雲をつくような二匹の大兎が誇らしげに鎌と槌を天にかざしていた。首都建設華やかなりしころの労働兎たちの伝説的な活躍を讃える巨大な『労働英雄』像の下を、綿月依姫は足早に通り過ぎた。天高くそびえるミハシラの外壁に沿って円周状に配置されたゲートの一つにプラチナの許可証を提示して、セキュリティに腰の物を預けた。丸メガネの警備兎はそれをエレクトロニクスのシールで封印した。ゲートが青いランプを点灯させて依姫を迎え入れる。
巨大ターミナル駅のコンコースを思わせるアーケードの高い天井の両側に並ぶ商業施設の軒先では、一般客が閉め出された影響で暇を持て余した店主たちが「今日の営業を続けるべきか」について話し合っていた。依姫はエレベータの閉まりかけのドアに素早く身体を滑り込ませた。ガラス張りの壁に背を凭せ、険しい表情で腕を組んで目を閉じると、間もなくエレベータは上昇を始めた。1666階までの退屈な待ち時間も、時速300マイルで進む直通の昇降機ならわずか一分だ……
再びドアが開いて、依姫は穏やかな間接照明が照らす、白一色にコーディネートされてはいるが、それゆえ余計に殺風景に見える無機質なロビーに降り立った。一部の批評家が「無計画の産物」と主張し、政府の担当者がその都度「外敵に備えるための仕様」だと反論する迷路のように入り組んだ長い廊下を、依姫は慣れた足取りで歩いた。モーションセンサーを内蔵した肖像画の月夜見の視線がその背中を機械的に追跡する。濃紺とモスグリーンのブレザーを着た二匹の兎が立哨する隔壁の前で依姫は足を止めた。二匹は依姫を見てほぼ同時に踵を鳴らした。依姫は右手を軽く上げてそれに応えた。濃紺の兎が壁面のコンソールを操作するのを呼吸を整えて待った。隔壁が素早く左右に開いた。依姫は中に入った。中には更に内扉があった。依姫は内扉のノブに手をかけ、人一人がぎりぎり通れるだけ隙間を開けて身体を滑り込ませ、音がしないようにゆっくり閉じた。
ブラインドが下ろされた会議室の中には、治安部門と防衛部門の各セクションのチーフたちが長い会議卓の両側に分かれて座っていた。依姫は治安側の末席に座った。向かいの席に稀神サグメが座っていた。依姫に気付いたサグメは周囲に気付かれない程度に笑顔を作った。依姫は小さく会釈を返した。
「えー……皆様お揃いのようなので」と進行役の男がスチール製の演台に両手をついたまま、流暢だが誠実さに欠ける早口で話し始めた。「治安、防衛、双方の各担当者様におかれましては、本日はお忙しい中ご足労頂きましてまことにありがとうございます。さて、普段なかなか顔を合わすことのない我々ですが、仕事をしていればお互い何かとかち合う部分も出てくるかと思います。どうしても縦割りで業務を進めなければならない都合上やむを得ない部分も多々あるとは思いますが、治安だ、防衛だと肩肘を張らずに、都の安全という共通の目的のために、お互い同業者的な視点で協力すべきところは協力してやっていこうというのが当会議の趣旨でございます。当会議は現場担当者級の数少ない情報交換の場でありますので、皆様におかれましてはどうぞこの機会に活発な意見交換をして頂きたいと思います。それでは早速ですが時間の方もございますので……」
依姫は立ち上がり、演台の前まで歩いた。男は依姫に場所を譲った。出席者の視線が依姫に注がれた。部屋の照明が落とされ、3Dホログラムの蒼く冷たい光がプレゼンターの顔を下から照らし出した。依姫は小さく息をはいた。マイクの僅かなハウリングが静まるのを待って、話し始めた……
資料(No.038)
カルト教団『掌の純光』は自爆テロを戦略的に運用する――労兎庁に勤務する黒縁メガネをかけた生真面目な性格のXは、毎朝判で押したようにきっかり六時十五分に起床する。その日も普段と変わらぬ時間に起床し、簡素な朝食を取り、朝のニューストピックに目を通し、身だしなみを整えてから、いつも通り七時三十分に家を出た彼の行き先は職場ではなかった。同僚が彼の不在に気付き始めた八時三十分ごろ、Xは職場から14キロ離れた
当初周囲で噂されたほどには、Xの生活は困窮していなかった。職場での勤務態度はむしろ優良な部類で、遺書が見つからなかったことも周囲の人々を困惑させた。Xが『掌の純光』の熱心な信者だった事実が発覚したのは謎の自爆から四週間も経った後で、そもそも月面のどこかに20箇所以上あるとされる教団の秘密アジトの一つを強襲した治安部隊が別件で押収した名簿の中にたまたま彼の名前を発見するという偶然がなければ、永遠に発覚することはなかっただろう。
年齢も身分も性別も異なる200名余りの氏名を記したその奇妙なリストの中には、タカマガハル州出身のYの名前もあった。郊外で農業プラントの副責任者を務める平凡なYは、一度も都を訪れたことがなかった。月臨祭前のそわそわした二月のある日、祭りの飾りつけに追われる120匹の農労兎のことなどすっかり忘れて突然ふらりと都を訪れたYは、ミハシラのゲート前で爆薬を満載した五人乗りの汎用ポーターを自爆させて、8人と20匹を道連れに特に記すこともない平穏な800年の人生に自ら幕を下ろした。Yの墓碑には簡潔に『農業プラント副責任者』とだけ刻まれた。
教団のリクルーターを自称するZは汎用ポーターのキーをYに渡した直後、当局に身柄を拘束された。取調べの中でZは「Yは自ら進んで殉教者になった。彼に限らず多くの月の民が殉教を望んでいる」と述べた。供述によると、殉教の希望者たちは一所に集められ、そこで一定の期間共同生活を送るという。「最終的に自爆テロを実行するか否かは本人の完全に自由な選択による」とZは主張する。ただし、殉教の希望者たちには教団が用意した特別の純化プログラムを受講する義務が課せられている。純化プログラムの受講後に自由な選択が可能かどうかの議論はひとまずおくとして、志願者が後を絶たないというのはどうやら本当のようだ。当局が押収した200名の名簿でさえも氷山のほんの一角にすぎないとZは言う。名簿に登録されていない潜在的な志願者予備軍の存在も忘れてはならない。
しかし、なぜそれほど多くの人が殉教という破滅的な行為に魅力を見出しているか。過去に教団主催のセミナーに参加した経験を持つN氏は「彼らが殉教を崇拝する理由、それは悲壮なまでの救済への憧れだ」と語る。彼らを狂気に駆り立てるのは政治的主張でも、経済的困窮でも、生産ラインのサボタージュによって先月の三倍近くにまで跳ね上がったチョコバーの値上げに対する自暴自棄な抗議行動でもない。彼らの大部分は中央の権力闘争に全くと言っていいほど興味がなく、あるのは長く退屈すぎる人生に対する極度の疲弊と救済への強い憧れだけだ。死は彼らにとって唯一の救いであり、ゆえに彼らは死に至る穢れをも賛美する。価値観の倒錯した教団の冒涜的な教義に照らすなら、穢れを撒き散らすだけの彼らの卑劣な行為も、退廃的な生の牢獄から人々を解放する慈善的な救済活動に他ならない。このおせっかいな善意の殺戮者たちは平素何食わぬ顔で役所に勤務し、灰色のデスクに向かって黙々とデータを打ち込み、三時にはイワト政治収容所産の安いコーヒーくらいは飲むかもしれないが、その後おもむろに立ち上がって、500年の役所勤めで一度も見せたことのない寛いだ表情で、机の引き出しに隠した20ポンドの爆薬を破裂させるかもしれない。
さらに、多くの治安関係者が指摘するように、殉教者の利用価値は単に大通りの人ごみに人間爆弾を投下するだけに留まらない。当局は教団の資金源をつきとめることに躍起になっている。安全保障の分野に詳しいあごひげを生やしたアナリストのW氏は、教団を資金面で背後から支える強力なスポンサーの存在について言及した上で、次のように指摘する。「教団は今後、より政治色を強めた攻撃にシフトする可能性がある。目下のところ、教団は自分たちの穢れた教義に則って欺瞞的な救済ごっこに興じているだけのようにみえる。だが、これからもそうだとは限らない。反体制の立場をとるスポンサーはいずれ教団の性格を金の力で捻じ曲げてしまうだろう」
もしそうなら、スポンサーは教団の殉教者を使っていつでも好きな時に警備のバリケードを破壊したり、政府の重要な拠点を攻撃したりすることができることになる。なお悪いことに、純化プログラムによって好きなだけ手駒を補充できることも考慮に入れなければならない。「これまでに行われた一見無計画な自爆行為はより戦略的な目的に向けた試金石と見るべきだ」とW氏は警鐘を鳴らす。「我々が今最も警戒すべきは要人暗殺等を含む政府中枢への攻撃だろう」
確かに、今述べたことは全て懐疑主義者たちの作り上げた度を越した妄想話かもしれない。だが一方で妄想を完全に否定できるだけの材料が存在しないのもまた事実だ。「我々は姿の見えない敵にじわじわと包囲されつつある」知識階級はより過激な未来像に危機感を募らせている。「操り人形と化した数千人規模の純化された信者たちが、ある日突然世界の救済を謳い、ミハシラに向かって殉教の行進を始める……。それは我々が思い描く最悪のシナリオだが、
人工太陽が昼光色から電球色に変わるころ、依姫はロビーの白い長椅子で書類を手に一人うなだれていた。壁に等間隔に穿たれた背後の円窓から、肩越しに外の景色を眺めた。このところ都の新聞を賑わせ、生物学者たちの頭を悩ませている浄化剤に耐性を持った突然変異種のヒマワリの群生が、黄色い絨毯のように足元に広がっているのが見えた。その遥か上空を、衝突防止の赤い燈火をチカチカさせたイワフネの巨大なシルエットが羽虫のように飛び回る無数のハゴロモを引き連れて、タグボートに曳かれて悠然と通り過ぎていった。
「あんなものまで持ち出して、月夜見様は何をしようというの」
一定のリズムで近づいてくる靴音に気付いて、依姫は振り向いた。サグメだった。依姫はバネ仕掛けのおもちゃみたいに立ち上がった。膝から書類の束が滑り落ちた。サグメは即座にかがみ込んで、散らばった書類を無言で集め始めた。依姫も慌てて後に続いた。
資料(No.012)
軍内部に不穏な動き――軍内部の動静について軍事オタクコミュニティー内の談話として消息筋が伝えた内容は以下のとおり。
1.情報
最近、都内外の駐屯地で大規模な配置換えが行われているとの噂がある。駐屯地に勤務する下士官の兎によると、既に二個師団に相当する戦力が都に集結し、さらにもう一個師団が今年度中に移動して来ると言う。詮索好きの兎たちはここ数日《おしゃべり》に釘付けになっている。年度末は来年度の予算編成が絡むため、この時期の配置換えは通常考えにくい。
2.考察
演習以外の目的でこれだけ大規模な動きは異例中の異例である。軍を動かす目的は依然として不明であるが、近々大規模な軍事行動が行われる可能性がある。また、昨今の連続自爆テロとの関連性も否定できないところ、今後の動向を注視する必要がある。
「一応部外秘でして……」書類に読み耽るサグメに、依姫は上目遣いでおずおずと言った。サグメは小さく咳払いをして書類を返した。
「その、質問してもよろしいでしょうか」書類の束を両手で抱えたまま、依姫はためらいがちに尋ねた。「最近の軍の動きは明らかに異常です。姉もそのことをずっと気にかけています。機密なのは承知しているのですが、軍は何をしようとしているのですか……」
サグメは無言でゆっくりと首を横に振った。依姫は語気を強めた。
「それは月夜見様のお考えなのですか、八意様は……」
サグメは右手の人差し指を依姫のまだ何か言おうとしているやわらかな唇にそっと押し当てた。不意打ちを食らった依姫は長椅子に尻餅をついた。サグメはその指を今度は自分の口元に寄せて、形のよい白い歯を少しだけ見せた。サグメが質問を遮ったことで依姫にはおおよその察しがついた。
「私は八意様を信じています」依姫は震える声で決然と言った。
サグメが手を口元に当てたままふいに全身を小刻みにひくつかせたので、依姫はぎくりとした。声を殺して笑う軍情報部チーフの胸元で《片翼の白鷺》のブローチが妖しい輝きを放って揺れていた。
議事録――第×××回防衛治安担当者級会議(抜粋)
治安:一連の事件にカルト宗教が関わっているのは最早疑いない事実と考えるが如何か。
防衛:当方の分析結果は貴方のそれとは異なるものである。
治安:貴方の見解をお聞かせ願いたい。
防衛:機密情報が含まれるためお答えすることはできない。
治安:今後も含めて貴方からの情報提供は望めないということでよろしいか。
防衛:端的に言えばその通りである。詳細をお話しすることはできないが、当方は外部勢力からの干渉も視野に入れて事態を分析中である。外部勢力の干渉となれば貴方の対処能力を超えることになると考えるが如何か。
治安:当方は本件を軍事、外交上の問題とは捉えていない。外部勢力の干渉があるならその根拠を示して頂きたい。
防衛:機密情報が含まれるためお答えすることはできない。
治安:当方の対処能力を超える事態とは具体的にどのようなものを想定しているのかお聞かせ願いたい。
防衛:機密情報が含まれるためお答えすることはできない。
治安:外部勢力とは地上人のことを想定しているのか。
防衛:機密情報が含まれるためお答えすることはできない。
治安:これは当方に対して本件から手を引けということなのか。
防衛:当方は独自の分析結果に基づいて最悪の事態に備えるまでである。
治安:最悪の事態とは。
防衛:機密情報が含まれるためお答えすることはできない。
進行:意見に隔たりがあるようなので、本件は一時保留とする。
お待ちしております
続き待ってます