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Table of Contents
Prologue: 歩道橋で (宇佐見蓮子)
Story 01: 患いの落ちる音 (封獣ぬえ)
Story 02: カタコンベ (霍青娥)
Story 03: 風が吹いてくれたら (姫海棠はたて)
Story 04: 追想 (本居小鈴)
Story 05: アンティークのこころ (堀川雷鼓)
Story 06: 正道と邪道 (鬼人正邪)
Story 07: 枯れた彼岸花 (ある少女)
Story 08: もう少し、あと少し (少名針妙丸)
Story 09: シンフォニエッタ (秦こころ)
Story 10: 贈り物 (九十九弁々)
Story 11: 世界で最も軽い元素のように (博麗霊夢)
Story 12: たとえ待ちびとであらずとも (今泉影狼)
Story 13: ずっと遠くから聴こえてくる声 (古明地こいし)
Epilogue: 再び、歩道橋で (マエリベリー・ハーン)
#01
京都では、今日も桜が眩しい。
宇佐見蓮子は、碁盤に組まれた通りを南に向かって歩いている。時おり腕時計に目を落とし、足を速める。ぶつかりそうになる度に頭を下げながら、蓮子は前へ前へと進んでゆく。歩道橋を駆けあがり、欄干に手を突いて首都の風景を眺める。個人用端末を耳に当てる。着信音が彼女を捉える。そして蓮子は呼びかける。
「もしもし、メリー?」
『蓮子、今どこ?』
「歩道橋」
『あー……。ああ、見えた見えた』
駅前のモニュメント。
友人の姿はすぐに見つかった。ここからでも、彼女の金髪は好く目立った。こちらに向かって手を振っている。
「ごめん、遅れたわ」
『はいはい、急ぎすぎて怪我しないようにね』
蓮子は手を振り返すと、再び歩道橋を渡り始めた。風が吹いたのはその時だった。あっという間の出来事だった。手を挙げて髪に触れた時には、帽子は春風に乗って、青空に吸いこまれようとしていた。
#02
一輪が鋏(はさみ)を動かす度に、ぬえは何処か身体が軽くなったような錯覚を抱く。鏡に映った自分の顔はあい変わらずの仏頂面で、可愛げのひとつもないけれど、その表情をこの同居人は気に入ってくれている。どんなにしかめっ面をしてみせても、実の姉であるかのような態度を崩すことがない。
「早いわね、伸びるの」
「鬱陶しいだけよ」
「その調子で背丈も伸ばせたら好いのにね」
「ほっといて」
ふと思い出して、ぬえは訊ねた。
「――そういや、ムラサは? 今日は見かけてないけど」
「さぁね、また何処かで沈んでるのかも」
「マミゾウもいない」
「出かけて行ったわよ。例の貸本屋じゃない?」
「白蓮」
「姐さんはお勤め。邪魔しちゃ駄目よ」
「寅丸――」
「あんたね」
首筋を指の関節で抉られて、ぬえは悲鳴を上げる。
「何しやがんのよ!」
「静かになさい」鏡に映った一輪は、眉間に皺を寄せていた。「手元が狂ったりでもしたら、あんたも困るでしょ?」
ぬえはしぶしぶ従った。
さくり、と黒蜜の髪が、床に広げた薄布に落ちてゆく。髪を切るように、あるいは爪を切るように、想い患いもまた刃物ひとつで簡単に処理ができれば好いのにな、とぬえは思う。
少しだけちょっかいが過ぎただけなのに、たまに調子に乗ってしまって、力加減を間違えてしまうのだ。
#03
「……ぬえ」
鋏を動かす手が止まった。
「なに?」
「私ってさ、そんなに頼りない?」
「え?」
「なんでもない」
「ごめん、聞いてたよちゃんと。でもいきなり云うもんだから――」
「…………」
「怒ってる?」
「何となく、寂しくなっただけ」
「意味が」ぬえは首を振り向かせる。「意味が分からない」
「あんた、私には何も話してくれないから。それがちょっとね」
「も、もう謝ったじゃない。今回はやり過ぎたわ、ごめんなさい」
入道使いの口から、こらえ切れない溜め息が漏れた。
「そういう意味じゃなくて。ああもう、この正体不明」
一輪は黙りこくってしまった。無言のままに散髪を続けた。ぬえも仕様がなくなって、瞳を閉じて事を任せていた。春の空を潜り抜ける小鳥の声が、庭から聴こえてきた。そこに髪を切り落とす音が重なって、唄の拍子を取っていた。
事が終わり目蓋を開けたぬえは、ほとんどヴェリー・ショートになっている自身の黒髪を見て愕然とした。泣きそうな声で(というより泣きながら)抗議を申し立てたが、一輪は肩をすくめるだけだった。
「これから暖かくなるんだし、ちょうど好いでしょう」
ぬえは夕食も抜かして部屋に閉じこもった。夜に水蜜が声を掛けてきたが、部屋に入らせないままに追い返した。そして畳に散らばった髪の残骸をつまみ上げては、一箇所に集めたりした。一輪がどうしてあそこまで怒ったのか、ぬえは最後まで分からなかった。
髪はこれまでにないくらい短く切り揃えたのに、逆に想い患いは増えてしまった彼女だった。
#04
霍青娥は息を吸いこんだ。
濁った空気が肺胞を膨らませてゆく。山奥に掘られた隠れ家のような研究室。作業台に置かれたランプが、この部屋で唯一の照明だ。炎の揺らめきに合わせて、天井にはびこる影が波を寄せては返している。
「これも駄目ね……。芳香ぁ」
青娥が呼びかけると、脇に控えていた宮古芳香が首を上げ、台から用済みの遺体を抱えあげた。遺骸の臓腑が腐れ落ち、水気の多い粘土を思いきりぶちまけたような音が床を這いずった。芳香は跳ねながら通路に向かい、研究室から消えてゆく。
「どうしましょう。もうストックも僅かね……」
手袋を外し、汚物が付着していないことを確かめてから、手の甲で額の汗を拭った。焚きしめた香で悪臭をごまかしながら、かれこれ三日間、地下で個人的な作業に没頭している。
考えた末、青娥は休息を取ることに決めた。甘いものを口に入れておきたかったし、地上の様子も気になる。道具類を洗浄してから青娥は振り返り、そこに浮かんでいる人影に気づいて、眼をしばたかせた。
「――蘇我様、こんなところに何の御用で?」
「用ってほどでもないんだけど」
蘇我屠自古は帽子の位置を直しながら云う。
青娥は首を傾ける。
「丹薬をご所望ですか? 確か蘇我様は――」
「ああ、違う。それに薬なんか嫌いだ」
「でしょうね」
「少しの間、ここでくつろがせてもらっても好いか?」
「……それは、――ええ、でも」
「何も触らないと約束する」
ここは世界でも有数の“くつろげない場所”だと青娥は思った。でも口には出さない。永い付き合いだ。約束は守るだろう。承諾してから、青娥は鑿(のみ)で穴を空け、地上の光を浴びにいった。
#05
レアチーズ・ケーキ(臓器のように赤黒い苺ジャムが表層に使われていた)を四切れほど拝借してから、青娥は研究室に戻ってきた。屠自古は天井を見上げていた。意識を希薄にしているのか、幽体の輪郭が薄らいで見える。今にも空気と同化して溶け崩れてしまいそうだった。青娥は笑いながら訊ねた。
「……落ち着きますか?」
屠自古が振り返らずに答える。
「太子様には内緒だから」
「分かっています」
「時どき、恋しくなる」
「何がです?」
「暗闇」
「大祀廟の?」
「ああ」
「……千と四百年ですものね」
「黴の臭いが染みついたみたいだ」
「死臭よりはマシでしょう」
「それもそうか」
屠自古は手に持った人骨をしげしげと眺めてから、脇に放り捨てた。
「青娥、――何処か暗いところに閉じこめられた経験はある?」
「そんなのしょっちゅうですわ。でも、ええ、……小さい頃、家の蔵に押しこめられたことがあります。遠い遠い昔の話ですが」
「何でまた蔵なんかに?」
「お仕置きだったと思います。あるいはしつけ。もう顔さえ覚えていませんが、あの場所を満たしていた、手に触れられそうなくらいに粘り気のある暗闇のことは、今でもはっきりと思い出せます」
「私は……」屠自古は一瞬だけ、云い淀んだ。「私は、色んなことが思い出せない。断片的で、取りとめがない。飛鳥の頃に、太子様や物部と過ごした想い出の何もかもが、どんどん手応えを失ってきてる」
黄緑の髪が握りしめられ、くしゃりと潰れた。
「でもこの場所にいると、少しは鮮明になってくる。肩の力を抜いて耳を澄ませば、指の間からこぼれ落ちていったものが見えるようになってくる。それは本当。嘘じゃない」
言葉を結ぶと、屠自古は彫像のように動かなくなってしまった。
青娥は差し挟む言葉を持たなかった。肩をすくめてから、屠自古の脇を通り過ぎ、また作業台に向かった。
ランプに照らされた地面は、永年に渡って注がれてきた血で黒ずんでいる。処理に困り、穴を空けてそのまま埋めてしまった遺体も数多い。それらはとうの昔にすべて骨になっているはずだった。
邪仙と怨霊。二人の少女は、おびただしい人骨の真上にいる。
#06
カーテンを引くと、部屋に春の陽が差しこんで、埃が砂塵のように宙を舞っているのが見えた。はたては水を立て続けに三杯飲んでから、顔を洗い、歯磨きを済ませた。玄関でつっかけを履いて、寝間着のまま外に出た。空には羊雲が浮かんでいた。好く晴れた春の日和だった。
時刻は既に昼前だった。いけない兆候だと思った。暖かくてぽかぽかとしているために、心も呆けてしまうのならまだ好い。今はただ、億劫なのだった。塞いでいると云った方が好いかもしれない。お酒なんて飲んでないのに、側面から後背にかけて、頭に鈍痛がのしかかっている。
「……しっかりしなきゃね」
自分に云い聞かせたその声が、何よりも頼りなく掠れていた。
#07
にとりが果物をバスケットに詰めて、玄関の扉をノックした。はたてが出迎えると、河童は手を挙げて笑ってみせた。
「安静にしてる?」
「もう治った」
「そう? 顔色が悪いみたいだけど」
「いつもこんな感じよ」
「天狗様でも風邪はひくんだね。ちょっと新鮮」
「その云い方、きらい」
「ん?」
「“天狗様”って……」
「ああ」にとりは帽子に手を触れた。「そうだね、ごめん」
真っ赤に熟したりんごを、にとりは包丁で切り分けてくれた。
「新聞も、ここんところはお休みだったね」
「ペンを執るのも億劫で」
「心配してたよ」
「え?」
「射命丸さんが」
「うそ」はたては噴きだした。「まさか」
にとりはりんごをひと口に平らげた。そして云った。「今朝、あのひと掲示板を見てた。誰かの名前を探してるみたいだったよ。たぶん、はたてのことだと思う。表にはあんまり出さないひとだけど」
「自分の探してたに決まってんじゃん」
「『文々。新聞』には始めに目を留めてた。順位は上がらなかったみたい。それから『花果子念報』を――」
「でも、なんで私、――だって」
「“私達は対抗新聞(ダブル・スポイラー)なんだ”って先に云いだしたのはどっちだっけ?」
「それはそうだけど……」
「向こうもけっこう乗り気だったみたいだし」
にとりは罪のない無邪気な笑みを浮かべていた。
はたては湯呑みを両手で包みこみ、いつかの文の言葉を思い返した。確かに“面白い”だとか、“出来るものならやってみなさい”とは云っていたけれど……。
はたては先ほどまでの憂さも忘れて、にとりの言葉を考えていた。春の暖かみが、ようやく身に染み入ってくるのを感じていた。
#08
後日のことだ。
はたては久々に広場まで出向いて、掲示板を確認している。圏外だったが、順位は上がっている。「はたて」と声を掛けられて振り向くと、そこには文がいる。もうマフラーはしていない。長袖のままではあったが、春の生気に満ち溢れた表情だ。
「文、久しぶり」
「ええ、――体調は?」
「もう平気」
「そ、好かったわ」
「うん」
「体力無いんだから、気をつけなさいよ」
「ありがと。でも大きなお世話」
はたても、はにかまないように努力して笑ってみせた。文が掲示板に視線を移す。「文々。新聞」は「花果子念報」よりも上の方で頑張っている。いつも通りだった。
「うーん……」文は腕を組んだ。「また差をつけられちゃったか」
「どうしたの?」
「この前ね、けっこう好い仕上がりの新聞を読んだのよ。そいつの順位が私よりも上で。――ほら、このひと。……久しぶりに内輪向けじゃない、心のこもってる新聞を読ませてもらったから、ずっと気になっていたのよ」
「そうなんだ」
「それで、順位を追っかけてるってわけ」
「なるほど」
「気づいたら、いつも真っ先に探しちゃってる」
「そっか」
そっか。
はたては何度も頷いた。頷きながら、目を伏せていた。
文が顔を覗きこんできた。
「大丈夫なの、はたて?」彼女は云うのだ。「まだ全快してないんじゃない? あまり無理しない方が好いわよ」
#09
蓄音機からはクロード・ドビュッシーの「夢」が流れていた。ピアノのメロディに合わせるかのように、阿求が『古事記』の一節の暗誦を続けてゆく。小鈴はそれを聴き取りながら、筆を走らせ、本から失われてしまった箇所を適宜補った。
“大切に扱って下さい”と念を押しても、確率として貸した本が傷つけられてしまうことはある。今回本を借りたお客さんに罪はなかったのだが、家にいた赤ん坊がおもちゃにしてしまった。最古の歴史書に“おいた”をはたらくなんて、末恐ろしい子だと思う。そのひとはお得意さまで、本心から申し訳なく思っているらしい様子が見てとれた。小鈴は賠償を請求しなかった。抜群の記憶力を持つ友人を呼んで、暗誦してもらった。取りあえずの応急処置だ。
作業を終えると、もう何度かリピートさせていたクラシックの調べも止まった。阿求は角砂糖をカップに放りこんでから、紅茶を美味しそうに飲んだ。
「この代にもなって暗誦することになるなんて思わなかったわ」
「お疲れさま。悪いね、忙しいのに」
「そうでもないけど。よりによって『古事記』だなんて」
阿求は眉間に微かな皺を寄せながら笑っていた。
「“よりによって”って、どういうこと?」
「なんでもない」
「そういう云い方されると、気になる」
問いかけを続けようとした時、暖簾に懸かっていた鈴が客の来店を告げた。
「いらっしゃいませ」
丸眼鏡を外してから、小鈴は席を立った。
#10
お客さんとの応対を終えてから、小鈴は席に戻った。阿求は机に置かれていた書物に目を通していた。作業に使えるかもしれないと思って、棚から取り出していたのだった。
阿求が顔を上げる。「小鈴んち、ちゃんと『古事記伝』もあるのね」
「それがないと分からないところもあるから」
「作者名が書かれていないけれど……」
小鈴は頷いた。「最初からなかったわよ。不詳なんじゃない?」
阿求は不思議な表情でこちらを見据えていた。目を見開いて、でも唇は引き結んだままで。やがて「そう」と言葉を漏らすと、本を閉じた。
それから二人は紅茶に親しみながら、雑談を交わしていった。阿求は何処か上の空だった。時どき天井をじっと見つめては、小鈴の声で我に返るという場面が何度かあった。蓄音機から再び「夢」が流れ始めた。湿ったノイズ混じりのピアノの旋律が、まるで遠いところにいるひとが発した呼び声であるかのように、繰り返し小鈴の胸に染みこんだ。
「そろそろ帰るわね」阿求が席を立つ。「労働の対価として、割引サービスくらいはして欲しいかも」
「う……。か、考えとくわ」
「当然でしょう」
友人は小鈴の両親に挨拶して出て行った。暖簾を潜る際に少しだけ背を丸める。その時の彼女の背中が、何処か寂しげに縮んで見えた。小鈴は眼をしばたいてから、名残惜しそうに揺れている暖簾をしばらく見つめていたが、やがて読書に戻った。
蓄音機は「夢」を奏で続けていた。
#11
コンサートの仕上がりは上々だった。
クラシックの名曲をジャズ・アレンジして、九十九姉妹とトリオで演奏した。姉の弁々はナイロン弦を張ったギター、妹の八橋は乾いた音を響かせるピアノ。自分の担当は、もちろんドラムだ。
中でも紅魔館の主に好評だったのは、最後に演奏したクロード・ドビュッシーの「月の光」だった。メロディが流れると、主はグラスに注がれたカベルネ・ソーヴィニヨンの赤ワインをくゆらす手を止めて、深紅の瞳を閉ざしていた。耳を澄ませていた。まるで風の音に混じって伝わってくる、大切なひとの声を聴き取ろうとするかのように。
ピアノが生み出した余韻を八橋が正確に切り上げると、レミリア・スカーレットは拍手してから、何度も頷いてみせた。
「いやだわ、懐かしい。もう随分と聴いてなかった」牙を覗かせて笑う。「素晴らしかった。また聴かせてちょうだいな」
「気に入ってもらえて嬉しいわ」
雷鼓も微笑んだ。
「リクエストしても好いかしら。今のうちに」
「なんなりと」
「パヴァーヌが聴きたいわね。ラヴェルの」
「分かったわ」
「それにしても……」
レミリアは雷鼓と姉妹の顔を順繰りに眺めた。テーブルに頬杖をついて、微笑みを浮かべながら。
「付喪神って便利なものね。本当に以前は和楽器だったの?」
「ええ」
「異変のことは咲夜から聞いたわ。魔力を取り替えたって」
「そうよ。それで自由を手に入れたの」
「“自由”を手に入れて……」吸血鬼が指を振る。「それで、この幻想郷で何をしていくの?」
「何を……?」
「興味があるのよ。あなた達のような道具が何を願い、何を為すのか」
「道具だって自分の意思で楽しみたい。雷鼓はいつもそう云ってるわ」
弁々が助け船を出した。
レミリアが眼を細める。
「そう。それは分かる。私が好奇心をそそられるのは、結局のところ、あなた達も異変で暴れた妖怪達と同じような望みを持っているのかってこと。――反逆か、革命か」
雷鼓は背筋を伸ばした。スティックを握る手が汗ばんでいる。
レミリアは続けた。「自分の意思を持つということ。それは幻想郷に住まう者にとっては前提であって目的ではない。自由になった今、あなた達は自身の運命を自らの手に引き受けてしまっている。その上で、何を築きあげてゆくのだろうってとこに、私はスゴく興味があるの」
雷鼓は、明確な答えを返すことができなかった。
#12
その夜、プリズムリバー邸の寝室で、雷鼓はカウチに寝ころびながら考えこんでいた。蓄音機からはモーリス・ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」が流れている。当主様の書斎から発掘した骨董品(アンティーク)だ。
レミリアの言葉を反芻する。
「自由であることは前提であって目的ではない」
あれは警告、だったのだろうか。それとも、老婆心からのアドヴァイス? この世界で何を築きあげてゆくつもりなのか。ヴィジョンなら持っている。楽園での生活を音楽を奏でながら過ごす。命のビートを刻み続けてゆく。付喪神の仲間達と共に。
それだけでは、いけないのか。
寝返りを打って、浮かんだ考えを振り払った。春の暖かな宵にも関わらず、眠りに落ちることができない。私らしくないな、と思った。こんなところ、弁々や八橋には見せられたもんじゃない。
蓄音機を止めて、窓辺に立ちつくした。夜の訪れと共に霧が晴れ渡ってゆき、湖の視界はクリアになる。水面は鏡のように凪いでいて、夜空の月が映りこんでいる。手を伸ばせばつかめそうなくらいに、輪郭までくっきりと浮かんでいた。ありもしない幻の、月の光だ。
窓に人差し指を滑らせながら、雷鼓はワイン・レッドの髪をうつむけた。楽譜に致命的な欠陥を発見した作曲家のように。
今になって、ようやく気づいたことがある。
和太鼓だった時分のことだ。
演奏していた使役者の顔を、雷鼓はもう、おぼろげにしか思い出せなかった。
#13
鬼人正邪は座敷に正座させられていた。何処とも知れない屋敷に拉致されたのだ。膝にちょこんと置いた握り拳を睨みつけながら、仙人様の説教を拝聴している。
「妖怪としての性は抗えないもの。そのことは充分承知しています」
「…………」
「ですが、妖怪とは人間の想いひとつで根っこを改めることのできる存在。好く云えば柔軟、悪く云えば曖昧――」
「……で?」
「つまり、生まれ変わった姿を人びとに見せつければ、貴方は天邪鬼という縛りから脱却することができると、私は考えます」
正邪は首を振る。「正気かお前? いくら時間をかけたって、ジャガイモはカボチャやほうれん草になんかなれないぞ」
「人間は死んで、――あるいは生きながら鬼に化けることができます。あるいは修行して仙人にも。それとまったく同じことが、貴方にも云えるはず」
茨木華扇は拳を振って、切実そうな口調で語った。正邪は煎餅をばりばりと咀嚼しながら、目つきを鋭くする。
「……仙人様は妖怪を正しい方向に導くのが役目(ちから)と?」
「ええ、まあ。仙人というより、私自身の……」
「前にもそんな奴がいたんだ。究極的におせっかいな神様気取りが」正邪は華扇の顔を眺めた。「……というか、どっかで見たことがあるな、お前。ちっと昔のことだから思い出せないが」
「気のせいでしょう」
「いや絶対、気のせいじゃない。確か――」
「どうでも好いことです!」華扇が遮断する。「さぁ、修行を始めましょう! どのみち貴方を野放しにはしておけません。少名針妙丸さんのように、また罪のない人妖が騙されてはいけませんから」
#14
今になって滝に打たれる羽目になるなんて思ってもみなかった。轟音に包まれる中、時おり天狗の白いのや黒いのが飛んできて、面白そうに見物しては帰っていった。中には写真を撮っていく奴までいた。禊ぎの真似事をしている自分の姿が紙面を飾ることになると思うと、正邪は何だか泣きたくなってきた。
牡丹のような紅色の髪を有した少女が、華扇と話をしている。
「なんだい、また啓蒙活動かい?」
「冷やかし? 修行の邪魔よ」
「巫女だってあっという間に元通りになったじゃないか」
「あれは間違いだったかもしれない。でも今度は違うわ」
「関わらん方が好いよ。あれには」
正邪は顔を上げて少女を観察した。あの鎌は死神だろうか。姿勢を変える。とんだおっかないところに来てしまったものだ。
「あの反骨っぷりが天邪鬼の本分なんだろう? こればっかりはいくら修行でも変えらんないよ」
「やってみなければ分からないわ」
「やらなくても分かる。あれの役目は悪さをしでかして、そんでもって多聞天様の足に踏みつけられることなんだよ。そういう形で人間に奉仕してるのさ。“因果応報。仏様を信じれば、悪鬼は退治される”とね」
「……邪道も裏返せば正道と?」
「そこまで云うつもりはないがね――」
正邪は背中が痒くなった。
またひとつ、嫌な想い出が蘇ってしまった。
#15
茨華仙は里でも名の知れた食いしん坊と聞いていたが、出された食事は簡素なものだった。少なくとも屋敷では仙人らしい暮らしを送っているらしい。
「この漬け物、まだあるか?」
「ええ、こちらに」
「美味いな、味噌汁」
「新鮮な山菜を使っていますから」
「肉はないのか」
「当たり前です」
「……ちっ」
「文句云わない」
食べ終えた正邪は改めて仙人の姿を見た。梅色の髪。自分にとっては角がある場所に、シニョン・キャップが被せられている。手を伸ばそうとすると睨みつけられた。
「気になりますか?」
「別に……」
華扇は箸を置いた。「悔い改めれば救われる。――そんな宗教は妖怪にはありません。大悪党はいつまで経っても大悪党です。でも過ちを償うことはできます」
「“敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい”か」
「そこまでは求めません」
小人の姿を思い返した。私にもあのようになれと? 逆立ちしたって出来っこない。出来るわけがない。
正邪は咳払いした。
「仙人様、――なぁ、こう考えてくれないか?」
「何です?」
「私は座ってピアノを弾いていた。そのピアノからは好い音が出る。好い音を奏でられる奴は善人だ。――だが、後ろから小さな子供がやって来て、ピアノを弾きたそうにしている。私は席を譲ってやった。子供は喜んで弾き始める。でもってそいつの演奏の方が、私よりも上手だったんだ。だから私は部屋の隅に引っこむ。まだ幼い子供だ。押しのけるわけにもいかないだろう?」
華扇は口を呆けたように開けていた。すぐに我に返った。
「それは、それは詭弁ですよ。一緒に演奏すれば好いじゃないですか」
「ああ」正邪はあくびをした。「眠い」
「はぇ?」
「もう寝たい。何処で眠れば好いんだ?」
華扇は溜め息をついた。「……案内します」
「どうも」
正邪は華扇に続いて部屋を後にした。一度だけ振り返った。ちゃぶ台に残されたお椀が眼に留まった。あの味噌汁は本当に美味かった。その味だけが、正邪にとってのリアルな正義だった。
※このお話のみ、オリキャラが登場します。ご注意ください。
#16
初めて焼いたのは両親だった。見よう見まねで炉に薪をくべて、ふいごで風を送った。でも見事に失敗してしまった。神様か何かにしがみつくような格好で、真っ黒になってしまった両親は、もうどちらがどちらなのか見分けがつかなくなった。それから私は、二度と失敗しないと心に誓った。じゃないと、私はお客さまからお金をもらうどころか、逆に炉へ放りこまれて、火を点けられてしまうと思ったから。
もしかしたら、中には私の名前を知りたいと思うひとも出てくるかもしれない。申し訳ないことだが、物覚えの悪い私はいつだったかそれを落っことしてしまった。それは柳の運河に投げこまれた小石みたいに、ちっぽけな波紋を広げながら、水底に沈んでいってしまった。私のような仕事をしているひとに、名前は要らないのだ。
だから、あなたは“火葬屋”と呼んでくれれば好い。
#17
朝から降り続いていた春雨も止んだ。私は遺体を留め置いている納屋に向かった。あれを焼いて埋めたら、次は納屋の清掃をしなければならない。だが戸に手をかけようとした時、誰かが中に忍びこんでいることに気がつく。
「……誰ですか?」
物音が止んだ。
「誰なんです?」
「――警戒しないでおくれ。ちょいと品定めをしていただけだよ」
私は懐から小刀を取り出した。父の形見だ。
納屋の暗がりに紅い髪を有した少女がいた。立ちあがって手を差し出してくる。私は彼女の頭を凝視した。
「その耳、――妖怪ですか?」
「まぁね」
「猫又?」
「火車」
「ああ……」
父から聞いたことがある。目を盗んで死体をさらうという。
「でも、あなたは葬儀の際に現れるはずでは……」
「おやおや、物知りだね」少女は唇の端を釣りあげた。「最近はあちこち出張しているのさ。物は相談だ。この死体、くれないかな?」
彼女は“むしろ”に横たわっている遺体を指さす。
私は唾を呑みこんで、喉を湿らせた。
「だ、駄目に決まっているじゃないですか。そんなことをしたら、私は仕事を失ってしまいます」
「この人間は無縁仏だろ? だったらあたいが頂いてもバレるこたぁないだろう。前から狙ってたんだ。あっさりとは退けないね」
「仏に縁も無縁もありません」
少女は腕を組んで、私の顔を眺め回した。
「なんなら代わりにお前さんを貰っても好いけど?」
「わ、私はここの人間です。手を出したら……」
声が震えていた。自信がなかった。私は他の子供達のようには保護されていないのかもしれない。今まで妖怪の類が襲って来なかったのは、あるいは偶然だったのかもしれない。
「生憎、あたいは地底の出身でね。地上の決まり事なんて知ったこっちゃないね」猫はビー玉のような眼を細めた。「……というのは冗談にしてもさ、だったらなんでお前さんは里で暮らさない? こんなところに居を構えていたらそれこそ」
私は唇を噛んだ。彼女は手のひらにぽんっと拳を打ちつけた。
「あ、そっか。……なんだ、上の人間はまだそんな面倒臭いことを」こほん、と咳払い。「仕方ない。今日のところは大人しく引き下がろう。――でも、あたいはしつこいよ? きっとまた来るからね」
火車は遺体を名残惜しそうに見つめてから、悠然と出ていった。
私はその場にへたりこんだ。腰の力が抜けていた。
#18
納屋の掃除を終えて外に出た。炉から立ち昇る煙が、雲に届かないままに消えていった。野辺の煙だった。私はあの煙を見ると、不思議と落ち着いた気分になる。
傍には生活用水にしている川が流れている。土手には毎年、秋になると彼岸花が一斉に咲き渡る。茎を丁寧に集めて、水に好くさらして毒気を抜いたそれを、私は冬場の非常食にしている。今は彼岸花は枯れていて、地表には顔を出していない。代わりに鮮やかな色合いの袴を履いた少女が、草を口にくわえて昼寝を貪っている。
私は呼びかけた。「小町さん」
彼女が眼を薄く開ける。
「……あい?」
「お久しぶりです」
「ああ、うん。元気かい?」
「なんとか」
「そりゃ好かった」
「火車が来ました。ついさっき。危うくご遺体を盗られそうに――」
「何だって?」彼女は身を起こした。「またあいつか。困ったもんだよ本当に。監視の眼をきつくしておかなくちゃね」
「恩にきます」
小町さんは私の表情を読み取ろうとしていた。
「……何か云われたのかい?」
「いえ、そんなことは」
「あのね――」彼女は鎌の柄をさするように撫でた。「確かに、あんたがやっている仕事は、少しばかり特殊かもしれない。それは認めなくちゃならないだろう。誰からも感謝されないかもしれない。それでも、あんたのおかげで回っている世界もある。気休めかもしれないけど、少なくともあたいらは助かってるんだからね」
「いきなりどうしたんですか」
私は噴き出した。
「……らしくないね、まあ。さっき見た夢のせいかも」
「どんな夢を?」
「教えてやんない」
小町さんはそう云って、また寝転んでしまった。ここからでは表情が窺えない。私は頬を緩めてから、また仕事に戻った。頭上には眼に痛いくらいに青い春空。昇ってゆく野辺の煙。膨張しては流れ出て染みこんでゆく。まるで腐敗した遺体のように。
私が煙になるのはいつのことだろう。
#19
好きかな、好きかな。
針妙丸は独りごちた。絶好の温泉日和だった。漆器の箱に温めの湯を満たして縁側に置いてもらうと、それだけで即席の露天風呂になる。桜の木々を借景に、畳んだ手拭いを頭に乗せ、肩まで湯に浸かっている。
「加減は?」
「気持ち好い。最高」
「そ」
霊夢が隣に座布団を敷いて腰かけた。
針妙丸は労った。「お疲れ様、霊夢」
「腰が痛い」
「針治療でもしよっか?」
「遠慮するわ」
針妙丸は縁に両腕をもたせかけた。耳を澄ませると、幽かな山の響きが風に乗って駆け下ってくるのが聴こえた。木立からは鳥の鳴き声も。霊夢のお茶を啜る音が、時おり空気をかき混ぜてゆく。このまま宙に浮かんでしまいそうなくらいに、身体が軽く感じられた。
「ねえ」
「ん?」
「……霊夢って、何処で生まれたの?」
「どうしたの、いきなり」
「私は光のない世界で生まれたわ。暗渠みたいに陰鬱とした場所。だから幻想郷の風景が、まるで夢の世界みたいにぼんやりと見える。美しいけれど、遠い」
「ふぅん」
「怒らないで聞いて欲しいんだけど」お腹の前で指を絡ませた。「霊夢も、私と同じようなところがある気がして。――ほら、時どきすっごく遠い眼をするじゃない? 貴方のぼんやりは、普通とは違う、何か特別な含みがあるような気がする」
「遠回しに馬鹿にされてるような……」
「違う違う」針妙丸は首を振った。「霊夢――。聞かせて。貴方は心を何処に置き忘れているの?」
霊夢は傍らに湯呑みを置いた。曇りのない透き通った瞳をこちらに向けた。それから嘆息するように息を吐いた。
「私は他のひとと同じように過ごしているつもりなんだけど。ちょっとばかし立場が違うだけで……。でも、そうね。強いて云うなら――」
少女は人差し指を青空に向けて立てた。
#20
霊夢が食事の用意に席を立った直後。
神社に天邪鬼がやってきた。
「姫、生きてるか?」
「ここよ」
「ああ、そっちか。――って、うわ!」
縁側の角から姿を現した正邪が、慌てて顔をそらした。
「馬鹿っ! 風呂に入ってんならそう云え!」
「そんな恥ずかしがらなくても」
「違うわ! とにかくさっさと上がれ! 服を着ろ!」
ブーイングを漏らしながら、針妙丸は箱の縁に手をかけた。
身体を拭いて小袖を着ると、正邪はようやくこちらに向いてくれた。
「ったく……」
「悪かったわね」針妙丸は正邪の顔を見つめた。「……なんかやつれてない? ちゃんと食べてる、正邪?」
天邪鬼は決まり悪そうに頭を掻いた。「山の仙人に捕まってたんだ。今朝方にようやく解放された」
「あらら、みっちりしごかれたって訳ね」
「思い出したくもない。それよりあれだ、打ち出の小槌。もう魔力の回収は終わったんじゃないかと思って、様子を見に来たんだ」
針妙丸は眉をひそめた。「また悪用するつもり?」
「私が同じ作戦を使うわけないだろ」
「じゃあ何さ」
「待ってるんじゃないか、下の連中」
唇を引き結んだ。
「……分かってる」
「もう半年以上は経つぞ。いつまで安寧な暮らしを続けるつもりか知らんが、姫は“こちら側”だろ? こんな妖怪神社――」正邪は台所に視線を配ってから、声を低めた。「……こんな神社にずっと居候していても仕方ないだろうが」
「分かってるよ!」
大声が出てしまった。しかし小人の体躯では、天邪鬼を驚かせるだけの声量は出なかった。
正邪は舌打ちをこぼして云った。
「飼い慣らされて牙を折られたな、姫」
「…………正邪にあれこれ云われる筋合いなんて、ないよ」
「ああ、そうだよ。私にンなことを云う資格はないが――」
「だったら出てってよ!」
今度の叫びは少女の表情を塗り変えた。それは憤怒の形相ではなかった。正邪の顔がみるみるうちに曇った。夏の夕立の空模様のように。
「……だな、おせっかいだった。そんなにあの巫女のことが気になるんなら、好きなだけ居りゃ好い。私には関係のないことなんだ」
最後の言葉は、云い聞かせるかのような口調だった。
我に返った針妙丸は、縁側を飛び降りて天邪鬼を追いかけようとしたけれど、もう正邪は遠くに飛び去ってしまっていた。呼びかける声はあまりに小さすぎて、彼女に届くことはなかった。
#21
独りだけ、浮かない顔をしているひとがいた。
演目「心綺楼」は大人から子供まで笑顔になる、エンターテイメント精神を詰めこんだ新作だ。そのひとだけが頭から尾まで仏頂面を崩さなかったのは、こころのプライドを密かに刺激していた。
舞台が引けると、霊夢への挨拶もそこそこにして、こころは彼女を追いかけた。緋色の髪は好く目立つ。さほど労せずに追いつくことができた。こころは「猿」を頭に乗せて、唇を湿らせてから声をかけた。
「あのっ」
彼女が振り返った。こころよりも背が高い。ひとの好さそうな、けれど底の知れない笑みを繕っている。
「何かしら」
「さっきの舞台……」
「ええ、とても好かったわ」
「でも、あなたはずっと――」こころは息を吸いこんだ。「ずっと、哀しそうな顔してた。出来れば、何か悪いところがあったら指摘してほしい。きっと直してみせるから」
彼女はしばしの間、返事をしなかった。繕われた笑みはあっけなく解けてしまった。口を開いた時には、その表情には疲れが滲んでいた。
「違うわ。舞台は本当に好かった。悪いのは私。苦しくなっただけよ」
「好かったのに、――苦しい?」
こころは「狐」を被って、懸命に彼女の話を理解しようとした。
「大したことじゃないの。とにかく、楽しませてもらった。予定があるから、もう行くわね」
「待って、あなたの名前を教えて」
「雷鼓。堀川雷鼓」
「また見に来てもらえたら嬉しい」
「ええ」
「きっとだよ」
#22
次に雷鼓と会ったのは翌日の午後だった。命蓮寺でマミゾウと話をしていたのだ。彼女が自分と同じ付喪神であることを、その時こころは初めて知った。
命蓮寺をあちこち見学する彼女に、こころは追いついた。雷鼓は戸惑ったような笑みを浮かべた。こころは「姥」を被って、自分が避けられている理由を胸に訊ねてみたが、答えは虚ろだった。
付喪神になった経緯を、雷鼓はざっと説明してくれた。
「魔力の取り替え?」
「そう。私は和太鼓からドラム、――西洋の打楽器にね」
雷鼓は周りに浮かんでいる電子ドラムをスティックで叩いた。青白い電光が迸って、こころの桃色の髪を撫でた。
「そんなことが本当に出来るの?」
「貴方だって似たようなことをしてたじゃない。希望の面だっけ? 新しい依代に、時間をかけて自分を染みこませてゆく」
こころは頷いた。確かにその通りだ。
「原理は同じ。根っこを崩さなければ応用は利く。その代わり、過去の自分は損なわれ、時には失われてしまう……」
雷鼓は立ち止まった。数歩進んで、こころも歩みを止めた。二人は本道に通じる渡り廊下に佇んでいた。格子窓から差し込んだ春の陽が、板敷に模様を描き出している。
楽器の付喪神の少女は、ジャケットの裾を握りしめていた。
「貴方は、――こころは、自分を使っていたひとの顔を覚えてる?」
「全員まではちょっと。色んなひとが被ってくれたから」
「じゃあ、貴方を創ったひとのことは?」
「それなら覚えてる。というか、この幻想郷に居る」
雷鼓の目が丸くなった。
「で、でも貴方が創られたのって、千年以上も前じゃ――」
「話が長くなるけど、とにかく居るよ」
「そう……」
雷鼓の表情が曇った。そうだ、その顔だ、とこころは思った。
「私、ぼんやりとしか思い出せないのよ。付喪神になってから、まだほんの少ししか経っていないのに。自分でも呆れるわ」
「思い出せないと、何か困るの?」
「次のステージに進めないような気がする」
「どうして?」
「言葉にしづらい。……少なくとも後悔じゃない。後ろめたいとも違うわ。申し訳ないという気持ちがいちばん近いかな」
「それで、私の舞を?」
雷鼓は頷いた。「昔の自分に会えるような気がしてね。今から思えば馬鹿らしいよ。私は全てを捨てたつもりだった。今さら……」
それから、はっとしたように顔を上げた。
「で、でも勘違いしちゃ駄目よ。貴方の能楽が素晴らしかったことに変わりはないから。また観に行かせてもらうわ、きっと」
こころは「若女」を付けて、親指を立てる。
#23
マミゾウが入道使いの一輪を連れて境内に戻ってきた。雲山が腕に古びた太鼓を担いでいた。大砲のように馬鹿でかい、埃をたっぷり被ったアンティークだ。
「蔵中を引っかき回したわ。最後に使ったのはいつのことやら」
「ありがとう。助かるわ」
雷鼓は一輪に丁寧に頭を下げた。入道使いは頷いて、こころにも軽く手を挙げてみせ、マミゾウと会話を交わした。
「そういえば、ぬえを見かけませんでしたか?」
「いんや。また出かけとるようじゃの。何か用かえ?」
「この前の散髪のこと、謝ろうと思って」
「ああ。あやつの髪がえらい“くーるびず”になっとったのは、おぬしの仕業じゃったのか」
雷鼓がスティックを振ると、ぽんっと弾けた白煙の中からバスドラムが現れた。腰かけて、手のひらで太鼓の膜を撫でる。とても注意深く。そして受け取った枹(ばち)で二、三回ほど叩いてみせた。腹の底を衝く低音、――始原の音が、空気を震わせた。
こころも雷鼓の向かいに腰を落とした。
「どう? どんな感じ?」
雷鼓は首を振った。「ずっとドラムのスティックを握ってきたせいかしら、違和感が残るわね。身体が感触を覚えているかもって期待してたけど、そう上手くはいかないみたい」
こころは「狐」を被って、しばらく考えこんだ。そして、これしかないと思うアイディアを口にした。
「それじゃ、――私、踊ってみる」
「は?」
「舞に合わせて、太鼓を叩いてよ。リズム好く、テンポを合わせて」
「そんなことで――」
「やってみなければ分からない」
こころは扇子を広げ、その場で一回転してみせた。風に誘われて桃色の長髪が宙を舞う。春を祝う小鳥のように軽快にステップを踏み、次のフォーム、次のフォームへと移ってゆく。
考えることは苦手だった。心の衝き動かされるままに、求められるままにこころは踊ってみせた。雷鼓は最初、呆気に取られて見守っていたけれど、やがてはっと肩を震わせた。炎の色彩を宿した瞳が鮮やかに輝いた。
「そうだわ……」雷鼓は呟いた。「そうよ、私は何を――」
続きは言葉にならなかった。枹を振り上げて、力強く叩いてみせた。その音に、いつの間にか云い争いにまで発展していた一輪とマミゾウが振り返る。こころの舞に合わせて、雷鼓は太鼓を叩き続けた。電子ドラムから雷が幾筋も噴き上がった。ビートと共鳴するかのように。
こころは「福の神」を浮かべた。こんなに楽しく踊ったことはなかった。雷鼓の演奏には不思議な力が秘められているようだった。始原の感情。理屈を抜きにした力強さを呼び覚ましてくれる轟きが、そこには存在していた。後はそのリズムに乗れば好いだけだったのだ。
こころは最後のステップを踏みこんだ。同時に太鼓の一撃が跳ね飛んだ。観客二人と入道が拍手を送る。こころはお辞儀をしてみせた。額に浮かんだ汗を拭い、呆然と手のひらを見つめている雷鼓に近づいた。
「雷鼓さん」こころは「火男」を被って訊ねた。「思い出せた?」
付喪神の少女は頬を染めて、愛おしそうに太鼓の縁をさすっていた。
「ああ、いや、……その」彼女は云った。「まったく、これは――」
#24
プリズムリバー邸の厨房では、今日も姉妹の云い争いが絶えない。
「また焦がしたわね、姉さん?」
「違うよ、半熟が嫌いなだけだよ」
「どうしてあのトロトロの好さが分かんないのよ!」
「あんな気味の悪い食感の何処が好いんだか」
弁々も妹の八橋も、生まれたての付喪神だ。人間のような生活を送るのは、これが初めてだった。音楽性の違いはこだわりの違いになり、目玉焼きの調理でさえもこうして口喧嘩に相成る。
「それより八橋、皿の用意をしなよ。昨日の分、まだ洗えてないじゃないの」
「わ、私が洗うと割っちゃうから……」
「云い訳却下」
両手を挙げて姉にブーイング・サインを送ってから、妹はスポンジを手に取った。例によって洗剤をかけすぎて、シンクがジェット・バスのようになってしまったが、弁々はもう何も云わないことにした。
#25
朝食の準備を終えた頃になって、雷鼓が起床してきた。白のジャケットもラップ・スカートも今はなく、代わりに着ているのは薄紅色のパジャマであり、ワイン・レッドの髪はウェーブも相まって寝癖がスゴいことになっていた。
雷鼓はテーブルに視線を落とした。
「……朝からホット・ケーキ?」
「目玉焼きだよ」
「これが? どうやったら白身がきつね色になるの?」
「それ以上云うと姉さんが泣いちゃう」
「ああ、悪い」
「別に好いわよ」
弁々はそっぽを向く。
「ところで、雷鼓さん」トーストを頬張りながら八橋が云った。「昨日は随分機嫌好く帰ってきたけど、何かあったの?」
雷鼓はコーン・ポタージュをすくう手を止めた。スプーンを置いて、照れくさそうに笑った。
「ちょっとね、嬉しいことがあった」
「どんな?」
「それは秘密」
雷鼓は本当に嬉しそうだった。パジャマや寝癖のせいもあって、その姿は贈り物をもらった人間の女の子のように咲いていた。
#26
亡き当主様の書斎で、レオシュ・ヤナーチェックの「シンフォニエッタ」を聴いていると、玄関のベルが鳴った。弁々は蓄音機を止めて小走りで応対に出た。
知らない妖怪だった。
「初めまして」
「ええ、こちらこそ」
「楽器の付喪神さんはいるかしら?」
「私がそうだけど」
少女は被っていた真っ黒い帽子を手に取ると、くりくりとした眼で見つめてきた。弁々は一歩後ずさった。少女の洋服からはバラの香りが漂い出ていた。
「好ければ、演奏してもらいたいの。私に聴かせて欲しい」
彼女は断りもなしに邸内に入ってきた。
「ちょっとちょっとっ、――貴方は誰? どうしてこの場所を?」
「こころから聞いたわ」彼女は答えた。「湖畔の屋敷に素敵な演奏家がいるって。私の名前は、古明地こいし。よろしくね」
#27
三人が「亡き王女のためのパヴァーヌ」を弾き終えると、こいしは歓声を上げながら拍手してくれた。姉妹の追求を受けて、雷鼓がようやく事情を説明した。
「雷鼓、貴方ずっと気にしてたの? 紅魔館の――」
「ち、違うわよ。あれはただのきっかけ。前から気にかかってはいたけれど、……とにかく、今はもう大丈夫。心配しないで」
「云ってくれれば好かったのに」ピアノの前に座った八橋が云う。「恩になりっぱなしで申し訳ないよ。今度からは相談してね」
「分かったわよ。分かったから勘弁して……」
雷鼓は顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。弁々は彼女を見つめていた。普段は弱みの欠片も見せなかった恩人の、意外な一面だった。
「懐かしいわ。お姉ちゃんに聴かせてあげたい」
こいしが両手を頬に当てながら云った。
「昔はあなた達のような演奏家だったんだけど、膝に矢を、――じゃなかった瞳を閉じちゃってからは、すっかりご無沙汰ね」
「こいしちゃんにもお姉さんがいるんだ」
八橋が訊ねると、こいしは頷いた。
「あなたは、お姉ちゃんを大切にしてあげてね」
弁々は思わず妹と顔を見合わせた。
こいしは笑顔を崩さなかった。
「今日はありがとう。お礼に、私からプレゼントをあげる。ささやかだけれど、きっと役に立つものだから。好かったら使ってみて」
閉じた恋の瞳は指を鳴らした。
#28
その夜、弁々は夢を見た。
こいしが、同じ三つの瞳を持つ妖怪と隣同士に座って、ピアノを弾いていた。それが彼女の姉だった。こいしが低音部を、姉が高音部を担当している。肩の力を抜いて、楽しそうに弾いていた。呼吸はぴったりと一致している。まるで互いの指の動きを共有しているかのように。
弁々が聴いたことのないソナタだった。その旋律は弁々の胸に染み込み、遠い昔から慣れ親しんできた調べであるかのように刻み込まれた。意識の深みの、底の底まで。
それがこいしの“贈り物”だった。
ソナタを弾き終えると、古明地姉妹は顔を見合わせて笑った。弁々は手のひらで胸を押さえた。あんなに仲の好い姉妹が、どうして今は心を通わせることを止めてしまっているのだろう。
姉妹の姿はやがて薄らいで消えていった。弁々は目覚めた。まだ夜明け前だった。枕元に八橋が立っていて、自分の肩をゆすっていた。妹の目の端に何かが光っていた。二人とも無言だった。弁々は注意深く頷いてから、毛布の端をつまみ上げた。妹はすぐに潜りこんできた。
弁々は八橋の頭を抱き寄せた。彼女の息遣いは微かに震えていた。
二人は寄り添って眠った。眠り続けた。朝が来るまで。
#29
「今日はお越し頂き、ありがとうございました」
火葬屋の少女は頭を下げた。
「こちらこそ手間をかけたわね」
霊夢は云った。
「仕事ですから。いつでもどうぞ」
「感謝するわ」
手間賃を支払って、霊夢は会釈した。灰色の煙が青空に昇ってゆくのが見えた。しばらくその消えていく様子を眺めてから、火葬場を後にした。
博麗神社では桜が満開だった。霊夢は桜の木に近づき、枝を手のひらに乗せて、花びらに顔を近づけた。香りはなかった。境内を横切って社務所に入り、お茶の用意をした。
「お帰りなさい」
小人のお姫様が出迎えてくれた。鴨居の段差をひとっ跳びに乗り越えて、ちゃぶ台に伏せていた霊夢に寄り添う。
「ええ」霊夢は身を起こした。「ただいま」
「スカーフ」
「ん?」
「血が付いてる」
「ああ――、ありがとう」
霊夢は黄色のスカーフを手に取った。まだ紅い血が数滴、付着していた。あの時だろうか。念のために服のあちこちを検めてみたが、こちらが怪我を負った訳ではない。ついでにリボンも外して髪を流すと、魂まで抜けてしまいそうなほどに長い息を漏らした。
「お疲れのようね」
「久しぶりだったから」
「滅多にないんだ?」
「そうね。――でもごくたまに、今日みたいに右も左も分からない奴が出てくる」
「そっか……」
針妙丸は考えこむように眼を伏せた。
鳴き声を転がして、猫が座敷に入ってきた。赤と黒の二色。警戒した小人が袴の裾をつかむ。霊夢は視線を移さないままに訊ねる。
「また何かあったの?」
「お団子、こいつに食べられた」
「そう、――お燐?」
猫はおさげの少女に姿を変えた。「悪いね。少名ちゃんの団子だって知らなかったんだよ、勘弁しておくれ」
「それは好いんだけどね」霊夢はお燐を横目で見た。「あんた、火葬場のご遺体を盗ろうとしたでしょ?」
「む」
「手を付けたら追い出すからね。分かった?」
お燐は耳を垂らしてしまった。再度念を押すと、渋々頷いた。
#30
夕暮れも近い時分だった。
魔理沙が箒に乗ってやって来た。いつも通りに石畳に着地し、エプロン・ドレスの裾をはたいた。霊夢は座布団から半身を起こした。賽銭箱を見る。今日も参拝客は来なかった。
「よう」
「なに」
「きのこと野菜、持ってきた。なんか食おうぜ」
魔理沙がバスケットを掲げてみせた。
霊夢は努力して微笑んだ。「好いわね」
「そういやさ」魔理沙が云った。「おい聞いたぞ。私も呼んでくれりゃ好かったのに」
「抜け駆けは許せないって?」
「ンなことはどうでも好いんだが」
魔理沙は明後日の方を向いた。箒の柄を握り直すのが見えた。
「……あれさ、改心させる訳にはいかなかったのか?」
「改心?」
「ほら、山の仙人の――」
「華扇?」
「ああ。前に野鉄砲になりかけたマミを導いただろ。あんな風に」
「面倒ね。なんでそんな回りくどいことをしなきゃなんないのよ」
魔理沙は肩をすくめてみせた。「別に。ただこういうのがあるとさ、霊夢さんはいつも元気を失くすからな。魔理沙さんがありがたい方策をご教授してやろうかと思っただけだ」
霊夢は彼女の顔を見た。「……元気がないって、いつも通りじゃない? ぼうっとしてるだけよ」
「なら好い。というかもう好い。それよりさ、飲もうぜ」
魔理沙は苦笑いで、もう一度バスケットを掲げた。
霊夢も笑顔を返した。「ええ、飲みましょう」
立ちあがって友人と歩きだそうとした時、霊夢は暖かな風を感じて、ふと振り返った。
桜の花びらが一枚、散り去って、石畳から空高くまで翔け昇ってゆくのが見えた。さらに高いところでは小鳥が一羽飛んでいた。遙かな上空には白雲が流れていた。
胸の底に澱んでいた空気が、すうっと抜けだしていくのを感じた。
霊夢の身体に、ようやく生きた心地が戻ってきた。
桜も鳥も、雲も同じだ。
ただ、軽く。
飛ぶために生まれてきたのだ。
#31
頭巾の奥で、自慢の耳が震える。
今泉影狼は葦で編まれたバスケットを片手に、人里の往来を歩いていた。注意を引きたくはなかったが、首は自然と左右を見渡してしまう。誰かと視線を合わせてしまうと、その都度目を伏せた。
探していた貸本屋を見つけ、胸を押さえて深呼吸。店内を覗いてみたが、彼女はいなかった。店番の少女に声をかけられ、しどろもどろに謝罪をして小走りに去った。
柳の運河にもいない。溜め息を宙に溶かす。土手に座りこんで、バスケットからりんごをつかみ取り、しゃくりとかじった。青空は白雲を湛えて流れていた。紅い瞳を細めて、影狼は喉を鳴らした。
呼びかける声に気づいて、川面に視線を移した。
「影狼さん」
「わかさ――」急いで左右を見回した。「……危ないから近づかないようにって、あれほど云ったのに」
「ごめんなさい。でも心配でたまらなくて」
「その優しさが命取りになるのよ」
わかさぎ姫は尾ひれで水面を叩いた。
「水の中なら、逃げ足には自信があります」
「でも……」影狼は首を振った。「貸本屋にはいなかった。往来にも姿はなし。こうなったら、店屋を片っ端から覗いていくしかないわね」
「大丈夫なんですか?」
影狼は笑ってみせようと努力したが、唇の端を歪めるだけで精いっぱいだった。手が微かに震えていた。
「ちゃんと隠せてるよね、耳」
「ええ」
「臭いでバレてるかもしれない。すれ違うひとがみんな、私のことを睨みつけてくるみたいで――」
「見とれているんですよ、影狼さん美人だから」
「そんな都合の好い話ってないわよ……」
「お世辞じゃありません」
わかさぎ姫は退かなかった。虫も殺せない臆病な性格だったのに、いつの間に手のひらいっぱい分の勇気を奮えるようになったのだろう。影狼は両手で頬をはたいた。
「……もう少し、粘ってみるわ。わかさぎ姫は湖に戻って。ここもじきに田んぼから帰ってきた人間で騒がしくなるから」
人魚姫は頷いた。「影狼さんも、どうか気をつけて」
#32
日没の直前になって、影狼は彼女に出会った。もう諦めて退散しようと思っていた。水路に架けられた橋の上ですれ違った二人は、同時に振り向いていた。
「赤蛮奇さんっ」
「影狼……?」
彼女は麻で織られた服を着ていた。新品とは云いがたい代物だった。肩から裾にかけてあちこちに修繕の跡。洗っても落としきれない汚れと染み。頬には煤の跡が黒くこびりついている。
赤蛮奇は首を傾げた。「久しぶりね。里にも好く来るんだ?」
「いいえ、人間の集まる場所なんて、もう何十年も……」影狼は懸命に舌を動かした。「あ、あなたに会いに来たの、わたし」
「……私に? 狼女さんが赤ずきんちゃんみたいな格好をして? ご丁寧にバスケットまでぶら下げて? これでもお婆さんと呼ばれるほど年老いてはいないつもりなんだけど」
影狼は籠のりんごをかき分け、底から一通の手紙を取り出した。彼女に手渡し、言葉を紡ぎ続けた。
「それ、わかさぎ姫から」
目を合わせるだけでも、勇気が必要だ。
「本当に、ほんとうに、ごめんなさい……っ」
影狼は頭を下げた。頭巾から髪がこぼれ落ちた。夕陽に照らされて砂金のように輝いている。一方で、デュラハンの表情は逆光で真っ暗に見えてしまう。
「顔を上げてよ」赤蛮奇は云った。「お願いだから上げて。他の連中に見られたくない」
影狼は従った。ろくろ首は欄干にもたれかかって、爪で頬をかいていた。沈黙が続いた。鉄に金槌を打ちつけるような音が、遠くから断続的に響いてくるだけだった。
「……そのためにわざわざ、あなたはここに?」
影狼は頷いた。
「私にどうして欲しいの?」
「また、――三人でお話しがしたい。……わたし、きっと強くなってみせるから。もっともっと、上手に話せるようになってみせるから」
「うん、……うん」
赤蛮奇が欄干から身体を離した。何事か呟いてから、音を立てて息を吸いこんだ。麻の布を指でつまんでみせた。
「この服、なんだか分かる?」
「い、いいえ」
「人間の女の服よ。彼女達は家計を支えるために朝から晩まで働くの。家に帰ったら泣き虫の子供と頼りない夫がいる。場合によっては介護を必要とする父母もいる。私には家族も友人もいないけれど、ひとに紛れてやっていく以上は、同じように糧を得なきゃなんない。…………」
彼女は顔をそむけた。角度が変わり、そこでようやく夕陽が少女の顔を暖かに照らし出した。
彼女は、はにかみながらも微笑んでいた。
「だからさ、私、――お酒が入るとたぶん愚痴っちゃうよ。影狼やわかさぎ姫に、心にもないことを云ってしまうかもしれない。それでも好いの、本当に。こんな私でも、あなたは受け容れてくれる?」
影狼は答えられなかった。身体中から力が抜けていた。地面に膝を崩してしまい、頭巾が髪を滑り落ちた。両手で顔を覆いながら、ぜんまい仕掛けの人形のように、何度も、なんども、頷いた。
「そう」赤蛮奇は呟いた。「……ありがとう」
頭のてっぺんに柔らかな手のひらが乗せられた。耳の間を何度も往復して、気持ちが落ち着くまで続けてくれた。しゃくりあげる影狼の肩に赤蛮奇は手を置いていた。あかぎれのために痛んでしまったその手のひらにも、夕陽は確かに注がれるのだ。
#33
誰も彼女に気づかなかった。それでも古明地こいしは歩き続けた。ずっと遠くから聴こえてくる声に従って、春に賑わう人里を漂い続けた。誰もが楽しげに、そしてせわしく往来を行き交っていた。
甘味処には二人の仙人がいた。空色と梅色。対照的な二人だ。何かを盛んに論じ合っているようだったが、こいしには理解のできない話ばかりだった。既に空っぽの食器が山になっている。お会計はいくらになるのだろう。
道士様が、二人の従者を引き連れて人びとに話を聞いて回っていた。コノハズクみたいな髪の聖徳道士と、何処かズレた格好の尸解仙。それに足のない緑の亡霊。彼女は先だって歩く二人を遠い目で見ていた。振り返った二人に促されて、渋々と隣に寄り添うように浮かんだ。
空を見上げると、二人の天狗が先を争って新聞を配り回っているのが視界に映った。あれなら知っている。以前に取材を受けたことがあったから。射命丸さんと姫海棠さん。最も人里に近い鴉天狗達。二人揃って見かけるとは珍しい。
貸本屋を覗いてみると、店番の少女が友人と話をしていた。蓄音機から音楽が流れている。里で奇怪な現象が起こっているらしい。こいしは自分の胸に問いかけたが、悪いことをした覚えはなかった。地上で問題を起こすと、また姉に叱られてしまう。
誰も彼女に気づかなかった。それでもこいしは満足だった。仙人、亡霊、鴉天狗、貸本屋の少女。――誰もが笑顔の裏に、意識の底に、暗い影を背負わせている。それがこいしには視える。せわしい日々の生活の中で、ふとしたきっかけのために負ってしまった傷を、誰もが抱えている。それを想うだけでこいしは、自分が決して独りぼっちではないことを知る。
#34
久々に命蓮寺に顔を出した。
こいしは在家の信者だ。でも白蓮和尚はこいしに気づかなかった。入道使いの少女も同じだった。こいしも声をかけることはしなかった。二人とも本堂に正座して、年を取った人間達を相手に、有り難いお話を語っていたからだ。
もう帰ろうかとこいしは本堂を巡った。離れの縁側に独りの少女を見つけた。それは彼女だった。それは封獣ぬえだった。ぬえは退屈そうに春の青空を見上げていた。そこにもう独りの少女が飛んできた。
「……相変わらず暇人エンジョイしてるなぁ」
「うっさいわよ。何か用?」
「別に用はない。それよりどうしたその髪型? かまいたちにでも襲われたのか? えらい風通しが好くなってるじゃないか」
「黙んなさいよ」
「嫌だね。天邪鬼にとって、減らず口は三度の飯より大切なんだ」
「また痛い目に遭いたいわけ?」
「そんな気力もない癖に」
ぬえは顔をそらした。こいしと目が合った。二色三対の羽が緊張してシベリアの針葉樹のような形になった。
「――なんだ、びっくりした。こいしじゃん、今日はどうしたの?」
こいしは顔をほころばせた。
「ぬえちゃん、――気づいてくれたんだ」
「こんな近くに居るんだから、当たり前じゃない」
「それがそうもいかないのよ」
こいしはぬえの隣に座った。鬼人正邪が身を引いた。
「お前は……」
こいしは彼女を見つめた。「ありゃ、懐かしい顔ね」
「なんでお前が地上にいるんだ?」
「ずっと前からいるわ。あなたこそどうしたの。元気ないみたいね」
その問いかけはこいしの直感だったが、正邪には効いたようだった。
「……瞳を閉じたんじゃなかったのか」
「閉じても視えるものは視えるわ。特にあなたは分かりやすいから。きっと誰かと喧嘩したんでしょ。私もお姉ちゃんに叱られると、あなたみたいになるから」
天邪鬼は答えなかった。鼻から息を鳴らした。つっかけで土を蹴りあげ、宙に身体を解き放った。
「もう帰る」舌を出して、捨て台詞を口にする。「覚えてろ」
「おととい来やがれ」
「早めに謝った方が好いよ」
こいしは呼びかけた。
「きっと大丈夫だから」
#35
天邪鬼が去った後、こいしは訊ねた。
「ぬえちゃん、今日はずっと暇?」
「ご覧の通り」
「それなら、里を見て回ろうよ。甘い物を食べて、悩み事を聞いてもらって、新聞を読んで、本を借りるの。それを二人で朗読しよう」
「……何それ」
「昔からの夢だったの。友達とお出かけするのって、とっても楽しそうじゃない。ねえ、今すぐ行こうよ。今じゃないと駄目なの」
ぬえは爪でこめかみを掻いた。「私、髪がこんなだし……」
「似合うよ。絶対似合うから。私はスゴく好いと思う」
「そうかなぁ」
「素敵だよ」こいしは頷いた。「似合ってる。可愛いよ、短いのも」
はにかんだような笑みが返ってきた。
「そっか、……分かった。行こう。どうせ暇だしね」
「ありがとう」こいしはぬえの手を握りしめた。「ぬえちゃん」
また声が聴こえた。遙か彼方から響いてくる声。こいしはその木霊を感じている。声にならない声を。言葉にならない言葉を。それらをまとめて、胸の奥にぎゅっと抱きしめる。
こいしは想うのだ。
今日こそは家に帰ろう。お姉ちゃんに「ただいま」って云おう。無意識の海に溺れて、忘れてしまわないうちに。私が私でいられるように。せわしく過ぎるこの日々に、心が埋もれてしまうその前に。
#36
桜の眩しい京都の街で、マエリベリー・ハーンは友人を待っていた。
また遅刻だった。電話で確認を取り、歩道橋の方角を振り返る。彼女を見つけて手を振った。友人も手を挙げて、急ぎ足で橋を渡り始めた。風が吹いたのはその時だった。彼女の帽子が舞いあがった。桜の花びらのように軽々と。回転しながら、こちらに向かって飛んできた。
マエリベリーはその時、まるであらかじめ決められていたことのように、手を差し伸ばした。手のひらに帽子が収まる。心地よい衝撃が、腕を通して胸の奥にまで伝わってくる。
宇佐見蓮子が雑踏を潜り抜けて、モニュメントまでやってきた。肩で息をしながら、へにゃりと微笑んでいる。
「ナイス・キャッチね、メリー」
「自分でも驚いちゃった」
マエリベリーは帽子を友人に返した。
「好かった好かった。これがないと落ち着かない」
「眼の下に隈があるけど、寝てないの?」
「えっ」蓮子は帽子で顔を覆った。「しまった、隠せてなかったか」
「……夜更かし」
「ちょっと急ぎのレポート、仕上げてた」
「ひも理論の?」
「ええ、まあ」
決まり悪そうに明後日の方を向いている。マエリベリーは笑った。
「何だったら、キャンセルしてくれても好かったのに」
「大事なサークル活動よ。レポートなんかに譲れないっての」
水筒のお茶を飲んでから、蓮子は云った。
「行こっか」
「了解」
蓮子が先だって歩き出す。マエリベリーは彼女の後をついてゆく。歩きながら、友人が睡眠を犠牲にしてでも自分との時間を残しておいてくれた事実について考えている。
友人の背中には春の陽が差していた。ささやかな兆しだけれど、その背中の暖かみは本物だ。そこにあるのは手のひらの温もりだ。今にも手を繋げそうなくらいに近い距離で、メリーは蓮子の心音を聴いている。
心の音を、聴いている。
(引用元)
Bernhard Schlink:Der Vorleser, Diogenes Verlag, 1995.
松永美穂 訳(邦題『朗読者』)、新潮文庫、2003年。
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ずっと遠くから聴こえてくる声
(原題: Die Stimme von fernem Ort)
(原題: Die Stimme von fernem Ort)
……傷ついているとき、かつての傷心の思い出が再びよみがえってくることがある。自責の念にかられるときにはかつての罪悪感が、あこがれやなつかしさに浸るときにはかつての憧憬や郷愁が。ぼくたちの人生は何層にも重なっていて、以前経験したことが、成し終えられ片が付いたものとしてではなく、現在進行中の生き生きしたものとして後の体験の中に見いだされることもある。ぼくにはそのことが充分理解できる。にもかかわらず、ときにはそれが耐え難く思えるのだ。
――ベルンハルト・シュリンク『朗読者』より。
Table of Contents
Prologue: 歩道橋で (宇佐見蓮子)
Story 01: 患いの落ちる音 (封獣ぬえ)
Story 02: カタコンベ (霍青娥)
Story 03: 風が吹いてくれたら (姫海棠はたて)
Story 04: 追想 (本居小鈴)
Story 05: アンティークのこころ (堀川雷鼓)
Story 06: 正道と邪道 (鬼人正邪)
Story 07: 枯れた彼岸花 (ある少女)
Story 08: もう少し、あと少し (少名針妙丸)
Story 09: シンフォニエッタ (秦こころ)
Story 10: 贈り物 (九十九弁々)
Story 11: 世界で最も軽い元素のように (博麗霊夢)
Story 12: たとえ待ちびとであらずとも (今泉影狼)
Story 13: ずっと遠くから聴こえてくる声 (古明地こいし)
Epilogue: 再び、歩道橋で (マエリベリー・ハーン)
Prologue
『歩道橋で』
『歩道橋で』
#01
京都では、今日も桜が眩しい。
宇佐見蓮子は、碁盤に組まれた通りを南に向かって歩いている。時おり腕時計に目を落とし、足を速める。ぶつかりそうになる度に頭を下げながら、蓮子は前へ前へと進んでゆく。歩道橋を駆けあがり、欄干に手を突いて首都の風景を眺める。個人用端末を耳に当てる。着信音が彼女を捉える。そして蓮子は呼びかける。
「もしもし、メリー?」
『蓮子、今どこ?』
「歩道橋」
『あー……。ああ、見えた見えた』
駅前のモニュメント。
友人の姿はすぐに見つかった。ここからでも、彼女の金髪は好く目立った。こちらに向かって手を振っている。
「ごめん、遅れたわ」
『はいはい、急ぎすぎて怪我しないようにね』
蓮子は手を振り返すと、再び歩道橋を渡り始めた。風が吹いたのはその時だった。あっという間の出来事だった。手を挙げて髪に触れた時には、帽子は春風に乗って、青空に吸いこまれようとしていた。
Story 01
『患いの落ちる音』
『患いの落ちる音』
#02
一輪が鋏(はさみ)を動かす度に、ぬえは何処か身体が軽くなったような錯覚を抱く。鏡に映った自分の顔はあい変わらずの仏頂面で、可愛げのひとつもないけれど、その表情をこの同居人は気に入ってくれている。どんなにしかめっ面をしてみせても、実の姉であるかのような態度を崩すことがない。
「早いわね、伸びるの」
「鬱陶しいだけよ」
「その調子で背丈も伸ばせたら好いのにね」
「ほっといて」
ふと思い出して、ぬえは訊ねた。
「――そういや、ムラサは? 今日は見かけてないけど」
「さぁね、また何処かで沈んでるのかも」
「マミゾウもいない」
「出かけて行ったわよ。例の貸本屋じゃない?」
「白蓮」
「姐さんはお勤め。邪魔しちゃ駄目よ」
「寅丸――」
「あんたね」
首筋を指の関節で抉られて、ぬえは悲鳴を上げる。
「何しやがんのよ!」
「静かになさい」鏡に映った一輪は、眉間に皺を寄せていた。「手元が狂ったりでもしたら、あんたも困るでしょ?」
ぬえはしぶしぶ従った。
さくり、と黒蜜の髪が、床に広げた薄布に落ちてゆく。髪を切るように、あるいは爪を切るように、想い患いもまた刃物ひとつで簡単に処理ができれば好いのにな、とぬえは思う。
少しだけちょっかいが過ぎただけなのに、たまに調子に乗ってしまって、力加減を間違えてしまうのだ。
#03
「……ぬえ」
鋏を動かす手が止まった。
「なに?」
「私ってさ、そんなに頼りない?」
「え?」
「なんでもない」
「ごめん、聞いてたよちゃんと。でもいきなり云うもんだから――」
「…………」
「怒ってる?」
「何となく、寂しくなっただけ」
「意味が」ぬえは首を振り向かせる。「意味が分からない」
「あんた、私には何も話してくれないから。それがちょっとね」
「も、もう謝ったじゃない。今回はやり過ぎたわ、ごめんなさい」
入道使いの口から、こらえ切れない溜め息が漏れた。
「そういう意味じゃなくて。ああもう、この正体不明」
一輪は黙りこくってしまった。無言のままに散髪を続けた。ぬえも仕様がなくなって、瞳を閉じて事を任せていた。春の空を潜り抜ける小鳥の声が、庭から聴こえてきた。そこに髪を切り落とす音が重なって、唄の拍子を取っていた。
事が終わり目蓋を開けたぬえは、ほとんどヴェリー・ショートになっている自身の黒髪を見て愕然とした。泣きそうな声で(というより泣きながら)抗議を申し立てたが、一輪は肩をすくめるだけだった。
「これから暖かくなるんだし、ちょうど好いでしょう」
ぬえは夕食も抜かして部屋に閉じこもった。夜に水蜜が声を掛けてきたが、部屋に入らせないままに追い返した。そして畳に散らばった髪の残骸をつまみ上げては、一箇所に集めたりした。一輪がどうしてあそこまで怒ったのか、ぬえは最後まで分からなかった。
髪はこれまでにないくらい短く切り揃えたのに、逆に想い患いは増えてしまった彼女だった。
Story 02
『カタコンベ』
『カタコンベ』
#04
霍青娥は息を吸いこんだ。
濁った空気が肺胞を膨らませてゆく。山奥に掘られた隠れ家のような研究室。作業台に置かれたランプが、この部屋で唯一の照明だ。炎の揺らめきに合わせて、天井にはびこる影が波を寄せては返している。
「これも駄目ね……。芳香ぁ」
青娥が呼びかけると、脇に控えていた宮古芳香が首を上げ、台から用済みの遺体を抱えあげた。遺骸の臓腑が腐れ落ち、水気の多い粘土を思いきりぶちまけたような音が床を這いずった。芳香は跳ねながら通路に向かい、研究室から消えてゆく。
「どうしましょう。もうストックも僅かね……」
手袋を外し、汚物が付着していないことを確かめてから、手の甲で額の汗を拭った。焚きしめた香で悪臭をごまかしながら、かれこれ三日間、地下で個人的な作業に没頭している。
考えた末、青娥は休息を取ることに決めた。甘いものを口に入れておきたかったし、地上の様子も気になる。道具類を洗浄してから青娥は振り返り、そこに浮かんでいる人影に気づいて、眼をしばたかせた。
「――蘇我様、こんなところに何の御用で?」
「用ってほどでもないんだけど」
蘇我屠自古は帽子の位置を直しながら云う。
青娥は首を傾ける。
「丹薬をご所望ですか? 確か蘇我様は――」
「ああ、違う。それに薬なんか嫌いだ」
「でしょうね」
「少しの間、ここでくつろがせてもらっても好いか?」
「……それは、――ええ、でも」
「何も触らないと約束する」
ここは世界でも有数の“くつろげない場所”だと青娥は思った。でも口には出さない。永い付き合いだ。約束は守るだろう。承諾してから、青娥は鑿(のみ)で穴を空け、地上の光を浴びにいった。
#05
レアチーズ・ケーキ(臓器のように赤黒い苺ジャムが表層に使われていた)を四切れほど拝借してから、青娥は研究室に戻ってきた。屠自古は天井を見上げていた。意識を希薄にしているのか、幽体の輪郭が薄らいで見える。今にも空気と同化して溶け崩れてしまいそうだった。青娥は笑いながら訊ねた。
「……落ち着きますか?」
屠自古が振り返らずに答える。
「太子様には内緒だから」
「分かっています」
「時どき、恋しくなる」
「何がです?」
「暗闇」
「大祀廟の?」
「ああ」
「……千と四百年ですものね」
「黴の臭いが染みついたみたいだ」
「死臭よりはマシでしょう」
「それもそうか」
屠自古は手に持った人骨をしげしげと眺めてから、脇に放り捨てた。
「青娥、――何処か暗いところに閉じこめられた経験はある?」
「そんなのしょっちゅうですわ。でも、ええ、……小さい頃、家の蔵に押しこめられたことがあります。遠い遠い昔の話ですが」
「何でまた蔵なんかに?」
「お仕置きだったと思います。あるいはしつけ。もう顔さえ覚えていませんが、あの場所を満たしていた、手に触れられそうなくらいに粘り気のある暗闇のことは、今でもはっきりと思い出せます」
「私は……」屠自古は一瞬だけ、云い淀んだ。「私は、色んなことが思い出せない。断片的で、取りとめがない。飛鳥の頃に、太子様や物部と過ごした想い出の何もかもが、どんどん手応えを失ってきてる」
黄緑の髪が握りしめられ、くしゃりと潰れた。
「でもこの場所にいると、少しは鮮明になってくる。肩の力を抜いて耳を澄ませば、指の間からこぼれ落ちていったものが見えるようになってくる。それは本当。嘘じゃない」
言葉を結ぶと、屠自古は彫像のように動かなくなってしまった。
青娥は差し挟む言葉を持たなかった。肩をすくめてから、屠自古の脇を通り過ぎ、また作業台に向かった。
ランプに照らされた地面は、永年に渡って注がれてきた血で黒ずんでいる。処理に困り、穴を空けてそのまま埋めてしまった遺体も数多い。それらはとうの昔にすべて骨になっているはずだった。
邪仙と怨霊。二人の少女は、おびただしい人骨の真上にいる。
Story 03
『風が吹いてくれたら』
『風が吹いてくれたら』
#06
カーテンを引くと、部屋に春の陽が差しこんで、埃が砂塵のように宙を舞っているのが見えた。はたては水を立て続けに三杯飲んでから、顔を洗い、歯磨きを済ませた。玄関でつっかけを履いて、寝間着のまま外に出た。空には羊雲が浮かんでいた。好く晴れた春の日和だった。
時刻は既に昼前だった。いけない兆候だと思った。暖かくてぽかぽかとしているために、心も呆けてしまうのならまだ好い。今はただ、億劫なのだった。塞いでいると云った方が好いかもしれない。お酒なんて飲んでないのに、側面から後背にかけて、頭に鈍痛がのしかかっている。
「……しっかりしなきゃね」
自分に云い聞かせたその声が、何よりも頼りなく掠れていた。
#07
にとりが果物をバスケットに詰めて、玄関の扉をノックした。はたてが出迎えると、河童は手を挙げて笑ってみせた。
「安静にしてる?」
「もう治った」
「そう? 顔色が悪いみたいだけど」
「いつもこんな感じよ」
「天狗様でも風邪はひくんだね。ちょっと新鮮」
「その云い方、きらい」
「ん?」
「“天狗様”って……」
「ああ」にとりは帽子に手を触れた。「そうだね、ごめん」
真っ赤に熟したりんごを、にとりは包丁で切り分けてくれた。
「新聞も、ここんところはお休みだったね」
「ペンを執るのも億劫で」
「心配してたよ」
「え?」
「射命丸さんが」
「うそ」はたては噴きだした。「まさか」
にとりはりんごをひと口に平らげた。そして云った。「今朝、あのひと掲示板を見てた。誰かの名前を探してるみたいだったよ。たぶん、はたてのことだと思う。表にはあんまり出さないひとだけど」
「自分の探してたに決まってんじゃん」
「『文々。新聞』には始めに目を留めてた。順位は上がらなかったみたい。それから『花果子念報』を――」
「でも、なんで私、――だって」
「“私達は対抗新聞(ダブル・スポイラー)なんだ”って先に云いだしたのはどっちだっけ?」
「それはそうだけど……」
「向こうもけっこう乗り気だったみたいだし」
にとりは罪のない無邪気な笑みを浮かべていた。
はたては湯呑みを両手で包みこみ、いつかの文の言葉を思い返した。確かに“面白い”だとか、“出来るものならやってみなさい”とは云っていたけれど……。
はたては先ほどまでの憂さも忘れて、にとりの言葉を考えていた。春の暖かみが、ようやく身に染み入ってくるのを感じていた。
#08
後日のことだ。
はたては久々に広場まで出向いて、掲示板を確認している。圏外だったが、順位は上がっている。「はたて」と声を掛けられて振り向くと、そこには文がいる。もうマフラーはしていない。長袖のままではあったが、春の生気に満ち溢れた表情だ。
「文、久しぶり」
「ええ、――体調は?」
「もう平気」
「そ、好かったわ」
「うん」
「体力無いんだから、気をつけなさいよ」
「ありがと。でも大きなお世話」
はたても、はにかまないように努力して笑ってみせた。文が掲示板に視線を移す。「文々。新聞」は「花果子念報」よりも上の方で頑張っている。いつも通りだった。
「うーん……」文は腕を組んだ。「また差をつけられちゃったか」
「どうしたの?」
「この前ね、けっこう好い仕上がりの新聞を読んだのよ。そいつの順位が私よりも上で。――ほら、このひと。……久しぶりに内輪向けじゃない、心のこもってる新聞を読ませてもらったから、ずっと気になっていたのよ」
「そうなんだ」
「それで、順位を追っかけてるってわけ」
「なるほど」
「気づいたら、いつも真っ先に探しちゃってる」
「そっか」
そっか。
はたては何度も頷いた。頷きながら、目を伏せていた。
文が顔を覗きこんできた。
「大丈夫なの、はたて?」彼女は云うのだ。「まだ全快してないんじゃない? あまり無理しない方が好いわよ」
Story 04
『追想』
『追想』
#09
蓄音機からはクロード・ドビュッシーの「夢」が流れていた。ピアノのメロディに合わせるかのように、阿求が『古事記』の一節の暗誦を続けてゆく。小鈴はそれを聴き取りながら、筆を走らせ、本から失われてしまった箇所を適宜補った。
“大切に扱って下さい”と念を押しても、確率として貸した本が傷つけられてしまうことはある。今回本を借りたお客さんに罪はなかったのだが、家にいた赤ん坊がおもちゃにしてしまった。最古の歴史書に“おいた”をはたらくなんて、末恐ろしい子だと思う。そのひとはお得意さまで、本心から申し訳なく思っているらしい様子が見てとれた。小鈴は賠償を請求しなかった。抜群の記憶力を持つ友人を呼んで、暗誦してもらった。取りあえずの応急処置だ。
作業を終えると、もう何度かリピートさせていたクラシックの調べも止まった。阿求は角砂糖をカップに放りこんでから、紅茶を美味しそうに飲んだ。
「この代にもなって暗誦することになるなんて思わなかったわ」
「お疲れさま。悪いね、忙しいのに」
「そうでもないけど。よりによって『古事記』だなんて」
阿求は眉間に微かな皺を寄せながら笑っていた。
「“よりによって”って、どういうこと?」
「なんでもない」
「そういう云い方されると、気になる」
問いかけを続けようとした時、暖簾に懸かっていた鈴が客の来店を告げた。
「いらっしゃいませ」
丸眼鏡を外してから、小鈴は席を立った。
#10
お客さんとの応対を終えてから、小鈴は席に戻った。阿求は机に置かれていた書物に目を通していた。作業に使えるかもしれないと思って、棚から取り出していたのだった。
阿求が顔を上げる。「小鈴んち、ちゃんと『古事記伝』もあるのね」
「それがないと分からないところもあるから」
「作者名が書かれていないけれど……」
小鈴は頷いた。「最初からなかったわよ。不詳なんじゃない?」
阿求は不思議な表情でこちらを見据えていた。目を見開いて、でも唇は引き結んだままで。やがて「そう」と言葉を漏らすと、本を閉じた。
それから二人は紅茶に親しみながら、雑談を交わしていった。阿求は何処か上の空だった。時どき天井をじっと見つめては、小鈴の声で我に返るという場面が何度かあった。蓄音機から再び「夢」が流れ始めた。湿ったノイズ混じりのピアノの旋律が、まるで遠いところにいるひとが発した呼び声であるかのように、繰り返し小鈴の胸に染みこんだ。
「そろそろ帰るわね」阿求が席を立つ。「労働の対価として、割引サービスくらいはして欲しいかも」
「う……。か、考えとくわ」
「当然でしょう」
友人は小鈴の両親に挨拶して出て行った。暖簾を潜る際に少しだけ背を丸める。その時の彼女の背中が、何処か寂しげに縮んで見えた。小鈴は眼をしばたいてから、名残惜しそうに揺れている暖簾をしばらく見つめていたが、やがて読書に戻った。
蓄音機は「夢」を奏で続けていた。
Story 05
『アンティークのこころ』
『アンティークのこころ』
#11
コンサートの仕上がりは上々だった。
クラシックの名曲をジャズ・アレンジして、九十九姉妹とトリオで演奏した。姉の弁々はナイロン弦を張ったギター、妹の八橋は乾いた音を響かせるピアノ。自分の担当は、もちろんドラムだ。
中でも紅魔館の主に好評だったのは、最後に演奏したクロード・ドビュッシーの「月の光」だった。メロディが流れると、主はグラスに注がれたカベルネ・ソーヴィニヨンの赤ワインをくゆらす手を止めて、深紅の瞳を閉ざしていた。耳を澄ませていた。まるで風の音に混じって伝わってくる、大切なひとの声を聴き取ろうとするかのように。
ピアノが生み出した余韻を八橋が正確に切り上げると、レミリア・スカーレットは拍手してから、何度も頷いてみせた。
「いやだわ、懐かしい。もう随分と聴いてなかった」牙を覗かせて笑う。「素晴らしかった。また聴かせてちょうだいな」
「気に入ってもらえて嬉しいわ」
雷鼓も微笑んだ。
「リクエストしても好いかしら。今のうちに」
「なんなりと」
「パヴァーヌが聴きたいわね。ラヴェルの」
「分かったわ」
「それにしても……」
レミリアは雷鼓と姉妹の顔を順繰りに眺めた。テーブルに頬杖をついて、微笑みを浮かべながら。
「付喪神って便利なものね。本当に以前は和楽器だったの?」
「ええ」
「異変のことは咲夜から聞いたわ。魔力を取り替えたって」
「そうよ。それで自由を手に入れたの」
「“自由”を手に入れて……」吸血鬼が指を振る。「それで、この幻想郷で何をしていくの?」
「何を……?」
「興味があるのよ。あなた達のような道具が何を願い、何を為すのか」
「道具だって自分の意思で楽しみたい。雷鼓はいつもそう云ってるわ」
弁々が助け船を出した。
レミリアが眼を細める。
「そう。それは分かる。私が好奇心をそそられるのは、結局のところ、あなた達も異変で暴れた妖怪達と同じような望みを持っているのかってこと。――反逆か、革命か」
雷鼓は背筋を伸ばした。スティックを握る手が汗ばんでいる。
レミリアは続けた。「自分の意思を持つということ。それは幻想郷に住まう者にとっては前提であって目的ではない。自由になった今、あなた達は自身の運命を自らの手に引き受けてしまっている。その上で、何を築きあげてゆくのだろうってとこに、私はスゴく興味があるの」
雷鼓は、明確な答えを返すことができなかった。
#12
その夜、プリズムリバー邸の寝室で、雷鼓はカウチに寝ころびながら考えこんでいた。蓄音機からはモーリス・ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」が流れている。当主様の書斎から発掘した骨董品(アンティーク)だ。
レミリアの言葉を反芻する。
「自由であることは前提であって目的ではない」
あれは警告、だったのだろうか。それとも、老婆心からのアドヴァイス? この世界で何を築きあげてゆくつもりなのか。ヴィジョンなら持っている。楽園での生活を音楽を奏でながら過ごす。命のビートを刻み続けてゆく。付喪神の仲間達と共に。
それだけでは、いけないのか。
寝返りを打って、浮かんだ考えを振り払った。春の暖かな宵にも関わらず、眠りに落ちることができない。私らしくないな、と思った。こんなところ、弁々や八橋には見せられたもんじゃない。
蓄音機を止めて、窓辺に立ちつくした。夜の訪れと共に霧が晴れ渡ってゆき、湖の視界はクリアになる。水面は鏡のように凪いでいて、夜空の月が映りこんでいる。手を伸ばせばつかめそうなくらいに、輪郭までくっきりと浮かんでいた。ありもしない幻の、月の光だ。
窓に人差し指を滑らせながら、雷鼓はワイン・レッドの髪をうつむけた。楽譜に致命的な欠陥を発見した作曲家のように。
今になって、ようやく気づいたことがある。
和太鼓だった時分のことだ。
演奏していた使役者の顔を、雷鼓はもう、おぼろげにしか思い出せなかった。
Story 06
『正道と邪道』
『正道と邪道』
#13
鬼人正邪は座敷に正座させられていた。何処とも知れない屋敷に拉致されたのだ。膝にちょこんと置いた握り拳を睨みつけながら、仙人様の説教を拝聴している。
「妖怪としての性は抗えないもの。そのことは充分承知しています」
「…………」
「ですが、妖怪とは人間の想いひとつで根っこを改めることのできる存在。好く云えば柔軟、悪く云えば曖昧――」
「……で?」
「つまり、生まれ変わった姿を人びとに見せつければ、貴方は天邪鬼という縛りから脱却することができると、私は考えます」
正邪は首を振る。「正気かお前? いくら時間をかけたって、ジャガイモはカボチャやほうれん草になんかなれないぞ」
「人間は死んで、――あるいは生きながら鬼に化けることができます。あるいは修行して仙人にも。それとまったく同じことが、貴方にも云えるはず」
茨木華扇は拳を振って、切実そうな口調で語った。正邪は煎餅をばりばりと咀嚼しながら、目つきを鋭くする。
「……仙人様は妖怪を正しい方向に導くのが役目(ちから)と?」
「ええ、まあ。仙人というより、私自身の……」
「前にもそんな奴がいたんだ。究極的におせっかいな神様気取りが」正邪は華扇の顔を眺めた。「……というか、どっかで見たことがあるな、お前。ちっと昔のことだから思い出せないが」
「気のせいでしょう」
「いや絶対、気のせいじゃない。確か――」
「どうでも好いことです!」華扇が遮断する。「さぁ、修行を始めましょう! どのみち貴方を野放しにはしておけません。少名針妙丸さんのように、また罪のない人妖が騙されてはいけませんから」
#14
今になって滝に打たれる羽目になるなんて思ってもみなかった。轟音に包まれる中、時おり天狗の白いのや黒いのが飛んできて、面白そうに見物しては帰っていった。中には写真を撮っていく奴までいた。禊ぎの真似事をしている自分の姿が紙面を飾ることになると思うと、正邪は何だか泣きたくなってきた。
牡丹のような紅色の髪を有した少女が、華扇と話をしている。
「なんだい、また啓蒙活動かい?」
「冷やかし? 修行の邪魔よ」
「巫女だってあっという間に元通りになったじゃないか」
「あれは間違いだったかもしれない。でも今度は違うわ」
「関わらん方が好いよ。あれには」
正邪は顔を上げて少女を観察した。あの鎌は死神だろうか。姿勢を変える。とんだおっかないところに来てしまったものだ。
「あの反骨っぷりが天邪鬼の本分なんだろう? こればっかりはいくら修行でも変えらんないよ」
「やってみなければ分からないわ」
「やらなくても分かる。あれの役目は悪さをしでかして、そんでもって多聞天様の足に踏みつけられることなんだよ。そういう形で人間に奉仕してるのさ。“因果応報。仏様を信じれば、悪鬼は退治される”とね」
「……邪道も裏返せば正道と?」
「そこまで云うつもりはないがね――」
正邪は背中が痒くなった。
またひとつ、嫌な想い出が蘇ってしまった。
#15
茨華仙は里でも名の知れた食いしん坊と聞いていたが、出された食事は簡素なものだった。少なくとも屋敷では仙人らしい暮らしを送っているらしい。
「この漬け物、まだあるか?」
「ええ、こちらに」
「美味いな、味噌汁」
「新鮮な山菜を使っていますから」
「肉はないのか」
「当たり前です」
「……ちっ」
「文句云わない」
食べ終えた正邪は改めて仙人の姿を見た。梅色の髪。自分にとっては角がある場所に、シニョン・キャップが被せられている。手を伸ばそうとすると睨みつけられた。
「気になりますか?」
「別に……」
華扇は箸を置いた。「悔い改めれば救われる。――そんな宗教は妖怪にはありません。大悪党はいつまで経っても大悪党です。でも過ちを償うことはできます」
「“敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい”か」
「そこまでは求めません」
小人の姿を思い返した。私にもあのようになれと? 逆立ちしたって出来っこない。出来るわけがない。
正邪は咳払いした。
「仙人様、――なぁ、こう考えてくれないか?」
「何です?」
「私は座ってピアノを弾いていた。そのピアノからは好い音が出る。好い音を奏でられる奴は善人だ。――だが、後ろから小さな子供がやって来て、ピアノを弾きたそうにしている。私は席を譲ってやった。子供は喜んで弾き始める。でもってそいつの演奏の方が、私よりも上手だったんだ。だから私は部屋の隅に引っこむ。まだ幼い子供だ。押しのけるわけにもいかないだろう?」
華扇は口を呆けたように開けていた。すぐに我に返った。
「それは、それは詭弁ですよ。一緒に演奏すれば好いじゃないですか」
「ああ」正邪はあくびをした。「眠い」
「はぇ?」
「もう寝たい。何処で眠れば好いんだ?」
華扇は溜め息をついた。「……案内します」
「どうも」
正邪は華扇に続いて部屋を後にした。一度だけ振り返った。ちゃぶ台に残されたお椀が眼に留まった。あの味噌汁は本当に美味かった。その味だけが、正邪にとってのリアルな正義だった。
Story 07
『枯れた彼岸花』
『枯れた彼岸花』
※このお話のみ、オリキャラが登場します。ご注意ください。
#16
初めて焼いたのは両親だった。見よう見まねで炉に薪をくべて、ふいごで風を送った。でも見事に失敗してしまった。神様か何かにしがみつくような格好で、真っ黒になってしまった両親は、もうどちらがどちらなのか見分けがつかなくなった。それから私は、二度と失敗しないと心に誓った。じゃないと、私はお客さまからお金をもらうどころか、逆に炉へ放りこまれて、火を点けられてしまうと思ったから。
もしかしたら、中には私の名前を知りたいと思うひとも出てくるかもしれない。申し訳ないことだが、物覚えの悪い私はいつだったかそれを落っことしてしまった。それは柳の運河に投げこまれた小石みたいに、ちっぽけな波紋を広げながら、水底に沈んでいってしまった。私のような仕事をしているひとに、名前は要らないのだ。
だから、あなたは“火葬屋”と呼んでくれれば好い。
#17
朝から降り続いていた春雨も止んだ。私は遺体を留め置いている納屋に向かった。あれを焼いて埋めたら、次は納屋の清掃をしなければならない。だが戸に手をかけようとした時、誰かが中に忍びこんでいることに気がつく。
「……誰ですか?」
物音が止んだ。
「誰なんです?」
「――警戒しないでおくれ。ちょいと品定めをしていただけだよ」
私は懐から小刀を取り出した。父の形見だ。
納屋の暗がりに紅い髪を有した少女がいた。立ちあがって手を差し出してくる。私は彼女の頭を凝視した。
「その耳、――妖怪ですか?」
「まぁね」
「猫又?」
「火車」
「ああ……」
父から聞いたことがある。目を盗んで死体をさらうという。
「でも、あなたは葬儀の際に現れるはずでは……」
「おやおや、物知りだね」少女は唇の端を釣りあげた。「最近はあちこち出張しているのさ。物は相談だ。この死体、くれないかな?」
彼女は“むしろ”に横たわっている遺体を指さす。
私は唾を呑みこんで、喉を湿らせた。
「だ、駄目に決まっているじゃないですか。そんなことをしたら、私は仕事を失ってしまいます」
「この人間は無縁仏だろ? だったらあたいが頂いてもバレるこたぁないだろう。前から狙ってたんだ。あっさりとは退けないね」
「仏に縁も無縁もありません」
少女は腕を組んで、私の顔を眺め回した。
「なんなら代わりにお前さんを貰っても好いけど?」
「わ、私はここの人間です。手を出したら……」
声が震えていた。自信がなかった。私は他の子供達のようには保護されていないのかもしれない。今まで妖怪の類が襲って来なかったのは、あるいは偶然だったのかもしれない。
「生憎、あたいは地底の出身でね。地上の決まり事なんて知ったこっちゃないね」猫はビー玉のような眼を細めた。「……というのは冗談にしてもさ、だったらなんでお前さんは里で暮らさない? こんなところに居を構えていたらそれこそ」
私は唇を噛んだ。彼女は手のひらにぽんっと拳を打ちつけた。
「あ、そっか。……なんだ、上の人間はまだそんな面倒臭いことを」こほん、と咳払い。「仕方ない。今日のところは大人しく引き下がろう。――でも、あたいはしつこいよ? きっとまた来るからね」
火車は遺体を名残惜しそうに見つめてから、悠然と出ていった。
私はその場にへたりこんだ。腰の力が抜けていた。
#18
納屋の掃除を終えて外に出た。炉から立ち昇る煙が、雲に届かないままに消えていった。野辺の煙だった。私はあの煙を見ると、不思議と落ち着いた気分になる。
傍には生活用水にしている川が流れている。土手には毎年、秋になると彼岸花が一斉に咲き渡る。茎を丁寧に集めて、水に好くさらして毒気を抜いたそれを、私は冬場の非常食にしている。今は彼岸花は枯れていて、地表には顔を出していない。代わりに鮮やかな色合いの袴を履いた少女が、草を口にくわえて昼寝を貪っている。
私は呼びかけた。「小町さん」
彼女が眼を薄く開ける。
「……あい?」
「お久しぶりです」
「ああ、うん。元気かい?」
「なんとか」
「そりゃ好かった」
「火車が来ました。ついさっき。危うくご遺体を盗られそうに――」
「何だって?」彼女は身を起こした。「またあいつか。困ったもんだよ本当に。監視の眼をきつくしておかなくちゃね」
「恩にきます」
小町さんは私の表情を読み取ろうとしていた。
「……何か云われたのかい?」
「いえ、そんなことは」
「あのね――」彼女は鎌の柄をさするように撫でた。「確かに、あんたがやっている仕事は、少しばかり特殊かもしれない。それは認めなくちゃならないだろう。誰からも感謝されないかもしれない。それでも、あんたのおかげで回っている世界もある。気休めかもしれないけど、少なくともあたいらは助かってるんだからね」
「いきなりどうしたんですか」
私は噴き出した。
「……らしくないね、まあ。さっき見た夢のせいかも」
「どんな夢を?」
「教えてやんない」
小町さんはそう云って、また寝転んでしまった。ここからでは表情が窺えない。私は頬を緩めてから、また仕事に戻った。頭上には眼に痛いくらいに青い春空。昇ってゆく野辺の煙。膨張しては流れ出て染みこんでゆく。まるで腐敗した遺体のように。
私が煙になるのはいつのことだろう。
Story 08
『もう少し、あと少し』
『もう少し、あと少し』
#19
好きかな、好きかな。
針妙丸は独りごちた。絶好の温泉日和だった。漆器の箱に温めの湯を満たして縁側に置いてもらうと、それだけで即席の露天風呂になる。桜の木々を借景に、畳んだ手拭いを頭に乗せ、肩まで湯に浸かっている。
「加減は?」
「気持ち好い。最高」
「そ」
霊夢が隣に座布団を敷いて腰かけた。
針妙丸は労った。「お疲れ様、霊夢」
「腰が痛い」
「針治療でもしよっか?」
「遠慮するわ」
針妙丸は縁に両腕をもたせかけた。耳を澄ませると、幽かな山の響きが風に乗って駆け下ってくるのが聴こえた。木立からは鳥の鳴き声も。霊夢のお茶を啜る音が、時おり空気をかき混ぜてゆく。このまま宙に浮かんでしまいそうなくらいに、身体が軽く感じられた。
「ねえ」
「ん?」
「……霊夢って、何処で生まれたの?」
「どうしたの、いきなり」
「私は光のない世界で生まれたわ。暗渠みたいに陰鬱とした場所。だから幻想郷の風景が、まるで夢の世界みたいにぼんやりと見える。美しいけれど、遠い」
「ふぅん」
「怒らないで聞いて欲しいんだけど」お腹の前で指を絡ませた。「霊夢も、私と同じようなところがある気がして。――ほら、時どきすっごく遠い眼をするじゃない? 貴方のぼんやりは、普通とは違う、何か特別な含みがあるような気がする」
「遠回しに馬鹿にされてるような……」
「違う違う」針妙丸は首を振った。「霊夢――。聞かせて。貴方は心を何処に置き忘れているの?」
霊夢は傍らに湯呑みを置いた。曇りのない透き通った瞳をこちらに向けた。それから嘆息するように息を吐いた。
「私は他のひとと同じように過ごしているつもりなんだけど。ちょっとばかし立場が違うだけで……。でも、そうね。強いて云うなら――」
少女は人差し指を青空に向けて立てた。
#20
霊夢が食事の用意に席を立った直後。
神社に天邪鬼がやってきた。
「姫、生きてるか?」
「ここよ」
「ああ、そっちか。――って、うわ!」
縁側の角から姿を現した正邪が、慌てて顔をそらした。
「馬鹿っ! 風呂に入ってんならそう云え!」
「そんな恥ずかしがらなくても」
「違うわ! とにかくさっさと上がれ! 服を着ろ!」
ブーイングを漏らしながら、針妙丸は箱の縁に手をかけた。
身体を拭いて小袖を着ると、正邪はようやくこちらに向いてくれた。
「ったく……」
「悪かったわね」針妙丸は正邪の顔を見つめた。「……なんかやつれてない? ちゃんと食べてる、正邪?」
天邪鬼は決まり悪そうに頭を掻いた。「山の仙人に捕まってたんだ。今朝方にようやく解放された」
「あらら、みっちりしごかれたって訳ね」
「思い出したくもない。それよりあれだ、打ち出の小槌。もう魔力の回収は終わったんじゃないかと思って、様子を見に来たんだ」
針妙丸は眉をひそめた。「また悪用するつもり?」
「私が同じ作戦を使うわけないだろ」
「じゃあ何さ」
「待ってるんじゃないか、下の連中」
唇を引き結んだ。
「……分かってる」
「もう半年以上は経つぞ。いつまで安寧な暮らしを続けるつもりか知らんが、姫は“こちら側”だろ? こんな妖怪神社――」正邪は台所に視線を配ってから、声を低めた。「……こんな神社にずっと居候していても仕方ないだろうが」
「分かってるよ!」
大声が出てしまった。しかし小人の体躯では、天邪鬼を驚かせるだけの声量は出なかった。
正邪は舌打ちをこぼして云った。
「飼い慣らされて牙を折られたな、姫」
「…………正邪にあれこれ云われる筋合いなんて、ないよ」
「ああ、そうだよ。私にンなことを云う資格はないが――」
「だったら出てってよ!」
今度の叫びは少女の表情を塗り変えた。それは憤怒の形相ではなかった。正邪の顔がみるみるうちに曇った。夏の夕立の空模様のように。
「……だな、おせっかいだった。そんなにあの巫女のことが気になるんなら、好きなだけ居りゃ好い。私には関係のないことなんだ」
最後の言葉は、云い聞かせるかのような口調だった。
我に返った針妙丸は、縁側を飛び降りて天邪鬼を追いかけようとしたけれど、もう正邪は遠くに飛び去ってしまっていた。呼びかける声はあまりに小さすぎて、彼女に届くことはなかった。
Story 09
『シンフォニエッタ』
『シンフォニエッタ』
#21
独りだけ、浮かない顔をしているひとがいた。
演目「心綺楼」は大人から子供まで笑顔になる、エンターテイメント精神を詰めこんだ新作だ。そのひとだけが頭から尾まで仏頂面を崩さなかったのは、こころのプライドを密かに刺激していた。
舞台が引けると、霊夢への挨拶もそこそこにして、こころは彼女を追いかけた。緋色の髪は好く目立つ。さほど労せずに追いつくことができた。こころは「猿」を頭に乗せて、唇を湿らせてから声をかけた。
「あのっ」
彼女が振り返った。こころよりも背が高い。ひとの好さそうな、けれど底の知れない笑みを繕っている。
「何かしら」
「さっきの舞台……」
「ええ、とても好かったわ」
「でも、あなたはずっと――」こころは息を吸いこんだ。「ずっと、哀しそうな顔してた。出来れば、何か悪いところがあったら指摘してほしい。きっと直してみせるから」
彼女はしばしの間、返事をしなかった。繕われた笑みはあっけなく解けてしまった。口を開いた時には、その表情には疲れが滲んでいた。
「違うわ。舞台は本当に好かった。悪いのは私。苦しくなっただけよ」
「好かったのに、――苦しい?」
こころは「狐」を被って、懸命に彼女の話を理解しようとした。
「大したことじゃないの。とにかく、楽しませてもらった。予定があるから、もう行くわね」
「待って、あなたの名前を教えて」
「雷鼓。堀川雷鼓」
「また見に来てもらえたら嬉しい」
「ええ」
「きっとだよ」
#22
次に雷鼓と会ったのは翌日の午後だった。命蓮寺でマミゾウと話をしていたのだ。彼女が自分と同じ付喪神であることを、その時こころは初めて知った。
命蓮寺をあちこち見学する彼女に、こころは追いついた。雷鼓は戸惑ったような笑みを浮かべた。こころは「姥」を被って、自分が避けられている理由を胸に訊ねてみたが、答えは虚ろだった。
付喪神になった経緯を、雷鼓はざっと説明してくれた。
「魔力の取り替え?」
「そう。私は和太鼓からドラム、――西洋の打楽器にね」
雷鼓は周りに浮かんでいる電子ドラムをスティックで叩いた。青白い電光が迸って、こころの桃色の髪を撫でた。
「そんなことが本当に出来るの?」
「貴方だって似たようなことをしてたじゃない。希望の面だっけ? 新しい依代に、時間をかけて自分を染みこませてゆく」
こころは頷いた。確かにその通りだ。
「原理は同じ。根っこを崩さなければ応用は利く。その代わり、過去の自分は損なわれ、時には失われてしまう……」
雷鼓は立ち止まった。数歩進んで、こころも歩みを止めた。二人は本道に通じる渡り廊下に佇んでいた。格子窓から差し込んだ春の陽が、板敷に模様を描き出している。
楽器の付喪神の少女は、ジャケットの裾を握りしめていた。
「貴方は、――こころは、自分を使っていたひとの顔を覚えてる?」
「全員まではちょっと。色んなひとが被ってくれたから」
「じゃあ、貴方を創ったひとのことは?」
「それなら覚えてる。というか、この幻想郷に居る」
雷鼓の目が丸くなった。
「で、でも貴方が創られたのって、千年以上も前じゃ――」
「話が長くなるけど、とにかく居るよ」
「そう……」
雷鼓の表情が曇った。そうだ、その顔だ、とこころは思った。
「私、ぼんやりとしか思い出せないのよ。付喪神になってから、まだほんの少ししか経っていないのに。自分でも呆れるわ」
「思い出せないと、何か困るの?」
「次のステージに進めないような気がする」
「どうして?」
「言葉にしづらい。……少なくとも後悔じゃない。後ろめたいとも違うわ。申し訳ないという気持ちがいちばん近いかな」
「それで、私の舞を?」
雷鼓は頷いた。「昔の自分に会えるような気がしてね。今から思えば馬鹿らしいよ。私は全てを捨てたつもりだった。今さら……」
それから、はっとしたように顔を上げた。
「で、でも勘違いしちゃ駄目よ。貴方の能楽が素晴らしかったことに変わりはないから。また観に行かせてもらうわ、きっと」
こころは「若女」を付けて、親指を立てる。
#23
マミゾウが入道使いの一輪を連れて境内に戻ってきた。雲山が腕に古びた太鼓を担いでいた。大砲のように馬鹿でかい、埃をたっぷり被ったアンティークだ。
「蔵中を引っかき回したわ。最後に使ったのはいつのことやら」
「ありがとう。助かるわ」
雷鼓は一輪に丁寧に頭を下げた。入道使いは頷いて、こころにも軽く手を挙げてみせ、マミゾウと会話を交わした。
「そういえば、ぬえを見かけませんでしたか?」
「いんや。また出かけとるようじゃの。何か用かえ?」
「この前の散髪のこと、謝ろうと思って」
「ああ。あやつの髪がえらい“くーるびず”になっとったのは、おぬしの仕業じゃったのか」
雷鼓がスティックを振ると、ぽんっと弾けた白煙の中からバスドラムが現れた。腰かけて、手のひらで太鼓の膜を撫でる。とても注意深く。そして受け取った枹(ばち)で二、三回ほど叩いてみせた。腹の底を衝く低音、――始原の音が、空気を震わせた。
こころも雷鼓の向かいに腰を落とした。
「どう? どんな感じ?」
雷鼓は首を振った。「ずっとドラムのスティックを握ってきたせいかしら、違和感が残るわね。身体が感触を覚えているかもって期待してたけど、そう上手くはいかないみたい」
こころは「狐」を被って、しばらく考えこんだ。そして、これしかないと思うアイディアを口にした。
「それじゃ、――私、踊ってみる」
「は?」
「舞に合わせて、太鼓を叩いてよ。リズム好く、テンポを合わせて」
「そんなことで――」
「やってみなければ分からない」
こころは扇子を広げ、その場で一回転してみせた。風に誘われて桃色の長髪が宙を舞う。春を祝う小鳥のように軽快にステップを踏み、次のフォーム、次のフォームへと移ってゆく。
考えることは苦手だった。心の衝き動かされるままに、求められるままにこころは踊ってみせた。雷鼓は最初、呆気に取られて見守っていたけれど、やがてはっと肩を震わせた。炎の色彩を宿した瞳が鮮やかに輝いた。
「そうだわ……」雷鼓は呟いた。「そうよ、私は何を――」
続きは言葉にならなかった。枹を振り上げて、力強く叩いてみせた。その音に、いつの間にか云い争いにまで発展していた一輪とマミゾウが振り返る。こころの舞に合わせて、雷鼓は太鼓を叩き続けた。電子ドラムから雷が幾筋も噴き上がった。ビートと共鳴するかのように。
こころは「福の神」を浮かべた。こんなに楽しく踊ったことはなかった。雷鼓の演奏には不思議な力が秘められているようだった。始原の感情。理屈を抜きにした力強さを呼び覚ましてくれる轟きが、そこには存在していた。後はそのリズムに乗れば好いだけだったのだ。
こころは最後のステップを踏みこんだ。同時に太鼓の一撃が跳ね飛んだ。観客二人と入道が拍手を送る。こころはお辞儀をしてみせた。額に浮かんだ汗を拭い、呆然と手のひらを見つめている雷鼓に近づいた。
「雷鼓さん」こころは「火男」を被って訊ねた。「思い出せた?」
付喪神の少女は頬を染めて、愛おしそうに太鼓の縁をさすっていた。
「ああ、いや、……その」彼女は云った。「まったく、これは――」
Story 10
『贈り物』
『贈り物』
#24
プリズムリバー邸の厨房では、今日も姉妹の云い争いが絶えない。
「また焦がしたわね、姉さん?」
「違うよ、半熟が嫌いなだけだよ」
「どうしてあのトロトロの好さが分かんないのよ!」
「あんな気味の悪い食感の何処が好いんだか」
弁々も妹の八橋も、生まれたての付喪神だ。人間のような生活を送るのは、これが初めてだった。音楽性の違いはこだわりの違いになり、目玉焼きの調理でさえもこうして口喧嘩に相成る。
「それより八橋、皿の用意をしなよ。昨日の分、まだ洗えてないじゃないの」
「わ、私が洗うと割っちゃうから……」
「云い訳却下」
両手を挙げて姉にブーイング・サインを送ってから、妹はスポンジを手に取った。例によって洗剤をかけすぎて、シンクがジェット・バスのようになってしまったが、弁々はもう何も云わないことにした。
#25
朝食の準備を終えた頃になって、雷鼓が起床してきた。白のジャケットもラップ・スカートも今はなく、代わりに着ているのは薄紅色のパジャマであり、ワイン・レッドの髪はウェーブも相まって寝癖がスゴいことになっていた。
雷鼓はテーブルに視線を落とした。
「……朝からホット・ケーキ?」
「目玉焼きだよ」
「これが? どうやったら白身がきつね色になるの?」
「それ以上云うと姉さんが泣いちゃう」
「ああ、悪い」
「別に好いわよ」
弁々はそっぽを向く。
「ところで、雷鼓さん」トーストを頬張りながら八橋が云った。「昨日は随分機嫌好く帰ってきたけど、何かあったの?」
雷鼓はコーン・ポタージュをすくう手を止めた。スプーンを置いて、照れくさそうに笑った。
「ちょっとね、嬉しいことがあった」
「どんな?」
「それは秘密」
雷鼓は本当に嬉しそうだった。パジャマや寝癖のせいもあって、その姿は贈り物をもらった人間の女の子のように咲いていた。
#26
亡き当主様の書斎で、レオシュ・ヤナーチェックの「シンフォニエッタ」を聴いていると、玄関のベルが鳴った。弁々は蓄音機を止めて小走りで応対に出た。
知らない妖怪だった。
「初めまして」
「ええ、こちらこそ」
「楽器の付喪神さんはいるかしら?」
「私がそうだけど」
少女は被っていた真っ黒い帽子を手に取ると、くりくりとした眼で見つめてきた。弁々は一歩後ずさった。少女の洋服からはバラの香りが漂い出ていた。
「好ければ、演奏してもらいたいの。私に聴かせて欲しい」
彼女は断りもなしに邸内に入ってきた。
「ちょっとちょっとっ、――貴方は誰? どうしてこの場所を?」
「こころから聞いたわ」彼女は答えた。「湖畔の屋敷に素敵な演奏家がいるって。私の名前は、古明地こいし。よろしくね」
#27
三人が「亡き王女のためのパヴァーヌ」を弾き終えると、こいしは歓声を上げながら拍手してくれた。姉妹の追求を受けて、雷鼓がようやく事情を説明した。
「雷鼓、貴方ずっと気にしてたの? 紅魔館の――」
「ち、違うわよ。あれはただのきっかけ。前から気にかかってはいたけれど、……とにかく、今はもう大丈夫。心配しないで」
「云ってくれれば好かったのに」ピアノの前に座った八橋が云う。「恩になりっぱなしで申し訳ないよ。今度からは相談してね」
「分かったわよ。分かったから勘弁して……」
雷鼓は顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。弁々は彼女を見つめていた。普段は弱みの欠片も見せなかった恩人の、意外な一面だった。
「懐かしいわ。お姉ちゃんに聴かせてあげたい」
こいしが両手を頬に当てながら云った。
「昔はあなた達のような演奏家だったんだけど、膝に矢を、――じゃなかった瞳を閉じちゃってからは、すっかりご無沙汰ね」
「こいしちゃんにもお姉さんがいるんだ」
八橋が訊ねると、こいしは頷いた。
「あなたは、お姉ちゃんを大切にしてあげてね」
弁々は思わず妹と顔を見合わせた。
こいしは笑顔を崩さなかった。
「今日はありがとう。お礼に、私からプレゼントをあげる。ささやかだけれど、きっと役に立つものだから。好かったら使ってみて」
閉じた恋の瞳は指を鳴らした。
#28
その夜、弁々は夢を見た。
こいしが、同じ三つの瞳を持つ妖怪と隣同士に座って、ピアノを弾いていた。それが彼女の姉だった。こいしが低音部を、姉が高音部を担当している。肩の力を抜いて、楽しそうに弾いていた。呼吸はぴったりと一致している。まるで互いの指の動きを共有しているかのように。
弁々が聴いたことのないソナタだった。その旋律は弁々の胸に染み込み、遠い昔から慣れ親しんできた調べであるかのように刻み込まれた。意識の深みの、底の底まで。
それがこいしの“贈り物”だった。
ソナタを弾き終えると、古明地姉妹は顔を見合わせて笑った。弁々は手のひらで胸を押さえた。あんなに仲の好い姉妹が、どうして今は心を通わせることを止めてしまっているのだろう。
姉妹の姿はやがて薄らいで消えていった。弁々は目覚めた。まだ夜明け前だった。枕元に八橋が立っていて、自分の肩をゆすっていた。妹の目の端に何かが光っていた。二人とも無言だった。弁々は注意深く頷いてから、毛布の端をつまみ上げた。妹はすぐに潜りこんできた。
弁々は八橋の頭を抱き寄せた。彼女の息遣いは微かに震えていた。
二人は寄り添って眠った。眠り続けた。朝が来るまで。
Story 11
『世界で最も軽い元素のように』
『世界で最も軽い元素のように』
#29
「今日はお越し頂き、ありがとうございました」
火葬屋の少女は頭を下げた。
「こちらこそ手間をかけたわね」
霊夢は云った。
「仕事ですから。いつでもどうぞ」
「感謝するわ」
手間賃を支払って、霊夢は会釈した。灰色の煙が青空に昇ってゆくのが見えた。しばらくその消えていく様子を眺めてから、火葬場を後にした。
博麗神社では桜が満開だった。霊夢は桜の木に近づき、枝を手のひらに乗せて、花びらに顔を近づけた。香りはなかった。境内を横切って社務所に入り、お茶の用意をした。
「お帰りなさい」
小人のお姫様が出迎えてくれた。鴨居の段差をひとっ跳びに乗り越えて、ちゃぶ台に伏せていた霊夢に寄り添う。
「ええ」霊夢は身を起こした。「ただいま」
「スカーフ」
「ん?」
「血が付いてる」
「ああ――、ありがとう」
霊夢は黄色のスカーフを手に取った。まだ紅い血が数滴、付着していた。あの時だろうか。念のために服のあちこちを検めてみたが、こちらが怪我を負った訳ではない。ついでにリボンも外して髪を流すと、魂まで抜けてしまいそうなほどに長い息を漏らした。
「お疲れのようね」
「久しぶりだったから」
「滅多にないんだ?」
「そうね。――でもごくたまに、今日みたいに右も左も分からない奴が出てくる」
「そっか……」
針妙丸は考えこむように眼を伏せた。
鳴き声を転がして、猫が座敷に入ってきた。赤と黒の二色。警戒した小人が袴の裾をつかむ。霊夢は視線を移さないままに訊ねる。
「また何かあったの?」
「お団子、こいつに食べられた」
「そう、――お燐?」
猫はおさげの少女に姿を変えた。「悪いね。少名ちゃんの団子だって知らなかったんだよ、勘弁しておくれ」
「それは好いんだけどね」霊夢はお燐を横目で見た。「あんた、火葬場のご遺体を盗ろうとしたでしょ?」
「む」
「手を付けたら追い出すからね。分かった?」
お燐は耳を垂らしてしまった。再度念を押すと、渋々頷いた。
#30
夕暮れも近い時分だった。
魔理沙が箒に乗ってやって来た。いつも通りに石畳に着地し、エプロン・ドレスの裾をはたいた。霊夢は座布団から半身を起こした。賽銭箱を見る。今日も参拝客は来なかった。
「よう」
「なに」
「きのこと野菜、持ってきた。なんか食おうぜ」
魔理沙がバスケットを掲げてみせた。
霊夢は努力して微笑んだ。「好いわね」
「そういやさ」魔理沙が云った。「おい聞いたぞ。私も呼んでくれりゃ好かったのに」
「抜け駆けは許せないって?」
「ンなことはどうでも好いんだが」
魔理沙は明後日の方を向いた。箒の柄を握り直すのが見えた。
「……あれさ、改心させる訳にはいかなかったのか?」
「改心?」
「ほら、山の仙人の――」
「華扇?」
「ああ。前に野鉄砲になりかけたマミを導いただろ。あんな風に」
「面倒ね。なんでそんな回りくどいことをしなきゃなんないのよ」
魔理沙は肩をすくめてみせた。「別に。ただこういうのがあるとさ、霊夢さんはいつも元気を失くすからな。魔理沙さんがありがたい方策をご教授してやろうかと思っただけだ」
霊夢は彼女の顔を見た。「……元気がないって、いつも通りじゃない? ぼうっとしてるだけよ」
「なら好い。というかもう好い。それよりさ、飲もうぜ」
魔理沙は苦笑いで、もう一度バスケットを掲げた。
霊夢も笑顔を返した。「ええ、飲みましょう」
立ちあがって友人と歩きだそうとした時、霊夢は暖かな風を感じて、ふと振り返った。
桜の花びらが一枚、散り去って、石畳から空高くまで翔け昇ってゆくのが見えた。さらに高いところでは小鳥が一羽飛んでいた。遙かな上空には白雲が流れていた。
胸の底に澱んでいた空気が、すうっと抜けだしていくのを感じた。
霊夢の身体に、ようやく生きた心地が戻ってきた。
桜も鳥も、雲も同じだ。
ただ、軽く。
飛ぶために生まれてきたのだ。
Story 12
『たとえ待ちびとであらずとも』
『たとえ待ちびとであらずとも』
#31
頭巾の奥で、自慢の耳が震える。
今泉影狼は葦で編まれたバスケットを片手に、人里の往来を歩いていた。注意を引きたくはなかったが、首は自然と左右を見渡してしまう。誰かと視線を合わせてしまうと、その都度目を伏せた。
探していた貸本屋を見つけ、胸を押さえて深呼吸。店内を覗いてみたが、彼女はいなかった。店番の少女に声をかけられ、しどろもどろに謝罪をして小走りに去った。
柳の運河にもいない。溜め息を宙に溶かす。土手に座りこんで、バスケットからりんごをつかみ取り、しゃくりとかじった。青空は白雲を湛えて流れていた。紅い瞳を細めて、影狼は喉を鳴らした。
呼びかける声に気づいて、川面に視線を移した。
「影狼さん」
「わかさ――」急いで左右を見回した。「……危ないから近づかないようにって、あれほど云ったのに」
「ごめんなさい。でも心配でたまらなくて」
「その優しさが命取りになるのよ」
わかさぎ姫は尾ひれで水面を叩いた。
「水の中なら、逃げ足には自信があります」
「でも……」影狼は首を振った。「貸本屋にはいなかった。往来にも姿はなし。こうなったら、店屋を片っ端から覗いていくしかないわね」
「大丈夫なんですか?」
影狼は笑ってみせようと努力したが、唇の端を歪めるだけで精いっぱいだった。手が微かに震えていた。
「ちゃんと隠せてるよね、耳」
「ええ」
「臭いでバレてるかもしれない。すれ違うひとがみんな、私のことを睨みつけてくるみたいで――」
「見とれているんですよ、影狼さん美人だから」
「そんな都合の好い話ってないわよ……」
「お世辞じゃありません」
わかさぎ姫は退かなかった。虫も殺せない臆病な性格だったのに、いつの間に手のひらいっぱい分の勇気を奮えるようになったのだろう。影狼は両手で頬をはたいた。
「……もう少し、粘ってみるわ。わかさぎ姫は湖に戻って。ここもじきに田んぼから帰ってきた人間で騒がしくなるから」
人魚姫は頷いた。「影狼さんも、どうか気をつけて」
#32
日没の直前になって、影狼は彼女に出会った。もう諦めて退散しようと思っていた。水路に架けられた橋の上ですれ違った二人は、同時に振り向いていた。
「赤蛮奇さんっ」
「影狼……?」
彼女は麻で織られた服を着ていた。新品とは云いがたい代物だった。肩から裾にかけてあちこちに修繕の跡。洗っても落としきれない汚れと染み。頬には煤の跡が黒くこびりついている。
赤蛮奇は首を傾げた。「久しぶりね。里にも好く来るんだ?」
「いいえ、人間の集まる場所なんて、もう何十年も……」影狼は懸命に舌を動かした。「あ、あなたに会いに来たの、わたし」
「……私に? 狼女さんが赤ずきんちゃんみたいな格好をして? ご丁寧にバスケットまでぶら下げて? これでもお婆さんと呼ばれるほど年老いてはいないつもりなんだけど」
影狼は籠のりんごをかき分け、底から一通の手紙を取り出した。彼女に手渡し、言葉を紡ぎ続けた。
「それ、わかさぎ姫から」
目を合わせるだけでも、勇気が必要だ。
「本当に、ほんとうに、ごめんなさい……っ」
影狼は頭を下げた。頭巾から髪がこぼれ落ちた。夕陽に照らされて砂金のように輝いている。一方で、デュラハンの表情は逆光で真っ暗に見えてしまう。
「顔を上げてよ」赤蛮奇は云った。「お願いだから上げて。他の連中に見られたくない」
影狼は従った。ろくろ首は欄干にもたれかかって、爪で頬をかいていた。沈黙が続いた。鉄に金槌を打ちつけるような音が、遠くから断続的に響いてくるだけだった。
「……そのためにわざわざ、あなたはここに?」
影狼は頷いた。
「私にどうして欲しいの?」
「また、――三人でお話しがしたい。……わたし、きっと強くなってみせるから。もっともっと、上手に話せるようになってみせるから」
「うん、……うん」
赤蛮奇が欄干から身体を離した。何事か呟いてから、音を立てて息を吸いこんだ。麻の布を指でつまんでみせた。
「この服、なんだか分かる?」
「い、いいえ」
「人間の女の服よ。彼女達は家計を支えるために朝から晩まで働くの。家に帰ったら泣き虫の子供と頼りない夫がいる。場合によっては介護を必要とする父母もいる。私には家族も友人もいないけれど、ひとに紛れてやっていく以上は、同じように糧を得なきゃなんない。…………」
彼女は顔をそむけた。角度が変わり、そこでようやく夕陽が少女の顔を暖かに照らし出した。
彼女は、はにかみながらも微笑んでいた。
「だからさ、私、――お酒が入るとたぶん愚痴っちゃうよ。影狼やわかさぎ姫に、心にもないことを云ってしまうかもしれない。それでも好いの、本当に。こんな私でも、あなたは受け容れてくれる?」
影狼は答えられなかった。身体中から力が抜けていた。地面に膝を崩してしまい、頭巾が髪を滑り落ちた。両手で顔を覆いながら、ぜんまい仕掛けの人形のように、何度も、なんども、頷いた。
「そう」赤蛮奇は呟いた。「……ありがとう」
頭のてっぺんに柔らかな手のひらが乗せられた。耳の間を何度も往復して、気持ちが落ち着くまで続けてくれた。しゃくりあげる影狼の肩に赤蛮奇は手を置いていた。あかぎれのために痛んでしまったその手のひらにも、夕陽は確かに注がれるのだ。
Story 13
『ずっと遠くから聴こえてくる声』
『ずっと遠くから聴こえてくる声』
#33
誰も彼女に気づかなかった。それでも古明地こいしは歩き続けた。ずっと遠くから聴こえてくる声に従って、春に賑わう人里を漂い続けた。誰もが楽しげに、そしてせわしく往来を行き交っていた。
甘味処には二人の仙人がいた。空色と梅色。対照的な二人だ。何かを盛んに論じ合っているようだったが、こいしには理解のできない話ばかりだった。既に空っぽの食器が山になっている。お会計はいくらになるのだろう。
道士様が、二人の従者を引き連れて人びとに話を聞いて回っていた。コノハズクみたいな髪の聖徳道士と、何処かズレた格好の尸解仙。それに足のない緑の亡霊。彼女は先だって歩く二人を遠い目で見ていた。振り返った二人に促されて、渋々と隣に寄り添うように浮かんだ。
空を見上げると、二人の天狗が先を争って新聞を配り回っているのが視界に映った。あれなら知っている。以前に取材を受けたことがあったから。射命丸さんと姫海棠さん。最も人里に近い鴉天狗達。二人揃って見かけるとは珍しい。
貸本屋を覗いてみると、店番の少女が友人と話をしていた。蓄音機から音楽が流れている。里で奇怪な現象が起こっているらしい。こいしは自分の胸に問いかけたが、悪いことをした覚えはなかった。地上で問題を起こすと、また姉に叱られてしまう。
誰も彼女に気づかなかった。それでもこいしは満足だった。仙人、亡霊、鴉天狗、貸本屋の少女。――誰もが笑顔の裏に、意識の底に、暗い影を背負わせている。それがこいしには視える。せわしい日々の生活の中で、ふとしたきっかけのために負ってしまった傷を、誰もが抱えている。それを想うだけでこいしは、自分が決して独りぼっちではないことを知る。
#34
久々に命蓮寺に顔を出した。
こいしは在家の信者だ。でも白蓮和尚はこいしに気づかなかった。入道使いの少女も同じだった。こいしも声をかけることはしなかった。二人とも本堂に正座して、年を取った人間達を相手に、有り難いお話を語っていたからだ。
もう帰ろうかとこいしは本堂を巡った。離れの縁側に独りの少女を見つけた。それは彼女だった。それは封獣ぬえだった。ぬえは退屈そうに春の青空を見上げていた。そこにもう独りの少女が飛んできた。
「……相変わらず暇人エンジョイしてるなぁ」
「うっさいわよ。何か用?」
「別に用はない。それよりどうしたその髪型? かまいたちにでも襲われたのか? えらい風通しが好くなってるじゃないか」
「黙んなさいよ」
「嫌だね。天邪鬼にとって、減らず口は三度の飯より大切なんだ」
「また痛い目に遭いたいわけ?」
「そんな気力もない癖に」
ぬえは顔をそらした。こいしと目が合った。二色三対の羽が緊張してシベリアの針葉樹のような形になった。
「――なんだ、びっくりした。こいしじゃん、今日はどうしたの?」
こいしは顔をほころばせた。
「ぬえちゃん、――気づいてくれたんだ」
「こんな近くに居るんだから、当たり前じゃない」
「それがそうもいかないのよ」
こいしはぬえの隣に座った。鬼人正邪が身を引いた。
「お前は……」
こいしは彼女を見つめた。「ありゃ、懐かしい顔ね」
「なんでお前が地上にいるんだ?」
「ずっと前からいるわ。あなたこそどうしたの。元気ないみたいね」
その問いかけはこいしの直感だったが、正邪には効いたようだった。
「……瞳を閉じたんじゃなかったのか」
「閉じても視えるものは視えるわ。特にあなたは分かりやすいから。きっと誰かと喧嘩したんでしょ。私もお姉ちゃんに叱られると、あなたみたいになるから」
天邪鬼は答えなかった。鼻から息を鳴らした。つっかけで土を蹴りあげ、宙に身体を解き放った。
「もう帰る」舌を出して、捨て台詞を口にする。「覚えてろ」
「おととい来やがれ」
「早めに謝った方が好いよ」
こいしは呼びかけた。
「きっと大丈夫だから」
#35
天邪鬼が去った後、こいしは訊ねた。
「ぬえちゃん、今日はずっと暇?」
「ご覧の通り」
「それなら、里を見て回ろうよ。甘い物を食べて、悩み事を聞いてもらって、新聞を読んで、本を借りるの。それを二人で朗読しよう」
「……何それ」
「昔からの夢だったの。友達とお出かけするのって、とっても楽しそうじゃない。ねえ、今すぐ行こうよ。今じゃないと駄目なの」
ぬえは爪でこめかみを掻いた。「私、髪がこんなだし……」
「似合うよ。絶対似合うから。私はスゴく好いと思う」
「そうかなぁ」
「素敵だよ」こいしは頷いた。「似合ってる。可愛いよ、短いのも」
はにかんだような笑みが返ってきた。
「そっか、……分かった。行こう。どうせ暇だしね」
「ありがとう」こいしはぬえの手を握りしめた。「ぬえちゃん」
また声が聴こえた。遙か彼方から響いてくる声。こいしはその木霊を感じている。声にならない声を。言葉にならない言葉を。それらをまとめて、胸の奥にぎゅっと抱きしめる。
こいしは想うのだ。
今日こそは家に帰ろう。お姉ちゃんに「ただいま」って云おう。無意識の海に溺れて、忘れてしまわないうちに。私が私でいられるように。せわしく過ぎるこの日々に、心が埋もれてしまうその前に。
Epilogue
『再び、歩道橋で』
『再び、歩道橋で』
#36
桜の眩しい京都の街で、マエリベリー・ハーンは友人を待っていた。
また遅刻だった。電話で確認を取り、歩道橋の方角を振り返る。彼女を見つけて手を振った。友人も手を挙げて、急ぎ足で橋を渡り始めた。風が吹いたのはその時だった。彼女の帽子が舞いあがった。桜の花びらのように軽々と。回転しながら、こちらに向かって飛んできた。
マエリベリーはその時、まるであらかじめ決められていたことのように、手を差し伸ばした。手のひらに帽子が収まる。心地よい衝撃が、腕を通して胸の奥にまで伝わってくる。
宇佐見蓮子が雑踏を潜り抜けて、モニュメントまでやってきた。肩で息をしながら、へにゃりと微笑んでいる。
「ナイス・キャッチね、メリー」
「自分でも驚いちゃった」
マエリベリーは帽子を友人に返した。
「好かった好かった。これがないと落ち着かない」
「眼の下に隈があるけど、寝てないの?」
「えっ」蓮子は帽子で顔を覆った。「しまった、隠せてなかったか」
「……夜更かし」
「ちょっと急ぎのレポート、仕上げてた」
「ひも理論の?」
「ええ、まあ」
決まり悪そうに明後日の方を向いている。マエリベリーは笑った。
「何だったら、キャンセルしてくれても好かったのに」
「大事なサークル活動よ。レポートなんかに譲れないっての」
水筒のお茶を飲んでから、蓮子は云った。
「行こっか」
「了解」
蓮子が先だって歩き出す。マエリベリーは彼女の後をついてゆく。歩きながら、友人が睡眠を犠牲にしてでも自分との時間を残しておいてくれた事実について考えている。
友人の背中には春の陽が差していた。ささやかな兆しだけれど、その背中の暖かみは本物だ。そこにあるのは手のひらの温もりだ。今にも手を繋げそうなくらいに近い距離で、メリーは蓮子の心音を聴いている。
心の音を、聴いている。
~ おしまい ~
(引用元)
Bernhard Schlink:Der Vorleser, Diogenes Verlag, 1995.
松永美穂 訳(邦題『朗読者』)、新潮文庫、2003年。
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そんな儚さの上に立ってると思うと少しだけ怖いですね。
幻想力有る語りでした。皆の無意識をこいしが渡り歩いている様にも見えますし、こいし自身の夢にも見えます。
その実リアルを生きる我々(秘封倶楽部はメタファー?)の夢の様ですらあり。
“火葬屋”は…何だろう? 諦念?
さらっと読める書き方をされた上で、十分練られてるのもまた分かります。
美味しゅう御座いました。まだまだ噛めば隠れた味が沁み出して来そうです。
亡き王女のためのパヴァーヌはとても好きな曲です。まさか東方SSの世界でこの名前を目にするとは!久々にまた聞きたくなりました。
やはり登場人物が皆魅力的ですね…!キャラクターたちの心情表現が、確かな存在感をもって伝わってくるようです。幻想郷的な雰囲気が、彼女たちの存在感をより高めているように感じました。
雷鼓さんのストーリーが特に好きです。どこか底知れない雰囲気を持つ彼女の、内面に触れるような感覚がとてもよかったと思います。彼女を扱った作品はあまり多くないので、特にうれしかったです!
あと個人的にはにとりが登場してくれたのがうれしかったです。
すてきな作品をありがとうございました。
自分もいつか、このような小説を書いてみたいものです。