焼きたてのパンに、挽きたてのコーヒー。甘苦い香りが、リリカの鼻をくすぐった。
じゅうじゅうと油の跳ねる音と一緒に、卵のとろける香りも混ざってきた。お腹がぐるぐる震えたのをきっかけに、目がぱっちりと開いた。
「……朝?」
がばっと身を起こすと、カーテンから明るい陽射しが漏れている。
普段と変わらぬ朝、のはずである。だが、リリカは強烈な違和感を抱いていた。
「何だか、ものすっごく寝ていた気がする……。年単位で」
=====
「お寝坊よ、リリカ。もうすぐご飯、できるのにー」
リビングに入ると、メルランがソファの上で頭をぐるんぐるん回しているのが見えた。
彼女も起きたばかりらしい。
「寝坊? そりゃ、いつもより遅かったかもしれないけど……」
「……そう。リリカにとっては、これがいつもより遅い程度で済んでしまうのね」
マグカップを持ったエプロンルナサが、キッチンから現れた。
コーヒーを一口してから、カップをテーブルに叩きつけた!
「三年もの間、あなたは眠り続けていたというのに!」
「起こしてよ姉さん!」
「それは無理ね。なぜなら……。私もメルランも三年間、眠っていたのだから!」
「人のこと言えないじゃないかー! 大丈夫なの、この姉妹!?」
メルランがリリカの肩をちょいちょいと叩く。
着いていった先の玄関を見ると、うず高く積みあがった紙の山ができていて、外に出られなくなっていた。
もはや雪崩で家が埋まってしまっているかのようだ。
これにはメルランも薄ら笑い。
「これね。文々。新聞、三年分」
「何で配達止めようとしなかったの天狗!?」
山からはみ出た新聞をちらと見ると、確かに西暦で言うところの2013年。三年前だった。
もひとつちらっと見ると、何やら気になる記事がある。
「アルバイトとして甘味店で働いていた妖精チルノが、冷凍庫の中に入っていた写真が公開され炎上騒ぎ」とかいう記事があった。
そんなこともあったのか。
「二人とも、そろそろ朝ごはん。三年前のパンと卵とコーヒーが待っているわよ」
「絶対に腐っているよね、それ! いい匂いとか思っちゃったよ! 私の朝のときめきを返せー!」
=====
食卓の上は硫黄くさかった。アンデッドは腐ったエクレアさえ好物だと言われているらしいが、三人とも食が進まない。
どよんとした空気を破ったのはメルランだった。
「でも、三年なんてあっという間よね。楽しい時間は一瞬で過ぎてしまうものー」
「何言ってんの、メル姉。三年あれば、中学生は高校生に、高校生は大学生に、大学生は就活生になっちゃうんだよ?」
「順調に行ったらの話ね」
ルナサがぼそりと補足した。あまり考えたくないケースであった。
「私もリリカと同感。三年は長いわよ。嫌な仕事を三年間続けるとか、恋人と三年間離れ離れになるとか、出番が無くて三年とか、想像するだけで長いわ!」
「リリカが閻魔さんに会ってから三年後となると……。地底から怨霊が湧いた事件があった年になるかしら? うーん、そういわれれば確かに長いかも」
「今と比べると……。あれ、私があの閻魔と会ったのって、十年以上前になるの!?」
こっそり作った三度目の風葬を発表するのはいつになることやら。おそらくまた六十年ほど後になりそうだと予感し、リリカは頭を抱えてしまった。
ふと、ルナサがポケットから銀色に光る四角い板を取り出した。
「私のiPhone 5も三年ちょっと前に発売されたものらしいし。あと、例の呟きサイトもちょうど十周年らしいし」
「ちょ、ちょっと姉さん! ストップストップ!」
「うん?」
メルランがせわしなく両手をぐるぐると回して、慌てている。
「私たち自身が三年ぶりだから、その……。こういう設定を覚えている人も、もういないんじゃないかしら!」
「三年前の時点でも知ってる人なんて誰もいないと思うのだけれど……。まあ、念のために用意したわ」
壁に立てかけてあったフリップボードを、ルナサが「よっこいせ」と持ち上げた。
「この幻想郷にはわけあって電化製品とネット環境が充実しています。外の世界について知ったかぶっちゃうこともあるので気を付けるように。あと、メルランは姉にどうしようもないほど恋しています」
「ちょっと待って、最後のおかしいでしょう!?」
頬を膨らませて抗議するメルランを見て、リリカが首を傾げた。
「あれ? でも三年前、確かにそういうノリじゃなかったっけ?」
「いや、あれは恋してるというより……」
口をもごもごさせるメルランに、ルナサは無言で手を差し出した。握手のポーズである。
メルランはきょとんとした眼差しをしたまま、ごく普通に握手をし、ごく普通に手を放した。それを見たリリカの顔が青ざめていく。
「おかしいわ。三年前ならきっと、『姉さんの手、ひんやりでやわっこくて気持ちいい……! あ、でもタコができてる。私がお薬ぬりぬりしてあげなくちゃ!』とか言ってたはず」
「ねえリリカ。私、本当にそんなだったの!? だんだん自分が怖くなってきてるんだけど!」
「ふむ、これは……」
ルナサが人差し指をぴんと立てて、頬の前に添えた。
「三年目のジンクス、ね!」
「三年目のジンクス?」
「そう。恋をすると、ある種の脳内物質が大量に分泌されるらしいのだけれど、それが減るのが三年目。つまり、どんな熱い恋も三年で冷め、四年目に破局する人が多いらしいの!」
小声で、「真偽は定かではないけれど」と付け加えた。
さあ、ルナサにスイッチが入ってしまった。テーブルの上に両手を置いて、語りモードに突入だ。
「好きで始めた仕事も、三年経つ頃にはすっかり嫌気がさしてしまっているとか! 三年前に始めた趣味やゲーム、もはや面白いと思ってもいないのについ惰性で続けてしまっているとか! 『この人面白い』と思ってフォローしてみてみるも、三年経っても同じようなことしか言ってなくてうんざりしてくるとか! 古本屋の小鈴さんに一目ぼれしてた人も、あれからもう三年過ぎた頃。そろそろ恋心が切れてくる頃合いなんじゃないかしら!」
「まあ、確かに。私たちのファンだって、三年以上も熱心に応援されてたらさすがに心配する。まともに生活できているか心配する……」
ルナサの陰気に当てられて、リリカはすっかりテンションダウンだ。額に暗い影が降りてしまった。
「今、私たちのファンでいてくれる人も、三年も経てばどうなっているか分からないのよね……」
「そう。だからこそ、私たちはご新規様を大切にしなくてはならないのよ!」
ここまでだんまりだったメルランが、「むー」と呟いた。片方の伸びた髪に指を絡めて、思考をぐるぐるさせている。
「んー。でも、結婚して長続きしてるカップルもたくさんいるわ。ずーっと続く愛っていうのも、あるんじゃないかしら?」
ルナサが鼻を「へんっ」と鳴らし、指をちっちと横に振る。反撃の準備は既に整っていた!
「結婚なんぞしている人が、初めて抱いた恋心を失わずに、ドキドキしながら生活しているとでも?」
「うぐぐ、そう言われてしまうと……」
早々にしてメルラン、沈没。
風は完全にルナサへ流れている。リリカのテンションは地へ落ちた。頬をテーブルにべったりと付けてしまっている。
「一応、ずっと一緒にいる安心感みたいなのはあるんだろうけど。トキメキなんて得られないのかな……」
「その通り! 亭主元気で留守がいい。生活が安定すれば、亭主はいらない! 作業ゲー、得られるものは安心感。達成感なんて全く望まないで、日々のルーチンワークに勤しむ人の多いこと! 俺の嫁、三年過ぎれば別の嫁。俺の嫁なんて、激烈に好きってわけじゃなくて、親愛に近い表現のはず!」
手の平をぎゅうと握り締めて、ルナサ、叫ぶ!
「絶望した! 一過性の恋心に踊らされるこの世の中に絶望した!」
ルナサの声が、リリカの脳内をぐわんぐわんとかき鳴らす。
その目にはすっかり涙が浮かんでしまっている。
「嫌だ、嫌だよルナ姉! 私、もし結婚するなら、毎朝行ってきますのキスをしてくれるような旦那さんがいいの! 初デート記念日とか初連弾記念日とか初カリンバ記念日には特別なひと時を過ごして、それでいて何もない日も時々サプライズなプレゼントなんかもあったりして、ドキドキを忘れたくないの! それで普段は仏頂面の癖に、ふとした瞬間に『いつもありがとうな。愛してる』って耳元で囁いてくれる、そんなトキメキが続く日々を過ごしたいの!」
「……リリカ。それ、三年もされてみなさい。中身の無い男だったら、段々イライラしてくるはずだから」
「で、でも……!」
「いい? トキメキなんて、脳内物質の見せる幻想に過ぎない。恋する相手をクーリングオフしないように、脳があなたを騙しているだけなの! 三年経って目が覚めた時、あなたに待ち受けているのは、残酷な現実よ!」
リリカが、がっくりと肩を落としてしまった。
リリカはあくまでも利己主義者あり現実主義者だ。だけど、女の子だもん。ちょっとぐらい、夢を見ていたいお年頃よ。
彼女は最後の希望を託して、もう一人の姉をちらと見た。
「……ふふっ」
彼女の辞書に、絶望の文字は載っていなかった。
太陽が昇ってきたのだろうか、ダイニングに日の光が差し込んだ。
「やだなあ。そんなに悲観的にならなくても大丈夫よ。だって、この世の中はハピネスで包まれているんだから!」
メルランがすっくと立ち上がって、両腕を大きく広げた。
リリカに向かってほほ笑んだ瞬間、「めるめるぽわぽわめるぽわりん♪」と暖気に包まれたような音まで鳴った。
「確かに、三年目のジンクスはあると思う。夢から醒める瞬間だって、いつかはやってくる。でもね、姉さんは一つの可能性を見過ごしているわ!」
メルランの瞳はホワイトホール。十万ルクスの輝きが、ルナサの瞳を貫いた。
だが、底知れぬ闇は彼女の光をも呑み込んだ。ルナサはまぶたをそっと閉じて、ただ、「続けて」と呟いた。
「三年経って、脳内物質の分泌が抑えられる。でも、この時、三年前と同じように好きなままだったら……。きっともう一度、恋をすることができるはずよ!」
「そ、そうか! それって、惚れ直しってやつだよね!」
「そうよ! だからリリカ、安心して。倦怠期な夫婦も、倦怠期だからこそ、もう一度トキめくチャンスがある! 飽きてきた趣味や弾幕だって、忘れた頃にやってみると、やっぱり面白いって再燃できる! 私たちのファンが一度離れたとしても、それっきりじゃないわ。プリズムリバー楽団として活動している限り、もう一度好きになってもらえるチャンスなんて、いくらでもあるはず!」
メルランがすっくと立ち上がり、リリカの両手をがっしりと握った。
「三年目のジンクスは、恋心を失うきっかけじゃないの。むしろ、もう一度恋心を産むチャンスなのよ!」
「メル姉……! 私、間違ってなかったんだ! トキめきを追い求める女子のままでいても、いいんだね!」
「いいのよ、リリカ、あなたはそれでいいのよ……!」
今にもハグハグに移行しそうな妹ども。そこに、ルナサが割って入る!
「くっくっくっ……。期待通りよ、メルラン・プリズムリバー。そこに気が付くとは、さすがは我が妹ね」
「ね、姉さん。あなたは一体、何を……!」
「さあ、今までのストーリーを思い起こしながら、私の手を握るがよい!」
ルナサが、もう一度、手を差し出した。かの握手のポーズである。
メルランはきょとんとした眼差しのまま、その手を握った、その瞬間であった。脳内に、雷が駆け巡った!
ルナサの、柔らかくも骨ばった、細く折れそうな手の感触!
手に触れた瞬間の、ルナサが微かに漏らした艶めかしい吐息の音!
そして、ルナサの怯えるような、それでいて心を落ち着かせたような、繊細な戸惑いの表情!
ルナサのあらゆる情報がメルランの脳内に一気に押し寄せ、最終的に「めるらぼんっ」と爆発した。
「姉さん、私は、私は――!」
「どう? これで思い出したかしら?」
耳まで赤くなってしまい、もはやメルランは顔を上げることができない。
膝をがくんがくんと折り曲げて、とうとうひざまずいた。
「姉様や! 其の御手、確かに冷とうござ候。其の筋肉の強張り方からお察し申し上げるに、よもや肩を凝られているのではあるまいかと気が気ではなく、夜も眠れぬ日々を過ごしております。どうかどうか、肩揉みたい! すっごく肩揉んであげたい!」
「ああ、メル姉が想像以上にひどくなっちゃってるー!」
「ささ、メルランや。苦しゅうない、苦しゅうない」
「ルナ姉まで何だかよく分かんなくなっちゃってるー!」
妹に肩を揉ませ、ルナサ、顔を蕩けさせて喜んでいる。
ふふんと鼻を鳴らしながら、リリカに向かってVサインだ。
「何でそんなに得意気なの!? 何か腹立つ! くそう、こうなったら私にも考えがある! リリカ様の肩を揉む権利を上げてやるんだから!」
半ばやけくそになって、リリカは姉に背を向けた。ルナサの手が伸びてきて、リリカの肩にぽんと置かれた。
三姉妹揃って、仲良く肩もみ合戦になる、はずだった。
この体勢がまずかった。三姉妹の、騒霊としての本能がうごめきだしたのだ。
メルランはルナサの肩に手を置いて、ルナサはリリカの肩に手を置いて。
こうなってしまっては、プリズムリバー楽団としてやるべきことは、ただ一つ!
「かもーつ、れっしゃー、しゅっしゅっしゅー♪ いそーげ、いそげー、しゅっしゅっしゅー♪」
暴走機関車と化した三姉妹が、リビングルームをぐるぐると駆け巡り、その行き場の無いエネルギーはついにエントランスへと放出されることとなった。
「こんどのえきでー、しゅっしゅっしゅー♪ つもーよ、にーもーつ♪」
目の前に広がるは、新聞紙の山。だが、今の三姉妹にとってはただのチリに過ぎない!
「ガッシャーン♪」
激突事故が起きた瞬間、新聞紙の山は錐もみ回転をしながら上空に飛び上り、大気中の空気との摩擦熱で燃え上がり、大輪の花火となった。
貨物列車は止まらない。しゅっしゅっと言って止まらない。
霧の湖の妖精たちも、三姉妹を見て、天変地異の予兆ではないかと騒ぎはじめている。
だが、これしきのことでは貨物列車は止まらない! 同業者がいない限り!
「ガッシャーン!」
「えと、あの……?」
偶然にも、チルノと電車ごっこをしていた大妖精と出くわした。
「ガッシャーン!」
「な、何が望みですか!? ガッシャンってなんなんですか!?」
「ガッシャーン!」
「わ、分かりました! 分かりましたから! ガッシャン!」
「よおし。ここで出会ったが百年目ー! お前はここでじゃんけんに負けて、私の貨物になるのだー!」
「クックックッ……。この私を誰だと思っている? じゃんけんで五連勝までしたこともある、ザ・じゃん拳王こと大妖精だ! その恐怖、とくと味わわせてやるわー!」
大妖精の体が、風に包まれる。暗雲が彼女を中心に渦巻き、霧の湖はさながら嵐の海となった。
横殴りの風にゴウと押され、貨物列車はじりじりと後ろに追いやられてしまう。
「大妖精……。なんて力なの!?」
「大丈夫よ、リリカ。私たちの力を信じて!」
「三人の力を合わせれば、どんな絶望も乗り越えられるはずよ!」
メルランはルナサを、ルナサはリリカを支え、大地をしっかり踏みしめた。
貨物列車はひるむことなく、一歩、一歩と終点に近づいてゆく。
「こんな風で、遅延してたまるかー!」
「何、だと……! これが、これが貨物列車の力だというのか! ふん、その脚力は認めてやろう」
皮肉な笑みを浮かべ、拳王は貨物列車に余裕の拍手を送った。
「だが、拳の力なら負けん!」
右手を力強く握りしめ、戦闘態勢に移った。最初はグーの構えである。
「いくぞ拳王! これが私の最大奥義、必殺のチョキだー!」
「そんな小細工が、拳王に通じると思ったかー!? 貴様は私にグーを出させ、そこをパーで刺すつもりだろう。ならば、私はチョキを出すまでだー!」
「言ったはずだよ。私のチョキは、必殺なんだってね」
拳王は自身の異変に気づいた。手の形を、思うように変えることができない。
指に力が入らない。これでは、手の平を握ることができない!
操り人形のように、ただパーを出すことしかできないのだ!
「ちょこざいな……! 貴様、何をした……!」
「私を甘く見たね、拳王! 拍手のできるお前の手は、私にとって打楽器と認識可能! 全ての楽器は、私の術中にあるのだ!」
拳王の掌底は、リリカの勇気と知恵の二刃からなる鋏によって、切り裂かれたのだ!
「この私より、強い者がいるとはな……! この世界もまだ、捨てたものではなかったか……」
拳王がメルランの背中と連結したその時、空はすっかり晴れ渡り、春の陽気に輝く湖面が取り戻されたのであった。
幻想郷の平和は、貨物列車によって守られたのだ!
「やったー!」
じゅうじゅうと油の跳ねる音と一緒に、卵のとろける香りも混ざってきた。お腹がぐるぐる震えたのをきっかけに、目がぱっちりと開いた。
「……朝?」
がばっと身を起こすと、カーテンから明るい陽射しが漏れている。
普段と変わらぬ朝、のはずである。だが、リリカは強烈な違和感を抱いていた。
「何だか、ものすっごく寝ていた気がする……。年単位で」
=====
「お寝坊よ、リリカ。もうすぐご飯、できるのにー」
リビングに入ると、メルランがソファの上で頭をぐるんぐるん回しているのが見えた。
彼女も起きたばかりらしい。
「寝坊? そりゃ、いつもより遅かったかもしれないけど……」
「……そう。リリカにとっては、これがいつもより遅い程度で済んでしまうのね」
マグカップを持ったエプロンルナサが、キッチンから現れた。
コーヒーを一口してから、カップをテーブルに叩きつけた!
「三年もの間、あなたは眠り続けていたというのに!」
「起こしてよ姉さん!」
「それは無理ね。なぜなら……。私もメルランも三年間、眠っていたのだから!」
「人のこと言えないじゃないかー! 大丈夫なの、この姉妹!?」
メルランがリリカの肩をちょいちょいと叩く。
着いていった先の玄関を見ると、うず高く積みあがった紙の山ができていて、外に出られなくなっていた。
もはや雪崩で家が埋まってしまっているかのようだ。
これにはメルランも薄ら笑い。
「これね。文々。新聞、三年分」
「何で配達止めようとしなかったの天狗!?」
山からはみ出た新聞をちらと見ると、確かに西暦で言うところの2013年。三年前だった。
もひとつちらっと見ると、何やら気になる記事がある。
「アルバイトとして甘味店で働いていた妖精チルノが、冷凍庫の中に入っていた写真が公開され炎上騒ぎ」とかいう記事があった。
そんなこともあったのか。
「二人とも、そろそろ朝ごはん。三年前のパンと卵とコーヒーが待っているわよ」
「絶対に腐っているよね、それ! いい匂いとか思っちゃったよ! 私の朝のときめきを返せー!」
=====
食卓の上は硫黄くさかった。アンデッドは腐ったエクレアさえ好物だと言われているらしいが、三人とも食が進まない。
どよんとした空気を破ったのはメルランだった。
「でも、三年なんてあっという間よね。楽しい時間は一瞬で過ぎてしまうものー」
「何言ってんの、メル姉。三年あれば、中学生は高校生に、高校生は大学生に、大学生は就活生になっちゃうんだよ?」
「順調に行ったらの話ね」
ルナサがぼそりと補足した。あまり考えたくないケースであった。
「私もリリカと同感。三年は長いわよ。嫌な仕事を三年間続けるとか、恋人と三年間離れ離れになるとか、出番が無くて三年とか、想像するだけで長いわ!」
「リリカが閻魔さんに会ってから三年後となると……。地底から怨霊が湧いた事件があった年になるかしら? うーん、そういわれれば確かに長いかも」
「今と比べると……。あれ、私があの閻魔と会ったのって、十年以上前になるの!?」
こっそり作った三度目の風葬を発表するのはいつになることやら。おそらくまた六十年ほど後になりそうだと予感し、リリカは頭を抱えてしまった。
ふと、ルナサがポケットから銀色に光る四角い板を取り出した。
「私のiPhone 5も三年ちょっと前に発売されたものらしいし。あと、例の呟きサイトもちょうど十周年らしいし」
「ちょ、ちょっと姉さん! ストップストップ!」
「うん?」
メルランがせわしなく両手をぐるぐると回して、慌てている。
「私たち自身が三年ぶりだから、その……。こういう設定を覚えている人も、もういないんじゃないかしら!」
「三年前の時点でも知ってる人なんて誰もいないと思うのだけれど……。まあ、念のために用意したわ」
壁に立てかけてあったフリップボードを、ルナサが「よっこいせ」と持ち上げた。
「この幻想郷にはわけあって電化製品とネット環境が充実しています。外の世界について知ったかぶっちゃうこともあるので気を付けるように。あと、メルランは姉にどうしようもないほど恋しています」
「ちょっと待って、最後のおかしいでしょう!?」
頬を膨らませて抗議するメルランを見て、リリカが首を傾げた。
「あれ? でも三年前、確かにそういうノリじゃなかったっけ?」
「いや、あれは恋してるというより……」
口をもごもごさせるメルランに、ルナサは無言で手を差し出した。握手のポーズである。
メルランはきょとんとした眼差しをしたまま、ごく普通に握手をし、ごく普通に手を放した。それを見たリリカの顔が青ざめていく。
「おかしいわ。三年前ならきっと、『姉さんの手、ひんやりでやわっこくて気持ちいい……! あ、でもタコができてる。私がお薬ぬりぬりしてあげなくちゃ!』とか言ってたはず」
「ねえリリカ。私、本当にそんなだったの!? だんだん自分が怖くなってきてるんだけど!」
「ふむ、これは……」
ルナサが人差し指をぴんと立てて、頬の前に添えた。
「三年目のジンクス、ね!」
「三年目のジンクス?」
「そう。恋をすると、ある種の脳内物質が大量に分泌されるらしいのだけれど、それが減るのが三年目。つまり、どんな熱い恋も三年で冷め、四年目に破局する人が多いらしいの!」
小声で、「真偽は定かではないけれど」と付け加えた。
さあ、ルナサにスイッチが入ってしまった。テーブルの上に両手を置いて、語りモードに突入だ。
「好きで始めた仕事も、三年経つ頃にはすっかり嫌気がさしてしまっているとか! 三年前に始めた趣味やゲーム、もはや面白いと思ってもいないのについ惰性で続けてしまっているとか! 『この人面白い』と思ってフォローしてみてみるも、三年経っても同じようなことしか言ってなくてうんざりしてくるとか! 古本屋の小鈴さんに一目ぼれしてた人も、あれからもう三年過ぎた頃。そろそろ恋心が切れてくる頃合いなんじゃないかしら!」
「まあ、確かに。私たちのファンだって、三年以上も熱心に応援されてたらさすがに心配する。まともに生活できているか心配する……」
ルナサの陰気に当てられて、リリカはすっかりテンションダウンだ。額に暗い影が降りてしまった。
「今、私たちのファンでいてくれる人も、三年も経てばどうなっているか分からないのよね……」
「そう。だからこそ、私たちはご新規様を大切にしなくてはならないのよ!」
ここまでだんまりだったメルランが、「むー」と呟いた。片方の伸びた髪に指を絡めて、思考をぐるぐるさせている。
「んー。でも、結婚して長続きしてるカップルもたくさんいるわ。ずーっと続く愛っていうのも、あるんじゃないかしら?」
ルナサが鼻を「へんっ」と鳴らし、指をちっちと横に振る。反撃の準備は既に整っていた!
「結婚なんぞしている人が、初めて抱いた恋心を失わずに、ドキドキしながら生活しているとでも?」
「うぐぐ、そう言われてしまうと……」
早々にしてメルラン、沈没。
風は完全にルナサへ流れている。リリカのテンションは地へ落ちた。頬をテーブルにべったりと付けてしまっている。
「一応、ずっと一緒にいる安心感みたいなのはあるんだろうけど。トキメキなんて得られないのかな……」
「その通り! 亭主元気で留守がいい。生活が安定すれば、亭主はいらない! 作業ゲー、得られるものは安心感。達成感なんて全く望まないで、日々のルーチンワークに勤しむ人の多いこと! 俺の嫁、三年過ぎれば別の嫁。俺の嫁なんて、激烈に好きってわけじゃなくて、親愛に近い表現のはず!」
手の平をぎゅうと握り締めて、ルナサ、叫ぶ!
「絶望した! 一過性の恋心に踊らされるこの世の中に絶望した!」
ルナサの声が、リリカの脳内をぐわんぐわんとかき鳴らす。
その目にはすっかり涙が浮かんでしまっている。
「嫌だ、嫌だよルナ姉! 私、もし結婚するなら、毎朝行ってきますのキスをしてくれるような旦那さんがいいの! 初デート記念日とか初連弾記念日とか初カリンバ記念日には特別なひと時を過ごして、それでいて何もない日も時々サプライズなプレゼントなんかもあったりして、ドキドキを忘れたくないの! それで普段は仏頂面の癖に、ふとした瞬間に『いつもありがとうな。愛してる』って耳元で囁いてくれる、そんなトキメキが続く日々を過ごしたいの!」
「……リリカ。それ、三年もされてみなさい。中身の無い男だったら、段々イライラしてくるはずだから」
「で、でも……!」
「いい? トキメキなんて、脳内物質の見せる幻想に過ぎない。恋する相手をクーリングオフしないように、脳があなたを騙しているだけなの! 三年経って目が覚めた時、あなたに待ち受けているのは、残酷な現実よ!」
リリカが、がっくりと肩を落としてしまった。
リリカはあくまでも利己主義者あり現実主義者だ。だけど、女の子だもん。ちょっとぐらい、夢を見ていたいお年頃よ。
彼女は最後の希望を託して、もう一人の姉をちらと見た。
「……ふふっ」
彼女の辞書に、絶望の文字は載っていなかった。
太陽が昇ってきたのだろうか、ダイニングに日の光が差し込んだ。
「やだなあ。そんなに悲観的にならなくても大丈夫よ。だって、この世の中はハピネスで包まれているんだから!」
メルランがすっくと立ち上がって、両腕を大きく広げた。
リリカに向かってほほ笑んだ瞬間、「めるめるぽわぽわめるぽわりん♪」と暖気に包まれたような音まで鳴った。
「確かに、三年目のジンクスはあると思う。夢から醒める瞬間だって、いつかはやってくる。でもね、姉さんは一つの可能性を見過ごしているわ!」
メルランの瞳はホワイトホール。十万ルクスの輝きが、ルナサの瞳を貫いた。
だが、底知れぬ闇は彼女の光をも呑み込んだ。ルナサはまぶたをそっと閉じて、ただ、「続けて」と呟いた。
「三年経って、脳内物質の分泌が抑えられる。でも、この時、三年前と同じように好きなままだったら……。きっともう一度、恋をすることができるはずよ!」
「そ、そうか! それって、惚れ直しってやつだよね!」
「そうよ! だからリリカ、安心して。倦怠期な夫婦も、倦怠期だからこそ、もう一度トキめくチャンスがある! 飽きてきた趣味や弾幕だって、忘れた頃にやってみると、やっぱり面白いって再燃できる! 私たちのファンが一度離れたとしても、それっきりじゃないわ。プリズムリバー楽団として活動している限り、もう一度好きになってもらえるチャンスなんて、いくらでもあるはず!」
メルランがすっくと立ち上がり、リリカの両手をがっしりと握った。
「三年目のジンクスは、恋心を失うきっかけじゃないの。むしろ、もう一度恋心を産むチャンスなのよ!」
「メル姉……! 私、間違ってなかったんだ! トキめきを追い求める女子のままでいても、いいんだね!」
「いいのよ、リリカ、あなたはそれでいいのよ……!」
今にもハグハグに移行しそうな妹ども。そこに、ルナサが割って入る!
「くっくっくっ……。期待通りよ、メルラン・プリズムリバー。そこに気が付くとは、さすがは我が妹ね」
「ね、姉さん。あなたは一体、何を……!」
「さあ、今までのストーリーを思い起こしながら、私の手を握るがよい!」
ルナサが、もう一度、手を差し出した。かの握手のポーズである。
メルランはきょとんとした眼差しのまま、その手を握った、その瞬間であった。脳内に、雷が駆け巡った!
ルナサの、柔らかくも骨ばった、細く折れそうな手の感触!
手に触れた瞬間の、ルナサが微かに漏らした艶めかしい吐息の音!
そして、ルナサの怯えるような、それでいて心を落ち着かせたような、繊細な戸惑いの表情!
ルナサのあらゆる情報がメルランの脳内に一気に押し寄せ、最終的に「めるらぼんっ」と爆発した。
「姉さん、私は、私は――!」
「どう? これで思い出したかしら?」
耳まで赤くなってしまい、もはやメルランは顔を上げることができない。
膝をがくんがくんと折り曲げて、とうとうひざまずいた。
「姉様や! 其の御手、確かに冷とうござ候。其の筋肉の強張り方からお察し申し上げるに、よもや肩を凝られているのではあるまいかと気が気ではなく、夜も眠れぬ日々を過ごしております。どうかどうか、肩揉みたい! すっごく肩揉んであげたい!」
「ああ、メル姉が想像以上にひどくなっちゃってるー!」
「ささ、メルランや。苦しゅうない、苦しゅうない」
「ルナ姉まで何だかよく分かんなくなっちゃってるー!」
妹に肩を揉ませ、ルナサ、顔を蕩けさせて喜んでいる。
ふふんと鼻を鳴らしながら、リリカに向かってVサインだ。
「何でそんなに得意気なの!? 何か腹立つ! くそう、こうなったら私にも考えがある! リリカ様の肩を揉む権利を上げてやるんだから!」
半ばやけくそになって、リリカは姉に背を向けた。ルナサの手が伸びてきて、リリカの肩にぽんと置かれた。
三姉妹揃って、仲良く肩もみ合戦になる、はずだった。
この体勢がまずかった。三姉妹の、騒霊としての本能がうごめきだしたのだ。
メルランはルナサの肩に手を置いて、ルナサはリリカの肩に手を置いて。
こうなってしまっては、プリズムリバー楽団としてやるべきことは、ただ一つ!
「かもーつ、れっしゃー、しゅっしゅっしゅー♪ いそーげ、いそげー、しゅっしゅっしゅー♪」
暴走機関車と化した三姉妹が、リビングルームをぐるぐると駆け巡り、その行き場の無いエネルギーはついにエントランスへと放出されることとなった。
「こんどのえきでー、しゅっしゅっしゅー♪ つもーよ、にーもーつ♪」
目の前に広がるは、新聞紙の山。だが、今の三姉妹にとってはただのチリに過ぎない!
「ガッシャーン♪」
激突事故が起きた瞬間、新聞紙の山は錐もみ回転をしながら上空に飛び上り、大気中の空気との摩擦熱で燃え上がり、大輪の花火となった。
貨物列車は止まらない。しゅっしゅっと言って止まらない。
霧の湖の妖精たちも、三姉妹を見て、天変地異の予兆ではないかと騒ぎはじめている。
だが、これしきのことでは貨物列車は止まらない! 同業者がいない限り!
「ガッシャーン!」
「えと、あの……?」
偶然にも、チルノと電車ごっこをしていた大妖精と出くわした。
「ガッシャーン!」
「な、何が望みですか!? ガッシャンってなんなんですか!?」
「ガッシャーン!」
「わ、分かりました! 分かりましたから! ガッシャン!」
「よおし。ここで出会ったが百年目ー! お前はここでじゃんけんに負けて、私の貨物になるのだー!」
「クックックッ……。この私を誰だと思っている? じゃんけんで五連勝までしたこともある、ザ・じゃん拳王こと大妖精だ! その恐怖、とくと味わわせてやるわー!」
大妖精の体が、風に包まれる。暗雲が彼女を中心に渦巻き、霧の湖はさながら嵐の海となった。
横殴りの風にゴウと押され、貨物列車はじりじりと後ろに追いやられてしまう。
「大妖精……。なんて力なの!?」
「大丈夫よ、リリカ。私たちの力を信じて!」
「三人の力を合わせれば、どんな絶望も乗り越えられるはずよ!」
メルランはルナサを、ルナサはリリカを支え、大地をしっかり踏みしめた。
貨物列車はひるむことなく、一歩、一歩と終点に近づいてゆく。
「こんな風で、遅延してたまるかー!」
「何、だと……! これが、これが貨物列車の力だというのか! ふん、その脚力は認めてやろう」
皮肉な笑みを浮かべ、拳王は貨物列車に余裕の拍手を送った。
「だが、拳の力なら負けん!」
右手を力強く握りしめ、戦闘態勢に移った。最初はグーの構えである。
「いくぞ拳王! これが私の最大奥義、必殺のチョキだー!」
「そんな小細工が、拳王に通じると思ったかー!? 貴様は私にグーを出させ、そこをパーで刺すつもりだろう。ならば、私はチョキを出すまでだー!」
「言ったはずだよ。私のチョキは、必殺なんだってね」
拳王は自身の異変に気づいた。手の形を、思うように変えることができない。
指に力が入らない。これでは、手の平を握ることができない!
操り人形のように、ただパーを出すことしかできないのだ!
「ちょこざいな……! 貴様、何をした……!」
「私を甘く見たね、拳王! 拍手のできるお前の手は、私にとって打楽器と認識可能! 全ての楽器は、私の術中にあるのだ!」
拳王の掌底は、リリカの勇気と知恵の二刃からなる鋏によって、切り裂かれたのだ!
「この私より、強い者がいるとはな……! この世界もまだ、捨てたものではなかったか……」
拳王がメルランの背中と連結したその時、空はすっかり晴れ渡り、春の陽気に輝く湖面が取り戻されたのであった。
幻想郷の平和は、貨物列車によって守られたのだ!
「やったー!」
それにしても、チルノの人生…妖精生?が地味に終わったと思ったら普通に出てきたり、最後がもうメチャクチャになっていたりと、非常にカオスですね。
長いこと一つのものを好んでいると、飽きたということも実際にはあるかもしれませんし、単に「好き」が枝葉のように広がっていってるのが「飽き」と映るのかもしれません。
自分の好きなものが幹にあると知れば、これほど心安らぐものはありませんね。