を縁取っているようだった。
 クリスマスの当日に、こんなお昼に起きて、何をすることもないだろう。
 私はもう一度横になって目を瞑ってみる。しかし二度目の眠気は遠く、私に時間の早回しを許さなかった。
 仕方ない、起きてやるか。
 目の裏側に薄ら宿酔を感じながら、私は起き上がってキッチンに向かった。
 廊下を裸足で歩けば、ひたひたと音が鳴った。足の裏側がとても冷たくて、冷蔵庫の前に着く頃には起き抜けの気怠さがだいぶ薄れた。
 作りおきの麦茶を滝飲みにして、冷蔵庫のドアを閉める。そのとき、あるものが私の目についた。
 それは冷蔵庫のドアに張られた便箋で、便箋には何か小汚く、子供の落書きめいた線が走っていた。こんな便箋、昨日までは無かったはずだけど。
 とにかく、その便箋の小汚い線がケーキの形を縁取っていると判るまでにはしばらくかかったし、ケーキの絵の隣にあるミミズが、
「あしたはヒナと! すっごいたのしみ!」
 という言葉だと気がつくのにも随分と時間がかかった。
 私は遅刻の確定という緩い絶望の裏側で、この覚書は誰が書いたものなのか、などと、そんなことを考えていた。

 自宅を出ると川辺は降り積もった雪に覆われていた。近くの木々には氷柱がぶら下がって、溶けかけの雫を垂らしている。しかし空は透き通った晴れで、それほど明るくはないけれど、太陽は静かに、けれど確実に、世界を照らしていた。
 雛の家は川辺近くの森に在った。だから、山道を進めば、ここから十分もしないうちにたどり着く。しかし、昨夜は随分と雪が降ったようで、右手にさげたホールケーキの箱、その中身を無傷のままで進むには、山道は些か無理のある道と思えた。
 倍以上の時間がかかってしまうけど、仕方ない。遠回りして、里を抜けていこう。

 雪道は里に近づくにつれて次第に均された、歩きやすいものとなった。それでも、道の脇や人のあまり通らない箇所を見れば、雪は綺麗なまま積もっていて、私はなにか、深く積もった雪に自分の足跡をつけてやりたいような気になった。
 実際にそんな子供じみたことはしないし、寒いのも嫌いだけれど、どうも私は昔から、深く積もった雪が好きだった。深く積もった雪は、なにがどうして、温かいような気がするのだ。当然、触れば冷たいし、靴の中に入ってくれば不愉快だけど、雪が積もると、なんだか世界が静かになって、吐く息の白さも不思議と愛おしく感じた。
 今だって、通りを往く人々は忙しなく歩いていくけれど、そんな人々の雪を踏みしめる音が余計に、冬の静寂を際立たせている気がして落ち着いたし、駆け回る子供たちの歌う冬の歌にしたっておんなじだった。
 往来に連なる店先には概ね、
『くりすますけえき、完売』
 などと書かれた張り紙が貼ってあった。というのも、全てはブン屋の所為だ。
 流行を持ってくるのはいつもやつらで、そのせいで私は今年、ケーキを買うのにひどく苦心した。どの店も予約がいっぱいで、私は結局、昨日になるまでケーキを探し回る羽目になった。
 普段ならこういったお祭り騒ぎに乗じることはしない。ましてや自分の稼ぎにならない流行なら特に好きにはなれなかった。雛との約束さえなければ、今年だって部屋でのんびりとしていたに違いない。
 私は雛のことが好きだった。
 けれど、彼女を本当に好きだったのは少し前の話で、今現在はそうではない。と、いうこともないけれど、雛に対する想いは、以前よりかはだいぶ落ち着いていた。
 というのも、私が雛に惹かれたのは、彼女が私にとって最も“手近”だったからだ。彼女が今よりもっと美人で、器用で、人気者だったなら、私は彼女に恋をしたりはしなかった。それに気がついてしまってから、私は彼女と話すときに、必要以上にどぎまぎすることはなくなった。次第に、あわよくば、なんて気持ちも薄れて、私は彼女をただ単に、仲のよい友人と思えるようになった。
 これに関してはきっと、彼女も同じように思っているに違いない。最近の私達は殊に、共に何をしたところで必要以上の波が立たない、気の置けない友人だった。
 そうすると気になるのは、冷蔵庫に張られた例の便箋だ。
 昨日の昼にはあんな便箋の姿は無かったから、夜にあいつらと呑んでる最中にこさえられた覚書なのだろうけれども、どうも。私が書いたとは思えないし、あいつらが書いたとも思えない。何かが起きればすぐにあれこれと茶化す射命丸ならやりかねないけれど、やつがそんなことをすれば、きっと椛が止めるはずだ。とすると、消去法でやっぱり私が書いたことになるけれど、どうしてもそうとは思えない。だって、あわよくば、なんて気持ちはもう、これっぽっちも抱いていないはずなのだから。
 じんぐるべーる、じんぐるべーる。と、そんな愉快な歌声が耳に響いて、私は少しはっとした。こんなに遅れてしまっては、雛も流石に少しは怒るかもしれない。
 そこで急げばいいものを、私は子どもたちにつられて冬の歌などを口ずさんでは、むしろ今まで以上に歩調を落ち着かせて、ゆっくりと、雛の家に向かうのだった。

「ごめんよ、遅くなっちゃって。いつもの道が雪でふさがってたからさ、遠回りしてきたんだ」
「いいの、気にしないで。寒かったでしょう、ほら上がって」
 言いながら、玄関の扉を押さえる雛の指にはいくつか絆創膏が巻かれていて、私にはそれが気になった。しかし、それについて尋ねるのはなんだか野暮な気がしたから、私はそのまま扉を潜る。
 雛の家には竈があったから、部屋はとても暖かかった。しかし外は相変わらず晴れていたし、どこかの鳥が間抜けな声で鳴くものだから、なんというか、あまり、クリスマスという感じがしなかった。
「クリスマスに二人で会うの、もしかすると初めてかもね」
「言われてみれば、そうね。にとりちゃん、こういう日はいつも天狗さん達と飲みに行っちゃうんだもの。あ、ちょっと待ってて。お皿、すぐ用意しちゃうから」
「ああ、私も手伝うよ」
 それから食卓に食器等を並び終えて、雛が用意してくれていたようわからんお酒――しゃんぱーにゅ、というらしい。――がグラスに注がれたころ、雛がそういえば、と口を開いた。
「珍しいわね。にとりちゃんがクリスマスに、こうやってクリスマスらしいことをするなんて」
 大きな皿の上には、これまた大きくて白いホールケーキが乗っかっている。二人で食べ切るには少し無理のある量だけど、私が行ったときにはもう、このサイズのケーキしか残っていなかったのだ。
「いやあ、今年は雛と約束してたからね。普段ならあんまり気乗りしないけど。でも、今年のクリスマスはいいね。例年よりもなんだか静かでさ。ケーキは今年が一番売れたらしいけど」
 喋りながら、私はケーキを切り分ける。食器の準備は結局、どこになにが閉まってあるのかわからなかったから、これぐらいはしないといけない気がした。
「じゃあ、クリスマスケーキを食べるのも初めて?」
 苺が邪魔して上手に切り分けられなかったけれど、雛は気にしていない様子で私に尋ねた。
「ああいや、ケーキは毎年食べるんだ。去年もあいつらと食べた」
 ふうん、とつぶやいて、雛は切り分けられたケーキを見つめる。まじまじと、見つめる。
 やっぱり少しまずかったかな。上手く切り分けられなかったかわりに、雛のケーキには苺が二つ乗っている。雛はとりわけ、こういう些細な差異をよく気にするから。
「じゃあ、さっそくだけど乾杯しましょうか」
 私が一人で煩悶していると、雛が笑顔で言った。
「うん、それじゃあ」
 乾杯、とグラスがぶつかる音が響いた。けれど、窓の外は相変わらずに明るくて。グラスのぶつかる音は綺麗だったけれど、どこか、何かが少し、ズレているように思えた。

「ねえ、にとりちゃん。どうして苺を埋めちゃうの」
「え。あ、えっと、これはさ」
 雛に言われるまで、私は自分の手の動きに気が付かなかった。私の手は無自覚にフォークを操り、切り分けたケーキの上の苺をスポンジへと押し込んでいたのだ。
 それは、私がケーキを食べるのときの、いわゆる癖だった。
「いやあ、毎年ね。あいつらとケーキを食べるときに、あいつら欲張りでさ。欲しがるんだよ、人の苺。もちろん冗談交じりに言ってくるんだけど、なんていうか、ほら、面倒だから。そういうの。だから最初に埋めて隠しちゃえばいいかな、って。まぁ、くださいよー、なんて言ってくるのは、大抵射命丸なんだけどね」
「ふうん」
 いつもなら、話の落とし所として射命丸を使えば雛は笑ってくれるはずだったのに、この日は違った。機嫌を悪くした感じではないけど、なんだか反応が薄い。
「あれ。……ああ! もしかして雛、私の苺、欲しかったりして!」
 どういうわけか生まれてしまった一寸の間が妙に恐ろしかったから、私は思いっきり冗談めかして、声を上げてみた。
「ううん。わたし、あんまり好きじゃないの。苺って」
「え! そうだったの」
 私が、いやあ、とか、失敗しちゃったな、とか、チョコの方にすればよかったな、なんて小声でぶつぶつしてる間に、雛は言葉を続ける。
「うん。苺って、なんていうか、その。気味が悪くて。にとりちゃん、芽が生えた苺ってみたことある? あれね、すっごく気味が悪いの。少し生えたくらいで気持ち悪いのに、そのままにしておくと蜘蛛のおばけみたいになって、ほんとに恐ろしいの。それに、ケーキの苺って、思ったより全然甘くないから、なんだか騙されたみたいな気分になっちゃう」
 雛の話を聞いて、私はますます申し訳なくなった。
「ご、ごめんよ。雛がそこまで苺を嫌いだったなんて、や、ほんと。チョコのほうを買えばよかったな」
「いいの、気にしないで」
「ううん、気にするよ。ほんとにごめん。しかも切り分けるとき、雛のほうに苺を二つもやっちゃった。スポンジの中のやつはどうにもならないけど、よかったら、乗ってるやつは私が食べようか」
 私が言うと、雛は二つある苺の一つを口に運んで、頬張りながら微笑んだ。
「いいの。ほんとはそれほど嫌いじゃないから」
「そ、そっか」
 その後、雛がなんだか可笑しそうに笑うから、私もつられて笑ってしまった。暖炉の火がパチパチ鳴って、雛がカーテンをさっと閉めたとき、私の感じていた妙なズレがふ、とおさまった。
 それからは、いつもどおりの私と雛で話が出来た。やはり射命丸は落とし所として便利だったし、そういった話に対する雛の相槌も冴え渡って辛辣だった。

 それからいくらか時間が経って、カーテンの向こうにちらちらと細かい影が降った。
「あ。にとりちゃん、どうしましょう。雪が降ってきちゃった」
「ほんとだ。どうしよう、強くなる前に帰ろうかな」
 雛は、泊まっていけば、なんて提案をしてくれたけれど、私はそれを断った。雛にそこまで迷惑をかけたくなかったからだ。少し話して、そろそろ帰ろうと思い席を立って玄関まで行くと、雛が、
「ちょっと待って」
 と私を引き止めた。
 奥の部屋に引っ込んでいった雛は二、三分で戻ってきて、その手には赤いニット帽が握られていた。
「昨日頑張ってね、これ縫ったの。にとりちゃんにあげる。クリスマスプレゼントだから」
「え、いいの。貰っちゃって。いや、なんだか悪いなぁ。私、なんにも用意してないもんだから」
 本当はリボンなぞを用意していたのだけど、私が里で買ったリボンなぞは、手作りだと言って渡されたそれには到底及ばない品物に思えたから、懐に閉まったまま、黙っておいた。
「いいのよ。ほんとはね、手袋なんかも編んだんだけど。そっちは他の人にあげることにするわ」
 私は上機嫌に、貰ったニット帽をかぶりながら雛の言葉を聞いていた。玄関には大きな姿見があって、姿見に映るニット帽は鮮やかに赤く、自分で言うのもなんだけれど、私によく似合っていた。
「え、手袋。どんなのさ、ちょっと見せてよ」
 ニット帽は売り物と遜色ないほどによく出来ていたから、私は手袋も欲しかった。けれど、雛はそれを別の人にあげるという。本当は、手袋も欲しい、と口に出したかったけど、やめにした。
「ほんとに見たい? でも、にとりちゃん。見たら、きっと欲しくなっちゃうんじゃない?」
「私、そこまで図々しくないよ。ほんとに、ちょっと見てみたかっただけ」
 雛は、ふうん、となんだか私をからかうように微笑むものだから、私はどうも居た堪れなくなって、矢庭に玄関の扉を開けた。
「じゃあね、にとりちゃん。風邪なんてひかないように、お大事にね」
「いいよいいよ。風邪ひいたって、今年の年末はゆっくりすることに決めてるからさ。それじゃあ!」
「うん。それじゃあね」
 扉をくぐると、空はまだまだ明るかったけれど、ぼた雪が降って、外は一層雪の世界と化していた。
 これは本当に風邪をひいてしまうかもしれない。そんなことを考えながら数歩進むと、私は雛に言い忘れのあることに気がついた。
 焦って振り向くと、雛はまだ扉を開けて手を降ってくれていたので、私は少し大声で言った。
「雛、メリークリスマス!」
 私が言うと雛も少し大きな声で同じように返してくれた。
 もうケーキの傷がつくことを心配する必要も無いし、帰りは山道を抜けようか、とも考えたけれど、私は結局、行きと同じ道を辿ることにした。理由はいくつかあったけれど、私は何より、この赤いニット帽が嬉しかったのだ。

 雛の家からしばらく歩くと里に着いた。里は相変わらずに、忙しなく歩き回る大人たちや、雪の中を駆けずり回る子どもたちで賑わっている。来るときに通ったときと違うところをあげるとすれば、雪が降っていることぐらいなもので、ともすれば、空の明るさだって先ほどとさして変わりはなかった。
「あ、にとりさん!」
 不意に聞き覚えのある声がした。椛だ!
「こんにちは、にとりさん。いやあ、昨日はお恥ずかしいところを……あれ。にとりさん、今日は確か、雛さんのところに行くんでしたよね?」
「そうなんだけどね。雪が降ってきちゃったから、強くなる前に帰ってきたんだ」
 見れば椛は片手に見覚えのある箱をさげていた。それは間違いなくホールケーキの箱で、それはおそらく、文が食べたいと言って聞かなかったに違いない。そういえば昨夜、同じ店で予約をしたとかなんとか、そんな話で盛り上がった気がしなくもない。
「え。にとりさん、帰ってきちゃったんですか。なんだ、どうせなら雛さんのところに泊まってくればよかったのに」
「あんまり迷惑かけちゃ悪いと思ってさ」
 すると椛は忽ち表情を変えた。それは、にやにやとイヤな感じのする笑顔で、私はどうも昨日の夜、椛になにか余計なことを話したらしい。
「えー。でも昨日、にとりさん言ってたじゃないですか。最近じゃ雛さんのことをすっかり友達だと思ってる、だなんて」
「言ったかなあ」
 雪は里へと粛々と降り続けるから、私の上にも、椛の上にも、少量の雪が積もっていた。
「言ってましたよ。下心なんてもう全くない、とも言ってました」
「あーもう。それがどうしたってのさ」
 椛は話しながら、自身の頭上に積もった雪をさっさと払いのける。
「にとりさん、私の家で呑んだら絶対泊まっていくじゃないですか。にとりさんたら、雛さんのこと友達だ、なんて言って、もう。少しは素直になったほうがいいと思いますけどね。酔っ払ったときはあんなに明け透けなのに」
「椛、お前まで射命丸みたいな嫌味言って。あんまり私をいじめないでくれよ」
 私も私で、ニット帽に引っかかった雪を片手で払った。
「ふふ、ごめんなさい。……あっ、その帽子! もしかして雛さんに貰ったんですか?」
「ああ、うん。そうなんだ。いいだろう。自分で言うのはなんだけどさ、けっこう似合ってると思うんだよ」
 私の払いきれなかった雪があったか、椛は私の帽子をさっさと優しく払いながら、よく似合ってますね、なんてことを口にした。
 やっぱりな、と私が内心で頷いていると、椛は、
「でも」
 と口を開いた。
「でも、にとりさんには少し可愛すぎるかもしれませんね。ふふ、なんだかイチゴみたいで」
「え。イチゴ」

 椛とはそれから少し話してから別れた。別れ際に、一緒にケーキを食べませんか、なんて聞かれたけれど、雛の家で思いの外食べすぎてしまい、内蔵がクリームでいっぱいになった気のする私は無論、その誘いを断った。
 そのあと私は、ニット帽を脱いだりかぶったりを繰り返しながら帰路を辿った。赤いニット帽は見れば見るほど、椛の言うとおり、どうも苺に酷似しているように思えた。辺りに深く積もった雪の中、それをかぶって歩く自身を俯瞰すれば、ニット帽はますますそれらしかった。
 それを思うと、私はどうにも面映ゆく、金輪際これをかぶるのはやめてしまおうかと何度も考えた。しかし家に着いて姿見を見やれば、赤いニット帽は何がどうして似合っていた。今までかぶっていたどんな帽子よりも、それは最も私らしい帽子に思えた。
「せっかくの貰い物だし、雪が全部溶けるまではこれをかぶっていようかな」
 鏡を見ながら、無意識のうちにそんな言葉がこぼれ出る。
 鏡に映る自分の頬は寒さで真っ赤になっていて、私はますます照れてしまった。


  宙を挟んで鼬の駈ける


 夜

私は機械さえあれば満足なんだ。
なんて、彼女は言うけれど。それでもわたしは、彼女に恋をしてしまった。
私は卑しくも考える。
彼女と付き合うためには、どうしたらいいのだろう。なんて。

時間は昼としましょう。
いつもの彼女の工房で、彼女は普段通りに、
「納期が」「採算が」
なんて、わたしには到底分からない愚痴を喋り続けている。
私は彼女の現在造っているモノが気になって、それはなあに? なんて尋ねてしまう。

……。

「ね、河童さん。それは今、何を造っているの」

「よくぞ聞いてくれた! これはね、新しい時代の雛人形を造っているんだ」
彼女は嬉しそうに、年の割には子供っぽい、無邪気な顔で私に答える。

「まあ、ほんとう? もしかして、私を喜ばせるために……?」

「当たり前だよ! 私は雛のためだったら、なんだって造ってあげるんだから。ほら、雛も手伝って」

「え、ええ。でも私は、機械なんて」

「いいからいいから。愛されあれば、機械なんて直ぐに完成しちゃうよ」

「あ、愛?」

「……えへへ。実は私ね、雛のことが好きだったんだ。雛さえよければ、付き合ってくれないかなあ」

「う、うん。付き合う。いくらでも、付き合っちゃう。」

「よかった! じゃ、お雛様は雛で、お内裏様は私ね!」

「そ、そんな。嬉しすぎて、どうにかなっちゃいそう」

……。
違う。違うわ。こんなに上手く行くはずがないもの。
そもそも、彼女はこんなに子供っぽくないし、わたしだってこんなに流されやすい性格をしていない。
大体付き合おうだなんて考えているのに、私は一つ質問をしただけじゃない。只でさえ物静かだ、なんて思われているのだから、もっとぐいぐいと行かなければ。
これでは、彼女と付き合えるはずもない。
今度はもっと真実に寄せて考えてみましょう。
彼女は子供っぽいところはあるけれど、わたしなんかよりもずっと、損得のわかってしまう頭のいい人なんだから。

そうね。

舞台は夕焼けに染まる清水寺。
境内には珍しく人が居なくて、わたしたち二人きり。
第一声は、どうしましょう。

……。

「紅葉が綺麗ね。わたし、貴女とこんな景色を見られて、幸せだわ。」

「ほんとに? 嬉しいな。」

「ね、貴女はどう?」

「わ、私も、綺麗だなぁって、思うよ。」

「……それだけ?」

「う、うん。な、なにさ急に! そりゃ、紅葉の紅色に、雛の緑の髪がよく映えて、胡瓜みたいで、綺麗だなあなんて、思わなくもないけどさ」
彼女は照れたように、そっぽを向きながら早口で捲し立てる。私は彼女が照れると早口になるのを知っていたし、彼女が私の髪の色を〝胡瓜みたい〟と褒めてくれるのが嬉しかった。

「胡瓜みたい? じゃあ、こうするともっと胡瓜みたいじゃない?」
私はそう言って、毛先を丸めて髪の毛で胡瓜を模してみる。彼女は一瞬目を輝かせて私の髪の毛へと手を伸ばしたけれど、その手をすぐに引っ込めてしまう。触りたければ、いくらでも触っていいのに。

「な、なんだよう。今日の雛、なんかちょっと変だよう……」
彼女は照れたように俯いて、わたしがそれを、可愛いな、なんて眺めていたら。直後、彼女はハッとして、口を開くのだった。しまった!

「雛、お前、私を誘惑してここから突き落とそうって、不幸にしようって算段だな! お前のことは好きだけど、不幸になるのはごめんなんだ、それじゃあ!」

「違うわ! ま、待って!」

私の制止は虚しく響き、彼女はそう言って光学迷彩に身を隠し、遥か遠く自宅の工房まで逃げ帰ってしまった。
ああ、どうして彼女はこうも勘がいいのだろう。
わたしは彼女と居られるならば、たとえ離れ離れでも、構わないというのに。

……。

いや、違う。舞台を間違ってしまったんだ。
それに、彼女と付き合うには、私はもっと、魅力的に喋らないといけない。よし、今度はもう少し上手に、思考してみましょう。

舞台は明朝。霧立ち込める鏡湖池に、美しく金閣寺がゆらめいている。
わたしと彼女は、二人でいつも川原を散歩するように、池のほとりを歩いている。

……。

「ねえ見て。池に映る金閣寺。ゆらゆらしてて、まるで今の私たちとおんなじね。」

「あはは、どういう意味だよー。でも、こうして見ると意外に綺麗だね。普段工房に引きこもってばっかりいるから、雛がこういう場所に連れてきてくれるとありがたいよ。なんか、体の中の淀んだものが押し流されていくみたいだ。」

「きっと、朝の空気がそうさせるのね。貴女がそんな風に言ってくれて、安心したわ。もしかして、来たくなかったんじゃないかと思って。」

「来たくないだなんて、そんなこと。あるわけないじゃないか! 今日はほんと、連れてきてくれてありがとね。なんのお礼もできなかて、忍びないな。」

「いいのよ。お礼なんて。……そうだ。お礼はいらないから、ちょっとだけ!目を瞑ってみてほしいの。」

「なんでさ。んと……こう?」

「うん、そのまま。動いちゃ、ダメよ……」

「なにさー?急にー? ……あ!」
瞬間、彼女はハッとしたような顔をして光学迷彩で姿をくらましてしまった。しまった!
……しかし、今回のわたしは彼女がこうすることを〝想定して〟いた。わたしは既に彼女の肩をぐっと掴み、彼女の体を逃すまいとその両腕に力をギュッと込めていたのだ。

「ね、分かってるんでしょう? わたしの気持ち。それとも、わたしのこと、きらい?」

「き、嫌いじゃないよ! ただ、今向こうから人が歩いてくる音がして……」
彼女はそう言って、わたしの手を肩から振りほどこうと体をイヤイヤしている。彼女が動くたびに、彼女自作の光学迷彩では隠しきれなかったほおずき色の髪飾りが、ゆらゆらと揺れる。

「うそつき。人なんて来ていないわ。ねえ、河童さん。わたしは厄神だけれど、きっと貴女を幸せにしてあげる。だから、ね?」

「あ、ああ嫌だ!私は不幸になりたくないよう!」
そう言って、彼女は私の頬を叩いた。私は驚いて、彼女の肩から手を離してしまう。宙に浮いたほおずき色の髪飾りがくるん、と半回転する。髪飾りはそのまま、遥か遠く彼女の工房まで遠ざかっていってしまうのだった。
ああ、どうして彼女はこうもわたしから逃げるのだろう。わたしは彼女が望むなら、生まれ変わることも厭わないのに。

……。

違う!違うわ!また間違えてしまった。今回は前よりもっと悲惨じゃない。ああ、わたしはどうすれば、彼女と一緒になれるのかしら。

……そうよ。
やっぱり、彼女はわたしに比べて、頭がいいから。
仮に、彼女がわたしみたいな厄神を好いていてくれたとしても、彼女はわたしと付き合ってくれはしないでしょう。だって、彼女のように計算ができれば、わたしと付き合ったときの損得なんて、一瞬にして明瞭に、照らし出されてしまうのでしょうから。

……ああ、そういえば。以前天狗さんの書く記事で、人は咄嗟の言葉に弱い、なんて聞いたことがあるけれど。
でも、そんなの。

……。

そうね。初心に帰って、舞台は彼女のお家にしましょう。
彼女はいつものようにわたしには想像もつかない機械や計算に唸っている。
そこで、わたしは普段通りに彼女に声をかけるの。
ね、河童さん。今造ってる機械はなあに?
わたしの問いかけに彼女が振り向いた瞬間。わたしは脈絡もなく言い放つの。

「ねえ河童さん。わたし達一緒に、幸せにならない?」

なんて。
彼女の頭がもう少しトンチンカンで、子供っぽかったのなら、わたしはそんなことを、言えなくもないのだろうけれど。


  夜


私は人を不幸にするの。
なんて彼女は言うけれど、それでも私は、彼女に恋をしてしまった。
そこで私は考える。
彼女と付き合うためには、どうしたらいいのだろう。

時間は朝とする。
彼女は近所の川辺にてくるくると回っている。
なぜ彼女は近所の川辺で回るのだろう。
私は気になって、尋ねてみることした。

……。

「ねえ、もしかしてさ、私に会いたいからこんなところで回ってるの?」

「ええ、その通りよ。わたし、貴女を待ってたの。さあ、一緒に踊りましょう。」

「え、踊るの。回るんじゃなく。」
なんて言いながら、私は彼女と一緒にくるくると、巻き込まれるように踊ってしまう。

「ねえ、河童さん。わたしと一緒に踊って、楽しいでしょう? 気持ちがいいでしょう?」

「う、うん。えへへ。」

「このまま二人、付き合ってしまうのはどうかしら?」

「う、うん。そうする。付き合っちゃう。えへへへ。」
それから私たちは二人、いつまでも踊り続けた。

……。
違うな、違う。そうじゃない。
そもそも彼女はそんなこと言うような人じゃあないし、私だって、こんなに主体性のないやつじゃない。
大体付き合おうっていうのに、私は一つの質問しかしていないじゃないか。もっとぐいぐいと、自分から行かなければ。
これでは付き合えるはずもない。
今度はもう少し、真実に寄せて試行してみよう。
彼女は寂しそうに見えて、一人でしっかり歩いていける、芯の強さを持った人なんだ。

そうだな。

舞台はシンガポール。水辺で、彼女の回転に魅せられたライオンたちがゲロを吐いている。
第一声は、どうしたものか。

……。

「やあ。今日も絶好調だね。君のダンスに魅せられたライオンたちが、嘔吐しているよ。」

「あら河童さん、こんなところまで私を追いかけてきてくれるなんて。どういうご用事なのかしら。」
彼女は少なからず警戒した様子で、私に尋ねる。彼女は自分の持ち前の能力故に、恋愛の香りのするものに臆病なのだ。
ときに、彼女は私が〝彼女の髪の色〟を胡瓜のようだと考えていると〝思い込んでいる〟らしい。私は無論、彼女の髪の色についてそんなことを考えてはいない。彼女の髪の色は、胡瓜なんかより、ずっとずっと、綺麗なのだから。

「いや、なに。貴女を追いかけてここまで来たのは、或ることを伝えたかったんだ。あなたは私が、あなたの髪の色について胡瓜のようだと考えていると〝思い込んでいる〟けれど、私はあなたの髪の毛を、そんな風に考えてはいない。貴女の髪は、胡瓜の緑よりよっぽど、綺麗な色をしているのだから。」

「まあ、ほんと? 嬉しいわ。」

「それと、もう一つ。私がここに来たのは、あなたのダンス。その回転を見たかったのさ。ただ、それだけだよ。」

「そんな風に言ってくれるだなんて。私、どうにかなってしまいそう」
しかし、一寸の間を置いて、彼女は〝あっ〟という顔をする。しまった!

「でも、どうして? 私のダンス、回っているのが見たければ、貴女の家の近所の川原に行くまで待っていてくれたらいいのに。もしかして、貴女、私のことが好きなんでしょう。」

「い、いやそんなことは。」

「私は一緒にいるだけで、人を不幸にしてしまう女なの。貴女の気持ちには答えられないわ。ごめんなさい。」

「ま、待っておくれよう。」

私の制止は虚しく響き、彼女はくるくる回転しながら、遠く海の向こうの川原まで逃げて行ってしまった。
ああ、どうして彼女は臆病なのか。
私は彼女と一緒なら、不幸になったって構わないというのに。

……。

むむ、違う。おそらく舞台を間違えたんだ。それに、私はもっと格好良く喋らなきゃ。よおし今度は上手く試行しよう。

舞台はアメリカ。私たちは学生で、ホームカミングデイの夜だ。
学校の広い中庭にて、彼女は一人、いつものようにくるくると回転している。

……。

「やあ、おめでとう。私はあなたがホームカミングクイーンになること、最初から分かっていましたよ。」

「まあ貴女、こんな所まで。でも、嬉しいけれど複雑だわ。わたしがホームカミングクイーンだなんて。」

「貴女の美しさなら当然の事です。私は初めから解っていたのです。今年のホームカミングクイーンが、あなたしかいないという事を。」

「でも、わたし。今になっても誰からも声をかけられないし、女の子たちだって、わたしをチラチラ見やっては、ひそひそと何かを話している様子です。」
中庭には誰かのリクエストで、雰囲気の良い音楽が流れていた。同学年の男子や女子はそれぞれ固まって、彼女を見やっては何やら話ごとをしているようだった。酒に溺れたスラッカーやワナビーは、私の解さぬ遊びをして楽しんでいるようだった。

「それは、みんなあなたの美しさに嫉妬しているのです。だけど、あなたは見事ホームカミングクイーンに輝いた。私のようなナードが声をかけるのは本来ありえない事ですが、あなたの余りある美しさについ惹かれて、軽々しくも声をかけてしまった次第です。よければ、一緒に、流れる音楽に身を任せ、踊ってしまうというのはどうでしょう」

「まあ、そんなことを言ってくださるなんて。嬉しいわ。ええ、踊りましょう。」
そうして、彼女の白くてほっそりとした指が私の掌に重なった。私は心がどきどきして、今にも飛び跳ねてしまいそうだった。しかし、瞬間。彼女は〝あっ〟という顔をして、私の掌に重ねた指を勢いよく引っ込めた。しまった!

「ごめんなさい。わたしってば、鈍感なの。でも、私は側にいるだけでその人を不幸にする女。貴女の事は好きだけど、貴女の気持ちには、応えられません。それにやっぱり、ホームカミングクイーンというのがわたしにはいまいち解せませんの。」
そう言って、彼女はくるくる回りながら、近所の川原まで逃げて言ってしまった。ホームカミングクイーンについては、私もよく分からなかった。
それにしても。
ああ、どうして彼女はああも頑ななのだろう。私は彼女と一緒なら、慣れない踊りをいくらでも踊って見せるというのに。

……。

むう、どうやらまた間違えてしまったようだ。
大体、今回も舞台設定を間違えていた。ああ、私はどうすれば彼女と交際ができるのだろう。

……そうだ。
彼女は私に比べて、強すぎるのだ。私は他の河童と離れて、殆ど一人で過ごしているけれど。
でも、お前は人を不幸にするから、誰にも会ってはいけない。なんて言われたら、私はそれに、到底耐えられない。
彼女は強すぎるんだ。私に比べて、私以外と比べても。
一人で生きていけるなんて、そんなこと、私には出来そうもない。

……あ、そうだ。以前天狗から聞いたもので、人は咄嗟の言葉に弱い、というのを聞いたことがあったな。
いや、しかし……。

……。

よし。
初心に帰って、舞台は近所の川原にしよう。彼女はいつものようにくるくると回っている。
そこでまた、普通に声をかけて回りくどい告白をしようものなら二の舞、三の舞だ。
だから私は、いきなりに。
回る彼女の手を引いてこう言うんだ。

「へい彼女、私と一緒に不幸になろうぜ」

なんて。
彼女がもう少し寂しがりやだったなら、そんなことも、言えるに違いないのだけれど。






明朝、河城にとりは近所の川原へと出かけた。その頃鍵山雛はといえば、やはりにとりの工房近くの川辺にて、くるくると回転していた。

二人は普段通りに〝偶然〟はたまた〝ばったり〟と出くわしては、当たり障りの無いやり取りを交わす。それは朝の挨拶だったり、天気の話だったりと、点数をつけるなら満点の当たり障りの無さだった。

二人はその日、顔を見合わせた際、互いの顔になにやら困憊の相が見えたので、特になにをするでもなく、すぐに別れてそれぞれ家に帰ることにした。河城にとりは鍵山雛と反対方向に歩き始め、鍵山雛は河城にとりと反対方向に歩き始めた。

その時である。二人は殆ど同時に振り向いて、殆ど同時に口を開いた。

「「ねえ、わたしと一緒に×◯◻︎ー!」」

同時に口を開いたせいか、はたまた夜通し黙って考え込んで、久しぶりに舌を動かしたせいか。二人の言葉と呂律は絡まり、互いの耳には何一つ意味のある言葉が伝わらなかった。

二人は諦めたように、なんでもない、また今度。と別れを述べて、それぞれ帰路に着くのだった。
上空ではけたたましく、朝の鳥が、間抜けな声で鳴いていたそうな。

   
   油田


 赤蛮奇は、天井の木目を見つめていた。布団の上、仰向けになり、ただじっと、木目を見つめる。
 赤蛮奇は職を持っていた。里の定食屋で、給仕をしている。だから、それほど暇じゃない。今だって、絶賛遅刻中だった。しかし、赤蛮奇を思索へ誘う原因は、天井の、木目にあった。
 赤蛮奇が天井を注視したのは今日が久々だった。天井なぞ、誰も、日常的に眺めたりはしない。赤蛮奇は今日、たまたま、仰向けに、寝覚めの良い起床を果たした。その結果、起きてはじめに飛び込んできたのが、天井の木目だったというわけだ。
 木目を見た赤蛮奇は、妙な違和感を覚え、遅刻中の今でさえも、木目に釘付けとなっている。もっとも、起きたとき既に、遅刻は確定していた。しかし、それなら少しぐらい、焦らなくては、店の一員をやってはいられない。赤蛮奇も、それくらいのことはわかっていたが、どうにも、動けなかった。
 天井の木目が、あからさまに、宝の地図にみえる。
 わかりやすく、川。川のわきに、明瞭な、大樹。大樹の北東、克明に、家の二軒。家と家との間に、判然と、バツ印。
 なにゆえ、木目が宝の地図なのか。前からそうだったのにもかかわらず、赤蛮奇が気づいていなかっただけなのだろうか。そんなことがありえるだろうか。それは誰にもわからない。赤蛮奇にもきっとわからなかった。そうでなければ、布団上での硬直に理由がみつからない。
 それから、赤蛮奇はあくまで無表情に、なにやら考え続けていた。仰向けに、木目を眺めながら、考え続ける。そのうちに、一人、口を開いた。
「起きて、仕事へ行くのと。起きて、散歩がてら宝を探すのは。どちらがより、楽しい一日だろうか」
 瞬間、赤蛮奇は布団を被った。木板の上で、布団が激しく蠢く。それはただならぬ煩悶だった。しかし二分もすると、ようやく、布団は内側から蹴っ飛ばされ、中から勢いよく、赤蛮奇が現れた。赤蛮奇はやおら起き上がり、乱れきった頭髪、後頭部に片手を入れて、少々、掻いた。
「わたし、億万長者になろう。合掌、婆さんの、腰。ハハ」
 定食屋の店主に反旗を翻せば、赤蛮奇はにやけづらで身支度をした。締め切った部屋は薄暗い。数分して家をでれば、赤蛮奇は日差しに眩暈した。
「なんて清々しい朝なのか」
 真昼の世界に、白々しい声が混ざる。言葉の直後に漏れた笑い声は、赤蛮奇の、昼の自覚を示している。ただひとつ、赤蛮奇にわからないのは、眩い日差しに照らされて目立つ、頭後ろの、跳ねまくった頭髪のみだった。

 柳通りの道すがら、赤蛮奇の家はあった。ボロの木造住居だが、裏手には川が流れており、柳の陰鬱さも、凪いだせせらぎも、ろくろ首には打って付けの住処に思える。柳の道を暫し歩き、川への分岐を曲がると、当然、直ぐに、川に差しあたる。川沿いは大小さまざまな石っころの飽和した道で、非常に歩きにくい。しかし、柳から里までの道中には、ちょっとした河川敷があった。赤蛮奇は、光と陰の河川敷から、陽に照らされて、きらきらと輝く川面を眺めつつ、歩いた。
 もちろん、それらしい大樹も、目敏く探す。とはいえ、目を血走らせることもない。天井の、大樹に似た木目のそばには行儀よく、大樹、とその字が綴られていたのだ。大樹、と表記されているくらいの大樹なぞ、適当に歩いていれば、そのうちに見つかる。ともすれば、赤蛮奇の上機嫌な口笛も、なんら、不自然なことはない。ただ、犬を歩かせる老若男女が、通り過ぎる不調和な音色に、顔をしかめるのみである。
「いまごろは、きっと、ピークの時間だ。労働者諸君が飯を求めて、雪崩れ込むぞ」
 定食屋の惨事を口走ると、赤蛮奇は白昼散歩の薄ら笑みのまま、片手で、自分の側頭を何度か叩いた。そして――忘れることができたのだろうか?――気分よさげに、小走りをして、笑ってみせた。

 赤蛮奇の家は借家だった。毎月、家賃を払っている。給料を待っていては、追い出されてしまう。耐えかねた家主に家を見に来られては、困る事情もあった。赤蛮奇は借家に、あらゆる改造を施していた。窓は憎き陽光を遮るために、木板が打ち付けられている。なんとなく、釘を打ってできた、棚がある。意味もなく、床にはゴミが散らかされている。木板も、棚も、ゴミも、どれも明確な改造といえよう。露見すれば、十中八九、追い出されるのみでは済まなくなる。とすれば、円滑な支払い、それが肝要だ。赤蛮奇は、生活のため、宝を探す。給料の前借りなど、もはや、できるはずもなかった。

 里を抜けると、河川敷はいつしか石っころの海に呑まれる。赤蛮奇は靴の裏にごろつく石の感覚を、大げさな挙動で――両腕を水平に伸ばし――バランスをとって、愉しげに、おっとっと、を発音する。なにが、おっとっとか。川辺に棲家を構えた河童が、棲家の縁側から、しらじらと、きゅうりを齧りかじり、赤蛮奇を眺めていた。
 赤蛮奇は、視線に気がつくが早いか、縁側に腰を下ろす河童へと歩み寄った。
「ねえねえ、知らない? ここらへんでさ。でっかい木」
 なぜ、逃亡者は道行に足跡を残してしまうのだろう。抱えた後ろ暗さが、人の温もりを求めるのだろうか。白昼堂々とうろつく成人の声掛けほど、怪しいものはない。河童は齧っていたきゅうりを後ろ手に隠しつつ、答えた。
「し、しらないよ。わたしは、なんにも」
 不確かに凪いだ心が、赤蛮奇にほんとかなあ、を発音させる。後ろ手を組み、河童の背後、隠したなにかを覗き込まんとするろくろ首と、縁側に腰を下ろしつつ、後ろ手にきゅうりを隠す河童の構図は、さながら不審者と児童のそれだった。ビコーズ、河童は背が低い。
「ほ、ほんとに知らないんだってば」
「でも、なんか隠してる」
 きゅうりだよ、河童が叫んだあたりで、赤蛮奇の首は河童の背後に回り込み、きゅうりを確認した。
「きゅうりじゃん」
 まじまじ、といった赤蛮奇の視線に、人見知りの河童は狼狽し、半ば強盗をもてなすような落ち着かなさで、赤蛮奇を家にあげた。赤蛮奇はなぜ家にあげられたかすら判然としないでいたが、理由を探すこともしなかった。仕事をサボった赤蛮奇の心は凪いでいる。
 川のせせらぎに包まれた部屋で、二匹、きゅうりを見舞う。皿の上に乗せられた大量の蛇緑は、ガラス戸の向こうに広がる景観へ弧を描き、溌剌と映える。故知らぬ無常の虫が鳴いて、それは穏やかな時間が流れた。
「宝を見つけたらさ、半分わけてあげるよ」
 皿の上に二、三本を残して、赤蛮奇は立ち上がる。
「あ、ありがと」
 河童はテーブルの上に置いた帽子をわざわざ被り、ツバで顔を隠した。

 河童の家から暫し歩けば山に入り、川沿いはいよいよ険しくなる。どこもかしこも奇妙に蔦を巻いて、陽光を遮る陰鬱な色調のなか、木々もなにやら湿ってくる。ここまで来れば、大樹があろうとなかろうと、関係がない。大樹を見つけたとしても、こんなところに二軒の家なぞ見つけられるはずもなかった。
 しかし、赤蛮奇は山を進んだ。段差や急勾配に足を取られながらすこしの汗をかき、進んだ。しばらく歩くと、川の麓にたどり着く。雄大、されど、神秘的な滝だった。羽の明るい蝶が、滝の鼻先ではためいている。蝶は、何故、水面を旋回するのだろう。迷い込んでしまった、そう考えるのが、妥当かもしれない。赤蛮奇の赤い髪は、山の緑に溶けることなく、木漏れ日のように鮮明だった。
 宝は見当たらなかったが、麓への到達は冒険だった。そもそも、仕事をサボって外出する時点で冒険であるから、相乗して、大冒険といえるだろう。赤蛮奇は滝からすこし離れた飛び石らしき岩を渡って、滝に背を向け、歩き始めた。家路だ。

 復路から往路を眺めつつ、赤蛮奇は歩いた。橙とはいかず、薄紺の深くなるばかりの日暮れではあったが、赤蛮奇の足取りは、落ち着きながらも、軽やかだった。河童の棲家、カーテンの向こうの、柔らかな灯も、赤蛮奇の口元を綻ばせる。不意に、土か、夜か、風が香った。
「たのしかったな、うん。たのしかった」
 家に着く頃にはとっぷりと暮れた。赤蛮奇は、身を清めるなり、布団に潜った。

 赤蛮奇は夢を見た。定食屋の店主が腰をいわして死ぬ夢だった。夢の中で、咆哮する。それは、悲しみと、後悔の発露だった。
「……ぁあああ!」
 うとわを夢の中に置き去りにして、赤蛮奇は目を覚ます。布団は既に蹴っ飛ばされて、赤蛮奇の、足元の方で、卑屈に丸まっている。目覚めと同時に起き上がった赤蛮奇は、とりあえず、足元の布団を手繰り寄せ、そのまま仰向けに、横たえた。
 天井はずっしりと、低くなったのではないかと思えるほどに、赤蛮奇にのしかかる。寝ぼけ眼と涙目を拭えば、天井を、憎らしげに睨みつけた。瞬間、眉間のシワの、種類が変わる。
 天井の木目が、あからさまに、昨日と違う。
 わかりやすく、湖。湖のわきに、明瞭な、洞窟。洞窟の南西、克明に、枯れ木の二本。木と木の間に、判然と、バツ印。
 赤蛮奇は、そのまま数十分、硬直した。目覚めと同時に、遅刻は確定している。無表情な熟考。思考は、裏手から薄らぐせせらぎの、しじまを縫っている。
「婆さんにも、半分あげよう。あー。三分の一になっちゃうなぁ。ハハ」
 赤蛮奇は身支度をして家を出た。後ろ髪は跳ねていた。側頭もすこし跳ねていた。赤蛮奇は気づかない。世界はもっぱら昼だった。

 奇妙なことに、そんな日々がしばらく続いた。宝は見つからない。家に帰り、寝る。目を覚ます。木目が変わる。
 三日目あたり、赤蛮奇は或る事に気がついた。木目の変わるタイミングは、寝て起きた朝ではなく、昼、宝探しをしている最中であると、気がついた。実際、毎日、家に帰れば木目は変わった。
 五日目、赤蛮奇はまた気付く。木目の変化が、だんだんとおざなりになっていること。もはや木目は変わらずに、マジックペンで塗りつぶされ、消された洞窟等の横に『こんどは館。赤い館ね。こんどってのは、明日探す場所っていみ』など、書かれている。
 六日目、またまた気がつく。初日、大樹から洞窟へと変化した木目は、変化したのではなく、実際に、新しい木板が打ち付けられていた。赤蛮奇はようやっと人為的ななにかを感じ、すぐさまノートに推理をまとめた。『これは何者かのしわざ。最初は木板を打ち付けるとか、手が込んでたのに、次の日からマジックペン。おまけに、こんどってのは〜、なんて、やぼったい注釈。犯人はたぶん、金がなくて、横着なやつ。だれだ!』
 七日目、最後の気付きとなるだろう。赤蛮奇は布団の下に、物音と、空洞の気配を察知した。
「こ、こわすぎるよ。なんなんだ」
 怖いのは、なにかをサボることに罪悪感を覚えなくなることではなかろうか。赤蛮奇は震える手で、布団をひっくり返した。赤蛮奇はすぐに悲鳴をあげる。しかし、声を上げるのも恐ろしいのか、悲鳴を短く切って、口を両手で抑えつける。
 赤蛮奇は、信じられないものを見るような目で、天井と、床とを交互した。天井には、マジックペンでぐちゃぐちゃに塗りつぶされた、今までの文字と、新しい文字。
『もうネタ切れです。とりあえず昼はどっかいって』
 床には、あからさまに空洞を想起させる切れ込みと、微かに響く、奇妙な物音。赤蛮奇は意味不明の恐怖に涙を噛み締めながら、床の切れ込みに手を伸ばす。床は、動いた。正方形の切れ込みから、正方形の床板が、綺麗に抜けた。
「あ、あわわ……」
 そこには穴があった。丸く、狭い穴だった。もぐら? でかもぐら? 否。梯子が在った。梯子はどうやら、相当に長い。深い闇に、途中で呑まれている。底から微かに響くのは、なにか、硬いものを硬いもので叩くような、高い音だった。
 赤蛮奇の体は無意識に、金槌を手にしていた。それは、赤蛮奇が窓に木板を打ち付ける際に使ったものだ。唇を噛み咽び泣きつつ、体は無意識に、穴の上、金槌を構える。まさか、落とそうというのだろうか。もし仮に、穴の奥に犯人が潜んでいたとしても、犯人が生き物である限り、落下してきた金槌の衝撃を喰らえば死んでしまう。赤蛮奇は涙で顔を歪めながらもハッとして、金槌を間違いのない場所へと置き直した。
 しかし、どうすればいいのだろう。底から響く高音は以前、赤蛮奇を泣かせ続ける。かぶりを振って助けを求めども、不安を照らしてくれるのは、打ち付けた窓から微かに漏れる、頼りない月明りのみだった。
 赤蛮奇は涙目を腕で擦りながら、流し台へ向かった。水は止められている。バケツに溜めておいた水で、涙に濡れた顔を洗った。患部はやはり、冷やすに限る。赤蛮奇はその顔に不確かな決意を宿し、バケツを掴んだ。
 ドタドタと鳴らし、穴の前。赤蛮奇は意を決して、バケツをひっくり返した。五秒の間。打ち破ったのは叩きつけられた水の音と、けたたましい悲鳴だった。音を聞いた途端に、赤蛮奇の顔から恐怖が消えた。代わりに、そこはかとない怒りが浮かび上がる。眉を潜め、唇をすこし尖らせて、赤蛮奇は梯子を滑り降りた。
(×ボタン+方向キー下)

 降りるなり、赤蛮奇は空になったバケツで、犯人の頭を引っ叩いた。空洞に、犬めいた短い悲鳴と、空っぽの音が響く。
「お前は、なんだ。なんだ、お前は!」
「う、うう。なにも、叩かなくてもいいじゃない。いたいわー、あたまいたい」
 赤蛮奇は犯人を詰問した。七日の間に作られていた空間は、なにやら坑道らしかった。証拠に、ボロボロになったツルハシや、予備と思しき数本、それとなにやらが、あちらこちらと有った。詰問は続いている。それは、弁解にもならぬ誤魔化しが続いているということでもある。
 遥か高い地上、夜明けの虫が蠢き始めた頃、犯人はようやく口を割った。これを、と渡された湿った紙を、赤蛮奇はまじまじと見る。
 わかりやすく、川。川のわきに、明瞭な、柳。柳のなか、克明に、ボロ家の一軒。ボロ家の地下、判然と、バツ印。
 バツ印の横には大きく『油田!』の文字が踊った。赤蛮奇は全てが気掛かりだったが、とりわけて、湿った紙が気になった。入手の経緯を訪ねども、犯人はまた誤魔化しを始める。赤蛮奇が空のバケツを構えれば、今度はすぐに口を割った。
「わたしの、大事な人よ。その人からね、もらったの。たぶん、プロポーズがわりだと思うの。だって、そうでしょ? 油田なんて私有財産を、わたしに開け渡そうっていうんだもの」
「私の土地の地下だぞ。私の財産だよ」
 赤蛮奇は言い終わるが早いかツルハシを握り、掘削を始めた。まずこの地下は決して赤蛮奇の土地ではない。家主の土地だ。ともかくとして、ツルハシを打ちつけながら、赤蛮奇は口を動かす。赤蛮奇の口から揚々と語られる宝の内訳についてを、犯人は不服そうにツルハシを振って、黙って聞いた。
「まず、四等分だ。私に一、河童に一、職場の、婆ちゃんに一。そのあとで、お前に一だ。お前はその取り分を、その、なんだ。大切な人やらと分け合えばいい。わかったな?」

   †††

 定食屋の朝は早い。婆ちゃんは起きるなり身支度をした。
「ああ、忌々しいね。来ないまま、もう八日だよ。見つけ次第首切りにしてやろう」
 年の功より亀の甲とは、一体どういった意味の言葉だったか。婆ちゃんは類稀なる嗅覚的追跡センスを最大限に発揮し、とうとう河童の棲家まで辿り着いた。皺だらけの手、しわがれた声で、河童の棲家の戸を叩く。
 河童は笑顔で戸口に向かった。概ね、数日前に出来た友人と交わした約束が、果たされる予感がしたのだろう。廊下をとてとてと駆け、手には、二本のきゅうりを握っていた。
「ちょいと、ごめんだけどね。赤いの来なかったかい」
 予想を遥かに上回る老齢の来客に、河童は思わず、後ろ手に、きゅうりを隠した。
「し、しらないよ。わたしは、なんにも」
 人見知りの河童を連れて、婆ちゃんは赤蛮奇の家へ赴いた。河童も婆ちゃんも家の所在を知ることはなかったが、婆ちゃんには嗅覚と、きゅうりがあった。

   †††

 暗い坑道で、今朝から昼にかけての間、犯人は赤蛮奇と語らいながら、岩を砕いていた。一匹ではいざ知らず、二匹の力が合わされば、昼までには随分と掘り進んだ。問題は、犯人の精神状態だった。
「それにしても、お前にプロポーズなんて。いったい誰なんだろうな。なあ、そろそろ教えてくれよ。いいじゃないか、私の知り合いなんだろう? そこまで言ったんだ、最後まで言えよ。だって、私の知り合いなんて、そんなに多くもない。職場の、婆ちゃんと、婆ちゃんの娘。それと、先日知り合った河童ぐらいなもんだ。え? わかさぎ姫? いや、知り合いだけどもね。姫は有り得ないだろう。だってさ、姫だよ。姫がまさかお前なんかと。うん、だからね。そろそろ教えてくれよ。私の知り合いでもあるんだろう? いや、姫は有り得ないんだって! だから、可能性としては婆ちゃん、婆ちゃんの娘、河童。その中の誰かだ。え? いやいやだからさ、姫は違うだろ。あ! 婆ちゃんも違うか。そりゃそうだよな、婆ちゃんはもう、婆ちゃんだもんな。え? 姫? お前もしつこいなあ。いい加減に本当を教えないと、刺し殺すぞ」
 恐怖と怒りが在った。それは、犯人と赤蛮奇を包む空間に、渦巻くオーラを持って、顕現している。ツルハシを振るう力も、一層増すというものである。
 また一つ、犯人と赤蛮奇が岩を穿つと、同時に、岩から液体が溢れでた。二匹は瞬時に、大きく口を開く。あ、という間に、液体の溢れでる勢いが増す。そして、二匹は確かにツルハシを握り、我先にと振り下ろした。
 瞬間、液体が噴き出した! 二匹は悲鳴のような歓声をあげ、噴き出す液体のその勢い、激流に身をまかせる。歓喜の無抵抗、恍惚の現場災害だ!
 そのまま、二人は押し流される。液体はどんどんと噴き出して、物凄い勢いで坑道に飽和する。とすれば、二匹が狭い穴を昇る水に押し流され、そのうちに穴から飛び出すのは時間の問題。すなわち道理だった。
 実際、二匹が穴から飛び出すまでにそう時間はかからなかった。しかし、二匹にとっては長い時間だ。油田発見の陶酔と溺死の恐怖を存分に味わった。赤蛮奇の部屋の中、穴から間欠泉のように液体が噴き出す。二匹は同時に穴から射出され、敷きっぱなしの布団に転がされた。
「ああ、ああ。やったぞ。ついに、家賃を払える」
「やった、やったわ! 結婚、結婚よ。姫と、わたしが、ついに!」
 息も絶え絶えに、二匹は達成の感を吐き出す。そんな二匹を俯瞰するのは、婆ちゃんと、婆ちゃんに拉致されてきた河童だった。河童は噴き出した液体に目を丸くさせていたが、婆ちゃんは然程動じることもなく、後ろ手を組み、自身のターンが回ってくるのを待っている様子だ。
 犯人は婆ちゃんと河童の存在に気付き、寝転がった姿勢を正し、表情に膨大な疑問符を讃えながらも、挨拶をした。しかし赤蛮奇は気がつかない。一人、そろそろ勢いの淀んできた液体の正体を確かめる。
 手を伸ばし、液体に触れ、口まで運ぶ。味を確かめんとする赤蛮奇に気がつき、犯人も、河童も、赤蛮奇を注視した。
「あれ。なんか、ただの水みたいな……うわあ!」
 一同驚愕。一度使ってみたい言葉番付トップの言葉、使いどころはまさにここだ。婆ちゃんを除く全員が、目を丸くした。それは、赤蛮奇も同様だった。湧き出した液体がただの水、これも問題ではあるが、ただの水から、もう一つ、なにか得体の知れない生物が飛び出したのだ。生物は飛び出すや否や赤蛮奇に抱きつき、腹のあたり、目を瞑り、幸せそうに頬擦りをした。
 事態をいち早く飲み込んだのは犯人だった。犯人は死刑を宣告された罪人のような面持ちで、わなわなと、何か言いたげに震えている。爆発寸前だ。何かものものしい気配を察した河童はその場を逃げ出そうと、やおら身体を操作する。河童の襟を掴んだのは婆ちゃんだった。襟を掴む速度と力は、河童に確かな恐怖を与える。河童は怯えて、恐る恐るに婆ちゃんの方を見やるが、婆ちゃんは年相応に細んだ目で、沙汰を見守るのみだった。
 そのあたりで、犯人が堪え切れなくなった。生物に抱きつかれ、きょとんと後頭部を掻く赤蛮奇に、口を開きかけた。しかし、悲しいかな、犯人の咆哮は未遂に終わり、遮ったのは、赤蛮奇の腹に抱きつく生物の声だった。
「ありがとう影狼ちゃん! 影狼ちゃんのおかげで、ばんきちゃんのお家にいつでも行けるようになっちゃった! でも、ごめんね。油田なんて、騙すようなことして。だって、こうでもしないと、バレちゃうから。その、バレちゃうっていうのは、そのう。……わたしが、ばんきちゃんを好きだって、こと、が……ばんきちゃん、好き!」
 言い切ると、生物はまた強く、赤蛮奇の腹を抱き寄せ、幸せそうに、頬擦りをする。皆の視線を一身に受ける赤蛮奇は、しばしの沈黙のあと、おもむろに口を開いた。
「いやあ、でも、困ったな」
 誰もが、不穏さを感じた。河童は殊に、固唾を飲んだ。しかし、赤蛮奇はいつも通りに後頭部を掻きながら、言い放つ。

「この幸せを、如何して四等分したものか」

 婆ちゃんは溜めに溜めた一撃を見舞った。
 赤蛮奇の首は飛んだ。

   完!


  ふきのとう


 畳は荒れている。河城にとりの部屋だった。にとりは、ダチョウの卵ほどの機械を、両手でうやうやしく撫で回す。口元は綻び、目元は緩み、ビコーズ、酔っ払っていた。
「えへへ、見てよ。これをさ。すごいんだ、これはさ。これでもう、今度こそ、働かなくてすむようになるよ」
 酔っ払ったからといって、うっとりと独り言を言うようになれば、河童も終わりである。にとりもそれほど堕ちてはいない。聞き手は射命丸文、犬走椛の二名だ。銘々、酩酊状態にある。
 椛は低いテーブルに組んだ両腕に、頬を乗せて答えた。
「こないだ壊されたやつの、新しいやつですね」
 INUIRAZU.ver2。それが、にとりがうやうやしく撫で回す機械の名前だった。小さいながらに迎撃性能を備えた、小型巡回ロボである。にとりは基本スペックの呪文を唱え、穏和な椛の微笑みは、はてなマークを讃えている。
 かたや、射命丸。彼女も、にとりと同じように、両手でカメラを撫で回していた。
「えへへ、見てくださいよ。これを。すごいんですよ、これは。一体何年働けば、月賦を払い終えるのか」
 放っておいても、にとりの呪文は続くので、椛は両腕に頬を乗せたまま、今度は射命丸に答える。
「こないだ壊されたやつの、新しいやつですね」
 文は椛の返答に相槌を打って、にとりと同様、スペックの呪文を唱え始める。左耳でロボの呪文を、右耳でカメラの呪文を。白狼天狗にも限界はある。椛は聞き手から話し手に回ろうと考えた。
「それにしても、不思議ですよねぇ。せっかく配備された巡回ロボを壊すなんて。部隊のみんな、もう働かなくてすむ、なんて言って、喜んでたはずなのに。一体誰の仕業なんでしょう」
 にとりは何者かの手によって無残に分解されてしまったINUIRAZUを想い、しょんぼりとした。にとりを追うように、文も遠くを見つめる。
「私の、私のカメラもですよ。寝て起きたら、なぜかバラバラになってて」
 椛はつけた頬のまま、「ああ」と息を漏らし、文に同調する。
「こないだのことですよね。たしか、三人で呑んだ日の朝。最近、私の周りはバラバラになった機械ばかりで、ふふ。なんだか不思議ですね」
 他でもない、それは椛の仕業だった。椛には酔った際の分解癖があった。それは無自覚な発露で、自身には抑えようのない、どうしようもない悪癖だった。しかし、椛の分解癖を知る者はこの場に一人としていない。連続飲酒の代償として、文も、にとりも、椛も、みな脳をやられていた。
 文がおちゃらけて口を切る。
「もしかすると、酔ったにとりさんの仕業なんじゃないですか? 三人で呑んだ朝は必ず何かがバラバラになってるし、機械に詳しいのもにとりさんだけで、思えば怪しいです。怪しいですよ、にとりさん」
「なんでさ。どうして、わたしがわたしの機械をバラバラにバラさなくちゃいけないのさ。そんなかわいそうなこと、しないよ」
 二人とも、今にも眠りに落ちそうだった。眠たげな、蛍光灯の紐の揺れるような二人の口調に、椛までもがうつらうつらとする。三人の瞼が落ちたのは、にとりの発した、「もう一本飲もうよ」という言葉の直後だった。
 瞼の裏の暗がりが、三人を夢の世界へと誘う。眠ってしまうのには、電気を消す必要も、時を待つ必要もない。夢の使者が意識を掠めとろうと、三人の眼球の裏に指をかける。――そのときだった。
 にとりは自身の手の内に、何かが綻ぶ感触を覚えた。慌ててハッと顔を上げると、なんと無残なことだろう! 手によりをかけ発明したINUIRAZU.ver2はテーブルの上、細やかに分解されているではないか!
 対面、文にしても、状況はそう変わらなかった。文の新調したカメラは同じように、テーブルの上に解けている。
 二人のウェルニッケ中枢には、『またこわれた』、『なにもしてないのにこわれた』、等の文字が浮かんだ。文とにとりはその光景を現実のものと理解した直後、なにもわからなさそうに、唇を結んだまま、咽び泣いた。椛は嗚咽の板挟みになりながらも、テーブルに突っ伏して、すやすやと、すややかに、心地よさげな寝息を立てていた。

 翌朝、三人は何事もなく解散した。酒が三人の脳に与えたダメージは甚大だった。三人で飲み、そのうちに、機械が解けた。とすれば、三人のうちの誰かが犯人となる。ましてや二人の機械が解け、椛は何の被害も被っていない、となれば、犯人は椛以外には有り得ない。しかし、文とにとりはそんな当然の可能性にすら気付けなかった。酒は恐ろしい。無自覚な破壊行為はもっと恐ろしい。
 救えないのは、椛に分解された機械は修復不可能という点だった。
 二人が帰ったのち、にとりはすぐさま機械の修理を始めた。しかし、なにがどうして、直らない。ネジですら、なんだか上手くはまらない。椛の手にかかったネジや基盤はそれぞれ、ネジの形をしたなにか、基盤の形をしたなにかへと、変わり果ててしまうのだった。
 にとりは悲しみに喘ぎながら新作の発明に取り組んだ。文は新たな月賦を契約した。椛といえば平和なものだった。椛は平和な哨戒任務にあたって、そのなかで、山の自然とたわむれ、月陽の鬼ごっこにたわむれた。

 はじめに、椛の怪しさに気がついたのは文だった。酒を飲む余裕のないほどの月賦に追われ、脳のダメージが僅かばかり回復したのだ。文は気がつくが早いか、にとりの下へ飛んで行った。
 酔ってはいたが、話を聞いたにとりも納得した。ここ何年か続く、『バラバラ事件』の犯人は椛に違いない。しかし、手口がわからなかった。にとりは、断酒の禁断症状に壊れそうな文に酒を用意し、二人、荒れた畳に座り込んだ。
「作戦会議だね」
 その一声で立ち上がった、『バラバラ事件対策本部』は迅速に対策案を叩き上げた。行動開始も速かった。酔っ払いというものはときに、躁状態の猫ほどの落ち着きもどこかへ落っことしてしまう。今回はそれが、プラスに働いたのだった。

 酒を飲まされ、天狗と河童に睨まれた犬は、もはや蛙と言っても過言ではない。それほどまでに、たじろいでいる。
「本当に、どうしたんですか。二人とも、こわいですよう」
 椛の眼前、テーブルにはチャチなカメラが置かれており、椛はそれを、ちょうど知恵の輪を手探る手つきで、いじくり回している。狼狽する犬に対し、河童と天狗は尚もギラついた視線を送る。どうした、早くバラしてみろ、言わずもがなの目つきだった。
「む、無理ですよう。機械なんて、ぜんぜん。触ったこともないし、興味だってあんまり……。せっかく呑むなら、こう、もっと楽しいお話をしましょうよう。そうだ、仕事中に、ふきのとうを見つけたんです。少しだけ雪をかぶってて、ふふ。まだちいさくて、とっても可愛かったんですよ」
 大脳皮質後頭葉在中視覚野に浮かんだ春の訪れに微笑む椛のおっとりは、二人にとって辛辣だった。月賦に取り殺されそうな文にしても、コスト捻出に身をすり減らしたにとりにしても、ふきのとうなぞ糞食らえという気持ちだった。
「わ、わ。これ以上飲んだら、死んじゃいます。死んじゃいますよ、私」
 椛は言いながらも、猪口に注がれる酒を次々と飲み干す。文とにとりは呆れながらも、椛の化けの皮を剥がそうと、躍起になってお酌した。
 そのうちに、椛の目元が蕩けてくる。口元も緩み、輪郭の曖昧になった春の歌が零れ出す始末だ。歌は微睡みを体現し、いつしか椛はそれに呑まれた。半死半生、ままならない椛はもはや、泥濘に準じてどろどろな微睡みに溶けた。
 椛の寝息で縁取られた沈黙を文が破る。
「やっぱり、にとりさんなんじゃないですか。椛さんに出来たとは思えないです」
 なにおう! にとりはテーブルを叩き、文の胸ぐらを掴んだ。それはにとりの、酔った際の悪癖だった。よせばいいものを、椛に呑ませながら自分たちも飲んでいた。
「おうおう。わたしがなにをやったって? 射命丸、おまえ言ったじゃないか。おまえが言ったんだ、椛が怪しい、って。わたし、ほんとは、友達を疑うようなことしたくなかった。だけど、おまえも友達だから、おまえのことを信じたんだ。でも、こんな。友達の胸ぐらをつかむなんて、わたしたち、仲良し三人組なのに。誓い合ったのに。あの夏の、真っ赤な空の下に。う、うぅ……」
 やたら郷愁を煽る文句と、支離滅裂なにとりの号泣に、文は思わず目を逸らした。瞬間、文の口から、小さな悲鳴が漏れる。
「え、なに。ひっ、だって。なんだ射命丸。おまえ、ひっ、って。あはは、かわいいね」
 泣きながら笑うにとりも恐怖といえば恐怖だったが、文は震える指先で、テーブルの上を指差した。
「に、にとりさん、あ、アレ……」
 テーブルの上、ちゃちなカメラは原型をなくしていた。二人の、一分にも満たない諍いのあいだに、バラバラに、分解されていたのだ。にとりは恐怖のあまり嘔吐した。エチケット袋の開放も、慣れたものである。文も手洗へと貰いに行った。

 事後の処理を終えたにとりが肘を抱き、何らかの摂理で身震いすると、文も戻った。すなわち、考えをまとめる刻が来たのだ。
「椛にお酒飲ませるのやめよう」
 その一声で、『バラバラ事件対策本部』は解体された。解体と同時に三人の友情にも小さなヒビが入った。二人は椛に飲ませなかった。椛は二人に呑ませてもらえなかった。二人の中で、バラバラ事件は終焉を迎えたが、それは椛にとって新たな事件の始まりとなったわけである。ハイホー。

 さまざまな事件が風化したころ、幻想郷に破滅の危機が訪れた。それは月から飛来した、謎の巨大破壊兵器だった。幻想郷の住人たちは巨大破壊兵器を、『ゴジライラズ』と呼称した。機体の胸に、そう表記されていたためだ。謎の巨大破壊兵器が謎でなくなるまでそう時間はかからなかった。しかし、里の八割が壊滅した現在に至っても、具体的な対策案は存在しなかった。
 村民のやめてよを無視し、ゴジライラズは破壊の限りを尽くす。たったいま、晴天のもと、里が全壊した。家を失くした人間たちは取り急ぎ、設営された簡易住居のテント群へと向かった。
 村民の一人が難民キャンプにたどり着くと、そこでは不思議な光景が繰り広げられていた。家を失い不安に怯える者たちの中心、河童の一匹がなにやら激しく工作をしており、天狗が、何者かにお酌をしている。その何者かはよく見れば犬で、犬は天狗の酌に酔いしれていた。
 言うまでもなく、文にとり椛の、仲良し三人組である。
「う、うう。もう飲めません。天地が逆です。神様みたいな気持ちです」
 椛が宣うが早いか、文が叫ぶ。
「にとりさん!」
 文の声に、にとりは呼応する。
「ああ、いま完成したよ! あとはこれで……」
 にとりはその手に拡声器を構えた。ただの拡声器ではない。それを使えば、幻想郷全域に呼びかけることのできる、それはものすごい拡声器だった。ガワには大きく、INUMISASEZUと描かれている。
『幻想郷のみなさん、聴こえますか。聴こえてるのなら、今すぐ椛を見るのをやめてください。あと、ゴジライラズを見るのも。さすれば、幻想郷に平和が訪れるでしょう』
 初めはキョトンとしていた幻想郷住民たちだったが、みな、聞き分けが良く、にとりが数回繰り返すうちに、全てに目を瞑ってみせた。山の者も、地底の者も、空の者も、みな、目を瞑った。
「よし、あとはわたしが目を瞑れば――」
 それはにとりが、幻想郷の破滅に降伏し、三人で酒を飲んでるときに思いついたことだった。
 それは小難しいことがにとりの頭の内で起こった。にとりにも、それを小難しいことと形容するほかの言葉の持ち合わせがなく、とにかくとして、にとりの頭の中で起こっていたのは、『椛から目を離したとき、機械が綻ぶ』という想像だった。文に説明する際、にとりが放った言葉も、『椛から目を離したとき、機械が綻ぶ』という、脳から直通の言葉だったので、にとりの考えていた小難しいことを小難しいことたらしめるのは、にとりが頭をひねってる最中に覚えた、『わたしはいま、小難しいことを考えている』という実感のみだといえよう。
「――あれ?」
 ゴジライラズは未だ、破壊の限りを尽くしている。にとりの考えは間違いだったのだろうか。にとりは焦って、椛へと視線を向ける。
「天国はきっと、ふきのとうが生えてて、採り放題で、食べ放題なんでしょうね」
 椛はたしかに酔っていた。ではなぜ、ゴジライラズは分解されないのか。にとりは自身の考えに自信が持てなくなった。
 きょろきょろと、責任の転嫁先を探す。すると、にとりの視界に一匹、浅ましい鴉が映った。にとりの〝信じられないものを見るような目〟に、カメラを構えた文はたじろぎ、だってを発音した。
『おい射命丸、スクープなんて狙ってる場合か。恥ずかしくないのか。みんな、家を失くして、不安に怯えてる。それなのに、わたしたちに賭けて、目を瞑ってくれたんだぞ。それをお前は。なんて浅薄な鴉天狗なんだ。お前ほど浅ましい生き物はみたことがないよ。畜生以下だ』
 INUMISASEZUから発せられるにとりの言葉に、文は下を向き、しゅんとした。何事かと瞑っていた目を開けた聴衆も、袂割の事態にいたたまれなくなり、目を逸らす。
 瞬間、遠くから、何か巨大なものが落下する音が轟いた。音は次々と響いて、幻想郷中をどよめかせる。音が連続性を失ったころ、どよめきは歓声に変わった。文とにとりも、ゴジライラズのあった方へと視線を向けた。
 そこには瓦礫の山があった。それは、紛れもなく、破壊された里の家々の残骸に違いない。ただ、今現在、かつての破壊者は見る影もなく、景観の一部を担っていた。
 文とにとりは、歓声の渦中、微かな聞こし召した春の歌に、世界の平和と、友人の悪癖を認めるのだった。


   胡瓜味のチョコ、鈍い白色

 彼女から荷物が届いた。それは小さな小包で、ほどくと、小さなメッセージカードが一枚、小さなチョコが一袋。メッセージカードには、『ハッピーバレンタイン! 雛へ』と綴られていて、それ以外には何も書かれていない。
 昼は暖炉をつけないから、部屋は少し肌寒い。でも、セーターやらを着ていれば、それほど寒くはない。
 換気のために開けていた窓を閉める。部屋の換気は、そもそもは彼女の癖だった。私もそれまでしなかった、ということはないが、彼女ほどこまめにはしていなかった。彼女の部屋は、私にはわからない機械や、機械の道具なんかで、すこし、油っぽいにおいがする。私の部屋は、それほど何があるわけでもないから、窓を開けるのは、暖炉を焚いたときとか、数日に一回、湿気が気になったときだけだった。
 換気をすると、部屋の中に真昼の冬風が吹き込んで、妙に涼しい。冬なのに、寒いではなく涼しいと感じるのは、きっと、私の部屋の静けさも関係している気がする。気がする、というのは、なんだろう。まぁ、ともかくとして、じめじめしているよりは、ずっとマシだった。
 窓の外、冬の空は、やけに白い。青空といえば青空なのに、そう言い切れない白さがある。私は窓辺の椅子に座って、そんな、空の正体のことよりも、彼女からの贈り物について、考えた。
『ハッピーバレンタイン! 雛へ』
 なんだかクリスマスを思い出す。去年のクリスマス、私と彼女は『メリークリスマス』だけのクリスマスで、まあ、当然、恋人同士でもなんでもないから、当然のことなのだけれど。どうにも、余白が多すぎる気がした。
 ほんとうに、他になにも、書かれてはいないものかしら。何度か裏返したりしているうちに、メッセージカードが折りたたみ式であることに気が付いた。
 短く息を吸い込んで、あまり、期待せずに折り目を開く。
 そこには、彼女の友人との交流とか、彼女がその交流の中でチョコを作ることになったとか、そういった、彼女特有の、照れ隠しの言葉が書き連ねられていた。
 彼女はいつもそうだ。クリスマスにしたって、私の誕生日にしたって、そうだった。
 彼女は自身で用意した贈り物の、贈り物にくっついた感情をどうしても隠したいようだ。マフラーだってリボンだって、せっかく自分で選んで、私のために用意してくれたのに、その事実を偶然とか必然とかを持ち出して、なかったことにしてしまう。
 だから、彼女は私に何かを贈るとき、私が喜ぶかどうかとか、私の反応とかじゃなくて、自分はうまく嘘をつけているか、うまく隠せているか、とか、そんなことしか考えていない。いつだって、彼女は透明でありたがる。そこにあるはずのものがないなんて、確かな存在よりずっと不自然なのに。
 袋をほどいて、彼女からのチョコを眺める。この細長いのはきっと胡瓜だ。ならこっちの、ヒトデみたいなのはなんだろう。こっちには、なにかしかくいのが……。
 ……ああ。ヒトデみたいなのは紅葉で、こっちの四角いのはきっと、カメラだ。
 本当に、友達と作ったのかな。彼女なら、自分の気持ちを隠すためなら、このぐらいのこと、やりそうな気がしないでもない。
 ……それにしても、あるはずのもの、とか、気持ちを隠す、とか。私、やっぱりちょっと、自意識過剰かもしれない。
 私はチョコの袋を結んで、彼女に手紙を書くことにした。

『こんにちは、河童さん。最近はまだ、寒いわね。素敵な贈り物をありがとう。よかったら明日、私のお家に来て。お返しを用意して、待ってます』

 彼女のお家は川沿いにあって、私はその日のうちに、彼女のお家の前まで来た。
 まだ、バレンタインまであと一日、時間がある。でも、郵便屋さんに配達を頼んだって、きっと間に合わないから。私はわざわざ、こうやって、歩いて彼女の家まで来た。
 溶け残った雪が川辺で汚れて、とても冷たそうに、川は流れてる。彼女のお家にある縁側の、大きな窓は閉まってて、カーテンも、閉まってる。この向こうに、彼女は今日もいるのかしら。
 そんなことを考えながら、私は郵便受けに手紙を入れて、帰路を辿った。

 それから、夜は少し夜更かしをして、朝が来たって、のんびりと起きた。お返し、なんて用意してない。ただ、彼女のくれたチョコの袋は、そのまま、冷蔵庫にしまってある。
 つまり私は、彼女にいじわるをしようと考えた。
 ――ねぇ河童さん。このメッセージカードも、この紅葉の形も、カメラの形も、みんな嘘なんでしょう? ほんとは、一人で、私のために、準備してくれたんでしょう?
 言いながら、私は胡瓜の形のチョコを食べて、とってもおいしい、とか、言ってやる。そしたら彼女だってもう、言い逃れなんて、出来やしないだろうから。

 でも、鏡をみつめて、何度も、何度も、髪を編んだり、ほどいたりしているうちに、だんだん馬鹿らしくなってきて。
 換気を終えようと窓辺に寄ると、空は相変わらずに冷たくて、白かった。
 ああ、なんてむごい白さなんでしょう。とか、そんなことを考えたまま、ぼんやりと空を眺め続ける。そうしているうちに、空はだんだん暗くなって、紺になって、黒になった。
 そのあいだ、ずっと窓を開けていたせいか、部屋はとても寒くて。暖炉をつけても、布団はなんだか、さらさらしていた。

 ……。
 …………。

「ご、ごめん! 昨日ずっと忙しくって、郵便受け、みてなかったんだ! いや、でもわたし、そもそも郵便受けをあんまりみないから、忙しくなかったとしてもみなかったかも、というか……郵便受けをみたとしても、昨日は忙しすぎていけなかったかも、というか……ああいや! そうじゃない! ……昨日、来られなくて、ほんとに、ほんとにごめんね、雛」
「いいのよ、気にしないで」
「でも……」
「そのかわりね、私も謝らなくちゃいけないことがあるの」
「な、なに……?」
「ごめんね、私。ふふ、ごめんなさい。……用意してたお返し、もう全部食べちゃったの」
「え! ……な、なんだ、そんなこと! 全然、全然気にしないよ」
「それで、おあいこにしてくれる?」
「もちろんするよ! おあいこ、おあいこね!」
 バレンタインデーの翌日、彼女が朝早くに、私のお家を訪ねてきた。飛び起きて扉を開けたら、彼女は本当に焦った様子で、息を切らして、汗までかいて、玄関の前に立っていた。目の下の隈が深いから、あまり眠っていないのかもしれない。
 彼女が必死で、私に謝ってくれてる最中、私の心に浮かんだのは、
「なあんだ」
 というあまりにも慣れ親しんだ感慨で、私は不自然なまでに安心してしまった。私は自分と彼女が、どうにも可笑しく思えて笑いながら、彼女を部屋へあげた。
 朝ごはんを作っている最中、彼女はキッチンの入り口に立って、おずおずと、こんなことを私に尋ねた。
『あの、こないだ送った、チョコなんだけどね。どうだった? おいしかった?』
 私はその問いかけに、はいともいいえとも答えず、ただ、届いてないわ、と発声した。それは見え透いた嘘なのに、彼女は目を白黒させては、恥ずかしそうに腕を組んで、そっぽを向いて、
『やっぱり射命丸に頼むべきじゃなかったんだ。ああ、失敗した』
 なんて呟くものだから、私はまた可笑しくて、つい笑ってしまった。

 もちろん、彼女の作ったチョコレートは、そのときまだ、冷蔵庫にしっかりとしまわれていた。

 後日、食べてみたけれど。
 あんまり、美味しいといえる味ではなかった。なんて。
 私は換気を終えようと、窓辺に近寄る。

 ああ。空は相変わらず、まだ白い。


 おまけ!
     『とにかく明るいメディケーション』

  大体私に言わせれば、鬱だのなんだのは甘え以外の何者でもないわ。そうでしょうスーさん! ほら、スーさんもそう言ってる。だから、永遠亭から薬売りの役を任命されたけれど、私は絶対に抗鬱薬なんて処方したりしない。だって体を動かせばすぐに治る病気じゃない。少なくとも、薬売り先輩はそう言っていたわ。戦場? なら鬱は甘えだって。
 とにかく、今日は私の初勤務なの。ルートも頭に入ってるし、薬を置く家も覚えてるし、どこにどの薬を置けばいいかも分かってる。
 ただ、わたしの巡回ルートに一件、抗鬱薬の処方があるのよね。気に食わないわ。会って、薬に頼ろうなんて考え方を改めさせてやるんだから。運動よ! 運動!

 野良猫軍団を見ると、里に着いたって感じがするわね。そういえば私、薬売りをやるって決める前は、えーりん先生に害獣駆除をやらされそうになってたの。みて、スーさん。あの猫達。あんなにまるっこくて、ふさふさしてて、愛らしい動物、私に殺せるわけがないわ! そうよね、スーさん? ああ、ダメよスーさん。スーさんは猫じゃないんだから、にゃあなんて返事をしたら。え? 関節が球体じゃないからイヤ? うーん、言われてみればそうね。あの、大腿骨が皮膚の下で蠢いてる感じが、なんともグロテスクだわ。
 それはそれとして、初仕事よ! 巡回ルートのお客さん達は風邪だったり、風疹だったり、喘息だったり、不治の病だったりするらしいけど、そんなの、みんな自力で治すべきなのよ! 運動、運動をすべきだわ。……でも、体が動かせなくて運動ができない人もいるのよね。
 だから私、偽薬? をいっぱい持ってきたの。薬なんだけど、薬じゃないんだって。薬売り先輩が言ってた。薬売り先輩はよく仲間? に飲ませてたらしいわ。効果はともかく、みんな幸せな最期を迎えられたって話よ。終わりよければすべてよし、いい言葉よね。私、好きだな。この言葉。よおし、気合い入れて配っちゃうんだから。

 薬売りも簡単ね! 薬の入ったカバンを持ち歩かなければ声をかけられることもないし、ポケットの偽薬を郵便受けに放ればすぐに済んじゃう仕事だわ。
 でも、大変なのはこれからよメディスン。いよいよ鬱病患者の家の前までやってきたわ。家の中が静かだから、多分寝てるみたいだけど、日中から眠るなんてとんでもない! 叩き起こして、すぐに更生させてやるんだから!

「ノックしてもしもーし」

 ……。
 反応がないわ。出掛けてるのかしら。いえ、そんなわけないわ! きっと、自分は鬱病だから、急な来客に対応しなくてもいいって考えてるんだわ。絶対そうよ。ううう、許せない。甘えよ、甘え! 鬱だからって、そんな甘えが許されると思ったら、大間違いよ!

「もしもーし! コンコーン! ノックしてるんですけど! もしもーし!」

 ……あ! 今、家の奥から物音が聞こえたわ。やっぱり居るのね、畳み掛けるなら今だわ! 上り口十六連打よ!

「コンコーン! もしもーし! 居るなら早く出てきたらどうなの! もしもーし!」

「は、はい! 今行きます!」

 うわぁ、聞いた? スーさん。蚊みたいに細くて、弱々しい声。情けないったらないわ。全く。
「どちらさまでしょう……?」

 戸が不健康そうな音を立てて開くと、出てきたのはやっぱり不健康そうな男。というより、蚊みたいに細い、蚊そのものみたいな感じ! 私のちっちゃい手で叩けば、腕とか足とか、折れちゃうんじゃないかしら。ふにゃって。

「私メディスン。メディスン・メランコリー。薬売りです」

「ど、どうも。い、いつもの人と違うみたいだけど」

 それがどうしたのよ! 怯えた目で人を見て、失礼しちゃう。

「薬売り先輩が部屋に引きこもっちゃったから、私が新しく薬売りに任命されたの」

「へ、へぇ。それはそれは。じゃ、じゃあ君が、薬、置いていってくれるのかい」
 
 ダメね。完全に薬に頼り切っちゃってる。そんなんじゃ一生治るわけがないのよ。薬売り先輩が元気なときに言ってたわ。外の美しく素晴らしい空気を吸えてさえいれば、あとはもうなんにもいらない、って。

「そんなわけないでしょ! 甘えないでよね!」

「え、えぇ! そんな!」

「ほら、運動しにいくわよ。早く着替えてきて! 運動よ、運動。健康のためには運動が一番だわ!」

 私が言うと、髭が伸びっぱなしのおじさんは狼狽した様子で部屋に引っ込んでいったわ。きっと、着替えたり、髭を剃ったり、外に出る準備をしているのね。鬱病患者って、思っていたより素直じゃない。感心感心。

 ……。
 …………。

 ねぇスーさん。あのおじさん、思ったよりおしゃれさんなのかもね。え? だって、外出の準備にこんなに時間がかかるなんて、それしか考えられないじゃない。どんなお洋服を着てくるのかしら、楽しみね。スーさん。

 ……。
 …………。
 ………………。

 来ないじゃない!!

全く、私をこんなに待たせるなんていい度胸じゃない、挙げ句、出てくる気がないなんて! ねぇ聞こえる? スーさん。家の奥の方からすすり泣く声が聞こえてくるわ。薬が貰えないのがそこまでショックなのかしら、情けないったらないわね。ほんと。
 こうなったらアレをやるわ。薬売り先輩が部屋に引きこもってアルファとかブラボーとか激しい攻撃とか救援要請とか敵のスナイパーとか衛生兵とか、わけのわからないことを叫び始めたときにやったあれよ。お家の中に毒ガスを発生させるの。
 それにしても、あのときの薬売り先輩の慌てっぷり、面白かったわね。スーさん。外に途端幸せそうに深呼吸して、呼吸が出来るのは特別なことだ、だなんて。ふふふ。今思い出してもおかしいわ。今回もやりたかったけど、えーりん先生がやめてあげて、って言うから、我慢してたのよ。私。
 よおし。
 コンパロ、コンパロー……。

 ……。
 出てこないわね。でも、すすり泣きがやんだわ。泣き止んだってことは、あとひと押しよね。スーさん。
 コンパロ、コンパロー……。

 …………。
 しぶといわね。薬売り先輩はこれをされると生きたくなる、って言ってたのに。全然出てくる気配がないわ。うーん、もう少しだけ、続けてみましょうか。
 コンパロ、コンパロー……。

 …………………。
 死んじゃうわ!
 スーさん、お家の窓を全部開けてきて! 私は玄関から入っておじさんを見つけて引きずり出すから! もう! なんで出てこないのよ!

 上り口を上がって、あっ、靴を脱がないと。靴を脱いで、それから、それから。
「おじさん、おじさんどこー?」
 ああ、もう。なんでこんなに部屋が多いのかしら。おじさんの一人暮らしにしては家も広いし、扉が多くてまだるっこしいったらないわ、まったく! この部屋は、わっ、汚い! なにこれ、絵の具? びりびりの画用紙もたくさんばらまかれてるわ、片付けすらもやらなくなっちゃうのかしら、鬱病って。ああ、そんなことよりおじさんを見つけないと!
「おじさん? おじさーん……あっ、いた!」
「おじさん、ねぇおじさん! おじさん……?」
 おじさん伸びちゃってるじゃない! 

「うぅ、あのまま殺してくれたらよかったのに……」
「殺すなんてとんでもないわ! 私は薬売りなのよ、人殺しじゃなくて」
 お家近くの公園のベンチに座って、おじさんは顔を青白くさせて塞ぎ込んで私を人殺しに仕立て上げようとしてくる。もう、やんなっちゃう。
「でも、毒ガスを使って殺そうとしたじゃないか」
「違うわ! 私はおじさんに出てきてもらおうとしたの。おじさんがやろうとしてたのは自殺よ、自殺!」
「……自殺。自殺か、ははは……」
 なんか笑ってる。こわいわ、スーさん。私なにかおもしろいこと言ったかしら? そうよね、言ってないわよね。
「おじさん笑ってるけど、なにがそんなに面白いの。わたし、ちっともおもしろくないわ」
 だって、わからないことで笑われると、私が笑われてるみたいでつまんないんだもん。
「いやぁお嬢ちゃん。面白いんだよ。言われて気がついたんだ。動かなきゃ死ぬとわかってても動かないのはたしかに自殺だ。おじさんは絵を描く仕事をしてるんだけどね、仕事の絵、全部ダメにしちゃったんだ。今は貯金で食いつないでるけど、働かなきゃ貯金もいずれ尽きるだろう? でも、働けない、働かないんだ、おじさんは。ロープでも剃刀でも死ねなかったおじさんだけどさ、ただ動かないって自殺なら出来るんだ、って思うと、自分の臆病さが面白くてさあ……はは、はははは」
 なんか長いこと喋ってたけど全然頭に入らなかったわ。声が小さいのよ、声が。
「おじさん、なんで絵をダメにしちゃったの」
「なんでって、そりゃあ……」
「鬱になったから? なんで鬱になったの」
「……なんで、か」
 おじさんはため息を吐いて遠い目をしてる。きっと、昔のことを思い出してるのね。ほら、おもむろに口を開こうとしてる! なんだか長くなりそうね、スーさん。でも、これはちゃんと聞いておかなきゃ。根本の原因を叩き潰せば鬱だってなんだって治っちゃうに違いないわ。

「……おじさんはね」

 声が小さい!


「おじさんには友達がいてね。そいつは易者をしていてね。易者と聞くと胡散臭い感じがするかもしれないが、そいつはすごくいいヤツだったんだ」
 おじさんの話が始まったわ! 第一声から長くなりそうな気配がむんむんで、気が滅入っちゃう。声小さいし。止めちゃおうかな。うん、そうしてみよ。
「読めたわ! 喧嘩したんでしょう、その友達と! そんなんで鬱だなんだって、舐めてるわよ。むしろ、おじさん鬱を舐めてるわ!」
「ははは……。それでね、そいつは小さい頃から頭も良くて、なんでも出来るやつだったんだよ」
 おじさんは短く笑って話を続ける。不快だわ! このおじさん、完全に私のことを無視してくれて! ねぇ、スーさん。え? スーさんこのおじさんの話聞きたいの? もう。スーさんは意外と好きよね、こういうの。
「その頃おじさんは、所謂弱視でねぇ。寺子屋に通っていたけど、周りの子みたいに駆け回ったりは出来なかった。悔しかったよ、なんで自分だけって。あぁ、思えばその頃から後ろ向きだったんだな、おじさんは」
 スーさん、弱視って知ってる? へぇ、目が悪いってこと? なるほどね。単に目が悪いって言えばいいのに、弱視だなんて病気みたいな言い方して、このおじさんはどうしても自分を病人にしたくて仕方ないみたいね! きゃっ、スーさんってば、なにするのよぅ。わ、わかったわ。ちょっと静かに聞くから、怒らないでったら。
「だからおじさん、教室の端でいっつも塞ぎ込んでたんだ。でもそんなとき、あいつが声をかけてくれた。あいつは成績も良くて、他の子ともよく遊んでたから、おじさん。正直あんまり好きじゃなかったんだけど、でもやっぱり、嬉しかったな」
 遠い目しちゃって。このおじさん、声が小さいわりに案外お話し好きね。静かにしてなきゃ聞き逃しちゃいそうで、逆にそわそわしてくるのよ。
「それから、おじさんとあいつは友達になったんだ。二人でよく遊んだよ。遊んだとはいっても、周りの子達みたいには出来なかったけど、本を読んだり、その感想を言い合ったり、虫を捕まえて観察したりしてさ。あぁ、楽しかったな。その頃かな、おじさんが絵を描き始めたのは。もともと部屋に引きこもってばっかりいたから、絵を描くのは好きだったんだけどね。目が弱かったからさ、あんまり本気になれなかったんだ。自分の目で見たものをそのまま描けたとしても、あんまり上手には見えないんじゃないか、って。でも、あいつが言ってくれたんだ。……あれ? なんて言ってくれたんだっけな。ははは……」
 あんな大切なことすら思い出せないなんて、とかなんとか謳いながら、おじさんは瞳に涙を浮かべている。正直、隣に座ってる私より数倍生きてる大人のおじさんに泣かれると、なんだかいたたまれない気持ちになるわ。こういうときはどうすればいいのよ! 私みたいな子供をこんな、得も言われぬ気持ちにさせるなんて! わ、わかってるわよ、最後まで聞くってば。
「あぁ、ごめんよ。それでね、おじさんは絵を描いた。そしてあいつは占術を勉強し始めたんだ。随分熱心にやっていたから、おじさんはそのときにはもう、ああこいつは将来易者をやるんだろうな、と思っていたよ。まぁ、実際そうなったんだけどね。あいつが本格的に易者を始めるってころに、おじさん一度聞いたことがあるんだ。お前はなんでも出来るのに、なんで易者なんて胡散臭がられるものを選ぶんだ、って。日陰者だったおじさんと友達になってくれるほどのやつだったから、予想はついてたんだけれど。あいつの返答は真っ直ぐだった。明日は喰われて死ぬともわからないこの世界で、みんなを安心させてやりたい、だなんて言ってね。わかっちゃいたけど、あのときは感動させられてしまったな、実際」
 声を震わせたままおじさんは続ける。私はなんだか、関節が固まっちゃって動けない。声を出すのもはばかられるってこんな感じよね。いつか薬売り先輩が静かに渡してくれた紙に書かれていたことが、今ならわかる気がするわ。音を出したら死ぬ、って。
「それからあいつはどんどん実力を付けていった。おじさんもそんなあいつを見てたらなんだかやる気がでてね。頑張っていたら、いろんな仕事が来るようになった。稗田の九代目に直接頼まれて、挿絵を書いたこともあるんだ。そんなとき、あいつに新しい友だちができたんだ。その場にはおじさんも居た。あいつと二人で、酒屋で呑んでいたときさ。そいつはよく呑むやつだった。あんまりにばかばか瓶を空けるものだから、あいつ気になって、声をかけたんだな。おじさんはやめておけって言ったんだけど、好奇心の強いやつだったからね、止められなかった。あいつとそいつが話してるとわかったことだったんだけどね、その、そいつは。よく呑むそいつは妖怪だったんだよ。おじさんはね、やっぱりか、って思ったよ。悪い予感がしてたんだ、その日は草履の鼻緒が切れてね……。そもそも、一時間もしないうちに十も瓶を空けるなんて、人間とは思えないだろう? ははは……」
 スーさん、私わかったわ。いいえ、今度は絶対よ! 止めないで、私もうこの雰囲気がいやなの!
「読めたわ! その易者の人、死んじゃったのね。ずばりその妖怪に殺されて!」
「ははは……。そうとも言えるかもしれないね。……でも、その妖怪はすごくいいヤツだったんだ。おじさん、最初は怖かったんだけれど、何度か呑んでるうちに、気付けばすっかり友達だったよ」
 うう、なんだか意味深にしれっと流されたわ。ごめんね、スーさん。うん、もう口挟んだりしない。諦める。あぁ、おじさんの声がまた震え始めたわ。おじさんが目を潤ませて声を震わせると、私の関節が固まっちゃうの。なんでかな。
「それからだった。あいつが妖怪に興味を持ち始めたのは。その妖怪は蟒蛇って名前でね。蟒蛇はどうやら外の世界から来た妖怪らしいんだ。外の世界って知ってるかな? 知らないだろうね、ああごめん、どうか忘れてくれ。ともかくとして、あいつは妖怪に興味をもった。なりたい、とまで言っていた。もちろん冗談めかして言っていたんだけれども、おじさんはどうも、こいつは本気なんじゃないかと思ってしまった。でも、おじさんの想像は杞憂でね、それからずっと平和な日々が続いたよ。日中仕事をして、夜になれば三人で呑んだ。楽しかったよ、青春だった」
 スーさんはすっかりおじさんの話に聞き入ってる。前から思うことはあったけど、スーさんってちょっとおじさん臭いところがあるのよね。普段はあんまり気にならないんだけど、いざ直視してみると、なんか寂しい。
「そんな折、蟒蛇が死んだ。理由はわからないけど、あいつは巫女の仕業だと言って聞かなかったな。まぁ、巫女からすれば妖怪退治が本分で、糾弾される筋合いなんてないんだけれど、どうも、おじさん達は憎くてたまらなかった。だって、友達を殺されたんだ。あんなに、いいヤツだったのに。まあ、最悪なのはそのあとだ。あいつ、おじさんを残して死んだんだよ。自殺だった。……ああ! こんな話を君みたいな小さい子に話して、僕はどういうつもりなんだ! ごめんよ、つまらない話をして。忘れてほしい、全部忘れてくれ! それから、聞いてもらうだけ聞いてもらっておいてなんだけれど、まぁ、悪いついでだ。どうかおじさんのことはもう放っておいてくれないか? 抗鬱剤も、もういらない。先生にもそう言っておいてほしい。だから、おじさんのことはもう、放っておいてくれ!」
「あっ、おじさん!」
 話終わるが早いか走って逃げていくなんて! なにか凄まじい敗北感を感じるわ! こんな気持ちのまま、放っておけるわけないじゃない! 一方的に泣かれる恐怖を味わわせておいて、ただで済むと思ったら大間違いなんだから!
「待ちなさい! 悪いとかなんとか言ってるけど、私許すつもりないんだから! 話すだけ話して逃げるなんて一方的よ、暴力よ!」

 ……。

「待ちなさい! 待って、待ちなさいったら!」

 …………。

「待って! こら、待てって言ってるじゃない! 待ちなさいよー!」

 ………………。
 めちゃくちゃ足速いじゃない!

「いやぁ、ははは。あぁ、疲れた。久しぶりだよ、こんなに体を動かしたのは。……でも、お嬢ちゃんがはじめに言った通りだね。健康のためには運動だ、ってさ。おじさん、はじめはお嬢ちゃんがあんまり怖い顔で追いかけてくるから、逃げるのに必死だったんだけどもね。途中からなんだか気分が良くなってきたんだ。重たいものがどんどん落ちていく感じでさ」

 ねぇスーさん。夕陽ってどうしてこうも綺麗なのかしら。こんな鬱病のおじさんと隣り合って眺めてるのに、焼ける川面の綺麗さときたら。こんな、鬱病のおじさんと一緒なのに綺麗なんだもん。きっと夕陽には、ほんとうになにかがあるのかも。

「ふふん。だから言ったじゃない。運動よ、運動。健康のためには運動がいちばんなのよ!」

「ああ、ほんとうだね。お嬢ちゃんのおかげで、今ならなんでもできそうだよ! ありがとうね、お嬢ちゃん」

「どうってことないわ! 私は薬売りだもん。病気を治すなんて、わけないのよ!」

 ふふ、おじさんったらもうすっかり元気ね。えーりん先生は私が薬売りをやるのはまだ早い、なんて心配してたけど、全然。もう立派に薬売りね。だっておじさん、こんなに元気そうだもの。もう完全に治っちゃったわね、鬱なんて!

「うん、ほんとうだね。ほんとうにお嬢ちゃんのおかげだよ、もうすっかり元気さ。そうだ! お礼にお嬢ちゃんに絵を描いてあげよう。お嬢ちゃんの絵だよ。もうしばらく描けていなかったけれど、今なら良く描けそうだ」

「ほんと! 私の絵って、私を描いてくれるの! えへへ、別に、そこまでしてくれなくてもいいんだけど。まぁ、おじさんがどうしても描きたいっていうなら、仕方ないわね。えへへ」

 な、なによスーさん。そりゃ、嬉しいに決まってるじゃない。だって私の絵よ? 自分を描いてもらうのなんて初めてなんだもん。えーりん先生には、お客さんからあんまり物とか貰っちゃダメ、って言われてるけど、これは仕方ないわよ。おじさんが描きたいって言うんだもの。

「ああ! そうと決まれば早速帰って描かなきゃね! や、ほんとうにありがとうお嬢ちゃん。全部君のおかげだよ、それじゃあ!」

 あーおじさんったら、笑いながら走って行っちゃったわ。ふふ、なんだか子供みたい。
 じゃあ、私達も帰りましょうか。ちょっと遅くなっちゃったけど、ひとりの人間の病気を治したんだもん。えーりん先生だって、褒めてくれるに違いないわ。
 ああほんと、夕陽って、どうしてこんなに綺麗なのかしらね。

 

 永遠亭に着いて、うさぎさん達に挨拶しながら廊下を抜けると、すぐに医務室の扉が見えてくる。
 ああどうしよう。きっと先生に褒められちゃうのよ。それはもう、たくさん! なんだかワクワクしちゃう。

「先生ただいま! ねぇ聞いてよ先生! 私、今日がはじめてのお仕事だったのに、おじさんの病気治しちゃったの!」
「うん、本当! おじさんったら別れ際、もうすっごく元気でね。うん、うん。私の絵を描いてくれるんだって、うん。約束したんだから! おじさん、ずっと絵を描けなかったって言ってたのに、私と話したあと、今なら良く描けそうだ、って、なんでもできそうだ、って言ってたわ! ね? 言ったでしょ、先生。私だって、もう立派にお仕事できるんだから!」

 ……。
 …………。

 私がそう言うと、先生は血相変えて出て行っちゃった。きっとおじさんのところに向かったんだろうけど、どうしてかな。私、なにか間違えちゃったのかな。でも、もしそうなら、なにか言ってから行ってほしかったな。あんなふうに血相変えて、急を要するー、みたいな感じで出ていかれたら、私だってすこし、不安になっちゃうもん。

 追いかけようと思って急いで廊下を走ったら、玄関で靴紐を結んでる先生がいた。ねえスーさん、なんて声かければいいのかな。

「先生、あの……」

 私が言い淀んでいると、振り返って私を見やる先生も言葉を詰まらせた。言葉が詰まるってことは、言いたいことがたくさんあるってことよね。

「……優曇華の様子を見ていてちょうだい」

 でも、先生はそれだけ行って、急いで出て行っちゃった。
 それしか言わなかったのは、急いでいたからなのかな。それとも、私が子供だから? さっきまであんなに、褒められるんじゃないかって、楽しみだったのに。なんだかちょっと落ち込んじゃう。
 うん。薬売り先輩のとこ、行かなきゃね。


 薬売り先輩の部屋に入ると、先輩はむしろ慰めてくれたの。自分のほうがよっぽど大変なのに、私を気遣ってくれるなんて。先輩のそういう優しいところ、好きだな、私。
 おじさんのことを話したら、先輩はちょっと悲しそうに微笑んで、病気について少しだけ教えてくれた。
 急に元気になったときが、一番危ないんだって。
 頭の中で、おじさんが楽しそうに私の絵を描いてるところを想像しようとしてみたけど、不思議と、浮かぶのは出会ったときとおんなじ、暗いおじさんの姿だった。
 なんでかしらね、不思議よね。スーさん。

 だって、さっきまで、あんなに元気だったじゃない!.

「まぁ、気にすることないわ。師匠も別に、あなたのことを怒ってるわけじゃないよ」

 薬売り先輩の部屋はなんだか薬っぽい臭いがして、羽毛の布団が床とかベッドとかでぐちゃぐちゃになってる。布団も、汚れてはいないんだけど、なんだかやけにつるつるしてるというか、さらさらしてるというか。
 薬売り先輩は鬱ではない、別の病気だって聞いた。だから普段の、お調子者で、元気な先輩はときどき何処かへ隠れちゃうことがあって。その、隠れる先がこの部屋なんだけど。先輩がこの部屋に入るとみんな先輩に対して露骨に優しくなるから、隠れるっていうのはちょっと違うのかも。
 隣り合ってベッドに腰を掛けてる先輩は、かるく膝を抱えて、なにか上の方を向いている。上の方を向いているのに、どこかうつむいているように見えるのは、先輩の病気のせいなのかな。
 いつもならこういうこと、聞いちゃいけないような気がして、あんまり聞けないんだけど。でも、今日はいいかな。落ち込んでるし、布団はさらさらしてて、ベッドはふわふわしてるから。

「ねえせんぱい。病気ってさ、病気って。……どうして、病気にかかっちゃうの?」

「どうして、って。うーん、どうしてかぁ。いろいろ、あるんだけどね。でもきっと、あなたには、メディスンにはまだわからないと思うなぁ」

「まだって? どうしてまだなの! 私が子供だからって!」

 私、すこし大きな声出しちゃったのに、薬売り先輩はあんまり気に留めない様子で小さい鉄のプレート何枚かを握り込んで、かちゃかちゃやってる。次の言葉を考えてくれてるんだろうけど、なんだかそっぽ向かれてるみたいで、ちょっと嫌。

「うーん、そうだなあ。じゃあ、春。春ってあるでしょう? メディスンは、春ってなんだと思う?」

 う。でた、意味深な質問。どうして大人ってこういう話し方するのかなあ!

「春って、春でしょ? 桜の季節。春は春よ」

「そうね。でも、実は泉かもしれないし、バネかもしれないわよ。じゃあ次ね。次は秋、秋はなんだと思う?」

 ま、まだ続く! もう、どうしてみんな、こんな回りくどい言い方するの! 言いたいことがあったらそのまま言ってくれればいいのに! わ、わかってるわよスーさん。ここで怒っちゃったら、余計子供っぽいわよね。でも、秋ってなに? 秋は秋じゃないの?

「あ、秋は、えっと、その。……落ち葉?」

「惜しいね。まぁ、惜しいも何もないんだけど。秋はね、落下かもしれないのよ」

 い、いみわかんない。先輩の病気って、こういう意味わかんないこと言っちゃうようになる病気なのかな。それとも、やっぱり子供だからって、からかわれてるの? なんにせよ、ちょっとかなしい。

「何が何だかわかんない、って顔をしてるね。つまりそういうことなのよ。治療は塩漬けかもしれないし、川岸は銀行かもしれない。今はまだわからないかもしれないけど、いずれ世界は大きな地雷になって、決まりごとも支配に変わるわ。自由だって無しになって、解決策は異物の混ざった水になる。興味はツケになって膨らんでいくし、涙は裂けるわ衣類は擦り切れるわでもう大変なの。だって嫌でしょ? 革命が実は公転で、一周りして戻ることを指す、なんて言われたら」

 こ、こわい!

「な、なんなの! 私のわかんないことばっかり言って、からかってるんでしょ! いくらなんでもひどいわ、私、先輩がそんなひとだって思わなかった!」

「ごめんね」

「え、え? なに、なんなのよぅ……」

 こんな、急に抱きしめるなんて、スーさん、私こわいわ。ちょっとだけ、ギュってしていい? う、うんごめんね。苦しかったら言ってね。

「つまりね。大人になっていくにつれて、そういう受け入れ難いことがいっぱい出てくるの。受け入れたくなくてもさ、受け入れなきゃいけないぐらい、時間っていうのは残酷に皺を刻んでいくの。でもだからって、焦って背伸びをしたり、一口に飲み込もうとしたりするとね、病気になっちゃうのよ」

 あ、ああ。私の質問に答えてくれてるのね。答えになってるような、よくわからないような。とりあえず真剣に話してくれてるのはわかるんだけど、でも、抱きしめる必要はあるの! こんな、頭を撫でる必要はあるの!

「く、薬売り先輩は、な、なんの病気なの……?」

「わたし? わたしは病気じゃないよ。ただちょっと、甘えてるだけ」

 先輩は私の肩に手を置いて、ふと笑う。照れてるんだか、悲しんでるんだかわかりにくい笑顔。
 ねぇスーさん。私思ったんだけど、先輩って普段結構お調子者よね。このすこし、いや、すっごくキザな振る舞いはもしかすると、病気とかじゃなくて、先輩の素なのかも。
 あっ、無理だわ。納得しようとしたけど、やっぱり無理!

「だからさメディスン。そんなに焦らなくたっていいのよ。あなたに対する大人地の振る舞いが気に入らないなら気に入らないままでいいし、許せないものは許せないままでもいいの」

「な、なんのはなしですか」

 ああ、思わず敬語になっちゃったじゃない! な、なにが言いたいのかさっぱりだわ!

「気にしてるみたいだったから」

「え」

「子供、って」

「あ、あー……」

「気にすることないし、焦ることだってな――」

 そのとき、部屋にノックの音が響いた。コンコン、って、二回。そしたら先輩はすごい速さで私を背中の方へ隠して、ドアの方へ指で銃をつくって構えたの。

「――誰!」

「私よ優曇華。ちゃんと貴女に言われたとおりにノックしてるのに、いい加減慣れて欲しいわね」

「あっ、師匠。これは、どうもとんだ失礼を……」

「今日の分の薬は飲んだ?」

「いえ、まだ。……でも、もう薬はいいかなって。だいぶ楽になりましたし、明日からでも働けます」

「こら。焦ることないって、いつも言ってるじゃない。少しずつでいいの。少しずつ、減らしていけばいいのよ」

「だ、だけど」

「だけどじゃないわ。仕事なら大丈夫よ。頼りになる薬売りさんもいることだしね。ほらメディスン、ちょっと来なさい。話があるの」

「は、はい」

「じゃあ優曇華、ちゃんと薬飲みなさいね。しばらくは私が薬の量を決めるけど、そのうち減らしても大丈夫か聞くから、それまではちゃんと飲むこと。わかった?」

「は、はい……」

「焦らなくていいの。少しずつ、少しずつね。さ、メディスン。行きましょうか」

「は、はい!」

 やっと先輩の部屋から解放されたわ。こ、こわかったわね。なんか、いろいろと。
 でも、薬売り先輩の台詞。あれってもしかして、先輩がいつも先生に言われてることなのかも。先輩ってば今まさに、似たようなことを言われてたわ。
 ふふ。そう思うとなんだか可笑しい。やっぱり、先輩はお調子者の先輩ね。
 あれ、でも。先生の言ってた「頼りになる薬売りさん」って、誰のことかしらね、スーさん。え、私! 嘘よ、だって、私今日おじさんのことで……あ! わかっちゃった、私。
 頼りになる、って、あれね。そうに違いないわ。
 それってきっと、大人が使う皮肉ってやつだわ!
 ああどうしようスーさん。やっぱりおじさんになにかあったんだわ。そして、私はこれから叱られるのね。おじさんの容態次第では、それだけじゃ済まないかも……。
 おじさん、大丈夫なのかな。死んじゃったり、してないわよね。ああ、先生のお話、聞きたくないよぅ。

 あーもう! 先輩の部屋を出たっていうのに、結局こわいまんまじゃない!



「まずね、メディスン。私、あなたに謝らなきゃね。事情も伝えずに出ていっちゃって、不安だったでしょう。冷たくしてごめんなさいね」
 
 うぅ、怒られると思ってたのに、謝られるなんて。なんか、ほっとするような、調子狂っちゃうような、変な感じ。それよりおじさんよ! おじさんがどうだったか、聞かなくちゃ!

「ううん。私薬売り先輩から聞いたわ。元気になったときがいちばん危ないんだ、って。私の方こそごめんなさい、先生。それより、おじさんは! おじさんは大丈夫だったの!」

「そうね、結論から言うと……」

 ああ! ドキドキする! おじさん、大丈夫よね。死んじゃったり、してないわよね。スーさん、私こわいわ。薬売り先輩に抱きしめられたときよりずっと、ううん。いままで生きてきて、今がいちばんこわい!

「……生きてたわ。あなたの言った通り、絵を描いてた」

「ほんと!」

 よかった!

「ほんとよ。……首に縄はかかってたけどね」

 う、うわぁ! 私が悪いわ、私が悪いのよ。運動だなんて、おじさんに無理させたから!

「う、うぅ……。ごめんなさい、ほんとうにごめんなさい。私、馬鹿だった。あぁ、でも、生きててよかった。いやでも、私のせいで」

「やめなさいメディスン。起きてしまったことは仕方ないわ。……それにね。私が焦って出ていったのは、おじさんよりも、あなたのことが心配だったからなのよ」

「……わたしのこと?」

 あぁ、スーさん。私、もうわけわかんない。安心したのと、後悔と、先生が妙に優しいので、もうぐちゃちゃになっちゃいそう! ……そうね、そうよね。まずは落ち着いて、先生の話を聞きましょう。でも、いいのかな。私はおじさんのこと、殺しちゃうところだったのに、こんなふうに優しくされて。あぁもう! 私、わかんないよ、スーさん!

「メディスン。大丈夫よ、大丈夫。おじさんは生きてたの、だから、私の前でそんな百面相みたいに表情を変えないの。もう。私はね、あなたがそんなふうになっちゃうのが心配だったのよ。あなたがおじさんや、……優曇華みたいに、落ち込んじゃうのが心配だったの」

「でも、でもわたし……」

「ねぇメディスン」

 先生が、いっとう優しい声で私に語りかける。先生の言葉の先を聞いちゃったら、私はきっと、絆されて、おじさんに対して悪いなって思ってる気持ちが消えちゃう気がする。でも、だからって先生の言葉が聞きたくないわけじゃない。でも、でも、ほんとにそれで、いいのかな。

「メディスン。私がいないあいだに、優曇華と話してどうだったかしら?」

「どうだったって、言われても」

「早く治さなきゃ、って思った?」

「……ううん。急に抱きしめられたのは驚いたけど、今にして思えば、けっこういつもどおりの先輩だった気がする」

「そうでしょう? 意外と普通なのよ、病気の人だって」

 そう、なのかな。

「じゃあ、おじさんも元からあんなふうなの」

「どうかしらね。病気のせいで少し過剰になってる部分があるかもしれないけど、でも、人ってそう簡単に変わらないわ。あのおじさんもきっと、元からあれこれ心配しちゃう性質だったんじゃないかしら。もちろん、きっと、だけどね」

「……先輩は、なんの病気なの」

「秘密。患者の事情はあんまり他の人に話しちゃいけないの」

 うぅ、そっか。聞かなきゃよかったかも。なんか、恥ずかしい。え。なに? スーさん。うん、うん……。わかった。

「じゃあアレだけ教えて。先輩のもってた鉄のプレート、あれがなにか、スーさんが知りたがってるの」

「私も詳しくは聞いてないけれど、あれはね。昔の仲間から預かってるのあの子、隊長さんだったみたい」

 ……よくわかんない。スーさんはわかる? うん、そうだよね。わかんないよね。でも、わたしも気になることができちゃった。聞いていいと思う? そっか。スーさんがそういうなら、聞いてみる。

「……返さなくていいの?」

「私もむかし、聞いてみたんだけど。そうね……。いいわ、特別に教えてあげる。あの子ね、もう少し……もう少しだけ、甘えていたいそうよ」

 先輩、自分でもそんなこと、言ってたけど……でも! じゃあそれはいつまで続くの? 先輩にしたって、……おじさんにしたって、いつか、どこかで元気になろう、甘えたりなんてもうしない! って決めなくちゃ、いつになれば、病気が治るのよ! スーさんは黙ってて、どうせ、スーさんだってわかんないくせに!

「ねえ、先生! じゃあそれって、いつまで続くの? 先輩やおじさんは、いつまで甘えてたらいいの? 甘えてるっていったって、あんなにつらそうじゃない! だったらきっぱり、その、なんというか、あきらめる、というか。そう、大人に! 大人になるとか、しないといけないんじゃないの!」

 なんだか言ってる最中に泣けてきちゃって、先生はわたしを抱きしめた。恥ずかしいけど、やっぱりうれしくて、どうしようもなくって、いやになっちゃいそうだった。

「少しずつ、少しづつでいいの。メディスン、焦ることなんてないのよ。ほら、スーさんもそんなに握りしめられたら、かわいそうよ。あらら、ほつれちゃってる」

「あっ……」

 そう言って、先生はわたしの手からスーさんを取り上げようとした。だから、つい子供みたいに、待って、って、言わずもがなの声なんかを出しちゃって、それで……。ああ、違う! スーさんが、スーさんが怪我をしちゃった! わたしの、わたしが、乱暴に握りしめたりなんて、しちゃったから……。

「……ごめんなさい、メディスン。でも、違うのよ。私、あなたからスーさんを取り上げたりなんかしない。ただちょっと、治してあげようとしただけなの。……どうかしら、明日まで預けてくれれば、スーさん、きっと、きちんと元通りになってくれると思うわ」

 先生はわたしの髪を撫でながら、優しく喋ってくれる。でも、それはわたしが泣いちゃったからで、きっと、気を使ってくれていて……。

「あの、その……」

「いいのよ、ゆっくりで」

 先生はどこまでも、気をつかって、優しくしてくれる。……ねえ、スーさん。わたし、どうしたらいいかな。ごめんね、わたしのせいで答えられないのに、こんなこと聞いたりして。でも、だけどね、わたしわかんなくなっちゃった。違うの、スーさんのことは、必ず先生に治してもらうわ。必ずよ。だけど、その。……わたし、これからもスーさんと一緒にいて、いいのかなって。わたしがスーさんをそんなふうにしちゃうのは、その……ごめんね、そんなふうにしちゃうのは、やっぱり、その、いつものことなんだけど。違うわ、本当に悪いと思ってるの。本当に、本当にごめんなさい。……でも、今日、おじさんや、先輩にいろいろなことがあって、わかんないけど、わたしはスーさんといちゃダメな気がして……。ああ、いやよ。そんなのいや。だって、無理だもん。スーさんと一緒にいられないなんて、いまちょっと考えただけで寂しくて、かなしくなって、余計に泣けてきちゃったもん。スーさん、スーさんわたし、どうしたらいいのかな? もう、なんにもわかんなくなっちゃうよ……。

「……いいわ。メディスン。スーさんは明日まで私が預かる。メディスンは朝、必ずスーさんを迎えに来てちょうだい。これはただのお願いじゃなくて、ちょっとだけ仕事。お仕事としてお願いしたいの。……いい? お願いできないかしら」

「……でも、薬売りのお仕事は?」

「あれは、そうね。ちょっとだけ、お仕事の量を減らすわ。私がお願いした仕事なのに、減らすだなんて言って、ごめんなさいね。ただその代わり、あのおじさん。あのおじさんのことは、ぜんぶメディスンに任せちゃうから。もちろんメディスンのわからない、お薬のこととか、不安なことは、私がちゃんと用意するから。……ね? それでどう?」

「……うん、そうする……」

 それから、先生はわたしの手からスーさんを優しくほどいて、代わりのお人形をくれた。明日まではこのお人形さんといればいいから、なんて言われたけど、初めて会うお人形さんとどうお話すればいいかなんて、わたしは知らない。だから、ごめんね。スーさん。わたし、もう絶対乱暴にしたりなんてしないから。そんなこと言うくせに、いっつも傷つけちゃうから、そんな資格、ないかもしれないけど……だけど、だけどもうちょっとだけ……。そう、もうちょっとだけ、一緒にいてね。ごめんね、スーさん。……いつもありがとう。

 ……。
 …………。

 それから、初めて会うお人形さんとすこしお話をしていたら眠っちゃって、すぐに朝がきちゃってた。先生に言われたとおりにスーさんをお迎えに行って、それから、おじさんの家に薬を届けに行った。なんだか、きれいな朝だった。きらきらしてて、空気が澄んでて、でも、ちょっとだけ曇ってて……。でも、不思議なくらいきれいな朝だったの。

 家に着いたらおじさんはいつもの調子で、すごく落ち込んだ様子でわたしに謝ってくれた。心配かけただろう? なんて言われたけど、わたしは思わず、なんのこと? って、知らないふりをして、おじさんに嘘ついちゃった。でも、そしたらおじさんはまた申し訳無さそうに笑って……えっと、もっとぴったりな言葉なら、そう。おじさんは、はにかんだの。はにかんで、描きかけのわたしの絵をみせてくれた。おじさんは描きかけだなんて言うけど、ひまわり畑のなかにいたのは間違いなくわたしで、わたしは楽しそうに、だけどちょっとだけ……なんて、言うんだろう。わかんないけど、笑ってた。とにかくその絵があんまりによく描けてるものだから、わたしはご褒美におじさんに薬をあげたわ。おじさん、あんまり嬉しそうじゃなかったけど、でもちょっとだけ、安心したみたいだった。
 完成したわたしの絵は、いまではわたしの部屋にきちんとした額縁で飾られてる。だって、あんまりに嬉しかったから、持ち帰ったときに、先生にお願いしちゃったの。自分の絵を飾るなんて、自意識過剰? っぽいかな、なんて悩んだけど、でもお願いしちゃった。だって、ほんとに、あんまりに嬉しかったんだもん!
 でも、おじさんはまだ治ったわけじゃないみたいで、だから、わたしもまだおじさんのところに通ってあげてる。先輩の持ってたプレートのことを思い出して、おじさんの死んじゃったお友達にお墓はあるの? って聞いたら、ふたりともないんだって。だから、わたしはおじさんにふたりのお墓を作ってあげることを勧めたの。おじさんはでもとかだけどとか、またしょうもない言い訳を始めるからイライラしちゃった。おじさんはお金と、遺留品? がないことを不安がってたみたいなんだけど、わたし、言ってやったわ。そんなのどっちも絵で解決したらいいじゃない、って! そしたら今度は、おじさんてば、本当に嬉しそうに笑ってくれたの。

「うん、おじさんそうするよ。頑張って絵を描いて、そしたら……そう。いずれ、あいつらのことだって、描いてやろうと思うんだ」

 なんて言って。ふふ、あのときのおじさんの笑顔ったらないわ。普段笑わない人の笑顔って、あんなに可笑しいものなのね。え? ……ああ、うん。それでね。先生にそのことを話したら、褒められちゃったんだから。褒めてくれる前に一瞬だけ、考え込むような顔をしてたけど、あれってやっぱり、気を使って褒めてくれたのかなあ。どう思う? スーさん。ふふ、そうね。まったく、大人って大変ね。
 それにしても、本当に久しぶりね。スーさん。ほんとは、迎えに行ったあの日に会いたかったんだけど、でもなんだか、やっぱりダメな気がしちゃって。ううん、今はもういいの。わたしね、気付いたの。なんとなく、スーさんと一緒にいちゃいけない気がしてたんだけど、そもそもスーさんはわたしのお人形だもの。わたしのお人形とわたしが一緒にいちゃいけない理由なんてどこにもないわ。そうでしょ? うん、スーさんもそう思うわよね、やっぱり。なんだか悩んでたのが馬鹿みたい。だって、わたしがわたしのお人形といて、悪いことなんてひとつもないもの! だから、たまにはどうしても乱暴にしちゃうかもしれないけど、わたしのお人形さんだもん。いいわよね? スーさん? ……なんて、いいわけないわよ。……絶対とはいえないけど、できるだけ、乱暴にしたりなんかしないようにするから。だから、だからもうちょっとだけなんて言わずに、ずっと一緒にいてね? ……うん、ありがと。
 え、どうしたのスーさん? ああ、先輩のことかしら? 先輩もね、よくなってるわ。先生には内緒だけど、わたし、よく先輩のお部屋に行ってるの。先輩ね、今度ひさしぶりに、お友達と遊んでくるって。照れくさそうに言ってたわ。今まで随分ドタキャン? しちゃったから、さすがにそろそろ行かないと。なんて、はにかみながら。

 さて、そろそろ行きましょうか。なにって、決まってるでしょ。おじさんのところよ。わたしとスーさんは薬売りなんだから、処方しに行かなきゃ。おじさんのところへ、抗鬱薬をね。さ、行きましょスーさん! 鬱病患者がわたしたちを待ってるの! 今はおじさんだけだけど、おじさんが寛解した暁には、先生、もっと患者を任せてくれるって! そうよ、わたしたち、里の鬱病患者を一掃するくらいの薬売りになるのよ! いいえ、ならなくちゃ! ……え? あ、ああ、そうね、鬱病患者じゃなくて、鬱病だけを一掃しないとね。わ、わかってるわよ! スーさんに言われなくたって!

 ほ、ほら行くわよ! メディスン・メランコリーとスーさんのとにかく明るいメディケーションは、まだ始まったばかりなんだから!



   『とにかく明るいメディケーション 完』
最後までお読みいただきありがとうございました。最後の話はあんまりにも恥ずかしいので完結してるものはどこにも載せる予定はなかったのですが、ここまで読んでくれた方へのお礼と嫌がらせに載せることにしました。
こだい
コメント



1.奇声を発する程度の能力削除
とても読みごたえがあって面白く良かったです
2.名前が無い程度の能力削除
もう見れないかと思ってたんで、また見れて良かった
繋がりがあるって事は、鈴仙が来なかったのはptsdのせいだったのかな