Coolier - 新生・東方創想話ジェネリック

第12回稗田文芸賞

2017/11/09 20:17:23
最終更新
サイズ
53.45KB
ページ数
3

分類タグ


第12回稗田文芸賞に永月夜姫さんと青娥娘々さん

 第12回稗田文芸賞は24日、人間の里・稗田邸にて選考会が行われ、永月夜姫さんの『殺戮のデッドエンド』(竹林書房)と、青娥娘々さんの『この子の生まれたお祝いに』(道書刊行会)の2作が受賞作に決まった。授賞式は来月18日、永遠亭にて行われる。
 今回の選考会の模様について、正式に新選考委員となった聖白蓮氏は「『屋根裏トンネル』が最初に落ちまして、残る六作はそれぞれ推す作品が分かれました。揉めに揉め、弾幕ごっこ寸前まで殺伐、もとい白熱した選考会でした。各作品に対して議論百出、投票結果も二転三転、各人の評価軸の置き方や稗田文芸賞の在り方まで議論が及びましたが、最終的には小説技術的に一日の長が見られるお二方が受賞と相成りました。南無三」と語った。
 永月夜姫さん(本名…蓬莱山輝夜)は、永遠亭のお姫様。幅広い作品を書き分ける幻想郷きっての実力派作家として知られ、『あの月の向こうがわ』『バイバイ、スプートニク』二部作で第三回八坂神奈子賞を受賞している。『殺戮のデッドエンド』は、精神の清浄を第一とする管理社会に対するレジスタンスを描いたSFノワール。
 青娥娘々さん(本名…霍青娥)は、住所不明の邪仙。デビュー作『肢体』で第二回パチュリー・ノーレッジ賞を受賞。不条理な残酷さを押し出したホラーを得意とする。『この子の生まれたお祝いに』は、子供を欲しがる人間の夫婦が正体不明の仙人に翻弄されるホラー小説。
 選評は来月15日発売の《幻想演義》如月号に全文掲載される。

永月夜姫さんの受賞のことば
 いえーい、もこたん見てるー? ごめんねー、八坂神奈子賞に続いてこっちまで私が先に貰っちゃってー。大丈夫、もこたんならきっと獲れる獲れる(笑)。

青娥娘々さんの受賞のことば
 あらあら、私などにこんな立派な賞を与えてしまっていいのかしら? うふふ。

(文々。新聞 師走25日号一面より)



【選評】

波瀾万丈阿鼻叫喚の選考会  射命丸文
 稗田文芸賞の選考が揉めるのは毎度のこと、記憶にある限り満場一致で平和に決まったのは八坂神奈子さんのときだけで、選考委員同士で弾幕ごっこ寸前までいったことも一度ならずありますが、今回の選考会の波瀾万丈ぶりは史上屈指でしょう。その七転八倒の詳細をここにレポートする紙幅がないのが残念です。
 さて、今回の選考会の最大の論点は、ずばり稗田文芸賞の在り方そのものでした。非常に乱暴に言えば、普段八〇点の作家による八五点の作品と、普段六〇点の作家による八〇点の作品が並んだとき、稗田文芸賞としてはどちらを顕彰すべきかという話です。選考委員それぞれのスタンスと推す作品とが入り乱れて、恐ろしく混沌とした選考会となりました。
 私は中立の立場から、両者のバランスを取る形で、『殺戮のデッドエンド』と『ソードスミスの子供たち』を推しました。『殺戮のデッドエンド』は、緻密に構築された管理社会のシステムを手際よく説明しつつ、一見理想的なその社会の恐ろしさを徐々に浮き彫りにしていくスリリングな前半と、後半の主人公コンビによる阿鼻叫喚の大量殺戮パートのドライブ感、いずれも甲乙つけがたい迫力に満ちた傑作エンターテインメントです。選考会では前半の緊迫感に比べて後半の展開が大味すぎるとか、作品の倫理的な是非についての強い批判もありましたが、総合的な完成度において、誰もが認める永月夜姫氏の実力が遺憾なく発揮された貫禄の作品であるという評価は揺るがぬものでした。
 一方『ソードスミスの子供たち』は、まさに多々良小傘氏はこの作品で一皮も二皮も剥けたであろう、紛れもなく現時点での氏の最高傑作であり、出世作となるべき快作です。暗い話になりそうな要素がいくらでもあるにも関わらず、誇り高き職人の物語として抜群のリーダビリティを保ったまま爽やかに駆け抜けた仕上がりには好感を抱かずにいられませんし、進境著しさという点において他を圧しているのは間違いありません。しかし、「これまでの作品との落差から実際の出来以上に良く見えているだけでは?」という指摘もあり、最終投票で惜しくも涙を呑むことになりました。しかし、将来性への期待度は一番であり、是非今回の落選が稗田文芸賞の失敗のひとつに数えられるような今後の活躍を祈念します。
 その『ソードスミス』を打ち破って受賞作となった『この子の生まれたお祝いに』は、生理的恐怖を喚起する表現の技巧において他を圧倒していたことが、普段こういった系統の作品に厳しい選考委員をも説伏せしめることとなりました。救いがなさすぎて後味が悪すぎるという声もありましたし、個人的にはあまりにも気持ち悪くて推しかねましたが、読みたくない、と思わせること自体が本作の力であることは認めるに吝かでなく、最終的に受賞に同意しました。
 残る四作もそれぞれに力作・佳作でありましたが、僅かながら及ばずという結果となりました。船水三波氏の新境地を示す『セイレーン号の遍歴』は力作であることに間違いはありませんが、お行儀が良すぎです。こういった路線では上白沢慧音氏のような手練れが既にいらっしゃるわけで、彼女本来の持ち味を高めていく方が望ましいのでは。新境地の力作といえば『ルージュ・ノワールの口づけを』も同様ですが、ちょっとナイーブすぎて個人的にはついていけない世界でした。『厄捨て場には神様がいる』はこの系統の恋愛小説としては珍しい、終始前向きなヒロインの造形に好感を持ちましたが、《厄捨て場》というシステムが単なる恋愛の障害にしかなっていないところがエンターテインメントとしては勿体ないと思います。『屋根裏トンネル』は児童文学のフィールドで評価されるべき作品でしょう。
 永月夜姫氏、青娥娘々氏とも、稗田文芸賞を獲らずとも誰しもが認める実力派作家であることに変わりはありませんし、もはや稗田文芸賞という箔を必要としない作家でしょう。今回のお二方への受賞は、稗田文芸賞の敗北宣言というべきかもしれませんが、しかしこのお二方にきちんと稗田文芸賞が贈られた、そのことには意味があろうと思う次第です。



辛味が深味、癖になる味  西行寺幽々子
 聞いた話だと、辛味というものは舌が感じている痛みなんだそう。でもそんな辛い食べ物に無性に心惹かれてしまうのは、マゾヒスティックな快感というべきなのかしら。カレー、麻婆豆腐、担々麺……お寿司にワサビ、焼肉にコチュジャン、餃子にラー油。小説も同じで、読んでイヤな気分にしかならない話が、ときどき無性に読みたくなってしまうの。もちろん、お寿司にワサビを山盛りにしたり、シュークリームにからしを入れるようなのはただの悪趣味で、ネタの味がわからなくなっては無意味だし、悪意をもって騙すのはただの嫌がらせだわ。辛味はあくまで旨味を引き立てるものでなければいけなくて、小説でもやっぱりそれは同じこと。
 私が推した『この子の生まれたお祝いに』は、亡霊の私さえも読んでいて気持ち悪くなるぐらいに、不快感が迫ってくる小説。だけど、舌が痺れるような辛さに辟易して途中で箸を置いてしまってはもったいない、その辛味にさえ繊細な気配りが為されていて、辛味の奥に深い味わいを秘めた、最高級の汁なし担々麺のような作品だったわ。最後に器に残った汁の一滴まで、辛いと解っていて味わいたくなるようなこの魅力、まさに癖になる味ね。
 それに対して『殺戮のデッドエンド』の方は、辛口カレーが美味しかったのでおかわりしたら激辛大盛りが出てきた、みたいな作品で、最初はちょっと噎せてしまったわ。だけどやりすぎじゃないかと思うような辛さがだんだん笑えてくるの。選考会でもこの後半をどう味わうかで意見が分かれたけれど、ただ暴力的な激辛というだけの作品ではなく、それが笑えるところまで突き抜けた点を評価して、最終的には受賞に賛成。
 逆に、辛口のように見せかけて中身はとっても甘いスイーツなのが『ルージュ・ノワールの口づけを』。ただ、作者がリキュールで酔っぱらってしまったみたいで、甘さと苦味が調和せず、お互いの味を殺し合っちゃってるのが残念。強く推すひともいたけれど、私は最後まで賛成できなかったわ。
 『屋根裏トンネル』と『厄捨て場には神様がいる』もスイーツ系の作品で、特に『屋根裏』は素朴な味わいが好ましかったけれど、他のひとにはあまり注目してもらえなくて残念。『厄捨て場』は清涼感のあるミントアイスみたいな作品だけれど、これも軽量級に過ぎたかしら。やっぱりお菓子な作品はこの賞だと難しいのね。
 『ソードスミスの子供たち』と『セイレーンの遍歴』は努力賞。でも、『この子』のような作品と同じ土俵で勝負する以上は、「よくがんばりました」だけではまだ足りないと思うの。お客さんが求めるのは美味しい作品であって、その作者がどれだけ頑張ったかは味とは無関係。むしろ、努力の跡など一切見せないのが一流の料理人というものだと思うわ。



作家の励みとなる受賞を  上白沢慧音
 稗田文芸賞の、いや、文学賞の役割とは何か。第一に、優れた作品の顕彰であり、読者に対して文芸の価値についての範を示すものであるべきだ、というのは当然のことである。しかし私個人としては同時に、書き手の励みとなるものでもあってほしい。以前の選考会で八雲藍委員が私のそうしたスタンスに対し、「誰にとっても自分の作品が認められることは等しく励みになるのだから、励みが目的ならば何が受賞作でも良くなってしまうのでは」という旨の疑問を呈されていたが、私個人としてはやはり、作家自身にとって『これが書けたこと』が大きな意味をもつ、そんな作品に賞という評価を与えることもまた、稗田文芸賞の役割だと信じたい。
 そういう意味で、私は今回、『セイレーンの遍歴』に◎をつけて選考会に臨んだ。船水三波氏の進境は著しい。これまでの船水作品は軽薄な読み物という印象が否めなかったが、本作は文体と構成、小説をかたちづくる結構に対する意識が目に見えてあらわれ、高い志をもって書かれている。一隻の船の遍歴を連作短編形式で追うことによって、船に関わった人々の歴史を描き出そうという意気込みには好感を抱かずにはいられない。他の委員から指摘されたように、文体がまだ生硬なのは事実であるが、読み物ではなく《小説》を書こうとする意志を「お行儀が良すぎる」などと言って退けるような意見には、私は断固として与しない。
 進境という意味では『ソードスミスの子供たち』にも好感を持った。この作者の本を読むのはこれが初めてであったが、はじめは紋切り型の表現や軽妙というより軽薄な文体に顔をしかめた。だが中盤から座り直し、読了して感嘆させられることとなった。武器職人という職業の抱えるジレンマや屈託に、家族小説という形で向き合う手法には舌を巻かされる。読後に作者の既刊にも目を通したが、それまでの作品とはまるで別人の作であり、『セイレーン』同様、たゆまぬ研鑽のもと新境地を拓いた会心作であることは疑いない。文章の未熟さという点で◎はつけかねたが、今後の成長が楽しみな書き手である。
 だが、最終的に選考会で選ばれたのは、既にその実力に定評ある二者の作品だった。『この子の生まれたお祝いに』に関しては、私自身も『セイレーン』とともに◎をつけた作品であり、受賞して当然の作品である。相変わらずの露悪趣味こそ鼻につくものの、人間関係の息苦しさを活写する筆力は圧倒的であるし、恐怖描写に凝らされた文章技巧の粋は、書き手として居住まいを正さずにはいられない。個人的な趣味嗜好を超えて、私をねじ伏せるに充分であった。
 問題は『殺戮のデッドエンド』である。《死》を排除した世界の恐ろしさを描き出す筆の確かさや人物造形などの技術面には文句のつけようがなく、前半は見事な傑作だが、後半の展開はあまりに反倫理的で大味に過ぎる。問題のある社会は破壊して更地にすべきというようなテロリズム礼賛に首肯することはできない。そのため私は最初、本作に対して断固反対に回った。だが、こうして賛否両論を渦巻かせる作りにしてあることそのものが本作の企みであり、後半の大味な殺戮アクションも、読者の倫理観を強く揺さぶるための戦略的な手法であると主張する白蓮委員の意見は傾聴に値した。いわば、私のような堅い人間の拒否反応を織り込んだうえで、本作は我々が無条件で信じている倫理が正しいのかと問うているのだ、と。それを踏まえ、最終的には反対を撤回し中立に回った。スタンス上、『殺戮』と『この子』の二作受賞という結果には不満があるが、永月氏、青娥氏の実力と受賞作の価値を否定するものではないことは確言しておく。
 残る紙幅が少ない。『屋根裏トンネル』は稗田児童文芸賞の方で選考したかった。『厄捨て場には神様がいる』は『殺戮』に通じるテーマを扱っており、その健全さには好感を抱くが、テーマに関する追及の面で及ばなかった。『ルージュ・ノワールの口づけを』も美点は認められるが、『ソードスミス』と比べてもまだまだ拙さが目に付く。その拙さこそリアリズムであり美点であるとする意見もあったが、だとしてももう一作見たいところだ。次の機会を待ちたい。



ページが開かれなければ確定されぬもの  八雲藍
 この賞の選考委員を務めるようになって以来、私は普遍的な小説の価値というものが那辺にあるのかという問題に頭を悩ませてきた。数学者として、小説の価値というものを定量化する数式について考えているのだが、考えるほどに量子力学的な不確定性の迷宮に迷い込む感がある。個人、文化、歴史、価値観、この世界を構成するあらゆるものの混沌の中、観測者が本のページを開くことによって観測され確定される価値は、箱の中の犬の生命のごとく不確定の境界を漂っている。私に言えるのは、思考実験といえど猫を殺してはならないということだけだ。
 今回の受賞作の片割れである『殺戮のデッドエンド』は、そのような不確定性の混沌の中にある作品だ。本作はジャンル的にはストレートなディストピアSFであり、綿密な架空の社会システムの上に描き出される《死》を排した世界の姿は、強い説得力とともに、我々の世界認識を揺さぶる認識的異化作用に満ちている。幻想郷文芸におけるSFの啓蒙に務めてきた私としては、当然の理としてこの作品を推さねばならないところだ。
 だが、同時に本作は、どうしても納得しがたい問題点を孕んでいる。それはひとえに、主人公たちの社会に対する反発が合理性の問題ではなく、倫理・感情的な問題として扱われている点だ。本作の舞台となる世界が我々にとって生理的に不気味な世界であることは事実だが、作中世界の感覚としてではなく、我々の感覚において不気味な世界である、ということだけが主人公たちの後半のテロリズムの正当性を担保している形なのは論理性の欠如である。主人公たちのテロはこの社会の脆弱性を露呈させるが、その手続きは事後的な承認に見えてしまう。
 本作を認めるべきか、認めざるべきか。私は煩悶し、最終的に本作に対する投票を棄権した。白蓮委員が「全肯定から断固反発まで、あらゆる反応を引き出しうることこそ、この作品の真価です」と主張され最終的に受賞と決まったが、果たしてそれが正しかったのか、今でも私には答えが出せていない。
 個人の社会に対する向き合い方という点でいえば、『厄捨て場には神様がいる』の方が数段合理的であると言える。本作のヒロインのような論理的正しさこそを強く推したいと私は主張したが、阿求委員以外の反応はおしなべて鈍かった。殊に『殺戮』に当初反対されていた慧音委員を味方につけられなかったのが痛恨の極みである。彼女ならば本作の合理性を高く買うと予想していたのだが、全くもって小説の受け取り方は不確定性の海を漂う筏のごとしだ。
 その慧音委員はまたしても「作家の励みになる受賞を」と主張され『セイレーンの遍歴』と『ソードスミスの子供たち』を推されていたが、「作家の励み」論に私が与しないのは以前の選評に記した通りである。どちらも秀作であることを認めるには吝かではないが、『セイレーン』は歴史の繋がりを意識するあまり解答が自由度を失った感がある。『ソードスミス』は「妖怪が妖怪狩りの道具を作る」という難しいテーマに対し独自の証明を示せていないのが惜しまれる。どちらもまだこれからもっと伸びていくべき才能だろう。
 一方『厄捨て場』と並んで私が推したのは『ルージュ・ノワールの口づけを』だったが、こちらは小説技術の未熟さを指摘されて落選となった。確かに証明は冗漫で、余分な計算に行数を費やしている感は否めない。だが、主の願いと従者の矜持が相反するときに主従はいかようにあるべきか、という主題はあまりにも身につまされるところがあり、人妖の主従関係を題材とした作品群の中でも記憶に留めておくべき佳品だ。
 もう片方の受賞作となった『この子の生まれたお祝いに』に対しては、他の委員諸氏の選評に任せることとする。私個人としては、本作の受賞には異議は全くない、というだけだ。
 最初の投票で落選した『屋根裏トンネル』も決して悪い作品ではない。今回の候補七作のうち、最も価値のある作品はどれか、それを決めるのは読者諸賢自身である。是非、ページを開いてその物語を観測し、不確定性の境界をたゆたう自分だけの価値を確定させてもらいたい。小説の価値の定量化は、おそらくその積み重ねの先にしかないのだ。



読者の視点を映し出す鏡  聖白蓮
 一回限りの代打のはずが、今回から正式に選考委員となりました。つい熱くなってしまった前回の責任を取る格好でしたので、今回は大人しくしているつもりだったのですが、またしても熱くなってしまう作品に出会ってしまい……致し方ありません。南無三。
 今回私を最も熱くさせたのが『殺戮のデッドエンド』です。既に巷でもその倫理的な是非について賛否両論渦巻く作品と側聞しますが、この選考会でもまさに絶賛と否定とに分かれ侃々諤々の問答が繰り広げられました。その議論の軸は、後半で繰り広げられる一大殺戮パートをどう評価するか、この一点に尽きます。実のところ私もこの作品には、個人的な事情もあり、初読の際には非常に居心地の悪い思いを抱きました。しかし改めて読み直し、それすらも計算し尽くされた企みの一環であるという結論に至り、今回は最も強く推させていただきました。
 藍さんは本作に対して「社会への反発が感情的な問題として処理されていて合理性・論理性に欠ける」と難色を示されましたが、まずそこが欠点ではなく作者の狙いなのです。この《死》を徹底的に排除した社会は、死が身近にあるこの地上に暮らす私たちには非常に不気味に見えますが、実は作者は本作の中で、この社会が正しい/間違っているという単純な是非の判断を巧妙に排除しているのです。たとえどんなに不気味な社会だとしても主人公たちの行為は許されざる無差別虐殺ですし、それによってこの社会が露呈する脆弱性も、だからこの社会は間違っているのだと主人公たちを肯定するためのものではありません。この社会はある意味では非常に理想的な社会です。何が正しいかは、どういう視点で本作を読むかという一点で万華鏡のように姿を変え、だからこそ盛大な賛否両論を生んでいるわけです。言うなれば本作は、読者自身の社会や倫理に対する視点を残酷なまでに映し出す鏡であると言えるのです。
 私自身もまた、本作に自分自身の姿を映し出された故に居心地の悪さを覚えたのです。そのようにして我が身を省みさせ、今の社会、今の自分自身の信念は正しいのか、その問い直しを読者に要求する、それこそが『殺戮のデッドエンド』という作品の最大の価値です。よって選考会においても賛否両論真っ二つに分かれた時点で、本作の狙いは見事な達成をみているわけでして、断固否定もまた本作にとっては事実上の肯定票と言えるでしょう。その企みが正しく認められて受賞と相成りましたこと、まことめでたく思います。
 ああ、また一作について語るだけで相当の字数を費やしてしまいました。同時受賞となりました『この子の生まれたお祝いに』は、あまりにも後味の悪すぎる話で、個人的な嗜好から言えば全く好きなタイプの小説ではありません。ですが、自分が『殺戮』を推した理屈を当てはめれば、この作品もまた私の感じた不快感自体が企みの成果であるのは明らかですので、こちらの受賞にも最終的に賛成いたしました次第です。
 『厄捨て場には神様がいる』や『ルージュ・ノワールの口づけを』はそれぞれひとつの主題を丁寧に描いた作品ですが、それゆえに一面的に見えてしまうのは残念なところでした。『ソードスミスの子供たち』は個人的に最も愛着の湧く作品でしたが、受賞となった二作には惜しくも及ばずという結果に、弟子が弾幕ごっこに敗れるのを見るように残念です。
 なお『セイレーンの遍歴』と『屋根裏トンネル』は、弟子の作品ということもあり私には公正な審査の難しい作品ということで投票を棄権いたしました。南無三。



力及ばず……  十六夜咲夜
 個人的な嗜好の話になりますが、小説の価値を計る尺度に「感動」を採用したくない、という気持ちが私にはあります。瀟洒な従者は涙を流さないのです。お前が言うなと言われそうですが、これは作者としてではなく読者としての話でして、私の小説を読んだ読者が「感動」すること自体は一向に構いませんし、嬉しく思いますので、誤解なきようお願い申し上げます。
 しかしそんな私も、『ルージュ・ノワールの口づけを』には激しく心を揺さぶられました。恥ずかしながら、半分も読み進まないうちから涙、涙、涙……。本がぐしゃぐしゃになってしまい買い直すこと二度。今、この選評を書きながらまたページを開いて、危うく原稿用紙を濡らしてしまうところでした。他の選考委員諸氏から散々小説技術の未熟さを指摘されましたが、それは間違った評価です。この作品は、語り手である主が従者へ向けた長い長い手紙なのでありますから、拙さともとれる歪さはむしろあって当然、それこそが自然なありようなのです。小説の中で手記や手紙を書く人物は、いつもまるでプロの小説家のような名文家ですが、現実に素人の書く手記や手紙は拙く歪なものであるのが当然で、本作はその歪さこそが書き手の真摯で懸命なる想いとシンクロするのです。素直になれない主が心に秘めたリリシズムが、拙さ故に隠しきれずに溢れ出してくる、そこにこの作品が読者の心を強く揺さぶる所以がありまして、これこそがまさに誠実なリアリズムというものでありましょう。選考会ではその旨を熱弁させていただきましたが、どうにも他の選考委員の皆様にはご理解いただけず、力及ばず二回目の投票で落選と相成りましてしまいましたこと、この十六夜、力及ばず何とお詫びを申し上げたら良いものか……。
 気を取り直しまして、最終投票に『殺戮のデッドエンド』と『この子の生まれたお祝いに』の二作が残っていたことはまさに僥倖と言えましょう。どちらも私見では作者の現時点の最高作で、レッドラム氏を除いた六作の中でこの二作が受賞作と決まったことは最良の結果です。『殺戮』は作品の倫理性や合理性に難色を示す選考委員に対し聖白蓮委員が圧巻の大演説をぶちましたが、私個人といたしましてはレッドラム氏の諸作もかくやという、後半の一大殺戮フィーバータイムの大層あっけらかんとした書きぶりに非常な好感を抱きました。白蓮委員のような生真面目な読みも結構ですが、この作品の本質は人間の《死》という尊厳を徹底的に否定した果てに現れるブラックな笑い、ファルスではないかと愚考します。ディストピア社会へのレジスタンスものという紹介や、後半への賛否両論から辛気くさい話だろうと思い込んでおられる方こそ、是非この人を人とも思わぬ人間パイ投げ小説とでも言うべきドライブ感溢れるこの残虐行為記録に大笑いしていただきたいところです。
 喜劇的残虐小説の最前線をひた走る青娥娘々氏の『この子の生まれたお祝いに』は、これまでの氏の作品の中でも里の人々にとって最も身近な恐怖譚でしょう。価値観の倒錯が凄絶な恐怖を生みだす過程は耽美的ですらあります。青娥娘々氏にはぜひ本格的な耽美小説を書いていただけないものでしょうか。鬼畜主×純朴従者でひとつ。
 残る四作には具体的に言及するには文字数が足りません。読者諸賢におかれましては、『ルージュ・ノワールの口づけを』を是非お読みいただき、これを落とした本賞の選択が大いなる誤りであったと証明していただけたらと願う次第です。



稗田文芸賞の新たな可能性……なのか?  稗田阿求
 思い起こせば第十回、永月夜姫『バイバイ、スプートニク』を前に六名の選考委員の意見は割れた。全面否定のパチュリー委員、消極的否定の射命丸委員と幽々子委員を前に、私と藍委員、慧音委員の三人は何とか受賞させようと努力を続けたが、最終的には落選と決まった。
 それから二年、再び永月作品を前に選考会は真っ二つに割れた。面白いことに、『殺戮のデッドエンド』否定派に回ったのは、二年前に『バイバイ、スプートニク』を推した私を含む三人であり、二年前に『スプートニク』消極的否定派だった二人は『殺戮』積極的賛成派に回った。同じ作家の作品でこれほど綺麗に賛成・反対が入れ替わるというのも不思議な話だ。
 私は『殺戮』は、典型的な前半傑作だと思っている。選考委員の誰しもが認めたように、ディストピア社会を緻密に活写し、ヒリヒリするような緊迫感を演出する前半は文句のつけようもない。それだけに後半、凡庸なバイオレンスアクションに堕してしまうのが私には残念だった。白蓮委員の大演説に慧音委員が転向したことで受賞に決まったが、私にはこれが白蓮委員の言うような高度な問題意識をもった作品とは思えない。咲夜委員のファルスであるという指摘の方に賛成するし、B級のファルスに過ぎないと思う。
 また、ほぼ満場一致で決まった『この子の生まれたお祝いに』に対しても、私はどちらかといえば消極的反対の立場をとった。小説技術の面では候補作の中でも飛び抜けており、迫力ある恐怖描写はこの私をもってして心胆を寒からしめたが、いくらなんでもこんな後味の悪い、何の救いもない話を稗田文芸賞で顕彰していいものだろうか。ただひたすら読者をイヤな気分にすることだけを追及し、そのためだけに恐るべき高度な技術を注ぎ込んで書かれたこの作品は、努力の方向音痴というか作家的才能の壮大な無駄遣いのようにも思える。
 では私が何を推したかというと『厄捨て場には神様がいる』である。またこの系統の恋愛小説を推すのかという文句がどこかから聞こえてきそうだが、作品全体を貫く明るい前向きさが運命の悲劇性を高める構造は、『バイバイ、スプートニク』にも通じる。運命を受け入れつつも前向きに立ち向かう主人公の造形は深く感じ入るものがあり、私もかくありたいという願いを込めて推したが、賛同は得られず残念だ。
 もう一作◎をつけたのは『セイレーンの遍歴』。一隻の船の遍歴を、様々な人々の目を通して辿ることで、人の世の移ろいと繋がりを鮮やかに描き出す構成には、歴史を司る者として強い共感を覚える。『厄捨て場』が落とされたあとは慧音委員とふたりで強く推したが、これももうひとつ理解を得られなかった。
 『ソードスミスの子供たち』と『ルージュ・ノワールの口づけを』もそれぞれ忘れがたい佳作だったが、どちらも作者の過去作に比べて劇的に良くなっている反面、過去作とのギャップで実際以上に良く見えている可能性を否定できず、強く推すことは躊躇してしまった。『屋根裏トンネル』も丁寧に書かれた好感の持てる作品で、この三者は次作に強く期待したい。
 というわけで私個人としてはやや不本意な選考結果となったわけだが、白蓮委員が大演説の中でぶちあげた「強硬な否定意見を生むこともまた作品の価値」という視座は、今後の稗田文芸賞の選考基準に大きな影響を与えるかもしれない。今回から稗田文芸賞がまた新しいステージに進むのか否か、いち選考委員としてそれにどう向き合うべきか、来年の選考会まで個人的な課題としておこう。


(幻想演義 如月号 特集「第12回稗田文芸賞全選評」より)



◆受賞作決定と選評を読んで、メッタ斬りコンビの感想

萃香 いやあ、今回は言うなれば「順当すぎて意外すぎる」結果というか(笑)。
霊夢 そりゃま、出来でいえばこの二作が頭ひとつ抜けてるとは思ったけど。
萃香 どっちも今までの稗田文芸賞の傾向からすると受賞しそうにない話だったからねえ。
霊夢 選評読む限り、選考会を支配したのは今回も白蓮だったってことみたいね。
萃香 説得術に長けてるのは宗教家の面目躍如ってやつ? まあしかし、「断固否定もまた本作にとっては事実上の肯定票」ってのはよくもまあ言ったもんだよ(笑)。あらゆる批判を無効化しちゃう最強の詭弁だ(笑)。肯定派の咲夜がそれを受けて「いやむしろこの作品はギャグ」って言ってるところがさらにポイント高いね(苦笑)。
霊夢 何のポイントよ。っていうかまあ、見事にそれぞれの選評の内容がすれ違ってて、揉めたってことがよくわかるわ。その中で『この子』がわりとまんべんなく支持を集めたってのが意外だけど。
萃香 去年『生首が多すぎる』にあげたから、なんかこういうのに対して抵抗が少なくなったんじゃない? 文章の上手さは文句のつけようがないしさ。っていうか終わってみれば去年と同じような形での二作受賞だね。わりと誰も反対しなかった青娥娘々と、意見の割れた永月夜姫とでバランスとったってことかなあ。
霊夢 結局『ルージュ』は別に軸でも何でもなかったわね。
萃香 軸になると思ったんだけどなあ(苦笑)。まあしかしこれを全力推しする咲夜がどんな顔してたのか、選考会で直接見てみたかった(笑)。
霊夢 最初に『屋根裏』、次に『厄捨て場』と『ルージュ』が落ちて、最終投票で落ちたのが『ソードスミス』と『セイレーン』みたいね。あーあ、『ソードスミス』が受賞してたら儲かってたのに。あ、でも小傘がこれでドヤ顔してくると思ったらちょっとムカついてきたからまあいいか。
萃香 そう言ってやりなさんなって(苦笑)。たぶん受賞作決まって一番苦々しい思いをしてるのは富士原モコだろうね。八坂神奈子賞に続いて稗田文芸賞でも先越されて、受賞の言葉で煽られて(笑)。授賞式にモコは来るのかな。行かなきゃ行かないで逃げたってバカにされそうだから来るってのが一番ありそう。
霊夢 あいつらは仲良く喧嘩してればいいのよ。
萃香 もうひとりが何をやらかすかわからない青娥娘々だし、授賞式がメチャクチャにならないといいけどねえ(苦笑)。

(文々。新聞 睦月18日号 三面文化欄より)



稗田文芸賞授賞式で永遠亭火災、死者2名(リザレクション済み)

 18日、永遠亭で行われた第12回稗田文芸賞授賞式において、受賞者と招待客の喧嘩から火災が発生、永遠亭が半焼する惨事となり、焼け跡から2名の死体が発見されたが、両者とも蓬莱人だったため無事リザレクションした模様。
 現場に居合わせた伊吹萃香氏によると、受賞者挨拶で受賞者の永月夜姫氏が、招待客として参加していた富士原モコ氏を挑発、両者の壮絶な喧嘩に発展し、授賞式会場がほぼ吹き飛ぶ惨事となった模様。両名以外の参加者は喧嘩が始まった時点で避難したため怪我人はなかった。
 なお、もうひとりの受賞者である青娥娘々氏はこの件について本紙の取材に対し、「蓬莱人は勝手に生き返ってしまいますから面白くありませんね。死体のままでしたら私が有効活用させていただきましたのに……。ああ、でも焼死体は美しくありませんから、あのおふたりが蓬莱人をやめて死ぬときには是非美しく死んでいただきたいものですわ」と語った。

(花果子念報 睦月20日号 一面より)



紅魔館の主が引きこもり? 姿を見せないレミリア・スカーレット嬢

 昨年末以来、紅魔館の主であるレミリア・スカーレット嬢がなぜかすっかり引きこもっているとの噂。本紙は犬走椛特派員を紅魔館に潜入させ取材を試みたが、どうやらレミリア嬢の引きこもりは紛れもない事実であるらしく、年末以降部屋から出てこなくなり、従者の十六夜咲夜氏ではなく、なぜか門番の紅美鈴氏がつきっきりで面倒を見ているという。
 図書館司書の小悪魔氏によると、原因は昨年レミリア嬢がミス・レッドラム名義で刊行した小説『ルージュ・ノワールの口づけを』。レミリア嬢が従者の十六夜咲夜氏との関係を題材にしたこの小説は年末の第十二回稗田文芸賞の候補作ともなったが落選した。レミリア嬢は昨年の文学賞をスカーレット・パブリッシングで独占する計画をぶちあげていただけに、それに失敗したことで拗ねて引きこもってしまったのでは、と小悪魔氏は語る。
 一方、レミリア嬢の親友であるパチュリー・ノーレッジ氏は次のように語った。
「レミィの場合、稗田文芸賞に落ちたことに拗ねたとしても一週間で飽きるわ。それ以上引きこもっているのは、あの本が原因なのは確かだけどもっと別の要因。――要するにあの本はレミィから咲夜宛の『吸血鬼になってずっと一緒にいてよ』っていうラブレターで、稗田文芸賞の場で咲夜にそれを選考させることでレミィは咲夜を追い込んで返答を迫ろうとしたんだけど、そこは咲夜が一枚上手。ぬけぬけと選評で褒め殺したおかげで逆にレミィの方が恥ずかしくなって、あれからずっとベッドの上でじたばたしてるのよ」
 なお特派員は十六夜咲夜氏にも取材を試みたが、ノーコメントと軽くあしらわれてしまった模様。紅魔館の主は本当にベッドでじたばたしているのか、本紙としてはさらなる追跡取材を敢行していきたい。

(花果子念報 睦月20日号 三面より)
3年ぶりの投稿なので作中時系列は3年前(第129季)です。13回と14回は気が向いたら書きます。
浅木原忍
[email protected]
http://r-f21.jugem.jp/
コメント



1.奇声を発する程度の能力削除
楽しめました
2.名前が無い程度の能力削除
青娥の作品読んでみたいけどあとで結局読まなきゃよかったと思いそう
でも読んでみたい
3.名前が無い程度の能力削除
第59回読書週間が終わった日に稗田文芸賞と邂逅できるとはラッキーでした
4.名前が無い程度の能力削除
面白かったです。
ミス・レッドラムちゃん可愛い!
5.名前が無い程度の能力削除
楽しく読ませて頂きました
白蓮さん加入で選考会のパワーバランスが激変してる!
6.名前が無い程度の能力削除
やっぱり評論は(架空の書籍とは言え)面白いっすね…
京極堂も評論ってのは二次創作、読み物で、読み解き方が正しい正しくないではなく、面白いか面白くないかのどっちか(意訳)って言ってたから、毎回面白い評論を提供してくれる文学賞の皆さんほんと好き
特にゆゆ様
>お客さんが求めるのは美味しい作品であって、その作者がどれだけ頑張ったかは味とは無関係。むしろ、努力の跡など一切見せないのが一流の料理人というものだと思うわ。
今までの自分は将来性を買う派の慧音に近いスタンスだったのですが、この言葉にはそうだよな、と納得してしまいました
今現時点で一番完成度が高いものを評価する、当然っちゃ当然ですけど、どうしても過程とか努力とかを評価したくなるのが人情ってもんで…自分は審査員とか向いてねぇな(苦笑
小傘の営業先は、とりあえず博麗神社なんやね…針の件はともかく、本までとなると他にコネが無くて困ってる人みたいでかわいい
7.名前が無い程度の能力削除
書評それぞれの見方が本人達らしくて面白いですね。
『厄捨て場には神様がいる』は是非読んでみたいものです。
8.名前が無い程度の能力削除
いつもこのシリーズを楽しみに読ませていただいています。
それぞれの作中作が非常に作りこまれていて、単に文芸賞の講評を読んでいるだけなのにスリリングに読み進められました