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#01
葬儀が終わり、野辺送りも済んで散会になると、一輪は布都の袖を引っ張って寺の境内裏に連行した。枯れ葉を踏みしめる音がさくさくと跳ね回った。日影になっているところで立ち止まると、道士は袖を振り払って腕を組んだ。
「皺になるではないか」
「……なんであんたがウチの葬式に顔を出してるのよ」
「誰を見送ろうが我の勝手であろう」
「ふた月も滞在していない外来人じゃない。それとも、あんたの遠い親戚?」
「幾度か話した。生前は親しくさせてもらったのだ」
「あっ、そう」一輪は対抗するように腰に手を当てた。「あんたがいつポリタンクとチャッカマンで武装するのかと、こっちは戦々恐々だったんだからね」
「まだ触れるか。あんなの冗談に決まっておる」
「冗談でも何でも好いけど、ウチで騒ぎは起こさないでよ」
二人がにらみ合っていると、角から水蜜が顔を覗かせた。帽子を目深に被っており、手でもう一方の腕をつかんでいた。
「一輪、終わったの?」
「皆さんお帰りよ。留守番、ありがとね」
「ん、了解」
水蜜は桶と柄杓を持って、境内を清めに歩いていった。
一輪と布都は顔を見合わせた。物部道士は決まり悪げに烏帽子に指で触れた。
「そう云えば、あやつは参会していなかったな」
「あの子に、ああいう場はちょっとね。無理強いするのも悪いから、主に裏方の手伝いかな」
「寺の生活に慣れておらんわけか」
「時どき黙って抜け出すことがあるのよ。この前は三途の河まで出かけていたわね」
「……本当に仏教徒なのか?」
「あんたこそ、道士を気取ってるけど格好は古臭いまんまじゃない」
「其処を突かれると痛いが……」
門前まで布都を見送ると、一輪は石畳を歩きながら伸びをした。秋の青空は澄んでいた。小鳥は高いところを飛んでいた。木には熟した柿が成っていて、もぎとられる瞬間を待っていた。境内に水をまいている舟幽霊の背中が、一輪の眼には縮んで映った。秋晴れの清々しい昼下がりのなかで、水蜜は独りだった。
唇を結び、鼻で大きく息を吐き出すと、一輪は永く連れ添ってきた友人の肩を叩いた。
#02
こんな昔話がある。復活して間もないころ、例によって神子が幻想郷に出かけ、仙界が静寂に包まれた時分のことだ。
布都はラジオを聴こうと格闘していた。あれこれスイッチを押したり、アンテナを弄ったり、拳骨で叩いてみたりと労苦を重ねた。部屋の入り口に蘇我屠自古が浮かんでいて、いきなり声をかけられた布都はその場に飛び上がりそうになった。
屠自古が口を開く。「……電気が通ってないんだよ」
「分かるのか、蘇我」
「貸してみな」
屠自古はラジオのプラグを両手で包みこんだ。まるで形見の宝石を握りしめるかのような仕草だった。それからダイヤルを回して周波数の特定を始めた。布都は亡霊の細い指が機械の上で踊るさまを黙って見ていた。ラジオからノイズ混じりのジャズ・ミュージックが流れ出したとき、二人は揃ってほうっと息を吐いた。
「すまぬ、恩に着るぞ」
布都は眼を合わせずに云った。屠自古はプラグを握りしめ続けていた。布都が訊ねると、彼女は無表情で答えた。
「電気を絶やさず供給してやる必要があるんだ。悪いけど、こいつを聴きたいなら私が隣にいる必要がある」
この電圧に調整するの、けっこうひと苦労なんだよ、彼女はそう付け加えた。
「……いや、問題ない」布都は頷いて云った。「お主と音楽を聴くのも久しぶりだな」
屠自古は肩をすくめた。「覚えちゃいないよ、そんな昔のこと。何年経ったと思ってるんだよ」
失言だった。布都はそれ以上、口が利けなくなった。屠自古も黙り込んだ。二人は番組が切り替わるまでラジオを聴き続けた。道場の外から届けられた音色が、部屋の空気をかき混ぜた。仙界で生を育む、鳥や動物の鳴き声。風に頬をなでられた木々のささやき。庭の池に飛び込んだ蛙の水音。飛鳥の時代から変わらない自然の声に、伴奏を添えるは現代のジャズ・ミュージック。
「――疲れた」屠自古がプラグから手を放した。「また今度にしよう」
「付き合ってくれるのか」
「お好きなように」
布都は、最後まで〝ありがとう〟のひと言が出てこなかった。
二人でラジオを聴いたのは、結局その一度きりだった。まもなく、仙界には本物の電気が通うようになった。神子は新しき物を次から次へと取り入れていった。布都は懸命に喰らいついた。屠自古は二人の背中を見守るばかりだった。布都が気にかけて振り返ると、彼女は決まって明後日の方向に視線をそらすのだった。
あのひと時で、屠自古との関係を取り戻せたとは、布都も思っていない。それでも、事務的ながら二人の会話は復活していた。やがては深い霧が晴れていくように、失われた時間が戻ってくるだろう。欠片を拾い集めて、繋ぎ合わせて、丁寧に包装して、ラベルを貼って仕舞いだ。言葉は後からついて来る。猶予はいくらでもある。
取りあえずはそれで好し。
布都は自分にそう納得させていた。
#03
夕暮れ過ぎに水蜜が帰ってきた。朝晩が急激に冷え込みを増し、陽のかげりも早まりを見せる秋口だった。一輪は八尺様と興じていた輪投げ遊びを中断して、水蜜を出迎えた。
「おかえり」
「うん」
「本日は、どちらまで?」
「玄武の沢」
「河童のとこか」
「そうね。でも、今日はいなかったかな」
お次は山の神社の湖かしら、と一輪は推測した。不規則なようでいて、彼女はきちんとローテーションを組んでいるのだ。今日は、明日は、村紗は何処に? ――そう考えるだけでも、けっこうな暇つぶしになる。
「先日、亡くなったひとのことだけど」水蜜が濡れたブーツを脱ぎながら云った。「外の人間って、大抵は無縁塚に葬られるんでしょう。あるいは墓すら立たないか。それでも、ウチで葬儀が出せるもんなんだね」
「無縁仏は怨霊になりやすいからね。きちんと供養してやった方が、私達にとっても重畳でしょ」
「ああ、そっか」
「それに――」一輪は乾いた布と替えの服を渡してやりながら続けた。「あのひと、元々人望があったみたいよ。好々爺みたいでね。〝高齢の外来人〟なんてただでさえ珍しいのに、彼と話をしただけで気持ちが軽くなった、思いがけない幸運に恵まれた、なんて話も聞いたわ。こっちに来たときから病気を患っていたみたい。それで里の人たちがお金を出し合って、費用を工面して……」
「すごい人気だね」
一輪は頷いた。「たった二ヶ月なのに、ね」
「外の世界のお話が、そんなに興味深いのかな」
「どうかしら」
水蜜もまた輪投げが上手だった。一輪に劣らず力自慢で、手先が器用なのだ。二人は戦績を競い合い、大いに盛り上がったところで、現場を白蓮におさえられた。和尚は困り顔で唇に人差し指を当てるのだった。二人は頭を下げ、笑いを噛み殺しながら謝罪した。屋根瓦に座っていたぬえが、そんな一輪たちを呆れた顔で見ていた。
「人間じゃあるまいし」彼女は膝に頬杖を突いて云った。「自覚が足りてないんじゃないの」
「ここにいると元気になるんだよ」水蜜が答える。「つい、はしゃいじゃうの。人間の子供みたいに」
「それなら、なんで思い出したみたいにあっちこっちの水辺まで出かけるのさ」
「元気になれる場所と、落ち着ける場所は、別物だよ。ぬえなら分かるでしょ?」
「分かりたくないね、そんなの」
喧嘩になってしまいそうな空気だったので、その場は一輪が治めた。雲山にワンピースの襟首をつかまれたぬえは、「ふんだっ」と云い残して飛び去っていった。白蓮は夕空をしばらく見つめ、二人に微笑みかけてから立ち去った。八尺様は「ぽぽ、ぽぽっ」と笑い続けていた。
一輪は縁側に座り込むと、腕を組んで舟幽霊の顔を見上げた。
「苛立ってたわね、あいつ」
「あの子らしいね」
「今の話なんだけど……」
続きの言葉が浮かんでこない。瞬きを挟んでから、水蜜が帽子を外して胸の前に引き寄せる。
「後悔、しているわけじゃないんだよ」
「知ってる」
「聖がいるんだもん。間違ったって後悔なんかしてない。――ただ、私は一輪ほど要領が好くないから、時間が掛かると思うんだ」覚えてる? と水蜜は訊ねてきた。「地上に脱出してからのこと。信じられないって気持ちがずっと続いてた……」
「ええ」一輪は手のひらを見つめた。「〝自分は確かにここにいる〟って感覚を取り戻すまでに、ずいぶん苦労させられたわね。夢の中にいるみたいに、現実感がなくて。夢遊病の患者みたいだった。いつまで経っても慣れなかったわね、青空の眩しさとか」
「今もまだ、続いているのかな」
「かもしれない。……分からない」
水蜜が一歩、近づいた。一輪は帽子を手に取った。両手で持ち上げて、船長の頭へと丁寧に被せてやった。
#04
雲山に起こされて眼が覚めた。夜中だった。隣の布団で眠っている水蜜を起こさないよう注意しながら、寝床を抜け出した。入道の案内に頷きを返しながら、境内を抜け、虫の音が降り注ぐ小道を通って墓地に出た。提燈の灯りに近づいて、一輪が「へいへーい」と呼びかけると、墓の前で手を合わせていた少女が慌てて振り向いた。
「……なんだ、お主か」
「夜襲をかけるとは考えたわね」
「しつこいぞ」
「冗談よ。――あの外来人の墓ね?」
「まぁな」布都は広い袖口に両手を隠して云った。「昼間に出向いたらお主が迷惑がると思ってな。夜更けに来てやったのだ」
「大した度胸ね。ここは妖怪寺よ?」
「よもや憑り殺されることはあるまい」
一輪は合掌してから布都の隣にしゃがみ込み、仏花の具合を検めた。雲山と八尺様も厳(おごそ)かに手を合わせた。巨岩と電柱が並んで合掌する様は、それだけでもある種の凄みがあった。布都の唇が引きつった。
「……お主の部屋は四畳半では足りぬな」
「あんたもこれくらいハイカラな都市伝説を選べば好かったのよ」
「我はあれで好いのだ。何でもかんでも新しい風を取り込むのは気に喰わん」
「それ、あんたの太子様にも云ってやったら?」
布都の声が詰まった。「た、太子様は特別だ。我には到底――」
「ま、……あんたの云うことにも一理あるけどね」
布都がこちらを見つめた。一輪は苦笑いだった。「私は幻想郷に住んで浅いからね。流行を取り入れてみたいって、つい思っちゃうのよ。――色んなところに顔を出して、色んなひとの話を聴いて、はやく馴染んでいかなかきゃって考えてる。そうしないと聖様のお役に立てない気がしてね」
布都は何とも云えない顔をして黙り込んだ。二人は線香に火を点じた。宵闇の中では、虫の合唱も、線香の匂いも、隣にいる者の息遣いも、より胸に迫りくるように思えるのだった。線香一本の間だけ、二人は黙して時間を共有した。
「本当に聞き上手な奴でな」布都は語った。「外来人とは思えないくらい、里の生活に好く馴染んでいた。我の占いにも何度か顔を出してくれた。そこでいろいろと話をしたのだ。太子様には決して切り出せぬことだ」
布都は雲山の背で寝返りを打った。
「あの舟幽霊を見ているとな、どうしても思い出す。我の道場にも亡霊がいる。普段は里に姿を見せぬ。何度か誘ったが全て断られる始末だ。民草とは関わりを持とうとしない。話してみると愛嬌があって、悪い奴ではないのだが」
「そうね。少しだけど、村紗に似てるわね」
「詳しくは話せんが、我はそいつに大きな借りがある。何とかしてやりたいのだが、何とかするのが逆に迷惑なのかもしれん。静かで平和な暮らしを望む気持ちは好く分かるのだが、あのように閉じこもっていては……」
「それで、今の話、お爺さんは何て答えたの」
「〝自分も外にいた頃は同じようなものだった〟と笑ったよ」
「あら、そうなの」
「あの翁(おきな)、親族からも見捨てられ、寂しく余生を過ごしていたそうだ。それでいつの間にか神隠しに遭っていた。我には想像も付かぬが、ひと眼で幻想郷が気に入ったそうだ。〝胸を締めつけられるような気持ちになった、死ぬまでここで暮らそうと決めた、外に還ろうという気持ちは微塵もなかった〟と云っていたよ」
夜空の散歩に親しみながら、一輪は彼女の言葉に熱心に耳を傾けていた。布都は満月を見上げていた。
「最期に会った時、我は訊ねたのだ。後悔はしていないのかと。奴は病床に伏しながらも首を振った。望みはこの地で死ぬことだけだ、素晴らしい人生だと思っている、そう云った。我には奴の気持ちが分からん。見知らぬ土地で骨を埋めるなど考えられんことだ。我が不死の身になったことで、分からんようになってしまっただけかもしれないが」
一輪は上体を起こした。八尺様が白いワンピースと黒髪を風になびかせていた。虫の音色も上空までは届かない。ここにあるのは風の音だけ。――風の音と、布都の灯した火が、仄かに息づく木霊だけだ。
「……すまなかったな。付き合わせて」
「少しはすっきりした?」
「お陰様でな。お主も悩みがあるのなら、我が特別に聴いてやる」
「いや、……今回は遠慮しておくわ」
「我では不満か?」
「今の話でお腹いっぱい。寺の門徒は夜更かしをしないのよ」
布都は名残り惜しそうだったが、諦めて手を振ると、烏帽子を押さえて降下していった。一輪はしばらくその場に留まっていた。頭巾を被り直して、手のひらに白い息を吐きかけた。
寺の自室に戻り、眠りに就く前に水蜜の寝顔を見つめた。舟幽霊は胎児のように丸まって眠っていた。黒髪は川の支流のように枕に横たわっていた。髪を梳こうとした指を留めて、一輪は毛布を水蜜の肩口まで引き上げてやった。それから自分も布団に潜り込んで眼を閉じた。穏やかな眠りは間もなく訪れた。
#05
仙界に戻ると、道場の入り口で屠自古が浮かんでいるのが見えた。石造りの階段を昇った先で、柱に寄りかかるような恰好で虚空をにらんでいた。
「遅いぞ、物部」組んでいた腕を解いて彼女は云った。「夜遊びとは感心しないな」
布都は口を半開きにして言葉を探した。「蘇我、お主、――ずっとそこで待っていたのか」
「霊体だからね。他にやることもないんだよ。文句あんのか」
「いや、ない。ないが……」
首を横に振りながら、布都は渡り廊下を歩いた。屠自古は後からふよふよとついて来た。「もう、眠るのか」
「お主のおかげで眼が覚めてしまったわ」
「今夜は寝ずの守だな」
「月も冴えておるし、妖怪が息づく宵だ。寝るには少し、居心地が悪いな」
「じゃ、――聴くか」
「何を」
「ラジオ」
屠自古は〝久々に〟と付け加えた。布都は立ち止まって振り返った。
「こんな夜更けにもやっておるのか」
「物部はいつも早寝するから知らんだろうが、深夜のラジオも悪くない。ゆるりと聴くには打ってつけだな」
「ふむ」
「……コンセントは、使ってくれるなよ」
屠自古の声は消え入るように小さくなった。布都は真意を確かめようとしたが、彼女は顔をそらしていた。いつものような仏頂面で。
「蘇我」布都は口を開いた。「あれは、疲れるのではなかったか?」
「今夜は特別だよ。――そう、月が冴えているからな」
布都は頷いた。二度、三度と。屠自古の導きで部屋に入ったところで耐えられなくなり、吹き出して大笑いした。彼女の背中を平手で叩いた。雷を出さんばかりに怒り出した屠自古をなだめながら、ラジオのプラグを手渡した。
部屋の格子窓からは月明かりが差していた。ラジオのダイヤルが照らされてきらきらと輝いていた。柔らかで眼に優しく、飛鳥の時代に離宮へ差し込んでいた明かりと変わらぬ手触りだった。それは果てしない距離と時間を飛び越えて、二人の許に届けられた光だった。
(引用元)
William Somerset Maugham:The Moon and Sixpence, William Heinemann, 1919.
金原瑞人 訳(邦題『月と六ペンス』),新潮文庫,2014年。
At Home
生まれる場所をまちがえた人々がいる。彼らは生まれたところで暮らしてはいるが、いつも見たことのない故郷を懐かしむ。生まれた土地にいながら異邦人なのだ。幼いころから知っている葉影の濃い路地も、遊び慣れたにぎやかな街路も、彼らにとっては仮の住まいでしかない。……ときどき、わけもなく懐かしい場所に行き着く者がいる。やっと故郷をみつけた、と彼は思う。そして、それまで知りもしなかった土地に落ち着き、それまで知りもしなかった人々と暮らしはじめる。まるで、生まれたときから知っていたかのように。その地で、彼はようやく安らぎを手に入れる。
――サマセット・モーム『月と六ペンス』より。
#01
葬儀が終わり、野辺送りも済んで散会になると、一輪は布都の袖を引っ張って寺の境内裏に連行した。枯れ葉を踏みしめる音がさくさくと跳ね回った。日影になっているところで立ち止まると、道士は袖を振り払って腕を組んだ。
「皺になるではないか」
「……なんであんたがウチの葬式に顔を出してるのよ」
「誰を見送ろうが我の勝手であろう」
「ふた月も滞在していない外来人じゃない。それとも、あんたの遠い親戚?」
「幾度か話した。生前は親しくさせてもらったのだ」
「あっ、そう」一輪は対抗するように腰に手を当てた。「あんたがいつポリタンクとチャッカマンで武装するのかと、こっちは戦々恐々だったんだからね」
「まだ触れるか。あんなの冗談に決まっておる」
「冗談でも何でも好いけど、ウチで騒ぎは起こさないでよ」
二人がにらみ合っていると、角から水蜜が顔を覗かせた。帽子を目深に被っており、手でもう一方の腕をつかんでいた。
「一輪、終わったの?」
「皆さんお帰りよ。留守番、ありがとね」
「ん、了解」
水蜜は桶と柄杓を持って、境内を清めに歩いていった。
一輪と布都は顔を見合わせた。物部道士は決まり悪げに烏帽子に指で触れた。
「そう云えば、あやつは参会していなかったな」
「あの子に、ああいう場はちょっとね。無理強いするのも悪いから、主に裏方の手伝いかな」
「寺の生活に慣れておらんわけか」
「時どき黙って抜け出すことがあるのよ。この前は三途の河まで出かけていたわね」
「……本当に仏教徒なのか?」
「あんたこそ、道士を気取ってるけど格好は古臭いまんまじゃない」
「其処を突かれると痛いが……」
門前まで布都を見送ると、一輪は石畳を歩きながら伸びをした。秋の青空は澄んでいた。小鳥は高いところを飛んでいた。木には熟した柿が成っていて、もぎとられる瞬間を待っていた。境内に水をまいている舟幽霊の背中が、一輪の眼には縮んで映った。秋晴れの清々しい昼下がりのなかで、水蜜は独りだった。
唇を結び、鼻で大きく息を吐き出すと、一輪は永く連れ添ってきた友人の肩を叩いた。
#02
こんな昔話がある。復活して間もないころ、例によって神子が幻想郷に出かけ、仙界が静寂に包まれた時分のことだ。
布都はラジオを聴こうと格闘していた。あれこれスイッチを押したり、アンテナを弄ったり、拳骨で叩いてみたりと労苦を重ねた。部屋の入り口に蘇我屠自古が浮かんでいて、いきなり声をかけられた布都はその場に飛び上がりそうになった。
屠自古が口を開く。「……電気が通ってないんだよ」
「分かるのか、蘇我」
「貸してみな」
屠自古はラジオのプラグを両手で包みこんだ。まるで形見の宝石を握りしめるかのような仕草だった。それからダイヤルを回して周波数の特定を始めた。布都は亡霊の細い指が機械の上で踊るさまを黙って見ていた。ラジオからノイズ混じりのジャズ・ミュージックが流れ出したとき、二人は揃ってほうっと息を吐いた。
「すまぬ、恩に着るぞ」
布都は眼を合わせずに云った。屠自古はプラグを握りしめ続けていた。布都が訊ねると、彼女は無表情で答えた。
「電気を絶やさず供給してやる必要があるんだ。悪いけど、こいつを聴きたいなら私が隣にいる必要がある」
この電圧に調整するの、けっこうひと苦労なんだよ、彼女はそう付け加えた。
「……いや、問題ない」布都は頷いて云った。「お主と音楽を聴くのも久しぶりだな」
屠自古は肩をすくめた。「覚えちゃいないよ、そんな昔のこと。何年経ったと思ってるんだよ」
失言だった。布都はそれ以上、口が利けなくなった。屠自古も黙り込んだ。二人は番組が切り替わるまでラジオを聴き続けた。道場の外から届けられた音色が、部屋の空気をかき混ぜた。仙界で生を育む、鳥や動物の鳴き声。風に頬をなでられた木々のささやき。庭の池に飛び込んだ蛙の水音。飛鳥の時代から変わらない自然の声に、伴奏を添えるは現代のジャズ・ミュージック。
「――疲れた」屠自古がプラグから手を放した。「また今度にしよう」
「付き合ってくれるのか」
「お好きなように」
布都は、最後まで〝ありがとう〟のひと言が出てこなかった。
二人でラジオを聴いたのは、結局その一度きりだった。まもなく、仙界には本物の電気が通うようになった。神子は新しき物を次から次へと取り入れていった。布都は懸命に喰らいついた。屠自古は二人の背中を見守るばかりだった。布都が気にかけて振り返ると、彼女は決まって明後日の方向に視線をそらすのだった。
あのひと時で、屠自古との関係を取り戻せたとは、布都も思っていない。それでも、事務的ながら二人の会話は復活していた。やがては深い霧が晴れていくように、失われた時間が戻ってくるだろう。欠片を拾い集めて、繋ぎ合わせて、丁寧に包装して、ラベルを貼って仕舞いだ。言葉は後からついて来る。猶予はいくらでもある。
取りあえずはそれで好し。
布都は自分にそう納得させていた。
#03
夕暮れ過ぎに水蜜が帰ってきた。朝晩が急激に冷え込みを増し、陽のかげりも早まりを見せる秋口だった。一輪は八尺様と興じていた輪投げ遊びを中断して、水蜜を出迎えた。
「おかえり」
「うん」
「本日は、どちらまで?」
「玄武の沢」
「河童のとこか」
「そうね。でも、今日はいなかったかな」
お次は山の神社の湖かしら、と一輪は推測した。不規則なようでいて、彼女はきちんとローテーションを組んでいるのだ。今日は、明日は、村紗は何処に? ――そう考えるだけでも、けっこうな暇つぶしになる。
「先日、亡くなったひとのことだけど」水蜜が濡れたブーツを脱ぎながら云った。「外の人間って、大抵は無縁塚に葬られるんでしょう。あるいは墓すら立たないか。それでも、ウチで葬儀が出せるもんなんだね」
「無縁仏は怨霊になりやすいからね。きちんと供養してやった方が、私達にとっても重畳でしょ」
「ああ、そっか」
「それに――」一輪は乾いた布と替えの服を渡してやりながら続けた。「あのひと、元々人望があったみたいよ。好々爺みたいでね。〝高齢の外来人〟なんてただでさえ珍しいのに、彼と話をしただけで気持ちが軽くなった、思いがけない幸運に恵まれた、なんて話も聞いたわ。こっちに来たときから病気を患っていたみたい。それで里の人たちがお金を出し合って、費用を工面して……」
「すごい人気だね」
一輪は頷いた。「たった二ヶ月なのに、ね」
「外の世界のお話が、そんなに興味深いのかな」
「どうかしら」
水蜜もまた輪投げが上手だった。一輪に劣らず力自慢で、手先が器用なのだ。二人は戦績を競い合い、大いに盛り上がったところで、現場を白蓮におさえられた。和尚は困り顔で唇に人差し指を当てるのだった。二人は頭を下げ、笑いを噛み殺しながら謝罪した。屋根瓦に座っていたぬえが、そんな一輪たちを呆れた顔で見ていた。
「人間じゃあるまいし」彼女は膝に頬杖を突いて云った。「自覚が足りてないんじゃないの」
「ここにいると元気になるんだよ」水蜜が答える。「つい、はしゃいじゃうの。人間の子供みたいに」
「それなら、なんで思い出したみたいにあっちこっちの水辺まで出かけるのさ」
「元気になれる場所と、落ち着ける場所は、別物だよ。ぬえなら分かるでしょ?」
「分かりたくないね、そんなの」
喧嘩になってしまいそうな空気だったので、その場は一輪が治めた。雲山にワンピースの襟首をつかまれたぬえは、「ふんだっ」と云い残して飛び去っていった。白蓮は夕空をしばらく見つめ、二人に微笑みかけてから立ち去った。八尺様は「ぽぽ、ぽぽっ」と笑い続けていた。
一輪は縁側に座り込むと、腕を組んで舟幽霊の顔を見上げた。
「苛立ってたわね、あいつ」
「あの子らしいね」
「今の話なんだけど……」
続きの言葉が浮かんでこない。瞬きを挟んでから、水蜜が帽子を外して胸の前に引き寄せる。
「後悔、しているわけじゃないんだよ」
「知ってる」
「聖がいるんだもん。間違ったって後悔なんかしてない。――ただ、私は一輪ほど要領が好くないから、時間が掛かると思うんだ」覚えてる? と水蜜は訊ねてきた。「地上に脱出してからのこと。信じられないって気持ちがずっと続いてた……」
「ええ」一輪は手のひらを見つめた。「〝自分は確かにここにいる〟って感覚を取り戻すまでに、ずいぶん苦労させられたわね。夢の中にいるみたいに、現実感がなくて。夢遊病の患者みたいだった。いつまで経っても慣れなかったわね、青空の眩しさとか」
「今もまだ、続いているのかな」
「かもしれない。……分からない」
水蜜が一歩、近づいた。一輪は帽子を手に取った。両手で持ち上げて、船長の頭へと丁寧に被せてやった。
#04
雲山に起こされて眼が覚めた。夜中だった。隣の布団で眠っている水蜜を起こさないよう注意しながら、寝床を抜け出した。入道の案内に頷きを返しながら、境内を抜け、虫の音が降り注ぐ小道を通って墓地に出た。提燈の灯りに近づいて、一輪が「へいへーい」と呼びかけると、墓の前で手を合わせていた少女が慌てて振り向いた。
「……なんだ、お主か」
「夜襲をかけるとは考えたわね」
「しつこいぞ」
「冗談よ。――あの外来人の墓ね?」
「まぁな」布都は広い袖口に両手を隠して云った。「昼間に出向いたらお主が迷惑がると思ってな。夜更けに来てやったのだ」
「大した度胸ね。ここは妖怪寺よ?」
「よもや憑り殺されることはあるまい」
一輪は合掌してから布都の隣にしゃがみ込み、仏花の具合を検めた。雲山と八尺様も厳(おごそ)かに手を合わせた。巨岩と電柱が並んで合掌する様は、それだけでもある種の凄みがあった。布都の唇が引きつった。
「……お主の部屋は四畳半では足りぬな」
「あんたもこれくらいハイカラな都市伝説を選べば好かったのよ」
「我はあれで好いのだ。何でもかんでも新しい風を取り込むのは気に喰わん」
「それ、あんたの太子様にも云ってやったら?」
布都の声が詰まった。「た、太子様は特別だ。我には到底――」
「ま、……あんたの云うことにも一理あるけどね」
布都がこちらを見つめた。一輪は苦笑いだった。「私は幻想郷に住んで浅いからね。流行を取り入れてみたいって、つい思っちゃうのよ。――色んなところに顔を出して、色んなひとの話を聴いて、はやく馴染んでいかなかきゃって考えてる。そうしないと聖様のお役に立てない気がしてね」
布都は何とも云えない顔をして黙り込んだ。二人は線香に火を点じた。宵闇の中では、虫の合唱も、線香の匂いも、隣にいる者の息遣いも、より胸に迫りくるように思えるのだった。線香一本の間だけ、二人は黙して時間を共有した。
「本当に聞き上手な奴でな」布都は語った。「外来人とは思えないくらい、里の生活に好く馴染んでいた。我の占いにも何度か顔を出してくれた。そこでいろいろと話をしたのだ。太子様には決して切り出せぬことだ」
布都は雲山の背で寝返りを打った。
「あの舟幽霊を見ているとな、どうしても思い出す。我の道場にも亡霊がいる。普段は里に姿を見せぬ。何度か誘ったが全て断られる始末だ。民草とは関わりを持とうとしない。話してみると愛嬌があって、悪い奴ではないのだが」
「そうね。少しだけど、村紗に似てるわね」
「詳しくは話せんが、我はそいつに大きな借りがある。何とかしてやりたいのだが、何とかするのが逆に迷惑なのかもしれん。静かで平和な暮らしを望む気持ちは好く分かるのだが、あのように閉じこもっていては……」
「それで、今の話、お爺さんは何て答えたの」
「〝自分も外にいた頃は同じようなものだった〟と笑ったよ」
「あら、そうなの」
「あの翁(おきな)、親族からも見捨てられ、寂しく余生を過ごしていたそうだ。それでいつの間にか神隠しに遭っていた。我には想像も付かぬが、ひと眼で幻想郷が気に入ったそうだ。〝胸を締めつけられるような気持ちになった、死ぬまでここで暮らそうと決めた、外に還ろうという気持ちは微塵もなかった〟と云っていたよ」
夜空の散歩に親しみながら、一輪は彼女の言葉に熱心に耳を傾けていた。布都は満月を見上げていた。
「最期に会った時、我は訊ねたのだ。後悔はしていないのかと。奴は病床に伏しながらも首を振った。望みはこの地で死ぬことだけだ、素晴らしい人生だと思っている、そう云った。我には奴の気持ちが分からん。見知らぬ土地で骨を埋めるなど考えられんことだ。我が不死の身になったことで、分からんようになってしまっただけかもしれないが」
一輪は上体を起こした。八尺様が白いワンピースと黒髪を風になびかせていた。虫の音色も上空までは届かない。ここにあるのは風の音だけ。――風の音と、布都の灯した火が、仄かに息づく木霊だけだ。
「……すまなかったな。付き合わせて」
「少しはすっきりした?」
「お陰様でな。お主も悩みがあるのなら、我が特別に聴いてやる」
「いや、……今回は遠慮しておくわ」
「我では不満か?」
「今の話でお腹いっぱい。寺の門徒は夜更かしをしないのよ」
布都は名残り惜しそうだったが、諦めて手を振ると、烏帽子を押さえて降下していった。一輪はしばらくその場に留まっていた。頭巾を被り直して、手のひらに白い息を吐きかけた。
寺の自室に戻り、眠りに就く前に水蜜の寝顔を見つめた。舟幽霊は胎児のように丸まって眠っていた。黒髪は川の支流のように枕に横たわっていた。髪を梳こうとした指を留めて、一輪は毛布を水蜜の肩口まで引き上げてやった。それから自分も布団に潜り込んで眼を閉じた。穏やかな眠りは間もなく訪れた。
#05
仙界に戻ると、道場の入り口で屠自古が浮かんでいるのが見えた。石造りの階段を昇った先で、柱に寄りかかるような恰好で虚空をにらんでいた。
「遅いぞ、物部」組んでいた腕を解いて彼女は云った。「夜遊びとは感心しないな」
布都は口を半開きにして言葉を探した。「蘇我、お主、――ずっとそこで待っていたのか」
「霊体だからね。他にやることもないんだよ。文句あんのか」
「いや、ない。ないが……」
首を横に振りながら、布都は渡り廊下を歩いた。屠自古は後からふよふよとついて来た。「もう、眠るのか」
「お主のおかげで眼が覚めてしまったわ」
「今夜は寝ずの守だな」
「月も冴えておるし、妖怪が息づく宵だ。寝るには少し、居心地が悪いな」
「じゃ、――聴くか」
「何を」
「ラジオ」
屠自古は〝久々に〟と付け加えた。布都は立ち止まって振り返った。
「こんな夜更けにもやっておるのか」
「物部はいつも早寝するから知らんだろうが、深夜のラジオも悪くない。ゆるりと聴くには打ってつけだな」
「ふむ」
「……コンセントは、使ってくれるなよ」
屠自古の声は消え入るように小さくなった。布都は真意を確かめようとしたが、彼女は顔をそらしていた。いつものような仏頂面で。
「蘇我」布都は口を開いた。「あれは、疲れるのではなかったか?」
「今夜は特別だよ。――そう、月が冴えているからな」
布都は頷いた。二度、三度と。屠自古の導きで部屋に入ったところで耐えられなくなり、吹き出して大笑いした。彼女の背中を平手で叩いた。雷を出さんばかりに怒り出した屠自古をなだめながら、ラジオのプラグを手渡した。
部屋の格子窓からは月明かりが差していた。ラジオのダイヤルが照らされてきらきらと輝いていた。柔らかで眼に優しく、飛鳥の時代に離宮へ差し込んでいた明かりと変わらぬ手触りだった。それは果てしない距離と時間を飛び越えて、二人の許に届けられた光だった。
~ おしまい ~
(引用元)
William Somerset Maugham:The Moon and Sixpence, William Heinemann, 1919.
金原瑞人 訳(邦題『月と六ペンス』),新潮文庫,2014年。
屠自古ともお互いの事を案じているのがどちらもいじらしくてずっと見ていたくなりますね