A Treasured Word for the Angel
茶碗をいくつも乗せたお盆を両手で持ちながら天子は廊下を歩いていた。足を滑らせるようにして音も立てずに。着つけられた小袖が窮屈で動きづらく今にも転んでしまいそうだった。目的の部屋にたどり着くとお盆を置いて正座しひと声かけてから襖(ふすま)を開けた。
あら。思いのほか似合ってる。
奴はそう云って遠慮なく視線を向けてきた。
藍。馬子にも衣装とはこのことね。服が人を作るのよ。
この野郎、と天子は思ったが黙っていた。
式神がうなずいて答える。ええ。用意した甲斐がありました。
問題はここからよ。スキマ妖怪は扇子の先を頬にあてて瞬(まばた)きさえせずに天子を見ながら続けた。見た目はごまかせても作法まで取り繕うことはできないわ。さあ。配膳を。
天子は鼻息を漏らしてかつて教わったとおりに食卓を整えた。飯は左に汁物は右。漬物を間に挟んで奥に主菜と副菜を並べすこし冷ました緑茶を湯呑みに注ぎ入れた。
しずしずという言葉がぴったりね。
紫の呟きを無視して配膳を終えると天子は畳に指をつき頭を下げた。
食事を始めたスキマ妖怪はひと口食べてからすぐに箸を止めた。
ねえ藍。
はい。
あなたは手伝っていないはずよね。
ええ。お申しつけどおりに。
ふうん。
それからは終始無言だった。久々に正座したせいで天子は足のしびれを感じた。奴を見ていると小袖よりも首にはめられたチョーカーのほうが窮屈に思えてきた。時間をかけて食べ終えるとスキマは合格と云ってからにっこりと笑みを浮かべた。天子はたじろいだ。
何よ合格って。
末永く雇ってあげると云ってるのよ。
いやいやいや。天子は身を乗り出した。あんたが立て替えてくれた分だけ働くって約束じゃない。今日一日だけでもお釣りがくるはずよ。
知らなかったのかしら。あなたが無銭飲食したのは里でもいちばんの高級菓子処よ。妖怪の賢者もご用達。おかげで私は冬眠一回分のおやつ代をあなたのために費やす羽目になったわ。
嘘をつけこの野郎。
野郎じゃないわ。紫は脇に置いた紙切れを指さした。それにほら。あなたが署名した契約書。奉公の期間や給金は雇用主が自由に裁量するってちっちゃく書いてあるでしょ。そして、……今回はまだ時間と金額の指定まではしていない。つまり私がその気になれば契約の満了は十年二十年後ということも可能だろうということ……!
天子はちゃぶ台に這い寄って契約書を受け取り件の文言を穴が空くほど見つめた。その手から紙がはらりと滑り落ちたので藍が拾い上げて紫に渡す。
嘘よ。こんなの嘘よ。
何百年と地上から離れているとさすがにぼけてくるのねえ。紫は云った。店で物を食べたら代金が必要。お金がなかったら身体で支払う。債務者は債権者から文字どおり首輪をはめられる。そして犬のようにご奉仕する。そんなこともすっぽり抜けてるんだから。
いや最後だけは聞いたことがないわよぜったい。
紫は先ほどの笑顔をまた浮かべて手のひらを契約書にかざした。すると比那名居天子という署名のうち五文字が羽虫のように浮かび上がって手に吸いこまれていった。紫は指を閉じると喉に人差し指を当ててしわがれた声を出した。
――今からお前の名前は天(てん)だ。いいかい、天だよ。分かったら返事をするんだ、てぇぇんッ!
ふざけんなっ!
私が偶然居合わせなかったらあなたは今頃あの店で働くことになっていたのよ。
妖怪の屋敷でこき使われるよりずっとマシよ!
天子は立ち上がって部屋を出ていこうとした。即座に紫が指を鳴らすと首にはめられたチョーカーが締めつけを強めて天子の喉仏をこれでもかと圧迫した。天子は猟銃で撃たれたガチョウのようにその場に引っくり返って両手を首のあたりへ持ち上げ畳をのたうち回った。十数秒が経ち足が電流を流されたカエルのように痙攣するようになったところで紫はふたたび指を鳴らして解放した。そして涎を垂らして咳きこむ天子を抱き上げて膝枕した。ごめんなさい、すこしやり過ぎたわ、と云って彼女は申し訳なさそうに微笑んだ。
まあこれも社会勉強だと思ってちょうだい。神社を倒壊させたことを差し引いても今のあなたの存在は危ういんだから。ここで今の幻想郷について少しずつ知っていくと好いわ。更生するまでは私の奴隷(スレイブ)でいてもらうわよ。
天子は首をさすりながらため息をついて洗濯を始めた。金たらいに洗濯板の先端を置いてもう一端を自分のお腹に押しつけて安定させると濡らした服を両手に持ってごしごしとやり始めた。しばらくやっていると指が冷たくふやけてきたので口に含んで吸った。冬特有の厚い雲が空を覆っていて澄んだ空気のなかで雪の香りが漂ってきそうだった。匂いは子供時代の記憶を思い起こさせるとかつて父親から聞いたことがあったが天子にとっての幼い時分とはすなわち地子の名前で過ごした季節だった。冬の香りと同じように夏には太陽の光を浴びて蒸散を続ける草の匂いがあった。母親が教えてくれた折り鶴。汗をだらだらかきながら神事を終えたときに父からかけられた労いの言葉。夏の最後の食事となった素麺のつゆに沈んだ玉ねぎの味。
呼び出した要石に座って空を眺めていると紫が後ろから声をかけてきた。
あら。休憩かしら。
彼女は縁側に腰かけてこちらに視線を注いでいた。過ごしやすい無地の着物に着がえて天子が作ったお団子の串を口にくわえていた。天子が無視して洗濯に戻るとスキマは云った。
あなた、空が好きなのね。
冬は、空気が、澄んでるからっ! 天子は洗濯物を前後させるリズムに合わせて話した。ふうっ。……つい見とれてしまうのよ。天界の端っこにいたんじゃ他にやることもないから。
そう。それにしても頑張るわね。肌が荒れるからって駄々をこねるかと思っていたのだけど。
首を絞められたくないからね。
本当に悪いことをしたと思ってるのよ?
どうだか。
お料理もお団子もお作法も悪くないわ。どこで習ったの。
答える必要あるのそれ。
嫌なら好いけど。気になったのよ。
……実家、じゃなかった、地上にいた頃に母に云われて。
嫁入りのためかしら。
ちがう。
じゃあなに?
天子は手を止めて唇をすぼめた。それから小さな声で云った。――立派な跡継ぎになるため。障子を破れば張り替えを手伝わされたし、料理をまずいと云ったら自分で作りなおす羽目になった。母さんは云ってた。比那名居のことばかりじゃなくいろんな人生を知りなさいって。その知識と経験を自分のためでなくこの郷の人びとのために使いなさいって。
他人の痛みと苦労を知れということかしら。
さあ。でもおかげで好い子にはなれていたんじゃない。少なくとも天人になるまでは。
どういうこと。
天子は紫を横目で見た。それから洗濯を再開した。
ねえ。もう好いじゃない。そんな人のこと根ほり葉ほり訊いても別に楽しくないでしょ。
紫は答えずに立ち上がってこちらに歩み寄ってきた。彼女が直立すると頭ひとつ分以上は天子よりも背が高くなる。そのため後ろに立たれるとスキマ妖怪の影が自分の頭を飛び越して金たらいにまで落ちこむのが分かった。たまらずに天子は振り返ろうとしたが肩をつかまれて動けなくなった。
そのまま続けながら話して。紫は云った。私が訊ねる理由はあなたをここにいさせる理由と同じよ。賢者の一員としてあなたの話を聞いていろいろ判断しなければいけないの。あなたは郷に入っては郷に従えという諺をわきまえているだけの分別があるのか。それとも見境なく地震を起こして結界を脅かすテロリストなのか。
ただの興味本位じゃないのよ、そう云って紫は薬指を天子の首にかけた。肩の筋肉が緊張した。天子は一度だけ唾を飲みこんでから先ほどよりもずっと弱い力で洗濯板に服を押しつけた。
あんたに云ったって理解してもらえない。
そうかしら。いいから話して。
……長年の功績が認められて私の家族はみんな大喜びだった。それで天に昇った先に待っていたのは不良天人だの天人くずれだの散々な云われようよ。母は私に嘘をついたの。天界は欲から解放された浄土にいちばん近い楽園。でも実際の天界はあんたの言葉を借りれば他人の痛みも苦労も知らずに享楽にふける連中ばかりがのさばっていた。それで馬鹿らしくなったの。本当に馬鹿らしくなったのよ。――これで満足?
紫はしばらく無言だった。拾い上げた天子の言葉を吟味しているようすだった。それから突然、指を動かして天子の首筋をなぞってきたのでヒッという情けない声が漏れた。かちゃんという音がしてチョーカーが外れた。それは洗濯板をスノーボードのように滑り降りて服についていたあらゆる汚れと共に水を張った金たらいに飛びこんでいった。
天子は細い息を長い時間をかけて吐き出した。そして首を後ろに倒して紫の顔を見上げた。
なに。もう更生とやらは終わりなの。
始めからそんなの必要なかったって分かったのよ。
紫はそう云って両腕を前に回すと天子を抱き寄せた。
寂しかったのね。あなた。ずっと。
天子は首を振った。この野郎、という言葉が唇から漏れた。なによ。急に優しくならないでよ。もう。
夜になって雪が降り始めた。夕餉を終えた天子は窓辺に腰かけて星のない夜空を見上げていた。膝に置いた緋想の剣がほのかな熱を持っていた。入浴を終えた紫が障子を開けて部屋に入ってきた。
あなたも入りなさいな。
お風呂?
そう。
私は天人よ。入る必要なんてない。
入浴で落とせるのは何も身体についた汚れだけじゃないのよ。
天子は窓に顔を戻した。風に煽られた大粒の雪が窓にあたりぺちゃりと砕けて水のしずくを滴らせた。紫がすぐ隣に腰かけて手に持ったカベルネ・ソーヴィニヨンの赤ワインをくゆらせた。ひと口飲んでから彼女はくすりと笑った。
真剣な顔ね。
だったら何。
似合わないと思って。
んだとコラ。
あなたは笑った顔のほうがずっと好いと伝えたいだけよ。
天人の笑顔はそんなお安くないわ。
それで、どう。この郷。好きになれそうかしら。
まあ天界よりはね。
それは好かった。もうすぐ今年も終わるわ。いがみ合いを来年に持ち越すことにならなくて何よりね。
嘘。そんなこと気にするわけ。
だって気持ち悪いじゃない。年が変わるまでに服も身体も縁(えにし)も綺麗にしておきたいのよ。
天子は紫から受け取ったワインをひと口飲んだ。年末ね。もうそんな感覚さえもすっかり忘れていたわ。雲の上では雪も雨もないもの。ずっと寒くて退屈で。慰めになるのは風だけ。
そうかしらね。のんびりとしていて悪くなさそうだけど。
冗談。
天子はそこで初めて紫の顔を正面から見返した。彼女はわざとらしく首を傾げてみせた。
ねえ。天子は訊ねた。あんたはお互いすっかり分かり合えたみたいに一人で清々してるかもしれないけど、それってフェアじゃないわよ。私はあんたのことなんて何も知らない。なのに私だけ一方的に話させて、話させて……その。
その、なに?
……もやもやする。
唇を曲げてすねる天子に紫は云った。あなたの笑顔がお安くないように、私の秘密だって値打ちものなの。妖怪は簡単に自分のことを語ってはいけない。真実を知られれば知られるほど力が衰えるから。悔しかったら自分で探ってみなさい。それに――。
それに?
そのままモヤモヤしてもらっていたほうが都合が好いもの。私のことが頭にちらついて悪いことができなくなるでしょう。
この野郎、と天子は思った。
やっぱりあんた性格悪いわよ。
お互いさまよ。不良天人さん。
こいつ!
天子が立ち上がったときには紫はスキマに潜って姿を消していた。しばらく部屋を見回していたが彼女は戻ってこなかった。ため息をついてふたたび窓辺に腰かけた。吐きかけた息が窓を曇らせた。天子はふと思いついて小指をなぞらせスキマ妖怪の絵を描いた。胡散臭くて意地悪。得たいの知れない妖怪。悔しかったら自分で探ってみなさい。
上等じゃない。
天子はそう独りごちて笑みを浮かべた。恰好つけただけのつもりだったのにそれはやがて本当の笑いになった。窓に描かれた似顔絵に向けて、天子は紫本人には見せることのなかった笑顔を浮かべた。そして思った。
お風呂に入ろうか。提案に乗るのは癪だけど。
でも、いろいろな想いをすっきりさせておきたい。
――少なくともあいつに関すること以外は。
天子はスキマ妖怪の似顔絵を手のひらで拭き消した。そして笑いながら部屋を後にした。
~ おしまい ~
ゆかてんありがとうございます、あなたはゆかりんマイスタです。
寂しい天子に優しい紫様尊くてありがとうございます。
悪戯っ子な風でいてその実優しいゆかりんが最高でした。
きっと曲がりない優しい子になってたんでしょうね
やんちゃでひねくれ者の天子ちゃんが好きですが
ゆかりんはやっぱり幻想郷のおかあさんやな
天子ちゃんどのくらい食べたんだろかと思ってたらいきなりのパロ展開で笑いましたw
チョーカーで締められるさまは孫悟空か犬夜叉で、そのあとの膝枕の尊さは素晴らしいに、社会勉強のひと言のはめられた感が半端ない。本当に偶然居合わせたんでしょうか、このひと(女性)ほんと胡散臭い
母親が生きていれば、理解者がいたのならば、あるいは天人になってからも地子として振る舞え(こらえられ)たのかもしれませんね……彼女が抱えていた寂しさを幾分かでも持とうとする紫の優しさが感じられて、彼女の暖かさに戸惑う天子が可愛いくて、とても暖かくなりました
ふたりのやりとりがらしくて素敵。内容と関係ない話ですが名前の由来が銘柄だったとは気づきませんでした(調べたらちょっとおいしそうでした)
投稿時からはだいぶ遅れてしまいましたが、今回もとても楽しめました。今年も氏の作品が読めることを楽しみにしております、ありがとうございました
名前も天とかつけてるし(笑