気付けば彼女は少しでも高い所にいたように思う。
暗く深い地底でも、彼女は乗せるべき人を失った船の甲板で、ぼんやり上を眺めていた。
そんな彼女と一緒に上を眺めていると彼女は少し寂しそうにため息をついて「早く外へ出ようね」と優しく笑うのだ。それに応えながら未だ会えぬあの人を想う。
辛くて泣いた日も、昔を思い出して懐かしんだ日も、大切なあの人を助ける手がかりを手に入れて一喜一憂した日も、彼女と共に過ごしてきた。たった一つの、あの人を救いだすという同じ目標をもって、二人で地底に縛られた。
地底にいる私たちが再び空を見れる日。
それはきっとあの人と再び会える日。
そんな日を夢見て全てを飲みこもうとぽっかりと空いた虚のような黒い空間を睨みつける。
あの黒の裏側はきっと全てを吸い込んでしまいそうなほどの青が、時に色を変えて輝いているんだろう。色彩のない黒い空を見上げ続けていたけれど、どれほどの年月経っていてもあの青い空の色を覚えていられたのは彼女がいたからだ。
だからこそ、彼女が笑って空を見上げている風景は、きっと。
***
久しぶりの晴れだった。
朝から一輪が生き生きしていて、あれよあれよという間に庭の物干しざおに溜まっていた洗濯物やら布団やらが干されていく。洗いたての洗濯物を干すのを――半ば無理やりに――手伝いしていたら急に、一輪に無理やり布団を剥ぎ取られて寝不足で不機嫌そうな顔をしたぬえにふくらはぎの所を蹴られた。多分きっと八つ当たりだ。その理不尽さについカッとなってぬえと悶着を起こしていると何故か一緒になって怒られて、そのままぬえと一緒に寺院の拭き掃除を命ぜられたのがつい先ほど。掃除自体は毎日してるけれど、ぬえと一緒というのが面倒臭い。こいつはよく仕事をさぼるんだ。だからさぼらせないようにしっかり監視しないといけない。多分これが私への罰。監視に失敗すると私一人で全てを終わらせなくちゃいけなくなるからだ。
作業をしているとぬえの疲れたぁ、という情けない声が聞こえた。顔を向けるとぬえが大きく伸びをしていた。じっと睨みつけると面倒臭そうな顔を向けられる。
「面倒臭いなぁ。逃げないってば」
どうだか。あまり信じられない。
「なぁんか一輪、無駄に元気だったよね」
「あー、うん」
洗濯物溜まってたしなぁ。
「一輪ってあんなに洗濯好きだったの?」
「いや、一輪は洗濯好きというか家事が好きなんだよ。多分」
「うへぇ……私は嫌いだからー」
ピクピク動いているぬえの羽、というか触手? をムズッと掴むと「ひゃあ」という可愛い悲鳴が聞こえた。
「ちょっと!」
「いやでも逃げようとしたでしょ?」
「してない! だから離せ馬鹿!」
手を離すと何かを警戒する小動物みたいにぬえが私から距離を取る。顔が少し赤い。ごめん、と謝ると唸られた。
「……まぁ、最近天気悪かったしね」
「は? 急になに?」
なんでもない、と答えて間抜け面をしているぬえの雑巾をひったくる。少し濁った桶の中に、汚れた二つの雑巾を突っ込むと中の水が更に黒く濁った。春先でもまだ水は冷たいらしくて、ぬえは雑巾を洗うのが嫌だと我が儘を言う。なので私が代わりに濯いで絞ってやっていた。濡れた手を振りながら一つの雑巾をぬえに渡す。
「ほら次。さっさと終わらせ」
ねじれた雑巾がゆっくりと重力に従ってだらりと落ちる。その先に雑巾を受け取る相手はいなかった。
***
『一輪、一輪』
彼女は空が良く似合う。雲居って名字に、入道雲を連れていて。
文屋には大空に咲く花って言われてた。本人はそんな風に茶化されるのは嫌だと恥ずかしがっていたけれど。
よく屋根の上にいる女の子。大切なあの人を、聖白蓮をみんなと一緒に迎えに行くために大空を船で駆けぬけたあの日から、晴れた空の日には屋根の上で空を見上げている。そういえば封印される前も、高い山の上にあるお寺の境内からよく外を眺めていた。
青い空。彼女に似た吸い込まれそうな色。
『一輪、一輪』
苦しくなって縋るように名前を呼んだ。
『うん? 村紗?』
『そうだよ、一輪。ねぇ一輪』
『なぁに、どうしたの』
お願い、そこから降りてきて。空の色が眩しいんだ。建物の陰で話そうよ。
***
「くっそ……ぬえの奴、後で覚えておけよ」
濡れた雑巾を適当な所に干して手を洗う。あの頭の触角ひっこぬいてやろうかな、なんて思いながら手洗い場の窓から外を見た。
「いー天気、だねぇ」
こんな日は彼女はきっと屋根の上にいる。綺麗に干された洗濯物を見て満足気に微笑んでるに違いない。
無性に喉が渇いてる気がした。態々コップを取りに行くのが面倒臭くて、手酌で水を飲んだ。もう一度掬って顔を洗う。顎からぽたぽた滴が垂れて、服が濡れても気にならなかった。寧ろ足りない。全身に水を浴びればやっとさっぱりするのかもしれない。だから一雨くればいいのに、なんて思った。
足が自然と歩き出す。庭へ向けて、彼女の元へ。
*
「一輪、一輪」
案の定、彼女がいそうな中庭に面している屋根に紫色の雲が乗っかっていた。きっと雲山だ。よく見張り番といいつつ、時々うたた寝してるらしい。
「一輪、一輪」
呼びかけると雲がもこりと動いた。やっぱりそれは入道の雲山で、ぎょろりとした大きな目玉が雲の合間から飛び出した。何か喋ってるんだけどうまく聞き取れない。
「雲山、一輪そこにいる?」
「……」
「ごめん雲山聞こえないや。一輪、ねぇいちり」
ブワッと視界一面に紫が広がる。あっと思う間もなく体が宙に浮いて世界が反転した。
「っ!?」
「……」
「……吃驚、した……」
先ほどまで上にいた雲山が私の隣で長い溜息をついてこちらを見ている。喉になにか食いこんでるって思っていたら私が滑って落ちないように雲山の手が私の襟を掴んでいた。
「え、雲山?」
状況がよくわからないけれど、とりあえず落ちないように手で身体を支えると、雲山の手が離れていく。雲山に服の裾を直されながらボソボソとここに一輪はいないと言われた。
「なんだ、いないんだ」
ふぅとため息をついた。いなくて残念な気持ちと、いなくて安心した気持ちが重なって嫌な気分になる。
ぼんやりしていると雲山がいつもいつもうるさい、と文句を言ってきた。曰く「いつもお前は一輪を呼びすぎる。お前がこい」と。
「いやだって高い所苦手だし」
「……」
「じゃあ暫くここにいろって? あー……いやごめん、高い所苦手っていうのは嘘なんだ。結構平気」
嘘をついたからか、ごつん、と頭に拳骨が落ちてきた。痛い、と文句を言うと面倒臭そうな顔がそっぽを向きながらもぞもぞ動いて静かになった。前へ回り込んで顔を覗きこむと目を瞑っていてどうやら昼寝するつもりのようだ。真面目なのか不真面目なのかわからない。
「うーんざぁん」
隣に連れてきておいて勝手に一人で寝てしまう雲山にちょっと苛ついて寝かせないように抱き付いた。案の定少し焦る声が聞こえてにやりと笑う。雲山はもふもふしてて気持ちがいい。しかも今は太陽に長い時間当たっていたようで暖かい。もふもふふわふわ。普段からこう暖かいといいんだけど、普段は――雲だからか――ちょっと冷たいので一輪ぐらいしか彼に触れてない気がする。
――雲山? 暖かいわよ。包み込まれてる感じなの。
「いいなぁ雲山」
「……」
「なにがって、そりゃ一杯抱き付いてもらってるじゃん。女の子に」
「……」
「硬派な事言ってても嬉しそう」
雲山が私を睨んでなんかぶつぶつ言ってるけど聞こえないふりをした。雲山によりかかりながら体勢を変えて、彼を枕代わりに寝転ぶ。
上を見れば青空で白い雲がゆっくり泳いでいて、横を見れば白い雲を泳がせている青空がどこまでも続いていた。
「いいなぁ、雲山」
眩しくて思わず腕で目を覆う。そうすれば見慣れた影が降りてくる。
「雲山は雲。空にいたってなんもおかしくない」
「……」
「私だって何言ってるかわかんないもん」
ずるい。羨ましい。こんな明るい場所でこんな眩しい場所で笑っていられるなんて。
「んーと、ほら一輪がさ、あー……なんていうの? 気持ちよさそうにしてるから」
彼女が笑って、眩しさに目を細めながらも空を見上げていたから。それに倣って私も空を見上げたら太陽の光が眩しくて思わず目をそらしてしまった。光に当てられた瞳は彼女の輪郭さえもぼやかして、私と彼女が見ている世界は違うんだと思い知らされる。ぼんやり感じた寂しさは私の視界を更にぼやかすから、誤魔化すように少し湿った目を擦った。
それから少しずつ、彼女が屋根へあがる度に心のどこかが痛んで。
「いいなぁって、ずっと思ってたんだ」
心が暗い水に浸食されて、気付いたらとめられなかった。
「名前を呼んでさ」
空の色に似た髪が風に靡かせて澄んだ空気を一身に受けてる彼女が羨ましくて、逆光の中に消えていってしまいそうなのが怖くて。
「理由付けて、ずっと呼んでたの」
「……」
「置いていかれるんじゃないか、って思って」
地底にいた私たちが再び空を見れる日。
それはきっとあの人と再び会える日。
それはつまり、彼女はその日まで、ここから出られなかったということ。
約束したんだ、一緒に出ようって。一人だけじゃない、二人だけでもない。私と一輪、雲山と、聖と。
「ごめん、雲山。ほんと、何言ってるかわかんないや」
ふぅとため息を吐き出す。いくら呼吸を必要としなくても、生きていた頃の癖なのかため息の動作は同じだった。それに鬱屈とした感情は外に出さないとだめらしい。特に私みたいなのは。聖がそう言っていた。
「……何も聞かないよねぇ、雲山って」
「……」
相変わらず黙りこくっている雲山に、話を誤魔化す様に抱き付いた。
こんな話を彼にしても仕様がないのはわかっている。だけど話してしまうのは、この屈折した気持ちが少しでも彼女に届けばいいという思いがあるからだ。
雲山の大きな指が私の服を掴んで引っ張る。それに負けないようにひっつこうとしたけれど雲山の力にはかなわなかった。簡単に引き離されて隣に置かれる。つれないなぁとは思うけれど、まぁ仕方ない。大人しくぼんやりと雲山と一緒に遠くを見た。
ざぁ、と風が頬を撫でて気持ちが良かった。独り海にいた頃は、風なんて私の体を傷つけるだけだったのに。
「……ねぇ、一輪は、どこにも行かないよね」
空を昇っていく彼女。見上げるだけの私はいつか彼女の姿が見えなくなってしまうんじゃないか。風に乗ってどこか遠くへ行ってしまうのではないか。
私達の約束は果たされて、もう何の拘束力も持っていない。
繋ぎとめる何かが、欲しかった。
「自分でも吃驚なんだけど、幽霊って欲深なんだねぇ」
長いため息が出た。彼女を繋ぎとめてどうしたいんだろう。私は。
ずっと沈黙を守っていた雲山がもそりと動く。その大きな手が目の前に迫ってきて、叩かれるのかもしれない、とぼんやり思う。けれどそのまま頭の上に乗っかって、大きい手でわしわしと撫でられた。頭がぐわんぐわんする。
「わぷ。うぇ、わ、心配、するな?」
「……」
雲山は自分たちの居場所はここにある。どこにもいかないと、と。そう言ってまた口を噤んだ。そういう雲山はやけに格好良かった。一輪が雲山を一番の男前といっているのも頷ける。
「あー……もう私を雲山のお嫁さんにしてよぉ」
格好良く決めていた雲山がいきなり咳こんだ。明らかな焦りの顔を浮かべて私を睨む。
「やなの? えぇと、じゃあ娘さんを私にくださ――」
ゴツン、と頭を拳骨で殴られた。慌てて頭をガードしたけれど、手の下で頭がズキズキと痛んだ。
「いったぁ……」
雲山は怒り、よりかは照れの表情で私にブツブツ聞き取れない文句を言っていた。
「一輪はやらん、って今時そんな頑固おやじ流行らないよ。でも雲山が独り身になるのはかわいそうだから私が一輪の嫁になろうってだからやめてってば!」
拳を振り上げて雲山が抗議する。応戦しようと柄杓を取りだして水で弧を描いてできた錨を背負った。
「っていうかなんでダメなのよ。いいじゃんいいじゃん。ずっと一緒に居たんだし、これからだってずっと一緒にいてもいいでしょう。今更仲間はずれとかヒドイって。それにほら、どこの馬の骨かわからない奴に一輪渡すよりか絶対マシだって、そもそも雲山の娘じゃないでしょ」
どんな奴よりも、一輪の事を理解してやれる自信はあった。
「雲山、雲山が一輪を守るって決めたように、私だって」
大きな目に睨まれる。けれどそんなの怖くない。雲山なんて怖くない。毘沙門天の炎だって怖くない。私が怖いのは、怖いのは。
「一輪の」
「おーい、ムーラーサー?」
私を呼ぶ、あの声が、
「――っ!? いっ」
体全体を暴力的な力によって叩かれた。肉が叩かれて骨が軋んで、空へと投げ出される。紫の拳がゆっくりと崩れていく。紫の靄が晴れる先に青空が見えて思わず手を伸ばしたけれど、困った。
全く届きそうになかった。
*
「じっとしてて」
「……すぐ治るのに?」
「すぐ治るだろうけど、見てて痛々しいのよ。ほら、お仕舞い」
「いって」
ぱん、と肩を叩かれて酷く傷んだ。
「……生傷絶えてないのは一輪の方だと思うんだけど」
「そうかな?」
「おっきい音したと思ったら魔法使いと戦ってるし、遅くに帰ってきたと思えば御札貼られてるしボロボロだし、挙句にはマミゾウさんやお面被った女の子と楽しそうに決闘してるし」
「こころさん?」
「そうかな?」
桐箱の中に入ってる薬品見ながら「これまだ平気かしら」なんて気にしている一輪はそれより、なんてのんびりいいながら「なんだって雲山と戦ってたのよ」と話を変えた。
「まさか上から降ってくるとは思わなかった」
「あーまぁ色々と」
「ふぅん。よくわかんないけど」
「雲山が頑固親父なのがいけない」
「村紗が軟弱者なのがいけないって言ってたわよ」
似たもの同士ね、なんて言われて、げぇ、と嫌そうな顔をしていたら一輪が楽しそうに笑った。
「俺は許さん、だって。何話してたのよ、本当に」
「……うん。まぁ、その、色々と」
雲山ってば、ひどいな。雲山に嫁ぐのはやっぱダメだ。
「……まぁ雲山はしめといたから」
「いや、私も後で謝りに行かなくちゃ」
あの時、声に気を取られてよそ見した私もいけないのだ。雲山が本気出してたら、きっともっとひどかったと思うし。
「……雲山もちょっとしょぼくれてたみたいだけど」
「それより一輪、私の事呼んだよね?」
「えっ? あ、あぁ」
何を言おうか考えあぐねていたらしい一輪は会話の糸口に飛びついてきた。
「と言っても、別に大した用事じゃなかったのよ」
「そうなの」
「うん。お茶でも飲まない、っていう」
「お茶ね、飲み行く?」
「飲みに行ってもいいけど」
一輪はじっと私を見て、包帯の巻かれた腕をとった。優しく撫でられてこそばゆい。
「一輪?」
「痛い所、ないの?」
「……ないよ? 幽霊だもの」
「私ね、昔怪我した所、姐さんに優しく撫でて治してもらったの」
「うん?」
何の話だろう。一輪の身体が私に近づく。
「一輪?」
「撫でて貰ってる内に、怪我した所の痛みもだけど、その、暖かさに泣いちゃって」
手がぽん、と私の頭の上に乗って。
「……ねぇ村紗。痛い所、ない?」
「……」
「頭の裏、たんこぶできてるんじゃない?」
そう言って頭を撫でられて。
「……一輪は?」
「私? 私は……最近背中蹴られちゃって」
「あんま、危ないことしないでよ」
背中に腕を回して撫でる。一輪の腕の中に抱かれて一輪が言うようにその暖かさに泣きそうになって、思わずぎゅっと力を込めた。
「うん、気をつける」
「弾幕ルールって言っても怪我はするし」
負けても楽しそうに笑ってて、
「……お願いだから」
どうか置いて行かないで。
「大丈夫、大丈夫だから。心配しないでよ、ね?」
涙で滲むのは落ちた時の傷が痛むせいだ。空を飛べない私はただ空から落ちるだけなのだから。
*
『村紗!』
全身で船を動かしていてそれどころではなかったけれど、あまりにも明るい彼女の声の方に顔を向けた。轟々となる風の音。隣で私の腕に掴んでいた彼女は髪を風に靡かせて、その指を白い光に向けて指していた。
『あぁ……村紗! 村紗!』
私の両手には馴染み深い舵の感触。ずっとずっと動かせる日を待っていた。力を込めると船が呼応したかのように、スピードを上げて真っ直ぐ真っ直ぐ昇っていく。
『一輪!』
興奮冷めやらぬ彼女は目をキラキラさせて光を見続けている。
景色が変わる。吸い込まれるような青空が広がる。目が光に眩んで、肌に感じる火傷しそうなほど熱い熱は業の火でも作られた日でもなくて、そうここは、ずっとずっと心の奥の、思い出の中にあった青い空。その空気を一身に受け止めようとして、両手で空を仰ぐ彼女。ずっと私の名前を呼んで、夢じゃないよね? なんて確認しあって。
彼女が笑って空を見上げている風景。ずっと待ち望んでいて、とても嬉しく思っていたのに。
どうして今、こんなにも胸が苦しいんだろう。
*
目を開けると空が赤く染まっていた。起き上がるとすぐ近くから一輪の声が聞こえてきた。
「気分どう?」
「……わかんない、けど」
赤い空の先は黒っぽい紫に変色していて、もうきっと世界は輝きのある黒に飲み込まれってしまうんだろう。
「寂しい」と口に出してしまいそうになって口を噤んだ。一輪が首を傾げて「なぁに?」と聞く。
「ごめんね、一輪。凄く寝ちゃった」
「いいわよ別に。途中で枕役やめちゃったし」
「まくら……役?」
「そそ。いいタイミングでアンタが私に寄りかかったまま寝ちゃったから。枕役。それで忙しかったから洗濯物、全部ぬえと雲山にやらせちゃった」
雲山が一人、洗濯物を取り込んでいる様を想像した。ぬえはきっといない。
「そ、っか」
「その後は、まぁ下ろしちゃったけど、いいよね」
枕と薄い掛け布団。お腹を出していたら冷やしてしまうから。私は船幽霊でそんな事は関係ないのだけど。
「んんー今日のお布団はきっと気持ちいいわよ」
「うん?」
「良いお天気だったから」
「……うん」
屋根の上で、雲山と一緒に笑ってる。
「ごめん、しがみついてて」
「うん?」
「今日だって、屋根の上行きたかったんじゃ、ない?」
「ん……? うん?」
「一輪、いつもひなたぼっこ、してたし」
「……あぁ、あー別にそんなの気にしてないし」
お天道さまは逃げないもの、と一輪は笑って。
「というか、こんな村紗放ってまでどっか行くように見える?」
「……そっか、ごめん」
「んん。どうも」
そうだった。一輪はいつもそう。フラフラどっかに行く癖に、私が怯えている時はずっと近くにいてくれる。
「明日も、晴れだって。ね、だから明日は一緒に屋根の上でひなたぼっこしましょ」
「……私また落ちちゃうかも」
「大丈夫よ。私がいるんだから」
屈託なく笑う一輪は眩しかった。途端に寂しさを覚えてそれを誤魔化すように俯いた。一輪はどこに行っても帰ってきてくれる。どこかに行ったきりなんて、そんな事ないはずだって知ってる。知ってるのに、幽霊に成り果てた身体はそれを信じてくれなくてどうにかなってしまいそうで。
「村紗?」
問われた時に、大好きな手が見えた。私にはない温もりが私の手を包み込んで、それだけで手放し難くなって。
「好きです」
一輪の、身体が跳ねた。顔をあげると驚いた顔をしていた。
「一輪の事が、ずっと好きです」
愛おしいこの人を、誰にも、空にもどこにも行かせたくない。本当は雲山の所にだって。
「これからも、ずっと一緒にいたい、です」
だからどうか、目の行く届く先に。目が眩まない場所で、ずっと、ずっと私と一緒に。
暗く深い地底でも、彼女は乗せるべき人を失った船の甲板で、ぼんやり上を眺めていた。
そんな彼女と一緒に上を眺めていると彼女は少し寂しそうにため息をついて「早く外へ出ようね」と優しく笑うのだ。それに応えながら未だ会えぬあの人を想う。
辛くて泣いた日も、昔を思い出して懐かしんだ日も、大切なあの人を助ける手がかりを手に入れて一喜一憂した日も、彼女と共に過ごしてきた。たった一つの、あの人を救いだすという同じ目標をもって、二人で地底に縛られた。
地底にいる私たちが再び空を見れる日。
それはきっとあの人と再び会える日。
そんな日を夢見て全てを飲みこもうとぽっかりと空いた虚のような黒い空間を睨みつける。
あの黒の裏側はきっと全てを吸い込んでしまいそうなほどの青が、時に色を変えて輝いているんだろう。色彩のない黒い空を見上げ続けていたけれど、どれほどの年月経っていてもあの青い空の色を覚えていられたのは彼女がいたからだ。
だからこそ、彼女が笑って空を見上げている風景は、きっと。
***
久しぶりの晴れだった。
朝から一輪が生き生きしていて、あれよあれよという間に庭の物干しざおに溜まっていた洗濯物やら布団やらが干されていく。洗いたての洗濯物を干すのを――半ば無理やりに――手伝いしていたら急に、一輪に無理やり布団を剥ぎ取られて寝不足で不機嫌そうな顔をしたぬえにふくらはぎの所を蹴られた。多分きっと八つ当たりだ。その理不尽さについカッとなってぬえと悶着を起こしていると何故か一緒になって怒られて、そのままぬえと一緒に寺院の拭き掃除を命ぜられたのがつい先ほど。掃除自体は毎日してるけれど、ぬえと一緒というのが面倒臭い。こいつはよく仕事をさぼるんだ。だからさぼらせないようにしっかり監視しないといけない。多分これが私への罰。監視に失敗すると私一人で全てを終わらせなくちゃいけなくなるからだ。
作業をしているとぬえの疲れたぁ、という情けない声が聞こえた。顔を向けるとぬえが大きく伸びをしていた。じっと睨みつけると面倒臭そうな顔を向けられる。
「面倒臭いなぁ。逃げないってば」
どうだか。あまり信じられない。
「なぁんか一輪、無駄に元気だったよね」
「あー、うん」
洗濯物溜まってたしなぁ。
「一輪ってあんなに洗濯好きだったの?」
「いや、一輪は洗濯好きというか家事が好きなんだよ。多分」
「うへぇ……私は嫌いだからー」
ピクピク動いているぬえの羽、というか触手? をムズッと掴むと「ひゃあ」という可愛い悲鳴が聞こえた。
「ちょっと!」
「いやでも逃げようとしたでしょ?」
「してない! だから離せ馬鹿!」
手を離すと何かを警戒する小動物みたいにぬえが私から距離を取る。顔が少し赤い。ごめん、と謝ると唸られた。
「……まぁ、最近天気悪かったしね」
「は? 急になに?」
なんでもない、と答えて間抜け面をしているぬえの雑巾をひったくる。少し濁った桶の中に、汚れた二つの雑巾を突っ込むと中の水が更に黒く濁った。春先でもまだ水は冷たいらしくて、ぬえは雑巾を洗うのが嫌だと我が儘を言う。なので私が代わりに濯いで絞ってやっていた。濡れた手を振りながら一つの雑巾をぬえに渡す。
「ほら次。さっさと終わらせ」
ねじれた雑巾がゆっくりと重力に従ってだらりと落ちる。その先に雑巾を受け取る相手はいなかった。
***
『一輪、一輪』
彼女は空が良く似合う。雲居って名字に、入道雲を連れていて。
文屋には大空に咲く花って言われてた。本人はそんな風に茶化されるのは嫌だと恥ずかしがっていたけれど。
よく屋根の上にいる女の子。大切なあの人を、聖白蓮をみんなと一緒に迎えに行くために大空を船で駆けぬけたあの日から、晴れた空の日には屋根の上で空を見上げている。そういえば封印される前も、高い山の上にあるお寺の境内からよく外を眺めていた。
青い空。彼女に似た吸い込まれそうな色。
『一輪、一輪』
苦しくなって縋るように名前を呼んだ。
『うん? 村紗?』
『そうだよ、一輪。ねぇ一輪』
『なぁに、どうしたの』
お願い、そこから降りてきて。空の色が眩しいんだ。建物の陰で話そうよ。
***
「くっそ……ぬえの奴、後で覚えておけよ」
濡れた雑巾を適当な所に干して手を洗う。あの頭の触角ひっこぬいてやろうかな、なんて思いながら手洗い場の窓から外を見た。
「いー天気、だねぇ」
こんな日は彼女はきっと屋根の上にいる。綺麗に干された洗濯物を見て満足気に微笑んでるに違いない。
無性に喉が渇いてる気がした。態々コップを取りに行くのが面倒臭くて、手酌で水を飲んだ。もう一度掬って顔を洗う。顎からぽたぽた滴が垂れて、服が濡れても気にならなかった。寧ろ足りない。全身に水を浴びればやっとさっぱりするのかもしれない。だから一雨くればいいのに、なんて思った。
足が自然と歩き出す。庭へ向けて、彼女の元へ。
*
「一輪、一輪」
案の定、彼女がいそうな中庭に面している屋根に紫色の雲が乗っかっていた。きっと雲山だ。よく見張り番といいつつ、時々うたた寝してるらしい。
「一輪、一輪」
呼びかけると雲がもこりと動いた。やっぱりそれは入道の雲山で、ぎょろりとした大きな目玉が雲の合間から飛び出した。何か喋ってるんだけどうまく聞き取れない。
「雲山、一輪そこにいる?」
「……」
「ごめん雲山聞こえないや。一輪、ねぇいちり」
ブワッと視界一面に紫が広がる。あっと思う間もなく体が宙に浮いて世界が反転した。
「っ!?」
「……」
「……吃驚、した……」
先ほどまで上にいた雲山が私の隣で長い溜息をついてこちらを見ている。喉になにか食いこんでるって思っていたら私が滑って落ちないように雲山の手が私の襟を掴んでいた。
「え、雲山?」
状況がよくわからないけれど、とりあえず落ちないように手で身体を支えると、雲山の手が離れていく。雲山に服の裾を直されながらボソボソとここに一輪はいないと言われた。
「なんだ、いないんだ」
ふぅとため息をついた。いなくて残念な気持ちと、いなくて安心した気持ちが重なって嫌な気分になる。
ぼんやりしていると雲山がいつもいつもうるさい、と文句を言ってきた。曰く「いつもお前は一輪を呼びすぎる。お前がこい」と。
「いやだって高い所苦手だし」
「……」
「じゃあ暫くここにいろって? あー……いやごめん、高い所苦手っていうのは嘘なんだ。結構平気」
嘘をついたからか、ごつん、と頭に拳骨が落ちてきた。痛い、と文句を言うと面倒臭そうな顔がそっぽを向きながらもぞもぞ動いて静かになった。前へ回り込んで顔を覗きこむと目を瞑っていてどうやら昼寝するつもりのようだ。真面目なのか不真面目なのかわからない。
「うーんざぁん」
隣に連れてきておいて勝手に一人で寝てしまう雲山にちょっと苛ついて寝かせないように抱き付いた。案の定少し焦る声が聞こえてにやりと笑う。雲山はもふもふしてて気持ちがいい。しかも今は太陽に長い時間当たっていたようで暖かい。もふもふふわふわ。普段からこう暖かいといいんだけど、普段は――雲だからか――ちょっと冷たいので一輪ぐらいしか彼に触れてない気がする。
――雲山? 暖かいわよ。包み込まれてる感じなの。
「いいなぁ雲山」
「……」
「なにがって、そりゃ一杯抱き付いてもらってるじゃん。女の子に」
「……」
「硬派な事言ってても嬉しそう」
雲山が私を睨んでなんかぶつぶつ言ってるけど聞こえないふりをした。雲山によりかかりながら体勢を変えて、彼を枕代わりに寝転ぶ。
上を見れば青空で白い雲がゆっくり泳いでいて、横を見れば白い雲を泳がせている青空がどこまでも続いていた。
「いいなぁ、雲山」
眩しくて思わず腕で目を覆う。そうすれば見慣れた影が降りてくる。
「雲山は雲。空にいたってなんもおかしくない」
「……」
「私だって何言ってるかわかんないもん」
ずるい。羨ましい。こんな明るい場所でこんな眩しい場所で笑っていられるなんて。
「んーと、ほら一輪がさ、あー……なんていうの? 気持ちよさそうにしてるから」
彼女が笑って、眩しさに目を細めながらも空を見上げていたから。それに倣って私も空を見上げたら太陽の光が眩しくて思わず目をそらしてしまった。光に当てられた瞳は彼女の輪郭さえもぼやかして、私と彼女が見ている世界は違うんだと思い知らされる。ぼんやり感じた寂しさは私の視界を更にぼやかすから、誤魔化すように少し湿った目を擦った。
それから少しずつ、彼女が屋根へあがる度に心のどこかが痛んで。
「いいなぁって、ずっと思ってたんだ」
心が暗い水に浸食されて、気付いたらとめられなかった。
「名前を呼んでさ」
空の色に似た髪が風に靡かせて澄んだ空気を一身に受けてる彼女が羨ましくて、逆光の中に消えていってしまいそうなのが怖くて。
「理由付けて、ずっと呼んでたの」
「……」
「置いていかれるんじゃないか、って思って」
地底にいた私たちが再び空を見れる日。
それはきっとあの人と再び会える日。
それはつまり、彼女はその日まで、ここから出られなかったということ。
約束したんだ、一緒に出ようって。一人だけじゃない、二人だけでもない。私と一輪、雲山と、聖と。
「ごめん、雲山。ほんと、何言ってるかわかんないや」
ふぅとため息を吐き出す。いくら呼吸を必要としなくても、生きていた頃の癖なのかため息の動作は同じだった。それに鬱屈とした感情は外に出さないとだめらしい。特に私みたいなのは。聖がそう言っていた。
「……何も聞かないよねぇ、雲山って」
「……」
相変わらず黙りこくっている雲山に、話を誤魔化す様に抱き付いた。
こんな話を彼にしても仕様がないのはわかっている。だけど話してしまうのは、この屈折した気持ちが少しでも彼女に届けばいいという思いがあるからだ。
雲山の大きな指が私の服を掴んで引っ張る。それに負けないようにひっつこうとしたけれど雲山の力にはかなわなかった。簡単に引き離されて隣に置かれる。つれないなぁとは思うけれど、まぁ仕方ない。大人しくぼんやりと雲山と一緒に遠くを見た。
ざぁ、と風が頬を撫でて気持ちが良かった。独り海にいた頃は、風なんて私の体を傷つけるだけだったのに。
「……ねぇ、一輪は、どこにも行かないよね」
空を昇っていく彼女。見上げるだけの私はいつか彼女の姿が見えなくなってしまうんじゃないか。風に乗ってどこか遠くへ行ってしまうのではないか。
私達の約束は果たされて、もう何の拘束力も持っていない。
繋ぎとめる何かが、欲しかった。
「自分でも吃驚なんだけど、幽霊って欲深なんだねぇ」
長いため息が出た。彼女を繋ぎとめてどうしたいんだろう。私は。
ずっと沈黙を守っていた雲山がもそりと動く。その大きな手が目の前に迫ってきて、叩かれるのかもしれない、とぼんやり思う。けれどそのまま頭の上に乗っかって、大きい手でわしわしと撫でられた。頭がぐわんぐわんする。
「わぷ。うぇ、わ、心配、するな?」
「……」
雲山は自分たちの居場所はここにある。どこにもいかないと、と。そう言ってまた口を噤んだ。そういう雲山はやけに格好良かった。一輪が雲山を一番の男前といっているのも頷ける。
「あー……もう私を雲山のお嫁さんにしてよぉ」
格好良く決めていた雲山がいきなり咳こんだ。明らかな焦りの顔を浮かべて私を睨む。
「やなの? えぇと、じゃあ娘さんを私にくださ――」
ゴツン、と頭を拳骨で殴られた。慌てて頭をガードしたけれど、手の下で頭がズキズキと痛んだ。
「いったぁ……」
雲山は怒り、よりかは照れの表情で私にブツブツ聞き取れない文句を言っていた。
「一輪はやらん、って今時そんな頑固おやじ流行らないよ。でも雲山が独り身になるのはかわいそうだから私が一輪の嫁になろうってだからやめてってば!」
拳を振り上げて雲山が抗議する。応戦しようと柄杓を取りだして水で弧を描いてできた錨を背負った。
「っていうかなんでダメなのよ。いいじゃんいいじゃん。ずっと一緒に居たんだし、これからだってずっと一緒にいてもいいでしょう。今更仲間はずれとかヒドイって。それにほら、どこの馬の骨かわからない奴に一輪渡すよりか絶対マシだって、そもそも雲山の娘じゃないでしょ」
どんな奴よりも、一輪の事を理解してやれる自信はあった。
「雲山、雲山が一輪を守るって決めたように、私だって」
大きな目に睨まれる。けれどそんなの怖くない。雲山なんて怖くない。毘沙門天の炎だって怖くない。私が怖いのは、怖いのは。
「一輪の」
「おーい、ムーラーサー?」
私を呼ぶ、あの声が、
「――っ!? いっ」
体全体を暴力的な力によって叩かれた。肉が叩かれて骨が軋んで、空へと投げ出される。紫の拳がゆっくりと崩れていく。紫の靄が晴れる先に青空が見えて思わず手を伸ばしたけれど、困った。
全く届きそうになかった。
*
「じっとしてて」
「……すぐ治るのに?」
「すぐ治るだろうけど、見てて痛々しいのよ。ほら、お仕舞い」
「いって」
ぱん、と肩を叩かれて酷く傷んだ。
「……生傷絶えてないのは一輪の方だと思うんだけど」
「そうかな?」
「おっきい音したと思ったら魔法使いと戦ってるし、遅くに帰ってきたと思えば御札貼られてるしボロボロだし、挙句にはマミゾウさんやお面被った女の子と楽しそうに決闘してるし」
「こころさん?」
「そうかな?」
桐箱の中に入ってる薬品見ながら「これまだ平気かしら」なんて気にしている一輪はそれより、なんてのんびりいいながら「なんだって雲山と戦ってたのよ」と話を変えた。
「まさか上から降ってくるとは思わなかった」
「あーまぁ色々と」
「ふぅん。よくわかんないけど」
「雲山が頑固親父なのがいけない」
「村紗が軟弱者なのがいけないって言ってたわよ」
似たもの同士ね、なんて言われて、げぇ、と嫌そうな顔をしていたら一輪が楽しそうに笑った。
「俺は許さん、だって。何話してたのよ、本当に」
「……うん。まぁ、その、色々と」
雲山ってば、ひどいな。雲山に嫁ぐのはやっぱダメだ。
「……まぁ雲山はしめといたから」
「いや、私も後で謝りに行かなくちゃ」
あの時、声に気を取られてよそ見した私もいけないのだ。雲山が本気出してたら、きっともっとひどかったと思うし。
「……雲山もちょっとしょぼくれてたみたいだけど」
「それより一輪、私の事呼んだよね?」
「えっ? あ、あぁ」
何を言おうか考えあぐねていたらしい一輪は会話の糸口に飛びついてきた。
「と言っても、別に大した用事じゃなかったのよ」
「そうなの」
「うん。お茶でも飲まない、っていう」
「お茶ね、飲み行く?」
「飲みに行ってもいいけど」
一輪はじっと私を見て、包帯の巻かれた腕をとった。優しく撫でられてこそばゆい。
「一輪?」
「痛い所、ないの?」
「……ないよ? 幽霊だもの」
「私ね、昔怪我した所、姐さんに優しく撫でて治してもらったの」
「うん?」
何の話だろう。一輪の身体が私に近づく。
「一輪?」
「撫でて貰ってる内に、怪我した所の痛みもだけど、その、暖かさに泣いちゃって」
手がぽん、と私の頭の上に乗って。
「……ねぇ村紗。痛い所、ない?」
「……」
「頭の裏、たんこぶできてるんじゃない?」
そう言って頭を撫でられて。
「……一輪は?」
「私? 私は……最近背中蹴られちゃって」
「あんま、危ないことしないでよ」
背中に腕を回して撫でる。一輪の腕の中に抱かれて一輪が言うようにその暖かさに泣きそうになって、思わずぎゅっと力を込めた。
「うん、気をつける」
「弾幕ルールって言っても怪我はするし」
負けても楽しそうに笑ってて、
「……お願いだから」
どうか置いて行かないで。
「大丈夫、大丈夫だから。心配しないでよ、ね?」
涙で滲むのは落ちた時の傷が痛むせいだ。空を飛べない私はただ空から落ちるだけなのだから。
*
『村紗!』
全身で船を動かしていてそれどころではなかったけれど、あまりにも明るい彼女の声の方に顔を向けた。轟々となる風の音。隣で私の腕に掴んでいた彼女は髪を風に靡かせて、その指を白い光に向けて指していた。
『あぁ……村紗! 村紗!』
私の両手には馴染み深い舵の感触。ずっとずっと動かせる日を待っていた。力を込めると船が呼応したかのように、スピードを上げて真っ直ぐ真っ直ぐ昇っていく。
『一輪!』
興奮冷めやらぬ彼女は目をキラキラさせて光を見続けている。
景色が変わる。吸い込まれるような青空が広がる。目が光に眩んで、肌に感じる火傷しそうなほど熱い熱は業の火でも作られた日でもなくて、そうここは、ずっとずっと心の奥の、思い出の中にあった青い空。その空気を一身に受け止めようとして、両手で空を仰ぐ彼女。ずっと私の名前を呼んで、夢じゃないよね? なんて確認しあって。
彼女が笑って空を見上げている風景。ずっと待ち望んでいて、とても嬉しく思っていたのに。
どうして今、こんなにも胸が苦しいんだろう。
*
目を開けると空が赤く染まっていた。起き上がるとすぐ近くから一輪の声が聞こえてきた。
「気分どう?」
「……わかんない、けど」
赤い空の先は黒っぽい紫に変色していて、もうきっと世界は輝きのある黒に飲み込まれってしまうんだろう。
「寂しい」と口に出してしまいそうになって口を噤んだ。一輪が首を傾げて「なぁに?」と聞く。
「ごめんね、一輪。凄く寝ちゃった」
「いいわよ別に。途中で枕役やめちゃったし」
「まくら……役?」
「そそ。いいタイミングでアンタが私に寄りかかったまま寝ちゃったから。枕役。それで忙しかったから洗濯物、全部ぬえと雲山にやらせちゃった」
雲山が一人、洗濯物を取り込んでいる様を想像した。ぬえはきっといない。
「そ、っか」
「その後は、まぁ下ろしちゃったけど、いいよね」
枕と薄い掛け布団。お腹を出していたら冷やしてしまうから。私は船幽霊でそんな事は関係ないのだけど。
「んんー今日のお布団はきっと気持ちいいわよ」
「うん?」
「良いお天気だったから」
「……うん」
屋根の上で、雲山と一緒に笑ってる。
「ごめん、しがみついてて」
「うん?」
「今日だって、屋根の上行きたかったんじゃ、ない?」
「ん……? うん?」
「一輪、いつもひなたぼっこ、してたし」
「……あぁ、あー別にそんなの気にしてないし」
お天道さまは逃げないもの、と一輪は笑って。
「というか、こんな村紗放ってまでどっか行くように見える?」
「……そっか、ごめん」
「んん。どうも」
そうだった。一輪はいつもそう。フラフラどっかに行く癖に、私が怯えている時はずっと近くにいてくれる。
「明日も、晴れだって。ね、だから明日は一緒に屋根の上でひなたぼっこしましょ」
「……私また落ちちゃうかも」
「大丈夫よ。私がいるんだから」
屈託なく笑う一輪は眩しかった。途端に寂しさを覚えてそれを誤魔化すように俯いた。一輪はどこに行っても帰ってきてくれる。どこかに行ったきりなんて、そんな事ないはずだって知ってる。知ってるのに、幽霊に成り果てた身体はそれを信じてくれなくてどうにかなってしまいそうで。
「村紗?」
問われた時に、大好きな手が見えた。私にはない温もりが私の手を包み込んで、それだけで手放し難くなって。
「好きです」
一輪の、身体が跳ねた。顔をあげると驚いた顔をしていた。
「一輪の事が、ずっと好きです」
愛おしいこの人を、誰にも、空にもどこにも行かせたくない。本当は雲山の所にだって。
「これからも、ずっと一緒にいたい、です」
だからどうか、目の行く届く先に。目が眩まない場所で、ずっと、ずっと私と一緒に。